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2018/06/17

諸國里人談卷之二 森囃

 

     ○森囃(もりのはやし)

享保のはじめ、武州相州の界(さかひ)、信濃坂に、夜每に囃物(はやしもの)の音(おと)あり。笛・皷(つゞみ)など、四、五人聲〔ごゑ〕にして、中に老人の聲、一人ありける。近在、又は、江戸などより、これを聞(きゝ)に行く人、多し。方十町に響(ひゞき)て、はじめは、その所、しれざりしが、しだいに近くきゝつけ、其村の産土神(うぶすな)の森の中なり。折として篝(かゞり)を焚(たく)事あり。翌日(あけのひ)見れば、靑松葉の枝、燃(もへ[やぶちゃん注:ママ。])さして、境内に、あり。或はまた、靑竹の大きなるが、長一尺あまり、節をこめて切〔きり〕たるが、森の中に捨(すて)ありける。「これは、かの皷(つゞみ)にてあるべし」と、里人のいひあへり。たゞ囃の音のみにして、何の禍(わざは)ひもなし。月を經て、止まず。夏のころより、秋・冬かけて、此事、あり。しだいしだいに間遠に成〔なり〕、三日、五日の間、それより、七日、十日の間を隔(へだて)たり。はじめのほどは、聞〔きく〕人も多くありて、何の心もなかりけるが、後々は、自然とおそろしくなりて、翌年(あくるとし)、春のころ、囃のある夜は、里人も門戸(もんこ)を閉(とぢ)て、戸出(とで)をせず、物音も高くせざりしなり。春のすゑかた、いつとなく、止みけり。

[やぶちゃん注:後に「天狗の囃」とキャプションする図が掲げられているが(①)、これはどう見ても本話の挿絵である。ということは文中には全く出ないけれども、この囃子の原因を沾涼は天狗の仕業と考えていたことになる。本話は既に、私の『柴田宵曲 妖異博物館 「狸囃子」』の注で電子化してある(リンク先には宵曲の現代語訳が載る)。宵曲はこれを怪異「狸囃子」の最古形と位置付けている(『この囃しの正體は無論わからない。場所は産土神の境内とわかり、時に火を焚くとか、遺留品があるとかいふ事實がありながら、何者の所爲か突き止められぬところを見れば、やはり人間の囃しではないのであらう。時代はこれが一番古い』)が、しかし、私は寧ろ、そこで前に彼が紹介している、鈴木桃野(とうや 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年:幕臣旗本で儒者。幕府書物奉行鈴木白藤(はくとう)の子として生まれ、天保一〇(一八三九)年に昌平坂学問所教授に就任している。射術を好む一方、随筆・絵にも優れた)の「反古(ほご)のうらがき」(桃野が嘉永三(一八五〇)年頃までに完成させた怪奇談集。本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、百七年後ではある)の中の、ある人物が、この所謂、「本所七不思議」の一つとしての「狸囃子」の『正體を突き止めたいと思つて、市谷御門内より三番町通り、麹町飯田町上あたりまで、一晩中尋ね步いたけれども、遂にわからず、夜明け近くなると共に止んでしまつた。果して化物の所爲であると恐れをなしたが、その後桃野が人の話に聞いたのは、番町ほど囃子の好きな人の多い場所は稀である、今日は誰の土藏、明日は誰の穴藏といふ風に、殆ど每晩やつてゐるといふことであつた。世にいふ化物太鼓は卽ちこれで、あたりの聞えを憚つて、土藏や穴藏で囃すから、近くへ行けば却つて聞えず、風につれて遠方に聞えるのであらう、と桃野は解釋してゐる』という部分に逢着する、現実的人間である。原文を示す(一部に私が推定で歴史的仮名遣で読みを振った)。

   *

   ○化物太鼓の事

 「番町の化物太鼓」といふことありて、予があたりにて、よく聞ゆることなり。これは、人々、聞(きき)なれて、別に怪しきことともせぬことなり。霞舟翁がしれる人に、此事を深くあやしみて、或夜、其聲の聞ゆる方をこゝろざして尋行(たづねゆき)けるに、人のいふに違(たが)はず、こゝかとおもへば、かしこ也、又、其方に行てきくに、又、こなた也、市ケ谷御門内より、三番町通り、麹町、飯田町上あたり、一夜の内、尋ありきしが、さだかに聞留(ききとむ)る事なくて、夜明(よあけ)近くなりて、おのづからやみぬ。果して化物の所爲なりとて、人々にかたりておそれあへり。予が中年の頃、番町の武術の師がり行て、其あたりの人々が語りあふをきくに、「凡(およそ)太鼓・笛の道は、馬場下に越(こえ)たる所なし、稻荷の祭り・鎭守の祭りとうにて、はやしものする人をめして、すり鉦・太鼓をうたすに、同じ一曲のはじめより終り迄、一手もたがひなく合奏するは稀なり。まして他處(よそ)の人をまじへてうたする時は、おもひおもひのこと打いでゝ、其所々々の風あり、馬場下の人はそれにことなり、其一とむれはいふに及ばず、他處の人なれば、其所々々の風に合(あは)せて打(うつ)こと、一手も、たがひなし、吾輩かく迄はやしものに心を入(いれ)て學ぶといへども、かゝる態(わざ)は得がたし」といゝけり。予、これをきゝて、「扨は。おのおの方には、はやしものを好み玉ふにや、されども、稻荷の祭りの頃などこそ打玉ふらめ、其間には打玉ふことなきによりて、其妙にいたり玉ふことのかたきなるべし」といゝければ、「いや、さにあらず、吾輩がはやしは每夜なり。凡(およそ)番町程、はやしを好む人多きところも稀なり、けふは誰氏の土藏のうちにて催し、あすは何某氏が穴倉の内にて催すなど、やむ時はすくなし」といへり。予、これにて思ひ合するに、「かの化物太鼓はまさにこれなり、たゞし、あたりのきこへを憚るによりて、土藏、穴藏に入りて深くとぢこめてはやすなれば、其あたりにては、かへりて聞ヘずして、風につれて遠き方にて、きこゆるにきわまれり。さればこそ、其はやしの樣(さま)、拍子よく面白くはやすなりけり。これを『化物太鼓』といふも、むべなる哉」とて笑ひあへり。先の卷に、物のうめく聲の遠く聞へしくだりをのせたり、これとおもひ合せて見れば、事の怪しきは、みなケ樣のことのあやまりなりけり。

   *

最後の「先の卷に、物のうめく聲の遠く聞へしくだりをのせたり」とあるのは、「卷之二」の「物のうめく聲」で、鈴木桃野自身の実体験談。高田馬場で二百メートル以上離れた民家の病人の呻き声がすぐ間近に聴こえたという疑似奇談を指す。

 されば、本「諸國里人談」のこれも、最後の伝承者である古老が、祭りの笛・皷の特殊な奏法、或いは、特殊な神楽の演奏仕儀などを、それが絶えるのを惜しく思い(しかしこの手の妙法は本来は秘伝であり、演奏者から盗み取るものとされるなどということはよく聴くことである)、秘かに選んだ若者たちにつけてやっているのではないか? それが、憚るが故に、高窓しかない土蔵の奥であったり、深夜の鎮守の森であったのであろう。位置が定まらなかったり、ごく近くに聴こえるのに姿が見えないのは、発生した逆転層による現象で説明がつく(事実、後の「狸囃子」については、科学的にはそれで説明されることがすこぶる多い)。何より、篝火の炎(篝火の跡が翌日ないのなら怪異だが(但し、これも同じく逆転層で説明可能である)、事実あるのだから、そこに昨夜、化け物ではない「人」がいたと考えるのが普通である)や人工的な竹の「皷(つづみ)」が慰留品として出るのは、説明不能な怪異であるよりも(「何の禍(わざは)ひもなし」というのも何だかなだし、続かずに「春のすゑかた、いつとなく、止みけり」というエンディングも怪異として如何にもショボい)、そうした裏話が透けて見える証左であると私は採る。なお、桃山人(戯作者桃花園三千麿か)作・竹原春泉画になる幕末の妖怪画集「絵本百物語」(天保一二(一八四一)年)には「野宿火(のじゅくび)」と称する怪火が挙げられており、ウィキの「野宿火によれば、『本文の記述によれば、田舎道、街道、山中などで、誰かが火を焚いたかのように現れる細い火であり、特に人が集まって去った後や遊山に行った人が去った後に現れ、消えたかと思うと燃え上がり、燃えたかと思えば消え、これを繰り返すとある』。『「雨の後(のち)などに然立(もえたち)たるを木(こ)の間(ま)がくれにみれば、人のつどひてものいふさまなどにことならず』『」とあることから、雨降りの後などに木々の間から野宿火をそっと覗くと、その周囲から人の話し声が聞こえたとする説もある』。『鬼火の一種であり、火と言っても熱は発さず、周囲の木を燃やしたりすることはないとする解釈もある』としつつ、何と、「諸國里人談」の書名を挙げ、『「森囃」(もりばやし)と題して以下のような話が述べられて』いるとつつも、実はこの「絵本百物語」の『「野宿火」は、この「森囃」を描いたものと考えられている』とあるのである(下線太字やぶちゃん)。まさにお里が知れて、何だい! という感じである。

「享保のはじめ」享保は一七一六年から一七三六年まで。

「武州相州の界(さかひ)、信濃坂」FUKUSHI Kojiサイト「FUKUSHI Plazaページによれば、これは「品野坂」の別名で、『戸塚方面への下り坂で、松並木が見事であった』。『信濃坂、科野坂とも表す』とされ、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の有名な一枚、東海道程ヶ谷」は『品濃坂を視点に描かれたものと推定されている。樹間に枠取られた富士山に、馬子の視線が注がれている』とあり、現在、坂の『一部は失われ』、『階段や歩道橋になっている』とある。附近(グーグル・マップ・データ)。

「方十町」一キロ九十一メートル四方。

「節をこめて切〔きり〕たる」節と節の間で節を残して切り取ったもの。中が空洞になり、鼓のようにはなる。

「自然と」「おのづと」と読みたい。]

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