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« 諸國里人談卷之五 橫山狐 | トップページ | 進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(二) 二 進化論と倫理 »

2018/07/30

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(一) 序・一 進化論と哲學

 

     第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響

 

 前章までに説いた所で、進化論の大意だけは先づ述べ終つたが、進化論を認めると同時に、全く一變せざるを得ぬのは、自然に於ける人類の位置に關する考である。人間は獸類の一種で、猿と共同な先祖から降つたといふことは、單に進化論中の特殊の一例に過ぎぬから、進化論を認めながらこのことだけを認めぬといふ理由は決してない。若しこのことを認めぬならば、進化論全體をも認めることは出來ず、隨つて生物學上の無數の事實と衝突することになる。而して一旦この事を認めて、自然に於ける人類の位置に關する考を一變すれば、從來の考は無論棄てなければならず、且舊思想の上に樹[やぶちゃん注:「た」。]てられた學説は、悉く根抵から造り改めなければならぬことも無論である。

 今日學問の種類は非常に澤山あるが、その中には人間は如何なるものかといふ考に關係のないものもあれば、また殆どこの考を基礎としたものもある。物理學・化學・數學・星學[やぶちゃん注:天文学。]・地質學等の如き純正理學を始めとして、之を應用した工學・農學などでも、人間といふ觀念が如何に變つても直接には何の影響を蒙むることもないが、哲學とか、倫理學とか、教育學とかいふやうな種類の學科は、人間といふ考次第で、全く根本から改めなければならぬかも知れぬ。なぜといふに、これらの學科は進化論の現れぬ前から引續き來つたもので、進化論以前の舊思想に從つて人間といふものの定義を定め、之によつて説を立てて居るのである故、一朝この定義が改まる場合には、その上に築き上げた議論は悉く崩れてしまふからである。

 曾てアメリカの或る雜誌で、十九世紀中に出版になつた書物の中で、人間の思想上に最も著しい影響を及ぼしたのは何であるかといふ問題を出して、世界中の有名な學者から答を求めたことがあつたが、何百通も集まつた答の中に、ダーウィンの「種の起源」を擧げぬものは一つもなかつた。また先年丸善書店で十九世紀中の大著述は何々であるかといふ問題で、我が國の學者から答を求めたことがあつたが、その答の中、やはり「種の起源」が最多數を占めた。斯くの如く、内外共にこの書の尊重せられるのは何故といふに、無論人間といふ考がこの書によつて全く一變し、その結果として殆ど總べての學科に著しい影響を及ぼしたからである。近來出版になつた社會學・倫理學・心理學・哲學等の書物の中には、進化論の影響により大いに改革を試みた形跡の見えるものも既に相應にある所から推せば、尚益變化して行くであらうが、どこでもこれらの學科を專門に修めた人々には、兎角、生物學の素養の極めて不十分な人が多く、そのため進化論が今日既に學問上確定した事實であるに拘らず、之を了解することが出來ず、依然として舊思想を守り、生物學から見れば殆ど前世紀に屬すると思はれる程の誤謬に陷りながら、少しも悟らず、隨つて之を改めもせぬ有樣である。

 進化論と、かやうな學科との關係はなかなか重大なことで、本書の中に之を丁寧に論ずることは出來ぬが、全くこれを略して置くことも甚だ不本意である故、たゞ一つ二つ思ひ浮んだことだけを、この章に述べる。進化論の方が十分に解りさへすれば、こゝに書くことの如きは、必然の結論として生ずべきもので、誰の心中にも自然に浮ぶ筈のことかも知れぬが、凡そ進化論によつて從來の諸學科が如何に根本的に改良せられなければならぬかといふことは、そのため多少明に知れるであらう。

 

     一 進化論と哲學

 

 哲學といふ學問は、その歷史を調べて見ると、極古代に當つては、多少實驗を基としたこともあつたやうであるが、近來では全く實驗と離れて、單に自己の思考力のみに依賴して、一切の疑問を思辨的に解かうと勉める。達磨が九年間壁に向つて考へて居た如く、近頃までの所謂哲學者は、たゞ書物を讀むことと、考へることとによつて、總ての眞理を發見し得るものの如くに思ふて居たが、之には大きな誤謬が基となつて居る。この事は當人も少しも氣が附かぬかも知らぬが、全く人類に關する舊思想に基づくことで、先づ之から改めてかゝらなければ、到底益誤謬に陷ることを免れぬ。

 その誤謬とは人間の思考力を絶對に完全なものの如くに見倣して居ることである。進化論の起らぬ前は、無論このことに就いては疑の起りやうもないわけで、人間は一定不變のものと思つて居る間は、その思考力の進化などに考へ及ぶ緒[やぶちゃん注:「しよ」。]もないから、たゞ考さへすれば如何なる眞理でも觀破することが出來るやうに思つたのも無理はないが、今日生物學上、人間が下等の獸類から漸々進化し來つたことが明になつた以上は、先づこの誤謬から正してかゝらねばならぬ。人間は猿類などと共同な先祖から起つたもの故、その頃まで溯れば今とは大いに違つて腦髓も小く、思考力も甚だ弱かつたに違ない。それより漸々進步して、今日の姿までに達したのである。これから先は如何になり行くか、未來のこと故、素より解らぬが、過去の經歷から推して考へると、尚この後腦髓が益發達して思考力も益進化することは、殆ど疑なからう。若し今後尚進步するものとしたならば、今日の思考力は恰も進步の中段にあるもの故、決して絶對に完全なものとはいはれぬ。されば今日如何に腦漿を搾り、思考力を凝らして考へたことも、尚一層腦髓が發達し、思考力の進步した未來の時世から顧みたとすると、全く誤つて居るかも知れず、その時に考へたことはまた尚一層後の世から見ると、誤であるかも知れぬが、かやうに考へると、今日の腦髓を以て自分の單に考へ出したことを、萬世不變の眞理であると世に披露するやうな大膽なことは到底出來ず、また他人の考へ出したことを萬世不變の眞理であると信ずることも出来ず、總べて何事をも極めて控へ目に信ずるやうになり、その結果甚だしい誤謬に陷ることも斟くなるであらう。

 腦髓が漸々發達して今日の有樣になつたことは、化石學上にも事實の證據があるが、一個人の發生を調べると、全く同樣なことを發見する。最初腦髓の極めて簡單な頃を略して、その次の時代からいへば、先づ胎内四箇月位の時には、大腦の兩半球ともに表面が平滑で、一向、溝の如きものもなく、殆ど兎の腦髓の如くであるが、漸々發達して複雜になり、大腦の表面に種々の裂溝・廻轉等が現れ、八箇月頃には全く猩々と同じ位な度に達する。尚それより少しづゝ發達して、終に生れ出るが、生れてから後に思考力の漸々進步する具合は、誰も幼兒に就いて經驗して知つて居ることであらう。發生學の所で述べて置いた生物發生の原則といふことは、人間の腦髓の發育、思考力の進步等にも實に善く適するやうに思はれるが、之によつて人間の實際進化し來つた徑路を、餘程までは推察することが出來る。

 眼・耳・鼻等の如き感覺器も無論絶對に完全なものではないが、腦髓で考へた理論が、眼・耳等で感ずることと矛盾する場合に、理論の方だけを取つて、感覺の方を顧みぬといふことは穩當でない。今日の人間の生活の有樣を見るに、主として知力の競爭で、眼・耳・鼻等の優劣は殆ど勝敗の標準とはならぬから、一人一人の相違は素よりであるが全體からいへば、知力は益進むばかりで、感覺器の發達は少しも之に伴はぬ。倂しながら知力は如何なる度まで進んで居るかと考へるに、生物の進化は主として自然淘汰に基づくもの故、たゞの競爭場裡に立つことが出來るといふ程度までに進んで居るだけで、決して遙にその以上に出て居るわけはない。されば今日我々の有して居る思考力は、同僚と競爭して甚しく敗れることがないといふ度までに發達して居るだけ故、日常の生活には僅に間に合うて行くが、宇宙の哲理を觀破する道具としては、隨分覺束ないやうに思はれる。

 哲學といふ宇の定義は幾通りあるか知らぬが、簡單にいへば、物を見て考へることであらう。烏を見て單に黑いというて濟ますのは、普通の見方で、何故黑いかと考へるのは哲學的の見方である。つまる所、物の原因に就いて疑を抱くのが、總べての哲學の起りであらうが、この疑を解かうと勉めるに當つて、取る方法に二通りの別がある。一は出來るだけ多く實驗觀察し、出來るだけ多くの正確な事實を集め、之を基として考へる方で、今日純正理學と名づけるものは皆この方法に隨つて研究すべき筈である。他の一は之に反して、眼・耳・鼻・舌等の如き感覺器には全く信用を置かず、たゞ思考力のみに賴つて疑の根元までも解き盡そうと試みるが、從來の所謂哲學といふものは總べてこの方法によつて研究せられて居る。さて人間は尚進化の中段にあるものとすれば、眼・耳・鼻・舌の感覺力も腦髓の思考力も、共に絶對に完全なものでないことは勿論であるが、孰れの方に誤謬に陷る穴が多いかと考へて見るに、眼・耳を以て見聞すること、物指・天秤等を以て測ることなどは、十人で行ふても、百人で行ふても、その結果は略一致して爭の起ることは少いが、日常生活以外の方面に用ゐる思考力の結果は、人一人で大いに異なり、五人集まれば五通りの宇宙觀が出來、十人寄れば十通りの人生觀が出來る。また自分で獨立の説を工夫することの出來ぬ人等は、他人の考へたことに縋り附くの外はないから、こゝに澤山の派が生ずる。若し眞理が幾通りもないものとしたならば、昔から多數に存する哲學派の中で完全に眞理を説いたものは、最も多く見積つてもたゞ一つだけよりないわけで、實際は、恐らく悉く誤謬であると考へざるを得ない。思考力のみに依賴すると、推理の筋の辿りやう次第で、種々の異なつた結論に達し、隨分正反對の結果を得ることもあるから、眞理を求めるために或る學派に歸依し、或は自身で一派を工夫する人は、恰も當りの少い籤を引くのと同樣で、眞理に的中する望は極めて僅である。

 これに比較すれば、感覺力の方が尚餘程確らしい。十人でも百人でも、略同一な結果を得るのであるから、今日の人間の知力の範圍内では、先づこれ以上に確なことを知ることは出來ぬ。人類共通の誤謬があるかも知れぬが、之は何とも論ずべき限でない。されば物の原因を探るに當つても、先づ觀察と實驗とによつて事實を集め、之を基として思考力によつて、その間の關係を考へ、一定の結論を得たれば、更に實驗、觀察によつてその結論が實際の事實と矛盾せぬか否かを確め、確であれば、更に之を基として、その先を考へるといふやうに、常に思考力と感覺力とを倂せ働かせて進むのが、今日の人間のなし得る最も確な方法であらう。尤も、この方法は一段每に實驗・觀察等の如き大きな勞力を要すること故、單に手を束ねて考へるのと違つて、進步は素より多少遲からざるを得ぬ。理科の進步は常にこの方法によるから、速[やぶちゃん注:「すみやか」。]ではないが、比較的に確[やぶちゃん注:「たしか」。]である。理科に於ても、事實の十分に集まらぬ中に、假想説を考へ出して、或る現象の理由を説明しようと勉めて、そのため激しい議論の起ることも常にあるが、研究の結果、事實が漸々解つて來れば、必ず孰れにか決してしまふから、何時までも數多の學派が對立して存するといふやうなことはない。

 この方法は實驗・觀察によつて先づ事實を搜し、之を基として思考するのであるから、從來の單に思考力のみにより空論を戰はして居た紙上哲學に對し、この方法で研究する學科を實驗哲學と名づけるが適當であるが、進化論により人間の位置が明になつた以上は、哲學といふものはこの方面の學科と一致するやうに改めなければならぬ。思考力のみをたゞ一の武器として、臥[やぶちゃん注:「ふし」。]ながら宇宙の眞理を發見しようといふ考は、進化論の教へる所と全く矛盾することである。

 科學に滿足が出來ぬから、哲學に移るといふ人もあるが、物に譬へて見れば、實驗・觀察と思考力とを倂せ用ゐて研究することは、恰も脚を動かして步行するやうなもので、進步は速くはないが、實際身體がそこまで進んで行く。之に反して思考力のみによつて考へることは、恰も夢に千里を走るやうなもので、進步は至極速いやうに感ずるが、實際身體は依然として舊の處に止まつて居る。今日の開化の度まで、人間の進み來つたのは、全く實驗・觀察と思考力とを倂せて用ゐる方法で事物を研究した結果である。思考力のみを用ゐる研究法の結果は、二千年前も今日も餘り著しくは違はぬ。物の理由を探り求めるに當り、實驗・觀察と思考力とを倂せ用ゐることは、大に忍耐と勞力とを要する仕事で、隨つて時も長くかゝるが、その結果は眞であるゆえ、之を應用して誤ることはない。つまり、それだけ人間の隨意にする領分が殖えたやうなもので、生存競爭の武器がそれだけ增したことに當る。知識の光を以て照せば、何事でも解らぬものはないなどと、大聲に演説すれば、そのときだけは説く者も何となく愉快な感じが起つて、意氣が大に昂る[やぶちゃん注:「あがる」。]が、實際を顧みると我々の知識はなかなかさやうなものではなく、僅に闇夜に持つて步く提燈位なもので、たゞ大怪我なしに前へ進み得られるだけに、足元を照すに過ぎない。實驗・觀察と思考力とを倂せ用ゐるのは、この提燈の光力を漸々增加せしめる方法である。今日我々の爲し得る範圍内では、これ以上のことは出來ぬのであるから、不十分な點を忍んで科學に滿足するより外に致し方はない。之に滿足せずして、舊哲學に移るのは、恰も提燈の火が小いからといふて、これを捨て大光明を夢みんと欲して目を閉じるやうなものであらう。

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