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2018/07/15

諸國里人談卷之四 油泉

 

    ○油泉(あぶらのいづみ)

美濃國谷汲(たにぐみ)の開基豐然(ほうねん)上人、延曆年中草創の時、その地を平均(ならす)所に、一つの巖(いはほ)を鑿(ほり)ければ、石中(せきちう)より、油、滴出(わき〔いで)〕たり。豐然、誓(ちかひ)て曰〔いはく〕、「我、此地におゐて、大悲の像を安置して、もし、廣く利益(りやく)せば、願はくは、此油、ますます夛(おほ)からんものなり」といひおはると、則(すなはち)、油、涌(わき)いづる事、泉のごとし。豐然、大によろこび、十一面觀音を安ぜられける。其長(たけ)五尺の像なり。其後、延喜の帝(みかど)、その瑞應をきこしめされ、額を「華嚴寺」と賜ふ。其油、漸(やうや)く微(すこ)しきなれども、尊前(そんぜん)の常燈(じやうとう)を燈(とも)すほどは、今〔いま〕以〔もつて〕、あり。

[やぶちゃん注:現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびがわちょう)谷汲徳積(たにぐみとくづみ)にある天台宗谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)の縁起。(グーグル・マップ・データ)。公式サイトに、『寺の草創は桓武天皇』『の延暦』一七(七九八) 年で『開祖は豊然上人、本願は大口大領』。『奥州会津の出身の大領はつねづねより』、『十一面観世音の尊像を建立したいと強く願っており、奥州の文殊堂に参篭して一心に有縁の霊木が得られるようにと誓願を立て、七日間の苦行の末、満願(七日目)の明け方に十四』、『五の童子(文殊大士と呼ばれる)の御告げにより』、『霊木を手に入れる事が出来』、それ『を手に入れた大領は都に上り、やっとの思いで尊像を完成させ』、『京の都から観音像を奥州へ運んでいこうとすると、観音像は近くにあった藤蔓を切って御杖にして、御笠を被り、わらじを履いて自ら歩き出し』たが、『途中、美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)にさしかかった時、観音像は立ち止まり』、『「遠く奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」『と述べられ、奥州とは異なる北に向かって歩き出し』たという。『そうしてしばらくした後、谷汲の地に辿り着いた時、観音像は歩みを止め、突然重くなって一歩も動かなくなったので、大領はこの地こそが結縁の地だろうと思い、この山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊然上人という聖(ひじり)が』そこに『住んでいたので、大領は上人と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉』った。『すると』、『堂近くの岩穴より』、『油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、それより後は燈明に困ることが無かったとい』うと記す。ウィキの「華厳寺によれば、延暦二〇(八〇一)年には、『桓武天皇の勅願寺となり』、延喜一七(九一七)年には醍醐天皇(本文の「延喜の帝」)が、『「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜』され、天慶七(九四四)年には、『朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、仏具・福田として一万五千石を与えたという。「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する』とあり、朝廷の深い信仰のあった寺であることが判る。また、『本堂本尊の十一面観音立像は、厳重な秘仏で、写真も公表されておらず、制作年代、構造等の詳細は不明である』が、『一木造、像高』二メートル十五センチメートル七ミリメートルで、『衣文や目鼻立ちのなど彫り方が荒々しいが、作風は古風で、平安』前期、九~十世紀に『さかのぼる作と推定され』ているとある。断層帯の石油層か? 現在は湧出していない模様である。]

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