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2018/07/31

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(五) 五 進化論と宗教 / 「進化論講話」本文~了

 

     五 進化論と宗教

 

 進化論は生物界の一大事實を説くもの故、他の理學上の説と同じく確な證據を擧げてたゞ人間の理會力に訴へるが、宗教の方は單に信仰に基づくものであるから、この二者の範圍は全く相離れて居て、共通の點は少しもない。尤も、宗教に於ても、信仰に達するまでの道筋には多少學問らしい部分の挾まつて居ることはあるが、その終局は所謂信仰であつて、信仰は理會力の外に立つものであるから、宗教を一種の學問と見倣して取扱ふことは素より出來ぬ。されば進化論から宗教を論ずる場合には、たゞ研究或は應用の目的物として批評するばかりである。

 人間は獸類の一種で、猿の如きものから漸々進化して出來たもの故、人間の信ずる宗教も、一定の發達・歷史を有するは勿論のことであるが、之を研究するには、他の學科と同樣に、先づ出來るだけ材料を集め、之を比較して調べなければならぬ。現今行はれて居る宗教の信仰箇條を悉く集めて比べて見ると、極めて簡單なものから隨分複雜なものまで、多くの階級があつて、各人種の知力發達の程度に應じて總べて相異なつて居る。「人間には必ず宗教がなければならぬ、その證據には世界中何處に行つても、宗教を持たぬ人種は決してない」などと論じた人もあつたが、之は研究の行き屆かなかつた誤で、現にセイロン島の一部に生活するヴェッダ人種の如きは、之を特別に調査した學者の報告によると、宗教といふ考の痕跡もないとのことである。これらは現今棲息する人種中の最下等なものであるが、それより稍進んだ野蠻人になると、靈魂とか神とかいふ種類の觀念の始[やぶちゃん注:「はじまり」。]が現れる。自分の力では到底倒すことの出來ぬやうな大木が嵐で倒れるのを見れば、世の中には目に見えぬ力のい或る者が居るとの考を起すことは、知力の幼稚な時代には自然のことで、自分より遙に力のい或る者が居ると信じた以上は、洪水で小屋が流れても、岩が落ちて家が壞れても、皆この或る者がする所行であらうと思つて、之を恐れ、自分の感情に比べて、或はその者の機嫌を取るために面白い踊をして見せたり、或は願事を叶へて貰ふために賄賂として甘い食物や、美しい女を捧げたりするやうになるが、神とか惡魔とかいふ考は恐らく斯くの如くにして生じたものであらう。また一方には、昨日まで生きて敵と擲き[やぶちゃん注:「たたき」。]合うて居た父が、今日は死んで動かなくなつたのを見て、その變化の急劇なのに驚いて居るときに、父の夢でも見れば、肉體だけは死んでも魂だけは尚存在して、目には見えぬが確に我が近くに居るのであらうと考へるのも無理でないから、肉體を離れた靈魂といふ觀念も起り、父の靈魂が殘つて居ると信ずる以上は、我が身の狀態に比べて、食事の時には食物を供へ、敵に勝つた時には之を告げ知らせるといふやうな儀式も自然に生ずるであらう。靈魂といふものが實際あるかないかは孰れとも確な證據のないこと故、我々現今の知力を以ては有るとも斷言の出來ぬ通り、ないといふ斷言も出來ぬが、靈魂といふ考は恐らく斯くの如くにして生じ、その後漸々進化して今日文明國で考へるやうな程度までに達したものであらう。

[やぶちゃん注:「ヴェッダ人種の如きは、之を特別に調査した學者の報告によると、宗教といふ考の痕跡もないとのことである」誤りウィキの「ヴェッダ人」から引く。ヴェッダ人(英語: Vedda)は、『スリランカの山間部で生活している狩猟採集民。正確にはウェッダーと発音する』が、これは他称で、『自称はワンニヤレット』『で「森の民」の意味である』。『人種的にはオーストラロイドやヴェッドイドなどと言われている。身体的特徴としては目が窪んでおり彫りが深く、肌が黒く低身長であり広く高い鼻を持つ。記録は、ロバート・ノックス(Robert Knox)著「セイロン島誌」(An Hiatorical Relation of the Island Celylon in the East Indies:一六八一年)に遡る。人口は一九四六年当時で二千三百四十七人で、バッティカロア・バドゥッラ・アヌラーダプラ・ラトゥナプラの地に『居住していたという記録が残る』が、一九六三年の統計では四百人と『記録されて以後、正式な人口は不明で、シンハラ人との同化が進んだと見られる』。『民族誌としてはSeligman,C.G. and Seligman,B.Z.』のThe Veddas,Cambridge(一九一一年)『があり、ウェッダー像の原型が形造られた。現在の実態については確実な情報は少ない。伝説の中ではヴェッダはさまざまに語られ、儀礼にも登場する。南部の聖地カタラガマ(英語版)の起源伝承では、南インドから来たムルガン神が、ヴェッダに育てられたワッリ・アンマと「七つ峯」で出会って結ばれて結婚したとされる。ムルガン神はヒンドゥー教徒のタミル人の守護神であったが、シンハラ人からはスカンダ・クマーラと同じとみなされるようになり、カタラガマ神と呼ばれて人気がある。カタラガマはイスラーム教徒の信仰も集めており、民族や宗教を越える聖地になっている』。八『月の大祭には』、『多くの法悦の行者が聖地を訪れて』、『火渡りや串刺しの自己供犠によって願ほどきを行う』。『一方、サバラガムワ州にそびえるスリー・パーダは、山頂に聖なる足跡(パーダ)があることで知られる聖地で、仏教、ヒンドゥー教、イスラーム教、キリスト教の共通の巡礼地で、アダムスピークとも呼ばれるが、元々はヴェッダの守護神である山の神のサマン』(英語: Saman)『を祀る山であったと推定されている。古い神像は白象に乗り』、『弓矢を持つ姿で表されている。サバラガムワは「狩猟民」の「土地」の意味であった。古代の歴史書』「マハーワンサ」『によれば、初代の王によって追放された土地の女夜叉のクエーニイとの間に生まれた子供たちが、スリーパーダの山麓に住んだというプリンダー族の話が語られている。その子孫がヴェッダではないかという』。『また、東部のマヒヤンガナ』『は現在でもヴェッダの居住地であるが、山の神のサマン神を祀るデーワーレ(神殿)があり、毎年の大祭にはウエッダが行列の先頭を歩く。伝承や儀礼の根底にある山岳信仰が狩猟民ヴェッダの基層文化である可能性は高い。なお、民族文化のなかで、一切の楽器をもたない稀少な例に属する』とある(下線太字やぶちゃん)。]

 

 以上述べた所は、たゞ宗教の始だけであるが、現今の野蠻人の中には全くこの通りの有樣のものもある。それより漸々人間の知力が進んで來ると、宗教も之に伴うて段々複雜になり、また高尚になり、特別に宗教のみを職業とする僧侶といふやうなものも出來るが、他の人々が世事に追はれて居る間に、僧侶は知力の方を練るから、知力に於ては俗人に優ることになり、終に宗教は有力な一大勢力となつたのであらう。比較解剖學・比較發生學によつて生物進化の有樣が解る如く、また比較言語學によつて言語の進化の模樣が解る如くに、比較宗教學によつて宗教の進化し來つた徑路が多少明に知れるが、宗教進化の大體を知つて後に現今の各宗教を研究すれば、初めてその眞の價値を了解することが出來る。

 尚宗教といふものは現在行はれて居るもので、多數の人間は之によつて支配せられて居る有樣故、人種の維持繁榮を計る點からいうても、決して等閑にすべきものではない。單に理會力の標準から見れば、現在の宗教は總べて迷信であるが、迷信は甚だ有力なもの故、自己の屬する人種の益榮えるやうにするには、この方針に矛盾する迷信を除いて、この方針と一致する迷信を保護することが必要である。人間には筋肉の發達に種々の相違がある通りに、知力の發達にも數等の階段があつて、萬人決して一樣でない。角力取が輕さうに差し上げる石を、我我が容易に持ち得ぬ如く、また我々の用ゐる鐵啞鈴[やぶちゃん注:「てつあれい」。]を幼兒がなかなか動かし得ぬ如く、物の理窟を解する力もその通りで、各人皆その有する知力相應な事柄でなければ了解することは出來ぬ。それ故、理學上の學説の如きは如何に眞理であつても、中以下の知力を具へた人間には到底力に適せぬ故、説いても無益である。ドイツの詩人ゲーテが「學問藝術を修めたものは既に宗教を持つて居る。學問藝術を修めぬ者は別に宗教を持つが善い」というた通り、學問を修めた者には、特に宗教の必要はないが、學問などを修めぬ多數の人間には安心立命のために何か一つの宗教が入用であらう。然るに宗教には、種々性質の異なつたものがあつて、その中には自己の屬する人種の維持・繁榮に適するものと適せぬものとがあるから、宗教の選み方を誤ると、終には人種の滅亡を起すかも知れぬ。人種の維持に必要なことは競爭・進步であるから、生存競爭を厭ふやうな宗教は極めて不適當で、實際さやうな宗教の行はれる人種は日々衰頽に赴かざるを得ない。諸行の無常なのは明白であるが、無常を感じて世を捨てるといふのは大きな間違であらう。樹木を見ても將に枯れようとする枝は、先づ萎れる通り、無常を感じて競爭以外に遁れようとするのは、その人種が將に滅亡に近づかうとする徴候であるから、人種的自殺を望まぬ以上は、斯かる傾のある宗教は、勉めて驅除せねばならぬ。生物は總べて樹枝狀をなして進化して行くもので、自己の屬する人種は生物進化の大樹木の一枝であることが明な上は、生存卽競爭と諦めて勇しく[やぶちゃん注:「いさましく」。]戰うやうに勵ますといふ性質の宗教が最も必要であらう。甚だしい迷信ほど信者の數が多く、今も昔も賣ト者の數に著しい增減のない所を見れば、世の中から迷信を除き去ることは容易ではないが、迷信が避けられぬ以上は、人種維持の目的に適する迷信を保護するの外には道はない。

[やぶちゃん注:『ドイツの詩人ゲーテが「學問藝術を修めたものは既に宗教を持つて居る。學問藝術を修めぬ者は別に宗教を持つが善い」というた』ゲーテの「遺稿詩集」の「温順なクセーニエン」(Zahme Xenien)第九集の一節。]

 

 從來西洋諸國では耶蘇教が行はれ、この世界は神が六日の間に造つたものであるとか、人間は神が自分の姿をモデルにして泥で造り、出來上つた後に鼻の孔から命を吹き込んだとか、アダムの肋骨を一本拔き取つてエバを造つたとか、いふやうなことを代々信じて、人間だけか一種靈妙なものと思つて居た所へ、生物進化論が出て、人間は獸類の一種で、猿と共同な先祖から降つたものであると説いたのであるから、その騷は一通りではなかつた。初めの間は力を盡して進化論を打ち壞さうと掛かつたが、進化論には事實上に確な證據のあること故、素より之に敵することが出來ず、次には宗教と理學との調和などと唱へて、聖書に書いてあることを曲げて、進化論の説く所に合はせやうと勉めたが、之もまた無理なこと故、到底滿足には出來ず、今日では最早如何とも仕樣のないやうになつた。今後は段々教育も進み、學問が普及するに隨つて、進化論の解る人も追々殖えるに違ないから、宗教の方も進化論と矛盾せぬものでなければ、教育ある人々からは信ぜられなくなつてしまふであらう。

 以上は單に執筆の際に胸に浮んだことを斷片的に書き竝べたに過ぎず、これらに就いては考の違ふ人も無論大勢あらうが、傳來の舊思想の大部分が進化論のために絶大な影響を受けて、殆ど根抵から變動するを免れぬことだけは、誰も認めぬ譯には行かぬであらう。今日多數の人々の思想は元自分の力で獨立に考へ出したものではなく、たゞ教へられたまゝを信じて殆んど惰性的に引き續いて居るに過ぎず、隨つて、學者間に如何なる新説が行はれても、そのため容易に變動することはない。然しながら、進化論の如き思想界に大革命を起すべき性質の知識が、幾分か讀書人の社會に普及して、文藝に從事する人々の間に弘まると、直にその作品の上に變化が現れるから、新しい思想が存外速に世間一般に擴がるやうになる。最近四五十年間に、西洋諸國で著された有名な小説や脚本の中には、從來の宗教的信仰や社會の風習を全く無視し、もしくは之に反抗した形跡のあるものが頗る多數を占めて居るが、之は餘程までは進化論の確になつたために、在來の宗教の權威が薄らいだ結果と見倣すことが出來よう。今日の靑年はかやうな本を讀む故、自然と、舊時代の信仰や傳説に對して、無遠慮な批評を試みるやうになるが、昔のまゝの思想を有する老人等から見ると、恰も人類の道德が破壞せられて行くかの如くに思はれ、壓制的に之を止めようとするので、どこにも衝突が起る。この先如何に成り行くかは知らぬが、知識の進步に伴うて、時代の思潮が段々移り行くのは自然の勢であつて、人力を以て之を壓し戾すことは到底不可能であらう。而して斯く新しい思想が文藝の作品の中に盛に姿を現し、ために往々家庭に於ける老若二派の間に風波を生ずることのあるに至つたのも、その原因を探れば、一つは進化論が文藝界に知られて舊思想に動搖を來したにあるを思へば、進化論が文明世界の思想方面に及ぼした影響は、實に豫想外に廣いものといはねばならぬ。

 

新補 進化論講話 終
 
[やぶちゃん注:「新補」は
横書ポイント落ち。]

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