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2018/07/02

諸國里人談卷之三 風穴 (前とは別項)

 

    ○風穴

甲斐國身延山、むかしは「蓑父」と書たり。日蓮上人開基の後(のち)、「身延」と改む。當山は新羅三郎四代の孫(そん)南部六郞實長の領地也。板野御牧(いたのみまき)、波木井(はきゐ)三郞の領主にて波木井殿(はきいどの)と稱す。上人に歸依し、當山を靈塲とせり。其むかし、西行法師、爰に來り、

 雨しのぐ蓑父の里の垣しはしすだちぞ初るうぐひすの聲

此谷を「うぐひす谷」といふ。此所より初音(はつね)しそめて、諸方の谷の鴬鳴くと也。題目堂のあなたに、風穴、あり。これより吹(ふく)風、尖(するど)にして、極熱(ごくねつ)にも、爰に至れば、肌(はだへ)、劔(つるぎ)をつらぬくごとし。此穴は信州諏訪へ通りぬけたり、と云り。いかなるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]か、諏訪の神体、當山の寶物にあり。七面山(〔しち〕めんさん)は夫(それ)より上(のぼ)事、三里、巓(いたゞき)に大きなる池あり。その形、曲龍(きよくりう)のごとし。底より涌(わく)淸泉也。其水の落るは「春氣滝」と云。百丈の白布をさらせり。これは天竺無熱池の水末なりといへり。此池に七ふしぎあり。くはしき事は「身延鑑(みのぶかゞみ)」にゆづりて、爰に省(はぶく)。

[やぶちゃん注:「新羅三郎」河内源氏二代目棟梁源頼義の三男源義光(寛徳二(一〇四五)年~大治二(一一二七)年)の元服後の呼称。兄に源八幡太郎義家がいる。その呼び名は近江国の新羅明神(大津の三井寺の新羅善神堂)で元服したことに由来する。

「南部六郞實長」(貞応元(一二二二)年~永仁五(一二九七)年)日蓮の有力壇越として知られる武士。ウィキの「南部実長によれば、甲斐国波木井(はきい《住所呼名》/はきり《有意に多くの記載に認められる読み方》:現在の山梨県南巨摩郡身延町波木井。身延山の南東山麓。ここ(グーグル・マップ・データ))に『居住したことから波木井実長とも呼ばれる』。『父光行から甲斐国巨摩郡飯野御牧内にある波木井郷(現在の南巨摩郡身延町梅平一帯)を割譲され、地頭職を兼ねた』。嘉禎四(一二三八)年、第四代『将軍藤原頼経が上洛した際には、兄実光と共に随兵を務めた』。文永六(一二六九)年頃、『鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し』、『日蓮に帰依し』、同十一年には、『流罪を解かれ』て『佐渡から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し』、『外護の任にあたった』。弘安四(一二八一)年、『十間四面の堂宇を建立寄進し』て『「妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し』、『法寂院日円と号した』。弘安五(一二八二)年九月、『病身の日蓮は病気療養の』ため、『常陸の湯に向かう途中』、『現在の東京都大田区池上に着くと』、『病体が更に悪化し、実長への』九『ヶ年の感謝と死期の近いことを知らせる最後の手紙を送っている(『波木井殿御報』)』。同年十月十三日朝、六十一歳の『生涯を閉じた日蓮の遺言通り』、『遺骨を身延の澤に埋葬し』、『実長を中心に六老僧等で護った』。『後代、長男実継の家系は陸奥国を地盤とする八戸氏(根城南部氏)として存続し、本拠地である甲斐国波木井郷は四男(一説には長男とも)長義の家系が継承した』。歴史学者で作家の七宮涬三(しちのみやけいぞう)は、『鎌倉幕府に迫害された日蓮を庇護し』、『信仰したその事績から、信念を貫徹する気骨のある人物であったろうと推測している。実長の気概の形成には日蓮と共通するものがあり、日蓮宗の教義の影響があった。そしてその気質は、子の実継や外孫の師行にも引き継がれたと指摘している』。『日蓮の死後、身延山初祖日興と実長の間に、日蓮によって禁止されたと思われる「神社参詣、神社への寄進、釈迦立像建立の可否」についての論争を生じ、その結果』、『日興は身延を離山した。この論争については、未だに富士系日蓮の派(いわゆる勝劣派)と身延系日蓮の派(いわゆる一致派)との決着をみていない。はじめは日興によって教化され、日興が身延の初祖の時は師としていたが、次位の日向が神社参詣、神社への寄付などを認めたので、日向に師を変更した。このため、日興との間に確執を生み、日興は身延を去って、富士に移った』とある。

「板野御牧(いたのみまき)」不詳。次注の引用に出る身延の南にある『甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)』(ここ(グーグル・マップ・データ))のことかと思ったが、現行の南部町には「板野」という地名は存在しない。いろいろ調べてみるうちに、デジタル版「身延町誌」の「第二節 日蓮聖人入山以前の身延」の「一、七面山と修験道」の「(三)身延と七面山との関係」の冒頭に(漢字を恣意的に正字化した)、

   《引用開始》

身延山史に、

 往古この地は河内領巨摩郡と稱し、身延は巨摩郡波木井鄕に屬して、飯野御牧と共に南部六郞實長の領邑なり。身延はもと「蓑夫」と書す。波木井の戌亥の隅にあたれり。すなわち東は鹽澤、波木井、西は小繩、高住、赤澤等に、南は大城、相又、船原に、北は下山村に接す。

   《引用終了》

とあるのを発見、沾涼は「飯野」と書くところを「板野」と誤ったのだということが判った。この「飯野」ならば、身延の北の山梨県南アルプス市飯野(ここ(グーグル・マップ・データ))が現存もするのである。

「波木井(はきゐ)三郞」実長の父で南部氏の始祖南部光行(永万元(一一六五)年?~嘉禎二(一二三六)年?)の別名。ウィキの「南部光行」によれば、治承四(一一八〇)年、『石橋山の戦いで源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた。このときに南部姓を称したという』。文治五(一一八九)年、『奥州合戦で戦功を挙げ』、『陸奥国糠部五郡を与えられ』、『現在の青森県八戸市に上陸し、現在の同県三戸郡南部町相内地区に宿をとり、その後、奥州南部家の最初の城である平良ヶ崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いたという』。建久元(一一九〇)年には『頼朝に従って上洛し、その後、自身は奥州にはほとんど赴かず』、『鎌倉に在住した』。また、「吾妻鏡」同年六月九日の条に拠れば、『源頼朝の鶴岡八幡宮への御塔供養に際して「信濃三郎光行」が先陣随兵を務めており』、『この頃は「信濃」を名字としていたが』、「吾妻鏡」建久六(一一九五)年五月二十日の条の『源頼朝天王寺参詣に際には南部姓を称しており、この記事が下限となっている』。また、健治元(一二七五)年の『「六条八幡宮造営注文」に拠れば、列挙された甲斐国御家人の中に「南部三郎入道跡」が見られる』。『死没年には』『様々な説があるが』、嘉禎四(一二三八)年二月に『将軍藤原頼経に従って上洛したという説もあり、定かではない(有力な説は』一二三六『年説であり、頼経時代以後も生きていたかどうかには疑問がある)』。『六人の息子がおり、長男の行朝は庶子のため』、『一戸氏の祖となり、次男の実光が三戸南部氏を継ぎ、三男の実長は八戸氏の祖、四男の朝清は七戸氏の祖、五男の宗清は四戸氏の祖、六男の行連は九戸氏の祖にそれぞれなった』とある。

「雨しのぐ蓑父の里の垣しはしすだちぞ初るうぐひすの聲」先に挙げた、デジタル版「身延町誌」の「第二節 日蓮聖人入山以前の身延」の「一、七面山と修験道」の「(三)身延と七面山との関係」の引用の「身延山史」の続きの部分に以下のようにある(先と同様に漢字を恣意的に正字化した。また、一部の歴史的仮名遣の誤りを訂し、記号の一部も変更した)。

   《引用開始》

西行が歌に

 「あめしのぐ蓑夫のさとの垣柴に、すだちぞ初むるうぐひすのこゑ、とありと傳ふ。しかし、この和歌西行の「山家集」並びに「古今類句寸字篇」等にも出でず。南部近郊に西行坂、西行松のありしことは元政の身延行記に出でたり。西行法師が巡遊せしは明なり。更に勘ふべし。蓋し蓑夫の蹲踞せるが如く欝然として北東に聳え鷹取山これに對す。御遺文に「此の外を囘りて四つの河あり。從北南へ富士河、自西東へ早河、此は後なり。前に西より東へ波木井河の中に一つの瀧あり身延河と名付けたり。」と仰せらるも「蓑夫」を身延と替へ玉へるは入山早々にして文永十二年二月十六日の御消息に『此所をば「身延の嶽」と申す』とあるに徵して明なり。

   《引用終了》

「題目堂」不詳。現在の身延山久遠寺は江戸時代から近代まで、度重なる火災のために旧来の建造物は殆んど残っていない。

「風穴」不詳。現在の同寺境内にそうしたものがあるとする記載が見当たらない。あることを御存じの方があれば、是非、御教授戴きたい。

「諏訪の神体、當山の寶物にあり」不詳。御神体が何なのか、今もあるのか、何故、そこにあるのか(まあ、沾涼もそれは判らぬらしいが)、これも一つでもお判りの方は、御教授あれかし。

「七面山(〔しち〕めんさん)」山梨県南巨摩郡にある標高千九百八十九メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。東北七キロメートル弱の位置に身延山(標高千百五十三メートル)が連なる。ウィキの「七面山」によれば、山頂東北部の約七十三ヘクタールが『歴史的に久遠寺の寺領であり』、『現在も周囲を早川町に囲まれた身延町の飛地である』とある。『身延山久遠寺、また法華経を守護するとされる七面大明神(七面天女)を祀る信仰の山で、日蓮書状(「日蓮上人遺文」)にも記されており、日蓮の高弟である日朗が開いたといわれる』。『各所に崩落が見られるため「ナナイタガレ」「オオガレ」とも呼ばれ、日蓮書状にも崩落の様子が記されている』。『山頂近くの標高』『千七百メートル『付近には敬慎院があり、多くの人が宿坊に宿泊する。敬慎院から山頂付近にかけては富士山の好展望地として知られる』。『敬慎院には名物とも言える非常に長い敷布団があり、宿泊者はその布団に並んで寝る。なお』、『その敷布団を収納する際はロール状に丸めていく』。『奥の院には影嚮石(ようごうせき)という七面天女由来の磐座があり、その周りを回りながら願い事をするとよいという』。『頂上には一の池、二の池、三の池等、池がある。一の池正面の祠には水晶玉が祀られている』。『富士山のほぼ真西にあるため、春分・秋分の日には、富士山山頂からのご来光が望める』とある。

「大きなる池あり。その形、曲龍(きよくりう)のごとし」一の池のことか。七面山敬慎院しお(PDF)によれば、『本社正面右側に続く回廊をくぐりますと、高山には珍しい大きな池が見渡せます。その昔、日朗上人が登山してきてこの池のほとりに立ったところ、池に七面大明神が竜の姿で現れたと伝えられています。いまでもある日、突然に不思議な波紋が現れることがあると言われています。一の池は七面山信仰にかかわる存在で、池そのものが信仰の対象となっています。池は一年中かれることのない神秘的な水をたたえ、四季折々に幽玄なたたずまいをみせています』とある。

「春氣滝」「羽衣白糸の滝」のことか((グーグル・マップ・データ))。この滝近くの主流を「春気川」とも称する。「早川町」公式サイト内の早川町の地名(小字、地名の由来 等)の「赤沢」の項に『前を流れる春木川は、『春木川』・『春気川』『青木河』などと記録されているが、本来は『青気河』であったと考えられる。古代日本語で『青土』(アヲニ)といえば、青黒い色の土のことで、『出水の度に堆積する河原の土砂の色』であり、江戸時代の『春木石』の色である』とある。

「百丈」三百三メートル。誇張表現。「羽衣白糸の滝」は最大落差は三十五メートル。なお、七面山の北西に「見神(けんじん)の滝」という落差五十五メートルの二段に亙る壮大な滝があるが、ここは位置的に「一の池」の水が落ちる位置にはない

「天竺(てんぢく)無熱池(むねつち)」贍部洲(せんぶしゅう)(=閻浮提(えんぶだい))=インドの中心の大雪山の北にあるとする古代仏教の霊池。

「七ふしぎ」不詳。先の引用から考えると、一つは『突然に不思議な波紋が現れること』であり、今一つは『一年中かれることのない』だろうか。そもそもが、この名数は七面山という山の名からの発想であろう。個人ブログ地球く」に、

   《引用開始》

七面山は『此の山八方に門あり、鬼門を閉じて聞信戒定進捨懺に表示、七面を開き、七難を払い、七福を授け給う七不思議の神の住ませ給うゆえに七面と名付け侍るとなり』とあり、 また七面大明神のもとのお姿は『安芸の国厳島弁財天』とされています

   《引用終了》

とあり(以上は「身延鑑」の訳の一部?)、また、

   《引用開始》

七面大明神=七面天女を祀る敬慎院の裏には大きな池があります。この池が竜が棲むと伝える一の池です。また奥之院側には二の池があります。山中には全部で七つの池があると伝えますが三から七の池の場所は、はっきりしていません。特に七の池は「見ると目がつぶれる」といういい伝えがあり、誰も見た人はいません。

畔には七面山が開創される前から一の池をお守りしていた池大神として役の小角が祀られています。古来より修験道が盛んな山で山岳信仰には水神、龍神など滝や池に纏わる信仰がありました。七つ池にはいくつものお話が伝承されています。

   《引用終了》

として、「身延町誌」の「七つ池」から引いて、

   《引用開始》

「七面山には、池が七つあるという。そして第七の池は決して見ることができない。もし見ると、その人は必らず目がつぶれるといわれている。ある時、信州の樵夫(きこり)が山の中で迷ってこの池のほとりに出た。

清らかな水と静かな森にすっかり魅せられた樵夫は、美しく乱れている池のほとりの名も知らぬ紫の草花をむしり取って池の面へ投げた。

すると、不思議にも今まで少しも波がなかった水面に渦巻が起きて、それがだんだん大きくなって、果ては岸をかむ大波がものすごい勢でおし返すようになった。そして、その波の間から竜が突然飛び出して天上した。

この有様をみて驚いた樵夫は、一散に山麓へ逃げ下った。しかし、その時あわてて斧を置き忘れて来た。それで今後もし斧が発見された池があったら、それが七面山の第七の池であるといい伝えられている

   《引用終了》

とあって、こりゃ、七不思議どころじゃなくて、沢山ありそうだ。

「身延鑑(みのぶかゞみ)」身延山久恩寺の案内。日亮著。延宝四(一六七六)年に都を発ち、身延の久遠寺に参詣した著者が、行き合わせた老僧から堂塔伽藍・地理・歴史・行事・故事など、様々なことを聞くという構成を採る。挿絵は師宣風。初版は貞享二(一六八五)年江戸の松会版。その後、元禄一七(一七〇四)年に再版本が出てより、版を重ね、宝暦一二年(一七六二)版(三種)・天保五(一八三四)年版、同六年版、同一五年版などが知られ、近代以降も復刻が行われている。これを読めば、前の「七不思議」は判るのかなぁ。国立国会図書館デジタルコレクションの画像はあるけど(以上の本書の解説はそこに載る岡雅彦氏の解題を参考にさせて貰った)、影印でパス!]

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