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2018/07/16

諸國里人談卷之四 裏見滝

 

    ○裏見滝(うらみのたき)

下野國日光山に四十八瀧あり。「裏見の瀧」は大石、山の崖(はな)に出〔いで〕て岩窟あり。高〔たかさ〕一丈あまり、深さ二丈ばかり。三途川の媼(うば)とて老女の石像あり。これより瀧の本(もと)に出〔いで〕て、瀧の裏を見る。高二丈ばかり、上に石像の不動明王あり。これを見る者、恐怖して敬せずといふ事、なし。不淨の人、玆(こゝ)に至れば、天狗のために命(めい)を失ふ、と云〔いへ〕り。

[やぶちゃん注:ウィキの「四十八によれば、「日光四十八滝」は栃木県日光市内の「華厳の滝」・「霧降の滝」・「竜頭の滝」・「湯滝」・「裏見滝」・「初音滝」・「寂光滝・「白糸滝」・「丁字滝」・「玉簾の滝」・「マックラ滝」などが知られるところで、『日光市一体の滝の総称』であり、『日光七十二滝とも呼ばれる』とあり、『実際に四十八滝存在するといわれる』ものの、『含まれる滝は諸説あり』、確かでないとする。中でも「華厳の滝」と「霧降の滝」『は日本の滝百選、華厳の滝は日本三名瀑』(後の二つは和歌山県那智勝浦町の「那智の滝」と、茨城県大子町(だいごまち)の「袋田の滝」)の一つであるとある。この「裏見滝(うらみのたき)」は栃木県日光市丹勢町にあり、現行の落差は十九メートル、滝幅二メートルである。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「裏見の滝によれば、『滝の裏には』寛永元(一六二四)年に『出羽三山から迎えられたという不動明王像が現在もある。松尾芭蕉は』元禄二(一六八九)年に『裏見滝を訪れ、滝に関する記述と俳句を奥の細道に残している』。但し、明治三五(一九〇二)年に『滝上部の岩が崩壊し』、『裏から見ることができなくなった』とある。

「岩窟」「高〔たかさ〕一丈あまり、深さ二丈ばかり」岩窟の高さは三メートル余で、穴の深さは六メートルほど。

「三途川の媼(うば)とて老女」三途川の渡し賃六文銭を持たずにやって来た亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼である奪衣婆(だつえば)。ウィキの「奪衣婆によれば、江戸『末期には民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の百日咳に効き目があるといわれた』とある。]

諸國里人談卷之四 津志瀧

 

   ○津志瀧(つしだき)

安藝國山縣(やまがた)郡津志瀧の上に霊験の觀音あり。瀧の下に「潛石(くゞりいし)」とて、さし出〔いで〕たる石あり。瀧水、これにあたつて漲(みなぎ)り、浪を飛(とば)するに、參詣の人、傍(かたはら)に立(たつ)て、「滝水、とゞめ給へ」と喚(よばは)つて念ずれば、しばらくがほど、水、一滴も落(おち)ず。その間に、石の下を潛(くゞ)り、走り通るなり。是、大慈大悲の佛力(ぶつりき)奇なりといふべし。「念彼(ねんぴ)」の段に「波浪不能投(はらうふのうもつ)」とあるは、則(すなはち)、是なり。

[やぶちゃん注:「安藝國山縣(やまがた)郡津志瀧」これは現在の広島県山県郡北広島町中原龍頭山(りゅうずやま)のことではなかろうか? (グーグル・マップ・データ)。北広島町都志見(つしみ)の北境界外直近がピークである。滝は同山の南東麓のNAVITIME)に「津志瀧」ではないが、「駒ヶ滝」(名馬「摺墨」と「生喰(いけづき)」が育った地と伝承することに由来)という江戸時代から知られた名瀑があり、いろいろ調べてみると(ハイカーや登山サイトで複数確認)、この滝の背後には弘法大師所縁の洞窟があるとし、そこに(「津志瀧の上」ではないが)観音像があって、現在も滝を潜って参拝することまで突き止めたので、沾涼が言っているのはこの滝と考えてよいであろう。この話、柳田國男「一目小僧その他」の「隱れ里」に『廣島縣山縣郡都志見の龍水山に、駒ケ瀧一名觀音瀧と稱して高さ十二丈幅三丈の大瀧あり、其後は岩窟で觀音の石像が安置してあつた。始め瀑布の前に立つ時は水散じて雨の如く、近づくことは出來ぬが、暫くして風立ち水簾轉ずれは、隨意に奧に入り佛を拜し得る、之を山靈の所爲として居たさうである』と出る。柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一〇を読まれたい。

『「念彼(ねんぴ)」の段』「観音経」の冒頭で掲げる「法華経」の「観世音菩薩普門品」の「偈)」の一節、「或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼觀音力 波浪不能没(わくひょうるーこーかい りゅうぎょーしょーきーなん ねんぴーかんのんりき はーろうふーのうもつ)」を指す。――或いは大海原に漂い流され、龍や異魚や数多の鬼神の難に遭遇しようとも、かの観音の広大無辺の慈悲の力を念ずれば、大波浪といえども沈めることは出来ぬ。――の意。]

諸國里人談卷之四 嶋遊

 

    ○嶋遊(しまのあそび)

西國の海上に、𢌞船(くわいせん)、「夜沖掛(〔よ〕おきがゝり)」とて、沖中に碇(いかり)をおろして泊る事あり。深更におよんで、間近きに、一の嶋、出來〔しゆつらい〕して、樹木・民屋、立(たち)つらなり、行(ゆき)かふ人、あまたにして、商人(あきびと)の物賣〔ものうる〕躰(てい)など、髣髴と見ゆる。「いつの間にかは、磯ちかきに舩や寄(よせ)けん」とうたがふに、明(あく)れば、嶋はなく、渺々たる海原也。たゞ夢に見たるがごとし。これを「嶋の遊び」といへり。此事、多くはなし。稀の事也。案(あんず)るに蜃氣樓の類ひなるべし。

[やぶちゃん注:挿絵有り(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースのの画像)。これこそ「蜃気楼」の別称にして、私の好きな語「海市(かいし)」そのものと言える。優れた蜃気楼考証サイト「小樽蜃気楼(高島おばけの不思議)」の「特異な名称」に本「島遊び」も挙げられてある。私はそこに挙げられてある古代ケルト人の「ファタ・モルガナ」(Fata Morgana:これ自体はイタリア語。アーサー王伝説の中で、魔術師で王の義姉モルガン・ル・フェ(Morgan le Fay)に由来し、fairy Morgan の意。イタリアのメッシーナ海峡(Strait of Messina)の蜃気楼がモルガンの魔術によって作られるという言い伝えがあったことによる)も好きな語だ。ファタ・モルガナは完全に絶望した人間にのみ見えるとも言われる海の蜃気楼なのである。]

諸國里人談卷之四 浮嶋

 

    ○浮嶋(うきしま)

出羽國最上郡羽黑山の梺(ふもと)、佐澤(ささは)に「大沼」といふあり。これに大小六十六の浮嶋あり。徑(わたり)、三、四尺より、一丈二、三尺に至る。をのをの國々の名ありといへども、分明ならず。勝れて大き成(なる)嶋を「奧州嶋」といふのみなり。池の眞中に、動かざる小〔ちさ〕き島に、葭(よし)・芦(あし)、生(おひ)たり。これを「芦原嶋」と号(なづけ)けたる也。六十余の嶋々、常は汀(みぎは)に片寄り、地に副(そひ)てあり。皆、松柏(しやうはく)茂り、桃・櫻・藤・山吹など生ひたり。春・夏・秋かけて日每に浮(うか)み旋(めぐ)る。風にしたがひて行、また、風に向(むかひ)て行〔ゆく〕もあり。時として、二十島、三十島も、うかみ巡(めぐ)る也。春夏、花の盛(さかり)は、藤・山吹・つゝじ・さつきの、水に映じて、風景、斜(なゝめ)ならず。この嶋々、汀(みぎは)にある時、出〔いで〕んづる嶋は、震(ゆる)ぎ動き出〔いで〕て、出〔いで〕ざる嶋を押隔(おしへだて)て出〔いづ〕る事、尤(もつとも)、奇也。祈願の人あつて、その志(こゝろざす)所の嶋をさして、旋行(せんかう)を考ヘ、吉凶を占ふ事、あり。

[やぶちゃん注:これは「羽黑山の梺」でもないし(羽黒山からは南南東四十三キロメートルも離れる)、「佐澤」という地名でもないのだが、どう考えても、卷之一 芝祭で推定比定した山形県西村山郡朝日町の浮島で知られる「大沼」以外には私にはやはり考えられない(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「三、四尺」九十一センチメートルから一メートル二十一センチメートル。

「一丈二、三尺」三メートル六十四センチメートルから三メートル九十四センチメートル。

「その志(こゝろざす)所の嶋をさして、旋行(せんかう)を考ヘ、吉凶を占ふ事」私は占うための特定を浮島を決め、事前に、その島がどの方向にどういう風に池の中を旋回し移動するかを本人が予測して予め決めて記しておき、実際にほぼその通りに移動すれば、祈願は成就するといった占い法ではないかと思う。漠然と、ただ島を決めて、漫然と動くの待って、その航跡を以って祈願成就を占うというのでは、自分(或いは占卜者が別にいるのかも知れぬが)の都合のよいように占いを読み解いてしまって、占いにならんように私は思うからである。]

諸國里人談卷之四 念佛池

 

    ○念佛池(ねんぶついけ)

美濃國谷汲(たにぐみ)と坂下(さかのした)との間に小〔ちさ〕き池あり。渡せる橋を「念佛橋」といふ。池の中に石塔あり。誰人(たれ〔ひと〕)の立〔たて〕たるといふをしらず。往來(ゆきゝ)の人、橋のうへにして、石塔にむかひ、念佛すれば、水面(すいえん)、玉のごとく、「沸々(ぶつぶつ)」と涌(わく)がごとくに泡だちて、鳴(なる)也。しづかに念佛すれば、しづかに泡立(あはだち)、責念佛(せめねんぶつ)を申せば、聲に應じて、その泡、多く立(たつ)なり。よつて「念佛池」といふ也。

[やぶちゃん注:「美濃國谷汲(たにぐみ)と坂下(さかのした)との間」鬼丸鬼丸のブログ根陣屋跡揖斐川町) 「巡拝」の記事によって現存することが視認出来たのであるが、場所が判らない。グーグル・ストリートビューでここと思しいところをうろつくうち、遂に発見した! (グーグル・マップ・データ)! 鬼丸氏の説明板(揖斐川町商工会谷汲支部)の写真から電子化する。傍点「●」は太字とした。

   *

 念仏池(揖斐川町谷汲名礼)

花山天皇が西国三十三番を巡礼せられた時、谷汲山に詣られ帰り道で当所に休んで念仏を唱えられていると、その地から水が湧きでてきました。

そして法皇の念仏に仏・仏を和しました。この故事により念仏池と呼びその中に地蔵様を祀る、お堂を造りました。現在も地域住民は毎年八月地蔵様のお祭りを行っています。

渇水時もこの池の水は満々と堪えられていて[やぶちゃん注:「堪」は「湛」の誤字であろう。]農業用水に利用されています。

   *

地名「名礼」は「なれ」と読む。

「責念仏」鉦を鳴らしながら高い声で急調子に唱える念仏。「せめねぶつ」とも呼ぶ。]

諸國里人談卷之四 入梅井

 

    ○入梅井(つゆのゐ)

攝津國矢田郡(やたのこほり)丹生庄(にふのしやう)原野村、栗花落(つゆり)左衞門がやしきの内に井あり。徑(わた)り三尺、深さ一尺ばかり、凹める所、常は、水、なし。入梅(つゆ)に入〔いり〕て、水、涌(わき)いづる也。入梅は立春の後(のち)、凡(よそ)百三十五日にあたる。此(この)候(こう)、柘榴花(ざくろのはな)、はじめて開き、栗花(くりのはな)、徐(ゆくゆく)落(おつ)。「本草」、梅黃(ばいわう)の説を以〔もつて〕、「入梅(つゆ)」の字を用(もちゆ)る也。此〔この〕左衞門、始祖は眞勝(まかつ)といふ。橫佩右大臣(よこはぎうだいじん)の聟(むこ)にて、累代久しき家也。豐成卿(ちょなりきやう)の娘白玉姫は、中將姫の妹(いもと)なり。中夏のころ、此地におゐて[やぶちゃん注:ママ。]薨ず。遺骸(ゆいがい)を納(おさむ)る所に祠(ほこら)をたてゝ、辨財天に祭る也。其地について、水、涌出(ゆうしゆつ)し、今に中夏の候をしらしむると云〔いへ〕り。

[やぶちゃん注:「攝津國矢田郡(やたのこほり)丹生庄(にふのしやう)原野村」「矢田郡」は「矢田部」の誤り(「八田部」「八部」等とも書く)。現在の神戸市北区山田町原野で、同地区の札場(ふだば)に「栗--落(つゆ)の井」として現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。「兵庫県立歴史博物館ネットミュージアム ひょうご歴史ステーション」内の「ひょうご伝説紀行 ―語り継がれる村・人・習俗―」の「栗花落の井」に掲げられた現地の掲示画像(神戸市北区役所及び山田民俗文化保存会のもの)を以下に電子化する(和歌の部分は行間を詰めた)。

   *

     「栗花落(つゆ)の井」伝説

 丹生山田の住人、矢田部郡司(やたべこおりのつかさ)の山田左衛門尉真勝(さえもんのじょうさねかつ)は、淳仁(じゅんにん)天皇に仕えていたが、左大臣藤原豊成の次女白瀧姫を見初め、やみ難い恋慕の情に苦しんだ。真勝の素朴で真面目な人柄に感心された天皇は自ら仲立をして夫婦にされたので、真勝は喜んで姫を山田へ連れ帰ったという。才色優れた白瀧姫と真勝との幸福な生活は、結婚三年にして男の子一人を残して姫は亡くなってしまった[やぶちゃん注:文章の呼応がおかしいが、ママ。]。真勝はその邸内に弁財天の社を建て姫を祀った。毎年五月、栗の花が落ちる頃、社の前の池に清水が湧き出て、旱天(ひでり)でも水の絶えることがなかったという。それにより姓を「栗花落(つゆ)」と改め、池を「栗花落(つゆ)の井」と名付けたという。

 

  真勝から白瀧姫へ送った恋歌

『水無月の 稲葉の末もこかるるに

          山田に落ちよ白瀧の水』

  白瀧姫から真勝へ送った恋歌

『雲たにも かからぬ峰の白瀧を

     さのみな恋そ 山田をの子よ』

  *

リンク先の解説には、『長方形の石組みがある井戸は、さほどの深さもない。しかし毎年梅雨のころになると必ず清水がわき出し、どんな日照りでも秋までかれることがないというのは、不思議な話である。この井戸は、主人公である山田左衛門尉真勝(やまださえもんのじょうさねかつ)の子孫(栗花落氏)によって整備され、今も大切に祭られているというから、子孫にとっても地元の人々にとっても、まさしく伝説が生きている場所である』。『栗花落の井にわく水は、水路をめぐり、あたりの田を潤してきた。「白滝姫」という美しい名とともに、伝説は里人の間で息づいてきたのだろう』とある。「淳仁天皇」(淡路廃帝:あわじはいたい:敵対した女帝孝謙天皇(淳仁天皇の後に重祚して称徳天皇)により長く天皇の一人と認められなかった。彼は彼女に殺されたと推定されている)の在位は天平宝字二(七五八)年から天平宝字八(七六四)年。「左大臣藤原豊成」(大宝四(七〇四)年~天平神護元(七六六)年)は藤原鎌足の曾孫。最終官位は右大臣従一位。彼の娘中将姫(天平一九(七四七)年~宝亀六(七七五)年)は長谷観音のお告げで奈良当麻寺(たいまでら)にある「当麻曼荼羅」を織ったとされる伝説的女性。なお、この「栗花落の井」はさらに調べてみると、現在は「原野厳島神社」となっていて、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を主祭神とし、配祀神を白瀧姫としている。兵庫県神社庁公式サイト内同神社を参照されると、解説は勿論、祭祀堂の写真が先のリンク先と同一建物であることが判る。

「本草」「本草綱目」の「巻之五 水部」の「梅雨水」に、

   *

發明藏器曰江淮以南、地氣卑濕、五月上旬連下旬尤甚【「月令」。】。土潤溽暑、是五月中氣。過此節以後、皆須曝書畫。梅雨沾衣、便腐黑。浣垢如灰汁、有異他水。但以梅葉湯洗之乃脱、餘並不。時珍曰梅雨或作霉雨、言其沾衣及物、皆生黑霉也。芒種後逢壬爲入梅、小暑後逢壬爲出梅。又以三月爲迎梅雨、五月爲送梅雨。此皆濕熱之氣、郁遏熏蒸、釀爲霏雨。人受其氣則生病、物受其氣則生霉、故此水不可造酒醋。其土潤溽暑、乃六月中氣、陳氏之誤矣。

   *

そこで時珍は「芒種」後の最初の壬の日(グレゴリオ暦六月十日頃)が梅雨入りであり、「小暑」後の最初の壬の日(七月十二日頃)が梅雨明けであるとしている。今年(二〇一八年)は驚くべきことに六月末に梅雨明けしてしまった。最早、人間だけでなく、季節も狂い始めている。「梅黃の説」とは「梅の実が黄ばむ頃に梅雨が始まるという説」の意。]

進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(四) 四 周圍の色による變異

 

      四 周圍の色による變異

 

Firesaramandora

[斑紋性山椒魚]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた。以下も同じ。]

 

Hanmonseisansyouuoheni

[山椒魚の變異

(右から)

黑い土の上で養つたものとその子

黃色の土の上で養つたものとその子]

 

 ヨーロッパに普通な山椒魚の一種に、黃と黑との鮮明な斑を有するものがある。大きさは我が國の「いもり」よりは稍大きく、常に陸上に棲んで胎生する。昔から火事を消す不思議な力があると云い傳へられたために、俗語では「火の山椒魚」といひ、また學名は漢語に譯すれば、斑紋性山椒魚となる。先年或る大學の教授が洋行の歸りに持つて來たとて、二三の新聞紙上に煩悶性山椒魚[やぶちゃん注:ママ。]と書かれたのは之であつた。さて、この動物に就いてカンメレルの行ふた頗る面白い實驗がある。普通には體の表面の黑い所と黃色い所とが約半分づゝ位であるが、幼い時から之を眞黑の土の上で養つて置くと、生長するに隨つて、黑い部分が段々增し、黃色い所が次第に減じて、終には普通のものに比して著しく黑色の勝つたものに成る。また之に反して、幼い時から黃色い土の上に飼つて置くと、黑い所が段々減じて著しく黃色の勝つたものに成つてしまふ。もと同一のものを、一方は黑い土の上に、一方は黃色い土の上に飼ふたために、かやうな相違が生じたのであるから、これは外界からの影響を受けて後天的に現れた變異であるが、更に之を繁殖せしめて、第二代目には如何なるものが出來るかと實驗して見た所が、黃色くなつた親から生れた子を、黃色い土の所で育てたら、生長するに隨つて益[やぶちゃん注:「ますます」。踊り字はない。]黃色が增し、終には黑い所は殆どなくなつて、略全身黃色いものが出來た。若し人爲的に黃色に仕立てた親の性質が全く子に傳はらぬものとすれば、子の代に成つても、やはり親と同一の出發點から、變化し始めねばならぬ故、一代の間に外界から同一の影響を受けて、親と同じ程度までに黃色くなることは當然であるが、親よりも一層黃色の進んだものと成るべき理窟はない。かやうに子の方が親よりも一層黃色になつたのは、如何に考へても親の黃色い性質が幾分か子に傳はり、その上に子が更に親と同樣の變化をしたから、兩方が積み重なつて生じた結果と見倣すの外はないであらう。

[やぶちゃん注:底本は改行となっているが、次の一字下げがない。下げておいた。

「斑紋性山椒魚」田原真人サイト「エピジェネティクス進化論の「ポール・カンメラー(Paul Kanmererによれば、この実験で用いられたのは『サラマンドラ・マキュロサ・フォルマ・ティピカ』とある。Salamandra maculosa forma tipica と思われるが、Salamandra maculos は両生綱有尾目イモリ亜目イモリ科サラマンドラ属ファイアサラマンダー Salamandra salamandra のシノニムであり、海外サイトでは、Salamandra tipica と記載するものもある。田原氏の解説には、『変種サラマンドラ・マキュロサ・フォルマ・ティピカは、黒地に不規則な黄色の斑点がある』。『カンメラーが、この種の一群は黒土の上で育て、一群は黄土の上で育てたところ』、六『年目に完全な成熟期に達したときに、体色が適応的に変化した』。『カンメラーは、さらに、黒土に体色を適応させた親から生まれた子を黒土の上で育てた。その結果、子供は、背中の正午線に沿って一列に並ぶ黄色の斑点を持って生まれ、この斑点は次第に小さくなって消失した』。『また、一方で、黄色に体色を適応させた親から生まれた子を黄土の上で育てた。その結果、子供は、対称的に』二『列に並ぶ黄色の斑点を持って生まれ、その斑点が二本の幅の広い黄色の縞になった。そして』、三『代目になると「一様にカナリア色」になった』とある。広義の「ファイアサラマンダー(火蜥蜴)」については、ウィキの「ァイアサラマンダー」を参照されたい。

「昔から火事を消す不思議な力があると云い傳へられた」株式会社タンタカの作成になる不思議のチカラの「火の精霊サラマンダー。古代ギリシャから伝わる精霊によれば、

   《引用開始》[やぶちゃん注:見出しの画像記号を「*」に代えた。]

16世紀のヨーロッパで、火、水、空気(風)、土の「四大元素」を司る「四大精霊」がいると提唱したのは、錬金術師で医師、化学者で神秘思想家のパラケルススという人でした。

この四大精霊のうち、火の精霊は「サラマンダー」という名前で呼ばれています。

サラマンダーとは何なのでしょうか。じつは現実のサラマンダーとは、実際に地球上に生息する両生類のうち有尾類の生物のことなのです。

*サラマンダーはサンショウウオ?

日本では、この生き物のサラマンダーを「サンショウウオ」とすることが多いようですが、実際にはイモリの仲間も区別しないでサラマンダーと呼ばれるのだそうで、“火蜥蜴”と称される「ファイアーサラマンダー」は体長15cmから25cmくらいのイモリ科の生物です。

それではこの生き物のサラマンダーが、どうして火の精霊になったのでしょうか。

*火のドラゴン・サラマンダー

古代ギリシャでは、サラマンダーは小型のドラゴンに近い爬虫類であると考えられていました。ドラゴン(龍)は洋の東西を問わず、火や風、水など四大元素を操る存在なのですが、口から火を吐くドラゴンといったように、火とは特に関係性が近かったのかも知れません。

特にサラマンダーは火の中でも生きることができるとされ、古代ギリシャ人やその哲学と魔術的思想を受け継いだヨーロッパの錬金術師たちは、サラマンダーを火の元素とイコールに考えるようになりました。

一方で北の古代ヨーロッパ、ケルト人やチュートン人、デーン人の伝承に登場する火を吐くドラゴン「ファイアー・ドレイク」も、溶岩やマグマの中を泳ぐことができ、火の精霊と同一視されていたそうですから、古代世界では火の元素の象徴であるドラゴンが、やがて実在するサラマンダーという生き物を象徴的に捉えていったのかも知れません。

*サラマンダーは火を操る存在??

先ほどご紹介した実際にヨーロッパに生息するファイアーサラマンダーは、決して火の中でも平然と活動できるというわけではなく、また黒と黄色の皮膚の身体が火のように真っ赤になるというわけでもありません。

なぜこういう名前がついたのかというと、ファイアーサラマンダーは中が空洞になった樹木の丸太の中で冬眠するという習性があり、人間がその丸太を焚き火などで火にくべるとファイアーサラマンダーが慌てて這い出し、その様子がまるで火の中から出て来たように見えたからだということです。

後にパラケルススは、サラマンダーを含めた四大精霊はそれぞれ人間の姿に似ていて、話し方や振る舞いも人間に近いとしています。しかしそれよりも遥か古代のギリシャでは、例えば哲学者のアリストテレスがサラマンダーとは「火の中でも燃えない動物」であり「火の中を歩いて、火を消す」とも言っていて、火を怖れる古代世界の人びとにとってサラマンダーは火を操る存在と認識していたのでした。

   《引用終了》

とあることで、この「火を消す」という奇怪な伝承の意味が判る。なお、ファイアサラマンダーは有毒な液体を噴射することでも知られるウィキの「ァイアサラマンダー」によれば、『後頭部の両側と、背中の正中線にそって』二『列に並んで』、『顆粒状の毒腺がある。ファイアサラマンダーの毒腺の大きさは有尾類中最大であ』り、『オスはメスよりやや体が小さく、特に繁殖期では総排泄孔がより膨れている』。『有尾類の多くが外敵からの防御のため』に『皮膚から有毒あるいは刺激性の分泌物を出す。これの毒は表皮につく雑菌や寄生虫を防ぐ役にも立っているらしい。ファイアサラマンダーの場合は サマンダリン』(SamandarinC19H31NO2)・SamandaridinC21H31NO)・SamanderonC22H31NO2)と複数種存在する)『というアルカロイド系の神経毒を持つ。これは全ての脊椎動物に対して有効な、過呼吸を伴う筋肉の痙攣と高血圧をもたらす毒物である』。『毒腺は後頭部の両側にある耳腺と背部の正中線に沿った部分に集中している。ファイアサラマンダーの毒腺は骨格筋に囲まれており、その力で乳白色の毒液を高速』(秒速三メートル)『で正確に相手を狙って噴射することができる。ここから発射する毒液が炎のように見えた為、ファイアーサラマンダーと呼ばれるようになったとも考えられている。このような技のため、ファイアサラマンダーは他種と比べて』、『ごく少量の毒で身を守ることができるようだ。有尾類の毒はコレステロール派生物であり、生産に大量のエネルギーを要し、エネルギー貯蔵の役割も果たしているという説もある』とある。

「カンメレル」ウィーン生まれの世界的に知られた遺伝学者で、獲得形質の遺伝を主張したラマルク説の支持者であったパウル・カンメラー(Paul Kammerer 一八八〇年~一九二六年)。冒頭既出既注。]

 

 以上の如き實驗は、今日の所まだ數多くはないが、たとひ少數なりともかやうな確な實驗がある以上は、親が一生涯の間に外界からの影響を蒙つて新に獲た性質は、少くも、或る場合には子に傳はるものと斷定しなければならぬ。

進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(三) 三 注射による變異

 

     三 注射による變異

 

[やぶちゃん注:この「三 注射による變異」というおどろおどろしい題名の条は、少なくとも、国立国会図書館デジタルコレクションの「進化論講話」の六種の版(国立国会図書館デジタルコレクションの「進化論講話」検索結果)の中で、底本とした東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行された『新補改版』(正確には第十三版)にのみ独立項として存在し、それ以前の諸版には影も形もないから、本第十三版(個人サイト「科学図書館」にある第十二版(PDF)にも存在しない)で新たに起されて挿入されたものであることが判る。所持する講談社文庫版は底本書誌を明記しないが、「はしがき」が大正三(一九一四)年十月をクレジットするので、同大正三年十一月開成館発行の修正十一版 進化論講話」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの同書)を底本としていることが判るが、そこには当然の如く、この条はまるまる存在しない。縦覧してみると、明治四二(一九〇九)年刊の(開成館新世紀叢書)の「第十五章 外界より動植物に及ぼす直接の影響」の中の「四 其結果の遺傳すること」の一節(国立国会図書館デジタルコレクションの当該書の当該ページ)に、

   *

又之少し種類の違ふ例は、アブリン・リチンなどといふ劇しい毒藥を普通の鼠に食はせれば、直に死んで仕舞ふが、エーリッヒといふ醫學者の實驗によれば、始め極少量を與へて、漸々其量を增して行くと、終には此毒に感ぜぬ性質が生じ、其所謂免疫性が子に傳はるとのことである。

   *

(「アブリン」abrinC12H14N2O2。毒性タンパク質(有毒アルブミン)で経口致死量は三マイクログラムとされる。「リチン」トウゴマ(ヒマ)の種子から抽出される強毒性タンパク質リシン(Ricin)のことであろう。「エーリッヒ」可能性としてはドイツの細菌学者・生化学者で血液学・免疫学・化学療法の基礎を築いたパウル・エールリヒ(Paul Ehrlich 一八五四年~一九一五年)が挙げられる)とあるのが、唯一、親和性のある話題叙述(免疫系の毒物馴化とその耐性性の遺伝)となっているばかりである。種々の事実から考えると、私はこの第十三版以降には本書の大きな改版はなされていないのではないかとも思われる。後に出た昭和四三(一九六八)年有精堂刊の「丘浅次郎著作集」(全五巻)でどの版が選ばれたか、通常なら最終版のはずだが(やや疑問もある)、であれば、「丘浅次郎著作集」の「進化論講話」には本条があるはずである。いつか図書館で確認してみたい。ともかくも、この条は特異点で、丘淺次郎「進化論講話」あることは疑いない。以下、お読みになれば判る通り、人工的な実験によって異物を注入することによって、現在で言う抗原抗体反応を惹起させ、そこから得た抗原抗体反応を持った血清を妊娠中のに与えると、奇形児が生まれるという、当時としてはショッキングな内容である。これは初学者向けの内容としては、かなりエグい内容ではあるにしても、しかし、カットされる(第十三版以降があったとして、カットされていないのかも知れぬ)決定打とは私には思われない。これは抗原抗体反応と免疫系の機序の初期研究には不可欠だったと私は思うからである(以下の実験は血清内の特定の成分物質が催奇形を促し、それが遺伝するとする内容である)。私は寧ろ、私がオリジナルに現代文の授業で行った、クローン羊ドリーのおぞましさ(実験内容というよりも巨乳女優からの命名のそれ)や、ヌード・マウスの背中にヒトの耳を発生させて悦に入っている現代の生物学者の方が、遙かにマッドでオゾマシいと考える人間である。

 

 食物や溫度の變化によつて、動物の身體に一定の變異が現れる通りに、人工的に藥物を注射することによつても變異を生ぜしめることが出來る。之に就いて最近アメリカガイヤーの行つた甚だ面白い實驗がある。總べて動物の身體には外から入り來つた有害物に對して身を護るための不思議な力があつて、そのために常に害を免れて居る。例へば、少量の毒が入つて來ると血液の中に抗毒素と名づける物質が生じて、その毒の働に反抗して之を打ち消してしまふ。病原バクテリヤなどが入り込んだ場合にも之と同樣で、血液中に種々の成分が生じて、或はバクテリヤの繁殖を止め、或はその生じた毒素を中和し、或は白血球をしてバクテリヤを容易に喰はしめなどして、その害を受けずに濟むことが多い。今日傅染病の治療や豫防に用ゐる血淸やワクチンは皆この理を應用したものに過ぎぬ。ガイヤーの行つた實驗も同じく、この理窟に基づいたもので、その大略を述べれば次の如くである。

[やぶちゃん注:「ガイヤー」不詳。識者の御教授を乞う。

「バクテリヤ」バクテリア=真正細菌=細菌(ラテン語:bacterium/複数形:bacteria)は「sn-グリセロール3-リン酸の脂肪酸エステルより構成される細胞膜を持つ原核生物」と定義される。「古細菌」ドメイン及び「真核生物」ドメインとともに全生物界を三分する。参照したウィキの「真正細菌によれば、『真核生物と比較した場合、構造は非常に単純である。しかしながら、はるかに多様な代謝系や栄養要求性を示し、生息環境も生物圏と考えられる全ての環境に広がっている。その生物量は膨大である。腸内細菌や発酵細菌、あるいは病原細菌として人との関わりも深い。語源はギリシャ語の「小さな杖」』『に由来』する。]

 

 先づ或る動物、例へば鷄の眼球を取り出し、その内の水晶體だけを磨り潰してどろどろの液體とする。水晶體といふのは眼球の内にあつて、強く光線を屈折する小さな玉である。生(なま)のときは勿論無色透明であるが、煮れば白色不透明となる。煮肴の眼球を箸でつゝくと、白い球形の玉が出て来るが、それは魚の眼の内の水晶體である。水晶體が曇れば白内障と名づける盲目になる。かやうに大切な器官であるが、之を磨り潰したものを兎の體内に注射すると、兎の血液の中に一種の成分が生じて、水晶體なるものに反抗する性質を帶びて来る。この性質は、かやうな兎の血液から製した血淸の中に當然移つて行く。さて、この血清を更に兎に注射して見るに生長し終つた兎であれば、そのために何の變化ち起らぬが、妊娠中の牝兎に注射すると胎内の子兎の發育が、その影響を蒙つて、眼球が完全に出來上らず、或は水晶體がなかつたり、または眼球全體が甚だ小さかつたりなどして恰も盲目のものが出來る。ガイヤーは、この實驗を多數の兎に施して見たが、たゞ眼球の發生の不完全である程度に種々の差がゐつただけで、いつも略同樣の結果を得た。これから推して考へると母の身體に外界から何らかの物質が入り來ると、胎内の子が、その影響を蒙つて定規の發生を遂げず、普通とは異なつた形に出來上つて生れ出るといふことは、他の場合にも往々あり得べきことと考へられる。

 以上の如き變化は、子兎が生れる前に起つたものではあるが、哺乳類の胎兒は腹の内に居る間も已に一疋の動物であつて、たゞそこに場處を借りて居るだけ故、決して、先天的の變化ではない。動物の一生涯は卵から始まるから、若しも卵のときから已に、發生後或る變化を現すべき性質を持つて居たのならば、これは眞に先天的の變化であるが、妊娠の途中に起つた事件のために、胎内の子に變化が生じた場合には、之は勿論子の一生涯の間に新に獲た性質といはねばならぬ。なぜといふに、母の胎内に留まつて居る期間も實は子の一生涯の中に含まれて居るからである。

 こゝに面白いことは、かやうな變化が更に子に遺傳することでゐる。ガイヤーは以上の實驗によつて得た眼球の不完全な子兎を飼つて置いて、生長させ繁殖させた所が、このたびは別に母親に注射などをせずとも、先天的に眼球の不完全な子兎が生れた。この實驗は近年行はれた遺傳に關する種々の實驗の中でも理論上最も重大な價値を有するものと思はれるから、特にこゝに書き加へて置く次第である。

2018/07/15

諸國里人談卷之四 掘兼井

 

     ○掘兼井(ほりかねのゐ)

武藏國入間郡(いるまのこほり)掘金(ほりかね)村小高き山に、淺間宮の梺(ふもと)に、すこし窪める所、「掘兼の井」の蹟(あと)なり。方六尺ばかりの石を窠(くは)して井桁(いげた)とし、半(なかば)は埋(うづ)みて苔むしたり。傍(かたはら)に碑(ひ)あり。近きころ、川越のものゝふのこれを建(たて)し也。【川越より二里、未申の方。】

「千載」                俊成

 むさし埜〔の〕のほりかねの井もあるものをうれしく水に近づきにけり

[やぶちゃん注:ここに碑の図が入る(①②③総て同位置)。例外的に基礎底本の③にもあり、①よりも遙かに見易いので、ここはそれをリンクさせておく。これである。以下、図の碑文を以下に電子化しておく。碑面に彫られた通りに改行してある。但し、四行目(字下げの行。碑本文への後注である)は現存する当該の石碑の写真(「地盤環境エンジニアリング株式会社」の作成になる「58.掘兼の井戸が物語るもの(1)」PDF)。これには続きの「59」(「(2)」)及び「60」「(補輯)」がある。孰れもPDF)を見るに、「以」の字が脱字していることが判ったので、特異的に補填しておいた

   *

此凹形之地所謂掘兼井之蹟也恐久而

遂失其處因以石井欄置坳中削碑而建

其傍以備後監

 里語掘而難得水故云尓以兼通難未知只從俗耳

寶永戊子年三月朔

   *

なお、碑の左側面に碑文ではなく、碑の高さが、

   高五尺二寸

と記されてある。メートル換算すると、一メートル五十七センチメートル五ミリメートルほど。]

此あたりに「掘兼井」と稱する所、夛(おほ)し。此外を「淺間掘兼」といふ也。是より五六町南に、方二十間ばかり、から堀(ほり)のごとく窪める所、これも其井の跡也と云。又、乙女新田(おとめしんでん)或は入曽里(いりそのさと)にもあり。惣(そう)じて此所、土地高くして、水を得がたし。よつて「掘かねたる」といふ里語(りご)によつて、眞跡(しんせき)を迷(まよわ[やぶちゃん注:ママ。])したる也。掘金の名水なれば、掘金井といふを、「兼」の字を書(かく)より、まことの所を失(うしなへ)るなり。

[やぶちゃん注:以下、原典は全部文が続いているが、ここから物語仕立てになるので、特異的に改行を加えた。]

○享保九辰の夏、三緣山増上寺の塔中(たつちう)淸光院・昌泉院の退院、むさし野に優遊(ゆうゆ)し、「掘かねの井」を溫(たづぬ)るに、本所(ほんじよ)、しれがたく、まよふ折から、飛脚などゝおぼしき男、文箱(ふばこ)を杖にむすびてかつぎたるが、

「をのをのは、いかなる所を求め給ふ。」

「掘かねの井をこそ。」

といふ。

「それは、此あたりにあらず。」

と、道しるべして、此所に來り、

「是こそ實迹(じつせき)の地なり。此井につきて、物がたりあり。

――むかし、川越の城主より、鎌倉殿へ鯉を獻ず。使(つかひ)の者、此井にて水をそゝぐに、あやまつて此井に落しぬ。その時、かの者、行(ゆく)こと、あたはずして、川越に歸りて、しだいをいふに、『憎きものゝわざかな』と誅せられたり。その時、かの者、

 武藏野のほりかねの井の井の底にわれぞこひするこいぞ一かけ

と詠じて、むなしくなりたり。――

御僧達、逆緣(ぎやくゑん)ながら、吊(とむら)ひ給へ。」

といふに、兩僧、暫く、經念佛してげり。

傍(かたはら)の菴室より、老僧、いでゝ、

「我、久しく所に住めども、かゝる事をきかず。今、物語ありしは、いかなる人。」

といふ。

兩僧、

「たゞ道ゆく人にてありける。」

と、かの者を尋るに、其行方(ゆくかた)をしらず。

「かの奴(やつこ)が亡霊ならん。」

と。

歸府(きふ)の後、演譽白隨(ゑんよはくずい)大僧正にこの事を申〔まうさ〕ば、則(すなはち)、戒名を授玉(さづけたま)ひ、吊(とむら)ひありける。

昌泉院に石塔を立(たて)られ、奴(やつこ)が墓とて、今、あり。

去(さり)し申〔まうす〕は、その年より十七年にあたるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、年忌の吊ひありける也。

[やぶちゃん注:現実にある井戸に、碑の図を添えて考証した上で、それに纏わる怪談を徐ろに附した沾涼渾身の条である。リアリズムからホラーへ、而して鎮魂で大団円を配したところ、実に上手い。さて、碑の現存するこの「掘金の井」は、現在の狭山市大字にある堀金神社境内に「堀金の井」として埼玉県指定文化財に指定されてある(但し、現在、水はない)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「狭山市」公式サイト内の「堀兼之井」によれば、直径七・二メートル、深さ一・九メートルの『井戸の中央には石組の井桁』があるが、『現在は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようであったかは不明で』、『この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられて』おり、『これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができ』るとする。『井戸のかたわらに』二『基の石碑があ』る『が、左奥にあるの』が、まさに沾涼が記した宝永五戊子(ぼし)(一七〇八)年三月に『川越藩主の秋元喬知(あきもとたかとも)が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたもので』、『そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹(おう)形の地としたこと、堀兼は掘り難がたかったという意味であることなどが刻まれてい』る。『しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳』(土地の者の言い伝えや認識)『にしたがったまでで、確信に基づくものではないともあ』る。『手前にある石碑は』、天保一三(一八四二)年に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明(きよはらのぶあき)の漢詩が刻まれてい』る。但し、『都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すの』かと言われると、疑問はあるといった旨が附せられ、『神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われ』はするものの、『このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようで、江戸後期に』編纂された「新編武蔵風土記稿」を『見ても「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとあ』る。『堀兼之井が後世の文人にもてはやされるようになったのは』、まさに秋元喬知が宝永五年にこの『石碑を建ててから以後のことと考えられ』るとしている。

「淺間宮」同じく「狭山市」公式サイト内の「堀兼神社」によれば、『社伝によれば、日本武尊が東国平定の際、当地において水がなく、苦しむ住民を見て、水を得ようと富獄(富士山のこと)を遥拝』『し、井戸を掘らせ、水を得ることができたため、浅間社を祭った、と創祀を伝えてい』るとあり、本殿は有意に高い位置にあることがリンク先の写真から判るので、「の梺(ふもと)に、すこし窪める所」は現在のロケーションにも一致する。

「窠(くは)して」窪み或いは穴をあけて。

「近きころ、川越のものゝふのこれを建(たて)し」「川越のものゝふ(武士)」は先の川越藩主秋元喬知で、彼がこれを建立したのが宝永五(一七〇八)年三月一日、本「諸國里人談」刊行は寛保三(一七四三)年だから、三十五年前、まあ、「近き頃」で問題あるまい。

「川越より二里、未申の方」川越市中心部から約八キロ、北北西であるから、問題ない。

「むさし埜のほりかねの井もあるものをうれしく水に近づきにけり」「千載和歌集」の「巻第十九 釈教部」にある皇太后宮大夫藤原俊成の一首(一二四一番)、

   法師品(ほつしほん)、

   漸見濕土泥(ぜんけんしつどでい)

   決定知近水(けつじやうちごんすい)

   の心をよみ侍りける

 武藏野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近づきにける

前書(ブラウザの不具合を考えて、短く改行して示した)の「法師品」は「法華経第十品」のこと。「漸見濕土泥(ぜんけんしつどでい) 決定知近水(けつじやうちごんすい)」とは「ようやく湿った泥土を見て、確かに水はもう近いということを知る」の意。ありがたい「法華経」の教えを読み聴くことで、仏だけが持つ広大無辺な真実智に近づくことの喜悦を比喩した歌であることを示す。

 なお、ここは東国の見もしない田舎にも拘わらず、古くから知られ、歌枕としてもよく詠まれている。まず、超ベストセラー、清少納言「枕草子」の「井戸尽くし」の章段(一六三段)で冒頭に掲げられている。

   *

井は、ほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂なるがをかしき。山の井、さしも淺きためしになり始めけむ。飛鳥井(あすかゐ)は、「御水(みもひ)も寒し」とほめたるこそ、をかしけれ。千貫(せんくわん)の井。少將の井。桜井。后町(きさきまち)の井。

   *

私は井戸フリークではないので、注は附さない。他に、歌枕として詠まれた例を示す。

   *

 いかでもと思ふ心は堀兼の井よりも猶ぞ深さまされる 伊勢(「伊勢集」)

 あさからず思へばこそはほのめかせ堀兼の井のつつましき身を 俊賴(「俊賴集」)

 くみてしる人もありなむ自づから堀兼の井のそこのこころを 西行(「山家集」)

 いまやわれ淺き心をわすれみすいつ堀兼の井筒になるらむ 慈円(「拾玉集」)

 むさしなる堀兼の井の底をあさみ思ふ心を何にたとへむ 詠み人知らず(「古今和歌六帖」)

   *   *   *   *

 以下、挿絵の碑文、

「此凹形之地所謂掘兼井之蹟也恐久而遂失其處因以石井欄置坳中削碑而建其傍以備後監

  里語掘而難得水故云尓以兼通難未知只從俗耳

 寶永戊子年三月朔」

我流で訓読する。

   *   *   *

 此の凹形(おうけい)の地、所謂(いはゆる)「掘兼の井」の蹟なり。恐らくは久しくては、遂に其の處を失(しつ)せんとす。因つて、石の井欄(せいらん)を以つて坳(くぼち)が中に置き、碑を削りて其の傍らに建てて、以つて後監(こうかん)に備ふ。

  里語の「掘」とは、水の得難き故に、尓(しか)云ひ、「兼」は通し難きを以つてす。未だ知らず、只だ、俗耳(ぞくじ)に從(よ)るのみ。

 寶永戊子(つちのえね)年三月朔(つひたち)

   *   *

「後監に備ふ」後世の検証・考察の縁(よすが)とする。

   *

『此あたりに「掘兼井」と稱する所、夛(おほ)し。此外を「淺間掘兼」といふ也。是より五六町南に、方二十間ばかりから堀(おり)のごとく窪める所、これも其井の跡也と云。又、乙女新田(おとめしんでん)或は入曽里(いりそのさと)にもあり』これは、この堀金神社のもの以外の有象無象の「掘兼の井」と称するものは、この本家本元(かどうかは実は不明なのであるが)以外は総称して「淺間掘兼」の井戸と言っているということらしい。先の「地盤環境エンジニアリング株式会社」の作成になる「58.掘兼の井戸が物語るもの(1)」にも、この古書(書誌を記さず)によれば、この地には「掘兼の井」以外に「七曲の井」(リンク先の後半部に掲げられているので位置その他はそちらを参照されたい)の他、「比丘尼の井」という『古井の跡が北入曽村に三箇所あって何れも掘兼』の『井と唱え』ているとし、『また他に『今伝うるは、当郡はもとより、他の郡にも掘兼の井跡と称する井あまたありて、何れを実跡とも定めがたし』ともある。このように掘兼井にはなお考証の余地がありそうである』と記した上、加えて注では、『ネット上の検索によれば鎌倉街道沿いの狭山市掘兼2332には八軒家之井』(長径十六・五センチメートル/短径十四・五センチメートル/深さ三メートル)『もあり、掘られた時期は特定されていないが、掘兼井と同一の性格・構造を有する井戸と見られている。さらに狭山市堀兼・入曽地区には江戸時代にこのような井戸が計』十四(堀兼に七箇所、堀兼新田に二箇所、北入曽に三箇所、南入曽に二箇所)『あったと伝わっている』とある。本文に「是より五六町南に、方二十間ばかり、から堀(ほり)のごとく窪める所、これも其井の跡也と云」とあるが、現在の堀兼神社から南へ五百四十六~六百五十四メートルというと、まさに埼玉県狭山市堀兼2332附近ここになるのである。以下、「乙女新田」は不詳、「入曽里(いりそのさと)」は堀兼神社の西南直近地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、ウィキの「まいまいず井戸」には、『まいまいず井戸とはかつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種である。東京都多摩北部地域から埼玉県西部に多く見られ、同様の構造を持つ井戸は伊豆諸島や群馬県の大間々扇状地などにも存在した』とし、『地表面をすり鉢状に掘り下げてあり、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造である。すり鉢の内壁に当たる部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地表面から底部の垂直の井戸に向かう』とあって、本「堀兼之井」や「七曲井」を始めとして、幾つもの井戸が写真附きで解説されている。ウィキペディアを馬鹿にする安物のインク臭のする諸君は、是非、一見あれ。

「享保九辰」一七二四年。

「三緣山増上寺」現在の東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗のあの増上寺のこと。

「淸光院」現存するとする記載もあるが、どうもないようである(明治三〇(一八九七)年には現存していた)。廃院されたのか、宗旨変えをした(或いはして移った)か、よく判らぬ。

「昌泉院」廃院して現存せず。

「退院」隠居。二人ということであろう。

「優遊(ゆうゆ)」のんびりと心のままにするさま。

「溫(たづぬ)る」「温故知新」で知られる通り、「温」には「尋ねる・復習する」の意がある。

「道しるべ」道案内。

「鎌倉殿」室町時代の鎌倉公方もいるいにはいるが、ここはまさに鎌倉街上道(かみのみち)沿いであり、鎌倉時代に溯る設定と読むべきである。

「武藏野のほりかねの井の井の底にわれぞこひするこいぞ一かけ」下句の意味が私にはよく採れない。「こひ」は「戀」或いは命「乞ひ」と「鯉」を掛けているか? 「一かけ」の「かけ」は「一影」(さっと落ちていったその鯉の姿)に飛脚としての「一驅(か)け」を掛けているか? などとは思うが、全体の意味が腑に落ちない。識者の御教授を乞う。

「逆緣(ぎやくゑん)」、仏の教えを素直に信じていなかった下賤の者、そのような救い難い人を指す。ここはその飛脚のこと。

「奴(やつこ)」「あやつ・あいつ」。他称(卑称・軽蔑、或いは、親しみを持っての)の人称代名詞。

「歸府(きふ)」江戸へ帰ること。

「演譽白隨(ゑんよはくずい)大僧正」三十八代増上寺法主(ほっす)。

うさ〕ば、則(すなはち)、戒名を授玉(さづけたま)ひ、吊(とむら)ひありける。

昌泉院に石塔を立(たて)られ、奴(やつこ)が墓とて、今、あり。

「去(さり)し申〔まうす〕は」「つい先年と申しますは」の意で採っておく。次注参照。

「その年より十七年にあたるゆへ、年忌の吊ひありける也」数えであるから、十六年目の十七回忌法要である。一般に現行では、ここまで年忌法要を行い、ここから先は二十三回忌(二十二年目)、二十七回忌(二十六年目)のスパンを空けた法要を行った後、さらに間を置いて三十三回忌(三十二年目)や五十回忌(四十九年目)で「弔い上げ」とする場合が多く見られる。享保九(一七二四)年から十六年後は元文五(一七四〇)年に当る。本書は寛保三(一七四三)年刊であるから、記載内容時制はその前年以前、則ち、寛保二(一七四二)年以前と読めるから、前の私の「つい先年と申しますは」という解釈がぴったりくることが判って戴けることと思う。]

諸國里人談卷之四 油泉

 

    ○油泉(あぶらのいづみ)

美濃國谷汲(たにぐみ)の開基豐然(ほうねん)上人、延曆年中草創の時、その地を平均(ならす)所に、一つの巖(いはほ)を鑿(ほり)ければ、石中(せきちう)より、油、滴出(わき〔いで)〕たり。豐然、誓(ちかひ)て曰〔いはく〕、「我、此地におゐて、大悲の像を安置して、もし、廣く利益(りやく)せば、願はくは、此油、ますます夛(おほ)からんものなり」といひおはると、則(すなはち)、油、涌(わき)いづる事、泉のごとし。豐然、大によろこび、十一面觀音を安ぜられける。其長(たけ)五尺の像なり。其後、延喜の帝(みかど)、その瑞應をきこしめされ、額を「華嚴寺」と賜ふ。其油、漸(やうや)く微(すこ)しきなれども、尊前(そんぜん)の常燈(じやうとう)を燈(とも)すほどは、今〔いま〕以〔もつて〕、あり。

[やぶちゃん注:現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびがわちょう)谷汲徳積(たにぐみとくづみ)にある天台宗谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)の縁起。(グーグル・マップ・データ)。公式サイトに、『寺の草創は桓武天皇』『の延暦』一七(七九八) 年で『開祖は豊然上人、本願は大口大領』。『奥州会津の出身の大領はつねづねより』、『十一面観世音の尊像を建立したいと強く願っており、奥州の文殊堂に参篭して一心に有縁の霊木が得られるようにと誓願を立て、七日間の苦行の末、満願(七日目)の明け方に十四』、『五の童子(文殊大士と呼ばれる)の御告げにより』、『霊木を手に入れる事が出来』、それ『を手に入れた大領は都に上り、やっとの思いで尊像を完成させ』、『京の都から観音像を奥州へ運んでいこうとすると、観音像は近くにあった藤蔓を切って御杖にして、御笠を被り、わらじを履いて自ら歩き出し』たが、『途中、美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)にさしかかった時、観音像は立ち止まり』、『「遠く奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」『と述べられ、奥州とは異なる北に向かって歩き出し』たという。『そうしてしばらくした後、谷汲の地に辿り着いた時、観音像は歩みを止め、突然重くなって一歩も動かなくなったので、大領はこの地こそが結縁の地だろうと思い、この山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊然上人という聖(ひじり)が』そこに『住んでいたので、大領は上人と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉』った。『すると』、『堂近くの岩穴より』、『油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、それより後は燈明に困ることが無かったとい』うと記す。ウィキの「華厳寺によれば、延暦二〇(八〇一)年には、『桓武天皇の勅願寺となり』、延喜一七(九一七)年には醍醐天皇(本文の「延喜の帝」)が、『「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜』され、天慶七(九四四)年には、『朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、仏具・福田として一万五千石を与えたという。「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する』とあり、朝廷の深い信仰のあった寺であることが判る。また、『本堂本尊の十一面観音立像は、厳重な秘仏で、写真も公表されておらず、制作年代、構造等の詳細は不明である』が、『一木造、像高』二メートル十五センチメートル七ミリメートルで、『衣文や目鼻立ちのなど彫り方が荒々しいが、作風は古風で、平安』前期、九~十世紀に『さかのぼる作と推定され』ているとある。断層帯の石油層か? 現在は湧出していない模様である。]

諸國里人談卷之四 油が池

 

    ○油が池(あぶらがいけ)

越後國村上の近所の山中、黑川村【高田領也。】に、方十間余の池あり。水上に、油。浮ぶ。土人、芦(あし)を束(つかね)て水をかき搜(さが)して穗(ほ)をしぼれば、油、したゝる。それを煑かへして、灯の油とす。其匂ひ、臭(くさ)し。よつて「臭水油(くさうづのあぶら)」と云。○「天智帝御宇、自越州可ㇾ代油薪之水土。」とあるは、則(すなはち)、是也。又、薪(たきゞ)にかはる土(つち)あり。方一尺ばかり、平(ひら)の瓦(かはら)程に切(きり)、日にほしかためて薪とす。【或人、越後にて此土を得て、出羽へ立越〔たちこえ〕へけるが、出羽にて、これを燒〔やけ〕ば、燃〔もえ〕ざりし、となり。】○又、土中より掘出(ほりいだ)す薪(たきゞ)は、伊賀近江にもあり。石にあらず、土にあらず、木の朽(くち)たるやうのもの也。二、三尺ほどにして掘出し、數日(すじつ)乾し、水氣(すいき)なくなる時、焚(たく)也。上品(〔じやう〕ほん)の炭(すみ)より堅し。是を「ウニ」と云。

[やぶちゃん注:漢文部分は、原典の返り点ではそのまま正常に読むことが出来ない。ここは特異的に吉川弘文館随筆大成版にある甲乙点を挿入した

「越後國村上の近所の山中、黑川村」現在の新潟県内には複数の「黒田」地区が存在するが、恐らくここに示されたものは(「高田領也」が不審であるが)そのほかの要件を総て満たす、現在の新潟県胎内市下館(旧黒川村)にある、国指定史跡「奥山荘城館遺跡・臭水油坪跡」の後者と推定する。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図を拡大すると、この地区には日本最古の油田跡である「シンクルトン記念公園」が併設されていることが判るが、新潟県公式観光情報サイト「にいがた観光ナビ」の「シンクルトン記念公園」の解説に、『自然に湧出した原油を、天智天皇(西暦』六四八『年)に献上したといわれている油つぼと』、『横たて穴の油井戸が当時のまま保存されており、日本最古の油田とされている』。『明治』六(一八七三)年、イギリス人『医師シンクルトンが来村し、採油法を指導したことから』、『公園が命名されている』とあり、その「シンクルトン記念館」では『日本最古の石油史資料、採油資料展示。ハイビジョンで旧黒川村(胎内市)の歴史や文化、胎内の大自然を紹介している』とあるからである(太字下線やぶちゃん)。リンク先の三枚目の写真が、この「油が池」であろう。さらに四枚目の写真を見られたい。まさに稲穂のようなもので採取した石油を扱いて桶に絞っている画像が見られるのだ! 最後にやっぱり「高田藩領也」というのが気になって仕方がない。飛び地領としても余りに離れ過ぎており、しかも資料を見てもここに高田藩の重要な飛び地領があったことを探し得ない。というより実はここはまさに黒川藩の藩領であったのだ。ウィキの「黒川藩」によれば、『越後国蒲原郡黒川(現在の新潟県胎内市黒川)に黒川陣屋を構え』、『付近を領有した藩』で、第五代将軍『徳川綱吉のもとで活躍した有名な側用人・柳沢吉保の長男・柳沢吉里が』、享保九(一七二四)年三月十一日、『甲府藩から大和郡山藩に移封された後の同年』閏四月二十八日に吉保四男である柳沢経隆が一万石を『与えられて立藩したのが始まりである。初代藩主・経隆は藩の支配体制を固めるため、同年』十月に三十四条に『及ぶ法度を制定した。ところが経隆は在職』一年あまり後の享保十年八月二十三日に死去してしまい、『そのため、跡を継いだ柳沢里済が経隆の遺志を受け継いで藩の基盤固めを行なったが、同年のうちに百姓の大友村惣左衛門らが江戸に税金・川下げ運賃御免などを求めて出訴、さらには年貢未納までもが相次ぐという非常事態が起こった。これに対し』、『里済は百姓を徹底して力で処罰し』た。享保十五年には『宿場人馬の制度を整備して藩の支配制度を定めた』。『ところで、黒川藩の財政基盤は』一『万石であったが、藩領は山地が多かったために新田開発が不可能であり、実質的な石高は』一『万石を切っていたとも言われている。おまけに歴代藩主のほとんどは江戸に定府していたために出費がかさんでいた。そのため、厳しい年貢増徴は勿論のこと、本家の郡山藩から借金してやり繰りする有様であった。しかし財政は悪化』の一途を辿り、天保一四(一八四三)年には五千両余りの『借金を抱えていたと言われている』とある。どこにもこの一角が高田藩領に分地されたことは書かれていない。識者の御教授を乞う。

「方十間余」十八メートル強四方。

「煑かへして」ゆっくりと温めて水分を蒸発させるのであろう

「臭水油(くさうづのあぶら)」石油。私の、文化九(一八一二)年刊橘崑崙随筆集「北越奇談 巻之二 古(いにしへ)の七奇(しちき)」に、「燃水(もゆるみづ)」が出る。そこでは冒頭にここに記す「人皇三十九代天智帝七年戊辰(つちのえたつ)」(ユリウス暦六六八年)の石油献上記録も、よりしっかりと記載されてあり、本文では遙かに詳しく述べられてあるので、必ず見られたい。但し、そちらの注でも不審を示したが、この記録は「北越奇談」では「日本書紀」とするのであるが、私の所持するものでは、それを確認出来ないのである。なお、リンク先には「燃水」の産地の一つとして「黑川館村(くろかはたてむら)」が挙げられてある。

「天智帝御宇、自越州可ㇾ代油薪之水土。」私の推定訓読を示しておく。

 天智帝の御宇に、越州より、油(あぶら)・薪(たきぎ)に代はるべきの水土(すいど)を獻(たてまつ)る。

この場合の「油」は菜種油等の植物性精油。

「薪(たきゞ)にかはる土(つち)」先の「北越奇談 巻之二 古(いにしへ)の七奇(しちき)」に、「燃土(もゆるつち)」として「燃水」(石油)の前に詳述されている。そこで私は以下のように注した。

   *

 この「燃土」は、永らく、「石炭」或いは「泥炭」とされてきたが(私は本文の叙述から今日まで何の疑問もなしに「石油」が染み込んだ腐葉土のようなもの思い込んでいたのだが)、近年の研究では、これは実は天然アスファルトnatural asphalt:土瀝青(どれきせい)。原油に含まれる炭化水素類の中で最も重質のもので、ここは地表面まで滲出した原油が、長い年月をかけて軽質分を失い、それが風雨に晒され、酸化されて出来た天然のそれ)であるとされている。既に縄文後期後半から晩期にかけて、日本海側の現在の秋田県・山形県・新潟県などで天然アスファルトは産出され、発見されており、縄文人はこれを熱して、後の項に出る石鏃(せきぞく:石製の鏃(やじり))や骨銛(こつせん:動物の骨(ほね)で出来た銛(もり))などの漁具の接着や破損した土器・土偶の補修などに利用していたのであった。

   *

私と同じように安易に思い込んで読み棄ててしまう諸君もいると思うので、敢えて太字で示した。

「出羽にて、これを燒〔やけ〕ば、燃〔もえ〕ざりし」理由不明。思うに、当地での燃える土の産出をアピールするための作話ではなかろうか。

「土中より掘出(ほりいだ)す薪(たきゞ)は、伊賀近江にもあり」これは石炭(ここの場合は以下に見るように亜炭(lignite)である。石炭の中でも炭化度の低いものを指す。石炭よりも水分・酸素の含有量が多く、炭素含有量が少ないので発熱量は低い)であるから、科学的には「燃える土」(天然アスファルト)とは異物。サイトさんち 〜工芸と探訪~」ら(伊賀焼土鍋ついページ)に、『三重県伊賀の土は、はるか』四百『万年前の琵琶湖の湖底に堆積してできた土です。太古の樹木が石炭化して生まれる亜炭(アタン)などを含み、火に強く細かな穴(気孔)がたくさんあるのが特徴です。火にかけると』、『気孔が熱を蓄えて中の食材をじっくりと温め、火から降ろしても保温性が高いのだそう。まさに土鍋にうってつけなのですね』とあるので、「伊賀」だけでなく、沾涼の「近江」もカバー出来る内容となっていると私は思う。特に亜炭の内でも木質亜炭は木理(きめ)を有し、灰分が少ないものの、採掘後、放置して乾燥すると、板状に湾曲して剥離してしったり、小片に破砕し易いと「ブリタニカ国際大百科事典」にはあるので、まさに沾涼の「石にあらず、土にあらず、木の朽(くち)たるやうのもの」と謂いに適合すると私は感ずる。

「二、三尺ほどにして」地表から六十一~九十一センチメートルほどの位置から。

『是を「ウニ」と云』この「ウニ」とは棘皮動物のそれと同じく「雲丹」と漢字表記をするようであるが、伊賀・伊勢・尾張地方での亜炭・泥炭等の品質の低い石炭の古称で、伊賀山中では古山(ふるやま)で採掘されていた。松尾芭蕉の、

 香にゝほへうにほる岡の梅のはな

の「うに」はまさにそれを詠んだものである。私の「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 香にゝほへうにほる岡の梅のはな 芭蕉を参照されたい。]

2018/07/14

和漢三才圖會第四十一 水禽類 都鳥 (ユリカモメ/ミヤコドリ)

 

Miyakodori

 

みやことり 正字名義未詳

都鳥

     【訓美也古止里】

 

△按都鳥大如鸕鷀白色唯嘴與脚正赤關東多有之畿

 内未有之人亦不食之有業平視都鳥於隅田川之語

 著聞集云【建長六年十二月】有獻都鳥於京師者因叡覽宮女

 有歌    すみた川すむとしききし都鳥けふは雲井の上に見る哉

 

 

みやこどり 正字・名義、未だ詳かならず。

都鳥

     【訓、「美也古止里」。】

 

△按ずるに、都鳥、大いさ、鸕鷀〔(みそさざい)〕のごとし。白色。唯、嘴と脚と正赤。關東に多く之れ有り。畿内に〔は〕未だ之れ有らず。人、亦、之れを食はず。業平(なりひら)、都鳥を隅田川に視るの語〔(かたり)〕有り。「著聞集」に云はく、『【建長六年十二月。】都鳥を京師〔(けいし)〕に獻〔(たてま)〕つる者、有り、因りて叡覽したまふ。〔そのをりの〕宮女〔が〕歌、有り。

 すみだ川すむとしききし都鳥けふは雲井の上に見る哉

[やぶちゃん注:これは体は「白色」であるが、嘴(くちばし)と後脚のみが正しく赤い鳥であるから、

鳥綱チドリ目カモメ科カモメ属ユリカモメ(百合鷗)Larus ridibundus

である。ウィキの「ユリカモメ」によれば、『ユーラシア大陸北部やイギリス、アイスランドなどで繁殖し、冬は南下しヨーロッパ、アフリカ、インド、東南アジアへ渡りをおこない越冬する。北アメリカ東海岸に渡るものもいる』。『日本では冬鳥として、北海道から南西諸島まで広く渡来し、小型のカモメ類の大半が本種である。ただし、北海道では厳冬期にはほとんど見られなくなる。主に、全国の海岸や河川、沼地などに普通に渡来する』。『全長は約』四十センチメートル、翼開長は約九十三センチメートル。『足とくちばしは赤色。夏羽は頭部が黒褐色になる(英名:Black-headed Gull)。冬羽は頭部が白く、目の後ろに黒い斑点があるのが特徴。ズグロカモメ』(カモメ科 Chroicocephalus 属ズグロカモメ Chroicocephalus saundersi)『と似ているが、ズグロカモメのくちばしは黒色で本種よりずっと短い等の違いで識別できる』。『海岸、内陸の湖沼や河川に比較的大規模な群を作』って『生活する。大きな河川では河口から』十キロメートル『以上も遡る。夜は海に戻り、沖合のいかだなどを塒』(ねぐら)『とする』。現在は普通に『京都市の鴨川でも多くの個体が観察される。鴨川のものは比叡山上空を通過し、琵琶湖で夜を過ごす。基本的にはカモメ科と同じく魚や甲殻類、オキアミを食べるが、カモメ科としては珍しく様々な環境に対応できるので雑食性で、近くに水草が生えている河川や池では昆虫や雑草の種子などを食べ、港では不要な捨てられた魚を食べ、時には人の食べ物や売られている魚を横取りすることも少なくない。その他に市街地や農村では人のゴミをあさるので同じく餌場にいるカラスなどの他の鳥と取り合いなどの喧嘩をすることもある。昼間は常に餌場近くにおり、夜間はこれとは異なる海上や湖で過ごす』。『栃木県では』一九七四『年以降、本種の記録が著しく増加している。宇都宮市と真岡市鬼怒川の記録によると、渡来時期は主に』四月と十から十一月にかけて『であり、渡りのときには内陸部を通過しているものと思われる』。『夏に繁殖するため、日本では基本的に営巣しない』。『日本の古典文学に登場する「都鳥」は、現在の和名が』、後に掲げる『ミヤコドリ(Haematopus ostralegus)である鳥ではなく、ユリカモメを指すとする説が有力である』。その根拠がまさに良安が挙げる「伊勢物語」第九段(通称「東下り」)の章段の知られた末尾の部分である(引用は私が独自に行った)。

   *

 なほ行き行きて、武藏の國と下(し)つ總(ふさ)の國との中に、いと大きなる河あり。それを「隅田河」といふ。その河のほとりにむれゐて、

「思ひやれば、限りなく遠くも來にけるかな。」

とわびあへるに、渡守(わたしもり)、

「はや舟に乗れ、日も暮れぬ。」

と言ふに、乘りて渡らむとするに、みな人、ものわびしくて、京に思ふ人、なきにしもあらず。

 さるをりしも、白き鳥の、嘴(はし)と脚(あし)と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ、魚(いを)を食(く)ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人、見知らず。渡守に問ひければ、

「これなむ都鳥(みやこどり)。」

と言ふを聞きて、

  名にし負はばいざこと問はむ都鳥

    わが思ふ人はありやなしやと

とよめりければ、舟、こぞりて、泣きにけり。

   *

『このように、「都鳥」は「隅田川にいる鳥で、体が白く、嘴と脚が赤い、シギ程度の大きさ、魚を食べる水鳥」とされているが、この条件に当てはまる鳥としてはユリカモメが最も近い。そのため、「都鳥=ユリカモメ」と推定されている。なお、ミヤコドリは嘴と脚が赤いものの』、『体色は黒(腹部を除く)であり、英語名(Oystercatcher)の通り、食性はカキなどの貝類を食べる。このように』、『両者は異なる』。『なお、現在の京都ではユリカモメは鴨川などで普通に見られるありふれた鳥であるが、鴨川に姿を見せるようになったのは』一九七四年のことであ』って、『それ以前は「京には見えぬ鳥」であった』とガッツリ書かれてある(太字下線やぶちゃん)。さればこそ、比較対照出来るように、チドリ目ミヤコドリ科ミヤコドリ属ミヤコドリ亜種ミヤコドリ Haematopus ostralegus osculans ウィキの「ミヤコドリ」にから引いておく。体長は四十五センチメートルほどで、『ハトより少し大きい。くちばしと足は長くて赤い。からだの上面は黒く、胸から腹、翼に白い部分がある』。『北欧、中央アジア、沿海州、カムチャツカ半島などで繁殖し、西欧、アフリカ西岸、中東、中国南部、日本にかけての海岸で越冬する。かつて日本では旅鳥または冬鳥として主に九州に渡来していたが、近年は東京湾でも定期的に観察されるようになった。海岸で小さな群れを作ってすごすことが多い』。『英名の「Oystercatcherとは、カキなどの二枚貝を食べる習性に由来している。くちばしは上下に平たくて先が鋭く、わずかに口を開けた二枚貝に素早くくちばしを差し込み、貝柱を切断して殻を開け、中身を食べる。ほかにカニやゴカイなども食べる』。なお、『カモメ科の「ユリカモメ」のことを古代・中世に「ミヤコドリ」と呼んでいたという説がある(古今和歌集に登場する都鳥など』)とあるが、現行、あらゆる古典教材及び参考書は、少なくとも「伊勢物語」のこのシークエンスの「みやこどり」は「ユリカモメ」と断定同定しているしかし私に言わせれば、この「ミヤコドリ」の解説は正当なのであって、例えば、最古の歌例で「万葉集」の唯一の「みやこどり」の詠草、巻第二十の大伴家持の一首(四四六二番)、

 舟競(ふないは)ふ堀江の川の水際に來居(きゐ)つつ鳴くは都鳥かも

を見ると、これは絶対にユリカモメであって、ミヤコドリではないとは鳥類学者でも断言出来ないと私は思う。寧ろ、この二種に江戸以前の日本人は「都鳥」の名を与えていたのだと考える方が自然である。されば参考書等がイラストや写真で一律に「ユリカモメ」を掲げて「都鳥」と断ずることには私は大いに問題があると考えている。二十年以上前、古文の参考書の「みやこどり」の絵が実際の「ミヤコドリ」になっている(詳細を思い出せないが多分そうだろう)のを間違いだと指摘して新聞にまで載った女子生徒の手柄話があったが、私はその時も、はなはだ違和感を感じたのを思い出すのである。

「鸕鷀〔(みそさざい)〕」スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes

『「著聞集」に云はく……」「古今著聞集」の「卷第二十 魚蟲禽獸」にある追加捕入の一条、「或殿上人右府生秦賴方(はたのやすかた)[やぶちゃん注:伝不詳。]の進じたる都鳥を橘成季に預けらるる事」である。新潮日本古典集成版(西尾光一・小林保治校注)を参考に、恣意的二に正字化して以下に示す。割注は概ね当該書の注を参照した。これを読むと、実は女房の代作として太政大臣藤原(西園寺)実氏が詠んだ歌であることが判る

   *

院[やぶちゃん注:後嵯峨天皇。在位は仁治三(一二四二)年から寛元四(一二四六)年。]の御隨身(みずいじん)右府生(うふせい)秦賴方、「みやこどり」を、ある殿上人に參らせたるを、成季[やぶちゃん注:橘成季(?~文永九(一二七二)以前に没)。従五位上・右衛門尉。大隅守・伊賀守などを歴任。本「古今著聞集」の著者(建長六(一二五四)年完成)。]にあづけられて侍り。くひ物などもしらで、よろづの蟲をくはせ侍るも、所せくおぼえて[やぶちゃん注:面倒に感じて。]、ゆゆしきもの飼ひ[やぶちゃん注:非常に珍しいものを飼っている人物。]なるによりて、小田河美作(おだがはみまさか)の茂平(しげひら)[やぶちゃん注:小早川茂平の誤り。暦仁(りゃくにん)元(一二三八)年に美作守。]がもとへ遣りて、飼はせ侍しを、建長六年十二月廿日[やぶちゃん注:ユリウス暦一二五五年一月二十九日。]、節分の御方違(おんかたたがへ)のために、前(さき)の相國(しやうこく)[やぶちゃん注:藤原(西園寺)実氏。後深草天皇生母姞子(きつし)の父。当時は太政大臣で六十一歳。]の富の小路の亭に行幸なりて、次の日一日、御逗留ありし。相國、みやこ鳥をめして、叡覽にそなへられけり。返し遣はすとて、少將の内侍[やぶちゃん注:左京権大夫藤原信実の娘。後深草院弁内侍の妹。]、紅の薄樣(うすやう)に歌を書きて、鳥につけて侍りける、

  春にあふ心は花の都鳥のどけき御代のことや問はまし

[やぶちゃん注:参考底本の訳に『あすは立春となりますが、春にめぐり合う気持にはなやぎます。さて、花の都の名を持つこの都鳥に天下太平のこの大御代の感想を尋ねたいものです』とある。]

大臣(おとど)、又、女房にかはりて、檀紙[やぶちゃん注:白い奉書紙のようなものを指す。]に書きて、おなじくむすびつけける、

  すみだ川すむとしききし宮こ鳥けふは雲井のうへに見るかな

[やぶちゃん注:参考底本の訳に『武蔵のすみだ川に住んでいると聞いた、その都鳥を、今日はうれしくも都の雲居(宮中)で見ることであります』とある。]

この事を兼直の宿禰[やぶちゃん注:卜部(うらべ)兼直。神道家で侍従・吉田神社禰宜・正三位。]、つたへ聞きて、本主[やぶちゃん注:持ち主。秦頼方。]に申しこひて見侍りて、返すとて、

   都鳥の芳名、昔、萬里の跡に聞く。

   微禽の奇體、今、一見の望みを遂ぐ。

   畏(かしこ)みて之れを悦ぶ餘り、

   謹みて心緖(しんしよ)を述ぶるのみ。

  にごりなき御代にあひみる角田(すみだ)川すみける鳥の名をたづねつつ

   前の參河の守卜部兼直 上(たてまつ)る

[やぶちゃん注:前書は原本では漢文のようである。「心緖」心の一端。歌は参考底本の訳に『政道の正しいこの大御代に幸いに生れあい、一見の望みも遂げました。すみだ川に住んでいたという都鳥にはその名にひかれて恋い続けていたのです』とある。]

   *]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 剖葦鳥(よしはらすずめ) (ヨシキリ)

Yosiwarazuzume

よしはらすゝめ 蘆虎【兼名苑】

剖葦鳥

        蘆原雀葭剖

        蘆鶯【以上俗称】

 

本綱【鷦鷯之下】剖葦似雀而青灰斑色長尾好食葦蠧亦鷦

鷯之類也倭名抄【兼名苑注】云巧婦鳥好割葦皮食中虫亦名

蘆虎

△按剖葦鳥【俗云蘆原雀】狀似倭𪄙大如雀青灰斑色長尾

 在田澤蘆葦中好食葦中虫其鳴喧聲高亮也天晴

 風静則愈群鳴蓋鷦鷯【-名巧婦鳥】與剖葦不一種【本草及和名抄

 爲一種非也】

 

 

よしはらすゞめ 蘆虎〔(ろこ)〕【「兼名苑」。】

剖葦鳥

        蘆原雀(よしはらすゞめ)

        葭剖(よしきり)

        蘆鶯(〔よし〕うぐひす)

        【以上、俗称。】

 

「本綱」【「鷦鷯〔(しやうれう)〕」の下。】、剖葦は雀に似て、青灰、斑色。長き尾。好んで葦の蠧〔(きくひむし)〕を食ふ。亦、鷦鷯の類ひなり。「倭名抄」【「兼名苑」の注に。】云はく、『巧婦鳥、好んで葦の皮を割〔(き)り〕て中の虫を食ふ。亦、「蘆虎」と名づく。』〔と〕。

△按ずるに、剖葦鳥は【俗に「蘆原雀」と云ふ。】狀、倭の𪄙〔(うぐひす)〕に似て、大ないさ、雀のごとし。青灰、斑色、長き尾。田澤の蘆-葦〔(あし)〕の中に在りて、好んで葦の中の虫を食ふ。其の鳴くこと、喧(かまびす)しき聲、高亮〔(かうりやう)〕なり。天、晴〔れて〕、風、静かなるときは、則〔ち〕、愈々、群鳴す。蓋し、鷦鷯【-名「巧婦鳥」。】剖-葦(あしはらすゞめ)と一種ならず【「本草」及び「和名抄」、一種と爲〔すは〕非なり。】。

[やぶちゃん注:鳴き声が特徴的な(私は姿も鳴き声も好き)、鳥綱スズメ目スズメ亜目スズメ小目ウグイス上科ヨシキリ科 Acrocephalidae のヨシキリ類(鳴き声と動画は例えばYou Tube ここ(オオヨシキリ)やここ(コヨシキリ))。本邦では、

ヨシキリ科ヨシキリ属オオヨシキリ Acrocephalus arundinaceus

ヨシキリ属コヨシキリ Acrocephalus bistrigiceps

の二種が夏鳥として渡って来る。両種とも背面は淡褐色で腹面は黄白色、オオヨシキリはおもに水辺のヨシ原など、コヨシキリは低地から山地の草原に棲息し、御椀形の巣を作る。いずれも東アジアで繁殖し、冬は南方へ渡る。本州中部以南に多いのはオオヨシキリで、繁殖期にはヨシ(単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis:「アシ」は同一種の異名で、「葦」「芦」「蘆」「葭」も狭義には総て同一種を指す)などに止まって「ギョッ、ギョッ」と囀ることから、「行々子(ギョウギョウシ)」の異名を持つ。個人サイト「お気楽バーダー」の「ヨシキリ」の写真が二種ともにあり、よい。カッコウ(カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus)によく托卵される。ウィキの「カッコウ」に、自分より大きいカッコウの雛に餌を与えるオオヨシキリの写真が載る。荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「ヨシキリ」の項によれば、『属名アクロケファルスはギリシア語で』『〈とがった akron kephalē〉のこと』でヨシキリ類の『頭頂の羽が突きでているためである』とある。

「兼名苑」唐の釋遠年撰の字書体の語彙集であるが、佚して伝わらない。但し、本邦の「本草和名」「和名抄」「類聚名義抄」に多く引用されてある。

「蠧〔(きくひむし)〕」これは狭義の鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae のキクイムシ類ではなく、ヨシなどの茎に寄生して食害する虫類(或いはその幼虫)を指している。

「鷦鷯」先行する記載では良安は本邦種としてはこれに「みそさざい」を当てている。「さざい」は、「小さい鳥」を指す古語「さざき」が転じたものであるが、狭義には現在、これはスズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes を指す。先行する鶖(とつしう)〔ウ〕」の「鷦鷯」の私の注を参照されたい。

𪄙」「鶯」の異体字。スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone

「高亮」原義は「志高く行いの正しいこと」であるが、ここは「声が高く澄んでいること」の意。

『蓋し、鷦鷯【-名「巧婦鳥」。】剖-葦(あしはらすゞめ)と一種ならず【「本草」及び「和名抄」、一種と爲〔すは〕非なり。】』先に掲げた荒俣宏「世界博物大図鑑」の「ヨシキリ」の項に(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『ヨシキリの』古い『中国名は相当に困難である』(現代中国語では「苇莺」で「葦鶯」である)。『《本草綱目》にある鷦鷯(しょうりょう)(ミソサザイ)』(先に挙げたミソサザイ Troglodytes troglodytes)『の項では、その』一『種としている〈剖葦〉を《爾雅》』(じが:中国最古の辞書。著者には諸説あり未詳。全三巻。紀元前 二〇〇年頃の成立)より引用紹介している(ただし『《爾雅》原文では〈』「」『の一種〉となっている)』(「鷯」は「たうりやう(とうりょう)」と読んでおく)。『しかし一般に、ヨシキリは中国の鷦鷯(一名、巧婦鳥)それ自身であるとの見解が江戸時代から普及していた。そのため』、それに意を唱えて良安はここで『両者を別種としている』のであるとある。さらに、『日本でつくられた』小野蘭山による「本草綱目」の『注釈書《重修本草綱目啓蒙》は、李時珍による剖葦の引用を誤りとし、《爾雅》の原文に〈鷯〉とあり、明らかに〈鷦鷯〉とは別種だ、としている』とある。また荒俣氏は続けて『《甲子夜話》の著者松浦』(まつら)『静山は、巧婦鳥の巣を実見した結果、それが蘆花でできており、精細巧緻なところから、俗名〈女匠〉〈巧婦〉(巣づくりの巧みな鳥)が出たと解釈している』(「甲子夜話」の原文は後日、暇な折りに探して追加する)。『また、南都では高い木に巣をつくるところから〈高見(たかみ)鳥〉という』とある。但し、「保草綱目」では『鷦鷯を巧婦鳥とよぶのは、鳩は性(セックス)が稚拙であり、鷦は性が巧みだからであるとして』おり、『また、《爾雅》では〈桃蟲(巧婦鳥の別称)は鷦(しょう)なり、その雌を鷯という〉と述べ、鷦鷯を雌雄』一『対の名としている』とある。以上の「本草綱目」(後の「爾雅」もそこに引用されているが、そこでは「鷯」は「」と表記されてある。因みに、この「」は「鷯」の異体字ではないものの、中文の字書サイトには「鷦鷯の雌」或いは「鷦鷯の別称」と書かれてある)の原文は「本草綱目」巻四十八の「禽之二」の「巧婦鳥」である。

   *

巧婦鳥【「拾遺」。】

釋名鷦鷯【「詩疏」。】桃蟲【「詩經」。】蒙鳩【「荀子」。】女匠【「方言」。】黃脰草【時珍曰、按、「爾雅」云、桃蟲、鷦。其雌曰。揚雄「方言」云、桑飛自關而東謂之巧雀、或謂之女匠。自關而西謂之襪雀、或謂之巧女。燕人謂之巧婦。江東謂之桃雀、亦曰有母。鳩性拙、鷦性巧、故得諸名。】

   *

ともかくも、良安は自分が既に同定比定している「鷦鷯」=スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes と、この「剖葦鳥」=スズメ目スズメ亜目スズメ小目ウグイス上科ヨシキリ科 Acrocephalidae のヨシキリ類は全くの別種であると主張していることになり、これはすこぶる正当な謂いであることが判るのである。]

明恵上人夢記 66

 

66

 初夜の行法、子夜の行法、後夜の坐禪、早朝の行法、餘時の隨意の坐禪。

               朝合三度

 承久二年 同八月十一日 遮失顯德

            三時始之

一、七月、

一、同九月廿日の夜、夢に云はく、大きなる空の中に羊の如き物有り。變現窮り無き也。或るは光る物の如く、或るは人躰(じんたい)の如し。冠を着け、貴人の如く、忽ちに變じて下賤の人と成り、下りて地に在り。其の處に義林房有り、之を見て之を厭(いと)ひ惡(にく)む。予之方へ向ひて將に物云はむとす。予、心に思はく、是は星宿の變現せる也。予、之を渇仰(かつがう)す。願はくは不審を決せむ。卽ち、予に語りて曰はく、「多く人之(の)信施を受くべからず。」。卽ち、之を領ず。予、問ひて云はく、「予の當來之(の)生處(せいしよ)は何所(いづこ)か。」。答へて曰はく、「忉利天(たうりてん)也。」。問ひて曰はく、「彼(か)の天に生じて、已に五欲に就著(しゆうぢやく)せずして、佛道を修行せむか。」。答へて曰はく、「尓(しか)也。」。天の云はく、「尓(なんぢ)は頭(かうべ)を燒くべからざるか。」。答へて曰く、「尓也。」。心に思はく、『後生(ごしやう)吉(よ)くして此(これ)を志さば、何にてもありなむ。現世に人の前にて、何とも在るべくはこそはと云はる。』と思ふ。又、白(まう)して言はく、「常に此(かく)の如く護持せしむべし。」。答へて曰はく、「尓也。」。卽ち、覺(さ)め了(をは)んぬ。

[やぶちゃん注:底本注に、『以下』、ずっと後の「同八日の夜、山の峯に於いて、遙かなる海の上を見ると云々」『まで「明恵上人夢記」と題する一冊』とある。冒頭部は明恵が自身に課した厳重な勤行既定のメモであるが、それが夢の前に配されていることは、その覚悟が、その後に見た自身の夢と密接な関係性を持っていると明恵が強く認識していることを示している。

「初夜」通常ならば、初夜は六時(仏家に於いて一昼夜を晨朝(じんじょう)・日中・日没(にちもつ)・初夜・中夜・後夜(ごや)の六つに分けたもの。この時刻ごとに念仏や読経などの勤行を行う)の一つである戌の刻(現在の午後八時頃)に行う勤行のことである。

「子夜の行法」「子夜」は「しや」と読んでおく。「子(ね)の刻」のことで午前零時頃に行う勤行。「中夜」は現在の午後十時頃から午前二時頃までの広汎な時制を指すので、それと同じと考えてよい。

「後夜の坐禪」現在の午前四時頃に行う座禅。「朝合三度」はこれの左注と採るならば、朝と合わせて三度の座禅ということか。ということは、朝は二度定期の坐禅を行っているということであろうか。よく判らない。

「餘時」その他の時間。

「承久二年 同八月十一日」ユリウス暦一二二〇年九月九日。「承久の乱」の前年である。

「遮失顯德」よく判らぬが、「遮失」が「遮二無二」の「遮」と同義であるとすれば、「失を断ち切る」の意で「不断に」の意か。「顯德」は仏法の徳を顕かにすると採れば、そうした厳しい徹底した勤行をこの日、「三時始之(三時(さんじ)、之れを始む)」(「三時」は先の六時の晨朝 ・日中・日没 の昼三時と初夜・中夜・後夜の夜三時を指すから、イコール、全日を指す)で、完全に隙間なく開始したという意か。

「一、七月」以下何も書かれていないから、前の時制よりも前の七月に見た夢を記そうとして、そのままになったものか。

「同九月廿日」ユリウス暦十月三十日。

「義林房」既出既注であるが、再掲しておく。明恵の高弟喜海(治承二(一一七八)年~建長二(一二五一)年)の号。山城国栂尾高山寺に入って明恵に師事して華厳教学を学び、明恵とともに華厳教学やその注釈書「華厳経探玄記」の書写校合に携わった。明恵の置文に高山寺久住の一人として高山寺の学頭と定められ、明恵の没後も高山寺十無尽院に住した。明恵一次資料として重要な明恵の行状を記した「高山寺明恵上人行状」は彼の手になる。弟子には静海・弁清などがいる(以上はウィキの「喜海」に拠る)。この奇妙な挿入シークエンスは、明恵のこの弟子に対するというよりは、彼に代表される諸々の明恵の弟子たち総てに対する、明恵の潜在的な不満或いは心的複合(コンプレクス)がシンボライズされているように読める。

「渇仰」深く仏を信じること。咽喉の渇いた者が水を切望するように仏を仰ぎ慕う意。「かつぎやう(かつぎょう)」と読んでもよいが、私は一律、「かつごう」と読むことにしている。

「不審」何故に、わざわざ私の現前にかくも現われたのだろうという明恵の疑問。

「信施」信者が仏・法・僧の三宝に捧げる布施。「しんぜ」と読んでもよいが、濁音化はこの語の場合、私は生理的に嫌いである。

「領ず」諒承した。

「忉利天」仏教の世界観に現れる天界の一種。忉利はサンスクリットのトラーヤストリンシャ (或いはその俗語)の漢音写。「三十三天」と意訳する。須弥山(しゅみせん)の頂上には、帝釈天(インドラ)を統領とする三十三種の神が住んでおり、中央に帝釈天、四方にそれぞれ八天がいるので、合計三十三天となる。殊勝殿や善法堂をはじめ、数々の立派な建物・庭園・香樹などを備わり、一種の楽園としてイメージされている。釈迦の母が、死後、ここに転生したため、釈迦が彼女に説法するために、一時、ここに昇り、帰りに三道宝階によって地上へ降ったとされる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「五欲」原義は眼・耳・鼻・舌・身が存在することから生ずる五種の欲望。色欲・声欲・香欲・味欲・触欲であるが、判り易く別に示されるものは財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲である。

「尓(しか)也」その通りである。請けがう台詞。

「當來之生處は何所か」来たるべき来世の私の生まれ変わることになっている時空間は何処か?

「尓(なんぢ)は頭(かうべ)を燒くべからざるか」「お前は自身の脳味噌を焼かないことはないか?」か。所詮、「人としての下らぬ智などを惜しまぬことはないか?」、さらには「人としての命を失ってしまうことを惜しむような気持ちはないか?」という意味で採る。

「後生(ごしやう)吉(よ)くして此(これ)を志さば、何にてもありなむ。現世に人の前にて、何とも在るべくはこそはと云はる」――『「死後の後生が仏法に則(そく)して善きものとなる」と心から信じているならば、この現在の仮象でしかないお前がどうなろうとよいのが真理である。現世に於いて、相対的な他者に対して、何かの存在であろうなどという考えることは、それこそ、全く無意味なことである』と仰っておられるのであろう。――という意味か。]

□やぶちゃん現代語訳

66

◎初夜の行法・子夜の行法・後夜の坐禅(朝と合せて三度となる)・早朝の行法・その他の時間の随意の坐禅

◎承久二年 同年八月十一日 徹底した厳格な勤行(それを日々完全に始動した)

 

○七月にこんな夢を見た――

[やぶちゃん注:以下、記載なし。]

 

○同承久二年九月二十日の夜、こんな夢を見た――

 

……大きな虚空の中(うち)に、羊の如き「なにもの」かが存在しているのが見える。

 それは――変現の窮りなき、しかし、確かな存在――である。

 それは、或いは「光るもの」のようでもあり、また、或いは人間の姿のようでもある。

 冠(かんむり)を被り、貴人の如くであったかと思えば、忽ち変じて下賤の民草の姿ととなり、そうして地上へ下って、「しっか」と立った。

 その附近には、私の弟子義林房が立っていたのが見えるのであるが、その「なにもの」かは、これを見て、義林房のことを――或いは、そこに義林房いることを――何故か、厭(いと)い憎んでいることが、ありありと私には感ぜられた。

 そうして、その「なにもの」かは私の方に向かって、まさに何かを言わんとした。

 その時、私が心に思ったことは、

『これは! 仏菩薩を守護なさる星宿の変化示現(へんげじげん)されたものである! 私は、それを心から信ずるものである! 願わくは、「何故に、かく畏くも、私の現前に現われなさったものか?」という、大いなる疑問を、これ、明らかにせずんばならず!』

という切実な思いなのであった。

 すると、直ちに、「そのお方」は私に仰せられた。

「あたら、多く人の信施(しんせ)を受けてはならない。」

 私は即座に、その命を肯(がえん)んじた。

 そうして私は「そのお方」にお訊ねした。

「私めの、来たるべき来世の存在する所は何処(いづこ)にて御座いますか?」

と。

 「そのお方」は答えて仰せられた。

「忉利天(とうりてん)である。」

と。

 「そのお方」は即座に再度、私にお問いになれた。

「汝(なんじ)は、かの忉利天に転生し、既に五欲に執着することなくして、正しき仏道を修行する覚悟があるか?」

と。

 私は答へて申し上げた。

「その通りで御座います。」

と、しっかりと。

 「天の星宿の権現なるお方」が、また、お問になられた。

「汝は汝の脳髄が焼き尽くされて消滅することを恐れぬか?」

と。

 お答えした。

「その通りで御座います。」

と、しっかりと。

 その瞬時、私が心に思ったことは、

『これは――「後生(ごしょう)が仏法に則(そく)して善(よ)きものとなる」と心から信じているのであるならば、この現世のお前という存在がどのようになろうと、そんなことは、どうでもよいことなのである。現世に於いて他者の前にあって、何らかの存在であろう、ありたい、などと思うことは、これ、全く無意味なことなのである――という真理を仰せられているのだ!』

という確信であった。

 そうして「そのお方」は最後に、また、仰せられた。

「常に、かくの如く、正法(しょうぼう)を護持するがよいぞ。」

と。

 私は自信を持ってはっきりと答えた。

「その通りで御座います!」

 

 その瞬間、私は夢から醒めていた。

 

2018/07/13

進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(二) 二 溫度による變異

 

    二 溫度による變異

 

 溫度が動植物の發育に直接の影響を及ぼすことは、最も明なことで、同一の植物でも、暖い處と寒い處とでは、葉の大きさ厚さなどに著しい相違がある。動物の方で特に面白いのは、溫度と彩色との關係で、蝶類の如きは寒暖の度に隨ひ、種々の異なつた色を呈する種類が甚だ多い。我が國に産する「あげは蝶」の類も、春出るものと夏出るものとでは、色も大きさも餘程違ふ。「ひおどし蝶」の類も溫度次第で、種々の斑紋・彩色を現し、從來二種或は三種と見倣されてあつたものが、飼養實驗の結果、同種に屬することの確に解つた例が幾らもある。前に第五章に掲げた黃蝶の如きもこれと同樣な例で、飼養實驗によつて、始めてその悉く一種であることが明に知れた。

[やぶちゃん注:「蝶類の如きは寒暖の度に隨ひ、種々の異なつた色を呈する種類が甚だ多い」所謂、「季節型」と呼ばれる季節性個体変異。中日新聞平針専売店 ㈱村瀬新聞店 大角サイト季節型」にアゲハチョウを含め、何種かのそれが写真で掲載されているので、見られたい。

「あげは蝶」鱗翅目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae のウラギンアゲハ亜科 Baroniinae・ウスバアゲハ亜科 Parnassiinae・アゲハチョウ亜科 Papilioninae に属するアゲハチョウ類。我々が普通に目にし、イメージするそれはアゲハチョウ亜科アゲハチョウ族アゲハチョウ属亜属Papilio (Sinoprinceps)アゲハ Papilio xuthus である。

「ひおどし蝶」アゲハチョウ上科タテハチョウ科タテハチョウ亜科タテハチョウ族タテハチョウ属ヒオドシチョウ Nymphalis xanthomelas

「第五章に掲げた黃蝶」「第五章 野生の動植物の變異(2) 一 昆蟲類の變異」に例示した鱗翅目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目アゲハチョウ上科シロチョウ科モンキチョウ亜科キチョウ属キチョウ Eurema hecabe(但し、厳密には現行では二種。リンク先の私の注を参照されたい)。]

 

Hitorimusinoheni

 

[「ひとりむし」の變異]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた。左右に番号が振られているのは、右手がページの綴じ込みで見難いかも知れないとの配慮に違いない。ちょっと感動した。丘先生! 素敵! 「ひとりむし」は本邦産種ならば、鱗翅目有吻亜目二門下目ヤガ上科ヒトリガ科ヒトリガ亜科ヒトリガ属ヒトリガ Arctia caja であるが、これは科レベル(Arctiidae)での、その仲間としておく方が無難であろう。]

 

 斯くの如く、蝶類の色や模樣は溫度次第で種々に異なるもの故、人工的に溫度を加減して飼養すれば、夏に出るべき形のものを冬に造り、秋に出るべき色のものを春に造ることも、決して困難ではない。尚この方法によつて、實際天然には生存して居ないやうな變つた蝶を造ることも出來る。この種類の實驗で最も古く行はれたのは、已に前世紀の中頃であるが、たゞ溫度の高低によつて、蝶の彩色に種々の變異の起ることを實地に試驗しただけで、その新な性質が子に傳はるものであるや否やまでは試驗して見なかつた。その後今より十數年前に至つて、フィッシュルといふ人が頗る多數の材料を用ゐて同樣の實驗を試み、且溫度の高低によつて人爲的に造つた變種を更に繁殖せしめて、初めてかやうな後天的の性質が確に子に傳はることを證據立てたのである。次[やぶちゃん注:ここでは前に掲げた。]に示す圖の中で㈢は「ひとりむし」と名づける蛾の一種で、普通にはこの圖に見る如き斑紋が翅にあるが、之を卵の時から溫度を高くして育てると、終に成長して㈡の如き黑色の勝つた變種が出來る。次にこの黑色の勝つた變種に卵を生ませ、之を普通の溫度の所で飼育したら、㈠に示す如き蛾と成つた。これはその親なる㈡に比べると、黑い處が幾分か減じて居るが、㈢なる普通のものに比ベて見ると、尚著しく黑色が勝つて居る。卽ち、㈡なる親蛾は、溫度の高い所で飼育せられたために、その影響を受けて、普通のものよりは遙に黑色が勝つたといふ新な性質を獲たが、その産んだ卵を普通の溫度の所で育てて見て、それから出た蛾が、普通の㈢に比べて尚著しく黑いのは、全く以上の後天的の性質が親から子に傳へられたものと考へねばならぬ。從來用ゐ來つた普通の意味でいへば、之は確に後天的性質の遺傳であつて、若し之を遺傳と名づけぬとすれば、遺傳といふ字の意味を改めて、特別の極めて狹いものとせねばならず、隨つて從來遺傳と稱し來つたことの大部分は、その範圍以外に出てしまふであらう。

[やぶちゃん注:「フィッシュル」不詳。識者の御教授を乞う。]

諸國里人談卷之四 塩泉

 

    ○塩泉(しほのいづみ)

下野國日光山の北、七、八里がほどに栗山(くり〔やま〕)と云〔いふ〕溫泉あり。此所の山に少しの洞(ほら)あり。此滴(したゝ)り潮(しほ)水也。燒(やか)ずして、その儘に食物(しよくもつ)につかふに、味ひ、燒(やき)たる塩のごとし。弘法大師の加持ありし所と云り。此所は至極の山中にて、海邊(うみべ)へは四日路(ぢ)を過〔すぎ〕たり。米穀の貧しき所也。

此溫泉は諸々の痔の病ひを治(ち)す事、神變なり。

[やぶちゃん注:塩泉連投。前条でも紹介した「たばこと塩の博物館だより」の同館学芸員高梨浩樹氏の第十五回『「移動」をともなわない塩適応(その2)』に、『栃木県塩谷郡栗山村』(現在の日光市栗山。(グーグル・マップ・データ)。東照宮の北山間部、湯西川の南)として、松浦静山の「甲子夜話」に『「塩泉の水を食物に用いれば焼塩と変わらない味だという」と記述があ』り(甲子夜話電子化注手掛てお、全巻所持するが、膨大な量なので当該項は今は探さない。判ったら、ここで追加して電子化する)、「諸国里人談」にも『この塩泉は「焼かずにそのまま調理に使っても、甘い焼き塩のようだ」と記述がある』と本条が紹介されてある。しかし、ここでの製塩については、少なくともネット上ではロクな記載は見当たらない。今のうちに採話しておかないと、永久に謎になりそうな気がする。]

諸國里人談卷之一 塩の井

 

    ○塩の井

陸奧國會津若松より米澤への往還、「六十里越(こへ[やぶちゃん注:ママ。])」といふ山の梺(ふもと)に、大塩といふ驛(むまぢ)あり。若松より五里余、此所、町の川岸に、「潮(うしほ)の泉(いづみ)」、大小、二ケ所あり。大木を刳(くり)て、底なき桶のごとくにして、その泉を、かこふ。此木、年來(ねんらい)、塩に朽(くち)て岩のごとし。此潮(うしほ)を汲(くみ)て塩に燒く也。民屋(みんをく)、七、八十軒、皆、塩を燒(やき)て産とす。此所より、海邊(かいへん)へ四日路(ぢ)より近きはなし。唐(もろこし)雲南省・四川省にある所の塩井も是也。○夏、此潮(うしほ)を浴(あび)て乾(かはけ)ば、惣身(そうしん)より塩のこぼるゝ事、燒(やき)たる塩のごとし。又、浴衣・手拭等(とう)に「さらさら」と塩のこぼるゝなり。

[やぶちゃん注:本条の挿絵がに載る(①)。海塩でない、内陸産の塩である。塩分を含んだ地下水や塩泉の温泉水を汲み揚げて煮詰めて作るもの。「たばこと塩の博物館だより」の同館学芸員高梨浩樹氏の第十五回「移動」をともなわない塩適応(その2)(及びそこからリンクされている前回分)を見ると、我々の知識としては馴染みの薄い、本邦の内陸性製塩の歴史が垣間見えてきて、必見である(本条関連と思われる西会津の事例も見られたい)。また、そこでも紹介されてある、長野県下伊那郡大鹿(おおしか)村(海のない同県でしかもこの村の標高は七百五十メートルである)の塩泉製塩については、「JA長野」公式サイト内の塩水の湧泉から採取される大鹿村の山塩の謎に詳しく、その歴史は古く、伝承では、『太古の昔、信濃の国を開拓した建御名方命(たてみなかたのみこと)が狩りをしたとき、鹿など動物が集まる水場を調べると、そこは「塩泉(しおせん)」であったと、伝えられて』いるとし、史実上は『ひも解くと、西暦』八百『年代にまでさかのぼ』るとして、『当時、上下諏訪社の領地として管理され、塩を産出するこの地には、多くの牧場が作られ、貴重な塩分が与えられた良馬が育ち、諏訪社の祭りや農耕に重宝されていたと伝えられて』いるという(『草食動物は、尿と一緒にカリウムと多量のナトリウムが出ていくため、補うためにどうしても「塩」が必要にな』る)。『南北朝地時代になると、後醍醐天皇の第八皇子「宗良(むねなが)親王」が大鹿村に住み、親王を護衛する城が作られ』るが、『その中のひとつ、「駿木(するぎ)城」では、護衛と同時に、この塩を守ることも重要な任務で』、『この駿木城の遺跡からは、塩を作っていた製塩の様子を伝えるものも見つかってい』るとある。『江戸時代になると、塩を「塩壷(しおつぼ)」で製塩するようになり』、明治八(一八七五)年に『旧徳島藩士である黒部鉄次郎という人物を中心に岩塩を見つけようと』、『大きな夢を抱いた人々が鹿塩地区へやってきます。後に「白い鉱山師(やまし)」と呼ばれる彼らは、塩水を煮詰めるなどの製塩事業をしながら、山を掘り』、『岩塩発見に執念を燃やしますが、結局発見でき』なかった。則ち、何故、この大鹿『村に塩水が湧き出るの』『か』は、『実は』、『その理由は』現在も『解明』されていないのであり、まさに『これは、神秘の塩なの』だとある。うん! ゼッタイ、この塩、欲しい!!!

「六十里越」現在の新潟県魚沼市と福島県南会津郡只見町との間にある峠。(グーグル・マップ・データ)。最高標高は八百六十三メートル。

「大塩といふ驛(むまぢ)」(「むまぢ」は「馬路」の当て読み)「大塩」の宿場名に拘るなら、六十里越と会津若松(「若松より五里余」は短過ぎるが)とのスパンを考えると、福島県大沼郡金山町大塩としか私には思われない。(グーグル・マップ・データ)。

「此所より、海邊(かいへん)へ四日路(ぢ)より近きはなし」この大塩村から海辺に辿り着くまでには、どの道を通ったとしても、丸四日の行程がかかり、それ以上近い位置には海辺はない。

「唐(もろこし)雲南省・四川省にある所の塩井」雲南省の例は個人ブログの「中国貴州省とそこで暮らしている苗族トン族等の少数民族を紹介しています。」の雲南省の塩造がよい。それによれば、『雲南省の各地では、意外にも多くの場所で塩が採れ』、『雲南の塩は岩塩ではなく』、『井戸などから汲み上げた塩分を含んだ水を煮詰めて造る所が多いよう』だとある(製塩写真有り)。同ブログには別に雲南省楚雄市石羊鎮の塩造りもあり、そこでは本邦の流下式塩田の装置に酷似したものを画像で見ることが出来、必見。四川省については、九江論文(水盛涼一四川盆地における古代の塩業技術 考古遺跡や遺物を焦点として――PDF)によれば、製塩が太古の昔まで溯れ、『四川盆地内の塩はおおむね井塩』(せいえん)『の形式であり、ほかに少量の岩塩が存在する。四川盆地での井塩生産の歴史はとても長く、考古的発見からみれば、現在の状況からしても少なくとも今から四千五百年ほど以前の新石器時代晩期にまで溯ることができ』、『その長い歴史もあって古代における煎熬』(せんごう:製塩に於いて塩水を濃厚にして得た鹹水(かんすい)を煮つめて塩を製すること)『採塩技術の際立つ代表となっている』とあり、『近年』、『考古学発掘隊は相次いで重慶市忠県の中壩遺跡』を始めとした遺跡群に於いて、『一連の塩業に関する考古調査や試掘』を進めており、『これら塩業遺跡の周辺の地域での発掘活動においても少々ながら古代の塩業に関する考古学的発見があった。この一連の発掘により得られた重要な成果により、四川盆地の井塩の発展の歴史研究は大きく前進し、おおむね古代』、『なかでも先秦時代における塩生産工程が解明され、古代の井塩技術の歴史研究はさらなる高みに到達したのであった』とある。また、ウィキの「自貢市(現在、四川省の重要な化学工業基地の一つ)によれば、同地区は『古代よりこの地で産出される「井鹽」(井塩)という塩は貴重なものとして各地へ売られ、製塩業や塩の売買、塩に関係する工業で財をなした富裕な商人が多く住んだ。近代的な製塩技術が導入されるまでは、製塩と塩取引で栄える自貢は中国でも豊かな都市の一つであった』とあり、事典類にも、自貢市は古くから岩塩の産地として知られ、塩井が多く、製塩が盛んなため、「塩都」の称があり、現在も四川産塩の二分の一以上を同市が産しているとか、戦国末期から塩井を掘り、天然鹹水を汲み上げて煮つめ、井塩を採取しきた。唐代になると規模も拡大され、各王朝は塩税を課して塩の専売を行った。また、塩井とともに「火井(かせい)」と呼ぶガス井(せい)から天然ガスを採取し、それをまた、塩の精製に利用してきたとある。

「惣身(そうしん)」「總身」。]

2018/07/12

帝銀事件

私が20代の頃に出遇った老人は私の帝銀事件の推理を微笑しながら黙って聴いておられたが、最後に「君の推察は概ね正しい。……私が死んだら、私の手帖をあげましょう」と言った。そうして「あの事件だけは真実が語られなければいけない……」と呟いた――彼は敗戦前後の内務官僚であった…………

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 ヱゴダイ (コショウダイ? コロダイ?)

 

ヱゴダイ

 

Egodai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。体が膨らまずに側偏して見えること、背鰭と尾鰭の小さな暗色斑が散在すること(これが和名の胡椒鯛の由来)、眼の位置が上吻より有意に高い位置にあることから

スズキ目スズキ亜目イサキ科コショウダイ属コショウダイ Plectorhinchus cinctus

を考えたが、決定打の体側にあるはずの三本の灰色の斜走帯がないのがダメだ。しかし、「WEB図鑑」の「コショウダイの解説に『背鰭と尾鰭が黄色味を帯びることがある。また、稚魚では体が茶色』いとあるのは、あってるじゃないか! 「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「コショウダイの異名欄に「エゴダイ」もあるぞ! と力づいてきた。そこでふと、この図、見たことがある気がして、「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年平凡社刊)を開いて見たら、あった! 田中誠氏(東京衛生局)の「栗本丹洲」のパートの図(百九十八ページ)に載っていた。キャプションを見るとおう! 『コショウダイ?』とあった! と……ここで悠然と「コショウダイ?」で標題しようと思ったのだが、ここで今度は「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「コショウダイに『コロダイと呼び名などで混同があり、コロタイ、コロダイと呼ぶ地域がある。またコロダイをコショウダイという地域もある』という一文が眼に入ってしまった。そこで「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「コロダイ」を見た。コロダイも「エゴダイ」の異名がある!

スズキ目スズキ亜目イサキ科コロダイ属コロダイ Diagramma picta

だ……『側扁し、灰青色に黄色い斑文が散らばる』とあるし……なんか、似てる!……「WEB図鑑」の「コロダイ」も見る……トップの写真! 似てるし!……縞いらねえし!……うへ~! 二種候補併記で手打ち!]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 スミヤキダイ 石ダイノ類 (不明)

 

スミヤキダイ 石ダイノ類

 

Sumiyakidai2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。かなり魚相が悪いなぁ……体色もやけにしっかり黒々してる……魚体の形状も妙に体高さが高い……どうも前の「スミヤキダイ」スズキ目スズキ亜目イシナギ科イシナギ属オオクチイシナギ Stereolepis doederleini とは似てないし……しかもこれ、先の「スミヤキダイ」の真下に並べて貼り付けてある分、余りに相違点が目立ち過ぎる……う~ん、判らん! 体高が異様に高いことと、黒いという点では、

スズキ目スズキ亜目イサキ科コショウダイ属クロコショウダイ Plectorhinchus gibbosus

が思い浮かんだが、特徴の一つである、上顎が有意に突出していて非常に厚みがあるべきところが、ないからなぁ……ただ、未成魚の写真を見ると、それほど分厚くなく、白い口辺が、この図と似てなくもない(例えば、「WEB魚図鑑」の)。ただね、このクロコショウダイは眼が真ん丸で、こんなに悪相じゃあないんだよなぁ……お手上げ!]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 スミヤキダイ (オオクチイシナギ)

 

スミヤキダイ

 

Sumiyakidai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。

スズキ目スズキ亜目イシナギ科イシナギ属オオクチイシナギ Stereolepis doederleini

でよかろう。別名に現行でもスミヤキダイもある。本邦では各地に分布し、通常は深さ四〇〇~五百メートルの岩礁域の深海に分布するが、産卵期には百五十メートル程度の深さまで上がってくる。幼魚は水深八十~二百メートル附近から漁獲される。図ではちんまいが(幼魚かも知れない)、成魚は二メートル前後と甚だ巨大になる。美味い魚であるが、肝臓には大量のビタミンAが含まれており、知っていて少しにしようと思っても、味わいがいい(私も試しに食べたことがあるが、実際、美味い)ためについ食が進んでしまうことから、急性のビタミンA過剰症(食中毒)を起こす虞れは高い。症状は「激しい頭痛・嘔吐・発熱・全身性皮膚落屑(はくせつ)」等であり、食後三十分から十二時間程度で発症する。]

譚海 卷之二 安永八年八月江戸幷日光山大雨風洪水の事

 

安永八年八月江戸幷日光山大雨風洪水の事

○安永八年八月廿五日、大雨風洪水、其夜神田和泉橋落(おち)たり。目白下の水道の懸樋(かけひ)の岸二十間ほど崩(くずれ)たるに樋の口埋(うづま)る。仍(よつ)て樋の口を掘出(ほりいだ)す際、井の頭水筋(みづすぢ)に付(つけ)たる江戸の水道通ぜず。廿日餘り井の水に渇し、日々本所より水をくむ事にて、兩國橋の上(うへ)乾く事なし。同時下野日光山大風雨にて、御宮御修覆御用に登山(とうさん)致居(いたしを)られし、山口忠兵衞と云(いふ)人の居(をる)小屋のうしろにある大木、根よりぬけいで小屋へ倒れかゝり、右忠兵衞主從三人、鼠のをとしにひしがれたる如く暴死(ぼうし)す。中禪寺の稻荷の社、風に卷去(まきさ)られて行方(ゆくゑ)を知らず。中禪寺より初石邊まで往還の道、杉の葉にて埋(うづま)り、道みえぬ程也。日光開闢已來未曾有の大風と申(まうし)あへり。又天明元年七月十二日、江戸大風雨にて、翌十三日洪水、新大橋・永代橋を押流(おしなが)し、淺草新堀ばた水入(みづいり)、家の床(ゆか)を浸し、三味線堀邊は下谷(したや)御步行町(おかちまち)幡隨院店(ばんずゐんだな)のあたりまで水あふれ來り、四五日の間往來のもの脚(あし)の三里まで水にひたり、潮(しほ)のさしくる時殊にふかく成(なり)て難儀せり、新吉原土手むかふ、洪水海の如く、大門の内へ水おし入らんとせしが、衣紋坂(えもんざか)きれざるによりて幸(さひはひ)に無難なる事なり。

[やぶちゃん注:サイト「防災情報新聞」に、安永八年八月二十四~二十五日(グレゴリオ暦一七七九年十月三日~四日)にかけて、東海を中心に関東・東北で暴風雨・洪水があった記録が載る(太字下線は私が附した)。

   《引用開始》

 台風によるものか、東海地方を中心に、関東、東北にかけて暴風雨になった。

 林春齋が編集した歴史書「続日本王代一覧」によれば、929日(旧暦820日)から大雨が連日降り続き、103日~4日(824日~25日)になると暴風雨となり、羽州(山形県)米沢、奥州(岩手県)盛岡、同(宮城県)仙台、常陸(茨城県)、下野(栃木県)、上総(千葉県)の各地の河川が氾らんし洪水となる4日(旧25日)江戸では、神田川が氾らんして和泉橋が落ち、目白下の水道の掛樋の堤が20間(約36m)ほど崩れて、小日向、水道町の道路が5尺(1.5m)ほど冠水した(武江年表)

 中でも東海地方の被害は大きく、三州(愛知県)岡崎では大洪水となり“城下近郷の民家ことごとく漂流”し、40万石余の収穫に相当する田畑が水没したという。ほとんど全滅である。[やぶちゃん注:以下、略。]

   《引用終了》

「神田和泉橋」(グーグル・マップ・データ)。

「目白下の水道」神田上水の取水口であった目白下大洗堰。東京都立図書館によれば、『井の頭池や善福寺池などから引かれた水が、この堰で』二つに分かれ、『上水として必要な分は水戸徳川家の御屋敷に送り、その後地下を通って江戸中に配水され、余った水はここで江戸川に落とされた』とあり、『この設備が設けられたのは三代将軍・家光の時代で』あったとある。リンク先では斎藤長秋(ちょうしゅう)編・長谷川雪旦画の「江戸名所図会」(天保五(一八三四)年~天保七(一八三六)年刊)第四巻の「目白下大洗堰」の挿絵が見られる。 (グーグル・マップ・データ)にあった。

「二十間」三十六メートル三十六センチ。

「山口忠兵衞」不詳であるが、小杉放菴記念日光美術館作成「日光歴史年表」に、元和六(一六二〇)年六月に『山口忠兵衛常信が日光目代となる』とある(寛永八(一六三一)年七月二十六日に『山口忠兵衛が没』ともある)から、この人物の後裔であろうと思われる。因みに、同年表のこちらで、この大災害のあった三ヶ月後の同安永八(一七七九)年十一月十三日、『日光山の諸堂社の修復が成り、正遷宮・正遷座』とあるから、それがせめてもの、この「山口忠兵衞」ら三名への手向けととなったものとは思う。

「鼠のをとし」「鼠落とし」で鼠取り。餌を食うと重量のある上乗せが落下して圧殺するタイプのものか。

「暴死」頓死。急死。

「初石」不詳。或いは、思うのは中禅寺湖畔の東端にある「巫石(みこいし)」の崩し字を誤って読んだものか? (グーグル・マップ・データ)なら、南へ中禅寺への参道が続くからである。「巫石」については諸國里人談卷之二 巫石を参照されたい。

「天明元年七月十二日、江戸大風雨」グレゴリオ暦一七八一年八月三十一日。このクレジットの記録は見つからなかったが、多摩川がこの年、享保以来の大洪水を起こしていることが、きゅーサイト「あばれ多摩川発見紀行年表で判る。

「新大橋」隅田川に架橋された三番目(①千住大橋・②両国橋)の橋で、「大橋」と呼ばれた両国橋に続く橋ということで「新大橋」と名づけられた。(グーグル・マップ・データ)。

「永代橋」隅田川に架橋された四番目の橋。(グーグル・マップ・データ)。

「淺草新堀ばた」東京都台東区鳥越から寿附近。一帯(グーグル・マップ・データ)。

「三味線堀」(グーグル・マップ・データ)。浅草新堀一帯の西側。

「下谷(したや)」附近(グーグル・マップ・データ)。

「御步行町(おかちまち)」御徒町。

「幡隨院店(ばんずゐんだな)」現在の台東区東上野四・五丁目附近と推定される。(グーグル・マップ・データ)。

「新吉原土手むかふ」附近(グーグル・マップ・データ)。

「衣紋坂」江戸新吉原の日本堤から大門(おおもん)までの間にあった坂。遊客がここで衣服をつくろったところから、この名がある。(グーグル・マップ・データ)。

「きれざる」衣紋坂の東が山谷掘であるから、ここが決壊しなかったということであろう。]

ブログ・アクセス百十一万突破記念 梅崎春生 井戸と青葉

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年八月号『小説新潮』に発表された。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第四巻」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。

 二箇所で鈎括弧の不具合を発見したが、孰れも脱落と誤植と断じて訂した。活字のカケも一箇所あったが、これも前後の文脈から字を確定して補正した。

 冒頭に出るこの当時の国際的社会的事件について簡単に注しておく。一部を除いて、本作品の主題とは無関係だが、若い読者のために、この時代の主人公にタイム・スリップして同化してもらえるよう、かなりマニアックに注してある。

「核爆発の実験」一九六二年当時は、前年四月に在米亡命キューバ人部隊がCIAの支援を受けてグアテマラで軍事訓練を行い、キューバに侵攻してカストロ政権の打倒をしようとした「ピッグス湾事件」が起こり(失敗。戦死者百十四名、捕虜千百八十九名)、同年八月末、ソ連共産党書記長フルシチョフはソ連が三年間停止していた核実験を終了して九月一日からの実験再開を宣言、これに対し、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは核実験計画「ドミニク作戦」(Operation Dominic)の実施を承認することで応え、この一九六二年、アメリカは太平洋核実験場(主にクリスマス島(現在はキリバス共和国内))及びネバダ核実験場で百五回にも及ぶ核実験を実行している。ウィキの「ドミニク作戦」を見ると、この一九六二年には主な実験だけで本作公開の前六月までに三十七回も行われている米ソ冷戦の緊張が最も高い時期に行われた驚愕の痙攣的実行回数の核実験群であった。

「ラオス問題」一時、親米に偏っていたラオス王国では反政府活動が激化、一九六〇年八月、王国政府軍がクーデターを起こし、元首相に左派グループとの連立組閣を要請、連立政権が発足すると、アメリカはラオス援助を停止し、タイ王国もアメリカの要請で国境封鎖を断行した。これらの経済制裁のためにラオス政府は困窮し、ソビエトに援助を要請、国交を樹立した。アメリカはクーデターから避難していた右派の軍人を援助、軍を再編成して、一九六〇年十二月十六日、首都ヴィエンチャンを奪回して内閣を発足させた。それに対し、反政府側は一九六〇年末から、再び、軍事行動を開始、一九六一年一月一日のシエンクワーン占領を皮切りに、諸地域を次々と占拠していった。こうした事態を受け、アメリカ合衆国大統領ドワイト・アイゼンハワーは第七艦隊に警戒態勢を発動するなどして圧力をかけたが、反体制勢力の躍進は止まらなかった。一九六一年五月十六日からのジュネーヴ国際会議では、チューリッヒでラオス諸派の会談を設けることが決定され、翌一九六二年六月十二日のこの三派会談によってプーマ首相による新連立政権樹立が合意された(その後、これを受けてジュネーヴ国際会議は「ラオス王国の中立に関する宣言」を一九六二年七月に採択、ラオス王国内に駐留していたアメリカ軍及びベトナム軍は撤退し、ようやく平和が訪れたかに見えたが、一九六三年には中立派軍人と左派の外相が暗殺され、以後、右派の政治勢力が台頭することとなる。後、一九七五年五月首都で住民二万人規模の大規模な反右派デモが発生、十二月一日の「全国人民代表者会議」に於いて暫定国民連合政府によって当時のサワーンワッタナー国王の退位が承認され、王制廃止と共和制への移行が宣言され、スパーヌウォン最高人民議会議長兼国家主席を代表とする「ラオス人民民主共和国」が誕生した。以上は主にウィキの「ラオスの歴史に拠った)。

「電車衝突」国鉄戦後五大事故の一つに数えられる、この昭和三七(一九六二)年の五月三日に常磐線三河島駅構内で発生した「三河島事故」のことである。信号無視によって脱線した下り貨物列車に下り電車が衝突、さらにそこへ上り電車が突っ込んで二重衝突に発展、百六十人が死亡し、二百九十六人が負傷した

「ダンプカー事故」「交通戦争」(昭和三十年代(一九五五年~一九六四年)以降、交通事故死者数の水準が日清戦争での日本側の戦死者数(二年間で一万七千二百八十二人)を上回る勢いで増加したことから、この状況は一種の「戦争状態」であるとして付けられた名称)の前期で大型車であったダンプカーによるそれも有意に多かった。ただ、明言は出来ないが、ここは前からの「電車衝突やダンプカー事故」でセットで読むと、踏切の無謀な通過を行おうとして列車との甚大な衝突事故がこの頃、頻繁に引き起されていた資料も見出せるので、その意味も含ませてあるのかも知れない

「水不足」ブログ「新聞集成昭和編年史」の「昭和37年(1962年)34月の主な出来事」の「社会」の項に、同年四月十六日、『東京都水道局、都内の水不足対策として夜間の第』二『次給水制限を実施』。五月一日、『臨時都渇水対策本部発足』。五月七日、『昼間の給水制限実施』され、これが解除されたのは夏を過ぎた九月十三日のことであるとある。春からの施策によってこの年の水不足の深刻さがよく判る。しかも練馬に住んでいた梅崎春生はまさにこの給水宣言をまともに喰らっていたのである。なお、この水不足は、例えば、四国災害アーカイブズ」の「昭和37年の干ばつ」を見ると、昭和三七(一九六二)年の九月から十月にかけて、徳島では『台風の影響が全くなく、深刻な水不足となり、電力は底をついた。また、阿波郡を中心とする吉野川北岸地区は農作物の干害が続出し、陸水稲、野菜、果樹の被害額は』実に二億五千万円にのぼったとあり、一年を通じてこの年は甚大な水不足に陥っていたことが判明する

「ニセ千円札事件」この前年末からこの翌年にかけて発生し続けた「チ-37号事件」ウィキの「チ-37号事件」によれば、昭和三六(一九六一)年十二月七日、『秋田県秋田市にある日本銀行秋田支店で、廃棄処分にされる紙幣の中から』、『偽千円札が発見された。これ以降』、二年後の昭和三八(一九六三)年まで、実に二十二都道府県から合計三百四十三枚もが発見された(「チ」は紙幣偽造事件において千円札を意味する警察コードで、「37」は「三十七番目の千円札の偽札事件」であることを意味する符牒である)。『偽札は本物に比べて紙の厚さや手触りに違いがあったが、あくまで本物と比較した場合に「辛うじて判別できる程度」の細微な違いであり、偽札だけを手に取っても、まず判別は不可能であるほどの精巧な作りであったという』。『警視庁捜査第三課が捜査するも、-37号は巧妙化していった。初めは通し番号が「WR789012T」と連続した数字で、数字の配列が右下がりになっていたことが新聞で報道され』たが、翌一九六二年春に発見されたものでは、『数字が「DF904371C」となった上、数字の配列が真っすぐになるなど、より偽札の精度が高いものになっていった。また、肖像の目尻が本物より下がっていると指摘を受けると、それも修正』が行われて使用されている。『警察庁は、地方紙だけに情報を載せることによって、犯人の居場所を特定しようとしたが、犯人はどんな小さな記事も見逃さず、偽札に改良を加えていった』。『偽札を使った「犯人らしき人物」は、何度か目撃されている』。昭和三七(一九六二)年九月十日、『千葉県佐倉市の駄菓子屋で、偽の』千『円札を使用してチューインガム』百『円を購入して、つり銭を受け取った男性が目撃された。男性は年齢は』三十五~三十六『歳、白いハンチング帽を被り、体は小柄だが』、『ガッシリしており、顔は黒かった』。一九六二年九月六日、『警視庁は、偽千円札を届け出た者に対して』一『枚につき』三千『円の謝礼、犯人に繋がる重要な情報を提供した者には』一『万円から』百『万円の謝礼を出すことを決定した。銀行協会も犯人への有力情報に』百『万円の懸賞金を出すことを発表し』ている(当時の大卒初任給平均は約一万四千八百円)。昭和三八(一九六三)年三月五日、『静岡県清水市(現・静岡市清水区)の青果店で、偽の』千『円札を使用して』百『円のミカンを購入して、つり銭を受け取った男性が目撃された。男性は年齢は』三十『歳くらい、背丈は』百五十五『センチくらい、丸顔であった』。昭和三八(一九六三)年三月六日、『静岡県静岡市の青果店で、偽の』千『円札を使用して』三十『円の干し椎茸を購入して、つり銭を受け取った男性が目撃された。男性は年齢は』三十『代、黒いハンチング帽を被り、黒縁メガネをかけ、丸顔であった』。『佐倉市の目撃証言は、駄菓子屋の主人が片目に障害があったため、人相がはっきりしなかったが、清水市と静岡市の人相に関する目撃証言によって、モンタージュが作成されて公開されたが、検挙には至らなかった』。昭和三八(一九六三)年十一月四日に『偽札が発見されたのを最後に、偽札が出てくることはなくなった』。昭和四八(一九七三)年十一月四日、『公訴時効が成立して、捜査打ち切りで迷宮入りとなっ』ているとある(うん? 偽造・変造通貨行使罪の公訴時効は十五年のはずだが? この時代は十二年だったのかなあ? にしても月日が合わないのもよく判らないな。誰か、教え子の法学部出の人、教えて!)なお、この事件を受けて翌一九六三年十一月一日には、『紙幣の信頼維持のため、肖像を聖徳太子から伊藤博文に変更した新千円紙幣(C号券)』が発行されたともある。また、『事件や警視庁の』謝礼『対応は当時の小学生にも知れ渡り、「Aさんが』三百『円の品物を千円札で買ったところ』、二千七百『円のお釣りが返ってきた。それはなぜか」という内容のクイズが流行した。これは漫画「三丁目の夕日」でも描かれている』とある。「チ-37号」は『「日本の偽札史上、最高の芸術品」といわれている』とある(下線太字はやぶちゃん)。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが百十一万アクセスを突破した記念として公開する。【2018年7月12日 藪野直史】]

 

  井戸と青葉

 

 某月某日、朝、山名君から電話がかかって来た。丁度(ちょうど)その時、私は朝食をすませて、また寝台にごそごそと這い登り、新聞を丹念に読んでいた。

 近頃の新聞記事や解説は実に多様多彩で、読みでがあって、時間がかかる。読みでがあるというと他人事みたいだが、核爆発の実験やラオス問題、身近には電車衝突やダンプカー事故、水不足やニセ千円札事件、ことごとくわが身に直接間接降りかかって来る問題なので、丹念に読まざるを得ないのである。四種類の新聞を読み終るのに、最低一時間やそこらはかかる。

 新聞はそのままにして、電話口に出た。山名君の声が言った。

「もしもし。今日、お暇ですか」

「そうだね。さし当って今日は、取り急ぐ予定はないけれど、忙しいと言えば忙しい」

「朝飯は食ったんですか」

「うん。子供といっしょに済ませて、今寝床で新聞を読んでいる」

「子供というと、学校に通ってるから、朝飯も早いんでしょう?」

「うん」

「それからあんたはずっと新開を読んでんですか?」

 電話の向うで、彼は舌打ちのような音を立てた。

「寝ころがって一時間半も新聞を読んでいて、よくも忙しいなどと――」

「いや。何も暇つぶしに新聞を読んでいるわけじゃない。君も知ってるだろ。近頃はいろんな事件があって――」

「しかし、こんないい天気だというのに、いくら何でも、一時間半は読み過ぎですよ。折角部屋を明るくして上げたのに、のうのうと寝ていては困りますねえ。この間もこんこんと説明したでしょう」

 先日山名君はふらりとわが家に遊びに来て、生憎(あいにく)とその日私が書斎にごろ寝して雑誌などを読んでいたもんだから、枕もとに坐り込んで文句をつけた。

「冬や夏じゃあるまいし、今の時節に暗い部屋でふて寝をしているなんて、運動不足になるのは当然ですよ。起き上って、そこらを散歩したり、かけ回ったりしてはどうですか」

 山名君は私より七つ八つ年少の友人で、たいへん親切な男ではあるが、少しそそっかしく早呑み込みをする癖がある。それに親切が過ぎて、おせっかいの傾向もあるのだ。

「そうじゃないよ。ごろ寝を始めたのは、今から五分ぐらい前だ。郵便屋さんが雑誌をどさりと配達したもんだからね。雑誌類を僕が寝ころんで読むことを、君は知ってるだろ」

「雑誌などは、いつでも読めます。配達されたからって、すぐ読まなきやいけない義理はないでしょう。それにこんなに光線の入らない部屋で――」

「そりゃ君が日盛りからいきなりここに入って来たから、暗いように感じられるんだよ。初めからここにいる分には、けっこう明るい」

「何ですか。それはまるで童話のモグラモチのセリフです。眼を悪くしたら、どうするつもりですか」

 もっとも私の書斎は、東と南に大きな窓があるが、周囲に雑多な樹を植え過ぎて、それがむんむんと梢を伸ばし葉をつけて、太陽光線はその隙間をやっと通り抜け、青い光となってこの部屋を満たしている。椿。蘇芳(すおう)。サンショウ。藤。グミ。その他名の知れぬ木など。

 これらが若葉の頃は、実によかった。光や風が適当に通り、部屋の空気は若葉に染まっていたが、近頃は青葉が重なり過ぎて、この部星に身体を伸ばしていると、深海魚とまでは行かないが、中海魚みたいな気分になって来る。しかしこの気分も悪くないので、そのままにしている。

「こんなに葉っぱを繁らせて、その中でじっとしているなんて、ミノ虫みたいですな」

 彼はあきれ果てたように言った。

「五分前に寝ころんだとおっしゃるけれど、ぼくがお宅に伺う時は、いつも横になっているじゃないですか。寝ているか、酒を飲んでいるか――」

「そういうことになっているか」

 しかし、私の方から言わせると、ごろ寝をしたり酒を飲み始めたりすると、きっと山名君がやって来るのである。世の中にはそんな不思議な現象はよくあるもので、説明してやろうと思ったが、彼は自分の見たものしか信じない休験派の性格なので、説得は取りやめにした。来る度に寝ころがっているのを見て、一日中ふて寝をしていると断ずるのは、一斑を見て全豹を卜(ぼく)すようなものだと思うけれども。

 結局その日は何やかやの押問答があって、私の体の調子の良くないのは、結局私の運動不足のためという結論(彼だけの)に達し、その不足の原因のひとつは、この青ぐらい書斎のせいだということになった。

「体のためにいいわけはないですよ。風通しは悪いし、毛虫は這い込むし――」

 そして山名君は庭木の梢や葉の整理を勧告し、私をうながして、うちにある木鋏や花鋏、脚立(きゃたつ)のたぐいまで総動員させて、伐採(ばっさい)に取りかかった。考えてみると、葉が繁り過ぎて、私も幾分うっとうしいような気にもなりかけている。どうせ植木屋を入れなくちゃならない時期が近づいているから、山名君がそんな申し出をして呉れるのなら、渡りに舟である。タダほど安いものはない。そう了承して、手分けして作業にとりかかった。

 書斎の周囲は彼にまかせ、私は庭の中央にあるニセアカシヤに取りついた。この木は、その葉の形からそうきめているが、あるいは別種の木かも知れない。まことに可笑(おか)しな木で、冬の間は枯木のように縮まって、まるで棒を地面に突き刺したように見える。春が来ても、まだ枯れている。他の木が若葉をつけ終った頃、やっと幹から芽を出して、それからの成長ぶりがものすごい。枝だの梢だのをやたらに伸ばし、幹の高さも二倍ぐらいになる。枝や梢も勝手に葉をつけ、むんむんと繁茂する。ところが肝心(かんじん)の幹が、背は伸びたが太さは旧のままで、枝葉が栄えている割には、どうも足元が心もとない。

 春が過ぎて、夏が来る。夏の終りに大風が吹く。そうするとムリに高度成長したこのニセアカシヤはひとたまりもない。一夜の嵐が過ぎて、雨戸をあけると、他の木はさしたる被害もないのに、この木だけは枝は折れ幹は裂け、ふくろ叩きにあったクラゲみたいな惨状を呈している。仕方がないから折れた枝を払い、裂けたところをつくろってやると、すなわち一本の幹になってしまう。秋から冬にかけて、彼はそのまま一本棒である。こんなに傷めつけられたのだから、もう枯れたんだろうと思っていると、次の年の春になると、またもりもりと枝葉を伸ばし始める。この木を植えて五年になるが、毎年その繰返しである。

「も少し計画的に枝葉を伸ばせば、どうにかなるだろうに、この木はバカじゃないだろうか」

 と私はかねて思っているが、木には木の思惑があるのかも知れない。しかし嵐の後の惨状を見るに忍びないから、今のうちに幹の負担を軽くしてやろうと、先ず私はこの木に取りついたのである。

 枝を取り払うというのも、かんたんな作業ではない。風向きを考え、恰好(かっこう)のことも考慮し(眺めて観賞する都合があるから)少しずつ切って行く。時々縁側に腰かけて、タバコをのみながら、今度はどの枝をどのくらい刈ろうかと思案する。庭師や植木屋がしばしば休憩して、茶を飲んで庭を眺める。あの気分と同じなのである。一時間ほどかかって、やっと形良く仕立てたら、山名君がやって来て、あきれ声を出した。

「まだこの木にかかっているんですか。実際悠長なものですなあ。書斎のまわりは、全部済みましたよ」

 そこで初めてそちらの方を見て、私はアッと驚いた。バッサバッサと伐採して、枝葉が地面にうず高く積み重なり、足の踏み場もないほど散乱している。樹々は丸裸とまでは行かないが、わずかに下着をとどめた乙女みたいに、身をよじて恥かしがっているように見えた。

「ああ。何て傷ましい」

 私は慨嘆した。

「こりやあまり切り過ぎじゃないか。他人の家の木だと思って。可哀そうだとは思わないか」

「何を言ってんですか。可哀そうだなどと」

 山名君はせせら笑った。

「木はね、人間と違って、切られても痛くも何ともないんですよ。感傷的な言い草はよしなさい」

「そりゃ痛くはないかも知れないが――」

「僕はあんたのためを思って、枝を払って上げたんですよ。人間と植物と、一体どちらが大切です?」

 山名君も縁に腰をおろして、タバコの煙をくゆらした。

「それに根本からバッサリ切るのは、これは気の毒ですよ。しかし枝をチョイチョイと払った程度ですから、人間で言えば爪や髪を切ったのと同じで、またすぐ生えて来ます。さて、残りのやつも、一気呵成(かせい)にやっつけますか」

「いえ。もう結構。あとは僕がやるよ」

 そこで二人は縁に上り、書斎に戻ったら、青い部屋の雰囲気は消え、なんだか白っ茶けた感じの部屋となり、畳の汚れや焼焦げがへんに目立って見えた。私は何もムードを尊重するたちではないが、空気がいきなり散文的になるのは、好もしいものではない。がっかりして部屋を見回していると、山名君は得意そうな面もちで、

「どうです。さっぱりしたでしょう。この空気の明るさ。それに風通しのいいこと」

 窓をあけ放って、深呼吸をした。

「しかし、風通しがいいからと言って、ここにじっとしてちゃ、何にもなりませんよ。少し出歩いて、山登りをするとか、魚釣りをするとか、体を動かさなくちゃダメです」

「そんなものかね」

「そうですとも。だから切り落した枝葉の始末は、あんたがやりなさい。本来なら僕がやるべきだけれど、そうすると為にならないから、そのままにしときます」

「え? おれに片付けさせると言うのかい?」

「そうですよ」

 山名君はうまそうに茶を飲んだ。

「これから出来るだけチャンスをつくって、あなたに運動させることにしましょう。無精というやつが、一番人間をダメにさせる。判りましたね」

 

 電話がかかって来たのは、それから五日目のことである。

「うん。判ってるよ。あれから毎日、適当に運動しているよ」

「ほんとですか?」

 疑わしそうな声が、受話器を通して聞えた。

「今日はあんたにひとつ運動していただこうと思って、いえ、散歩や庭掃きみたいな小運動ではなく、ちょいとした大運動です」

「大運動って、何だい?」

「そりゃ拙宅に来ていただければ判ります。服装? そりゃなるべく簡略な、お粗末な方がいいですな。少しよごれるかも知れないから」

「魚釣りかね?」

「魚釣り、じゃありません。水には関係がありますが――」

「水に?」

「そうです。とにかく十二時までに是非うちに来て下さい。今日は予定はないと言ったでしょう。お待ちしています」

 おい、おい、一体どんな仕事だと、問い返す前に、彼は電話をがちゃりと切ってしまった。話が一方的で、押しつけがましいのが、彼の生れつきの性格なのである。

 仕方がないから、一番粗末なシャツとズボンを着用、下駄ばきで十一時半に出かけた。この間の植木刈りではタダ働きをしてもらったんだから、すっぽかすわけには行かない。私の家から山名宅まで、バスと徒歩を併用して三十分の行程で、丁度(ちょうど)正午に着いた。山名君は門の外に立って待っていた。

「やあやあ、よく来て呉れましたね」

 山名君は操(も)み手をしながら、喜ばしげに言った。彼が揉み手をするなんて、珍しいことだ。

「お昼はまだでしょう」

「うん。まだだ」

「ではザルソバ、いや、モリソバでも振りましょう。どうぞお上り下さい」

 彼の画室に通ると、三人の先客が待っていた。それぞれ名前を紹介されたが、三人とも山名君と同年輩で、絵の方の仲間らしい。あいさつを交して、私はおもむろに山名君に訊ねた。

「水に関係のある運動って、一体何だい?」

「井戸掘りですよ」

 彼はあっさりと答えた。

「水道の水が全然出ないでしょう。それで今度うちで井戸掘りすることにしたんです」

「井戸掘り?」

 私は思わず大声を出した。

「僕にそれをやらせようと言うのか。そりゃ運動じゃなくて、労働じゃないか」

「運動も労働も、体を動かすという点では、同じようなものです。青空の下でやるんだから、健康にはとてもいいですよ」

「健康にはいいかも知れないが、井戸掘りなどという器用な真似(まね)は、僕には出来ないよ。そんなのは井戸屋に委(まか)せりゃいいじゃないか。おれ、もう帰るよ」

「いえ。ちょっと待って下さい。実は井戸屋に頼んだんですけどね――」

 

 モリソバを食べながら、山名君が説明するところによると、ここらは都内でも有数の水道の出の悪いところで、夜間は全然断水、昼間でもチョロチョロ水で、コップ一杯を充たすのに一分間ぐらいかかるという。周囲の畠が宅地に変って、家が建て込んで来たが、管の太さが旧のままで、ふだんでも出が悪いのに、昨今の断水騒ぎでますます状態が悪化した。ついに意を決して、井戸屋に頼みに行く気特になった。

 井戸屋は山名君の家から一町ほど行ったところにあって『井戸掘ります』と紙の看板がぶら下げてある。いつも散歩の行き帰りに、その看板がふらふらと風に揺られているのを見て、何と不景気な看板だろうと彼は憫笑(びんしょう)していたが、いざ頼みに行ってみると、そこのオヤジは実に横柄だったそうである。案内を乞うと、

「井戸の用事かい。庭の方に回んな。庭の方に」

 そこで庭に回ったら、丁度時分どきで、オヤジさんは刺身だのトンカツなどを肴にして、ビールを飲んでいた。不景気な看板にしては、豪勢な食事をとってるなあと、山名君は感嘆しながら、

「実はね、うちの水道の出が悪いんで、井戸を一つ掘ってもらいたいんだがね」

「水道の出は、どこだって悪いよ」

 コップを傾けながら、オヤジはそっけなく答えた。上れとも何とも言わないから、彼は余儀なく縁側に腰かけて言った。

「うちのは特に出が悪いんですよ。コップ一杯ためるのに、五分間かかる。これじゃ飢え死、いや、干乾(ひぼ)しになるおそれがあるんで、大至急に井戸を――」

「大至急? そりゃダメだね」

 オヤジは刺身を見せびらかすようにしながら、ぽいと口に放り込んだ。

「近頃申し込み殺到でね、大至急だなんて、そんなゼイタクな――」

「じゃ掘って呉れないと言うんですか?」

「そりや商売だから、掘りますよ。順番を登録しといて、番が来たら通知するから、それまで待つんだね」

「待つと言うと、一週間ぐらいですか」

「とんでもねえ。そうさね」

 オヤジは壁にかけた黒板を見上げた。

「まあ早くて、一カ月だね。とにかく予定がつまってんだから」

 そう言われて山名君は愕然とした。しかし考えてみると、今の水道の状態では、皆が井戸屋に殺到するのは当然の話である。も少し早く申し込めばよかったと思っても、もう遅い。

「弱ったなあ。どうにかなりませんか。親方」

 親方呼ばわりはしたくはないが、一カ月も待たせられてはかなわないので、彼は下手に出た。

「僕は貧乏絵描きで、冷蔵庫もまだ買ってないんです。それでビールを飲みたいと思っても、冷やす場所がない。せめて井戸でもあればねえ。親方。どうにかなりませんか。」

「うん」

 オヤジは若干心を動かされたらしく、箸の動きがとまった。

「ビールや西瓜(すいか)を冷やすには、やはり井戸が一番だ。なにしろ大自然の冷蔵庫だからな」

「そうでしょう。時にその親方のビールは、よく冷えてるようですねえ。うらやましいですよ」

「うん。これはあの真中の井戸で冷やしたんだ」

 オヤジが庭の方に顎(あご)をしゃくったので、見ると庭には三つも井戸が掘ってある。実物見本のつもりなのだろう。でも、

「では、あれを一つ譲って下さい」

 と持って帰るわけには行かないところに、山名君のつらさがある。オヤジは得意そうに、また憐れみをこめて言った。

「あんた、絵描きかね?」

「そうですよ。絵を描くのにも、やはり水が要るんです。どうですか。料金二割増しというところで、大至急願えませんか」

「うん。二割増しか」

 オヤジはコップを置いて、壁の黒板をにらみ、しばし首を傾けた。

「よし。どうにかやりくりして、明日やって上げることにしよう。特別だよ。あっしは芸術家が好きなんだ」

「え? 明日? そりゃありがたい」

 山名君は躍(おど)り上りたいような気特になった。

「是非お願いします」

「でもね、あんたは今の人手不足は知ってるだろ」

 オヤジはビールをぐっとあおった。

「ホリヤとゲンバはこちらから出すが、ツナコとドロカキはそちらで集めてもらいたいね」

「ホリヤと言いますと?」

「ホリヤとは井戸を掘る人だよ。こりゃ専門家じゃなくちゃ、出来ねえ」

「ゲンバは?」

「ゲンバは現場に立ち合って、指図する人のことだ」

 オヤジは面倒くさそうに、舌打ちか舌鼓か知らないが、舌をタンと鳴らした。

「明日の午後、二人さし向けるから、ちゃんと用意しときな」

「ツナコにドロカキは、何人ぐらい必要でしょうか」

「まあ四、五人てえところかな」

「ええ。承知しました。では、明日、お待ちしています」

 話をしている中に、オヤジの気が変ったらたいへんなので、山名君はペこりと頭を下げて、早々に退散したのだそうである。

「井戸屋があんなに威張ってるとは、僕も気がつきませんでしたよ」

 と、山名君は述懐した。

「もっとも水がないんですからねえ、横柄なのもムリはないと患うけれど。終戦直後の農家と同じですな」

「しかし、井戸屋が水を持ってるわけじゃない。水はおれたちの地面が持ってるんだ」

 仲間の一人がそう言った。

「あいつらが持っているのは、それを地面に引っぱり上げる技術だけだ」

 そう言えば終戦の時と、ちょっと違うような気が私もする。

 この間キャベツが一箇五十円とか七十円の高値をつけた時、私は八百屋に聞いてみた。

「一箇七十円だなんて、儲かって儲かって、笑いがとまらないだろうね」

「とんでもありませんよ。旦那」

 八百屋は真剣な顔をして手を振った。

「こりや市場で仕入れた元値で売ってるんです。キャベツを置いとかねえと、なんだ、キャベツも置いてねえのかって、お客さんからバカにされるんでねえ。儲かったのは、去年の安値の時ですよ」

 話によると、去年のバカ安値の時は、市場に行っても、小売商がそっぽを向くから、キャベツがごろごろ転がっている。そいつを一箇一円ぐらいで仕入れて来て、店に並べ、

「どうです。奥さん。こんなでっけえの、一箇十円」

 と突き出すと、奥さんは大喜びで十円玉を出し、笑いがとまらない風で帰って行く。八百屋もそれを見送りながら、笑いがとまらない。それが今年の七十円の値になると、奥さんは忌々しそうに百円札を出し、キャベツ一箇とおつりの三十円を持って、口惜し涙にかきくれながら立ち去って行く。八百屋さんも口惜し涙を流しながら見送るという寸法で、

「あっしどもの商売もつらいもんですよ」

 とのことであった。その反対に一部の農民が笑いをとどめかねたり、悲憤の涙を流したりしているのだから、結局は終戦の時と同じだとも言えるが、威張る奴がいないのは幸せなことである。

 その井戸屋も、芸術家が好きだから便宜(べんぎ)をはかったのではなく、料金二割増しに心を引かれたのだろう。

 モリソバを御馳走になったからには、おれはイヤだよ、と席を蹴って帰るわけには行かない。もじもじしていると、山名君が、

「あなたにはドロカキをやっていただきましょう」

「ドロカキ? ドロカキは困るよ」

 ドロカキってどんな仕事かしらないが、私ははっきりと断った。

「何故です?」

「名前が気に食わない。ドロカキというと、最低の仕事のような気がする。せめてツナコの方に――」

 と言いかけた時、玄関の方から、御免、御免、という声が聞えて、もう井戸屋がやって来たのである。それっ、と言うわけで、私も山名君にうながされて、古ズボンの裾をまくり上げ、裸足で庭に飛び出た。山名宅の庭にも木が多く、むんむんと青葉を繁らせている。全然手入れしてなく、桜の木などには毛虫がたくさん巣をつくっている。自分の庭はほったらかして、わざわざ他人の庭木の手入れに来るんだから、おせっかいもはなはだしいと言うべきであろう。

 井戸掘りの場所は、その庭の隅ということに決った。

 

 そしていよいよ井戸掘りが始まった。

 ホリヤというのが、山名君が言っていたれいの横柄なオヤジらしい。初めの中は私たちはただ眺めているだけだったが、段々掘り進むと、穴の中にバケツをおろし、綱を滑車にのせて、ゲンバの命令一下、その綱を勢いよく引っぱって走る。ヨイトマケにもちょっと似ているが、あんなにのんびりはしていない。穴の壁から水がシュウシュウ噴き出すので、大急ぎで引き上げねばならぬ。ゲンバがその泥水をあける。ツナコというのは、その引っぱり役のことだ。何の因果でおれがツナコなどを勤めねばならないのか。少々腹立たしくなって来たし、十分ぐらいやっていたら、日頃の運動不足がたたって息が切れて来たので、もはや耐え難くなり、ドロカキをやっている山名君に、

「おい。おれ、少しくたびれたよ。ドロカキにして呉れえ」

「そうでしょう。だから初めからドロカキをやりなさいと言ったんだ」

 山名君はそう言って代って呉れ、とうとう私は最低のドロカキになってしまった。最低と言っても、これは割にラクな仕事である。ゲンバがあけた泥水を、スコップで整理するだけなので、そう急ぐ必要はない。いい加減に桜の木の下に積んだり、下水溝に流したり、あれこれやっている中に、垣根の向うに人だかりがして来た。服装から見ると、近所の人達らしい。もの珍しさと、いつかは自分のとこでも掘るからその参考にと、集まって来たのだろう。

 その衆人環視の中で、私はなかばヤケッパチになって、せっせと泥をかいた。どうにでもして呉れと、居直るより他はないのである。

 井戸は夕方になって、やっと完成した。ちゃんと蓋をつけて、ポンプも取りつけた。私はくたびれ果てて、先に足を洗って画室の長椅子に横たわっていたので、山名君が井戸屋にいくらぐらい支払ったか知らない。井戸掘りの相場は知らないけれど、ツナコとドロカキの日当が只だから、結局相場より安くついたんじゃないかと思う。

 私が画室にいると、庭の方で何か言い争うような声が聞えて、やがて山名君が画室に飛び込んで来た。

「困ったことになりましたよ」

「何だい?」

「何だいって、あんた、流水をずいぶん下水溝に流したでしょう」

「うん。流したよ。それがドロカキの仕事なんだもの」

「弱りましたねえ。それで下の方の溝に泥が停滞して、近所から文句が来たんですよ。今日中にさらって呉れなきゃ、流し水が道にあふれるってね。あんたの責任ですよ」

「冗談じゃないよ」

 私はむっとして言い返した。

「これ以上おれに泥かきをさせようと言うのか。四十面を下げて、下水の泥かきが出来ると思ってるのかい」[やぶちゃん注:本作発表当時、梅崎春生は四十七歳であった。]

「そ、そう言わずに、あとでビールか何かを御馳走しますから、五人で手分けをして――」

「イヤだよ」

 私は断乎としで言った。

「君たち四人で手分けしてやれ。僕はビール買いの役目を引き受ける」

「そうですか」

 山名君は不服そうな声を出した。しかしテコでも動かぬという態度を私が示したので、ついに諦めて画室を出て行った。私は重い腰を上げ、下駄をつっかけて、酒屋におもむいた。

「ビールをだね、二ダースばかり届けて呉れ。うん。すぐそこの山名の家にだ」

 日当分ぐらい飲まなきゃ、腹の虫が収まらない。

「それからカニ罐、牛罐、南京豆もたのむ。勘定は山名から取って呉れ」

 家に戻って待っていると、やがて届けて来た。すなわち大盥(たらい)を井戸端に持ち出し、ギイコギイコと水を入れ、ビールをその中にひたした。なるほど水道の水よりはずっとつめたいようだ。

 一時間ほど経って、ドブさらいを終えた山名君たちが、どやどやと井戸端に行く気配がした。私は立ち上って、窓から眺めていると、大盥を見て山名君はギョッとした様子である。

「あれっ。豪勢に買い込んだもんだなあ」

 山名君の嘆息の声が聞えた。私は窓を開いて、声をかけた。

「まだもう一ダース、あるんだよ。それから罐詰もたくさん買っといた」

「え?」

 山名君は渋面をつくったが、三人の仲間は嬉々として、代りばんこにポンプを押して、手足を洗っていた。タダほど高いものはないと、彼も身にしみて知ったに違いない。

 それから画室で酒宴を開いたが、疲労しているせいか、すぐに酔ってしまった。せめて七八本は飲んでやろうと思っていたのに、三本ぐらいで私は千鳥足となってしまったのである。これから他人に酒をおごるには、くたびれた時を見はからって飲ませるに限る、という貴重な教訓を私はこの夜学んだ。

 

 一週間ほど経った。山名君から印刷のハガキが来た。

[やぶちゃん注:以下の山名からの手紙文は、二箇所ともに底本では全体が一字下げとなっているが、ブログ上の不具合を考え、引き上げて示した。]

 

『拝啓

 水不足の折柄、たいへんお困りのことと存じます。小生宅ではこの度井戸を掘りました。深さは五メートル程度ですが、とてもつめたく、おいしい水です。飲みたい方は拙宅においで下さい。腹いっぱい飲ませて差し上げます。もちろんタダです。

 貴台の健康をいのりつつ、まずは御報告まで』

 

 印刷までしたところを見ると、ずいぶん沢山の人に出したのだろう。移転通知や年賀状じゃあるまいし、たかが井戸一つ掘っただけで印刷状を出すなんて、大げさな話だと思う。でも誇りたい気持は私も判らないではない。私の家でも水道はチョロチョロである。

 印刷文の空白に、ペンで次のように書いてある。

 

『この間は御苦労さまでした。いい運動とレクリエイションになったと思います。今度は魚釣りに行きませんか』

 

 何がレクリエイションかと、面白くない気特になったが、しかし考えてみると、私が恨むべきは山名君でなく、都の水道局、いや、都知事や都議であるのかも知れない。彼等の無能無策のために、私はドロカキにまで身を落した。これで税金だけは、遠慮容赦なく取り立てるのは、一休どういう気持なのだろうと思う。

 それから五日目に、山名君が私の家に姿を現わした。白っ茶けた書斎に寝ころんで、週刊誌を読んでいた時だったので、あわてて私は起き上り、机の前に坐った。彼はのっそりと書斎に入って来た。手に一升瓶をぶら下げている。

「おや。今日はふて寝をしていませんね。めずらしいことだ」

「いつもいつも寝ててたまるか」

 私は答えた。

「なんだい、その酒瓶。この間のお礼に持って来たのか」

「冗談じゃないですよ。お礼はこの間の晩に、たっぷりしましたよ」

 山名君は大切そうに一升瓶を置き、あぐらをかいた。

「ほんとに皆よく飲み、よく食べましたねえ。酒屋の請求書を見て、僕はがっくりしましたよ。あれじゃあアルバイト学生でも雇った方が得だった」

「まあまあ、そんなにがっかりするなよ」

 少し気の毒になって、私はなぐさめてやった。

「ではその酒、どこかに持って行くのか」

「こりゃ酒じゃありません。うちの井戸水です」

「ほう。僕に飲ませようと持って来たのか」

「いえ。そうじゃありません」

 彼は忌々(いまいま)しげにポケットから一遇の手紙を取り出した。

「これ、田園調布に住んでいる後輩から来たんですがね、まあひとつ読んで下さい」

 私は封筒から引き出して、文面を読んだ。

[やぶちゃん注:以下の手紙文は字下げはない。]

 

『井戸をお掘りになられました由、おめでとうございます。しかし小生はお宅の井戸水がうまいということに関して、一抹の不安を感じるのであります。すなわち、井戸は昔から深い方が良い水が出ることは定評があり、浅い場合は充分ロカされない汚れが井戸水に混入するおそれがあります。率直に申しますと、御近所の便所のカメが破れていたりしますと、ハイセツ物はどうなるでありましょうか。言うまでもなく地面に吸収されるのであります。地面に吸収されたそのモノは……。とにかく山名先生の御健康のためにも、御近所の便所の構造が完全であることを、小生は祈りたいと思います。味がよいなどという宣伝は、ひかえられた方がよくはないでしょうか。化学で習った限りでは、水は無味、無臭、透明な液体であるべきなのです。

 先輩に直言して失礼とは思いますが、お許し下さい。

     水道局の水道の愛好者の

    一人であるところの 三谷朱男』

[やぶちゃん注:「ロカ」(濾過)・「ハイセツ」(排泄)・「モノ」(「物」だか、ここはカタカナの方がよりよい表記ではある)のカタカナはママ。]

 

「ね。癪にさわるでしょう」

 読み終えるのを待って、山名君は言った。

「三谷の奴はね、僕が井戸を掘ったのを嫉妬してんですよ。あいつの家は高台で、水道の出が悪いんです。そこへ僕のあいさつ状が届いたもんだから、カッと頭に来て、こんないやがらせの手紙を書いたんです」

「そうかも知れないね」

 私は答えた。

「この文面はケチをつけてやろうという精神に満ちあふれているね。それで、その一升瓶を田園調布に持って行って、その男に飲ませようと言うのか」

「いえ。それほど酔狂なことはやりませんよ」

 山名君は苦笑いをした。

「これを保健所に持って行って、水質検査してもらおうと思うんです。その証明書を二通つくってもらって、一部を三谷に送ってやろうと思うんですがね」

「証明書たって、飲料には不適という結果が出るかも知れないじゃないか」

「いえ。大丈夫です。うちの井戸に限って、不適なんてなことはあり得ません」

 自信たっぷりの表情で彼は断言し、それから保健所におもむくために、立ち上った。それから二週間経つが、山名君は私の家にやっても来ないし、電話もかけてよこさない。もしかすると、飲料不適の結果が出て、大言壮語の手前、姿を現わさないのかも知れないと、私は心配している。

甲子夜話卷之四 34 本多唐之助病死のとき、有德廟上意の事

 

4-34 本多唐之助病死のとき、有德廟上意の事

德廟の御時、本多唐之助、疱瘡を患て沒したり。時、年十七以下なれば其跡たゝざる規定ゆへ、病死のことを、老職、密に御聽に入たるに、上意には、「疱瘡と云ものは面體のかはる者なり」と度々、仰あり。此御旨を心得て、かの家臣へ通じたれども、悟らざると覺て、其實を申出し故、御規定の如く、其家、たゝず。僅に小祿の苗跡を遺せる計になりたり。

■やぶちゃんの呟き

末期養子の連投であるが、こちらは「有德廟」徳川吉宗がわざわざ暗に誤魔化しを匂わせた上意を下して呉れたのに、それに心づかず、正直に報告してしまい、減封(御家断絶となったように見えるが違う。次注参照)となった不幸なケースである。

「本多唐之助」大和郡山藩第四代藩主本多忠村(ほんだただむら 宝永七(一七一〇)年~享保七(一七二二)年)の幼名。ウィキの「本多忠村によれば、享保二(一七一七)年、『父の死去により』、『跡を継ぐ。幼少のため』(数え八歳)、『幕府は郡山の重要性から忠村を別の領地に移封しようとしたが、将軍の徳川吉宗が許したため、移封を免れた』が、享保七(一七二二)年九月『晦日、天然痘のため』、『江戸で死去し、跡を弟の忠烈が継いだ』。享年十三歳。『松浦清(静山)の『甲子夜話』によれば、忠村の死に際し、吉宗が「天然痘というものは、ずいぶん容貌が変わるそうだ」とたびたび語っていたという。これは、他の人物を忠村ということにしてすり替えても分からない、と暗にすり替えを勧めていたのではないかとされるが、本多家中の者は忠村の死をそのまま幕府に報告したため、減封の上で幼少の弟・忠烈に継がせることとなった』とある(太字やぶちゃん)。清廉実直、と言うより馬鹿正直にして将軍の忖度を理解出来なかった凡愚な家臣故の悲劇と言うべきか。

「疱瘡」天然痘。

「患て」「わづらひて」。

「年十七以下なれば其跡たゝざる規定」ウィキの「末期養子によれば、『江戸時代初期には、大名の末期養子は江戸幕府によって禁じられていた』が、慶安四(一六五一)年に『幕府は末期養子の禁を解いた。とはいえ、末期養子の認可のためには、幕府から派遣された役人が直接当主の生存と養子縁組の意思を確かめる判元見届という手続きが必要であり(ただし、後に当主生存の確認は儀式化する)、無制限に認められたわけではなかった。また、末期養子を取る当主の年齢は』十七『歳以上』五十『歳未満とされており、範囲外の年齢の当主には末期養子は認められていなかった』。十七『歳未満の者が許可されるのは』寛文三(一六六三)年、五十『歳以上の者が許可されるのは』天和三(一六八三)年に『なってからであった。それも当初は米沢藩の上杉綱憲の相続のように、全ての所領を相続できず』、『減知されるといった代償が存在した』(この場合がそれ[やぶちゃん注:太字やぶちゃん])。『その後もこの規準は公式には遵守されており』、享保四(一七一九)年に『安芸広島藩の支藩三次藩主浅野長経が公式上』十三『歳(実際は』十一『歳)のために末期養子が認定されず』、『改易となり、宗藩にあたる広島藩に所領が併合され、藩士は広島藩士に転籍している。また、元禄六(一六九三)年に『備中松山藩主水谷勝美が親族の水谷勝晴を末期養子としたものの、その直後に当の勝晴が正式な家督相続前に亡くなった際には、「末期養子の末期養子」は認められず、水谷家は改易となっている』。『このために、諸藩では早い段階で嗣子が不在か末期養子が適用できる年齢に満たない場合は、末期養子の適用が可能な年齢の一族を仮養子や中継ぎに立てることや、当主死亡を幕府に届けるのを遅らせた上で嗣子の年齢詐称を行ったりしている。後者の場合、何らかの理由を付けて認められるのが常であり、形骸化していた。より軽格の旗本御家人などの場合、当主の年齢が』十七『歳に満たないことが明らかであっても当人が』十七『歳と称した場合にそれを認める(勝小吉の勝家相続のケース)など、幕府側が露骨に不正を黙認した例もある。そういった備えが出来ないまま』、『末期養子の禁に抵触しそうな場合には、藩主のすり替えが、時には幕閣の示唆で行われたこともあった』とある。『こうしたすり替えは多くの場合、すり替えても不自然ではない年齢で血筋上も妥当な相続者を一族内から選び、藩内で内密に行われた』ともある。

「老職」老中。

「密に」「ひそかに」。

「御聽」「おきき」。将軍の御耳にお聞かせ申し上げること。

「面體」「めんてい」。

「仰」「おほせ」。

「悟らざると覺て」「覺(おぼえ)て」。折角の将軍の御配慮の真意を汲み取ることが出来なかったと思われ。

「其實」「そのじつ」。末期養子の正式な手続きを全く採らず、十三歳で病死した事実。

「苗跡」「みやうせき(みょうせき)」その家の名を以って代々所有し来たり、また、子孫に伝えるべき土地・財産・権利。

「計」「ばかり」。

甲子夜話卷之四 33 假養子願書を取替たる事

 

4-33 假養子願書を取替たる事

予が親類の一侯、在所に往とて、亡父の時、其弟の末家を繼せたるを假養子に願置て立しが、間もなく在所に於て沒したり。定て家頼抔の所爲か、假養子の願書を申下して、別人を願替て、沒後に、某氏、養子となり、養父の忌服を受たり。然ば假養子の願書は自筆調印の例なるが、印は人も押すべし。自筆は誰が書せしにや。近來の新事と云べし。

■やぶちゃんの呟き

末期養子のすり替え例(当主が既に死亡しているにも拘わらず、周囲の者がそれを隠して当主の名に於いて養子縁組を行って家督を存続させた違法行為)ではあろうが(ウィキの「末期養子を参照されたい)、この話、私が馬鹿なのか、今一つ、関係がよく呑み込めない。弟は継いでいた分家が困るから養子縁組に難色を示していたものか、或いは、家臣たちが理由は判らぬが実弟の養子縁組に実はもともと反対だったのか? どなたか、判り易く解説して下されよ。語注だけしておく。

「往とて」「ゆくとて」。

「末家」「ばつけ」。分家。

「立しが」東洋文庫版「立(たち)しが」とルビ。

「定て」「さだめて」。

「家頼」「家來」に同じい。家臣。

「願替て」「ねがひかへて」。

「然ば」「しからば」。

「假養子の願書は自筆調印の例なるが」仮養子願いの上申書は養父の本文自筆の上、本人の書き判が定めであるが。

諸國里人談卷之四 若狹井

 

    ○若狹井(わかさのゐ)

南都東大寺二月堂の若狹井は、常に水なし。毎年二月朔日より十四日まで法會あり。于ㇾ時(ときに)、寺僧、加持して井に向ひ、「若狹々々」と、三遍、喚(よべ)ば、則〔すなはち〕、水、涌出(わき〔いづ〕)る也。此水を以て、墨を摺り、牛王(ごわう)を押(おす)事、恆例、かはらず。此日、若狹國「鵜の瀨の渕」の水、涸(かるゝ)也。是、「おにふ明神」より進ぜらる所の水也と云。「鵜の瀨」は遠敷〔おにふ〕郡の山の梺(ふもと)にある川の渕なり。

遠敷明神は、祭神 上ノ宮彦火々出見尊(ひこほゝでみのみこと)。下ノ宮、豐玉姫(とよたまひめ)也。往昔(むかし)、國主、これをうたがひ、其節、かの渕に糠(ぬか)を蒔(まき)たるに、その日、二月堂の井に、糠、水に交はりたるよし、いひつたへたり。

二月堂は肙索院[やぶちゃん注:①③もママ。「肙」は「羂」が正しいと思われる。吉川弘文館随筆大成版は「羂」になっている。]と云。本尊十一面觀音。長〔たけ〕七寸の銅佛也。難波(なには)の浦より出現、祕佛の像也。牛王の符は弘法大師の作。

[やぶちゃん注:「南都東大寺二月堂の若狹井」二月堂下にある閼伽井屋の中にある井戸。ここにある通り、この井戸は若狭国(福井県)の小浜と水脈が繋がっていると伝承されている。「奈良県」公式サイト内の県民だより奈良記事によれば、以下の話が伝わるという。

   *

 昔、実忠和尚が、修二会の行法中(ぎょうぼうちゅう)、「神名帳(じんみょうちょう)」に書かれた全国の一万七千余の神様の名を読み上げ、参集(さんしゅう)を求めた。神々はすぐに集まってこられたが、若狭国の遠敷明神[やぶちゃん注:「おにゅうみょうじん」。]だけが川で魚釣りをしていて遅刻された。

 それを他の神が口々に咎(とが)めた。そこで遠敷明神は「これは申し訳ない。お詫びとして、ご本尊にお供えする霊水を若狭からお送りしよう」といい、二月堂下の大岩の前で祈られた。すると、大岩が動いて二つに割れ、黒と白の鵜が飛び立ち、続いて霊水が湧き出た。和尚はこれをお供えの水とされた。これが今も二月堂下にある若狭井戸である。

   ※

「実忠和尚」(神亀三(七二六)年~?)は奈良時代の僧。ウィキの「によれば、『良弁に師事して華厳を学んだ。実忠は東大寺の十一面悔過(けかえ、通称お水取り)の創始者とされ、二月堂を創建し』、天平勝宝四(七五二)年二月一日から十四日間、修法『したとされる』。天平宝字四(七六〇)年には目代(東大寺の役職。工務事業統括と財政を担当)となり、『東大寺を始め』、『奈良西大寺・西隆寺の造営に参画し、東大寺大仏光背の造作や大仏殿歩廊の修理と寺観整備、百万塔を収める小塔殿や頭塔の造営を行い』、神護景雲元(七六七)年には『御所より光明皇后の一切経をもらい受け』、『如意法堂を建てて納め、春秋』二『回の一切経悔過を開始し、それともに財政の整備に貢献し』、『その後、東大寺少鎮・三綱のうちの寺主及び上座・造寺所知事などを歴任し』た実務面でも優れた名僧である。なお、若狭おばま観光協会公式サイト内「お水送り」によれば、これに合わせて、事前(奈良東大寺二月堂での修二会(しゅにえ)の「お水取り」は現在、三月十二日に行われる)に、現在は毎年三月二日に小浜市神宮寺で「お水送り」が行われている(地図と写真有り)。それによれば、『その「お香水」は、若狭鵜の瀬から』十『日間かけて奈良東大寺二月堂「若狭井」に届くといわれてい』るとあり、小浜市神宮寺の方の『「お水送り」は午前』十一『時、下根来八幡宮で営まれる山八神事から行事はスタート。神宮寺僧と神人がカシの葉に息を吹きかけ、手を交差させて後ろに投げます。これは、体内に宿った悪霊を振り払うためです。それから赤土をお神酒で練ったものをご祈祷してからなめて、残り土で柱に「山」と「八」の字を書き込みます』。『午後』一『時からは神宮寺境内において弓打神事。紫の装束に身を包んだ氏子代表が古式にのっとり』、三十『メートルほど離れた的に向けて弓を放ちます』。『午後』五『時半ごろ、白装束の僧がホラ貝を吹きながら』、『山門をくぐり入場します』とある。

「牛王」牛頭天王(ごずてんのう:本邦で生まれた神仏習合神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされる一方、蘇民将来説話の武塔神(むとうのかみ)と同一視され、薬師如来の垂迹であるとともに、スサノオの本地ともされ、陰陽道では天道神と同一視された。道教的色彩の強い神であるが中国の文献には見られない)の護符である「牛玉宝印」。独特の書体で書かれ、戸口に貼ったり、木の枝に挟んだり、病人に用いるなどして、厄除け・降魔(ごうま)を目的とする。起請文を書くための紙としても用いられた(ウィキの「牛頭天王に拠る)。

「遠敷〔おにふ〕郡」若狭国にあった旧郡(現在の小浜市の大部分と他一部が含まれる)。詳しくはウィキの「遠敷を参照されたい。

「おにふ明神」「遠敷明神」現在の福井県小浜市(上社・福井県小浜市龍前(りゅうぜん)/下社・福井県小浜市遠敷(おにゅう))にある若狭彦神社。若狭国一宮。下社は(グーグル・マップ・データ)。上社はその南一キロ強の位置にある。]

諸國里人談卷之四 ㊆水邊部 水辯

 

諸國里人談卷之四   菊岡米山翁著

  ㊆水邊部(すいへんのぶ)

    ○水辯(みづのべん)

水は坎(かん)の象(かたち)なり。其文(もん)、横にする時は、則〔すなはち〕、「☵」とす。縱にする時は、則、「※[やぶちゃん注:「※」には「☵」を九十度回転させたもの(縦にしたもの)がここに入る。以下同じ。す。其體(たい)は純陰、其用(やう)は純陽、上(のぼ)時は雨露霜雪(うろさうせつ)たり。下時は海河泉井(かいかせんせい)たり。流止(りうし)・寒温(かんうん)は、氣の鍾(あつまる)所、既(すでに)、異(こと)也。甘淡(かんたん)・鹹苦(かんく)は味(あじはひ)の入〔いる〕所、同じからず。水は萬化(ばんくは)の源(みなもと)たり。土は万物(ばんぶつ)の母たり。飮(のむ)は水に資(より)、食(しよく)は土に資(よる)。飮食(いんしい[やぶちゃん注:ママ。])は人の命脉(いのち)なり【「本艸」。】。水は火より柔(やはらか)にして、水の患(うれひ)は火より慘(はなはだ)し。火は避(さく)べし。水は避(さく)べからず。火は撲滅(うちけす)べし。水は如何ともする事なし。男女陰陽(いんよう)の氣性(きいせい)、然(しか)なり。○「茶經〔ちやきやう〕」云〔いはく〕、『山水を上とす。江水、これに亞(つ)ぐ。井の水、下とす【下略。】』。○「谷響集〔こつきやうしふ〕」云、『沙(すな)を盆に、又、盆に水をし添へ、滿つるに、溢(こぼ)れず。沙水(すなみづ)、同処にして、兩(ふたつ)ながら相礙(あいさはら)ず。復(また)、塩一升を以〔もつて〕、一升の水に和(まぜ)るに、其水、増(ま)さず。

[やぶちゃん注:基本、陰陽五行説に基づいた「水」の総論と分類学。前半の「本草綱目」のそれは、巻五の目録「水部」冒頭にある以下。但し、これと同じ部分を寺島良安は「和漢三才図会」の巻第五十七「水類」の冒頭の「水」で引いているから、やはり沾涼はそれを参照(孫引き)している可能性が濃厚である。

   *

李時珍曰水者、坎之象也。其文橫則爲、縱則爲※。其體純陰、其用純陽。上則爲雨露霜雪、下則爲海河泉井。流止寒溫、氣之所鐘、既異。甘淡鹹苦、味之所入不同。是以昔人分別九州水土、以辨人之美惡壽夭。蓋水爲萬化之源、土爲萬物之母。飮資於水、食資於土。飮食者、人之命脈也。而營衞賴之。

   *

「坎(かん)」易卦の八卦の一つ。「」で示され、下から初爻(こう)は陰、第二爻は陽、第三爻は陰で構成される(爻は一つの横棒と真ん中が途切れた二つの短い横棒の二種があり、「経(けい)」(儒教原典)では前者を「剛」、後者を「柔」と呼ぶが、「伝」(儒教経典の注釈書)では「陽」と「陰」とする。陽爻と陰爻は対立する二面性を表わし、陽爻は男性・積極性などを、陰爻は女性・消極性などを表わす。これらを三つ組み合わせた三爻により八卦が、六爻により六十四卦が作られる。このように陽爻と陰爻を組み合わせることにより事物のさまざまな側面を説明する)。ウィキの「坎」によれば、『原義は「外陽にして中は陰」。外側に陰柔の卦があるが、内部は陽剛である。「中に何かがある」と捉え』、『水・陥・豕・耳・秘密・姦計・色情・専門性・交渉・冷静・重病・中男などを象徴する。方位としては北(地支では子)を示す。実際の占断で坎の卦がでると』、『病勢は重症か、かなりの困難を考えなければいけない』とある。ここで「」をわざわざ縦にして「」と示す意味は易に興味がない私にはよく判らぬ。但し、要はこの八卦は純粋な時空間を示す記号であるから、縦で示すことで、それらを全的に表示することが出来ると考えているいるものかも知れない。或いはこの横と縦のデザインが示すところから「水」「川」「雨」などのシミュラクラを狙った確信犯かも知れない。比喩好きの中国人ならば有り得るようには思う。

「鍾(あつまる)」「集まる」に同じい。

「茶經」唐(八世紀頃)の陸羽によって著された、当時の茶に関する知識を網羅した書。「五之煮」に『其水、用山水上、江水中、井水下』と出る。以下前後の省略部は中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のを参照されたい。

「谷響集」「寂照堂谷響集」。江戸前期の真言僧泊如運敞(はくにょうんしょう 慶長一九(一六一四)年~元禄六(一六九三)年:大坂出身の智山派最大の学匠。十六歳で出家し、智積院の日誉・元寿に師事し、醍醐寺の寛済らからも密教を修学した。また他に師を求めて華厳・法相・天台等も学んでいる。寛文元(一六六一)年、智山第七世能化(学頭)に就任。綱紀を粛正し、将軍家綱や後水尾上皇の帰依を受け、智山派黄金時代を築いた。文献学や実証研究に優れた。霊力も抜群で、寛文八(一六六八)年の大旱魃の際には雨乞の祈請を成就したとされる)が、能化を辞し、寂照堂に隠棲していた頃、来客の質疑に応じて説いたものを、侍者に筆録させて成ったものが原型で、元禄二(一六八九)年の板行に際し、自ら「谷響集(こっこうしゅう)」と名づけたもの。探すのに苦労したが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該箇所を視認出来た。左頁冒頭の「盆沙水不ㇾ溢附鹽水」である。以下、それ(塩水が増えないこと)は何故か? という答えは、

   *

鹽從ㇾ水出。得ㇾ水依舊。

   *

「鹽は水より出づ。水を得れば、舊に依ればなり。」であろうか。]

諸國里人談卷之三 寒火 / 諸國里人談卷之三~了

 

    ○寒火(かんくは)

「本草綱目」云〔いはく〕、『南海の中に蕭丘山(しやうきうさん)あり。上に自然の火、有〔あり〕、春、生じ、夏、滅す。一種の木を生ず。但(たゞし)、小(すこし)焦げ、黑色(くろいろ)なり。又、云〔いふ〕、火山軍(くはざんぐん)、其地、鋤耘(しようん)する事、深く入〔いるる〕時は、則(すなはち)、烈焰(れつえん)あり。種(もの)を植(うゆる)に妨(さまたげ)ず。亦、寒火也矣。』。是、越後入方の火の類ひなり。

   里人談三終

[やぶちゃん注:明の本草家李時珍の「本草綱目」(一五七八年完成・一五九六年上梓)の巻六の「火」の冒頭「陽火・隂火」からの引用。本「光火部」冒頭の「火入方火の注で出して注も附したが、今回、ゼロから始めて再考し、詳注を施しておく。

   *

有蕭丘之寒火【蕭丘在南海中、上有自然之火、春生秋滅。生一種木、但小焦黑。出「抱朴子外篇」。又陛游云、火山軍、其地鋤耘深入、則有烈熖、不妨種植。亦寒火也。】。

○やぶちゃんの書き下し文

「蕭丘の寒火」、有り【『蕭丘は南海中に在り、上に、自然の火、有り。春、生じ、秋、滅す。一種の木を生ず。但し、小し焦げて、黑し。』と「抱朴子外篇」に出づ。又、陛游云はく、「火山軍、其の地、鋤耘(じようん)すること、深く入るるときは、則ち、烈熖有り。種(たね)を植うるには妨げられず。亦、寒火なり。」と。】。

   *

『土地を耕す際に鋤を深く入れると、激しい焔が噴き出て、種子を植えることが妨げられる。これは「寒火」である』というのだが、何故、「寒火」なのかは判らぬものの(ここでは農作物の種を植える分には問題がないから「寒火」だとするのは私には全くの半可通としか思えない)、この記載のそれは天然ガスか或いは「蕭丘」が南海中とするならば或いはメタン・ハイドレート(methane hydrate:低温且つ高圧の条件下でメタン分子が水分子に囲まれた、網状の結晶構造を持つ包接水和物の固体)のようなものかも知れないと思ったりする。

「蕭丘山」(原典には「山」」はない)不詳。原典の引用が葛洪の神仙術書「抱朴子外篇」(三一七年完成)のであるから、実在しないと考えた方がよい。従って、そこに生えるという少し焦げた(ように見える)黒質の木も実在しないと考える。尤もツツジ目カキノキ科カキノキ属 Diospyros の黒檀(Ebony:エボニー)等がモデルかも知れぬが。

「陛游」南宋の政治家で詩人として有名な、「南宋四大家」の一人である陸游(一一二五年~一二一〇年)のことか。「古名録」(江戸後期の紀州藩藩医で本草学者・博物学者でもあった源伴存(ともあり 寛政四(一七九二)年~安政六(一八五九)年:別号・畔田翠山(くろだすいざん)の名物書(辞典)。全八十五巻)のこち同一箇所引用(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)では「陸游」となっている。

「火山軍」山西省河曲県とその東北に接する偏関県一帯の旧称(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「鋤耘」畑地を掘り返して耕すこと。]

2018/07/11

諸國里人談卷之三 火浣布

 

    ○火浣布(くはくわんふ)

元祿のころ、長崎の住花明(くわめい)といふ人【はいかい師也。】、小袋(こぶくろ)を所持しけり。白茶宇(ちやう)の地組(ぢぐみ)なるもの也。これを「火浣布」といふとぞ。中華雲南省の南海に火山(くはさん)といふ所あり。其山の洞(ほら)に常に火熖あり。その中に、鼡(ねづみ)あつて、火を喰(くら)ふ。毛、長く細くして、糸のごとし。捉(とらへ)て水中に入〔いる〕れば、則(すなはち)、死す。その毛を紡績して、布に織(をり)、用(もちゆ)るなり。垢(あか)づける時は、火中に入〔いれ〕て、これを燒くに、淸(きよ)うして本のごとしと云。唐(もろこし)にても此布を本奔(ほんぽう)しけるにや。淸(せい)明(みん)戰ひの時、明朝より、國性爺(こくせんや)を味方に賴むに、數(かず)の宝を贈りけるが、その中に、是、一なり。

[やぶちゃん注:「火浣布」(かかんふ)は石綿糸(せきめんし)で織った不燃性の布のこと。煤(すす)や垢などの汚れも火の中に投入して焼けば、布は燃えず、汚れだけが落ちるところから、「火で浣(すす)ぐ(=濯ぐ)」という意で、この名がある。石綿布とも称し、アスベストの一種。耐熱性耐火性に優れており、高熱作業や汽缶などの保温用に使われた。中国では古くからこの製法が知られていることを青木昆陽が指摘している。日本では、本書刊行(寛保三(一七四三)年)から二十一年後の明和元(一七六四)年、かの博物学者平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年:彼は鉱山技師でもあった)が秩父山中で発見した石綿を用いて、中川淳庵らとともに製作したものが国産第一号とされる(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。現在は肺線維症・肺癌・悪性中皮腫の原因物質として使用が禁止されている。理科実験の五徳の石綿が懐かしい。但し、古くから存在は知られており、ここにある通り、中国南部の火山に住むとされた想像上の動物である「火鼠」の毛で織り、汚れたら、火に投げ入れれば、汚れが燃え落ち、本体は焼けることがないと伝えられた織物として「竹取物語」にも「火鼠(ひねずみ)の皮衣(かはごろも)」として、右大臣あべのみむらじへ出される難題として登場し、中国人のイカサマ商人「わうけい」を介して入手するも、かくや姫が火の中へくべさせると「めらめらと」美事に焼けてしまう。

「元祿」一六八八年~一七〇四年。

「住花明」全く不詳。「長崎」といい、俳号としても如何にも日本人離れした名前であるが、俳諧師とする以上、日本人なのであろう。

「茶宇(ちやう)」「茶宇縞」(ちゃうじま:現代仮名遣)の略。インドのチャウル地方から産出し、ポルトガル人によって伝来したことからの名称。琥珀織りに似て、軽く薄い絹織物。日本では天和年間(一六八一年~一六八四年)に京都で製出した。主に袴地に用いられた。こういうものらしい(サイト「染織のホーム」)。

「地組(ぢぐみ)」不詳。織物全体の基本の織りを指すか。

「中華雲南省の南海に火山(くはさん)といふ所あり」不詳。現在の海南省の大部分を占める海南島を指すか。最高のピークは五指(ウーチー)山で千八百四十メートル(ここ(グーグル・マップ・データ))。鉱物資源の豊富な島ではある。

「本奔(ほんぽう)」不詳。ある対象求めるために、何もかも擲って「本」気で奔走するの意か。

「淸(せい)明(みん)戰ひ」七世紀初頭、明の冊封下に於いて満洲に住む女直(ジュルチン・女真族)の統一を進めたヌルハチ(太祖)が一六一六年に建国した後金国が清の前身で、ここから南下して明の制服を狙って、明とは戦争状態となる。一六一九年にヌルハチが「サルフの戦い」で明軍を破り、さらにその子ホンタイジが渤海の北の明の領土と南モンゴルを征服、一六三六年に女真族・モンゴル人・漢人の代表者が瀋陽に集まって、大会議を開き、そこで皇帝として即位するとともに女真の民族名を満洲に改めた。ついで一六四四年、明では農民反乱指導者李自成が北京を攻略、西安に入った李自成は国号を順(大順)改め、この地で順王を称して明は滅んだ。しかし、同年、清は明の遺臣呉三桂の要請に応じて万里の長城を越えて李自成を破り、清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した。

「國性爺(こくせんや)」明の軍人で遺臣の鄭成功(ていせいこう 一六二四年~一六六二年)。諱は森。字は明儼。日本名は福松。日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川マツの間に生まれた。父鄭芝龍は福建省泉州府の人で、「平戸老一官」と称し、平戸藩主松浦隆信の寵を受け、川内浦(現在の長崎県平戸市川内町字川内浦)に住んで、田川マツを娶った。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼時は平戸で過ごしたが、七歳の時、父の故郷福建に移った。鄭一族は泉州府の厦門島・金門島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のため、私兵を擁して武力を持っていた。十五歳で院考に合格、泉州府南安県の生員になった。以後、明の陪都(国都に準じる扱いを受けた都市)南京で東林党の銭謙益に師事した。清に滅ぼされようとしている明を擁護して抵抗運動を続け、台湾に渡り、鄭氏政権の祖となった。様々な功績から、南明(明の皇族によって一六四四年から一六六一年までの間、華中・華南に建てられた明の亡命政権)の第二代皇帝隆武帝は、明の国姓である「朱」と称することを許したことから「国姓爺」とも呼ばれた(但し、鄭成功は固辞している)。台湾・中国では民族的英雄として人気が高く、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文・蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。本邦では、日中の混血児であることと明への忠節のゆえに「和唐内」と愛称されたこと、近松門左衛門の名作浄瑠璃「国性爺合戦」で、やはり人気が高い。隆武帝の軍勢は北伐を敢行したものの、大失敗に終わり、隆武帝は殺され、彼の父、鄭芝龍は抵抗運動に将来性を認めず、清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めたものの、彼は翻意せず、ここで父子は今生の別れを告げた。その後、鄭成功は広西にいた万暦帝の孫朱由榔を明の正統と奉じ、抵抗運動を続け、厦門島を奇襲して従兄弟達を殺すことによって鄭一族の武力を完全に掌握した。一六五八年、鄭成功は北伐軍を立ち上げたが、南京で大敗、勢力を立て直すために台湾を占領してそこを拠点とすることを目論んだ。当時の台湾はオランダ東インド会社が統治していたが、鄭成功は一六六一年に澎湖諸島を占領した後、同年三月からゼーランディア城(知らない方は私の「佐藤春夫 女誡扇綺譚 / 一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址」の冒頭の注を参照されたい)を攻撃、翌一六六二年二月、遂にこれを落として、オランダ人を一掃、台湾に鄭氏政権を樹立、ゼーランディア城跡に安平城を築いて王城として清に対峙する国家体制を固めたものの、熱病に罹患し、死去した(以上は主にウィキの「鄭成功に拠った)。

「數(かず)の」沢山の。]

諸國里人談卷之三 入方火

 

    ○入方火(いりかたのひ)

越後國蒲原郡(かんばらこほり)入方村、庄右衞門と云〔いふ〕村長(むらおさ)の居宅(きよたく)の庭に、火の燃出(もへ〔いづ〕[やぶちゃん注:ママ])る穴あり。常は石臼を以〔もつて〕、蓋(ふた)とす。其臼の穴より、炬松(たいまつ)のごとく、嚇々(かくかく)として、家内(かない)を光(てら)し、燈火(よゐのひ[やぶちゃん注:ママ。])に十倍す。夜(よる)は、近隣の家々に大竹を以〔もつて〕筧(かけひ)とし、あなた此方(こなた)へわたし、此火をとり、夜(よる)の營(いとなみ)のあかしとする也。陰火なれば、これがために物を燒(やか)ず。希代(きだい)の重宝なり。寒火(かんくわ)といふは、是なり。

[やぶちゃん注:挿絵有り(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの①の画像)。この話は私の橘崑崙の「北越奇談 巻之二 古の七奇」(文化九(一八一二)年刊。本書(寛保三(一七四三)年刊)の六十九年後)の「火井(くはせい)」で詳細に語られてある(しょぼくらしい本挿絵より遙かに勝れた葛飾北斎の絵もある)ので参照されたい。言わずもがなであるが、これは無論、天然ガスである。石油が地熱で温められて気化し、概ね、地層が地上に向かって山型に曲がった部分に溜まったもので、成分の殆んどはメタン(CH4)で、有害な一酸化炭素は含まれていない。空気より軽いため、家屋内では高い所(天井)に貯留する。この話は例えば、寺島良安の「和漢三才図会」の巻第五十八の「火類」の「寒火(かんくは)」にも載る。同項目は冒頭にまさにこの次の次の「寒火」に引く明の李時珍の「本草綱目」を引用しており、私は多分に沾涼は「和漢三才図会」(正徳二(一七一二)年頃刊)を参照したのではないかと考えている。以下にここに関わる当該部を示す。

   *

越後蒲原郡入方村寛文年中初出寒火有村長名莊右衞門構宅圍之用一磨蓋火光出於磨孔而嘗不假燈油隣家亦用筧取光橫斜數條任意其竹木紙帛觸之而不焚也晝則覆石塞孔於今無斷絶所謂火山軍寒火之類而實是陰火也

○やぶちゃんの書き下し文

越後の蒲原(かんばら)郡入方村に、寛文年中[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年]、初めて寒火を出(いだ)す。村長有り、莊右衞門と名づく。宅を構へて之れを圍み、一磨(うす)を用ひて火を蓋(おほ)ふ。光、磨(うす)の孔より出でて、嘗(かつ)て燈油を假(か)らず[やぶちゃん注:用いない。]。隣家にも亦、筧(かけひ)を用ひて光を取りて、橫斜[やぶちゃん注:傾斜をつけて横に配することであろう。]數條、意に任す[やぶちゃん注:ガスの分配使用を許可したのである。]。其れ、竹木・紙・帛(はく[やぶちゃん注:布。])、之れに觸れて焚(やか)ず。晝(ひる)、則(すなはち)、石を覆ひて孔を塞ぐ。今に於いて斷絶無し。所謂(いはゆ)る「火山軍の寒火」の類ひにして、實(げ)に是れ、「陰火」なり。

   *

「火山軍」山西省河曲県とその東北に接する偏関県一帯の旧称(ここ(グーグル・マップ・データ))。「本草綱目」に出る。本「諸國里人談卷之三」最終条の「寒火」を参照。

なお、沾涼の本記載に遅れること五十二年後の天明六(一七八六)年刊の橘南谿著「東遊記」(但し、こちらは実見旅行記)にも出、そこでははっきり「如法寺村」「百姓庄右衞門」とある。この話は鈴木牧之著「北越雪譜」の「三之卷」の「地獄谷の火」の冒頭に記されおり(同巻は天保一二(一八四一)年刊)にも載る(そこでは「莊衞右ヱ門」)、牧之の執筆時に現役であったとすれば、ガス発見の寛文年中から実に百八十年もの間、噴出し続けていたことになる

「越後國蒲原郡(かんばらこほり)入方村」現在の新潟県三条市如法寺(にょほうじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。沾涼は「いりかた」とルビするが、これは実は前に掲げた「北越奇談」で判る通り、これで実は「入方村(によほうじむら)」と読む。寺社名の神聖を憚って漢字表記を変えるのは民俗社会では普通に行われる。

「陰火なれば、これがために物を燒(やか)ず。希代(きだい)の重宝なり。寒火(かんくわ)といふは、是なり」完全に誤り。ちゃんと焼けちゃいますよ、沾涼はん!]

諸國里人談卷之三 油盗火

 

    ○油盗火(あぶらぬすみのひ)

近江國大津の八町(〔はつ〕てう[やぶちゃん注:ママ。])に、玉のごとくの火、竪橫に飛行(ひぎやう)す。雨中(うちう)には、かならず、あり。土人の云〔いはく〕、「むかし、志賀の里に油を賣ものあり。夜每(よごと)に『大津辻(つじ)の地藏』の油をぬすみけるが、その者、死(しゝ)て、魂魄、炎(ほのう[やぶちゃん注:ママ。])となりて、迷ひの火、今に消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])ずとなり。

○又、叡山の西の梺(ふもと)に、夏の夜、燐火(おにび)、飛ぶ。これを「油坊(あぶらぼん)」といふ。因緣、右に同じ。七條朱雀(しゆじやく)の「道元が火」、みな、此類ひなり。これ、諸國に多くあり。

[やぶちゃん注:「近江國大津の八町」滋賀県大津市の入り口にあった八つの町とも、現在、「本陣跡碑」の立つ通りを「八町通り」と呼ぶが、ここは前の、上関寺町((グーグル・マップ・データの「大津百町(概略)」内))から「本陣跡碑」の西側の町「札の辻」((グーグル・マップ・データ))までの距離が八町(約八百七十二メートル)あったからとも、その間に八か町あったことによるとも言われている。東海道筋の旅籠町である。

「大津辻(つじ)の地藏」不詳であるが、話柄から考えて、この現在の「八町通り」沿いにあったものであろう。

「油坊(あぶらぼん)」不詳。日文研「怪異・妖怪伝承データベース」()では本条を出所として記す。

『七條朱雀(しゆじやく)の「道元が火」』不詳。「七條朱雀」は七条大路と朱雀大路との交差点。附近(グーグル・マップ・データ)。道元は僧名っぽいが、かの道元とは無縁であろう。]

諸國里人談卷之三 狐火玉

 

    ○狐火玉(きつねのひだま)

元祿のはじめの頃、上京(かみぎやう)の人、東川(ひがしがわ[やぶちゃん注:ママ。])へ夜川(よ〔かは)〕に出〔いで〕て、網を打(うち)ける。

加茂の邊(へん)にて、狐火(きつねび)、手もとへ來りしかば、とりあへず、網を打かけゝれば、一聲(ひとこへ[やぶちゃん注:ママ。])鳴(ない)て、去りぬ。

網の中に、光るもの、とゞまる。

玉のごとくに、その光り、赫々(かく〔かく〕)たり。

家に持歸り、翌日(あけのひ)、これを見れば、その色、うす白く、鷄(とり)の卵のごとし。

晝は光(ひかり)なし。夜(よ)に入れば、輝(かゝや)けり。

夜行(やかう)の折から、挑灯にこれをうつせば、蠟燭より明らか也。

「我(わが)重宝。」

とよろこび、祕藏してけり。

ある時、又、夜川に出けるが、かの玉を紗(しや)の袋に入〔いれ〕、肘(ひぢ)にかけて網を打しが、大さ、一間ばかりの、大石とおぼしきもの、川へ、

「ざんぶ。」

と落(おち)て、川水、十方(じつぽう)へ、はねたり。

「これはいかに。」

と驚く所に、玉の光、消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。

袋をさぐれば、ふくろ、破れて、玉、なし。

二、三間むかふに、光りあり。

「扨はとりかへさる。」

と口おしく、網を擔〔になひ〕て追行(おひゆき)しが、終にとり得ずして、むなしく歸りぬ。

[やぶちゃん注:直接話法が多いので、特異的に改行した。

「元祿のはじめ」元禄は一六八八年から一七〇四年までの十七年。

「東川」京の東を流れる賀茂川の異称。対語は西を流れる桂川の「西川」。

「夜川」は「夜川網漁」(よかわあみりょう:現代仮名遣)即ち、夜の川漁のこと。但し、狭義には「鵜飼い」をする川に於いて夜に行う漁に用いる語であるらしい。

「加茂の邊」より山が近い上賀茂神社と採っておく。別に、当時の下賀茂神社でも草木深くはあるから、それを外すものではない。

「一間」約一メートル八十二センチ。

「二、三間」三メートル六十四センチから五メートル四十五センチほど。]

諸國里人談卷之三 千方火

 

    ○千方(ちかたの)火

勢州壱志郡〔いしのこほり〕家城〔いへき〕の里、川俣川の水上より、挑灯(ちやうちん)ほどなる火、川の流(ながれ)にそひて、くだる事、水より、はやし。これを「千方の火」といふ。むかし、藤原の千方は此所に住しけると也。大手の門の礎(いしずへ)の跡、今に存せり。それより、簱屋(はたや)村・的場村・丸之内村・三之丸・二の丸・本丸といふ村々あり。今、凡(およそ)七千石程の所なり。千方は今見(まみ)大明神と云。則(すなはち)、此所のうぶすな也。

[やぶちゃん注:最後の「と云。則(すなはち)、此所のうぶすな也。」の部分はでは割注形式で小さく二行に書かれているが、続いていて割注ではおかしく、これはがここが帖の終りで詰めた結果であるので、に従った。

「壱志郡家城」「川俣川」これは思うに、「卷之二 窟女」と同じロケーションではないか? そこで私はそちらの「勢州壱志郡川俣川」について、『「壱志郡」は一志(いちし/いし)と読み、伊勢国及び旧三重県にあった郡。しかし、「川俣川」という川は不詳。「川俣」という地名はあるが、ここは旧一志郡内ではない。しかし、後の「川向(〔かは〕むかひ)の家城村」が判った。これは「いえきむら」で、現在の三重県津市白山町南家城を中心にした一帯である。(グーグル・マップ・データ)。現在、ここを貫流する川の名は「雲出川」であるが、一つのロケーションの可能性は雲出川が東へ屈曲する辺りか。東から支流が入って俣になっているからである』と述べた。ここでもそれに従いたい。

「藤原の千方」平安時代に鬼を使役したとされる豪族で、同名の人物は藤原秀郷の子であった千常の子(「尊卑分脈」)に見え、或いは千常の弟ともされる。但し、後に示す「太平記」のそれは天智天皇の御世としていて話が合わない。ウィキの「藤原千方の四鬼」によれば、『三重県津市などに伝えられる伝説の鬼』で、『様々な説があるが、中でも『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事が最も有名』とし、『その話によると、「藤原千方」は、四人の鬼を従えていた。どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき。「怨京鬼」と書く事も)である。藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になる』。『他の伝承では、水鬼と隠形鬼が土鬼(どき)、火鬼(かき)に入れ替わっている物もある。 また、この四鬼は忍者の原型であるともされる』とある。「太平記」巻第十六「日本朝敵事」の当該の一節は以下である(新潮日本古典集成版を元に恣意的に漢字を正字化した)。

   *

また天智天皇の御宇に藤原千方(ちかた)といふ者有つて、金鬼・風鬼・水鬼・隱形鬼(おんぎやうき)といふ四つの鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立たず。風鬼は大風(たいふう)を吹かせて、敵城を吹き破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地(ろくち)に溺(でき)す。隱形鬼は其形を隱して、にはかに敵をとりひしぐ。かくの如くの神變、凡夫の智力を以て防ぐべきにあらざれば、伊賀・伊勢の兩國、これがために妨げられて王化に從ふ者なし。ここに紀朝雄(きのともを)[やぶちゃん注:不詳。]といひける者、宣旨をかうむつて、かの國に下り、一首の歌を讀みて、鬼の中へぞ送ける。

 草も木も我大君の國なればいづくか鬼の棲(すみか)なるべき

四つの鬼、此歌を見て、「さては、我等、惡逆無道の臣に從つて、善政有德(うとく)の君を背(そむ)き奉りける事、天罰遁るるところ無かりけり」とて、たちまちに四方に去つて失せにければ、千方、勢ひを失ひて、やがて、朝雄に討たれにけり。

   *

 また、落王氏のサイト「U-dia」の「藤原千方伝説を訪ねて」には、『首謀者の藤原千方は、家城付近の雲出川の岸の岩場で酒宴をしてゐるところを、対岸から紀友雄に矢で射られて死んだ(または、一騎打ちに望んだが激戦の末生け捕られた)。千方は首を切られ、その首は川を遡って川上の若宮社の御手洗に止まったので、若宮八幡宮にまつられたと言う。この地方では節分に「鬼は外」とは言はない。鬼は人と神の仲取り持ちをする眷族とされるからで、伊勢・伊賀地方では鬼に関はる行事も多いといふ。紀友雄は勝ちどきを上げ』『、志賀の都(近江)へと帰還した。千方が籠もったと言われる千方窟は忍者発祥の地と言われ、かつての伝説を今に伝えている』とあるのであるが、この『家城付近の雲出川』とはまさに私がここのロケーションと否定した先の地と完全に一致し、「千方窟」(三重県伊賀市高尾中出。(グーグル・マップ・データ))は家城はここから東北東九キロメートルと比較的近い(画面右中央が家城)のである。さらに、落王氏の上記のページの下方からリンクされてある窟」訪問記録ページを見ると(写真豊富)、ここは明らかに古い山寨の後であることがよく判り、千方城郭の正門跡とされる「大門跡」があり、そこは大門の『石柱が折損したところと言われ、西に数百メートルの大通』り『があったと伝えられる』とあって、これはまさに本文の「大手の門の礎の跡」と合致すると言える。

「簱屋(はたや)村・的場村・丸之内村・三之丸・二の丸・本丸といふ村々あり」現在の三重県津市及び伊賀市には孰れにも「的場」や「丸之内」という旧地名は見出せる。そもそもが伊賀地方は江戸時代、伊勢津藩領である。因みに、津藩は総石高十一万八百四十三余石で、その内、伊賀郡は三万二百九十八余石であった。「七千石」というのは伊賀郡では四分の一強になるが、千方窟周辺は山間部であるから、ここは現在の津市に跨った広域で概略計算したものであろう。

「今見(まみ)大明神」不詳。「今見」もこれを「まみ」と読む読みも、私は出逢ったことがない。先の落王氏の窟」ページの「千方明神」の写真に、宝暦一〇(一七六〇)年『建立の石神で藤原千方と若宮明神(高尾 若宮神社)を祀っている』とある。ただ、「まみ」といえば、「猯(まみ)」・「魔魅」で、これは穴居性のタヌキやニホンアナグマ及びそれらに由来する妖怪であるから、穴に住んだ四鬼及びそれを使役した藤原千方のシンボライズとしては私は腑に落ちる。おぞましき悪鬼悪霊にずらした目出度い漢字名を与えて封印するのは御霊信仰の常套手段ではある。

「うぶすな」産土神。土着の古からの土地神。]

2018/07/10

諸國里人談卷之三 秋葉神火

 

    ○秋葉神火(あきはのしんくわ)

遠江國秋葉山(あきはさん)より、夜(よる)、玉のごとくの火、幾許(いくばく)ともなく空中を飛(とん)て、沖の方へ行く事、折(をり)として、あり。土人、是を「狗賓(てんぐ)の漁(りやう)あり」と云り。將(はたし)て、其二、三日は浦々の漁獵(ぎよりやう)、曽(かつ)て、なし。

[やぶちゃん注:「遠江國秋葉山」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家にある秋葉山(あきはさん)。赤石山脈南端にあり、標高八百六十六メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。詳しくは秋葉山の怪異を語る、私の 之三 秋葉の魔火の事、また、柴田宵曲 妖異博物館 「秋葉山三尺坊」を参照されたい。

「狗賓」天狗に同じい。]

諸國里人談卷之三 姥火

 

    ○姥火(うばび)

河内國平岡に、雨夜(あまよ)に、一尺ばかりの火の玉、近鄕に飛行(ひぎやう)す。相傳ふ、昔、一人の姥あり。平岡社(ひらおかのやしろ)の神燈の油を夜每(よごと)に盗(ぬすむ)。死(しゝ)て後(のち)、隣火(おにび)となると云々。さいつころ、姥火に逢ふ者あり。かの火、飛來(とびきたつ)て面前に落(おつ)る。俯(うつぶし)て倒(たをれ)て潛(ひそか)に見れば、鷄(にはとり)のごとくの鳥也。觜(はし)を叩く音、なり、忽(たちまち)に去る。遠く見れば、圓(まどか)なる火なり。これ、まつたく鵁鶄(ごひさぎ)なりと云。

[やぶちゃん注:これは沾涼にしては珍しく擬似怪奇として、正体を実在する鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax  に帰結させる手法を採っている。

「河内國平岡」現在の大阪府東大阪市枚岡(ひらおか)地区か。非常に古くは「平岡」と書いた。そこならば、「平岡社」は東大阪市出雲井町にある枚岡神社となる。(グーグル・マップ・データ)。

「鵁鶄(ごひさぎ)」夜行性のゴイサギが青白い光を放つというのは、実は、よく言われることである。また、ゴイサギはその立ち姿は何か哲学者然としたヒトのように私には見える。怪異譚は勿論、ゴイサギを妖怪や怪火と見間違えた擬似怪談も実は多い。私の 之七 幽靈を煮て食し事諸國百物語卷之五 十七 靏る)のうぐめのばけ物の事を見られたい。また、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」の「夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし」の私の注も是非、参照されたい。

諸國里人談卷之三 狸火

 

    ○狸火(たぬきび)

攝津國川邊郡東多田村の鱣畷(うなぎなはて)に燐(おにび)あり。此火、人の容(かたち)あらはし、ある時は、牛を牽(ひき)て、火を携へ、行〔ゆく〕也。これをしらぬ人、其火を乞(こひ)て、煙草をのみて相語るに、尋常(よのつね)のごとし。曽(かつ)て、害をなさず。おほくは雨夜(あめのよる)に出〔いづ〕るなり。所の人は「狸火なり」と云。

[やぶちゃん注:「攝津國川邊郡東多田村の鱣畷」現在の兵庫県川西(かわにし)市東多田(ひがしただ)附近らしい。(グーグル・マップ・データ)。]

諸國里人談卷之三 光明寺龍燈

 

    ○光明寺龍燈(くわうみやうじのりうとう)

相模國鎌倉光明寺の沖に、每年、十夜(や)の内、一兩度、龍燈、現ず。はるかの海上、雲にうつりて見ゆるなり。

[やぶちゃん注:これは神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗大本山の一つである天照山光明寺の奇譚であるが、鎌倉史を数多く手掛けてきた私にして、この話は知らなかった。今回、調べてみたところ、「祐天上人御一代記」(著者未詳・明二〇(一八八七)年金泉堂刊)の中に「鎌倉光明寺十夜影祭(かげまつり)の節(せつ)龍燈上(あが)る事」というのを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で確認出来た。ここと次のページである。読まれたい。かの江戸最強のゴースト・バスター祐天が光明寺の十夜念仏を成さんとするということで民草が群聚する中、突如、由比ヶ浜沖の『海中より龍燈出現し、大空へ上りけるを拜するにてぞ有りける。祐天も暫(しばし)見とめて拜し玉ふに、此龍燈、次第次第に近附、遂に祐天の立給ふ頭(あたま)の上に止り動かざるこそ不思議なれ。抑々(そもそも)此龍燈の事、光明寺に名僧ある時は、十夜の晩、海中より出現する例なりと申し傳へり』という分かり易い奇瑞である。

「十夜」(じゅうや)は浄土宗の法要で正しくは「十日十夜法要」という。元来は陰暦十月五日の夜から十五日の朝まで十日十夜に亙る法会(ほうえ)で、公的には室町時代の明応四(一四九五)年に光明寺第九世観誉祐崇(かんよゆうそう)上人が後土御門天皇に招かれ、宮中で「阿弥陀経」講義と念仏を修し、そこで光明寺での当該法要の勅許を得た。

「一兩度」二度。]

諸國里人談卷之三 野上龍燈

 

    ○野上龍燈(のがみのりうとう)

周防國野上庄(のがみのしやう)熊野權現に、每年十二月晦日丑の刻に、龍燈、現ず。又、西の方、五里がほどに「龍が口」といふ山より、矢を射るごとく、飛來る、神火あり。里人、これを拜して越年す。

[やぶちゃん注:恐らく、現在の山口県周南市野上町の西直近の山口県周南市権現町内にある熊野神社と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

『「龍が口」といふ山』現認出来ない。識者の御教授を乞う。]

諸國里人談卷之三 嗟跎龍燈

 

    ○嗟跎龍燈(さだのりうとう)

土佐國幡多郡(はたこほり)嗟跎岬(さだのみさき)【高知より西三十里。】嗟跎(あしずりの)明神に「天燈龍燈」あり。天に、ひとつの火、見ゆれば、同時に海中より、龍燈、現ずる也。當所に七不思議あり。〇一「天燈龍燈」。 ○「潮石(うしほいし)」 凹(なかくぼ)の石也。滿潮の時は、水、湛(たゝへ)、干泻(ひがた)の節は、水、なし。○「龍馬(りうめ)」 丑の時に、龍馬、來つて、小笹(おざゝ)をくらふ。此所の笹、のこらず、馬の喰(くひ)たるがごとし。○「震石(ゆるぎいし)」 方六尺、高〔たかさ〕四尺の石あり。そのうへに、一尺ばかりの石、有〔あり〕。六尺の石をゆすれば、上の小石、動出(うごき〔いだ)〕す。○「金石(きんせき)」 扣(たゝ)きて、鳴る音、金(かね)のごとし。○「每日雨(ひごとのあめ)」 每日、午の剋に雨降る事、今、以〔もつて〕、違(たが)はず。○「不增不滅水(ふぞうふめつのみづ)」 霖雨(ながあめ)に增さず、旱天(ひでり)に減らず。

昔、忠義(ちうぎ)上人、此所に住居し、後に普陀洛山(ふだらくさん)にわたる。時の人、名殘をおしみて、嗟跎(あしずり)をして涕悲(なきかな)しむ。それより「嗟跎寺(さたじ)」といふ。また、飼(かひ)たる犬、かなしみ死して、石となる。「犬石」とて、今にあり。土佐守忠義(たゞよし)は忠義上人の再誕といふ。諱(いみな)も判(はん)も相同(あひおな)じと云〔いへ〕り。普陀洛山は中華浙江省の嶋にて寧波府(ねいはふ)の内なり。また、梅岑山(ばいきんさん)とも云〔いひ〕、觀音の淨土也。日本の僧慧蕚(ゑがく)と云〔いふ〕人、此所を開基す。此島、今、以、出家のみ住す。九州より二百五十里あり。

[やぶちゃん注:「嗟跎岬(さだのみさき)」は現在の高知県土佐清水市にある足摺岬の古称。ここ(グーグル・マップ・データ)。中世には南方にある補陀洛(ふだらく)浄土(「補陀落」は梵語「ポタラカ」の漢音写。観音菩薩が降臨するとされた伝説上の山で、インドの南端の海岸にあるとされた)へ渡る、「補陀洛信仰」の「補陀落渡海」の有名な出航地の一つ(他に那智勝浦・室戸岬・那珂湊など)であった。四国最西端の愛媛県佐田岬(さだみさき)とは別なので注意されたい。「嗟跎」は「蹉」も「跎」も孰れも「躓(つまず)く」の意で、ぐずぐずして空しく時を失うことを言うが、ここでは「嘆いて地団駄(じだんだ)を踏むこと」の意で用いている。この「あしずり」という地名の由来譚は中世の後深草院二条の日記「とはずがたり」の巻五に出る以下の話(伝承譚紹介形式)が最も古いものの一つであるようだ。補陀落渡海説話を素材としているので、掲げておく。一九六八年岩波文庫刊を参考に、恣意的に漢字を正字化し、改行や句読点・記号を追加して示す。

   *

 これには幾程の逗留もなくて、上り侍りし。船の中に、よしある女あり。

「われは備後國和知といふ所の者にて侍る。宿願によりて、これへまゐりて候ひつる。すまひも御覽ぜよかし。」

など誘へども、

「土佐の嗟跎(あしずり)の岬と申す所がゆかしくて侍るときに、それへまゐるなり。かへさにたづね申さむ。」

と契りぬ。

 かの岬には、堂一つあり。本尊は觀音におはします。へだてもなく、また坊主もなし。ただ、修行者、行きかかる人のみ集まりて、上もなく、下もなし。

「いかなるやうぞ。」

といへば……

……昔、一人の僧、ありき。この所に、おこひて、ゐたりき。小法師一人、使ひき。かの小法師、慈悲をさきとする心ざしありけるに、いづくよりといふこともなきに、小法師一人、來て、時(とき)・非時(ひじ)を食ふ。小法師、必ずわがぶんをわけてくはす。坊主いさめていはく、

「一度二度にあらず。さのみ、かくすべからず。」

と言ふ。

 又、あしたの刻限に來たり。

「心ざしはかく思へども、坊主、叱り給ふ。これより後は、なおはしそ。今ばかりぞよ。」

とて、また分けてくはす。

 いまの小法師、いはく、

「此のほどのなさけ、忘れがたし。さらば、我がすみかへ、いざ、給へ。見に。」

と言ふ。

 小法師、語らはれて行く。

 坊主、あやしくて、忍びて見送るに、岬に至りぬ。

 一葉の舟に棹さして、南を指してゆく。

 坊主、泣く泣く、

「われをすてて、いづくへゆくぞ。」

といふ。

 小法師、

「補陀落世界へまかりぬ。」

と答ふ。

 見れば、二人の菩薩になりて、舟の艦舳(ともへ)に立ちたり。

 心憂く悲しくて、なくなくあしずりをしたりけるより、「あしずりのみさき」といふなり。

 岩に足跡とどまるといへども、坊主はむなしく歸りぬ。

 それより、

「へだつる心あるによりてこそ、かかるうきことあれ。」

とて、かやうにすまひたり、といふ。

 三十三身の垂戒化現(すゐかいけげん)、これにやと、いとたのもし。

   *

「七不思議」カッチンカチャリコズンバラリン氏のブログ「怪道をゆく(仮)」の番外編 四国のミチ 足摺の七不思議(上)本「諸國里人談」(寛保三(一七四三)年刊)より古い、長曾我部元親の一代記「土佐物語」「正徳三(一七一三)頃?)の中に出ることが判った。そこに『「惣じて此山に、七不思議あり」とあるのが』、『足摺の七不思議の初出』の『比較的早いものになる』かとされ(一部に手を加えさせて貰った)、

①「龍石」本堂の前にあり、毎夜、竜の灯がこの石の上にきて仏前を照らす。

②「夜のさヽ湖」毎夜、丑の時に本堂の庭に潮がさし、階段を浸す。

③「竜の駒の笹」夜な夜な、竜がきて、笹を食べる。歯跡があり、馬の病を治すという。

④「午時の雨」毎日午の時になると、必ず雨が降る。

⑤「潮のまこしの石」石の上の水が潮の満ち干きにあわせて増えたり減ったりする。

⑥「不増不減の水」石の上の水が雨でも日照でも増減しない。

⑦「ゆるぎの石」罪のないものが押せば動くが、罪のあるものが押そうとしても、びくともしない。

を列挙してある。これは貴重な資料としてまず念頭に置こう。特に③は他に見られない特異点である。さて、それでは現代の記載を検証してみよう。まず、サイト「あしずり温泉郷」のこちらによれば、『足摺七不思議は』七『つだけではなく、実際には二十一もあるといわれて』おり、『弘法大師や金剛福寺にまつわる不思議が多いのが足摺七不思議ならではであ』るとし、「地獄の穴」・「大師の爪書き石」・「亀呼び場」・「一夜建立ならずの華表(とりい)」・「寝笹」・「汐の満干手水鉢」・「亀石」・「ゆるぎ石」の他、「竜の駒」・「行の岩」・「鐘石」・「ア字石」(「ア」は梵字種子の「阿」のこと)・「亀呼び石」・「竜の遊び場」・「犬塚」・「午時の雨」・「クワズイモの群生地」・「天灯松」・「竜灯松」・「汐吹きの穴」(ここまでで二十)があると記す。そこに出る金剛福寺というのは足摺岬にある真言宗蹉跎山(さだざん)補陀洛院(ふだらくいん)金剛福寺(本尊千手観世音菩薩・四国八十八箇所霊場第三十八番札所)で、この話のメイン・ロケーションの一つ。ウィキの「金剛福寺」によれば、『寺伝によれば』、弘仁一三(八二二)年、『嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。寺名は、五鈷杵は金剛杵ともいわれそれから金剛を、観音経の「福聚海無量」から福を由来したとされている』。『歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している』。『鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。南仏を「南仏房」と記す史料もあり、南仏(房)は慶全の別名であったとみられる』。『室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが』、『江戸時代に入っても土佐藩』第二『代藩主山内忠義が再興した』とある。また、足摺岬の観光パンフレット(カラー版・PDF)では、「足摺岬の七不思議」として遊歩道の途中にあるものを弘法大師所縁のものとして紹介、そこでは①「亀石」・②「汐の満干手水鉢」・③「ゆるぎ石」・④「地獄の穴」・⑤「弘法大師の爪書き石」・⑥「亀呼場」・⑦「大師一夜建立ならずの華表」を挙げて、それぞれに簡単な説明がある。また、このパンフには、足摺岬の先端近くの海岸段丘の一角には縄文早期(紀元前五千年頃)から弥生時代にかけての石器や土器片が数多く出土しているとし(唐人駄場遺跡)、『一帯にはストーンサークルと思われる石の排列や、高さ』六~七メートルも『ある巨石が林立する唐人岩があり、太古の巨石文明の名残りでははいかと言われている』とあって、この「七不思議」に含まれる怪石・奇石の幾つかも、そうした古代人の遺物・遺跡である可能性もあるのかも知れない。さらに、トラベル・サイト内のアルデバラン氏の「金剛福寺」の訪問記(写真多し。必見)に画像である同寺のパンフレット「足摺山七不思議(遺跡)案内図」を見ると(それぞれ解説有り。必見)、①「天灯竜灯の松」・②「力の石」・③「動揺の石(ゆるぎの石)」・④「不増不滅の手水鉢」・⑤「潮の満干の手水鉢」・⑥「亀石」・⑦「亀呼場」・⑧「一夜建立の鳥居」・⑨「名号の岩」・⑩「地獄の穴」・⑪「阿字石」・⑫「展望台(燈明台)・⑬「天狗の鼻」の十三名数を掲げてある。なお、この内、「嗟跎」という地名に関わる重要な一つとして⑬「天狗の鼻」がある。そこには『昔』、『金峯上人(行の行者)』、『天魔(天狗)』が修行を『障害するにつき』、『一指をあげて降したるに』、『天魔』、『嗟跎して退散したるにより』(この「嗟跎」は先に挙げた正しい意味である)、『嗟跎山と云ふなり。役の行者は二鬼を使って全国の天狗を集めたと云はれ当山の天狗は放生坊と云ひ両面一蘆の天狗と縁起に見られる』とある。「天狗の鼻」という海に突き出た名所も足摺岬にはある(「土佐清水さかなセンター足摺黒潮市場」の足摺の名所・七不思議」参照)。

「天燈龍燈」金剛福寺パンフレットや、「土佐清水さかなセンター足摺黒潮市場」足摺の名所・七不思議」によれば、金剛福寺の尊海法親王(調べて見たが、法親王なのに事蹟不詳である。ウィキの「金剛福寺」の『室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた』とあるのが唯一知り得た事実である。識者の御教授を乞う)の書いた「嗟跎山縁起」の中に「天灯松樹に輝き、竜灯佛前を照す」云々とあり、本堂前に松の大木があったが、現在はその跡をとどめるのみである、とある。

「潮石(うしほいし)」先の「潮の満干の手水鉢」である。

「龍馬(りうめ)」先の「竜の駒」であろうが、不詳。「龍馬」自体は中国や日本に伝わる馬と竜の合わさった想像上の動物である。それが「來つて、小笹(おざゝ)をくら」うために、「此所の笹、のこらず、馬の喰(くひ)たるがごとし」というのは、笹の縁(へり)が岬特有の強い潮風によってささくれ裂け千切れているのをそう見たものであろう。

「震石(ゆるぎいし)」金剛福寺パンフレットによると、『弘法大師当山開山の砌』、発見した石とし、『この岩のゆるぎの程度により』、『心の善悪を試す岩と云』う、とある。

「金石(きんせき)」先の「鐘の石」であろう。これは前の「釣鐘石」で注した、非常に高く有意に強い金属音がする、火山岩の安山岩の一種であるサヌカイト(sanukite:讃岐岩(さぬきがん))なのではなかろうか。

「每日雨(ひごとのあめ)」先の「午時の雨」。「うしどきのあめ」と訓じておく。これは現実的にあり得そうになく、一番先に亡んでしかるべき名数という気はする。大きな滝か何かが近くにあれば別だが。

「不增不滅水(ふぞうふめつのみづ)」金剛福寺パンフレットによると、『平安期の中頃』、『賀登上人とその弟子日円上人が補陀落渡海せんとした時』、『弟子日円上人が先に渡海したので賀登上人は大変悲しみ』、『岩に身を投げ』、『かけ落ちたる涙が不増不滅の水になったと云』うとある。これは若衆道の気配が濃厚であり、また、先の「とはずがたり」の伝承との親和性が強く感じられる。賀登上人は長保(九九九年~一〇〇三年)の頃の渡海上人とある。

「忠義上人」不詳。補陀落渡海自体は中世の話であるから、名が調べられないのは不審。これは山号「嗟跎」を後付けで由来するためと、後の土佐守忠義の話に繫げるための作話になる架空人物ではなかろうか? と思ったりした。以下の「犬石」の注を参照。

「普陀洛山(ふだらくさん)」補陀落山(ふだらくせん)に同じい。

「犬石」不詳。但し、カッチンカチャリコズンバラリン氏のブログ「怪道をゆく(仮)」の先の続きである番外編 四国のミチ 足摺の七不思議(下)に『補陀落に渡った上人手飼の犬が待ち続けて石になったという「犬石」』の記載があり、ありそうなので探ってみたころ、四国ツーリング個人ブログ高知県 足摺岬で発見した。「犬石」ではなく、「犬塚」として現存している(「石」と「塚」では大いに違う。以下をお読みあれ)がそれ(写真リンク)。この方、ちゃんと説明版を写して呉れており、感謝感激である。しかも、その解説を読むと、ある僧が、『「この乱世を立て直す為、一国一城の主と鳴り生まれ来たらん」と言い、手の腹に南無阿弥陀仏と書き』、『その手をにぎりしめ、この断崖から身を投じたという』とあって、その僧を『慕っていた一匹の犬が、この場所から動こうともせず飲まず食わずひたすら待ち続け、ついに生き絶えた。村人はその姿を哀れと思い、この場所に犬塚を建てたと言われている』。『そののち、幾百年が過ぎ、土佐藩は山内家となり二代目忠義公には手の腹に黒い生印』(「しょういん」か。生まれつき持っている痣を指すのであろう)『があり、その言い伝えを知った忠義公は「自分はそのお坊様の生まれ変わりではないだろうか」と思うようになり、足摺山金剛福寺を深く信仰し度々参拝に訪れている。又、本堂・仁王門・十三重の塔など数多くのものを寄進している。それ以来金剛福寺は山内家と同じ丸に三ツ柏の家紋を頂戴している』とあって、「忠義上人」の話とリンクするわけだ! 彼は補陀落渡海ではなく、完全な捨身転生なのだ! これなら納得だ!

「土佐守忠義」安土桃山から江戸前期にかけての大名で土佐藩第二代藩主となった山内忠義(文禄元(一五九二)年~寛文四(一六六五)年)。ウィキの「山内忠義によれば、『山内康豊の長男で、伯父の山内一豊の養嗣子』。慶長八(一六〇三)年に伯父『一豊の養嗣子となり、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より偏諱を賜って忠義と名乗』った。同十年に『家督相続したが、年少のため』、『実父康豊の補佐を受けた』。慶長一五(一六一〇)年、『松平姓を下賜され、従四位下土佐守に叙任された』。『また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた』。慶長十九年の「大坂冬の陣」では『徳川方として参戦。なお、この時預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走し』、『豊臣方に加わるという珍事が起きている』。慶長二〇(一六一五)年の「大坂夏の陣」では、『暴風雨のために渡海できず』、『参戦はしなかった』。『藩政においては』、慶長十七年に法令七十五条を『制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった』。寛永八(一六三一)年からは『野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から伊予宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。改革の効果は大きかったが、兼山の功績を嫉む一派による讒言と領民への賦役が過重であった事から』、『反発を買い』、明暦二(一六五六)年七月に『忠義が隠居すると、兼山は後盾を失って失脚した』とある。

「諱(いみな)」本名。

「判(はん)」花押。

「普陀洛山は中華浙江省の嶋にて寧波府(ねいはふ)の内なり。また、梅岑山(ばいきんさん)とも云〔いひ〕、觀音の淨土也」中国では現在の浙江省舟山(しゅうざん)市普陀区にある舟山群島の南沖合にある島普陀山((グーグル・マップ・データ))を補陀落とし、遠隔地にまで観音信仰が広がった。

「慧蕚(ゑがく)」(生没年未詳)平安前期の本邦の僧で、日本と唐の間を何度も往復した。私の北條九代記 卷第十一 惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起を参照されたい。ウィキの「惠蕚」によれば、彼の事蹟は本邦及び中国のさまざまな書籍に断片的な記載はあるものの、多くは不明である。ここで示されたように嘉智子の禅の教えを日本に齎すべしとの命を受けて、『弟子とともに入唐し、唐の会昌元年』(八四一年)『に五台山に到って橘嘉智子からことづかった』『贈り物を渡し、日本に渡る僧を求め』、『その後も毎年』、『五台山に巡礼していたが、会昌の廃仏』(開成五(八四〇)年に即位した唐の第十八第皇帝武宗が道教に入れ込んで道教保護のために教団が肥大化していた仏教や景教などの外来宗教に対して行った弾圧)『に遭って還俗させられた』。この『恵萼の求めに応じて、唐から義空が来日している。のち、恵萼は蘇州の開元寺で「日本国首伝禅宗記」という碑を刻ませて日本に送り、羅城門の傍に建てたが、のちに門が倒壊したときにその下敷きになって壊れたという』。『白居易は自ら『白氏文集』を校訂し、各地の寺に奉納していたが、恵萼は』その内の『蘇州の南禅寺のものを』会昌四(八四四)年『に筆写させ、日本へ持ち帰った。これをもとにして鎌倉時代に筆写された金沢文庫旧蔵本の一部が日本各地に残っており、その跋や奥書に恵萼がもたらした本であることを記している。金沢文庫本は『白氏文集』の本来の姿を知るための貴重な抄本である』。恵萼はまた、『浙江省の普陀山の観音菩薩信仰に関する伝説でも有名である』。諸伝書によれば、『恵萼は』大中一二(八五八)年に『五台山から得た観音像(『仏祖歴代通載』では菩薩の画像とする)を日本に持って帰ろうとしたが、普陀山で船が進まなくなった。観音像をおろしたところ船が動くようになったため、普陀山に寺を建ててその観音像を安置したという。この観音は、唐から外に行こうとしなかったことから、不肯去観音(ふこうきょかんのん)と呼ばれた』とある。この最後の話は私の「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」に出、そこで私は補陀落渡海についても注しているので、是非、参照されたい。]

2018/07/09

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)

Tidori

ちとり   千鳥【俗】

     【萬葉集爲乳鳥又爲智鳥】

 

△按鴴在江海水邊百千成羣仍稱千鳥類鴫似鶺鴒而

 小其頭蒼黑頰白眼後有黑條背青黑翅黑腹白胸黑

 嘴亦蒼黑尾短脛黃蒼而細長冬月最多飛鳴于水上

 呼侶肉味美也歌人詠賞之

一種頭背翅俱黑腹白尾黑似燕尾而有岐常群飛江上

 其翔翺甚迅疾也人剪紙作片以擲于彼則喜飛而弄

 之播州遠州多有之凡鴴種類甚多【有四十八品種云】皆有少異

 蓋諸鳥脚三指皆有前杜鵑三指前二後一鴴四指前

 三後一唯此二物異他鳥矣

                  西行

  一つをも千鳥といへる鳥あれは三つ有とても蝶はてふなり

 

 

ちどり   千鳥【俗。】

     【「萬葉集」、「乳鳥」と爲し、

      又、「智鳥」と爲す。】

 

△按ずるに、鴴、江海の水邊に在り、百千〔の〕羣れを成す。仍つて「千鳥」と稱す。鴫の類にして鶺鴒に似て小さく、其の頭、蒼黑。頰、白く、眼の後に黑條有り。背、青黑。翅、黑。腹、白く、胸、黑し。嘴も亦、蒼黑。尾、短く、脛、黃蒼にして細長し。冬月、最も多し。水上に飛び鳴きて、侶〔(とも)〕を呼ぶ。肉味、美なり。歌人、之れを詠賞す。

一種、頭・背・翅、俱に黑く、腹、白く、尾、黑く、燕の尾に似て、岐(また)有る〔あり〕。常に江上〔(こうしやう)〕に群れ飛ぶ。其の翔〔(と)び〕翺〔(かけ)るや〕、甚だ迅-疾(はや)し。人、紙を剪〔(き)〕りて片と作〔(な)し〕、以つて彼〔(かれ)〕に擲〔(なげう)〕つときは、則ち、喜〔として〕飛〔びきたつ〕て之れを弄〔(もてあそ)ぶ〕。播州・遠州に多く之れ有り。凡そ鴴の種類、甚だ多し【四十八品種有りと云ふ。】。皆、少異有り。蓋し、諸鳥の脚は三指(ゆび)にて、皆、前に有り。杜鵑(ほとゝぎす)は三つ指〔にして〕、前に二つ、後に一つ。鴴は四つ指にして、前に三つ、後に一つなり。唯だ、此の二物、他の鳥に異〔(こと)〕なり。

                  西行

 一つをも千鳥といへる鳥あれば三つ有りとても蝶〔(てふ)〕はてふなり

[やぶちゃん注:チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae の属する種の総称(チドリという種は存在しない)。では十二種が観察され、その内の五種が繁殖する。参照したウィキの「チドリ」からそのれらの種を引く。

チドリ科タゲリ(ケリ)属タゲリ(田鳧)Vanellus vanellus(繁殖種)

タゲリ(ケリ)属ケリ(鳧) Vanellus cinereus(繁殖種)

チドリ科チドリ属ハジロコチドリCharadrius hiaticula

チドリ属イカルチドリ(桑鳲千鳥)Charadrius placidus(繁殖種:「いかる」は古語で「大きい・厳めしい」の意)

チドリ属コチドリ Charadrius dubius(繁殖種)

チドリ属シロチドリ Charadrius alexandrinus(繁殖種)

チドリ属メダイチドリ(目大千鳥)Charadrius mongolus

チドリ属オオメダイチドリ(大目大千鳥)Charadrius leschenaultii

チドリ属オオチドリCharadrius veredus

チドリ科 Eudromias 属コバシチドリ(小嘴千鳥)Eudromias morinellus

ムナグロ(胸黒)科ムナグロ属ムナグロ Pluvialis fulva

ダイゼン(大膳)Pluvialis squatarola(和名は平安朝に於いて宮中の食事を司った大膳職に於いて特に美味であったことから食材としてしばしば用いられたことが由来とされる)

小学館「日本大百科全書」によれば、『雌雄の羽色はほとんど同色、体つきはずんぐりしていて、頭と目が大きいのが一般的特徴である。嘴』『は短めで、先のほうに膨らみがある。足の指はかなり長めで』、ダイゼンを除いて後趾(こうし)がなく、三本指である(チドリの後趾が退化しているのは、速歩に都合が良いからである。良安の「鴴は四つ指にして、前に三つ、後に一つなり」というのはおかしい指摘である)。『大部分は海岸地域や平野にすんでいるが、山地にすむものもいる。採餌』『は草原や川原、河川、水辺、湖沼、海岸などで行い、ミミズ類、昆虫類などを主食とする。採餌の際、すこし歩いては地面をつついて餌』『をとり、また数歩歩いてはつつく。頭を下げたまま採餌するのはシギ類で、チドリ類はそうした動作はしない。巣は荒れ地や草地のへこみを使い、小石や枯れ草などを多少敷いて』三、四『卵を産む。雛』『は孵化』『後数時間で歩くことができる。卵の色は周囲の荒れ地に紛れるように模様がある』。『なお、「千鳥」は俳句の季語としては冬に入れられているが、日本のチドリ類の生態をみると、かならずしもあたってはいないので注意を要する。また、海岸にたくさんの鳥が集まっているようすから「千鳥」とよぶこともありうるが、この場合はチドリ類のみでなく、同様の環境でみられるシギ類をもさしていると思われる。シギ・チドリ類の群れは冬にもみられるが、春と秋の渡りの時期に大きな群れがみられる』。古く万葉時代から『歌材として詠まれ、「近江(あふみ)の海(み)夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ」』(巻第三・柿本人麻呂)『などと詠まれている。「友呼ぶ千鳥」や「佐保(さほ)の川原で鳴く千鳥」など、類型としてよく詠まれた。また、「思ひかね妹(いも)がり行けば冬の夜の川風寒(さむ)み千鳥鳴くなり」』(「拾遺和歌集・冬・紀貫之)『などと詠まれるように、冬の景物となった。「浜千鳥」という形でも多く詠まれ、筆跡・手紙・書物の意に用いられるようにもなった』。「枕草子」の『「鳥は」の段に「いとをかし」と記され』、「源氏物語」では「須磨」「総角(あげまき)」に三例、『冬の心象風景としてみえる』とある。

「侶〔(とも)〕」伴侶。

「翔〔(と)び〕翺〔(かけ)るや〕」同紙の部分の読みは東洋文庫訳を援用した。「や」は間投助詞として補った方が判りがよいと思い、私が挿入した。

「四十八品種有り」これは多過ぎ。本邦で見られる十二種の内、チドリ科タゲリ(ケリ)属タゲリ(田鳧)とタゲリ(ケリ)属ケリ(鳧)は古くから「千鳥」としてではなく、別に「鳧」(先行する「計里(けり)」を参照)として認知されていたから、それを除くと、十種で、♂♀の相違(本邦のチドリ類には大きな性的二型を持つ種は少ないが)や幼鳥と夏羽・冬羽を四掛けしても、四十種。恐らくは、チドリ類とは異なる川や海の小型の鳥類をも「千鳥」と呼んでいたのであろうと思われる。

「諸鳥の脚は三指(ゆび)にて、皆、前に有り」誤り。鳥類の趾(あし)は四本が基本型で、前に三本、後ろに一本が多い。これを「正足(せいそく)」或いは「三前趾足(さんぜんしそく)」と称する。枝に止まる時は前向きの三本と後ろ向きの一本の指で枝を摑む。

「杜鵑(ほとゝぎす)は三つ指〔にして〕、前に二つ、後に一つ」これも誤り。前二本、後二本という珍しい形態をしている。これは「対趾足(たいしそく)」と称し、長時間、安定して枝に止まれるように進化したものと推定されている。どうも良安は鳥類を親しく観察した経験があまりないのではないかと思われる。鳥の趾の細かな形態の違いについては、ウィキの「趾(鳥類)」が詳しいので参照されたい。

「一つをも千鳥といへる鳥あれば三つ有りとても蝶〔(てふ)〕はてふなり」偽作。落語「西行」に、

 一羽にて千鳥といへる鳥もあらば何羽飛ぶとも蝶は蝶なり

と出る。「千鳥」の「千」を「蝶」で「兆」に掛けている、下らぬ狂歌である。良安は何でこんなものをここに引いたのか、よく判らぬ。幾つか真正の西行の「千鳥」の歌を引いておく。

 淡路潟(あはぢがた)磯囘(いそわ)の千鳥聲繁み瀨戸の潮風冴えわたる夜は(「山家集 上 冬」)

 淡路潟瀨戸の汐干(しほひ)の夕暮れに須磨より通ふ千鳥鳴くなり(「山家集 上 冬」)

 冱(さ)え渡る浦風いかに寒からむ千鳥群れゐる木綿崎(ゆふさき)の浦(「山家集 上 冬」)

   月の夜(よ)、賀茂にまゐりて詠み侍りける

 月の澄む御祖川原(みおやがはら)に霜冱えて千鳥遠立(だ)つ聲きこゆなり

なお、東洋文庫版は幾つかの和歌を注で参考に示しているので、それを参考までに、恣意的に正字化し、出典を補填して掲げておく。

 千鳥鳴く佐保の河瀨のさざれ波止む時もなし我が戀ふらくは (藤原麿に大伴郎女(いらつめ)が答えた歌・「万葉集」巻第四(五二五番))

 さ夜中に友呼ぶ千鳥物思ふとわびをる時に鳴きつつもとな (大伴家持に大神郎女が贈った歌・「万葉集」巻第四(六一八番))

 しほの山さしでの磯にすむ千鳥君(きみ)が御代(みよ)をばやちよとぞ鳴く (読人知らず・「古今和歌集」巻第七「賀歌」(三四五番))

最後の「やちよ」は千鳥の鳴き声のオノマトペイア「ちよちよ」に「八千代」を掛けたもの。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶺鴒(せきれひ/にはくなぶり) (セキレイ)

Sekirei

せきれひ    【鶺同】 雝渠 雪姑

にはくなふり 【和名爾波久奈布里

        
又云止豆木乎之木閉止里】

鶺鴒 

スヱッリン  【今用字音呼之】

 

三才圖會云鶺鴒雀之屬飛則鳴行則揺大如鷃長脚尾

腹下白頸下黑如連錢故又謂之連錢其色蒼白似雪鳴

則天當大雪故俗稱雪姑

△按鶺鴒狀類燕而青灰色頸下眼後有黑條長尾尖嘴

 腹白胸有黑文毎鳴于水邊求匹能揺首尾字彙云其

 首尾相應比兄弟一名雝渠是也【諸本草未載鶺鴒】

黃鶺鴒【胸正黃色】 背黒鶺鴒【背正黑色】 白鶺鴒【背白項黒】

 樊中貯水石以畜之亦能馴焉特以白者爲珍

 日本紀伊弉諾伊弉冉二神時有鶺鴒飛來揺其首尾

[やぶちゃん注:「伊弉冉」の「冉」は原典では「册」の字に似た異体字であるが、現行の一般的なそれで示した。]

 神見之而學得交道

  逢ふ事をいな負せ鳥の教へすは人を戀路に惑はましやは

 

 

せきれひ    〔(せき)〕【「鶺」に同じ。】

        雝渠〔ようきよ)〕

        雪姑〔(せつこ)〕

にはくなぶり 【和名、

       「爾波久奈布里〔にはくなぶり)〕」、

        又、云ふ、

       「止豆木乎之木閉止里〔とつぎ

        をしへどり〕」】

鶺鴒

スヱッリン  【今、字音を用ひて之れを呼ぶ。】

 

「三才圖會」に云はく、『鶺鴒は雀の屬、飛べば、則ち、鳴く。行くときは、則ち、揺〔(ゆら)〕ぐ。大いさ、鷃〔(ふなしうづら)〕のごとく、長き脚・尾、腹の下白く、頸の下、黑く、連錢(れんせん)のごとし。故に又、之れを「連錢」と謂ふ。其の色、蒼白、雪に似る。鳴〔かば〕則ち、天、當(まさ)に大雪〔(おほゆきふ)〕るべし。故に俗に「雪姑」と稱す。』〔と〕。

△按ずるに、鶺鴒、狀、燕に類〔(たぐひ)〕して、青灰色。頸の下・眼の後に黑條有り。長き尾、尖りたる嘴。腹、白く、胸に、黑き文、有り。毎〔(つね)〕に水邊に鳴きて、匹〔(つれあひ)〕を求め、能く首尾を揺〔ゆら)〕す。「字彙」に云はく、『其の首尾、相ひ應じて〔あるを〕、兄弟に比す。一名、「雝渠」〔は〕是れなり【諸本草、未だ鶺鴒を載せず。】。

黃鶺鴒(きせきれい)【胸、正黃色。】 背黒(せぐろ)鶺鴒【背、正黑色。】 白鶺鴒〔(はくせきれいひ)〕【背、白く、項〔(うなじ)〕、黒し。】

 樊〔(かご)の〕中に水石を貯へて、以つて之れを畜〔(か)ふ〕。亦、能く馴れ、特に白き者を以つて珍と爲〔(な)〕す。

 「日本紀」、伊弉諾〔(いさなき)〕・伊弉冉〔(いさなみ)の〕二神(ふたはしら)の時、鶺鴒、有り、飛來して其の首尾を揺〔(ゆら)〕す。神、之れを見て、得交(とつぎ)の道を學ぶ。

 逢ふ事をいな負〔(おほ)〕せ鳥〔(どり)〕の教へずは人を戀路に惑はましやは

[やぶちゃん注:尾を上下に振ることでお馴染みの私の好きな鳥、スズメ目スズメ亜目セキレイ科セキレイ属 Motacilla・イワミセキレイ属 Dendronanthus に属するセキレイ類である。本邦で普通に見られるセキレイは

セキレイ属セグロセキレイ(Motacilla grandis:固有種)

ハクセキレイ(セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種ハクセキレイ Motacilla alba lugens

キセキレイ(Motacilla cinerea

の三種である。

イワミセキレイ Dendronanthus indicus

は一属一種(和名は鳥取県岩美町で最初に観察されたことに由来。全長約十五センチメートルで、頭から上尾筒までの上面は緑灰色を呈し、喉から下尾筒までの下面はくすんだ白色。黄白色を眉斑を持ち、胸に黒いT字形の斑がある)で、ロシア極東沿海地方・中国北部から東部・朝鮮半島で繁殖し、冬期はインド東部からジャワ島・ボルネオ島までの東南アジア方面に渡って越冬するが、日本では数少ない旅鳥又は冬鳥として、春秋の渡りの時に渡来し、西日本での観察記録が多い。ごく少数の個体は夏鳥として渡来し、福岡県・島根県では繁殖記録もある。因みにイワミセキレイは尾を左右に振る(ここはウィキの「イワミセキレイに拠る)。カワセミ類はその特徴的な尻振り行動から、異名が異様に多く、イシクナギ(石婚ぎ)・イモセドリ(妹背鳥)・ニワクナギ(庭婚ぎ)・ニワクナブリ(後注参照)・イシタタキ(石叩き・石敲き)・ニワタタキ(庭叩き)・イワタタキ(岩叩き)・イシクナギ(石婚ぎ)・オシエドリ(教鳥)・コイオシエドリ(恋教鳥)・トツギオシエドリ(嫁教鳥:後注参照)など、その大半は性行為のメタファーであるように私には思われる。中国名は「相思鳥」である(主にウィキの「セキレイを参照した)。

「雝渠」「雝」は和睦の意があるから、水路での睦み合いからの合字か。

「にはくなぶり」「庭」で「くなぶ」るような動きをする鳥の意であろう。「くなぶる」は恐らく、「婚(くな)ぐ」(交合する・性交する)と「嬲(なぶ)る」(手で弄(い)じる・もてあそぶように玩弄する)の合成語ではないかと私は思う。

「とつぎをしへどり〕」の「と」は「戸」「門」で上代には「と」は男女両性器・陰部のある「處」(ところ)を意味しており、その両方の「と」を「継(つ)ぐ・接ぐ」という意で、「御戸(みと)の目合(まぐあ)ひ」(交合・性交)の意となった。後に出る通り、そのコイッスの仕方を「教え」て呉れた「鳥」の意である。

「鷃〔(ふなしうづら)〕」旋目鳥(ほしごい)(ゴイサギの幼鳥)で既出既注であるが、再掲しておくと、この漢字は現代中国ではチドリ目ミフウズラ(三斑鶉)科ミフウズラ属チョウセンミフウズラ Turnix tanki に与えられている。但し、このミフウズラ類はウズラと体形等がよく似ているものの、ウズラ類はキジ目キジ科ウズラ属Coturnixであり、我々の知っているウズラ Coturnix japonica とこのチョウセンミフウズラ Turnix tanki は縁遠い種である。

「字彙」既出既注

「其の首尾、相ひ應じて〔あるを〕、兄弟に比す」これは、恐らく「詩経」の「小雅」にある「常棣」(じょうてい)に基づく謂いである。セキレイの尾を頻りに振る行動を、兄弟が火急の危機を相手に教えようとしているものと採ったのである。簡単にはサイト「今日の四字熟語」の「【鴒原之情】(れいげんのじょう)を、詩篇「常棣」総てを知るゆとりのある方は個人ブログraccoon21jpのブログを、それぞれ参照されたい。

「樊」(音「ハン」)には「籠・鳥籠」の意がある。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵠(くぐひ) (コハクチョウ)

Kuguhi

くゞひ

【音各】 【和名久久比】

コッ

 

三才圖會云鵠鳴哠哠夜飛眼光而不宿者也遠舉難中

中之卽可以告故射侯棲鵠中則告勝字彙云鵠小鳥也

射者設之以命中小而飛疾故射難中是以中之爲儁

夫木

 暮かゝる波のねぬなはふみしだき刈田のくゞひ霜拂ふなり

                  資隆

鵠大似水雞而頭背灰色腹白翅及脚灰黑色觜黑

 飛捷難捕也蓋鵠同名異鳥有【胡谷切音斛大鳥白鳥古祿切音谷小鳥久久

 比】人以相混雜矣【詳于前白鳥下】

 

 

くゞひ

【音、「各」。】 【和名、「久久比」。】

コツ

 

「三才圖會」に云はく、『鵠の鳴くこと、「哠哠〔(かうかう)〕」たり。夜、飛び、眼、光りて宿せざる者なり。遠く舉〔(あ)がり〕て中〔(あた)り〕難し。之れ、中〔る〕時は、卽ち、以つて告ぐべし。故に射-侯(まと)、鵠を棲〔(す)まはせ〕、中るときは、則ち、勝(かち)を告ぐ』〔と〕。「字彙」に云はく、『鵠は小鳥なり。射る者、之れを設(もふ)け、以つて中(あ)つることを命〔ずるも〕、小にして飛ぶこと、疾し。故に射(ゆみい)るに、中り難し。是れを以つて之れに中〔(あつ)〕るを儁〔(しゆん)〕と爲〔(な)〕す。

「夫木」

 暮〔(くれ)〕かゝる波のねぬなはふみしだき刈田のくゞひ霜拂ふなり

                  資隆

按ずるに、鵠の大いさ、水雞〔(くひな)〕に似て、頭・背、灰色。腹、白。翅及び脚、灰黑色。觜、黑。飛〔ぶこと〕、捷〔(はや)く〕して捕へ難し。蓋し、「鵠」、同名異鳥、有り【「胡谷」の切、音「斛」は、大鳥〔にして〕白鳥なり。「古祿」の切、音「谷」は、小鳥〔の〕「久久比」なり。】。人、以つて、相ひ混雜す【前の白鳥の下に詳〔かなり〕。】。

[やぶちゃん注:「鵠」(くぐい)は広義の「白鳥」(鳥綱カモ目カモ科ハクチョウ属 Cygnus 或いは類似した白い鳥)の古名であるが、辞書によっては、

ハクチョウ属コハクチョウ亜種コハクチョウ Cygnus columbianus bewickii

とする。私もそれを採る。ユーラシア大陸北部で繁殖し、冬季になると、ヨーロッパ(アイルランド・イギリス南部・オランダ・デンマークなど)・カスピ海周辺(西部個体群)か、大韓民国・中華人民共和国東部・日本など(東部個体群)へ南下し、越冬する。ハクチョウ属内では相対的に頸部が太く短く、全身の羽衣は、より白い。嘴の先端が丸みを帯びるか、或いは角張って、突出せず、色は黒い。鼻孔は嘴の中央部より、やや先端寄りに開口する。気管が長く紐状で、後肢は黒い(幼鳥は全身の羽衣が淡灰褐色を呈する)。翼長はで五十一・五~五十三・五センチメートル、で四十七・五~五十二・五センチメートル。上嘴の基部から鼻孔にかけて、黄色い斑紋が入るのを本亜種の特徴とする(以上はウィキの「コハクチョウ」を参照した)。

「哠哠〔(かうかう)〕」オノマトペイア。「廣漢和辭典」にも載らないので、歴史的仮名遣(現代仮名遣は「コウコウ」)は「皓」を参考に推定した。

「遠く舉〔(あ)がり〕て中〔(あた)り〕難し。之れ、中〔る〕時は、卽ち、以つて告ぐべし」素早く飛翔し、弓矢が当たり難い。だから、運よくこれを仕留めた時には、これを人に告げて自慢するだけの価値がある、というのである。

「射-侯(まと)、鵠を棲〔(す)まはせ〕、中るときは、則ち、勝(かち)を告ぐ」東洋文庫訳の注に弓術に於ける『射侯』(まと)『は十尺四方の的で』、『中に鵠の画がかかれてある』とある。鵠の絵が描かれている的の画像は見出せなかったが、個人ブログ「BIFFの亜空間要塞」の『「正鵠」の意味は、単なる「的の中心」ではないという話』で「鵠」の字を的の真ん中に書いたものを見ることが出来る。そこに『「弓の的」という意味の成り立ちを持っているのは、この「侯」という文字で』あり、『一方で誰もがごく普通に「まと」だと思っている「的(てき)」という文字は、本来「あきらか」という意味で、それが転じて「弓のまと」の意味に使われるようになったもので』あるとする。辞書を引いてみると、「侯」の原字は「矦」とあり、「人」と「厂」(がけ)と「矢」の合字で、「厂」は「的に張った布」の意とある。さらに『古代の中国では、弓の的を「侯」「鵠」「正」など種類別の名で呼ぶことが多かった』が、『これら「侯」「鵠」「正」を日本語に訳すと、どれも「まと」ということにな』るとされ、『「鵠」や「正」の大きさはどのくらいであったかというと、「周礼」の注釈に「十尺四方のものを「侯」といい、四尺四方のものを「鵠」といい、二尺四方のものを「正」という」とあり』、『周代の一尺は現在の』二十二・五センチメートル程であるから、「鵠」は九十センチメートル四方、「正」でも四十五センチメートル四方はあったことになる、と記されておられ、『現在の日本の弓道で、遠的競技(通常』六十メートル『の距離から射る)に使われる的が直径』一メートル、二十八メートルの距離から射る近的競技『に使われる的が直径』三十六センチメートルである『から、「鵠」や「正」はほぼそれらに匹敵する大きさで』、『どちらも「的の中心の黒星」などという代物では』なく、『かなり立派な大きさの四角い「まと」であると』ある。因みに辞書には、古えは天子・諸侯クラスの者達が春・秋に「大射の礼」を行ったことから転じて、「侯」の字が君・諸侯の意に用いられるようになったといったことが書かれてあった。

「字彙」既出既注であるが、再掲しておく。明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。

「之れを設(もふ)け」実際の生きた鵠を射的対象として準備し。

「儁〔(しゆん)〕」ここは射芸に秀でた名手の意。

「暮〔(くれ)〕かゝる波のねぬなはふみしだき刈田のくゞひ霜拂ふなり」「夫木和歌抄」の巻十七 冬二」に載るが、「波」は「沼」の誤り

 暮れかかる沼のねぬなはふみしだき刈田(かりた)のくぐひ霜拂(はら)ふらし

である。「資隆」は平安後期の官吏で歌人の藤原資隆(生没年未詳)か。「ねぬなは」は「根蓴」「根蓴菜」でジュンサイ(スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi)のこと。

「水雞〔(くひな)〕」既出の鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus

『「鵠」、同名異鳥、有り』ハクチョウ属オオハクチョウ Cygnus cygnus を指していると考えてよい。「オオハクチョウ」の中文ウィキ大天に『又名』とある。

『「胡谷」の切、音「斛」は、大鳥〔にして〕白鳥なり。「古祿」の切、音「谷」は、小鳥〔の〕「久久比」なり』反切(はんせつ:漢字の発音を示す伝統的な方法の一つで、二つの漢字を用い、一方の声母と、他方の韻母及び声調を組み合わせて当該漢字の音を表わすもの)いよって同名異種を解説しているのであるが、正直、孰れも「コク」で、中国語が判らなければ、この解説は一般の日本人には違いは判らない。因みに現代中国語では「斛」は「」、「谷」は「」或いは「」である。

「前の白鳥」先の天鳶(はくちやう)のこと。]

2018/07/08

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(43) 大乘佛教(Ⅱ)

 

 さて此處で、これ等教義の、近世思想との關係に就いて、これを筒單に考察することは、無益な事ではあるまい、――先づ最初の一元論から始めよう、――

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 形若しくは名を有りて居る一切のものは、――佛、神、人間、及びあらゆる創造物――太陽、世界、月、一切の目に映ずる宇宙――これ等は皆、變轉常なき現象である……。ハアバアト・スペンサアの説に從つて、實體の證左となるものは、其の永久性にあるとすれば、何人もかくの如き考へ方を怪しむものはなからう、此の考へ方は、スペンサアの『第一原理』の結論たる其の最後の章の敍述と殆ど同じである――

 『主觀と客觀の關係が、吾人に、精神と物質との相對的概念を、必要と感ぜしむるとは云へ、前者(精神)も後者(物質)も共に、兩者の土臺に橫たはる未知の實體の標章に過ぎない』――一八九四年版

[やぶちゃん注:ハーバート・スペンサーの全十巻から成る「総合哲学体系」(System of Synthetic Philosophy)の第一巻の「第一原理」(First Principles)。初版は一八六二年刊。引用部“Though the relation of subject and object renders necessary to us these antithetical conceptions of Spirit and Matter; the one is no less than the other to be regarded as but a sign of the Unknown Reality which underlies both.”はまさに「第一原理」の最終章「第二十四章 概括と結論」(CHAPTER XXIV.: SUMMARY AND CONCLUSION.)の擱筆である(正確には文頭は“He will see that”で始まり、though 以下に続く)。]

 

 佛教に於て、唯二の實體は、絶對と云ふものである、――佛陀を、自由自在無限の存在として。物質に關しても、將又精神に關しても、佛陀以外に眞の存在はない、眞の個性もなければ、眞の人格性もないのである、『我』と云ふ名『非我』と云ふも、本質的には決して異つたものではない。吾々は、つぎの如き、スペンサア氏の立脚地を想起する。卽ち『吾人に示されてある實體が、主觀的なりと云ひ、或は客觀的なりと云ふも、それは決して異るものではなく、二者同一である』と。スペソサア氏はなほ續けて云ふ、主觀と客觀とに、必然的に意識に依つて左樣考へられるものではあるが、實際に存在するものとしては、兩者の共働に依つて生ずる意識の中にはあり得ない、主觀と客觀との對立は、意識が存在する限り、決して存在を超越し得るものではなく、主觀と客觀とが結合されて居る其の究極の實體に就いての知識を不可能ならしめる』と……。私は、大乘佛教の大家と雖も、スペンサア氏の此の實體變形説の狭義を論難する人はなからうと思ふ。佛教も、現象としての現象の現實性を否定するものではないが、現象の恆久性及び現象が吾々の不完全なる感覺に訴へる假象の眞實性に對してはこれを否定する。變轉常なく、見えるが儘でないのであるから、現象は幻影の性質を備へて居るものとして考へらる可きである――唯一の恆久性ある實體の不恆久的なる表象として考へらる可きである。併し佛教の立脚地は、不可知論ではない、それは驚くべき程それとは異つて居るものである、今玆にそれを攷へて[やぶちゃん注:「かんがへて」。]見ようと思ふ。スペンサア氏は、意識が存在する限り、吾人は實體を知ることが能きない[やぶちゃん注:「できない」。]と云ふ――其の所以は、意識の在る限り、吾人は客觀と主觀との對立を超えることは能きない、而して意識を可能ならしむるものは、實に此の對立であるからである。これに應ヘて『如何にもそれは、その通りだ。吾々は、意識が存在する限り、唯一の實體を知ることは能きない。併し、意識を破棄せよ。然らば、實體を認識するに至らむ。精神の幻影を棄てよ、然らば光明は射し來たらむ』と佛教の哲學者は言ふであらう。此の意識の破棄が、涅槃の意である、――それは吾々が自我と呼ぶ所のものを、盡〻く亡くしてしまふ[やぶちゃん注:「ことごとくなくしてしまふ」。]ことである。自我は盲目である、自我を亡ぼせ、然らば、實體は無限の幻像、無限の平和として、示現せられるであらう。

 さて。佛法の哲學に從ふと、現象としての目に見える宇宙とは何であるか、又知覺する所の意識の本性は何であるかを、尋ねて見なければならない。變轉無常とは云へ、現象は意識の上に印象を具へる、又意識それ自身も、たとへ變轉無常とは言へ、存在をもつて居り、其の知覺たるや、よし欺くものであろとしても、現實の關係に就いての知覺である。玆に佛教は、宇宙も意識も二つながらに、業――遠い遠い過去からの行爲と考へとに依つて、形成せられた狀態の、計量すべからざる複合物――の單なる綜合に過ぎないと答へる。一切の本質、一切の有限の精神(絶對の精神から區別されたる)は行爲と考へとの産物である、行爲と考へとに依つて、身體の微分子は構成せられる、而して其の微分子の親知力――科學者に云はせれば、其の微分子の兩極性――は無數の死滅せる生命の内に、その形を成したる諸〻の傾向を示してゐる。私は、その問題を取扱つた近代日本の論文を、次に掲げる事にしよう。--

 

  

 「あらゆる有情物の集合的動作は、山や河や國等の種別を生ぜしめた。これ等は、集合的動作に依つて生じたのであるが故に、綜合成果と呼ばれる。吾人の現在の生は、過去の行動の反映である。人々は、これ等の反映を、眞の自我と觀じてゐる。彼等の眼、鼻、耳、舌、身體は――彼等の庭園、樹木、田畠、住居、下僕、下婢と共に――自己の所有物であると、人々は思つてゐる、然るに、事實それ等は、無數の行爲に依り、無限に産出された成果に過ぎぬ。萬物を、其の究極の過去にかのぼつて、尋ねて見るとも、吾々は其の始源を見極めることはできない、故に死と生とに始めなしと云はれてゐる。また、未末の究極の涯を尋ねるとも、吾人は遂に其の終端を見る事はできない』

 

    註 黑田著『マハアヤアナ哲學概論』

[やぶちゃん注:原文はoutline of the Mabâyâna Philossophy, by S.Kuroda.で、英文のそれで検索しても、平井呈一氏の「マハーヤーナ哲学概論」という訳でも探して見たが、影も形も出てない。作者も判らぬし、出版年も不明。お手上げ。識者の御教授を乞う。]

 

 萬物は業に依つて造られると云ふこの教へは――美なるものはすべて功績高き行爲若しくは考への結果を表現し、惡なるものはすべて惡行若しくは惡念の結果を表現する――五大宗派の承認する所となつた、されば吾々は日本佛教の主要なる教義として、これを容認して然るべきであらう……。卽ち宇宙は業の集合體である、人の心も業の集介體である、その始めは不可知であり、終りも亦想像することの出來ないものである。玆に涅槃を其の歸着點とする精神上の進化があるのであるが、吾々は實質と精神との形成が永久に休止するといふ、普通の安息の究極狀態に關しては、何等明言する處を聞かない……。而して綜合哲學(スペンサアの)は、現象の進化に關して、これと極めて類似した立脚地を採つて居る、卽ち進化には始まりなく、認知し得べき終極もない。私は『北米評論』に現はれた位置批評家に與へたスペンサア氏の答辯を引用する。――

 

   

 『論者の言ふ、かの「地上に於ける有機的生活の絶對始源」を、余は「容認せざるを得ず」との意見を、余は明確に否認す。宇宙の進化を肯定する事は、それ自體が、萬物の絶對始源を否定する事となるのである。進化と云ふ言葉を以て解説すれば、萬物は、先在する物の上に、不知不識の間に一段一段と積み重ねられた修正の結果であると考へられる。此の考へ方は、有機的生活のつぎつぎの發展に關して、と同樣に又假設の「有機的生活の始源」に關しでも、全く適用されるものである……有機的物質は、一朝にして造り出されたものではなくて、段階を經て造られたものであるといふ。此の信念は、化學者の經驗に依つて、十分證されてゐる』

 

    註 『生物學原理』第一卷第四八二頁

[やぶちゃん注:「総合哲学体系」(System of Synthetic Philosophy)第二巻のPrinciples of Biology(一八六四年刊)。]

 

 勿詣、萬物の始源と其の終極とに關して、佛法が沈獸を守つて居るのは、單に現象の出現に限るのであつて、現象の一群の特殊な存在に就いてではないと云ふことは、了解して置かなければならない。始源と絡極との斷言出來ないといふ事はこれ卽ち永遠の變遷に過ぎない。その起原である古い印度哲學と同樣、佛教は宇宙の交互的顯出と消滅とを教へる。無量の或る時期に於て『十萬億土』の全宇宙が消えてしまふ――燒失するか或はその他の方法で破壞されて――しかしそれは又再び造りかへされるのである。これ等の時期を稱して『世界の周紀』といふ、そして各周紀は四つの『無邊』に分割されてゐる――併し、此處では此の教義の詳細に就いて述べる必要はない。實際興味のある處は、進化の律動を説くその根本的思想にあるのみである。宇宙の交互的分壞や囘復は、また科學的概念であり、進化論の信念から言つても、一般的に容認されたるその信條であるといふことは、讀者諸君に注意する迄もないことである。併しながら私は別の理由から、この問題に關するハアバアト・スペンサアの意見を表明する章句を、次に引用して見よう。――

 

   

 『吾人が既に説いた如く、明らかに索引[やぶちゃん注:原文は“forces of attraction and repulsion”であるから「牽引」(力)の誤植である。確信犯としても日本語では「牽引」が妥当である。平井呈一氏も『牽引』と訳している。注さないが、後の「索引」も同じ。]と反撥との遍在する共力が、宇宙を一貫して、一切の微紬な變化に律動を必要ならしめ、また變化の總和に對しても律動を必要ならしめる――かくの如き共力は、或る場合には索引力を優勢ならしめ、宇宙の集中を行ふ涯りなき[やぶちゃん注:「かぎりなき」。]一時期を現出し、さらに反撥力を優勢ならしめ、擴散を行ふ涯りなき一時期を現出する――かくて父互に進化と離散との時代を現出する。かくの如くして、現代に於て行はれつつあるが如き、繼續的進化の行はれたる過去の時代に關する概念が吾々に暗示されるのである、而してまた別の同樣な進化が行はれる未來の時代も亦附示される――原理に於ては常に同一なるも、具像的の結果[やぶちゃん注:原文“concrete result”。「具象的な結果」に同じい。]に於ては同一ならざるものである」――『第一原理』 一八三項[やぶちゃん注:「頁」の誤植である。]

三項

 

   註 此の項は第四版から引用したもので、

     一九〇〇年の決定版には著しく改訂

     されてある。

 

 更に、スペンサア氏は、此の假定に包含せられて居る論理的結果を指示してゐる。――

 

   

 『吾々は當然さう考へるべき理由があるが、若し萬物の總和には、進化と離散の交互作用があるとすれば――又吾々は力の永續性からさう推論せざるを得ないが、若し此の廣大なる律動の何れかの一端への到達が、其の反對の運動の發生するやうな狀態を惹き起すとすれば――さらに、若し吾々が涯りなき過去を掩ふであらう進化の概念、及び涯りなき未來を掩ふであらう進化を、容認するの已むなきに至るとすれば――吾々は、も早や明確な始點と終點とを持つやうな、或は孤立したやうな、認知し得る天地の創造を考へることはできない。さういふ天地は、現在の前後のすべての存在に歸一せしめられるやうになる、そして宇宙が示す力は、考への上に何等の制限をも認めない、時間と空間との同じ範疇に入つてしまふ』――『第一原理』第一九〇項[やぶちゃん注:「頁」の誤植。]

 

    註 一九〇〇根の決定版中には筒約され

      多少修正もされた、併し今の場合に

      於ける説明の便宜上、第四版を選ん

      だのである。

 

 以上述べた佛教の立脚地は、人間の意識は轉變無常の集合體に過ぎず――永久的實體ではない、と云ふ意味を十分に示してゐる。恆久の自我と云ふものはない、あらゆる生に通じて唯一つの永遠の原理があるのみである――最高の佛陀がそれである。近代の日本人は、此の絶對を、『精神の心髓』と呼んでゐる。近代の日本人なる一人は曰く、『火は薪に依つて燃え、薪の失せると共に消える。併し火の本質は破壞される事はない……宇宙に在る萬物は、すべて精神である』と。恁ういふと、この立場は非科學的である、併しかくして到達した結論に關しては、ワラス氏が殆ど同樣のことを言つてゐるし、又『心より成る宇宙』の教義を説く近代の牧師も二三に留まらない事を記憶しなければならない。此の假説は『考へ得べからざる』ものである。併し最も眞面目な思想家は、一切の現象と不可知(アンノアブル)[やぶちゃん注:“unknowable”。]のものとの關係は、波と海との關係に似て居ると云つた佛教の斷定に同意するであらう。スペンサア氏は云ふ、『あらゆる感情とか思想とか云ふものは、ほんの轉變無常のものであるから、かかる感情や思想で出來上つてゐる全生活も亦轉無常なものに過ぎない――否、縱令[やぶちゃん注:「たとひ」。]幾分は轉變無常でないとしても、生命が過ぎ通つて行くその周圍の物象は、晩かれ早かれそれそれの特性を失ひ行くものであるから――恆久なるものと云ふのは、變はり行く形相[やぶちゃん注:「けいさう」。]の一切の底にかくれて居る未知の實體を指すのであると云ふことが判かる』と。此處に於て、イギリスの哲學者と佛教哲學者とは相一致したわけであるが、其の後忽ちに兩者は相分離する。何となれば、佛教はノステイシズム(神祕可知哲學)[やぶちゃん注:“gnosticism”。]であつて、不可知論(アグノステイシズム)[やぶちゃん注:「アグノステイシズム」はルビ。“agnosticism”。]ではなく、不可知のものを知らんことを揚言するものであるからである。スペンサア學派の思想家は、唯一の實體の性質に關して假定を與へることをなし得ないし、且つ又其の表現の理由に關しても假定を與へないのである。スペンサア學派のものは、力、物質、及び運動の性質を理解する事に關し、知的無能力者であると云ふことを自ら白狀しなければならない。その學徒は、一切既知の要素は、一個の本源なる無差別的本體から展開されたものであると云ふ假説――この假説に就いては化學が有力に證據立ててゐる――を容認するのは理の當然であると考へる。併し彼は其の本源の實體を精神の實體とは決して同一視しないし、又精神の實體を完成するに與つて[やぶちゃん注:「あづかつて」。]力ある諸〻の力の性質を、説明しようともしない。吾々が物質を解するに、單にこれを諸ゞの力の集合であるとか、又は微分子では力の中心か、然らざれば力の結節であると解することを、スペンサア氏は既に承認して居るのであらうが、氏はまだ微分子が力の中心であつて、他の何物でもないと宣言した事はない……。併しドイツ統の進化論者に、佛教の立場に甚だ近い立場を取つて居るのを見る――則ちそれは宇宙の感性、もつと嚴密に云へば、宇宙のやがて發展すべき潛力的感性を意味するものである。 ヘッケル其の他のドイツの一元論者は、すべての實體に對してかくの如き立場をとつて居る。故に彼等は不可知論者ではなくて、ノステイツクである。そしてそのノステイツクの哲學たるや、大乘佛教に非常に近いものである。

[やぶちゃん注:「ワラス氏」“Mr. Wallace”。イギリスの博物学者でダーゥインと並ぶ進化論理論家アルフレッド・ラッセル・ウォーレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)。彼は斬新な新理論を提示しながら、一方で心霊主義に傾き、進化には「目に見えない宇宙の魂」が人干渉したと主張し、「宇宙の存在意義が人類の霊性の進歩である」と信じていた。進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマンを参照されたい。

「ヘッケル」生物学者で哲学者でもあったエルンスト・ハインリッヒ・フィリップ・アウグスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel 一八三四年~一九一九年)。私の敬愛する生物学者である。進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(3) 三 ハックスレーとヘッケルを参照されたい。]

諸國里人談卷之三 虎宮火

 

   ○虎宮火(とらのみやのひ)

攝津國島下〔しましも〕郡別府村の虎の宮の跡といふ所より出て、片山村の樹(き)のうへにとゞまる、火の玉なり。雨夜(あまよ)に、かならず、いづる也。これに逢ふ人、こなたの火を火縄などにつけてむかへば、其まゝ消(きゆ)る也。「虎の宮」又「奈豆岐宮(なづきのみや)」ともいふ。是、則(すなはち)、前(さき)にいふ所の「日光坊」の一族、其腦(なづき)を祭る神といひつたへたる俗説あり。又、云、「延喜式」に、『攝州武庫郡、「名次神(ナヅキノカミ)を祭。』歟〔か〕。

[やぶちゃん注:これは「摂津名所図会」(京の町人吉野屋為八が計画、編集は俳諧師秋里籬島(あきさとりとう)が、挿絵は竹原春朝斎が担当した。秋里籬寛政八(一七九六)年から同一〇(一七九八)年に刊行)に「虎宮火」として出る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像こちらの「虎宮火(とらのみやのひ)」を視認して電子化しておく。

   *

別府村田圃(でんぽ)の中、虎の宮といふ神祠の古跡あり。此森より雨夜(あまよ)に火魂(ひのたま)出て、其邊を飛(とび)めぐり、片山村の樹上(じゆじやう)に止(とまる)といふ。これに遇ふ人、大に恐る。又、土人曰(いはく)、「火縄を見すれば、忽(たちまち)消(きゆ)る」といへり。按ずるに、初夏より霖雨(りんう)の後(のち)、濕地に暑熱籠りて、陰陽剋(こく)し、自然と地中より火を生じ、地を去る事、遠からず。往來(ゆきゝ)の人を送り、あるひは人に先立て飛(とび)めぐるもあり。みな、地中の陰火の發(はつ)するなり。恐るゝに足らず。陽火を以て向ふ時は狐狸(きつねたぬき)の火(ひ)とても、消ゆるなり。日中に顯はれざるにて知るべし。腐草(ふさう)化(け)して螢となるの大なる物也。「天文志」にも見へ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

   *

以上は本書刊行(寛保三(一七四三)年)から五十三年後であり、記載も本書を一部援用している可能性があるが、以上を見てもオリジナリティに富み、当時の通俗地誌・観光案内書としては優れた記載である。「天文志」は後漢の班固・班昭らによって編纂された前漢史である「漢書」の中の「天文志」のことであろう。

「攝津國島下郡別府村」現在の摂津市別府附近(グーグル・マップ・データ)。

「片山村」現在の吹田市片山町。ここ(グーグル・マップ・データ)。別府の西直近。

「虎宮」bittercup氏のブログ「続・竹林の賢人」の「虎宮火」に「摂津名所図会」の考証記事と地図が載るが、現在、既に「虎宮」は存在せず、近くの「味舌(ました)天満宮」に合祀されていることが判る。同ブログのオリジナルな書き込みのなされた地図でそれぞれの大体の位置が判る。

「日光坊」前の火」を参照。

「腦(なづき)」ここは頭蓋骨・髑髏の意。これは如何にもおどろおどろしくていいじゃない!

「攝州武庫郡」現在の兵庫県西宮市名次町にある廣田神社の境外社(但し、同じ名次町内)である名次神社は「延喜式」の「神名帳」に載る。これだとすれば、後代に分祀されたということか? と沾涼は言っているのだろうか? 今一つ判らない。

「名次神(ナヅキノカミ)」戸原氏の個人サイト内に名次神社ページがあり、その解説によれば、『社頭に掲げる由緒では名次大神というが、これは祭神を特定しない一般的神名であ』るとあるから、沾涼の言うような附けたりはいらない気がする。則ち、この「虎宮」もそうした祭祀神を特定しない(出来ない・憚れる)ものとしてかく「なづきのかみ」としたに過ぎず、この名次神社とは関係がないとした方が、すっきりするのである。]

諸國里人談卷之三 二恨坊火

    〇二恨坊火(にこんぼうのひ)

攝津國高槻庄(たかつきのしやう)二階堂村に、火あり。三月の頃より、六、七月まで、いづる。大さ、一尺ばかり、家の棟、或は、諸木の枝梢(ゑだこずへ[やぶちゃん注:ママ。])にとゞまる。近く見れば、眼耳(がんに)・鼻口(びこう)のかたちありて、さながら、人の面(おもて)のごとし。讐(あだ)をなす事あらねば、人民、さしておそれず。むかし、此所に日光坊(にくわうぼう)といふ山伏あり。修法(しゆほう)、他(た)にこえたり。村長(むらおさ)が妻、病(やまい[やぶちゃん注:ママ。①は「やまふ」。])に臥す。日光坊に加持をさせけるが、閨(ねや)に入〔いり〕て一七日(いつしちにち)祈るに、則(すなはち)、病(やまひ)、癒(いへ)たり。後に「山伏と女、密通なり」といふによつて、山伏を殺してげり[やぶちゃん注:①も③「げ」。]。病平癒(やまいへいゆ[やぶちゃん注:「やまい」同前で①は「やまふ」。])の恩も謝せず。そのうへ、殺害(せつがい)す。二(ふたつ)の恨(うらみ)、妄火と成りて、かの家の棟(むね)に、毎夜(まいや)、飛來(とびきた)りて、長(おさ)をとり殺しけるなり。「日光坊(につこうぼう)の火」といふを、「二恨坊(にこんぼう)の火」といふなり。

[やぶちゃん注:本話は私は既に柴田宵曲 妖異博物館 「怪火」と、この伝承を強烈にインスパイアした宿直草卷五 第三 仁光坊と云ふ火の事で注している。ここで言い添えるべきことはない。

「攝津國高槻庄二階堂村」ウィキの「二恨坊の火に『摂津国二階堂村(現・大阪府茨木市二階堂)』及び『同国高槻村(現・同府高槻市)に伝わる火の妖怪』とある。この二地名は無論、異なる場所なのであるが、茨木市は東で高槻市に隣接しており、後者の高槻市には二階堂の地名は現行では見当たらないものの、前者の(グーグル・マップ・データ)に「二階堂」というバス停を発見出来る。則ち、古くはこの辺りから、東の安威川(あいがわ)を渡って東方の現在の高槻市内辺り(市境までは八百メートル未満)までを「二階堂」と呼んでいたものかも知れない。]

諸國里人談卷之三 分部火

 

    ○分部火(わけべのひ)

伊勢國安濃津(あのつ)塔世(とうせい)の川上、分部山より、小〔ちさ〕き挑燈ほどなる火、五十も百もー面に出〔いで〕て、縱橫に飛(とび)めぐりて後(のち)、五、六尺ほど、一かたまりになりて、塔世川をくだる事、水より、はやし。又、塔世が浦に「鬼の鹽屋の火」といふあり。此火中(くわちう)には、老嫗(おいたうば)の顏のかたち、ありける。かの川上の火と行合(ゆきあひ)、入〔いれ〕ちがひ、飛(とび)かえりなどして、相鬪(あひたゝか)ふ風情なり。少時(しばらく)して、又、ひとつにかたまり、そのゝち、また、わかれて、ひとつは沖のかたへ飛(とび)、一つは川上へ奔(はしる)なり。

[やぶちゃん注:この話、ネットで検索しても、本書の記載ぐらいしか見当たらない。則ち、怪異の由来譚などが一切失われてしまった古い怪火伝承だと思われる。――分部山(わけべやま)から提灯ぐらいの大きさの小さな火の玉が五十も百も出現し、自由自在に飛び回り、その後、それらが集合して一メートル五十二センチから一メートル八十二センチほどの大きな火の塊りとなって、安濃川の水上を川水よりも速く下って行く。一方、安濃川河口左岸の塔世村の東の海浜「塔世が浦」には、別に「鬼の塩屋の火」と呼ばれる怪火があって、この火の玉(有意に大きいのであろう)の中心には、はっきりと老婆の顔があるのだという(これだけでもキョウワい!)。その「鬼の塩屋の火」が、下って来た川上の「分部の火」と行き合って、互いに無視してかわして素通りしたかと思うと、後戻りして飛び返りなど、複雑に飛び交い、見るからに火球同士が盛んに戦うといった様子を見せる。暫くすると、何と、戦っていた二つの火球が一つに固まって大火球となり、その後、再び、分離し、一つは「塔世が浦」の沖合を目指して飛び去り、一つは安濃川の川上を指し走り去ってしまう――理由が全く語られないだけに真正の怪談として成功している。現地のこの伝承が残っているのなら、是非、採取したいものだ。

「伊勢國安濃津(あのつ)塔世(とうせい)」三重県の旧安濃(あの)郡塔世村(とうせむら)附近。現在の津市中心部の北東、概ね、安濃川の河口左岸に相当する。附近(グーグル・マップ・データ)。

「分部山」不詳。但し、安濃川川上に三重県津市分部の地名が見出せ((グーグル・マップ・データ))その北西域外直近に三重県津市美里町家所に山頂が属する長谷山がある。ここか。標高三百二十一メートル。

「塔世川」安濃川の津市内での旧称。]

諸國里人談卷之三 焚火

 

    ○焚火(たくひ)

隱岐國の海中に夜、火、海上に現ず。是、燒火權現(たくひごんげん)の神霊也。此神は風波(ふうは)を鎭(しづめ)給ふ也。いづれの國にても難風(なんぷう)にあひたる舩、夜中、方角をわかたざるに、此神に立願(りうぐわん)し、神号を唱ふれば、海上に、神火(しんくわ)、現じて難を遁(のが)るゝ事、うたがひなし。後鳥羽院、此島へ左遷(さすらへ)給へる時、風たちて、浪あらく、御舩(みふね)、危ふかりければ、

 我こそは新島守(にいじまもり)よおきの海のあらき浪風心してふけ

此御製、納受(のふじゆ)ましましけるにや、風波、靜(しづま)り、夜に入〔いり〕て、神火、出現す。

 泻〔かた〕ならばもしほやくやとおもふべし何をたくひの煙なるらん

御舩、三保の浦につきぬ。そのゝち、大山權現(おほやまごんげん)に詣でさせ給ひ、燒火山(たくひやま)を改(あらため)て、雲上寺(うんじやうじ)と号(なづけ)させ給ふ。

○海部郡(あまこほり)島前(どうぜん)美田庄(みたのしやう)にあり。一條院の御宇に海中より出現し給ふ。大山權現、又、離火權現(たくひごんげん)といふ。祭(まつる)神、大日孁貴〔おほひるめのむち〕。

〇一曰〔いはく〕、「此、乃、天照皇大神(てんせうくわうたいしむ)之垂跡同一而ニ乄、於イテㇾ今、海舶、多免(まぬか)漂災(ひやうさい)者〔は〕因神火(しんかう)光(ひかり)。最不ㇾ可カラㇾ疑[やぶちゃん注:「ウ」はママ。]。」。

[やぶちゃん注:現在の島根県隠岐郡西ノ島町(にしのまち)美田(みた)にある焼火山(たくひやま:標高四百五十一・七メートル)の山頂附近に鎮座する焼火(たくひ/たくび)神社に纏わる怪火(御神火)。明治初頭の神仏判然令以前は焼火山(たくひさん)雲上寺(うんじょうじ)と号した。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「焼火神社」によれば(太字下線やぶちゃん)、概ね、中世頃から、『航海安全の守護神として遠く三陸海岸まで信仰を集めた』(現在はかなり寂れている)。『大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祀る』。(大日孁貴尊は天照大神の別称)。『焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが』、『後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した』。『やがて祭神を大日孁貴尊とする伝えも起こって』、元禄一六(一七〇三)年には「燒火山大權現宮(中略)伊勢太神宮同躰ナリ、天照大日孁貴、離火社神靈、是ナリ、手力雄命、左陽、万幡姫命、右陰」(「島前村々神名記」)と『伊勢の皇大神宮(内宮)と同じ神社で、伊勢神宮同様』、三『座を同殿に祀ると説くようにもな』ったが、『明治初頭に大日孁貴尊のみを祀る現在の形となった』。『「焼火山縁起」によれば』、一条天皇の治世(在位:寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年)、『海中に生じた光が数夜にわたって輝き、その後のある晩、焼火山に飛び入ったのを村人が跡を尋ねて登ると』、『薩埵(仏像)の形状をした岩があったので、そこに社殿を造営して崇めるようになったと伝えている。また』、承久三(一二二一)年七月、「承久の乱」で敗北して隠岐に配流された後鳥羽上皇が(延応元年(一二三九年)二月に配所で崩御。享年六十歳)、『漁猟のための御幸を行った際』、『暴風に襲われ、御製』(ここに出る知られた後鳥羽院の歌「我こそは新島守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ」(「後鳥羽院御百首 雜」)『を詠んで祈念したところ』、『波風は収まったが』、『今度は暗夜となって方向を見失ったため』、『更に祈念を凝らすと、海中から神火が現れて雲の上に輝き、その導きで焼火山西麓の波止(はし)の港に無事着岸、感激した上皇が「灘ならば藻塩焼くやと思うべし』『何を焼く藻の煙なるらん」と詠じたところ、出迎えた一人の翁が、「藻塩焼くや」と詠んだ直後に重ねて「何を焼く藻の」と来るのはおかしく、「何を焼(た)く火の」に改めた方が良いと指摘、驚いた上皇が名を問うと、この地に久しく住む者であるが、今後は海船を守護しましょうと答えて姿を消したので、上皇が祠を建てて神として祀るとともに』、『空海が刻むところの薬師如来像を安置して、それ以来』、『山を「焼火山」、寺を「雲上寺」と称するようになったという』(ここに出る二首目の歌は、本文の「泻(潟)」と「灘」(なだ)の異同があるが(意味としては「灘」ではおかしい)、孰れにせよ、この一首は現行の後鳥羽院の歌には見当たらない。また、本文は隠岐配流の際の詠としているのに対し、ここは配流後の一齣としてある点でも異なる。ここも配流時のシークエンスの方が真正の御製「新島守」との絡みで、よりしっくりくる)。『上述したように、元来』、『焼火山は北麓に鎮座する大山神社(島根県隠岐郡隠岐郡西ノ島町美田(東の大山地区ではないので注意)に現存。(グーグル・マップ・データ))『の神体山として容易に登攀を許さない信仰の対象であったと思われるが、山陰地方における日本海水運が本格的な展開を見せる平安時代後期』(十一~ 十二世紀頃)『には、航海安全の神として崇敬を集めるようになったと見られ』、『その契機は、西ノ島、中ノ島、知夫里島の島前』(どうぜん)三『島に抱かれる内海が風待ちなど停泊を目的とした港として好まれ、焼火山がそこへの目印となったため』、『これを信仰上の霊山と仰ぐようになったものであり、殊に近代的な灯台の設置を見るまでは』、『寺社において神仏に捧げられた灯明が夜間航海の目標とされる場合が大半を占めたと思われることを考えると、焼火山に焚かれた篝火が夜間の標識として航海者の救いとなったことが大きな要因ではないかと推定され、この推定に大過なければ、『縁起』に見える後鳥羽上皇の神火による教導』という伝承も、『船乗りたちの心理に基づいて採用されたとみることもできるという』。また、「栄花物語」では永承六(一〇五一)年五月五日の『殿上の歌合において、源経俊が「下もゆる歎きをだにも知らせばや 焼火神(たくひのかみ)のしるしばかりに」と詠んでおり』(巻第三十六「根あはせ」)、江戸中期の国学者谷川士清(たにかわことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)は、『これを当神社のことと解しているが(『和訓栞』)、それが正しければ』、『既に中央においても』、『著名な神社であったことになる』。『後世』、『修験者によって修験道の霊場とされると、地蔵菩薩を本尊とする焼火山雲上寺(真言宗であるが』、『本山を持たない独立の寺院であった)が創建され、宗教活動が本格化していく。その時期は南北朝時代と推測され、本来の祭祀の主体であった大山神社が、周辺一帯に設定されていた美多庄の荘園支配に組み込まれた結果、独自の宗教活動が制限されるようになったためであろうとされる[8]。以後明治に至るまで、雲上寺として地蔵菩薩を祀る一方、「焼火山大権現」を社号とする宮寺一体の形態(神社と寺院が一体の形態)で活動することになり、日本海水運の飛躍的な発展とともに広く信仰を集めることとなる。その画期となったのは』天文九(一五四〇)年の『僧良源による造営のための勧進活動であると推測され』、現地では永禄六(一五六三)年九月に『隠岐幸清から田地』二『反が寄進されたのを始め、各所から田畠が寄進されており(社蔵文書)、近世に入ると社領』十『石を有していたことが確認できる』。『また注目されるのは』、『西廻り航路の活況と』、『そこに就航する北前船の盛行により、日本海岸の港はもとより』、『遠く三陸海岸は牡鹿半島まで神徳が喧伝されたことで』、『歌川広重』(初代及び二代目)『や葛飾北斎により』、『日本各地の名所を描く際の画題ともされており(初代広重『六十余州名所図会』、北斎『北斎漫画』第』七『編(「諸国名所絵」)など)、こうした信仰上の展開も、上述した港の目印としての山、もしくは夜間航海における標識としての灯明に起因するものと考えられる。なおこの他に、幕府巡見使の差遣に際しては雲上寺への参拝が恒例であり、総勢約』二百『人、多い時には』四百『人を超える一行を迎える雲上寺においては、島前の各寺々の僧を集めてその饗応にあたっており、これには焼火信仰の普及と雲上寺の経営手腕が大きく作用していたと考えられている』とある。以下、「神事」の項。「例祭」は七月二十三日で午後八時頃から『本殿祭が行われ、その後、社務所を神楽庭(かぐらば。神楽奉納の場)として隠岐島前神楽(島根県指定無形民俗文化財)が舞われる。かつては夜を徹する神楽であったというが、現在は遅くても深夜には終わることになっている』。「龍灯祭」は旧暦十二月大晦日に行われ、『社伝によれば、焼火権現創祀の契機となった海上からの神火の発生が大晦日の夜だったので』、『それに因んで行われるといい、現在でも旧暦大晦日の夜には海中に発した神火(龍灯)が飛来して境内の灯籠に入るとも、あるいは拝殿の前に聳える杉の枝に掛かるともいう(この杉は「龍灯杉」と呼ばれる)。以前は「年篭り(としごもり)」と称して、隠岐全島から集まった参拝者が社務所に篭って神火を拝む風習があった。なお、同様の龍灯伝説は日本各地に見られ、その時期も古来祖先祭が行われた』七『月や大晦日とするものが多いため、柳田國男はこれを祖霊の寄り来る目印として焚かれた篝火に起源を持つ伝説ではないかと推測、これを承けて当神社においては、航海を導く神火の信仰を中核としつつ、そこに在地の祖霊信仰が被さったと見る説もある』(これに対する南方熊楠の反論は「橋立龍」の注で引用済みなので参照されたい)。「春詣祭(はつまいり)」は『島前の各集落がそれぞれ旧正月』五『日から約』一『か月の間に適宜の日を選んで参拝し、社務所で高膳(脚つきの膳)を据えての饗応と宴会が催される。上述「年篭り」の名残であるという』とある。以下、「信仰諸相」の項。「神火の導き」。『船が難破しそうになった時に焼火権現に祈念すると、海中より』三『筋の神火が現れ、その中央の光に向かえば無事に港に着けるという』。「日の入りのお灯明行事」。『北前船の船乗りに伝承された船中儀礼で、航海安全などを祈るために焼火権現へ灯火を捧げる神事。「カシキ」と呼ばれる』十三歳から十五~十六歳の『最年少の乗組員が担当し、日の入りの時刻になると』、『船尾で炊きたての飯を焼火権現に供え、「オドーミョー(お灯明)、オキノ国タクシ権現様にたむけます」と唱えながら』二『尺程度の稲または麦の藁束で作った松明を時計回りに』三『回振り回してから海へ投げ入れ、火がすぐに消えれば雨が近く、煙がしばらく海面を這えば風が出ると占ったといい』、『しかも』、『この神事を行う船乗り達は隠岐の島への就航の経験がなく、従って「オキノ国タクシ権現様」がどこのどのような神かも知らなかったという』。『なお、上述広重や北斎の描いた浮世絵は北前船におけるお灯明行事の光景である』。「銭守り」。『焼火権現から授与され、水難除けの護符として船乗りに重宝された。かつては山上に』一『つの壺があり、そこに』二『銭を投げ込んでから』一『銭を取って護符とする例で、増える一方である筈なのに』、『決して溢れることはなかったという』。『近世には松江藩の江戸屋敷を通じて江戸でも頒布されたため、江戸の玩銭目録である『板児録』にも記載されるほど著名となり、神社所蔵の』天保一三(一八四二)年十二月の『「年中御札守員数」という記録によれば、年間締めて』七千九百『銅もの「神銭」が授与されていたという』とある。なお、私の小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (七)も是非、参照されたい。小泉八雲が隠岐を愛したように、私も隠岐が好きだ。七年前にただ一度行っただけだけれど。

「三保の浦」不詳。しかし、これはどうみても、焼火山を見て、左(西)に廻り込んで、東北へ貫入する西ノ島町美田湾、「美田の浦」の誤りとしか思われない。

「大山權現」先の大山神社。]

2018/07/07

諸國里人談卷之三 橋立龍

 

    ○橋立龍(はしだてのりう)

丹後國與謝郡(よさのこほり)天橋立に、毎月十六日夜半のころ、丑寅の沖より、龍燈、現じ、文殊堂の方にうかみよる。堂の前に一樹の松あり。これを「龍燈の松」といふ。また、正・五・九月の十六日の夜に、空より、一燈、くだる。是を「天燈」といふなり。また、一火あり。是を「伊勢の御燈(ごとう)」といふ。○切戸文珠(きれともんじゆ)は海中より出現、閣浮檀金(えんぶだごん)の像なり。「拾芥抄(しうかいしやう)」云〔いはく〕、『智恩寺は、丹後九世戸(くせど)の文珠、天龍、六斉、供(けう)燈明。」とあり。松並の林、海中へさし出〔いで〕たり。東西二里、南北二町あまり、北より南へさして入海なり。舩にて渡る。その間、四町余あり。尤(もつとも)佳景の地、日本三景の其一つ也。

「夫木」               好忠

 よさの海内外(うちと)の濱にうらさびてうき世をわたるあまのはし立

[やぶちゃん注:①②③総て標題同じ。吉川弘文館随筆大成版は「橋立龍燈」とする。甚だ不審。

「丑寅」東北。

「文殊堂」現在の京都府宮津市天橋立文珠小字切戸(きれと)、「天橋立」の南側の海岸にある臨済宗天橋山(てんきょうざん)(または「五台山」とも称する)智恩寺(ここは「切戸の文殊」「九世戸(くせど)の文殊」「知恵の文殊」などとも呼ばれる。ここ(グーグル・マップ・データ))の本尊を祀る文殊堂(本堂)。現在のものは明暦三(一六五七)年改修のものであるから、菊岡沾凉(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)が生きた時代にはもう今のものである。以上の怪火(と言うよりは龍が文殊菩薩に捧げる神聖な冒頭の火)現象は本寺に伝わる天橋立(人来臨譚。本条の「天燈」)の生成と文殊信仰(神の導師とされる)との関係が神話的に述べられいる「九世戸縁起」に基づくものである(この説話を元に書かれたのが謡曲「九世戸」(作者未詳)や世阿弥の「丹後物狂」)。サイト「謡曲の統計学」の「天橋立・智恩寺〈九世戸・丹後物狂〉」がそれらをよく纏めておられ、理解し易い。ご覧あれ。

「正・五・九月の十六日の夜」ウィキの「龍燈」によれば、『柳田國男は、「龍灯」は水辺の怪火を意味する漢語で、日本において自然の発火現象を説明するために、これを龍神が特定の期日に特定の松や杉に灯火を献じるという伝説が発生したとし、その期日が多く祖霊を迎えてこれを祀り再び送り出す期日と一致することから、この伝説の起源は現世を訪れる祖霊を迎えるために、その目印として高木の梢に掲げた灯火であろうと説き、更に左義長や柱松も同じ思想を持つものと説』いている(「龍燈松伝説」。初出は大正四(一九一五)年六月発行の『郷土研究』)が、『この説に反論する形で南方熊楠は、龍灯伝説の起源はインドにあり、自然の発火現象を人心を帰依せしめんとした僧侶が神秘であると説くようになって、後には人工的にこれを発生させる方法をも編みだしたが』(注に『ここで南方は柳田を揶揄する形で、自分の陰嚢の影が龍灯のように樹上に懸かった実例(?)を持ち出す』とある)、『それが海中から現れ』、『空中に漂う怪火を龍神の灯火とする伝承があった中国に伝わって習合し、更に中国に渡った僧侶によって日本に伝来、同様の現象を説明するようになったものであるとし、また左義長や柱松は火熱の力で凶災を避けるもの、龍灯は火の光を宗教的に説明したもので、熱と光という火に期待する効用を異にした習俗であると説』いている(「龍燈について」。初出は大正五(一九一六)年十二月発行の『郷土研究』)。私は熊楠に軍配を挙げる。

「伊勢の御燈」それにしても日本神話の神々に天照大神・文殊菩薩・龍神とは豪華オール・スター・キャストだね、この話。豪勢に火も燃えるわけだわ。

「閣浮檀金(えんぶだごん)」サンスクリット語の漢音写で仏教の経典中にしばしば見られる想像上の「金」の名。その色は紫を帯びた赤黄色で、金のなかで最も優れたものとされる。経典に現われる香酔山の南、雪山の北に位置し、無熱池の畔(ほとり)にある閻浮樹林を流れる川から採取されることから、この名称があるとされる。

「拾芥抄」(しゅうがいしょう)は中世に書かれた類書(百科事典)。全三巻。ウィキの「拾芥抄」によれば、『古くは南北朝時代の洞院公賢が著者、子孫の実熙が増補したとされてきたが』、永仁二(一二九四)年(これは公賢未だ四歳の年である)に『書写された『本朝書籍目録』写本に「拾芥抄」の名が見られることから、今日では鎌倉時代中期には原型が成立し、暦応年間に洞院公賢がそれを増補・校訂したと考えられている。現存本は『口遊』・『二中歴』などの先行の書物の流れを引き継ぎ、歳時以下、経史、和歌、風俗、百官、年中行事など公家社会に必要な知識を中心とした』九十九部『及び「宮城指図」「八省指図」「東西京図」などの地図・図面類を多数含んでいる』。「源氏物語」については、『その巻名目録に現行の』五十四『帖に含まれない』「桜人」の『巻を挙げるなど』、『独自の記述を有している』。『現存最古の写本は室町時代初期のものと推定されている東京大学史料編纂所所蔵の残欠本で』、現在、『重要文化財に指定されているほか、室町時代から戦国時代にかけての写本が多数現存し、江戸時代には慶長活字本などたびたび刊行された』とある。

六斉」一ヶ月のうち、日を六回、事前に定めておき、定期的に事を行うこと。また、その日のことか。

「東西二里、南北二町あまり、北より南へさして入海なり」東西七キロ八百五十四メートル、南北二百十八メートル。この数値はどこをどう測っているのか判らない、「入海」である宮津湾(橋立の外洋側)の、北東湾口から橋立南西端位置までの距離ならそれに近いが、天橋立を知らない読者は百人中百人がこれを「天橋立」の長さだと思うであろう。因みに、現在の「天橋立」は全長約三・六キロメートル、幅は約二十~百七十メートルである。幅は時代の違いによって許せる範囲であるが、長さは北の陸地部分や南の近接海岸部を算入しても、四キロメートルに満たない。頗る不審である。或いはと橋立と宮津湾を完全に横切るドンブリ勘定か。しかし、それでも「二里」は長過ぎるし、逆に阿蘇海の湾奧でも「南北二町」は短過ぎる。お手上げ。

「舩にて渡る。その間、四町余あり」「四町」は四百三十六メートル。これもよく判らない。船で渡るのは、現在の智恩寺の東にある小橋立を経ずに大橋立に渡ることしか考えられないが、例えば、智恩寺の側にある橋立観光船の船着き場から大橋立までは直線で百五十メートルもない。阿蘇湾に流れ込む海流に乗って渡るとして考えると、或いは小橋立のずっと南方向の、対岸陸側にある「涙ヶ磯」(先の能「丹後物狂」に登場する場所)の北西直近辺りから小舟を出せば、この距離にはなる

「日本三景」後の二つは現在の宮城県宮城郡松島町を中心とした多島海である「松島」海域と、広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした宮島(厳島)周辺。ウィキの「日本三景によれば、『江戸時代前期の儒学者・林春斎が』、寛永二〇(一六四三)年に『執筆した著書『日本国事跡考』の陸奥国のくだりにおいて、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立・安藝嚴嶋爲三處奇觀』『」(句読点等は筆者付記)と書き記した』の『を端緒に「日本三景」という括りが始まったとされる』とし、『その後』の元禄二年閏一月二十八日(一六八九年三月十九日)に『天橋立を訪れた儒学者・貝原益軒が、その著書『己巳紀行』(きしきこう)の中の丹波丹後若狭紀行において、天橋立を「日本の三景の一とするも宜也」と記して』おり、『これが「日本三景」という言葉の文献上の初出とされ、益軒が訪れる以前から「日本三景」が一般に知られた括りであったと推定されている』とある。それぞれ、本書刊行(寛保三(一七四三)年)の百年前と五十四年前に当たる

「よさの海内外(うちと)の濱にうらさびてうき世をわたるあまのはし立」「夫木和歌抄」の巻二十三の「雜五」に載る曾禰好忠(そねのよしただ  延長元(九百二十三)年頃?~?:平安中期の歌人。「曾根」とも書く。丹後掾(たんごのじょう)であったため、「曾丹(そたん)」と呼ばれた。歌人としては優れていが、性格上、偏屈な面があったことから、不遇な生涯を送った。歌風は古語や俗語を取入れたり、新奇な語法を用いたりした清新さに満ちたもので、受領層歌人の生活感情を連作によって提示する「百首歌」を創始した。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に九十首近くが入集している。歌界に新風を吹込んだ功績は和泉式部とともに高く評価され、歌風は源俊頼らによって継承された。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)の一首。「好忠集」では以下の前書と後の添書きを持つ。

   圓融院の御子(おほんね)の日に、

   召しなくて参りて、さいなまれて、

   又の日、奉りける

 與謝の海の内外の濱のうら寂びて世をうきわたる天の橋立

     と名を高砂の松なれど身はうしまどに

     よする白波のたづきありせばすべらぎ

     の大宮人となりもしなましの心にかな

     ふ身なりせば何をかねたる命とかしる。

「御子の日」ここは「子の日の御遊(おあそ)び」のこと。平安時代、正月の最初の子の日に、貴族が行った物見遊山。「小松引き」(小松の根を引き抜遊び)や「若菜摘み」などが行われた。これらは年頭に当たり、松の寿を身に移したり、若菜の羮(あつもの)を食して邪気を払おうとしたものと考えられている。「與謝の海」は天橋立の砂州で区切られた潟湖である阿蘇海の旧称。「内外の濱の」までが「うら」を引き出すための序詞的用法だが、それが普通の序詞のようには無効にはならず、そのまま生きてうら寂しい橋立の景が表の絵となっているのは上手い。「海」「濱」「うら」「うき」「わたる」「天の橋立」は縁語である。「世をうきわたる」は辛い思いをしつつ、この世を生きてゆかねばならぬで、「うき」は「浮き」と「憂き」の掛詞。水垣サイト「とうた」の「曾禰好忠の本歌の「補記」に、『寛和元年の円融院紫野行幸での子の日遊びの行事に、召されもしなかった好忠が推参し、追い払われた翌日、朝廷に奉った歌。歌に続く「と名を高砂の…」以下の文章には、「橋立と名を高砂の松なれど身は牛窓によする白波」「白波のたづきありせばすべらぎの大宮人となりもしなまし」「死なましの心にかなふ身なりせば何をかねたる命とか知る」という歌三首が埋め込まれている』とある。この三首は、尻取り的な形の歌になっている。「高砂の松」は現在の兵庫県高砂市高砂神社境内にある相生(あいおい)の松であるが、ここはその歌枕を「子の日遊び」の「小松引き」に通わせ、さらに名「高い」に掛けたものであろう。「牛窓」は岡山の古くから風待ち港と知られた湊で、ここはさらに「牛」に「憂し」を掛けている。「白波」は苦海の世渡りする(「たづき」する)ことの漠然とした障害のように見えるが、実際には好忠を軽蔑し、昇進を認めない朝廷(高官)の権力をシンボライズしたもののようにも読めなくもない。そんな奴らによい「たづき」(コネ。人脈のパイプ)がないから昇進も出来ないというのではなかろうか。「かねたる」は「しようとして躊躇してしまう」の意で、ここは強烈な自己卑下の反語。]

諸國里人談卷之三 橋立龍

 

    ○橋立龍(はしだてのりう)

丹後國與謝郡天(よさのこほり)橋立に、毎月十六日夜半のころ、丑寅の沖より、龍燈、現じ、文殊堂の方にうかみよる。堂の前に一樹の松あり。これを「龍燈の松」といふ。また、正・五・九月の十六日の夜に、空より、一燈、くだる。是を「天燈」といふなり。また、一火あり。是を「伊勢の御燈(ごとう)」といふ。○切戸文珠(きれともんじゆ)は海中より出現、閣浮檀金(えんぶだごん)の像なり。「拾芥抄(しうかいしやう)」云〔いはく〕、『智恩寺は、丹後九世戸(くせど)の文珠、天龍、六斉、供(けう)燈明。」とあり。松並の林、海中へさし出〔いで〕たり。東西二里、南北二町あまり、北より南へさして入海なり。舩にて渡る。その間、四町余あり。尤(もつとも)佳景の地、日本三景の其一つ也。

「夫木」               好忠

 よさの海内外(うちと)の濱にうらさびてうき世をわたるあまのはし立

[やぶちゃん注:①②③総て標題同じ。吉川弘文館随筆大成版は「橋立龍燈」とする。甚だ不審。

「丑寅」東北。

「文殊堂」現在の京都府宮津市天橋立文珠小字切戸(きれと)、「天橋立」の南側の海岸にある臨済宗天橋山(てんきょうざん)(または「五台山」とも称する)智恩寺(ここは「切戸の文殊」「九世戸(くせど)の文殊」「知恵の文殊」などとも呼ばれる。ここ(グーグル・マップ・データ))の本尊を祀る文殊堂(本堂)。現在のものは明暦三(一六五七)年改修のものであるから、菊岡沾凉(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)が生きた時代にはもう今のものである。以上の怪火(と言うよりは龍が文殊菩薩に捧げる神聖な冒頭の火)現象は本寺に伝わる天橋立(人来臨譚。本条の「天燈」)の生成と文殊信仰(神の導師とされる)との関係が神話的に述べられいる「九世戸縁起」に基づくものである(この説話を元に書かれたのが謡曲「九世戸」(作者未詳)や世阿弥の「丹後物狂」)。サイト「謡曲の統計学」の「天橋立・智恩寺〈九世戸・丹後物狂〉」がそれらをよく纏めておられ、理解し易い。ご覧あれ。

「正・五・九月の十六日の夜」ウィキの「龍燈」によれば、『柳田國男は、「龍灯」は水辺の怪火を意味する漢語で、日本において自然の発火現象を説明するために、これを龍神が特定の期日に特定の松や杉に灯火を献じるという伝説が発生したとし、その期日が多く祖霊を迎えてこれを祀り再び送り出す期日と一致することから、この伝説の起源は現世を訪れる祖霊を迎えるために、その目印として高木の梢に掲げた灯火であろうと説き、更に左義長や柱松も同じ思想を持つものと説』いている(「龍燈松伝説」。初出は大正四(一九一五)年六月発行の『郷土研究』)が、『この説に反論する形で南方熊楠は、龍灯伝説の起源はインドにあり、自然の発火現象を人心を帰依せしめんとした僧侶が神秘であると説くようになって、後には人工的にこれを発生させる方法をも編みだしたが』(注に『ここで南方は柳田を揶揄する形で、自分の陰嚢の影が龍灯のように樹上に懸かった実例(?)を持ち出す』とある)、『それが海中から現れ』、『空中に漂う怪火を龍神の灯火とする伝承があった中国に伝わって習合し、更に中国に渡った僧侶によって日本に伝来、同様の現象を説明するようになったものであるとし、また左義長や柱松は火熱の力で凶災を避けるもの、龍灯は火の光を宗教的に説明したもので、熱と光という火に期待する効用を異にした習俗であると説』いている(「龍燈について」。初出は大正五(一九一六)年十二月発行の『郷土研究』)。私は熊楠に軍配を挙げる。

「伊勢の御燈」それにしても日本神話の神々に天照大神・文殊菩薩・龍神とは豪華オール・スター・キャストだね、この話。豪勢に火も燃えるわけだわ。

「閣浮檀金(えんぶだごん)」サンスクリット語の漢音写で仏教の経典中にしばしば見られる想像上の「金」の名。その色は紫を帯びた赤黄色で、金のなかで最も優れたものとされる。経典に現われる香酔山の南、雪山の北に位置し、無熱池の畔(ほとり)にある閻浮樹林を流れる川から採取されることから、この名称があるとされる。

「拾芥抄」(しゅうがいしょう)は中世に書かれた類書(百科事典)。全三巻。ウィキの「拾芥抄」によれば、『古くは南北朝時代の洞院公賢が著者、子孫の実熙が増補したとされてきたが』、永仁二(一二九四)年(これは公賢未だ四歳の年である)に『書写された『本朝書籍目録』写本に「拾芥抄」の名が見られることから、今日では鎌倉時代中期には原型が成立し、暦応年間に洞院公賢がそれを増補・校訂したと考えられている。現存本は『口遊』・『二中歴』などの先行の書物の流れを引き継ぎ、歳時以下、経史、和歌、風俗、百官、年中行事など公家社会に必要な知識を中心とした』九十九部『及び「宮城指図」「八省指図」「東西京図」などの地図・図面類を多数含んでいる』。「源氏物語」については、『その巻名目録に現行の』五十四『帖に含まれない』「桜人」の『巻を挙げるなど』、『独自の記述を有している』。『現存最古の写本は室町時代初期のものと推定されている東京大学史料編纂所所蔵の残欠本で』、現在、『重要文化財に指定されているほか、室町時代から戦国時代にかけての写本が多数現存し、江戸時代には慶長活字本などたびたび刊行された』とある。

六斉」一ヶ月のうち、日を六回、事前に定めておき、定期的に事を行うこと。また、その日のことか。

「東西二里、南北二町あまり、北より南へさして入海なり」東西七キロ八百五十四メートル、南北二百十八メートル。この数値はどこをどう測っているのか判らない、「入海」である宮津湾(橋立の外洋側)の、北東湾口から橋立南西端位置までの距離ならそれに近いが、天橋立を知らない読者は百人中百人がこれを「天橋立」の長さだと思うであろう。因みに、現在の「天橋立」は全長約三・六キロメートル、幅は約二十~百七十メートルである。幅は時代の違いによって許せる範囲であるが、長さは北の陸地部分や南の近接海岸部を算入しても、四キロメートルに満たない。頗る不審である。或いはと橋立と宮津湾を完全に横切るドンブリ勘定か。しかし、それでも「二里」は長過ぎるし、逆に阿蘇海の湾奧でも「南北二町」は短過ぎる。お手上げ。

「舩にて渡る。その間、四町余あり」「四町」は四百三十六メートル。これもよく判らない。船で渡るのは、現在の智恩寺の東にある小橋立を経ずに大橋立に渡ることしか考えられないが、例えば、智恩寺の側にある橋立観光船の船着き場から大橋立までは直線で百五十メートルもない。阿蘇湾に流れ込む海流に乗って渡るとして考えると、或いは小橋立のずっと南方向の、対岸陸側にある「涙ヶ磯」(先の能「丹後物狂」に登場する場所)の北西直近辺りから小舟を出せば、この距離にはなる

「日本三景」後の二つは現在の宮城県宮城郡松島町を中心とした多島海である「松島」海域と、広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした宮島(厳島)周辺。ウィキの「日本三景によれば、『江戸時代前期の儒学者・林春斎が』、寛永二〇(一六四三)年に『執筆した著書『日本国事跡考』の陸奥国のくだりにおいて、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立・安藝嚴嶋爲三處奇觀』『」(句読点等は筆者付記)と書き記した』の『を端緒に「日本三景」という括りが始まったとされる』とし、『その後』の元禄二年閏一月二十八日(一六八九年三月十九日)に『天橋立を訪れた儒学者・貝原益軒が、その著書『己巳紀行』(きしきこう)の中の丹波丹後若狭紀行において、天橋立を「日本の三景の一とするも宜也」と記して』おり、『これが「日本三景」という言葉の文献上の初出とされ、益軒が訪れる以前から「日本三景」が一般に知られた括りであったと推定されている』とある。それぞれ、本書刊行(寛保三(一七四三)年)の百年前と五十四年前に当たる。]

大和本草卷之八 草之四 鹿角菜(ツノマタ)及び海藻総論後記 / 大和本草卷之八 草之四~完遂

 

鹿角菜 本草水菜ニ載ス大寒無毒解熱然ドモ性不

 良其形鹿角ニ似テ小ナリ海中岩間ニ生ス乾シ收

 メ用ル時水ニ浸シ醋ニ和乄食フ

[やぶちゃん注:以上の「鹿角菜」ここで終わり、以下の二字下げ部分は海藻類全般についての益軒の感想と後記が続く。書き下し文ではここにアスタリスクを挿入した。]

  本草所載水草苔類不過于十餘品無海草門

  凡本草載諸海産甚略矣本邦海中所産藻苔

  之類各處土地ニヨリ異品多シ窮知リカタシ不可

  枚擧凶年ニハ貧民海草ヲ取食ヒ飢ヲ助クル事山

  蔬ニマサレリ海草ノ民用ニ利アル事亦大ナル哉然

  海草之性皆寒冷滑泄能傷脾胃伐發生之氣

  脾胃虛冷之人不可食又海草有蟲子之毒者

  不可食

 

大和本草卷之八[やぶちゃん注:終りを意味する柱。書き下し文では省略した。]

○やぶちゃんの書き下し文

「鹿角菜(ツノマタ)」 「本草」は「水菜」に載す。大寒。毒、無し。熱を解す。然れども、性、良からず。其の形、鹿の角に似て、小なり。海中の岩間に生ず。乾し收め、用ふる時、水に浸し、醋に和して食ふ。

   *

「本草」〔の〕載する所の水草・苔の類、十餘品の過ぎず、海草門、無し。凡そ「本草」は諸海産を載すること、甚だ略せり。本邦の海中、産する所の藻・苔〔(のり)〕の類ひ、各處、土地により、異品、多し。窮め知りがたし、枚擧すべからず。凶年には、貧民、海草を取り食ひ、飢〔(うゑ)〕を助くる事。山蔬〔(さんそ)〕にまされり。海草の民用に利ある事、亦、大なるかな。然〔(しか)れども〕、海草の性〔(しやう)〕、皆、寒冷・滑泄〔(かつせつ)にして〕、能く脾胃〔(ひい)〕を傷〔つけ〕、發生の氣を伐〔(た)〕つ。〔ゆゑに〕脾胃虛冷の人、食ふべからず。又、海草、蟲-子〔(むし)〕の毒有るは、食ふべからず。

[やぶちゃん注:「鹿角菜(ツノマタ)」は紅藻植物門紅藻綱真性紅藻亜綱スギノリ目スギノリ科ツノマタ属ツノマタ Chondrus ocellatus。田中次郎著「日本の海藻 基本284」によれば、属名Chondrus は「軟骨質の」、種小名 ocellatus は「角叉」の意。ツノマタ属は本邦では八種が知られており(但し、鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」のスギノリ目のページを見ると、何と、二十一種も挙げらてある。当該サイトは日本産海藻リストである)、形状が近似し、それらも多くは食用とされるから、益軒のこれはそれらも総て含むと考えた方がよいだろう。田中氏によれば、『潮間帯下部に生育する代表的な紅藻である。体色は七変化』で、『緑、青、紫、赤などの色合いのものがある。基本的には広い枝が二叉分枝する。枝はねじれることが多い。高血圧などの民間薬の原藻としても知られ』、『カラギーナン寒天としても食されることが多い。汁の実や刺身のつまにも使われる。また漆喰の糊料としても有名である』とある。最後なので、今まで盛んに参考にさせて戴いた鈴木雅大氏のサイトの、ツノマタのページもリンクさせておく。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のツノマタのページによれば、和名「ツノマタ(角又)」は『鹿の角のように股状になっているところから』の呼称で、『ツノマタを食用としている地域は少なく、主に壁土に入れる、石けんなどとして利用していた』。『食用としている地域で有名なのは、千葉県銚子市、茨城県鹿嶋市などで、コトジツノマタ』(コトジツノマタ(琴柱角叉)Chondrus elatus鈴木雅大氏のサイトのコトジツノマタのページも参照されたい)や『ツノマタを煮溶かして固めて食べ』、『これを海藻』・『海草』と称し、『千葉県銚子市、茨城県神栖市でコトジツノマタ、ツノマタをブレンドして煮溶かしてコンニャク状に固めたもの』を指すという。『海藻らしい風味が楽しめて、なかなか美味』とある。先の鈴木雅大氏のサイトのコトジツノマタのページで現物が見られる。涎が出てきた。

「本草」「本草綱目」の巻十九の「草之八」には海藻は「海藻」・「海蘊」・「海帶」・「昆布」・「越王余」・「石帆」・「水松」の七つしか載らず、巻二十一の「草之十」を見ても海苔を乾した「乾苔」が載る程度で、益軒の「十餘品」というのが他に何を指しているのかはよく判らない。他の項に分散して出るか。判明したら、追記する。

「海草門、無し」海藻(或いは顕花植物としての海草)の部立がないことを言う。

「山蔬〔(さんそ)〕」山菜。

「滑泄」既出既注。漢方の症状としては激しい下痢の水様便を指すが、ここは便をそうした状態にしてしまう性質の意であろう。

「脾胃」既出既注。漢方では広く胃腸、消化器系を指す語である。

「發生の氣を伐〔(た)〕つ」漢方では人体も自然界の春と同様に、人体内で生気が発生する、起ると考えるから、そのメカニズムが致命的に断たれるということであろう。

「脾胃虛冷の人」既出既注。虚弱体質、或いは、体温が有意に低下するような疾患に罹っている人、或いは、消化器系疾患等によって衰弱している人。

「海草、蟲-子〔(むし)〕の毒有るは、食ふべからず」「蟲子」は虫のことであるから、海藻に虫が寄生し、そのために毒化しているものがあるから、それは食ってはいけない、というのであろう。海藻類に寄生する生物(博物学的な意味での虫類)としては、節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類(代表種はワレカラ科ワレカラ属マルエラワレカラCaprella acutifrons・トゲワレカラ Caprella scaura・スベスベワレカラ Caprella glabra など。大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラを参照されたい)や甲殻亜門マルチクラスタケア上綱Multicrustacea Hexanauplia 綱橈脚(カイアシ)亜綱 Copepoda に属するコペポーダ類の中の葉上性カイアシ類(強酸アミジグサに生活する葉上性カイアシ類が参考になる。藻体をかじったり、汚損させたりする害虫としては認識されており、海産で本邦には三十種はいるらしい)等がいるが、これらが人体に有害な毒性を持つという話は聴いたことがない。プランクトン食をするそれらの中に有毒な種がいる可能性は否定は出来ないが、ワレカラヤカイアシ類が付着した海藻で食中毒を起こしたというようなケースは私の知る限りでは報告されていないと思う。寧ろ、何遍も注した通り、オゴノリ類の中毒死亡例が複数あること、それを説明するとされる、prostaglandin E2(プロスタグランジンE2)摂取に始まる人体内機序の例や、ハワイで発生したオゴノリ食中毒の要因研究の過程で疑われているアプリシアトキシン aplysiatoxin という消化管出血を引き起こす自然毒(これは単細胞藻類である真正細菌 Bacteria 藍色植物門 Cyanophyta の藍藻(シアノバクテリアCyanobacteria)が細胞内で生産する猛毒成分)といった物質やそれを含んだ藻類が付着した海藻を知らずに摂取する結果として中毒が起こることはあり得るし、海産中毒や死亡例では原因が不明なケースもある。古くから食べられてきた種でも、海域が廃棄物によって汚染されているものもある。危きは口にせず、は悲しいが、しょうがない。

 残す水族の本文は巻十三の魚類のみ。但し、「附錄」と「大諸品圖下」がまだある。]

 

大和本草卷之八 草之四 コモ (考証の末に「アカモク」に同定)

 

【和品】

コモ 細莖長ク乄穗ノ如クナル小キニシテ丸キ物多クツケ

 リタヽキテ羹トスホタハラニ似タリ又菰ハ水草ナリ別ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「コモ」 細莖、長くして、穗のごとくなる小さきにして丸き物、多くつけり。たたきて羹〔(あつもの)〕とす。「ホタハラ」に似たり。又、菰〔(こも)〕は水草〔(みづくさ)〕なり。別なり。

[やぶちゃん注:「コモ」という和名の海藻は現行では見当たらない。しかし、

①茎が有意に細長い(ということは藻体全体が有意に長いと言い換えてよいであろう)。

②極めて特徴的な小さな穂のような丸いものが、数多く藻体に形成されている。

③「ホタハラ」=ホンダワラに似ている。

④敲いて味噌汁のタネとする。

というからには、

褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae

或いは同科の

ホンダワラ属 Sargassum

の仲間である(とまず考えてよいのではないかと思った。

 その中でも、私が最初に想起したのは、

長さ三~五センチメートルにも達する、ホンダワラ属の中でも最も巨大な雌性雄性の生殖附属器の枝を持つ(

褐藻綱ヒバマタ亜綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属バクトロフィクス亜属 Bactrophycus スポンゴカルプス節 Spongocarpus アカモク(赤藻屑)Sargassum horneri

であった。鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」のアカモクのページによれば、益軒の言うように、『雄性生殖器床は細い円柱形』で、『雌性生殖器床は雄よりも太い円柱形』を成し、『気胞は円柱形で細長い形態をしてい』るとあるのである。さらに鈴木氏は、

   《引用開始》

アカモクはコンブ類に匹敵するほど大型になる海藻ですが,その大きさについては様々な説が飛び交っています。一般的には3-5 m位と考えられていますが,日本海のように透明度の高い条件では「30 mを超えるアカモクの大森林がある」という話もあります。さすがに30 mは言い過ぎと思わなくもないですが,5 mを超える個体があるのは確かで,ホンダワラ属の中でも群を抜いて大きくなる種です。海藻の大きさの記録を取るのは難しく,「世界一」,「日本一」と安易に決定することは出来ませんが,現在日本の海藻の中で最長と考えられているナガコンブ(Saccharina longissima,注)に次ぐか匹敵する大きさの海藻と言えるかもしれません。公式には何mとなるのか,気になるところです。

注.ナガコンブは通常210 m,最大で20 mに達すると言われています。

   《引用終了》

と記されておられるのは、本種が有意に長大に成り、それは本邦産海藻類で最長の種に入る可能性を持つ()ことを明らかにされておられるのである。事実、田中次郎著「日本の海藻 基本284」の「アカモク」は『長さ 10m を超す個体もよく見られる』とあるのである。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のアカモクのページによれば、『食べる地域と食べない地域にくっきり分かれる海藻』で、『日本海富山県、新潟県、山形県、秋田県などでは盛んに食べている』とあり、『生殖器床が顕著になった時期にゆでると』、『ネバリが出る。これを摘み取り、湯通しして、醤油、酢みそ、七味唐辛子などで食べる』とし、味噌汁については、『水洗いしたアカモクを適宜に切り、カツオ節だし、煮干しだしなどに入れてみそを溶く。簡単にできて』、『とても味のいいみそ汁になる』とあるのである(。なお、「あかもく(赤藻屑)」という和名については、『暖かくなると』、『切れて海上を藻屑となって漂うため』とそこにある。

 これでもうキマリであろう。

「菰〔(こも)〕は水草〔(みづくさ)〕なり。別なり」単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae 族マコモ属マコモ Zizania latifoliaウィキの「マコモによれば、『東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行』である。]

大和本草卷之八 草之四 奥津海苔(〔オクツ〕ノリ) (興津海苔(オキツノリ)の誤り)

 

【和品】

奥津海苔 廣六七分或七八分長五六七寸許頗

 厚可食紫色水ニ洗ヒ曝日則變爲黄白色駿州奥

 津ニアリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「奥津海苔(〔オクツ〕ノリ)」 廣さ、六、七分、或いは、七、八分。長さ、五、六、七寸許〔(ばか)〕り。頗〔(すこぶ)〕る厚し。食ふべし。紫色なり。水に洗ひ、日に曝〔(さら)さば〕、則ち、變じて、黄白色と爲る。駿州奥津にあり。

[やぶちゃん注:二箇所の「奥津」はママであるが、「興津」(現在の静岡県静岡市清水区興津(おきつ)。(グーグル・マップ・データ)。清水港の北直近)の誤りである。古くから海産物で知られる。

紅藻綱カギノリ目オキツノリ科オキツノリ属オキツノリ Ahnfeltiopsis flabelliformis

である。。鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」のオイキツノリのページで藻体を見られたい。田中次郎著「日本の海藻 基本284」によれば、興津だけでなく、日本各地潮間帯下部やタイド・プールにしばしば優先種として繁茂する。高さは三~八センチメートル、茎幅は一・五~二ミリメートルで、一枚一枚は『平面状に広がるが、それらが重なり合って半円球状になって生育して』おり、『暗紅色で』、『規則的に二叉分枝する』とある。因みに、形の良さから、刺身のツマとして使われることはあるが、現行では、主に質が固いために食用としては認知されていない。]

大和本草卷之八 草之四 海薀(モヅク)

 

海薀 本草時珍云縕亂絲也其葉似之故名正月

 取タルハワカク柔ニ乄良シ鹽ニ淹セハ久ニ堪フ薑醋ニ

 テ食フ性冷利食物本草所載苔菜ヲ向井氏ハモツ

 クナルヘシト云ヘリ食物本草曰苔菜生海中浮波面其

 形縷々線ノ如シ鹽醋ニ拌食ス味淸鮮トイヘリ

○やぶちゃんの書き下し文

「海薀(モヅク) 「本草」〔に〕時珍〔が〕云はく、『縕は亂絲なり。其の葉、之れに似る。故に名づく。』〔と〕。正月に取りたるは、わかく、柔〔(やはらか)〕にして、良し。鹽に淹〔(ひた)〕せば、久〔(ひさ)〕に堪ふ。薑醋〔(しやうがず)〕にて食ふ。性、冷利なり。「食物本草」載する所の「苔菜〔(たいさい)〕」を、向井氏は『「モヅク」なるべし。』と云へり。「食物本草」に曰はく、『苔菜は海中に生じ、波の面に浮ぶ。其の形、縷々〔(るる)として〕線(いとすぢ)のごとし。鹽醋〔(しほず)〕に拌〔(ま)〕ぜ、食す。味、淸鮮。』といへり。

[やぶちゃん注:「モズク」は「水雲」「海蘊」等と漢字表記し、そのままの標準和名種は

褐藻綱ヒバマタ亜綱シオミドロ目ナガマツモ科モズク属モズク Nemacystus decipiens

で、他にナガマツモ科Chordariaceaeに属するモズク類の総称であるが、本邦で食用として流通している「モズク」は、上記の真正の「モズク」ではなく、

ナガマツモ科イシモズク属イシモズクSphaerotrichia divaricate

ナガマツモ科オキナワモズク属オキナワモズク Cladosiphon okamuranus

とが九割以上を占めている。しかし、私には一九八〇年代まではモズクかイシモズクが「モズク」であり、今はなき大船の沖繩料理店「むんじゅる」でオキナワモズクを初めて食した際には、私には「このモズクでないモズクに少し似た太い別種の海藻を食品名としてかく命名した者は大きな誤りを犯している」(と私は心底そう感じた)と、その後も長く思い込んでいたものであった。また、これほどオキナワモズクが「モズク」として席捲するとも思っていなかった(私は沖繩を愛すること、人後に落ちないつもりであが、こと、モズクに関して言えば、あの「オキナワモズク」を「モズク」と呼称することについては、私の『味覚・食感記憶』が今も強い違和感を覚えさせるのである。但し、オキナワモズクの天ぷらは美味い)。イシモズクもいやに黒々して歯応えも硬過ぎる気がして、やはり「モズク」と呼称したくないのが、正直な気持ちである。但し、現在、沖縄に於いて、全国への流通量が少なくなっていた真正のモズクNemacystus decipiens(奇異なことに「オキナワムズク」を「モズク」と呼称するようになってしまい、本来の真正モズクであるそれが流通名で「イトモズク」とか「キヌモズク」とか呼ばれるようになってしまったのは著しく不当であると考えている)の養殖が行われており、商品として沖繩産でありながら『おや? これはオキナワモズクではないぞ? 「モズク」だぞ!』と感じさせるものが出回るようになったのは嬉しい限りである(それがまた沖繩産であることも快哉を叫びたい)。一般にはモズク Nemacystus decipiens 等が同じ褐藻綱のホンダワラ(ヒバマタ目ホンダワラSargassum fulvellum)等に付着することから、「藻に付く」「もつく」となったのが語源とされるが、実は我々の知る上記のオキナワモズク・イシモズクは他の藻に絡みつかず、岩石に着生するのである(されば和名語源から言えばオキナワモズクとイシモズクはモズクに非ずということになるのである)。なお、本邦には他に、

イシモズク属クサモズク Sphaerotrichia divaricata(食用)

モズク科フトモズク属フトモズク Tinocladia crassa(食用。鈴木雅大氏サイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」のフトモズクのページによれば、加藤氏の採取したものには、高さ三十~四十センチメートル、主軸直径一センチメートルにも及ぶものがあるとされる。リンク先に写真有り)

ニセモズク科ニセモズク属ニセモズク Acrothrix pacifica(ヒバマタ亜綱コンブ目ツルモ属ツルモ Chorda asiatica に着生。薬剤素材となっているから、食用は可能と思われる)

等の近縁種がいる。なお、鈴木氏は先のサイトのクサモズクのページで、クサモズク Sphaerotrichia divaricata 『個人的には最も美味しいモズクの仲間』とされておられる。岩手に行ったら、入手するぞ!

『「本草」〔に〕時珍〔が〕云はく、『縕は亂絲なり。其の葉、之れに似る。故に名づく。』〔と〕』「本草綱目」「草之八」の「海蘊」は全体が短い。

   *

海薀【溫・縕・、三音。「拾遺」。】

校正自草部移入此。

釋名時珍曰、「縕亂絲也。其葉似之故名。」。

氣味鹹、寒。無毒。

主治癭瘤結氣在間下水【藏器】。主水廕【蘇頌。】。

この時珍の「海薀」の「薀」の「縕」は「亂絲」の意と記すが、これ、よく意味が判らないのだが、「縕」は実は麻(バラ目アサ科アサ属 Cannabis。或いはカンナビス・サティバ(大麻草)Cannabis sativa を指す。だから、これはアサ類の葉っぱに似ているという意味であろう。しかし、この「縕」の字自体に派生的な「水草」(淡水産顕花植物)の意があり、「マツモ」や「キンギョモ」を指し、これまた、「マツモ」が実は狭義の双子葉植物綱スイレン目マツモ科マツモ Ceratophyllum demersum var.demersum を指すに留まらないこと、同様に「金魚藻」と呼称される種も極めて多種多様な水草群を含んでいること等から、混迷を極めてしまうので、この話はここまでとしておく。なお、モズク Nemacystus decipiensという学名もこれ、属名がギリシャ語の「Nema」(糸)と「cystus」(嚢)の合成で、種小名は「虚偽の・欺瞞の」という意味なのである。

「鹽に淹〔(ひた)〕せば、久〔(ひさ)〕に堪ふ」塩に漬けて塩蔵すれば、永く保存に耐える。

「食物本草」元の李東垣の著(但し、出版は明代の一六一〇年)になる「東垣食物本草」であろう。

「薑醋〔(しやうがず)〕」生姜酢。

「冷利」冷たくすっきりした食感を指すのではなく、漢方で体温を速やかに下げるの意であろう。

「向井氏」本草学者で医師の向井元升(げんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年)であろう。ウィキの「向井元升」によれば、『肥前国に生まれ』で五『歳で父、兼義とともに長崎に出て、医学を独学し』、二十二『歳で医師となる』。慶安四(一六五一)年、ポルトガルの棄教した宣教師クリストファン・フェレイラの訳稿を元に天文書『乾坤弁説』を著し』、承応三(一六五四)年には『幕命により、蘭館医ヨアン(Hans Joan)から通詞とともに聞き取り編集した、『紅毛流外科秘要』』全五『巻をまとめた』。万治元(千六百五十八)年、『家族と京都に出て医師を開業した』。寛文一一(一六七一)年、『加賀藩主前田綱紀の依頼により『庖厨備用倭名本草』を著した。『庖厨備用倭名本草』は、中国・元の李東垣の『東垣食物本草』などから食品』四百六十『種を撰び、倭名、形状、食性能毒等を加えたものである』。なお、彼の『次男は俳人の向井去来』である。ここで『向井氏は『「モヅク」なるべし。』と云へり』というのは、この「庖厨備用倭名本草」に書かれている。幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションの「庖厨備用倭名本草」第三巻の画像で当該部「苔菜(タイサイ/右ルビ:モヅク/左ルビ)」を探し当てることが出来た。である。そこで向井は「モヅクなるべし」という推定ではなく、「元升曰此ノ説ヲミレハ今俗ニ云モヅク也」と断定している。但し、「東垣食物本草」の原典に当たることが出来ないので私はこの李東垣の『苔菜は海中に生じ、波の面に浮ぶ。其の形、縷々〔(るる)として〕線(いとすぢ)のごとし。鹽醋〔(しほず)〕に拌〔(ま)〕ぜ、食す。味、淸鮮』という見解(しかし「苔菜」という呼び名を除けば、確かにこれはモズクの記載としてしっくりはくる)及びそれに基づく向井及び貝原の見解、則ち、「苔菜」=「モズク」とする主張への受け入れを留保する。何故なら、李東垣より後の「本草綱目」の巻二十六の「菜之一」の「紫」の異名に「苔菜」が出るのであるが、本文を見ると、水辺に植生するとあるものの、それは淡水で「海中」の文字は全くなく、しかも植生するのは水の中ではない。しかもこの「紫」とは現在のキンポウゲ目ケシ科キケマン属ムラサキケマン Corydalis incisa か、その近縁種を指すように思われ、同項目前も「菫」で、これは明らかに陸生植物であるからである。]

2018/07/06

大和本草卷之八 草之四 鮫皮苔(サメノリ) (フダラク?)

 

【和品】

鮫皮苔 ヨコ五分許長二三寸靑色ナリ鮫皮ノ如クナル

 星多クシテ其處少高シ「經ノ紐」ヨリヨシ稀有ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「鮫皮苔(サメノリ)」 よこ、五分許り。長さ、二、三寸。靑色なり。鮫皮のごとくなる星、多くして、其の處、少し高し。「經ノ紐」より、よし。稀有〔(けう)〕なり。

[やぶちゃん注:この名では判らぬ。しかし、

①名にし負う「鮫皮のごとくなる星、多くして、其の處、少し高」くなっていると叙述。

②全体は「靑色」(緑色?)を呈すること。

③『「經ノ紐」より、よし』(食って美味いの意であろう)という叙述から或いは紅藻植物門真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イソノハナ目ムカデノリ科マタボウ属キョウノヒモ Polyopes lancifolius との近縁関係があるかも知れないこと。

そう簡単には見つからないということは潮間帯下部以深に植生する可能性が高いこと。

などを頼りに図鑑や画像を見て行くと、有力な一つの候補として、私は

真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イソノハナ目ムカデノリ科タンバノリ属フダラク Pachymeniopsis lanceolate

に眼が止まった。「ふだらく」は「補陀落」ではなく(それに掛けた可能性はないとは言えないようには思うのだが)、田中次郎著「日本の海藻 基本284」によれば、『成熟してくると表面に胞子囊の集まりである大きな斑(ふ)が入ることが多い。そこから「斑(ふ)」だらけ」と呼ばれ、転じて和名がつけられた』とあり、同種は潮間帯下部から潮下帯を棲息域とする。さらに鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」の同種のページを見て戴きたいのだが、上から四・五・六枚目の写真を見ると、はっきりと斑が見える。さらに、何となく鮫の皮っぽい感じがし、鮫肌っぽいブツブツさえ六枚絵目の右端には現認出来る。しかもこの六枚目の写真では、藻の一部が有意に薄緑を呈しているのが判り、田中次郎著「日本の海藻 基本284」の写真でも、薄緑と、かなり濃い青緑の斑(まだら)模様になった藻体写真が載るのである。無論、他の種で候補となりそうなものはまだあるけれど、私としては一つの候補を出せれば満足なので、これまでとする。よりよい同定種があるとなれば、是非、御教授あられたい。]

大和本草卷之八 草之四 經ノヒモ

 

【和品】

經ノヒモ 昆布ニ似テ小也廣二三寸長五六寸ハカリ

 食スレハ脆ク味ヨシ醋ミソニテ食ス

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「經ノヒモ」 昆布に似て小なり。廣さ、二、三寸。長さ、五、六寸ばかり。食すれば、脆く、味、よし。醋〔す〕みそにて食す。

[やぶちゃん注:「經の紐」は「キヤウノヒモ(キョウノヒモ)」で、現在の和名もそのままに、紅藻植物門真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イソノハナ目ムカデノリ科マタボウ属キョウノヒモ Polyopes lancifolius である。「千葉大学海洋バイオシステム研究センター銚子実験場」の「海藻海草標本図鑑」によれば、『からだは扁平で被針形。基部付近は細い円柱状の茎状となる。分枝はするものもしないものもある。生長した個体では縁辺や体表面から小枝をマット状に密生するようになる。細胞層は皮層に小さな球形の細胞が多数並び,皮下層にやや大きな細胞が並ぶ。髄層は糸状細胞からなる。手触りは若い個体では柔らかで滑らかだが』、『老成した個体では軟骨質になり弾力を持つようになる。生体は黄色がかった紅色〜暗紫紅色。押し葉標本は台紙につかない。似たものとしてヒラムカデ』(ムカデノリ科ムカデノリ属ヒラムカデ Grateloupia livida)『やムカデノリ』( ムカデノリ属ムカデノリ Grateloupia asiatica)『があるが』、『ヒラムカデは小枝が少なく』、『押し葉標本は台紙につき』、『ムカデノリは』『表面からの小枝はもたず』、『基部付近に円柱状の部分がみられない。ただし』、『これらは非常に形態変異が激しく』、『小枝をほとんど持たないキョウノヒモや』『細かく分岐したヒラムカデなど』、『典型種とかけはなれたものも多く』、『形態からの判断が非常に難しい事がよくある』とある。田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)によれば、『和名は江戸時代初期には見られるが、由来ははっきりしない』とある。

「昆布に似て」ません!]

大和本草卷之八 草之四 黑ノリ (ウップルイノリ)

 

【和品】

黑ノリ 若狹ノ海ニアリ岩ニ生ス臘月ニトル黑クウルハシ

 味ヨシ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「黑ノリ」 若狹の海にあり。岩に生ず。臘月にとる。黑く、うるはし。味、よし。

[やぶちゃん注:「若狹」(日本海中部)という限定性、「岩」海苔、則ち、養殖ではない天然物であること、「臘月」=旧暦十二月に採取すること、呼称から藻体が有意に「黑」いこと、味がよいとすることを綜合すると、私は、

植物界紅藻植物門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属ウップルイノリ(十六島海苔)Porphyra pseudolinearis

を挙げるべきかと思う。本種は別称を「クロノリ」とも呼ぶからである。分布と「岩海苔」とすることからは、

アマノリ属ツクシアマノリ(筑紫甘海苔)Porphyra yamadae

も挙げられるが、ツクシアマノリは有意に緑色を呈しており、黒くないので外れる。

 ウルップイノリは多くの方には馴染みのない名前であろうから、私の寺島良安の和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔から、訓読文と私の注を引いておく(原文はリンク先を参照されたい)。

   *

うつぷるいのり

十六島苔

【宇豆布留伊。】

 附〔(つけた)〕り

  雪苔

按ずるに、此の苔、雲州[やぶちゃん注:出雲。]十六島(うつふる)より出づる。故に名づく。海中の石上に附生す。長さ、二~三尺、幅二寸ばかりにして、細(こまやか)なること、髮のごとく、紫黑色。味【甘、微鹹。】極美なり。國守、海人をして之れを取らしめ、海人、海底に入り、採りて腰帶と爲し上(あが)る。其の得る所の三分が一を海人に賜ふ。最も苔中の珍品と爲す。

 ゆきのり

 雪苔

按ずるに、雪苔は雲州加加浦に、之れ、有り。畧(ちと)「十六島苔」に似て、短く、紫色。冬の雪、石面に雪降りて、乍(たちま)ち、變じて、苔と爲る。之を刮(こそ)げ取る。夏に至りては、則ち貯(たくは)ひ難し。丹後にも亦、之有り。

   *

ウップルイノリは潮間帯上部に生育し、幅が狭く長い。成長したものは長さが約三十センチメートル、幅五センチメートルまで伸長するが、長さ二十センチメートル、幅一~二センチメートルが通常個体である(良安の叙述の長さは後述するように有意に大き過ぎる)。雌雄異株で、秋から一月ぐらいまで岩礁に見られる。北方系の種である。

「十六島」現在の島根県出雲市(以前は平田市であったが、二〇〇五年三月に旧出雲市・平田市・簸川郡佐田町・多伎町・湖陵町・大社町の二市四町が新設合併して新しい「出雲市」となった)十六島町(うっぷるいちょう:(グーグル・マップ・データ))にある十六島湾(うっぷるいわん)を指す。「十六島」という単独の島の名ではない。航空写真で見ると、十六以上の大小様々な島が見える。如何にもアイヌ語の語源を感じさせる地名であるが、これに関しては、「日本古代史とアイヌ語」というサイトの「十六島」に実に緻密で詳細な考察がある。それによれば、アイヌ語で「松の木が多いところ」若しくは「穴や坂や崖の多いところ」という意味である可能性が高いとある。このサイト、震えるほど素晴らしい! 是非、ご覧あれ。

「採りて腰帶と爲し上る」とあるが、アマノリの類いは、上記通り、潮間帯上部に繁茂し、岩礁帯をちまちまと摘むように採取するものと思われる。このように海中に潜水して多量に採取し、更にそれを腰に帯のように巻いて浮上するというのは私には考え難いのである。挿絵から見ても、良安は昆布類の採取と錯誤しているように思われるのだが、如何? 識者の意見を乞う。

「雪苔」ユキノリ これは現在、佐渡島で「イワノリ」の呼称として用いられているのだが、「イワノリ」という呼称自体、広義のウシケノリ科アマノリ属 Porphyra 類の総称として用いられている。なお、ここでの良安が雪から海苔を生ずるという化生説を無批判に採用しているのは驚きである。

「雲州加加浦」は、現在の島根県松江市(以前は八束郡であったが二〇〇五年三月に旧制の松江市が、八束郡に属する鹿島町・島根町・美保関町・八雲村・玉湯町・宍道町・八束町の一市六町一村が合体合併して新しい「松江市」となった)島根町加賀の加賀漁港周辺地域を指すものと思われる。(グーグル・マップ・データ)。]

大和本草卷之八 草之四 於期(ヲゴ)ノリ (オオオゴノリ?)

 

【和品】

於期ノリ 海中石上ニ生ス亂髮ノ如シ靑黑色ナゴヤ

 ヨリ大ニヒシキヨリ小也飯ニ加ヘ食スル事ヒシキノ如ニス

 性滑泄虚冷人不可食發腹痛性不良

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「於期(ヲゴ)ノリ」 海中の石上に生ず。亂髮〔(みだれがみ)〕のごとし。靑黑色。「ナゴヤ」より大〔(だい)〕に、「ヒジキ」より小なり。飯に加へ食する事、「ヒジキ」のごとくす。性、滑泄。虚冷の人、食ふべからず。腹痛を發〔(おこ)〕す。性〔(しやう)〕、不良〔なり〕。

[やぶちゃん注:『「ナゴヤ」より大〔(だい)〕に、「ヒジキ」より小なり』とあるから、紅色植物門紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オオオゴノリGracilaria gigas だろうか?(学名が「デカい」だからと安直だが) 「三重大学藻類学研究室」公式サイト内のオオオゴノリ Gracilaria gigas Harveyによれば、『体は円柱状でひものように長い。枝分かれの仕方はやや規則的な互生または扁生である。枝は短く』、『そのつけねはくびれることが多い』。長さ二十五~三十センチメートル(これはオゴノリ Gracilaria vermiculophylla の標準と変わらない)、直径四~七ミリメートル(これはオゴノリ(一~二ミリメートル)より遙かに太い)『のものが多いが』、『淡水のまざる静かな海ではそれ以上になることもある。体色は肌色または薄い緑色』とあるから、これに比定しておく。なお、同属は毒性が疑われるから、先の心太」ナゴヤ(オゴノリ)」を必ず参照されたい。ここでも益軒の警告は優れていると言える。

「ヒジキ」先の鹿尾菜(ヒジキ)、藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme。そこで記した通り、長さは三十~八十センチメートル、時に一メートルに達するものもある。

「滑泄」漢方の症状としては激しい下痢の水様便を指すが、ここは便をそうした状態にしてしまう性質の意であろう。

「虚冷の人」既出既注であるが、再掲しておく。虚弱体質、或いは、体温が有意に低下するような疾患に罹っている人、或いは、消化器系疾患等によって衰弱している人を指す。

「性〔(しやう)〕、不良〔なり〕」全体的な食としての性質はよろしくない、と言うのである。

大和本草卷之八 草之四 松藻(マツモ)

 

【和品】

松藻 松杉ノ葉ニ似テ靑シ石上ニ生ス生ニテモ乾テモ

 可食

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「松藻(〔マツ〕モ)」 松・杉の葉に似て、靑し。石上に生ず。生〔(なま)〕にても乾〔(ほし)〕ても食ふべし。

[やぶちゃん注:本邦では、褐藻植物門褐藻綱ヒバマタ亜綱イソガワラ目イソガワラ科マツモ属マツモ Analipus japonicus 及びイトマツモ Analipus filiformis・グンジマツモ Analipus gunjii の三種が知られる。田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)によれば、マツモ Analipus japonicus が最大種で、高さ三十~四十センチメートル、枝の直径は一ミリメートルで、『岩上に匍匐』し、『紐が絡まったような形状をした「座」と呼ばれる付着根かの上に直方体ができ』、その『中軸から四方八方へ輪生する短い枝が伸びる。全体として』松『の葉のようになるのでこの名がある。春から夏には食用とする上部の枝が枯れ落ち、座の部分だけが越年する』。『三陸地方の特産種で、現地では大がかりに養殖されて』おり、『生のまま、あるいは乾燥させて板海苔、焼きマツモとして加工して食用とするが、板海苔状のものがとくに多い。その香ばしい香りはまさしく磯のもので、海の珍味として有名である』とある。私も大好物で、焼きマツモがなんとも言えず、美味い。海藻類としてはやや値が張る高級品の一種である。]

大和本草卷之八 草之四 ナゴヤ (オゴノリ)

 

【和品】

ナゴヤ 海藻ニ似テマルシ枝多ク細長シ色靑シ或褐色

 也煮食ス又沸湯ニユヒキテ味曾ニ和乄食ス性アシヽ

 往々發腹痛不可食

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「ナゴヤ」 海藻〔(ナノリソ)〕に似て、まるし。枝、多く、細長し。色、靑し。或いは褐色なり。煮て食す。又、沸湯にゆびきて、味曾〔(みそ)〕に和して食す。性〔(しやう)〕、あしし。往々〔にして〕腹痛を發〔(おこ)〕す。食ふべからず。

[やぶちゃん注:前に心太」で注した紅色植物門紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla に代表されるオゴノリ科Gracilariaceae のオゴノリ類。本邦産だけでも、オオオゴノリGracilaria gigas・ミゾオゴノリGracilaria incurvata・フシクレオゴノリGracilaria salicornia・シラモGracilaria bursa-pastoris・カバノリGracilaria textorii・シンカイカバノリGracilaria sublittoralis等、実に二十種が知られており、普通に刺身のツマとして使用され、食べている(私も好んで総て食う)のであるが、益軒が「性〔(しやう)〕、あしし[やぶちゃん注:「惡しし」。]。往々〔にして〕腹痛を發〔(おこ)〕す。食ふべからず」とまで言い切っているのを不審に思われる方もあるかも知れぬので再掲しておくと、実は、オゴノリと言えば、本邦ではオゴノリ類によると疑われる中毒が数例報告されている。しかも死亡例も複数あり、それらは総てのケースが血圧低下によるショック死で、全員、女性である。それらはみな、オゴノリ類の生食(記載によっては真水につけて刻むともある)によるもので、現在ではその中毒機序は一応、まずは――オゴノリの脂質に含まれるPGE2prostaglandin E2プロスタグランジンE2)摂取が行われ、次に、このPGE2を更に増殖させる酵素の摂取、即ち、刺身などの魚介類の摂取=魚介類に多く含まれる不飽和脂肪酸であるアラキドン酸(Arachidonic acid)の多量供給により、PGE2が摂取者の体内で過剰に生成されたのが原因ではないか――と疑われている。さらに、プロスタグランジン類には主に女性に対して特異的限定的薬理作用を持つものがあり、その子宮口軟化・子宮収縮作用から産婦人科で分娩促進剤として用いられており、更に血圧低下・血管拡張作用等を持つ。低血圧症であったり、若しくは、逆に、高血圧で降圧剤を服用していた女性に、そうした複合的条件が作用し、急激な低血圧症を惹起させたのではないかという推定がなされている。但し、市販されているオゴノリは青色を発色させるために石灰処理を行っており、その過程で以上のような急性薬理活性は完全に消失しているので、全く危険はない。しかし、そうした中毒原因の推理の一方で、その後にハワイで発生したオゴノリ食中毒の要因研究の過程では、その原因の一つにPGE2過剰等ではなく、アプリシアトキシンaplysiatoxinという消化管出血を引き起こす自然毒の存在が浮かび上がってきている。これは単細胞藻類である真正細菌 Bacteria 藍色植物門Cyanophyta の藍藻(シアノバクテリアCyanobacteria)が細胞内で生産する猛毒成分である。即ち、本邦の死亡例も、オゴノリに該当アプリシアトキシンを生成蓄積した藍藻がたまたま付着しており、オゴノリと一緒に摂取してしまった、とも考えられるのである。ネット上の情報を縦覧する限り、本中毒症状は、未だ十分な解明には至っていないという印象を受けるのである。それにしても、この益軒の記載がそうした極めて数少なかったはずの中毒例の江戸前・中期の記録警告であるとすれば、非常に貴重な記載と言えると私は思う

「海藻〔(ナノリソ)〕に似て」いません!

「沸湯」「ふつたう(ふっとう)」と読んでいるか。

大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ) (ホンダワラ)

 

海藻 本草ニノセタリ集解ニイヘル處ナノリソニヨクカナヘリ

 ナノリソト名ツケシ事ハ日本紀允恭帝紀ニ見ヱタリ倭

 俗又神馬藻ト云和名ヲナノリソト云ユヘニ神馬ニハノ

 ル事ナカレト云義ヲ以テ神馬草トカケリ下學集曰神

 功皇后之攻異國時舩中無馬秣取海中之藻飼

 馬故云神馬草也篤信曰此説イマタ出處ヲ見ス神

 馬藻ト書故ニカクノ如ク附會セルナルヘシ是ナノリソト

 名ツケシ日本紀ノ本緣ヲシラスシテ妄ニ云ナリ凡下

 學集ノ説信シカタシ萬葉集第七第十卷ニナノリソヲ

 ヨメリ其老タルヲホダハラト云倭俗正月春盤ノ上ニヲ

 クモノ也海中ニ生ス短キ馬ノ尾ノ如ク細葉如絲節々

 連ル枝多シ生ナル時黑シ湯ニ入レハ靑クナル魚ノ脬ノ如

 クナルモノ多ク枝ニツケリ見事ナル藻ナリ毒ナシ俗ニ疝

 氣ヲ治スト云海草ノ上品ナリ本草ニ甘草ニ反ストイ

 ヘリワカキ時ユヒキ或煮テ食ス脆ク味ヨシ

○やぶちゃんの書き下し文

「海藻(ナノリソ[やぶちゃん注:これは右ルビ。斜線の下は左ルビ。]/ホタハラ)」 「本草」にのせたり。「集解」にいへる處、「ナノリソ」によくかなへり。「ナノリソ」と名づけし事は「日本紀」〔の〕「允恭帝紀」に見ゑたり。倭俗、又、「神馬藻〔(じんばさう)〕」と云ふ。和名を「ナノリソ」と云ふゆへに、神馬にはのる事なかれ、と云ふ義を以て「神馬草」と、かけり。「下學集〔かがくしふ〕」に曰はく、『神功皇后、異國を攻む。時に舩中、馬の秣(まくさ)無し。海中の藻を取り、馬を飼(か)ふ。故に「神馬草」と云ふ也。』〔と〕。篤信曰はく、此説、いまだ、出處を見ず。神馬藻と書く故に、かくのごとく附會せるなるべし。是、「ナノリソ」と名づけし「日本紀」の本緣をしらずして、妄〔(みだり)〕に云ふなり。凡そ「下學集」の説、信じがたし。「萬葉集」第七・第十卷に「ナノリソ」をよめり。其の老いたるを「ホダハラ」と云ふ。倭俗、正月、春、盤の上に、をくものなり。海中に生ず。短き馬の尾のごとく、細葉、絲のごとく、節々、連なる枝、多し。生〔(なま)〕なる時、黑し。湯に入〔(いる)〕れば、靑くなる。魚の脬(みつふくろ)のごとくなるもの、多く枝につけり。見事なる藻なり。毒、なし。俗に疝氣を治すと云ふ。海草の上品なり。「本草」に甘草に反す、といへり。わかき時、ゆびき或いは煮て食す。脆く、味、よし。

[やぶちゃん注:狭義のホンダワラは不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属バクトロフィクス亜属 Bactrophycus テレティア節 Teretia ホンダワラ Sargassum fulvellum であるが、専門家の記載を読むと、この真正のホンダワラは日本近海では稀であるとするので(事実、二〇〇四年平凡社刊の田中二郎氏解説の「基本284 日本の海藻」には「ホンダワラ」を種として挙げておられないのである。則ち、とりもなおさず、本種は「日本の海藻」の一般的「基本」種には含まれないことを示唆している)、

ホンダワラ科 Sargassaceae

或いは、

ホンダワラ属 Sargassum

に止めておくのが正しい。さて、宮下章氏の「ものと人間の文化史 11・海藻」の「第二章 古代人海藻」の「莫鳴菜(ナノリソ) 神馬藻(ナノリソ)」によれば、『和名は不明』としつつ、「塵袋」『という江戸期の書物は、これを食べると「ハラハラ」と鳴ってうるさい』(気泡体を噛み潰す音が、であろう)『ので「菜莫鳴(ななり)」(鳴るな)の藻と名付けたのだと説いて』おり、また、『ノリに神仙菜、トサカノリに鳳尾菜の雅名を贈った古代中国は、莫鳴菜も「神馬草」の雅称で呼んだ』が、ここでも益軒が記すように、『神馬は神聖だから「莫乗(なのり)」(乗ってはならぬ)藻だから、われわれの祖先は「ナノリソ」としゃれて読んだ』としつつも、『神馬藻の文字は、中国伝来ではなく』、本邦の『つぎのような故事から生まれたものだとする説もある』として、やはり益軒の掲げる神功皇后の三韓征伐時のエピソードを示しておられる。

   《引用開始》

「神功皇后が、三韓征伐のため九州から渡航する途中、船中の馬秣(まぐさ)が不足して困った。そのとき海人族[やぶちゃん注:「あまぞく」。]の勧めで、ホンダワラを採り、馬を飼ったので、神功皇后[やぶちゃん注:底本は「神宮皇后」であるが、訂した。]のひきいる神馬の食べる藻神馬藻と書くようになった」

   《引用終了》

また、それとは別に益軒が『「ナノリソ」と名づけし事は「日本紀」〔の〕「允恭帝紀」に見ゑたり』とするだけで内容を記していない一説を以下のように紹介されておられる。

   《引用開始》

「允恭天皇は、皇后の妹、衣通郎姫(そとおりいらつめ)をも愛するようになったが、皇后に知られることを恐れて、和泉国(大阪府)の海辺に建てた茅淳宮(ちぬのみや)にかくまった。

 逢瀬もままならかったが、ある日やっとのことで天皇を迎えることができた姫は、切ない胸のうちを浜藻にたとえて訴えた。

  とこしへに君もあへもや漁(いさな)とり

   海の浜藻の寄する時々を

 天皇は、この歌が皇后に知れれば一騒動持ち上がると案じて固く口止めしたのだが、いつのまにか世間に知れ渡ってしまった。そこで人々は浜藻を「莫告」(人に告げるな)の藻と書くようになったという」

   《引用終了》

さらに以下、『奈良朝時代の正倉院文書には「奈能利僧」、万葉集には「名乗藻」「莫告藻」と書いてある』とあるが、他に「万葉集」では「莫謂」「勿謂」「莫語」「名乘曾」等もある。

 因みに、「万葉集」では以下の十三首に出現する。「万葉集」のサイトは腐るほどあるのに「なのりそ」歌群を纏めたサイトはないようなので、ここでオリジナルに示すこととする(中西進氏の講談社文庫版を参考にした)。語注や歌意は附さない。国家大観番号で検索され、有象無象の訳注サイトで読まれたい。

   *

みさご居(ゐ)る磯𢌞(いそみ)に生ふる名乘藻(なのりそ)の名は告(の)らしてよ親は知るとも 山部赤人(巻第三(三六二))

   *

みさご居る荒磯に(ありそ)に生ふる名乘藻のよし名は告らせ親は知るとも 山部赤人(巻第三(三六三)・前の歌の別稿で「或本歌曰」の前書有り)

   *

   丹比眞人笠麿(たぢひのまひとかさまろ)、

   筑紫國に下りし時に作れる歌一首

   幷(あは)せて短歌

臣女(おみのめ)の 匣(くしげ)に乘れる 鏡なす 御津(みつ)の濱に さにつらふ紐解き離(さ)けず 吾妹子(わぎもこ)に 戀ひつつ居(を)れば 明け晩(く)れの 朝霧隱(あさぎりこも)り 鳴く鶴(たづ)の 聲(ね)のみし泣かゆ 吾(わ)が戀ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる 情(こころ)もありやと 家(いへ)のあたり 我が立ち見れば 靑旗の 葛城山(かつらぎやま)に たなびける 白雲隱(しらくもがく)る 天ざかる 夷(ひな)の國邊(くにべ)に 直(ただ)向ふ 淡路を過ぎて 粟島(あはしま)を 背(そがひ)に見つつ 朝なぎに 水手(かこ)の聲(こゑ)呼び 夕なぎに 楫(かぢ)の音(と)しつつ 波の上(へ)を い行きさぐくみ 岩の間(ま)を い行き𢌞(もとほ)り 稻日都麻(いなびづま) 浦𢌞(うらみ)を過ぎて 鳥(とり)じもの なづさひ行けば 家の島 荒磯(ありそ)の上に うちなびき 繁(しじ)に生ひたる 莫告(なのりそ)が などかも妹に 告(の)らず來にけむ (巻第四(五〇九)・短歌(五一〇)も併記しておく)

白栲(しろたへ)の袖解きかへて歸り來(こ)む月日を數(よ)みて行きて來(こ)ましを

   *

   敏馬(みぬめ)の浦を過ぎし時に、

   山部宿祢赤人の作れる歌一首

   幷せて短歌

御食向(みけむか)ふ 淡路の島に 直(ただ)向ふ 敏馬の浦の 沖邊(おきへ)には深海松(ふかみる)採り 浦𢌞(うらみ)には 名告藻(なのりそ)刈る 深海松の 見まく欲(ほ)しと 名告藻の 己(おの)が名惜しみ 間使(まつかひ)も 遣らずて吾(われ)は 生けりともなし (巻第六(九四六)・反歌(九四七)も併記しておく)

   反歌一首

須磨の海人(あま)の鹽燒衣(しほやきぎぬ)の馴れなばか一日(ひとひ)も君を忘れて念(おも)はむ

   *

漁(あさり)すと磯に吾が見し莫告藻(なのりそ)をいづれの島の白郎人(あま)か刈るらむ (巻第七(一一六七))

   *

梓弓(あづさゆみ)引津(ひきつ)の邊(へ)なる莫謂(なのりそ)の花摘むまでに逢はざらめやも勿謂(なのりそ)の花 (巻第七(一二七九))

   *

海(わた)つ底沖つ玉藻の名乘曾(なのりそ)の花妹とわれ此處にしありと莫語(なのりそ)の花 (巻第七(一二九〇))

   *

沖つ浪寄する荒礒(ありそ)の名告藻(なのりそ)は心のうちに疾(やまひ)となれり (巻第七(一三九五))

   *

紫の名高(なたか)の浦の名告藻(なのりそ)の礒(いそ)に靡(なび)かむ時待つ吾(われ)を (巻第七(一三九六))

   *

梓弓引津の邊なる名告藻の花咲くまでに逢はぬ君かも (巻第十(一九三〇)・先の出した巻第七(一二七九)の旋頭歌を短歌に改作したもので、続く古歌(一二八〇)と組み合わせたもの)

   *

住吉(すみのえ)の敷津(しきつ)の浦の名告藻(なのりそ)の名は告(の)りてしを逢はなくも怪し (巻第十二(三〇七六))

   *

みさご居(ゐ)る荒礒(ありそ)に生ふる勿謂藻(なのりそ)のよし名は告(の)らじ父母(おや)は知るとも (巻第十二(三〇七七))

   *

志賀(しか)の海人(あま)の礒(いそ)に刈り干す名告藻(なのりそ)の名は告(の)りてしを何(なに)か逢ひ難(かた)き (巻第十二(三一七七))

   *

なお、現行の民俗行事に於いては「なのりそ」をホンダワラとして「穂俵」の漢字を当てている。その気泡体が米俵に似ていることから、豊作に通じる縁起物とされ、正月飾りに利用されているのはご承知の通りである。

『「本草」にのせたり。「集解」にいへる處、「ナノリソ」によくかなへり』「本草綱目」巻之十九の「草之八」の「海藻」の「集解」は以下。

   *

「別錄」曰、『海藻生東海池澤、七月七日采、曝乾。』。

弘景曰、『生海島上、黑色如亂髮而大少許、葉大都似藻葉。』。

藏器曰、『此有二種。馬尾藻生淺水中、如短馬尾細、黑色、用之當浸去鹹味。大葉藻生深海中及新羅、葉如水藻而大。海人以繩系腰、沒水取之。五月以後、有大魚傷人、不可取也。「爾雅」云、「綸似綸、組似組、東海有之、正爲二藻也。」。』。

頌曰、『此卽水藻生於海中者、今登、萊諸州有之、陶隱居引「爾雅」綸、組注昆布、謂昆布似組、靑苔、紫菜似綸。而陳藏器以綸、組爲二藻。陶似近之。』。

時珍曰、『海藻近海諸地采取、亦作海菜、乃立名目、貨之四方云』。

   *

但し、ここに記されたものが確かに限定的にホンダワラを指しているかどうかは、私はやや疑問である

「下學集〔かがくしふ〕」全二巻から成る、意義分類型の辞書。室町中期の文安元(一四四四)年の成立であるが、板行されたのは、百七十三年後の江戸初期の元和三(一六一七)年である。著者は「東麓破衲 (とうろくはのう)」の自序があるが未詳。室町時代の日常語彙約三千語を天地・時節・神祇・人倫・官位・人名・家屋・気形・支体・態芸・絹布・飲食・器財・草木・彩色・数量・言辞・畳字」の十八門に分けて、それぞれに簡単な説明を加えたもの。但し、その主要目的はその語を表記する漢字を求めることにある。室町時代のみならず、江戸前期にはよく利用され、それにとって代わった類似の「節用集」(基本、漢字の熟語を並べ、読み仮名をつけただけのもの)に影響を与えたと考えられている。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで当該条を視認出来る(写本)。

「篤信」「あつのぶ」。貝原益軒の本名。

「妄〔(みだり)〕に云ふなり」ろくな根拠もなく、いい加減に言ったものに過ぎない。

『「萬葉集」第七・第十卷に「ナノリソ」をよめり』前注参照。二巻で六首ある。巻第七は計六種で「万葉集」中「なのりそ」を最も多く所載する。

「ホダハラ」「穗俵」であろう。冒頭注末参照。

「正月、春、盤の上にをくものなり」盤は正月飾りの「蓬莱(ほうらい)飾り」のこと。関西で、新年の祝儀の飾り物の一つで、三方(さんぼう)の盤の上に白米を盛り、熨斗鮑(のしあわび)・搗(か)ち栗・昆布・野老(ところ:山芋)・馬尾藻(ほんだわら)・橙(だいだい)・海老などを飾りつけたもの。江戸では「食い積み」と呼んだ。「蓬莱山」或いは単に「蓬莱」とも呼ぶ。

「魚の脬(みつふくろ)」「魚の浮き袋」のことを指している。「脬」(音「ホウ・ヒョウ」)は中国語では「膀胱」のことであるから、ここは魚のそれとして「みづぶくろ」(尿を入れる「ゆばりぶくろ」の認識か)と読んでいるように思われる。

「疝氣」下腹部の痛む病気。

「海草の上品なり」これが少なくとも江戸時代の一般的な庶民の通年だったのである。因みに、私も大好物である。佐渡産が美味!

『「本草」に甘草に反す、といへり』「本草綱目」の「海藻」の「氣味」には『苦、鹹、寒。無毒【權曰、「鹹有小毒」。之才曰、「反甘草」。時珍曰、「按東垣李氏治瘰癧馬刀散腫潰堅湯海藻甘草兩用之。葢以堅積之病非平和之藥所能取捷必令反奪以成其功也。」。】。』とある。甘草(かんぞう:マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza の根(一部の種類は根茎を含む)を乾燥させた生薬)と同時に用いると、有害な作用がある、という意である。

「ゆびき」湯引き。]

2018/07/05

大和本草卷之八 草之四 鹿尾菜(ヒジキ)

 

【和品】

鹿尾菜 順和名比須木毛伊勢物語ニヒジキモヲ哥

 ニヨメリ海中石ニ附テ生ス圓ニ乄末尖ル乾セハ黑色ナリ

 煮テ食ス貧民米ニマシヱテ飯トシ粮ヲ助ク

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「鹿尾菜(ヒジキ)」 順が「和名」に、『比須木毛(ヒズキモ)』。「伊勢物語」に「ひじきも」を哥によめり。海中、石に附きて生ず。圓〔(まどか)〕にして、末、尖る。乾かせば、黑色なり。煮て食す。貧民、米にまじゑて飯とし、粮〔(かて)〕を助く。

[やぶちゃん注:褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme長さ三十~八十センチメートル、時に一メートルに達するものもある。主枝は円柱状で太さは三~四ミリメートルである。宮下章氏の「ものと人間の文化史 11・海藻」の「第二章 古代人海藻」の「鹿尾菜(ヒズキモ・ヒジキモ)」によれば、『庶民にはよく食べられていたに違いない』『が、支配階級には余り食べられなかったらしく、記録に見られることが少ない。養老令』(天平宝字元(七五七)年施行)『では貢物に指定されていないが、延喜式』(完成は延長五(九二七)年であるが、施行は康保四(九六七)年)『になってから貢納品に選ばれた。しかし貢納価値は低かった。志摩国の名産なので伊勢神宮の神饌に選ばれ、後世』、「伊勢ひじき」『として有名になる素地は古代からできていた』とする。かつては旧態然とした形態分類から Hizikia 属として独立させていたが、現在はご覧の通り、分子系統学的研究によってサルガッスム(ホンダワラ属)に移されている。春から初夏にかけての磯(潮間帯)の風物詩的な存在と言える。生体時は幼体はやや緑色が多いが、成体になると、全体に薄い褐色を呈する。言わずもがなであるが、加工されたようには黒くはない。なお、近年、本種が無機ヒ素の含有率が有意に高いことから、多くの国で警告がなされていることはかなり知られている。ウィキのヒジキによれば、二〇〇一年十月、『カナダ食品検査庁』『は、発癌性のある無機ヒ素の含有率が、ヒジキにおいて他の海藻類よりも非常に高いという報告を発表し、消費をひかえるよう勧告した』。『これは複数の調査によって裏付けられ』、『イギリス』『・香港』『・ニュージーランドなどの食品安全関係当局も同様の勧告を発表した』。しかし、『一方、日本の厚生労働省は』、二〇〇四年七月、『調査結果のヒ素含有量からすると、継続的に毎週』三十三グラム『以上(水戻しした状態のヒジキ。体重』五十キログラム『の成人の場合)を摂取しない限り』、『世界保健機関(WHO)の暫定的耐容週間摂取量を上回ることはなく、現在の日本人の平均的摂取量に照らすと、通常の食べ方では健康リスクが高まることはない、との見解を示した。また、海藻中のヒ素による健康被害があったとの報告はないとした』とある。ともかくも、福島第一原発の放出した放射性物質による癌発症リスクの方を心配した方が遙かに現実的である。

『「伊勢物語」に「ひじきも」を哥によめり』第三段。

   *

 むかし、男、ありけり。懸想(けさう)しける女のもとに、「ひじき藻」といふ物をやるとて、

 

  思ひあらば葎(むぐら)の宿に寢(ね)もしなむ

    ひしきものには袖をしつつも

 

 二條の后(きさき)の、まだ帝(みかど)にも仕うまつりたまはで、ただ人にておはしましける時のことなり。

   *

この歌は後の「大和物語」百六十一段にもほぼ同様の話として載る。「ひしきもの」は贈った「ひじき藻」を詠み込みつつ、「引き敷き物」、逢瀬の「褥(しとね)」を掛けて主意の共寝を詠った。「二条の后」は在原業平の悲恋の相手藤原高子(たかいこ:清和天皇の女御となり、後に皇太后となった陽成天皇の母)。]

諸國里人談卷之三 不知火

 

    ○不知火(しらぬひ)

豐後國宮古郡(みやこのこほり)甲浦(かんのうら)の後(うしろ)の森より、挑灯(ちやうちん)のごときの火、初更のころより、出る。また、松山より、ひとつの火いでゝ、空中にて行合(ゆきあひ)、戰ふごとくにして、海中へ「颯(さつ)」と落る。又、海上にて鷄(とり)の蹴合(けあふ)にひとしくして、少時(しばらく)、捻(ねぢ)あひて後(のち)、出〔いで〕たる所の山森(〔やま〕もり)に入る也。四・五月、八・九月に、かならず、あり。これを「つくしのしらぬ火」といふ也。そのかみよりありて、來歴、しれず。日本第一の妙火也。今つくしのまくら言葉となる。

[やぶちゃん注:挿絵有り(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの①の画像)。

「豐後國宮古郡(みやこのこほり)甲浦(かんのうら)」この地名にはテツテ的に疑義がある。先ず、「豐後國」(宇佐市・中津市除く大分県域に相当)には「宮古郡」という郡は存在しない。また「甲浦(かんのうら)」という地名は知られたものでは、あさっての方向の高知県安芸郡にあった甲浦村(かんのうらむら)があるが(現在の安芸郡東洋町(とうようちょう)甲浦(かんのうら))、話にならない。豊後には「甲浦」は見当たらない。そもそもが語ろうとしとるのは妖火「不知火」(しらぬい)なんじゃろが?! 何で大分なん?! 「不知火」は文字通り、不知火海が御本家じゃろ?! しかも「つくし」の枕詞じゃで! この「つくし」は九州の古名と採っておくなら、福岡に限定する必要はなかとでしょう! さればこそ! これは不知火海=有明海かそれに連なる南の島原湾か八代海のどこかと考えるのが、これ、普通でしょうが!

 さてもそこで、まず「豐後國」は誤りとして排除し、有明海の周辺の肥前・筑後・肥後が比定範囲とすれば、そこに「宮古郡」はあるかといえば、これが、ないんじゃ!

 しかしじゃ! 現在、ズバリ!「不知火町」というのがあるんじゃが、それは今の熊本県宇城(うき)市不知火町(しらぬひまち:表記は現在も歴史的仮名遣。但し、読みは「しらぬいまち}。いいねえ! お洒落で! 一帯全体goo地図)じゃ。さて。そこよ。この不知火町、元は宇土(うと)郡不知火町なんじゃ! ……「宇土郡」?……「宮古郡」?……何だか、字が似てねえっかってんだよ!!

 儂はピンと来たね! 宇土郡の崩し字を見て、沾涼(他人の記録を見て無批判に安易に写して調べもしなかったケース)か版元の彫師(これは沾涼が正しく書いたそれを誤判読したケース)が「宮古」と誤読したんじゃねえか? ってね。

 なお、実は「不知火町」は別に今一つ、福岡県大牟田市不知火町(しらぬひまち:ここも歴史的仮名遣)が存在する((グーグル・マップ・データ))。位置的にはこちらの方が有明海湾奧の東岸で狭義の「筑紫」じゃけん、ロケーションとしてはバッチリなんじゃが、しかし、私はやはり、宇土郡を採る。何故か? ウィキの「不知火(妖怪)を見て貰いたいのだ。そこに研究者『丸目信行は文献集『不知火』に、『不知火町永尾剣神社境内から阿村方面へ時間経過による不知火の変化』と題し、多数の写真を載せている』(注に一九九三年の資料とある)とあるのだが、その不知火町永尾の剣神社というのは、(グーグル・マップ・データ)で、宇城市の方の不知火町だからさ(「阿村」というのは八代海の西に浮かぶ上島(かみしま)の熊本県上天草市松島町阿村のこと。(グーグル・マップ・データ))。「不知火」はね、八代海や有明海に現れるんだ。宇城市は八代海の湾奥だもの!

 『これで不知火町近くの古地名に「甲浦」があったら、儂の推理はピッタシカンカンなんだけどなぁ……』と思いながら、地図を探していると……おや?

――宇城市三角町郡浦

ってあるぞ! なんて読むのかな?
――みすみまち こおのうら

だっツ! これだ! 「甲の浦」=「郡浦(こうのうら)」だ! やったぜ! ベイビー! だよ(グーグル・マップ・データ)! 宇城市不知火町の西の直近の八代海を望む絶景だもんね! 久々に僕の憂鬱が完成したわ!!!

 最後にウィキの「不知火(妖怪)を引いておこう。『不知火(しらぬい)は、九州に伝わる怪火の一種。旧暦』七『月の晦日の風の弱い新月の夜などに、八代海や有明海に現れるという』。『なお、現在も見え、大気光学現象の一つとされている』。『海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現する。それが左右に分かれて数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶ。その距離は』四~八『キロメートルにも及ぶという』。また、『引潮が最大となる午前』三『時から前後』二『時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされる』。『水面近くからは見えず、海面から』十『メートルほどの高さの場所から確認できるという』。『また』、『不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行く』。『かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていた』。『『日本書紀』『肥前国風土記』『肥後国風土記』などに、景行天皇が九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた際、不知火を目印にして船を進めたという記述がある』。『大正時代に入ると、江戸時代以前まで妖怪といわれていた不知火を科学的に解明しようという動きが始まり、蜃気楼の一種であることが解明された。さらに、昭和時代に唱えられた説によれば、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が』六『メートルも下降して干潟が出来ることや』、『急激な放射冷却、八代海や有明海の地形といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説された。この説は現代でも有力視されている』。『宮西道可は熊本高等工業から広島高工の教授であり、専門的な研究をした。彼によると、不知火の光源は漁火であり、旧暦八朔の未明に広大なる干潟が現れ、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こし、そのため』、『漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して』、『目の錯覚も手伝い』、漁火が『怪火に見える』のだという』。『また山下太利は、「不知火は気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象である。そして、その光源は民家等の灯りや漁火などである。条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こる。逃げ水、蜃気楼、かげろうも同種の現象である」と述べている』とある。但し、『現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことで、不知火を見ることは難しくなっている』とする。

「初更」午後七時頃又は八時頃からの二時間を指す。

「松山」八代海からやや内陸だが、熊本県宇城市松橋町松山なら、ある。(グーグル・マップ・データ)。しかし内陸でいいんだ。後で「山森」と言っているもの。

「鷄(とり)」ニワトリ。

「捻(ねぢ)あひて」互いの炎がぶつかり合い、捩じれ合って絡まったりして、恰も闘鶏を見るようなのだろう。本書の挿絵は正直、上手くないが、この絵はその感じを上手く出している。

「來歴、しれず」沾涼は暗にだから「知らぬ火」だと言いたそうな感じはする。]

諸國里人談卷之三 ㊅光火部 火辨

 

  ㊅光火部(くうくはのぶ)

    ○火辨(ひのべん)

陽火(ようくは)は、金(かね)を戛(うつ)の火・石を擊(うつ)の火・木を鑽(うつ)の火、是(これ)、「地の陽火」也。太陽の心火・星精(せいせい)の飛火(ひくわ)は「天の陽火」、君火(くんくわ)は「人の陽火」也。○水中火・石油火は「地の陰火」、龍火・雷火は「天の陰火」、相火(さうくわ)・下火(あこ)は「人の陰火」也。陰火六、陽火六、天地人の火十二なり。又、狐・鼬(いたち)・鵁鶄(ごいさぎ)・螢・蛛(くも)等(とう)の火は、火に似て火にあらず。連俳にて「似せものゝ火」といふなり。色靑く、焰(ほのふ[やぶちゃん注:ママ。])なし。寒火(かんくわ)・陽焰(ようゑん)・鬼燐(をにび)・金銀の精氣の火は陰火にて、物を焚(やか)ず。又、石灰(いしばい)・桐油(おうゆ)・麥糠(むぎかす)・馬糞(ばふん)・鳥糞(とりのふん)より出〔いづ〕る火は、陽火にて、ものをやくなり。雷火は天の陰火なれども、物を焚く。これ、陰中の陽火なり。淺間・阿蘇・雲仙・燒山(やけやま)の火は、砂石を燒(やく)。是また、陰中の陽火也。○「本草綱目」云〔はく〕、『田野燐火(でんやりんくは[やぶちゃん注:ママ。])。人及〔および〕牛馬兵死スル血、入(し)ㇾ土(つち)、年久(ひさ)シク所ㇾ化(け)。皆、精靈(せいれい)之極(ごく)也。其色、靑、狀(かた)、如ㇾ炬(たいまつ)。或聚(あつま)、或來(きた)。逼(せま)ツテ、奪(うぼ)精氣【下略。】。

[やぶちゃん注:末尾の漢文部分は概ね読みを含んだ訓点(原典は読み・送り仮名は総てカタカナで、送り仮名の部分が分明でないところは私の判断で送り仮名にした。読みは読み易さを考え、ひらがなに代えた)が振られてあるので、特異的に以上のように原典の雰囲気を出して示した。基本、陰陽五行説に基づいた「火」の総論と分類学であるが、この箇所、沾涼は最後に徐ろに引いている明の本草家李時珍の「本草綱目」の「火之一」の「陽火・陰火」を実は下敷きにしている。中文の「維基文庫」のそれを見られたい(リンク先冒頭)。

「戛」(音「カツ」)元は金属製の戈(ほこ)で、そこから「打つ・叩く」の意が生まれ、さらに「擦(こす)れ合う・金属や石が触れ合って鳴る、或いは、その音」となり、ここではさらに金属同士をぶつけ合わせて火花を散らして火を起こす意として用いたのであろう。

「鑽」(音「サン」)は通常、本邦では「きる」と訓じ、木と木をこすり合わせて摩擦により火を取ることを指し、古神道では最も神聖な火を得るために行われる。但し、本来は直前にある、石と金属をぶつけて(「擊」)火花を起して火を採る意味にも用いる字でもある。

「太陽の心火」芯火の謂いか。中心から熱核融合を起こしている太陽の中心核には相応しい。

「星精の飛火」太陽以外の太陽の光を反射して光って=燃えて見える惑星や太陽系外の恒星だけでなく、「飛火」とするからには火花のようにも見える流星も含んだものと考えるべきであろう。

『「君火」は「人の陽火」也』は後の「相火」『は「人の陰火」也』と合わせて、陰陽五行説に基づいた漢方医学に於いて人体を暖める火とされるもの。「君火」別に漢方の臓腑としての『「心」の火』で、人体で最も重要な火とされる。「心」以外の臓腑に関係した火を「相火」と呼ぶ。特にその「相火」中でも「腎」の火を別に「命門の火」と呼び、この火は身体を温める火ではなく、最低限度の生命を維持する火、謂わば「種火」と考えてよいものとされる。

「水中火」不詳。プランクトンや水産の発光生物による水中での発光現象や不知火のような海上に見える蜃気楼現象を指すか?

「龍火」不詳。竜巻の中で発生する雷電現象を指すか?

「下火(あこ)」は「下炬」とも書き、限定的には、禅宗で火葬の際に僧が遺骸に火をつけることを指すが(元来は松明(たいまつ)に火を付ける意)、「人の陰火」と言っているところからは、遺体が燃える火を指すのではなく、所謂、死後の遺体から抜け出る限定的な「鬼火」「人魂」のことを指しているのかも知れない(後の「鬼燐(をにび)」をもっと広義に採る場合である)。

「鼬」は古来、本邦では狐と同じように妖怪視され、狐のように化けるとも言われてきたから、狐火同様の現象を引き起こしても不思議ではないので、ここに狐と並んで出るのは、私には腑に落ちる。「和漢三才圖會」の「鼬」(巻第三十九の掉尾)によれば、

   *

夜中有熖氣高外如立柱呼稱火柱其消倒處必有火災蓋群鼬作妖也

(夜中、熖氣(えんき)有りて高く外(のぼ)り、柱を立つるがごとし。呼んで「火柱」と稱す。其の消え倒(たふ)るる處、必ず、火災有り。蓋し、群れ鼬、妖を作(な)すなり。

   *

とあるのを紹介すれば、ご納得戴けよう。

「鵁鶄(ごいさぎ)」夜行性の鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax が青白い光を放つというのは、よく言われることである。怪異譚や擬似怪談も多い。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」の「夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし」の私の注を是非、参照されたい。

「蛛(くも)」クモ類は多くは八個の単眼を持ち、夜間や室内ではそれが光って見える。クモの糸も光るからこれは納得されるであろう。

「連俳」連歌と俳諧。或いは俳諧の連句のこと。ここは後者。沾涼は俳人であることをお忘れなく。

「寒火」やはり先の「本草綱目」の同一箇所に、

   *

此外又有蕭丘之寒火。【蕭丘在南海中、上有自然之火、春生秋滅。生一種木、但小焦黑。出「抱朴子外篇」。又陸游云火山軍、其地鋤耘深入、則有烈焰、不妨種植。亦寒火也。

   *

とある。「火山軍」は山西省河曲県とその東北に接する偏関県一帯の旧称(ここ(グーグル・マップ・データ))。ここで土地を耕す際に鋤を深く入れると、激しい焔が噴き出るが、作物の種子を植えることには何ら問題はない。これは「寒火」である、というのだが、何故「寒」なのかは判らぬものの、天然ガスかメタン・ハイドレート(methane hydrate:低温且つ高圧の条件下でメタン分子が水分子に囲まれた、網状の結晶構造を持つ包接水和物の固体)のようなものか?

「陽焰」前の「本草綱目」の「寒火」に続いて、

   *

澤中之陽焰【狀如火焰、起於水面。出「素問王冰注」。】。

   *

と出る。

「鬼燐(をにび)」同前で、

   *

野外之鬼磷【其火色靑、其狀如炬、或聚或散、俗呼鬼火。或云、「諸血之磷光也」。】。

   *

と出る(下線太字は最終注を参照)。所謂、広義の狐火や怪火を広汎に含んだ「鬼火」で、昔、火の気のない墓の地面で人の骨の燐(リン)が燃えると言ったような妖火の類いのように私には感じられる。

「金銀の精氣の火」同前で、

   *

金銀之精氣【凡金銀玉寶、皆夜有火光】。

   *

とある。

「燒山(やけやま)」既出既注。恐山の別名。

「「本草綱目」ニ云……」以下の引用は怪しい。この白文の一連の文字列は出てこないのである。どうも貼り交ぜた感じがする。まず、第八巻の「金石之一」の「諸鐵器」の中に、

   *

馬鐙【綱目】主治田野燐火、人血所化。或出或没來、逼奪人精氣。但以馬鐙相戞作聲、卽滅。故張華云、金葉一振遊光斂色【時珍。】。

   *

とあり、また、第五十二巻の「人之一の「人血」の「集解」中の末尾には、

   *

萇弘死忠、血化爲碧、人血入土、年久爲磷、皆精靈之極也。

   *

とあり、さらにさっきの「鬼燐(をにび)」に注したように、「火之一」の「陽火・陰火」の中に『其火色靑、其狀如炬、或聚或散』の文字列が出現しており、これらをパッチ・ワークすると、概ねここに出る文章となるからである。或いは、沾涼は本当の「本草綱目」に当たらず、その抄約本か注釈ものに当たったのかも知れない。「兵死」は妙だ。「斃死」(行き倒れて野垂れ死にすること)をだろう。以下、敷衍訳するなら、

   *

――田野に頻繁に出現する火の怪「燐火(りんか)」――

 これは、人間及び牛馬の斃死したものの血が、地面に浸み入って、年を経て、化したところのものである。これは皆、精霊(せいれい)・精鬼の究極の忌まわしい最終形態である。その火の色は青く、形状は松明(たいまつ)に似ている。或いは集合し、或いは散らばってやって来る。生きた人間に迫って来て、その精気を奪い去ってしまう恐るべきものである。

   *

でよかろう。]

諸國里人談卷之三 黑塚 / 卷之三~了

 

    ○黑塚

武藏國足立郡大宮驛(おほみやのしゆく)の森の中にあり。又、奧州安達郡にもあり。しかれども、東光坊、惡鬼退散の地は、武藏の足立郡を本所と云。則(すなはち)、東光坊開基の寺、東光寺と云あり【今は曹洞宗。】。

紀州那智の記錄にも、『武藏國足立郡の惡鬼退散』とありて、奧州の事は見えず、と也。

[やぶちゃん注:内容的に本条を殆んどカバーして余りある内容となっているので、ウィキの「黒塚」を全面的に引かせて貰う(太字やぶちゃん)。『黒塚(くろづか)は、福島県二本松市(旧安達郡大平村)』((グーグル・マップ・データ))『にある鬼婆の墓、及びその鬼婆にまつわる伝説。安達ヶ原(阿武隈川東岸の称。安達太良山東麓とも)に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)」として伝えられている』。『黒塚の名は』、『正確にはこの鬼婆を葬った塚の名を指すが、現在では鬼婆自身をも指すようになっている』。『能の『黒塚』も、長唄・歌舞伎舞踊の『安達ヶ原』、歌舞伎・浄瑠璃の『奥州安達原』も』、『この黒塚の鬼婆伝説に基づく』。『黒塚の近隣にある観世寺の発行による『奥州安達ヶ原黒塚縁起』などによれば、鬼婆の伝説は以下のように伝わっている』。『神亀丙寅の年』(七二六年)『の頃』、『紀州の僧・東光坊祐慶(とうこうぼう ゆうけい)が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、一軒の岩屋に宿を求めた。岩屋には一人の老婆が住んでいた。祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、薪が足りなくなったのでこれから取りに行くと言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと祐慶に言いつけて岩屋から出て行った。しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。驚愕した祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそが件の鬼婆だと感付き、岩屋から逃げ出した』。『しばらくして岩屋に戻って来た老婆は、祐慶の逃走に気付くと、恐ろしい鬼婆の姿となって猛烈な速さで追いかけて来た。祐慶のすぐ後ろまで迫る鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に経を唱えた。すると菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めた』。『鬼婆は命を失ったものの、観音像の導きにより』、『成仏した。祐慶は阿武隈川のほとりに塚を造って鬼婆を葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになった。鬼婆を得脱に導いた観音像は「白真弓観音(白檀観音とも)」と呼ばれ、後に厚い信仰を受けたという』。『なお、伝説にある神亀年間(奈良時代前期)とは時代が異なるものの、祐慶は平安時代後期に実在した人物であり、『江戸名所図会』などに「東光坊阿闍梨宥慶」の名で記載されており』、長寛元(一一六三)年に『遷化したとされる』。『鬼婆の顛末については、以下のような別説もある』。『観音像の力で雷鳴が轟き、鬼婆は稲妻に打たれて絶命した』。『鬼婆は殺されたのではなく、改心させられて仏教へ帰依し、高僧となった』。『祐慶は追いかけてくる鬼婆から必死に逃げ、夜が明けたのでそのまま逃げ切り、命が助かった』。『また以下のように、祐慶は鬼婆に偶然出遭ったのではなく、鬼婆を討つ目的で安達ヶ原へ向かったという伝説もある』。『祐慶は安達ヶ原で旅人たちを襲う鬼婆の調伏の命を受け、ただちに安達ヶ原へ向かった。しかし一足遅く、鬼婆は北方へ逃走していた。後を追って尾山(現・宮城県角田市)で鬼婆に追いついた祐慶は、鬼婆に斬りつけた。しかし惜しくも鬼婆はわずかに傷を負ったのみで逃げ去ってしまい、祐慶はその地に一堂を建立した』。『その約』三年後のこと、『ある旅人が鬼婆を目撃し、報せを受けた祐慶は』、『すぐさま』、『退治に向かい、逃走する鬼婆を追い詰めた末、見事に退治した。鬼婆の頭部は祐慶の建てた堂に保管され、胴体は尾山のとある丘に埋められ、供養のために桜が植えられた』。『鬼婆の頭部があった東光寺は後に廃寺』(後の記載にはさいたま市大宮区へ移転したと出、実際に現存する(グーグル・マップ・データ)。現在は曹洞宗大宮山東光寺で、寺」公式サイトの「由緒・歴史」によれば、大治三(一一二八)年頃に『紀伊国(現和歌山県)熊野那智山の天台宗の寺院・青岸渡寺光明坊の僧侶・宥慶阿闍梨(ゆうけいあじゃり)が関東へ下った際、足立原に宿泊し、大宮