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2018/07/31

諸國里人談卷之五 宗語狐

 

    ○宗語狐(そうごぎつね)

[やぶちゃん注:本条は特異的に非常に長いので、読み易さを考え、改行と行空けを加えた。本条の挿絵がここにある(①)。なお、吉川弘文館随筆大成版(平成七(一九九五)年五月発行新装版第一刷)は今までも素人の私が見ても、誤判読が多いが、ここもそれで、字を判読して起すのではなく、安易に前後の文脈から勝手に当てている箇所さえあった。「ルビ無しで、しかも、これか。杜撰な翻刻を読まされる読者はたまったもんじゃないな。」と、正直、大真面目に思った。『これでしかも、よくもまあ、偉そうに「日本複写センター委託出版物」とやらの注意書きを掲げられるもんだわい。』としみじみ感じた。そもそも平板な絵画作品などを平板にただ写しただけのものには著作権は生じないというのが文化庁の正式見解であるから、別に当該書の挿絵(かなり綺麗である)をトリミングして貼り付けても問題ないのだが(これについては私は裁判してもよいとさえ思っている)、私は今回、敢えて早稲田大学古典総合データベースのそれにリンクさせた。だからこの義憤はどこかで言おうと思っていた。悪しからず。

 

京都八十村路通(やそむらろつう)は、芭蕉門人、秀才の俳士也。常に稻荷を信じ、毎月、深草の社(やしろ)に詣でける。

玆(こゝ)に八旬(はちじゆん)に餘る僧の、これも折々參詣せしが、面(おも)を合(あわ[やぶちゃん注:ママ。])する事、たびたび也。

或時、奥院(おくのゐん)へ登りけるに、かの僧に行合(ゆきあひ)たり。路通曰く、

「當社におゐて老僧を見る事、數(かず)あり。定(さだめ)て此御神(みかみ)、御信仰の人にてこそあらめ。」

と訪(と)ひよりけるに、其翁も、

「左にこそ。」

と語り合ふに、飯生三山(いなりさんざん)の事ども、委(くわし[やぶちゃん注:ママ。])く教へられける。

それより親しくなりて、路通庵へも、折々、訪ひ來れり。

終に其住所をかたらず。

名は宗語といへり。

 

路通隱士は記錄者にて、古代の事を委〔くは〕しうす。宗語老人に事を問ふに、五百年來の事は今見るがごとくにすゞしく、六、七百年の事は少(すこし)明かならぬ事もありとかや。

是によつて、路通、益々記錄の事を得たり。

睦びあふ事、三とせを經たり。

 

于ㇾ時(ときに)、宗語の曰く、

「吾、關東に赴く事あり。年來(ねんらい)の餘波(なごり)は、明日、勢夛(せた)のこなた[やぶちゃん注:①には「こなた」無し。]にて別れを留(とゞ)むべし。其所にて互に待合(まちあわ[やぶちゃん注:ママ。])すべし。」

と約しぬ。

明(あけ)の日、約(やく)の刻限よりは[やぶちゃん注:③は「は」無し。]はやく、路通は勢多に行〔ゆき〕て茶店(さてん)に待(まち)けり。

また向〔むかひ〕なる茶店(ちやや[やぶちゃん注:先の読みとの違いは①も③もママ。])も一人の隱士、これも、人を待つ風情なり。ほどなく、宗語老人、旅すがたにて來〔きた〕るに、左右より、兩隱士、出むかひ、

「はやくも來り給ひぬ。」

と、三人、打〔うち〕つれ、一間(ひとま)にして餘波(なごり)の酒を汲(くみ)ける。

時に宗語の曰く、

「年來、兩士の親しみ、わすれがたし。此たび、關東に赴く。老衰たれば、歸京のほどもはかりがたし。今まではつゝみぬれども、早や隱すべきにあらず。吾、元來、人間にあらず、狐なり。年ごろ、稻荷の仕者司(しやつかさ)をつとめ、今年、仕(つか)へを辭したり。我(わが)古鄕(ふるさと)は江州彦根、馬渕何某(まぶちなにがし)が屋敷に住(ぢう)しぬ。かれこそ我〔わが〕事をよくも知れり。」

など物がたりして、立別(たちわか)れけり。

兩士は、たゞあきれたるばかりにて、しばらく、言葉もなかりき。

 

而後〔しかしてのち〕、兩士、語(かたり)あふに、一人の隱士も、路通のしだいに、ことたがはざりける也。かくて兩士、

「すぐに彦根に立越(たちこへ[やぶちゃん注:ママ。])て、今の事をも知らせ、また其やうすをも聞(きく)べし。」

と、それよりすぐに彦根に赴きぬ。

 

馬渕は、田地あまた持〔もち〕たる百姓なりける。

彼(かの)所に至り、京都宗語老僧の言葉によりて尋來(たづねきた)るよし、案内(あない)すれば、亭主、肌足(はだし)にて出〔いで〕むかひ、居士衣(こじゑ[やぶちゃん注:ママ。])の袖をとつて一間〔ひとま〕に請(しやう)じ、

「老僧よりの御使〔みつかひ〕とあれば、さだめて眷属(けんぞく)にておはしますらん。」

と、火を改めて、せちにもてなしける。

兩士、

「われわれ、さやうの事にあらず。」

と、京都にてのしだひ[やぶちゃん注:ママ。]、勢夛(せた)のありさま、くはしくかたるに、主(あるじ)、大きに、これを感ず。

「四とせ以前、上京あるよしにて、その後、安否しれざるに、かく、たしかの便(たよ)りをきゝつるものかな。」

と、よろこびあへり。

よつて三日、爰(こゝ)に足をとゞむ。

 

于ㇾ時(ときに)、主、語つて曰〔いはく〕、

「一子、十二歳の時、いづちへ行〔ゆき〕けるか、その行衞、しれず。親族こぞつて尋ぬれども求め得ず。父母、ふかく悲歎しける。しかるに、百五十日を經て、健(すこやか)にして歸る。人々、驚き、事を問ふに、

『宗語老僧に誘引(いざなはれ)て、普(あまね)く、諸國の神社佛閣・名所旧跡を見𢌞りたり。則〔すなはち〕、老僧、あれにおはするなり。むかへ給へ。』

といふに、一人の老僧、竹笠〔たけがさ〕[やぶちゃん注:竹を網代(あじろ)に編んで作った被り笠。]を持〔もち〕て彳(たゝずみ)たりしを、請じ入れける。老僧にむかひて云〔いはく〕、

『いかなれば我子を迷し給ふ。』

答(こたへ)て曰、

『吾は、人間にあらず、當(とう)境地(きやうち)の稻荷の社(やしろ)に住む狐也。當年、京都本山の仕者司(ししやつかさ)の番にあたれり。旧地を離(はなれ)るの名殘(なごり)、且は數(す)百年來住所の恩を謝せんがため、今、一子を伴ひ、國々を見せ、その餘力(よりよく)に文(ぶん)を学ばせ、筆跡(ひつせき)を教(おし)ゆ。近々〔ちかぢか〕上京すれば、一生の別れなり。其方一族誰かれ、男女五十餘人、來〔きた〕何日の夜、饗應すべし。暮〔くれ〕ちかきに、皆、此所に集むべし。その時、地内のやしろの前にあかしを立〔たて〕ん。その光りについて來るべし。』

と約して去りぬ。いぶかしながら、其期(そのご)を待つに、件(くだん)のあかし、見えければ、教(おしへ)にしたがひ、十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]あまりも行きたりとおもふに、寺にひとしき菴室(あんしつ)あり。かの老僧、出〔いで〕むかひ、

『約に違はず、よくぞ來られし。』

と斜(なゝめ)ならず喜び、各(おのおの)座鋪(ざしき)に請じける。臺所には數十人、料理・獻立の事ありて、ほどなく膳を持てり。給仕の小姓(こしやう)はなれなれしく、珍饌(ちんせん)美食、數を盡せり。

『吾、魚物(ぎよもつ)を忌めば、饗應、心にまかせず、麁末(そまつ)なれども、ゆるやかにきこしめされよかし。』

となり。于ㇾ時(ときに)、主(あるじ)[やぶちゃん注:沾涼は破綻を生じさせてしまっている。ここは主人馬渕の直接話法であるから、「我・吾」でなくてはおかしい。]、問(とう[やぶちゃん注:ママ。])て云〔いはく〕、

『老僧、尤〔もつとも〕、凡人(ぼんにん)ならねば、神通(じんづう)を以て塩噌(ゑんそ[やぶちゃん注:ママ。])を貯へ給ふ事、自由ならん。他(た)を貪(むさぼ)り掠(かす)めて、此美食を給ふは不快の事にこそあれ。』

答(こたへ)て云〔いはく〕、

『全く人の物を掠取(かすめとる)にあらず。吾に、金銀の貯(たくはへ)、多(おほく)あり。』

と也。

『其金銀も、また、妙術(みやうじゆつ)を以てなるべし。』

『あら、むづかし。申さぬ事ながら、其根〔ね〕を解(とか)ずんば、疑ひ、はれまじ。吾、眷属族、一千余あり。かれら、市中に出〔いで〕て、賣藥す。その餘慶利分(よけいりぶん)、みな、拙僧にとゞまる。今宵の家具、其外の器物(きぶつ)、右の價(あたひ)を以てとゝのへたり。元より、是、我にあつて益(たつき)なし。追(おつ)て、送るべし。』

となり。

深更に及んで、また以前のごとく、火の光りを先に立〔たて〕て、社(やしろ)の前に歸りたり。

二三日過(すぎ)て、右の器材(きざい)、夜のうちに社の前に積置(つみおき)たりける。」

となり。

 

路通の直談(ぢきだん)、その詞(ことば)を、その儘(まゝ)にあらはし侍る。

 

[やぶちゃん注:「八十村路通(やそむらろつう)」(慶安二(一六四九)年頃~元文三(一七三八)年頃)は近江蕉門の俳人。齋部(いんべ)路通とも、また、「乞食路通」の蔑称でも知られる。ウィキの「八十村路通」によれば、建部綾足の「蕉門頭陀物語」(寛延四(一七五一刊。古くよりお世話になっている電子テクスト・サイト「Taiju's Notebook」のこちらで原文が読める)に『よれば、芭蕉が草津・守山の辺で出会った乞食が路通である。乞食が和歌を』た『しなむとの話に、芭蕉が一首を求めた。すると、「露と見る浮世の旅のままならばいづこも草の枕ならまし」と『乞食が詠んだ』ので、『芭蕉は大変感心し、俳諧の道を誘い』、『師弟の契りを結び、路通(又は露通)の号を乞食に与えた』。『路通の出自については』「猿蓑逆志抄」(樨柯(さいか)坊空然の手になる「猿蓑」の評釈書)に於いて、『「濃州の産で八十村(やそむら、又ははそむら)氏」、また』「俳道系譜」でも、『「路通、八十村氏、俗称與次衛門、美濃人、大阪に住む」と記されている。また』、「芭蕉句選拾遺」にでは、『路通自ら「忌部(いんべ)伊紀子」』、「海音集」では『「斎部(いんべ)老禿路通」と記している』。『出生地についても、「美濃」から「大阪」、「京」、「筑紫」、「近江大津の人で三井寺に生まれる」と様々な説がある。森川許六の「風俗文選」の「作者列伝」に『記されている通り』、『「路通はもと何れの所の人なるか知らず」』であり、『路通は漂泊者であり、近江の草津・守山辺りで芭蕉と出会ったと多くの書が示めしていることだけが事実と確認できる』とする。『路通は芭蕉との出会いの後』、『江戸深川の採荼庵に芭蕉を訪ねたとされ』、各務支考の「笈日記」によれば元禄元(一六八八)年九月十日、『江戸素堂亭で催された「残菊の宴」、それに続く「十三夜」に宝井其角・服部嵐雪・越智越人等と共に参加していることが、路通が記録された最初の資料とされる。また、句が初めて見えるのは』、元禄二(一六八九)年の「廣野」からであり、翌元禄三年の「いつを昔」にも『句が載っている』とある。元禄二年三月二十七日(グレゴリオ暦一六八九年五月十六日)『芭蕉が河合曾良を伴い』、『「奥の細道」の旅に出ると、路通も漂泊の旅に出』、『近江湖南周辺を彷徨い、越前敦賀に旅より戻った芭蕉を迎え、大垣まで同道したとされる』。『芭蕉が故郷伊賀に帰ると、路通は住吉神社に千句奉納を行い』、『近畿周辺を彷徨った後』、元禄三(一六九〇)年には、『大津に出てきた芭蕉の下で濱田洒堂との唱和を行った』。『その直後、師の辿った細道を自ら踏むため旅立ち、出羽等に足跡を残し、同年』十一月に『江戸に戻ると』、『俳諧勧進を思い立ち』、翌元禄四年五月に「勧進帳」の初巻を『刊行した(初巻のみで終わる)』。「勧進帳」の『内容は選集として一流と言え、同じ』元禄四年の「百人一句」に『江戸にて一家を成せる者として』、『季吟・其角・嵐雪等と共に路通の名があり、俳壇的地位は相応に認められていた』。ただ、「勧進帳」に『おいて「一日曲翠を訪い、役に立たぬことども言いあがりて心細く成行きしに」と言い』、また、元禄四年七月に刊行された「猿蓑」において「いねいねと人に言はれつ年の暮」と『詠むなど、蕉門において疎まれていたことが伺える』。「勧進帳」出版の『前からその年の秋にかけ、路通は芭蕉と京・近江を行き来し』、『寝食を共にしていたところ、向井去来の』「旅寝論」によれば、『「猿蓑撰の頃、越人はじめ諸門人路通が行跡を憎みて、しきりに路通を忌む」、越人は「思うに路通に悪名つけたるは却って貴房(支考)と許六なるべし」と語って』おり、許六は「本朝列伝」に『おいて、路通のことを「その性軽薄不実にして師の命に長く違う」と記している』。元禄六年二月の『芭蕉から曲翠宛の手紙において、路通が還俗したことが記され』、『「以前より見え来ることなれば驚くにたらず」と述べ』、また、「歴代滑稽傳」では『勘当の門人の一人として路通が記されるに到っている。その後、路通は悔い改めるべく』、『三井寺に篭もったとされる』(私の知っている話では、ある時、路通のいる席で紛失があり、それが彼の仕業とされたかと記憶する)。元禄七年十月十二日(一六九四年一一月二十八日)の『芭蕉の臨終に際して、芭蕉は去来に向かい』、『「自分亡き後は彼(路通)を見捨てず、風雅の交わりをせらるるよう、このこと頼み置く」と申し添え』、『破門を解いた』とする。『芭蕉死後、路通は俳諧勧進として加賀方面に旅に出』、また、「芭蕉翁行状記」を撰び。『師の一代記と』十七日以降、七十七日までの『追善句を収め』、元禄八年に出版している。元禄一二(一六九九)年)より『数年、岩城にて内藤露沾の下にて俳諧を行い』、宝永元(一七〇四)年の冬には『京・近江に戻り、晩年享保末年頃大阪に住んでいたと伝えられる』。『路通の死亡日時は元文三年七月十四日(一七三八年八月二十八日)と『言う説があるが、定かではない』。蕉門で私の好きな俳人の一人である。好きな句を掲げておく。

 肌のよき石にねむらん花の山

 火桶抱てをとがい臍(ホゾ)をかくしける

 いねいねと人にいはれつ年の暮

 ぼのくぼに厂(かり)落かゝる霜夜かな

「深草の社(やしろ)」現在の京都府京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社のこと。

「八旬(はちじゆん)に餘る」八十歳を優に超えた。

「奥院(おくのゐん)」伏見稲荷大社奥宮(奥社)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「飯生三山(いなりさんざん)」次の「稻荷仕者」(本篇の続篇的内容)に『飯生山(いなりやま)といふは、器(うつは)に飯(いゝ[やぶちゃん注:ママ。])を生(もり)たるやうの山、三ツあり、よつて「飯生三山(いなりさんざん)」と称すと也』と説明されているから、稲荷を祀った三つの山の社ではなく、稲荷に供える供物のこと及びその由来といったことを指すのであろう。

「隱士」「いんじ」とも読む。隠者。俗世を離れて静かな生活をしている人。

「すゞしく」記憶に曇りが全くなく、はっきりしていることを言っている。

「勢夛(せた)のこなた」当時、東海道が通った、瀬田川掛かる唯一の橋であった、滋賀県大津市瀬田にある「勢多の唐橋」(ここ(グーグル・マップ・データ))のこちら側(右岸・西詰)。「こなた」はあった方がよりリアルでよい

「はやくも來り給ひぬ」宗語の台詞。

「仕者司(しやつかさ)」「仕者」は「仕える者」の意であるが、特に神仏に仕える神官や僧侶及びそれらの使者とされる鳥獣を指し、ここはその後者の元締め、統率官の意。

「居士衣(こじゑ)」隠者や僧侶などが着る衣服の名。居士衣(こじごろも)とも呼ぶ。

「火を改めて」ちゃんとした灯明を新たに点したのである。彼ら二人を宗語の仲間の稲荷神の使者であるお狐さまと誤認し、御神灯のつもりとして畏まって点したのである。

「せちに」頻りに。大切に。

「しだひ」「次第」。

「上京」言わずもがなであるが、ここは京都へのぼることである。

「當(とう)境地(きやうち)」馬渕の所有地であることを言っている。

「京都本山」伏見稲荷。

「住所」「じゆうしよ」でも別に構わぬが、私は「すみどころ」と訓じておく。

「文(ぶん)」文字。

「筆跡(ひつせき)」書道。

「魚物(ぎよもつ)」神の使者であるから、腥さ物はものは禁忌。神仏集合による仏教の殺生禁忌由来。

「塩噌(ゑんそ)」塩と味噌が原義であるが、そこから「日常の食物」の意。「塩酢(えんそ)」とも書く。

「妙術(みやうじゆつ)」妖術。

「あら、むづかし」「ああっ! 何と面倒なことをおっしゃられるか。」。

「申さぬ事ながら」「説明申し上げるつもりはないことながら」。

「其根〔ね〕」その強い猜疑の根っこの部分。

「餘慶利分(よけいりぶん)」神の御加護によって得られた売上金の内の純益の分。

「拙僧にとゞまる」「監督である私の管理費用として貯えられるのです。」。

「元より、是、我にあつて益(たつき)なし」ここは「たつき」(仕事や生計)の意味ではなく、「元より、伏見稲荷の使者として赴任する私にとっては利益から生ずる物に対する欲は全く御座らぬ。」と言っているのではないか? だから「右の價(あたひ)を以てとゝのへ」た「今宵の家具、其外の器物(きぶつ)」等は、私には不要なものであるからして、「追(おつ)て」あなた方に永年の感謝のしるしとしてこれらも総て「送るべし」、と言っているのであろう。

進化論講話 丘淺次郎 附錄 進化論に關する外國書・奥附 / 「進化論講話」やぶちゃん注~完遂

 

     附錄 進化論に關する外國書

 

 外國語で進化論及び遺傳・變異等のことを書いた書物は、今日の所では非常に數が多いが、その中で最も有名なものと、最も讀むに適するもの若干を選み出せば、凡そ次の通りである。

[やぶちゃん注:以下、既に本文に複数回、出て、注を附したものも多いので、作者については既出或いは既注の場合は附さない。但し、最低、刊行年は示した。

 

 1 DARWIN, Origin of Species.ダーウィン著、種の起源)

 

 之は進化論の書物の中で最も有名なもので、今では殆ど總べての西洋語に譯せられてある。已に古い本ではあるが、苛も進化論を學ばうと思ふ人は、是非とも之を讀まなければならぬ。近來安い版が出來て居るから、壹圓位で買へる。

[やぶちゃん注:初版刊行は一八五九年十一月二十四日(安政六年相当)。本書刊行の大正一四(一九二五)年当時の一円は現在の千円強から二千四百円ほどになろう。]

 

 2 DARWIN, Descent of Man.ダーウィン著、人の先祖)

 

 之も前書と同樣で、學者の必ず讀むべき書物である。後半の雌雄淘汰に關しては今日種々の議論もあるが、大體の點は決して誤でなからうと信ずる。また前半は進化論を人間に當て嵌めたもの故、恰も前書の續篇とも見るべきものである。

[やぶちゃん注:一八七一年二月二十四日刊(明治四年相当)。]

 

 3 HUXLEY,Man's Place in Nature.ハックスレー著、自然に於ける人類の位置)

 

 自然に於ける人類の位置を明に述べた三回の講義の筆記で、小さな本であるが、「種の起源」の直ぐ後に出版せられたから、一時は非常に評判の高かつた書である。

[やぶちゃん注:一八六三年刊。]

 

 4 HAECKEL, Natürliche Schöpfungsgeschichte.ヘッケル著、自然創造史)

 

 講義體に書いた解り易い書物で、通俗的の進化論の書物としては、この位全世界に弘まつたものはない。日本語を除いた外は、總べての文明國の國語に飜譯せられ、原書も已に十版以上となつて居る。

[やぶちゃん注:一八六八年刊。]

 

 5 HAECKEL, Anthropogenie.ヘッケル著、人類進化論)

 

 之も講義體に書いたもので、人類の進化と胎内發育とを通俗的に述べてある。前書も本書も最新版は上下二卷となつて、插圖も頗る多い。

[やぶちゃん注:一八七四年刊。]

 

6 WALLACE, Darwinism.ウォレース著、ダーウィン説)

 

 表題は「ダーウィン説」とあるが、中にはダーウィンの考と餘程違つた所がある。それ故次のローマネスの書物などと倂せて讀むが宜しい。この書一册だけを讀んだのではたゞウォレースの説が解るばかりである。

[やぶちゃん注:一八八九年刊。]

 

 7 ROMANES, Darwin and After Darwin. ローマネス著、ダーウィン及びダーウィン以後)

 

 三册になつて居るが、第一册はダーウィンの述べたまゝの進化論を平易に説明し、第二册にはダーウィン以後の學説を批評的に論じてある。進化論の書物を何か一册だけ讀んで見たいといふ人には先づ此の書を勸める。

[やぶちゃん注:一八九二年から一八九七年にかけて刊行。]

 

 8 STERNE, Werden und Vergehen.ステルネ(實名クラウゼ)著、生滅の記)

 

 是はヘッケルの「自然創造史」と同樣に、太古から今日に至るまでの進化の有樣を書いた書であるが、通俗的に書いてあつて面白くて解り易い。

[やぶちゃん注:ドイツの生物学者エルネスト・クラウゼ(Ernst Krause 一八三九年~一九〇三年)。Carus Sterne (カルス・シュテルネ) はペン・ネーム。一八七六年初版で、一九〇七年までに十一版を重ねている。]

 

 9 WEISMANN, Vorträage über die Deszendenzlehre.

     (ヴァイズマン著、進化論講義)

 

 初め二册であったが、新版では一册に改めた。自然淘汰に關する事實が多く揭げてあるが、理論の方面はたゞヴァイズマンだけの説である故、その積りで讀まねばならぬ。また、細胞學上のことも多くある故、その邊は初めて讀む人には了解が困難であるかも知れぬ。

[やぶちゃん注:一九〇二年刊。]

 

 10 PLATE, Selectionsprincip und Problemen der Artbildung.

     (プラーテ著、淘汰説と種の起り)

 

 淘汰説に反對する學説を批評的に論じたもので、眞に公平である如くに感ずる。他の新説を讀むに當って、倂せ讀むには最も適當なものであらう。

[やぶちゃん注:一九一三年刊。]

 

 11 CUÉNOT, La Genèse des Espèces Animales.

     (キュエノー著、動物種屬の起り)

 

 進化論及び近頃の遺傳硏究を短く明瞭に書いた好い書物である。

[やぶちゃん注:フランスの生物学者・遺伝学者ルシエン・クエノ(Lucien Cuénot 一八六六年~一九五一年)。一九二一年刊行。]

 

 12 DELAGE, L'Hérédite et les grands Problèmes de la Biologie générale.

     (ドラージュ著、遺傳と生物學理論の大問題)

 

 議論のすこぶ頗る精密な書物で、各種の遺傳學説を比較し批評してある。二十年許前の出版であるが、今日の雜種硏究のみの遺傳學の書物とは全く趣が違ふから、眼界を廣くするためには頗る有益なものであらう。

[やぶちゃん注:フランスの動物学者・解剖学者イヴ・デラージュ(Yves Delage 一八五四年~一九二〇年)。一八九五年刊。]

 

 13 LOCK, Recent Progress in Study of Variation, Heredity and Evolution.

     (ロック著、變異・遺傳・進化に關する硏究の最近の進步)

 

 表題の通り、近年の進步を知るには適當な書物である。主として雜種に關する硏究が記載してある。出版は今より已に二十年前。

[やぶちゃん注:イギリスの植物学者ロバート・ヒース・ロック(Robert Heath Lock 一八七九年~一九一五年)。一九〇六年刊。]

 

 14 THOMSON, Heredity.トムソン著、遣傳)

 

 遺傳に關する各方面の硏究が悉く書いてある。英書の中では、初めて讀む人に對して、先づ最も適當の書であろう。第二版は十年前に出來た。

[やぶちゃん注:ジョン・アーサー・トムスン(John Arthur Thomson 一八六一年~一九三三年)はスコットランドの生物学者。アバディーン大学博物学教授。科学と宗教の関連性や生物学の普及に務めた。ソフト・コラール(刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目 Alcyonacea)の専門家でもあった。初版は一九〇七年刊。]

 

 15 BATESON, Mendel's Princeples of Heredity.

     (ベートソン著、メンデルの遺傳法則)

 

 表題の通り近年有名になつたメンデルの遺傳法則を新規の實驗で擴張したもので、この方面の硏究を始めようと思ふ人に取つては最も參考になる書である。

[やぶちゃん注:私が注で述べた(本文には出ない)イギリスの遺伝学者ウィリアム・ベイトソン(William Bateson 一八六一年~一九二六年)。メンデルの法則を英語圏の研究者に広く紹介した人物で、英語で遺伝学を意味する「ジェネティクス:genetics」という語の考案者でもある。但し、彼はダーウィンの自然選択説に反対し、染色体説にさえも晩年までは懐疑的であった。一九一三年刊。]

 

 16 MORGAN, Experimental Zoology.モルガン著、實驗的動物學)

 

 各方面の實驗の結果が書いてあるが、その中には遺傳・雜種等に關することもなかなか多い。兎に角一讀する價値のある書物である。

[やぶちゃん注:トーマス・ハント・モーガン(Thomas Hunt Morgan 一八六六年~一九四五年)はアメリカの遺伝学者。一九〇〇年、メンデルの法則の再発見とともに遺伝学に進み、一九〇七年頃からキイロショウジョウバエを実験材料として研究を行い、染色体が遺伝子の担体であるとする染色体説を実証した。一九一〇年には突然変異体を発見し、以後、精力的に伴性遺伝や遺伝子連鎖などの現象を解明するなど、遺伝学の基礎を確立、本「進化論講話」十三版刊行の八年後の一九三三年には、これらの業績が認められ、ノーベル生理・医学賞を受賞している。本書は確認出来ないが、或いは一九〇三年に発表したEvolution and Adaptation(「進化と適応」)のことか。]

 

 17 GOLDSCHMIDT, Einfürung in die Vererbungswissenschaft.ゴールドシュミット著、遺傳學入門)

 

 近頃數種相續いて出版せられたドイツ語の遺傳學書の中では、是が一番宜しいやうである。新版は今年出版になつた。著者は今年日本へ來て暫く滯在して居た。

[やぶちゃん注:原本は「Vererbungs=Wissenschaft」となっている(「=」以下は改行)が、ネットで調べた形で訂した。フランクフルト生まれのドイツ人で、後にアメリカに渡った遺伝学者リチャード・ベネディクト・ゴールドシュミット(Richard Benedict Goldschmidt 一八七八年~一九五八年)。一九一三年刊か。]

 

 18 DARBISHIRE, Breeding and Mendelian Discovery. ダービシャヤー著、培養とメンデルの發見)

 

 雜種による遺傳硏究の實地の方法を説明し、實物の寫眞を多く入れた書物である。

[やぶちゃん注:イギリスの生物学者・遺伝学者アーサー・デューキンフィールド・ダービシャー(Arthur Dukinfield Darbishire 一八七九年~一九一五年)。遺伝子学説の論客だったらしいが、脳髄膜炎のために若死にしている。一九一一年刊。]

 

 19 HAECKEL, Welträtsel.ヘッケル著、宇宙の謎)

 

 是は前數種の實驗的の書物とは性質が全く違ひ、著者が進化論を基として總べての方面を論じた宇宙觀・人生觀である。出版早々非常に評判の高くなつた書物で、忽ち各國語に飜譯せられ、英譯の如きは、英國純理出版協會から僅に二十五錢位で出して居る。

[やぶちゃん注:一八九九年刊。]

 

 20 HAECKEL, Lebenswunder.ヘッケル著、生命の不思議)

 

 此の書は體裁も内容も前書に似たもので、全く前書の續篇と見做すべきものである。生物學的のことは、此の書の方に却つて多い。之も今では殆ど總べての國語に飜譯せられ、英譯は前書と同じ値で賣つて居る。二册ともに極めて面白い。

[やぶちゃん注:一九〇五年刊。]

 

[やぶちゃん注:以下、奥付。字配は再現していない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像をちらを参照されたい。初版発行の「明治三十七年」は一九〇四年で日露戦争の年であり、本新補十三版発行の「大正十四年」は一九二五年は普通選挙法が成立し、治安維持法が公布され、日本初のラジオ放送が開始された年であった。]

 

明治三十七年一月一日印刷

明治三十七年一月七日發行

大正十四年九月十五日十三版印刷

大正十四年九月十八日十三版發行

 

新補進化論講話 定價金五圓

    著作権所有

 

著作者           丘 淺次郎

 

發行兼  東京市石川區小日向水道町八十四番地

印刷者         株式會社 東京開成館

              社長  西野輝男

 

發行所  東京市石川區小日向水道町八十四番地

            株式會社 東京開成館

       〔振替貯金口座〕東京第參貮貮番

 

販賈所  大阪市東區心齊橋通北久寶寺町角

                  三木佐助

     東京市日本橋區數寄屋町九番地

                  林平次郎

 

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(五) 五 進化論と宗教 / 「進化論講話」本文~了

 

     五 進化論と宗教

 

 進化論は生物界の一大事實を説くもの故、他の理學上の説と同じく確な證據を擧げてたゞ人間の理會力に訴へるが、宗教の方は單に信仰に基づくものであるから、この二者の範圍は全く相離れて居て、共通の點は少しもない。尤も、宗教に於ても、信仰に達するまでの道筋には多少學問らしい部分の挾まつて居ることはあるが、その終局は所謂信仰であつて、信仰は理會力の外に立つものであるから、宗教を一種の學問と見倣して取扱ふことは素より出來ぬ。されば進化論から宗教を論ずる場合には、たゞ研究或は應用の目的物として批評するばかりである。

 人間は獸類の一種で、猿の如きものから漸々進化して出來たもの故、人間の信ずる宗教も、一定の發達・歷史を有するは勿論のことであるが、之を研究するには、他の學科と同樣に、先づ出來るだけ材料を集め、之を比較して調べなければならぬ。現今行はれて居る宗教の信仰箇條を悉く集めて比べて見ると、極めて簡單なものから隨分複雜なものまで、多くの階級があつて、各人種の知力發達の程度に應じて總べて相異なつて居る。「人間には必ず宗教がなければならぬ、その證據には世界中何處に行つても、宗教を持たぬ人種は決してない」などと論じた人もあつたが、之は研究の行き屆かなかつた誤で、現にセイロン島の一部に生活するヴェッダ人種の如きは、之を特別に調査した學者の報告によると、宗教といふ考の痕跡もないとのことである。これらは現今棲息する人種中の最下等なものであるが、それより稍進んだ野蠻人になると、靈魂とか神とかいふ種類の觀念の始[やぶちゃん注:「はじまり」。]が現れる。自分の力では到底倒すことの出來ぬやうな大木が嵐で倒れるのを見れば、世の中には目に見えぬ力のい或る者が居るとの考を起すことは、知力の幼稚な時代には自然のことで、自分より遙に力のい或る者が居ると信じた以上は、洪水で小屋が流れても、岩が落ちて家が壞れても、皆この或る者がする所行であらうと思つて、之を恐れ、自分の感情に比べて、或はその者の機嫌を取るために面白い踊をして見せたり、或は願事を叶へて貰ふために賄賂として甘い食物や、美しい女を捧げたりするやうになるが、神とか惡魔とかいふ考は恐らく斯くの如くにして生じたものであらう。また一方には、昨日まで生きて敵と擲き[やぶちゃん注:「たたき」。]合うて居た父が、今日は死んで動かなくなつたのを見て、その變化の急劇なのに驚いて居るときに、父の夢でも見れば、肉體だけは死んでも魂だけは尚存在して、目には見えぬが確に我が近くに居るのであらうと考へるのも無理でないから、肉體を離れた靈魂といふ觀念も起り、父の靈魂が殘つて居ると信ずる以上は、我が身の狀態に比べて、食事の時には食物を供へ、敵に勝つた時には之を告げ知らせるといふやうな儀式も自然に生ずるであらう。靈魂といふものが實際あるかないかは孰れとも確な證據のないこと故、我々現今の知力を以ては有るとも斷言の出來ぬ通り、ないといふ斷言も出來ぬが、靈魂といふ考は恐らく斯くの如くにして生じ、その後漸々進化して今日文明國で考へるやうな程度までに達したものであらう。

[やぶちゃん注:「ヴェッダ人種の如きは、之を特別に調査した學者の報告によると、宗教といふ考の痕跡もないとのことである」誤りウィキの「ヴェッダ人」から引く。ヴェッダ人(英語: Vedda)は、『スリランカの山間部で生活している狩猟採集民。正確にはウェッダーと発音する』が、これは他称で、『自称はワンニヤレット』『で「森の民」の意味である』。『人種的にはオーストラロイドやヴェッドイドなどと言われている。身体的特徴としては目が窪んでおり彫りが深く、肌が黒く低身長であり広く高い鼻を持つ。記録は、ロバート・ノックス(Robert Knox)著「セイロン島誌」(An Hiatorical Relation of the Island Celylon in the East Indies:一六八一年)に遡る。人口は一九四六年当時で二千三百四十七人で、バッティカロア・バドゥッラ・アヌラーダプラ・ラトゥナプラの地に『居住していたという記録が残る』が、一九六三年の統計では四百人と『記録されて以後、正式な人口は不明で、シンハラ人との同化が進んだと見られる』。『民族誌としてはSeligman,C.G. and Seligman,B.Z.』のThe Veddas,Cambridge(一九一一年)『があり、ウェッダー像の原型が形造られた。現在の実態については確実な情報は少ない。伝説の中ではヴェッダはさまざまに語られ、儀礼にも登場する。南部の聖地カタラガマ(英語版)の起源伝承では、南インドから来たムルガン神が、ヴェッダに育てられたワッリ・アンマと「七つ峯」で出会って結ばれて結婚したとされる。ムルガン神はヒンドゥー教徒のタミル人の守護神であったが、シンハラ人からはスカンダ・クマーラと同じとみなされるようになり、カタラガマ神と呼ばれて人気がある。カタラガマはイスラーム教徒の信仰も集めており、民族や宗教を越える聖地になっている』。八『月の大祭には』、『多くの法悦の行者が聖地を訪れて』、『火渡りや串刺しの自己供犠によって願ほどきを行う』。『一方、サバラガムワ州にそびえるスリー・パーダは、山頂に聖なる足跡(パーダ)があることで知られる聖地で、仏教、ヒンドゥー教、イスラーム教、キリスト教の共通の巡礼地で、アダムスピークとも呼ばれるが、元々はヴェッダの守護神である山の神のサマン』(英語: Saman)『を祀る山であったと推定されている。古い神像は白象に乗り』、『弓矢を持つ姿で表されている。サバラガムワは「狩猟民」の「土地」の意味であった。古代の歴史書』「マハーワンサ」『によれば、初代の王によって追放された土地の女夜叉のクエーニイとの間に生まれた子供たちが、スリーパーダの山麓に住んだというプリンダー族の話が語られている。その子孫がヴェッダではないかという』。『また、東部のマヒヤンガナ』『は現在でもヴェッダの居住地であるが、山の神のサマン神を祀るデーワーレ(神殿)があり、毎年の大祭にはウエッダが行列の先頭を歩く。伝承や儀礼の根底にある山岳信仰が狩猟民ヴェッダの基層文化である可能性は高い。なお、民族文化のなかで、一切の楽器をもたない稀少な例に属する』とある(下線太字やぶちゃん)。]

 

 以上述べた所は、たゞ宗教の始だけであるが、現今の野蠻人の中には全くこの通りの有樣のものもある。それより漸々人間の知力が進んで來ると、宗教も之に伴うて段々複雜になり、また高尚になり、特別に宗教のみを職業とする僧侶といふやうなものも出來るが、他の人々が世事に追はれて居る間に、僧侶は知力の方を練るから、知力に於ては俗人に優ることになり、終に宗教は有力な一大勢力となつたのであらう。比較解剖學・比較發生學によつて生物進化の有樣が解る如く、また比較言語學によつて言語の進化の模樣が解る如くに、比較宗教學によつて宗教の進化し來つた徑路が多少明に知れるが、宗教進化の大體を知つて後に現今の各宗教を研究すれば、初めてその眞の價値を了解することが出來る。

 尚宗教といふものは現在行はれて居るもので、多數の人間は之によつて支配せられて居る有樣故、人種の維持繁榮を計る點からいうても、決して等閑にすべきものではない。單に理會力の標準から見れば、現在の宗教は總べて迷信であるが、迷信は甚だ有力なもの故、自己の屬する人種の益榮えるやうにするには、この方針に矛盾する迷信を除いて、この方針と一致する迷信を保護することが必要である。人間には筋肉の發達に種々の相違がある通りに、知力の發達にも數等の階段があつて、萬人決して一樣でない。角力取が輕さうに差し上げる石を、我我が容易に持ち得ぬ如く、また我々の用ゐる鐵啞鈴[やぶちゃん注:「てつあれい」。]を幼兒がなかなか動かし得ぬ如く、物の理窟を解する力もその通りで、各人皆その有する知力相應な事柄でなければ了解することは出來ぬ。それ故、理學上の學説の如きは如何に眞理であつても、中以下の知力を具へた人間には到底力に適せぬ故、説いても無益である。ドイツの詩人ゲーテが「學問藝術を修めたものは既に宗教を持つて居る。學問藝術を修めぬ者は別に宗教を持つが善い」というた通り、學問を修めた者には、特に宗教の必要はないが、學問などを修めぬ多數の人間には安心立命のために何か一つの宗教が入用であらう。然るに宗教には、種々性質の異なつたものがあつて、その中には自己の屬する人種の維持・繁榮に適するものと適せぬものとがあるから、宗教の選み方を誤ると、終には人種の滅亡を起すかも知れぬ。人種の維持に必要なことは競爭・進步であるから、生存競爭を厭ふやうな宗教は極めて不適當で、實際さやうな宗教の行はれる人種は日々衰頽に赴かざるを得ない。諸行の無常なのは明白であるが、無常を感じて世を捨てるといふのは大きな間違であらう。樹木を見ても將に枯れようとする枝は、先づ萎れる通り、無常を感じて競爭以外に遁れようとするのは、その人種が將に滅亡に近づかうとする徴候であるから、人種的自殺を望まぬ以上は、斯かる傾のある宗教は、勉めて驅除せねばならぬ。生物は總べて樹枝狀をなして進化して行くもので、自己の屬する人種は生物進化の大樹木の一枝であることが明な上は、生存卽競爭と諦めて勇しく[やぶちゃん注:「いさましく」。]戰うやうに勵ますといふ性質の宗教が最も必要であらう。甚だしい迷信ほど信者の數が多く、今も昔も賣ト者の數に著しい增減のない所を見れば、世の中から迷信を除き去ることは容易ではないが、迷信が避けられぬ以上は、人種維持の目的に適する迷信を保護するの外には道はない。

[やぶちゃん注:『ドイツの詩人ゲーテが「學問藝術を修めたものは既に宗教を持つて居る。學問藝術を修めぬ者は別に宗教を持つが善い」というた』ゲーテの「遺稿詩集」の「温順なクセーニエン」(Zahme Xenien)第九集の一節。]

 

 從來西洋諸國では耶蘇教が行はれ、この世界は神が六日の間に造つたものであるとか、人間は神が自分の姿をモデルにして泥で造り、出來上つた後に鼻の孔から命を吹き込んだとか、アダムの肋骨を一本拔き取つてエバを造つたとか、いふやうなことを代々信じて、人間だけか一種靈妙なものと思つて居た所へ、生物進化論が出て、人間は獸類の一種で、猿と共同な先祖から降つたものであると説いたのであるから、その騷は一通りではなかつた。初めの間は力を盡して進化論を打ち壞さうと掛かつたが、進化論には事實上に確な證據のあること故、素より之に敵することが出來ず、次には宗教と理學との調和などと唱へて、聖書に書いてあることを曲げて、進化論の説く所に合はせやうと勉めたが、之もまた無理なこと故、到底滿足には出來ず、今日では最早如何とも仕樣のないやうになつた。今後は段々教育も進み、學問が普及するに隨つて、進化論の解る人も追々殖えるに違ないから、宗教の方も進化論と矛盾せぬものでなければ、教育ある人々からは信ぜられなくなつてしまふであらう。

 以上は單に執筆の際に胸に浮んだことを斷片的に書き竝べたに過ぎず、これらに就いては考の違ふ人も無論大勢あらうが、傳來の舊思想の大部分が進化論のために絶大な影響を受けて、殆ど根抵から變動するを免れぬことだけは、誰も認めぬ譯には行かぬであらう。今日多數の人々の思想は元自分の力で獨立に考へ出したものではなく、たゞ教へられたまゝを信じて殆んど惰性的に引き續いて居るに過ぎず、隨つて、學者間に如何なる新説が行はれても、そのため容易に變動することはない。然しながら、進化論の如き思想界に大革命を起すべき性質の知識が、幾分か讀書人の社會に普及して、文藝に從事する人々の間に弘まると、直にその作品の上に變化が現れるから、新しい思想が存外速に世間一般に擴がるやうになる。最近四五十年間に、西洋諸國で著された有名な小説や脚本の中には、從來の宗教的信仰や社會の風習を全く無視し、もしくは之に反抗した形跡のあるものが頗る多數を占めて居るが、之は餘程までは進化論の確になつたために、在來の宗教の權威が薄らいだ結果と見倣すことが出來よう。今日の靑年はかやうな本を讀む故、自然と、舊時代の信仰や傳説に對して、無遠慮な批評を試みるやうになるが、昔のまゝの思想を有する老人等から見ると、恰も人類の道德が破壞せられて行くかの如くに思はれ、壓制的に之を止めようとするので、どこにも衝突が起る。この先如何に成り行くかは知らぬが、知識の進步に伴うて、時代の思潮が段々移り行くのは自然の勢であつて、人力を以て之を壓し戾すことは到底不可能であらう。而して斯く新しい思想が文藝の作品の中に盛に姿を現し、ために往々家庭に於ける老若二派の間に風波を生ずることのあるに至つたのも、その原因を探れば、一つは進化論が文藝界に知られて舊思想に動搖を來したにあるを思へば、進化論が文明世界の思想方面に及ぼした影響は、實に豫想外に廣いものといはねばならぬ。

 

新補 進化論講話 終
 
[やぶちゃん注:「新補」は
横書ポイント落ち。]

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(四) 四 進化論と社會

 

     四 進化論と社會

 

 現今の社會の制度が完全無缺でないことは誰も認めなければならぬが、さて之を如何に改良すべきかといふ問題を議するに當つては、常に進化論を基として、實著[やぶちゃん注:「じつちやく」。「実着」。「着実」に同じい。真面目に落ち着いていること。誠実で浮(うわ)ついたところがないさま。]に考へねば何の益もない。社會改良策が幾通り出ても、悉く癡人夢を説く[やぶちゃん注:おろか者が自分の見た夢の話をする如くに要領を得ない話をすることの喩え。]が如くであるのは、何故かといへば、一は人間とは如何なるものかを十分に考へず、猥に高尚なものと思ひ誤つて居ること、一は競爭は進步の唯一の原因で、苛くも生存して居る間は競爭の避くべからざることに、心附かぬことに基づくやうである。

 異種屬間の競爭の結果は各種屬の榮枯盛衰であつて、同種屬内の競爭の結果はその種屬の進步・改良であることは、前にも説いたが、之を人間に當て嵌めても全くその通りで、異人種間の競爭は各人種の盛衰存亡の原因となり、同人種内の競爭はその人種の進步・改良の原因となる。それ故、數多の人種が相對して生存して居る上は、異人種との競爭が避けられぬのみならず、同人種内の個人間の競爭も廢することは出來ぬ。分布の區域が廣く、個體の數の多い生物種屬は必ず若干の變種に分れ、後には互に相戰ふものであるが、人間は今日丁度その有樣にあるから、異人種が或る方法によつて相戰ふことは止むを得ない。而して人種間の競爭に於ては、進步の遲い人種は到底勝つ見込はないから、孰れの人種も專ら自己の進步・改良を圖らなければならぬが、そのためにはその人種内の個人間競爭が必要である。

 社會の有樣に滿足せず、大革命を起した例は、歷史に幾らもあるが、いつも罪を社會の制度のみに歸し、人間とは如何なるものかといふことを忘れて、たゞ制度さへ改めれば、黃金世界になるものの如くに考へてかゝるから、革命の濟んだ後は、たゞ從來權威を振つて居た人等の落ちぶれたのを見て、暫時僅の愉快を感ずるの外には何の面白いこともなく、世は相變らずが澆季[やぶちゃん注:「げうき(ぎょうき)」「澆」は「軽薄」の、「季」は「末」の意で、道徳が衰えて乱れた世。世の終わり。末世。]で、競爭の劇しいことはやはり昔の通りである。今日社會主義を唱へる人々の中には、往々突飛な改革論を説く者もあるが、若しその通りに改めて見たならば、やはり以上の如き結果を生ずるに違ない。人間は生きて繁殖して行く間は競爭は免れず、競爭があれば生活の苦しさは何時も同じである。

 教育の目的は、自己の屬する人種の維持・繁榮であることは、既に説いた通りであるが、進化論から見れば社會改良もやはり自己の屬する人種の維持・繁榮を目的とすべきものである。世の中には戰爭といふものを全廢したいとか、文明が進めば世界中が一國になつてしまふとかいふやうな考を持つて居る人もあるが、これらは生物學上到底出來ぬことで、利害の相反する團體が竝び存して居る以上は、その間に或る種類の戰爭が起るのは決して避けることは出來ぬ。而して世界中の人間が悉く利害の相反せぬ位置に立つことの出來ぬは素より明瞭である。敵國・外患がなければ國は忽ち亡びるといふ言葉の通り、敵國・外患があるので國といふ團體は漸く纏まつて居るわけ故、若し假に一人種が總べて他の人種に打勝つて全世界を占領したとするとも、場處場處によつて利害の關係が違へば忽ち爭が起つて數箇國に分れてしまふ。僅に一縣内の各地から選ばれた議員等が集まつてさへ、地方的利害の衝突のために劇しい爭が起るのを見れば、全世界が一團となつて戰爭が絶えるといふやうなことの望むべからざるは無論である。

[やぶちゃん注:最後の一文で選挙の例が挙げられてあるが、本書改訂十三版「進化論講話」が刊行された大正一四(一九二五)年は普通選挙法(それまでの納税額による制限選挙から、納税要件が撤廃され、日本国籍を持ち、且つ、内地に居住する満二十五歳以上の全ての成年男子に選挙権が与えられることが規定された)が成立した年である。大正十四年五月五日法律第四十七号で、本書は同年九月十八日発行である。但し、これは、直近の大正三(一九一四)年の増補修正十一版のパートにもある(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像)。]

 

 若干の人種が相對して生存する上は、各人種は勉めて自己の維持・繁榮を圖らねばならぬが、他の人種に敗けぬだけの速力で、進步せなければ、自己の維持・繁榮は望むことは出來ず、速に進步するには個人間の競爭によるの外に道はない。されば現今生存する人間は、敵である人種に亡ぼされぬためには、味方同志の競爭によつて常に進步する覺悟が必要で、味方同志の競爭を厭ふやうなことでは、人種全體の進步が捗らぬ[やぶちゃん注:「はかどらぬ」。]ために、敵である人種に敗けてしまふ。今日の社會の制度には改良を要する點は澤山にあるが、孰れに改めても競爭といふことは到底避けることは出來ぬ。他の人種と交通のない處に閉じ寵つて、一人種だけで生存して居る場合には、劇しい競爭にも及ばぬが、その代り進步が甚だ遲いから、後に至つて他人種に接する場合には、恰もニュージーランド[やぶちゃん注:二重傍線無しはママ。]の鴫駝鳥[やぶちゃん注:「しぎだちやう」。]の如く忽ち亡ぼされてしまふ。世間には、生活の苦は競爭が劇しいのに基づくことで、競爭の劇しいのは人口の增加が原因であるから、子を生む數を制限することが、社會改良上第一に必要であるといふやうな考を持つて居る人もあるが、前に述べた所によると、之は決して得策とはいはれぬ。今日の所で必要なことは、競爭を止めることではなく、寧ろ自然淘汰の妨害となるやうな制度を改めて生存競爭を成るべく公平ならしめることであらう。人種生存の點からいへば、腦力・健康ともに劣等なものを人爲的に生存せしめて、人種全體の負擔を重くするやうな仕組を成るべく減じ、腦力・健康ともに優等なものが孰れの方面にも必ず勝つて働けるやうな制度を成るべく完全にして、個人間の競爭の結果、人種全體が速に進步する方法を取ることが最も必要である。かやうな世の中に生れて來た人間は、たゞ生存卽ち競爭と心得て、力のあらん限り競爭に勝つことを心がけるより外には致し方はない。

[やぶちゃん注:進化論に則れば、この丘先生の言っていることは一応、理路は通っているように見えるが、例えば、今までの先生の理論に従えば、「自然淘汰の妨害となるやうな制度」と客観的に正当に判ずること自身が不可能と言えるのであって、この意見はその一点に於いて無化されると言っておく。

「鴫駝鳥」(しぎだちょう)はニュージーランド固有種(国鳥)で「飛べない鳥」と知られる、鳥綱古顎上目キーウィ目キーウィ科キーウィ属 Apteryx のキーウィ(Kiwi)類の旧和名。複数回既出(例えば。図有り)であるが、再掲しておくと、現在、中国名(漢名)でも同類は「鷸鴕屬」(「鷸」は鴫、「鴕」は「駝鳥」の意)である。現行、分類学上ではキーウィ属で一科一属とするが(五種(内一種に二亜種)。但し、種数をもっと少なくとる説もある)、実は実際にダチョウ目 Struthioniformes やダチョウ目モア科 Dinornithidae に含める説もある。「キーウィー」「キウィ」「キウイ」とも表記し、これは「キーウィー!」と口笛のような声で鳴くことから、ニュージーランドの先住民マオリ族がかく名付けていた名に由来する。お馴染みの果物の「キウイフルーツ」(双子葉植物綱 Magnoliopsidaビワモドキ亜綱 Dilleniidaeツバキ目 Thealesマタタビ科 Actinidiaceaeマタタビ属キウイフルーツ(オニマタタビ・シナサルナシ)Actinidia chinensis は、ニュージーランドからアメリカ合衆国へ輸出されるようになった際にニュージーランドのシンボルであるキーウィに因んで一九五九年に命名されたものである。主に参照したウィキの「キーウィ(鳥)」によれば、本文に出るように、かつては一千万羽ほどいたが、今では三万羽ほどまで減少して危機的な状況で、減衰の理由は、ヒトが食用とした過去があったこと、ヒトが持ち込んだ犬・猫などの哺乳類と共存適応が出来ず、雛を捕食されてしまったからとされている。]

 

 尚人道を唱へ、人權を重んずるとか、人格を尊ぶとかいうて、紙上の空論を基とした誤つた説の出ることが屢ある。例へば死刑を全廢すべしといふ如きは卽ちその類で、人種維持の點から見れば毫も根據のない論であるのみならず、明に有害なものである。雜草をかり取らねば庭園の花が枯れてしまふ通り、有害な分子を除くことは人種の進步・改良にも最も必要なことで、之を廢しては到底改良の實は擧げられぬ。單に人種維持の上からいへば、尚一層死刑を盛にして、再三刑罰を加へても、改心せぬやうな惡人は、容赦なく除いてしまうた方が遙に利益である。

 

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(三) 三 進化論と教育

 

     三 進化論と教育

 

 教育書を開いて見ると、精神は人間ばかりに存するもの故、教育の出來るのも人間ばかりに限るなどと書いてあるが、之は確に間違で、他の動物の中にも、子を教育する類は幾らもある。而して如何なる動物が子を教育するかと調べると、皆腦髓の梢發達した高等動物で、比較的子を生む數の少い種類に限るやうである。

 動物は何のために子を教育するかといふに、凡そ動物には命の長いものもあれば、短いものもあるが、如何なる種類でも、壽命には必ず一定の制限があるから、種屬の斷絶せぬためには、常に生殖して死亡の損失を補はなければならぬ。而して若し生れた子が皆必ず生存するものと定まつて居たならば、一對の親から一生涯の間に僅に二疋の子が生れただけでも、親の後を繼いで行くことは出來る筈であるが、生存競爭の劇烈な現在の世の中では、生れた子が殘らず生長するといふ望は到底ない。魚類・昆蟲類を始め多くの下等動物では、初めから無數の卵を生むから、そのまゝ打捨てて置いても、その中二疋や三疋は生長し終るまで生存する機會があるが、梢少數の子を生む動物では、單に生んだだけでは、まだ種屬維持の見込が附いたとはいへぬ。必ず之を教育して競爭場裡に出しても、容易に敗ける患[やぶちゃん注:「わづらひ」。]はないといふまでに仕上げなければならぬ。されば教育ということは、生殖作用の追加とも見るべきもので、その目的は生殖作用と同じく、種屬の維持繁榮にあることは、少しも疑を容れぬ。

 以上述べたことは、生物學上明な事實であるが、之を人間の場合に當て嵌めて見てもその通りで、教育書には、教育の目的は完全なる人を造るにあるとか何とか、種々高尚な議論が掲げてあるに拘らず、實際に於ては總べて種屬の維持繁榮を目的として居る。尤も[やぶちゃん注:底本は「最も」であるが、特定的に訂した。]こゝに種屬といふのは動物學上の種屬ではない。人間の造つて居る種々の團體のことで、この團體に幾つもの階段があるから、教育の目的も之を行ふ團體次第で多少異ならざるを得ない。例へば一家でその子弟を教育するのは、現在の一家の主なる人々が死んでも、後に一家を繼續するものを遺すためで、一藩でその子弟を教育するのは、現在の藩士が死んでも、後に之を繼續するための立派なものを遺すためである。また一國がその子弟を教育するのは、現在の國民が死んでも、その後に世界列國の競爭場裡に立ち、立派に一國を維持し且榮えて行くだけのものを遺すためである。完全な人を造るとか、人間本來の能力を發展せしめるとかいふ文句は、如何にも立派に聞えるが、實は極めて漠然たるいひ方で、完全な人とは如何なるものか、人間本來の能力とは何かと押して問へば、その答は決して一樣でなく、その定義を定めるためにまた種々の議論が出て、益實際から遠ざかるやうになる。然るに實際に於ては議論の如何に拘らず、知らず識らず生物學上の規則に隨ひ、こゝに述べた如くに、皆種屬の維持繁榮を目的として居るのである。

 從來の所謂教育學といふものは、哲學などと同樣に、たゞ思考力ばかりに依賴して考へ出したもの故、哲學と同じく、十人寄れば十種の學説が出來、相似た説を持つたものは集まつて學派を造り、互に爭つて孰れが正しいか、分からぬやうであるが、學派が幾つもあつて相爭つて居るやうでは、孰れを取るにしても直に之を應用するのは甚だ不安心なことである。一時はヘルバルトでなければならぬやうにいふたかと思ふと、その次にはまた全く之を捨てて他の新説を取るといふやうな世の有樣を見ると、所謂教育學説といふものを學ぶのは全く無益な骨折で、之を基礎として、その上に論を立てるのは大なる誤謬の原因であると思はざるを得ぬ。生物進化論が確定して、人間の位置の明になつた今日では、單に思考力のみに依賴して考へ出した説は、先ず根據のない空論と見倣すの外はないから、教育學も今後は舊式哲學・形而上學などとは全く緣を斷ち、生物學・社會學等の基礎の上に、實驗的研究法によつて造り改めなければ、到底長く時世に伴うて進步して行くことは出來ぬであらう。

[やぶちゃん注:「ヘルバルト」ドイツの哲学者・心理学者・教育学者であったヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト(Johann Friedrich Herbart 一七七六年~一八四一年)。少なくともドイツ語圏に於いて教育学の古典的人物の一人と見做される人物。家庭教師の教育下に幼少時より哲学への関心を抱く。私塾で自然科学を学び、ギムナジウム在学中に人間の意志の自由に関する論文を書き(一七九〇年)、卒業生代表として「国家において道徳の向上と堕落を招来する一般的原因について」の演説を行う(一七九三年)など、早くから非凡さを発揮した。イエナ大学で法律を学び、そこでフィヒテの哲学に影響を受ける一方、ゲーテ・シラー・ヘルダーの住むワイマールを訪れては、芸術的素養を身につけた。卒業後の三年間、ベルンのシュタイゲル家の家庭教師となったが、グルンドルフにペスタロッチを訪ねたこと(一七九九年)ことなどを契機として、関心が教育学へと向かい、後、ゲッティンゲン大学で教育学・倫理学・哲学を講じ(一八〇二年~一八〇九年)、主著「一般教育学」(一八〇六年)・「一般実践哲学」(一八〇七)を著した。ケーニヒスベルク大学に招かれて名誉あるカントの講座を継承し(一八〇九年)、「心理学教本」・「哲学綱要」を著す一方、教育セミナーや実験学校を付設して、教育実践面にも活躍した。一八三三年、再び、ゲッティンゲン大学に招かれ(一八三七年まで)、教育学体系を基礎づけた「教育学講義綱要」(一八三五年)を著し、教育の目的を倫理学に、方法を心理学に求めて、多面的興味の喚起を唱えた。ツィラー(Tuiskon Ziller 一八一七年~一八八二年)によって五段階に発展させられた教授法とともに明治二十年代(一八八七年~一八九六年)に日本に紹介され、谷本富(とめり 慶応三(一八六七)年~昭和二一(一九四六)年:讃岐国高松生まれ。松山公立病院附属医学所、同人社を卒業後、帝国大学文科大学の選科生となり、哲学全科を修了、さらに特約生教育学科で御雇教師ハウスクネヒトからヘルバルト教育学を学んだ。但し、彼は明治三三(一九〇〇)年から三年間、ヨーロッパに留学し、帰国後、京都帝国大学理工科大学講師に就任、一九〇六年刊の「新教育学講義」は留学の成果であったが、それまでのヘルバルト一辺倒から転じ、新教育を強く提唱している。明治三八(一九〇五)年に文学博士、翌年に京都帝国大学文科大学教授となり、新設の教育学教授法講座を担当、一九一〇年には再び海外に留学している。しかし、大正元(一九一二)年九月、『大阪毎日新聞』紙上で乃木希典の殉死を、その古武士的質祖・純直な性格はいかにも立派なるにも拘わらず、なんとなくわざと飾れるように思われて、心ひそかにこれを快しとしなかった、などと批判したことから、強い非難を浴び、翌年、兼任していた大谷大学・神戸高等商業学校を辞任、さらに同年八月には京都帝国大学総長澤柳政太郎により、谷本を含む七教授が辞表提出を強要されて辞職に追い込まれた。その後は著述家・論客として活動、龍谷大学講師・大阪毎日新聞社顧問を務めた。ここはウィキの「谷本富に拠った)を中心として大きな影響を及ぼした(以上は小学館「日本大百科全書」をベースとした)。]

 

 教育は種屬維持のために必要であるが、人間は種々の團體を造つて生活するもの故、實際教育するに當つては、如何なる團體の維持繁榮を目的とすべきかを明瞭に定めて置かねば功がない。漠然たる文句で教育の目的をいひ表して置くことは、單に理論の場合には差支がないかも知れぬが、教育は一日も休むことの出來ぬ實際の事業故、單に一通りにより意味の取れぬ極めて判然たる目的を常に目の前に定めて置くことが必要である。さて人間の生存競爭の有樣を見るに、團體には大小種々の階級があるが、競爭に於ける最高級の單位は人種といふ團體で、人種と人種との間にはたゞいものが勝ち、弱いものが敗けるといふ外には何の規則もないから、自分の屬する人種が弱くなつては、他に如何に優れた點があつても種屬維持の見込はない。それ故、實際教育するに當つては人種といふ觀念を基として、人種の維持繁榮を目的とせねばならぬ。生物界では分布の廣い生物種屬は必ず若干の變種を生ずるもので、變種は尚一層進めば獨立の種となるもの故、斯かる種屬は初め一種でも後には必ず數種に分れ、互に劇しく競爭して、その中の少數だけが、後世まで子孫を遺すことになるが、人間の如きは最も分布の廣い種屬で、既に多數の人種に分れて居ること故、今後は益人種間の競爭が劇しくなり、適するものは生存し、適せぬものは亡び失せて、終には僅少の人種のみが生き殘つて地球を占領するに違ない。この競爭は今から始まるわけではなく、既に從前から行はれて居たことで、歷史以後に全く死に絶えた人種も幾らもあり、將に死に絶えんとする人種も澤山にある。今日の所で、後世まで子孫を遺す見込のあるものは、ヨーロッパを根據地とする若干の人種とアジヤの東部に住んで居る若干の人種と僅に二組に過ぎぬ。されば如何なる種類の教育でも、常にこれらの事實を忘れず、他の生物の存亡の有樣に鑑み、進化論の説く所に隨つて、專ら自己の屬する人種の維持繁榮を計らねばならぬ。

[やぶちゃん注:丘先生が敢えてロシア(ソヴィエト)とアメリカ合衆国を挙げておられないのがすこぶる面白い。検閲を配慮したか。]

2018/07/30

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(二) 二 進化論と倫理

 

     二 進化論と倫理

 

 倫理學も從來は人間を一定不變のものと見倣し、且宇宙間に他に類のない一種靈妙なものとして人間のことばかりを論じ來つたが、進化論によつて自然に於ける人類の位置が明になつた以上は、根本からその仕組を改めてかゝらねばならぬ。人間が獸類の一種であつて、猿と共同な先祖から降つたものとすれば、善とか惡とかいふ考も決して最初から存した譯ではなく、他の思想と同樣に漸々の進化によつて生じたものと見倣さねばならぬが、これらの點を詳細に研究するには、先づ世界各處の半開人[やぶちゃん注:「はんかいじん」。文化が未開を越えて、少し開化してきている人集団。]や野蠻人が、如何なることを善と名づけ、如何なることを惡と名づけて居るか、また實際如何なることを爲して居るかを取調べ、尚人間以外の團體生活をする獸類・鳥類が平生なし居ることをも調査し、之を基として論ずることが必要である。人間の身體ばかりを解剖して如何に丁寧に調べても、人間の身體各部の意味が解らず、他の動物と比較して見て、初めてその意味が解る如くに、人間の行爲も之ばかりを調べたのでは、何時まで過ぎても容易に意味の解るものではない。他の團體生活をする動物の行爲に比べて見て、初めてその意味が明に解るものも澤山にあるべき筈である。

 例へば、動物界には人間の外に團體生活を營むものは澤山にあつて、之を竝べて見ると、單獨の生活をなすものから、一時的團體を造るもの、少數の個體が常に集まり生活するものなど、種々の階級を經て、多數の個體が永久の團體を組んで生活するに至るまでの進化の順序を知ることが出來るが、これらの動物の行爲を調ベると、善惡の分れる具合も、多少明に解るやうである。先づ單獨の生活を營む動物の行爲は、善惡を以て評すべき限ではないが、團體を組んで生活するやうになれば、生存競爭の單位は團體であるから、その中の各個體の行爲は全團體に影響を及ぼし、一個體が團體に利益ある所行をなせば、團體内の他の個體は殘らずその恩澤を蒙り、一個體が團體に不利益な所行をなせば、團體内の他の個體は悉く損害を受ける。假に身を斯かる團體内に置いたと想像して見れば、前者の行爲を善と稱し、後者の行爲を惡と名づけるより致し方はない。されば團體生活を營む動物では、一個體の行爲が全團體の滅亡を起す場合が最高度の惡で、身を犧牲に供して全團體の危難を救ふことは善の理想的模範である。

 また數個の團體が對立して互に競爭する場合には、如何なる性質を具へた團體が最も多く勝つ見込を有するかと考へるに、それは無論各個體が全團體のために力を盡し、自己一身の利害を第二段に置くやうな團體である。上下交々[やぶちゃん注:こもごも。]利を征めては[やぶちゃん注:「せめては」ではおかしい。そういう訓はないが(人名の訓ではある)「もとめては」と読んでおく。]、到底敵である團體と相對して存立することは出來ぬから、團體聞の生存競爭に於ても、やはり自然淘汰が行はれ、團體生活に最も適する性質を具へたもののみが長く生存し、各個體には自己の屬する團體のために誠を盡すといふ性質が、益發達するわけになる。蟻・蜜蜂等の如き社會的昆蟲の動作を見れば、このことは最も明白であるが、人間の道德心の如きも或は斯くの如くにして生じ來つたものではなからうか。若しさうとしたならば、善惡といふ考も團體生活とともに起つたもので、世の中から團體生活をする動物を取り去つたならば、たゞ火が燃え、水が流れるといふやうな善でも惡でもないことばかりとなつて、善惡といふ文字の用ゐ處も無くなつてしまふ。

 尚人間には生れながら良心といふものが具はつて、惡事をなした後には心中大いに安んずることが出來ぬものであるが、この良心といふものもやはり團體生活と共に起つたものではなからうか。團體生活を營む動物では、一個體の行爲が全團體の不利益を生じた場合には、他の個體が集まつて之を罰することが常であるが、罪せられることを豫め恐れる心持は、所謂良心といふものと全く同じ性質の如くに思はれる。

 人間の道德心の起源の如きは、大問題であつて、素より一朝一夕に論じ盡せるわけのものではないが、人間が獸類の一種である以上は、之を研究する方法もやはり比較解剖學・比較發生學等と同樣に、先づ事實を集め、次に之に通ずる規則を探り出し、その規則に從つて原因を調べるといふ順序でなければならぬ。この順序によりさへすれば、恰も比較解剖學・比較發生學等によつて、人間の身體の進化し來つた徑路が多少明になつた如くに、人間の道德心の發生の徑路が、幾分か解るやうになるであらう。野蠻人の行爲や諸動物の習性を調ベることは、素より容易ではないが、今より後はこの方法により實驗的に研究して行く外に適當な法はないやうである。

 從來の倫理學は規範學科などと稱して、單に思考力のみに依賴し、高尚な議論ばかりをして居たから、人生と最も直接な關係を有すべき學科でありながら、實際に於ては最も人生と緣の遠い有樣であつたが、規範學科であれば尚更のこと、先づ人間といふものは實際如何なることをして居るか、またその行爲の原因は何であるかを詳しく調べ、之を基として議論を立つべき筈である。されば倫理學は全くその研究の方法を改め、純正學科としては單に實驗・觀察によつて人類の行爲を研究し、之を支配する理法を探り求めることだけを目的とし、更に應用學科として人間の行爲は斯くあるが最も宜しいといふ規範を種々の場合に當て嵌めて、定めることを勉めたれば宜しからう。人間が尚進化の中途にあるものとすれば、萬世不易の善惡の標準といふやうなものは、到底定められぬかも知れず、單に思考力によつて之を求めようとすれば、益空論の範圍に深入[やぶちゃん注:「ふかいり」。]して、現實の世界から遠ざかるばかりである。特に人間には團體に種々の階級があつて、小團體が集まつて、大團體をなして居るから、その中の各個人には、小團體の一員としての資格と、大團體の一員としての資格とがあり、時と場合とに隨ひ或は甲の資格を取り、或は乙の資格を取ることが必要であるから、同一種類の行爲でも、或は善となり或は惡となることもある。例へば病原黴菌といふ人類共同の敵に對する場合には、各個人は人類といふ大團體の一員たる資格であるから、黴菌撲滅上肝要な一大發見をした學者が、直に之を他國の學者に通知することは、全團體の利益となる所行故、先づ善事と見倣さねばならぬが、國と國とが戰爭をする場合には、各個人は國といふ小團體の一員たる資格であるから、兵器改良上肝要な一大發見をした學者が、之を敵國の學者に通知することは、敵の戰鬪力を增さしめる所行故、確に惡事と見倣さねばならぬ。かやうな例を考へれば、幾らでもあるが、これらを見ても、善惡の標準は時と場合とに隨つて改めなければならぬことは、明であるから、倫理學は應用學科として、常に斯かる點を研究すべきものであらう。

 

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(一) 序・一 進化論と哲學

 

     第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響

 

 前章までに説いた所で、進化論の大意だけは先づ述べ終つたが、進化論を認めると同時に、全く一變せざるを得ぬのは、自然に於ける人類の位置に關する考である。人間は獸類の一種で、猿と共同な先祖から降つたといふことは、單に進化論中の特殊の一例に過ぎぬから、進化論を認めながらこのことだけを認めぬといふ理由は決してない。若しこのことを認めぬならば、進化論全體をも認めることは出來ず、隨つて生物學上の無數の事實と衝突することになる。而して一旦この事を認めて、自然に於ける人類の位置に關する考を一變すれば、從來の考は無論棄てなければならず、且舊思想の上に樹[やぶちゃん注:「た」。]てられた學説は、悉く根抵から造り改めなければならぬことも無論である。

 今日學問の種類は非常に澤山あるが、その中には人間は如何なるものかといふ考に關係のないものもあれば、また殆どこの考を基礎としたものもある。物理學・化學・數學・星學[やぶちゃん注:天文学。]・地質學等の如き純正理學を始めとして、之を應用した工學・農學などでも、人間といふ觀念が如何に變つても直接には何の影響を蒙むることもないが、哲學とか、倫理學とか、教育學とかいふやうな種類の學科は、人間といふ考次第で、全く根本から改めなければならぬかも知れぬ。なぜといふに、これらの學科は進化論の現れぬ前から引續き來つたもので、進化論以前の舊思想に從つて人間といふものの定義を定め、之によつて説を立てて居るのである故、一朝この定義が改まる場合には、その上に築き上げた議論は悉く崩れてしまふからである。

 曾てアメリカの或る雜誌で、十九世紀中に出版になつた書物の中で、人間の思想上に最も著しい影響を及ぼしたのは何であるかといふ問題を出して、世界中の有名な學者から答を求めたことがあつたが、何百通も集まつた答の中に、ダーウィンの「種の起源」を擧げぬものは一つもなかつた。また先年丸善書店で十九世紀中の大著述は何々であるかといふ問題で、我が國の學者から答を求めたことがあつたが、その答の中、やはり「種の起源」が最多數を占めた。斯くの如く、内外共にこの書の尊重せられるのは何故といふに、無論人間といふ考がこの書によつて全く一變し、その結果として殆ど總べての學科に著しい影響を及ぼしたからである。近來出版になつた社會學・倫理學・心理學・哲學等の書物の中には、進化論の影響により大いに改革を試みた形跡の見えるものも既に相應にある所から推せば、尚益變化して行くであらうが、どこでもこれらの學科を專門に修めた人々には、兎角、生物學の素養の極めて不十分な人が多く、そのため進化論が今日既に學問上確定した事實であるに拘らず、之を了解することが出來ず、依然として舊思想を守り、生物學から見れば殆ど前世紀に屬すると思はれる程の誤謬に陷りながら、少しも悟らず、隨つて之を改めもせぬ有樣である。

 進化論と、かやうな學科との關係はなかなか重大なことで、本書の中に之を丁寧に論ずることは出來ぬが、全くこれを略して置くことも甚だ不本意である故、たゞ一つ二つ思ひ浮んだことだけを、この章に述べる。進化論の方が十分に解りさへすれば、こゝに書くことの如きは、必然の結論として生ずべきもので、誰の心中にも自然に浮ぶ筈のことかも知れぬが、凡そ進化論によつて從來の諸學科が如何に根本的に改良せられなければならぬかといふことは、そのため多少明に知れるであらう。

 

     一 進化論と哲學

 

 哲學といふ學問は、その歷史を調べて見ると、極古代に當つては、多少實驗を基としたこともあつたやうであるが、近來では全く實驗と離れて、單に自己の思考力のみに依賴して、一切の疑問を思辨的に解かうと勉める。達磨が九年間壁に向つて考へて居た如く、近頃までの所謂哲學者は、たゞ書物を讀むことと、考へることとによつて、總ての眞理を發見し得るものの如くに思ふて居たが、之には大きな誤謬が基となつて居る。この事は當人も少しも氣が附かぬかも知らぬが、全く人類に關する舊思想に基づくことで、先づ之から改めてかゝらなければ、到底益誤謬に陷ることを免れぬ。

 その誤謬とは人間の思考力を絶對に完全なものの如くに見倣して居ることである。進化論の起らぬ前は、無論このことに就いては疑の起りやうもないわけで、人間は一定不變のものと思つて居る間は、その思考力の進化などに考へ及ぶ緒[やぶちゃん注:「しよ」。]もないから、たゞ考さへすれば如何なる眞理でも觀破することが出來るやうに思つたのも無理はないが、今日生物學上、人間が下等の獸類から漸々進化し來つたことが明になつた以上は、先づこの誤謬から正してかゝらねばならぬ。人間は猿類などと共同な先祖から起つたもの故、その頃まで溯れば今とは大いに違つて腦髓も小く、思考力も甚だ弱かつたに違ない。それより漸々進步して、今日の姿までに達したのである。これから先は如何になり行くか、未來のこと故、素より解らぬが、過去の經歷から推して考へると、尚この後腦髓が益發達して思考力も益進化することは、殆ど疑なからう。若し今後尚進步するものとしたならば、今日の思考力は恰も進步の中段にあるもの故、決して絶對に完全なものとはいはれぬ。されば今日如何に腦漿を搾り、思考力を凝らして考へたことも、尚一層腦髓が發達し、思考力の進步した未來の時世から顧みたとすると、全く誤つて居るかも知れず、その時に考へたことはまた尚一層後の世から見ると、誤であるかも知れぬが、かやうに考へると、今日の腦髓を以て自分の單に考へ出したことを、萬世不變の眞理であると世に披露するやうな大膽なことは到底出來ず、また他人の考へ出したことを萬世不變の眞理であると信ずることも出来ず、總べて何事をも極めて控へ目に信ずるやうになり、その結果甚だしい誤謬に陷ることも斟くなるであらう。

 腦髓が漸々發達して今日の有樣になつたことは、化石學上にも事實の證據があるが、一個人の發生を調べると、全く同樣なことを發見する。最初腦髓の極めて簡單な頃を略して、その次の時代からいへば、先づ胎内四箇月位の時には、大腦の兩半球ともに表面が平滑で、一向、溝の如きものもなく、殆ど兎の腦髓の如くであるが、漸々發達して複雜になり、大腦の表面に種々の裂溝・廻轉等が現れ、八箇月頃には全く猩々と同じ位な度に達する。尚それより少しづゝ發達して、終に生れ出るが、生れてから後に思考力の漸々進步する具合は、誰も幼兒に就いて經驗して知つて居ることであらう。發生學の所で述べて置いた生物發生の原則といふことは、人間の腦髓の發育、思考力の進步等にも實に善く適するやうに思はれるが、之によつて人間の實際進化し來つた徑路を、餘程までは推察することが出來る。

 眼・耳・鼻等の如き感覺器も無論絶對に完全なものではないが、腦髓で考へた理論が、眼・耳等で感ずることと矛盾する場合に、理論の方だけを取つて、感覺の方を顧みぬといふことは穩當でない。今日の人間の生活の有樣を見るに、主として知力の競爭で、眼・耳・鼻等の優劣は殆ど勝敗の標準とはならぬから、一人一人の相違は素よりであるが全體からいへば、知力は益進むばかりで、感覺器の發達は少しも之に伴はぬ。倂しながら知力は如何なる度まで進んで居るかと考へるに、生物の進化は主として自然淘汰に基づくもの故、たゞの競爭場裡に立つことが出來るといふ程度までに進んで居るだけで、決して遙にその以上に出て居るわけはない。されば今日我々の有して居る思考力は、同僚と競爭して甚しく敗れることがないといふ度までに發達して居るだけ故、日常の生活には僅に間に合うて行くが、宇宙の哲理を觀破する道具としては、隨分覺束ないやうに思はれる。

 哲學といふ宇の定義は幾通りあるか知らぬが、簡單にいへば、物を見て考へることであらう。烏を見て單に黑いというて濟ますのは、普通の見方で、何故黑いかと考へるのは哲學的の見方である。つまる所、物の原因に就いて疑を抱くのが、總べての哲學の起りであらうが、この疑を解かうと勉めるに當つて、取る方法に二通りの別がある。一は出來るだけ多く實驗觀察し、出來るだけ多くの正確な事實を集め、之を基として考へる方で、今日純正理學と名づけるものは皆この方法に隨つて研究すべき筈である。他の一は之に反して、眼・耳・鼻・舌等の如き感覺器には全く信用を置かず、たゞ思考力のみに賴つて疑の根元までも解き盡そうと試みるが、從來の所謂哲學といふものは總べてこの方法によつて研究せられて居る。さて人間は尚進化の中段にあるものとすれば、眼・耳・鼻・舌の感覺力も腦髓の思考力も、共に絶對に完全なものでないことは勿論であるが、孰れの方に誤謬に陷る穴が多いかと考へて見るに、眼・耳を以て見聞すること、物指・天秤等を以て測ることなどは、十人で行ふても、百人で行ふても、その結果は略一致して爭の起ることは少いが、日常生活以外の方面に用ゐる思考力の結果は、人一人で大いに異なり、五人集まれば五通りの宇宙觀が出來、十人寄れば十通りの人生觀が出來る。また自分で獨立の説を工夫することの出來ぬ人等は、他人の考へたことに縋り附くの外はないから、こゝに澤山の派が生ずる。若し眞理が幾通りもないものとしたならば、昔から多數に存する哲學派の中で完全に眞理を説いたものは、最も多く見積つてもたゞ一つだけよりないわけで、實際は、恐らく悉く誤謬であると考へざるを得ない。思考力のみに依賴すると、推理の筋の辿りやう次第で、種々の異なつた結論に達し、隨分正反對の結果を得ることもあるから、眞理を求めるために或る學派に歸依し、或は自身で一派を工夫する人は、恰も當りの少い籤を引くのと同樣で、眞理に的中する望は極めて僅である。

 これに比較すれば、感覺力の方が尚餘程確らしい。十人でも百人でも、略同一な結果を得るのであるから、今日の人間の知力の範圍内では、先づこれ以上に確なことを知ることは出來ぬ。人類共通の誤謬があるかも知れぬが、之は何とも論ずべき限でない。されば物の原因を探るに當つても、先づ觀察と實驗とによつて事實を集め、之を基として思考力によつて、その間の關係を考へ、一定の結論を得たれば、更に實驗、觀察によつてその結論が實際の事實と矛盾せぬか否かを確め、確であれば、更に之を基として、その先を考へるといふやうに、常に思考力と感覺力とを倂せ働かせて進むのが、今日の人間のなし得る最も確な方法であらう。尤も、この方法は一段每に實驗・觀察等の如き大きな勞力を要すること故、單に手を束ねて考へるのと違つて、進步は素より多少遲からざるを得ぬ。理科の進步は常にこの方法によるから、速[やぶちゃん注:「すみやか」。]ではないが、比較的に確[やぶちゃん注:「たしか」。]である。理科に於ても、事實の十分に集まらぬ中に、假想説を考へ出して、或る現象の理由を説明しようと勉めて、そのため激しい議論の起ることも常にあるが、研究の結果、事實が漸々解つて來れば、必ず孰れにか決してしまふから、何時までも數多の學派が對立して存するといふやうなことはない。

 この方法は實驗・觀察によつて先づ事實を搜し、之を基として思考するのであるから、從來の單に思考力のみにより空論を戰はして居た紙上哲學に對し、この方法で研究する學科を實驗哲學と名づけるが適當であるが、進化論により人間の位置が明になつた以上は、哲學といふものはこの方面の學科と一致するやうに改めなければならぬ。思考力のみをたゞ一の武器として、臥[やぶちゃん注:「ふし」。]ながら宇宙の眞理を發見しようといふ考は、進化論の教へる所と全く矛盾することである。

 科學に滿足が出來ぬから、哲學に移るといふ人もあるが、物に譬へて見れば、實驗・觀察と思考力とを倂せ用ゐて研究することは、恰も脚を動かして步行するやうなもので、進步は速くはないが、實際身體がそこまで進んで行く。之に反して思考力のみによつて考へることは、恰も夢に千里を走るやうなもので、進步は至極速いやうに感ずるが、實際身體は依然として舊の處に止まつて居る。今日の開化の度まで、人間の進み來つたのは、全く實驗・觀察と思考力とを倂せて用ゐる方法で事物を研究した結果である。思考力のみを用ゐる研究法の結果は、二千年前も今日も餘り著しくは違はぬ。物の理由を探り求めるに當り、實驗・觀察と思考力とを倂せ用ゐることは、大に忍耐と勞力とを要する仕事で、隨つて時も長くかゝるが、その結果は眞であるゆえ、之を應用して誤ることはない。つまり、それだけ人間の隨意にする領分が殖えたやうなもので、生存競爭の武器がそれだけ增したことに當る。知識の光を以て照せば、何事でも解らぬものはないなどと、大聲に演説すれば、そのときだけは説く者も何となく愉快な感じが起つて、意氣が大に昂る[やぶちゃん注:「あがる」。]が、實際を顧みると我々の知識はなかなかさやうなものではなく、僅に闇夜に持つて步く提燈位なもので、たゞ大怪我なしに前へ進み得られるだけに、足元を照すに過ぎない。實驗・觀察と思考力とを倂せ用ゐるのは、この提燈の光力を漸々增加せしめる方法である。今日我々の爲し得る範圍内では、これ以上のことは出來ぬのであるから、不十分な點を忍んで科學に滿足するより外に致し方はない。之に滿足せずして、舊哲學に移るのは、恰も提燈の火が小いからといふて、これを捨て大光明を夢みんと欲して目を閉じるやうなものであらう。

諸國里人談卷之五 橫山狐

 

  ○橫山狐(よこやまのきつね)

伯耆國大山(だいせん)に「橫山狐」といふ、あり。是、則(すなはち)、明神の仕者(ししや)なり。もろもろの願望、此狐を賴みて祈るに成就せずといふ事なし。盗人(ぬすびと)にあひたるもの、此狐を賴み祈れば、卽ち、狐、出〔いで〕て、道しるべして、かの盗(ぞく)が家(いへ)につれ行く事、妙なり。○大山は大智明神也。祭神、大己貴命。神領三千石。坊舎四十二院あり。當山の砂、昼は下(さが)り、夜は升(のぼる)と云〔いへ〕り。

[やぶちゃん注:「橫山狐」ネット上の記載は、悉くが本条に基づくものである。盗賊云々の話は妖狐譚としては特異点と言える。

「大山(だいせん)」は鳥取県(大山町・琴浦町・江府町等)にある標高千七百二十九メートルの成層火山で鳥取県及び中国地方の最高峰。(グーグル・マップ・データ)。ここに出る寺社は西伯(さいはく)郡大山町(だいせんちょう)にある天台宗角磐山(かくばんさん)大山寺(だいせんじ:本尊・地蔵菩薩)と大神山神社(おおがみやまじんじゃ:本社(北麓)鳥取県米子市尾高/奥宮(中腹・標高約九百メートル位置)西伯郡大山町大山)。ウィキの「大神山神社」によれば、本社は大穴牟遅神、奥宮大己貴命を祀るが孰れも大国主神の別名。『当社の奥宮は、大山に登った修験者が』現在の奥宮のある位置に『簡易な遥拝所を設置したのが起源とされている』。『伯耆大山は、平安時代には修験道場として著名な山となっていたが、積雪により』、『祭事に支障が生じるため、麓に冬宮を設置し、冬期はそこで祭事を行うようになった』。『これにより、現在の「奥宮」は「夏宮」と呼ばれるようになった』。『大山は神体山として、大己貴命が鎮まるとされたが、神仏習合が広まると、当社は智明権現と称し、地蔵菩薩を本地仏とするようになった』。『その後、三院にして百八十坊の規模となり、三千人の僧兵を擁するようになった』。「勝見名跡誌」には『伯耆大山の智明大権現と因幡・鷲峰山』(じゅうぼうざん:鳥取県鳥取市鹿野町にある標高九百二十・六メートルの山)『の鷲岸大明神』(「じゅうがんだいみょうじん」と読んでおく)『が仲が悪く』、『戦をしたとの伝承が載っている』(ウィキの「大山の背比べを参照されたい)。元弘三(一三三三)年、『隠岐を脱出した後醍醐天皇が当社で鎌倉幕府打倒の祈願を行った』。明治八(一八七五)年に、かのおぞましき)廃仏毀釈によって大山寺は廃され、『冬宮を本社とし、山腹の智明権現の仏塔を廃し、地蔵菩薩を除いて、奥宮とした』。但し、大山寺は大日堂に本尊を移し、急激に衰退したが、明治三六(一九〇三)年に大山寺の号が復活、大日堂を現在の本堂として再興されてある(寺社位置は上記グーグル・マップ・データで確認出来る)。

「當山の砂、昼は下(さが)り、夜は升(のぼる)と云〔いへ〕り」意味不明。山砂が日夜こうした反復運動を繰り返す摩訶不思議の霊山ということか。ネットでお手軽に現代語訳しているものも、この部分は判らぬものか、カットしている。]

2018/07/29

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(六) 七 猿人の化石 / 第十九章 自然に於ける人類の位置~了

 

     七 猿人の化石

 

 斯くの如く、人間の猿類に屬することは、解剖學上及び發生學上に明であるのみならず、血淸試驗によつて明に證することも出來るが、他の猿類と共に猿類共同の先祖から漸々分岐して生じたものとすれば、その先祖から今日の人間に至るまでの途中のものの化石が、地層の中に少しは殘つて居さうなものである。さて實際さやうなものが發見せられたことがあるか否かと尋ねるに、澤山にはないが、既に種々の階段に屬する化石が見出され、現に處々の博物館に鄭重に保存せられてある。素よりこの種の化石が十分に揃つて人間と猿類との共同の先祖から今日の人間に至るまでの進化の順序を遺憾なく完全に示すといふわけではないが、發見せられた化石は皆人間と猿類の先祖との中間に立つべき性質を具へたものばかり故、全く進化論の豫期する所と一致して居るのである。

 全體動物の死體が化石となつて後世まで殘るのは、餘程都合の好い場合に限ることで、先づ水の底に落ち、細かい泥にでも埋もれなければ、殆ど化石となる機會はないやうである。犬・猫などは昔から何疋棲んで居て、每年何疋づゝ死んだか解らぬが、その化石を見出すことは決してない。人間もその通りで、石器を用ゐて居た時代にも人間は相應に多數に生存して居たであらうが、石斧や石鏃は澤山に出ながら、それを造つた人間の骨の發見せられることは極めて稀である。それ故、今日知られて居る人間の化石は、世界中のものを悉く集めても、その數は決して多くはない。

 今より殆ど五十年ばかり前に、ドイツデュッセルドルフ市の近邊のネアンデルタールといふ處の地層から、一個の人間の頭骨が發見になつたが、その頭骨は餘程今日の人間とは違つて、頭蓋部が小く[やぶちゃん注:「ちいさく」。]、眉の處が著しく突出して居て、全體が大いに猿の頭骨に似て居た。その頃之に就いては種々の議論があつて、或る人は之を人間中の猿に近いものと見倣し、或る人は之を人間と猿との間の子[やぶちゃん注:「あひのこ」。]であらうなどと論じたりしたが、有名な病理學者ウィルヒョウが之は畸形者の頭骨であると斷言したので、一時は誰もその説に服し、この貴重な化石も暫時は學問上大なる價値のないものとして捨て置かれた。

[やぶちゃん注:「今より殆ど五十年ばかり前」ネアンデルタール人(ヒト属ホモ・ネアンデルターレンシスHomo neanderthalensis:命名は一八六四年)の頭骨化石が見つかったのは、一八五六年(本書(新補改版・第十三版)は大正一四(一九二五)年刊であるから、正しくは六十九年前で修正し忘れ)。なお、学術研究の対象とは成らなかったが、それ以前にオランダやジブラルタルの鉱山で断片骨が発見されている)。発掘ではなく、石灰岩採掘作業中に作業員によって掘り出された。

「ドイツ國デュッセルドルフ市の近邊のネアンデルタール」ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州を流れるライン川支流のデュッセル川(Düssel にある小さな「ネアンデル谷」或いは「ネアンデルタール」(ドイツ語:Neanderthal 又は Neandertal)。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「ウィルヒョウ」ルードルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ(Rudolf Ludwig Karl Virchow 一八二一年~一九〇二年)はドイツ人医師・病理学者・先史学者・生物学者・政治家。白血病の発見者として知られる。この一八五六年からベルリン大学で病理学教授を務めていた。病理学の世界的権威であった彼は、この頭骨を佝僂(くる)病や痛風によって変形した現代人の老人の骨格と主張した(ウィキの「ネアンデルタール人」に拠る)。]

 

Kagakukotu

 

[人類下顎の化石]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫のものを用いた。これは思うに、若干、上部の形状や歯の残存状況に齟齬があるものの、以下に出るホモ・ハイデルベルゲンシスHomo heidelbergensis の下顎骨化石の杜撰な模写ではなかろうか? ウィキの「ホモ・ハイデルベルゲンシスの下顎骨のレプリカの写真(パブリック・ドメイン)

 

Heidelberger_mensch_replik_rosenste

 

を掲げておく。]

 

Toukotu4

 

[頭骨四個

(右上)オーストラリア野蠻人

(左上)ヨーロッパ人

(右下)猩々

(左下)猿人]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫のものを用いたが、同文庫の振った記号やキャプションは消去してある。「オーストラリア野蠻人」は前に出した現在のアボリジナル・オーストラリアン(Aboriginal Australians)の頭蓋骨であろう(なお、「野蠻人」は差別用語である)。「猿人」はホモ・エレクトスHomo erectus のそれに近いように思われる。]

 

 然るにその後またベルギー國のスパイといふ處から前のと略同樣な頭骨が掘り出され、尚後に至つてクロアチヤ州から之に似た頭骨が八個發見せられ、尚その他にも處々から一つ二つづゝ同樣な古代の人間の骨骼が掘り出された。その中で、先年ドイツハイデルベルヒの附近から發見せられた下顎骨、一昨年英國サセックス州のピルトダウンで掘り出された頭骨・下顎骨などは時代の稍古いために最も有名である。尚十年程前にドイツ領東アフリカで、人間の化石が一個新に發見せられたが、之に關する詳しい報告の出ない中に、戰爭が始まつたから、この人間が如何なる性質のものであるかはまだ確には知ることが出來ぬ。これらを比較して調べて見ると、些細な點では皆違つて居るが、肝要な處はネアンデルタールの頭骨と餘程似たもので、孰れも今日の人間の頭骨とは違ひ、猿の頭に似た點が著しく目に立つた。かやうに遠く相離れた國々から幾つも出て來る所から考へると、決して畸形者の頭骨であるとは思はれぬ。且その時代の地層から發見せられた人間の頭骨が皆かやうなものであるのを見れば、之は確にその頃生活して居た人間の普通の性質を示して居るものと見倣さねばならぬが、斯かる頭骨を具へて居つた以上は、その頃の人間は今日の人間とは餘程違つたもので、頭が小く、眉は突出し、顎も大に[やぶちゃん注:「おほいに」。]發達して、全體の容貌が頗る猿に類して居たに違ない[やぶちゃん注:「ちがひない」。]。生活の有樣がどうであつたかは素より今日からは確に論ぜられぬが、之も今日の人間とは著しく違つて居たらうといふだけは察することが出來る。

[やぶちゃん注:「ベルギー國のスパイといふ處から前のと略〻同樣な頭骨が掘り出され」Spyここ(グーグル・マップ・データ)。ネアンデル谷の発見から三十年後の一八八六年。

「クロアチヤ州」一八九九年当時のオーストリア=ハンガリー帝国(現在のクロアチア共和国)のクラピナ(Krapinaここ(グーグル・マップ・データ))の丘の上から、多数の骨断片(最低で十二人分、数十体ともされる)ネアンデルタール人の骨が発見された。

「先年ドイツ國ハイデルベルヒの附近から發見せられた下顎骨」所謂、ハイデルベルク人(ヒト属ホモ・ハイデルベルゲンシスHomo heidelbergensis:命名は一九〇八年)。一九〇七年にドイツのハイデルベルク近郊のマウアー村(Mauer)で発見された(ここ(グーグル・マップ・データ))。同種と思われる(或いは亜種)の化石はその後、南アフリカ・東アフリカでも発見された。ウィキの「ホモ・ハイデルベルゲンシス」によれば、『ネアンデルタール人と比べても、眼窩上隆起が非常に大きく、前脳部は小さい。このことからネアンデルタール人よりは原始的な種と見なされる』。『下顎骨は非常に大きく頑丈であるが、歯は小型で現生人類よりやや大きい程度で、同時代と思われる北京原人より小さい。そのため』、『この人類は、原人であるのか、原初的な旧人であるのかが議論されたが、巨大な下顎骨の形質や伴出した動物化石との比較などから、時代的に見て原人であろうと考えるのが一般的である』。但し、『現生人類へと繋がる系統とネアンデルタール人との分岐直前』(四十七万~六十六万年前)の時期』或いは『分岐後のホモ・サピエンスへと続く系統側で、ホモ・サピエンスに進化する前段階には旧人段階の「ホモ・ヘルメイ」にまで進化していたことも考えられる』とある。

「一昨年英國サセックス州のピルトダウンで掘り出された頭骨・下顎骨」一九〇九年から一九〇九年にかけて、弁護士でアマチュア考古学者のイギリス人チャールズ・ドーソン(Charles Dawson)によって「発見」された頭頂骨と側頭骨。この当時は類人猿と現生人類のミッシング・リンクを埋める存在として大いに期待されたが、実はオランウータンの下顎骨を素材に巧妙な加工を施した完全な捏造品であった。捏造と断定されたのはずっと後の一九五三年のことであった(本書は大正一四(一九二五)年刊(「一昨年」は書き換え損ない)。というより、丘先生は昭和一九(一九四四)年に亡くなっている)。

「尚十年程前にドイツ領東アフリカで、人間の化石が一個新に發見せられたが、之に關する詳しい報告の出ない中に、戰爭が始まつたから、この人間が如何なる性質のものであるかはまだ確には知ることが出來ぬ」「ドイツ領東アフリカ」は現在のブルンジ・ルワンダ・タンガニーカ(タンザニアの大陸部)の三地域を合わせた、アフリカ西岸ドイツ帝国の植民地。恐らくは、現在のタンザニア北部の「ンゴロンゴロ保護区」にある谷幅数百メートル・崖高凡そ百メートル・全長四十キロメートルにも及ぶ広大なオルドヴァイ(Olduvai)渓谷のことであろう(ここ(グーグル・マップ・データ))。ここからは多くの化石人骨や石器が見つかっているウィキの「オルドヴァイ」にある一九一三年に『ドイツのハンス・レック教授』(Hans Reck 一八八六年~一九三七年:地質学者)『が、現在ではオルドヴァイ人と呼ばれている化石人骨を発見した』というのが丘先生の言うそれであろう(但し、この「オルドヴァイ人」についての記載は不思議なことに殆んど見当たらない。欧文ウィキを見ると、彼はごく古い現生人類の化石と主張したものの、批判された経緯が記されている)。その後、一九五九年には、『イギリスの人類学者ルイス・リーキーとメリー・リーキー』『博士夫妻がアウストラロピテクス・ボイセイ』(パラントロプス属Paranthropus boisei:本種はヒト亜族アウストラロピテクス属Australopithecus に含める説がある)『の化石人骨(完全な頭骨)と最も原始的な石器を世界で初めて同一地点の同一文化層から発見』、『注目を集め』、さらに、その五年後の一九六四年には『同じくルイス・リーキーによってホモ・ハビリス』(ヒト属ホモ・ハビリスHomo habilis)『の化石が発見され、人類進化の研究にとって最重要の遺跡の一つとなった』とあり、化石人類のメッカとも言うべき場所である。『また、多くの石器も発見されており、礫石器を主体としたこの石器文化はオルドヴァイ文化と呼ばれ、約』百八十『万年前までさかのぼるアフリカ最古級の旧石器文化であると考えられている』とある。]

 

 近來最も評判の高い化石は、丁度二十七年前にオランダヂュボアといふ博物學者がジャヴァトリニルで掘り出したものである。そこの第三紀の地層を研究して居る中に、一個の頭骨と脚の骨とを發見したが、その形狀を調べて見ると、丁度人間と猿との中間に位するもので、人間ともいへず、猿ともいへぬから、據なく[やぶちゃん注:「よんどころなく」。]「猿人」といふ意味の新しい屬名を造り、脚の骨から考へると確に直立して步行したらしいからとて、「直立する」といふ種名を附け、この化石に「直立した猿人」といふ學名を與へた。かやうな性質を具へた化石であるから、忽ち學者間に非常な評判となり、その後の萬國動物學會にヂュボアが實物を持ち出して、大勢の批評を求めた所が、之を最も人間に似た猿であらうといふた人が二三人、最も猿に似た人間であらうといふた人が二三人あつた外、その他の人は皆之を人間と猿類との中間に位する種屬の化石であると認めた。斯くの如くそのいうたことには多少の相違はあつたが、畢竟たゞ、他の猿類と人間との境界を便宜上どこに定めようかといふ點に就いて、人々の考が違つただけで、この化石が今日の人間と今日の猿類との中間に位するといふことに就いては、誰も異存はなかつたのである。尤もこの化石を直に人間と猩々との共同の先祖の化石と見倣すことは出來ぬが、兎に角共同の先祖に最も近いものであることだけは、少しも疑がない。

[やぶちゃん注:「丁度二十七年前にオランダのヂュボアといふ博物學者がジャヴァのトリニルで掘り出したものである。そこの第三紀の地層を研究して居る中に、一個の頭骨と脚の骨とを發見した」オランダの解剖学者・人類学者であったマリー・ウジェーヌ・フランシス・トーマス・デュボワ(Marie Eugène François Thomas Dubois 一八五八年~一九四〇年)が一八九一年(本書は大正一四(一九二五)年刊だから「丁度二十七年前」は書き換え損ない)にオランダ領であったインドネシアジャワ島トリニール(Trinil(グーグル・マップ・データ))で発見した化石人類。嘗ては Pithecanthropus erectus(ピテカントロプス・エレクトス)の学名で呼ばれていたが、現在はヒト属に分類され、Homo erectus(ホモ・エレクトス)の亜種 Homo erectus erectus(ホモ・エレクトス・エレクトス)とする。百七十万~百八十万年前頃の棲息と推定される。なお、現在の知見では本種は現生人類の直接の祖先ではないとする意見が支配的である。「第三紀」新生代第三紀は六千四百三十万年前から二百六十万年前までであるから、ここは第四紀(二百五十八万八千年前から現在まで)でないとおかしい。]

 

 また猿類の化石は如何といふに、全體猿類の化石といふものは、人間の化石と同じく、餘り多くは發見せられてないが、その中或るものは確に今日の普通の猿よりは、尚一層人間に似て居る處がある。之は人間と猿類との共同の先祖から遠ざかることがまだ僅であるから、共同の先祖に尚甚だ似て居るので、斯く人間に似た如くに見えるのであらう。

 斯くの如く、人間が猿類と共同な先祖から起つたといふことは、決して單に推理上の結論のみではない。地層の中から出た化石を調べても、確にその證據のあることで、今日では最早疑ふことの出來ぬ事實である。陸上動物の化石の甚だ少いこと、特に人間・猿類の化石の極めて稀であることを考へれば、人間の進化の徑路を示すべき化石の完全に揃つて居ぬことは當然のことで、今まで發見になつた化石が一も進化論の豫期する所と矛盾せぬことだけでも、既にこの論の正しいといふ最も有力な證據と見倣さねばならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(五) 六 血淸試驗上の證據

 

     六 血淸試驗上の證據

 

 血液は無色透明な血漿と、その中に浮べる無數の血球とから成り立つたものであるが、人間或はその他の獸類から新鮮な血液を取つて、コップにでも入れて、暫時据ゑて置くと、直に膠の如くに凝固する。尚捨て置くとその表面に少し黃色を帶びた透明な水の如きものが滲み出るが、之が卽ち血淸である。初の赤い塊は漸々收縮し、血淸は漸々增して、終には血淸が赤塊を全く浸すやうになつてしまふ。

 さて人間の血液から取つた血淸を、兎などに注射するに、少量なれば兎は之に堪へる。二三日後に再び注射を行ひ、また二三目を經て注射を行ひ、六囘乃至十囘位も斯く注射をした後に、その兎を殺してその新鮮な血液から血淸を取ると、この血淸は普通の兎の血から取つた血淸とは大いに性質が違ふ。ここに述べた如くに特別に造つた血淸を便利のため人兎血淸と名づけるが、之を人間の血から取つた血淸の溶液に混ずると、忽ち劇しい沈澱が出來て濁る。普通の兎の血淸では、このやうなことは決してない。

 馬の血淸を數囘注射した兎の血から、馬兎血淸を取り、牛の血淸を數囘注射した兎から、牛兎血淸を造るといふやうにして、種々の動物の血淸を製し、また種々の動物の血液から單にその血淸を製し、これらの血淸を種々に相混じて、試驗して見ると、馬兎血淸は馬の血淸とでなければ沈澱を生ぜず、牛兎血淸は牛の血淸とでなければ沈澱を生ぜぬこと、全く人兎血淸は人の血淸と混じなければ沈澱を生ぜぬのと同樣である。卽ち甲の動物の血淸を乙の動物に數囘注射した後に、乙の動物から取つた血淸は、たゞ甲の動物種類の血淸と相合[やぶちゃん注:「あひがつ」。]しなければ沈澱を生ぜぬといふ性質を有するのである。

 馬兎血淸は馬以外の動物の血淸と合しては、少しも沈澱が出來ぬが、之には幾らかの例外がある。例へば驢馬の血淸と混ずれば、忽ち沈澱が出來る。驢馬兎血淸を馬の血淸と混じても同樣である。但し馬兎血淸と馬の血淸とを混じ、驢馬兎血淸と驢馬の血淸とを混じたときに比すれば、聊か沈澱の量が少い。豚兎血淸を野猪の血淸に混じても同じく沈澱が出來る。犬兎血淸を狼の血淸に混じてもその通りである。かやうに互に混じて著しい沈澱の出來る動物は、如何なるものかと見ると、孰れも極めて互に相類似し、その間には子[やぶちゃん注:別版や講談社学術文庫では「間(あひ)の子」。]の出來る位のものばかりで、少しでも緣の遠い動物になると、少しもかやうなことはない。

 以上は甚だ面白い現象故、特に之を研究した學者は既に幾人もあるが、その中の一人は動物の血淸を五百種も造り、猿類の血淸だけでも殆ど五十種ばかりも用意して、人兎血淸と混ぜた結果を調べたが、猿類以外の動物と混じては、少しも沈澱は出來ず、また猿類の中でも普通の猿類では或は單に極めて少量の沈澱が生ずるか、或は全く沈澱を生ぜぬが、人猿類の猩々などの血淸に混ずると忽ち著しい沈澱が出來る。この反應から考へて見ると、人間と猩々との類似の度は恰も馬と驢馬と、豚と野猪と、犬と狼と等が相類似する度と同じで、まだ實驗はないが、その間には確に間の子が出來得る位に相近いものである。語を換へれば、人間と猩々とが共同の先祖から相分かれたのは比較的餘程近い頃で、兩方の體質の間にまだ著しい相違が起るまでに至らぬのである。

 先年のドイツ國出版の人種學雜誌に、ストラオホといふ人の猩々兎血淸に關する研究の結果が載せてあつたが、やはり前と同樣である。或る動物園に飼ふてあつた牝の猩々が病死したので、直にその血液を取うて血淸を製し、之を數囘兎に注射して、後にその兎の血液から、猩々兎血淸を取り、種々の動物の血淸に混じて試驗して見た所が、その結果は人兎血淸と殆ど同樣で、人間の血淸に混ずると忽ち著しい沈澱が出來た。たゞ人兎血淸と違ふたのは、他の猿類の血淸に混じても、相應に沈澱が出來たとのことである。他の動物の血淸試驗の結果に照らせば、この事は人と猩々との極めて相近いものであることの證據で、人兎血淸を猩々の血淸に混じても、猩々兎血淸を人間の血淸に混ぜても、必ず沈澱が生じ、他の動物の血淸と混じては沈澱が出來ぬのは、卽ち全動物界中に猩々ほど人に緣の近いものはなく、また人ほど猩々に緣の近いものはないからである。今日の血淸試驗に關する知識を以ては、殆ど試驗管内の反應によつて動物種屬の親類緣の濃淡を目前に示すことが出來るというて宜しい。

[やぶちゃん注:ここに書かれた血清交差実験に始まる系統研究は現在、遺伝子やDNAレベルでの分子系統学によってより精密に分析が行われている。颯田葉子論文霊長類の系統関係と祖先集団の多型(同じ颯田氏のヒト・チンパンジー ・ゴリラの系統関係も有り)斎藤成也論文霊長類のゲノム解読と分子系統(孰れもPDF)等、幾つかの新知見の論文をネット上でも見ることが出来る。

「ストラオホ」不詳。]

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(四) 五 人は猿類に屬すること

 

     五 人は猿類に屬すること

 

 人間は獸類中の有胎盤類に屬することは前にも述べたが、胎盤の形にも種々あつて、人間・猿類などのは蓮の葉の如き圓盤狀であるが、牛・馬では胎盤は帶狀をなして胎兒を取り卷いて居る。また牛・馬の類では胎兒を包む膜と母の子官の壁との結び付き具合が簡單であるから、子官の内面の一部が胎盤の方へ著いて、一緒に出て來ることはない。さて人間は有胎盤類の中で、何の部に屬するかといふに、無論猿類である。猿類の特徴は、齒は門齒・犬齒・臼齒ともに具はつてあること、四肢ともに五本の指を有して、指の先端には扁平なる爪のあること、眼球のある處と顳顬筋[やぶちゃん注:「こめかみすぢ」。]のある處との間には、完全な骨の壁があつて、少しも連絡なきこと、眼は前面へ向ふこと、乳房は胸に一對よりないこと、胎盤の圓盤狀であることなどであるが、この中で人間に適せぬものは一もない。次に人間は猿類中の如何なる組に屬するかといふに、猿類には三つの亞目があつて、第一は左右の鼻の孔の間の距離が少く、上下兩顎ともに門齒が四本、犬齒が二本、臼齒が十本ある狹鼻類、第二は左右の鼻の孔が遠く相隔たつて各側面へ向いて居て、上下兩顎ともに門齒四本、犬齒二本と臼齒十二本とを有する扁鼻類、第三は四肢とも猫の如くに曲つた爪を具へた熊猿[やぶちゃん注:「くまさる」。]類であるが、人間は明に第一の狹鼻類に屬する。狹鼻類は猩々・日本猿を始め總べて東半球に産する猿類を含むもので、扁鼻類と熊猿類とは全く南アメリカの産ばかりであるが、その間には著しい相違がある。齒の形・數・列び方などは、獸類を分類する場合には最も大切なものであるが、人間はこの點に於て猩々・日本猿などと一致し、扁鼻類・熊猿類とは明に異なつて居るから、人間と猿類とを合せて置いて、之を分類するには先づ猩猩・日本猿・人間など一組として一亞目とし、他の亞目と區別せねばならぬ。またこの狹鼻類に屬する猿類と人間とだけを竝べて置いて、更に之を分類すれば、尾もなく、頰の囊もなく、尻胝(しりだこ)もない人猿類と、これらを有する尾長猿類[やぶちゃん注:オナガザル上科 Cercopithecoidea のオナガザル類。旧世界猿の主群。]との二部になるが、日本猿・尾長猿・狒々[やぶちゃん注:「ひひ」。霊長目直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属 Papio。]の如きは後者に屬し、猩々[やぶちゃん注:「しやうじやう(しょうじょう)」。霊長目ヒト科オランウータン属 Pongo。]・黑猩々[やぶちゃん注:「くろしやうじやう」。ヒト科チンパンジー属チンパンジーPan troglodytes]・人間などだけが前者の中に含まれることになる。されば生物學上から論ずれば、猩々と人間との相違は、猩々と日本猿または猩々との間の相違に比すれば遙に少く、日本猿と人間との間の相違は日本猿とアメリカ猿[やぶちゃん注:丘先生の言う南アメリカ産の「扁鼻類」「熊猿類」。後注参照。]との間の相違に比すれば、尚著しく少い。文明國の高等な人間と猩々と猿とを比べて見ると、ここに述べたことは眞でないやうな感じも起るが、身體の構造からいへば、全くこの通りで、若し最下等の野蠻人を人間の模範に取つたならば、この事は初めから疑も起らぬ。南洋の野蠻國に傳道に行つた宣教師の書いたものにも、文明人とそこの土人と猿とを竝べて分類する場合には、土人と猿とを一組とし、文明人を別に離さざるを得ぬなどと載せてあるが、かやうな野蠻人から最高の文明人までの間には、無數の階段があつて、何處にも判然たる境はないから、人間全體に就いて述べるときには、文明人のみを例に取ることは出來ぬ。

[やぶちゃん注:本章には実は「黑人と猩々」とキャプションした、左右二人の黒人の少年の間にオランウータンのいる絵が載るが、私にはこれは非常に厭な挿絵であり(講談社学術文庫にも載るが、今まで幾つもの挿絵を割愛してきた同書が、何故、これを入れたのか甚だ不審である)、ここは特異的に挿絵を載せないこととする。丘先生の意図は見た目の類似性を以って文明人を区別して認識する誤りを寧ろ示唆するものなのであろうが、これでは挿絵だけが独り歩きをして差別的印象を与えるからである)。その代り、底本の国立国会図書館デジタルコレクションのその挿絵のある当該ページの画像をリンクさせておくに留める。

「人間は猿類中の如何なる組に屬するかといふに、猿類には三つの亞目があつて、第一は左右の鼻の孔の間の距離が少く、上下兩顎ともに門齒が四本、犬齒が二本、臼齒が十本ある狹鼻類、第二は左右の鼻の孔が遠く相隔たつて各〻側面へ向いて居て、上下兩顎ともに門齒四本、犬齒二本と臼齒十二本とを有する扁鼻類、第三は四肢とも猫の如くに曲つた爪を具へた熊猿類である」現行ではヒトは、

真核生物ドメイン Eukaryota 動物界 Animalia真正後生動物亜界 Eumetazoa 新口動物上門 Deuterostomia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 哺乳綱 Mammalia 真獣下綱 Eutheria 真主齧上目 Euarchontoglires 真主獣大目 Euarchonta 霊長目 Primate 直鼻猿亜目 Haplorrhini 狭鼻下目 Catarrhini ヒト上科 Hominoidea ヒト科 Hominidae ヒト亜科 Homininae ヒト族 Hominini ヒト亜族 Hominina ヒト属 Homo ヒト Homo sapiens Linnaeus, 1758

分類学上の位置である。丘先生は「猿類」を、狹鼻類・扁鼻類・熊猿類に分けておられるが、これらの内の「扁鼻類」「熊猿類」というのは、現在では全く使われていない分類系用語である。「扁鼻類」は現在の広鼻小目 Platyrrhini でよかろうが、「熊猿類」は困った。しかし、「四肢とも猫の如くに曲つた爪を具へた」とあるところから、これは現在の哺乳綱異節上目有毛目ナマケモノ亜目 Folivora ナマケモノ類のことではないだろうか? この時代、怠け者がサルの仲間と思われていた(思われてもやや納得は出来るし、実際にサルの仲間だと思っている人も優位にいるようだ)のだろうかという不審が起こるが、そうでもしないと、ここでの疑問を解消出来ないのである。なお、ウィキの「サルによれば、『以前は主に脳が小型で嗅覚が発達し鼻面の長いキツネザル類・ロリス類・メガネザル類を原猿亜目Prosimii、それ以外の主に脳が大型で視覚が発達し』、『鼻面の短い分類群を真猿亜目Anthropoideaとしてまとめていた』が、『研究の進展により、メガネザルがいわゆる原猿類の他のグループよりも真猿類により近いことが判明した。このことから、現在ではキツネザル類・ロリス類をまとめて「曲鼻猿類(曲鼻猿亜目、曲鼻類、曲鼻亜目)」、メガネザル類を含むその他の霊長類を「直鼻猿類(直鼻猿亜目、直鼻類、直鼻亜目)」と呼び、正式な分類体系では、「原猿類」という名称は用いなくなっている』とある。]

 

 生物界現象の一大歸納的結論である進化論を、人間に當て嵌めて演繹的に論ずれば、人間と猩々とが共同の先祖から二つに分かれたのは、人猿類が尾長猿類から分離したときよりは遙かに後のことで、人猿類と尾長猿類とが分かれたのは、狹鼻類が扁鼻類と相分かれたときよりは、また餘程後のことであると考へねばならぬ。この進化の往路を時の順序に從つていひ換へれば、昔獸類の總先祖が陸上に蔓延り、この子孫が漸々幾組にも分れ、その中の一組は四肢ともに物を握る性を得て森林等の中に住み、果實・小鳥などを食つて生活し、子孫が益緊殖して各地に擴がり、後[やぶちゃん注:「のち」。]交通の路が絶えたためにアメリカに住するものは扁鼻類・熊猿類、東半球に住するものは狹鼻類となつて、三亞目に分れ、東半球に住するものはまた住處・習性等の相違によつて、漸々人猿類と尾長猿類とに分れ、人猿類の先祖から降つた子孫の中、一部は森林の中に住し、前後の肢を以て枝を握つて運動し、終に猩々・黑握々の類として今日まで生存し、他の一部は平原の方へ出で、後足だけで直立して走り廻り、前足は運動には用ゐず、他の働きに用ゐ、前後の足の間に分業が行はれた結果、後足は益走行に適するやうになり、前足は益他の精密な仕事に適するやうになり、そのため經驗も增し、且前から多少あつた言語の基が盛に發達して、眞の言語となり、終に人間となつて、今日地球上到る處に棲息して居るのであらう。

[やぶちゃん注:「人間と猩々とが共同の先祖から二つに分かれたのは、人猿類が尾長猿類から分離したときよりは遙かに後のことで、人猿類と尾長猿類とが分かれたのは、狹鼻類が扁鼻類と相分かれたときよりは、また餘程後のことである」ヒト亜科とオランウータン亜科(「猩々」)の分岐は約千四百万年前と推定されており、狭鼻下目であるそのヒト上科がオナガザル上科から分岐したのは、二千八百万年から二千四百万年前頃、さらにその前段の霊長類真猿下目の狭鼻下目(旧世界ザル)と広鼻下目(新世界ザル)とが分岐したのは三千~四千万年前と言われている。また、ウィキの「ホモサピエンスによれば、『人類が共通の祖先を持つとする仮説は』一八七一年に『チャールズ・ダーウィンが著した』The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex(「人間の由来と性に関連した選択」)の『中で発表された。この説は』、『古い標本に基づいた自然人類学上の証拠と』、『近年のミトコンドリアDNAの研究の進展により』、一九八〇年代『以降に立証された。遺伝的な証拠や化石の証拠によると、非現生人類のホモ・サピエンスは』二十万年前から十万年前に『かけて』、『おもにアフリカで現生人類へ進化したのち』、六『万年前にアフリカを離れ』、『長い歳月を経て』、『世界各地へ広がり、先住のネアンデルタール人やホモ・エレクトスなどの初期人類集団との交代劇を繰り広げた』とある。]

 

 されば、現今生きて居る一種の猿が進化して人間になつたのでは無論ないが、人間と猿とが共同の先祖から分れ降つたといふことは、最早今日は學問上既に確定した事實と見倣して宜しい。而して猿類の中でも猩々・黑猩々などとは比較的近い頃になつて漸く分かれたことも確である。これらのことに就いては、解剖學・發生學・生理學上の證據の外に、尚後に述べるやうな爭はれぬ證據もあつて、如何に疑はうと思つても、理窟上からは到底疑ふことは出來ぬ。

[やぶちゃん注:ヒト族からチンパンジー亜族(「黑猩々」)とヒト亜族とが分岐したのは約七百万年前と推定されている。]

 

 人間は猿類の一種であつて、他の猿等と共同な先祖から降つたといふ考が初めて發表せられたときには、世聞から非常な攻擊を被つた。今日ではこの事は最早確定した事實であるが、尚之を疑つて攻擊する人々が決して少くない。倂しかやうに攻擊の劇しい理由を探ると、決して理會力から起るのではなく、皆感情に基づくやうである。獸類は自分と甚だ似たものであるに拘らず、特に畜生と名づけて常に之を卑み、他人に向つて、獸とか犬・猫とか畜生とかいふのは非常な惡口であると心得て居る所へ、人間は猿類と共同な先祖から降つたといひ聞かされたのであるから、自分の價値を甚だしく下げられた如くに感じ、折角、今まで萬物の靈であつたのを、急に畜生と同等な段まで引き落さうとは、實にけしからぬ説であるとの情[やぶちゃん注:「じやう」。]が基礎となつて、種々の方面から攻擊が起つたのに過ぎぬ。我が先祖は藤原の朝臣某であるとか、我が兄の妻は從何位侯爵某の落胤であるとかいうて、自慢したいのが普通の人情であることを思へば、先祖は獸類で、親類は猿であると聞いて、喜ばぬのも無理ではないが、善く考へて見るに、下等の獸類から起りながら、今日の文明開化の度までに進んだと思へば、尚この後も益進步すべき望があるから、極めて嬉しく感ずべき筈である。若し之に反して完全無缺の神とでもいふべきものから降つた人間が、新聞紙の三面記事に每目無限の材料を供給するやうになつたと考へたならば、この先何處まで墮落するか解らぬとの感じが起つて、甚だ心細くなるわけである。それ故、聊でも理窟を考へる人であれば、感情の點からいふても進化論を嫌ふべき理由は少しもない。

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(三) 四 人は獸類の一種であること

 

     四 人は獸類の一種であること

 

 前の節に述べた通り、人間といふものは、身體の構造・發生等を調べても、精神的動作の方面から論じても、犬・猫の如き普通の獸類と比較して根本的の相違は少しもない。知力・言語だけは著しく進んで居るが、之も單に程度の相違に過ぎぬ。されば犬・猫等を動物界に編入して置く以上は、人間だけを動物界以外に離す理由は少しもない。このことは改めていふまでもないことで、動物學の書物を開いて見れば、必ず人間も動物の一種と見倣して、その中に掲げてあるが、世間にはまだ人間だけを動物界以外の特別のものの如くに考へて居る人も、甚だ多いやうであるから、動物界の中で人間は如何なる部に屬するかを、少し詳細に述べて置く必要がある。

 動物界を大別して、先づ若干の門に分つことは前にもいうたが、その中[やぶちゃん注:「うち」。]脊椎動物門といふのは、身體の中軸に脊椎を具へた動物を總べて含むもので、獸類・鳥類・蛇・蛙から、魚類一切まで皆之に屬する。人間も解剖して見れば、犬・猫とも大同小異で、猿類とは極めて善く似て居るもの故、無論この門の中に編入せなければならぬ。動物界には人間の屬する脊椎動物門の外に、尚七個或は八個の門があるが、これらの門に屬する動物は、人間とは身體の構造が著しく違つて、部分の比較をすることも出來ぬ。昔は動物學者の中にも人間は最も完全な動物である。他の動物は總べて人間の性質をたゞ不完全に具へて居るなどと唱へた人もあつたが、之は素より誤で、生物進化の樹枝狀をなした系圖に照せば、動物の各門は皆幹の根基(ねもと)に近い處から分かれた大枝に當るもの故、門が異なれば進化の方向が全く違つて、決して優劣の比較の出來るものでない。脊椎動物である人間と軟體動物である章魚[やぶちゃん注:「たこ」。]とを比較するのは、恰も弓の名人と油畫の名人との優劣を論ずるやうなもので、雙方全く別な方面に發達して居るのであるから、甲乙の定めやうがない。動物界で人間と多少比較の出來るのは脊椎動物だけで、その他は極めて緣の遠いものばかりであるが、何十萬種もある動物の中で、脊椎動物は僅に三萬にも足らぬ位であるから、種類の數から言へば甚だ少數である。倂し大形の動物は概してこの中にあるから、通常人の知つて居るのは、多くは脊椎動物で、禽獸蟲魚といふ中の禽・獸・魚の全部と蟲の一部とは總べてこの門に屬する。されば今日動物學上知れてある何十萬種の中、大部分は人間とは關係の薄いもので、たゞ脊椎を有する動物だけが人間と同一な大枝から降り、尚その中の或る種類は特に人間と密接した位置を占めて居るわけである。

[やぶちゃん注:「動物界には人間の屬する脊椎動物門の外に、尚七個或は八個の門がある」現行では、ウィキの「動物等によれば、

海綿動物門(約7000種)

平板動物門(平板動物綱平板動物目平板動物科トリコプラックス Trichoplax 属センモウヒラムシ Trichoplax adhaerens 1種のみ。海産。一八八三年発見。12mm ほどのアメーバ状の細胞の塊りで、消化管もない)

刺胞動物門(約7620種)

有櫛動物門(約143種)

直泳動物門(25種:海産の寄生性多細胞動物。0.10.8mm程で円柱状)

二胚動物(菱形動物)門(約110種)

扁形動物門(約20000種)

顎口動物門(約100種:一九五六年発見。海・汽水産で砂中に棲息。体長0.23.5mmで円筒状)

輪形動物門(約3000種)

鉤頭(こうとう)動物門(約1100種:寄生性)

微顎動物門(微顎綱リムノグナシア目リムノグナシア科リムノグナシア属リムノグナシアLimnognathia maerski 1種のみ。一九九四年発見。湧水に棲息し、0.1mm程度。知られている最小の動物の一つ)

腹毛動物門(約450種)

外肛動物門(約4500種)

箒虫動物門(約20種)

腕足動物門(約350種)

紐形動物門(約1200種)

軟体動物門(約93,195種)

星口動物門(約320種)

環形動物門(約16,650種)

内肛動物門(約150種)

有輪動物門(3種以上:一九九五年発見。真有輪綱シンビオン目シンビオン科シンビオン属 Symbion。エビ類に付着寄生)

線形動物門(約15,000種)

類線形動物門(約320種)

動吻動物門(約150種)

胴甲動物門(約23種)

鰓曳動物門(約16種)

緩歩動物門(約800種)

有爪動物門(約160種)

節足動物門(約110万種)

毛顎動物門(約130種)

無腸動物門(約130種)

棘皮動物門(約7000種)

半索動物門(約90種)

脊索動物門(約51,416種)

以上で実に三十四門を数え、分子系統解析によってさらに修正・細分化される可能性が高い

「通常人の知つて居るのは、多くは脊椎動物で、禽獸蟲魚といふ中の禽・獸・魚の全部と蟲の一部とは總べてこの門に屬する」不審に思った方もいるであろうから、注しておくと。この「蟲の一部」の「蟲」は古典的博物学上での広義のそれであって、「昆虫」の意ではない。具体的には両生類・爬虫類、及び、丘先生ならば、脊索動物門 Chordata の原索動物亜門 Urochordata の、頭索動物亜門ナメクジウオ綱ナメクジウオBranchiostoma belcheri などと、尾索動物亜門ホヤ綱ホヤ綱 Ascidiacea のホヤ類なども含んで考えておられるものと思われる。

 

 脊椎動物を、哺乳類・鳥類・爬蟲類・兩棲類・魚類の五綱に別けるが、人間は溫血・胎生で皮膚に毛が生じてあるから、明にその中の哺乳類に屬する。また哺乳類を分けて胎盤の出來る高等の類と、胎盤の出來ない下等の類とにするが、人間はその中の有胎盤類に屬する。胎盤といふのは胎兒を包む膜と母の子宮の壁とが合して出來たもので、母の血液から胎兒の方へ酸素と滋養分とを送る道具であるが、人間の子が産まれた後に臍の緒の先に附いて出て來る蓮の葉の如き形のものが、卽ちこれである。人間と犬・猫との身體構造上極めて相似て居る點は前に述べたが、動物學上哺乳類の特徴と見倣す點で人間に缺けて居るものは一つもない。それ故、人間の哺乳類であることは確であつて、哺乳類である以上は犬・猫等の如き獸類と共同な先祖から分かれ降つたといふこともまた疑ふことは出來ぬ。

[やぶちゃん注:「脊椎動物を、哺乳類・鳥類・爬蟲類・兩棲類・魚類の五綱に別ける」現行、現生の脊椎動物は、

無顎動物亜門(無顎上綱頭甲綱ヤツメウナギ目 Petromyzontiformes のヤツメウナギ類と無顎上綱ヌタウナギ綱ヌタウナギ目ヌタウナギ科 Myxinidae のヌタウナギ類のみ)

魚類亜門

四足動物亜門

に分かれ、魚類亜門は、

軟骨魚綱

硬骨魚綱

に、四足動物亜門は、

両生綱

爬虫綱

哺乳綱

鳥綱

に分かれるから、都合、現在は八綱となる。]

 

 生物學の進んだ結果として、人間が獸類の一種であることを明に知るに至つた有樣は、天文學の進んだ結果として、地球が太陽系統に屬する一の惑星であることを知るに至つたのと極めて善く似て居る。天文學の進まぬ間は、僅に十萬里[やぶちゃん注:三十九万二千七百二十六メートル。地球と月との距離は三十八万四千四百キロメートル。]と隔たらぬ月も、三千七百萬里[やぶちゃん注:一億四千五百三十万八千六百二十キロメートル。地球と太陽との距離は一億四千九百六十万キロメートル。]の距離にある太陽も、また太陽に比して何干萬倍もの距離にある星でも、總べて一所に合せて、その在る處を天と名づけ、之を地と對立せしめ、我が住む地球の動くことは知らずに、日月星辰が廻轉するものと心得て居たが、段々天文學が開けて來るに隨ひ、月は地球の周圍を廻り、地球はまた他の惑星とともに太陽の周圍を廻つて居るもので、天に見える無數の星は、殆ど皆太陽と同じやうな性質のものであることが解り、宇宙に於ける地球の位置が多少明に知れるに至つた。地動説が初めて出た頃には、耶蘇教徒の騷ぎは大變なことで、何とかしてかやうな異端の説の弘まらぬやうにと、出來るだけの手段を盡して、そのため人を殺したことも何人か算へられぬ。倂し眞理を永久壓伏することは到底出來ず、今日では小學校に通ふ子供でも、地球が太陽の周圍を廻ることを知るやうになつた。

[やぶちゃん注:コペルニクスが地動説を唱えたのは一五四三年(本格的に地動説の着想を得たのは一五〇八年から一五一〇年頃と推定されており、一五二九年頃から論考を纏め始めている。但し、その時点では発表する意思はなかったとウィキの「ニコラウス・コペルニクスにはある)、天動説では周転円により説明され、ガリレオに対する異端審問は一六一六年と一六三〇年、ローマ教皇庁並びにカトリックが正式に天動説を放棄して地動説を承認したのは一九九二年。

 自然界に於ける人間の位置に關しても、丁度その通りで、初めは人間を以て一種靈妙な特別のものと考へ、天と地と人とを對等の如くに心得て、之を三才と名づけ、殆ど何の構造もない下等の生物も、人間同樣の構造を具へた猿や猩々も總べて一括して之を地に屬せしめた有樣は、光線が地球まで達するのに一秒半もかゝらぬ月も、八分餘で屆く太陽でも、または何年も何十年もかかる程の距離にある星も、同等に思ふたのと少しも違はぬ。而して生物學の進むに隨つて、先づ人間を動物界に入れて、獸類中の特別な一目と見倣し、次には猿類と同目に編入し、更に進んで人間と東半球の猿類とのみを以て猿類の中に狹鼻類と名づける一亞目を設け、人間は比較的近い頃に猿類の先祖から分かれ降つたものであることを知るに至つて、初めて、自然に於ける人類の位置が明に解つた具合は、また地動説によつて地球の位置が明になつたのと少しも違はぬ。

 凡そ一個の新しい眞理が發見せられる每に、そのため不利益を蒙る位置にある人々が、極力反對するのは當然であるが、たとひ私[やぶちゃん注:「わたくし」。]の心が無くとも、舊い思想に慣れた人は、惰性の結果で之に反對することも多い。ダーウィンが「種の起源」を公にした頃には、宗教家は素より、生物學者の一部からも劇しい攻擊を受けたが、人も猿も犬・猫も共同の先祖から降つたといふ考は、地球の動く動かぬの議論と違ひ、人間に取つて直接の關係のあることで、人類に關する舊思想を基とした學問は、過半はそのため根抵から改めざるを得ぬことになるから、攻擊者の數は頗る多かつた。且進化論は純粹な生物學上の問題で、その根據とする事實は總べて生物學上のもの故、この學の素養のない人には、到底十分に理會も出來ぬため、生物學者間には學問上最早確定した事實と見倣されて居る今日に於ても、進化論はまだ廣く一般に知られるまでには至らぬが、その眞理であることは、地動説と少しも違はぬ故、人智の進むに隨ひ、漸々誰も之を認めるに至るべきことは、今から豫言して置いても間違はない。ガリレイローマ法王の法廷に呼び出され、地動説を取り消しながら、低聲[やぶちゃん注:「ひきごゑ」。]で「それでも動く」というたのが、コベルニクスが天體の運動に就いての論文を公にしてから九十年目であることを思へば、今日既に進化論が學者間だけにでも認められるに至つたのは、甚だ進步が早かつたといふべきであらう。

[やぶちゃん注:「コベルニクスが天體の運動に就いての論文を公にしてから九十年目」ガリレオの二回目の異端審問から溯ること、八十七年前となる。但し、ウィキの「ガリレオガリレイによれば、『有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた』。『その後につぶやいたとされる “E pur si muove”(それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である』とある。]

諸國里人談卷之五 伯藏主

 

   ○伯藏主(はくざうす)

江戸小石川傳通院(でんつういん[やぶちゃん注:「いん」はママ。])正譽(しよふよ[やぶちゃん注:ママ。])覺山(かくさん)上人、京都より下向の節、道づれの僧あり。名を伯藏と云〔いへ〕り。則(すなはち)、傳通院の會下(ゑげ)に属(しよく)して学文す。毎度の法問に、前日より、その語(ご)を知りて、一度も、おくれをとらず。「いかさま、たゞものにあらず」と、衆僧、希有におもひける。一日(あるひ)、熟睡し、狐の性(しやう)をあらはせり。是を恥(はぢ)てや、それより逐天(ちくてん)してげるが、猶、當山の内にあつて、夜毎に所化寮(しよけりやう)に徘徊し、外面(そとも)より、法を論じける也。此伯藏の著述の書物、一櫃(ひとひつ)ばかり今にありとぞ。その頃は、人にも貸し、寫させなどしけるが、今見れば、誠の文字にあらずと也。宝永のころまで存命なりし也。今、「伯藏主稻荷」と稱して鎭守とす。元來、此狐は下總國飯沼にありしと也。弘教寺にも、これにおなじき事ありと云〔いふ〕。

○開山上人、蛙(かはづ)の聲は学文の妨(さまたげ)なり、と封ぜられたり。一山(いつさん)の蛙、今、以て、鳴(なか)ず。

[やぶちゃん注:「伯蔵主」狂言「釣狐」の素材となったことで知られる、大阪府堺市堺区にある臨済宗萬年山少林寺の「白蔵主(はくぞうす)」(「伯」とも表記する)の変形異伝であろうが(同妖狐伝承はウィキの「白蔵主を参照されたい。なお、「蔵主」は狭義には禅寺に於いて経蔵を管理する僧職で、因みに「白」は妖狐「白」狐を、「伯」は白蔵主伝承の中で登場人物の「伯」父である僧に白狐が化けることを臭わせるものであろう)、調べてみると、東京都文京区小石川にある浄土宗無量山傳通院(でんづういん:現行では一般に「でんづういん」と読むが、清音で「つう」とも読む。本書は濁音を落とし易い傾向にあるから、沾涼も「づう」と読んでいたかも知れぬ)寿経寺には、まさにこの通りの狐が僧に化けて学んだという「澤蔵司(たくぞうす)」伝承があることが判った(蔵司は蔵主の居室或いは蔵主と同義。この呼称は禅宗以外でも転用された)。但し、「はく」「たく」の音の類似性からも同根異伝であることは間違いない。ウィキの「澤蔵司」によれば、天保四(一八三三)年(後で問題にする)、『江戸にある伝通院の覚山上人が京都から帰る途上、澤蔵司という若い僧と道連れになった。若い僧は自分の連れが伝通院の覚山上人だと知ると、学寮で学びたいと申し出てきた。若い僧の所作からその才を見抜いた覚山上人は入寮を許可し、かくして澤蔵司は学寮で学ぶことになった』。『澤蔵司は入寮すると』、『非凡な才能をあらわし、皆の関心を寄せた。が、あるとき』、『寝ている澤蔵司に狐の尾が出ているのを同僚の僧に見つかってしまい、上人に自分に短い間ではあったが、仏道を学ばせてもらったことを感謝し、学寮を去った』。『その後一年ほどは、近隣の森に住み、夜ごと』、『戸外で仏法を論じていたという』。『澤蔵司は僧であった頃』、『蕎麦を好んで食べていた。澤蔵司がひいきにしていた蕎麦屋では、澤蔵司が現れた日、銭に必ず木の葉が混じるので怪しみ、ある晩』、『店の男は蕎麦を買った澤蔵司をつけて行くと、森の中に蕎麦を包んだ皮が散らばっていたという。また、この出来事から』、『店の男が澤蔵司は狐だと感づき、それが原因で澤蔵司は上人に自分が狐であることを打ち明けたと言う説もある』。『現在でも澤蔵司がひいきにしていた蕎麦屋(稲荷蕎麦萬盛)は残っている』。『澤蔵司が人間に化ける能力を得たのは、太田道灌が千代田城を開く際に掘り出した十一面観音像を手に入れ、それを拝んだためだと言う説もある』とある。まず、現行の位置であるが、現在、傳通院の東に慈眼院(じげんいん)という浄土宗の寺があり、その境内に澤蔵司稲荷がある(ここ(グーグル・マップ・データ)同慈眼院の「澤蔵司稲荷」には公式サイトがあり、慈眼院本堂には澤蔵司尊像が安置されており、境内には霊窟「お穴」まである「境内」でオンライン参拝可能)。その「沿革」によれば、元和六(一六二〇)年、『傳通院中興廓山上人により』、『傳通院山内慈眼院を別当寺としてその境内に祀られた』。『小石川無量山傳通院は中興正譽廓山上人の時、徳川家康公の帰依が篤く、家康公の生母於大の方の追善の為に墓所を建立し菩提寺と定め』、『於大の方のお戒名が傳通院殿』であったことから、『傳通院寿経寺と呼ばれてい』る。傳通院は『関東十八檀林(今で言う全寮制仏教専門学校のような組織)の一つとして浄土宗の教学の根本道場と定められ、境内には多くの坊舎(修学僧の宿舎)が有り多くの修行僧が浄土教の勉学をして』いた。『縁起によると』、元和四戌午(つちのえうま)年(一六一八年)四月のこと、学寮主であった『極山和尚の門を澤蔵司と名乗る一僧が浄土教の修学したいと訪ね』、入門したが、彼は『才識絶倫優秀にして僅か』三『年余りで浄土教の奥義を修得し』、元和六庚申(かのえさる)年五月七日の『夜、方丈廓山和尚と学寮長極山和尚の夢枕に立ち』、『「そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年の大望ここに達せり』。『今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし。」』と言い残し、『暁の雲に隠れたと記されてい』るとある(下線太字やぶちゃん。以下同じ。同ページの「文京区教育委員会」の解説板の写真も参照されたい)。『その為、この慈眼院が別当寺となり』、元和六(一六二〇)年、『澤蔵司稲荷が建立され』、『現在に至って』おり、『開創以来、傳通院ならびに地元の鎮守のみならず』、『江戸時代から板橋、練馬方面の農業を営む方々、日本橋、神田方面の商家の方々のご信仰が篤く現在に至っております』と記してある。これを読むと、この寺は傳通院の附属寺院のように思われるであろうが、しかし、「傳通院」公式サイトその他を調べる限りでは、この寺を境内地としておらず、記載も全くない。されば、現在、この慈眼院は傳通院からは独立した寺として存在しているようである。

 なお、同ページでは『稲荷蕎麦「萬盛」の由来』(店名は「まんせい」と読む)として、『澤蔵司が傳通院で修行中、傳通院の門前に蕎麦を商う店が有り、よく蕎麦を食べに行っていたと記されて』おり、『主人も亦』、『よく』、『その徳を慕いて常に供養していたとされ、澤蔵司稲荷尊として祀られてから社前に蕎麦を献じていたと記されてい』る。『江戸中期、後期の縁起、略縁起にも』、『まだ蕎麦の奉納が続いていると記され、明治や昭和初期の記録にも奉納が続いていると書かれて』いるとし、『現在でも』、『その日の初茹で(初釜)のお蕎麦が朱塗りの箱に収められ奉納されており』、『縁起、記録からも判りますが、開創』以来、三百八十有余年、『連綿とお蕎麦の奉納が続いていると言う事にただただ驚きと共に』、『代々続く店主の御信仰、澤蔵司稲荷尊の御利益を拝するのみです』と結んであり、『傳通院前交差点、向かい側の茶色のマンション、コンビニの隣りに「稲荷蕎麦萬盛」は』あるとして、リンクも添えられてある。

 さて、まず、ウィキの記載の時制である天保四(一八三三)年には全く従えない。何故なら、本「諸國里人談」は、その九十年も前の寛保三(一七四三)年の刊行だからである。しかし、「澤蔵司稲荷」公式サイトの元和四(一六一八)年四月の澤蔵司の入寮ならば、本書刊行の百二十五年前となり、全く問題ない(伝承形成には十分な時間である)

「正譽覺山上人」これが胡散臭い。当時の傳通院の上人は「傳通院」公式サイト歴代上人」のリストによれば、第十世涼蓮社(りょうれんじゃ)信誉厳宿(前の第九世源蓮社真誉相閑は天和三(一六八三)年に遷化している。信誉厳宿は貞享四(一六八七)年遷化)で違う。寧ろ、この「覺山(かくざん)」というのは、先に引いた慈眼院の縁起に現われる方丈の廓山(かくざん)と学寮長の極山(ごくざん)との関連の方を強く感じさせる

「會下(ゑげ)」会座(えざ:法会・講説などで参会者が集う場)に集まる門下の意で、特に禅宗や浄土宗などで師の僧の下で修行する所やその集まりを指す語。

「属(しよく)」所属。

「学文」学問。

「毎度の法問に、前日よりその語(ご)を知りて」師が法問で採り挙げて、その意を学僧らに問うところの仏語を、何故か、前日に既に知り得て、しっかりとそれについて経典類を渉猟した上で、法莚に出るのである。「一度も、おくれをとら」ぬは当たり前である。ここにして、摩訶不思議な予知能力を発揮している訳である。

「熟睡し、狐の性(しやう)をあらはせり」ウィキにある通り、尻尾を出してしまったのであろう。

「逐天(ちくてん)」逐電。

「所化寮(しよけりやう)」学寮。「所化」は教え導かれて仏法によって救済されるべき衆生や悟りを得る資格を持った者を指す。俗に、一人前でない修行僧をも指す。対語は「能化 (のうけ) 」で、これは学寮の学長である僧をも指す語である。

「誠の文字にあらず」所謂、異界の存在が用いる不可思議な文字で書かれていたということである。しかし、以前には「貸し」出し、それを「寫し」たりした学僧もいたというとなのであるから、嘗てはちゃんと読める普通の文字だったに違いない。時を経て、呪力が消え、文字も妖狐の使う奇怪な文字に変じたということなのであろう。

「宝永」一七〇四年から一七一一年まで。本書刊行の三十余年ほど前。直近の時制で、まさに都市伝説(アーバン・レジェンド)としての体裁を備えている。「つい、こないだまでその狐の僧は生きてたんでごぜえやすぜ! あのでんづ院で!」。

「伯藏主稻荷」既に見た通り、「澤蔵司稻荷」が正しい。

「下總國飯沼」現在の千葉県市原市飯沼((グーグル・マップ・データ))であるが、私は「下總國」は「下野國」の誤記であろうと思う。次注参照

「弘教寺にも、これにおなじき事あり」私の譚海 卷之一 下野飯沼弘教寺狸宗因が事を見られたいが、これは、恐らく、現在の茨城県常総の北西部の豊岡町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経寺(ぐきょうじ)の誤りと思う((グーグル・マップ・データ))。但し、こちらは狐の化けたのではなく、狸の化けた僧の話で、「宗固狸(そうこたぬき)」の名で知られる。

「開山上人」これは傳通院のことであろうから、浄土宗第七祖聖冏(しょうげい 興国二/暦応四(一三四一)年~応永二七(一四二〇)年)で、号は酉蓮社(ゆうれんじゃ)了誉。ウィキの「聖冏によれば、『常陸国・椎尾氏の出身。同国瓜連常福寺の了実について出家し、同国太田法然寺の蓮勝に師事した。浄土教を中心に天台・密教・禅・倶舎・唯識など広く仏教を修めた。宗徒養成のために伝法の儀式を整備し、五重相伝の法を定めた。神道・儒学・和歌にも精通し』、「古今集序註」「麗気記拾遺抄」を著してもいる。『門弟に聖聡・了知などがおり、第』八『祖となった聖聡とともに、浄土宗鎮西義を教学面から興隆した人物として評価される。また、江戸小石川伝通院を開創したことでも知られる』とある。]

2018/07/28

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(二) 二 人體の生活現象 / 三 精神及び言語

 

     二 人體の生活現象

 

 生れるから死ぬるまでの生活現象を見ても、人間と犬・猫との間には、根本的に違つた點は一つもない。生まれると直に母の乳を飮んで生長し、日々空氣を呼吸し、食物を食ふて生活すること、老年になれば弱つて死んでしまふことなどは、人間でも犬・猫でも、全く同じである。なお詳に調べて呼吸の作用、消化の作用等を比較して見れば、益相似る度が著しくなる。同一の構造を有する器官を以て、同一の作用を行ふて居るのであるから、外界に對する關係は人間も犬・猫も略同樣で、空氣が稀薄になれば、人も犬・猫も共に窒

息し、水中に落ちれば、人も犬・猫も一所に溺れてしまふ。その他、身體に水分が不足すれば渇を覺え、滋養分が不足すれば饑を感じて、水と食物とを得なければ辛抱の出來ぬこと、一定の時期に達すれば、情欲が起つて寢ても起きても忘れられぬことなども、人と犬・猫との間に少しも相違はない。

 生理學は通常醫學の豫備學科としてある故、生理學の目的は、主として人間の生活現象を詳にすることであるが、今日生理學者の研究の材料には、人間よりは猫・兎等の如き獸類の方が遙に多く用ゐられて居る。特に筋肉・神經等の研究には、蛙を用ゐるのが常である。蛙の大腦で試驗したこと、鳩の小腦で研究したことなどを、そのまゝ人間に應用して差支のない所を見れば、人間も、これらの動物も、生活作用の大體に於ては全く相等しいものと見倣さねばならぬ。試に人體生理學と題する書物を開いて見るに、その中に直接に人體に就いて行ふた研究の掲げてあることは、甚だ少く、脈の搏ちやうとか小便の分析とかまたは皮膚の感覺とかいふ位な、身體に傷を附けずに出來る事項ばかりで、その他は總べて犬・猫・兎・モルモットなどに就いて行ふた實驗に基づくことであるが、かやうな生理學書が常に醫學校で用ゐられ、十分に役に立つて居ることは、人間と犬・猫等との間に、生活現象上何の相違の點もない確な證據である。

 また病理學・黴菌學・藥物學等でも、常に犬・猫の如き獸類を用ゐて研究して居るが、その目的とする所は、素より藥物・黴菌等の人間に對する功力を確めるにあるから、若し人間と犬・猫との體質に根本的の相違があるものならば、總べて無益な筈である。然るに實際に於てはかやうな獸類に就いて行つた研究の結果を人間に應用すれば、皆立派に功を奏して、近來はそのため種々の病氣を豫防的に治療することが出來るやうになつたことなどは、確に人間と犬・猫とは體質に於ても決して著しい相違がないといふ證據である。鼠捕り藥を誤つて飮んだために人が死んだこと、人を殺すために盛つた毒藥を犬に食はせたれば、犬が直に死んだといふことなどは、誰も屢聞くことであるが、特に可笑(をか)かしいのは獸類に對する酒精の働である。或る人が猿に酒を飮ませた所が、醉の廻るに隨うて陽氣に浮かれ出した具合から、步行が不確になつて、左右へよろつき、終に倒れて寢てしまつて、翌日は兩手で頭を抑へて頭痛を怺(こら)へて居る所まで、少しも人間と違ふことはなかつた。たゞ違ふのは、この猿はその後如何にしても決して酒を飮まなかつたといふことである。

 

     三 精神及び言語

 

 人間の身體が、犬・猫の如き獸の身體と甚だ似て居ることは、誰の目にも明なこと故、昔から人間と他の獸類との異なる點をいひ表さうと勉めた學者等は、皆據[やぶちゃん注:「よんどころ」。]なく精神的の方面に之を求めた。デカルトなども人間には精神といふものがあるが、他の動物は皆精神のない自働器械に過ぎぬというて居る。またカントの如き

も、或る著書の中に精神を有するのは人間ばかりであると説いた。その後の教育學の書物には「精神といふものは人間に固有なものである。それ故教育の出來るのも人間ばかりに限る」といふやうなことが屢書いてあるが、之は今日の生物學上の知識を以て見れば、確に大間違である。身體に結び付いた精神的作用は誰も常に見て知つて居るが、身體を離れて別に精神といふものが存在するか否かは、我々の經驗し得る事實からは孰れとも斷言の出來ぬことで、有るといふ證據もないが、またないといふ證據も科學的には擧げられぬ。倂し獸類の動作を詳に研究して、之を人間の動作と比較して見ると、孰れの點を捕[やぶちゃん注:ママ。]へても、たゞ程度の相違があるだけで、彼に有つて此にないといふやうな根本的の差を見出すことは決して出來ぬから、若し人間に精神があるならば、他の獸類にも無ければならず、若し他の獸類に精神がないならば、特に人間のみにその存在を認めるといふわけはない。これらの問題に就いては、昔から何千册書物が出來たか知れぬ位で、今日と雖も、尚盛に議論のあること故、こゝに十分に述べることは、素より出來ず、また動物の精神的動作も詳しく書けば極めて面白いことが夥しくあるが、そればかりでも、非常に大きな書物になる位故、次にはたゞ人間の精神的動作の孰れの部を取つても、必ず動物界にそれと同樣なことがあるを示すために、若干の例を選んで掲げるだけに止める。

 精神的作用といへば主として知・情・意であるが、先づ情の方面から檢するに、凡そ愛情の中で夫婦・親子の間ほど切なるものはない。動物の中には犬・猫等の如く少しも夫婦の定まりがなく、隨うて雌雄の間の情が常には極めて冷淡なものもあるが、また一方には生涯夫婦同棲してその間の愛情の甚だ濃(こまや)かなものがある。「カナリヤ」・文鳥のやうな小鳥でも、雌が卵を溫めて居る間は雄が餌を運んで遣つて、實に仲のよいものであるが、鴛鴦[やぶちゃん注:「をしどり(おしどり)」と読んでおく。]の如きはこの點で有名なもので、その他動物園に飼ふてある鳥類の雄が死んだ後に、雌が悲みに堪えず、終に死んでしまふた例も澤山にある。南洋に産する戀愛鳥と名づける鸚哥(いんこ)の一種の如きは、雌雄常に押し合ふ程に密接して、一刻も離れることはない。獸類は概して暫時一夫一婦のもの、または常に一夫多妻のものであるが、一夫一婦の場合には子を養ふ世話は雌のみが引き受け、一夫多妻の場合には雄は常に雌を保護し、他の雄が近づくやうなことでもあれば、劇しく鬪つて之を逐ひ退ける。その代り雌が他の雄を近づけたりすれば、決して承知せず、嚴しく之を罰する。猿の如きは卽ちこの類である。斯くの如く、動物の中には雌雄の關係も樣々で、その間の愛情にも種々の階級があるが、さて人間の方は如何と見るに、やはりその通りで、鴛鴦に劣らぬ程の夫婦も稀にはある代りに、また犬・猫同樣に少しも夫婦の定めのない社會もある。文明國で賣淫婦の澤山に居らぬ處は何處にもないが、彼等と客との關係は犬・猫の場合と異なつた點はない。また一夫一婦は人倫の基というては居るが、現に一夫多妻の公に行はれて居る所が多く、耶蘇教國の西洋でも、生涯眞に一夫一婦で暮す男は甚だ少數なやうである。されば雌雄の關係は人間も他の獸類も少しも相違はないのみならず、その愛情に至つても人間を第一等と見倣すことは出來ぬ。

[やぶちゃん注:「カナリヤ」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria

「文鳥」スズメ目スズメ亜目カエデチョウ科 Padda 属ブンチョウ Padda oryzivora

「鴛鴦」カモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata

「南洋に産する戀愛鳥と名づける鸚哥(いんこ)の一種」社会性に富み、仲間と非常に強固な絆を結ぶことで知られる、オウム目インコ科インコ亜科 Psittaculini Agapornis属のラブバード類(英語:Lovebird。学名はギリシャ語の「愛」を表わす“Agape”と「鳥」を表わす“Ornis”の合成語)。以下の九種がいる。コザクラインコ Agapornis roseicollis・キエリボタンインコ Agapornis personata・ルリゴシボタンインコ Agapornis fischeri・ボタンインコ Agapornis lilianae・クロボタンインコ Agapornis nigrigenis・カルカヤインコ Agapornis canus・ハツハナインコ Agapornis taranta・コハナインコ Agapornis pullarius・ワカクサインコ Agapornis swindernianus。以上はウィキの「ラブバード」に拠った。]

 

 親が子を愛する情もその通りで、昔から「燒野の雉子(きゞす)、夜の鶴」と諺にもいふ如く、甚だしく子を愛する動物は澤山にある。その中でも獸類の如きは特別で、子を擊たれた親猿の悲みを見かねて、最早一生涯猿は擊つまいと決心した獵師もあるが、鯨のやうな大きな獸でも、捕鯨家の話によれば、子さへ先に殺せば、母親は容易に捕へることが出來るといふ。尚その外に例を擧げると限りはない。尤も蟲類や魚類には卵を生むだけで、後は少しも構はぬものも多いが、一方には子のためには自分の命も惜まぬ程のものもあつて、その間に無數の階級があるから、動物全體を總括しては、孰れともいふことは出來ぬ。人間が子を愛する眞情は、素より極めて深いものには相違ないが、以上の如き例が澤山にある以上は、人間だけが特に優れて子を愛すると斷言するわけには行かぬ。僅二三圓の金で子供を支那人に賣つた者が多勢あることや、娘を娼妓に賣らうとしても承諾せぬから、之を打つたとて警察に引かれた父親のことなどが、絶えず新聞に出るのを見ると、人間の中にも獸類の平均ほどには子の愛情のないものがあるから、この點に就いては、人間と他の獸とを特に區別すべき理由はない。

[やぶちゃん注:「燒野の雉子(きゞす)、夜の鶴」棲んでいる野を焼かれたキジが自分の命にかえてもその子を救おうとし、また、寒い夜に鶴が自分の羽でその子を暖めるところから、「親が子を思う情の深いこと」の譬え。]

 

 愛情に伴うものは嫉妬であるが、之も獸類などには著しい。犬を養つた人は誰も知ることであるが、主人が一疋だけを特に愛すると、他の犬が嫉妬を起すことは常である。特に猿類ではこの念が甚しく、或る船中で一疋の小猿が衆人に愛せられるのを見て、稍大きな猿の方が嫉妬を起し、小猿を海に投げ込んだ話もある。また復讎の念も盛で、或る時インドの動物園に一疋の狒々[やぶちゃん注:「ひひ」。]が飼ふてあつたのを、の士官が常に苦しめたが、或る日、向からその士官の來るのを見て、狒々は急に地面に小便をし、泥をこねて待ち構へ、丁度前に來たときに打ち付けて、その立派な軍服を泥だらけにした話もある。かやうな例は澤山にあるが、その爲すことから考へて見ると、人間と同じ根性を持つて居ることは明に解る。

 尚その他喜・怒・哀・樂の情、死を恐れる情の如きも、人間と他の獸類との間に少しも相違はない。犬・猫の喜び怒ること、また如何なるときに喜ぶか怒るかといふことも誰も知つて居るから、こゝには略するが、動物園に飼ふてあるやうな種々の獸類でも、これらの點は明にその通りで、世話人が深切にすれば喜び、苦しめれば怒る。猿が仲間の死體の周圍に集まつて悲む情でも、犬・猫の兒が戲れ樂む具合なども、人間に見る所と違はぬ。蟻の習性を詳しく調べた人の書いたものに、蟻も時々互に逐ひ廻し合うたりして、恰も人間の子供や犬の兒の如くに戲れることが載せてあるが、丁寧に觀察すれば、稍高等な動物には總べて人間と同樣な情が具はつて居る。

 動物に意の働のあることも明で、犬・猫などにも、一且爲そうと思つたことは、如何なる障害があつても、之を爲し遂げねば承知せぬやうな性質が見える。往來で如何に馬方が鞭で打つても、少しも動かずに馬が立ち止まつて居るのを見掛けることが屢あるが、之もその一例である。而してその情の度が大抵の人間より上に位するものも少くはない。

 好奇心も動物にはある。ダーウィンは或る時ロンドンの動物園に行つて、小さな蛇を一疋紙袋の中に入れて、猿の籠の隅に突き込んで見た所が、忽ちその中の一疋の猿が來て、袋の口を開いて中を覗き、急に叫んで逃げ去つた。猿は生來極めて蛇を恐れるもので、玩弄物の蛇を見せても大騷ぎをする位であるのに拘らず、所謂「恐いもの見たさ」の情に堪え切れず、暫くすると再び來て袋の口を覗いたが、この度は同じ籠の中の他の猿等も皆集まつて來て、恐る恐る熱心に袋の口を覗こうとした。巡査交番所で車夫の叱られて居る周圍に、何の關係もない人等が黑山の如くに集まつて見て居るのも、猿が蛇の袋の周圍に集まつたのも、好奇心の度に至つては、敢えて甲乙はないやうである。

 記憶力の存することも、また一旦忘れたことを思ひ出す順序なども、鳥獸と人間とでは全く同一である。犬・猫・牛・馬に記億力のあることはいふまでもないが、一旦忘れたことでも、思想の聯合によりその緒を捉へれば忽ち全體を思ひ出す具合は、實驗によつて明に證することが出來る。鸚鵡[やぶちゃん注:「おうむ」。]などに歌を教えてあつた場合に、第二句以下を忘れると、鸚鵡は第一句の次に種々の句を繋ぎ試みながら、何囘も繰り返し、適當な句を思い出せば、その先は自然に出る。また鸚鵡が第一句のみを繰り返して第二句を思ひ出そうと考へて居る所へ、側から第二句の最初の一音だけを知らせて遣れば、忽ち全部を思ひ出して、得意になつて之を歌う。これらも人間が物を思ひ出す有樣と少しも違はぬ。

 推理の力に至つては、人間と他の獸類との間に甚だしい相違がある。倂しながら、之も單に程度の問題で、獸類にも多少の推理力のあることは、確であるから、人間はたゞその同じ力が非常に進んで居るといふに過ぎぬ。或る時ロンドンの動物園に飼つてあつた一疋の猿は、猫の子を頻に愛して、常に側に置いて居たが、一度劇しく引つ搔かれた後は猫の足の先を檢査し、齒で爪を嚙み取つて相變らず抱いて居た。この類の例は他にも尚澤山にあるが、獸類の中にも、犬・象・猿などの如くに、この力の多少進んだものもあれば、また極めて痴鈍なものもある如く、人間の方でも、椎理の力の發達の度は實に甚だしい相違があつて、最下等の野蠻人とチンダルスベンサーのやうな學者とを比べると、その間の差は、野蠻人と猩々との相違よりは甚だしいかも知れぬ。數を算へることは、總べての精確な知識の根據となるものであるが、或る動物園に數年飼つてあつた黑猩々[やぶちゃん注:「チンパンジー」の異名。]の牝は、殆ど十位までの數を覺えて區別するやうになつた。之に反してオーストラリヤ邊の野蠻人には三或は四までより知らず、その以上はたゞ澤山といふだけで、少しも勘定する力のない部落もある。これらを比べると、なかなか人間は知力に於て遙に獸類以上であるとばかりはいはれぬ。

[やぶちゃん注:「チンダル」アイルランド出身の物理学者で、登山家としても知られたジョン・ティンダル(John Tyndall 一八二〇年~一八九三年)のことであろうか。チンダル現象(多数の微粒子が不規則に散在している気体や液体に、光を当てた際、透過光と異なる方向からそれを眺めた時、微粒子による散乱のために、その光の通路が明るく濁って見える現象)の発見者として名が知られるその他にも「赤外線放射(温室効果)」・「反磁性体」(磁場をかけた際、物質が磁場の逆向きに磁化され、磁場とその勾配の積に比例する力が、磁石に反発する方向に生ずる磁性のこと。反磁性体自体は自発磁化を持たず、磁場をかけた場合にのみ、反磁性性質が出現する)に関して突出した業績を残している。登山家としてはアルプス山脈五番目の最高峰ヴァイスホルンの初登頂に成功し(一八六一年)、また、マッターホルンの初登頂を競い、一八六二年には山頂から二百三十メートル下の肩にまで達し(但し、初登頂は一八六五年のエドワード・ウィンパーであった)、一八六八年にはマッターホルンの初縦走に成功している。なお、登山の元々の目的は物理学者としてアルプスの氷河を研究することにあった(以上はウィキの「ジョン・ティンダル」に拠る)。

「オーストラリヤ邊の野蠻人」この謂い方自体が極めて差別的であることは批判的に読まねばならない。オーストラリア大陸と周辺島嶼(タスマニア島など。ニューギニアやニュージーランドなどは含まない)の先住民で今まで「アボリジニ(英語:Aborigine)」と呼ばれてきた人々であるが、「アボリジニ」と言う語は差別的な響きが強いことと、言語集団が分かれていたオーストラリア先住民の多様性を配慮して、近年、オーストラリアでは殆んど使われなくなり、代わって現在では「アボリジナル」・「アボリジナル・ピープル」・「アボリジナル・オーストラリアン」(Aboriginal Australians)又は「オーストラリア先住民(Indigenous Australians)という表現が一般化しつつある(以上はウィキの「アボリジニ」に拠った)。]

 

 要するに知・情・意等の精神的作用は、人間以外の獸類にも確に存するもので、人間と他の獸類との相違は單に程度の問題に過ぎぬ。然も情・意の方面に於ては、決して人間を以て第一等と見倣すことの出來ぬ場合が多い。たゞ知力では人間は他の獸類より著しく優れて居る。されば身體の構造では、大腦の頗る發達してあること、精神的作用では、知力の非常に進んであることだけが、人間と他の獸類との相違する點で、文明人と野蠻人との相異なるのもたゞこの點に過ぎぬ。今日人間が他の獸類に打ち勝つて天下を占領して居るのも、文明人が野蠻人を亡ぼして四方へ蔓延るのも、皆知力ばかりによることである。

 「道理を辨へて居るのは、人間ばかりである。他の獸類には道理を辨へて居るものは一種もない。之が人間と他の獸類との異なる點である」などと書いた書物も澤山にあるが、極めて漠然たる説で、若し道理といふ字を卑い[やぶちゃん注:「いやしい」。]意味に取つて、多少理を推すことの出來る力と解釋すれば、人間以外にも之を有するものは幾らもある。また高尚な狹い意味に取ると、人間の中にも之を持たぬものが多數を占めて居るから、之を以て人間と他の獸類との區別の標準と見倣すことは出來ぬ。また「人間ばかりは自己の存在を承知して居るが、他の獸類にはこのことがない」と書いてある書物もあるが、この事も確に證明の出來ぬことで、自分は過去はどこから來て、未來はどこへ行くものであらうかなどと考へることは、他の獸類にはないかも知れぬが、犬や象の如き智慧のある獸が、年寄つてから自分の若い時に經驗したことを思ひ出すことがないとは、なかなか斷言は出來ぬ。動物園の檻の内で猩々が厭世的の顏をして靜坐して居るのを見ると、故郷のことでも考へて居るのではないかと思はざるを得ぬ。之に反して最下等の野蠻人などになると、自己の存在の理由等を考へるものはない。されば自己の存在を知ることの有無を以て、人間と他の獸類との區別の點とすることは出來ぬ。

 道德心に就いてもその通りで、犬が主人のために命を捨てて忠義を盡した話などは幾らもあるが、凡そ團體をなして生活する動物であれば、友の難儀を救ひ、友と樂[やぶちゃん注:「たのしみ」。]を分つといふやうな習性の多少具はつて居ないもの

はない。犬が生理學上の實驗のために生きたまゝで體を切り開かれながら、尚解剖刀を持つて居る主人の手を嘗めたこと、或は犬が主人に財囊[やぶちゃん注:「ざいなう(ざいのう)」。財布。]を或る木の下へ忘れて來たことを知らせるために、尚平氣で先へ進もうとす

る主人の馬の足に嚙み附いたので、主人は犬が發狂したことと思ひ、鐵砲で擊つたのに、犬は據なく痛みを怺へて、前に主人の休んだ木蔭の處まで行き、瀕死の有樣ながら、尚そこにある財囊を護つて居て、主人が之に氣が附き歸つて來たのを見て、一聲鳴いて瞑目したことなどの記事を讀めば、如何なる人でも淚を零さずには居られぬ。人間には素より道德の高いものもあるが、また主人の財産を橫領しようと計畫する連中も決して少くない。特に文明人が野蠻人に對する所置を見ると、殆ど道德の痕跡も見えぬやうなことがある。奴隷採集に南洋に行つた汽船の記事などを見ると、譯の解らぬ黑奴を瞞して[やぶちゃん注:「だまして」。]船に呼び寄せ、腕力で之を擒[やぶちゃん注:「とりこ」。]にして船底の物置に押し込め、少しでも騷げば鐵砲で擊ち殺し、少し重い傷を負うて最早賣れる望のないものは、生きながら海中に投げ捨てたことなどが書いてある。また戰爭のときに逃げ後れた婦人が如何なる目に遇ふかは、文明開化に誇る十九世紀の末年に起つた出來事を見ても明なことで、その殘酷な所行は殆ど述べることも出來ぬ。あそこでは黑奴が極めて殘忍な方法で私刑に處せられたとか、こゝではユダヤ人が何百人虐殺せられたとかいふことが、新聞に絶えぬのを見れば、道德心の有無を以て、人間と他の獸類とを區別することの出來ぬは實に明瞭であらう。

 斯くの如く精神的動作の種々の方面を檢するに、孰れの點に於ても人間と他の獸類との間に根本的の相違はないが、之から考へれば、人間には精神があるが、他の獸類には精神がないといふ如き説は、全く根のないことで、之を基として論じた結論は總べて甚だしい誤でなければならぬ。若し人間に特別な精神があるものとしたならば、犬・猫にもある筈で、若し犬・猫に精神がないものとしたならば、人間だけにその存在を認めなければならぬといふ特別の理由は毫もない。日々人間の爲す所を見たり、新聞に出て來る記事を讀みなどすれば、人間の行爲も他の獸類の行爲も、その原動力は大同小異で、大部分は食欲と色欲とに基づくことが明であるが、たゞ知力發達の度に著しい差があるから、欲を滿足せしめるための手段と方法とは、他の獸類に比すれば無論甚だしく複雜である。

 

 言語を有するのは人間ばかりである。人間の外には言語を有する動物はないとの説もあるが、之また程度の問題である。人間の如くに發達した言語を有するものが、他にないことは明であるが、言語の初步だけを具へた動物は決してないとはいはれぬ。猫や犬でも、喜ぶとき、怒るとき、餌を求めるとき、罪を詫びるときなどの鳴聲が一々違ふことは誰も氣の附くことであるが、野生の獸類には隨分複雜な鳴聲を有して、自分の感情或は外界の出來事を同僚に傳へるものが澤山にある。猿の言語を取調べるために、數年アフリカの森中に留まつた人の報告などを見ると、猿にも一種の言語があつて、人間の言語とは素より比較にならぬが、感情を傳へる叫び聲の外に、普通の需要物品を言ひ表す單語なども相應にあるから、度に於ては非常な相違はあるが、性質は人間の言語と異なつた所はないやうである。ロシア語ではドイツ人のことをニェメツといふが、ニェメツとは啞[やぶちゃん注:「おし」。]といふ意味の文字である。之は恐らくロシア人が國境を越えてドイツ國に行くと、幾らロシア語で話しかけても先方へは通ぜず、また先方のいふことはこちらへは少しも解らぬから、かやうに名づけたのであらうが、今日我々が他の動物には言語がないというて居るのは、殆どこのやうな有樣で、たゞ先方のいふことがこちらに通じないといふに過ぎぬ。

[やぶちゃん注::ロシア語で正式にはドイツ人は“германец”(ゲルマーニェツ)であるが、ここに書かれた通り、蔑称では“немец”(ニェミェーツ)と言う。但し、参照したQ&Aサイトの回答では『ニェミェーツはすでに一般用語のレベルで使われており、公共の場で使っても問題』ないとあるが、はて、語源を知ってしまえば、使いたくはないし、使うべきではない気が私はする。]

 

Sarunokeiko

 

[猿の稽古]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正して使用した。但し、本文には猿(絵のそれはチンパンジーである)の学習訓練に就いては記されていない。]

 

 ドイツエルバーフェルド市のクラルといふ人は、二十年ばかり前から數疋の馬を教育して、文字を覺えさせ、その音を聞き分けるやうに教へ込んだが、馬は人の問に對してよく文宇で答へ、自身のいひたいことも、よく文字で現すことが出來て、算術も加減乘除が間違ひなく出來るやうになつた、その結果を詳しく書いた書物が先年出版せられたが、それからこの方面に注意する人が頗る多くなり、犬で同樣な實驗を試みた人もあり、動物の心理狀態を研究するための新しい學會も創立せられた。初めは大に疑つた人も多かつたが、數名の動物學者が嚴重に調査した結果によると、決して間違ひではなく、確に馬や犬には自身に物の理屈を考へる力があり、習ひ覺えた文字を用ゐてこれを發表するものである。されば今日では最早人間以外にも言語を解し、之を以て談話し得る動物が幾種類もあることは、決して疑ふべからざることとなつた。

[やぶちゃん注:「ドイツ國エルバーフェルド市のクラルといふ人」は「生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 四 智力」に既出(但し、人物は不詳。「エルバーフェルド」は“Elberfeld”で、現在はドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州の合併都市ヴッパータール市(Wuppertal)内の地区名。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、私はそこで数を数える馬(通称「クレバー・ハンス」)については疑義を呈している。]

 

 知力の進步と言語の進化とが相伴ふべきことは明であるが、この二者が相伴つて著しく發達して居ることが、殆ど人間と他の獸類との異なるたゞ一の點で、その他に至つては決して人間のみに特有なものを見出すことは出來ぬ。而して知力・言語に於ても、人間と他の獸類との間の相違は單に程度の問題で、決して根本的性質の相違ではない。素より同じく人間といふ中には、最上等から最下等まで無數の階級があるから、上等の人間を取つて論ずれば、一般の獸類とは總べての點で甚だしく違ふのはいふまでもないが、下等の人間に就いて調べると、知力と言語とを除けば、その他の點に於ては殆ど獸類と甲乙はない。先年或る處に飼ふてある狒々[やぶちゃん注:「ひひ」。]の所行が風俗を壞亂する恐があるといふて、警察署から之に板圍をするやうに飼主に命じたことがあるが、狒々といふ獸が或る所行をすると、人間の風俗がその爲に亂れるといふことは、知力・言語以外に於て如何に人間と他の獸類とが相近いものであるかをあきらか明に示して居る。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(一) 序・一 人體の構造及び發生

 

    第十九章 自然に於ける人類の位置

 

 第九章から第十三章までに掲げた如き解剖學上・發生學上・分類學上・分布學上・古生物學上の事實を基として考へれば、生物が長い間に漸々進化して、終に今日見る如きものと成つたことは毫も疑はれぬ。而して數多い生物種屬の中には非常に相似たものもあり、また甚だしく相異なつたものもあつて、之を分類するには、先づ大きな組に分け、その中を更に小さな組に分けて、幾段も分類の階級を造らねばならぬ所から推すと、生物の系續は恰も一大樹木の如きもので、今日存在する各種屬は、皆その末梢に相當するものと考へねばならぬ。隨つて、相似た種屬は比較的近い時代に共同の先祖から分かれ生じたといふことも確である。さて相似た生物種屬は皆共同の先祖から分かれ降つたものであると説けば、それで自然に於ける人類の位置も既に言ひ盡した譯であるが、進化論が世人に注意せられるのも、また進化論が思想界に偉大な影響を及ぼすのも、主としてこの點にあること故、更に詳に之を論ずるの必要がある。

 抑人間とは何であるかの問題は極めて古い問題で、苟も多少哲學的に物を考へる處までに進んだ處ならば、この問題の出ぬことはない。倂しながら之を研究して解釋を與へようとする方法は種々樣々で、隨つてこの問に對する答も古來決して一樣ではなかつた。人間は如何なるものであるかといふことを知るのは、人間に取つては最も肝要なことで、この考の定めやう次第で、總べての思想が變つて來る。世の中には人とは何物かといふやうな問題の存することをも知らずに暮して居る人間が多數を占めて居るが、凡そ人間の爲すこと考えることの中に、人といふ觀念の入らぬものはない位故、若しこの考が誤つて居たならば、その爲すことは總べて誤つたこととならざるを得ぬ。斯く重大な問題故、昔から人を論じた書物は非常に澤山あつて、今日になつても續々出版せられて居るが、之を大別すれば二種類に分けることが出來る。一は獨斷的のもの、一は批評的卽ち科學的のものである。

 從來の書物は孰れも獨斷的のものばかりで、その中に書いてあることは、或は人は萬物の靈であるとか、或は人は神が自分の形に似せて造つたものであるとかいふやうな類に過ぎぬ。このやうなことの載せてある書物の數は隨分多いが、皆單に斷定するか或は之に標註を加へただけのもの故、證明の仕樣もなければ、また否定の仕樣もない。氣に入つた人は之を信ずるが、嫌いな人は之を捨てて置く。つまり理窟で論ずることの出來ぬ信仰の範圍、趣味の範圍に屬するもの故、科學の側からは殆ど批評すべき限でないが、たゞその説く所が科學的研究の結果と相反する場合には、無論誤として之を正さなければならぬ。

 科學的の研究法は全く之とは違ひ、孔子が何といはうが、耶蘇が何といはうが、さやうなことには頓著せず、たゞ出來るだけ廣く事實を集め、之を基として論ずるのである。それ故、この方法によつて得た結論は、單に事實を言ひ表したもので、決して好(す)きであるから信ずるとか、嫌ひであるから信ぜぬとかいふべき性質のものではない。凡そ眞理を求める人で且之を了解するだけの知識のある人であれば、必ず之を認めなければならぬ。總べて科學の目的は眞理を搜し索め、人間のために之を應用することであるが、眞理を探る場合には、全く虛心平氣でなければ、大に誤る恐がある。それ故、人とは何物であるかといふ問題を研究するには、自身が人であることは一切忘れて、恰も他の世界からこの地球に探險旅行に來たやうな心持になり、他の動物と同樣に人間の習性を觀察し、他の動物と同樣に人間の標本を採集して歸つた積りで研究せねばならぬ。研究の結果、發見した眞理を應用して、人間社會に益しようとする段になれば、無論人間の利益のみを常に眼中に置かなければならぬが、初め研究するに當つては、決して人間だけを贔屓(ひいき)してかゝつてはならぬ。少しでも不公平な心があつては、眞理は到底見出せるものではない。

 生物界の事實を廣く集め、生物界の現象を深く觀察し、之を基として科學的に研究した結果は、卽ち進化論であるが、前章に述べた通り、相似た動物種屬は共同の先祖から分かれ降つたといふことは、今日の所、最早確定した事實と見倣さねばならぬ。人間だけを例外として取扱ふべき特別の理由もない故、この通則に照して論ずれば、人は總べての動物の中で牛・馬・犬・猫等の如き獸類に最も善く似て居て、これらと共同な先祖から生じた一種の獸類である。而してその中でも猿類とは特に著しく似て居る點が多いから、比較的近い頃に猿類の先祖から分かれ降つたものである。この事は單に進化論中の特殊の場合に過ぎぬから、進化論が眞である以上は、この事も眞でなければならぬ。進化論は生物界全體に通ずる歸納的結論であるが、人間が猿類から分かれ降つたといふことは、たゞその結論を特殊の例に演繹的に當て嵌めただけに過ぎぬ。

 

     一 人體の構造及び發生

 

Hitotosarunokokaku

 

[人と猿との骨骼]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版を用いた。]

 

 

 人間の身體が大・猫等の身體に極めて似て居るのは實に明なことで、殆ど説明にも及ばぬ程である。先づ外部から順を追うて檢するに、體の全面は皮膚で被はれてあるが、その構造は犬・猫などと殆ど相違はない。人間の皮も鞣(なめ)せばなかなか丈夫なもので、犬・猫の皮と同樣に種々の役に立てることが出來る。人間の革で造つた書物の表紙、椅子の蒲團などを見たことがあるが、他の獸類の革と少しも區別は出來ぬ。表面に生ずる毛髮の多少には相違があるが、之は單に發達の度の相違に過ぎぬから、極めて些細なことである。特に人間の中にも毛の多い種類と毛の少い種類とがあつて、北海道のアイヌ人の如きに至つては、毛が頗る多くて、獸類中の水牛や象などの到底及ぶ所でない。次に皮を剝ぎ去れば、その下には筋肉があるが、之も總べて犬・猫等の筋肉と一々比較して見ることが出來る。一個一個の筋肉片を彼と此と比べて見るに、犬で太い筋肉が人間では細かつたり、猫で細い筋肉が人間で太かつたりする位のことはあるが、同一の筋肉が必ず同一の場所に存して、大體からいへば、數・配列の順序ともに殆ど著しい相違はない。その味の如きも全く他の野獸の如くで、知らずに食へば少しも氣が附かぬ。「一片を大きな葉に包んで、火の中に入れ、暫時の後に取り出して食つたら、全く他の獸肉のロースの如くで、後で人間の肉だと聞いたときは、嘔吐を催したが、知らずに食ふて居る間は、なかなか甘かつた[やぶちゃん注:「うまかつた」。]」とは、南洋の野蠻島に數年間傳道して居た宣教師から聞いた直話である。また、骨骼もその通りで、頭骨・脊骨・肋骨等を初め、四肢の足に至るまで、全く同一の型に隨つて出來て居て、單に少しづゝ長短・大小の相違があるだけに過ぎぬ。最も形狀が相異なるやうに思はれる頭骨でさへ、詳に之を檢して見れば、單に各骨片の發達の度に相違があるだけで、その數も列び方も全く同樣である。昔、何とかして人間と他の獸類との間に身體上の確な相違の點を發見したいと學者が骨を折つた頃に、人間の上顎の骨は左右たゞ二個で成り立つて居るが、獸類では左右の上顎骨の間に尚二個の骨が存する。之が卽ち人間が獸類と異なる所以であるなどと論じた人もあつたが、この二個の間顎骨と名づける骨は、人間にもないことはない。たゞ生長するに隨つて、左の間顎骨は左の上顎骨に、右の間顎骨は右の上顎骨に癒着して、その間の境が消えてしまふだけである。發生の途中を調べさへすれば、人間の上顎にも犬・猫と同樣に二個の間顎骨を明に區別することが出來るが、初めてこの事に注意したのはドイツの詩人ゲーテであつた。

[やぶちゃん注:ドイツの詩人で作家のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が同時に自然科学者(特に物理学・生物学・地質学)であったことは、知られているとは思われない。ウィキによれば、『ゲーテは学生時代から自然科学研究に興味を持ち続け、文学活動や公務の傍らで人体解剖学、植物学、地質学、光学などの著作・研究を残している』。二十『代のころから骨相学の研究者ヨハン・カスパール・ラヴァーターと親交のあったゲーテは骨学に造詣が深く』、一七八四『年にはそれまでヒトにはないと考えられていた前顎骨がヒトでも胎児の時にあることを発見し』、『比較解剖学に貢献している』。『自然科学についてゲーテの思想を特徴付けているのは原型(Urform)という概念である。ゲーテはまず骨学において、すべての骨格器官の基になっている「元器官」という概念を考え出し、脊椎がこれにあたると考えていた』一七九〇『年に著した「植物変態論」ではこの考えを植物に応用し、すべての植物は唯一つの「原植物」(独:de:Urpflanze)から発展したものと考え、また植物の花を構成する花弁や雄しべ等の各器官は様々な形に変化した「葉」が集合してできた結果であるとした』。『このような考えからゲーテはリンネの分類学を批判し、「形態学(Morphologie)」と名づけた新しい学問を提唱したが、これは進化論の先駆けであるとも言われている』。またゲーテは二十代半ば頃、『ワイマール公国の顧問官としてイルメナウ鉱山を視察したことから鉱山学、地質学を学び、イタリア滞在中を含め』、『生涯にわたって各地の石を蒐集しており、そのコレクションは』実に一万九千点にも『及んでいる。なお』、『針鉄鉱の英名「ゲータイト(goethite)」はゲーテに名にちなむものであり、ゲーテと親交のあった鉱物学者によって』一八〇六』年に名づけられた』。『晩年のゲーテは光学の研究に力を注いだ』。一八一〇『年に発表された『色彩論』は』二十『年をかけた大著である。この書物でゲーテは青と黄をもっとも根源的な色とし、また色彩は光と闇との相互作用によって生まれるものと考えてニュートンのスペクトル分析を批判した。ゲーテの色彩論は発表当時から科学者の間でほとんど省みられることがなかったが、ヘーゲルやシェリングはゲーテの説に賛同している』とある。]

 

 總べて頭骨といふものは、腦髓を保護する頭蓋部と咀嚼を司る顏面部とから成り立つて居るが、この兩部の發達の割合に隨つて、大に面相・容貌が違ふ。普通の獸類では、咀嚼部が發達し、頭蓋部の方が小いから、吻(くちさき)が突出して居るが、人間では腦髓が甚だ大きいから、額が出て顎の方は餘り突出せぬ。顎が發達して居ると容貌が如何にも獸らしく、頭蓋が發達して顎が小い程、容貌が人間らしいが、この比例は獸類の種屬によつて、各相異なり、同じ人間の中でも人種により、或は一人每にも隨分違ふから、單に程度の問題で、決して根本的の相違とはいはれぬ。この相違を數字でいひ表すために、解剖學者は顏面角の度を用ゐるが、顏面角とは通常、鼻の下の一點と耳の孔とを貫く直線と、鼻の下の一點から額の前面へ引いた直線との相交叉する角をいふので、ヨーロッパ人では略八十度、黑奴では七十度、猩々の子供では六十度弱、普通の猿では四十五度位、犬・猫などになると更に一層この角度が鋭い。倂しかやうに種々の相違はあつても、一方から他の方へ階段的に漸々移り行くもの故、特に人間だけをこの列より離して全く別なものと見倣すべき理由は、少しもない。

 

Hitotoennruinonounohikaku

 

[人と猿類の腦の比較

㈠をながざる ㈡てながざる ㈢チンパンジ

㈣しやうじやう ㈤アフリカ土人ブシュマン ㈥ヨーロッパ人]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版を用いたが、記号はオリジナルに附し直してある。]

 

 次に眼・鼻・耳の如き感覺の器官を調べて見るに、眼・耳の構造は人間も犬・猫も殆ど相違はない。鼻に至つては犬・猫の方が遙に人間よりは上等で、香を感ずる粘膜の面積は、人に比すれば何十倍も廣い。また神經系統の中樞なる腦髓を比較して見るに、之も大同小異で、たゞ部分の發達の割合に相違があるだけで、根本的の區別を見出すことは出來ぬ。腦髓は大腦・小腦・延髓等から成り立つて居るが、犬・猫と人間との腦髓の相違は主として大腦の發達の度にある。大腦の發達して居ることは、獸類中で人間が確に一番で、之に近づくものは他に一種もない。この點だけでは人間は實に生物界中第一等に位するものである。倂しながら、この場合に於ても、他の獸類との相違はやはり程度の問題で、他の獸類と同一な仕組に出來て居る大腦が、たゞ一層善く發達して居るといふに過ぎぬ。

 消化・呼吸・排泄等の如き營養の器官は如何と見るに、之また犬・猫などと殆ど同樣で、大體に於ては全く何の相違もないというて宜しい。齒で咀嚼せられ、唾液と混じた食物が、食道を通つて胃に達し、胃と腸とで消化せられ、滋養分が吸收せられること、肋間筋・橫隔膜等の働で肺の中へ空氣を呼吸し、酸素を吸ひ取り、炭酸瓦斯を吐き出すこと、腎臟の中を血液が通過する間に、血液中の老廢物が濾し取られ、小便として體外に排出せられることは、人間でも、猫でも、犬でも少しも違ひはない。

 消化の器官の中でも、齒の形狀、その配列の順序等は、獸類を識別するに當つて最も肝要な點の一として用いられ居るが、人間と犬・猫との齒を比較して見るに、その形狀に門齒・大齒・臼齒等の別あること、門齒が前にあつて、臼齒が奧に位することなども全く同樣で、たゞ些細な所で異なつて居るのみである。齒は食物の種類の異なるに隨つて各動物決して一樣ではないが、それらを竝べ人間の齒をも加へて總べてを比較して見ると、人間だけを特に他の獸類から離すべき理由を發見することは少しも出來ぬ。獸類の中でも東半球の猿類を例に取つて、これと人間とを比較したならば、殆ど少しも相違を見出さぬというて宜しい位である。かやうに身體の各部を順次他の獸類の體部に比較して見ると、大體に於ても、小部分に於ても、互に比べられぬ程に相異なつた部分のないことが明瞭に知れる。

 その他生殖の器官の如きも、比較解剖の書物を見れば明に解る通り、人間も他の獸類も大體に於ては全く同樣の構造を有し、その働に至つて毫も互に相異なる點はない。醫學書を開いて見ると、文句に書くさへ汚らわしいと思はれる所行が、往々或る種類の人間によつて實行せられることが掲げてあるが、これ等も身體の如何なる部分に於ても、人間と他の獸類との間に根本的の相違のない證據である。

 人體の解剖的構造は以上述べた通りであるが、更に微細な組織的構造を調べると、犬・猫との相違は全く無いといふべき程で、犬・猫の骨の薄片と人間の骨の薄片とを顯微鏡の下で取換へて置いても、見る人は少しも氣が附かぬ。その他、筋肉・神經等の纖維でも、或は卵でも、精蟲でも、皆全く同じやうで、到底區別は出來ぬ。極めて丁寧に比較して見れば、少々の相違を發見することは出來るが、その相違は恰も、犬と鼠と、猫と兎となどの間の組織上の相違位で、決して人間だけが他の獸類から遠く離れた特別のものであるといふべき程のものではない。現今解剖學者・組織學者が人體の構造を研究するに當つても、また醫科大學などで醫學生に人體の組織を教へるに當つても、人體の代りに往々犬・猫等を用ゐるは、全く組織學上、人間と犬・猫との間には、殆ど何の相違も見出されぬからである。

 以上は單に生長した人體に就いて論じたのであるが、卵から漸々發生する順序を調べると、また頗る他の獸類と一致したことが多い。牛・豚・兎と人間との胎兒發生の模樣は、既に第十章に略述した通りで、その初期に當つては皆全く同樣で、殆ど區別も出來ず、僅に生長の終りに近づく頃になつて、互の間の相違が現れ、牛は牛、豚は豚、人間は人間と解るやうになる。而してその發生の途中の形狀を檢するに、成人にはない種々の器官が、一度出來て後に再び消えてしまふ。頸の兩側に鰓孔が幾つも出來たり、鰓へ行くべき數對の血管が出來たりすることは、前にも述べたが、これらの點に於ては、犬・猫の胎兒と少しも違はぬ。また生長し終つてからも、身體の各部に不用の器官があるが、之は多くは、犬・猫で實際役に立つて居るもので、人間ではたゞこれらの器官を用ゐる必要がなく、隨つて之を用ゐる力もないといふに過ぎぬ。解剖を調べても、發生を調べても、人間と犬・猫との間の相違は犬・猫と鷄などとの相違に比較しては遙に少いもの故、身體の構造上からいへば、人間だけを他の禽獸蟲魚から離して、その以外の特殊のものと見倣すべき理由は決してない。

[やぶちゃん注:「牛・豚・兎と人間との胎兒發生の模樣は、既に第十章に略述した」特に第十章 發生學上の事實(3) 三 發生の初期に動物の相似ること及び、その次の第十章 發生學上の事實(4) 四 發生の進むに隨ひて相分れることの本文及び図を参照されたい。]

諸國里人談卷之五 源五郞狐【小女郞狐】

 

    ○源五郞狐【小女郞狐】

延寶の頃、大和國宇夛(うた)に「源五郞狐」といふあり。常に百姓の家に雇はれて農業をするに、二人三人のわざを勤む。よつて民家(みんおく)これをしたひて招きける。何國(いづち)より來り、いづれへ歸るといふを、しらず。或時、関東の飛脚に賴まれ、片道十餘日の所を、往來、七、八日に歸るより、そのゝち、度々徃來しけるが、小夜(さよの)中山にて、犬のために死せり。首にかけたる文箱(ふばこ)を、その所より大和へ屆けゝるによりて、此事を知れり。又、同じ頃、伊賀國上野の廣禪寺といふ曹洞宗の寺に、「小女郞狐(こじよらうきつね)」といふあり。源五郞狐が妻なるよし、誰(たれ)いふとなく、いひあへり。常に、十二、三ばかりの小女(しようぢよ)の㒵(かたち)にして、庫裏(くり)にあつて、世事(せじ)を手傳ひ、ある時は野菜を求めに門前に來(きた)る。町の者共、此小女、狐なる事をかねて知る所也。晝中(はくちう)に豆腐などとゝのへ歸るに、童(わらべ)ども、あつまりて、「こぢよろ、こぢよろ」と、はやしけるに、ふり向〔むき〕て莞爾(ほゝゑみ)、あへてとりあへず。かくある事、四、五年を經たり。其後(そののち)、行方(ゆくかた)しらず。

[やぶちゃん注:「莞爾(ほゝゑみ)」これは①のルビ。③では「につこりし」とルビする。

「延寶」一六七三年から一六八一年まで。

「大和國宇夛(うた)」「宇多」であるが、これは奈良県宇陀(うだ)郡。現存(曽爾(そに)村・御杖(みつえ)村)するが、旧郡は二村に現在の宇陀市の大部分を加えた広域。この辺り(グーグル・マップ・データ。宇陀郡の西に斜めに宇陀市は広がる)。

「小夜(さよの)中山」静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)にある峠。標高二百五十二メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

にて、犬のために死せり。首にかけたる文箱(ふばこ)を、

「伊賀國上野の廣禪寺といふ曹洞宗の寺」三重県伊賀市上野徳居町に現存。(グーグル・マップ・データ)。先の現宇陀郡辺りから概ね三十キロメートル北に当たる。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 雞(にはとり)(ニワトリ)

 

和漢三才圖會卷第四十二

     攝陽 城醫法橋寺島良安而順

  原禽類

Niwatori

にはとり  鳩七咜【梵書】

      燭夜

【鷄同】

      【和名加介

      又云久太加介

      又云木綿附鳥】

      【俗云庭鳥】

唐音キイ

 

本綱鷄者𥡳也能𥡳時也其大者曰蜀小者曰荊其雛曰

𪇗【比與子】在卦屬巽在星應昴其類甚多大小形色亦異

其鳴也知時刻其棲也知陰晴無外腎而虧小腸

凡人家無故群鷄夜鳴者謂之荒鷄主不祥若黄昏獨啼

者主有天恩謂之盗啼老鷄能人言者牝鷄雄鳴者雄鷄

生卵者竝殺之卽已俚人畜鷄無雄卽以雞卵告竈而伏

出之南人以鷄卵畫黑煮熟驗其黃以卜凶吉雄鷄毛燒

着酒中飮之所求必得古人言鷄能辟邪則鷄亦靈禽也

鷄雖屬木各以色配之故黃雌雞者屬土坤象溫補脾胃

也烏骨鷄者受水木之氣故肝腎血分之病及虛熱者宜

之但觀鷄舌黑者則肉骨俱烏也白雄鷄者得庚金太白

之象故辟邪惡者宜之其他亦准之

古者正旦磔鷄頭【白雄雞良】祭門戸【東門】辟邪鬼葢鷄乃陽之

精雄者陽之体頭者陽之會東門者陽之方以純陽勝純

陰之義也

少兒五歳以下食雞生蚘蟲 雞肉同糯米食生蚘蟲

鷄肉不可合葫蒜芥李食之 雞肉同生葱食成蟲痔

鷄肉同鯉魚食成癰癤

 都にてなれにしものを庭鳥の旅寢の空は戀しかりけり

万葉我がやとのきつにはめなてくたかけのまたきに鳴てせなをやりつる

古今たかみそき夕つけ鳥そ唐衣たつたの山に降りはへてなく

按鷄家家畜之馴於庭因稱庭鳥又稱家鷄以別野鷄

 其種類甚多尋常雞俗呼名小國能鳴告時而丑時始

 鳴者稱一番鳥寅時鳴者稱二番鳥人賞之丑以前鳴

 者爲不祥俗謂之宵鳴所謂荒鷄盗鷄之類矣呼鷄重

 言之聲曰【音祝】俗云止止止

蜀雞【俗云唐丸】 形大而尾短其中有冠如大鋸齒者呼曰大

 鋸初自中華來爲闘雞最強

暹羅雞【之夜無】 形大於蜀雞而尾殊微少大抵高二尺余

 肩張脛大距尖而長身毛多兀而冠小性勁剛能闘雖

 倒不欲逃是初自暹羅來焉

南京雞 初來於中華南京形似和雞而純白有尨毛脚

 蒼黑冠亦黑色也其冠赤者名地南京

矮雞 形小而脚甚矮【詳于後】

 本綱所謂朝鮮長尾鷄【尾長三四尺】南越長鳴鷄【晝夜鳴叫】南海

 石雞【潮至卽鳴】蜀中鶤鷄楚中鷄【竝高三四尺】此等本朝未曾有

雞卵【中有黃肉白汁白者性寒黃者性溫】 筑前豊前多出之而不及於畿

 内之卵味【畏山椒如藏之同噐則卵腐爛】煑之則白汁包黄肉爲塊譬

 之天地兩象殻乃象總廓無星天【如初投熱湯煑之則殼肉不可離】

 凡雞多淫生數子毎日生一卵人潜取之唯遺一卵則

 逐日生卵數不定始終不取則十二而止矣母雞伏卵

 於翅下二十日許而稍溫暖中子欲出吮聲曰啐母雞

 亦啄孚其雛不待哺自啄粟糏謂之有側則不交取避則生卵】

[やぶちゃん注:「」=「𣫠」-「殳」+「鳥」(一字の中の構成要素に「鳥」が二つある)。]

 凡經百八十日始鳴告時未亮亮如人呵坤又可二十

 日聲大定能爲各曷課之聲其鳴也雌先啄叩雄翅令

 知其時則雄發聲蓋此陰陽相待之義乎

 韓詩外傳曰雞有五德頭戴冠【文也】足傅距【武也】敵在前敢

 闘【勇也】見食相呼【仁也】守夜不失時【信也】葛洪云凡古井及五

 月井中有毒不可輙入卽殺人宜先以雞毛試之毛直

 下者無毒回旋者有毒也感應志云五酉日以白雞左

 翅燒灰揚之風立至以黑犬皮毛燒灰揚之風立止也

 相傳如有人溺于池川未尋獲屍骸則乘鷄於板筏泛

 水上鷄能知所在而鳴於是探獲其骸焉

 

 

「和漢三才圖會」卷第四十二

     攝陽 城醫法橋寺島良安而順編

  原禽類

 

にはとり  鳩七咜〔(きゆうしちた)〕【梵書。】

      燭夜〔(しよくや)〕

【「鷄」も同じ。】

      【和名、「加介〔(かけ)〕、

      又、「久゙太加介〔(くだかけ)〕とも

      云ふ。又、「木綿附(ゆふづけ)鳥」

      と云ふ。】

      【俗に「庭鳥」と云ふ。】

唐音キイ

 

「本綱」、鷄は「𥡳」なり。能く時を𥡳(かんが)ふなり。其の大なる者、「蜀」と曰ひ、小なる者、「荊〔(けい)〕」と曰ふ。其の雛を「𪇗(ひよこ)」と曰ふ【「比與子」。】。卦(け)に在りては、「巽〔(そん)〕」に屬し、星に在りては「昴(すばる)」應ず。其の類、甚だ多し。大小・形・色も亦、異なり。其の鳴や、時刻を知り、其の棲(す)むや、陰晴を知る。外腎、無くして小腸を虧(か)く。

凡そ、人家、故無くして、群鷄、夜(よひ)に鳴く者は、之れを「荒鷄〔くわうけい)〕」と謂ひ、不祥を主〔(つかさ)〕どる。若〔(も)〕し、黄昏(ゆふぐれ)に獨り啼く者は、天恩有ることを主どる。之れを「盗啼〔(とうてい)〕」と謂ふ。老鷄、人言〔(じんげん)〕能くする者、牝鷄(めどり)の雄鳴(を〔なき〕)する者、雄鷄(〔を〕どり)の卵(たまご)を生〔(しやう)〕ずる者、竝びに之れを殺すときは、卽ち、已〔(や)〕む。俚人、鷄を畜〔(か)〕ふて、雄、無きとき、卽ち、雞-卵(たまご)を以つて、竈〔(かまど)〕に告げて、伏して、之れを出だす。南人、鷄卵を以つて黑を畫(えが)き、煮熟して其の黃を驗(こゝろ)み、以つて凶吉を卜〔(うらな)〕ふ。雄鷄の毛を燒きて、酒中に着〔(つ)〕けて之れを飮めば、求むる所、必ず、得〔(う)〕。古人の言〔(いは)〕く、「鷄、能く邪を辟〔(さ)〕く」といふときは、則ち、鷄も亦、靈禽なり。鷄、「木」に屬すと雖も、各〔おのおの)〕色を以つて之に配す。故に黃雌雞(あぶらのめどり)は「土」に屬す。坤〔(こん)〕の象〔(かた)〕ち、脾胃を溫補するなり。烏骨鷄〔(うこつけい)〕は「水」・「木」の氣を受くる故に、肝腎・血分〔(けつぶん)〕の病ひ及び虛熱の者、之れに宜〔(よ)〕し。但し、鷄の舌、黑き者を觀る〔は〕、則ち、肉・骨、俱〔(とも)〕に烏(くろ)し。白〔き〕雄鷄は、庚・金・太白の象〔(しるし)〕を得。故に邪惡を辟〔(さ)〕くるは、之れに宜〔(よ)〕し。其の他、亦、之れに准〔(したが)〕ふ。

古(いにし)へには、正旦に鷄の頭〔(かしら)〕を磔(はりつ)け【白〔き〕雄雞、良し。】、門戸に祭り【東門。】邪鬼を辟く。葢し、鷄、乃〔(すなは)ち〕、陽の精、雄は陽の体〔(てい)〕、頭は陽の會〔(くわい)〕、東門は陽の方〔(かた)〕。純陽を以つて純陰に勝つの義なり。

少兒、五歳以下にして雞を食へば、蚘蟲〔(くわいちゆう)〕生ず。

雞肉、糯米〔(もちごめ)〕と同じく食へば、蚘蟲、生ず。

鷄肉、葫蒜〔(にんいく)〕・芥〔(からし)〕・李〔(すもも)〕に合せて之れを食ふべからず。

雞肉、生葱〔(なまねぎ)〕と同じく食へば、蟲痔と成る。

鷄肉、鯉魚〔(こい)〕と同じく食へば、癰癤〔(ようせつ)〕と成る。

 都にてなれにしものを庭鳥の旅寢の空は戀しかりけり

「万葉」

 我がやどのきつにはめなでくだかけのまだきに鳴〔(なき)〕てせなをやりつる

「古今」

 たがみそぎ夕つげ鳥ぞ唐衣たつたの山に降りはへてなく

按ずるに、鷄、家家、之れを畜ひて庭に馴〔(な)〕る。因りて「庭鳥」と稱す。又、「家鷄(かけ)」と稱す。以つて「野鷄〔(やけい/きじ)〕」に別〔(わか)〕つ。其の種類、甚だ多し。尋常(よのつね)の雞、俗に呼びて「小國〔(しやうこく)〕」と名づく。能く鳴きて、時を告げて、丑の時より始めて鳴く者を「一番鳥」と稱す。寅の時、鳴く者を「二番鳥」と稱し、人、之れを賞す。丑より以前に鳴く者を不祥と爲す。俗に之れを「宵鳴〔(よひなき)〕」と謂ひ、所謂、「荒鷄」・「盗鷄」の類ひなり。鷄を呼ぶ重言の聲を「(とゝ)」【音、「祝」。】と曰ひ、俗に「止止止(と〔とと〕)」と云ふ。

蜀雞(とうまる)【俗に「唐丸」と云ふ。】 形、大にして、尾、短し。其の中、冠(さか)、大鋸(だいぎり)の齒(は)の者ごとくなる者、有り。呼んで、「大鋸〔(だいぎり)〕」と曰ふ。初め、中華より來りて闘雞(とりあわせ[やぶちゃん注:ママ。])を爲す。最も強し。

暹羅雞(しやむどり)【「之夜無」。】 形、蜀雞〔(とうまる)〕より大にして、尾、殊に微少なり。大抵、高さ二尺余。肩、張り、脛〔(はぎ)〕、大(ふと)く、距(けづめ)尖りて長く、身の毛、多くは兀(はげ)て、冠(さか)小さし。性、勁剛にして、能く闘(たゝか)ふ。倒〔(たふる)〕と雖も、逃げんと欲せず。是れ、初め、暹羅より來れり。

南京雞(なんきんどり) 初め、中華の南京より來たる。形、和雞(しやうこく)に似て純白。尨毛(むくげ)有り。脚、蒼黑、冠も亦、黑色なり。其の冠〔(さか)〕、赤き者を「地南京」と名づく。

矮雞(ちやぼ) 形、小にして、脚、甚だ矮(ひく)し【後に詳〔(つまびら)〕かにす。】

 

 「本綱」に所謂〔(いはゆ)〕る、朝鮮の「長尾鷄」【尾の長さ、三、四尺。】・南越〔の〕「長鳴鷄〔(ながなきどり)〕」【晝夜、鳴き叫ぶ。】・南海の「石雞〔(せきけい)〕」【潮、至れば、卽ち、鳴く。】・蜀中の「鶤鷄〔(うんけい)〕」・楚中の「鷄〔(さうけい)〕」【竝びに、高さ三、四尺。】、此等は、本朝、未だ曾つて有らず。

雞卵(たまご)【中に、黃肉・白汁、有り。白き者、性、寒。黃の者、性、溫。】 筑前・豊前、多く之れを出だす。而〔れども〕、畿内の卵の味に及ばず【山椒を畏る。如〔(も)〕し之れを同〔じき〕噐〔うつは〕に藏せば、則〔すなはち〕、卵、腐爛す。】。之れを煑るに、則ち、白汁、黄の肉を包む。塊〔(かたまり)〕を爲す。之れを天地の兩象〔りやうしやう〕に譬〔(たと)〕へ、殻は乃〔(すなは)ち〕、總廓無星天に象〔(かた)〕どる【如〔(も)〕し、初めより熱湯に投じて之れを煑れば、則ち、殼・肉、離るべからず。】。

 凡そ、雞は多淫にして、數子を生む。毎日、一卵を生ず。人、潜かに之れを取りて、唯、一卵を遺(のこ)せば、則ち、日を逐(お)ひて卵を生ず。數、定まらず、始終、取らざるときは、則ち、十二にして止む。母雞、卵を翅の下に伏せ、二十日許りにして、稍〔(やや)〕溫-暖(あたゝま)り、中の子、出でんと欲して吮〔(すす)〕る。〔その〕聲を「啐(しゆつ)」と曰ふ。母雞も亦、啄(つゝ)いて、孚(かへ)る。其の雛、哺(くゝめ)を待たず、自〔(みづか)〕ら粟・糏(こゞめ)を啄(ついば)む。之れを「(ひよこ)」と謂ふ【〔母雞、〕〔(ひよこ)〕、側〔(そば)〕に有るときは、則ち、交(つる)まず。、取り避けなば、則ち、卵を生ず。】。凡そ、百八十日を經て、始めて鳴きて時を告ぐ。未だ亮亮〔(りやうりやう)〕ならず。人の呵坤(あくび)するがごとし。又、二十日可(ばか)りにして、聲、大きに定まり、能く「各曷課(こつかつこを[やぶちゃん注:ママ。])」の聲を爲す。其の鳴くや、雌(めどり)、先づ、雄の翅を啄-叩(つゝ)いて、其の時を知らしむるとき、則ち、雄〔(をどり)〕、聲を發す。蓋し、此れ、陰陽相待の義か。

[やぶちゃん注:「」=「𣫠」-「殳」+「鳥」(一字の中の構成要素に「鳥」が二つある)。]

 「韓詩外傳」に曰く、『雞に五德有り。頭に冠(さか)を戴くは【「文」なり】。足に距(けづめ)を傅〔(つ)くる〕は【「武」なり】。敵、前に在りて、敢へて闘ふは【「勇」なり】。食〔(しよく)〕を見ては相ひ呼ばふは【「仁」なり】。夜を守りて時を失はざるは【「信」なり】』〔と〕。葛洪〔(かつこう)〕が云はく、『凡そ、古井(ふるゐ)及び五月〔の〕井中、毒、有り、輙(かるがるし)く入るべからず。卽ち、人を殺す。宜しく、先づ、雞の毛を以つて之れを試すべし。毛、直〔ただち〕に下る者は、毒、無し。回-旋(めぐ)る者は、毒、有るなり。』〔と〕。「感應志」に云はく、『五〔の〕酉〔(とり)〕の日、白雞の左の翅を以つて、灰に燒き之れを揚ぐれば、風、立ちどころに至る。黑犬の皮毛を以つて、灰に燒き、之れを揚ぐれば、風、立どころに止むなり。』〔と〕。相ひ傳ふ、如〔(も)〕し、人、有りて、池川に溺(をぼ[やぶちゃん注:ママ。])れて、未だ屍骸を尋ね獲〔(え)〕ざれば、則ち、鷄を板筏〔(いたいかだ)〕に乘せて水上に泛〔(うか)ぶれば〕、鷄、能く所在を知りて、鳴く。是に於いて、其の骸〔(むくろ)〕を探(さぐ)り獲〔(と)〕る。

[やぶちゃん注:鳥綱キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ Gallus gallus domesticus

𥡳」「稽」と同字。「稽」には「考える」の意がある。時の経過を認識するから鬨を挙げることが出来るのである。

「陰晴を知る」天候を予知する。

「外腎」漢方では「腎」「内腎」・「副腎」・「外腎」の三部に分かたれ、「内腎」・「副腎」は西洋医学の腎臓と副腎を指し、「外腎」は、腎臓及び副腎を除いた泌尿器(膀胱や尿道)と雌雄生殖器を指す。無論、この認識はトンデモないことなるが、鳥類は単一の総排出腔であるから、そうした認知があったとして不思議ではない。

「小腸を虧(か)く」「虧」は「缺」(欠)に同じい。よく判らぬが、漢方医学では六腑の中の「小腸」は五行の「火」を司る機能を持つとされる。さて以下では鷄について五行に当て嵌めた叙述が続くが、そこでは基本、鷄は「木」に当たるとしつつも、色によってエレメントが変わり、「黃雌雞(あぶらのめどり)」は「土」であり、「烏骨鷄〔(うこつけい)〕は「水」・「木」であるとする。さらにまた、「白〔き〕雄鷄は、庚・金・太白の象〔(しるし)〕を得」と「金」が出る。則ち、この叙述を見る限りでは、「鷄」は五行の内の四つのエレメント「木」・「土」・「金」・「水」と親和性があることが記されているから、「火」の臓器である「小腸」はないということになるのかも知れぬ。

「夜(よひ)」「宵」。

「不祥」不吉な前兆。

「天恩有ることを主どる」東洋文庫版注に、「本草綱目」は『版によっては「天恩」が「火患」となっているものがある。「天恩」なら吉兆であろうが、「火患」なら凶兆であろう。意味は全く逆になる』とある。私の見た版では「火患」であり、朝を告げるのが吉兆で、夜は凶兆とくれば、物の怪の跳梁する夜の到来を危ない境界時間である黄昏、逢魔が時に鳴くそれはやはり凶兆(警告としての)であろう。「盗啼〔(とうてい)〕」という名も瑞兆を齎すものへの命名とは私には思われない。但し、後にも和歌に出るように「夕告げ鳥」は鶏のフラットな別名ではある。

「人言〔(じんげん)〕能くする者」人語を巧みに操る鷄。遇いたくない。

「牝鷄(めどり)の雄鳴(を〔なき〕)する者、雄鷄(〔を〕どり)の卵(たまご)を生〔(しやう)〕ずる者」これは鳥類では多種でも見られる化(雄変:ホルモン・バランスの変化によって生じ、のような行動(大きな鬨や求愛行動)を起したり、ニワトリの場合は鶏冠が並みに大きくなる現象)を誤認したものであろう。発生学上、鳥類が性転換することはあり得ない。

「竝びに」一律に。孰れも。

「雄、無きとき、卽ち、雞-卵(たまご)を以つて、竈〔(かまど)〕に告げて、伏して、之れを出だす」これは恐らく、鶏を飼育したものの、雄がいない場合は、彼らが生んだ卵を、竈に持って行き、竈神にその由を告げて、祈った上、雌鶏に「伏」せさせて=抱かせると、必ずや、雛が孵る、と言っているようである(東洋文庫訳もそのように訳している)。但し、雌鶏しかいないのだから、それは無精卵であって、決して孵ることはないのだから、これはあり得ない。こんなことが起こり得るのは、こっそり間男した近所の雄鶏とつるんで出来た有精卵だったんだろうねぇ。

「南人」旧中国の南方の民。

「鷄卵を以つて黑を畫(えが)き、煮熟して其の黃を驗(こゝろ)み、以つて凶吉を卜〔(うらな)〕ふ」「本草綱目」は、

   *

南人、以鷄卵畫墨、煑熟驗其黃、以卜吉凶。

   *

であるから、「黑」は「墨」誤記で、「墨(すみ)を以って占うための記号としての字を殻に画(か)き、それを茹でて、割れて噴出した、或いは割って見た黄身の様態を観察して、吉凶を占った、という意味と思われる。

「黃雌雞(あぶらのめどり)」鶏の一品種らしい。中文サイトのこちらに画像がある。

「脾胃」漢方では広く胃腸、消化器系を指す語。

「烏骨鷄〔(うこつけい)〕」ウィキの「烏骨より引く。『烏骨(黒い骨)という名が示す通り、皮膚、内臓、骨に到るまで黒色である。羽毛は白と黒がある。成鳥でもヒヨコ同様に綿毛になっている』。『足の指が、普通のニワトリと同じ前向き』三『本に加え、後ろ向きの指が普通のニワトリの』一本に対し、二~三本あり、計五~六本あるのも『大きな特徴である。一般的な鳥類は指の数が』四『本であり』、五『本(以上)ある種類は本種のみである』。『一般的なニワトリのみならず、鳥類全般から見ても特異な外見的特徴から、中国では霊鳥として扱われ、不老不死の食材と呼ばれた歴史がある。実際、栄養学的に優れた組成を持ちまた美味であるため、現在でも一般的な鶏肉と比較して高価格で取引されている。また、卵も同様の理由により非常に人気が高く、産卵数も週に』一『個程度と少ないことから、一般的な鶏卵と比較して非常に高価である』。『商用として飼育するほかにも愛玩用として家庭で飼育される事もある。コンテストなども開かれている。手入れ次第では鶏とは思えないほど非常に綺麗な毛並みとなる』。『マルコ=ポーロ著「東方見聞録」にもウコッケイに関する記述が見られる』とある。

「血分」病が血にあるもの、温熱病(急性の熱性疾患)でも最も深いレベルに病いがあること、月経閉止により水気病(水の代謝異常に起因する病気)になること等を指す。

「虛熱」陽気は正常値であるが、陰気が不足しているために発生する熱性症状を指す。

「庚・金・太白の象〔(しるし)〕」東洋文庫注に。『庚は十干の一つ。五行では金、星では太白にあたる』とある。

「蚘蟲〔(くわいちゆう)〕回虫。現行では狭義には線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫目回虫科カイチュウ Ascaris lumbricoides であるが、ここでは広汎なヒト寄生虫の総称。

「蟲痔」不詳。或いは寄生虫が多数寄生して腸を閉塞させて生じた痔か。単なる便秘とも思われない。

「癰癤〔(ようせつ)〕」「癰」は浅く大ききな悪性の腫れ物。「癤」は毛包(毛根の周囲)が細菌に感染し、皮膚の中で膿が溜まって炎症を起こしている毛嚢炎の状態を指す。

「都にてなれにしものを庭鳥の旅寢の空は戀しかりけり」出典不詳。

「我がやどのきつにはめなでくだかけのまだきに鳴〔(なき)〕てせなをやりつる」「万葉」集とするが、「伊勢物語」の誤り。これは第十四段(「姉葉の松」)に出る女の歌、

 夜も明けばきつにはめなで腐家鷄(くたかけ)のまだきに鳴きてせなをやりつる

で、陸奥が舞台で、方言らしく、諸説ある歌として知られる。「腐れにわとり」め未だ明けぬに鳴いて「背な」(愛しい男)を帰してしまったわ! 夜が明けたらあいつを「きつ(水を入れた木桶)に嵌(は)め込んで溺れ殺してやらぬものか!」とも、「狐(きつ)に食(は)ませてやる!」の意とも。初句も異なり、どこからどうして引いたものか? 不審極まりない

「たがみそぎ夕つげ鳥ぞ唐衣たつたの山に降りはへてなく」「古今和歌集」巻第十八「雑歌下」の「よみ人知らず」の一首(九九五番)であるが、「鳥ぞ」は「鳥か」の誤りであり、「降り」の漢字表記は半可通な誤りと思う。

 誰(た)が禊(みそぎ)ゆふつけ鳥か唐衣(からもろも)龍田の山にをりはへて鳴く

技巧臭い頗る厭な歌だが、一応、注しておく。「禊」「ゆふつけ」(後述)「唐衣」及び「龍田」の「たつ」(截つ)や「をり」(織(お)り。「古今和歌集」では「おりはえて」と歴史的仮名遣を誤記している)は縁語であろう。「ゆふつけ鳥」は「木綿(ゆふ)付け鳥」(木綿は楮(こうぞ)の木の皮で作った襷(たすき)で神への奉仕の際に掛ける神聖具であるが、古くは鶏にこの木綿をつけて、都の四境の関所で祓(はらえ)をした)と「夕告げ鳥」(鶏の異名)の掛詞。なお、前者及び後者の鶏は人を隔てる関というアイテムから、通常は男女の関係を邪魔するものとして使用されることが殆んどで、ここも時間の経過を急かすように告げるそれと読んでよかろう。「唐衣」「たつ」の枕詞。「をりはへて」「をる」は「重ねる」の、「はふ」は「延ばす」の意で、「長く続けて」。

「野鷄〔(やけい/きじ)〕」鳥綱キジ目キジ科キジ亜科キジ属キジ Phasianus versicolor。なお、現在は別にニワトリを含むキジ亜科ヤケイ属 Gallus が種群として実際に別に存在するので注意が必要。次の次で独立項「きじ きぎす 野鷄」として出る。

「其の種類、甚だ多し」ウィキの「ニワトリ」によれば、『欧米では、主に卵用や肉用に、産卵性や増体性を特化させて飼育されてきた品種が多い中』、日本では古くから『観賞用に多くのニワトリを飼育し、親しまれてきた。外観の美しさを重視したものでは、尾や蓑の羽毛が長いもの、色彩の豊かなもの、個性的な特徴をもつものを選抜した。さらに、鳴き声にも注目し、美しく鳴くもの、長く鳴くもの、変わった鳴き方をするものを選抜した。そうして作られた品種を日本鶏(にほんけい)と呼ぶ』。世界規模ではニワトリは二百五十品種(より細分化すると、五百品種を上回るとされるものの、素性が不明なものが多く含まれる)程の品種が存在するが、その内、日本鶏は五十品種に上回る、とある。

「小國〔(しやうこく)〕」一般的には「小国鶏」と書いて「しょうこく」と呼ぶことが多く、別に「おぐにどり」と呼ばれることもある。既に昭和一六(一九四一)年に国指定「天然記念物」となっている。主な飼育地は京都府・三重県等。平安初期に中国寧波府昌国(現在の浙江省舟山(しゅうざん)市定海区昌国。ここ(グーグル・マップ・データ))から日本に渡来したことからの命名とされる。闘鶏の一種として古くから飼われ、多くの日本鶏の成立に関わった。体重は二千グラム・千四百五十グラム。鳴き声は長く、時間を正しく知らせたことから「正告」または「正刻」とも呼ばれた。「尾長鶏」は、この品種から改良されたものだと伝えられる(「はてな・キーワード」の「小国鶏」を主に参考にした)。凛々しい姿はサイト「烏骨鶏 にわとりのページ」の「にわとり画像掲示板」のこちらで見られる。

「丑の時」午前一時から午前三時頃。

「寅の時」午前三時から午前五時頃。

「荒鷄」「あらどり」と訓じておく。古い時代に完全に野生化した個体群であろう。

「盗鷄」「ぬすみどり」と訓じておく。比較的近い時期に家畜であったものが脱走し、野生化した個体群であろうか。

「鷄を呼ぶ重言の聲」ニワトリを呼び寄せる時に声がけする連続した同一音のこと。

(とゝ)」現代中国語(zhōu:カタカナ音写:ヂォゥ)でも、擬声擬態語で「鶏を呼ぶ声」とあり、辞書には『喌喌』で『トットッ』と訳がある。

「蜀雞(とうまる)【俗に「唐丸」と云ふ。】」昭和一四(一九三九)年に国指定「天然記念物」となっている。サイト「畜産ZOO鑑」の「長鳴き鶏ってこんなニワトリ!」によれば、新潟県産で、『力強い中高音で謡』い、『謡(うたい)の中間は特に強く張り上げるのが良いとされ、ひらがなの「ろ」を横に見たような謡いかたが良いとされている』。『声の長さ』は八秒から十三秒で、最長記録は約二十三秒(リンク先では、その長鳴きが実際に聴ける。必聴!)。『大型で尾羽も豊富でやや長く、雄大な体形。尾羽は幅が広く、また羽軸が丈夫なため』、『「獅子頭」の髪として使われる』とある。羽は『全身光沢にとんだ緑黒色で、脚も黒く「真黒(ほんぐろ)」とよばれる』。『体重』はで約四キロクラム。『活発で』、『体質も強く』、『寿命が長い。やや警戒心が強いが』、『飼い主には良く慣れる』とある。

「冠(さか)」良安は一貫して「さか」としかルビを振らない。国立国会図書館デジタルコレクションの中外出版社刊の活字版「和漢三才圖會」(明三四(一九〇一)年より翌年にかけて刊行)の「雞」でも『サカ』とする。これは「鶏冠(とさか)」の古語で上代から見られる。「とさか」はニワトリなどのキジ科 Phasianidae の一部の鳥に見られる頭上の肉質の冠状突起で、形状によって「単冠(たんかん)」・「ばら冠」・「豌豆(えんどう)冠」などに区別される。♀♂の識別やディスプレイのための機能を持ち、よりでよく発達しており、発達の程度は性ホルモンの影響を受ける(前に記したの雄変ではのトサカがのように肥大してくる)

「大鋸〔(だいぎり)〕」「とさか」の形状からの鶏自体の名称であろう。

「暹羅雞(しやむどり)【「之夜無」。】」現在の「軍鶏(しゃも)」のことである。「日本農林規格」に於けるニワトリの在来種ともされ、昭和一六(一九四一)年に国指定「天然記念物」。ウィキの「軍鶏によれば、『シャモの名は、当時のタイの旧名・シャムに由来する。日本には江戸時代初期にタイから伝わったとされるが、正確な時期は不明。闘鶏の隆盛とともに各地で飼育され、多様な系統が生み出された。闘鶏は多く賭博の手段とされたため、賭博が禁止されるとともに闘鶏としての飼育は下火になったが、食味に優れるため』、『それ以後も飼育は続けられた。現在は各地で食用として飼育されている(天然記念物でも、飼育や食肉消費は合法)』。『オスは非常に闘争心が強い』。『三枚冠もしくは胡桃冠で首が長く、頑強な体躯を持つ。羽色は赤笹、白、黒等多様。身体の大きさにより大型種、中型種、小型種に分類されるが、系統はさらに細分化される』という。『闘鶏、食肉、鑑賞目的に品種改良が行われてきた。本来が闘鶏であるため』、『オスはケージの中に縄張りをつくり、どちらかが死ぬまで喧嘩をするため、大規模飼育が難しい。食肉用には気性の穏やかな他の品種との交配種も作られ、金八鶏など品種として定着したものも存在する。また海外に輸出され、アメリカにおいてはレッドコーニッシュ種の原種ともなった』。『主な飼育地は、東京都、茨城県、千葉県、青森県、秋田県、高知県など。沖縄方言ではタウチーと呼ぶが、台湾でも同じように呼ばれており、昔から台湾(小琉球)と沖縄(大琉球)の間に交流があったことの裏づけとなっている』。『闘鶏には気性の激しい個体ほど好まれ、闘鶏で負けた鶏や、闘争心に欠けると判定された鶏は、ただちに殺されて軍鶏鍋にされた。そのため、江戸時代から食用としても知られ、江戸末期には軍鶏鍋が流行したとされる。また、戦いのために発達した軍鶏の腿や胸の筋肉には、ブロイラーにはない肉本来のうまみがあり』、『愛好者が多く、他の地鶏に比べて大型であるために肉量が多い。他の地鶏とシャモを掛け合わせた一代雑種の「おとし」、「しゃもおとし」が軍鶏鍋に使われるようになると、鶏肉の代名詞として定着するようになった』とある。私は即座に漱石の「こゝろ」の以下の印象的なシークエンス(リンク先は私のブログ版の公開当時と月日をシンクロさせたもの)『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月17日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十五回の「先生」とKの房州旅のコーダの『我々は眞黑になつて東京へ歸りました。歸つた時は私の氣分が又變つてゐました。人間らしいとか、人間らしくないとかいふ小理窟は殆ど頭の中に殘つてゐませんでした。Kにも宗教家らしい樣子が全く見えなくなりました。恐らく彼の心のどこにも靈がどうの肉がどうのといふ問題は、其時宿つてゐなかつたでせう。二人は異人種のやうな顏をして、忙がしさうに見える東京をぐるぐる眺めました。それから兩國へ來て、暑いのに軍鷄(しやも)を食ひました。Kは其勢(いきほひ)で小石川迄歩いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ應じました』を思い出す。

「兀(はげ)て」「禿」の誤字。「兀」は「高く突き出ているさま」を指す語。

「南京雞(なんんきんどり)」南京軍鶏或いは越後南京軍鶏であろう。小型の軍鶏で、前者については丈は三十センチメートルほどにしかならず、手乗りになるという記載もある。

「和雞(しやうこく)」先の「小國」の当て訓。

「矮雞(ちやぼ)」昭和一六(一九四一)年、国天然記念物に指定。次の独立項で「ちやぼ 矮雞」として出るのでそちらで注する。

「本綱」巻四十八の「禽之二 原禽類」の巻頭の「雞」。

「長尾鷄」高知県原産の尾長鶏国特別天然記念物指定)がいるじゃないかと思った。ウィキの「オナガドリ」を見ると、『オナガドリの始まりは、江戸時代に土佐藩主の山内家が、参勤交代の際に使う飛鳥という槍飾りに用いる長い鶏の尾を農民から集めたことに』始まり、明暦(一六五五年~一六五七年)頃の土佐国大篠村(現在の高知県南国市大篠)で、武市利右衛門がオナガドリの原種白藤種を作り出した』。『伝説では地鶏とキジや山鳥と交配して作ったとされているが、正確な記録は残されていない』とある。本「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年頃(自序クレジット)の完成であるから、既にオナガドリはいたと考えてよい。以下、『土佐には東天紅鶏やチャボを含めて鶏の美しさを競う文化があり、オナガドリもその一環として、昭和初期には高知県内全体で飼育数が』五百『羽以上に増えた。雨戸の戸袋で飼って尾羽の抜けを防ぐ、ドジョウなど動物性蛋白質の餌を与えるといった、尾羽を伸ばすための工夫が凝らされた』。大正一二(一九二三)年に『国の天然記念物に指定されたが、太平洋戦争が始まり、その数は』九『羽まで激減』したため、昭和二七(一九五二)年に『国の特別天然記念物に指定された』。『ニワトリは通常一年に一度羽が生え換わるが、オスのオナガドリは尾羽が生え換わらないため、尾が非常に長くなる。明治時代までは尾の長さは』三メートル『程度であったが』、『大正時代に止箱(とめばこ)と呼ばれる縦長の飼育箱が開発され、尾が損傷しないよう』、『鳥の動きを抑制する飼育法が行われるようになり、尾がさらに長く成長するようになった』。『尾は若いうちは一年に』八十センチメートルから一メートル『程度、成長するが』、『加齢とともに尾の伸びる早さは鈍る。鶏が長生きした場合には尾の長さが』十メートル『以上に達することもあり、最も長いのは』昭和四九(一九七四)年に十三メートル『という記録がある』。『現在では尾がそれほど長くならなくな』『っている』が、『これは近親交配の増加が影響しているとみられ、南国市ではDNA解析を基にした交配で、元の姿を取り戻す保護作戦を始めている』とある。無論、「本草綱目」の「長尾鷄」は全くの別品種である可能性が高いかも知れぬが、まあ、わざわざ「本朝、未だ曾つて有らず」と言うのはおかしいでショウ! 良安先生!

「長鳴鷄〔(ながなきどり)〕」先に掲げた、サイト「畜産ZOO鑑」の「長鳴き鶏ってこんなニワトリ!」には「蜀鷄(トウマル)」の他に、「東天紅鶏(トウテンコウ)」と「声良鶏(コエヨシ)」が挙げられている。少なくとも今は超長鳴きの三種がいますよ! 良安先生!

「南越」中国南部からベトナム北部にかけての地方(嶺南地方)の旧称。

「南海」広東省の沿岸地域ととっておく。

「石雞〔(せきけい)〕」これは現代中国でも「石鷄」を当てるものの、広義に見てもニワトリの類ではない、キジ科イワシャコ属イワシャコ(岩鷓鴣)Alectoris chukar である。同種につてはウィキの「イワシャコ」を参照されたい。但し、本種は中国では殆んどの分布が内陸の丘陵や高地であり(渤海湾湾奧のやや内陸部には分布)、「潮、至れば、卽ち、鳴く」という叙述とは(これが海辺であるとするならば)齟齬する気がするので、「本草綱目」のそれは或いは全くの別種である可能性が高いのではないかと私には思われる。

「蜀中」四川省。

「鶤鷄〔(うんけい)〕」これは現行では先の「蜀雞(とうまる)」の異名である。

「楚中」湖南・湖北地方。

鷄〔(さうけい)〕」不詳。なお、「本草綱目」では「鷄」となっている。

【竝びに、高さ三、四尺。】此等は、

「總廓無星天」不詳。無限の宇宙の外郭のことか。

「吮〔(すす)〕る」「吸う・舐める」の意。殻の内側をそうするということであろう。

「啐(しゆつ)」辞書に「啐啄(そったく)」という語が載り、「そつ」は「啐(さい)」の慣用音。雛が孵(かえ)ろうとする際に雛が内から突(つつ)くのを「啐」、母鳥が外から突くのを「啄」と称するとあって、原義は「禅に於いて師家と修行者との呼吸がぴったり合うこと。機が熟して弟子が悟りを開こうとしている時を指して言う語」とし、そこから、転じて「得難(えがた)い絶好の時機」の意とある。今の安倍政権の政治には「啐啄(そったく)」はなく、あるのはただ「忖度(そんたく)」のみというわけだ。ただ、言っておくが、今現在、「忖度」を悪い意味でしか認識していない国民が、最早、大半なのではないかと思うと悲しい。これは、それほど「忖度」という語が死語になりかかっていたということなのだ。「忖」も「度」もフラットに「はかる」の意であり、「他人の気持ちを推(お)し測ること・推察」というやはりフラットな意味だということをもっと理解しないと、そのうち、「忖度」は悪い用語として「特定の人間の便宜を図る不公平な配慮」という意味に成り下がってしまう! 「良い忖度」と「悪い忖度」という使い分けをするべきである。安倍政権のそれは無論、「最悪不当の差別的忖度」と言うわけだ。

「哺(くゞめ)」動詞「哺(くく)む」(マ行下二段活用・「口の中食べ物を含ませる」の意)の名詞化。

(ひよこ)」(「」=「𣫠」-「殳」+「鳥」(一字の中の構成要素に「鳥」が二つある))雛(ひよこ)。実は東洋文庫訳では字を説明するのに用いた「𣫠」の字で翻刻しているのであるが、私の調べた限りでは、この字は「鳥の卵」の意であって、「雛(ひよこ)」の意味ではないので採らない

「糏(こゞめ)」屑米。米の欠片(かけら)。

「亮亮〔(りやうりやう)〕」ごく明瞭ではっきりしていること。

「呵坤(あくび)」「欠伸」。

「各曷課(こつかつこを[やぶちゃん注:ママ。])」「課」は音「クヮ(カ)」で、現代中国音「」(カタカナ音写:クゥーァ)で異様な感じに見えるが、オノマトペイアとして、れを素直に発音してみると、「コッカッコオ!」で、今の鶏鳴の擬音「コッコッ、コケッコ!」に非常に近いことが判る。

「其の鳴くや、雌(めどり)、先づ、雄の翅を啄-叩(つゝ)いて、其の時を知らしむるとき、則ち、雄〔(をどり)〕、聲を發す。蓋し、此れ、陰陽相待の義か」鶏が鳴く時は、実は、まず、雌鶏(めんどり)が雄鶏(おんどり)の羽を突(つつ)いて、「鬨を挙げる時が来ましたよ」とそれとなく知らせる。すると雄鶏が、やおら鬨の声を発するのである。いや、これはまさに雌雄=陰陽相待(普通は相対する陰陽が時に相い応じて新たな創造的変化の推進を行うこと)の原理に基づくものか。

「韓詩外傳」前漢の韓嬰(かんえい)の撰になる「詩経」の詩句を引いて古事古語を考証した書。説話集に近い。現行本は全十巻。ウィキの「韓詩外によれば、韓嬰は「漢書」の「儒林伝」によれば、『文帝の博士・景帝の常山太傅』を歴任し、『武帝の前で董仲舒と論争をしたが、韓嬰の説くところは明晰であって、董仲舒は論難することができなかったという』碩学である。「詩経」の『学問として、前漢では轅固生の斉詩・申公の魯詩・韓嬰の韓詩の』三『つの説が学官に立てられた。これらを三家詩(さんかし)と呼ぶ。現行の毛詩が古文の説であるのに対し、三家詩は今文に属する』。『韓詩について』は「漢書」の「芸文志」にはそれらの多数の著作が挙げられてあるが、『宋以降』、この「外伝」『以外は滅』んでしまい、三家詩ではこれが『現存する唯一の書物である』とある。同書は直接に「詩経」と『関係する書物ではなく、一般的な事柄や、いろいろな故事を述べた上で、話に関係しそうな』「詩経」の『句を引いたもので』、全部で三百条あまりの『話を載せるが、その中には「詩経」を『引いていないものも』二十八『条あり、脱文かと』も言われる、とある。以下の鶏の五徳は巻二に以下のように出る。良安の割注挿入はよろしくない。

   *

伊尹去夏入殷、田饒去魯適燕、介之推去晉入山。田饒事魯哀公而不見察、田饒謂哀公曰、「臣將去君、黃鵠舉矣。」。哀公曰。「何謂也。」。曰、「君獨不見夫雞乎。首戴冠者、文也。足搏距者、武也。敵在前敢鬥者、勇也。得食相告、仁也。守夜不失時、信也。雞有此五德、君猶日瀹而食之者、何也。則以其所從來者近也。夫黃鵠一舉千里、止君園池、食君魚鱉、啄君黍粱、無此五者、君猶貴之、以其所從來者遠矣。臣將去君、黃鵠舉矣。」。哀公曰、「止。吾將書子言也。」。田饒曰、「臣聞、食其食者、不毀其器、陰其樹者、不折其枝。有臣不用、何書其言。」。遂去、之燕。燕立以爲相、三年、燕政大平、國無盜賊。哀公喟然太息、爲之辟寢三月、減損上服。曰、「不愼其前、而悔其後、何可復得。」。「詩」云、「逝將去汝、適彼樂國、樂國樂國、爰得我直。」。

   *

「文」人倫の道の基本となる学識。

「傅〔(つ)くる〕は」装着しているのは。

「食〔(しよく)〕を見ては相ひ呼ばふは」餌を見つけると、互いに同朋を呼ばうのは。

「夜を守りて時を失はざるは」熟睡することなく、夜を測って、時間をうっかり忘れてしまうことなく(鬨を作る)のは。

「葛洪」(二八三年~三四三年)は西晋・東晋時代の道教研究家。ウィキの「葛洪から引く。『字は稚川で、号は抱朴子、葛仙翁とも呼ばれる。後漢以来の名門の家に生まれたが』、『父が』十三『歳の時になくなると、薪売りなどで生活を立てるようになる』。十六『歳ではじめて』「孝経」「論語」「易経」「詩経」を『読み、その他』、『史書や百家の説を広く読み暗誦するよう心がけた。そのころ』、『神仙思想に興味をもつようになったが、それは従祖(父の従兄弟)の葛仙公とその弟子の鄭隠』(ていいん)『の影響という。鄭隠には弟子入りし、馬迹山中で壇をつくって誓いをたててから』、「太清丹経」「九鼎丹経」「金液丹経」と『経典には書いていない口訣を授けられた』という。二十歳の『時に張昌の乱で江南地方が侵略されようとしたため、葛洪は義軍をおこし』、『その功により』、『伏波将軍に任じられた。襄陽へ行き広州刺史となった嵆含』(けいがん)『に仕え、属官として兵を募集するために広州へ赴き』、『何年か滞在した。南海郡太守だった鮑靚』(ほうせい)『に師事し、その娘と結婚したのもその頃である。鮑靚からは主に尸解法(自分の死体から抜け出して仙人となる方法)を伝えられたと思われる』。三一七『年頃、郷里に帰り』、『神仙思想と煉丹術の理論書である』「抱朴子」を『著した。同じ年に東晋の元帝から関中侯に任命された。晩年になって、丹薬をつくるために、辰砂』(硫化水銀)『の出るベトナム方面に赴任しようとして家族を連れて広東まで行くが、そこで刺史から無理に止められ』、『広東の羅浮山に入って金丹を練ったり』、『著述を続けた。羅浮山で死ぬが、後世の人は尸解したと伝える。著作には「神仙伝」「隠逸伝」「肘後備急方」『など多数がある』。

「凡そ、古井(ふるゐ)及び五月〔の〕井中、毒、有り」酸素欠乏を指している。

「感應志」東洋文庫版の「書名注」に、『晉の』博物学者として知られる『張華の『感応類従志』か。一巻。宋の賛寧にも『感応類従志』一巻がある』とある。調べて見たが、孰れかは判らなかった。

「五〔の〕酉〔(とり)〕の日」元旦から数えて五回目の酉の日の意か。

白雞の左の翅を以つて、灰に燒き之れを揚ぐれば、風、立ちどころに至る。黑犬の皮毛を以つて、灰に燒き、之れを揚ぐれば、風、立どころに止むなり。』〔と〕。相ひ傳ふ、如〔(も)〕し、人、有りて、池川に溺(をぼ[やぶちゃん注:ママ。])れて、未だ屍骸を尋ね獲〔(え)〕ざれば、則ち、鷄を板筏〔(いたいかだ)〕に乘せて水上に泛〔(うか)ぶれば〕、鷄、能く所在を知りて、鳴く。是に於いて、其の骸〔(むくろ)〕を探(さぐ)り獲〔(と)〕る。]

2018/07/27

諸國里人談卷之五 ㊈氣形部 犬生ㇾ人

 

諸國里人談卷之五

 ㊈氣形部(きぎやうのぶ)

    ○犬生ㇾ人(いぬ、ひとにむまる)

和泉國堺の邊、淨土宗の寺に、白犬(しろいぬ)ありける。

二六時中、勤行の時節、堂の緣に來りて平伏する事、年(とし)あり。又、常に、修行者、大路にて念佛すれば、衣の裾にまとはり、おかしげに吠(ほへ[やぶちゃん注:ママ。])ける。

或(ある)師走(〔し〕わす)、餅(もち)を搗(つく)日〔ひ〕、餅をあたへければ、咽(のど)につめて死(しゝ)てけり。

和尚、あはれみて、戒名を授(さづ)け、念頃(ねんごろ)に吊(とむら)ひぬ。

一夜(あるよ)、住僧の夢に、かの犬、來て曰はく、

「念佛の功力(くりき)によつて、人間(じんかん)に生ず。門番人〔もんばんにん〕が妻(さい)にやどる。」

と。

はたして男子を産(うめ)り。

和尚、しかじかの事を親に示して、六、七歳の頃より、出家させけり。

聰明叡智にして、一(いつ)を聞(きゝ)て十を慧(さと)る。よつて、こよなふ大切に養育してけり。

此者、幼少より、餅をきらひて食(しよく)せざりける。

前生(ぜんしやう)の犬なりける事、誰(たれ)いふとなく、新發意(しんぼち)の中にて仇名(あだな)を、

「白犬〔しろいぬ〕」

とよびけるを、やすからず思ひて、十三歳の時、和尚に問(とふ)。

「我を『白犬』といふ事、何ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]かくは侍ふやらん。此事、とゞめて給はれ。」

と云。

「わどの、餅をきらふゆへにこそ左(さ)いふなり。」

「しからば、餅を食(しよく)し侍らば、此難(なん)あるまじきや。」

「いかにもその事なるべし。」

「いざ、食ふべし。」

と、餅の日、膳にむかひけるが、用ある躰(てい)にて座を去りて、行方(ゆきかた)しらずなりぬ。

その所を求むれども、あへてしれざりき。

和尚、

「よしなき事をいひつるものかな。」

と、甚(はなはだ)後悔してげり。

常に手習ふ机のうへに、一首を殘せり。

 何となくわが身のうへはしら雲のたつきもしらぬ山にかくれじ

[やぶちゃん注:部立の「氣形」(きぎょう)とは生き物(動物)の意。なお、本条は物語性が高いので、読み易さを狙って、特異的に改行した。

「何となくわが身のうへはしら雲のたつきもしらぬ山にかくれじ」「うへ(上)」「しら雲」「たつ(立つ氣)」「山」は縁語、「しら雲」は「白雲」に「知ら」(それとなく気づいた)を掛け、「たつき」は「立つ氣」に「方便・活計(たつき)」(「手(た)付(つ)き」の意で、古くは「たづき」、中世以降に「たづき」「たつき」となり、現代では「たつき」)生きてゆくための手掛り・寄る辺)を掛ける。「じ」(①が「じ」で示されてある。③は「し」だが、和歌だから濁点がないのは普通)は打消推量・打消意志の孰れでも「隠れることはないだろう」「隠れまい」と意味の上ではおかしい。牽強付会するなら、こうなった上は(自分の前世が畜生の犬であったことを知ったからには)深山に隠れ住むなどという甘いことはするまい、誰にも逢うことのない別世界へ行く、命を絶つ、とでも解するか。或いは、前世で犬であった「わが身のうへ」は「何となく」私にも知れてしまった、犬畜生であった私は僧として生きてゆく「たつきも」最早、ない、即ち、犬であることを「しらぬ」人は最早いない、それは「かくれじ」、それを隠すことは、最早、出来まい、さればこそ、私はここを去って行く、とでも謂うものか。和歌嫌いの私には、よく判らぬ。]

2018/07/26

明恵上人夢記 77

 

77

一、同十一月八日の夜、夢に云はく、説戒之(の)時、每日、人數(にんず)、倍(ばい)する也。常住之(の)人の外に、客僧、加はると思ふ。又、人、有りて云はく、「然(しか)なり。」と云々。又、溫室(うんじつ)に入りて、數多(あまた)の人數(にんず)と沐浴すと云々。

[やぶちゃん注:承久二(一二二〇)年十一月八日と採る。

「説戒」(せっかい)は受戒(出家や在家の者など、それぞれの立場で守るべき戒を受けること)を求める者に戒律を説くことであるが、特に半月毎に同じ地域の僧を集め、戒本を読み聞かせ、自身を反省させ、罪を告白させる集まりを謂う。布薩(ふさつ)とも呼ぶ。

「客僧」「かくそう・きゃくそう」(現代仮名遣)二様に読める。私は「かくそう」(特に原義はそれがよい)と読みたい口である。原義は「修行や勧進のために旅をしている行脚僧」であるが、他に「余所の寺や在俗の家に客として滞在している僧」を指す。ここは原義に加えて派生の意も含むと採った方が自然な気がする。

「溫室」寺院で湯浴(あ)みをするための建物。湯殿であるが、実用的なそれよりも行の一環として僧に湯浴みをする場所と採った方が、「沐浴」の意とともに私には腑に落ちる。鎌倉時代のそれは、概ね、湯を湛えたものが配置された蒸し風呂形式のもので、湯槽に入る形ではないので注意されたい。]

□やぶちゃん現代語訳

77

 承久二年十一月八日の夜、こんな夢を見た――

 説戒の時、毎日、前の日の倍の人数が、これ、押し寄せて来る。常住の僧の以外に、数多の客僧(かくそう)が、これ加わっていると思われる。また、ある人の側にあって曰く、「その通りである。」と……また、温室(うんじつ)に入っても、そこには、これまた、驚くほど数多(あまた)の人々がいて、彼らとともに、私も沐浴するのであった……

 

明恵上人夢記 76

 

76

一、同十一月七日の夜、夢に、一つの大きなる池、有り。廣博(こうばく)也。上師有りて、樋口の女房に仰せて云はく、「此の池へ躍(をど)るべし。」【水、連(つら)なる時に躍る心地す。】。然るに、此の女房、飛ぶ鳥の如く、橫さまに飛びて、此の池に入る。後に來れる時、其の衣服(えぶく)、濕(うる)はず。上師等(ら)、之を御覽ず。

[やぶちゃん注:承久二(一二二〇)年十一月七日と採る。

「廣博」池が非常に広く大きいのであろうが、本来、この熟語は「知識・学問が多方面に亙っていること」の意である。或いは、この池は正法(しょうぼう)の深遠な「仏智」の池なのかも知れない。但し、エンディングで、入水した「樋口の女房」が、その水に全く濡れそぼっていなかったというシーンが如何なる意味を示しているのかは、全く分らない。しかし、彼女が一滴も濡れていないというコーダが稀有驚愕の霊験的事態である(明恵は勿論、上師にとっても)ことは、確かであるように思われる。

「上師」前例に倣い、母方の叔父で出家当初よりの師である上覚房行慈と採る。当時、生存。

「樋口の女房」底本に『覚厳』(かくごん)法師『の妻か』とある。底本の他注では彼を明恵の庇護者の一人とする。彼は「55」に登場する。

「水、連(つら)なる時に躍る心地す」ここは覚醒時の明恵自身の補注割注であるが、ちょっと意味が採り難い。「私は『池に漣(さざなみ)が連なり立った時こそ、彼女が躍り入ったと判るはずだ』という心持ちでいたことを思い出す。」という夢の中の明恵の意識の流れを覚醒時の明恵が補足細述したものか?

□やぶちゃん現代語訳

76

 承久二年十一月七日の夜、こんな夢を見た――

 一つの非常に大きな池がある。対岸がはっきり見えぬほどに広く深いのである。

 上師がおられ、そこにいた樋口の女房に仰せられることには、

「この池へ躍(おど)り入るがよい。」

と。

[明恵注:この時、私は、『池に漣(さざなみ)が連なり立った時こそ、彼女が躍り入った証しである』という、覚醒時の今の私には今一つ、よく意味は解らないのだが、確かに、そういう確信的な心持ちでいたことを、今、思い出す。]

 ところが、この女房は、あたかも飛ぶ鳥のように、美しく横ざまに――さっと――飛んで、この池に――すうっと――波も立てずに入った。

 しばらくした後、彼女が私たちの前に、再び姿を現わし来った時、何と、その衣服は、これ、全く濡れていなかったのである。

 上師らも、これを確かに、ご覧になられたのである。

明恵上人夢記 75

 

75

一、又、此の比(ころ)、夢に、兩人の女房有り。其の形、顏は長く、白き色なり。兩人同意して、上皇に、能々(よくよく)予之(の)御氣色(おんけしき)、吉(よ)かるべき事を申し入(いる)る。之に依りて、御感(ぎよかん)有る由、語らる、と云々。

 又、大きなる土器(かはらけ)の如き星あり。予を護り給ふ由を思ふと云々。

[やぶちゃん注:「此の比」「74」夢が承久二(一二二〇)年(推定比定)十月二十七日で、しかもその前は殆んど日を置かずに夢記述が示されてあって、次の「76」夢が同年(推定比定)十一月七日であるから、十月二十七日前後というよりは、承久二(一二二〇)年十月二十八日から十一月六日までの九日(同年十月は大の月)の間の夢とするのが自然な気がする。但し、二夢連続で記載されているものの、それが連続して見られた夢であったかどうかは、判らない。しかし別な折りの夢であったとしても、同じ条にかく纏めて、「一」の頭を置かなかったということは、この二つの夢が、明恵にとっては、ある種の強い連関(親和性)を持って記憶されていたことを強く示唆するものではあろう。

「女房」後に上皇云々とあるから、後宮の女官である。

「其の形、顏は長く、白き色なり」女性的な観音菩薩の造顔に似ているように思われる。

「上皇」後鳥羽上皇。「承久の乱」の勃発は、この七ヶ月後の承久三(一二二一)年五月十四日のことである。この時期、後鳥羽院と鎌倉幕府の関係は最悪の状態にあった。明恵が朝廷方に強いシンパシーがあり、乱では後鳥羽上皇方の敗兵を匿っており、乱後も、朝廷方についた貴族や武家の子女・未亡人たちを保護するため、承応二(一二二三)年に山城国に比丘尼寺善妙寺(高山寺別院で高山寺の南にあったが、早期に廃絶して現存しない。現在の右京区梅ヶ畑奥殿町内の(グーグル・マップ・データ))を造営したりしていることは言わずもがなである。私の栂尾明恵上人伝記 63 承久の乱への泰時に対する痛烈な批判とそれに対する泰時の弁明の前後なども参照されたい。

「御氣色」表情や態度に現れた心のさまであるが、ここは仏者としての心底(しんてい)と採ってよかろう。「御」は「女房」の明恵への敬意の接頭語なので訳さなかった。

「土器」素焼きの杯(さかずき)と採る。]

□やぶちゃん現代語訳

75

 また、承久二年の十月末から十一月の初めの頃、こんな夢を見た――

 二人の女房がいる。その顔形は、長く、抜けるように白い色をしている。

 その二人が二人ながら同意して、後鳥羽上皇に、よくよく、拙僧の心のさまが、めでたく正法(しょうぼう)に基づいて善(よ)きことを奏上し申し上げた、と語り、これをお聴きになられたによって、上皇さまは大いにご感心遊ばされた由を、私に語って下され……

 

 また、同じ頃、別にこんな夢も見た――

 非常に大きな土器(かわらけ)のような星が中天に輝いているのを見た。

 それを眺めながら、私は、

「ああっ! あの御星(おんほし)は、私をお護り下さっている!』

と思って……

明恵上人夢記 74

 

74

一、同廿七日の夜、前(さき)の如く、一向に三時、坐禪す。上師在りて、予の爲に、不倫の如き僧等(ら)五人、之を殺害(せつがい)す。殺生罪之躰(せつしやうのつみのてい)に非ず、と覺(おぼ)ゆと云々。

[やぶちゃん注:前に徴して承久二(一二二〇)年十月二十七日と採る。「73」の翌日というか、後半の暁方の覚醒夢を見た日の夜である。これもまた、明恵自身の決めた前夜と同じ修行法を繰り返しており、やはり同じく座禅中の覚醒夢であるだけに、「73」と本夢との連関性は、より強いように私には思われる。しかも、

――自分の師が手ずから血に染めて、彼、明恵のために、売僧(まいす)を五人も殺害するのを目撃し、しかも、それを見ている明恵は、その師匠の殺人行為を仏教最大の五悪の筆頭であるはずの「殺生の罪」には当たらぬ正法(しょうぼう)に背かぬ正当な行為であると認識する――

という、一見、驚愕極まりない内容なのである。しかし、これは、見ている明恵が「五人」の破戒僧は実際の僧ではない、反仏教的な何らかのシンボルであることを認識しているということに他ならないと読める。

「上師」前例に倣い、母方の叔父で出家当初よりの師である上覚房行慈と採る。当時、生存。

「不倫」仏者として踏み行うべき道から外れていること。女犯(にょぼん)に限る必然性はこの場合、全くないであろうと私は読む。]

□やぶちゃん現代語訳

74

 承久二年十月二十六日の夜、前夜と同様、只管(ひたすら)に夜を徹して座禅をする。その間に、またしてもこんな覚醒夢を見た――

 上師がおられる。

――その尊(たっと)き上師が 何と!

――他でもない

――私こと、明恵のために

――破戒に等しい行いを成していた僧ら五人を

――これ、殺害なさるのを

――見た。

――しかし、それを目撃しながら、

――私は

『これは殺生の罪に当たるものでは――ない――』

と確かに自覚し、平然としていられた……

 

明恵上人夢記 73

 

73

一、同廿六日の夜、一向に、三時、坐禪す。夢に、一つの大きなる山より、懸樋(かけひ)、通ふ。其の源は遼遠にして、予の頂(いただき)の上に當(あた)る。水、殊に偉大(とほじろし)と云々。又、其の曉、一つの大きなる蟲有り。形、蜈(むかで)の如し。崎山の尼公の手を、させり。十藏房、有りて、之を去らむと欲すれども、能くせず。高辨、之を去らむと欲すれば、逃れて奧へ入らむと欲す。卽ち之を拂ひ去る。

[やぶちゃん注:前に徴して、承久二(一二二〇)年十月二十六日と採る。

「一向に」只管(ひたすら)に。

「三時」は六時〔六分した一昼夜〕を昼三時と夜三時に纏めたもの。晨朝(じんじよう)・日中・日没(にちもつ)を昼三時、初夜・中夜・後夜を夜三時という。則ち、夜を徹して座禅したのである。

「偉大(とほじろし)」底本のルビ。このような形容詞は私は聴いたことがない。非常に強く畏れ多い偉大なる精神のパワーを以って脳天から脳髄及び全身に滲み徹ってくることを謂うか。

「形、蜈(むかで)の如し」形は百足(むかで)に似ているが、百足ではないのである。

「崎山の尼公」底本注に『湯浅宗重女。崎山良貞室』とある。明恵の母の妹の信性尼(伯母とする記載もある)。既注であるが、再掲しておくと、崎山良貞(?~元久元(一二〇四)年)は明恵の養父で、紀州有田川下流域を支配した豪族。明恵の庇護者でもあり、彼の没後、未亡人であった彼女によって、良貞の屋敷が寺として明恵に寄進されてもいる。

「十藏房」「52」夢に既出であるが、不詳。ただ、そこでも記した通り、この少し後に出る、「夢記」の中でも女性性の強く暗示される重要な夢の一つ、通称「善妙の夢」(承久二(一二二〇)年五月二十日の夢。以下で記載時制が逆転している)で唐渡来の香炉を明恵に渡すのがこの十蔵房で、同夢では明恵にある種の開明を示す立場にあるように読めるから、私には弟子とは読めない

「高辨」明恵の法諱。]

□やぶちゃん現代語訳

73

 承久二年十月二十六日の夜、只管、三時通して、座禅した。その最中、こんな覚醒夢を見た――

 一つの大きな山から、長大な筧(かけい)が通っている。

 その筧の源は遙か遠くであって、その下端は私の頭の頂きの上に当たってある。

 そこを流れ下って落ちる水は、これ、殊の外、何か、強く、畏れ多く、偉大な精神の力を以って、私の身内に深く徹して滲み渡ってくることが感じられ……

 

 また、その暁方に、やはりこんな別の覚醒夢を見た――

 一つの異様に大きな虫がいる。形は、蜈蚣(むかで)に似ている。

 崎山の尼君の手を、刺した。

 傍らに十蔵房がいて、これを除き去ろうとしたけれども、上手く出来ない。

 私こと高弁が、これを除き去ろうとすると、その虫は逃げて、奧の方へと逃げ入ろうとする。

 しかし、私は、首尾よく、これを払い去ることに成功する。

明恵上人夢記 72

 

72

一、同廿四五日の比(ころ)、夢に云はく、暑預(やまのいも)・甘葛(あまづら)を持ちて上師に奉る。又、小分(こわけ)に分ちて【茶碗の小器に盛る。】、我が處に置く。義覺房、之を持ちて、散動巡行すと云々。

[やぶちゃん注:「71」からの続きとしてその一週間ほど後の承久二(一二二〇)年十月二十四日或いは翌二十五日に見た夢と採る。内容的に前の「71」との親和性がすこぶる強い印象を受ける。というよりも、「71」夢の続きのような形で、「71」で上師(上覚房行慈)から衆生を済度するせよとして賜った「沙糖」(砂糖)に対するもの(儀礼的返礼ではなく、そうした使命を授けられたことへの明恵の応答(覚悟)の表明)として、「暑預(やまのいも)・甘葛(あまづら)」(後注参照)の献上はあるように読める。

「暑預(やまのいも)」正しくは「薯蕷」で「やまのいも」。古くは「薯蕷」と書いた。単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica甘味との親和性があり(多くが苦い野老(ところ)(ヤマノイモ属 Dioscorea のトコロ類)に対したものとして「苦くない」のである)、「71」の「沙糖」との連関が認められる

「甘葛(あまづら)」一般的にはブドウ科 Vitaceae に属する蔓(つる)性植物(ブドウ目ブドウ科ツタ属ツタ Parthenocissus tricuspidata など)のことを指しているとされる一方、甘茶蔓(スミレ目ウリ科アマチャヅル属アマチャヅル Gynostemma pentaphyllumのことを指すという説もある。参照したウィキの「アマヅラによれば、『甘味料のひとつで』、『砂糖が貴重な時代には水飴と並んで重宝された』とし、『縄文時代の貝塚の中から出土されており、この頃から甘味料として利用されたと思われる。安土桃山時代になり』、『砂糖の輸入が活発になると』、『都市部でアマヅラの需要はほぼなくなり、さらに、江戸時代に砂糖の大量供給が実現すると』、『全国的にアマヅラを作るところは少なくなった』。『清少納言は、『枕草子』でかき氷のうえにアマヅラをかけて食べる描写を書いている』(「枕草子」の「物尽くし」の章段の一つ、「あてなるもの」(上品なもの)」の段で「削(けづ)り氷(ひ)にあまづら入れて、新しき金(かな)まりに入れたる」と出る。「金まり」は金属製の御椀)。その蔦(ツタ)の場合の造り方は、『ツタを伐採し、さらに』三十『センチ間隔に切り取』り、その『切り取ったツタの一方に口を当てて息を吹き込み、中の樹液を採取』して、その『樹液を煮詰め』、『水分を飛ばし、粘りのあるシロップ状に』する、とある。まさに「71」の「沙糖」との強力な対応性が認められる

「義覺房」底本の注によれば、明恵歌集に頻出し(彼の歌と思われるものも四首載る)、別に「六因義覺房」とも称し、『伝未詳』であるが、歌の詞書から、『高雄における明恵の同輩』とする。

「散動巡行」不詳。飛び躍るように巡り歩くことか。雀躍歓喜の法悦を示すものか?]

□やぶちゃん現代語訳

72

承久二年十月二十四日か、二十五日の頃、こんな夢を見た――

 私は、薯蕷(やまのいも)と甘葛(あまずら)を持って、これらを上師に奉った。

 しかし、上師はそれらをも小分(こわけ)にお分けになられ――それぞれ茶碗のような小さな器にお盛りになられた――、またしても――先の砂糖と同じく――私の所に置かれるのであった。

 同輩の義覺房は、このそれぞれが盛られた器を左右に手に持って、驚くばかりの跳び撥ね方でもって辺りを巡り歩き……

明恵上人夢記 71

 

71

一、同十八日、初夜の行法の時、幷(あは)せて我が事を祈念して、加被(かび)を蒙るを望む。其の道場觀(だうじやうくわん)の時に一つの好相(がうさう)を得たり。上師、忽ちに來りて、筒に沙糖(さたう)を盛り、「汝、八寒八熱の衆生を利せよ。是(これ)故に之を與ふる也」と云々。

[やぶちゃん注:「70」からの続きとして承久二(一二二〇)年十月十八日と採る。本条は、就寝中の夢ではなく、観想行を行っていた最中に見た脳内の幻視映像である。

「初夜の行法」六時(既注)の一つである戌の刻(現在の午後八時頃)に行う勤行のこと。

「加被(かび)」仏・菩薩・神が慈悲の力を加えて衆生を助けて願いをかなえること。「御加護」に同じい。

「道場觀」不動明王を観想するもの。

「好相」「相好(さうがう(そうごう))」に同じい。仏の身体に備わっている三十二の相と八十種の特徴の総称。

「上師」前例に従い、母方の叔父で出家当初よりの師である上覚房行慈と採る。当時、生存。

「筒」丈の低い相応に大きな筒、円筒状の丸い鉢のようなものであろう。

「沙糖」甘露(サンスクリット語アムリタの訳語で「不死」「天酒」とも訳される。インド神話では諸神の常用する飲物で、蜜のように甘く、飲むと不老不死になるというギリシャ神話で神々の飲む不老長寿の赤色の酒「ネクター」のようなもので、「仏教の教法」にも譬える)の判り易いメタファーであろう。

「八寒八熱」八寒地獄(頞部陀(あぶだ)地獄・尼剌部陀(にらぶだ)地獄・頞哳吒(あたた)地獄・臛臛婆(かかば)地獄・虎虎婆(ここば)地獄・嗢鉢羅(うばら)地獄・鉢特摩(はどま)地獄・摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄)と八熱地獄(等活地獄・黒縄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱(炎熱)地獄・大焦熱(大炎熱)地獄・阿鼻(無間(むげん))地獄)。それぞれの責め苦様態等はウィキの「八大地獄を参照されたい。]

□やぶちゃん現代語訳

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承久二年十月十七月の夜、初夜の行法(ぎょうほう)の際、行法とともに、私の修行僧としての存在の正しい在り方を祈念して、仏の御加護を蒙らんことを望んだ。その後、不動明王を観想する道場観(どうじょうかん)を行っている最中、意識の中で、一つの仏の来臨を感じさせる感覚を得た。それを以下に記す――

 上師が、突如、来られて、筒に砂糖を堆(うずたか)く盛って、それを私に差し出だされ、

「そなた、八寒八熱に堕ちた衆生(しゅじょう)を利益(りやく)せよ。さればこそ、これをそなたに与えるのである。」

と仰せられ……

進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(四) 四 遺傳單位不變説 / 第十八章 反對説の略評~了

 

     四 遺傳單位不變説

 

 近頃はまた雜種による遺傳研究の結果として、親から子に遺傳する性質を若干の單位に分けて考へるやうになつたが、かやうな單位を化學的分析に於ける原子に比較し、組み合せ方はどのやうにでも變更が出來るが、單位それ自身は一定不變のものである如くに見倣す人も今はなかなか多い。著者はこの遺傳單位不變の説は誤りであると思ふ。

 メンデルの行つた碗豆の雜種試驗では、豆の色の黃色いことも靑いことも、豆粒の形の圓いことも皺のあることも、一定の規則に從つて遺傳し、第二代目以後には一定の數の割合に分離するから、遺傳の研究上各一個の單位性質と見倣して取扱ふことが出來るが、他の材料に就いて實驗して見ると、かやうに簡單に行かぬ場合が頗る多い。例へば鼠の白い品種と鼠色の品種との間に雜種を造つて見ると、第二代目に白いもの、鼠色のものの外に、黑い子が出來ることがある。かやうな場合には如何に之を解釋するかといふに、先づ次の如くに假定する。卽ち毛の色は一つの遺傳單位によつて生ずるのではなく、二つの遣傳單位が合した結果である。鼠色を現すには、鼠色を出すべき基となる甲單位と、之をしてその色を現さしむべき乙單位とが揃ふことが必要で、黑色を現すには、黑色を出すべき基となる丙單位と、之をしてその色を現さしむべき乙單位とが揃ふことが必要である。乙單位が缺けては、甲單位だけで鼠色を現すことも出來ず、丙單位だけで黑色を現すことも出來ず、孰れも色素のない白色のものとなる。されば白色の鼠は乙單位を含まぬ點に於ては、總べて一致するが、實は二種の別があつて、一は鼠色の單位を隱して含み、一は黑色の單位を隱して含んで居る。今囘の雜種を造るために用ゐた白色の親鼠は、實は色素の現れぬ黑鼠であつた故に、第二代目に至つて、この黑色單位と相手の乙單位とが組み合つて黑色を現したのである。かやうに、たゞ見ては鼠色とか黑色とかいふ單一な性質と思はれるものを雜種研究の結果から推して、二つの單位に分解し、之によつて説明せんと試みるのであるが、斯くすると、各の遺傳單位は甘く[やぶちゃん注:「うまく」。]メンデルの優劣の法則、分離の法則などに當て嵌まり、理論上の數の割合と實驗の結果とが、大概相近い場合も相應に多い。

 また白鼠と鼠色の鼠との間の雜種が、第二代目に至つて鼠色のもの、黑色のもの、鼠色と白と斑のもの、黑と白と斑のもの、全身白色のものなどが生じた場合には、黑色の基となる單位性質、鼠色の基となる單位性質、これ等に實際色を出させる單位性質、斑を生ずる單位性質などが、親鼠の體に備はつて有つたものと假定し、白鼠の方には黑色の單位と、斑を生ずる單位とが含まれてあつたが、色を出させる單位が訣けて居たために白色を呈したのである。雜種の二代目に至つて遺傳單位の樣々の組み合せが出來たから、實際生じた如き五種類の違つた色や模樣のものが現れたのであると説明する。かやうに雜種研究の結果が、簡單な規則に嵌まらぬ場合には、親生物の遺傳する性質を、次第次第に數多くの單位に分け、終にメンデルの分離の法則や獨立遺傳の法則で、目前の現象が説明の出來るまでは止めぬ。それ故研究が進むほど、遺傳單位の數が增し、最も詳しく調べた「きんぎょ草」では、色を出させる單位、色を濃くする單位、斑を生ずる單位、色を隱す單位など、二十二種も單位が有るものと見倣され、尚研究したら四五十までには、增(ふ)えるであらうと論ぜられて居る。遺傳單位なるものは、目で見ることも出來ず、手に觸れることも出來ぬ想像的のものであるが、かやうに雜種研究の結果に基づいて、次第に細かく性質を分解し進む有樣は、複雜な化合物を次第にその原子までに分解する化學の分析法に大に似て居るから、自然に兩者を同樣のものと考へ、雜種による遺傳の研究を遺傳性質の分析法と名づけ、生物の身體を恰も獨立遺傳する單位性質の集合の如くに見倣すに至つた。

[やぶちゃん注:マウスの毛色の遺伝についての現在の遺伝子上の知見は、財団法人環境科学技術研究所公式サイト内マウスの毛色の遺伝から考えてみよう及びラット・コリー氏のブログ「外部動物日誌」のマウスの毛色の遺伝についてがよい。前者ではABCの三座、後者はD座を含めた四座で解説されてあるが、実際にはもっと多くの遺伝子(座)が関連するものの、主要な基本色は三座である。

「きんぎょ草」「金魚草」。シソ目オオバコ科キンギョソウ連キンギョソウ属キンギョソウ Antirrhinum majus。ネット上で最近の植物研究を見ると、本種は花の色変異の遺伝学上の資料だけでなく、突然変異体や花器官の原器形成の研究に用いられている。]

 

 著者は決して、雜種研究によつて生物の遣傳する性質を若干の單位までに分析することに、反對するわけではない。若しも遺傳單位を認めることによつて、遣傳の現象が幾分でも容易に且合理的に説明が出來るならば、之は無論結構なことと思ふ。倂しながら、之より推し進んで、生物體を恰も獨立遣傳する單位性質の塊の如くに見倣すことは、誤りであると考へる。抑生物の身體は種々な部分から成り、樣々な働きをしても、全部揃つて初めて一つの完結した個體をなすもの故、之を幾つかの部分に分けて考へては、最早個體としては消えてしまふ。恰も一枚の煎餅を細かく碎いてしまへば、一枚としての煎餅は無くなり、一個の時計も一つ一つの車輪や螺旋に離してしまへば、時計としての存在を失ふやうなものである。特に生物體の有する種々の性質は確にその生物體に具はつてあるに違ひないが、之か一つ一つに分けて算へ立てるのは、見る人の方で勝手にすること故、見る人の智惠や考へが違へば、區別の仕方もそれぞれ違ひ、粗く少く別ける人もあれば、細かく多く別ける人もあらう。人間自身を例に取つても、幾つの遺傳單位の集まりと見倣すべきかと考へて見たら、肉體的にも精神的にも、性質の數は細かく分ければ分けるほど增えて、幾つに成るか解らぬ。されば化學分析で化合物を元素までに分解するのと、雜種實驗によつて、一見單一に思はれる性質を、若干の遺傳單位に分けるのとは、表面上似た所はあるが、事柄が餘程違ふ故、決して同一視すべきものではない。生物體を正當に了解するには、何處も完全なものとして全體を見ることが必要で、之を勝手に澤山の假想的細部に切り碎き、各部を獨立せるものの如くに見倣し、個體を單に斯かるものの集合として取扱ふのは、理論方面に於て大なる誤を生ずる基である。

 生物體を以て若干の遺傳單位の集まりの如くに見倣す人の中には、遺傳單位なるものは、化學の元素の如くに、一定不變のものであると考へる人が多い。それ等の人の考へによると、遺傳單位は一定不變のものであるが、これが樣々に組み合つて、種々の性質となつて現れるのは、丁度少數の元素が樣々に組み合つて、無數の複雜な化合物が出來るのと同じである。著者は若年の頃、化學の元素さへ一定不變のものであるや否やを疑つたことがあるが、之は別問題として、今日遣傳單位を以て一定不變のものと見倣す議論の根據は何かといふと、一は化學分析との類似で、一は實驗研究の結果である。卽ち幾代か繰り返して實驗を續けても遺傳單位に變化が起らぬから、之か一定不變のものと認めるのであらうが、著者より見れば、之は全く進化論以前の生物學者が、生物各種屬が萬世不變のものである如くに考へたのと同樣な誤りである。昔の學者が生物の親と子と孫との間に著しい變異の起らぬのを見て、生物の各種はいつまで經つても少しも變化せぬものであらうと思つて居た如くに、今日の實驗研究者も幾代かの實驗の結果、各遺傳單位は一定不變のものである如き感じを持つのであらうが、凡そかやうなことを確めるには、極めて長い年月を要するから、實驗の結果だけでは論ぜられぬ。自然科學に於て實驗を重んずべきはいふを待たぬが、人間の行ふ實驗は僅の材料を用ゐ、短い時間に行はれ得べきことだけに限られるから、少しく長い年月を要することは到底實驗では出來ぬ。されば、論より證據といふ諺はあるが、時としては證據よりも論に賴らねばならぬ場合もある。生物の進化、地球の歷史、宇宙の變遷などの如き、極めて長い時の間に起つたことを説明する場合には、たとひ證據となるべき事實は澤山あるとしても、その間を繋ぐのはやはり論である。遺傳單位不變説の如きも、僅に數代に亙る實驗を根據とせず、生物の初めて現れてから、今日に至るまでの長い時聞に當てて考へて見たならば、その不合理なることが明に知れるであらう。若し遺傳單位なるものが昔から今日まで少しも變ぜずして傳はり來つたものとしたならば、今日鼠の毛の黑い色素の基となる單位、その色を現さしめる單位とか、「きんぎょ草」の花に斑を生ずる單位、色を濃からしめる單位などが、皆生物の出來始[やぶちゃん注:「はじめ」。]の時から已に存したものと論じなければならぬが、かやうなことを眞面目に信ずるのは頗る困難である。

[やぶちゃん注:丘先生の「遺伝単位不変説」に対する反駁はすこぶる腑に落ちるものである。現行、分子生物学の席捲によって分類学や遺伝学は激しく変容し、まさにDNARNAはもとより、一部はトランスファーRNAtRNA)やリボソームRNArRNA)の書き込み情報レベルにまで遺伝情報は極小化されているけれども、ウィキの「遺伝子によれば、『分子生物学における最狭義の遺伝子はタンパク質の一次構造に対応する転写産物(mRNA)』『の情報を含む核酸分子上の特定の領域=構造遺伝子(シストロン)』(cistron:遺伝子の機能単位。一本のポリペプチド鎖の一次構造を決定するコードの、転写開始点と転写終結点を持つ部分)『をさす。転写因子結合部位として、転写産物の転写時期と生産量を制御するプロモーターやエンハンサーなどの隣接した転写調節領域を遺伝子に含める場合もある』(引用元ではここに「オペロン」への見よ記載がある。オペロン(Operon)とは一つの形質を発現させる遺伝子或いは構造遺伝子部分Coding regionDNAの塩基配列の中でと非翻訳領域の間にある開始コドンと終止コドンに挟まれたタンパク質に翻訳されるmRNA 或いはその鋳型となるDNA の領域)を指す遺伝子単位であるが、現在はあまり使用されない用語である)。『ちなみに、語感が似る調節遺伝子とは上記の転写因子のタンパク質をコードしたれっきとした構造遺伝子である。しかし、転写産物そのものが機能を持ち、タンパク質に翻訳されない、転移RNAtRNA)やリボソームRNArRNA)、機能性ノンコーディングRNAに対応する遺伝情報が、タンパク質構造遺伝子と同程度の数をもつことが報告され、狭義の遺伝子に含められるようになっている。近年、化学修飾や編集によるDNAのもつ情報の変更が発見されて、DNA上の領域という定義は、古典的な意味での遺伝子の範疇には収まらなくなりつつある』。『古典的な遺伝子の定義は、ゲノムもしくは染色体の特定の位置に占める遺伝の単位(』『遺伝子座)であり、構造は変化しないと考えられていた。しかし突然変異やトランスポゾン(可動性遺伝子)』(transposon:細胞内に於いてゲノム上の位置を転移(transposition)することの出来る塩基配列を指す)『の発見、抗体産生細胞で多種の抗体を作り出すための遺伝子再編成の発見などから、分子生物学的実験対象としての遺伝子の概念はたびたび修正を余儀なくされた。他にも遺伝子増幅、染色体削減といったダイナミックな変化や、二つの遺伝子の転写産物がつなぎあわされるトランススプライシング』(Trans-splicingmRNAの成熟過程で起きるスプライシング(遺伝情報を持たないイントロン(intron)が RNA 分子から除去され、タンパク質合成の情報を持つエクソン(exon)が連結する反応)が、mRNA前駆対の異なる分子種間で起こり、本来コードされていない配列が付加されることを指す語)『のように遺伝子の概念を広げる現象もある』。また、『同じ生物学内でも進化論や集団遺伝学、進化ゲーム理論での議論で用いられる遺伝子という単語は、上記の構造遺伝子やDNA上の領域あるいは遺伝子座とは相当に異なる概念を内包しており、混同してはならない(例:リチャード・ドーキンスの著書表題『The Selfish Gene(利己的な遺伝子)』)。こちらは、自然選択あるいは遺伝的浮動の対象として集団中で世代をまたいで頻度を変化させうる情報単位である。メンデル遺伝的な面をもつもののほか、表現型に算術平均的影響を与える量的形質遺伝子、遺伝情報の突然変異や組み換えに対応する無限対立遺伝子モデルなど、理論的でありながら、即物的な分子生物学の側面を包含した考え方である。これを模倣し、文化進化の文脈で用いられるミーム』(meme:ヒト集団の脳内で伝達・改変が繰り返される情報の内、人類の文化を形成する働きを持つもの。例えば、習慣・技能・物語といった、人々の間で伝達される様々な情報を指す用語。ここはウィキの「ミームを参考にした)『は集団遺伝学における遺伝子のアナロジーである』。『遺伝子という言葉は、「遺伝する因子」としての本来の意味を超えて遺伝子産物の機能までを含んで用いられる場合があり、混乱を誘発している。後者の典型例としては、遺伝しない遺伝子を使った遺伝子治療などがあげられる。さらに遺伝子やDNAという言葉は、科学的・神秘的といったイメージが先行し、一般社会において生物学的定義から離れた用いられ方がされていることが多い。それらの大半は通俗的な遺伝観を言い換えたものに過ぎない。一般雑誌などでは疑似科学的な用法もしばしば見受けられる』とある。]

 

 本書は元來、生物進化の事實とその説明との大要を成るべく通俗的に書くのが主であつたから、從來の版には理論方面の學説は殆ど捨てて置いた。倂し近來は追々遺傳に關する論説が雜誌上にも現れ、また書物にも書かれるやうになつて、その中には本書に述べたことと矛盾する如くに見える所も少からぬから、前以て讀者の疑問に答へるために、この度の新版には、それ等に對する著者の考を一通り略述することとした。已に幾度も述べた通り、これらの問題は今日尚議論の最中であつて、孰れの側からも種々の理窟を持ち出して鬪ふことの出來る點であるから、無論この章に述べただけで、著者の考へがいひ盡してあるわけではないが、餘り詳しく論じては、本書の元來の目的から遠かるから、以上述べただけに止めて置く。

[やぶちゃん注:本書「進化論講話」初版は明治三七(一九〇四)年一月(東京開成館刊)の発行であるが、本テクストは国立国会図書館デジタルコレクションの中の、同じ東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行された初版二十一後)、その『新補改版』(正確には第十三版)である。]

2018/07/25

進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(三) 三 後天的性質非遺傳説

 

     三 後天的性質非遺傳説

 

 後天的性質は遺傳するといふ説と、遺傳せぬといふ説とが有つて、今日尚議論を鬪わして居ることは、已に前に述べたが、その實際を調べて見ると、事實に關する議論よりも寧ろ文字の解釋に就いての議論と思はれる場合が多い。例へば前章に掲げた種々の例の如きは、著者より見れば、當然後天的性質の遺傳と認めるが、後天的性質は遺傳するものでないと論ずる學者は、斯かる場合を如何に説明するかといふに、略次の如き論法を用ゐる。卽ち高い溫度の所で飼養せられたために、蛾の翅の黑くなつたのは、後天的の性質であるが、その生んだ子を平常の溫度の所で育てても、幾分か翅が黑いのは、決して親の後天的性質が遺傳したわけではない。何故といふに、外界の高い溫度が蛾の身體に影響を及ぼす場合には、翅の色を黑からしむるだけに止まらず、恐らく體の内部にも達して、生殖腺内の生殖細胞にも何等かの變化を起すであらう。さればかやうな親から生れた子が、普通のものに比して幾分か違ふて居るのは、親からその新な性質を遺傳したのではなく、生れぬ前に親と同時に外界から影響を受けた結果である。それ故、これは眞に遺傳と名づくべきものでないと、かやうに論じて居るのである。

 右の如き議論は、先づヴァイズマンの生殖物質繼續説を採り、生物の身體は、生殖物質と身體物質との二つに判然分けられるものと見倣した後に初めて成り立つものである。著者の如きは、身體といへば無論全身を指すものと見倣し、生殖腺をもその中に込めて考へるが、後天的性質の遺傳を否定する論者は、身體の中から生殖細胞だけを除外し、全身から生殖細胞を引き去つた殘りだけを身體と名づけて居るのであるから、已に身體といふ言葉の用ゐ方が違ふ。而して彼等は生殖細胞を除いた殘りの體部だけが、先づ外界からの影響を受けて、一定の變化を起し、次に生殖細胞を通じてこの變化を子に傳へたのでなければ、後天的性質の遺傳とは見倣さぬといふのであるから、何時まで議論しても容易に果(はてし)の附かぬ筈である。

 ヴァイズマンは生物の身體を生殖物質と身體物質とに分け、身體を容器、生殖細胞を内容物の如くに考へたから、身體が一生涯の間に新に獲た性質は如何なるものでも、決して子に傳はることはないと明に斷言した。卽ち重箱の表面に幾ら傷が附いても、内の牡丹餅に何の變化も起らぬのと同じであるやうに見倣して居たのであるが、後に成つて、高溫度で飼育した蝶や蛾の變化が子に傳はるといふ確な實驗の報告を見るに及んで、外界からの影響も身體内の生殖細胞までに達するときは、次の代にも變化が現れるといひ出した。然し之は容器なる身體と内容物なる生殖細胞とが同時に外界からの影響を受けたのであるから、竝行感應とでもいふベきもので、遺傳の範圍には屬せぬと論じて、後天的性質非遺傳説を立て通そうとして居るのである、されば今日の所では、外界から生物體に及ぼす影響はその一代に止まらず、後の代までも繼續することがあるといふ事實は、實驗によつて證據立てられたことで、之に對しては誰も疑を插むことは出來ず、たゞ之を後天的性質の遺傳と名づけるか、竝行感應と名づけるかといふ言葉の上の爭があるに過ぎぬ。而して生物の進化を論ずるに當つては、親が新に獲た性質が、子孫にも引き續き現れるや否やといふ事實上の問題ならば、極めて大切であるが、斯かることが確にあると知れた上は、之を遺傳と名づけようとも、竝行感應と名づけようとも一向構はない。

 後天的性質が子に傳はるというても、無論總べてが傳はるといふわけではない。外界から生物體に及ぼす影響の中には、一局部だけに限られて、他に餘り關係のないものもある。ただ一囘の怪我によつて身體の一部を傷けた場合の如きはその例で、試に鼠の尾を切り捨てても、その他の體部には餘り變化を生ぜぬ。肺にも胃にも、心にも肝にも、大した變動を起さぬ如く、卵巢や睾丸にも恐らく變動は生ぜぬであらうから、尾の無くなつたといふ性質が子に傳はらぬのは寧ろ當然である。この點からいふと、ヴァイズマンが十幾代も續けて鼠の尾を切つても、遂に一疋も尾の短い鼠の子が生れなかつたといふ實驗は、後天的性質の遺傳を否定するためとしては頗る不適當であつた。これに反して、溫度・食物・地味・風土等の變化は、生物體の全部に影響を及ぼすもので、身體の一部なる生殖腺も、そのため幾分かの變化を免れぬであらうから、子孫にもその結果が引き續き現れるであらう。アメリカからドイツヘ移し植ゑた「たうもろこし」が、一代每に變化の進むのは、その一例である。高山の植物を平原に植ゑ、鹹[やぶちゃん注:「しほけ」と訓じておく。]の濃い海から鹹の淡い海へ動物を移しなどすれば、恐らく同樣の結果を生ずるであらう。また後天的性質が遺傳するというても、勿論目立つ程に現れるわけではない。若し著しく現れるものならば、今日これに對して議論などは素よりない筈である。されば、人爲的に生活狀態を著しく變更して實驗して見る場合などの外は、恐らく極めて微に傳はり、多くの代を重ねて初めて明になる位に過ぎぬであらう。尚後天的の性質と先天的の性質との區別の如きも、二三の例だけに就いて考へると、極めて明瞭なやうに思はれるが、あらゆる場合を集めて見ると、到底その間に到然した境界を定めることの出來ぬことが知れるが、これ等に關する議論は略する。

 生物の身體を生殖物質と身體物質との二つに區別する人々が、後天的性質の遺傳を否定する主なる理由は、後天的性質が如何にして身體から生殖細胞に傳はるか、その道筋が考へられぬといふ點にあるが、我々の現今の知識を以て考へられぬからといふて、直にその事の存在を否定し去るのは大なる誤りである。生殖腺と他の體部との間には奇妙な關係があつて、生殖腺に故障が起つたり、なくなつたりすると、全身に種々の變化が現れることは常に人の知る所で、例へば男の子の睾丸を切り取れば、年頃になつても鬚も生えず、聲も變らず、性質までが普通の男とは違つたものになる。牡鹿を去勢すれば、角が生えなくなるが、腹の後端にある生殖腺を除いたために、頭の頂上に角が生えぬことも隨分不思議である。姙婦が子を産むまでは乳が出ぬが、子を産めば直に乳が出るやうになる。雌鷄の生殖器に故障があると、往々雄のやうな羽毛が生じて、雄のやうな擧動をするやうになる。近頃は種々の實驗によつて、生殖腺からは一種の物質を血液中に分泌し、その物が身體の各部に循つて、以上の如き現象が生ずることが推察せられるやうになつたが、それにしてもやはり不思議である。斯くの如く不思議な道筋を通つて、生殖腺から他の體部に著しい影響を及ぼすことを思へば、その反對に、他の體部に變化の生じた場合に、生殖腺内の生殖細胞にその影響が及ぶことも、必ずしも考へられぬこととはいはれぬであらう。實は外界からの影響を蒙つて、生物體に變化が起るといふ場合には、身體の一部なる生殖腺にも同時に幾分かの變化が起るであらうから、初め身體が變化し、次にこれが生殖細胞に移る如くに態々段を別けて考へる必要はないのである。

進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(二) 二 生殖物質繼續説

 

    二 生殖物質繼續説

 

 ヴァイズマンの生殖物質繼續説のことは前にも少しく述べたが、ダーウィン以後の遺傳説としては恐らく最も有名なもので、最も多くの學者がその影響を蒙つて居るやうであるから、こゝに更にその要點を摘んで略評を加へ、著者が同説に對する態度を明にして置きたい。

[やぶちゃん注:「第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマン」を参照。]

 

 ヴァイズマンは生物の身體を生殖物質と身體物質との二つから成るものと見倣し、身體物質の方は一代每に新に出來て、壽命が終れば死んでしまふが、生殖物質の方は先祖から子孫まで連綿と引き續くものであると説いて居る。然らば一代每に出來る身體物質は何から生じ、如何にして發育し、終に各種に固有な複雜な構造を有するに至るかとの問に對しては、凡そ次の如くに答へる。抑人間でも犬・猫でも初は母の體内に存する微細な卵から生ずるものであるが、生長した動物の有する總べての身體上の性質を、一個づゝ代表する分子の如きものが、卵の内に最初から存在して居て、胎兒の發生が始まると同時に、この物が次第に相分れて、頭となるべきものは頭となり、足となるべきものは足となり、發生の進むに隨ひ、益細かに相分れて、終には頭の毛となるべきものは頭の毛となり、足の爪となるべきものは足の爪となり、斯くして胎兒の形狀が全く出來上るのである。この分子の如きものは、一個が一性質を代表すること故、その數は何萬も何億もあるわけで、またその大きさは顯微鏡などでは到底見えぬ程の極めて微細なものであるが、この物は各分裂によつて增加する性を具へて居るから、代々二耶分が身體となつても、殘りはそのまゝ生殖細胞として、子孫に傳はつて絶えることはない。一言でいへば、開けば成人の總べての性質を表すべきものが、縮み凝まつて[やぶちゃん注:「こごまつて」と訓じておく。]微細な卵の内に潜んで居るのである。尤も人間の形が顯微鏡的の大きさで卵の内に入つて居るといふわけではない。ただ成人の身體の各部を代表する分子の如きものが、一定の規則に從つて、その内に竝んで居るだけである、卽ち卵の内には頸筋の黑子の色を代表する分子や踵[やぶちゃん注:「かかと」。]の皮の堅さを代表する分子までが、行儀よく竝列して居るわけで、一旦胎兒の發生が始まると、斯かる一組の分子が各二個づゝに分れ、その結果として全く同樣な二つの組が出來、その中の一組はそのまゝ胎兒の生殖器官の中に入つてしまひ、他の一組は前に述べた如くに、漸々相分かれて、胎兒の全身の形を造るのである。

 以上はたゞ卵のみに就いて考へたが、父の體内には卵に相當すべき極めて微細な精蟲と名づける生殖細胞があつて、之も卵と同樣に成人の身體の性質を悉く代表した分子を含んで居るが、生殖作用の際に卵と相合してこれ等の分子を或る割合に混ずるから、生れる子は、父と母との中間の性質を帶び、或る點は父に似、また或る點は母に似るのである。また父にも母にも似ぬやうな性質が現れることのあるのは、その時まで潜んで居た先祖の性質を代表する分子が、或る原因によつて遽に[やぶちゃん注:「にはかに」。]現れ出したのである。つまる所、子の身體に現れる性質は總べで父母の身體内にある卵と精蟲との内に代表者が初から存在して居て、これが如何なる割合に結び附くかは生殖作用の際に定まるわけ故、子が如何なる形に出來るべきかは、生殖作用の行はれるときに既に定まつてしまひ、それから後はたゞ各性質各器官を代表する分子が相分れて、頭は頭、足は足となりさへすれば、子の形は出來上るのである。

 

Hitodenosaisei

[ひとでの再生]

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた。]

 

 以上は素よりヴァイズマンの遺傳説を殘らず述べたわけではない。「生殖物質説」といふ書物一册だけでも六百何十頁もある大きなもの故、なかなか詳しくこゝに紹介することは出來ず、また細胞學・發生學の素養が無ければ解らぬやうなことは一切省いたから、そのためにも餘程略した點がある。倂し眼目とする所を通俗的に述べれば、略以上の如きものであるが、この考を生物學上の實際の現象に當て嵌めて見ると、困難な場合が幾らも生ずる。若しも生物が悉く雌雄兩性による生殖のみをなし、且一度失つた體部を再び生ずる力を持たぬものとすれば、この假説でも差支を生ぜぬが、生物には卵と精蟲とによつて生殖する外に芽生や分裂によつて繁殖するものがあり、また一且失つた體部を忽ち再び生ずる種類も少くない。斯かる場合にもこの説を當て嵌めようとすれば、生殖物質のある區域を極めて弘く擴げねばならず、隨つて生殖物質と身體物質との區別が頗る漠然となつてしまふ。例へば蠑螈[やぶちゃん注:「いもり」。]の如きは、足を切り取つても直にまた新しい足がその跡に生えるが、以上述べた如くに、各器官の各部分を代表する分子が卵の内に初めから存して、發生の際にはただ之が相分かれて足となるべきものが足と成つたとすれば、一旦[やぶちゃん注:底本は「且」であるが、誤植と断じ、特異的に訂した。]出來た足を切り取つた後には、どうして再び足が生ずるかとの問[やぶちゃん注:「とひ」。]が起る。ヴァイズマンは之に答へるために、斯かる場合には足の部分・性質等を代表する分子の塊

は正副二つあつて、正の方はそれぞれに分かれて、脚附・蹠・大趾・小趾などになつてしまふが、副の方はそのまま脚の根元の處に留まつて、足が切られたときに、之を再び造るために待つて居るとの想像説を追加した。スパランザニといふイタリヤ人の實驗によると、蠑螈の足は新しく生じたものをまた切れば、また生えて、六度まで切つたのに、六度とも更に出來たが、ヴァイズマンの説に從へば、足の根元の處には足を造るべき分子の塊が潜んで居て、之が分裂して同樣のものが幾組も出來、一祖足を切られるる度に一組づゝ出て行つて、新しい足を造るのであらう。尚指だけを切れば指だけが再び生じ、腕の所で切れば腕から先が再び生ずる所を見れば、指の根元には指だけを造るべき分子の副の組が潜んで居、背の所には臂より先を造るべき分子の副の組が潜んで居ると論じなければならぬ。植物には隨分一枚の葉、一摘みの芽を切つて植ゑても、一本の完全な植物となつて、花まで咲くものがあることを考へれば、生殖物質は身體の全部に行き渡つて居ると見倣さねば

ならず、動物でも、「ひとで」の腕一本から一疋の完全な「ひとで」が出來、「ひどら蟲」を十に切つた一片からも一疋の完全な「ひどら」が生ずるを見れば、生殖物質は身體の孰れの部にも存在すると考へざるを得ない。我々人間には、腕を切つた後に再び腕が生ずるといふやうな著しい再生の力はないが、皮膚の表面から絶えず垢となつて廢(すた)れ落ちる無數の細胞を補ふために、表皮の内側の細胞が始終盛に分裂し增加して居るのは、やはり一種の再生である。胃や腸の内面の粘膜の細胞も同じやうに常に新陳代謝するであらう。血液中の血球も一定の時間働いた後は老朽して新しい血球に株を讓るであらうが、これ等も皆再生の範圍内に屬する。芽生[やぶちゃん注:所謂、「出芽」。]や分裂による生殖と、高度の再生との間には全く境はないが、高度の再生と低度の再生との間にも無論、境はないから、生物の身體を生殖物質と身體物質との二部に分けようと試みるに當つて、若

しこれ等の點まで考へ及んだならば、到底兩者の境界を定めることは出來なくなるであらう。

[やぶちゃん注:「蠑螈の如きは、足を切り取つても直にまた新しい足がその跡に生える」私は富山県立伏木高等学校在学中、生物部に所属していたが(演劇部とのかけ持ちではあった)、そこでのメインはイモリの再生実験であった。何度も前肢の一方を肩の部分から切除して再生を待った。切断面から肉芽が伸び出し、中にはそれが指状に分岐しかけるところまではいったが、すべては途中で腐って失敗だった。当時の生物の顧問の先生によれば、どんなにエアレーションをして循環させても水槽内に雑菌が多く繁殖していて、そのために感染症を起す結果だと言われた。大学の研究室などなら抗生物質などを水槽に投与するが、そんな金は出せない、と、けんもほろろに言われ、室内でそんなことをするのではなく、もっとフィールド・ワークをしなさいとも言われた。今考えれば、確かにあの頃の私のいた伏木周辺には、まだまだ豊富な自然が残っていたから、その通りであったとしみじみ思うのだ。……ワークするための自然を身近に求めること自体が望めなくなった今では……

「スパランザニ」イタリアのカトリック司祭で博物学者であった、「実験動物学」の祖と呼ばれるラッザロ・スパッランツァーニ(Lazzaro Spallanzani 一七二九年~一七九九年)。ウィキの「ラザロ・スパランツァーニによれば、呼吸・『循環・再生などを実験的に研究し、両生類の人工受精にも成功した。また、微生物の自然発生説を否定したことでも知られ』、さらに、『コウモリは目隠しをしても障害物をよけて飛行できるが、耳もふさいでしまうと飛び立つことすらできないことを実験で確認し、聴覚で周囲を「視て」いるのではないかという仮説を立てている。これが超音波による反響定位であることが実証されるのは、超音波測定装置が発明される』二十『世紀に入ってからである』。『動物の消化のプロセスを解明するために、リンネルの袋に入った食べ物を呑み込み、時間経過後に吐き出すという自己実験を行っている』とある。

「ひどら蟲」刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目ヒドラ科 Hydridae のヒドラ属 Hydra及びエヒドラ(柄ヒドラ)属 Pelmatohydra に属する淡水産の無脊椎動物の総称。強力な再生能力を持つことで知られる。]

 

 生殖物質繼續説を採るか採らぬかは、後天的性質の遺傳を論ずるに當つて大關係のあることで、生物進化に關する理論方面の根本問題である故、次にヴァイズマンの説に對照して著者の考へを述べて置きたい。ヴァイズマンの説によると、生物の身體は生殖物質と身體物質との二部より成り、生殖物質は先祖から子孫へと連綿として繼續するが、身體物質の方は一代每に生殖物質から分かれ生じ、發育して身體となり、一定の壽命の後に亡び失せる。卽ち身體なるものは生殖物質を前の代から受け繼ぎ、次の代へ讓り渡すまでの間、之を預り護るための一時的の容器に過ぎぬ。かやうに身體と生殖物質とを常に別物として考へるのがヴァイズマン説の特色であるが、著者の考へは之と反對である。

 著者の考へによれば、生物の身體を生殖物質と身體物質とに判然分けるのは誤である。この二者は實物に就いて區別の出來ぬ通り、理論上にも判然區別すべき理由はない。卵細胞や精蟲が、新しい一個體を生ずる力を有するに反し、他の體部の細胞にこの力がないのは無論著しい相違ではあるが、之は根本的の相違ではなく、發生に伴ふ分業の結果と見倣すのが至當であらう。生殖細胞には生殖の力はあるが、その代りに營養の働が出來ず、他の身體の細胞は子を産むことは出來ないが、その代りに身體を養ふ役を務め得るのは、恰も胃は消化するが呼吸せず、肺は呼吸するが消化せずといふのと同樣な關係で、孰れもたゞ生活に必要な種々の作用を分擔して居るのである。如何なる生物でも、その發生の初期には特に生殖に與る[やぶちゃん注:「あづかる」。]べき物質と、その他の物質との區別などは決してない。その發育が進むに隨ひ、頭となるべき所、足となるべき所、胃になるべき部、肺になるべき部などの區別が次第に現れるが、それと同樣に、生殖腺となり生殖細胞を生ずべき部分も明に他と區別が出來るやうになる。動物によつては、發生の初期から生殖細胞と他の細胞との區別が明に知れるものもあるが、之は單に分業が早くから現れるといふまでで、脊椎動物の如くに生殖細胞の區別の生ぜぬ類に比して、たゞその時期に早い晩いの差があるに過ぎぬ。元來生殖の働は各個體の營養を務める方とは仕事の性質が違ふから、他に比すれば分業の行はれることが幾分か早いのが常で、單細胞動物の群體の内でも、先づ最初に分業の行はれるのは、營養を司どる個體と生殖を司どる個體との間である。されば、或る動物の發生中に、生殖細胞のみが特に早くから他の細胞と區別が出來るやうになつても別に不思議はない。また、かやうに分業が起つて、身體の構造が複雜になつてからも、全部殘らず集まつて一個體を成して居るのであるから、身體といふ中には無論生殖腺も生殖細胞も含まれて居る譯で、特に之だけを離して別物の如くに取扱ふべき理由はない。

 生物が兩性生殖によつて代を重ねる有樣を見るに、先づ親の身體から精蟲・卵細胞が離れ、この二つが相合して一個の新しい生物體の基となるが、初は恰もアメーバの如き單細胞動物と同樣で、無論生殖細胞・身體細胞の區別はない。次いで少しく發育が進んでも、尚單細胞動物の群體の如くで、總べての細胞は形も相同じく、働きも相均しい。更に發育が進むと、初めて身體各部の間に漸々相違が現れ、生殖腺の出來る場處も次第に明になる。これだけは實物に就いて直に見ることの出來る事實であるから、理論に於てもこの通りに

見倣すのが最も造りごとのない考へ方であらう。されば生活する物質が先祖から子孫へ連綿と繼續して、決して途中に切れ目のないことは明であるが、生物の身體を常に生殖物質と身體物質とに分け、その中の生殖物質だけが繼續するものの如くに見倣すのは、實物で證明することの出來ぬ一種の想像説であるから、之によらねば到底説明のしやうがないといふやうな事實が澤山にない以上は、特に之を採るべき理由はない。また複雜な身體が出來上つてからも、生殖細胞を有する卵巢や睾丸は、肺・胃・肝・心などの他の臟腑と共に、同一の血液、同一の淋巴に養はれ、同一の神經に支配せられ、同一の醗酵素が循つて[やぶちゃん注:「めぐつて」。]來て、全體が寄り合つて一個の完結した個體を成すもの故、生殖細胞と他の體部とを離して全く別物の如くに取扱ひ、後者を容器の如く、前者を内容物の如くに見倣すのは、大なる誤であつて、かやうな考を根據として論を立てては、到底正しい結論に達する望はないやうに思はれる。

[やぶちゃん注:丘先生のヴァイスマンの「生殖質説」への反駁は冷静で整然としていて、腑に落ちる。落ちるが、これらを読みながら、私はしかし、このヴァイスマンの極論すれば「生物個体は生殖細胞の持つ目に見えない生殖質の未来へと伝播して行くための容器である」という考え方は、私はイギリスの進化生物学者・動物行動学者クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins  一九四一年~)の一九七六年に発表したThe Selfish Gene(「利己的な遺伝子」)を読んだ時の、目から鱗の発想転換の面白さを思い出させるのである。「生物は遺伝子によって利用されれいるヴィークル(vehicle:乗り物)に過ぎない」というあれである。私は個人的にドーキンスの考え方を支持する人間である。セントラル・ドグマを長い生物種の生存のタイム・ラインで考察する時、私はミトコンドリアがそうであった可能性が高いように、DNAは、生物体に寄生し、同化し、その保存と複製を命じ続ける驚くべき生物様システムであるように思われてくるからである。]

 

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(46) 社會組織(Ⅱ)

 

 日本の奴隷制度の起原に關しては、多くの學ぶ可き事が殘つて居る。つぎつぎに移住が行はれた證據があるが、少くとも、極古い日本の移住者の内には、其後に來た侵入者のために、奴隷の狀態に陷れられたのもある。なほ朝鮮人支那人の移住者も隨分澤山にあつて、其の中には、奴隷よりも遙かに惡るい禍を逃れるために自ら進んで奴隷の服役を望んだ者もあつたらしい。併し此の問題は、甚だ曖昧である。【註】吾々は上古にあつては、奴隷に墮とされるといふ事が普通の刑罰であつた事、竝びに負債を拂ふ事の出來ない債務者は債務者の奴隷となる事、又窃盜は被盜難者の奴隷となるやうに判決された事を聞いて居る。言ふまでもなく隷屬の狀態にも、澤山の相違が在つた。奴隷の慘めな部類に屬する者には、家畜に近いものもあつた。併し、農奴の中には、賣買されることが出來ず、或る特殊な仕事以外には使用する事を許されないものもあつた。これ等のものは主人の血旅で、糊口又は安全のために、自ら進んで奴隷狀態に入つたものであるらしい。彼等と主人との關係は、ローマの食脚と其の庇護者との關係を想ひ起こさせる。

[やぶちゃん注:「血旅」原文“kin血縁・親族・親類の意)。「血族」の誤植と思われる。]

 

註 六九〇年に、持統天皇の發布した勅令は、父が其子息を奴隷に賣却し得ることを制定してゐる、併し債務者は單に農奴にのみ賣られ得るとされて居る。勅令には恁う書いてある、『一般人民の間に在つて、弟が其兄に依つて、賣られたる場合、その弟は自由の人と一緖に置かれ得る、子が其親に依つて賣られた場合には、その子は奴隷と一緒にされる、債務の利子支拂ひのために、奴隷となつた人々は、自由の人と一緒にされる。それ等の人と奴隷との間に生まれた子は、すべて自由の人と同列にされる』――アストン譯『日本紀』第二卷、四〇二頁

 

若有百姓弟爲ㇾ兄一ㇾ賣者。從ㇾ良(ヲホミタカラ)。若子爲父母見ㇾ賣者。從ㇾ賤(ヤツコ)。若准(なすらへ)貸倍(カリモノノコ)。沒(イ)レラハㇾ賤者(ヤツコ)。從[やぶちゃん注:原本「徒」。誤植と断じて特異的に訂した。]良(ヲホミタカラ)。其子雖ㇾ配(タグ)ヘリト奴婢。所ㇾ生亦皆從ㇾ良。

[やぶちゃん注:「日本書紀」の持統五(六九一)年の「三月癸巳」(二十二日)の条を改めて引く。

   *

詔曰。若有百姓弟爲兄見賣者。從良。若子爲父母見賣者。從賤。若准貸倍沒賤者、從良。其子雖配奴婢。所生亦皆從良。

   *

やはり平井呈一氏の訓読文を参考に読み下しておく。

   *

詔(みことのり)して曰はく、「若し、百姓(おほみたから)の弟(おとと)有りて、兄(このかみ)の爲に賣られなば、良(おほみたから)に從へ。若し、子、父母(かぞいろ)の爲に賣られしかば、賤(やつこ)に從へ。若し、貸倍(かりもののこ)に准(なぞら)へて賤(やつこ)に沒(い)れらば、良(おほみたから)に從へ。其の子、奴-婢(やつこ)に配(たぐ)へりと雖(いふと)も、生む所(ところ)は亦、皆、良(おほみたから)に從へ。

   *]

 

 今日の處では古代の日本社會に於ける自由にされた人と本來の自由人との間に、明確なる差別を立てることは困難である。併し支配階級の下位に屬する自由な人民は、二大區分に分かれてゐたことを吾々は見るのである、則ち國造と伴造(ともつこ)とがそれである。前者は農夫であつて、恐らく極古い蒙古の侵入者の後裔らしく、中央政府とは獨立して自分等獨自の土地を保有することを許されてゐた、彼等は自分の土地を領有して居たのであるが、貴族ではなかつた。伴造は工匠であつて――恐らく其の大部分は朝鮮人若しくは支那人の後裔で――その氏族は百八十もあつた。彼等は世襲の職業に從事し、其氏族は皇族に屬して居て、皇族のためにをの技能を振ふやうにさせられて居た。

[やぶちゃん注:「國造」(くにのみやつこ) は古代大和の王権に服属した地方首長の身分の称。地方統治に当たらせ、大和政権は国造制の下に地方支配体制を固めた。「大化の改新」による国郡制の施行により、その多くは郡司に優先的に登用されたが、一部は律令制下の国造として祭祀を掌り、世襲の職とされた。

「伴造」「大化の改新」前に皇室所有の「部(べ)」、則ち「品部(ともべ)」(忌部(いんべ)・山部・鍛冶部(かじべ)とった特定の物資や労役を世襲的に提供させられた集団。身分は公民であるが,良賤の中間に位置した)・「名代(なしろ)」(皇族の私有部民(べみん)。諸国の国造の民から割いて設け、皇族名を付した)・「子代(こしろ)」(皇室の私有部民。天皇が皇子・皇女のために設けたものらしい)を率い、その職業によって朝廷に奉仕した中央の中下層の豪族。その姓(かばね)は造(みやつこ)・首(おびと)・連(むらじ)が普通であるが、大伴・物部両氏のように大連(おおむらじ)となって朝政を左右する豪族にまで発展したものもある。このような伴造の中で有力なものは令制下にあって、一般貴族に名を連ね、他は令制の下級官人に編成され、律令諸官司の品部・雑戸(ざっこ:律令時代の大蔵省・兵部省造兵司・中務省図書寮などのような特定の省・司・寮に属して手工業などの技術的業務に従事した集団)を率いて朝廷に奉仕するようになった。]

 

 本來から云へば、大氏でも小氏でも、みなぞれぞれ自己の領土、主長、從屬、農奴、奴隷を所有してゐた。主長の職は世襲――原始の族長から直系に依つて、父から其の子へ讓られるもの―であつた。大氏族の主長は、それに從屬する小氏族の主長の上に立ち、其の權力は宗教と武力との兩方に及んだ。但し宗教と政治とが同一のものと考へられて居たことは、忘れてはならない。

 日本の氏族の全部は、皇別、神別、藩別の三部に分かたれて居た。皇別(『皇室の一門』)は所謂皇族を表はし、日の御神(天照皇大神)の後裔とされて居る。神別(『神の一門』)は日の御神以外の地上と天上との諸〻の神々の後裔とされて居る氏族である。藩別(『外來の一門』)は多數の人民を代表して居る。斯樣な次第であるから、支配階級から見れば、一般人民は本來外國人であると考へられたのである――只だ迎へられて日本人とされて居るものと考へられたに過ぎない。或る學者に依れば、藩別と云ふ言葉は、最初支那人か朝鮮人かの子孫の農奴或は自由にされた人に、與へた名稱であつやのださうである。併し之は證明されたわけではない。只だ祖先の如何に依つて、全社會が三階級に分かれてゐたこと、三階級の中二つは、【註】統治する寡頭政治を作り、又第三階級は則ち『外國』の階級で、國民の大部分――庶人であつた事だけは事實である。

 

註 フロレンツ博士は、皇別と神別との區別を、二個の武力的支配階級――侵略と移住との二つの相續いた波浪から生じたも――の存在に依るものとして居る。皇別は、神武天皇に從屬して居たもの、神別は、神武天皇の降臨以前に、大和の地に定住して居た遙かに古い征服者のことであると。博士の考へる所に依れば、最初のこれ等の征服者達は、驅逐されなかつたのである。

[やぶちゃん注:「フロレンツ」ドイツの日本学者カール・アドルフ・フローレンツ(Karl Adolf Florenz 一八六五年~一九三九年)。明治二二(一八八九)年に来日し、東京帝国大学でドイツ語・ドイツ文学・比較言語学を講じながら、日本文化を研究、明治三十二年には神代紀の研究によって東京帝大より文学博士号を受けている。他にも「日本書紀」や日本の詩歌・戯曲などを翻訳した。]

 

 姓階(カスト)――かばね若しくは姓――を以てする區分もあつた。(私は『姓階(カスト)』なる言葉を、フロレンツ博士に從つて用ひる。博士は日本の古代文明硏究者の第一の權威であつて、姓の意義に就いては『姓階』成は『種族』“ Colour ”を意味するサンスクリツトのVarna の意味に等しきものとして居る)日本社會の三大區分に於ける各家族は、孰れかの姓階に屬してゐた、而して各姓階は、最初は或る職業を表はしてゐたものである。姓階は、日本に於ては、何等確たる發達をしなかつたらしく、古い頃から既に、かばねは混和せられる傾向を示して居た。第七世紀の頃に及び、この混和は非常に甚だしくなり、天武天皇は姓の組織を新たにする必要を感じられ、玆にすべての氏族は、再び八個の新しい姓階に組み更へられるに至つた。

[やぶちゃん注:最後のそれは「八色の姓(やくさのかばね)」。天武天皇が天武一三(六八四)年に整理再編した八種の姓。「真人(まひと)」を第一として、以下、「朝臣(あそん)」・「宿禰(すくね)」・「忌寸(いみき)」・「道師(みちのし)」・「臣(おみ)」・「連(むらじ)」・「稲置(いなぎ)」の八姓。「大化の改新」後の政治的変動によって従来の姓の序列に動揺が生じたため、皇室との親疎・政界での地位を規準として、元皇族の姓の「公(きみ)」(「君」)の一部に「真人」を、有力な臣に「朝臣」を、有力な「連」に「宿禰を、有力な帰化姓諸氏や国造諸氏に「忌寸」の姓を授けたもの(「道師」・「稲置」は実例がなく、不明である)。「臣」・「連」はこの新姓授与に漏れた旧来の臣・連であった。]

諸國里人談卷之四 宮城野萩 / 卷之四~了

 

    ○宮城野萩(みやぎのゝはぎ)

奧州宮城野の萩は、木萩(こはぎ)にて灌木のごとく、尋常(よのつね)の草萩とは異に(こと)して、弓などに作る木也。又、「本〔もと〕あら木萩〔こはぎ〕」といふは、梢に靑き枝生(おひ)て、その枝に花さくゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、「本のあらはなる」と云〔いふ〕事也。

 宮城ゝ本あら木萩露おもみ露をまつごと君をこそまて

むかし爲仲といふ人、みちのくの任(にん)なりけるが、任はてゝ登られける時、宮城の萩を長櫃十二合に入〔いれ〕て登りければ、京入(きやういり)の日、二條大路に、人、おほくあつまり、車、あまた、立〔たち〕たると云々。

  國里人談四之終

[やぶちゃん注:ここは「宮城野」の比定地を私の譚海 卷之二 仙臺宮城野萩の事で、まずは参照されたい。そこで私は若林区の北に接する現在の宮城野区の仙台市街の中心にある榴ケ岡(つつじがおか)辺りから東及び南に広がる平野部で、この国分寺周辺域までの内陸平原一帯が原「宮城野」原であると考えてよいとした。また、ここで言う「宮城野」の「萩」は、通常のマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza である。「宮城野萩」という和名を持ち、宮城県の県花にも指定されている萩の一種、ハギ属ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii なる種が存在するが、本種は宮城県に多く自生はするものの、近代になって歌枕の宮城野の萩にちなんで命名されたものであるから、本種に比定することは出来ない。特に本邦に自生するハギ類で我々が普通に「萩」と呼んでいるものはハギ属ヤマハギ亜属(模式種ヤマハギLespedeza bicolor。芽生えの第一節の葉がハギ亜属では互生し、ヤマハギ亜属では対生する違いがある)のものである旨の記載がウィキの「ハギ属」にはある。ここで「木萩」と言っている「灌木」のような、優位に木部の太いものは、マメ科ハギ属キハギ Lespedeza buergeri を指すか。舎」サイト「木のぬくもり 森のぬくもりの「キハギ」を見られたい。沾涼の「本〔もと〕あら木萩〔こはぎ〕」の意味も花の写真で納得出来るし、分布は本州・四国・九州。中国及び朝鮮とあり、写真を見るとシッカリガッチリ「木」してて「弓」にも作れそう!]

諸國里人談卷之四 八橋杜若

 

    〇八橋杜若(やつはしのかきつばた)

三河國碧海郡(へきかいの)八橋山(やつはしさん)無量寺の杜若は、世に聞(きこ)たる名草なり。此杜若は四葩(よひら)にして燈臺の蛛手(くもで)のごとし。「水行(ゆく)川の蛛手」といふは僻(ひが)事也。蛛手は流(ながれ)の事にあらず。花形(くはぎやう)の名なり。

[やぶちゃん注:

「八橋山(やつはしさん)無量寺」誤り。愛知県知立市八橋町寺内にある臨済宗八橋山(やつはしさん)無量壽寺(グーグル・マップ・データ)。寺伝によれば、慶雲元(七〇四)年に慶雲寺として別な場所に創建され、弘仁一二(八二二)年には密円が現在地に移転させて、真言宗無量寿寺として整備したとされる。参照したウィキの「無量寿寺知立市によれば、境内には『在原業平を追って想い叶わずに自殺したとされる小野篁の娘杜若を祀る』「杜若姫供養塔」や『荻生徂徠の弟子が在原業平の逸話を書き付けた』「亀甲碑(八橋古碑)」があるとある。

「杜若」八橋地区は古来から知られるカキツバタ(単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata)の名勝地で、かの花札の五月の十点札「菖蒲と八ツ橋」(「杜若に八ツ橋」とも)は当地がモデルであり、京銘菓「八ツ橋」は一説には、この八橋に因むとされる、とウィキの「無量寿寺知立市にある。知られた「伊勢物語」第九段を引いておく。

   *

 むかし、男(をこと)ありけり。その男、身を要(えう)なきものに思ひなして、

「京にはあらじ、あづまの方に住むべき國求めに」

とて、行(ゆ)きけり。もとより友とする人ひとりふたりして行(い)きけり。道知れる人もなくて、まどひ行(い)きけり。

 三河の國、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋とはいひける。その澤のほとりの木の蔭に下(お)りゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。その澤に、かきつばた、いとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、

「『かきつばた』といふ五文字(いつもじ)を句の上(かみ)にすゑて、旅の心をよめ。」

と言ひければ、よめる、

 からころも着つつなれにしつましあれば

   はるばる來ぬる旅をしぞ思ふ

とよめりければ、みな人、乾飯の上(うへ)に淚おとして、ほとびにけり。

   *

業平は天長二(八二五)年生まれで元慶四(八八〇)年没であるから、本寺は現在地に既にあったし、東国下りのルート上として問題はないから、このロケーションがこの寺の直近であったと考えることには無理はないと思われる。なお、本「諸國里人談」の刊行(寛保三(一七四三)年)から七十九年後のこととなるが、文化九(一八一二)年に方嚴賣茶(ほうがんばいさ)翁によって無量壽寺の再建が行われた際、同時に「杜若庭園」も完成したとウィキの「無量寿寺知立市にはある。

「四葩(よひら)」四弁。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)を指す。

「燈臺の蛛手(くもで)」屋内の照明用の灯台は、平安以降、円型の台に長竿(ながさお)を立てて、その先端に「蜘蛛手」という四方に放射状に広がった小さな木製の支え板をつけて、灯明皿を置くようになった。沾涼の薀蓄はそれなりに成程とは思わせるが、世に聞えた「伊勢物語」の名にし負う「蜘蛛手」が、水の四方への分流を指しているのを当たり前として語らずに、かく知ったようなことを断定して言うのは、イヤな感じの糞俳諧師という感じがしてくるのは私だけか?]

諸國里人談卷之四 妙國寺蘇鉄

 

    ○妙國寺蘇鉄(みやうこくじのそてつ)

泉州堺、妙國寺に、番焦(そてつ)の大樹あり。高〔たかさ〕、一丈三尺、叢生(くさおひ)にして、十三本、周(めぐ)り株、二丈。比類なき名樹也。客殿の筑山(つき〔やま〕)にある故、こなたに格子を付〔つけ〕て、外より見ゆるやうにしけるなり。しかるに、田舍順禮など來りて、何(なに)と心得(こゝろへ[やぶちゃん注:ママ。])けるか。これを拜し、散米散錢を投(なげ)るによりて、近年、格子の際(きは)に賽錢箱を設(もう)く。

[やぶちゃん注:「泉州堺、妙國寺」現在の大阪府堺市堺区材木町にある日蓮宗広普山(こうふさん)妙国寺。ウィキの「妙国寺に「霊木・大蘇鉄の伝説」として、『境内の大蘇鉄は国指定の天然記念物』(大正十三(一九二四)年指定)で、樹齢千百年余と称して『次のような伝説が残っている』とあり、『織田信長は、その権力を以って』、天正七(一五七九)年に『この蘇鉄を安土城に移植させた。あるとき、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は庭先で妙な声を聞き、森成利』(なりとし:近習として知られる森蘭丸のこと)『に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し』、『士卒に命じ』、『蘇鉄の切り倒しを命じた。しかし家来が斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ』、『即座に妙國寺に返還した。しかし』、『もとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。哀れに思った日珖』(にちこう:京の頂妙寺の三世。父は堺の豪商で薬剤商を営んでいた油屋伊達常言(じょうごん))『が蘇生のための法華経一千部を誦したところ、蘇鉄』の霊『が「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。寺では御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀っている。爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えない』とある。(同ウィキの写真)。

「番焦(そてつ)」裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta。なお、ソテツは南西諸島で「蘇鉄地獄」と呼ばれた、可食(種子)ながら、処理を誤ると、死に至る有毒植物であるウィキの「ソテツによれば、『日本の南西諸島の島嶼域では、中世から近代まで食用にされてきた。ソテツは、有毒で発癌性物質のアゾキシメタンを含む配糖体であるサイカシン(Cycasin)を、種子を含めて全草に有』する。『サイカシンは、摂取後に人体内でホルムアルデヒドに変化して急性中毒症状を起こす。しかし』、『一方でソテツには澱粉も多く含まれ、幹の皮を剥ぎ、時間をかけて充分に水に晒し、発酵させ、乾燥するなどの処理を経てサイカシンを除去すれば』、『食用が可能になる』。『鹿児島県奄美群島や沖縄県においては、サゴヤシ』(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科サゴヤシ属サゴヤシ(ホンサゴ)Metroxylon sagu)『のようにソテツの幹から澱粉を取り出して食用する伝統がある』。『また、種子から取った澱粉を加工して蘇鉄餅が作られたり、奄美大島や粟国島では、毒抜き処理と微生物による解毒作用を利用して無毒化された蘇鉄味噌が生産されたりしており、蘇鉄味噌を用いたアンダンスーが作られることもある』。『奄美・沖縄地域では、郷土食以外にも飢饉の際にソテツを救荒食として飢えを凌いだ歴史があったが、正しい加工処理をせずに食べたことで食中毒により死亡する者もいた。大正末期から昭和初期にかけて、干魃や経済不況により』、『重度の貧困と食糧不足に見舞われた沖縄地域は、ソテツ食中毒で死者を出すほどの悲惨な状況にまで陥り、これを指して「ソテツ地獄」と呼ばれるようになった』。『与論島でも、戦後から本土復帰』(昭和二八(一九五三)年)『後の数年間は島民の生活は大変貧しく、ソテツの種子で飢えを凌いでおり、その有り様も「ソテツ地獄」と称された』。『ソテツ澱粉を水に晒す時間が不十分で毒物が残留していたり、長期間にわたる食用で体内に毒素が蓄積されるケースが多く報告されており、例えばグアム島など、ソテツ澱粉を常食している住民がいる地域ではALS/PDC(筋萎縮性側索硬化症/パーキンソン認知症複合、いわゆる牟婁病)と呼ばれる神経難病が見られることがある』。『ソテツは、あくまで他の食料が乏しい時の救飢食として利用されているものであって、素人が安易に試すのは避けるべきとされる。また、同じソテツ属でも revoluta 以外のものは可食性は未確認である』とある。

「一丈三尺」三メートル九十四センチメートル。

「叢生(くさおひ)」草木が群がって生えること。

「二丈」六メートル六センチメートル。

「筑山(つき〔やま〕)」「築山」に同じい。]

諸國里人談卷之四 物見松

 

    ○物見松(ものみのまつ)

美濃國垂井と赤坂の間、靑野原(あをののはら)に「熊坂が物見の松」あり。相傳ふ、むかし、長範(ちやうはん)、此松のうへに潛(ひそま)りて、往來(ゆきゝ)の人をうかゞひけるといへり。熊坂は越後國關川と小田切との間に熊坂村といふあり、此所の出生(しゆつしやう)なりと云。

[やぶちゃん注:「美濃國垂井と赤坂の間、靑野原(あをののはら)」現在の岐阜県不破郡垂井町とその東に接する岐阜県大垣市赤坂町の間、現在の岐阜県大垣市青野附近(グーグル・マップ・データ)。

「熊坂が物見の松」熊坂長範(くまさかちょうはん)は平安後期にいたとされる伝説上の盗賊(但し、初出は室町後期。以下の引用参照)。ウィキの「熊坂長範より引く。『室町時代後期に成立したとされる幸若舞『烏帽子折』、謡曲『烏帽子折』『熊坂』などに初めて登場する。牛若丸(源義経)とともに奥州へ下る金売吉次の荷を狙い、盗賊の集団を率いて美濃青墓宿(または赤坂宿)に襲ったが、かえって牛若丸に討たれたという』。源義経に関わる大盗賊として広く世上に流布し、これにまつわる伝承や遺跡が各地で形成され、後世の文芸作品にも取り入れられた』。『幸若舞『烏帽子折』による、熊坂長範に関わる話の筋は次のようなものである』。『鞍馬寺を出奔し』、『金売吉次の供に身をやつした牛若丸は、近江鏡の宿で烏帽子を買い求め、自ら元服して九郎義経を名乗った。美濃青墓宿の長者の館に着いたとき、父義朝、兄義平・朝長の三人が夢に現れ、吉次の荷を狙う盗賊が青野が原に集結していることを知らされる。このとき、熊坂長範は息子五人を始め、諸国の盗賊大将七十余人、小盗人三百人足らずを集めていた。青墓宿を下見した「やげ下の小六」は義経の戦装束を見て油断ならぬものと知らせるが、長範は常ならぬ胸騒ぎを覚えるものの、自らの武勇を恃んで青墓宿に攻め寄せた。待ちかまえていた義経は長範の振るう八尺五寸の棒を切り落とし、三百七十人の賊のうち八十三人まで切り伏せる。長範は六尺三寸の長刀(薙刀)を振るって激しく打ちかかるが、義経の「霧の法」「小鷹の法」に敗れ、真っ向から二つに打ち割られた』。『謡曲『烏帽子折』『熊坂』は、舞台を美濃赤坂宿とし、義経との立ち回りに細かな違いは有るものの長範に関わる筋立ては同様である』。『牛若丸が奥州へ下るさいに盗賊を討つ、という逸話は』十三『世紀半ばに成立した『平治物語』においてすでに現れている。ここでは、黄瀬川宿(現沼津市)付近で身の丈』六『尺の馬盗人を捕縛し、百姓家に押し入った強盗』六『人を切り伏せている』。『『曽我物語』では、盗賊を討ったのは美濃垂井宿のこととされ』、『室町時代前期に成立したと考えられる『義経記』では、出羽の由利太郎と越後の藤沢入道に率いられた信濃・遠江・駿河・上野の盗賊勢』百『人ほどを鏡の宿において討ったとする』。『熊坂長範の名が現れる幸若舞『烏帽子折』と謡曲『烏帽子折』『熊坂』の先後関係は明かでないが』、『内容から見るといずれも『義経記』、なかでも越後の住人で大薙刀を操る藤沢入道の記述を元に創作された可能性が江戸時代から指摘されている』。『幸若舞『烏帽子折』で自ら語るところによれば、越後との国境にある信濃国水内郡熊坂に生まれた』(現在の長野県上水内郡信濃町熊坂。(グーグル・マップ・データ)南端外の長野県上水内郡信濃町野尻側に彼が根城としたと伝え、その埋蔵金が眠るという長範山(ちょうはんやま)がある)。『もとは仏のような正直者であったが』、七『歳のとき伯父の馬を盗んで市で売った。これが露見しなかった事に味を占め、以来日本国中で盗みを働き、一度も不覚をとらなかったという』。『義経に討たれた時は既に老境(齢六十三)に差し掛かっていたが、棒や薙刀(幸若舞『烏帽子折』・謡曲『熊坂』)、或いは五尺三寸の大太刀(謡曲『烏帽子折』)などを振るう豪傑として、小柄で素早い義経と対照的な描写がされている。謡曲『烏帽子折』では投げ込んだ松明を義経に三つとも消され、縁起が悪いとして一旦は退散を考えるものの、「いや熊坂乃長範が。今夜の夜討を仕損じて。何処に面を向くべきぞ。たゞ攻め入れや若者ども」と叱咤する』。『このような人物像はさらに脚色され、例えば『謡曲拾葉抄』に引く『異本義経記』では張良と樊噲の字を取って熊坂張樊を名乗ったとし』、『『義経地獄破り』においては地獄を攻める義経に伊勢義盛』『の仲介で勘当を許され地獄の釜の蓋を盗み出す』、また、『高野山で発心したさまが『新著聞集』に記されるなど』、『さまざまな伝承が発生し、江戸時代には歌舞伎・浄瑠璃・草双紙などにおいて盗賊・義賊の代名詞として諸作品に登場することとなる。現在この松は垂井町綾戸(あやど)の綾戸古墳((グーグル・マップ・データ))で「長範物見の松」として比定されている。手水舎サイト「川柳&ウォークの「綾戸古墳と長範物見の松がよい。

「越後國關川と小田切との間」「關川」は新潟県妙高市関山の誤りであろう「小田切」は長野県長野市山田中にあるが、飯縄山南麓でかなり離れるので、不審。熊坂を南東に下ると小布施であるから、それと混同したものか?

諸國里人談卷之四 大樹

 

    ○大樹

景行天皇十八年に、筑紫(つくし)の道の後(うしろ)の國に至り給ふ時に、倒れたる木あり。

長〔たけ〕、九百七十丈、百官、その木を蹈(ふみ)て徃來(おうらい)す。

天皇、問(とふ)て云〔いはく〕、

「是、何の木ぞ。」

一(ひとり)の老夫ありて曰(いは)く、

「此樹は櫪(くぬぎ)なり。昔、倒(たをれ[やぶちゃん注:ママ。])ざるのさき、旭(あさひ)の暉(かゝや)くにあたつては、則〔すなはち〕、杵島(きねしま)を隱し、夕日のかゝやくにあたつては阿蘇の山をかくしき。」【「日本紀」。】

○又、云〔いふ〕、昔、近江國栗本郡に大なる柞(はゝそ)の木あり。其圍(めぐ)り、五百尋(ひろ)あり。枝葉(しやう)、繁茂(しげくしげり)て、其木の影、朝(あした)には丹波にさし、夕〔ゆふべ〕には伊勢國にさす。されば滋賀・栗本・甲賀(かうか)三郡(ぐん)に蔭を覆ひ、日影あたらざれば、田畑の作物、熟せず。百姓、これを歎きて、此由を奏す。よつて、掃守宿禰(はきもりのすくね)に命じて、これを伐(きら)しむ。【「後堂」。】

[やぶちゃん注:読み易さを狙って、前半は特異的に改行した。世界樹として洋の東西を問わず、広汎に見られる巨木伝説の一つ。後段部分は「今昔物語集」巻三十一の「近江國栗太郡大柞語第三十七」)近江(あふみ)の國栗太郡(くるもとのこほり)の大柞(おほははそ)の語(こと)第三十七」に、

   *

 今は昔、近江の國栗太の郡に、大きなる柞の樹、生ひたりけり。其の圍(めぐり)五百尋也。然(しか)れば、其の木の高さ、枝を差したる程を思ひ遣るべし。其の影、朝(あした)には丹波の國に差し、夕(ゆふべ)には伊勢の國に差す。霹靂(へきれき)する時にも動(うご)かず、大風(おほかぜ)吹く時にも搖(ゆる)がず。

 而る間、其の國の志賀・栗太・甲賀(かうか)三郡の百姓、此の木の蔭に覆ひて日(ひ)當らざる故に、田畠(でんばく)を作り得る事、無し。此れに依りて、其の郡々(こほりこほり)の百姓等(ら)、天皇(てんわう)に此の由を奏す。天皇、卽ち、掃守(かにもり)の宿禰(すくね)□□等(ら)を遣して、百姓の申すに隨ひて、此の樹を伐り倒(たふ)してけり。然(しか)れば、其の樹伐り倒して後、百姓、田畠を作るに、豐饒(ぶねう)なる事を得たりけり。

 彼(か)の奏したる百姓の子孫、今に其の郡々に有り。

 「昔は此(かか)る大きなる木なむ有ける。此れ希有の事也。」となむ、語り傳へたるとや。

   *

と出る。「五百尋」は、人体尺で、両手を左右に広げ伸ばした長さを「一尋」(凡そ五~六尺)とする。ここは短い五尺をとると、百五十一・五センチメートルとなるから、七百五十七・五メートルとなる。また、「掃守の宿禰」宮内省に属した掃守寮(かにもりのつかさ)の役人。宮中の掃除・鋪設を担当した。古くは「かむもり」と訓じた。「宿禰」は古代の「八色(やくさ)の姓(かばね)」の一つ(第三位)。なお、この近江の巨木伝説は「古事記」の仁徳天皇の条を始めとして、異伝が頗る多い。

「景行天皇十八年に……」「日本書紀」景行天皇十八年[やぶちゃん注:単純西暦換算八八年。]七月甲午[やぶちゃん注:四月。]の条に、

   *

秋七月辛卯朔甲午。到筑紫後國御木。居於高田行宮。時有僵樹。長九百七十丈焉。百寮蹈其樹而往來。時人歌曰、

阿佐志毛能 瀰概能佐烏麼志 魔幣菟耆弥 伊和哆羅秀暮 彌開能佐烏麼志

爰天皇問之曰、「是何樹也。」。有一老夫曰、「是樹者歷木也。嘗未僵之先。當朝日暉、則隱杵嶋山。當夕日暉、亦覆阿蘇山也。」。天皇曰、「是樹者神木。故是國宜號御木國。」。

   *

歌は、

あさしもの みけのさをばし まへつきみ いわたらすも みけのさをばし

(朝霜の御木(みけ)のさ小橋(をばし)群臣(まへつきみ)い渡らすも御木のさ小橋)

「櫪(くぬぎ)」ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima。漢字表記は「櫟」「椚」「橡」「栩」「功刀」等。和名語源説は「国木(くにき)」とも言われる。

「九百七十丈」二千三百九十四メートル。

「杵島(きねしま)」肥前国(佐賀県)にあった杵島郡(きしまぐん)。現在の佐賀県西部武雄市(たけおし)附近一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「近江國栗本郡」旧栗太(くりた)郡。誤りではなく、「和名類聚抄」などでは「栗本郡」とも記されており、当初は「くりもとぐん」と呼ばれていたが、やがて「くりたぐん」と変化した。古代には近江国府が郡内の勢多(瀬田)に置かれた。現在の草津市・栗東市の全域・大津市の一部・守山市の一部に相当する。旧郡域(但し、明治期)は参照したウィキの「栗太郡」を見られたい。

「柞(はゝそ)」小学館「日本大百科全書」によれば(幾つか私が追記した)、コナラ(ブナ目ブナ科コナラ属コナラ Quercus serrata)の古名とも言うが、古くはナラ類(ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus に属する前種コナラを含めた、本邦産種であるクヌギ Quercus actissima・ナラガシワ Quercus aliena・ミズナラ Quercus crispula・カシワ Quercus dentata・アベマキ Quercus variabilisの総称ともされる。「万葉集」に「山科の石田(いはた)の小野(をの)の柞原(ははそはら)見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ」(巻第九・藤原宇合(うまかい)・一七三〇番)と詠まれ、のちにこの「石田(いしだ)のははそ原」は歌枕となり、また「ははそ葉の」は「母」の枕詞となった。「古今和歌集」では、とくに「佐保山」の景物として類型化し、「秋霧は今朝はな立ちそ佐保山の柞(ははそ)の紅葉(もみぢ)よそにても見む」(前書「是貞のみこの家の歌合のうた」・よみ人しらず・巻第五 秋歌下)などと詠まれた。「源氏物語」の「少女(をとめ)」の帖では、六条院の冬の町の御殿に植えられた様子が描かれ、「更級日記」には「ははその森」という紅葉の名所が挙げられてある。

「後堂」不詳。識者の御教授を乞う。]

諸國里人談卷之四 伐ㇾ櫻

 

    ○伐ㇾ櫻(さくらをきる)

京都東福寺の兆殿司(てうでんす)は名画なり。

將軍義持公、愛し給ひ、時々招かれけるが、一日(あるひ)、兆の志(こゝろざし)を謂(いは)しめ、

「望む所あらば、則〔すなはち〕、達(たつ)せん。」

と也。

明兆(めいてう)の曰(いはく)、

「財貨・官爵(くわんしやく)、元より、望(のぞみ)なし。一衣一鉢(いちゑいつはつ)、吾におゐて、足(た)れり。しかれども、今一〔ひとつ〕の願ひあり。近來頃(ちかきころ)、東福寺の衆僧、好(このん)で櫻樹(さくら)を栽(うゆ[やぶちゃん注:ママ。])る事をなす。後世に至らば、精舎(しやうじや)變じて遊園の地場(ちじやう)とならん。これ、予が歎く所なり。ねがはくば、命(めい)を奉りて、これを伐らん。」

と也。

義持公、大きに感じ給ひ、その請(こう)所にまかせて、則(すなはち)、伐らしむ。

今に至〔いたつ〕て、寺中に、櫻、なし。

[やぶちゃん注:読み易さを狙って、特異的に改行を施した。

「兆殿司(てうでんす)は名画なり」「画」(略字は①③とも)は「畫師」(「ゑし」と訓じたい。「畫工」はイヤ)或いは「画僧」の脱字であろう。室町前・中期の臨済宗の画僧吉山明兆(きつさんみんちょう 正平七/文和元(一三五二)年~永享三(一四三一)年))の通称。ウィキの「吉山明兆によれば、『淡路国津名郡物部庄(現:兵庫県洲本市物部)出身。西来寺(現:兵庫県洲本市塩屋』二『丁目)で出家後、臨済宗安国寺(現:兵庫県南あわじ市八木大久保)に入り、東福寺永明門派大道一以の門下で画法を学んだ。その後、大道一以に付き従い』、『東福寺に入る。周囲からは禅僧として高位の位を望まれたが、画を好む明兆はこれを拒絶して、初の寺院専属の画家として大成した。作風は、北宋の李竜眠や元代の仏画を下敷きにしつつ、輪郭線の形態の面白さを強調し、後の日本絵画史に大きな影響を与えた。第』四『代将軍・足利義持』(元中三/至徳三(一三八六)年~応永三五(一四二八)年/在任:応永元(一三九四)年~応永三〇(一四二三)年)。父の義満死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。彼の将軍在職二十八年は歴代室町将軍中最長。ここはウィキの「足利義持に拠った)『からもその画法を愛されている。僧としての位は終生、仏殿の管理を務める殿主(でんす)の位にあったので、兆殿主と称された』。『東福寺には、『聖一国師像』や『四十八祖像』、『寒山拾得図』、『十六羅漢図』、『大涅槃図』など、多くの著名作品がある。東福寺の仏画工房は以前から影響力を持っていたが、明兆以後は東福寺系以外の寺院からも注文が来るようになり、禅宗系仏画の中心的存在となった。工房は明兆没後も弟子達によって受け継がれ、明兆画風も他派の寺院にも広まって、室町時代の仏画の大きな流れとなって』いった、とある。

「今に至て、寺中に、櫻、なし」事実、現在の東福寺には殆んど桜の木はないそうであるが(この明兆の一件を契機としてと伝わる)、但し、ネット情報によれば、一箇所だけ、光明院にはあるそうである。但し、(グーグル・マップ・データ)は東福寺南三門外直近の境外塔頭である。]

諸國里人談卷之四 一夜杦

 

    〇一夜杦(ひとよすぎ)

同國同郡院内より五里がほど南に「杦の宮」といふあり。三輪明神の社(やしろ)あり。此所の杦、一夜(ひとよ)、降(ふ)りくだりたり、といひつたへ、凡(およそ)一万本ほどの杦、梢、切(きり)そろへたるがごとくにして、少(すこし)の高下(こうげ)なし。尤(もつとも)、他木(たぼく)なし。ふしぎの林なり。

[やぶちゃん注:「同國同郡院内より五里がほど南「杦の宮」といふあり。三輪明神の社(やしろ)あり」三輪明神の社これは現在の秋田県雄勝(おがち)郡羽後町(うごまち)杉宮(すぎのみや)にある三輪神社(ここ(グーグル・マップ・データ))であるが、「南」は距離から見ても、現在の秋田県湯沢市上院内附近を起点としていると考えられ、地図を見て戴けば判る通り、「北」の誤りである。個人ブログ「宿ろ」の「三輪神社(秋田県羽後町杉宮)によれば、社伝によれば、養老二(七一八)年、『行基が当地を巡錫の折、杉の木の下で霊告を受けて草庵を営み、大和国一宮「大神神社」を勧請したのが創始とされる。また、「雄勝城」建設のために大和朝廷から派遣された官人が、故国を懐かしんで勧請したともいう。現在では見る影も無いが、かつては地名の通り豊かな杉林があり、大和国から一夜にして飛んで来た、との伝承がある。「大神神社」には本殿が無く、「三輪山」そのものを神体山としているが、当神社では杉林を神体としたのかもしれない。当然ながら、祭神は(「大神神社」と同じ)大物主大神。平泉藤原氏の崇敬を受けて藤原秀衡』『の祈願所となり、現本殿は秀衡が造営したものと伝えられるが』、『確証はない。当神社境内に三輪神社(中央)、須賀神社(向かって右)、八幡神社(向かって左)の』三『社の社殿が並んでいるが、建築様式などからみて、「三輪神社」本殿は室町時代、「須賀神社」本殿は桃山時代の建立と推定され、国指定重要文化財に指定されている(「八幡神社」本殿は羽後町指定文化財)』とある(下線太字やぶちゃん)。]

諸國里人談卷之四 小町芍藥

 

    ○小町芍藥(こまちしやくやく)

出羽國雄勝(おかち)郡院内、湯沢といふ驛(むまやぢ)は、秋田より會津への往還也。此宿の間、小町村といふあり。むかし、此所は出羽(でわの[やぶちゃん注:ママ。])郡司好實(よしざね)の住居地なるよし、小町村は小の小町の出生の所也といへり。小町の宮(しや)あり。その流れといひつたへて、さもとらしき百姓あり。むかしより、此家は女子ばかり生じて男子を生ぜず。代々(よ〔よ〕)、聟をとつて相續する事、今以、かはらず。又、田畑の畔(あぜ)に、芍藥、九十九株あり。小町の植(うへ[やぶちゃん注:ママ。])られし其種(たね)といひつたへたり。此芍藥を、わけて他(た)にうゆるに、そだゝず。そのまゝ枯(かる)る也。花の盛のころ、子供・わらんべにても、此花を折れば、そのまゝ祟りありて、大熱(だいねつ)などする也。よつて、垣をきびしくかこみ置(おく)也。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

私云〔わたくしにいふ〕、

九十九といふ事を小町の事にいふは、深草の少將、もゝ夜通ひし事より、世にいひつたへたり。又、「もゝとせにひとゝせたらぬつくもがみ」の哥は、うたひ物には小町の事のやうにいへども、「伊勢物語」には、かつて、小町の事にはあらず。此所の芍藥、九十九株にさだまる事はいぶかしき事也。かの少將の緣によりて、九十九かぶ、のこる事か。外に仔細あるにや、しらず。

[やぶちゃん注:「伊勢物語」は①は「伊物」。③を採用した。

「出羽國雄勝(おかち)郡院内、湯沢」「小町村」「小町の宮(しや)」現在の秋田県湯沢市秋田県湯沢市小野小町(おのこまち)にある小町堂。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「出羽(でわの)郡司好實(よしざね)」ウィキの「小野小町」によれば(下線太字やぶちゃん)、『小野小町の詳しい系譜は不明である』(生没年も未詳である)『彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い』。『系図集『尊卑分脈』によれば』、『小野篁の息子である出羽郡司小野良真の娘とされている。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。加えて、数々の資料や諸説から』、『小町の生没年は』天長二(八二五)年頃~昌泰三(九〇〇)年の『頃と想定されるが、小野篁の生没年』(延暦二一(八〇二)年~仁寿二(八五三)年)を『考えると』、『篁の孫とするには年代が合わない。ほかに、小野篁自身の娘』、『あるいは小野滝雄』なる人物の娘『とする説もある』。『血縁者として『古今和歌集』には「小町姉(こまちがあね)」、『後撰和歌集』には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが』、『存在が疑わしい。さらには、仁明天皇の更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。このため、架空説も伝えられている』。『また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる(ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する)。前述の小町姉が実在するという前提で、姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の“町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある』。『生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵(山形県酒田市)に移しており、その周辺とも考えられる。この他にも京都市山科区とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説』、『熊本県熊本市北区植木町小野とする説』、『神奈川県厚木市小野とする説』『など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。東北地方に伝わるものはおそらく『古今和歌集』の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われるが、それも小野小町の神秘性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられてもいて、この伝説の裏付けにはなりにくい。ただ、小野氏には陸奥国にゆかりのある人物が多く、小町の祖父』ともされる『小野篁は青年時代に父の小野岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと言われる。また、小野篁のいとこである小野春風は若い頃辺境の地に暮らしていたことから、夷語にも通じていたという』。『前述の秋田県湯沢市小野で過ごしたという説の他、京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年』、『この地で過ごしたとの説がある。ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている』。『小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される』。『秋田県湯沢市小野には二ツ森という深草少将と小野小町の墳墓がある。なお、近隣には、小野小町の母のお墓とされる姥子石など、小野小町ゆかりの史跡が多数存在している』とある。その他の伝承はリンク先を見られたい。

「さもとらし」如何にももっともらしく由緒ありげだ。然るべき様子である。

「芍藥、九十九株あり」深草少将は、ウィキの「深草少将」によれば、『室町時代に世阿弥ら能作者が創作した、小野小町にまつわる「百夜通い」の伝説に登場する人物。深草の里の欣浄寺(京都市伏見区)に屋敷があったともされる』。『欣浄寺の池の横には「少将の通い道」とよばれるものがあり、訴訟を持っている者がここを通るとかなわないと言われる。その他、小野小町供養塔と並んで深草少将供養塔がある。また、随心院(京都市山科区)には、深草少将等が書いた手紙を埋めたとされる「文塚」等がある。小野小町を愛したといわれ、小町が私の元へ百日間通い続けたら結婚しようと言い、九十九夜通ったが、雪の降る日で、雪に埋まり凍死したとも言われている』とあるように、まさに小町伝説の産んだ架空の人物である可能性が濃厚な男である。サイト「京都通百科事典」の「百夜通い伝説」には幾つもの同伝説のヴァージョンが記されているが、その中に――小野小町は、深草少将が毎日運んできた九十九本の芍薬を植え続けてきたが、百日目の夜、秋雨が降り続く中、途中の森子川にかかった柴で編まれた橋で、百本目の芍薬を持った深草少将が橋ごと流されてしまう。小野小町は、月夜に船を漕ぎ出し、深草少将の遺骸を探し、岩屋堂の麓にあった向野寺に安置して、芍薬一本一本に九十九首の歌を詠じ、「法実経の花」と称した。その後、小野小町は、岩屋堂に住み、香をたきながら自像をきざみ、九十二才で亡くなった。――という話を載せるが、この話の森子川や岩屋堂は、既にしてこの生地の一つとされる秋田県湯沢市小野なのである。「秋田県あきた未来創造部地域の元気創造課活力ある集落づくり支援室」の作るサイト「ああきた元気ムラ!」の「小町の伝説(1)小町の誕生」や、「小町の伝説(2)深草少将の百夜通い」及び「小町の伝説(3)小町の晩年」を参照されたい。また、強力な個人サイト「小野小町」「岩屋堂」や同サイトのその他の湯沢市小野地区の「小町堂(芍薬塚)」「桐善寺(長鮮寺跡)」(深草少将が仮住まいしたとされる)・「二ツ森」(小野小町と深草少将の墳墓の地とされる場所)等(トップページ下方)も必見である。

「もゝとせにひとゝせたらぬつくもがみ」「伊勢物語」第六十三段に出る、

 百年(ももとせ)に一年(ひととせ)たらぬつくも髮われを戀ふらしおもかげに見ゆ

である。「つくも髮」は諸説あるものの、「九十九髮」で「百」に一画足りぬ「白」で白髪の意と解される。在原業平は小野小町と同時代人ではあるが、沾涼の附記する通り、この章段の相手の大年増の女性は小町ではなく、全く関係はない

「うたひ物には小町の事のやうにいへども」観阿弥が謡曲「卒塔婆小町(そとばこまち)」で「百夜通い」伝説に引っ掛け、この歌の上句を、老残の小町の告白(深草の少将の霊が彼女に憑依する直前)の、地歌に、

〽百歳(モモトセ)に 一歳(ヒトトセ)足らぬつくも髮(ガミ) かかる思ひはありあけの 影(カゲ)恥づかしきわが身かな

と使っている。

2018/07/24

諸國里人談卷之四 遊行柳

 

    ○遊行柳(ゆぎやうやなぎ)

下野國芦野(あしの)にあり【奧州の界〔さかひ〕。】。柳のもとに、淸潔の淸水(しみづ)、流れたり。傍(かたはら)に社(やしろ)あり。「溫泉(ゆぜん)大明神」と号(がうす)。

 道のべの淸水流るゝ柳陰しばしとてこそ立とまりけれ

                  西行

此歌よりの名木也。然れば「西行柳」といふべかりけるを、うたひ物に、柳の精靈(せいれい)、遊行上人に逢(あひ)たると云〔いふ〕附會の説より「遊行柳」と云。

[やぶちゃん注:本条の挿絵がここに載る(①)。但し、キャプション(上部欄外左)は「道邊の柳」(「邊」は「連」のようにも見えなくもないが、以下の西行の歌から「邊」で採る)。これは私としてはまず、私の今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅14 遊行柳 田一枚植ゑて立ち去る柳かなを読んで戴きたく思う。

「下野國芦野(あしの)」現在の栃木県那須郡那須町芦野。「遊行柳」は現在、国指定の「おくのほそ道の風景地」の名勝の一つとなっている。(グーグル・マップ・データ)。流石に、これについてのネット記載は有象無象あるが、私はmaki kenサイト「BeNasu那須高原の歩き方の「おくのほそ道 田の畦に立つ芦野 遊行柳が写真も豊富でお薦めである。

「溫泉(ゆぜん)大明神」(原本は「ゆせん」)近くには芦野温泉もあるが、こう称するのは殺生石のそばにある温泉(ゆぜん)神社である。「遊行柳」からは北西十九キロメートル弱であるが、いわば那須一帯の温泉の総元締め的存在であり、「遊行柳」の近くには温泉神社の相殿八幡宮(現在、温泉神社)がある。(グーグル・マップ・データ)。

「道のべの淸水流るゝ柳陰しばしとてこそ立とまりけれ」西行の名吟とされ、「新古今和歌集」の「巻第三 夏歌」に載る(二六二番)が、「けれ」は「つれ」の誤り

   題しらず

 道の邊(べ)に淸水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ

「西行法師家集」では初句を「道の邊の」である。また、この歌は「山家集」には見えない。なお、「新古今和歌集」のそれは二首で後に(二六三番)、

 よられつる野もせの草のかげろひて涼しくくもる夕立の空

とある。

「うたひ物」謡曲「遊行柳」世阿弥の名作「西行桜」に対抗して、晩年の観世信光が書いた複式夢幻能。初演は永正一一(一五一四)年。西行の掲げた「道のべに」の和歌を骨子として、歌に詠まれた老いた柳の精が閑寂な風情をみせる高度な能。奥州に至った遊行上人(ワキ)(時宗の総本山である清浄光寺(遊行寺)の歴代住職の称。これを一遍上人と比定断定する記載をネット上には見かけるが、それは全くの誤りである。冒頭のワキの「名ノリ」に『われ一遍上人の教へを受け』とあるからである)の前に、老人(前シテ)が現れて、先代の遊行上人の通った古道に案内し、西行の歌に名高い朽木(くちき)の柳という名木を教え、上人から十念を授かると柳のあたりに姿を消す(中入)。里人(間(あい)狂言)が出て、上人に柳の物語をして退く。上人の念仏のなかに、柳の精(後シテ)が白髪の老翁の姿で現れ、和漢の柳の故事を物語り、報謝の舞を舞って消える(以上は概ね小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

諸國里人談卷之四 西行桜

 

    ○西行桜

山城國嵯峨法輪寺の南に桜元菴(さくらもとのあん)といふあり。西行上人の菴室(あんじつ)の舊地なり。此所に大なる桜一樹あり。これを「西行ざくら」といふ。また「西行田(だ)」といふあり。西行の田園(でんゑん)なりと。

○憲淸(のりきよ)、入道して圓位(ゑんゐ)と號(がうす)。後に西行と改め、國々を遊び𢌞(めぐ)りて、名所古蹟の地にして和歌を詠じ、これをたのしむ。

關東に趣(おもむ)くの時、家僕(かぼく)も発心して相從ふ。名を西住(さいぢう[やぶちゃん注:①③ともにママ。「さいぢゆう」が正しい。])といへり。

遠江國天竜川の渡りにて、船に乘(のり)けるに、乘る人、夛〔おほく〕して、舩、危(あやふ)し。

「僧達は下りて跡の舩に乘(のる)べし。」

と云り。

「便船(びんせん)は旅僧の常也。」

といひて、退(しりぞ)かず。

一人の船長(ふなをさ)、大〔おほい〕に怒りて、

「憎き法師のいひ事かな。」

と、西行の頭(かしら)を打(うつ)に、血、流れたり。

西行、憤る事さらになくして、舩より去る。

西住、これを見て、患悲(うれへかな)しみ、船長と爭ひに及(およば)んずる時、西行、これを制し、

「余、都をいづるより、兼而(かねて)、斯(かく)のごとくなる事を知る。何ぞこれを愁(うれへ)ん。此〔この〕すゑ、若箇(いかばかり)かあるべし。汝は伴ふべからず。」

とて、西住を古鄕(ふるさと)へ歸し、それより、独(ひとり)、行脚す。

                 西行

 いひたてゝ恨はいかにつらからん思へばうしや人のこゝろの

[やぶちゃん注:本条の挿絵がここに載る(①)。本条は物語調であるので、読み易さを狙って、特異的に改行を施した。

「西行桜」現行では西行ゆかりの寺とされて「花の寺」の通称でも知られる、京都府京都市西京区大原野南春日町にある小塩山(おしおざん)大原院(だいげんいん)勝持寺(しょうじじ)に(ここ(グーグル・マップ・データ))三代目が鐘楼堂の脇に咲くとするが、以下で沾涼が言う場所とは全く異なる。本寺は西行が出家した寺とし、「西行桜」も西行お手植えの桜とする。なお、「西行櫻」の名は、西行と桜の精の問答を核とした世阿弥の同名の複式夢幻能としても知られる。

「山城國嵯峨法輪寺」現在の京都市西京区嵐山虚空蔵山町、桂川の渡月橋右岸直近にある真言宗智福山法輪寺(ここ(グーグル・マップ・データ))。先の勝持寺は、この寺の南南西五キロメートル半も離れた位置にある。

「桜元菴(さくらもとのあん)」西行庵跡と伝えるものとしては、右京区嵯峨二尊院内(ここ(グーグル・マップ・データ。桂川左岸、法輪寺の北北西一・五キロメートル)。二尊院を入ってすぐの左手に「西行法師庵の跡」という石碑が建つ。私は行ったことがないので、ネット上の画像で確認した。

「西行田(だ)」「西行の田園(でんゑん)」現行では残らない。西行に与えられた扶持米分の田地ということか。

「憲淸(のりきよ)、入道して圓位(ゑんゐ)と號(がうす)。後に西行と改め……」西行の俗名は佐藤義清(のりきよ(憲清・則清・範清とも表記) 元永元(一一一八)年~文治六年二月一六日(一一九〇年三月三十一日)。ウィキの「西行」より引いておく。勅撰集では「詞花和歌集に初出(一首)。「千載和歌集」に十八首、「新古今和歌集」に九十四首(これは同歌集の入撰数の第一位である)をはじめとして、二十一代集に計二百六十五首が入撰している。家集に「山家集」・「山家心中集」(自撰)・「聞書集」がある。『秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の』九世の『孫。佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった』。十六歳頃より『徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる』。保延元(一一三五)年、十八歳で『左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ』、同三(一一三七)年に『鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが』、保延六(一一四〇)年、二十三歳で』突如、出家(理由不詳)、『円位を名のり、後に西行とも称した』。『出家後は心のおもむくまま』、『諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した』。『出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し』、天養元(一一四四)年頃には『奥羽地方へ旅行し』、久安四(一一四九)年前後に『高野山(和歌山県高野町)に入』っている。その後、仁安三(一一六八)年には中国・四国への行脚に出、この時、『讃岐国の善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ねてその霊を慰めたと伝えられ』、これは後代、上田秋成の「雨月物語」巻頭を飾る名篇「白峰」で怪談に『仕立てられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである』。『後に高野山に戻るが』、治承元(一一七七)年には『伊勢国二見浦に移った。文治二(一一八六)年、『東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため』、二『度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉で源頼朝に面会し、歌道や武道の話をしたことが』「吾妻鏡」に記されてある(ここは私の「北條九代記 西行法師談話」を是非、読まれたい。そこの私の注には「吾妻鏡」と当該部も引いてある)。『伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺(大阪府南河内郡河南町)に庵居し』、『この地で入寂した。享年』七十三。かつて「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」と『詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時』、『名声を博した』。「後鳥羽院御口伝」に『「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。歌風は率直質実を旨としながら、つよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが』、『恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味』・『隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかもしれない』。『和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが』、文治三(一一八七)年に自歌合』(じかあわせ:自作の和歌を左右に分けて組み合わせ、他人又は自分が判詞をつけて歌合形式に纏めたものを指す)『「御裳濯河歌合」』(みもすそがわうたあわせ:西行が自作から七十二首を選び、左方を「山家客人」、右方を「野径亭主」と成して、三十六番の歌合として構成、藤原俊成に判を依頼したもので、伊勢内宮に奉納された。後に出る同じく西行の自歌合「宮河歌合」(定家判)と一体のものであるが、後世の自歌合の最初とされている。自選歌を通して西行の和歌評価基準を知ることが出来、俊成の率直な判詞とともに貴重な資料とされる。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)『を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合』「宮河歌合」』(みやがわうたあわせ)『を作って、当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)』。『しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに』「千載和歌集」の『主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった』。『後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇・芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし』、西行に仮託した偽書である説話集「撰集抄」や、伝記「西行物語」(鎌倉時代成立・作者未詳)を『はじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以もまたここに存する』とある。

「家僕(かぼく)も発心して相從ふ。名を西住(さいぢう)といへり」西住なる僧について考証したものは意外に少ない。そんな中で山村孝一氏の論文「西住と西行」は真っ向からそれに向かったもので必見である。西住はここに書かれているような佐藤義清の「家僕」だったのではなく、山村氏の考証によれば、まず、「1.西住の伝について」では、諸資料から、①『西住は俗名、源季正(政)で、在俗時右(左)兵衛尉であった』こと、②『醍醐寺理性院流祖賢覚より付法を受け、その法脈に連なる真言宗系の僧であった』ことが明らかとなり、さらに、続く「2.新資料について」では、「中右記」の大治四(一一二九)年十月二十三日の条に着目され、『この日の記事は、鳥羽上皇と待賢門院との間の五宮本仁親王(後の覚性法親王)の侍所政所始めのことである。この中の侍所十人の名前の六番目に「右兵衛尉源季政」という人物が見られる。私は、ここに出てくる「右兵衛尉源季政」こそ西行の同行』(どうぎょう)『であった西住の在俗時代の姿であると考えたい』とされ、①『彼は大治四年十月二十三日には右兵衛尉であり、本仁親王(後の覚性法親王)の侍所に仕えていた』人物であり、②『西行よりも年上』の、③『徳大寺家とは関係の深い侍ではないか』と推察されておられる。次の「3.西住の出家時期について」では、結論として『私は西住出家時期を保延六年頃、覚性法親王、西行などとかわらない頃と推定したい。また、初期の彼の出家後の形態は、西行、寂然などのように遁世を遂げたわけではなく、寂超や俊成のように都に留まり半僧半俗のような生活を送ったものと考えたい』とされ、「4.西住と西行の関係について」では、西行の四国行脚の際も落ち合ってともに行っていたことが示され、諸歌を掲げられて考証の上、そこには『西行の西住への愛情であり慕情である』ものが横溢しており、『それも両者の年齢差から考えてみて、弟が兄を慕うような感情ではなかっただろうか。また、そのような感覚で見た時、西住の死の折に見せた西行の異常なまでのうろたえぶりや、落胆の程が初めて理解できるのではないだろうか』と述べておられる。「5.西住の死について」は終章であるが、上記の部分も含め、山村孝一氏の論文「西住と西行」で、じっくりと全文を読まれたい。なお、他に、察侃青(サイハイセイ)氏の論文「『西行物語』の方法――東海道を歩む西行――」(PDF)が、後の「西行物語」を考証した論文として優れているが、それを読むと、この「天竜の渡し」の事件伝承はかなり異なったヴァージョンや展開が存在するらしいことが判る。察氏は、『天竜の渡りで武士に鞭で頭を打ち割られた事件は、物語の中の最もドラマチックなエピソードということになろう』。『西行は、同行の入道と共に天竜の渡りで、大勢の人が乗った船に便乗した際、乗り合わせた武士に船を降りろと命じられたものの、渡船場の習いと思い、降りようとしなかった。すると、武士に鞭で頭を叩き割られ』、『血が流れるという惨事となった。同行の入道が見て悲しむ様子に、西行は修行の真義を教訓し、同行を拒否し』、『入道と別れて一人で旅を続けた』としつつ、『以降、略本系『西行物語』には次の独自な挿話が描かれている』として以下の久保家本「西行物語」の一節を引いておられる(引用を参考に、恣意的に漢字を正字化して示した)。

   *

只獨り、嵐の風身にしみて、うき事いとゞ大井河、しかひの波をわけ、淚も露もおきまがふ、墨染の袖しぼりもあへず行程に、するがの國、阿部の宿と云ふ所に付きて、あばれたる御堂に立寄り、やすみて居たりけるに、何となく後ろ戸の方を見やりたりけるに、ふるき檜笠のかけられたるを、あやしと見に、すぎにし春の比、都にて、たがひに、先立ゝば、還來穢國、最初引攝の契をむすびし同行の、東の方へ修行に出し時、あながちに別れを悲みしかば、此を形見にとて、我不愛身命、但惜無上道と書きたりしが、笠はありながら、主は見えざりければ、おくれ先立ならひ、はやもとのしづくと成りにけるやらんと、哀れに覺へて、淚をおへて、宿の者に問ひければ、京より、此春、修行者のくだりでありしが、此御堂にて、いたはりをして失せ侍りしを、犬の喰ひみだして侍りき。かばねは近きあたりに侍るらんと言ひければ、尋ぬるに、見えざりければ、

 笠はありその身のいかに成ぬらんあはれはかなき雨のしたかな

   *

創作性が強いとは言え、この展開は怖ろしいまでに凄絶で、しかも妙に生血のリアリズムある。西行の頭から流れる血筋に比ではない。しかも、『かつては阿仏尼筆と伝えられていた静嘉堂文庫本『西行物語』では、西行の阿部で発見した笠は、「同行西住」の形見としている。次に掲げるのはそれである』として、静嘉堂文庫本「西行物語」の当該部が示される(同前の仕儀を行った)。

   *

阿部の宿といふところに付きて、あれたる御堂に休みけるに、

 我不愛身命但惜無上道

と書たりし笠あり。見れば同行西住が笠也。笠はあれども、主は見えざりければ、あたりの人にとふ。答へて、この春、修行者のくだりでありしが、この御堂にて、いたはりをして失せ侍べりしを、犬の喰いみだして侍りき。かばねは近きあたりに侍べらんと言へば、尋ぬるに見えず。

 かさはありその身はいかになりぬらんあわれはかなきあめのしたかな

   *

察氏は『『西行物語』諸本において、これは唯一笠の持ち主の名が記されている伝本である。その上、西行家集『山家集』にもしばしば登場し、歴史上の西行の生涯の友であるとされている西住と明記している。本来、該当する描写は物語の展開を左右するほどの改編となろうが、『大般若経』の紙背を用いての書写のため紙数の制限を受けており、「省筆甚しく、改寵されている疑い」があり』、『「前半の西住出家に付けあわすべく、あえてその最期を同行客死の話に求めようとした意図が明らか」であると、多くの先行研究は指摘している』。『しかしながら、本文批判はしかるべきであっても、説話が流布する際には、それと全く関わらない形で伝承されていくこともある』とされ、続く「三.阿部における西行西住伝承」の冒頭で、『現在、静岡県藤枝市岡部町にある小さな丘・岩鼻山の頂に西行笠懸松と西住法師墓が存している』と始めて、西住についての考証に入って行くのである。この論文も必見である。

「僧達は下りて跡の舩に乘(のる)べし」例えば、吉川英治の「新・平家物語」の「歌法師」の章の冒頭ではこのエピソードを膨らましているが、そこでは西行と西住は舟に先に乗っており、舟は出ようとしている。そこに乱暴な三人の地侍が強引に乗り込もうとして(そこでは船頭は逆に彼らの乗船を渋る)、西行らを「乞食坊主」と呼び、下船を命ずるのである。

「便船(びんせん)は旅僧の常也。」通常の渡し舟に乗るは行脚の僧の当然の権利である。しかもちゃんと順に待って乗ったのであろうから、考えてみれば、ごく当たり前の理路整然としたものなのであると思われる。しかし、ここは理不尽を言うのを舟の安全性をよく知っている船頭の一人としてしまった点、沾涼がこう船頭が言った状況(舟の定員だけでなく、川の状態)を仔細に語っていない点、さらに、そうしたシチュエーション描写が削がれた中にあっては、この西行の台詞が、僧としては、聊か、不遜に聴こえてしまう点で失敗していると私は思う。

「余、都をいづるより、兼而(かねて)、斯(かく)のごとくなる事を知る。何ぞこれを愁(うれへ)ん。此〔この〕すゑ、若箇(いかばかり)かあるべし。汝は伴ふべからず」――私は、都を出でて、遙かな行脚の旅に赴くその初めから、予ねてより、このようなこと【これは、西住が船長(ふなおさ)の非道を見て彼と騒諍に及ぼうとしたことを指す。】〉になることが判っていたのだ。出家遁世した者が、どうしてこのようなこと【これも、西行が非道にも頭を打ち割られて怪我をしたことを契機として、西住がそれを激しく悲しみ、遂には義憤を発して船長と争おうとしたことを指す。】にあたら下らぬ愁いを起してなるものか! これから先、かくの如き(「若箇」)ことが何度起こる(「若箇」)ことであろうか思いやられることじゃ。それを思えばこそ、そなたを伴って行脚することは出来ぬ!――

「いひたてゝ恨はいかにつらからん思へばうしや人のこゝろの」「山家集」の「下 雑」の「恋百首」の一首(一三二九番)で「夫木和歌抄」(三十六)にも載る、

 言ひ立てて恨みば如何につらからむ思へば憂しや人のこころは

である。]

2018/07/23

諸國里人談卷之四 八幡木

 

    〇八幡木(〔はち〕まんき)

土佐國野根山(のね〔やま〕)街道の傍(かたはら)に檜の株あり。徑(わたり)一丈五尺に餘る。莚(むしろ)八疊を敷(しく)。梺(ふもと)の奈半利(なはり)村の八幡の社は、他の木を混(まじへ)ず、此一樹を以〔もつて〕、棰(たるき)・屋根板まで、悉(ことごとく)、成就す。よつて、俗にこれを「八幡木(はちまんき)」と呼(よん)で、周りに注連(しめ)を引て崇(あが)む。社(やしろ)は、方、四、五間ばかり有り。今に存

[やぶちゃん注:「土佐國野根山(のね〔やま〕)街道」ウィキの「野根山街道」によれば、『高知県東部の奈半利町』(なはりちょう)『と東洋町を結んでいる尾根伝いの街道で』、奈良時代の養老年間(七一七年~七二四年)に『整備された官道で、奈良と土佐国府を結ぶ街道「南海道」の一部である。高知県安芸郡奈半利町と東洋町野根を尾根伝いに結ぶ行程約』三十六キロメートル、高低差約千メートルの街道は、古くは「土佐日記」の『著者紀貫之の入国の道として、また、藩政時代には参勤交代の通行路として使用された。現在は「四国のみち」環境省ルート』の自然歩道『として整備されている』とある。尾根ルート(グーグル・マップ・データ)である。高知県公式サイト内の「野根山街道がよい。但し、その詳細な案内を見ても、どうもこの霊木の「檜の株」はない。しかし、謂われを持つ「栂」の株や、巨木であった「宿屋杉」(胸高での周囲が十六・六メートル、高さ三十二メートル、樹齢千年以上だったという。昭和九(一九三三)年の室戸台風で倒壊した。巨大な株が現地に保存されてある)というのがあるから、探せば、この杉の株もあるのではないか、という気がしてくる。

「徑(わたり)一丈五尺に餘る」直径四メートル五十五センチメートル越え。

「莚(むしろ)八疊を敷(しく)」根の周囲は優に八畳分はあるということ。

「奈半利(なはり)村の八幡の社」不詳。奈半利町内には国土地理院を見ると、七つの神社が確認出来る(グーグル・マップ・データでは、名前はおろか、神社マークさえも示されない。なんじゃこりゃ? って感じ)。奈半利駅の直近の奈半利小学校の東北近くに「八幡様」という場所をナビゲーション・サイトでは見出せるが、神社はない。近くに多気(だけ)坂本神社があるが、八幡神は祭神でない。「社は、方、四、五間」(七メートル二十八センチメートルから九メートル九センチメートル)とあるから、当時は、それなりの建物であったことが判る。或いは、明治以降に合祀統合されてしまったものか。識者の御教授を乞う。

「棰(たるき)」垂木に同じい。]

諸國里人談卷之四 臥龍梅

 

    ○臥龍梅(ぐはりうばい)

武藏國葛飾郡龜戸(かめと)村にあり。「梅屋敷」と称す。実(じつ)に、木つきは、龍の蟠(わだかま)れるがごとく、その枝の末(すへ[やぶちゃん注:ママ。])、地中に入〔いり〕て幹(みき)と成(なり)、枝と成りて、這(はひ)わたる事、十余丈、小朶(こえだ)は左右に流れて、梢、高からず。花の盛(さかり)は芬々として四方(よも)に薰(くん)ず。葉は、大なる桃のごとし。味(あぢは)ひ、至(いたつ)て酸(す)し。毎とし、遊觀(ゆうくわん)の人、詩歌・連俳、紙筆、これがために尊(たつと)く、車馬に疊(かさな)る。

[やぶちゃん注これも既に私は「耳囊 之四 龜戸村道心者身の上の事、及び柴田宵曲 俳諧博物誌(6) 龍 二で考証している。それを援用すると、この「梅屋敷」は現在の江東区亀戸(かめいど)の(グーグル・マップ・データ)で、元は浅草(本所埋堀とも)の伊勢屋彦右衛門の別荘であった。上記リンク先の通り、現在は建物も梅も全く存在せず、「梅屋敷跡」として位置だけが確認出来るに過ぎぬが、ここの絵は実は多くの方が見たことがあるのである。そう! かのゴッホも惚れ込んだ、あの歌川広重の「名所江戸百景」の中の有名な一枚――その画題はまさに「亀戸梅屋鋪」――はここで描かれたものだったのである! 英文ウィキPlum Park in Kameidoのパブリック・ドメイン画像を挿入しちゃおっと!

 

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「十余丈」十丈は約三十メートル三十センチメートル。

「芬々」(ふんぷん)は匂いの強いさま。

「毎とし」毎年。

「詩歌・連俳」を成さんとする有象無象の連中が雲霞の如く押し寄せては観梅し、その創作のために膨大な「紙筆」が費やされ、そのために「紙筆」の供給が枯渇して高値となってしまい(「尊(たつと)く」を私はその意で採る)、さらにまた高値で売らんかなという金の亡者のような商人(あきんど)が眼ん玉の飛び出るような値段を張り込んだ「紙筆」を「車馬に疊(かさな)る」ほど牽いてやって来る――という意味で私は全体を読んだ。大方の御叱正を俟つ。]

諸國里人談卷之四 大竹

 

    ○大竹

駿河國府中の寺に、元祿年中の頃、一夜(あるよ)の中、庭に假山(つきやま)のごとくに、地、凸(たかく)になりたり。「あやし」と見るに、一兩日たちて、笋(たかんな)、生出(ひいで)たり。近隣に、藪、なし。異(こと)なるに、日を追(おつ)て成長し、竹になりたる所、目通りにて、凡(およそ)三尺周(まは)りあり。「未聞(みぶん)の事なり」と、諸人(しよにん)、見物す。一年(あるとし)、御番衆(ごばんしゆ)、見物に來り、座興のやうに所望ありしに、住僧の云〔いはく〕、「所詮、此竹ありて、人、かしまし。幸に、まいらせん」と無下に伐(きり)たり。人々、これを配分して、おもひおもひの器物(きぶつ)に拵(こしら)へけり。丸盆・たばこ盆・樽などにして珍とす。或人、飯注子(めしつぎ)にして江戸へ持來(もちきた)り、土産などにせしよし也。其器(き)を當(まさ)に見たる人の談(ものがたり)也。其大〔おほい〕さ、徑(わたり)、八、九寸ありし、となり。

[やぶちゃん注:「駿河國府中」所謂、駿府。現在の静岡市葵区の静岡駅周辺の中心市街地一帯。

「元祿」一六八八年から一七〇四年まで。

「假山(つきやま)」「築山」に同じい。

「笋(たかんな)」=「筍」。竹の子。

「目通り」成人男子が起立した際の目の高さに相当する位置の植物(通常は木本類。タケ(被子植物門単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連 Bambusea)が草本か木本かは意見が分かれる)の幹の太さを指す語。

「三尺周(まは)り」円周で約九十一センチメートル。これだと、直径は約二十九センチメートルになるから、竹としては明らかに異様に太い。最後に「おはち」に加工したものの直径が「八、九寸」(二十四~二十七センチメートル)とするのともほぼ一致するから、異常な太さの巨大竹であったことになる。本邦産のタケ類の最大種は、中国原産のマダケ属モウソウチク(孟宗竹)Phyllostachys heterocycla f. pubescens で、高さ二十五メートル、直径八センチメートルから二十センチメートルで、最大個体では直径が二十五センチメートルに達すると、サイト「三河の植物観察」の孟宗竹ページにはある。但し、そのページには孟宗竹の伝来を十八世紀前半(薩摩藩に渡来)とするので、孟宗竹ではないことになってしまうのは、ちょっと残念。

「御番衆」駿府在番であろう。ウィキの「駿府城駿府在番・勤番によれば、『駿府城には、定置の駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として駿府在番が置かれた。江戸時代初期には、幕府の直属兵力である大番』(おおばん)『が駿府城に派遣されていたが』、寛永一六(一六三九)年には『大番に代わって将軍直属の書院番がこれに任じられるようになった。その後』、約百五十年間に亙って、『駿府在番は駿府における主要な軍事力として重きをなすとともに、合力米の市中換金などを通じて駿府城下の経済にも大きな影響を与えたとされる』(後、寛政二(一七九〇)年には、この『書院番による駿府在番が廃止され、以降は常駐の駿府勤番組頭・駿府勤番が置かれて幕末まで続いた』とある)。

「座興のやうに所望ありしに」調子に乗って、この竹が欲しいと言ったところが。

「無下に」(「てっきり渋って断わるかと思っていたところが、豈に謀らんや」のニュアンスで)冷淡にも。そっけなく。あっさりと。

「飯注子(めしつぎ)」炊き上がった飯を移し入れる飯櫃(めしびつ)。おはち。]

諸國里人談卷之四 観音寺笹

 

   ○観音寺笹(くわんのんじのさゝ)

三河國保飯(ほいの)郡、小松原観音寺の本尊は馬頭観音にて、行基菩薩の作也。毎年二月初午に此山に入て、參詣の人、隈笹(くまざゝ)を得て歸る也。馬の煩(わづらへ)る時、御影(みゑい[やぶちゃん注:ママ。])を厩(むまや)に呈し、この笹を飼(か)ふに、忽(たちまち)、癒(いゆ)る事、奇なり。又、南海を渡る舩、此堂の前を過(すぐ)る時、帆を下(さげ)ざれば、敢(あへ[やぶちゃん注:ママ。])て、難あり。よつて、もろ船、ともに帆を下(さげ)る也。

[やぶちゃん注:後半の帆云々は寺の前を畏れ多く通る船として敬意を表するということであろう。帆前船は或いはそれで動けなくなることもあろうはずであるが、そこは馬頭観音の法力によって順調に渡れるとならば、誰もが素直に敬虔に帆を下ろしたということであろうか。

「三河國保飯(ほいの)郡」三河国(愛知県)「寶飯郡」の誤りであろう。但し「寶飯」も誤認で、本来は「寶飫(ほお)」であった。

「小松原観音寺」現在の愛知県豊橋市小松原町坪尻(渥美半島の根の東岸。遠州灘の沿岸)にある臨済宗小松原山東観音寺(とうかんのんじ)。本尊は馬頭観音菩薩。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「東観音寺」によれば、寺伝では天平五(七三三)年に『行基によって開かれたとされる。かつては真言宗の寺院であったが、その後』、『現在の臨済宗に改められたという。江戸時代に入ると徳川家から寺領を寄せられ、江戸時代には多くの末寺を有していた』。正徳六(一七一六)年に『現在地に移されたという』とあるが、本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、ロケーションに問題はない。]

諸國里人談卷之四 印杦

 

    ○印杦(しるしのすぎ)

和州三輪に印杦といふあり。相傳ふ、伊勢國奄藝(あきの)郡の獵人(かりうど)、異(ことなる)女に逢(あひ)て一子を儲(まう)く。後、母子ともに行方(ゆきかた)しらず。

 戀しくは尋ても見よわが宿は三輪の山もと杦たてる門〔かど〕

此哥を殘せり。夫(をつと)、神木のもとにこれを尋求(たづねもと)めて、三人、同じく、神となる。當社の祭に勢州奄藝郡(あきのこほり)の人、來て、これを行ふは此謂(いゝ[やぶちゃん注:ママ。])なりと云り。又、「日本紀」・「舊事記」等の説あり。

[やぶちゃん注:現在の奈良県桜井市三輪の大神(おおみわ)神社にある、三輪の大神の示現(=「印」)した杉(「杦」は「杉」の行書体から作られた俗字)、「神の坐(ま)す杉」とされてきた杉(但し、当初は神杉として信仰されていた境内地の七本の杉のことを指していたらしい)。現在は杉も根本だけが覆屋の下に残っている。神社」公式サイト内グーグル・マップ・データ杉」コンテンツ写真を見られたい。

「伊勢國奄藝(あきの)郡」「奄藝」「安藝(安芸)」であるが、ここの郡名は「あけ」と読むのが正しい。郡域はウィキの「安芸郡(三重県)の地図で確認されたいが、現在の津市の一部(河芸町各町・大里各町・高野尾町・安濃町各町・美里町各町)と亀山市の一部(楠平尾町・関町萩原・関町福徳)である。

「戀しくば尋ても見よわが宿は三輪の山もと杦たてる門」この歌、「古今和歌集」の「巻第十八 雑歌下」に「よみ人しらず」で載る一首(九八二番)、

 わが庵(いほ)は三輪の山もと戀しくは訪(とぶら)ひ來ませ杉たてる門(かど)

の異形。岩波新古典文学大系の注によれば、この歌は『中世には三輪明神の歌とされた古今伝授秘伝歌』であり、『もとは三輪の巫女(みこ)に関する歌謡』であったか、とする。

『「日本紀」・「舊事記」等の説あり』「舊事記」は「くじき」と読み、「先代舊事本紀」のこと。全十巻。天地開闢から推古天皇までの歴史を記述する。序文には聖徳太子・蘇我馬子らが著したとするが、偽書で、大同年間(八〇六年~八一〇年)以後(九〇四年~九〇六年以前)に成立したと考えられている。但し、この「説」というのは三輪山伝説のことを指しているのであろうが、具体的に「日本書紀」及び「先代旧事本紀」のどこのどういう内容を指しているのかは私にはよく判らない。]

諸國里人談卷之四 靑葉楓

 

    ○靑葉楓(あをばのかいで[やぶちゃん注:①。ママ。])

武藏國金澤稱名寺の堂、ひがしに一木の楓あり。

               藤原爲相卿

 いかにして此一もとのしぐれけん山にさきたる庭のもみぢば

此哥よりこのかた、紅葉(こうやう)せずと也。金澤に八木(はちぼく)の名樹あり。

所謂(いはゆる) 西湖(さいこの)梅 黑梅 櫻梅 文殊梅 普賢象(ふげんぞう)桜 蛇混(だこん)柏 一松 靑葉楓等(とう)也。

[やぶちゃん注:これは私は既に新編鎌倉志卷之八の「稱名寺」(その原資料とも言うべき水戸黄門の日記(実は「黄門さま」は生涯にたった一度だけしか旅していない。その稀有の旅日記である)鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」称名寺(ブログ版)もリンクさせておく)及び鎌倉攬勝考卷之十一附錄の「六浦」の「八木【靑葉楓・西湖の梅・櫻梅・文殊梅・普賢象梅、是は稱名寺境内にあり。黑梅今は絶たり。蛇混柏、瀨戸の神社に有。外に雀ケ崎の孤松、是を八木といふ。】」(西湘桜・桜梅・普賢象桜・青葉楓の挿絵が有る)、さらにはブログの「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅳ)等でテツテ的に注釈している。ここに追記することは最早ない。それらをご覧あれ。なお、私が訳した冷泉(藤原)為相(れいぜいためすけ 弘長三(一二六三)年~嘉暦三(一三二八)年:公卿で歌人。藤原為家三男、母は阿仏尼。冷泉家祖。正二位・権中納言。家領の相続を廻って異母兄二条為氏と争そい、しばしば鎌倉へ出向き、関東歌壇の指導者として重きをなした。通称は藤谷(ふじがやつ)中納言)の当該和歌の訳を掲げておく。

……どうしたらこの一木(いちぼく)にだけ、それを紅葉させる時雨が降るなどということがあり得よう……そんなことはあり得べきもないはず……しかし事実、周囲の山々の木々に先だって確かにこの庭の一木だけが紅いに染まっていることよ……

と詠んだら、彼の疑義に観応した楓がこれ以降、厳冬になっても青葉のままであったという奇瑞である。以下の「八木」についても、主に新編鎌倉志卷之八に於いて、可能な限り、植物学的な考証と、現存・非存の確認もしてあるので、興味のある方はそちらを参照されたい。但し、私の注全体はかなりの分量があるので、まともに読むと、相応の時間がかかることは覚悟されたい。]

諸國里人談卷之四 無ㇾ澁榧

 

    ○無ㇾ澁榧(しぶなしかや)

甲斐國二の宮の社地に大木の榧あり。澁は皮のうらに付〔つき〕て仁(たね)に澁なく、至つて白し。此種を他に栽(うゆ[やぶちゃん注:ママ。])るに生ぜずと也。

[やぶちゃん注:「榧」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ(一位/櫟)科カヤ属カヤ Torreya nuciferaウィキの「カヤによれば、『種子は食用となる。そのままではヤニ臭く』、『アクが強いので』、『数日間』、『アク抜きしたのち』、『煎るか、土に埋め、皮を腐らせてから』、『蒸して食べる。あるいは、灰を入れた湯でゆでるなどしてアク抜き』し、その後、『乾燥させ、殻つきのまま煎るか』、『ローストしたのち』、『殻と薄皮を取り除いて食すか』、『殻を取り除いた実を電子レンジで数分間加熱し、薄皮をこそいで実を食す方法もある。果実から取られる油は食用、灯火用に使われるほか、将棋盤の製作過程で塗り込まれる。将棋盤のメンテナンス用品としても使用される。また、山梨県では郷土の食品として、実を粒のまま飴にねりこみ、板状に固めた「かやあめ」として、縁日などで販売される。また、カヤの種子は榧実(ひじつ)として漢方に用いられるほか、炒ったものを数十粒食べると』、『サナダムシの駆除に有効であるといわれる』とある。

「甲斐國二の宮の社地」現在の山梨県笛吹市御坂町二之宮にある美和神社は史料としては、「日本三代実録」貞観五(八六三)年六月八日の条に初見するが、そこには『同日に美和神社は従五位に叙せられ、一条天皇から二宮の号を与えられたと』あるとする(ウィキの「美和神社より引用)。]

諸國里人談卷之四 枝分桃

    ○枝分桃(ゑだわけもゝ)

安藝國新庄村と佐東(さとう)村の界(さかい)に大木の桃、一樹あり。南は新庄、北は佐東なり。此桃、佐東のかたへさしたる枝の桃は苦く、新庄のかたへさしたる枝は甘美なり。土人(ところのひと)の云〔いはく〕、「むかし、弘法大師、佐東にて桃を乞(こひ)給ふに、『此桃は甚(はなはだ)苦し。人のくらふにはあらず』と云〔いへ〕り。新庄にて乞給へば、『甘美なり』とてまいらせける、となり。故に一木に甘苦の味ひあり」とぞ。

[やぶちゃん注:弘法大師伝承にしては、これ、ショボい。佐東の側の桃を甘く変じせしめてこそ、でっしょうが!? この話、本邦の植物病理学の開拓者である白井光太郎(みつたろう)の名著「植物妖異考」(大正三(一九一四)年甲寅(こういん)叢書刊行所刊)の「上」に、本「諸國里人談」の本条を引いた上で優れた植物学的考証を添えて考証が載る(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のと次のページで視認出来る)。必見! そこで白井氏は桃の木の寿命から考えると、原木の実存はあり得ないとしつつも、『已ニ幾十代ヲ經タル子孫ナルコト疑ナシ、其子孫ニ代々斯ノ如キ特種ヲ遺傳セリトセバ、珍ラシキ樹ト云フベシ』と述べ、そうした遺伝でないとするなら、方向の違いによって甘苦が生ずるのは、日射量の違いによって、北の枝は温度不足のために充分な成熟が行われなかったことがまず考えられ、また、『寄生菌ノ爲ニ犯サレタルガ爲ニ苦味ヲ生スルコトモアラン』とされ、そうでなかったとしても、『接木』(つぎき)『ニヨリ一本ニ甘苦ノ果實ヲ生セシムルコト容易ナリ、其他ニハ芽ノ變性ニ由ル所謂枝變リナルモノト考フルヲ得ベシ、桃ニ就テノ記錄ハ見ザレドモ、柿ニ就テハ』「柿品」という書に記事があるとしてさらに続けて解説しておられる。白井先生の怪奇談を聴き捨てにしない、真摯な科学的考察に脱帽!!!

「安藝國新庄村と佐東(さとう)村の界(さかい)」広島県広島市西区新庄町と広島市安佐南区の間と思われる。中央附近(グーグル・マップ・データ)。]

諸國里人談卷之四 錢掛松

 

    ○錢掛松(ぜにかけまつ)

勢州窪田と椋本(むくもと)の間、豐國野(とよくの)にあり。相傳ふ、むかし、參宮する人、此埜〔の〕の長きに倦(あき)て、「此松原は行程(みちのり)何(なに)ほど、ある」と、とふ。里人、たはむれて、「十日行〔ゆく〕、豐國野、七日行、長野の松原」といふに茫然(あきれ)て、一貫文の錢(ぜに)を此松がえ[やぶちゃん注:ママ。]にかけて、玆(こゝ)より、大神宮を拜(おがみ)て、國へ歸りける。他(た)の人、彼(かの)錢を見るに、蛇の蟠(わだかま)りたるやうにおもひて、あへて取(とる)人、なし。彼(かの)もの、故鄕へ歸りて後、あざむかれたる事をきゝて、口おしく[やぶちゃん注:ママ。]思ひ、又、參宮してこれを見れば、かけたる錢、そのまゝにして、ありける。これによつて此名ありと云〔いへ〕り。

[やぶちゃん注:本件は柴田宵曲「續妖異博物館」の「巖窟の寶」や、同「續妖異博物館 錢と蛇」で詳細を考証済みなので、そちらを参照されたい。そちらの方が怪奇談性がよく出ているのに対し、沾涼の叙述はここでは擬似笑談奇談に終っていて、ショボい。

「豐久野」現在の三重県津市芸濃町椋本豊久野(とよくの)。ここ(グーグル・マップ・データ)。伊勢神宮までは直線で四十八キロメートルほど。

「長野の松原」これは嘘の距離を誇大に表現するためのもので、地名ではないように思われる。

「一貫文」一貫文は千文で、江戸初期から中期にかけての金一両(四千文)は十万円相当とされるので、二万五千円に相当(但し、幕末にかけては激しいインフレに見舞われ、一貫文は七千円程度まで下落した。以上はネットのQ&Aサイトの回答に拠った)。]

諸國里人談卷之四 唐崎松

 

    ○唐崎松(からさきのまつ)

近江國志賀郡(しがのこほり)唐崎の松は一莖一葉(いつきやういちやう)也。名高き名木にて世に知る所なり。後水尾院、此所の名所をよませ給ふ。

 鏡山人のしかからさき見えて我身のうへをかえりみづ海

志賀浦は三井寺と坂本の間也。唐崎花園里(はなぞのゝさと)も相列(あいつらな[やぶちゃん注:ママ。])る。

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では和歌の三句目の「見えて」の右に『(マヽ)』と注記がある。現在の滋賀県大津市大津市唐崎にある唐崎神社((グーグル・マップ・データ)。北北西約二・七キロメートルの位置にある大津市坂本の日吉(ひえ/現行は「ひよし」だが本来は「ひえ」が正しい読み)大社の摂社)の境内にある。万葉以来の歌枕。ウィキの「唐崎神社によれば、同神社は本社日吉大社の社伝によれば、舒明天皇六(六三三)年に琴御館宇志丸宿禰(ことのみたちうしまろ)がこの地に居住し、『「唐崎」と名附けたといい』、本唐崎神社の『祭神』(現行では「女別当命(わけすきひめのみこと)」とする)は、『その宇志丸宿禰の妻とされる。当社は』持統天皇一一(六九七)年に『創建されたと伝えられ、かつては「女別当社」と呼ばれ、婦人病に霊験ありとして広く信仰を集めた』。『境内には、宇志丸宿禰が植えたのに始まるとされる「唐崎の松」がある。境内から琵琶湖を背景に唐崎の松を描いた歌川広重の「唐崎の夜雨」で知られており、近江八景に選ばれている。宇志丸宿禰が植えた初代の松は』天正九(一五八一)年の大風で倒れ、十年後の天正十九年に当時の大津城主新庄直頼の弟であった新庄直忠が二代目の松を植えた。その二代目は大正一〇(一九二一)年に枯れ、現在のものは三代目である、とある(その三代目も老成して内部が空洞化し、次世代の植栽育成も行われていることが報道記事で判る)。唐崎神社」公式サイトに詳しい解説があり、歌川広重の「唐崎夜雨図」や明治・大正期の二代目の写真が添えられてある。それによれば、『桃山時代の著書で当時の古伝承をまとめた『日吉社神道秘密記』によ』れば、舒明天皇五年頃、『琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)が唐崎に居住し、庭前に松を植え“軒端(のきば)の松”と名付けたことに始ま』るとし、『日吉大社西本宮のご鎮座伝承では、童の姿に身をやつした大神様が船に乗ったまま松の梢(こずえ)に上がるという神業を示されたことから』、『特に神聖視されるようにな』ったとし、古くは『中世の山王(さんのう)曼荼羅(まんだら)』にも描かれているとあり、『石川県の兼六園にも二代目の実生があり』、『「唐崎松」として』現存するとある。グーグル画像検索「唐崎松」をリンクさせておく。

「一莖一葉(いつきやういちやう)」読みはママ(③)。①は「葉(よう)」と振る。歴史的仮名遣は「葉(えふ)」が正しい。一つの小さな枝茎に複葉はしないことを言う。

「後水尾院」(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年/在位:慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)。在位中は秀忠・家光の治世。元和元(一六一五)年の「禁中並公家諸法度」の制定や所司代などを通じての朝廷干渉に加え、幕府の法が天皇の勅許に優越することを見せつけた「紫衣事件」、前例を無視した春日局の無位無官での拝謁強行などによって幕府への不満が爆発し、寛永六年に唐突に譲位し、以降、明正・後光明・後西・霊元の四代に亙って院政を行った。学問・詩歌に深い造詣を示し、「伊勢物語御抄」などを著し、古今伝授を受けている。叙景歌にも優れ、歌集に「鷗巣集」がある。修学院離宮のを造営でも知られる。

「鏡山人のしかからさき見えて我身のうへをかえりみづ海」この歌、不詳。識者の御教授を乞う。少なくとも知られた唐崎を詠んだ歌ではないらしく、どこにも出てこない。従って正規表現の原歌に当たれないので、冒頭に記した吉川弘文館随筆大成版のママ注記の意味も不明である。後水尾の事蹟からは歌の持つ茫漠感は何となく理解は出来るが。「鏡山」は琵琶湖の南東岸やや奥の、野洲市と蒲生郡竜王町鏡に跨る標高三百八十四メートルの山。(グーグル・マップ・データ)。新羅国の天日槍皇子が丹後の出石へ行く時に宝物の鏡を山中に埋めたという伝説から、名が付いたとされ、古くからの歌枕として知られる。

「唐崎花園里(はなぞのゝさと)」不詳。]

2018/07/22

進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(一) 序・一 自然淘汰無能説

 

    第十八章 反對説の略評

 

 既に第十五章に於て述べた通り、ダーウィン以後の進化論者には、互に相反する極端説を唱へるものがあつて、一方では、生物の進化は主として後天的性質の遺傳によることで、自然淘汰の如きは殆ど何の役にも立たぬと論じ、また他の一方では、生物の進化は全く自然淘汰のみに依ることで、後天的性質は決して子に傳はらぬと論じて居るが、著者はその孰れをも採らず、自然淘汰と後天的性質の遺傳とを共に生物進化の原因と考える。卽ち自然淘汰の功力を認める點では、ヴァイズマン等に一致して、新ラマルク派には反對し、後天的性質の遺傳を否定せぬ點では、新ラマルク派と一致して、ヴァイズマン等に反對するのであるから、今こゝに反對説の略評を試みるに當つては、恰も兩刀づかひの武藝者の如くに、兩面に敵を控へて戰はねばならぬ。尤も兩面ともに、その主要なる部分に對しては賛成するのであるから、寧ろ兩面に味方を持つといふ方が適當かも知れぬが、自然淘汰の功力を疑ふ議論と、後天的性質の遺傳を否定する議論とは、孰れも推理の上に不十分な點があると考へざるを得ぬから、次に順を追うて、この二點に就き著者の説の大要を摘んで述べて見よう。

[やぶちゃん注:「ヴァイズマン」複数回既出既注

「新ラマルク派」ネオ・ラマルキズム(Neo-Lamarckism)。ウィキの「ネオ・ラマルキズム」を主として以下に記す。「第二章 進化論の歷史(2) 二 ラマルク(動物哲學)」に紹介したラマルクの説と『同様の進化観は古くから存在していたが、その主張を明確に整理したのがジャン=バティスト・ラマルクであった。以降、ラマルクのものと解釈されるようになった彼が説明した進化論は「用不用説」と呼ばれている。生物がよく使用する器官は発達し、使わない器官は退化するという用不用の考えと、それによって個々の個体が得た形質(獲得形質)がその子孫に遺伝するという「獲得形質の遺伝」を』二『本柱としている。また、彼は、生物の進化は、その生物の求める方向へ進むものと考え、生物の主体的な進化を認めた。彼の説明は観念的であり、生物の進化と言う概念を広く認めさせることができなかったが、彼がまとめた「内在する進化傾向」や「個体の主体性」はその後現在に至るまで特に非生物学者から人気がある』『という』。『チャールズ・ダーウィンの自然選択説が』一八五九年に『発表されると、生物の進化と言う概念は大論争の後に広く認められた。しかし自然選択説が受け入れられるには長い時間がかかった。彼の説は、「同種内の個体変異が生存と繁殖成功率の差(自然選択)をもたらし、その差が進化の方向を決める」というものである。後に遺伝の法則が発見され、個体変異の選択だけではその範囲を超える進化は起こり得ないことが明らかになった。しかし直後に発見された突然変異を導入することでこの難点は避けられる。こうして、彼の元の説の難点を補正した説は次第に「総合説」、「ネオダーウィニズム」と呼ばれるようになり、現在に至っている』。『現代的な自然選択説では「個体変異から特定個体が選ばれる過程はごく機械的であり、個体変異の発生も機械的なもの」と考えて』おり、『「突然変異は全くの偶然に左右されるもの」と考えられている。つまり、「その過程に生物の意思や主体性が発揮される必要はない」と考えているのである』。『しかし、たとえば一般の人間にチョウの擬態などを見せれば、「どうやってこんなに自分の姿を他人に似せたのだろうか」といった感想がでることがある。この直感的な疑問は古くからあり、現在でも同様の感想をもつ専門家もいる。古生物の進化の系列や、野外における個々の生物の見事な適応を研究するうち、「これらを説明するためには、生物自身がそのような方向性を持っていると考えざるを得ない」とする専門家も現れた。彼らが好んだ説が生物に内在的な進化の方向を認める定向進化説である』。『また、たとえば「鳥の飛行能力などは、複数の形質がそろわなければ、そのような能力獲得が難しい」と言われることもある。そのような立場を取る人によれば「ダーウィンの説明では、この問題への解答は困難である」と見なす。中間型の機能も、「生物自身がそのような方向性を何らかの形で持っている」とする』(注『ネオ・ラマルキズムを採用しない立場では、一般的には前適応』preadaptation:生物進化に於いて、ある環境に適応して器官や行動などの形質が発達するに当たって、それまで他の機能を持っていた形質が転用された時、この転用の過程や転用された元の機能を指す。既注。本文の次の「自然淘汰無能説」で丘先生が指摘される『作用の轉換』はそれである)『や自然選択の累積効果、共進化』(Co-evolution:一つの生物学的要因の変化が引き金となって別のそれに関連する生物学的要因が変化すること。例えば、『ある鳥が上手く飛べなくても、対抗者も上手く飛べなければ』、『生存と繁殖には問題がない』といったものを指す)『などで説明される』。)『ダーウィニズムが進化論において主流の地位を占めた後でも、獲得形質の遺伝を証明しようとする実験が何度か行われている。特に有名なのは、オーストリアのパウル・カンメラーによるサンバガエル』『の実験である』(本文で既出既注。『彼は両生類の飼育に天才的な才能を持っていた』(注『マダラサンショウウオでも同様の実験を行っていた』(これも本文で既出既注『と伝えられ、陸で交接を行い足に卵をつけて孵化まで保護するサンバガエルを、水中で交接・産卵させることに成功した。水中で交接するカエルには雄の前足親指の瘤があって、これは水中で雌を捕まえるときに滑り止めの効果があると見られる。本来この瘤はサンバガエルには存在しないのだが、カンメラーはサンバガエルを』三『世代にわたって水中産卵させたところ』、二『代目でわずかに』、三『代目ではっきりとこの瘤が発現したと発表した。つまり、水中で交接することでこの形質が獲得されたというのである。ところが』、『公表された標本を他の研究者が検証してみたところ、この瘤はインクを注入されたものであることが発覚。実験自体が悪質な捏造であると判断され、カンメラーは自殺した』(注『但し、公表された標本は実験中のものとは明らかに異なり、確かに瘤はできていたとの実験の途中経過を見た人による証言もある。或いは共同研究者によって何等かの理由ですり替えられたというのであるが、疑惑を持たれた研究者が(標本の検証以前に)既に亡くなっていたことから、真偽のほどは分からない。アーサー・ケストラーの言う』よう『に検証した側が捏造に関わっていたという見方もある』。この捏造事件は私の過去の注でも二度既注しているので参照されたい)。『その後、サンバガエルの水中飼育に成功した例は存在しない』。『カンメラーと同じ頃、ソビエト連邦では』果樹の新種改良を数多く手がけ、居地を冠して「コズロフの魔術師」と呼ばれた生物学者イヴァン・ヴラジーミロヴィッチ・ミチューリン(ロシア語:Ива́н Влади́мирович Мичу́ринIvan Vladimirovich Michurin 一八五五年~一九三五年)『によって獲得形質の遺伝が力説され』(注『春化処理によるヤロビ農法の提唱者であり、春化処理による種の性質の獲得に基づく進化論を主唱した』)、『生物学界に一定の支持を得ていた。その中の一人である』ウクライナ生まれのソ連の生物学者トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコ(ウクライナ語:Трохи́м Дени́сович Ли́сенко/ロシア語:Трофим Денисович Лысенко/ラテン文字転写:Trofim Denysovych Lysenko 一八九八年~一九七六年)『はミチューリンの理論を発展させ、これを獲得形質と判断し』、『独自の進化論を述べた。しかし、これには現象そのものの理解に問題があり、現在ではこれを支持するものはいない』(彼は社会主義理論を生物学に牽強付会させ、メンデル遺伝や遺伝子概念を否定するばかりか、自然選択をも否定することでダーウィン進化論から逸脱してしまったスターリンの幇間的似非科学者であり、彼に反対したために粛清された科学者は三千人を越えるとされる)。二〇〇〇年頃までの『分子遺伝学では、専ら「遺伝における情報の流れはDNAを翻訳して形質が発現する」とされ、「一方通行である」とされていた。この説、仮説を』「セントラル・ドグマ」(central dogma:遺伝情報は「DNA →(転写)→ mRNA →(翻訳)タンパク質」の順に伝達されるという分子生物学の規定の基底概念。一九五三年にDNAの二重螺旋構造を発見したフランシス・クリック(Francis Crick 一九一六年~二〇〇四年)が一九五八年に提唱した)『という。この仮説の枠内においては「個体が獲得した形質がDNAに情報として書き戻されることはあり得ない」とされる。つまり「獲得形質の遺伝は認められない」とする。この仮説は原則的には現在も広く認められているところである。ただし、この説は、すでに若干の例外となる現象、すなわち細胞レベルでの「遺伝子の後天的修飾」が知られるようにはなってきており、セントラル』・『ドグマが過大視されすぎたとして、それを修正するための研究が進行中である。このような研究は「エピジェネティックス」』(epigeneticsDNA塩基配列の変化を伴わない、細胞分裂後も継承される遺伝子発現或いは細胞表現型の変化を研究する学問領域の意。既注済み)『と呼ばれており、各国で盛んに研究が行われており、後天的修飾の起きる範囲は一体どの程度なのか(どの程度にとどまるのか)、その仕組みはどうなっているのか、といったことが日々解き明かされようとしてはいる』。『「進化に関して、生物の側に何等かの主体的な方向づけができるはずだ」との説も繰り返し唱えられている。たとえば』、『複数の古生物学者によって展開された定向進化説は、生物の中に、何かの形で進化を方向づける仕組みがあることを想定している。その点でこの説はラマルクの流れを汲むものといってよい。今西錦司の』「棲み分け理論」『説にも、これに似た部分がある』。現在も、『生物体にはもともと備わっている何らかの』『進化の原動力』が存在すると主張する学者は事実、有意にいる。]

 

    一 自然淘汰無能説

 

 生物進化の事實に對しては、最初激しく反對説が出たが、後には漸々減じて、今日では殆ど全く無くなつた。然も反對者の多數は門外漢であつた故、學問上有力な反對説は終に一度も無かつたやうな有樣で、現今では何れの國でも普通の學識のある人は皆之を認めるに至つたが、ダーウィンの唱へ出した自然淘汰の説は之とは大に趣が違ひ、最初は生物學者の仲間に甚だしく之を尊重する人が多かつたが、次第にその功力を疑ふ人などが出來て、近來に及んで却つて反對者の數が增したやうな傾がある。然も反對者は悉く生物學者であるから、一應尤に聞えるやうな議論も決して少くない。素よりその中には單に誤解に基づくもの或は文字の解釋の相違によるものなどもあるが、これらを除いても尚澤山の議論がある。こゝにそれを一々掲げて評する譯には行かぬが、總括してその主要な點を言へば、凡そ次の三つ位に約める[やぶちゃん注:「つづめる」。]ことが出來よう。

 先づ第一には如何なる器官の形狀・構造でも、極めて僅少な相違位では、生存競爭上勝敗の定まる標準とはならぬ。それ故自然淘汰の結果として、或る點の僅に勝つたものが生き殘り、僅に劣つたものが死に絶えるとは信ぜられぬ。例へばこゝに二疋の蝙蝠があると想像して見るに、翼の長さに一分[やぶちゃん注:三ミリメートル。]位の長短の相違があつた所が、翼の長い方が必ず適者で、短い方が必ず不適者であるとは、日々の經驗上信ずることは出來ぬ。されば自然淘汰によつて生物の種屬が漸々進化するといふ説は、實際には適せぬ場合が甚だ多いとの論である。之はミヴァートネゲリスペンサーなどの論じた所で、一應正當な議論であるが、之に對する著者の考は既に第十四章に述べて置いた通りで、一疋と一疋とを捕へて比較すれば、如何にもこの説の如く翼の長い蝙蝠が敗けて、翼の短い方が勝つことも往々あるが、蝙蝠の翼が今日程に發達してなかつた時代の有樣を想像して見るに、若し翼が僅でも長くて、飛翔が僅でも速なものが、翼の稍短い、飛翔の力の稍弱いものに比較して、統計上聊[やぶちゃん注:「いささか」。]でも勝つ機會が多くあるやうならば、長い間には漸々翼の長いもののみが生存することになり、その結果として種屬が進化して行くべき筈である。かやうなことは一個一個の場合に就いて觀察する

ことは出來ぬが、全體を見れば決して疑へぬ事實で、人間社會を見ても之と同樣な現象は幾らもある。凡そ統計上の規則といふものは、たゞ全體を通ずれば正しいが、一個一個の場合には當ることもあれば、當らぬこともあつて、一部分だけを見たのでは、到底全體に關する大きな規則は發見することは出來ぬ。生存競爭の結果、適者だけが生き殘り、代々自然の淘汰が行はれるから、生物種屬は漸々進化する筈であるといふダーウィンの説は、略斯かる統計上の規則とも見倣すべきもので、一種屬の生物個體の間に現れる多くの變化の中から、生存競爭上聊でも都合のよい變化が統計上勝を占めるといふ大勢だけをいひ表したものに過ぎぬ。それ故、この點は實際觀察した事實を基としたものでは無く、單に理窟上から推し考へた論であるが、たゞ考へて見ても最も眞らしいのみならず、斯く假定すれば、生態學の範圍内にある無數の事實を容易に説明することが出來る所から推せば、先づ之を正當な斷定と見倣して置くより外はない。特に今日自然淘汰説に反對する人は幾らもあるが、生物各種に固有な攻擊・防禦の器官、外界の變動に應ずべき性質などは如何にして生じたものであるかといふ問題に對し、自然淘汰説に代つて説明を與ふべき適當な假説を考へ出した人は一人もない有樣故、たとひ多少の不明の點があつたとしても、今日既に之を全然打棄ててしまふのは、兎に角、尚甚だ早まり過ぎたことといはねばならぬ。

[やぶちゃん注:「蝙蝠」脊椎動物亜門哺乳綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目 Chiroptera のコウモリ類。

「ミヴァート」ダーウィンの進化論とカトリック教義を調和させようとして双方から批判されたイギリスの生物学者セント・ジョージ・ジャクソン・マィヴァート(St. George Jackson Mivart 一八二七年~一九〇〇年)。彼は「ダーウィンのブルドッグ」ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)ともかつては親しかった。また、この人は知られた猫についての格言“We cannot, without becoming cats, perfectly understand the cat mind.”でも知られる。

「ネゲリ」スイスの植物学者カール・ヴィルヘルム・フォン・ネーゲリ(Karl Wilhelm von Nägeli 一八一七年~一八九一年)。一八四二年に細胞分裂を始めて観察・報告した人物とされ、また、後に染色体と呼ばれることになる構造を発見した。しかし、メンデルのエンドウを用いた実験に批判的だったことでもよく知られる。

「スペンサー」著名なイギリスの社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。彼は〈社会進化論〉(theory of sociocultural evolution)を唱え、現今、ダーウィンの進化論の説明に出現するポピュラーな用語としての「進化」(evolution)及び「適者生存」(survival of the fittest)という聴き慣れた言葉は実はスペンサーが賦与した意味や造語であった。一方でスペンサーは実はラマルキズムを高く評価しており、獲得形質の遺伝の重要性をも評価していたとされている。]

 

 次にまた孰れの器官でも、一定の度までに發達し、一定の大きさ、形狀を具へるに至らなければ、その器官固有の作用を營むことが出來ず、隨つて生存競爭上、何の役にも立たぬ。例へば前の蝙蝠の例に就いていうても、翼といふものは、空中に身體を支へるに足るだけの大きさに發達するまでは、飛翔の器官としては全く役に立たぬ。他の器官とても皆斯くの如くで、一定の度まで發達した後でなければ用をなさぬが、何の役をも務めぬ器官が少し位大きくても小くても、生存競爭に於ける勝敗がそれによつて定まるわけでないから、自然淘汰によつてその器官が發達し、大きくなる見込はない理窟であるとの反對説がある。之も一應尤に聞える議論であるが、生物界には作用の轉換といふことがあり、また生長の聯關などといふこともあるから、これらの働によつても隨分斯かることが出來ぬとも限らぬ。

 作用の轉換といふのは、生物の習性の變化した結果、今まで或る役を務めて居た器官が漸々他の役を務めるやうに移り換ることであるが、凡そ如何なる器官でも、一定の役目を務めるには、それを務めるに足るだけの構造を具へなければならぬことは無論のことで、例へば手が手として働くには、必ずそのために一定の形狀・構造を具へて居なければならぬ。外の物に就いていうてもその通りで、團扇は風を生ずるためには扁平でなければならず、摺粉木(すりこぎ)は味噌を摺るには棒狀でなければならぬ。然るに一定の形狀・構造を具へて居る以上は、これらの物をその元來の目的以外に用ゐることも出來る。卽ち摺粉木を單に一種の棒として、味噌を摺るより外の目的に用ゐることも出來れば、人間の手を單に一定の形狀を有する肢として、水中游泳の道具に用ゐることも出來る如く、凡そ如何なる器官も、その固有の作用の外に、その形狀・構造等に基づく所の副貳的[やぶちゃん注:「ふくじてき」。「副貳」の原義は本来は「正本に対するその写本」を指すが、ここは「二次的」「副次的」の意でよい。]の作用を務めることも出來るもの故、生物の習性が變ずる場合には、或る器官は今まで務めて居た固有の作用をやめて、今までは副貳的であつた方の作用を、今から後は主として務めるやうになる。例へば陸上を走る獸類の子孫でも、水邊に出て魚を捕へて食ふやうになれば、生存競爭上、巧に游ぎ得るものが勝を占めるわけ故、代々この標準によつて淘汰が行はれ、初め走るのに適して居た足も、途中から役目が變じ、漸々水中游泳に適する形狀・構造を具へるやうになつてしまふ。河獺・臘虎(らつこ)・膃肭臍(をつとせい)・海豹(あざらし)・鯨等を順に竝べて置いて、その足を比較して見れば、實際各この通りの徑路を歷て變化し來つたものと信ぜざるを得ぬが、斯くの如き作用の轉換が屢あれば、自然淘汰によつて既に或る方面に一定の度まで發達した器官をそのまゝ取つて材料とし、更に自然淘汰によつて之を他の方面へ向つて發達せしめ、その形狀・構造等を造り改めることも出來るわけ故、こゝに掲げた反對説の功力は餘程まで消えてしまふ。蝙蝠の翼の如きも、空中を自由に飛翔するためには、一定の度までに發達した後でなければ用をなさぬが、たゞ樹の枝から枝へ飛び移るといふだけには、翼の形が十分具はらずとも、相應の役に立つ。また樹の枝に登るだけならば、少しも膜の必要はない。それ故、初め單に樹の枝に登つただけの動物も、若し後に至つて枝から枝へ飛び移る習慣が生じたならば、少しでも表面の廣い四肢を具へたものが勝を占め、自然淘汰の結果、指の間の膜が漸々發達し、膜の發達が一定の度まで進めば、空中を多少飛ぶことも出來るやうになり、飛ぶことが出來るやうになれば、その中で最も巧に飛ぶものが生存競爭に勝を占めるやうになるから、また自然淘汰の結果、益飛翔に適する構造を具へたものが出來て、初め簡單な前足も終には全く翼の形を呈するに至るべき筈で、説明上特別の困難を感ずる點は少しもないやうである。

[やぶちゃん注:「河獺」脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱ローラシア獣上目食肉(ネコ)目イヌ亜目クマ下目イタチ上科イタチ科カワウソ亜科 Lutrinae

「臘虎(らつこ)」イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris。現生種は一属一種。

「膃肭臍(をつとせい)」哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目クマ下目(鰭脚類)アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae

「海豹(あざらし)」クマ下目(鰭脚類)アザラシ科 Phocidae

「鯨」ローラシア獣上目鯨偶蹄目鯨反芻亜目クジラ目 Cetacea。]

 

 生長の聯關といふのは、前にも一度述べた通り、一の器官が一定の方向に發達すれば、或る他の器官が之と聯關して或る他の方向へ發達することで、何故かやうな現象が起るかは、今日の所、一々十分には解らぬが、若干の事實は經驗上確に知れて居る。元來生物の體は、若干の器官に分けて論ずることは出來るが、總べてが集まつて働くので、初めて生活し得る次第故、各個の器官が他に無關係に獨立に變化することの出來ぬのは、無論のことである。それ故、若し一の器官が自然淘汰によつて發達したならば、之と聯關して生存競爭上に餘り必要のない或る器官が發達し、終には生存競爭上一定の價値を有し得る度までに生長することも最も有り得べきことと思はれる。而して、一且生存競爭上に威る役に立つやうになつた上は、その器官の優劣は最早勝敗の定まる一標準となるkら、自然淘汰によつて益進步することは素より疑がない。

 尚次の如き反對説もある。「自然淘汰説では生存競爭の結果、常に適者が生き殘るといふが、この適者というものは如何にして出來るか。生物に變異性のあることは誰も認めるが、偶然に生ずる變異の中に、何時も外界に丁度適するやうな變異があるといふことは甚だ受取り難いことである。丁度必要な折に丁度都合のよい變異が何時も現れるといふことは、たゞ偶然起る變異ばかりでは到底出來ることでない。之には何かその外に原因がなければならぬ」との論であるが、或る人はこれは生物自身が生れながら持つて居る所の「益完全の域に進む」といふ性質に基づくことであらうなどと唱へた。この流儀の考は、ダーウィン以後に幾度も繰り返して種々の學者によつて發表せられたが、之はたゞ事實を言ひ表すだけで、少しも説明にはならぬ。生物は總べて進化するものであるが、その原因は生物に固有な進化性に存するのであるというた所で、その進化性といふものが如何なるものか解らぬ以上は、説明としては何の役にも立たぬ。その上、地質時代の時の長さを考へて見れば、生物の一代每に現れる變異が、如何に少くとも、終には積つて著しい變化を起すべきわけ故、ダーウィンの自然淘汰の説だけで説明には十分であつて、他にかやうな假説を設ける必要は少しもない。

 要するに著しい變異の間に自然淘汰の行はるべきことは、實驗によつても證明の出來る確な事實であつて、之に對しては反對すべき餘地はない。或る人が、綠色の「かまきり」と枯草色の「かまきり」とを多數に集め、之を細い毛で一疋づゝ緣葉や枯葉の上に繋いで留まらせて置き、鳥の來て喰ふのを待ち、後に喰い[やぶちゃん注:ママ。]殘されたものを勘定して見た所が、自身と色の違ふ所に留まらされたものは悉く鳥に喰はれて一疋も殘らなかつたが、自身と同じ色の所に置かれたものは大部分喰ひ殘されてあつた。之は僅に一例であるが、かやうなことは無論到る所にある。されば、自然淘汰の働きに就いて疑のあるのは、生存競爭の際に、極めて僅の變異の間にも、自然淘汰が行はれるや否やといふ點であるが、之は前にも述べた通り、一個一個を取つて見れば決してそのために勝敗が定まるとは思はれぬ。倂しながら一種内の變異は必ずしも極めて僅かなものばかりとは限らず、相似たものの間の相違は僅かであつても、極端と極端とを比べると、その間には著しい相違があるのが常である。それ故、全部を假に二組に分けて競爭をさせたとすれば、僅でも生存に都合のよい變異を多く含む組の方が、統計上に勝を占めることは餘程眞らしい。生物界に於ける生存競爭の結果などを論ずるに當つては、常に全部を見渡し、全體の形勢を考へることが必要で、之を忘れると兎角誤つた結論に陷り易いやうである。

 右の外、近年の實驗研究の中には、一見して淘汰の功力を疑はしめるものがあるから、念のため附け加へて置くが、それはヨハンセンの唱へ出した純系内に於ける淘汰無功の説である。純系といふのは、一本の植物を基とし、決して他の植物から花粉を受けることなしに生じた子孫をいふ。卽ち他の血統が混じ入ることのないやうにして、代々繁殖せしめた子孫の系統を指すのであるが、ヨハンセンの實驗によると、かやうな純系内では、如何に淘汰を行つても、その結果は少しも現れぬとのことである。例へば、純系内では代々豆の粒の最も大なるものを選んで蒔いて見ても、別に段々豆の粒の大きなものが生ずるに至らず、その平均の大きさは何時までも舊のまゝである。之を見ると、淘汰は全く何の役にも立たぬ如くに考へられるが、實際の自然界には、純系なるものは決してない。植物でさへ人が態々造らなければ純系は容易に得られるものでなく、雌雄の別のある動物には純系なるものは恐らく全くないであらうから、生物界に行はれる自然淘汰の結果は、決して純系内に於ける實驗を基として論ずべきわけのものではない。その上、雌のみで代々子を生む動物に就いて行つた實驗の結果によると、純系内に於ても、ヨハンセンがいふやうに、淘汰が眞に無功であるや否や、まだ頗る疑はしいやうである。

[やぶちゃん注:「ヨハンセン」デンマークの植物学者で遺伝学者のウィルヘルム・ルドゥウィッグ・ヨハンセン(Wilhelm Ludvig Johannsen 一八五七年~一九二七年)。ここに書かれている通り。生物の集団が純系になってしまうと、ダーウィンの選択説が成立しなくなるという「純系説」の提唱者として知られる。ウィキの「ウィルヘルム・ヨハンセンによれば、『現在の視点では、豆の重さの違いは環境によるもので、環境の影響による差は次代には伝えられないと考えられているので、当然の結果であるが、当時は連続変異に働く、淘汰の有効性に疑問を深めるような役割を果たした』。『遺伝学の用語、phenotype genotypeを論文』『の中で初めて用いた。この論文は改定され』、『ドイツ語に訳されて』『発刊され、遺伝学の基礎的なテキストとなった』とある。]

諸國里人談卷之四 八重桜

 

    〇八重桜

南都東圓堂の前に美なる八重ざくらあり。一條院の御時、上東門院、此さくらを棭庭(ゑきてい[やぶちゃん注:ママ。])に移し栽(うへ[やぶちゃん注:ママ。])給はんとて、興福寺の別當に命じ給ふ。則(すなはち)、命に應ず。しかるに、衆徒等(ら)、是をいかり、「此桜は我寺(わがてら)の靈木也。何ぞ他に出(いだ)さんや」と、諍論(じやうろん)、とゞまらず。后(きさき)、この事をきこしめされ、「誠に奈良法師は心なきもの」とおもひしに、「花を愛するこゝろざし、風流の桑門」と感じ給ひ、「今より、此桜を呼んで『我桜(わがさくら)』と稱(なのる)べし。且、後世(こうせい)に至るまで、他(た)にうつす事、あるべからず」と、伊賀國予野(よの)の庄を附せられ、年毎(としごと)の花の時、墻(かき)を𢌞(まは)して此花を守らしむ。これによつて予野村を花墻(はなかきの)庄と號しける。其後(そのゝち)に此さくらを平安城にうつし栽(うへ)られけると也。

[やぶちゃん注:「南都東圓堂」桜とともに現存しない。後白河天皇の母待賢門院藤原璋子(康和三(一一〇一)年~久安元(一一四五)年)の発願で建立され、室町時代末に焼失した興福寺東円堂。現在の奈良市登大路町の中央附近推定で(グーグル・マップ・データ)、発掘調査奈良新聞記事(二〇一二年八月一日附)に「南都名所図会」に描かれた東円堂跡と八重桜の挿絵が載る(残念ながら画像は小さい)。記事によれば、東円堂は十二『世紀前半の平安時代に建立され、興福寺の記録によると、南円堂と同じ不空羂索観音像や地蔵菩薩像が安置された』。『室町時代に焼失後は再建されず』、延宝三(一六七五)年『の「南都名所集」には、縁に石をふいた八角形の基壇が描かれて』おり、寛政三(一七九一)年の『「大和名所図会」でも土壇や礎石が残り、前にあった「奈良八重桜」と並んで観光の名所だった』ことが判る。『東円堂前の八重桜は鎌倉時代の説話集に登場するなど有名で、名所図会などにも基壇跡とセットで描かれている』とある。個人ブログ内科医Randykumaのココロの旅・・八重桜に、『奈良の都の八重桜』『として初めて記録に登場するのは』、嘉承元(一一〇六)年と三十四年後の保延六(一一四〇)年に『大江親通』(平安後期の学者(大学寮の学生(がくしょう)で仏教の信仰に厚く、天竺・中国・日本の舎利の霊感に関する文献を集めて「駄都抄」全三十巻を著わし、晩年に出家した)『が南都を巡礼したときの記録「七大寺巡礼私記」』で、『奈良の都の八重桜は、興福寺の東円堂(奈良師範学校の跡、現在の県庁東側の駐車場)にあって、その桜は、他の桜が全て咲き終わり、散ってしまってから咲く、遅咲きの桜であると書かれてい』るとあり、さらに「古花 八重桜」の題で、本話とやや異なる(時代と人物)内容が記されてある。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部に句読点を入れ(一部は空欄と取り換え)、行間は詰めた。]

奈良時代、第45代聖武天皇が三笠(御蓋山:現在の若草山)の奥「鶯ノ滝」に行幸されました。

谷間に美しい八重桜が咲いているのを御覧になり、宮廷にお帰りになって光明皇后にお話になりました。

皇后は大層お喜びになり、その一枝なんとしても見たい、と御所望になられました。

臣下たちは気を利かせて、その桜を根こそぎ掘り取って、宮廷に移植してお見せになったそうです。

以来、春ごとに宮廷で八重桜は楽しまれておりました。

1678年:延宝6年 大久保秀典・林伊祐らが書いた「奈良名所八重桜」に掲載】

ところが、孝謙天皇(聖武天皇の皇女)の頃、権勢を誇っていた興福寺の僧たちはこの名桜を宮廷に置くことを喜ばず、興福寺の東円堂の前(現在奈良教育大学)に移し、興福寺の名桜として誇っていたということでございます。

そして、都が平安京に遷ったころ。

66代一条天皇の御世です。藤原道長の娘で、紫式部らの女房にかしづかれていた一条天皇の中宮・彰子さまが、興福寺の境内に植わっていた八重桜の噂を聞きました。

なんとしても見たい・・

彰子さまは、宮中の庭へ植え替え様として、貰い受けるために興福寺に使いをやり、荷車で運び出そうとしたその時! 興福寺の僧が追って来て

「命にかけてもその桜、京へは渡せぬ」

彰子さまは、哀しくも断念し、それから毎年、花の頃に「花の守り」を遣わされます。

今でも伊賀上野には「花垣の庄」と呼ばれる花守の子孫が御在住で、「奈良の八重桜」を霊木として守っておられます。

   《引用終了》

本条の短縮版より遙かに上手い。加えて、本条に出る一条天皇も出るので、続く話も引用させて戴く。処理は同前であるが、冒頭と掉尾の和歌は失礼乍ら、表記の一部が誤っていることから、別に原出典と思われる「伊勢大輔集」をもととして恣意的に正字化し、表示法も変えて二首とも引用部の外に出させて貰った。

 

 いにしへの奈良の都の八重櫻

     今日九重に匂ひぬるかな

           伊勢大輔(「伊勢大輔集」)

 

   《引用開始》

彰子さまの御尽力からか、一条天皇の御世に、この奈良の八重桜は、一枝ずつ献上される慣例となり、その年の花の受取役(若い女房です。名前からは男性のように聞こえてしまいますが)伊勢大輔が詠んだうたであります。(「詞花集」から「小倉百人一首」第61番)

この歌の「九重」は、桜の花びらが八重、九重と重なっている様と、禁中(宮中、九重)の事にかけられています。

1127年(大治2年)の「金葉集」・1144年(天養元年)の「詞花集」・「伊勢大輔集」、1156年(保元年間)「袋草紙」、院政末期の「古本説話集」等にも語り継がれています。

『八重桜の美しさと、歌の見事さに宮廷人の皆が感嘆した』と長い間語り継がれてきた歌は、現代に生きる僕にも確かに時代を超えて、まざまざとその情景を思い浮かべることができるものです。

[やぶちゃん注:中略。]

奈良の僧都から八重桜が宮廷に献上された時、使者から桜を受け取り、御前に捧げるお取り次ぎは元々中宮彰子に仕える紫式部の役目でしたが、古参女房の紫式部が意地悪をして、桜を受け取る時に歌を詠まなければならないお取り次ぎを、伊勢大輔にさせて恥をかかせようとしたとの逸話があったようです。

しかし紫式部らの予想は外れます。

歌詠みの家柄、家門の名誉に恥じぬ 見事な歌を若く女らしい良く透き通る声で詠み、皆の賞賛を浴びました。

中宮彰子さまも喜ばれて、次の歌をお返しになりました。

   《引用終了》

 

 九重に匂ふを見れば櫻狩り

    重ねて來たる春かとぞ思ふ

                中宮彰子

 

「一條院の御時」一条天皇の在位は寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年。

「上東門院」藤原彰子(永延二(九八八)年~承保元(一〇七四)年)。

「棭庭(ゑきてい)」元来は宮殿の脇(「棭」はその意)の殿舎であるが、ここはその位置の配された皇妃・宮女の住まう後宮のことを指す。

「伊賀國予野(よの)の庄」現在の三重県伊賀市予野。(グーグル・マップ・データ)。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 嗽金鳥(そうきんちょう)(空想上の鳥)/第四十一 水禽類~完遂

Soukintyou

そう きんちやう

嗽金鳥

 

スヱキンニヤウ

 

三才圖會云此鳥出昆明國形如雀色黃常翺翔於海上

魏明帝時獻之飼以眞珠及龜腦常吐金屑如粟宮人争

以鳥所吐金爲釵珥謂之辟寒金以鳥性畏寒也

 

 

そう きんちやう

嗽金鳥

 

スヱツキンニヤウ

 

「三才圖會」云はく、此の鳥、昆明國に出づ。形、雀のごとく、色、黃にして、常に海上を翺〔(と)び〕翔〔(かけ)〕る。魏の明帝の時、之れを獻ずる。飼ふに、眞珠(かいのたま)及び龜の腦を以つてす。常に金の屑(すりくづ)の粟〔(あわ)〕のごとくなるものを吐く。宮人、争ひて、鳥の吐く所の金を以つて、釵(かんざし)・珥(みゝかね)に爲〔(つく)〕る。之れを「辟寒金〔(ひかんきん)〕」と謂ふ。鳥の性〔(しやう)〕、寒を畏〔(おそ)〕るを以てなり。

[やぶちゃん注:これが「水禽類」の掉尾である。しかし、ここにきて、良安は何故、こんな如何にもあり得ない金を吐く想像上の幻鳥をここに配したのだろう? 相応する本邦の実在する鳥も浮かばない。ともかくも注しておくと、「和漢三才図会」の「九十」に、

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