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2018/06/01

諸國里人談卷之一 ㊁釋教部 佛舎利

 

  ㊁釋教部(しやくけうのぶ)

   ○佛舎利

大和國平群郡(へぐりごうり)、法隆寺の佛舎利は、十五日まで、一つ宛(づゝ)、(ぶん)じ、また十六日より、一つ宛、減ず。每日、午時(ごじ)に七鐘にて、扉、ひらかれける。紫式部、此舎利をよめる、

 南無仏の舎利をいだせる七つかねむかしもさぞな今も双調(さうてう)

天竺(てんぢく)には米粒(べいりう)を舍利とす。佛舍利、又、米粒に似たり。故に舎利と云。

○慈恩上生經疏云、「舎利者稻穀也。駄都者體也。

 佛躰大小如稻穀。故以爲ㇾ名矣。」。

聖德太子御父用明帝、祈禱(いのり)のため、自(みづから)、藥師の像を彫(ほり)、寺を造り給ふ。然(しかれ)ども病(やまひ)、不癒(いへず)。崩御し給ふ。しかれども、止(やむ)事を得ず。推古天皇十五年に、寺院、悉(ことごとく)成就す。

當寺別號は 七德寺 聖國寺(しやうこくじ) 寶龍寺(ほうりうじ) 來立(らいりう)寺 徃生寺〔わうじやうじ〕 鳥路(てうろ)寺 法隆學問寺 等なり。【法相宗。八宗兼學。】

[やぶちゃん注:「舎」の字は③も①も総てこの字体である。この法隆寺の舎利は法隆寺の公式記載によれば、聖徳太子が二歳の春の二月十五日(釈迦涅槃の日。私の誕生日)、東に向かって「南無仏」と唱えた際、太子の掌に現れたという舎利一粒が東院舎利殿に伝えられており、この舎利を「南無仏の舎利」と呼ぶとあって、現在もこの舎利を奉出する際には現在も東院の梵鐘を七つ鳴らす仕来たりは守られているようである。なお、私が実際に間近に見た幾つかの仏舎利は悉く水晶や石英であった。しかし、考えて見たものである。過去の仏僧の中には釈迦の骨を食うことによって釈迦と一体と成れるというカニバリズム的認識がなかったと断定出来ようか? いや、寧ろ、そうした突き抜けた究極の信仰形態(古代の信仰形態にはそうしたカニバリズムはあったと私は考えており、それを異常で猟奇的な行為だとは私は必ずしも思わない人種である)はあっておかしくないと私は思う。されば、それこそ、それ、仏舎利がもし、ここに一説として語られるように、本物の米粒であったとしたなら、それは容易に食われ、容易に補給出来るものである。まさに以下に見るような増殖も容易である(その場合は無論、人為的にである)。少なくとも、得体の知れない獣の骨や古代生物の石灰化化石や翡翠や水晶や石英を無理して欠いて飲み下すよりは、罪悪感も減衰され、消化器にも優しかろう。仏の骨のカニバリズム――これは何と、不思議な幻想であろうか――

(ぶん)じ」生まれ。生じ。増殖するのである!

「每日、午時(ごじ)に七鐘にて、扉、ひらかれける」仏舎利塔は、毎日、正午に七つの鐘を以って、その扉が開かれる、の謂いであろう。

「南無仏の舎利をいだせる七つかねむかしもさぞな今も双調(さうてう)」これは和泉式部作ともされる、則ち、「紫式部集」にも「和泉式部集」にも載らない怪しげな歌である。双調は「さうでう(そうぢょう)」と濁るのが正しい。邦楽音階の十二律の一つで、基音である「壱越(いちこつ)」の音(洋楽の「d」・「ニ音」)から六律目の音で、洋楽の「g」・「ト音」とほぼ同じ高さの音。雅楽でこの音を主音とする調子も「双調」と称し、六調子の一つで呂(りょ)に属するとされる。

『慈恩上生經疏云、「舎利者稻穀也。駄都者體也。佛躰大小如稻穀故以爲ㇾ名矣。」。』ここの字配は原典の通りにしてある。先ず、訓読しておく。

 慈恩の「上生經疏(じやうしやうきやうそ)」に云はく、「舎利は稻穀(たうこく)なり。駄都(だと)は體(てい)なり。佛躰(ぶつたい)の大小、稻穀の量のごとくし。故(かれ)、以つて名と爲(な)す。」と。

「慈恩」は、唐代の僧で法相宗を起した基(き 六三二年~六八二年)長安出身。十七歳で出家し、かの玄奘三蔵に師事した。大慈恩寺に住したことから「慈恩大師」と尊称される。「上生經疏」とは弥勒菩薩について説いた「觀彌勒菩薩上生兜率天經(かんみろくぼさつじょうしょうとそつてんきょう)」の通称。「駄都(だと)は體(てい)なり」「駄都」は仏舎利を供養する際の密教の修法(ここの「體」はその具体的作法の謂いであろう)を指し、「光明の生活 真言宗 大覚寺派 光福寺 ―関東別院― オフィシャルブログ」のこちらの記事によれば、本邦の密教では現在でも『最極甚深の秘法として、「どんな願いも叶い、物質的な願いも精神的な悟りも達成される」「すべての成就は舎利供養によって達成される」と讃えられ』る『秘法として相伝されてきた』ものとある。

「聖德太子御父用明帝、祈禱(いのり)のため、自(みづから)、藥師の像を彫(ほり)、寺を造り給ふ。然(しかれ)ども病(やまひ)、不癒(いへず)。崩御し給ふ。しかれども、止(やむ)事を得ず」ウィキの「法隆寺」によれば、現在の『法隆寺のある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し』、古代より『大和川を通じて』、『大和と河内とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたこと』が窺われる。『「日本書紀」によれば、聖徳太子こと厩戸皇子』(うまやどのみこ 敏達天皇三(五七四)年~推古天皇三〇(六二二)年))が推古九年(六〇一年)、『飛鳥から』、『この地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手』し、四年後の推古十三年に『斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった』とあり、現在の法隆寺『金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇』(聖徳太子=厩戸皇子の父用明天皇(?~用明天皇二(五八七)年))『が自らの病気平癒のため』、『伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇』一五(六〇七)年、『像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。しかし、正史である』「日本書紀」には、後の六七〇年の火災の記事は載るものの、『法隆寺の創建については何も書かれて』おらず、こ『の金堂薬師如来像については』、昭和八(一九三三)年、寺社建築に関する研究の第一人者である福山敏男氏によって、『像自体の様式や鋳造技法の面から、実際の製作は』七『世紀後半に下るとみられる』こと、六〇七年『当時、日本における薬師如来信仰の存在が疑問視される』こと、『銘文中の用語に疑問がもたれる』『という疑問が提出された。この説はおおむね』、『支持を得ており、薬師像は文字通り』、六〇七年まで『遡る製作とは見なされていない。また、金堂の中央に安置される本尊は』「六二三年に『聖徳太子の冥福のため止利が造った」という内容の光背銘をもつ釈迦三尊像であ』るが『、これより古い薬師如来像が「東の間」に安置されて』、『脇仏のような扱いをされている点も不審である』とある。

「推古天皇十五年に、寺院、悉(ことごとく)成就す」(推古天皇十五年は六〇七年に比定)前注も参照されたいが、同じくウィキの「法隆寺」によれば、以上の考証の他にも発掘調査等によって、『現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度』、『焼亡した後に再建されたものであることが決定的となり、再建・非再建論争には終止符が打たれた。現存の西院伽藍については』、「法隆寺資財帳」の記載で、持統七(六九三)年に『法隆寺で仁王会が行われている』『ことから、少なくとも伽藍の中心である金堂は』、『この頃までに完成していたとみられ』、同じ「資財帳」によると、和銅四(七一一)年には『五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられ』ているとある。

「法相宗」(ほっそうしゅう:現代仮名遣)はインド瑜伽行(ゆがぎょう)派(唯識派)の思想を継承した中国唐時代に創始された大乗仏教宗派の一つ。六四五年にインドから玄奘が帰国、唯識説が伝えられ、その玄奘の弟子である先に注した慈恩大師基によって開かれた。七〇五年頃、華厳宗が隆盛になるに従って、宗派としては次第に衰えた。参照したウィキの「法相宗」によれば、日本仏教における法相宗は、玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つとして』八~九『世紀に隆盛を極めた』。因みに、近代以降は、明治一八(一八八二)年に『興福寺、薬師寺、法隆寺の』三『寺が大本山となったが、第』二『次大戦後』、この『法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱』(昭和二五(一九五〇)年)『し、また』、『京都の清水寺も』、『法隆寺と同様に北法相宗として独立』(昭和四〇(一九六五)年)してしまい、現在は『興福寺、薬師寺の』二『本山が統括するに』至っている。

「八宗兼學」この場合は、中世以降から現在まで続く宗派八宗(天台宗・真言宗・浄土宗・浄土真宗・時宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗)の兼学ではなく、教学八宗の八つの宗学派の教義を併せて学ぶこと。教学八宗は三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗(以上、南都六宗)・天台宗・真言宗を指す。]

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