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2018/07/28

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(一) 序・一 人體の構造及び發生

 

    第十九章 自然に於ける人類の位置

 

 第九章から第十三章までに掲げた如き解剖學上・發生學上・分類學上・分布學上・古生物學上の事實を基として考へれば、生物が長い間に漸々進化して、終に今日見る如きものと成つたことは毫も疑はれぬ。而して數多い生物種屬の中には非常に相似たものもあり、また甚だしく相異なつたものもあつて、之を分類するには、先づ大きな組に分け、その中を更に小さな組に分けて、幾段も分類の階級を造らねばならぬ所から推すと、生物の系續は恰も一大樹木の如きもので、今日存在する各種屬は、皆その末梢に相當するものと考へねばならぬ。隨つて、相似た種屬は比較的近い時代に共同の先祖から分かれ生じたといふことも確である。さて相似た生物種屬は皆共同の先祖から分かれ降つたものであると説けば、それで自然に於ける人類の位置も既に言ひ盡した譯であるが、進化論が世人に注意せられるのも、また進化論が思想界に偉大な影響を及ぼすのも、主としてこの點にあること故、更に詳に之を論ずるの必要がある。

 抑人間とは何であるかの問題は極めて古い問題で、苟も多少哲學的に物を考へる處までに進んだ處ならば、この問題の出ぬことはない。倂しながら之を研究して解釋を與へようとする方法は種々樣々で、隨つてこの問に對する答も古來決して一樣ではなかつた。人間は如何なるものであるかといふことを知るのは、人間に取つては最も肝要なことで、この考の定めやう次第で、總べての思想が變つて來る。世の中には人とは何物かといふやうな問題の存することをも知らずに暮して居る人間が多數を占めて居るが、凡そ人間の爲すこと考えることの中に、人といふ觀念の入らぬものはない位故、若しこの考が誤つて居たならば、その爲すことは總べて誤つたこととならざるを得ぬ。斯く重大な問題故、昔から人を論じた書物は非常に澤山あつて、今日になつても續々出版せられて居るが、之を大別すれば二種類に分けることが出來る。一は獨斷的のもの、一は批評的卽ち科學的のものである。

 從來の書物は孰れも獨斷的のものばかりで、その中に書いてあることは、或は人は萬物の靈であるとか、或は人は神が自分の形に似せて造つたものであるとかいふやうな類に過ぎぬ。このやうなことの載せてある書物の數は隨分多いが、皆單に斷定するか或は之に標註を加へただけのもの故、證明の仕樣もなければ、また否定の仕樣もない。氣に入つた人は之を信ずるが、嫌いな人は之を捨てて置く。つまり理窟で論ずることの出來ぬ信仰の範圍、趣味の範圍に屬するもの故、科學の側からは殆ど批評すべき限でないが、たゞその説く所が科學的研究の結果と相反する場合には、無論誤として之を正さなければならぬ。

 科學的の研究法は全く之とは違ひ、孔子が何といはうが、耶蘇が何といはうが、さやうなことには頓著せず、たゞ出來るだけ廣く事實を集め、之を基として論ずるのである。それ故、この方法によつて得た結論は、單に事實を言ひ表したもので、決して好(す)きであるから信ずるとか、嫌ひであるから信ぜぬとかいふべき性質のものではない。凡そ眞理を求める人で且之を了解するだけの知識のある人であれば、必ず之を認めなければならぬ。總べて科學の目的は眞理を搜し索め、人間のために之を應用することであるが、眞理を探る場合には、全く虛心平氣でなければ、大に誤る恐がある。それ故、人とは何物であるかといふ問題を研究するには、自身が人であることは一切忘れて、恰も他の世界からこの地球に探險旅行に來たやうな心持になり、他の動物と同樣に人間の習性を觀察し、他の動物と同樣に人間の標本を採集して歸つた積りで研究せねばならぬ。研究の結果、發見した眞理を應用して、人間社會に益しようとする段になれば、無論人間の利益のみを常に眼中に置かなければならぬが、初め研究するに當つては、決して人間だけを贔屓(ひいき)してかゝつてはならぬ。少しでも不公平な心があつては、眞理は到底見出せるものではない。

 生物界の事實を廣く集め、生物界の現象を深く觀察し、之を基として科學的に研究した結果は、卽ち進化論であるが、前章に述べた通り、相似た動物種屬は共同の先祖から分かれ降つたといふことは、今日の所、最早確定した事實と見倣さねばならぬ。人間だけを例外として取扱ふべき特別の理由もない故、この通則に照して論ずれば、人は總べての動物の中で牛・馬・犬・猫等の如き獸類に最も善く似て居て、これらと共同な先祖から生じた一種の獸類である。而してその中でも猿類とは特に著しく似て居る點が多いから、比較的近い頃に猿類の先祖から分かれ降つたものである。この事は單に進化論中の特殊の場合に過ぎぬから、進化論が眞である以上は、この事も眞でなければならぬ。進化論は生物界全體に通ずる歸納的結論であるが、人間が猿類から分かれ降つたといふことは、たゞその結論を特殊の例に演繹的に當て嵌めただけに過ぎぬ。

 

     一 人體の構造及び發生

 

Hitotosarunokokaku

 

[人と猿との骨骼]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版を用いた。]

 

 

 人間の身體が大・猫等の身體に極めて似て居るのは實に明なことで、殆ど説明にも及ばぬ程である。先づ外部から順を追うて檢するに、體の全面は皮膚で被はれてあるが、その構造は犬・猫などと殆ど相違はない。人間の皮も鞣(なめ)せばなかなか丈夫なもので、犬・猫の皮と同樣に種々の役に立てることが出來る。人間の革で造つた書物の表紙、椅子の蒲團などを見たことがあるが、他の獸類の革と少しも區別は出來ぬ。表面に生ずる毛髮の多少には相違があるが、之は單に發達の度の相違に過ぎぬから、極めて些細なことである。特に人間の中にも毛の多い種類と毛の少い種類とがあつて、北海道のアイヌ人の如きに至つては、毛が頗る多くて、獸類中の水牛や象などの到底及ぶ所でない。次に皮を剝ぎ去れば、その下には筋肉があるが、之も總べて犬・猫等の筋肉と一々比較して見ることが出來る。一個一個の筋肉片を彼と此と比べて見るに、犬で太い筋肉が人間では細かつたり、猫で細い筋肉が人間で太かつたりする位のことはあるが、同一の筋肉が必ず同一の場所に存して、大體からいへば、數・配列の順序ともに殆ど著しい相違はない。その味の如きも全く他の野獸の如くで、知らずに食へば少しも氣が附かぬ。「一片を大きな葉に包んで、火の中に入れ、暫時の後に取り出して食つたら、全く他の獸肉のロースの如くで、後で人間の肉だと聞いたときは、嘔吐を催したが、知らずに食ふて居る間は、なかなか甘かつた[やぶちゃん注:「うまかつた」。]」とは、南洋の野蠻島に數年間傳道して居た宣教師から聞いた直話である。また、骨骼もその通りで、頭骨・脊骨・肋骨等を初め、四肢の足に至るまで、全く同一の型に隨つて出來て居て、單に少しづゝ長短・大小の相違があるだけに過ぎぬ。最も形狀が相異なるやうに思はれる頭骨でさへ、詳に之を檢して見れば、單に各骨片の發達の度に相違があるだけで、その數も列び方も全く同樣である。昔、何とかして人間と他の獸類との間に身體上の確な相違の點を發見したいと學者が骨を折つた頃に、人間の上顎の骨は左右たゞ二個で成り立つて居るが、獸類では左右の上顎骨の間に尚二個の骨が存する。之が卽ち人間が獸類と異なる所以であるなどと論じた人もあつたが、この二個の間顎骨と名づける骨は、人間にもないことはない。たゞ生長するに隨つて、左の間顎骨は左の上顎骨に、右の間顎骨は右の上顎骨に癒着して、その間の境が消えてしまふだけである。發生の途中を調べさへすれば、人間の上顎にも犬・猫と同樣に二個の間顎骨を明に區別することが出來るが、初めてこの事に注意したのはドイツの詩人ゲーテであつた。

[やぶちゃん注:ドイツの詩人で作家のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が同時に自然科学者(特に物理学・生物学・地質学)であったことは、知られているとは思われない。ウィキによれば、『ゲーテは学生時代から自然科学研究に興味を持ち続け、文学活動や公務の傍らで人体解剖学、植物学、地質学、光学などの著作・研究を残している』。二十『代のころから骨相学の研究者ヨハン・カスパール・ラヴァーターと親交のあったゲーテは骨学に造詣が深く』、一七八四『年にはそれまでヒトにはないと考えられていた前顎骨がヒトでも胎児の時にあることを発見し』、『比較解剖学に貢献している』。『自然科学についてゲーテの思想を特徴付けているのは原型(Urform)という概念である。ゲーテはまず骨学において、すべての骨格器官の基になっている「元器官」という概念を考え出し、脊椎がこれにあたると考えていた』一七九〇『年に著した「植物変態論」ではこの考えを植物に応用し、すべての植物は唯一つの「原植物」(独:de:Urpflanze)から発展したものと考え、また植物の花を構成する花弁や雄しべ等の各器官は様々な形に変化した「葉」が集合してできた結果であるとした』。『このような考えからゲーテはリンネの分類学を批判し、「形態学(Morphologie)」と名づけた新しい学問を提唱したが、これは進化論の先駆けであるとも言われている』。またゲーテは二十代半ば頃、『ワイマール公国の顧問官としてイルメナウ鉱山を視察したことから鉱山学、地質学を学び、イタリア滞在中を含め』、『生涯にわたって各地の石を蒐集しており、そのコレクションは』実に一万九千点にも『及んでいる。なお』、『針鉄鉱の英名「ゲータイト(goethite)」はゲーテに名にちなむものであり、ゲーテと親交のあった鉱物学者によって』一八〇六』年に名づけられた』。『晩年のゲーテは光学の研究に力を注いだ』。一八一〇『年に発表された『色彩論』は』二十『年をかけた大著である。この書物でゲーテは青と黄をもっとも根源的な色とし、また色彩は光と闇との相互作用によって生まれるものと考えてニュートンのスペクトル分析を批判した。ゲーテの色彩論は発表当時から科学者の間でほとんど省みられることがなかったが、ヘーゲルやシェリングはゲーテの説に賛同している』とある。]

 

 總べて頭骨といふものは、腦髓を保護する頭蓋部と咀嚼を司る顏面部とから成り立つて居るが、この兩部の發達の割合に隨つて、大に面相・容貌が違ふ。普通の獸類では、咀嚼部が發達し、頭蓋部の方が小いから、吻(くちさき)が突出して居るが、人間では腦髓が甚だ大きいから、額が出て顎の方は餘り突出せぬ。顎が發達して居ると容貌が如何にも獸らしく、頭蓋が發達して顎が小い程、容貌が人間らしいが、この比例は獸類の種屬によつて、各相異なり、同じ人間の中でも人種により、或は一人每にも隨分違ふから、單に程度の問題で、決して根本的の相違とはいはれぬ。この相違を數字でいひ表すために、解剖學者は顏面角の度を用ゐるが、顏面角とは通常、鼻の下の一點と耳の孔とを貫く直線と、鼻の下の一點から額の前面へ引いた直線との相交叉する角をいふので、ヨーロッパ人では略八十度、黑奴では七十度、猩々の子供では六十度弱、普通の猿では四十五度位、犬・猫などになると更に一層この角度が鋭い。倂しかやうに種々の相違はあつても、一方から他の方へ階段的に漸々移り行くもの故、特に人間だけをこの列より離して全く別なものと見倣すべき理由は、少しもない。

 

Hitotoennruinonounohikaku

 

[人と猿類の腦の比較

㈠をながざる ㈡てながざる ㈢チンパンジ

㈣しやうじやう ㈤アフリカ土人ブシュマン ㈥ヨーロッパ人]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版を用いたが、記号はオリジナルに附し直してある。]

 

 次に眼・鼻・耳の如き感覺の器官を調べて見るに、眼・耳の構造は人間も犬・猫も殆ど相違はない。鼻に至つては犬・猫の方が遙に人間よりは上等で、香を感ずる粘膜の面積は、人に比すれば何十倍も廣い。また神經系統の中樞なる腦髓を比較して見るに、之も大同小異で、たゞ部分の發達の割合に相違があるだけで、根本的の區別を見出すことは出來ぬ。腦髓は大腦・小腦・延髓等から成り立つて居るが、犬・猫と人間との腦髓の相違は主として大腦の發達の度にある。大腦の發達して居ることは、獸類中で人間が確に一番で、之に近づくものは他に一種もない。この點だけでは人間は實に生物界中第一等に位するものである。倂しながら、この場合に於ても、他の獸類との相違はやはり程度の問題で、他の獸類と同一な仕組に出來て居る大腦が、たゞ一層善く發達して居るといふに過ぎぬ。

 消化・呼吸・排泄等の如き營養の器官は如何と見るに、之また犬・猫などと殆ど同樣で、大體に於ては全く何の相違もないというて宜しい。齒で咀嚼せられ、唾液と混じた食物が、食道を通つて胃に達し、胃と腸とで消化せられ、滋養分が吸收せられること、肋間筋・橫隔膜等の働で肺の中へ空氣を呼吸し、酸素を吸ひ取り、炭酸瓦斯を吐き出すこと、腎臟の中を血液が通過する間に、血液中の老廢物が濾し取られ、小便として體外に排出せられることは、人間でも、猫でも、犬でも少しも違ひはない。

 消化の器官の中でも、齒の形狀、その配列の順序等は、獸類を識別するに當つて最も肝要な點の一として用いられ居るが、人間と犬・猫との齒を比較して見るに、その形狀に門齒・大齒・臼齒等の別あること、門齒が前にあつて、臼齒が奧に位することなども全く同樣で、たゞ些細な所で異なつて居るのみである。齒は食物の種類の異なるに隨つて各動物決して一樣ではないが、それらを竝べ人間の齒をも加へて總べてを比較して見ると、人間だけを特に他の獸類から離すべき理由を發見することは少しも出來ぬ。獸類の中でも東半球の猿類を例に取つて、これと人間とを比較したならば、殆ど少しも相違を見出さぬというて宜しい位である。かやうに身體の各部を順次他の獸類の體部に比較して見ると、大體に於ても、小部分に於ても、互に比べられぬ程に相異なつた部分のないことが明瞭に知れる。

 その他生殖の器官の如きも、比較解剖の書物を見れば明に解る通り、人間も他の獸類も大體に於ては全く同樣の構造を有し、その働に至つて毫も互に相異なる點はない。醫學書を開いて見ると、文句に書くさへ汚らわしいと思はれる所行が、往々或る種類の人間によつて實行せられることが掲げてあるが、これ等も身體の如何なる部分に於ても、人間と他の獸類との間に根本的の相違のない證據である。

 人體の解剖的構造は以上述べた通りであるが、更に微細な組織的構造を調べると、犬・猫との相違は全く無いといふべき程で、犬・猫の骨の薄片と人間の骨の薄片とを顯微鏡の下で取換へて置いても、見る人は少しも氣が附かぬ。その他、筋肉・神經等の纖維でも、或は卵でも、精蟲でも、皆全く同じやうで、到底區別は出來ぬ。極めて丁寧に比較して見れば、少々の相違を發見することは出來るが、その相違は恰も、犬と鼠と、猫と兎となどの間の組織上の相違位で、決して人間だけが他の獸類から遠く離れた特別のものであるといふべき程のものではない。現今解剖學者・組織學者が人體の構造を研究するに當つても、また醫科大學などで醫學生に人體の組織を教へるに當つても、人體の代りに往々犬・猫等を用ゐるは、全く組織學上、人間と犬・猫との間には、殆ど何の相違も見出されぬからである。

 以上は單に生長した人體に就いて論じたのであるが、卵から漸々發生する順序を調べると、また頗る他の獸類と一致したことが多い。牛・豚・兎と人間との胎兒發生の模樣は、既に第十章に略述した通りで、その初期に當つては皆全く同樣で、殆ど區別も出來ず、僅に生長の終りに近づく頃になつて、互の間の相違が現れ、牛は牛、豚は豚、人間は人間と解るやうになる。而してその發生の途中の形狀を檢するに、成人にはない種々の器官が、一度出來て後に再び消えてしまふ。頸の兩側に鰓孔が幾つも出來たり、鰓へ行くべき數對の血管が出來たりすることは、前にも述べたが、これらの點に於ては、犬・猫の胎兒と少しも違はぬ。また生長し終つてからも、身體の各部に不用の器官があるが、之は多くは、犬・猫で實際役に立つて居るもので、人間ではたゞこれらの器官を用ゐる必要がなく、隨つて之を用ゐる力もないといふに過ぎぬ。解剖を調べても、發生を調べても、人間と犬・猫との間の相違は犬・猫と鷄などとの相違に比較しては遙に少いもの故、身體の構造上からいへば、人間だけを他の禽獸蟲魚から離して、その以外の特殊のものと見倣すべき理由は決してない。

[やぶちゃん注:「牛・豚・兎と人間との胎兒發生の模樣は、既に第十章に略述した」特に第十章 發生學上の事實(3) 三 發生の初期に動物の相似ること及び、その次の第十章 發生學上の事實(4) 四 發生の進むに隨ひて相分れることの本文及び図を参照されたい。]

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