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2018/07/23

諸國里人談卷之四 唐崎松

 

    ○唐崎松(からさきのまつ)

近江國志賀郡(しがのこほり)唐崎の松は一莖一葉(いつきやういちやう)也。名高き名木にて世に知る所なり。後水尾院、此所の名所をよませ給ふ。

 鏡山人のしかからさき見えて我身のうへをかえりみづ海

志賀浦は三井寺と坂本の間也。唐崎花園里(はなぞのゝさと)も相列(あいつらな[やぶちゃん注:ママ。])る。

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では和歌の三句目の「見えて」の右に『(マヽ)』と注記がある。現在の滋賀県大津市大津市唐崎にある唐崎神社((グーグル・マップ・データ)。北北西約二・七キロメートルの位置にある大津市坂本の日吉(ひえ/現行は「ひよし」だが本来は「ひえ」が正しい読み)大社の摂社)の境内にある。万葉以来の歌枕。ウィキの「唐崎神社によれば、同神社は本社日吉大社の社伝によれば、舒明天皇六(六三三)年に琴御館宇志丸宿禰(ことのみたちうしまろ)がこの地に居住し、『「唐崎」と名附けたといい』、本唐崎神社の『祭神』(現行では「女別当命(わけすきひめのみこと)」とする)は、『その宇志丸宿禰の妻とされる。当社は』持統天皇一一(六九七)年に『創建されたと伝えられ、かつては「女別当社」と呼ばれ、婦人病に霊験ありとして広く信仰を集めた』。『境内には、宇志丸宿禰が植えたのに始まるとされる「唐崎の松」がある。境内から琵琶湖を背景に唐崎の松を描いた歌川広重の「唐崎の夜雨」で知られており、近江八景に選ばれている。宇志丸宿禰が植えた初代の松は』天正九(一五八一)年の大風で倒れ、十年後の天正十九年に当時の大津城主新庄直頼の弟であった新庄直忠が二代目の松を植えた。その二代目は大正一〇(一九二一)年に枯れ、現在のものは三代目である、とある(その三代目も老成して内部が空洞化し、次世代の植栽育成も行われていることが報道記事で判る)。唐崎神社」公式サイトに詳しい解説があり、歌川広重の「唐崎夜雨図」や明治・大正期の二代目の写真が添えられてある。それによれば、『桃山時代の著書で当時の古伝承をまとめた『日吉社神道秘密記』によ』れば、舒明天皇五年頃、『琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)が唐崎に居住し、庭前に松を植え“軒端(のきば)の松”と名付けたことに始ま』るとし、『日吉大社西本宮のご鎮座伝承では、童の姿に身をやつした大神様が船に乗ったまま松の梢(こずえ)に上がるという神業を示されたことから』、『特に神聖視されるようにな』ったとし、古くは『中世の山王(さんのう)曼荼羅(まんだら)』にも描かれているとあり、『石川県の兼六園にも二代目の実生があり』、『「唐崎松」として』現存するとある。グーグル画像検索「唐崎松」をリンクさせておく。

「一莖一葉(いつきやういちやう)」読みはママ(③)。①は「葉(よう)」と振る。歴史的仮名遣は「葉(えふ)」が正しい。一つの小さな枝茎に複葉はしないことを言う。

「後水尾院」(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年/在位:慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)。在位中は秀忠・家光の治世。元和元(一六一五)年の「禁中並公家諸法度」の制定や所司代などを通じての朝廷干渉に加え、幕府の法が天皇の勅許に優越することを見せつけた「紫衣事件」、前例を無視した春日局の無位無官での拝謁強行などによって幕府への不満が爆発し、寛永六年に唐突に譲位し、以降、明正・後光明・後西・霊元の四代に亙って院政を行った。学問・詩歌に深い造詣を示し、「伊勢物語御抄」などを著し、古今伝授を受けている。叙景歌にも優れ、歌集に「鷗巣集」がある。修学院離宮のを造営でも知られる。

「鏡山人のしかからさき見えて我身のうへをかえりみづ海」この歌、不詳。識者の御教授を乞う。少なくとも知られた唐崎を詠んだ歌ではないらしく、どこにも出てこない。従って正規表現の原歌に当たれないので、冒頭に記した吉川弘文館随筆大成版のママ注記の意味も不明である。後水尾の事蹟からは歌の持つ茫漠感は何となく理解は出来るが。「鏡山」は琵琶湖の南東岸やや奥の、野洲市と蒲生郡竜王町鏡に跨る標高三百八十四メートルの山。(グーグル・マップ・データ)。新羅国の天日槍皇子が丹後の出石へ行く時に宝物の鏡を山中に埋めたという伝説から、名が付いたとされ、古くからの歌枕として知られる。

「唐崎花園里(はなぞのゝさと)」不詳。]

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