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2018/07/10

諸國里人談卷之三 嗟跎龍燈

 

    ○嗟跎龍燈(さだのりうとう)

土佐國幡多郡(はたこほり)嗟跎岬(さだのみさき)【高知より西三十里。】嗟跎(あしずりの)明神に「天燈龍燈」あり。天に、ひとつの火、見ゆれば、同時に海中より、龍燈、現ずる也。當所に七不思議あり。〇一「天燈龍燈」。 ○「潮石(うしほいし)」 凹(なかくぼ)の石也。滿潮の時は、水、湛(たゝへ)、干泻(ひがた)の節は、水、なし。○「龍馬(りうめ)」 丑の時に、龍馬、來つて、小笹(おざゝ)をくらふ。此所の笹、のこらず、馬の喰(くひ)たるがごとし。○「震石(ゆるぎいし)」 方六尺、高〔たかさ〕四尺の石あり。そのうへに、一尺ばかりの石、有〔あり〕。六尺の石をゆすれば、上の小石、動出(うごき〔いだ)〕す。○「金石(きんせき)」 扣(たゝ)きて、鳴る音、金(かね)のごとし。○「每日雨(ひごとのあめ)」 每日、午の剋に雨降る事、今、以〔もつて〕、違(たが)はず。○「不增不滅水(ふぞうふめつのみづ)」 霖雨(ながあめ)に增さず、旱天(ひでり)に減らず。

昔、忠義(ちうぎ)上人、此所に住居し、後に普陀洛山(ふだらくさん)にわたる。時の人、名殘をおしみて、嗟跎(あしずり)をして涕悲(なきかな)しむ。それより「嗟跎寺(さたじ)」といふ。また、飼(かひ)たる犬、かなしみ死して、石となる。「犬石」とて、今にあり。土佐守忠義(たゞよし)は忠義上人の再誕といふ。諱(いみな)も判(はん)も相同(あひおな)じと云〔いへ〕り。普陀洛山は中華浙江省の嶋にて寧波府(ねいはふ)の内なり。また、梅岑山(ばいきんさん)とも云〔いひ〕、觀音の淨土也。日本の僧慧蕚(ゑがく)と云〔いふ〕人、此所を開基す。此島、今、以、出家のみ住す。九州より二百五十里あり。

[やぶちゃん注:「嗟跎岬(さだのみさき)」は現在の高知県土佐清水市にある足摺岬の古称。ここ(グーグル・マップ・データ)。中世には南方にある補陀洛(ふだらく)浄土(「補陀落」は梵語「ポタラカ」の漢音写。観音菩薩が降臨するとされた伝説上の山で、インドの南端の海岸にあるとされた)へ渡る、「補陀洛信仰」の「補陀落渡海」の有名な出航地の一つ(他に那智勝浦・室戸岬・那珂湊など)であった。四国最西端の愛媛県佐田岬(さだみさき)とは別なので注意されたい。「嗟跎」は「蹉」も「跎」も孰れも「躓(つまず)く」の意で、ぐずぐずして空しく時を失うことを言うが、ここでは「嘆いて地団駄(じだんだ)を踏むこと」の意で用いている。この「あしずり」という地名の由来譚は中世の後深草院二条の日記「とはずがたり」の巻五に出る以下の話(伝承譚紹介形式)が最も古いものの一つであるようだ。補陀落渡海説話を素材としているので、掲げておく。一九六八年岩波文庫刊を参考に、恣意的に漢字を正字化し、改行や句読点・記号を追加して示す。

   *

 これには幾程の逗留もなくて、上り侍りし。船の中に、よしある女あり。

「われは備後國和知といふ所の者にて侍る。宿願によりて、これへまゐりて候ひつる。すまひも御覽ぜよかし。」

など誘へども、

「土佐の嗟跎(あしずり)の岬と申す所がゆかしくて侍るときに、それへまゐるなり。かへさにたづね申さむ。」

と契りぬ。

 かの岬には、堂一つあり。本尊は觀音におはします。へだてもなく、また坊主もなし。ただ、修行者、行きかかる人のみ集まりて、上もなく、下もなし。

「いかなるやうぞ。」

といへば……

……昔、一人の僧、ありき。この所に、おこひて、ゐたりき。小法師一人、使ひき。かの小法師、慈悲をさきとする心ざしありけるに、いづくよりといふこともなきに、小法師一人、來て、時(とき)・非時(ひじ)を食ふ。小法師、必ずわがぶんをわけてくはす。坊主いさめていはく、

「一度二度にあらず。さのみ、かくすべからず。」

と言ふ。

 又、あしたの刻限に來たり。

「心ざしはかく思へども、坊主、叱り給ふ。これより後は、なおはしそ。今ばかりぞよ。」

とて、また分けてくはす。

 いまの小法師、いはく、

「此のほどのなさけ、忘れがたし。さらば、我がすみかへ、いざ、給へ。見に。」

と言ふ。

 小法師、語らはれて行く。

 坊主、あやしくて、忍びて見送るに、岬に至りぬ。

 一葉の舟に棹さして、南を指してゆく。

 坊主、泣く泣く、

「われをすてて、いづくへゆくぞ。」

といふ。

 小法師、

「補陀落世界へまかりぬ。」

と答ふ。

 見れば、二人の菩薩になりて、舟の艦舳(ともへ)に立ちたり。

 心憂く悲しくて、なくなくあしずりをしたりけるより、「あしずりのみさき」といふなり。

 岩に足跡とどまるといへども、坊主はむなしく歸りぬ。

 それより、

「へだつる心あるによりてこそ、かかるうきことあれ。」

とて、かやうにすまひたり、といふ。

 三十三身の垂戒化現(すゐかいけげん)、これにやと、いとたのもし。

   *

「七不思議」カッチンカチャリコズンバラリン氏のブログ「怪道をゆく(仮)」の番外編 四国のミチ 足摺の七不思議(上)本「諸國里人談」(寛保三(一七四三)年刊)より古い、長曾我部元親の一代記「土佐物語」「正徳三(一七一三)頃?)の中に出ることが判った。そこに『「惣じて此山に、七不思議あり」とあるのが』、『足摺の七不思議の初出』の『比較的早いものになる』かとされ(一部に手を加えさせて貰った)、

①「龍石」本堂の前にあり、毎夜、竜の灯がこの石の上にきて仏前を照らす。

②「夜のさヽ湖」毎夜、丑の時に本堂の庭に潮がさし、階段を浸す。

③「竜の駒の笹」夜な夜な、竜がきて、笹を食べる。歯跡があり、馬の病を治すという。

④「午時の雨」毎日午の時になると、必ず雨が降る。

⑤「潮のまこしの石」石の上の水が潮の満ち干きにあわせて増えたり減ったりする。

⑥「不増不減の水」石の上の水が雨でも日照でも増減しない。

⑦「ゆるぎの石」罪のないものが押せば動くが、罪のあるものが押そうとしても、びくともしない。

を列挙してある。これは貴重な資料としてまず念頭に置こう。特に③は他に見られない特異点である。さて、それでは現代の記載を検証してみよう。まず、サイト「あしずり温泉郷」のこちらによれば、『足摺七不思議は』七『つだけではなく、実際には二十一もあるといわれて』おり、『弘法大師や金剛福寺にまつわる不思議が多いのが足摺七不思議ならではであ』るとし、「地獄の穴」・「大師の爪書き石」・「亀呼び場」・「一夜建立ならずの華表(とりい)」・「寝笹」・「汐の満干手水鉢」・「亀石」・「ゆるぎ石」の他、「竜の駒」・「行の岩」・「鐘石」・「ア字石」(「ア」は梵字種子の「阿」のこと)・「亀呼び石」・「竜の遊び場」・「犬塚」・「午時の雨」・「クワズイモの群生地」・「天灯松」・「竜灯松」・「汐吹きの穴」(ここまでで二十)があると記す。そこに出る金剛福寺というのは足摺岬にある真言宗蹉跎山(さだざん)補陀洛院(ふだらくいん)金剛福寺(本尊千手観世音菩薩・四国八十八箇所霊場第三十八番札所)で、この話のメイン・ロケーションの一つ。ウィキの「金剛福寺」によれば、『寺伝によれば』、弘仁一三(八二二)年、『嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。寺名は、五鈷杵は金剛杵ともいわれそれから金剛を、観音経の「福聚海無量」から福を由来したとされている』。『歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している』。『鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。南仏を「南仏房」と記す史料もあり、南仏(房)は慶全の別名であったとみられる』。『室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが』、『江戸時代に入っても土佐藩』第二『代藩主山内忠義が再興した』とある。また、足摺岬の観光パンフレット(カラー版・PDF)では、「足摺岬の七不思議」として遊歩道の途中にあるものを弘法大師所縁のものとして紹介、そこでは①「亀石」・②「汐の満干手水鉢」・③「ゆるぎ石」・④「地獄の穴」・⑤「弘法大師の爪書き石」・⑥「亀呼場」・⑦「大師一夜建立ならずの華表」を挙げて、それぞれに簡単な説明がある。また、このパンフには、足摺岬の先端近くの海岸段丘の一角には縄文早期(紀元前五千年頃)から弥生時代にかけての石器や土器片が数多く出土しているとし(唐人駄場遺跡)、『一帯にはストーンサークルと思われる石の排列や、高さ』六~七メートルも『ある巨石が林立する唐人岩があり、太古の巨石文明の名残りでははいかと言われている』とあって、この「七不思議」に含まれる怪石・奇石の幾つかも、そうした古代人の遺物・遺跡である可能性もあるのかも知れない。さらに、トラベル・サイト内のアルデバラン氏の「金剛福寺」の訪問記(写真多し。必見)に画像である同寺のパンフレット「足摺山七不思議(遺跡)案内図」を見ると(それぞれ解説有り。必見)、①「天灯竜灯の松」・②「力の石」・③「動揺の石(ゆるぎの石)」・④「不増不滅の手水鉢」・⑤「潮の満干の手水鉢」・⑥「亀石」・⑦「亀呼場」・⑧「一夜建立の鳥居」・⑨「名号の岩」・⑩「地獄の穴」・⑪「阿字石」・⑫「展望台(燈明台)・⑬「天狗の鼻」の十三名数を掲げてある。なお、この内、「嗟跎」という地名に関わる重要な一つとして⑬「天狗の鼻」がある。そこには『昔』、『金峯上人(行の行者)』、『天魔(天狗)』が修行を『障害するにつき』、『一指をあげて降したるに』、『天魔』、『嗟跎して退散したるにより』(この「嗟跎」は先に挙げた正しい意味である)、『嗟跎山と云ふなり。役の行者は二鬼を使って全国の天狗を集めたと云はれ当山の天狗は放生坊と云ひ両面一蘆の天狗と縁起に見られる』とある。「天狗の鼻」という海に突き出た名所も足摺岬にはある(「土佐清水さかなセンター足摺黒潮市場」の足摺の名所・七不思議」参照)。

「天燈龍燈」金剛福寺パンフレットや、「土佐清水さかなセンター足摺黒潮市場」足摺の名所・七不思議」によれば、金剛福寺の尊海法親王(調べて見たが、法親王なのに事蹟不詳である。ウィキの「金剛福寺」の『室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた』とあるのが唯一知り得た事実である。識者の御教授を乞う)の書いた「嗟跎山縁起」の中に「天灯松樹に輝き、竜灯佛前を照す」云々とあり、本堂前に松の大木があったが、現在はその跡をとどめるのみである、とある。

「潮石(うしほいし)」先の「潮の満干の手水鉢」である。

「龍馬(りうめ)」先の「竜の駒」であろうが、不詳。「龍馬」自体は中国や日本に伝わる馬と竜の合わさった想像上の動物である。それが「來つて、小笹(おざゝ)をくら」うために、「此所の笹、のこらず、馬の喰(くひ)たるがごとし」というのは、笹の縁(へり)が岬特有の強い潮風によってささくれ裂け千切れているのをそう見たものであろう。

「震石(ゆるぎいし)」金剛福寺パンフレットによると、『弘法大師当山開山の砌』、発見した石とし、『この岩のゆるぎの程度により』、『心の善悪を試す岩と云』う、とある。

「金石(きんせき)」先の「鐘の石」であろう。これは前の「釣鐘石」で注した、非常に高く有意に強い金属音がする、火山岩の安山岩の一種であるサヌカイト(sanukite:讃岐岩(さぬきがん))なのではなかろうか。

「每日雨(ひごとのあめ)」先の「午時の雨」。「うしどきのあめ」と訓じておく。これは現実的にあり得そうになく、一番先に亡んでしかるべき名数という気はする。大きな滝か何かが近くにあれば別だが。

「不增不滅水(ふぞうふめつのみづ)」金剛福寺パンフレットによると、『平安期の中頃』、『賀登上人とその弟子日円上人が補陀落渡海せんとした時』、『弟子日円上人が先に渡海したので賀登上人は大変悲しみ』、『岩に身を投げ』、『かけ落ちたる涙が不増不滅の水になったと云』うとある。これは若衆道の気配が濃厚であり、また、先の「とはずがたり」の伝承との親和性が強く感じられる。賀登上人は長保(九九九年~一〇〇三年)の頃の渡海上人とある。

「忠義上人」不詳。補陀落渡海自体は中世の話であるから、名が調べられないのは不審。これは山号「嗟跎」を後付けで由来するためと、後の土佐守忠義の話に繫げるための作話になる架空人物ではなかろうか? と思ったりした。以下の「犬石」の注を参照。

「普陀洛山(ふだらくさん)」補陀落山(ふだらくせん)に同じい。

「犬石」不詳。但し、カッチンカチャリコズンバラリン氏のブログ「怪道をゆく(仮)」の先の続きである番外編 四国のミチ 足摺の七不思議(下)に『補陀落に渡った上人手飼の犬が待ち続けて石になったという「犬石」』の記載があり、ありそうなので探ってみたころ、四国ツーリング個人ブログ高知県 足摺岬で発見した。「犬石」ではなく、「犬塚」として現存している(「石」と「塚」では大いに違う。以下をお読みあれ)がそれ(写真リンク)。この方、ちゃんと説明版を写して呉れており、感謝感激である。しかも、その解説を読むと、ある僧が、『「この乱世を立て直す為、一国一城の主と鳴り生まれ来たらん」と言い、手の腹に南無阿弥陀仏と書き』、『その手をにぎりしめ、この断崖から身を投じたという』とあって、その僧を『慕っていた一匹の犬が、この場所から動こうともせず飲まず食わずひたすら待ち続け、ついに生き絶えた。村人はその姿を哀れと思い、この場所に犬塚を建てたと言われている』。『そののち、幾百年が過ぎ、土佐藩は山内家となり二代目忠義公には手の腹に黒い生印』(「しょういん」か。生まれつき持っている痣を指すのであろう)『があり、その言い伝えを知った忠義公は「自分はそのお坊様の生まれ変わりではないだろうか」と思うようになり、足摺山金剛福寺を深く信仰し度々参拝に訪れている。又、本堂・仁王門・十三重の塔など数多くのものを寄進している。それ以来金剛福寺は山内家と同じ丸に三ツ柏の家紋を頂戴している』とあって、「忠義上人」の話とリンクするわけだ! 彼は補陀落渡海ではなく、完全な捨身転生なのだ! これなら納得だ!

「土佐守忠義」安土桃山から江戸前期にかけての大名で土佐藩第二代藩主となった山内忠義(文禄元(一五九二)年~寛文四(一六六五)年)。ウィキの「山内忠義によれば、『山内康豊の長男で、伯父の山内一豊の養嗣子』。慶長八(一六〇三)年に伯父『一豊の養嗣子となり、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より偏諱を賜って忠義と名乗』った。同十年に『家督相続したが、年少のため』、『実父康豊の補佐を受けた』。慶長一五(一六一〇)年、『松平姓を下賜され、従四位下土佐守に叙任された』。『また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた』。慶長十九年の「大坂冬の陣」では『徳川方として参戦。なお、この時預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走し』、『豊臣方に加わるという珍事が起きている』。慶長二〇(一六一五)年の「大坂夏の陣」では、『暴風雨のために渡海できず』、『参戦はしなかった』。『藩政においては』、慶長十七年に法令七十五条を『制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった』。寛永八(一六三一)年からは『野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から伊予宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。改革の効果は大きかったが、兼山の功績を嫉む一派による讒言と領民への賦役が過重であった事から』、『反発を買い』、明暦二(一六五六)年七月に『忠義が隠居すると、兼山は後盾を失って失脚した』とある。

「諱(いみな)」本名。

「判(はん)」花押。

「普陀洛山は中華浙江省の嶋にて寧波府(ねいはふ)の内なり。また、梅岑山(ばいきんさん)とも云〔いひ〕、觀音の淨土也」中国では現在の浙江省舟山(しゅうざん)市普陀区にある舟山群島の南沖合にある島普陀山((グーグル・マップ・データ))を補陀落とし、遠隔地にまで観音信仰が広がった。

「慧蕚(ゑがく)」(生没年未詳)平安前期の本邦の僧で、日本と唐の間を何度も往復した。私の北條九代記 卷第十一 惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起を参照されたい。ウィキの「惠蕚」によれば、彼の事蹟は本邦及び中国のさまざまな書籍に断片的な記載はあるものの、多くは不明である。ここで示されたように嘉智子の禅の教えを日本に齎すべしとの命を受けて、『弟子とともに入唐し、唐の会昌元年』(八四一年)『に五台山に到って橘嘉智子からことづかった』『贈り物を渡し、日本に渡る僧を求め』、『その後も毎年』、『五台山に巡礼していたが、会昌の廃仏』(開成五(八四〇)年に即位した唐の第十八第皇帝武宗が道教に入れ込んで道教保護のために教団が肥大化していた仏教や景教などの外来宗教に対して行った弾圧)『に遭って還俗させられた』。この『恵萼の求めに応じて、唐から義空が来日している。のち、恵萼は蘇州の開元寺で「日本国首伝禅宗記」という碑を刻ませて日本に送り、羅城門の傍に建てたが、のちに門が倒壊したときにその下敷きになって壊れたという』。『白居易は自ら『白氏文集』を校訂し、各地の寺に奉納していたが、恵萼は』その内の『蘇州の南禅寺のものを』会昌四(八四四)年『に筆写させ、日本へ持ち帰った。これをもとにして鎌倉時代に筆写された金沢文庫旧蔵本の一部が日本各地に残っており、その跋や奥書に恵萼がもたらした本であることを記している。金沢文庫本は『白氏文集』の本来の姿を知るための貴重な抄本である』。恵萼はまた、『浙江省の普陀山の観音菩薩信仰に関する伝説でも有名である』。諸伝書によれば、『恵萼は』大中一二(八五八)年に『五台山から得た観音像(『仏祖歴代通載』では菩薩の画像とする)を日本に持って帰ろうとしたが、普陀山で船が進まなくなった。観音像をおろしたところ船が動くようになったため、普陀山に寺を建ててその観音像を安置したという。この観音は、唐から外に行こうとしなかったことから、不肯去観音(ふこうきょかんのん)と呼ばれた』とある。この最後の話は私の「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」に出、そこで私は補陀落渡海についても注しているので、是非、参照されたい。]

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