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2018/07/03

諸國里人談卷之三 土饅頭

 

    ○土饅頭(どまんぢう)

周防國吉敷郡(よしきこほり)高原(たかはら)、氷上(ひのかみ)山は叡山を移したる靈地なり。此山に米石(よねいし)・餠石(もちいし)・土饅頭といふあり。土中(どちう)より掘(ほり)いだす。これを以〔もつて〕、天行病(はやりやまひ)を防ぎ、瘧(おこり)のおつる事、神妙なり。むかしは毎年(まいねん)二月十三日、北辰尊星(ほくしんそんせい)の祭(まつり)あり。日本第一霊験(れいげん)のある大祭也。千種百味を備(そな)ふ。多々良(たゝら)家代々、一千余歳、祭り來れり。「運(うん)の祭」と云〔いふ〕は是也。多々良家の千余歳の内は、年毎(としごと)に星くだり給ふとなり。天文十八年より星もくだり給はず。大内義隆より、此祭、斷絶す。その昔の祭供(さいぐ)、土石(どせき)と成(なり)て土中に埋(うづも)れしと云(いへ)。○大内家は山陰・山陽の大守、當國山口の城に住す。千歳相續(あひつゞき)たる家にて、國中の賑(にぎは)ひ、都に增(まさ)れり。

[やぶちゃん注:これはもし、本当に食べられる土であるとするなら、恐らく、長野県小諸市で天然記念物に指定されている「テングノムギメシ(天狗の麦飯)」の類と似たような、土ではなくて、藻類の塊りなのではないかと私は思う。テングノムギメシは中部地方の火山地帯に産生する微生物の塊で、無味であるが、食用は可能である。ウィキの「テングノムギメシ」によれば、『形はさまざまであるが、大きさは』〇・一ミリメートルから一センチメートルぐらいの『小さな粒状で、弾力があり、乾燥すると味噌の塊のように見える』。「食べられる土」『として紹介される事もあり、古くは長者味噌』・『謙信味噌』・『飯砂(いいずな)とも呼ばれた。「桃の木から分泌される樹脂を少し堅くしたもの」を想像するとよい、と菌類学者の小林義雄は記している。長野県の「飯縄山(飯綱山)」の名称はこれに由来する』とあり、『戸隠山、黒姫山、飯縄山、群馬県嬬恋村、浅間山周辺など』、『比較的高地に分布』し、『山間部の草地で、凝灰質火山噴出物中』『の地下に層をなして見つかる。深さは地下数センチから』四十センチメートル『程度に渡って分布し、場所によっては地上に露出し、深いところでは』二メートル『にも達する。長野県小諸市では産出地が国の天然記念物に指定されている。他に群馬県嬬恋村にも産生地がある』とあるきりで、ロケーションが一致しないが、これと似たようなもののようにも思われるのである。また、「黒姫の風」氏のサイト内の「天狗の麦飯」は実体に迫って(写真有り)必見であるが、そこでは『天狗の麦飯の正体は藍藻類(クロオコッカセー科のグロエオカプサ、グロエオテース)などなどであるといわれて』おり、この『藍藻類には葉緑素は無く、そのため緑色ではなく薄い褐色をして』いる『ため、光合成とは違う化学反応で炭酸ガスの同化をしているのではないかとされ』るとあり、『天狗の麦飯の自生地では安山岩が多く、この安山岩の酸化分解によるエネルギーを利用しているのではないかとする説もあ』ると記されている。記者「黒姫の風」氏は実際に採取して食べており、『手で触れてみると』、『やわらかく、ゼラチン質(』『手で触れると』「くにゅくにゅ」』してい』る『)で湿りけがあり』、『食べてみると』、『味も香りも』ない、と述べておられる。上記の藍藻類は真正細菌ドメイン藍色細菌(シアノバクテリア)門 Cyanobacteria クロオコッカス目 Chroococcales クロオコッカス科グロエロカプサ属 Gloeocapsa・グロエオテーケ属 Gloeothece である。私はずっと先(せん)、テレビで、地図上にある不思議な名前の地を探る番組でこれを扱ったのを見たが国土地理院の地図を見られよ。ちゃんと「テングノムギメシ産地」と書いてあるんだ)、許可を得て採取し、発掘した公務員とレポーターが食べるのを見た。

「周防國吉敷郡(よしきこほり)高原(たかはら)、氷上(ひのかみ)山」山口県山口市大内御堀にある天台宗氷上山興隆寺のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「興隆寺(山口市)」によれば、『寺伝によれば、推古天皇二十一年』(六一三年)『に琳聖太子』(りんしょうたいし:百済国の聖明王(せいめいおう)の王子と言われる渡来人。大内氏の先祖の伝説では佐波郡多々良浜に着いた後、聖徳太子に会い、大内の地を領地として貰い受け、「多々良(たたら)」という姓も賜ったということになっている。本文の「多々良家」は大内氏の祖の本来の姓なのである)『が創建したと伝えられる』。天長四(八二七)年頃、『大内茂村が、現下松市の鷲頭山から氷上興隆寺に妙見社を勧請して氏神とし、大内氏の総氏寺に定めたという』。『この妙見社は祭神を北辰妙見大菩薩(妙見菩薩)と称し、興隆寺とともに、歴代当主の信仰があつく、妙見社大祭の二月会に際しても、当時の行事や条例などが興隆寺文書に記載されている』とあり、御詠歌『ありがたや 妙見菩薩の あまくだし すみたたえる 大内のてら』が挙げられてある。山笑氏のブログ「萩往還を歩く」の「長州藩と氷上山」によれば、『ここは大内氏ゆかりの寺社』で、『この辺り一帯は霊場氷上山として隆盛をきわめ、寺の数は』百『にものぼったといわれ』たが、その後、衰退し、今は興隆寺に『釈迦堂、妙見社社殿、鐘楼が残るのみ』とある。また、solo氏のブログ「ひっそり空閑」の「大内氏と妙見信仰」によれば(野尻抱影著「続 星と伝説」(初版は一九五四年創元文庫刊)に基づく記載)、『平安期、陰陽道・宿曜道が栄えると、星祭りが盛んになった。中期以降は特に北辰と北斗七星が崇拝され、朝廷では星に灯明を捧げる祭事「御灯」(みあかし)が行われた。こうした信仰は民間に広がって、北辰に灯を備え』、『福を祈る際に男女入り混じって歌舞を行うようになり、風俗が乱れたために禁止された』。『その後、朝廷でも信仰は衰えて御灯の行事も途絶えたが、中世以降、日蓮宗が力を持つと、北辰妙見信仰が再び盛んになった』。『もともと』、『この北辰妙見信仰は推古朝時代、百済から伝わったもの』で、『周防吉敷郡高原の氷上山は、この信仰をもたらした百済王子の子孫・多々良氏の聖地で、毎年』二月十三日に『に北辰を祀っていた』。『そしてこの多々良氏は、戦国大名大内氏の本姓』であり、『だから大内氏は、大内家壁書(大内氏掟書)で』「鷹餌鼈亀禁制事 爲鷹餌不可用鼈亀幷蛇也」『「鷹の餌として鼈亀ならびに蛇を用いてはならない」と定めた』のだという。『大内氏の幼名の「亀童丸」もこの信仰がらみらしい。北辰妙見菩薩は、北方の霊獣・玄武に乗った童形の仏』だからである、とある。本文の記載とリンクしているので、引用させて貰った。

「叡山を移したる靈地なり」最澄が三輪山から大物主神の分霊を日枝山に勧請して「大比叡」とし、従来の祭神大山咋神を「小比叡」とし、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵から成る小さな「一乗止観院」を建立したのは延暦七(七八八)年であり、年号からとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄(神護景雲元(七六七)年~弘仁一三(八二二)年)が没した翌弘仁一四(八二三)年のことであり、比叡山延暦寺が京の鬼門を護る国家鎮護の道場として栄えるようになるのは、それ以降のことである(ここはウィキの「延暦寺」に拠った)。氷上山興隆寺は前に引いた通り、寺伝に従うなら、推古天皇二十一(六一三)年で、創建自体はこちらの方が遙かに古い。まあ、一大道場と化した延暦寺の壮大な構成を、後の興隆寺が真似た(「移し」た)と読めばいいわけではある。

「米石(よねいし)・餠石(もちいし)・土饅頭」併記して後に続く以上、前二者も可食物質であると考えねばならない。

「瘧(おこり)」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。戦中まで本邦ではしばしば三日熱マラリアの流行があった。太平洋戦争終結後、一九五〇年代には完全に撲滅された。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。

「おつる事」「落つること」で、病気が落ちる、止む・治ること、の意。

「北辰尊星(ほくしんそんせい)の祭(まつり)」北極星を神格化した妙見菩薩に対する妙見信仰。日本の密教では、この菩薩を本尊として眼病平癒のために妙見法(北斗法・尊星法)という修法を行う信仰がある。妙見菩薩は天部の一人で妙見尊星王・北辰妙見菩薩とも呼ばれる。ウィキの「妙見菩薩には、『妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである』。本来は道鏡の神で、『北の星宿の神格化』されたものであり、『玄天上帝ともいう。宋代には避諱のため、真武と改名されている。清代には北極佑聖真君に封じられ』、『上帝翁、上帝公などとも呼ばれる』。『「菩薩」とは、本来サンスクリットの「ボーディ・サットヴァ」の音写で、「菩提を求める衆生」の意であり、十界では上位である四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)の一つだが、妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら』、『実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されている』。『道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰とも言う)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになった。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである』(だから密教の修法の対象疾患が眼病なのである)。『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経には「我れ、北辰菩薩にして名づけて妙見という。今、神呪を説きて諸の国土を擁護せんと欲す」とある』とある。

「千種百味を備(そな)ふ」その祭祀では、ありとある山海の珍味を悉く揃えて供(そな)える、の意。

「一千余歳、祭り來れり」琳聖太子の興隆寺開山に従うなら、推古天皇二一(六一三)年から「一千余歳」は単純に千年加算なら、慶長一八(一六一三)年となる。

「運(うん)の祭」不詳。但し、現在に残る妙見信仰では常に北を示す北極星が人生の道標(みちしるべ)とされ、妙見菩薩は「勝利開運の守護神」とされているから、この祭りの名は腑に落ちる。

「年毎(としごと)に星くだり給ふとなり」当祭祀は夜間に行われ、流星が出現するのを常としていたということになる。その奇瑞が見られなくなったことが、祭祀廃絶の大きな理由のように沾涼は記しているのである。なお、小さな流星は実際には日常的に毎晩幾らでも見られる。

「天文十八年」一五四九年。推古天皇二一(六一三)年から九百三十六年後後注参照

「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)室町後期の武将。周防生まれ。義興の長男で幼名は亀童丸。戦乱を逃れた公家たちを城下の山口に保護し、文学・学問を好み、明や朝鮮との交易を行なって「一切経」等の文物を輸入した。またザビエルを引見し、山口でのキリスト教布教を許可するなど、文化の普及・発展に貢献した。従二位に至ったが、文治政治に不満を抱いた同族の家臣陶隆房に謀反を起こされ、一族一党自害して、大内家は事実上、滅亡した。彼の家督相続は享禄元(一五二八)年十二月(父死去)であるが(推古天皇二一(六一三)年からは九百十五年後)、前に「天文十八年より星もくだり給はず」とあるということは、「天文十八年」以降は(=「より」)祭祀の最中の流星落下がなかったという意味だから、実際には天文十八年から暫くはそれでも「北辰尊星の祭」を行っていたと読むべきところである。義隆は天文二〇(一五五一)年九月一日に自刃しているどうだろう? こう読んでは? この天文二十年二月十四日の祭祀を、「星も降らんし、供物揃えの費用も馬鹿にならん。それに儂は切支丹の教えを好いておる」とか言って義隆は止めてしまった、その祟りで自死に追い込まれた、という捉え方である。沾涼の書き方はよく見てみると、そう解読されることを確信犯としているように私には見えてくるのである。因みに、天文二十年は推古天皇二十一年からは九百三十八年後に当たる。う~ん、しかし、どうも「一千余歳」がピシッと決まらないなぁ。待てよ? 本書の刊行は寛保三(一七四三)年だぞ! な~んだ、沾涼、書いてるうちに、年数計算の起点をうっかり執筆時に置いてしまったんだ! 推古天皇二十一年から寛保三年は千百十三年で「一千余歳」にピッタリくるもの!

「その昔の祭供(さいぐ)、土石(どせき)と成(なり)て土中に埋(うづも)れしと云」その祭祀に備えた神饌が腐ることなく旧祭祀場所から出土し、妙見の奇瑞によって、それらが悉く疫病やマラリアの薬餌へと変じていたとするのである。]

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