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2018/07/03

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年  「病牀六尺」百回

 

    「病牀六尺」百回

 

 「病牀六尺」は六月以降は一日も休まずに掲載された。五月中には何度か闕(か)けた日がある。古嶋一雄氏に宛てた左の手紙は月日を明(あきらか)にせぬが、多分その時分のものであろうと思う。

[やぶちゃん注:「古嶋一雄」ジャーナリストで後に衆議院議員・貴族院議員となった子規の盟友古島一雄(慶応元(一八六五)年~昭和二七(一九五二)年)。既出既注。当時、『日本』の記者。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合した。但し、元はカタカナ漢字交じりであるので、読み易さを考え、底本のひらがなを採用した。]

 

拝啓 僕の今日の生命は「病牀六尺」にあるのです。每朝寐起には死ぬる程苦しいのです。其中で新聞をあけて「病牀六尺」を見ると僅に蘇(よみがへ)るのです。今朝新聞を見た時の苦しさ、「病牀六尺」がないので泣き出しました。どーもたまりません。

若し來るなら少しでも(半分でも)載せて戴いたら命が助かります。

僕はこんな我儘をいはねばならぬほど弱つてゐるのです。

 

[やぶちゃん注:岩波文庫版「病牀六尺」の歌人で小説家・文芸評論家の上田三四二(みよじ 大正一二(一九二三)年~平成元(一九八九)年)氏の解説によれば、実はこれは『新聞が子規の病状を心配して休載の日をつくったことがあった』が、その際に子規が寄せたものであると記されてある。]

 

 居士はこの意味において怠らず原稿を送り、『日本』の方も闕かさず載せたので、八月二十日には遂に百回に達した。居士は「「病牀六尺」が百に満ちた」というよろこびの下に、こういうことを書いている。はじめこの原稿を書きはじめた時分に、毎日状袋の上書(うわがき)を書くのが面倒なので、新聞社に頼んで状袋に活字で刷ってもらった。それでさえ病人としてはあまり先の長い事をやるといって笑われはすまいかと心配したのに、社の方では百枚註文した状袋を三百枚刷ってくれた。この数には驚いて、十ヵ月先のことはどうなるか、おぼつかないものだと心配したが、思ったよりは容体がよく、遂に百枚の状袋を費したのは居士としてもむしろ意外であった。「此百といふ長い月日を經過した嬉しさは人にはわからんことであらう。併しあとにはまだ二百の狀袋がある。二百は二百日である。二百は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて來る。果して病人の眼中に梅の花が咲くであらうか」といふのである。

[やぶちゃん注:「病牀六尺」の「百」(文末クレジット「(八月二十日)」)の全文を例の初出で翻刻する。

   *

○病牀六尺が百に滿ちた。一日に一つとすれば百日過ぎたわけで、百日の日月は極めて短いものに相違ないが、それが予にとつては十年も過ぎたやうな感じがするのである。外の人にはないことであらうが、予のする事は此頃では少し時間を要するものを思ひつくと、是がいつまでつゞくであらうかといふ事が初めから氣になる。些細な話であるが、病牀六尺を書いて、それを新聞社へ每日送るのに狀袋に入れて送る其狀袋の上書をかくのが面倒なので、新聞社に賴んで狀袋に活字で刷つて貰ふた。其之を賴む時でさへ病人としては餘り先きの長い事をやるといふて笑はれはすまいかと窃に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]心配して居つた位であるのに、社の方では何と思ふたか、百枚注文した狀袋を三百枚刷つて呉れた。三百枚といふ大數には驚いた。每日一枚宛書くとして十箇月分の狀袋である。十箇月先きのことはどうなるか甚だ覺束ないものであるのにと窃に心配して居つた。それが思ひの外五六月頃よりは容體もよくなつて、遂に百枚の狀袋を費したといふ事は予にとつては寧ろ意外のことで、此百日といふ長い月日を經過した嬉しさは人にはわからんことであらう。併しあとにまだ二百枚の狀袋がある。二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて來る。果して病人の眼中に梅の花が咲くであらうか。

   *]

 

 「病牀六尺」が百に達するよほど前から、居士は菓物(くだもの)の写生をはじめた。六月二十七日に青梅を画いたのを手はじめに、丹念な色彩の写生を続けて行った。くだものだけでなしに、南瓜(かぼちゃ)とか、茄子とか、胡瓜とかいうものを画いた日もあるが、とにかく八月六日までの間に十八の写生を完了した。而して菓物帖を画き上げるより早く、八月一日には別の画帖に移って草花の写生をはじめている。この写生画は一枚の葉を画くに当っても、何度となく絵具を塗抹し、実物の感じを出そうと力(つと)めたもので、健康者が画くにしても恐るべき努力を要するものである。

 居士は「病牀六尺」に次のように書いた。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。以下も同じ。初出で校合した。前は「八十七」(後の文末「(八月七日)」クレジット分)の全文で、次のものは「八十九」「(八月九日)」クレジット分)の全文である。]

 

草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に寫生して居ると、造化の秘密が段々分つて來るやうな氣がする。

 

またこうも書いて居る。

 

或繪具と或る繪具とを合せて草花を畫く、それでもまだ思ふやうな色が出ないと又他の繪具をなすつてみる。同じ赤い色でも少しづゝの色の違ひで趣きが違つて來る。いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黃色味を帶びた赤とかいふものを出すのが寫生の一つの楽みである。神樣が草花を染める時も矢張りこんなに工夫して樂んで居るのであらうか。

 

居士はモルヒネを飲んでから写生をやるのを何より樂(たのしみ)し、うまく画けても画けないでも、だんだんに写生帖の画き塞がれて行くのがうれしくて堪(たま)らなかったのである。

[やぶちゃん注:当該項(「八十六」・後の文末「(八月六日)」クレジット分)は初出全文を既に注で電子化してある。]

 

 草花帖の最後に羯南翁のところから朝顔の鉢を借りて来て、牛後から写生をやっているところへ、伊東牛歩(ぎゅうほ)、鈴木芒生(ぼうせい)両氏が訪ねて来た。この時芒生氏の齎(もたら)した南岳の「艸花画巻(そうかえまき)」は大(おおい)に居士の心を動かし、遂にこの画巻を割愛(かつあい)[やぶちゃん注:この場合は、「(相手が惜しいと思うものであろうが、それを)思いきって手放して貰うこと」の意である。]してもらうわけに行くまいか、と切出すに至った。これは居士が今生(こんじょう)における最後の願望であり、またこれまで物を所有するということについて、この時ほど熱烈な願望を懐いたことはなかったろうと思う。所蔵者たる皆川丁堂(ちょうどう)氏はやむを得ざる事情があるからとの理由で、割愛することは肯じなかったけれども、居士は更に切望の旨を牛歩、芒生両氏宛に手紙で申送り、結局居士の生前だけ提供するということで落著(らくちゃく)した。この画巻に対する執著(しゅうじゃく)が如何に異常であったかは、牛歩、芒生両氏に宛てた二通の手紙からも十分に察することが出来る。「病牀六尺」には二回にわたってこの顚末を記し、「艸花画巻」を「渡辺のお嬢さん」ということにして恋物語のような書き方を試みた。

[やぶちゃん注:「伊東牛歩(ぎゅうほ)」(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年)僧侶で俳人。東京生まれ。名は快順、牛歩は号。正岡子規に就いて俳句を学んだ。『ましろ』同人。

「鈴木芒生(ぼうせい)(明治一一(一八七八)年~昭和五(一九三〇)年)は教師で俳人。静岡県生まれ。東京高等商業学校を卒業後、同校専攻科卒。熊本高等商業学校教授及び山口高等商業学校教授となり、大正六(一九一七)年、海外留学を命ぜられて英・米・仏に一年半滞在し、帰国後は私立京城高等商業学校校長となった。昭和三(一九二八)年、病を得て辞任、山口の自宅にて静養中に死去した(以上はページの事蹟を参照したが、リンク先に掲げられている句を見る限り、後に新傾向から自由律に転じている模様である)。「春耕俳句会」公式サイト内の子規の四季(83) 2017年8月号池内けい吾渡辺のお嬢さんによれば、明治三五(一九〇五)年の『夏には、伊勢四日市の任地を辞して上京し、本所のある寺に泊まっていた。寺の住職の丁堂も寺に寄宿中の僧・牛歩も俳人で、三人連れ立って久しぶりに子規の病床を見舞おうということになった。ところが住職は急用ができたため、かねて一度子規に見せたいと思っていた住職所蔵の』渡辺『南岳の百花絵巻を芒生、牛歩の二人が借り受けて子規庵を訪れたのである』とある。

「南岳」渡辺南岳(明和四(一七六七)年~文化一〇(一八一三)年)。既出既注であるが、再掲しておく。京都の人。円山応挙の高弟で「応門十哲」に数えられた。美人画を得意とし、後年には尾形光琳に私淑し、その技法も採り入れている。後、江戸に出て、円山派の画風を伝える一方、谷文晁や酒井抱一らとも交遊した。

「艸花画巻(そうかえまき)」正しくは「四季草花圖卷」。京藝術大学大学美術館公式サイト所蔵作品データベースで見られる。確かに、「渡邊のお孃さん」、なかなかの才媛にして美女である。

「皆川丁堂(ちょうどう)」上記引用注以外のことは不明(寺の名ぐらいわかりそうなものなのだが、判らぬ)。子規の門人であった。「病牀六尺」では「丁堂」は「澄道」と出るが、ネット上の多くの記載は皆、「丁堂」である。

 最後の部分は「百四」(例のクレジットは「八月二十四日」)で(前日分「百三」の末尾から続きとなっている)、そこに「渡邊のお孃さん」と出、また、限定貸与されたシーンが百十一(「八月三十一日」)に出る。リンク先は孰れも国立国会図書館デジタルコレクションの初出切貼帳の画像(前者「百四」回は非常に長い。因みに、「百四」回の終りの方、画巻は取り敢えず手元に置かれたものの、手放すことは出来ないということに悶々とし、持ち来った二人に手紙を認め、そこに恨みを含んで、

 斷腸花(だんちやうくわ)つれなき文(ふみ)の返事かな

とやらかし、それでも『煩悶に堪へぬので、再び手紙を書』き、『今度は恨みを陳べた後に更に何か別に良手段はあるまいか、若し余の身にかなふ事ならどんな事でもするが、とこまごまと書いて』、

 草の花つれなきものに思ひけり

という句を添えている。「渡邊のお孃さん」への愛慾の妄執、凄まじ、である。而して、「百十一」で子規生前中のみ貸与が決した後のことを以下のように記す。

   *

予が所望したる南岳の艸花畫卷は今は予の物となつて、枕元に置かれて居る。朝に夕に、日に幾度となくあけては、見るのが何よりの樂しみで、ために命の延びるやうな心地がする。其筆つきの輕妙にして自在なる事は、殆ど古今獨步といふてもよからう。是が人物畫であつたならば、如何によく出來て居つても、予は所望もしなかつたらう、また朝夕あけて見る事も無いであらう。それが予の命の次に置いて居る草花の畫であつたために、一見して惚れてしまうたのである。兎に角、この大事な畫卷を特に予のために割愛せられたる澄道和尚の好意を謝するのである。

   *]

 

 居士は南岳の「艸花画巻」を得て、「草花帖(さうくわてふ)我に露ちる思ひあり」と詠んだ。「草花帖」の五字は後に「病牀の」と改められている。「草花を畫く日課や秋に入る」という句の通り、草花の写生に日を費して来た居士が、その完成する日に当って南岳の「艸花画巻」を見、熱烈な願望を起したのは、何だか偶然でないような気がする。居士は「これが人物画であったならば、如何によく出来て居っても、余は所望もしなかったろう、また朝夕あけて見る事もないであろう。それが余の命の次に置いて居る艸花の画であつたために、一見して惚れてしもうたのである」といっている。死期を前にしてこの願望を起した居士は、これを手に入れることによって最後の大満足を経験したのである。

 丁堂氏に対しては直に「我に露ちる思ひあり」以下七句を短冊にしたためて贈り、八月二十九日に至って更に十枚の短冊を贈った。その短冊の中に弘法、伝教、親鸞、日蓮、法然諸宗祖の讃の句があるのは、丁堂氏が一寺の住職である因により、新(あらた)に詠んだものであろうと思われる。この短冊に添えた一葉の端書(はがき)が、居士が今生において筆を執った最後の書信であった。

[やぶちゃん注: 俳誌『春星』のサイト内の中川みえ氏の「子規の俳句」のこちらの『子規の俳句(九五)』にも、『絵巻が自分のものになった時に、子規は七枚の短冊を書いて、取り敢えずの謝礼とした』として(冒頭の「書」は「畫」の誤りの可能性がある。子規の初出等を見ていると、「畫」の字の代わりに異体字「𤱪」「𤲿」のような字が盛んに用いられているからである)、

   《引用開始》

   丁堂和尚より南岳の百花書巻を贈られて

 草花帖我に露ちる思ひあり

   読幻住庵記

 破団扇夏も一炉のそなへかな

 草市の草の匂ひや広小路

 草市や雨にぬれたる蓮の花

 遠くから見えしこの松氷茶屋

 暁の第一声や松魚売

 夏野行く人や天狗の面を負ふ

 

   《引用終了》

とあり、その後、『丁堂へは、八月末になって、更に短冊十枚を贈った』として、

   《引用開始》

 

 龍を叱す其御唾や夏の雨    弘法大師賛

 此杣や秋を定めて一千年    伝教大師賛

 御連枝の末まで秋の錦哉    親鸞上人賛

 鯨つく漁父ともならで坊主哉  日蓮上人賛

 念仏に季はなけれども藤の花  法然上人賛

 十ヶ村いわし喰はぬ寺ばかり  大漁

 苗しろや第一番や善通寺

 豆の如き人皆麦を蒔くならし

 盆栽の梅早く福寿草遅し

 猩臙脂に何まぜて見むぼたん哉

 

   《引用終了》

とあって、最後にこの『短冊に添えたはがきが、子規自筆の最後の書信となった』とある。]

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