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2018/07/08

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(43) 大乘佛教(Ⅱ)

 

 さて此處で、これ等教義の、近世思想との關係に就いて、これを筒單に考察することは、無益な事ではあるまい、――先づ最初の一元論から始めよう、――

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 形若しくは名を有りて居る一切のものは、――佛、神、人間、及びあらゆる創造物――太陽、世界、月、一切の目に映ずる宇宙――これ等は皆、變轉常なき現象である……。ハアバアト・スペンサアの説に從つて、實體の證左となるものは、其の永久性にあるとすれば、何人もかくの如き考へ方を怪しむものはなからう、此の考へ方は、スペンサアの『第一原理』の結論たる其の最後の章の敍述と殆ど同じである――

 『主觀と客觀の關係が、吾人に、精神と物質との相對的概念を、必要と感ぜしむるとは云へ、前者(精神)も後者(物質)も共に、兩者の土臺に橫たはる未知の實體の標章に過ぎない』――一八九四年版

[やぶちゃん注:ハーバート・スペンサーの全十巻から成る「総合哲学体系」(System of Synthetic Philosophy)の第一巻の「第一原理」(First Principles)。初版は一八六二年刊。引用部“Though the relation of subject and object renders necessary to us these antithetical conceptions of Spirit and Matter; the one is no less than the other to be regarded as but a sign of the Unknown Reality which underlies both.”はまさに「第一原理」の最終章「第二十四章 概括と結論」(CHAPTER XXIV.: SUMMARY AND CONCLUSION.)の擱筆である(正確には文頭は“He will see that”で始まり、though 以下に続く)。]

 

 佛教に於て、唯二の實體は、絶對と云ふものである、――佛陀を、自由自在無限の存在として。物質に關しても、將又精神に關しても、佛陀以外に眞の存在はない、眞の個性もなければ、眞の人格性もないのである、『我』と云ふ名『非我』と云ふも、本質的には決して異つたものではない。吾々は、つぎの如き、スペンサア氏の立脚地を想起する。卽ち『吾人に示されてある實體が、主觀的なりと云ひ、或は客觀的なりと云ふも、それは決して異るものではなく、二者同一である』と。スペソサア氏はなほ續けて云ふ、主觀と客觀とに、必然的に意識に依つて左樣考へられるものではあるが、實際に存在するものとしては、兩者の共働に依つて生ずる意識の中にはあり得ない、主觀と客觀との對立は、意識が存在する限り、決して存在を超越し得るものではなく、主觀と客觀とが結合されて居る其の究極の實體に就いての知識を不可能ならしめる』と……。私は、大乘佛教の大家と雖も、スペンサア氏の此の實體變形説の狭義を論難する人はなからうと思ふ。佛教も、現象としての現象の現實性を否定するものではないが、現象の恆久性及び現象が吾々の不完全なる感覺に訴へる假象の眞實性に對してはこれを否定する。變轉常なく、見えるが儘でないのであるから、現象は幻影の性質を備へて居るものとして考へらる可きである――唯一の恆久性ある實體の不恆久的なる表象として考へらる可きである。併し佛教の立脚地は、不可知論ではない、それは驚くべき程それとは異つて居るものである、今玆にそれを攷へて[やぶちゃん注:「かんがへて」。]見ようと思ふ。スペンサア氏は、意識が存在する限り、吾人は實體を知ることが能きない[やぶちゃん注:「できない」。]と云ふ――其の所以は、意識の在る限り、吾人は客觀と主觀との對立を超えることは能きない、而して意識を可能ならしむるものは、實に此の對立であるからである。これに應ヘて『如何にもそれは、その通りだ。吾々は、意識が存在する限り、唯一の實體を知ることは能きない。併し、意識を破棄せよ。然らば、實體を認識するに至らむ。精神の幻影を棄てよ、然らば光明は射し來たらむ』と佛教の哲學者は言ふであらう。此の意識の破棄が、涅槃の意である、――それは吾々が自我と呼ぶ所のものを、盡〻く亡くしてしまふ[やぶちゃん注:「ことごとくなくしてしまふ」。]ことである。自我は盲目である、自我を亡ぼせ、然らば、實體は無限の幻像、無限の平和として、示現せられるであらう。

 さて。佛法の哲學に從ふと、現象としての目に見える宇宙とは何であるか、又知覺する所の意識の本性は何であるかを、尋ねて見なければならない。變轉無常とは云へ、現象は意識の上に印象を具へる、又意識それ自身も、たとへ變轉無常とは言へ、存在をもつて居り、其の知覺たるや、よし欺くものであろとしても、現實の關係に就いての知覺である。玆に佛教は、宇宙も意識も二つながらに、業――遠い遠い過去からの行爲と考へとに依つて、形成せられた狀態の、計量すべからざる複合物――の單なる綜合に過ぎないと答へる。一切の本質、一切の有限の精神(絶對の精神から區別されたる)は行爲と考へとの産物である、行爲と考へとに依つて、身體の微分子は構成せられる、而して其の微分子の親知力――科學者に云はせれば、其の微分子の兩極性――は無數の死滅せる生命の内に、その形を成したる諸〻の傾向を示してゐる。私は、その問題を取扱つた近代日本の論文を、次に掲げる事にしよう。--

 

  

 「あらゆる有情物の集合的動作は、山や河や國等の種別を生ぜしめた。これ等は、集合的動作に依つて生じたのであるが故に、綜合成果と呼ばれる。吾人の現在の生は、過去の行動の反映である。人々は、これ等の反映を、眞の自我と觀じてゐる。彼等の眼、鼻、耳、舌、身體は――彼等の庭園、樹木、田畠、住居、下僕、下婢と共に――自己の所有物であると、人々は思つてゐる、然るに、事實それ等は、無數の行爲に依り、無限に産出された成果に過ぎぬ。萬物を、其の究極の過去にかのぼつて、尋ねて見るとも、吾々は其の始源を見極めることはできない、故に死と生とに始めなしと云はれてゐる。また、未末の究極の涯を尋ねるとも、吾人は遂に其の終端を見る事はできない』

 

    註 黑田著『マハアヤアナ哲學概論』

[やぶちゃん注:原文はOutline of the Mabâyâna Philossophy, by S.Kuroda.で、英文のそれで検索しても、平井呈一氏の「マハーヤーナ哲学概論」という訳でも探して見たが、影も形も出てない。作者も判らぬし、出版年も不明。お手上げ。識者の御教授を乞う。【2018年7月19日:追記】何時も種々私の電子テクスト注の疑問や誤謬について情報や補正指摘を頂戴しているT氏より、以上についての情報を戴いた。それによれば、

小泉八雲の記したOutline of the Mabâyâna Philossophy.は少し不正確で、Outlines of The Mabâyâna as Taught by Buddhaが正しいこと。

当該の文章は浄土宗の僧で仏教学者であった黒田真洞(くろだしんとう 安政二(一八五五)年~大正五(一九一六)年)が明治二六(一八九三)年九月に「シカゴ万国博覧会」の一部として開かれた「万国宗教会議」で配布したものであること。

また、

英文の同書OUTLINES OF THE MABÂYÂNA AS TAUGHT BY BUDDHA“Internet Archive”公開こと。

ことを御教授戴いた。

 Outlines of The Mabâyâna as Taught by Buddhaは「釈迦によって思念されたマーハヤーナ(大乗仏教)の概要」となる。

 この著者黒田真洞は江戸日本橋生まれで、安政六(一八五九)年、四歳で江戸・芝の増上寺に入って出家剃髪し、同寺の石井大宣らに師事した。後、京都に遊学、智積院の弘現や三井寺の敬徳、和田智満・福田行誡といった高僧たちのもとで学んだ。明治一七(一八八四)年、増上寺に戻って、学頭となり、明治二十年には浄土宗学本校の創設とともにその初代校長に任ぜられた。明治三〇(一八九七)年には宗務執綱に就任し、宗憲の制定や全国を八つの教区に分けるなど、浄土宗内の改革・刷新を断行した。その後、伝道講習院長や浄土宗大学学長などを歴任し、明治四十年からは宗教大学(現在の大正大学)学長を務めた。著書に「大乗仏教大意」「法相伊呂波目録」「浄土宗綱要」などがある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

 因みに、T氏はさらに、以上の情報は、

駒澤大学院人文科学研究科仏教学専攻のステファン・P・グレイス氏の博士論文「鈴木大拙の研究 現代「日本 」仏教の自己認識とその「西洋 」に対する表現PDF)に基づいた。

とされる(その三十二ページ末から。なお、そこには、大拙の事実上の処女作というべき明治四〇(一九〇七)年のOutlines of Mahayāna Buddhism(「大乗仏教概論」)が『内容、構成、文体、さらにはレイアウトにいたるまで、非常に多くの共通点をもつ。両書があまりにもよく似ているので、大拙の『大乗仏教概論』が、黒田の『大乗仏教大意』[やぶちゃん注:Outlines of The Mabâyâna as Taught by Buddhaのこと。]に』、少し許り『変更を加えた「改訂増補版」のように見えるといっても決して過言でないほどである』という、非常に興味深いことが記されてあるので、必読である)。

 加えてT氏は、

Outlines of The Mahāyāna as Taught by Buddhaの元版(日本語)は、黒田真洞「大乗仏教大意」国立国会図書館デジタルコレクションの画像明治二六一八九三)仏教学会刊・四十ページ)全文

と、メールの最後に添えて下さった。まことに痒いところに手が届いた御教授、恐縮の極みで、感謝に堪えない。ここに再度、T氏に御礼申し上げるものである。

 因みに、小泉八雲原文引用箇所(同じく“Internet Archive”236237ページ)と比較してみると、同書の、

Chapter. Actions and Results, Causes And Effects. (上記日本語版では「第四 業報因果)10-11ページの内容を本文に即しつつ、英語圏一般読者向けに操作している

 

ことが判った。]

 

 萬物は業に依つて造られると云ふこの教へは――美なるものはすべて功績高き行爲若しくは考への結果を表現し、惡なるものはすべて惡行若しくは惡念の結果を表現する――五大宗派の承認する所となつた、されば吾々は日本佛教の主要なる教義として、これを容認して然るべきであらう……。卽ち宇宙は業の集合體である、人の心も業の集介體である、その始めは不可知であり、終りも亦想像することの出來ないものである。玆に涅槃を其の歸着點とする精神上の進化があるのであるが、吾々は實質と精神との形成が永久に休止するといふ、普通の安息の究極狀態に關しては、何等明言する處を聞かない……。而して綜合哲學(スペンサアの)は、現象の進化に關して、これと極めて類似した立脚地を採つて居る、卽ち進化には始まりなく、認知し得べき終極もない。私は『北米評論』に現はれた位置批評家に與へたスペンサア氏の答辯を引用する。――

 

   

 『論者の言ふ、かの「地上に於ける有機的生活の絶對始源」を、余は「容認せざるを得ず」との意見を、余は明確に否認す。宇宙の進化を肯定する事は、それ自體が、萬物の絶對始源を否定する事となるのである。進化と云ふ言葉を以て解説すれば、萬物は、先在する物の上に、不知不識の間に一段一段と積み重ねられた修正の結果であると考へられる。此の考へ方は、有機的生活のつぎつぎの發展に關して、と同樣に又假設の「有機的生活の始源」に關しでも、全く適用されるものである……有機的物質は、一朝にして造り出されたものではなくて、段階を經て造られたものであるといふ。此の信念は、化學者の經驗に依つて、十分證されてゐる』

 

    註 『生物學原理』第一卷第四八二頁

[やぶちゃん注:「総合哲学体系」(System of Synthetic Philosophy)第二巻のPrinciples of Biology(一八六四年刊)。]

 

 勿詣、萬物の始源と其の終極とに關して、佛法が沈獸を守つて居るのは、單に現象の出現に限るのであつて、現象の一群の特殊な存在に就いてではないと云ふことは、了解して置かなければならない。始源と絡極との斷言出來ないといふ事はこれ卽ち永遠の變遷に過ぎない。その起原である古い印度哲學と同樣、佛教は宇宙の交互的顯出と消滅とを教へる。無量の或る時期に於て『十萬億土』の全宇宙が消えてしまふ――燒失するか或はその他の方法で破壞されて――しかしそれは又再び造りかへされるのである。これ等の時期を稱して『世界の周紀』といふ、そして各周紀は四つの『無邊』に分割されてゐる――併し、此處では此の教義の詳細に就いて述べる必要はない。實際興味のある處は、進化の律動を説くその根本的思想にあるのみである。宇宙の交互的分壞や囘復は、また科學的概念であり、進化論の信念から言つても、一般的に容認されたるその信條であるといふことは、讀者諸君に注意する迄もないことである。併しながら私は別の理由から、この問題に關するハアバアト・スペンサアの意見を表明する章句を、次に引用して見よう。――

 

   

 『吾人が既に説いた如く、明らかに索引[やぶちゃん注:原文は“forces of attraction and repulsion”であるから「牽引」(力)の誤植である。確信犯としても日本語では「牽引」が妥当である。平井呈一氏も『牽引』と訳している。注さないが、後の「索引」も同じ。]と反撥との遍在する共力が、宇宙を一貫して、一切の微紬な變化に律動を必要ならしめ、また變化の總和に對しても律動を必要ならしめる――かくの如き共力は、或る場合には索引力を優勢ならしめ、宇宙の集中を行ふ涯りなき[やぶちゃん注:「かぎりなき」。]一時期を現出し、さらに反撥力を優勢ならしめ、擴散を行ふ涯りなき一時期を現出する――かくて父互に進化と離散との時代を現出する。かくの如くして、現代に於て行はれつつあるが如き、繼續的進化の行はれたる過去の時代に關する概念が吾々に暗示されるのである、而してまた別の同樣な進化が行はれる未來の時代も亦附示される――原理に於ては常に同一なるも、具像的の結果[やぶちゃん注:原文“concrete result”。「具象的な結果」に同じい。]に於ては同一ならざるものである」――『第一原理』 一八三項[やぶちゃん注:「頁」の誤植である。]

三項

 

   註 此の項は第四版から引用したもので、

     一九〇〇年の決定版には著しく改訂

     されてある。

 

 更に、スペンサア氏は、此の假定に包含せられて居る論理的結果を指示してゐる。――

 

   

 『吾々は當然さう考へるべき理由があるが、若し萬物の總和には、進化と離散の交互作用があるとすれば――又吾々は力の永續性からさう推論せざるを得ないが、若し此の廣大なる律動の何れかの一端への到達が、其の反對の運動の發生するやうな狀態を惹き起すとすれば――さらに、若し吾々が涯りなき過去を掩ふであらう進化の概念、及び涯りなき未來を掩ふであらう進化を、容認するの已むなきに至るとすれば――吾々は、も早や明確な始點と終點とを持つやうな、或は孤立したやうな、認知し得る天地の創造を考へることはできない。さういふ天地は、現在の前後のすべての存在に歸一せしめられるやうになる、そして宇宙が示す力は、考への上に何等の制限をも認めない、時間と空間との同じ範疇に入つてしまふ』――『第一原理』第一九〇項[やぶちゃん注:「頁」の誤植。]

 

    註 一九〇〇根の決定版中には筒約され

      多少修正もされた、併し今の場合に

      於ける説明の便宜上、第四版を選ん

      だのである。

 

 以上述べた佛教の立脚地は、人間の意識は轉變無常の集合體に過ぎず――永久的實體ではない、と云ふ意味を十分に示してゐる。恆久の自我と云ふものはない、あらゆる生に通じて唯一つの永遠の原理があるのみである――最高の佛陀がそれである。近代の日本人は、此の絶對を、『精神の心髓』と呼んでゐる。近代の日本人なる一人は曰く、『火は薪に依つて燃え、薪の失せると共に消える。併し火の本質は破壞される事はない……宇宙に在る萬物は、すべて精神である』と。恁ういふと、この立場は非科學的である、併しかくして到達した結論に關しては、ワラス氏が殆ど同樣のことを言つてゐるし、又『心より成る宇宙』の教義を説く近代の牧師も二三に留まらない事を記憶しなければならない。此の假説は『考へ得べからざる』ものである。併し最も眞面目な思想家は、一切の現象と不可知(アンノアブル)[やぶちゃん注:“unknowable”。]のものとの關係は、波と海との關係に似て居ると云つた佛教の斷定に同意するであらう。スペンサア氏は云ふ、『あらゆる感情とか思想とか云ふものは、ほんの轉變無常のものであるから、かかる感情や思想で出來上つてゐる全生活も亦轉無常なものに過ぎない――否、縱令[やぶちゃん注:「たとひ」。]幾分は轉變無常でないとしても、生命が過ぎ通つて行くその周圍の物象は、晩かれ早かれそれそれの特性を失ひ行くものであるから――恆久なるものと云ふのは、變はり行く形相[やぶちゃん注:「けいさう」。]の一切の底にかくれて居る未知の實體を指すのであると云ふことが判かる』と。此處に於て、イギリスの哲學者と佛教哲學者とは相一致したわけであるが、其の後忽ちに兩者は相分離する。何となれば、佛教はノステイシズム(神祕可知哲學)[やぶちゃん注:“gnosticism”。]であつて、不可知論(アグノステイシズム)[やぶちゃん注:「アグノステイシズム」はルビ。“agnosticism”。]ではなく、不可知のものを知らんことを揚言するものであるからである。スペンサア學派の思想家は、唯一の實體の性質に關して假定を與へることをなし得ないし、且つ又其の表現の理由に關しても假定を與へないのである。スペンサア學派のものは、力、物質、及び運動の性質を理解する事に關し、知的無能力者であると云ふことを自ら白狀しなければならない。その學徒は、一切既知の要素は、一個の本源なる無差別的本體から展開されたものであると云ふ假説――この假説に就いては化學が有力に證據立ててゐる――を容認するのは理の當然であると考へる。併し彼は其の本源の實體を精神の實體とは決して同一視しないし、又精神の實體を完成するに與つて[やぶちゃん注:「あづかつて」。]力ある諸〻の力の性質を、説明しようともしない。吾々が物質を解するに、單にこれを諸ゞの力の集合であるとか、又は微分子では力の中心か、然らざれば力の結節であると解することを、スペンサア氏は既に承認して居るのであらうが、氏はまだ微分子が力の中心であつて、他の何物でもないと宣言した事はない……。併しドイツ統の進化論者に、佛教の立場に甚だ近い立場を取つて居るのを見る――則ちそれは宇宙の感性、もつと嚴密に云へば、宇宙のやがて發展すべき潛力的感性を意味するものである。 ヘッケル其の他のドイツの一元論者は、すべての實體に對してかくの如き立場をとつて居る。故に彼等は不可知論者ではなくて、ノステイツクである。そしてそのノステイツクの哲學たるや、大乘佛教に非常に近いものである。

[やぶちゃん注:「ワラス氏」“Mr. Wallace”。イギリスの博物学者でダーゥインと並ぶ進化論理論家アルフレッド・ラッセル・ウォーレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)。彼は斬新な新理論を提示しながら、一方で心霊主義に傾き、進化には「目に見えない宇宙の魂」が人干渉したと主張し、「宇宙の存在意義が人類の霊性の進歩である」と信じていた。進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマンを参照されたい。

「ヘッケル」生物学者で哲学者でもあったエルンスト・ハインリッヒ・フィリップ・アウグスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel 一八三四年~一九一九年)。私の敬愛する生物学者である。進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(3) 三 ハックスレーとヘッケルを参照されたい。]

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