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2018/07/07

諸國里人談卷之三 橋立龍

 

    ○橋立龍(はしだてのりう)

丹後國與謝郡(よさのこほり)天橋立に、毎月十六日夜半のころ、丑寅の沖より、龍燈、現じ、文殊堂の方にうかみよる。堂の前に一樹の松あり。これを「龍燈の松」といふ。また、正・五・九月の十六日の夜に、空より、一燈、くだる。是を「天燈」といふなり。また、一火あり。是を「伊勢の御燈(ごとう)」といふ。○切戸文珠(きれともんじゆ)は海中より出現、閣浮檀金(えんぶだごん)の像なり。「拾芥抄(しうかいしやう)」云〔いはく〕、『智恩寺は、丹後九世戸(くせど)の文珠、天龍、六斉、供(けう)燈明。」とあり。松並の林、海中へさし出〔いで〕たり。東西二里、南北二町あまり、北より南へさして入海なり。舩にて渡る。その間、四町余あり。尤(もつとも)佳景の地、日本三景の其一つ也。

「夫木」               好忠

 よさの海内外(うちと)の濱にうらさびてうき世をわたるあまのはし立

[やぶちゃん注:①②③総て標題同じ。吉川弘文館随筆大成版は「橋立龍燈」とする。甚だ不審。

「丑寅」東北。

「文殊堂」現在の京都府宮津市天橋立文珠小字切戸(きれと)、「天橋立」の南側の海岸にある臨済宗天橋山(てんきょうざん)(または「五台山」とも称する)智恩寺(ここは「切戸の文殊」「九世戸(くせど)の文殊」「知恵の文殊」などとも呼ばれる。ここ(グーグル・マップ・データ))の本尊を祀る文殊堂(本堂)。現在のものは明暦三(一六五七)年改修のものであるから、菊岡沾凉(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)が生きた時代にはもう今のものである。以上の怪火(と言うよりは龍が文殊菩薩に捧げる神聖な冒頭の火)現象は本寺に伝わる天橋立(人来臨譚。本条の「天燈」)の生成と文殊信仰(神の導師とされる)との関係が神話的に述べられいる「九世戸縁起」に基づくものである(この説話を元に書かれたのが謡曲「九世戸」(作者未詳)や世阿弥の「丹後物狂」)。サイト「謡曲の統計学」の「天橋立・智恩寺〈九世戸・丹後物狂〉」がそれらをよく纏めておられ、理解し易い。ご覧あれ。

「正・五・九月の十六日の夜」ウィキの「龍燈」によれば、『柳田國男は、「龍灯」は水辺の怪火を意味する漢語で、日本において自然の発火現象を説明するために、これを龍神が特定の期日に特定の松や杉に灯火を献じるという伝説が発生したとし、その期日が多く祖霊を迎えてこれを祀り再び送り出す期日と一致することから、この伝説の起源は現世を訪れる祖霊を迎えるために、その目印として高木の梢に掲げた灯火であろうと説き、更に左義長や柱松も同じ思想を持つものと説』いている(「龍燈松伝説」。初出は大正四(一九一五)年六月発行の『郷土研究』)が、『この説に反論する形で南方熊楠は、龍灯伝説の起源はインドにあり、自然の発火現象を人心を帰依せしめんとした僧侶が神秘であると説くようになって、後には人工的にこれを発生させる方法をも編みだしたが』(注に『ここで南方は柳田を揶揄する形で、自分の陰嚢の影が龍灯のように樹上に懸かった実例(?)を持ち出す』とある)、『それが海中から現れ』、『空中に漂う怪火を龍神の灯火とする伝承があった中国に伝わって習合し、更に中国に渡った僧侶によって日本に伝来、同様の現象を説明するようになったものであるとし、また左義長や柱松は火熱の力で凶災を避けるもの、龍灯は火の光を宗教的に説明したもので、熱と光という火に期待する効用を異にした習俗であると説』いている(「龍燈について」。初出は大正五(一九一六)年十二月発行の『郷土研究』)。私は熊楠に軍配を挙げる。

「伊勢の御燈」それにしても日本神話の神々に天照大神・文殊菩薩・龍神とは豪華オール・スター・キャストだね、この話。豪勢に火も燃えるわけだわ。

「閣浮檀金(えんぶだごん)」サンスクリット語の漢音写で仏教の経典中にしばしば見られる想像上の「金」の名。その色は紫を帯びた赤黄色で、金のなかで最も優れたものとされる。経典に現われる香酔山の南、雪山の北に位置し、無熱池の畔(ほとり)にある閻浮樹林を流れる川から採取されることから、この名称があるとされる。

「拾芥抄」(しゅうがいしょう)は中世に書かれた類書(百科事典)。全三巻。ウィキの「拾芥抄」によれば、『古くは南北朝時代の洞院公賢が著者、子孫の実熙が増補したとされてきたが』、永仁二(一二九四)年(これは公賢未だ四歳の年である)に『書写された『本朝書籍目録』写本に「拾芥抄」の名が見られることから、今日では鎌倉時代中期には原型が成立し、暦応年間に洞院公賢がそれを増補・校訂したと考えられている。現存本は『口遊』・『二中歴』などの先行の書物の流れを引き継ぎ、歳時以下、経史、和歌、風俗、百官、年中行事など公家社会に必要な知識を中心とした』九十九部『及び「宮城指図」「八省指図」「東西京図」などの地図・図面類を多数含んでいる』。「源氏物語」については、『その巻名目録に現行の』五十四『帖に含まれない』「桜人」の『巻を挙げるなど』、『独自の記述を有している』。『現存最古の写本は室町時代初期のものと推定されている東京大学史料編纂所所蔵の残欠本で』、現在、『重要文化財に指定されているほか、室町時代から戦国時代にかけての写本が多数現存し、江戸時代には慶長活字本などたびたび刊行された』とある。

六斉」一ヶ月のうち、日を六回、事前に定めておき、定期的に事を行うこと。また、その日のことか。

「東西二里、南北二町あまり、北より南へさして入海なり」東西七キロ八百五十四メートル、南北二百十八メートル。この数値はどこをどう測っているのか判らない、「入海」である宮津湾(橋立の外洋側)の、北東湾口から橋立南西端位置までの距離ならそれに近いが、天橋立を知らない読者は百人中百人がこれを「天橋立」の長さだと思うであろう。因みに、現在の「天橋立」は全長約三・六キロメートル、幅は約二十~百七十メートルである。幅は時代の違いによって許せる範囲であるが、長さは北の陸地部分や南の近接海岸部を算入しても、四キロメートルに満たない。頗る不審である。或いはと橋立と宮津湾を完全に横切るドンブリ勘定か。しかし、それでも「二里」は長過ぎるし、逆に阿蘇海の湾奧でも「南北二町」は短過ぎる。お手上げ。

「舩にて渡る。その間、四町余あり」「四町」は四百三十六メートル。これもよく判らない。船で渡るのは、現在の智恩寺の東にある小橋立を経ずに大橋立に渡ることしか考えられないが、例えば、智恩寺の側にある橋立観光船の船着き場から大橋立までは直線で百五十メートルもない。阿蘇湾に流れ込む海流に乗って渡るとして考えると、或いは小橋立のずっと南方向の、対岸陸側にある「涙ヶ磯」(先の能「丹後物狂」に登場する場所)の北西直近辺りから小舟を出せば、この距離にはなる

「日本三景」後の二つは現在の宮城県宮城郡松島町を中心とした多島海である「松島」海域と、広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした宮島(厳島)周辺。ウィキの「日本三景によれば、『江戸時代前期の儒学者・林春斎が』、寛永二〇(一六四三)年に『執筆した著書『日本国事跡考』の陸奥国のくだりにおいて、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立・安藝嚴嶋爲三處奇觀』『」(句読点等は筆者付記)と書き記した』の『を端緒に「日本三景」という括りが始まったとされる』とし、『その後』の元禄二年閏一月二十八日(一六八九年三月十九日)に『天橋立を訪れた儒学者・貝原益軒が、その著書『己巳紀行』(きしきこう)の中の丹波丹後若狭紀行において、天橋立を「日本の三景の一とするも宜也」と記して』おり、『これが「日本三景」という言葉の文献上の初出とされ、益軒が訪れる以前から「日本三景」が一般に知られた括りであったと推定されている』とある。それぞれ、本書刊行(寛保三(一七四三)年)の百年前と五十四年前に当たる

「よさの海内外(うちと)の濱にうらさびてうき世をわたるあまのはし立」「夫木和歌抄」の巻二十三の「雜五」に載る曾禰好忠(そねのよしただ  延長元(九百二十三)年頃?~?:平安中期の歌人。「曾根」とも書く。丹後掾(たんごのじょう)であったため、「曾丹(そたん)」と呼ばれた。歌人としては優れていが、性格上、偏屈な面があったことから、不遇な生涯を送った。歌風は古語や俗語を取入れたり、新奇な語法を用いたりした清新さに満ちたもので、受領層歌人の生活感情を連作によって提示する「百首歌」を創始した。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に九十首近くが入集している。歌界に新風を吹込んだ功績は和泉式部とともに高く評価され、歌風は源俊頼らによって継承された。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)の一首。「好忠集」では以下の前書と後の添書きを持つ。

   圓融院の御子(おほんね)の日に、

   召しなくて参りて、さいなまれて、

   又の日、奉りける

 與謝の海の内外の濱のうら寂びて世をうきわたる天の橋立

     と名を高砂の松なれど身はうしまどに

     よする白波のたづきありせばすべらぎ

     の大宮人となりもしなましの心にかな

     ふ身なりせば何をかねたる命とかしる。

「御子の日」ここは「子の日の御遊(おあそ)び」のこと。平安時代、正月の最初の子の日に、貴族が行った物見遊山。「小松引き」(小松の根を引き抜遊び)や「若菜摘み」などが行われた。これらは年頭に当たり、松の寿を身に移したり、若菜の羮(あつもの)を食して邪気を払おうとしたものと考えられている。「與謝の海」は天橋立の砂州で区切られた潟湖である阿蘇海の旧称。「内外の濱の」までが「うら」を引き出すための序詞的用法だが、それが普通の序詞のようには無効にはならず、そのまま生きてうら寂しい橋立の景が表の絵となっているのは上手い。「海」「濱」「うら」「うき」「わたる」「天の橋立」は縁語である。「世をうきわたる」は辛い思いをしつつ、この世を生きてゆかねばならぬで、「うき」は「浮き」と「憂き」の掛詞。水垣サイト「とうた」の「曾禰好忠の本歌の「補記」に、『寛和元年の円融院紫野行幸での子の日遊びの行事に、召されもしなかった好忠が推参し、追い払われた翌日、朝廷に奉った歌。歌に続く「と名を高砂の…」以下の文章には、「橋立と名を高砂の松なれど身は牛窓によする白波」「白波のたづきありせばすべらぎの大宮人となりもしなまし」「死なましの心にかなふ身なりせば何をかねたる命とか知る」という歌三首が埋め込まれている』とある。この三首は、尻取り的な形の歌になっている。「高砂の松」は現在の兵庫県高砂市高砂神社境内にある相生(あいおい)の松であるが、ここはその歌枕を「子の日遊び」の「小松引き」に通わせ、さらに名「高い」に掛けたものであろう。「牛窓」は岡山の古くから風待ち港と知られた湊で、ここはさらに「牛」に「憂し」を掛けている。「白波」は苦海の世渡りする(「たづき」する)ことの漠然とした障害のように見えるが、実際には好忠を軽蔑し、昇進を認めない朝廷(高官)の権力をシンボライズしたもののようにも読めなくもない。そんな奴らによい「たづき」(コネ。人脈のパイプ)がないから昇進も出来ないというのではなかろうか。「かねたる」は「しようとして躊躇してしまう」の意で、ここは強烈な自己卑下の反語。]

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