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2018/07/31

諸國里人談卷之五 宗語狐

 

    ○宗語狐(そうごぎつね)

[やぶちゃん注:本条は特異的に非常に長いので、読み易さを考え、改行と行空けを加えた。本条の挿絵がここにある(①)。なお、吉川弘文館随筆大成版(平成七(一九九五)年五月発行新装版第一刷)は今までも素人の私が見ても、誤判読が多いが、ここもそれで、字を判読して起すのではなく、安易に前後の文脈から勝手に当てている箇所さえあった。「ルビ無しで、しかも、これか。杜撰な翻刻を読まされる読者はたまったもんじゃないな。」と、正直、大真面目に思った。『これでしかも、よくもまあ、偉そうに「日本複写センター委託出版物」とやらの注意書きを掲げられるもんだわい。』としみじみ感じた。そもそも平板な絵画作品などを平板にただ写しただけのものには著作権は生じないというのが文化庁の正式見解であるから、別に当該書の挿絵(かなり綺麗である)をトリミングして貼り付けても問題ないのだが(これについては私は裁判してもよいとさえ思っている)、私は今回、敢えて早稲田大学古典総合データベースのそれにリンクさせた。だからこの義憤はどこかで言おうと思っていた。悪しからず。

 

京都八十村路通(やそむらろつう)は、芭蕉門人、秀才の俳士也。常に稻荷を信じ、毎月、深草の社(やしろ)に詣でける。

玆(こゝ)に八旬(はちじゆん)に餘る僧の、これも折々參詣せしが、面(おも)を合(あわ[やぶちゃん注:ママ。])する事、たびたび也。

或時、奥院(おくのゐん)へ登りけるに、かの僧に行合(ゆきあひ)たり。路通曰く、

「當社におゐて老僧を見る事、數(かず)あり。定(さだめ)て此御神(みかみ)、御信仰の人にてこそあらめ。」

と訪(と)ひよりけるに、其翁も、

「左にこそ。」

と語り合ふに、飯生三山(いなりさんざん)の事ども、委(くわし[やぶちゃん注:ママ。])く教へられける。

それより親しくなりて、路通庵へも、折々、訪ひ來れり。

終に其住所をかたらず。

名は宗語といへり。

 

路通隱士は記錄者にて、古代の事を委〔くは〕しうす。宗語老人に事を問ふに、五百年來の事は今見るがごとくにすゞしく、六、七百年の事は少(すこし)明かならぬ事もありとかや。

是によつて、路通、益々記錄の事を得たり。

睦びあふ事、三とせを經たり。

 

于ㇾ時(ときに)、宗語の曰く、

「吾、關東に赴く事あり。年來(ねんらい)の餘波(なごり)は、明日、勢夛(せた)のこなた[やぶちゃん注:①には「こなた」無し。]にて別れを留(とゞ)むべし。其所にて互に待合(まちあわ[やぶちゃん注:ママ。])すべし。」

と約しぬ。

明(あけ)の日、約(やく)の刻限よりは[やぶちゃん注:③は「は」無し。]はやく、路通は勢多に行〔ゆき〕て茶店(さてん)に待(まち)けり。

また向〔むかひ〕なる茶店(ちやや[やぶちゃん注:先の読みとの違いは①も③もママ。])も一人の隱士、これも、人を待つ風情なり。ほどなく、宗語老人、旅すがたにて來〔きた〕るに、左右より、兩隱士、出むかひ、

「はやくも來り給ひぬ。」

と、三人、打〔うち〕つれ、一間(ひとま)にして餘波(なごり)の酒を汲(くみ)ける。

時に宗語の曰く、

「年來、兩士の親しみ、わすれがたし。此たび、關東に赴く。老衰たれば、歸京のほどもはかりがたし。今まではつゝみぬれども、早や隱すべきにあらず。吾、元來、人間にあらず、狐なり。年ごろ、稻荷の仕者司(しやつかさ)をつとめ、今年、仕(つか)へを辭したり。我(わが)古鄕(ふるさと)は江州彦根、馬渕何某(まぶちなにがし)が屋敷に住(ぢう)しぬ。かれこそ我〔わが〕事をよくも知れり。」

など物がたりして、立別(たちわか)れけり。

兩士は、たゞあきれたるばかりにて、しばらく、言葉もなかりき。

 

而後〔しかしてのち〕、兩士、語(かたり)あふに、一人の隱士も、路通のしだいに、ことたがはざりける也。かくて兩士、

「すぐに彦根に立越(たちこへ[やぶちゃん注:ママ。])て、今の事をも知らせ、また其やうすをも聞(きく)べし。」

と、それよりすぐに彦根に赴きぬ。

 

馬渕は、田地あまた持〔もち〕たる百姓なりける。

彼(かの)所に至り、京都宗語老僧の言葉によりて尋來(たづねきた)るよし、案内(あない)すれば、亭主、肌足(はだし)にて出〔いで〕むかひ、居士衣(こじゑ[やぶちゃん注:ママ。])の袖をとつて一間〔ひとま〕に請(しやう)じ、

「老僧よりの御使〔みつかひ〕とあれば、さだめて眷属(けんぞく)にておはしますらん。」

と、火を改めて、せちにもてなしける。

兩士、

「われわれ、さやうの事にあらず。」

と、京都にてのしだひ[やぶちゃん注:ママ。]、勢夛(せた)のありさま、くはしくかたるに、主(あるじ)、大きに、これを感ず。

「四とせ以前、上京あるよしにて、その後、安否しれざるに、かく、たしかの便(たよ)りをきゝつるものかな。」

と、よろこびあへり。

よつて三日、爰(こゝ)に足をとゞむ。

 

于ㇾ時(ときに)、主、語つて曰〔いはく〕、

「一子、十二歳の時、いづちへ行〔ゆき〕けるか、その行衞、しれず。親族こぞつて尋ぬれども求め得ず。父母、ふかく悲歎しける。しかるに、百五十日を經て、健(すこやか)にして歸る。人々、驚き、事を問ふに、

『宗語老僧に誘引(いざなはれ)て、普(あまね)く、諸國の神社佛閣・名所旧跡を見𢌞りたり。則〔すなはち〕、老僧、あれにおはするなり。むかへ給へ。』

といふに、一人の老僧、竹笠〔たけがさ〕[やぶちゃん注:竹を網代(あじろ)に編んで作った被り笠。]を持〔もち〕て彳(たゝずみ)たりしを、請じ入れける。老僧にむかひて云〔いはく〕、

『いかなれば我子を迷し給ふ。』

答(こたへ)て曰、

『吾は、人間にあらず、當(とう)境地(きやうち)の稻荷の社(やしろ)に住む狐也。當年、京都本山の仕者司(ししやつかさ)の番にあたれり。旧地を離(はなれ)るの名殘(なごり)、且は數(す)百年來住所の恩を謝せんがため、今、一子を伴ひ、國々を見せ、その餘力(よりよく)に文(ぶん)を学ばせ、筆跡(ひつせき)を教(おし)ゆ。近々〔ちかぢか〕上京すれば、一生の別れなり。其方一族誰かれ、男女五十餘人、來〔きた〕何日の夜、饗應すべし。暮〔くれ〕ちかきに、皆、此所に集むべし。その時、地内のやしろの前にあかしを立〔たて〕ん。その光りについて來るべし。』

と約して去りぬ。いぶかしながら、其期(そのご)を待つに、件(くだん)のあかし、見えければ、教(おしへ)にしたがひ、十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]あまりも行きたりとおもふに、寺にひとしき菴室(あんしつ)あり。かの老僧、出〔いで〕むかひ、

『約に違はず、よくぞ來られし。』

と斜(なゝめ)ならず喜び、各(おのおの)座鋪(ざしき)に請じける。臺所には數十人、料理・獻立の事ありて、ほどなく膳を持てり。給仕の小姓(こしやう)はなれなれしく、珍饌(ちんせん)美食、數を盡せり。

『吾、魚物(ぎよもつ)を忌めば、饗應、心にまかせず、麁末(そまつ)なれども、ゆるやかにきこしめされよかし。』

となり。于ㇾ時(ときに)、主(あるじ)[やぶちゃん注:沾涼は破綻を生じさせてしまっている。ここは主人馬渕の直接話法であるから、「我・吾」でなくてはおかしい。]、問(とう[やぶちゃん注:ママ。])て云〔いはく〕、

『老僧、尤〔もつとも〕、凡人(ぼんにん)ならねば、神通(じんづう)を以て塩噌(ゑんそ[やぶちゃん注:ママ。])を貯へ給ふ事、自由ならん。他(た)を貪(むさぼ)り掠(かす)めて、此美食を給ふは不快の事にこそあれ。』

答(こたへ)て云〔いはく〕、

『全く人の物を掠取(かすめとる)にあらず。吾に、金銀の貯(たくはへ)、多(おほく)あり。』

と也。

『其金銀も、また、妙術(みやうじゆつ)を以てなるべし。』

『あら、むづかし。申さぬ事ながら、其根〔ね〕を解(とか)ずんば、疑ひ、はれまじ。吾、眷属族、一千余あり。かれら、市中に出〔いで〕て、賣藥す。その餘慶利分(よけいりぶん)、みな、拙僧にとゞまる。今宵の家具、其外の器物(きぶつ)、右の價(あたひ)を以てとゝのへたり。元より、是、我にあつて益(たつき)なし。追(おつ)て、送るべし。』

となり。

深更に及んで、また以前のごとく、火の光りを先に立〔たて〕て、社(やしろ)の前に歸りたり。

二三日過(すぎ)て、右の器材(きざい)、夜のうちに社の前に積置(つみおき)たりける。」

となり。

 

路通の直談(ぢきだん)、その詞(ことば)を、その儘(まゝ)にあらはし侍る。

 

[やぶちゃん注:「八十村路通(やそむらろつう)」(慶安二(一六四九)年頃~元文三(一七三八)年頃)は近江蕉門の俳人。齋部(いんべ)路通とも、また、「乞食路通」の蔑称でも知られる。ウィキの「八十村路通」によれば、建部綾足の「蕉門頭陀物語」(寛延四(一七五一刊。古くよりお世話になっている電子テクスト・サイト「Taiju's Notebook」のこちらで原文が読める)に『よれば、芭蕉が草津・守山の辺で出会った乞食が路通である。乞食が和歌を』た『しなむとの話に、芭蕉が一首を求めた。すると、「露と見る浮世の旅のままならばいづこも草の枕ならまし」と『乞食が詠んだ』ので、『芭蕉は大変感心し、俳諧の道を誘い』、『師弟の契りを結び、路通(又は露通)の号を乞食に与えた』。『路通の出自については』「猿蓑逆志抄」(樨柯(さいか)坊空然の手になる「猿蓑」の評釈書)に於いて、『「濃州の産で八十村(やそむら、又ははそむら)氏」、また』「俳道系譜」でも、『「路通、八十村氏、俗称與次衛門、美濃人、大阪に住む」と記されている。また』、「芭蕉句選拾遺」にでは、『路通自ら「忌部(いんべ)伊紀子」』、「海音集」では『「斎部(いんべ)老禿路通」と記している』。『出生地についても、「美濃」から「大阪」、「京」、「筑紫」、「近江大津の人で三井寺に生まれる」と様々な説がある。森川許六の「風俗文選」の「作者列伝」に『記されている通り』、『「路通はもと何れの所の人なるか知らず」』であり、『路通は漂泊者であり、近江の草津・守山辺りで芭蕉と出会ったと多くの書が示めしていることだけが事実と確認できる』とする。『路通は芭蕉との出会いの後』、『江戸深川の採荼庵に芭蕉を訪ねたとされ』、各務支考の「笈日記」によれば元禄元(一六八八)年九月十日、『江戸素堂亭で催された「残菊の宴」、それに続く「十三夜」に宝井其角・服部嵐雪・越智越人等と共に参加していることが、路通が記録された最初の資料とされる。また、句が初めて見えるのは』、元禄二(一六八九)年の「廣野」からであり、翌元禄三年の「いつを昔」にも『句が載っている』とある。元禄二年三月二十七日(グレゴリオ暦一六八九年五月十六日)『芭蕉が河合曾良を伴い』、『「奥の細道」の旅に出ると、路通も漂泊の旅に出』、『近江湖南周辺を彷徨い、越前敦賀に旅より戻った芭蕉を迎え、大垣まで同道したとされる』。『芭蕉が故郷伊賀に帰ると、路通は住吉神社に千句奉納を行い』、『近畿周辺を彷徨った後』、元禄三(一六九〇)年には、『大津に出てきた芭蕉の下で濱田洒堂との唱和を行った』。『その直後、師の辿った細道を自ら踏むため旅立ち、出羽等に足跡を残し、同年』十一月に『江戸に戻ると』、『俳諧勧進を思い立ち』、翌元禄四年五月に「勧進帳」の初巻を『刊行した(初巻のみで終わる)』。「勧進帳」の『内容は選集として一流と言え、同じ』元禄四年の「百人一句」に『江戸にて一家を成せる者として』、『季吟・其角・嵐雪等と共に路通の名があり、俳壇的地位は相応に認められていた』。ただ、「勧進帳」に『おいて「一日曲翠を訪い、役に立たぬことども言いあがりて心細く成行きしに」と言い』、また、元禄四年七月に刊行された「猿蓑」において「いねいねと人に言はれつ年の暮」と『詠むなど、蕉門において疎まれていたことが伺える』。「勧進帳」出版の『前からその年の秋にかけ、路通は芭蕉と京・近江を行き来し』、『寝食を共にしていたところ、向井去来の』「旅寝論」によれば、『「猿蓑撰の頃、越人はじめ諸門人路通が行跡を憎みて、しきりに路通を忌む」、越人は「思うに路通に悪名つけたるは却って貴房(支考)と許六なるべし」と語って』おり、許六は「本朝列伝」に『おいて、路通のことを「その性軽薄不実にして師の命に長く違う」と記している』。元禄六年二月の『芭蕉から曲翠宛の手紙において、路通が還俗したことが記され』、『「以前より見え来ることなれば驚くにたらず」と述べ』、また、「歴代滑稽傳」では『勘当の門人の一人として路通が記されるに到っている。その後、路通は悔い改めるべく』、『三井寺に篭もったとされる』(私の知っている話では、ある時、路通のいる席で紛失があり、それが彼の仕業とされたかと記憶する)。元禄七年十月十二日(一六九四年一一月二十八日)の『芭蕉の臨終に際して、芭蕉は去来に向かい』、『「自分亡き後は彼(路通)を見捨てず、風雅の交わりをせらるるよう、このこと頼み置く」と申し添え』、『破門を解いた』とする。『芭蕉死後、路通は俳諧勧進として加賀方面に旅に出』、また、「芭蕉翁行状記」を撰び。『師の一代記と』十七日以降、七十七日までの『追善句を収め』、元禄八年に出版している。元禄一二(一六九九)年)より『数年、岩城にて内藤露沾の下にて俳諧を行い』、宝永元(一七〇四)年の冬には『京・近江に戻り、晩年享保末年頃大阪に住んでいたと伝えられる』。『路通の死亡日時は元文三年七月十四日(一七三八年八月二十八日)と『言う説があるが、定かではない』。蕉門で私の好きな俳人の一人である。好きな句を掲げておく。

 肌のよき石にねむらん花の山

 火桶抱てをとがい臍(ホゾ)をかくしける

 いねいねと人にいはれつ年の暮

 ぼのくぼに厂(かり)落かゝる霜夜かな

「深草の社(やしろ)」現在の京都府京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社のこと。

「八旬(はちじゆん)に餘る」八十歳を優に超えた。

「奥院(おくのゐん)」伏見稲荷大社奥宮(奥社)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「飯生三山(いなりさんざん)」次の「稻荷仕者」(本篇の続篇的内容)に『飯生山(いなりやま)といふは、器(うつは)に飯(いゝ[やぶちゃん注:ママ。])を生(もり)たるやうの山、三ツあり、よつて「飯生三山(いなりさんざん)」と称すと也』と説明されているから、稲荷を祀った三つの山の社ではなく、稲荷に供える供物のこと及びその由来といったことを指すのであろう。

「隱士」「いんじ」とも読む。隠者。俗世を離れて静かな生活をしている人。

「すゞしく」記憶に曇りが全くなく、はっきりしていることを言っている。

「勢夛(せた)のこなた」当時、東海道が通った、瀬田川掛かる唯一の橋であった、滋賀県大津市瀬田にある「勢多の唐橋」(ここ(グーグル・マップ・データ))のこちら側(右岸・西詰)。「こなた」はあった方がよりリアルでよい

「はやくも來り給ひぬ」宗語の台詞。

「仕者司(しやつかさ)」「仕者」は「仕える者」の意であるが、特に神仏に仕える神官や僧侶及びそれらの使者とされる鳥獣を指し、ここはその後者の元締め、統率官の意。

「居士衣(こじゑ)」隠者や僧侶などが着る衣服の名。居士衣(こじごろも)とも呼ぶ。

「火を改めて」ちゃんとした灯明を新たに点したのである。彼ら二人を宗語の仲間の稲荷神の使者であるお狐さまと誤認し、御神灯のつもりとして畏まって点したのである。

「せちに」頻りに。大切に。

「しだひ」「次第」。

「上京」言わずもがなであるが、ここは京都へのぼることである。

「當(とう)境地(きやうち)」馬渕の所有地であることを言っている。

「京都本山」伏見稲荷。

「住所」「じゆうしよ」でも別に構わぬが、私は「すみどころ」と訓じておく。

「文(ぶん)」文字。

「筆跡(ひつせき)」書道。

「魚物(ぎよもつ)」神の使者であるから、腥さ物はものは禁忌。神仏集合による仏教の殺生禁忌由来。

「塩噌(ゑんそ)」塩と味噌が原義であるが、そこから「日常の食物」の意。「塩酢(えんそ)」とも書く。

「妙術(みやうじゆつ)」妖術。

「あら、むづかし」「ああっ! 何と面倒なことをおっしゃられるか。」。

「申さぬ事ながら」「説明申し上げるつもりはないことながら」。

「其根〔ね〕」その強い猜疑の根っこの部分。

「餘慶利分(よけいりぶん)」神の御加護によって得られた売上金の内の純益の分。

「拙僧にとゞまる」「監督である私の管理費用として貯えられるのです。」。

「元より、是、我にあつて益(たつき)なし」ここは「たつき」(仕事や生計)の意味ではなく、「元より、伏見稲荷の使者として赴任する私にとっては利益から生ずる物に対する欲は全く御座らぬ。」と言っているのではないか? だから「右の價(あたひ)を以てとゝのへ」た「今宵の家具、其外の器物(きぶつ)」等は、私には不要なものであるからして、「追(おつ)て」あなた方に永年の感謝のしるしとしてこれらも総て「送るべし」、と言っているのであろう。

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