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2018/07/28

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(二) 二 人體の生活現象 / 三 精神及び言語

 

     二 人體の生活現象

 

 生れるから死ぬるまでの生活現象を見ても、人間と犬・猫との間には、根本的に違つた點は一つもない。生まれると直に母の乳を飮んで生長し、日々空氣を呼吸し、食物を食ふて生活すること、老年になれば弱つて死んでしまふことなどは、人間でも犬・猫でも、全く同じである。なお詳に調べて呼吸の作用、消化の作用等を比較して見れば、益相似る度が著しくなる。同一の構造を有する器官を以て、同一の作用を行ふて居るのであるから、外界に對する關係は人間も犬・猫も略同樣で、空氣が稀薄になれば、人も犬・猫も共に窒

息し、水中に落ちれば、人も犬・猫も一所に溺れてしまふ。その他、身體に水分が不足すれば渇を覺え、滋養分が不足すれば饑を感じて、水と食物とを得なければ辛抱の出來ぬこと、一定の時期に達すれば、情欲が起つて寢ても起きても忘れられぬことなども、人と犬・猫との間に少しも相違はない。

 生理學は通常醫學の豫備學科としてある故、生理學の目的は、主として人間の生活現象を詳にすることであるが、今日生理學者の研究の材料には、人間よりは猫・兎等の如き獸類の方が遙に多く用ゐられて居る。特に筋肉・神經等の研究には、蛙を用ゐるのが常である。蛙の大腦で試驗したこと、鳩の小腦で研究したことなどを、そのまゝ人間に應用して差支のない所を見れば、人間も、これらの動物も、生活作用の大體に於ては全く相等しいものと見倣さねばならぬ。試に人體生理學と題する書物を開いて見るに、その中に直接に人體に就いて行ふた研究の掲げてあることは、甚だ少く、脈の搏ちやうとか小便の分析とかまたは皮膚の感覺とかいふ位な、身體に傷を附けずに出來る事項ばかりで、その他は總べて犬・猫・兎・モルモットなどに就いて行ふた實驗に基づくことであるが、かやうな生理學書が常に醫學校で用ゐられ、十分に役に立つて居ることは、人間と犬・猫等との間に、生活現象上何の相違の點もない確な證據である。

 また病理學・黴菌學・藥物學等でも、常に犬・猫の如き獸類を用ゐて研究して居るが、その目的とする所は、素より藥物・黴菌等の人間に對する功力を確めるにあるから、若し人間と犬・猫との體質に根本的の相違があるものならば、總べて無益な筈である。然るに實際に於てはかやうな獸類に就いて行つた研究の結果を人間に應用すれば、皆立派に功を奏して、近來はそのため種々の病氣を豫防的に治療することが出來るやうになつたことなどは、確に人間と犬・猫とは體質に於ても決して著しい相違がないといふ證據である。鼠捕り藥を誤つて飮んだために人が死んだこと、人を殺すために盛つた毒藥を犬に食はせたれば、犬が直に死んだといふことなどは、誰も屢聞くことであるが、特に可笑(をか)かしいのは獸類に對する酒精の働である。或る人が猿に酒を飮ませた所が、醉の廻るに隨うて陽氣に浮かれ出した具合から、步行が不確になつて、左右へよろつき、終に倒れて寢てしまつて、翌日は兩手で頭を抑へて頭痛を怺(こら)へて居る所まで、少しも人間と違ふことはなかつた。たゞ違ふのは、この猿はその後如何にしても決して酒を飮まなかつたといふことである。

 

     三 精神及び言語

 

 人間の身體が、犬・猫の如き獸の身體と甚だ似て居ることは、誰の目にも明なこと故、昔から人間と他の獸類との異なる點をいひ表さうと勉めた學者等は、皆據[やぶちゃん注:「よんどころ」。]なく精神的の方面に之を求めた。デカルトなども人間には精神といふものがあるが、他の動物は皆精神のない自働器械に過ぎぬというて居る。またカントの如き

も、或る著書の中に精神を有するのは人間ばかりであると説いた。その後の教育學の書物には「精神といふものは人間に固有なものである。それ故教育の出來るのも人間ばかりに限る」といふやうなことが屢書いてあるが、之は今日の生物學上の知識を以て見れば、確に大間違である。身體に結び付いた精神的作用は誰も常に見て知つて居るが、身體を離れて別に精神といふものが存在するか否かは、我々の經驗し得る事實からは孰れとも斷言の出來ぬことで、有るといふ證據もないが、またないといふ證據も科學的には擧げられぬ。倂し獸類の動作を詳に研究して、之を人間の動作と比較して見ると、孰れの點を捕[やぶちゃん注:ママ。]へても、たゞ程度の相違があるだけで、彼に有つて此にないといふやうな根本的の差を見出すことは決して出來ぬから、若し人間に精神があるならば、他の獸類にも無ければならず、若し他の獸類に精神がないならば、特に人間のみにその存在を認めるといふわけはない。これらの問題に就いては、昔から何千册書物が出來たか知れぬ位で、今日と雖も、尚盛に議論のあること故、こゝに十分に述べることは、素より出來ず、また動物の精神的動作も詳しく書けば極めて面白いことが夥しくあるが、そればかりでも、非常に大きな書物になる位故、次にはたゞ人間の精神的動作の孰れの部を取つても、必ず動物界にそれと同樣なことがあるを示すために、若干の例を選んで掲げるだけに止める。

 精神的作用といへば主として知・情・意であるが、先づ情の方面から檢するに、凡そ愛情の中で夫婦・親子の間ほど切なるものはない。動物の中には犬・猫等の如く少しも夫婦の定まりがなく、隨うて雌雄の間の情が常には極めて冷淡なものもあるが、また一方には生涯夫婦同棲してその間の愛情の甚だ濃(こまや)かなものがある。「カナリヤ」・文鳥のやうな小鳥でも、雌が卵を溫めて居る間は雄が餌を運んで遣つて、實に仲のよいものであるが、鴛鴦[やぶちゃん注:「をしどり(おしどり)」と読んでおく。]の如きはこの點で有名なもので、その他動物園に飼ふてある鳥類の雄が死んだ後に、雌が悲みに堪えず、終に死んでしまふた例も澤山にある。南洋に産する戀愛鳥と名づける鸚哥(いんこ)の一種の如きは、雌雄常に押し合ふ程に密接して、一刻も離れることはない。獸類は概して暫時一夫一婦のもの、または常に一夫多妻のものであるが、一夫一婦の場合には子を養ふ世話は雌のみが引き受け、一夫多妻の場合には雄は常に雌を保護し、他の雄が近づくやうなことでもあれば、劇しく鬪つて之を逐ひ退ける。その代り雌が他の雄を近づけたりすれば、決して承知せず、嚴しく之を罰する。猿の如きは卽ちこの類である。斯くの如く、動物の中には雌雄の關係も樣々で、その間の愛情にも種々の階級があるが、さて人間の方は如何と見るに、やはりその通りで、鴛鴦に劣らぬ程の夫婦も稀にはある代りに、また犬・猫同樣に少しも夫婦の定めのない社會もある。文明國で賣淫婦の澤山に居らぬ處は何處にもないが、彼等と客との關係は犬・猫の場合と異なつた點はない。また一夫一婦は人倫の基というては居るが、現に一夫多妻の公に行はれて居る所が多く、耶蘇教國の西洋でも、生涯眞に一夫一婦で暮す男は甚だ少數なやうである。されば雌雄の關係は人間も他の獸類も少しも相違はないのみならず、その愛情に至つても人間を第一等と見倣すことは出來ぬ。

[やぶちゃん注:「カナリヤ」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria

「文鳥」スズメ目スズメ亜目カエデチョウ科 Padda 属ブンチョウ Padda oryzivora

「鴛鴦」カモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata

「南洋に産する戀愛鳥と名づける鸚哥(いんこ)の一種」社会性に富み、仲間と非常に強固な絆を結ぶことで知られる、オウム目インコ科インコ亜科 Psittaculini Agapornis属のラブバード類(英語:Lovebird。学名はギリシャ語の「愛」を表わす“Agape”と「鳥」を表わす“Ornis”の合成語)。以下の九種がいる。コザクラインコ Agapornis roseicollis・キエリボタンインコ Agapornis personata・ルリゴシボタンインコ Agapornis fischeri・ボタンインコ Agapornis lilianae・クロボタンインコ Agapornis nigrigenis・カルカヤインコ Agapornis canus・ハツハナインコ Agapornis taranta・コハナインコ Agapornis pullarius・ワカクサインコ Agapornis swindernianus。以上はウィキの「ラブバード」に拠った。]

 

 親が子を愛する情もその通りで、昔から「燒野の雉子(きゞす)、夜の鶴」と諺にもいふ如く、甚だしく子を愛する動物は澤山にある。その中でも獸類の如きは特別で、子を擊たれた親猿の悲みを見かねて、最早一生涯猿は擊つまいと決心した獵師もあるが、鯨のやうな大きな獸でも、捕鯨家の話によれば、子さへ先に殺せば、母親は容易に捕へることが出來るといふ。尚その外に例を擧げると限りはない。尤も蟲類や魚類には卵を生むだけで、後は少しも構はぬものも多いが、一方には子のためには自分の命も惜まぬ程のものもあつて、その間に無數の階級があるから、動物全體を總括しては、孰れともいふことは出來ぬ。人間が子を愛する眞情は、素より極めて深いものには相違ないが、以上の如き例が澤山にある以上は、人間だけが特に優れて子を愛すると斷言するわけには行かぬ。僅二三圓の金で子供を支那人に賣つた者が多勢あることや、娘を娼妓に賣らうとしても承諾せぬから、之を打つたとて警察に引かれた父親のことなどが、絶えず新聞に出るのを見ると、人間の中にも獸類の平均ほどには子の愛情のないものがあるから、この點に就いては、人間と他の獸とを特に區別すべき理由はない。

[やぶちゃん注:「燒野の雉子(きゞす)、夜の鶴」棲んでいる野を焼かれたキジが自分の命にかえてもその子を救おうとし、また、寒い夜に鶴が自分の羽でその子を暖めるところから、「親が子を思う情の深いこと」の譬え。]

 

 愛情に伴うものは嫉妬であるが、之も獸類などには著しい。犬を養つた人は誰も知ることであるが、主人が一疋だけを特に愛すると、他の犬が嫉妬を起すことは常である。特に猿類ではこの念が甚しく、或る船中で一疋の小猿が衆人に愛せられるのを見て、稍大きな猿の方が嫉妬を起し、小猿を海に投げ込んだ話もある。また復讎の念も盛で、或る時インドの動物園に一疋の狒々[やぶちゃん注:「ひひ」。]が飼ふてあつたのを、の士官が常に苦しめたが、或る日、向からその士官の來るのを見て、狒々は急に地面に小便をし、泥をこねて待ち構へ、丁度前に來たときに打ち付けて、その立派な軍服を泥だらけにした話もある。かやうな例は澤山にあるが、その爲すことから考へて見ると、人間と同じ根性を持つて居ることは明に解る。

 尚その他喜・怒・哀・樂の情、死を恐れる情の如きも、人間と他の獸類との間に少しも相違はない。犬・猫の喜び怒ること、また如何なるときに喜ぶか怒るかといふことも誰も知つて居るから、こゝには略するが、動物園に飼ふてあるやうな種々の獸類でも、これらの點は明にその通りで、世話人が深切にすれば喜び、苦しめれば怒る。猿が仲間の死體の周圍に集まつて悲む情でも、犬・猫の兒が戲れ樂む具合なども、人間に見る所と違はぬ。蟻の習性を詳しく調べた人の書いたものに、蟻も時々互に逐ひ廻し合うたりして、恰も人間の子供や犬の兒の如くに戲れることが載せてあるが、丁寧に觀察すれば、稍高等な動物には總べて人間と同樣な情が具はつて居る。

 動物に意の働のあることも明で、犬・猫などにも、一且爲そうと思つたことは、如何なる障害があつても、之を爲し遂げねば承知せぬやうな性質が見える。往來で如何に馬方が鞭で打つても、少しも動かずに馬が立ち止まつて居るのを見掛けることが屢あるが、之もその一例である。而してその情の度が大抵の人間より上に位するものも少くはない。

 好奇心も動物にはある。ダーウィンは或る時ロンドンの動物園に行つて、小さな蛇を一疋紙袋の中に入れて、猿の籠の隅に突き込んで見た所が、忽ちその中の一疋の猿が來て、袋の口を開いて中を覗き、急に叫んで逃げ去つた。猿は生來極めて蛇を恐れるもので、玩弄物の蛇を見せても大騷ぎをする位であるのに拘らず、所謂「恐いもの見たさ」の情に堪え切れず、暫くすると再び來て袋の口を覗いたが、この度は同じ籠の中の他の猿等も皆集まつて來て、恐る恐る熱心に袋の口を覗こうとした。巡査交番所で車夫の叱られて居る周圍に、何の關係もない人等が黑山の如くに集まつて見て居るのも、猿が蛇の袋の周圍に集まつたのも、好奇心の度に至つては、敢えて甲乙はないやうである。

 記憶力の存することも、また一旦忘れたことを思ひ出す順序なども、鳥獸と人間とでは全く同一である。犬・猫・牛・馬に記億力のあることはいふまでもないが、一旦忘れたことでも、思想の聯合によりその緒を捉へれば忽ち全體を思ひ出す具合は、實驗によつて明に證することが出來る。鸚鵡[やぶちゃん注:「おうむ」。]などに歌を教えてあつた場合に、第二句以下を忘れると、鸚鵡は第一句の次に種々の句を繋ぎ試みながら、何囘も繰り返し、適當な句を思い出せば、その先は自然に出る。また鸚鵡が第一句のみを繰り返して第二句を思ひ出そうと考へて居る所へ、側から第二句の最初の一音だけを知らせて遣れば、忽ち全部を思ひ出して、得意になつて之を歌う。これらも人間が物を思ひ出す有樣と少しも違はぬ。

 推理の力に至つては、人間と他の獸類との間に甚だしい相違がある。倂しながら、之も單に程度の問題で、獸類にも多少の推理力のあることは、確であるから、人間はたゞその同じ力が非常に進んで居るといふに過ぎぬ。或る時ロンドンの動物園に飼つてあつた一疋の猿は、猫の子を頻に愛して、常に側に置いて居たが、一度劇しく引つ搔かれた後は猫の足の先を檢査し、齒で爪を嚙み取つて相變らず抱いて居た。この類の例は他にも尚澤山にあるが、獸類の中にも、犬・象・猿などの如くに、この力の多少進んだものもあれば、また極めて痴鈍なものもある如く、人間の方でも、椎理の力の發達の度は實に甚だしい相違があつて、最下等の野蠻人とチンダルスベンサーのやうな學者とを比べると、その間の差は、野蠻人と猩々との相違よりは甚だしいかも知れぬ。數を算へることは、總べての精確な知識の根據となるものであるが、或る動物園に數年飼つてあつた黑猩々[やぶちゃん注:「チンパンジー」の異名。]の牝は、殆ど十位までの數を覺えて區別するやうになつた。之に反してオーストラリヤ邊の野蠻人には三或は四までより知らず、その以上はたゞ澤山といふだけで、少しも勘定する力のない部落もある。これらを比べると、なかなか人間は知力に於て遙に獸類以上であるとばかりはいはれぬ。

[やぶちゃん注:「チンダル」アイルランド出身の物理学者で、登山家としても知られたジョン・ティンダル(John Tyndall 一八二〇年~一八九三年)のことであろうか。チンダル現象(多数の微粒子が不規則に散在している気体や液体に、光を当てた際、透過光と異なる方向からそれを眺めた時、微粒子による散乱のために、その光の通路が明るく濁って見える現象)の発見者として名が知られるその他にも「赤外線放射(温室効果)」・「反磁性体」(磁場をかけた際、物質が磁場の逆向きに磁化され、磁場とその勾配の積に比例する力が、磁石に反発する方向に生ずる磁性のこと。反磁性体自体は自発磁化を持たず、磁場をかけた場合にのみ、反磁性性質が出現する)に関して突出した業績を残している。登山家としてはアルプス山脈五番目の最高峰ヴァイスホルンの初登頂に成功し(一八六一年)、また、マッターホルンの初登頂を競い、一八六二年には山頂から二百三十メートル下の肩にまで達し(但し、初登頂は一八六五年のエドワード・ウィンパーであった)、一八六八年にはマッターホルンの初縦走に成功している。なお、登山の元々の目的は物理学者としてアルプスの氷河を研究することにあった(以上はウィキの「ジョン・ティンダル」に拠る)。

「オーストラリヤ邊の野蠻人」この謂い方自体が極めて差別的であることは批判的に読まねばならない。オーストラリア大陸と周辺島嶼(タスマニア島など。ニューギニアやニュージーランドなどは含まない)の先住民で今まで「アボリジニ(英語:Aborigine)」と呼ばれてきた人々であるが、「アボリジニ」と言う語は差別的な響きが強いことと、言語集団が分かれていたオーストラリア先住民の多様性を配慮して、近年、オーストラリアでは殆んど使われなくなり、代わって現在では「アボリジナル」・「アボリジナル・ピープル」・「アボリジナル・オーストラリアン」(Aboriginal Australians)又は「オーストラリア先住民(Indigenous Australians)という表現が一般化しつつある(以上はウィキの「アボリジニ」に拠った)。]

 

 要するに知・情・意等の精神的作用は、人間以外の獸類にも確に存するもので、人間と他の獸類との相違は單に程度の問題に過ぎぬ。然も情・意の方面に於ては、決して人間を以て第一等と見倣すことの出來ぬ場合が多い。たゞ知力では人間は他の獸類より著しく優れて居る。されば身體の構造では、大腦の頗る發達してあること、精神的作用では、知力の非常に進んであることだけが、人間と他の獸類との相違する點で、文明人と野蠻人との相異なるのもたゞこの點に過ぎぬ。今日人間が他の獸類に打ち勝つて天下を占領して居るのも、文明人が野蠻人を亡ぼして四方へ蔓延るのも、皆知力ばかりによることである。

 「道理を辨へて居るのは、人間ばかりである。他の獸類には道理を辨へて居るものは一種もない。之が人間と他の獸類との異なる點である」などと書いた書物も澤山にあるが、極めて漠然たる説で、若し道理といふ字を卑い[やぶちゃん注:「いやしい」。]意味に取つて、多少理を推すことの出來る力と解釋すれば、人間以外にも之を有するものは幾らもある。また高尚な狹い意味に取ると、人間の中にも之を持たぬものが多數を占めて居るから、之を以て人間と他の獸類との區別の標準と見倣すことは出來ぬ。また「人間ばかりは自己の存在を承知して居るが、他の獸類にはこのことがない」と書いてある書物もあるが、この事も確に證明の出來ぬことで、自分は過去はどこから來て、未來はどこへ行くものであらうかなどと考へることは、他の獸類にはないかも知れぬが、犬や象の如き智慧のある獸が、年寄つてから自分の若い時に經驗したことを思ひ出すことがないとは、なかなか斷言は出來ぬ。動物園の檻の内で猩々が厭世的の顏をして靜坐して居るのを見ると、故郷のことでも考へて居るのではないかと思はざるを得ぬ。之に反して最下等の野蠻人などになると、自己の存在の理由等を考へるものはない。されば自己の存在を知ることの有無を以て、人間と他の獸類との區別の點とすることは出來ぬ。

 道德心に就いてもその通りで、犬が主人のために命を捨てて忠義を盡した話などは幾らもあるが、凡そ團體をなして生活する動物であれば、友の難儀を救ひ、友と樂[やぶちゃん注:「たのしみ」。]を分つといふやうな習性の多少具はつて居ないもの

はない。犬が生理學上の實驗のために生きたまゝで體を切り開かれながら、尚解剖刀を持つて居る主人の手を嘗めたこと、或は犬が主人に財囊[やぶちゃん注:「ざいなう(ざいのう)」。財布。]を或る木の下へ忘れて來たことを知らせるために、尚平氣で先へ進もうとす

る主人の馬の足に嚙み附いたので、主人は犬が發狂したことと思ひ、鐵砲で擊つたのに、犬は據なく痛みを怺へて、前に主人の休んだ木蔭の處まで行き、瀕死の有樣ながら、尚そこにある財囊を護つて居て、主人が之に氣が附き歸つて來たのを見て、一聲鳴いて瞑目したことなどの記事を讀めば、如何なる人でも淚を零さずには居られぬ。人間には素より道德の高いものもあるが、また主人の財産を橫領しようと計畫する連中も決して少くない。特に文明人が野蠻人に對する所置を見ると、殆ど道德の痕跡も見えぬやうなことがある。奴隷採集に南洋に行つた汽船の記事などを見ると、譯の解らぬ黑奴を瞞して[やぶちゃん注:「だまして」。]船に呼び寄せ、腕力で之を擒[やぶちゃん注:「とりこ」。]にして船底の物置に押し込め、少しでも騷げば鐵砲で擊ち殺し、少し重い傷を負うて最早賣れる望のないものは、生きながら海中に投げ捨てたことなどが書いてある。また戰爭のときに逃げ後れた婦人が如何なる目に遇ふかは、文明開化に誇る十九世紀の末年に起つた出來事を見ても明なことで、その殘酷な所行は殆ど述べることも出來ぬ。あそこでは黑奴が極めて殘忍な方法で私刑に處せられたとか、こゝではユダヤ人が何百人虐殺せられたとかいふことが、新聞に絶えぬのを見れば、道德心の有無を以て、人間と他の獸類とを區別することの出來ぬは實に明瞭であらう。

 斯くの如く精神的動作の種々の方面を檢するに、孰れの點に於ても人間と他の獸類との間に根本的の相違はないが、之から考へれば、人間には精神があるが、他の獸類には精神がないといふ如き説は、全く根のないことで、之を基として論じた結論は總べて甚だしい誤でなければならぬ。若し人間に特別な精神があるものとしたならば、犬・猫にもある筈で、若し犬・猫に精神がないものとしたならば、人間だけにその存在を認めなければならぬといふ特別の理由は毫もない。日々人間の爲す所を見たり、新聞に出て來る記事を讀みなどすれば、人間の行爲も他の獸類の行爲も、その原動力は大同小異で、大部分は食欲と色欲とに基づくことが明であるが、たゞ知力發達の度に著しい差があるから、欲を滿足せしめるための手段と方法とは、他の獸類に比すれば無論甚だしく複雜である。

 

 言語を有するのは人間ばかりである。人間の外には言語を有する動物はないとの説もあるが、之また程度の問題である。人間の如くに發達した言語を有するものが、他にないことは明であるが、言語の初步だけを具へた動物は決してないとはいはれぬ。猫や犬でも、喜ぶとき、怒るとき、餌を求めるとき、罪を詫びるときなどの鳴聲が一々違ふことは誰も氣の附くことであるが、野生の獸類には隨分複雜な鳴聲を有して、自分の感情或は外界の出來事を同僚に傳へるものが澤山にある。猿の言語を取調べるために、數年アフリカの森中に留まつた人の報告などを見ると、猿にも一種の言語があつて、人間の言語とは素より比較にならぬが、感情を傳へる叫び聲の外に、普通の需要物品を言ひ表す單語なども相應にあるから、度に於ては非常な相違はあるが、性質は人間の言語と異なつた所はないやうである。ロシア語ではドイツ人のことをニェメツといふが、ニェメツとは啞[やぶちゃん注:「おし」。]といふ意味の文字である。之は恐らくロシア人が國境を越えてドイツ國に行くと、幾らロシア語で話しかけても先方へは通ぜず、また先方のいふことはこちらへは少しも解らぬから、かやうに名づけたのであらうが、今日我々が他の動物には言語がないというて居るのは、殆どこのやうな有樣で、たゞ先方のいふことがこちらに通じないといふに過ぎぬ。

[やぶちゃん注::ロシア語で正式にはドイツ人は“германец”(ゲルマーニェツ)であるが、ここに書かれた通り、蔑称では“немец”(ニェミェーツ)と言う。但し、参照したQ&Aサイトの回答では『ニェミェーツはすでに一般用語のレベルで使われており、公共の場で使っても問題』ないとあるが、はて、語源を知ってしまえば、使いたくはないし、使うべきではない気が私はする。]

 

Sarunokeiko

 

[猿の稽古]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正して使用した。但し、本文には猿(絵のそれはチンパンジーである)の学習訓練に就いては記されていない。]

 

 ドイツエルバーフェルド市のクラルといふ人は、二十年ばかり前から數疋の馬を教育して、文字を覺えさせ、その音を聞き分けるやうに教へ込んだが、馬は人の問に對してよく文宇で答へ、自身のいひたいことも、よく文字で現すことが出來て、算術も加減乘除が間違ひなく出來るやうになつた、その結果を詳しく書いた書物が先年出版せられたが、それからこの方面に注意する人が頗る多くなり、犬で同樣な實驗を試みた人もあり、動物の心理狀態を研究するための新しい學會も創立せられた。初めは大に疑つた人も多かつたが、數名の動物學者が嚴重に調査した結果によると、決して間違ひではなく、確に馬や犬には自身に物の理屈を考へる力があり、習ひ覺えた文字を用ゐてこれを發表するものである。されば今日では最早人間以外にも言語を解し、之を以て談話し得る動物が幾種類もあることは、決して疑ふべからざることとなつた。

[やぶちゃん注:「ドイツ國エルバーフェルド市のクラルといふ人」は「生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 四 智力」に既出(但し、人物は不詳。「エルバーフェルド」は“Elberfeld”で、現在はドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州の合併都市ヴッパータール市(Wuppertal)内の地区名。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、私はそこで数を数える馬(通称「クレバー・ハンス」)については疑義を呈している。]

 

 知力の進步と言語の進化とが相伴ふべきことは明であるが、この二者が相伴つて著しく發達して居ることが、殆ど人間と他の獸類との異なるたゞ一の點で、その他に至つては決して人間のみに特有なものを見出すことは出來ぬ。而して知力・言語に於ても、人間と他の獸類との間の相違は單に程度の問題で、決して根本的性質の相違ではない。素より同じく人間といふ中には、最上等から最下等まで無數の階級があるから、上等の人間を取つて論ずれば、一般の獸類とは總べての點で甚だしく違ふのはいふまでもないが、下等の人間に就いて調べると、知力と言語とを除けば、その他の點に於ては殆ど獸類と甲乙はない。先年或る處に飼ふてある狒々[やぶちゃん注:「ひひ」。]の所行が風俗を壞亂する恐があるといふて、警察署から之に板圍をするやうに飼主に命じたことがあるが、狒々といふ獸が或る所行をすると、人間の風俗がその爲に亂れるといふことは、知力・言語以外に於て如何に人間と他の獸類とが相近いものであるかをあきらか明に示して居る。

 

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