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2018/07/22

諸國里人談卷之四 八重桜

 

    〇八重桜

南都東圓堂の前に美なる八重ざくらあり。一條院の御時、上東門院、此さくらを棭庭(ゑきてい[やぶちゃん注:ママ。])に移し栽(うへ[やぶちゃん注:ママ。])給はんとて、興福寺の別當に命じ給ふ。則(すなはち)、命に應ず。しかるに、衆徒等(ら)、是をいかり、「此桜は我寺(わがてら)の靈木也。何ぞ他に出(いだ)さんや」と、諍論(じやうろん)、とゞまらず。后(きさき)、この事をきこしめされ、「誠に奈良法師は心なきもの」とおもひしに、「花を愛するこゝろざし、風流の桑門」と感じ給ひ、「今より、此桜を呼んで『我桜(わがさくら)』と稱(なのる)べし。且、後世(こうせい)に至るまで、他(た)にうつす事、あるべからず」と、伊賀國予野(よの)の庄を附せられ、年毎(としごと)の花の時、墻(かき)を𢌞(まは)して此花を守らしむ。これによつて予野村を花墻(はなかきの)庄と號しける。其後(そのゝち)に此さくらを平安城にうつし栽(うへ)られけると也。

[やぶちゃん注:「南都東圓堂」桜とともに現存しない。後白河天皇の母待賢門院藤原璋子(康和三(一一〇一)年~久安元(一一四五)年)の発願で建立され、室町時代末に焼失した興福寺東円堂。現在の奈良市登大路町の中央附近推定で(グーグル・マップ・データ)、発掘調査奈良新聞記事(二〇一二年八月一日附)に「南都名所図会」に描かれた東円堂跡と八重桜の挿絵が載る(残念ながら画像は小さい)。記事によれば、東円堂は十二『世紀前半の平安時代に建立され、興福寺の記録によると、南円堂と同じ不空羂索観音像や地蔵菩薩像が安置された』。『室町時代に焼失後は再建されず』、延宝三(一六七五)年『の「南都名所集」には、縁に石をふいた八角形の基壇が描かれて』おり、寛政三(一七九一)年の『「大和名所図会」でも土壇や礎石が残り、前にあった「奈良八重桜」と並んで観光の名所だった』ことが判る。『東円堂前の八重桜は鎌倉時代の説話集に登場するなど有名で、名所図会などにも基壇跡とセットで描かれている』とある。個人ブログ内科医Randykumaのココロの旅・・八重桜に、『奈良の都の八重桜』『として初めて記録に登場するのは』、嘉承元(一一〇六)年と三十四年後の保延六(一一四〇)年に『大江親通』(平安後期の学者(大学寮の学生(がくしょう)で仏教の信仰に厚く、天竺・中国・日本の舎利の霊感に関する文献を集めて「駄都抄」全三十巻を著わし、晩年に出家した)『が南都を巡礼したときの記録「七大寺巡礼私記」』で、『奈良の都の八重桜は、興福寺の東円堂(奈良師範学校の跡、現在の県庁東側の駐車場)にあって、その桜は、他の桜が全て咲き終わり、散ってしまってから咲く、遅咲きの桜であると書かれてい』るとあり、さらに「古花 八重桜」の題で、本話とやや異なる(時代と人物)内容が記されてある。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部に句読点を入れ(一部は空欄と取り換え)、行間は詰めた。]

奈良時代、第45代聖武天皇が三笠(御蓋山:現在の若草山)の奥「鶯ノ滝」に行幸されました。

谷間に美しい八重桜が咲いているのを御覧になり、宮廷にお帰りになって光明皇后にお話になりました。

皇后は大層お喜びになり、その一枝なんとしても見たい、と御所望になられました。

臣下たちは気を利かせて、その桜を根こそぎ掘り取って、宮廷に移植してお見せになったそうです。

以来、春ごとに宮廷で八重桜は楽しまれておりました。

1678年:延宝6年 大久保秀典・林伊祐らが書いた「奈良名所八重桜」に掲載】

ところが、孝謙天皇(聖武天皇の皇女)の頃、権勢を誇っていた興福寺の僧たちはこの名桜を宮廷に置くことを喜ばず、興福寺の東円堂の前(現在奈良教育大学)に移し、興福寺の名桜として誇っていたということでございます。

そして、都が平安京に遷ったころ。

66代一条天皇の御世です。藤原道長の娘で、紫式部らの女房にかしづかれていた一条天皇の中宮・彰子さまが、興福寺の境内に植わっていた八重桜の噂を聞きました。

なんとしても見たい・・

彰子さまは、宮中の庭へ植え替え様として、貰い受けるために興福寺に使いをやり、荷車で運び出そうとしたその時! 興福寺の僧が追って来て

「命にかけてもその桜、京へは渡せぬ」

彰子さまは、哀しくも断念し、それから毎年、花の頃に「花の守り」を遣わされます。

今でも伊賀上野には「花垣の庄」と呼ばれる花守の子孫が御在住で、「奈良の八重桜」を霊木として守っておられます。

   《引用終了》

本条の短縮版より遙かに上手い。加えて、本条に出る一条天皇も出るので、続く話も引用させて戴く。処理は同前であるが、冒頭と掉尾の和歌は失礼乍ら、表記の一部が誤っていることから、別に原出典と思われる「伊勢大輔集」をもととして恣意的に正字化し、表示法も変えて二首とも引用部の外に出させて貰った。

 

 いにしへの奈良の都の八重櫻

     今日九重に匂ひぬるかな

           伊勢大輔(「伊勢大輔集」)

 

   《引用開始》

彰子さまの御尽力からか、一条天皇の御世に、この奈良の八重桜は、一枝ずつ献上される慣例となり、その年の花の受取役(若い女房です。名前からは男性のように聞こえてしまいますが)伊勢大輔が詠んだうたであります。(「詞花集」から「小倉百人一首」第61番)

この歌の「九重」は、桜の花びらが八重、九重と重なっている様と、禁中(宮中、九重)の事にかけられています。

1127年(大治2年)の「金葉集」・1144年(天養元年)の「詞花集」・「伊勢大輔集」、1156年(保元年間)「袋草紙」、院政末期の「古本説話集」等にも語り継がれています。

『八重桜の美しさと、歌の見事さに宮廷人の皆が感嘆した』と長い間語り継がれてきた歌は、現代に生きる僕にも確かに時代を超えて、まざまざとその情景を思い浮かべることができるものです。

[やぶちゃん注:中略。]

奈良の僧都から八重桜が宮廷に献上された時、使者から桜を受け取り、御前に捧げるお取り次ぎは元々中宮彰子に仕える紫式部の役目でしたが、古参女房の紫式部が意地悪をして、桜を受け取る時に歌を詠まなければならないお取り次ぎを、伊勢大輔にさせて恥をかかせようとしたとの逸話があったようです。

しかし紫式部らの予想は外れます。

歌詠みの家柄、家門の名誉に恥じぬ 見事な歌を若く女らしい良く透き通る声で詠み、皆の賞賛を浴びました。

中宮彰子さまも喜ばれて、次の歌をお返しになりました。

   《引用終了》

 

 九重に匂ふを見れば櫻狩り

    重ねて來たる春かとぞ思ふ

                中宮彰子

 

「一條院の御時」一条天皇の在位は寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年。

「上東門院」藤原彰子(永延二(九八八)年~承保元(一〇七四)年)。

「棭庭(ゑきてい)」元来は宮殿の脇(「棭」はその意)の殿舎であるが、ここはその位置の配された皇妃・宮女の住まう後宮のことを指す。

「伊賀國予野(よの)の庄」現在の三重県伊賀市予野。(グーグル・マップ・データ)。]

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