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2018/07/24

諸國里人談卷之四 西行桜

 

    ○西行桜

山城國嵯峨法輪寺の南に桜元菴(さくらもとのあん)といふあり。西行上人の菴室(あんじつ)の舊地なり。此所に大なる桜一樹あり。これを「西行ざくら」といふ。また「西行田(だ)」といふあり。西行の田園(でんゑん)なりと。

○憲淸(のりきよ)、入道して圓位(ゑんゐ)と號(がうす)。後に西行と改め、國々を遊び𢌞(めぐ)りて、名所古蹟の地にして和歌を詠じ、これをたのしむ。

關東に趣(おもむ)くの時、家僕(かぼく)も発心して相從ふ。名を西住(さいぢう[やぶちゃん注:①③ともにママ。「さいぢゆう」が正しい。])といへり。

遠江國天竜川の渡りにて、船に乘(のり)けるに、乘る人、夛〔おほく〕して、舩、危(あやふ)し。

「僧達は下りて跡の舩に乘(のる)べし。」

と云り。

「便船(びんせん)は旅僧の常也。」

といひて、退(しりぞ)かず。

一人の船長(ふなをさ)、大〔おほい〕に怒りて、

「憎き法師のいひ事かな。」

と、西行の頭(かしら)を打(うつ)に、血、流れたり。

西行、憤る事さらになくして、舩より去る。

西住、これを見て、患悲(うれへかな)しみ、船長と爭ひに及(およば)んずる時、西行、これを制し、

「余、都をいづるより、兼而(かねて)、斯(かく)のごとくなる事を知る。何ぞこれを愁(うれへ)ん。此〔この〕すゑ、若箇(いかばかり)かあるべし。汝は伴ふべからず。」

とて、西住を古鄕(ふるさと)へ歸し、それより、独(ひとり)、行脚す。

                 西行

 いひたてゝ恨はいかにつらからん思へばうしや人のこゝろの

[やぶちゃん注:本条の挿絵がここに載る(①)。本条は物語調であるので、読み易さを狙って、特異的に改行を施した。

「西行桜」現行では西行ゆかりの寺とされて「花の寺」の通称でも知られる、京都府京都市西京区大原野南春日町にある小塩山(おしおざん)大原院(だいげんいん)勝持寺(しょうじじ)に(ここ(グーグル・マップ・データ))三代目が鐘楼堂の脇に咲くとするが、以下で沾涼が言う場所とは全く異なる。本寺は西行が出家した寺とし、「西行桜」も西行お手植えの桜とする。なお、「西行櫻」の名は、西行と桜の精の問答を核とした世阿弥の同名の複式夢幻能としても知られる。

「山城國嵯峨法輪寺」現在の京都市西京区嵐山虚空蔵山町、桂川の渡月橋右岸直近にある真言宗智福山法輪寺(ここ(グーグル・マップ・データ))。先の勝持寺は、この寺の南南西五キロメートル半も離れた位置にある。

「桜元菴(さくらもとのあん)」西行庵跡と伝えるものとしては、右京区嵯峨二尊院内(ここ(グーグル・マップ・データ。桂川左岸、法輪寺の北北西一・五キロメートル)。二尊院を入ってすぐの左手に「西行法師庵の跡」という石碑が建つ。私は行ったことがないので、ネット上の画像で確認した。

「西行田(だ)」「西行の田園(でんゑん)」現行では残らない。西行に与えられた扶持米分の田地ということか。

「憲淸(のりきよ)、入道して圓位(ゑんゐ)と號(がうす)。後に西行と改め……」西行の俗名は佐藤義清(のりきよ(憲清・則清・範清とも表記) 元永元(一一一八)年~文治六年二月一六日(一一九〇年三月三十一日)。ウィキの「西行」より引いておく。勅撰集では「詞花和歌集に初出(一首)。「千載和歌集」に十八首、「新古今和歌集」に九十四首(これは同歌集の入撰数の第一位である)をはじめとして、二十一代集に計二百六十五首が入撰している。家集に「山家集」・「山家心中集」(自撰)・「聞書集」がある。『秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の』九世の『孫。佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった』。十六歳頃より『徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる』。保延元(一一三五)年、十八歳で『左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ』、同三(一一三七)年に『鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが』、保延六(一一四〇)年、二十三歳で』突如、出家(理由不詳)、『円位を名のり、後に西行とも称した』。『出家後は心のおもむくまま』、『諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した』。『出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し』、天養元(一一四四)年頃には『奥羽地方へ旅行し』、久安四(一一四九)年前後に『高野山(和歌山県高野町)に入』っている。その後、仁安三(一一六八)年には中国・四国への行脚に出、この時、『讃岐国の善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ねてその霊を慰めたと伝えられ』、これは後代、上田秋成の「雨月物語」巻頭を飾る名篇「白峰」で怪談に『仕立てられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである』。『後に高野山に戻るが』、治承元(一一七七)年には『伊勢国二見浦に移った。文治二(一一八六)年、『東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため』、二『度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉で源頼朝に面会し、歌道や武道の話をしたことが』「吾妻鏡」に記されてある(ここは私の「北條九代記 西行法師談話」を是非、読まれたい。そこの私の注には「吾妻鏡」と当該部も引いてある)。『伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺(大阪府南河内郡河南町)に庵居し』、『この地で入寂した。享年』七十三。かつて「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」と『詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時』、『名声を博した』。「後鳥羽院御口伝」に『「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。歌風は率直質実を旨としながら、つよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが』、『恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味』・『隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかもしれない』。『和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが』、文治三(一一八七)年に自歌合』(じかあわせ:自作の和歌を左右に分けて組み合わせ、他人又は自分が判詞をつけて歌合形式に纏めたものを指す)『「御裳濯河歌合」』(みもすそがわうたあわせ:西行が自作から七十二首を選び、左方を「山家客人」、右方を「野径亭主」と成して、三十六番の歌合として構成、藤原俊成に判を依頼したもので、伊勢内宮に奉納された。後に出る同じく西行の自歌合「宮河歌合」(定家判)と一体のものであるが、後世の自歌合の最初とされている。自選歌を通して西行の和歌評価基準を知ることが出来、俊成の率直な判詞とともに貴重な資料とされる。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)『を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合』「宮河歌合」』(みやがわうたあわせ)『を作って、当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)』。『しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに』「千載和歌集」の『主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった』。『後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇・芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし』、西行に仮託した偽書である説話集「撰集抄」や、伝記「西行物語」(鎌倉時代成立・作者未詳)を『はじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以もまたここに存する』とある。

「家僕(かぼく)も発心して相從ふ。名を西住(さいぢう)といへり」西住なる僧について考証したものは意外に少ない。そんな中で山村孝一氏の論文「西住と西行」は真っ向からそれに向かったもので必見である。西住はここに書かれているような佐藤義清の「家僕」だったのではなく、山村氏の考証によれば、まず、「1.西住の伝について」では、諸資料から、①『西住は俗名、源季正(政)で、在俗時右(左)兵衛尉であった』こと、②『醍醐寺理性院流祖賢覚より付法を受け、その法脈に連なる真言宗系の僧であった』ことが明らかとなり、さらに、続く「2.新資料について」では、「中右記」の大治四(一一二九)年十月二十三日の条に着目され、『この日の記事は、鳥羽上皇と待賢門院との間の五宮本仁親王(後の覚性法親王)の侍所政所始めのことである。この中の侍所十人の名前の六番目に「右兵衛尉源季政」という人物が見られる。私は、ここに出てくる「右兵衛尉源季政」こそ西行の同行』(どうぎょう)『であった西住の在俗時代の姿であると考えたい』とされ、①『彼は大治四年十月二十三日には右兵衛尉であり、本仁親王(後の覚性法親王)の侍所に仕えていた』人物であり、②『西行よりも年上』の、③『徳大寺家とは関係の深い侍ではないか』と推察されておられる。次の「3.西住の出家時期について」では、結論として『私は西住出家時期を保延六年頃、覚性法親王、西行などとかわらない頃と推定したい。また、初期の彼の出家後の形態は、西行、寂然などのように遁世を遂げたわけではなく、寂超や俊成のように都に留まり半僧半俗のような生活を送ったものと考えたい』とされ、「4.西住と西行の関係について」では、西行の四国行脚の際も落ち合ってともに行っていたことが示され、諸歌を掲げられて考証の上、そこには『西行の西住への愛情であり慕情である』ものが横溢しており、『それも両者の年齢差から考えてみて、弟が兄を慕うような感情ではなかっただろうか。また、そのような感覚で見た時、西住の死の折に見せた西行の異常なまでのうろたえぶりや、落胆の程が初めて理解できるのではないだろうか』と述べておられる。「5.西住の死について」は終章であるが、上記の部分も含め、山村孝一氏の論文「西住と西行」で、じっくりと全文を読まれたい。なお、他に、察侃青(サイハイセイ)氏の論文「『西行物語』の方法――東海道を歩む西行――」(PDF)が、後の「西行物語」を考証した論文として優れているが、それを読むと、この「天竜の渡し」の事件伝承はかなり異なったヴァージョンや展開が存在するらしいことが判る。察氏は、『天竜の渡りで武士に鞭で頭を打ち割られた事件は、物語の中の最もドラマチックなエピソードということになろう』。『西行は、同行の入道と共に天竜の渡りで、大勢の人が乗った船に便乗した際、乗り合わせた武士に船を降りろと命じられたものの、渡船場の習いと思い、降りようとしなかった。すると、武士に鞭で頭を叩き割られ』、『血が流れるという惨事となった。同行の入道が見て悲しむ様子に、西行は修行の真義を教訓し、同行を拒否し』、『入道と別れて一人で旅を続けた』としつつ、『以降、略本系『西行物語』には次の独自な挿話が描かれている』として以下の久保家本「西行物語」の一節を引いておられる(引用を参考に、恣意的に漢字を正字化して示した)。

   *

只獨り、嵐の風身にしみて、うき事いとゞ大井河、しかひの波をわけ、淚も露もおきまがふ、墨染の袖しぼりもあへず行程に、するがの國、阿部の宿と云ふ所に付きて、あばれたる御堂に立寄り、やすみて居たりけるに、何となく後ろ戸の方を見やりたりけるに、ふるき檜笠のかけられたるを、あやしと見に、すぎにし春の比、都にて、たがひに、先立ゝば、還來穢國、最初引攝の契をむすびし同行の、東の方へ修行に出し時、あながちに別れを悲みしかば、此を形見にとて、我不愛身命、但惜無上道と書きたりしが、笠はありながら、主は見えざりければ、おくれ先立ならひ、はやもとのしづくと成りにけるやらんと、哀れに覺へて、淚をおへて、宿の者に問ひければ、京より、此春、修行者のくだりでありしが、此御堂にて、いたはりをして失せ侍りしを、犬の喰ひみだして侍りき。かばねは近きあたりに侍るらんと言ひければ、尋ぬるに、見えざりければ、

 笠はありその身のいかに成ぬらんあはれはかなき雨のしたかな

   *

創作性が強いとは言え、この展開は怖ろしいまでに凄絶で、しかも妙に生血のリアリズムある。西行の頭から流れる血筋に比ではない。しかも、『かつては阿仏尼筆と伝えられていた静嘉堂文庫本『西行物語』では、西行の阿部で発見した笠は、「同行西住」の形見としている。次に掲げるのはそれである』として、静嘉堂文庫本「西行物語」の当該部が示される(同前の仕儀を行った)。

   *

阿部の宿といふところに付きて、あれたる御堂に休みけるに、

 我不愛身命但惜無上道

と書たりし笠あり。見れば同行西住が笠也。笠はあれども、主は見えざりければ、あたりの人にとふ。答へて、この春、修行者のくだりでありしが、この御堂にて、いたはりをして失せ侍べりしを、犬の喰いみだして侍りき。かばねは近きあたりに侍べらんと言へば、尋ぬるに見えず。

 かさはありその身はいかになりぬらんあわれはかなきあめのしたかな

   *

察氏は『『西行物語』諸本において、これは唯一笠の持ち主の名が記されている伝本である。その上、西行家集『山家集』にもしばしば登場し、歴史上の西行の生涯の友であるとされている西住と明記している。本来、該当する描写は物語の展開を左右するほどの改編となろうが、『大般若経』の紙背を用いての書写のため紙数の制限を受けており、「省筆甚しく、改寵されている疑い」があり』、『「前半の西住出家に付けあわすべく、あえてその最期を同行客死の話に求めようとした意図が明らか」であると、多くの先行研究は指摘している』。『しかしながら、本文批判はしかるべきであっても、説話が流布する際には、それと全く関わらない形で伝承されていくこともある』とされ、続く「三.阿部における西行西住伝承」の冒頭で、『現在、静岡県藤枝市岡部町にある小さな丘・岩鼻山の頂に西行笠懸松と西住法師墓が存している』と始めて、西住についての考証に入って行くのである。この論文も必見である。

「僧達は下りて跡の舩に乘(のる)べし」例えば、吉川英治の「新・平家物語」の「歌法師」の章の冒頭ではこのエピソードを膨らましているが、そこでは西行と西住は舟に先に乗っており、舟は出ようとしている。そこに乱暴な三人の地侍が強引に乗り込もうとして(そこでは船頭は逆に彼らの乗船を渋る)、西行らを「乞食坊主」と呼び、下船を命ずるのである。

「便船(びんせん)は旅僧の常也。」通常の渡し舟に乗るは行脚の僧の当然の権利である。しかもちゃんと順に待って乗ったのであろうから、考えてみれば、ごく当たり前の理路整然としたものなのであると思われる。しかし、ここは理不尽を言うのを舟の安全性をよく知っている船頭の一人としてしまった点、沾涼がこう船頭が言った状況(舟の定員だけでなく、川の状態)を仔細に語っていない点、さらに、そうしたシチュエーション描写が削がれた中にあっては、この西行の台詞が、僧としては、聊か、不遜に聴こえてしまう点で失敗していると私は思う。

「余、都をいづるより、兼而(かねて)、斯(かく)のごとくなる事を知る。何ぞこれを愁(うれへ)ん。此〔この〕すゑ、若箇(いかばかり)かあるべし。汝は伴ふべからず」――私は、都を出でて、遙かな行脚の旅に赴くその初めから、予ねてより、このようなこと【これは、西住が船長(ふなおさ)の非道を見て彼と騒諍に及ぼうとしたことを指す。】〉になることが判っていたのだ。出家遁世した者が、どうしてこのようなこと【これも、西行が非道にも頭を打ち割られて怪我をしたことを契機として、西住がそれを激しく悲しみ、遂には義憤を発して船長と争おうとしたことを指す。】にあたら下らぬ愁いを起してなるものか! これから先、かくの如き(「若箇」)ことが何度起こる(「若箇」)ことであろうか思いやられることじゃ。それを思えばこそ、そなたを伴って行脚することは出来ぬ!――

「いひたてゝ恨はいかにつらからん思へばうしや人のこゝろの」「山家集」の「下 雑」の「恋百首」の一首(一三二九番)で「夫木和歌抄」(三十六)にも載る、

 言ひ立てて恨みば如何につらからむ思へば憂しや人のこころは

である。]

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