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2018/07/08

諸國里人談卷之三 焚火

 

    ○焚火(たくひ)

隱岐國の海中に夜、火、海上に現ず。是、燒火權現(たくひごんげん)の神霊也。此神は風波(ふうは)を鎭(しづめ)給ふ也。いづれの國にても難風(なんぷう)にあひたる舩、夜中、方角をわかたざるに、此神に立願(りうぐわん)し、神号を唱ふれば、海上に、神火(しんくわ)、現じて難を遁(のが)るゝ事、うたがひなし。後鳥羽院、此島へ左遷(さすらへ)給へる時、風たちて、浪あらく、御舩(みふね)、危ふかりければ、

 我こそは新島守(にいじまもり)よおきの海のあらき浪風心してふけ

此御製、納受(のふじゆ)ましましけるにや、風波、靜(しづま)り、夜に入〔いり〕て、神火、出現す。

 泻〔かた〕ならばもしほやくやとおもふべし何をたくひの煙なるらん

御舩、三保の浦につきぬ。そのゝち、大山權現(おほやまごんげん)に詣でさせ給ひ、燒火山(たくひやま)を改(あらため)て、雲上寺(うんじやうじ)と号(なづけ)させ給ふ。

○海部郡(あまこほり)島前(どうぜん)美田庄(みたのしやう)にあり。一條院の御宇に海中より出現し給ふ。大山權現、又、離火權現(たくひごんげん)といふ。祭(まつる)神、大日孁貴〔おほひるめのむち〕。

〇一曰〔いはく〕、「此、乃、天照皇大神(てんせうくわうたいしむ)之垂跡同一而ニ乄、於イテㇾ今、海舶、多免(まぬか)漂災(ひやうさい)者〔は〕因神火(しんかう)光(ひかり)。最不ㇾ可カラㇾ疑[やぶちゃん注:「ウ」はママ。]。」。

[やぶちゃん注:現在の島根県隠岐郡西ノ島町(にしのまち)美田(みた)にある焼火山(たくひやま:標高四百五十一・七メートル)の山頂附近に鎮座する焼火(たくひ/たくび)神社に纏わる怪火(御神火)。明治初頭の神仏判然令以前は焼火山(たくひさん)雲上寺(うんじょうじ)と号した。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「焼火神社」によれば(太字下線やぶちゃん)、概ね、中世頃から、『航海安全の守護神として遠く三陸海岸まで信仰を集めた』(現在はかなり寂れている)。『大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祀る』。(大日孁貴尊は天照大神の別称)。『焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが』、『後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した』。『やがて祭神を大日孁貴尊とする伝えも起こって』、元禄一六(一七〇三)年には「燒火山大權現宮(中略)伊勢太神宮同躰ナリ、天照大日孁貴、離火社神靈、是ナリ、手力雄命、左陽、万幡姫命、右陰」(「島前村々神名記」)と『伊勢の皇大神宮(内宮)と同じ神社で、伊勢神宮同様』、三『座を同殿に祀ると説くようにもな』ったが、『明治初頭に大日孁貴尊のみを祀る現在の形となった』。『「焼火山縁起」によれば』、一条天皇の治世(在位:寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年)、『海中に生じた光が数夜にわたって輝き、その後のある晩、焼火山に飛び入ったのを村人が跡を尋ねて登ると』、『薩埵(仏像)の形状をした岩があったので、そこに社殿を造営して崇めるようになったと伝えている。また』、承久三(一二二一)年七月、「承久の乱」で敗北して隠岐に配流された後鳥羽上皇が(延応元年(一二三九年)二月に配所で崩御。享年六十歳)、『漁猟のための御幸を行った際』、『暴風に襲われ、御製』(ここに出る知られた後鳥羽院の歌「我こそは新島守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ」(「後鳥羽院御百首 雜」)『を詠んで祈念したところ』、『波風は収まったが』、『今度は暗夜となって方向を見失ったため』、『更に祈念を凝らすと、海中から神火が現れて雲の上に輝き、その導きで焼火山西麓の波止(はし)の港に無事着岸、感激した上皇が「灘ならば藻塩焼くやと思うべし』『何を焼く藻の煙なるらん」と詠じたところ、出迎えた一人の翁が、「藻塩焼くや」と詠んだ直後に重ねて「何を焼く藻の」と来るのはおかしく、「何を焼(た)く火の」に改めた方が良いと指摘、驚いた上皇が名を問うと、この地に久しく住む者であるが、今後は海船を守護しましょうと答えて姿を消したので、上皇が祠を建てて神として祀るとともに』、『空海が刻むところの薬師如来像を安置して、それ以来』、『山を「焼火山」、寺を「雲上寺」と称するようになったという』(ここに出る二首目の歌は、本文の「泻(潟)」と「灘」(なだ)の異同があるが(意味としては「灘」ではおかしい)、孰れにせよ、この一首は現行の後鳥羽院の歌には見当たらない。また、本文は隠岐配流の際の詠としているのに対し、ここは配流後の一齣としてある点でも異なる。ここも配流時のシークエンスの方が真正の御製「新島守」との絡みで、よりしっくりくる)。『上述したように、元来』、『焼火山は北麓に鎮座する大山神社(島根県隠岐郡隠岐郡西ノ島町美田(東の大山地区ではないので注意)に現存。(グーグル・マップ・データ))『の神体山として容易に登攀を許さない信仰の対象であったと思われるが、山陰地方における日本海水運が本格的な展開を見せる平安時代後期』(十一~ 十二世紀頃)『には、航海安全の神として崇敬を集めるようになったと見られ』、『その契機は、西ノ島、中ノ島、知夫里島の島前』(どうぜん)三『島に抱かれる内海が風待ちなど停泊を目的とした港として好まれ、焼火山がそこへの目印となったため』、『これを信仰上の霊山と仰ぐようになったものであり、殊に近代的な灯台の設置を見るまでは』、『寺社において神仏に捧げられた灯明が夜間航海の目標とされる場合が大半を占めたと思われることを考えると、焼火山に焚かれた篝火が夜間の標識として航海者の救いとなったことが大きな要因ではないかと推定され、この推定に大過なければ、『縁起』に見える後鳥羽上皇の神火による教導』という伝承も、『船乗りたちの心理に基づいて採用されたとみることもできるという』。また、「栄花物語」では永承六(一〇五一)年五月五日の『殿上の歌合において、源経俊が「下もゆる歎きをだにも知らせばや 焼火神(たくひのかみ)のしるしばかりに」と詠んでおり』(巻第三十六「根あはせ」)、江戸中期の国学者谷川士清(たにかわことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)は、『これを当神社のことと解しているが(『和訓栞』)、それが正しければ』、『既に中央においても』、『著名な神社であったことになる』。『後世』、『修験者によって修験道の霊場とされると、地蔵菩薩を本尊とする焼火山雲上寺(真言宗であるが』、『本山を持たない独立の寺院であった)が創建され、宗教活動が本格化していく。その時期は南北朝時代と推測され、本来の祭祀の主体であった大山神社が、周辺一帯に設定されていた美多庄の荘園支配に組み込まれた結果、独自の宗教活動が制限されるようになったためであろうとされる[8]。以後明治に至るまで、雲上寺として地蔵菩薩を祀る一方、「焼火山大権現」を社号とする宮寺一体の形態(神社と寺院が一体の形態)で活動することになり、日本海水運の飛躍的な発展とともに広く信仰を集めることとなる。その画期となったのは』天文九(一五四〇)年の『僧良源による造営のための勧進活動であると推測され』、現地では永禄六(一五六三)年九月に『隠岐幸清から田地』二『反が寄進されたのを始め、各所から田畠が寄進されており(社蔵文書)、近世に入ると社領』十『石を有していたことが確認できる』。『また注目されるのは』、『西廻り航路の活況と』、『そこに就航する北前船の盛行により、日本海岸の港はもとより』、『遠く三陸海岸は牡鹿半島まで神徳が喧伝されたことで』、『歌川広重』(初代及び二代目)『や葛飾北斎により』、『日本各地の名所を描く際の画題ともされており(初代広重『六十余州名所図会』、北斎『北斎漫画』第』七『編(「諸国名所絵」)など)、こうした信仰上の展開も、上述した港の目印としての山、もしくは夜間航海における標識としての灯明に起因するものと考えられる。なおこの他に、幕府巡見使の差遣に際しては雲上寺への参拝が恒例であり、総勢約』二百『人、多い時には』四百『人を超える一行を迎える雲上寺においては、島前の各寺々の僧を集めてその饗応にあたっており、これには焼火信仰の普及と雲上寺の経営手腕が大きく作用していたと考えられている』とある。以下、「神事」の項。「例祭」は七月二十三日で午後八時頃から『本殿祭が行われ、その後、社務所を神楽庭(かぐらば。神楽奉納の場)として隠岐島前神楽(島根県指定無形民俗文化財)が舞われる。かつては夜を徹する神楽であったというが、現在は遅くても深夜には終わることになっている』。「龍灯祭」は旧暦十二月大晦日に行われ、『社伝によれば、焼火権現創祀の契機となった海上からの神火の発生が大晦日の夜だったので』、『それに因んで行われるといい、現在でも旧暦大晦日の夜には海中に発した神火(龍灯)が飛来して境内の灯籠に入るとも、あるいは拝殿の前に聳える杉の枝に掛かるともいう(この杉は「龍灯杉」と呼ばれる)。以前は「年篭り(としごもり)」と称して、隠岐全島から集まった参拝者が社務所に篭って神火を拝む風習があった。なお、同様の龍灯伝説は日本各地に見られ、その時期も古来祖先祭が行われた』七『月や大晦日とするものが多いため、柳田國男はこれを祖霊の寄り来る目印として焚かれた篝火に起源を持つ伝説ではないかと推測、これを承けて当神社においては、航海を導く神火の信仰を中核としつつ、そこに在地の祖霊信仰が被さったと見る説もある』(これに対する南方熊楠の反論は「橋立龍」の注で引用済みなので参照されたい)。「春詣祭(はつまいり)」は『島前の各集落がそれぞれ旧正月』五『日から約』一『か月の間に適宜の日を選んで参拝し、社務所で高膳(脚つきの膳)を据えての饗応と宴会が催される。上述「年篭り」の名残であるという』とある。以下、「信仰諸相」の項。「神火の導き」。『船が難破しそうになった時に焼火権現に祈念すると、海中より』三『筋の神火が現れ、その中央の光に向かえば無事に港に着けるという』。「日の入りのお灯明行事」。『北前船の船乗りに伝承された船中儀礼で、航海安全などを祈るために焼火権現へ灯火を捧げる神事。「カシキ」と呼ばれる』十三歳から十五~十六歳の『最年少の乗組員が担当し、日の入りの時刻になると』、『船尾で炊きたての飯を焼火権現に供え、「オドーミョー(お灯明)、オキノ国タクシ権現様にたむけます」と唱えながら』二『尺程度の稲または麦の藁束で作った松明を時計回りに』三『回振り回してから海へ投げ入れ、火がすぐに消えれば雨が近く、煙がしばらく海面を這えば風が出ると占ったといい』、『しかも』、『この神事を行う船乗り達は隠岐の島への就航の経験がなく、従って「オキノ国タクシ権現様」がどこのどのような神かも知らなかったという』。『なお、上述広重や北斎の描いた浮世絵は北前船におけるお灯明行事の光景である』。「銭守り」。『焼火権現から授与され、水難除けの護符として船乗りに重宝された。かつては山上に』一『つの壺があり、そこに』二『銭を投げ込んでから』一『銭を取って護符とする例で、増える一方である筈なのに』、『決して溢れることはなかったという』。『近世には松江藩の江戸屋敷を通じて江戸でも頒布されたため、江戸の玩銭目録である『板児録』にも記載されるほど著名となり、神社所蔵の』天保一三(一八四二)年十二月の『「年中御札守員数」という記録によれば、年間締めて』七千九百『銅もの「神銭」が授与されていたという』とある。なお、私の小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (七)も是非、参照されたい。小泉八雲が隠岐を愛したように、私も隠岐が好きだ。七年前にただ一度行っただけだけれど。

「三保の浦」不詳。しかし、これはどうみても、焼火山を見て、左(西)に廻り込んで、東北へ貫入する西ノ島町美田湾、「美田の浦」の誤りとしか思われない。

「大山權現」先の大山神社。]

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