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2018/08/21

「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 岩瀨村(Ⅱ) 大長寺(他) / 岩瀨村~了

 

[やぶちゃん注:本条は非常に長いので、読み易さを考えて鍵括弧や中黒を使用し、注を本文に、注など不要な方は飛ばして読めるよう、ポイント落ちで入れ込んだ。また、多数登場する鎌倉御府外の寺名や関係僧及びその出典等については、煩瑣なだけで、必要とする人も限りなく少数であろうからして、而も本文自体が読み難くなることから、それ等は原則、注さないこととする。大長寺はここ(グーグル・マップ・データ)。最初に、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像から、添え図である「大長寺境内圖」を示し、そのキャプションを中央奥の仏殿から反時計回りに電子化しておく。]

 

Daityoujizenzu

 

   大長寺境内圖

[やぶちゃん注:右端中央にも同タイトル・キャプションがある。]

仏殿

吉祥水

北條氏墓

門山塔[やぶちゃん注:「開山塔」の誤記か。]

三社權現社

庭松院

中門

銀杏樹

鐘樓

方丈

梅 井

心蓮社蹟

 

○大長寺 龜鏡山護國院と號す。淨土宗〔京知恩院末。〕。天文十七年[やぶちゃん注:一五四八年。]五月の創建にして開山は存貞[やぶちゃん注:「そんてい」。]〔鎭蓮社感譽願故と號す。小田原の人なり。大道寺駿河守政繁の甥、大永三年[やぶちゃん注:一五二三年。]三月生る。成人の後、小田原傳長寺に投じて剃度し、後、飯沼弘經寺に掛錫して、法を鎭譽に嗣。舊里に歸て、傳聲寺に住す。天文十七年、當寺を建。又、四十八願[やぶちゃん注:阿弥陀如来が法蔵菩薩であった時に立てた四十八誓願。]に應て、四十八寺を創し、永祿六年[やぶちゃん注:一五六三年。]、增上寺に轉住し、檀林の掟制三十三條を定。是より宗風、煽に起る。又、別時中[やぶちゃん注:別時念仏。特別の時日や期間を定めて称名念仏をすること。]、靈夢を感じ、傳法の規繩、法問の則儀を定め、一派の祖と稱せらる。其後、當寺二世靈譽圓治に、緣山[やぶちゃん注:増上寺のこと。増上寺の山号は三縁山。]の職を讓り、更に地方に遊化し、天正二年[やぶちゃん注:一五七六年。]九月當寺に歸遁し、明年五月十八日寂す。則、寺域に葬る。碑銘なきを以て、靈山寺前住秀海、其事實を撰し、文政四年[やぶちゃん注:一八二一年。]、現住單定、碑を建。【傳燈總系譜】曰、鎭蓮社感譽存貞、號願故、相州小田原人。北條氏家臣大道寺某の甥也。初投同所傳肇寺剃髮、下于武江、師事杲譽、長後皈古里、住傳肇寺。天文中、爲堪檀越大道寺駿河守母追福、於武州河越、建蓮馨寺。又、於同州、開建平方馬蹄寺・小林寺・淸長命寺・高澤大蓮寺・見立寺、又、於信州更級郡綱島開安養寺。永祿六年、爲江增上寺第十世。傳法照々、遂成一派。天正初、仍檀主請、爲相州鎌倉郡大長寺及深谷專念寺開山第一祖。天正二年五月十八日寂す。〕、開基は玉繩城主北條左衞門大夫綱成[やぶちゃん注:北条綱成(つななり/つなしげ 永正一二(一五一五)年~天正一五(一五八七)年。後北条氏家臣。ウィキの「北条綱成」によれば、玉繩城主として北条家主力部隊「五色備(ごしきぞな)え」の内の最強として知られた「黄備(きぞな)え隊」を率いた(黄色地に染められた「地黄八幡(じきはちまん)」という旗指物を使用したことで知られる)。綱成与力衆は「玉縄衆」とも呼ばれた。父は今川氏家臣福島正成とされ、父の死後、『小田原へ落ち延びて北条氏綱の保護を受けたといわれる。経緯については、大永元年』(一五二一年)『に飯田河原の戦いで父・正成ら一族の多くが甲斐武田氏の家臣・原虎胤に討ち取られ、家臣に伴われて氏綱の元へ落ち延び近習として仕えたとも』、天文五(一五三六)年に『父が今川家の内紛である花倉の乱で今川義元の異母兄・玄広恵探を支持したために討たれ、氏綱の元へ落ち延びたという』二『説がある』。『氏綱は綱成を大いに気に入り、娘を娶わせて北条一門に迎えるとともに、北条姓を与えたという。綱成の名乗りも、氏綱から賜った偏諱(「綱」の字)と父・正成の「成」を合わせたものとされる。その後、氏綱の子である北条為昌の後見役を任され』、天文一一(一五四二)年に『為昌が死去すると、年長である綱成が形式的に為昌の養子となる形で第』三『代玉縄城主となった』。『しかし、福島正成を父とする説をめぐっては異論があり、黒田基樹は『北条早雲とその一族』の中で上総介正成という人物は実在しないとしており、小和田哲男も『今川氏家臣団の研究』の中で福島上総介正成という名前は古記録や古文書に出てこないとしている。そのため』、『綱成の実父については、黒田(『北条早雲とその一族』)は』、大永五(一五二五)年の『武蔵白子浜合戦で戦死した伊勢九郎(別名・櫛間九郎)とし、下山治久(『後北条氏家臣団人名辞典』)も同様に櫛間九郎の可能性を挙げている』。『一方で高澤等は武蔵国榛沢郡の武蔵七党猪俣党野部(野辺)氏の後裔と考察している』。天文六(一五三七)年)より『上杉家との戦いをはじめ、各地を転戦する。北条氏の北条五色備では、黄備えを担当する』。天文一〇(一五四一)年、『氏綱が死去して北条氏康が家督を継いでも、その信頼が変わることはなかった』。特に天文十五年の『河越夜戦では、半年余りを籠城戦で耐え抜いた上に本軍と呼応して出撃し』て『敵を突き崩すなど、北条軍の大逆転勝利に大功を立てた。この功績で河越城主も兼ねることになったとされる。その後も北条家中随一の猛将として活躍』、弘治三(一五五七)年の『第三次川中島の戦い(上野原の戦い)では武田方への援軍を率いて』、『上田まで進出し』、『上杉謙信勢を撤退させ、里見義弘・太田資正との国府台合戦では奇襲部隊を率いて里見軍を撃砕し』ている。「甲陽軍鑑」によれば、永禄一二(一五六九)年十月六日の『武田信玄との三増峠の戦いでは、綱成指揮下の鉄砲隊が武田軍の左翼大将浅利信種を討ち取ったという』。元亀二(一五七一)年の『駿河深沢城(静岡県御殿場市)の戦いも武田方に抗戦している』。同十月に『氏康が病死すると、綱成も家督を子の氏繁に譲って隠居し、剃髪して上総入道道感と名乗った』。病いのために享年七十三で死去、墓所は私の住む鎌倉市植木にある彼の開基になる曹洞宗陽谷山(ようこくざん)龍寶寺。]なり〔寺傳に、綱成、存貞の高德を欣慕し、城中に請て、功德鎭護の利益を問ふ。貞、無量壽經を説。綱成、兼て八幡を信ず。彌陀は其本地たるを以て、深く感喜し、一宇を建て、治國安民の祈願所とせんことを約す。偶、當所の靈地を得て買得し、山林東西三町餘、南北五町餘の寺域及餉田を附す。因て當寺を創し、感譽を開山第一祖とすと云。〕。永祿元年[やぶちゃん注:一五五八年。]九月十日、綱成の室、卒しければ〔法號大項院光譽耀雲と云ふ。〕、寺域に葬り、更に二十貫文の地を寄附す。綱成は天正十五年[やぶちゃん注:一五八七年。]五月六日卒す〔年七十三。道感院哲翁圓龍と號す。〕。二世は圓治〔秀蓮紅[やぶちゃん注:「紅」は別の刊本でもそうなっているが、これはどう見ても原典の「社」の誤記ではないかと強く思う。]雲譽と號す。永祿九年[やぶちゃん注:一五六六年。]、增上寺に轉住す。〕、三世は普光觀智國師〔貞蓮社源譽存應と號す。天正十二年[やぶちゃん注:一五八四年。]、亦、增上寺に轉ず。〕、四世は源榮〔星蓮社曉譽存阿凝信と號す。觀智國師の弟子。〕なり[やぶちゃん注:浄僧源栄(げんえい 天文二〇(一五五一)年~寛永一〇(一六三三)年)は。ウィキの「源栄」によれば、『俗姓や出自は不明だが、徳川家康に気に入られ、数々の寺の開山を務めた。源栄と家康の仲は親しい物であったらしく、駄洒落のやり取りをした記録』(本条に出る花下連歌的付合を指す)や、『数奇者として知られる源栄に茶器七種を下賜した記録が残る』とある。事蹟はリンク先に年譜形式で詳しいので参照されたい。戦後の農地改革までは門前の「家康お杖先の田」という農地があったという。例によって家康が鷹狩りの際、門前で杖を振り回し、その杖で指した土地を即座に大長寺に与え、それは凡そ三町歩(三ヘクタール)にも及んだという(「かまくらこども風土記」(平成二一(二〇〇九)年鎌倉市教育委員会刊)に拠る)。]。榮、住職たりし時、天正十八年[やぶちゃん注:一五九〇年。]小田原の役に、北條左衞門大夫氏勝[やぶちゃん注:北条氏勝(永禄二(一五五九)年~慶長一六(一六一一)年)は下総国岩富藩初代藩主。北条氏繁の次男・北条綱成の孫。参照したウィキの「北条氏勝」によれば、『発給文書による初見は』天正一〇(一五八二)年五月に出された「氏勝」と署名されたもので、この頃に兄・氏舜の死により、家督を継承したとみられる。翌』天正十一年の『文書からは玉縄北条家代々の官途名である「左衛門大夫」を名乗っている』。天正十年、』伊豆大平新城の守備につき、武田方の戸倉城攻略に参加。同年』六月に勃発した「本能寺の変」後、『甲斐・信濃の領有を巡って』、『北条氏が徳川家康と争った際には同族の北条氏忠と共に御坂峠に進出したが、黒駒での合戦で家康の家臣鳥居元忠・三宅康貞らの軍勢に敗れている(天正壬午の乱)』。翌年には『上野厩橋城に入り』、四『月の下野皆川城や太平山城での合戦に出陣』、二年後の天正十四年にも『下野に出陣している』。天正一八(一五九〇)年、『豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、伊豆山中城に籠もって戦ったが、豊臣軍の猛攻の前に落城する。落城を前に氏勝は自害を図るが、家臣の朝倉景澄に制止され、弟の直重・繁広の言に従って城を脱出』、『本拠である相模玉縄城へ戻』って籠城した。その後、『玉縄城は家康に包囲されるが』、『戦闘らしい戦闘は行われず、家康の家臣・松下三郎左衛門と、その一族で氏勝の師事する玉縄城下の龍寶寺住職からの説得により』(と大長寺の源栄をウィキは全く記さない。本文後文参照)、同年四月二十一日に『降伏した。以後、氏勝は下総方面の豊臣勢の案内役を務めて、北条方諸城の無血開城の説得に尽力した。秀吉も同日に出された在京の真木島昭光あての書簡で氏勝の降伏を許可した件に触れて、前将軍足利義昭に対して豊臣方が優勢である事の言伝を依頼している』。『以後、家康に下総岩富』一『万石を与えられて家臣となり、領内検地などの基盤整備を進める一方』、「関ヶ原の戦い」などで功績を重ね、『徳川秀忠からの信頼も厚かった』とある。]、玉繩に籠城して降らず。當寺、檀緣の由緒あるを以て、東照宮の内命を蒙り、大應寺〔植木村龍寶寺、是なり。〕住僧良達と謀り、終に降參をなさしむ〔【北條五代記】等には、此事、良達のみ扱しと見ゆ。〕。御打入[やぶちゃん注:先に掲げた通り、玉繩城では包囲されたが、事実上の戦闘は行われず、無血開城でされたので、これは形式的な謂いである。]の後、此邊、御放鷹の時、兼て榮の才學を知し召れ[やぶちゃん注:「しろしめされ」。]〔三州大樹寺[やぶちゃん注:特異的に注する。現在の愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗成道山(じょうどうさん)松安院大樹寺大樹寺。徳川(松平)氏菩提寺。歴代当主の墓や歴代将軍(「大樹公」。「大樹」は征夷大将軍の唐名。後漢の時、諸将が手柄話をしている際、今に光武帝の功臣として知られる馮異(ふうい)は、その功を誇らず、却って大樹の下に退いた、という故事に基づく(「後漢書」「馮異伝」))の位牌が安置されている。]登譽より聞え上、兼て謁し奉りしことありしとなり。〕、屢、當寺へ[やぶちゃん注:「ちゆうひつ」。先払いして(蹕)立ち寄ること()。]あり、法儀を御聽聞あらせられ、舊に因て寺領をも寄賜ふ〔舊領は、玉繩岡本村なりしを、此時、願上て、門前にて替賜ひしと云ふ。〕。天正十九年、改て寺領五十石の御判物を賜ふ〔文祿元年三月の水帳[やぶちゃん注:「みづちやう」は「御図帳」の当て字で「検地帳」のこと。]を藏す。所謂、大半小[やぶちゃん注:「だいはんしやう」は本邦の古い面積単位。「大」は一反の三分の二・「半」は二分の一、「小」は三分の一で、当時の一反(現在の約四百坪・十アール相当)は三百六十歩(ぶ)であったので、それぞれ二百四十歩・百八十歩・百二十歩であった。一段の水田が畦によって六等分されているような場合に便利な単位であった。]の步數なり。〕。寺號、初は「大頂」と記せしを〔所藏雲版[やぶちゃん注:後の「【寺寶】」に図とともに掲載されている。]、天文十七年の銘及び天正小田原陣の制札に、「大頂寺」と記す。〕御判物の文面に今の文字に記し給ひしより改むと云〔傳云、東照宮、初て成せられし時、山號を御尋あり、龜鏡山と言上せしかば、僧は大長壽なるべしと、上意ありしとぞ。かゝる由緒を以て今の文字に改給ひしとなりと云ふ。〕又、或時、俄に成せられしと聞て、榮、急ぎ、門外に迎奉り、御放鷹にやと申上しを聞召れ、御戲に「南無阿彌陀佛鳥は取らざり」と上意ありしかば、榮、取敢ず、「有がたのえかうえかうで日の暮るゝ」と附申せしを興じさせ給ひ、扈從の人々に「記憶すべき」との命ありしとなり、慶長十三年[やぶちゃん注:一六〇八年。]、江戸營中にて淨蓮二宗論議の時、榮、本多上野介正純と共に奉行せられしと云〔「淨土日蓮宗論記」依上意以大長寺上人召高野山賴慶僧都云々と見ゆ。〕。貞宗院尼〔寶台院殿[やぶちゃん注:徳川秀忠の生母西郷局(お愛)の法号。彼女は天正一七(一五八九)年の没であるが、この号は三十九年後の寛永五(一六二八)年に与えられたもの。]の御實母。〕、玉繩に隱栖の頃、殊に榮を歸依せられしかば、戒を授け、遺言に任せ、導師を勤む。慶長十六年[やぶちゃん注:一六一一年。]、尼の爲に貞宗寺[やぶちゃん注:浄土宗玉繩山珠光院貞宗寺。本。ここ(グーグル・マップ・データ)。私の町内である鎌倉市植木にあり、拙宅のごく直近。御建立の時、榮を開山に命ぜられ、當寺より兼帶す。同年十一月、東照宮、藤澤御殿[やぶちゃん注:藤沢宿にあった徳川将軍家御殿(別荘)。現在の藤沢公民館と藤沢市民病院の間(の附近(グーグル・マップ・データ))にあった。ウィキの「藤沢御殿」によれば、構築は藤沢宿が置かれる以前の慶長元(一五九六)年頃と推定され、明和三(一六五七)年に江戸で発生した「明暦の大火」に伴う江戸城再築のために取り払われた。]に御止宿の時、榮を召させられ、法義御談話あり。且、諸堂修理のため、銀若干を賜ふ〔【駿府記】にも、此事を載せ、源榮を幻惠に作る。曰、慶長十六年十一月十八日、路次御放鷹御着藤澤、及夜增上寺弟子玄惠上人出仕、有佛法御雜談、則、銀百枚賜之、彼堂以下上葺之料也。〕。又、江城或は駿府等へも屢召され、修學料三百石を賜ふ〔【洞漲集】にも此事を載す。〕。故に榮を中興と稱す。同十九年、三州大樹寺に轉住せり〔源榮、當寺住職中、江淺草正姨覺寺を中興し、當國高座郡座間宿、宗仲寺[やぶちゃん注:三度出るのでこれは注しておく現在の神奈川県座間市座間に現存する浄土宗来光山峯月院宗仲(そうちゅう)寺ここ(グーグル・マップ・データ)。しばしばお世話になる東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の本寺の解説によれば、この地の領主内藤清成が、慶長八(一六〇三)年に実父竹田宗仲の菩提を弔うため、この大長寺第四世源栄上人を開山として創建したと伝える。但し、『当地には』、『平安時代に宗仲寺の前身として伝えらる良真院、鎌倉時代には渋谷道場と呼ぶ修行場があり、その跡に当寺が建立されたと考えられてい』るとあり、元和三(一六一七)年の家康の柩を久能山から日光へと遷御する際には休息所として利用されたという。慶安二(一六四九)年には寺領七石四斗の『御朱印状を受領し』ているとある。]の開山となり、兼住す。元和二年[やぶちゃん注:一六一六年。]四月六日、大樹寺より駿府に召され、御遺命を蒙り、同四年、病に依て宗仲寺退隱し、寬永十年[やぶちゃん注:一六三三年。]十一月十日、同寺にて寂す。年八十三。〕。本尊、三尊彌陀〔彌陀は長二尺三寸。運慶作。[やぶちゃん注:運慶作は誤伝。但し、南北朝期の名品ではある(非公開)。]〕及如意輪觀音〔定朝作。長一尺。〕を置、又、大頂院[やぶちゃん注:大頂院(永正一三(一五一六)年?~永禄元(一五五八)年)は北条氏綱の娘で、玉繩城城主北条綱成の正室の戒名の院号。名は不詳。法号は大頂院光譽耀雲大姉。後に出る北条氏繁の母。]の木像〔一尺□五寸五分。〕、東照宮の御神影〔大猷院の御筆。增上寺十七世、照譽、奉納す。裏書に、「奉納大長寺。東照宮大權現御影。右家光公の御筆也。增上寺照譽華押」あり。〕、道幹君[やぶちゃん注:徳川家康の父松平広忠(大永六(一五二六)年~天文一八(一五四九)年)のこと(法号の一部)。]の御牌〔東照宮の仰により、安置し奉れりと云。牌面、昔は「瑞雲院應政道幹大居士淑靈」とありしを、東照宮二百回忌に、御代々の尊牌御厨子等、修復を加へ奉りし時、御贈官に改、「大樹寺殿贈亞相應政道幹居士」と記せり。〕、御代々の尊牌、及、傳通院殿[やぶちゃん注:徳川家康の生母於大の方。]・崇源院殿[やぶちゃん注:浅井長政三女であったお江(ごう)。母は織田信長の妹お市。三度に嫁したのが徳川秀忠。]・寶臺院殿の御牌、貞宗院尼・雲光院尼[やぶちゃん注:家康の側室。名は須和。号は阿茶局。]等の牌を安ず。寬永十年、增上寺照譽〔十七世。〕、御供養金〔東照宮・台德院[やぶちゃん注:徳川秀忠。]・大樹寺殿、御供養料三十兩。〕、及、三祖〔感譽・雲譽・觀智國師を云。三代相繼て、增上寺に轉ず。〕の供養金〔三十兩。〕を寄附す〔後年に至ても退轉なかるべきの文書あり。〕。佛殿に大長壽寺の額を掲ぐ〔寶永七年[やぶちゃん注:一七一〇年。]、知恩院尊統法親王[やぶちゃん注:有栖川宮幸仁親王の皇子。]、江の旅舘にて記す。〕。方丈は大頂院及北條氏繁室〔七曲殿と號す。〕[やぶちゃん注:七曲殿(ななまがりどの 生没年不詳)は北条氏康の娘で、従兄弟である玉縄城城主北条氏繁の正室となった。名は不詳。私の家の直近、玉繩城大手口七曲坂(私が役員を務める植木公会堂はまさにここにある)付近に居住したため、かく古呼称された。彼女の子である氏繁の次男が、先に示した玉繩無血開城をした北条氏勝である。]の殿宇を移し建しものと云。

[やぶちゃん注:以下は連続(各項の後は一字空け)しているが、読み難いので、各項ごとに改行した。]

【寺寶】

△四季詠歌短册四枚〔智恩院[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]

△詩箋一枚〔春は、後柏原院[やぶちゃん注:後柏原天皇(ごかしわばら 寛正五(一四六四)年~大永六(一五二六)年)は室町から戦国期の天皇]、夏は、九條忠榮公[やぶちゃん注:九条幸家(天正一四(一五八六)年~寛文五(一六六五)年)。藤原氏摂関家九条流九条家当主。関白・左大臣。忠栄(ただひで)は初名。]、秋は仙洞[やぶちゃん注:不詳。春を書いたとされる後柏原天皇は後土御門天皇の崩御によって即位しており、生前に譲位して上皇にはなっていない。]、冬は、八條桂光院[やぶちゃん注:八条宮智仁親王(天正七(一五七九)年~寛永六(一六二九)年)八条宮(桂宮)家の初代、正親町天皇の孫で、誠仁親王第六皇子。]の筆と云。〕

△一枚起請一幅〔建曆二年[やぶちゃん注:一二一二年。]正月廿三日、源空[やぶちゃん注:法然。]が淨宗の安心起行、此一枚に至極する事を示せしものにして、靑蓮院尊鎭法親王[やぶちゃん注:(永正元(一五〇四)年~天文一九(一五五〇)年)は後柏原天皇の皇子。東山知恩院と百万遍知恩寺との本末争いに関わって、一度、青蓮院門跡を離れたが、後に帰住し、天台座主となった。]の眞蹟なり。〕

△短册一枚〔同筆。永祿元年[やぶちゃん注:一五五八年。]、大頂院卒せし頃、牌前へ手向し歌と云。〕

△山越彌陀二尊畫像一軸〔惠心筆。大道寺殿駿河守政繁寄附。〕[やぶちゃん注:「山越彌陀」は「やまごえのみだ」「やまごしのあみだ」と読む。阿弥陀如来の来迎図の一種。阿弥陀如来と菩薩とが山の向こうから半身を現して念仏する人のために来迎し、極楽に救いとろうとする様相を描写したもの。この図様は中国敦煌の壁画の中に既にあるが、本邦では浄土教のチャンピオンで「往生要集」で知られる恵心僧都源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)が比叡山横川(よかわ)で感得した形を伝えたものと伝える(ここは主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。「大道寺政繁」(天文二(一五三三)年~天正一八(一五九〇)年)は後北条氏家臣で北条氏康・氏政・氏直の三代に仕えた。駿河守は通称。ウィキの「大道寺政繁」によれば、『大道寺氏は平氏とも藤原氏とも言われるが、代々末裔では「平朝臣」を名乗っている。大道寺氏は後北条氏家中では「御由緒家」と呼ばれる家柄で、代々北条氏の宿老的役割を務め、主に河越城を支配していた』。『諱』『の「政」の字は氏政の偏諱を賜ったものだとも言われている(政繁の息子たちも氏直から』一『字を賜っている)。内政手腕に優れ、河越城代を務めていた頃は城下の治水をはじめ、金融商人を積極的に登用したり、掃除奉行、火元奉行などを設けて城下振興を行うなど、その辣腕振りを遺憾なく発揮したと伝えられている』。『父の職を相続し、鎌倉代官を務めて寺社の統括にも当たっていたと伝えられ』、『軍事面においては「河越衆」と呼ばれる軍団を率い、三増峠の戦いや神流川の戦いなど』、『北条氏の主要合戦のほとんどに参戦して武功を挙げた』。天正一〇(一五八二)年、『甲斐国の武田氏滅亡後に北条氏が支配していた上野国を』、『武田氏滅亡戦の余波のまま』、『織田信長が領有した。しかし同年、本能寺の変が起こり』、『信長が討死して織田家中が混乱すると、その隙に北条氏は上野国を奪還し、逆に甲斐・信濃へ侵攻する(天正壬午の乱)。政繁は信濃小諸城主とされ』て、『最前線を担当』、『徳川家康と対峙するが、北条と家康の間に講和が成立し、政繁らも信濃より引き上げ』た。『上野松井田城の城代であった』『政繁は』、天正十八年の『豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、松井田が中山道の入り口であることから、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍を碓氷峠で迎え撃とうとするが、兵力で劣勢にあり敗北した。そして籠城戦を覚悟し、城に籠もって戦うが、圧倒的な大軍の前に郭を次々と落とされたため、政繁らは討ち死にを覚悟して孫を脱出させたが、真田昌幸が見て見ぬふりをしたという。水脈を断たれた上』、『兵糧を焼かれ、ついに本丸に敵兵が及ぶに至り、開城降伏した』。『その後、豊臣方に加えられ』、各地での旧主『北条氏の拠点攻略戦に加わっている。特に八王子城攻めにおいては、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し』、『最も働いたとされている』。しかし、七月五日の小田原城陥落後の同月十九日、『秀吉から北条氏政・氏照・松田憲秀らと同じく』、『開戦責任を咎められ(秀吉の軍監と意見が対立し讒言された、秀吉に寝返りを嫌われた、北条氏の中心勢力を一掃させたかったなど諸説あり)、自らの本城である河越城下の常楽寺(河越館)にて切腹を命じられた』。『一説には江戸の桜田で処刑されたともいわれる。大道寺氏は政繁の死によって一旦』、『滅亡した』とある。]

△涅槃像一軸〔山角紀伊守定勝室寄附。〕[やぶちゃん注:(やまかどさだかつ 享禄二(一五二九)年~慶長八(一六〇三)年)は後北条氏、後に徳川氏家臣。紀伊守は通称。ウィキの「山角定勝」によれば、『北条氏政の側近を務め、その子・氏直の代に奉行人・評定衆として活躍した』。天正一〇(一五八二)年に『徳川家康と氏直が講和し、家康の娘・督姫が氏直と婚姻する際に』は『媒酌を務め』、天正十四年には『家康への使者として派遣されている』。天正十八年の『小田原征伐で小田原城が開城した後は氏直に従い』、『高野山に上った』。翌十九年に『氏直が没した』(氏直は翌天正十九年八月に秀吉と対面、赦免されて河内及び関東に於いて一万石を与えられ、豊臣大名として復活たものの、十一月に大坂で病死した。享年三十、死因は疱瘡と伝える)『後は徳川家康に仕えて相模国で』千二百『石を与えられている』。『隠居して』後、享年七十五で死去した。『嫡男・政定、次男・盛繁も徳川家康に旗本として仕えた』とある。前注の同じ後北条家臣大道寺政繁とは明暗を分けているのが、頗る対照的である。]

△佛舍利七粒〔文政三年、釋迦の座像を作りて、其れ腹籠とす。事は傳來の記に詳なり。〕[やぶちゃん注:「文政三年」一八二〇年。「腹籠」「はらごもり」と読む。仏像の腹中に入れ籠(こ)めてあることを言う。一般には製作札・小さな観音像・経典などが封入されていることが多い。「傳來の記」本書ではカットされている。]

△九條袈裟一領〔紺地の金襴なり。觀智國師の傳衣と云。〕[やぶちゃん注:「觀智國師」先に出た通り、本大長寺三世普光観智国師。]

△倶利伽羅龍墨畫一軸〔巨勢金岡の筆と云。北條氏康寄附。〕[やぶちゃん注:「倶利伽羅龍」不動明王の立像が右手に持つ倶利迦羅剣(くりからけん)は貪・瞋・痴の三毒を破る智恵の利剣であるが、その剣には倶利伽羅竜王が燃え盛る炎となって巻き纏いついてるが、それを描いたものである。「巨勢金岡」(こせのかなおか 生没年未詳)は九世紀後半の伝説的な画家。宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば造園にも才能を発揮し、貞観十(八六八)年から十四(八七二)年にかけては神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。仁和寺御室(おむろ)で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜な田の稲が食い荒らされるとか、朝になると壁画の馬の足が汚れていて、そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わるが、その伝承の一つに、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしようという。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると、二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと、飛んで来て、絵の中に再び、納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり、筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であった、というエピソードが今に伝わる。彼の伝説は各所にあり、近場では現在の金沢八景の能見堂跡のある山に登り、その景観を描こうとして、余りの美景、その潮の干満による自在な変化に仰(の)け反(ぞ)って筆を擲った、という「筆捨松」の話柄は明らかにこうした伝説のありがちな変形譚であって、実話とは信じ難い。私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 能見堂(一)」同「筆捨松」を参照されたい。]

△説相箱一箇〔蓮・菊・蒲萄[やぶちゃん注:「葡萄」に同じい。]・瓜・唐草等の彫あり。小田原彫と云。氏康室寄附。寺記に、「氏康公御臺樣御寄附、法器七品之内」とあり。[やぶちゃん注:「小田原彫」不詳。少なくとも、現代には残っていない模様である。]

 

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[やぶちゃん注:銅雲板の図。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。以下に図の刻印を電子化しておく。「旹」は音「ジ」で訓「とき」、「時」と同義。「天文十七戊申」(つちのえさる)年は一五四八年。□は私には判読出来なかった。ありがちなのは「歳」だが。識者の御教授を乞うものである。]

 

 相摸國東郡岩瀨邑

寄進龜鏡山護國院大頂寺

         如耒前

 

   施主

   北條左ヱ門大夫綱成

旹天文十七戊申□五月十日

 

△銅雲板一面〔長二尺六寸、幅二尺一寸五分。北條左衞門大夫綱成寄附。其図上の如し。〕[やぶちゃん注:前出。長さは約七十八・八センチメートル。幅は約六十三・二センチメートル。但し、残念ながら、この雲板は明治一六(一八八三)年に発生した火災(「鎌倉市史 社寺編」(昭和五四(一九七九)年第四版吉川弘文館刊)では明治十五年十二月とするが、先に示した新しい「こども風土記」版の記載を採用する)で旧本堂(現在のものは明治四四(一九一一)年の再建)とともに焼失し、現存しない。

△鎗二筋〔大道寺駿河守政繁所持と云。下に品同じ。〕

△轡一口

△鐙一掛

△鎗一筋〔北條新左衞門繁廣所持。〕[やぶちゃん注:(天正四(一五七六)年~慶長一七(一六一二)年)はウィキの「北条繁広」によれば、『北条氏繁の五男』とされ、『母は北条氏康の娘の七曲殿とされている』ものの、『年齢的に違うと』もされる。『兄である下総岩富藩主・北条氏勝の養子となる』。通称を新左衛門尉と称した。『小田原征伐では兄とともに伊豆国山中城で奮戦するが、敗退して相模国玉縄城で』、氏勝とともに『徳川家康に降伏した』。その後、『家康に一旦は仕えたものの、嫡男を失った氏勝に乞われ』、『その養子となり、兄の下総国岩富城に入る。しかし、これに対して不満を抱く家臣もおり』、慶長一六(一六一一)年)に『氏勝が死亡すると、反対派は秘かに家康の甥にあたる氏重を養子に迎えて家督を継がせ』た。『これに激怒した繁広は家康に訴訟』を起こしたが、その最中の翌慶長十七年六月に『駿府において死去した』。享年三七。『家康は繁広の』四『歳になる嫡男・北条氏長を召しだし』、『別個に』五百『俵取の旗本として遇した。北条氏長は後に甲州流軍学の学者として有名に成り、軍学北条流兵法の始祖と成った』。『菩提寺は鎌倉市大長寺(祖父地黄八幡北条綱成開基の寺)で』あるとし、そこで、大長寺は大河内松平家(摂津源氏源頼政の孫顕綱の後裔と称した一族で、室町時代には三河吉良氏に家老として仕え、江戸時代の正綱の代に徳川氏一族の長沢松平家の養子となって以後は大河内松平家と称した。大名・旗本として複数家あって、「知恵伊豆」と称された老中松平信綱などを輩出した)の菩提寺でもある、と記す。]

△制札一通〔豐太閤小田原陣の時、出す所なり。「相摸國東郡大頂寺」と記す。〕。此餘、名僧の筆蹟、古畫幅等、若干あり。

△三社權現社 中央に東照宮〔御座像三寸九分。源榮作。御臺座の裏に「爲報答神君之洪恩、彌陀名號一唱一刀、謹彫刻神影二軀而奉安之大長寺・宗仲寺、以永祝禱天下泰平矣。元和六年[やぶちゃん注:一六二〇年。]庚申四月十一日功畢 源榮」と彫す。〕、右に熊野、左に金毘羅を安置して鎭守とす。

△道祖神社 稻荷社〔豐岡稻荷と號す。〕 社稷明神社[やぶちゃん注:「社稷」は「しやしよく(しゃしょく)」と読み、「社」は「土地神を祀る祭壇」、「稷」は「五穀の神を祀る祭壇」の総称。大陸渡来の神で、元来は天壇・地壇や宗廟などとともに中国の国家祭祀の中枢を担った。元は本邦の産土神や田の神と集合したものと思われる。]

△鐘樓 文政三年[やぶちゃん注:一八二〇年。先に示した「鎌倉市史 社寺編」も文政三年だが、前掲の「かまくらこども風土記」は文政二年とする。]、現住、在譽單定、再鑄す。[やぶちゃん注:本「新編相模国風土記稿」(大学頭林述斎(林衡)の建議に基づいて昌平坂学問所地理局が編纂)の成立は天保一二(一八四一)年である。]

△銀杏樹 本堂の前にあり。東照宮御手植と云傳ふ。[やぶちゃん注:残念ながら、先に示した明治一六(一八八三)年の火災で旧本堂とともに焼失、現存しない。]

△吉祥水 開山感譽、當寺草創の時、水に乏し。加持して此水を得たり。今に至て久旱にも涸れずと云ふ。

△梅ノ井 是も名水なり。

△北條氏墓 五基あり。一は北條綱成の室〔氏綱の女なり。牌に「大頂院殿光譽耀雲大姉 永祿元稔[やぶちゃん注:一五五八年。「稔」はしばしば見られる「年」の替え字。]戌午九月十日」〕、一は北條新左衞門尉繁廣〔表に「泰淸院殿惠雲常智大居士 慶長十七子天六月八日」、裏に「北條常陸介氏繁男 新左衞門尉繁廣」と彫す。〕、一は北條氏繁の室と云〔七曲殿と號す。五輪塔にて鐫字なし[やぶちゃん注:「鐫字」は「せんじ」。彫った字のこと。]。〕、一は「水月妙淸大姉」と彫る〔何人たるを傳へず、年月も詳ならず。下、同じ。〕。一は鐫字なし。

△支院

庭松院〔實應建と云。應は寬永十六年[やぶちゃん注:一六三九年。]九月十日寂す。本尊は彌陀座像長一尺三寸五分。宅間作。古は村内にありて、末寺なりしを、後年、境内に移す。其舊地、今に存す。〕[やぶちゃん注:「宅間」平安期からの似せ絵師(肖像画家)の家柄の鎌倉・室町期の絵仏師として、しばしば登場する。]

心蓮社蹟〔正保(しやうほう)元年[やぶちゃん注:一六四四年。]、本坊六世永感、開基す。本尊彌陀は長二尺一寸。惠心作。今、假に本坊に置く。〕

△中門 四足門なり〔右は二天門なりしを、永應二年[やぶちゃん注:一三九五年。]正月回禄の後に改造す。〕。「護國院」の額を扁す〔文政五年、智恩院尊超法親王の筆。〕。[やぶちゃん注:「二天門」左右に一対の仁王像を安置した寺の中門。仁王の代わりに多聞天と持国天を置く場合もある。「永應二年」一三九五年。「文政五年」一八二二年。「尊超法親王」(享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五二)年)は有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと)親王の第八王子。幼名は種宮、諱は福道。文化二(一八〇五)年に空席となっていた知恩院門跡の相続が内定し、光格天皇の養子となって後に文化六年に徳川家斉の猶子となっている。文化七(一八一〇)年三月に親王宣下を受け、二ヶ月後に得度し、法諱を「尊超」と称した。は徳川将軍家の帰依を受ける知恩院門主を務めていた関係から、生涯、五回に亙って江戸を訪れ、時の将軍徳川家慶やその世子の徳川家祥らに授戒している。また、後には仁孝天皇や孝明天皇にも授戒している。教義の修学に励み、宮中で進講を行うほか、文才にも富み、書や彫刻を能くした。なお、彼は既に親王宣下を受けてから出家しているから、正確には尊超入道親王(にゅうどうしんのう)と呼ぶのが正しい。普通に耳にする法親王とは出家した後に親王宣下を受ける場合に限るからである。]

△總門 「龜鏡蘭若」の額をかく〔增上寺隆善大僧正筆[やぶちゃん注:第五十代便譽隆善法主。]。〕。

△下馬札 總門外に建つ。初、北條氏より建置しを、大樹寺殿、尊牌を安置の時、改建られしと云ふ。

△制札 下馬札に相對して立。天正小田原陣の制札なり。

[やぶちゃん注:以下、続くが、当時、大長寺末寺であった「西念寺」は現行では独立した寺院であるので、行空けした(というより、私の住んだ岩瀬のあのアパートを紹介して呉れたのは私の叔父の友人であった西念寺の住職であり、同和尚は新婚の時、私のいた部屋に住まっておられたという関係上、ちゃんと別立てにしたかったというのが本音である)。後の「彌陀堂」以下は、同格で並べた。]

 

〇西念寺 岩瀨山正定院と號す〔前寺末。〕。開山運譽〔慶蓮社と號す。天文三年[やぶちゃん注:一五三四年。]五月十八日寂す。〕。彌陀を本尊とす。

[やぶちゃん注:「岩瀨山正定院」は「がんらいざんしょうじょういん」(現代仮名遣)と読む。先の「かまくらこども風土記」によれば、開山の運誉光道が修行したと伝える、岩屋が現在の本堂の裏にあるが、事実は奈良から平安初期に築かれた横穴墓(おうけつぼ)である(なお、鎌倉時代に発生する「やぐら」とは外見は似ていても全く無関係である)。また、この寺には、有力な檀家で水田を寄附するなどした、江戸日本橋の刃物屋の大店「木屋(きや)」の主人が自分の姿を後世まで残したいとして作った、生人形(いきにんぎょう)風の夫妻の木造座像大小二体(妻のそれは非常に小さいフィギア大のもの)がある。これは顔の色を生き生きと綺麗に見せるために頭部の塗替えを容易にするため、首が抜けるようになっている。平安末から鎌倉期の寄木造り以降、こうした構造は珍しくもないが、年忌供養毎に行われたという、この首の塗替えのために珍事件が発生したという。これを昭和四八(一九七三)年刊の改訂八版「かまくらこども風土記」から引用する。先の新しい第十三版から引いてもいいが、結局、新訂のそれも、古い版のそれを踏襲して記事が書かれているのだから、まあ、殆んどそっくり真似しているわけだ。しかもこの改訂八版は、私の小学校時代(私は鎌倉市立玉繩小学校の卒業である)の恩師が半数近くを占めている。今の版のを電子化して、今の教育委員会から何か言われるぐらいなら(この程度の引用を問題視したら、鎌倉観光事業など、それだけで成り立たない。嘗て私の「新編鎌倉志」の電子化本文を無断転載した「鎌倉タイム」は未だに謝罪もなく、知らん振りしたままで平然と〈鎌倉のジャーナリスト〉を気取っている為体だ)今の版が真似している、私の恩師らのそれをこそ電子化転載しようと思った。以下に示す。「かまくらこども風土記 中」(当時のそれは全四巻)の「中」巻の「西念寺」の条の一部である。私が以上で纏めた枕のところから最後まで引く。

   《引用開始》

 ここの本堂に、おじいさんの坐像があります。これは木屋(きや)というおじいさんが自分の姿を後の世まで残したいと、顔も形もそっくりの木像を彫(ほ)らせたものだということです。このおじいさんは信心深く、寺のために水田を寄付したりして大変尽(つく[やぶちゃん注:底本は「つ」のみ。補った。])した人だといわれています。

 おもしろいことにはこの像の首が抜(ぬ)けるのです。いつまでも同じ顔色を残すには、どうしても塗(ぬ)り替(か)えをしなければなりません。そのために首が抜けるようにしてあったのです。それだけでは別に珍しいとはいえませんが、この首のために大事件が起こったのです。

 木尾というおじいさんがなくなってから、年忌のたびにこの首を塗り替える習慣になっていたのです。何回目かの法事のときのことでした。寺の人が首をふろしきにしっかり包んで、塗り替えのために江戸まで出かけました。神奈川を過ぎ、六郷[やぶちゃん注:(グーグル・マップ・データ)。]を渡って品川に来ると、日も暮れそうでした。そこで品川の宿場で泊まることにして、ある宿にわらじをぬぎました。一風呂浴びて疲れをとり、夕食をとりましたが、まだ寝(ね)るのも早いので、散歩に出ました。首がなくなっては大変なので、女中に預け、

「たいせつなものだから決してあけて見てはいけない。」

と言って出かけました。女中は見てはいけないと言われたので、かえって見たくなり、さわって見たり、さかさにしたりして、いたずらをしていたところへ、他の女中さんが来て話を聞いて、

「珍しい宝物でもはいっているにちがいない。」

と言ってふろしきをあけようとしました。

「でもふたりだけではもったいないから、みんなで見ましょう。」

と女中さんたちを呼び集めました。薄暗(うすぐら)いあんどんのそばで、ふたりの女中さんは胸をわくわくさせながら、ふろしきを解き始めました。他の女中さんたちも、どんな宝物だろうとかたずをのんでじっと見つめていました。箱のふたをそっとあけたとたん、

「キャッ。」

と言ったのは女中さんたちでした。箱の中からはまっさおな生首が、にらんだではありませんか。腰をぬかした者、気を失った者、二階からころげ落ちた者、女中さんたちは大あわてです。宿の主人も驚いていました。そこへちょうど帰って来た寺の人が、騒ぎのわけを聞いて笑いだしました。しかし、だれも木の首だとは信用しませんので、それではと二階へかけ上がり、首を持って来て、あんどんの光に当てました。それでも宿の人は信用しないどころか、逃げ出す人もありました。首の付けねに手をやり、

「このとおり木ですからご安心ください。」

と言われてやっとひとり、ふたりと目がさめ、どっと大笑いしたということです。

 皆さんも、この木尾の木像を見てごらんなさい、きっとびっくりすることでしょう。

   《引用終了》]

 

○彌陀堂 天文中、開基ありし一寺にて、阿彌陀院と號すと云ふ〔今、堂内に置る雙盤に「阿彌陀院」と彫す。〕。後年、衰微して小堂となれり。本尊は春日作なり〔長二尺三寸。〕。大長寺持。下同。

[やぶちゃん注:貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)も本書のデータとを転用するだけで、その他の情報が全く載らないから、位置も不明である。

「天文」一五三二年~一五五五年。

「春日」十二世紀後半の慶派の大仏師法師定慶(生没年不詳)がいるが、単なる伝であろう。]

○地藏堂 定朝の作佛を置〔長一尺七寸五分。〕。

[やぶちゃん注:同前で位置不明。

「定朝」定朝(じょうちょう ?~天喜五(一〇五七)年)は平安後期に活躍した仏師。寄木造技法の完成者とされるが、これも単なる伝と思われる。]

○不動堂 村持。

[やぶちゃん注:同前。位置不明。ここで「岩瀨村」は終わっている。]

2018/08/20

松の針   宮澤賢治

――今日送る友へ

 

   *

 

   松の針   宮澤賢治

 

  さつきのみぞれをとつてきた

  あのきれいな松のえだだよ

おお おまへはまるでとびつくやうに

そのみどりの葉にあつい頰をあてる

そんな植物性の靑い針のなかに

はげしく頰を刺させることは

むさぼるやうにさへすることは

どんなにわたくしたちをおどろかすことか

そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ

おまへがあんなにねつに燃され

あせやいたみでもだえてゐるとき

わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり

ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた

   ⦅ああいい さつぱりした

    まるで林のながさ來たよだ⦆

鳥のやうに栗鼠(りす)のやうに

おまへは林をしたつてゐた

どんなにわたくしがうらやましかつたらう

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ

ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか

わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ

泣いてわたくしにさう言つてくれ

  おまへの頰の けれども

  なんといふけふのうつくしさよ

  わたくしは綠のかやのうへにも

  この新鮮な松のえだをおかう

  いまに雫もおちるだらうし

  そら

  さわやかな

     Turpentine(ターペンタイン)の匂もするだらう

 

   *

・( )はルビ。「Turpentine(ターペンタイン)」は油絵材として知られる、松脂(まつやに)を水蒸気蒸留して得られるテレピン油のこと。

2018/08/19

反古のうらがき 卷之一 訛言

 

   ○訛言

 文政の中年、さる屋敷より病人を釣臺(つりだい)にのせて持出(もちいだし)し事ありしに、何者か申出(まうしいだ)しけん、

「此へんに死人を釣臺にのせて、人なき所に捨(すつ)る者あり。人々、用心し給へ。」

といゝけること、市谷柳町へんより、初(はじま)りしよし。

 江戸中、大體一面に行渡(ゆきわた)り、本所・濱町・麻布・靑山へん迄、皆、屋敷々々に番人を出(いだ)し、高張り挑燈にて守りしに、二、三日にして止(やみ)けるとなん。

 其後(そののち)、一、二年過(すぎ)て、秋の末つかた、月、殊に明らかなりし夜、予、門外に出で、舍弟と倶に月を賞し居(をり)しに、四つ頃と思ふ頃、向ふより高聲(こうせい)に語りて來(きた)る人あり。「音羽」と書(かき)たる永挑燈(えいちやうちん)をともし、とびの者體(ものてい)なる人、二人也。其(それ)、語(かたる)に、

「世には殘忍なる人も有る者かな。あの女の首はいづこにて切(きり)たるか、前だれに包みたれば、賤(いや)しきものゝ妻にてもあるべし。切たるは、定(さだめ)て其夫なるべし。間男などの出入(でいり)と覺へたり。今、捨んとして咎められ、又、持去(もちさ)りしが、何(いづ)れへか捨つべし。其所は迷惑なる者なり。」

といふ話なり。

 予、是を聞(きき)て呼留(よびと)め、

「何(いづ)こにての事。」

と問へば、

「扨(さて)は。未だ知り玉はずや。こゝより遠からず、市ケ谷燒餅坂上なり。夜深(よふけ)て門外に立玉(たちたま)ふは、定(さだめ)て其(その)捨首(すてくび)の番人かと思ひしに、左(さ)にはあらざりけり。こゝより先は、皆、家々に門外に出で、番をするぞかし。」

といゝて、打連(うちつれ)てさりけり。

 予もおどろきて、前なる辻番所に右の趣(おもむき)申付(まうしつけ)、よく番をさせ置(おき)、入(いり)て眠りたりしが、兎角、心にかゝる上に、辻番所に高聲に右の物語りなどするが、耳に入(いり)て寢(いね)られず、立出(たちい)で見れば、最早、九つ今(ここのついま)の拍子木を打(うち)、番所の話を聞けば、

「組合より申付られたれば、眠る事、能はず。去ればとて、いつ、はつべき番とも覺へず、もし、油斷して捨首(すてくび)にてもある時は、申分に辭(ことば)なし、如何にせまし。」

といひあへり。

 予も、餘りにはてし無き事なれば、

「最早、程も久し。捨首あらば、是非なし。先(まづ)休むべし。」

と申渡し、入て寢(いね)けり。

 明(あく)る日、あたりを聞(きく)に、其事、絶(たえ)てなし。

「口惜哉(くちをしきかな)。あざむかれぬ。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ]やみけり。

 此訛言(くわげん)も小石川・巢鴨へん、本鄕より淺草・千住・王子在(ざい)などの方(かた)に廣がりて、北の方、いづこ迄かしらねども、大(おほい)におどろきさわぎたるよし、予、親しく聞(きき)たれども、誰(たれ)にも告(つげ)ざれば[やぶちゃん注:底本は「されば」。濁点を添えた。]、此あたりは却(かへつ)て、しる人なし。

 「音羽」といへる挑燈なれば、是水へ、かへりかへり、申觸(まうしふれ)たるか、其先迄、申傳へたるなるべし。

[やぶちゃん注:「訛言」(くわげん(かげん))とは「誤って伝えられた評判」の意。この話は既に『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二』の注で電子化注している。直接話法が多いので、臨場感を出すため、特異的に改行と段落を作った

「文政の中年」「中頃」ならよく目にするが、どうも「中年」というのはまず目にしない。まあ、文政は一八一八年から一八三一年までだから、中頃は文政六(一八二三)年前後となるが、しかし、これ、或いは「申年」の誤記ではなかろうか。とすれば、文政七(一八二四)年に特定出来ることになるのだが。但し、国立国会図書館デジタルコレクション版も「中年」ではある。

「釣臺」台になる板の両端を吊(つ)り上げて、二人で担いでゆく運搬具。担架の駕籠舁き方式である。

「市谷柳町」現在の東京都新宿区市谷柳町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「濱町」東京都中央区日本橋浜町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。底本の朝倉氏の注に『武家地で藩の中・下屋敷が多く』あった、とある。

「四つ頃」午後十時頃。

「永挑燈」提灯のサイズを指すようだ。縦が長くなると、直径もそれなりに大きくなる。ある提灯会社のメニューでは現行で「尺永」というのは、直径二十九センチメートル・高さ六十四センチメートルである。この上が既に「二永」である(三十三☓六十三)。

「市ケ谷燒餅坂」底本の朝倉氏の注に『いまの新宿区市ヶ谷甲良町のうち。幅四間』(七メートル強)『ほど、高さ四〇間』(七十二・七二メートル)で、『山伏町から柳町へ下る坂で、甲良町との境。附近は武家地』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「九つ今」だいたい午前一時丁度の意の一語と採る。

「組合より申付られたれば」それらしい町触れが少なくとも桃野のいる町内には廻っていたのである。

「あたりを聞(きく)に、其事、絶(たえ)てなし」では、先の町触れは何だったのか? 町触れを出した組合の大元の発信地を探れば、どのような形で生じた「都市伝説」であったかが判明するのに。実に惜しい。鳶風の二人がその場でデッチアゲただけの、ただの冗談であったとしたら、そう簡単に、町触れにはならない気もするのだが? 或いは、実は町廻り連中も実はコロリと騙されちゃったのかもね。「口裂け女」の時も小学校が登校指導したり、警察まで不審者として動いたぐらいだからねえ。

「巢鴨へん」「巢鴨邊」で巣鴨辺り。

「王子在(ざい)」現在の東京都北区王子附近の村落。但し、江戸の辺縁地ではあるが、当時の王子は田舎ではなく、人気の王子稲荷があり、しかも日光御成街道(岩槻街道)が通って江戸の市街と直結され、十八世紀には八代将軍徳川吉宗によって飛鳥山に桜が植えられたことを契機に江戸市民が頻繁に足を運ぶ、江戸市中からごく近い遊覧地として賑わった。

「音羽」東京都文京区音羽町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「是水」不詳。国立国会図書館デジタルコレクション版も同じ。識者の御教授を乞う。音羽から「市ケ谷燒餅坂」は真南であるから、この鳶職風体(ふうてい)の二人組は現在の「外苑東通り」を南下してきたと考えてよいのではないかと私は思う。とすれば、桃野と舎弟が涼んでいたのは現在の新宿御苑の東方、信濃町辺りではないかとも思われる。しかし、その先(南や東)には「是水」に似たような地名は見当たらない。「是方」(これがかた)の誤判読か。]

反古のうらがき 卷之一 强惡

 

  ○

 天保の初年、靑梅(おうめ)在に風呂敷づゝみを持(もち)あるきて、

「質(しち)におかん。」

といふ浪人ありて、所々にて迷惑することあり。

 其包みの内は生首なり。

 包みの儘、質に取るといふことは無き故、

「是非、改めん。」

といへば、何かと六ケ敷(むつかしく)いひて改(あらたむ)事を許さず、兎角に面倒なる事なる上に、其包みの樣子、外(そと)より見ても、人の生首と知らるゝなれば、事を穩便に計(はから)ふにはしかずとて、金子少々達し、辭す事あるよし。

 初(はじめ)の程は、

「故なく金子は取らず。」

などいへども、遂には取て歸るよし也。

 度び重りて、八州𢌞(はつしうまはり)といふ役人に召取られ、吟味に及びし處に、固より盜なれば、陳(ちん)ずべき心もなし、いひ上(あが)るよふ[やぶちゃん注:ママ。]は、

「駿甲(すんこう)あたりより、東海道にも出(いで)、此業(このわざ)をすること、六、七年、首をきること、廿に餘れり。金子を得しことは數をしらず、今、命數、盡(つき)て召取れぬれば、何も存殘(ぞんじのこ)す事なし。」

と申(まうし)けり。

 扨、

「首は如何して得たる。」

と問(とひ)しに、

「これは最初より一計ありて、いくたり切(きり)ても、皆、一法なれども、一人も漏らしたることなければ、往(ゆく)所にて行(おこな)わる[やぶちゃん注:ママ。]、其法は野伏(のぶせ)りの宿なしを語らひていふ樣は、

『吾、浪人物となり、爾(なんじ[やぶちゃん注:ルビは底本のママ。])をしばりて手打(てうち)にする。』

とて、村近き邊(あたり)へ連行(つれゆく)べし。

『爾(なんぢ)、大聲に、「衆人、吾を助けて給はれ」と呼ぶべし。故(かれ)、人集りて問ふ時、「吾(われ)召使ふ下人、餘が金子(きんす)壹兩を取逃(とりに)げせしに、今、ゆくりなく行合(ゆきあひ)たれば、手打となすなり」と云はゞ[やぶちゃん注:底本は「ゝ」であるが、濁点を附した。]、爾が命を助けんとて、少々づつ、金子を出(いだ)すもの、あるべし。其金を得たらば、山分(やまわけ)にすべし。土地にては後難(こうなん)あり。遠くへゆくべし。』

とて、乞食を連行(つれゆき)、河原などにて荒繩をもて、かたくいましめ、かくして、

『村へ行(ゆく)なり。』

といつはりて、人遠き所に引行(ひきゆき)、口に、手拭(てぬぐひ)にても、土砂(どしや)にても、推入(おしいれ)、推伏(おしふせ)て、首を切る。甚(はなはだ)手輕なる法なり。」

といへり。

 又、問(とふ)。

「匁物(はもの)は何を用ひしや。」

 答ふ。

「數年前より、『サスガ』一本、身を離さず、重寶(ちやうほう)なる物なり。人の首を切るにも、『サスガ』にて、少しづゝ、切發(きりはな)ち、骨計(ばか)りを殘し、仰向(あおむけ)にもぐれば、大體、取れる者也。少し、つゞきたりとも、『サスガ』にて切發(きりはな)すに難き事なし。第一は、河原にて面(つら)斗(ばか)り水に押伏(おしふし)て切(きる)が切(きり)よし。」

と云いし[やぶちゃん注:ママ。]よし。惡虐殘毒なるも如ㇾ此(かくのごとき)は、亦、珍らし。

[やぶちゃん注:直接話法が多く、肉声らしく読んだ方が、この極悪の人非人のおぞましさがよく伝わると考え、特異的に改行と段落を設けた。

惡」「ごうあく」と読んでおく。

「天保の初年」天保は一八三一年から一八四五年までの十五年であるが、元年は文政十三年十二月十日(グレゴリオ暦一八三一年一月二十三日)の改元であるから、二十日しかない。

「靑梅」東京都の多摩地域北西部にある青梅市附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「八州𢌞(はつしうまはり)」文化二(一八〇五)年に設置された関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)の略称。勘定奉行直属で、関八州(相模 ・武蔵・安房・上総・下総 ・常陸・上野 ・下野 の関東八ヶ国)を幕領・私領(水戸藩を除く)の区別なく巡回し、治安の取り締まりに当たった。

陳(ちん)ずべき」遜(へりくだ)って申し述べるような。

「いひ上(あが)るよふは」「言ひ揚がる樣は」であろう。異威丈高(いいたけだか)に声高(こわだか)に喋りたてることには。

「駿甲」駿河・甲斐。

「いくたり」「幾人(いくたり)」。

「野伏(のぶせ)りの宿なし」野宿をしている宿無しの放浪者。後で「乞食」と言い換えている。

「浪人物」「浪人者」。

「連行(つれゆく)べし」「これからお前を連れて行くわけよ。……まあ、怖がるな! 待て! 俺の話を聴け!」のニュアンス。

「故(かれ)」ここは「そうすると・そうすれば」という接続詞。別に読みは「ゆゑ」でもよいが、差別化するために、かく読んだ。古い読みは「かれ」である。

「ゆくりなく」副詞(形容詞「ゆくりなし」の連用形から)。思いがけなく・突然に。

「土地にては後難(こうなん)あり」「この地では、俺やお前を見知ってしまっている者がいるかも知れねえから、後でバレてまずいことになりかねねえ。」のニュアンス。

「サスガ」「刺刀(さすが)」腰に差す短刀。腰刀(こしがたな)。さても多くの方はここで、芥川龍之介の「中」を思い出すであろう(リンク先は私の古い電子テクスト)。真砂の所持したあの「小刀」だ。あれを龍之介は「さすが」とルビしていた。いやいや! この風呂敷生首を質入れする浪人の白状の如何にも自分のおぞましい悪行を誇るように語る様子やその「昂然たる態度」は、まさに白状する多襄丸を髣髴させるではないか!(或いは芥川龍之介はこの「反古のうらがき」の本条を読んでいて、あの台詞を書く際の参考にしたのではなかろうか? とさえ私は思うのだ) 「藪の中」は私の教師時代のライフ・ワークであった。何度も授業でやったし、独特の内容であったからして、多くの教え子諸君には今も記憶に残っているであろう。その都度、考証を加え、オリジナルの授業案を進化させ続けた。「藪の中」殺人事件公判記録サイト公開一九九〇年に原型を作製、最終改訂は二〇一〇年、早期退職する二年前である。よろしければ、ご覧あれ。懐かしく感じられるであろう。正直、私はネット上の如何なる「藪の中」推理を読んでも、自分のものよりも優れて現実的であると感じたことは、一度も、ない。

「切發(きりはな)ち」胴部と頭部を切り離し。

「骨計(ばか)り」脊椎骨の頸骨だけ。

「仰向(あおむけ)にもぐれば」首を仰向け、背部方向に捥(も)げば。この辺りの描出は、猟奇的といよりも頗るリアルで、本「反古のうらがき」で最初の怪談物ではない怪人・悪党・怪人物(かいじんもの)(怪談物以外の大きな範疇の一つ)の最初であるが、恐らく、最初に食らわされるスプラッター・ホラーの画面であると言える。

「殘毒」「殘」は「無殘」のそれ或いは「慘毒」(「むごたらしく傷つけること・むごたらしく苦しめること」、または「むごたらしい害毒」の意)の意。]

反古のうらがき 卷之一 幽靈

 

   ○幽靈

 麻布某の所の寺は、市(いち)に近き所なり。文化の頃、其墓所に幽靈ありて、夜な夜な物語りする聲聞ゆとて、人々、おそれあへり。其わたりに膽太(きもふと)き商人ありしが、或時、月もほのぐらき夜、宵の頃より、獨り、ひそやかに墓所に忍び入り、大(だい)なる墓所の蔭に身を潛(ひそ)めて窺ひける。夜も已(すで)に子(ね)を過(すぎ)て、蟲の音、彌(いよいよ)さへわたり、月も、おりおり出(いで)ては、又、雲に入る、夜風の身にしみて、ひとへぎぬ、しめりがちにて、ゑり元、ぞくぞくとして覺(おぼえ)けるが、こなたの芝がきのほとりより、人の立出(たちいづ)る樣に覺へしが、又、其あたりより、人、來(きた)ると覺へと[やぶちゃん注:清音はママ。]、相(あひ)かたろふ樣(さま)、いと睦(むつ)まじげなる物語りなり。商人(あきんど)、耳をすまして聞くに、多くは絶(たえ)て久しき離れをかたり慰(なぐさ)むるにてぞ有ける。『如何なる者にや』と、月の明るくなるを待得(まちえ)て、のび上りて見しに、一人は廿四、五の瘦(やせ)たる男なり。今一人は六十斗(ばかり)の老婦(うば[やぶちゃん注:底本のルビ。])にて、其(その)かたろふ樣(さま)は親子に似ずして、夫婦(めをと)に似たり。商人、一ゑん、解しがたく、猶、窺ひ居(をり)しが、折節、夜寒の風におかされて、高くはなびけるに、驚きて、かたちは見へずなりぬ。明(あく)る日、寺に行(ゆき)て、右の次第を語り、かの芝がきのあたりを見るに、合葬の墓ありて、今、無緣なり。「其墓のぬしは、去りし頃、廿四、五にて死せる商人なり。其妻、久しく生のびて洗(せん)だく婆々となり、此(この)二、三年跡(あと)に六十斗(ばかり)にて死せり。よつて合葬せし也。おもふに夫婦の者、無緣にて浮ぶこと能はず、幽靈となりて出(いづ)るなるべし。其樣は、皆、生前の形にて、其間(そのかん)、三十年も立(たち)たれば、不つり合(あひ)の姿なること、其理(ことはり)に當れり」と寺僧も申(まうし)あへりとぞ。しかし、其頃の、いたづらなる滑稽人の作りし話にや。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。]

幽靈は尋常のことなり。男、廿四、五、女房、六十計(ばかり)といふところ、有爲轉變の相を顯(あらは)し、巧(たくみ)に考(かんがへ)たるところ、夜譚・聊齋の二書にもなき新趣向なり。

[やぶちゃん注:もしこれが作話ではないとすれば、寺の名も記されてあるはずであり、作話としても時制的には新しい「都市伝説」の類いに含まれから、今に伝わり、尾鰭がついておかしくないと思うのだが。麻布に詳しい方がおられるので、お伺いを立てておく。【2018年8月21日追記】Blog - Deep Azabuで素晴らしい麻布文化史の考証をなさっていらっしゃる方(以前にも情報を戴いたことがあり、フェイスブックでも知り合いである)にお願いしてみたところ、以下の詳細な情報提供があった。『私なりの見解』との謙辞を添えておられるけれども、本条が眉唾的で簡単に噓の皮が剝がれるような都市伝説ではなく、実際のロケーションに基づくものである可能性が確かめられたように私は思う。提供者のお許しを得て、以下に転載させて戴く。

   《引用開始》

よく考えたら私もこの事象と思われる記事を書いておりました。ただ、出典を記していないので「反古のうらがき」だったか覚えておりません。

Blog DEEP AZABU-無縁をかこつ夫婦

先日お伝えしたとおりこの文章で場所確定の手がかりとなるのは

「市(いち)に近き所なり」

であると考えていますが麻布で一番有名な「市」を思い出しました。

それは十番馬場で行われる「馬市」で、ここでは仙台坂の仙台藩伊達家から馬が出品され大変な賑わいであったと言います。またこの馬場で使用された乗馬用の袴は「十番袴(じゅうばんばかま)」として有名であったそうです。

Blog DEEP AZABU-十番馬場

この市があった場所は現在の東麻布三丁目あたりでその西側には今も残る不自然に広い大通りがあります。

この通りは現在「東京法務局港出張所」前の通りとなっており、このあたりで一番の繁華地であった東麻布イースト商店街の道幅より広く不思議に感じていました。

もしこの十番馬場の馬市がここでいう「市」であるならば近くの寺院は麻布永坂にある、

大長寺(麻布永坂から1965(昭和40)年府中市若松町5-9-5に移転)

光照寺(麻布永坂から戦後八王子市絹ヶ丘3-8-1に移転)

天徳寺(狸穴・現経緯度原点。移転先不明・虎ノ門は同名別寺)

あたりになるかと思われますが、その中でも近いのは①②です。

 

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[やぶちゃん注:以上は提供者が添えて下さった地図である。]

にはこの話ではないのですが、念を残した女幽霊の話として以下の話が残されています。

Blog DEEP AZABU-扇箱の秘密

その他にも現在の麻布十番などでも市が立っていたとも思われますが、不明です。

また先ほどお伝えした法務局前の大通りですが江戸期の地図には麻布十番と記されていますが、現在はここを麻布十番とはいいません。

以上、私見ながらお伝えします。

   《引用終了》

 調べてみたところ、の大長寺は日蓮宗、の光照寺は話柄当時は浄土真宗である(はかつては現光寺と称して奈良県吉野にあったとし、その頃は天台宗で、元和年間(一六一五年~一六二四年)に浄土真宗に改宗し、寛永四(一六二七)年麻布永坂町へ移転している。は不明)。本話は宗派を匂わせるものは残念ながらないけれども、参考に教えて下さった「扇箱の秘密」というのは(因みに、この話は私が手掛けたことがある囊 之十 幽魂奇談の事のそれであった。但し、私が訳注したのは二〇一五年三月二日であり、「Blog DEEP AZABU」のそれは二〇一二年十一月七日の記事であるから遙かに速い。情報提供者の名誉を守るために一言言い添えておく)寺はちらっと霊の菩提を弔う寺とし出るだけであるが、怪談との親和性があるとは言えよう(それにしても、この「耳囊」のそれは細部まで緻密なリアリズムで構築された、極上の実話怪談として特異点的に凄いものである)。以上から私はこの光照寺が本条の「麻布某の所の寺」のモデルの最有力候補ではないかと感じている。最後に改めてBlog - Deep Azabuのブログ主である情報提供をして下さったT・I氏に、改めて感謝申し上げるものである。

「文化」一八〇四年~一八一八年。

「子」午前零時。

「其あたりより、人、來(きた)ると覺へと」この助詞の「と」は逆接の接続助詞「ど」であろう。その辺りから、人が来ている気配がしてくるのを感じた「が」(真夜中のことで、丁度、月も雲に入って陰っていたために視認は出来なかった)の含みである。さればこそ「月の明るくなるを待得て」という次のシークエンスとの繋ぎがスムースに流れるのである。

「離れ」「わかれ」と訓じたい。

「のび上りて見しに」商人が隠れ潜んだ墓が大きなものだったからである。映像的なインパクトがあるシーンだが、それ故にこれは実体験ではなく、寧ろ、作話された怪談という感じが私にはしてくる。カメラが一人称ではないからである。

「かたろふ」「語らふ」。

「一ゑん」「一圓」であるが、呼応の副詞。ここは打消ではなく「難し」の語を伴って「少しも・全く」の意。

「はなびける」「鼻びける」。くしゃみをしたのである。

「洗(せん)だく婆々」民家を巡って洗濯をしては僅かな手間賃を貰う婆さんのこと(静岡に伝わる妖怪に同名のものがおり、夜間、闇の中、川岸で洗濯をするような音が響く妖異を「小豆洗い」「米磨ぎ婆」などと同様に「洗濯婆」と呼び、狐の仕業などとするが、ここはそれとは無関係)。

「此(この)二、三年跡(あと)に」今から二、三年前に。

「三十年」されば、商人が亡くなった時の妻は二十歳前である。

「いたづらなる滑稽人」後の評言(本書の冒頭から見て桃野のものではなく、不詳の「天曉翁」のそれ)では知られた怪談には見られない新味の趣向があり、「巧(たくみ)に考(かんがへ)た」ところを高く評価しているから、或いは、そんな「いたづらなる滑稽人」=市井の滑稽談好きの好事家の作話ではなく、当時の本格的な戯作者が片手間に書いた怪奇小説ででも、あったものかも知れない。

「夜譚」不詳。以下の「聊齋志異」と併置するからには、それと並び得る中国の怪奇談集でなくてはならぬが、私もそちらのフリークの端くれであるが、ピンとこない。底本の朝倉氏の注も知らん振りしている。

「聊齋」私が小学生高学年より実に五十年も偏愛し続けている清初の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)が書いた文語怪奇短編小説集「聊齋志異」。全約五百話。一六七九年頃に成立し、著者の死後、一七六六年に刊行された。]

反古のうらがき 卷之一 縊鬼

 

   ○縊鬼

[やぶちゃん注:直接話法が多いので、臨場感を出すため、特異的に改行と段落を作った。また、《とて、》はジョイントが悪いのを補填するために私が補ったもので、原典にはないものなので注意されたい。]

 これも叔氏(おじ)醉雪翁が話に、元がしら某、屋敷、麹町也。組内同心某、よく酒を飮み、落し咄(ばなし)・身振りなどする者ありけり。

 春の日永き頃、同役より合(あひ)のことありて、夕刻より酒宴あり。彼(かの)同心は、

「給事(きふじ)ながら來るべし。」

と申約(まうしやく)せしに、其日、來らず、家人も、みな、其伎(わざ)を見るを興(きよう)として待(まて)ども、來らず、大に不興なりし頃、忽々(そうそう)として來たれり。

「やむを得ざるの用向にて、御門前に人を待(また)せたれば。」

《とて、》御斷(おんことはり)の趣(おもむき)申入(まうしいれ)、

「直(ただち)に立歸る。」

といひてさらんとせしかども、家來、ゆるさず、

「先(まづ)、主人及び一座の客人に其趣申通ずる間、ひかへ候へ。」

といへば、甚(はなはだ)難澁の趣なれども、先(まづ)其意に從ひけり。

 かくて主人に告げしに、

「何用なるかはしらねども、御頭衆(おかしらしゆう)より合(あひ)に、先程より相(あひ)待こと、久し。縱令(たとひ)さり難き用なりとても、聞(ぶん)にも出(いで)ず去ることやある。」

とて無理に引出(ひきいだ)し、用の趣を尋(たづね)させしに、

「其事(そのこと)、別事にあらず。『くひ違ひ御門』内にて、首を縊(くゝ)る約束せし間(あひだ)、やむを得ず。」

といひて、ひた物(もの)、去らんことを請ひけり。

 主(あるじ)賓(きやくも[やぶちゃん注:底本のルビ。])彌(いよいよ)あやしみて、

「思ふに、亂心と見えたり。かゝらんには、彌(いよいよ)引出(ひきいだし)して酒を飮(のま)すべし。」

とて、座に引出し、先(まづ)、大杯にて續けさまに、七、八盃を飮す。

 扨(さて)、

「これにて許し給へ。」

といふを、又、七、八盃飮せけり。

 主人、聲をかけ、

「例の聲色(こはいろ)所望也。」

といへば、無ㇾ據(よんどころなく)、一つ、二つ、伎(わざ)を奏(そう)し、又、立出(たちいで)んとするを、賓主、各(おのおの)盃を與(あた)へ、飴程、酩酊の色見へ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、賓主、是を興として、かわるがわる[やぶちゃん注:ママ。]に酒をすゝめ、動靜(どうしよう)を窺ひける。

 一時(いつとき)斗(ばか)りする内、先(まづ)去るを請ふ事は忘れたる樣にて、別に亂心とも見へずなりぬ。

 其時、家來、立出で、

「只今、『喰違ひ御門』内に首縊(くゝ)りありと組合より申通(まうしつう)ず。人、差出(さしいだ)すべしや。」

といひたり。賓主きゝて、

「扨は先頃の縊鬼(いき)、此者を殺すこと能(あた)はで、他人を取(とり)たると見へたり。最早、此者の縊鬼は離れたり。」

とて、先(さき)の樣子を尋(たづぬ)るに、

「夢の如く覺へてさだかならず。其頃、『喰違ひ』迄來りしは夕刻前なり。壹人ありて、

『此所にて首を縊るべし。』

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]しが、吾(はれ[やぶちゃん注:底本のルビ。])辭(じ)すること能(あた)はず、

『如何にも縊るべし。今日は御頭(おかしら)の元(もと)御給事(おきふじ)に行(ゆく)約束なれば、其(その)斷りをなして後、其意に從ふべし。」

といへば、其人、

『さらば。』

とて、御門迄、付來(つきいた)り、

『早く斷(ことはり)をいゝ[やぶちゃん注:ママ。]て來るべし。』

といひたり。

 其言(そのげん)、背(そむ)きがたき義理ある者の如く覺へて、其人の義、そむきがたく思ひしは、何の故(ゆゑ)といふことを、しらず。」

といひけり。

 扨、

「今は縊る心ありや。」

と問ふに、自から首に環をかくる眞似して、

「穴、おそろしやおそろしや。」

といひけり。

「全く、約を踐(ふむ)を重んぜしと、酒を飮たるとの德にて、命を助りし。」

といひあへりき。

 かゝる事も、まゝある事にや。

[やぶちゃん注:「縊鬼」(いき/いつき/くびれおに)はウィキの「縊鬼によれば、『中国または日本の妖怪。人に取り憑いて』、『首を括らせるとされる』。『中国での縊鬼は「いき」と読み、『小豆棚』『太平御覧』『聊斎志異』などの中国の古書に記述がある』。『中国の伝承においては、冥界には一定の人口が定められており、この人口を常に保つ必要があるため、死者が別の人間として転生して冥界を去ろうにも、自分に代わる後任の死者が冥界に入らなければ、転生の許可が下りない。このとき、死者が生者の死をただ待っているだけではなく、積極的に自殺や事故死を幇助することで自分の代替を求めることを「鬼求代」という』。『亡者が生まれ変わるには他者に自分と同じ死に方をさせることが条件らしく、縊死した死者が生者に取り憑き、自分と同じように縊死させようとしているものが縊鬼とされる』。『民間伝承や昔話に見られる縊鬼の話はどれもほぼ同じである。宿に泊まった者が、紐を手にした何者かの影を見かけた後、隣室で女が縊死を図り、慌てて止めたところ、先の影は縊鬼であり、隣室の女は理由もないまま縊鬼によって縊死させられようとしていた、という筋が多い』。『中華民国の時代に入ると「吊殺鬼(ちょうさつき)」「吊死鬼(ちょうしき)」などと呼ばれ、同様に自分の身代わりに死ぬ者を求める霊のことが、民間伝承や昔話の中で語られている』(以下、本「反古のうらがき」の条が現代語で紹介されているが、省略する。その訳とこの原本を読み比べれば、如何に現代語訳というのものが、怪異性もオチの滑稽さも削ぎ落してしまうかがよく判る)。『昭和・平成以降の妖怪関連の文献では、この縊鬼は水死者の霊とされ、これに取り憑かれた者は、川に飛び込んで自殺したくなるもの、などと解釈されている』。『江戸時代の奇談集『絵本百物語』には「死神」と題した絵があるが、これは悪念を持ったまま死んだ者の霊が、同様に悪念を持った者を首括りなどに遭わせようとしているものとされ』、『近世の宗教における死神より、本項の縊鬼に近いものと指摘されている』とある。これはそもそもが全体が、実は怪談仕立ての滑稽オチの落語なのである。

「叔氏(おじ)醉雪翁」筆者鈴木桃野の叔父多賀谷仲徳。先手組与力で火付盗賊改方を兼務した。二つ前の「魂東天に歸る」の話と注を参照のこと。

「元がしら」以前の先手組組頭。

「落し咄」落語。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるが、文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)には江戸落語は隆盛を極め、ウィキの「落語」によれば、『文政末期には江戸に』百二十五『軒もの寄席があったといわれる』とある。

「身振り」滑稽な仕草や形態模写をしておどけること。

「より合(あひ)」「寄合」。

「給事(きふじ)ながら」雑用が御座いますが。

「來らず」言わずもがな乍ら、「なかなか来ない」の意。これを二度の畳み掛けて、しかし「來たれり」と出すのは話柄の展開を焦らす点で甚だ上手い。

「忽々(そうそう)として」如何にも何か忙しげな様子で。

「聞(ぶん)にも出(いで)ず」「聞」は「直接相手に話をすること」の意か。或いは「当然そうあるべきこと」の意(ここでは寄合の席に出て挨拶や芸をすること)か。

「くひ違ひ御門」江戸城外郭城門の一つで四谷門と赤坂門との間にあった喰違門(くいちがいもん)。ウィキの「喰違門」によれば、『清水坂から紀州家中屋敷に行く喰違土手の前に当たることからの名であるという』。寛永一三(一六三六)年の『外濠普請の際、この門の升形は丸亀城主生駒壱岐守高俊の助役で組み上げられたものであるという』。『万治年間』(底本の朝倉治彦氏の注では万治二(一六五九)年とある)『にも造営が行なわれ、「府内備考」には、「万治二年所々御門御造営の時、喰違御門は長谷川久三郎、日根半助を奉行に命ぜられしよし』、「万治年録」『に載たれば、古くは外々御門とひとしき造りなりしならん、今は仮そめの冠木門となれり、或は喰違土橋とも称す」とある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)にあった。なお、この元先手組組頭の屋敷のあった麹町は喰違門の北直近で((グーグル・マップ・データ))、近ければ直線で二、三百メートル、最も遠い東の半蔵門方向であっても、一キロ程しか離れていない。

「ひた物(もの)」「直物」「頓物」と漢字を当てるが、副詞。ひたすら。無闇に。

「聲色(こはいろ)」他人、特に役者や有名人の台詞回しや声を真似ること。歌舞伎役者などの声や口調を真似る滑稽芸や専門の芸人は既に元禄(一六八八年~一七〇四年)頃から存在した。

「一時」現在の二時間相当。

「約を踐(ふむ)」約束を履行する。]

2018/08/18

反古のうらがき 卷之一 官人天より降る

 

   ○官人天より降る

 予が祖父向陵翁、若かりし時、書齋に獨り居(をり)しに、忽然として、一人の衣冠の人、櫻の枝より降(くだ)り來る。よくよく見るに、盜賊とも見えず。但し、衣冠の官人、此あたりに居(を)るべき理(ことはり)なし、況や天より降るべき理、更に、なし。おもふに、『心の迷ひより、かゝるものの、目に遮(さい)ぎるなり』と、眼を閉(とぢ)て見ず、しばしありて眼を開けば、其人、猶、あり。降りも來らず、やはり、其邊りにあり。眼を開(ひら)けば、漸々に降り來(きた)る。また眼を閉ぢ、しばしありて開けば、又、漸々近づき來る。如ㇾ此きこと、三、四度にして、終に椽頰(えんづら)迄來り、椽ばなに手を懸る。『こは、一大事』と思ひて眼を閉ぢたるまゝに、家人を呼びて、「氣分惡(あ)し。夜具を持來(もちきた)れ」と命じ、其儘打(うち)ふして、少しまどろみけり。心氣(しんき)しづまりて後、起出(おきい)で、見るに、何物もなし。「果して妖恠(ようかい)にてはあらざりけり」と、書弟子石川乘溪(じやうけい)に語りしとて、後、乘溪、予に語りき。此話、曲淵甲斐守といふ人も、此事ありしよし聞けり。これは、曲淵、心しつまりて驚かざれば、妖氣、鄰家(りんか)に移りて、卽時に、鄰(となり)主人、こし元を手打(てうち)にして狂氣せしよし、語り傳(つ)たへたりとなり。

[やぶちゃん注:この話、既に『柴田宵曲 妖異博物館「異形の顏」』で電子化している。そこで宵曲は「或は曲淵、川井兩家に同じやうな事があつたのかも知れない」などという無批判の肯定的解釈を示しているが、私はここは元にあった作り話から派生した都市伝説であるように思われる。そもそもがリンク先の注示した如く、酷似した話の登場人物が「河合」「川合」で、「かはひ」と「甲斐守」の「甲斐」(かひ)は音型が酷似しており、しかも「河合」「川合」「曲淵」は如何にも縁語染みて見えるからである(但し、後で注する如く「曲淵甲斐守」は実在する)。前話では超冷静だった鈴木桃野が、この「石川乘溪」(不詳)なる祖父の書道の弟子の怪しい話にコロリと騙されるとは、ちと、意外。

「祖父向陵翁」多賀谷向陵(たがやこうりょう 明和三(一七六六)年~文政一一(一八二八)年)。底本の朝倉治彦氏の注には、本文には「祖父」とあるのに『母の兄』とする(それについての注記はない)。『石を愛し、特に愛した五石を以て五石居士の別号があった。四谷佐門町に住し、環翠堂なる塾を経営した。能書を以て知られ』、『不忍池弁天堂の裏手の武道家櫛淵虚冲軒の碑ははその筆』とある。

「遮(さい)ぎる」「さえぎる」(歴史的仮名遣もこのままで「さへぎる」は正しくない)の更に古形の読みで示した。

「降りも來らず、やはり其邊りにあり」この話の面妖な部分は私はここであろうと思う。最初に「櫻の枝より降(くだ)り來る」と言っているのに、ここでは「降りも來らず」と言って、更にこの後ではまた、「やはり、其邊りにあり。眼を開(ひら)けば、漸々に降り來(きた)る」、「また眼を閉ぢ、しばしありて開けば、又、漸々近づき來る」これを実になお、「三、四度」も繰り返して、だんだん、だんだん、降りて来るというのだ。私はここにある種の作為的な嘘臭さ(怖がらせる時間を引き延ばす或いは最後に眼を開けた時に目の前に官人の顔がアップであるかも知れぬという恐怖を演出する手法)を感ずる一方で、別に私はこれは桜の枝から空中を浮遊して下って来ているのではないか、「竹取物語」の天人の使者のように、地面から浮き揚がった形でだんだん近づく(あれは地上の穢れに触れぬためだと私は思っているのであるが)のと同じではないか? と考えもしたのである。とすれば、これは或いは宇宙人の来訪ででもあったのかもね! などと軽口を叩きたくもなった。私が嘗てUFOを研究し、宇宙人を信じていた頃の後遺症である。

「椽頰(えんづら)」大きな屋敷などで、主だった座敷と廊下の間にある畳敷きの控えの間のこと。襖の立て方によって廊下の一部分とも、部屋の一部分ともなるようになっている。「椽」は「縁」のこと。前条で既注。

「椽ばな」「縁端」。

「心氣(しんき)」心の動揺或いはそれによって引き起された心悸亢進。

「曲淵甲斐守」旗本で町奉行であった曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ 享保一〇(一七二五)年~寛政一二(一八〇〇)年)であろう。ウィキの「曲淵景漸によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』。寛保三(一七四三)年、『兄景福の死去に伴い』、『家督を継承、寛延元年』(一七四八年)『に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進』明和二(一七六五)年、四十一歳で『大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任され』た、明和六年には『江戸北町奉行に就任し、約』十八『年間に渡って』、『奉行職を務め』、『江戸の統治に尽力した』。『在職中に起こった田沼意知刃傷事件を裁定し、犯人である佐野政言を取り押さえなかった若年寄や目付らに出仕停止などの処分を下した』。『経済にも精通しており、大坂から江戸への米穀回送などに尽力した』。『当時の江戸市中において曲淵景漸は、根岸鎮衛と伯仲する名奉行として庶民の人気が高かった』。明和八(一七七一)年三月四日に『小塚原の刑場において』、『罪人の腑分け(解剖)を行った際、その前日に「明日、小塚原で刑死人の腑分けをするから見分したければ来い」という通知を江戸の医師達に伝令した。この通達により「解体新書」などで名高い杉田玄白と前野良沢・中川淳庵らは刑死人の内臓を実見することができ』、かのオランダ語医学書「ターヘル・アナトミア」の『解剖図と比較することで』、『日本の医学の遅れを痛感することにな』ったのであった。後の左遷と、勘定奉行への返り咲きはリンク先を読まれたい。

「こし元」「腰元」。

「傳(つ)たへたり」「た」を送っているのはママ。]

反古のうらがき 卷之一 魂東天に歸る

 

  ○魂東天に歸る

 豫が叔父醉雪老人、加役(かやく)の吟味方を勤(つとめ)しが、科人(とがにん)をつよく詰問(きつもん)するとて、氣(き)上(あが)りしにや、休息所に入(いり)て其儘に打伏(うつぷ)し、中風の病(やまひ)起り、半身不隨にて人事を省(せい)せず、百藥驗(しるし)なく、凡(およそ)一月斗(ばかり)有(あり)けり。春の永き夜なれば、皆、看病につかれて、はては一人持(ひとりもち)となる。命、盡(つく)るの前夜は、予と甲麗生と二人也。半夜に至りて、あたり凄(すさま)じく、風、吹荒(ふきあ)れて、しばらくして止(やみ)ぬ。物靜(ものしづか)になりしは、さわがしきよりも、更にすさまじくて、打寄(うちより)て物語などする内に、屛風引𢌞したる外(そと)にて、殊に厲(はげ)しき物音して、一貫目斗(ばかり)のかたき物の、椽板(えんいた)などの上に落(おち)たる音也(なり)。出(いで)てみるに、物、なし。予、恠(あや)しみて燭を取(とり)て仔細に見るに、年久しく床の間に懸(かけ)ありし鯨骨(げいこつ)の腰差(こしざし)、挑燈の棹(さほ)なり、細き皮を以て釘にかけたるが、自然(おのづ)と切(きれ)て落たるにてぞ有ける。下に繪の具箱など重(かさなり)て有り。思ふに其上なる故に、殊に音もはげしかりしか。こなたの思ひよらぬ筋は、少しの事にもたまきゆる計(ばかり)におもふものなれば、世に人の死する前に、魂氣(こんき)、出(いづ)るなどいふも、此やうなる事などに驚きたる時、其事ありと思ふならん歟。

[やぶちゃん注:鈴木桃野自身の、日付も明確に分かる実体験擬似怪談である。桃野の、世間で怪異とされる現象に対する極めて冷静にして、近代的科学的心理学的な立ち位置がよく判る話柄であり、こうした事例を敢えて怪奇談集の頭の方に持ってくる態度は、私には優れて好ましく感ずるものである。標題「魂東天に歸る」は「魂(たましひ)、東天(とうてん)に歸る」。

「醉雪」底本の朝倉治彦氏の注に『母の弟。多賀谷氏。字』(あざな)『は仲徳。丈七と称す。兄のあとをついで先手与力』(先手組与力(さきてぐみよりき):江戸幕府の番方(軍制・武官)組織の一つ。若年寄に属し、江戸城各門の警備・将軍外出時の警護・江戸城下の治安維持等を担当した。同じ治安を預かる町奉行及びその配下の町与力・町同心が役方(文官)であるのと対照的に、先手組の組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという。ここはウィキの「先手組」に拠った)となった。天保一〇(一八三九)年『三月十五日歿、六五歳。法号酔翁院古庭雪道居士』とあり、高円寺鳳林寺の彼の墓にある古賀侗庵筆の漢文の碑文が記されてあるが、それを見ると、読書や詩を綴ることを好み、最も耽ったのが絵を描くことであったとあり、この条の「繪の具」が腑に落ちる。「命、盡(つく)るの前夜」とあるから、このシチュエーションは天保十年三月十四日と考えてよかろう。さすれば当日はグレゴリオ暦で一八三九年四月二十七日に当たる。標題から見て、三月十五日の明け方、逝去されたもののようである。

「加役」彼が先手組であることが前の注で判明していることから、彼は、かの江戸で最も恐れられた「火付盗賊改方」(主に重罪である「火付け」(放火)・「盗賊」(押し込み強盗団)・たちの悪い集団「賭博」等の凶悪犯を専門に取り締まった)であることが判る。実は「火盗改(かとうあらため)」(略称)は本来は臨時役職であって、幕府常備軍である御先手組弓及び筒(鉄砲組のこと)の頭(かしら)から選ばれ、御先手頭職務との兼役であったことから、「火盗」(やはる略称)は単に「加役(かやく)」とも呼ばれたのである(ここはウィキの「火付盗賊改方」を参考にした)。

「氣(き)上(あが)りしにや」血が頭にのぼったものか。「中風」(ちゅうぶう)「半身不隨」とあるから、脳卒中(重い脳梗塞)や高血圧性脳内出血の可能性が高い。

「人事を省(せい)せず」人事不省となること。通常の知覚や意識を失う、或いは失ったようにしか見えない状態となること。意識不明の昏睡状態を指すのが普通。この場合の「人事」とは「人として普通に為し得ること」「見当識があること」を指す。

「一人持」枕元に就く看病人が一人となること。ここは少し前から、夜伽では一夜を二人が交代して担当するようになってことを指すのであろう。但し、シークエンスは病人の容態が悪化していて気が気でなく(実際に翌日亡くなったのだから)、風も激しく吹いていたりして、二人とも起きていた(「打寄て物語などする」)のである。

「甲麗生」「甲麗」が名で「生」は青年男子を示す添え辞であろうが、不詳。

「半夜」真夜中。

「一貫目」三キロ七百五十グラム。

「椽板」縁側の板。芥川龍之介など、近代以降も「緣」を「椽」(本来は「垂木」を指すので誤り)と書く作家は多い。

「年久しく床の間に懸(かけ)ありし鯨骨(げいこつ)の腰差(こしざし)、挑燈の棹(さほ)なり、細き皮を以て釘にかけたる」ちょっといみが採り難いが、私は――「永年、床の間に懸けてあった鯨の太い骨を刳り抜いて作った「腰差」(=腰刀(こしがたな):腰に差す鍔のない短い刀。いろいろな趣味を持っていたようだから、これも「醉雪老人」の手製の遺愛の品だったのかも知れない。でなければ、床の間には飾るまい)で、「挑燈の棹(さほ)」のような「なり」(=「形(なり)」)をした腰刀で、「細い皮を以」つて「釘に」掛けておいたのが」――という風に読んだ。

「こなたの思ひよらぬ筋」想定が思った以上に狭められている状況下。

「たまきゆる」「魂消ゆる」。]

反古のうらがき 卷之一 八歳の女子を産む

 

  〇八歳の女子を産む

 松平冠山老公の采地(さいち)は常州とか聞(きき)し。百姓何某が娘、八歳にて子を産みたるよし、江戸にての評判、甚し。板本(はんぽん)となして、市(いち)に賣るものも有けり。老公、家臣を召して尋給(たづねたま)ひしに、「さだかに此事あるよし、知行のもの語りたれば、疑ふべくもなし」といひけり。老公、獨り信じ給はず、或日、駿足を命じ、一騎乘りにて家を出(いで)、三十里計(ばかり)の路程を一日に馳付(はせつけ)、名所(などころ)の如く尋行て、其家を求めしに、絶(たえ)て其人なし、況や其事をや。世の風説は大體ケ樣なるものなるべし幸に、三十里の所なれば、卽時に實否をしることを得たり。若(もし)數百里の外の事ならば、疑(うたがひ)を解くに緣(よし)なく、終生、疑ひおもふべし。人々、多く疑ひて、後に實(げ)に恠(あや)しきことも有者也」といはれしよし。老公は予が翁と同甲子生(かつしうまれ)にて、同庚會(どうこうくわい)に會(くわい)せし人也、其後も、予が祖母八十の賀詩を惠まれし也。

[やぶちゃん注:標題は「八歳の女(むすめ)、子を産む」である。さても、この奇談の元ネタは既に私の「耳囊 卷之十 幼女子を産(うみ)し事」にも載り(「下總國猿島(さしま)郡藤代(ふじしろ)宿」と場所が異なる。恐らくは茨城県南部に位置する旧北相馬郡藤代町で、現在の茨城県取手市藤代周辺、ここ(グーグル・マップ・データ)であると思われる。取手市は嘗ての常陸国と下総国に属した地域である)、ここにある通り、当時、いわば、「都市伝説」として爆発的にヒットしたもので(その結果として変形譚が数多くある)、かの滝沢馬琴編になる奇譚蒐集会「兎園会」の報告集「兎園小説 第二集」にも、海棠庵(常陸土浦藩士で書家としても知られた関思亮の号)の報告として「藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書」として載った。それらは総て「耳囊 卷之十 幼女子を産(うみ)し事」の注で電子化して注も附してあるので、是非、見られたい。また、このトンデモ噂は柳田國男も着目している(一目小僧その他」附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二を参照)。

「松平冠山老公」は因幡国鳥取藩の支藩若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)。

「采地」この場合、若桜藩の現地の藩領とは別に、飛び地として拝領している領地を指す。

「常州」常陸国。概ね、現在の茨城県に相当。前に示した「耳囊」

「三十里」約百十八キロメートル。江戸から直線だと、ひたちなか市辺りに当たる。但し、先に示した茨城県取手市藤代だと直線で四十一キロメートルで、実測距離としても、そんなにはないし、そもそもが藩主が供も連れずに行く距離ではない。一人で数値の誇張が疑われる。柳田も流石にあり得ないと思ったものか、上記リンク先の中で、『其地の領主が特に家臣をやつて確めた所が、さういふ名前の家すらもなかつたと、鈴木桃野の「反古の裏書」には書いてある』と本文と違ったことを書いている。まあ、判らぬでもない。そうしないと、この池田定常が確認したという事実が無化されてしまい、折角のトンデモ話の否定が上手くゆかなくなっちゃうからね。

「人々、多く疑ひて、後に實(げ)に恠(あや)しきことも有者也」やや言葉が足らず、意味が採り難い。「世の中には、このように多くの人々が疑っていながら、確認出来ないために無批判に信じ込んでしまっていることが多くあるのであって、後に、それが本当にあったまことの怪奇談として認識されてしまうことが、これ、あるものなのである」という意味で採っておく。

「予が翁」鈴木桃野の実父である幕府書物奉行を勤めた鈴木白藤。

「甲子生」ここは単に同じ「干支(えと)」の生まれの意であるので注意。次注参照。

「同庚會」は底本の朝倉治彦氏の注に『父白藤と同年齢を以てした集会』とあり、全部で六名からなるものであった旨の記載があり、そこに松平冠山の名もあり、『白藤は明和四』(一七六七年)『九月十六日生』まれとある(没年は朝倉氏の冒頭の解説によれば、嘉永四(一八五一)年)。或いは、明和四年の干支は丁亥(ひのとい)なに何故、同「庚」(コウ/かのえ)なのだろう? と疑問に思われる方がいるだろう。紛らわしいのであるが、この場合の「庚」は狭義の十干の七番目それを指すのではなく、「年齢」の意で、「同庚」で「おないどし」の意味なのである。「同甲」とも称する。

「予が祖母」底本の朝倉氏の注に『多賀谷氏』とある。多賀谷(たがや)氏は武蔵七党の一つである野与(のよ)党を祖とする一族である。]

反古のうらがき 卷之一 幽靈

 

  ○幽靈

 友人齋藤朴園が續從(のちぞひ)の妻は、これも新たに寡(やもめ)にして、再び朴園に嫁せし也。樣子がらもよろしく在(ある)に、安堵のおもひをなせしに、一日(あるひ)、忽(たちまち)、「吾に暇(いとま)くれ候へ」とせちにこひけり。固(もと)より留むべき辭(ことば)もなければ、其意に任せて歸しけるが、跡にて聞けば、「或夕暮、庭より内に入(いり)しに、前の夫と座敷の内に居(をり)し」とて、里付(さとづき)の婢(はしため)に語りしよし。其後、再び何方へか嫁せしよし也しが、此度は井に入て死せしよし、はたして狂氣に疑ひなし。朴園は早く歸せし故、此禍(わざはひ)を免れたりと語りあへり。

[やぶちゃん注:言っておくが、「前の夫と座敷の内に居し」の「と」は底本のママである。しかしだから読み採り難くなっている。「里付の婢」は女(後妻)が実家から伴って来た女中であろうから、前の台詞は後妻がその女中に語った内容であり、だからこそ「前の夫」なのであろうが、台詞自体が、甚だ妙である。ただ「前の夫」が「座敷の内に居」たのだったら、彼女は「前の夫と」とは言うまい。されば、この台詞を私は、

「ある夕暮れのことよ。私は庭から家の中に上ったの。そしたら――座敷の中に――死んだ前の夫と――私が――一緒に居たの。……」

という意味ではないかろうかと思うのである。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」に所収するものでは、ここが、

『前の夫が座敷の内に居(をり)し』

となっている。これなら不審は雲散霧消するのであるが、正直、それでは――怪奇談としては常套に過ぎて今一つ――なのである。腑に落ち過ぎる怪談として、却って怖くないのである。しかし正直、大半の読者はここは「が」が正しいとお考えになり、ただの誤写か誤植であろうとされるのだろうが、にしても、だったら、「庭より内に入(いり)しに」という怪奇シーンの導入は何だったのか? と私は思うのである。寧ろ、日常から非日常への通路として、より驚くべき異界性を持って機能する(機能させる)ものなのであることは言を俟たない。さらに言えば、彼女の精神疾患を重篤な幻視性を持ったもの(後に井戸に飛び込んで入水自殺する点からもそう考えてよい)と捉えるなら、この幻視には――彼女自身が死んだ夫と一緒にいる姿が見えた――だから「と」なのだ――と考えた時、この短い話柄は慄然とさせる真正の怪奇性をも帯びてくると私は思うのである。或いは――そでただ二人は座っていただけなのか? 二人は何かしていたのではないか?――とまで私は妄想するのである。大方の御叱正を待つまでもない。私の深読み、いや、この解釈こそ私の中の怪奇趣味或いは狂気の由縁なのかも知れぬ。

「齋藤朴園」不詳。]

反古のうらがき 卷之一 狐 / 鈴木桃野「反古のうらがき」オリジナル電子化注~始動 

 

 次のブログ・カテゴリ「怪奇談集」は鈴木桃野著「反古のうらがき」の電子化注とする。

 鈴木桃野(とうや 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)は江戸後期の幕臣旗本で儒者。幕府書物奉行鈴木白藤(はくとう)の子で、名は成虁(「せいき」か)、字(あざな)は一足、通称は孫兵衛、号は詩瀑山人・酔桃子・桃華外史など。天保一〇(一八三九)年、部屋住みから昌平坂学問所教授方出役となった。嘉永五(一八五二)年、前年と父の死を受けて家督を相続、射術を好み、随筆・画に優れた。甲府徽典館(きてんかん:甲府にあった学問所。山梨大学の前身)学頭の任命を受ける直前に死去した。著作に本書の他、随筆「無可有郷」「酔桃庵雑筆」「桃野随筆」等がある。

 本「反古のうらがき(裏書)」は謙辞の通り、事実、勤務していた学問所で出る反故紙等の裏を利用して書かれたものと推定され、完成は諸書き入れ等から考えると、嘉永元年から嘉永三年頃か。全四巻で怪奇談八十五話を収録し、底本(以下)の朝倉治彦氏の解説によれば、『桃野の親戚友人、或いは居住地を中心とする近辺に起った異聞を興味のまま筆録した』ものである。

 底本は一九七〇年三一書房刊「日本庶民生活史料集成」第十六巻「奇談・紀聞」の朝倉治彦氏校訂の「反古のうらがき」を用いたが、読み易さを考えて句読点や記号を追加(一部は変更)、読みは底本に振られたものの他、訓読にやや難のあると私の判断したものにも読みを歴史的仮名遣で振った。踊り字「〱」「〲」は正字化した。筆者によるポイント落ち割注は【 】で本文と同ポイントで示した(一部は位置をずらした)。注は禁欲的に附した。また、疑義を感じた部分については、国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」に所収するものと校合し、その旨、注記した。【2018年8月18日始動 藪野直史】

 

 反古のうらがき

         醉 桃 子 著

         天 曉 翁 評 閲

 

[やぶちゃん注:「天曉翁」不詳。]

 

 反古のうらがき 卷之一

 

  ○狐

 谷町といふ所の名主を、片山五郞左衞門といひて、片山永孚といへる書家の八代の孫也けり。予に語りしは、十六、七歳の頃、父が方にありて【わら店(だな)也。】、市ケ谷御門外、「ことぶき」といへる水茶屋へ、より合に行けり。夜五つ時頃に、神樂坂より「牡丹屋敷」といふ所を通る時、そゞろにおそろしく覺えて、逢坂下にてふと見るに、土手の向ふを行かふ挑燈あり、行合て、一つとなり、行違ひて、二つとなりする樣、尋常(よのつね)の挑燈にあらずと見る中に、五つとなり、六つとなり、又、寄合て一つとなる。『これ、狐火なるべし』と思ひて、早足に行過て前後を顧るに、宵ながら、人通もなし、漸(やうやく)抹香屋の前あたりと覺しくて、再び土手の方を見やりしに、此度は、挑燈、いくつともなく行違ふを見るに、みな、此方へ向ひて來(きた)る、水の上を行にてぞありける。其(それ)、近くよるを見るに、挑燈、みな、足ありて步む也。此方より彼方に行も同じ。此時、おそろしきこと極りて、一足も行(ゆき)能はず、立留りて其近きほとり迄來るを見しに、挑燈も足も、みな、狐火にてはあらず。人也。「いかゞして水を渡り來りしや」と、其足元を見れば、水上にはあらで、市ケ谷見付の橋を渡り來るにてぞありける。但し、抹香屋の邊りと思ひしより、水上と思ひしのみにて、別に恠(あや)しき事にてはあらざりけると也。

[やぶちゃん注:のっけから残念だが、実際の「怪奇狐火」ではなく、夜間の遠近感喪失に基づく錯覚に因る擬似怪奇体験談の直話である。しかし、語り(或いは桃野の書き方)の絶妙さから、読者は、「狐火」が「提灯」に化け、しかもその「提灯に人間の足が生え」、遂に「人に化けた」か、と思わせる仕掛けとなっていて、極めて上質の怪談となっている点にこそ着目すべきである。

「谷町」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、現在の市ヶ谷地区の新宿区住吉町(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「片山永孚」不詳。名は音なら「えいふ」、訓では「ながざね」か。

「わら店(だな)」「藁店」固有地名。現在の東京都新宿区袋町の光照寺の東北(ここ(グーグル・マップ・データ))の地蔵坂の脇。個人サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「藁店(わらだな)は1軒それとも10軒」を参照した。

「市ケ谷御門外」底本の朝倉治彦氏の補註に、『麹町から市ヶ谷への出口。門外には、八幡町、市ヶ谷田町一丁目があるが、市ヶ谷八幡の門前町八幡町には水茶屋』(寺社の境内や路傍で往来の人に茶を供し、休息させた茶店の称。葉茶を売る葉茶屋と区別して、水茶屋といった。室町時代から見られた一服一銭の茶売りが、葭簀張りの掛小屋に床几を設えるなどするようになってからの江戸時代の名称で、これらが、やがて酒食を供するようになって煮売茶屋・料理茶屋となり、店の奥に座敷を設けるところが現れると,それが男女の密会や売春の場となっていった。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)『があった。寛政五』(一七九三)『年』、『水茶屋の許可が出ている』とある。

「夜五つ時」定時法では午後八時頃。

「牡丹屋敷」現在の神楽坂一丁目附近(ここ(グーグル・マップ・データ))。先に出した個人サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「『新宿区町名誌』と『新修新宿区町名誌』」に、「新宿区町名誌」(昭和五一(一九七六)年新宿区教育委員会発行)から引用して、

   *

神楽坂一丁目は、牡丹(ぼたん)屋敷跡とその周辺の武家地跡である。八代将軍吉宗は、享保十四年(一七二九)十一月、紀州からお供をしてきた岡本彦右衛門を、武士に取り立てようとしたが、町屋を望んだので外堀通りに屋敷を与えた。岡本氏はそこにボタンを栽培し、将軍吉宗に献上したので、岡本氏屋敷を牡丹屋敷と呼んだのである。岡本氏は、また牡丹屋彦右衛門と呼ばれた。

 宝暦十一年(一七六一)九月、岡本氏はとがめを受けることがあって家財没収され、屋敷はなくなった。その跡、翌十二月老女(大奥勤務の退職者)飛鳥あすか井、花園等の受領地となって町屋ができた。

   *

とある。同サイトには「牡丹屋敷」の記載が他にも複数ある。

「逢坂下」「逢坂」は「大阪」「美男坂」とも称し、現在の東京都新宿区市谷砂土原町三丁目に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。先に挙げた個人サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「逢坂|市谷船河原町」に非常に詳しい。

「抹香屋」線香を商う店という一般名詞と採った。実は現在の神楽坂の一部は元は「通寺町」(とおりてらまち)と呼ばれ、寺が多かった。「東京理科大学理窓会埼玉支部」公式サイト内の「肴町は家光ゆかりの地」に以下の記載がある(一部の不審な字空けを除去させて貰った)。

   《引用開始》

 昔、神楽坂と言えば坂上(肴町)から坂下(牛込見付)までを指した。

 大久保道を横切り矢来に抜ける道は、左右に門前町が開け、神楽坂に比べ道幅も狭く雨が降ると傘をさす通行人が行き違い出来ない程、家の軒が迫っていた。通寺町、横寺町と呼ばれるように寺が多かった。明治のはじめ排仏毀釈により多数の寺が廃寺にされたがそれでもまだ狭い道の両側には向かい合うように寺が並び、朝夕どこともなく念仏や読経の声が左右から流れてきた。いまでも横寺町に入るとその雰囲気を残している。

   《引用終了》

以上の引用部の後の方に、『戦後、通寺町は住民から何の異論が出ずに神楽坂6丁目になったが、抹香臭い町名より神楽坂の方が格好良かったからであろう』とある。記者が、この『抹香臭い』と表現して呉れたお蔭で、このページを発見出来、「通寺町」の旧名も知り得た。御礼申し上げる。

「市ケ谷見付の橋」市ヶ谷見附から神楽坂へ架橋された現在の牛込橋。(グーグル・マップ・データ)。]

2018/08/17

譚海 卷之三 元和の比堂上之風儀惡敷事

 

元和の比堂上之風儀惡敷事

○元和の此迄は公家衆無狀にして、洛外放縱に步行(ほぎやう)有(あり)。猪隈大納言殿・鳥丸光廣卿など放蕩にて、禁中の女房など誘引して遊山にでられし事度々に及び、關東より嚴敷(きびしき)御誡(おんいましめ)ありて、猪隈殿は首領ゆへ斬罪に處せられ、家斷絶せり。光廣卿も御咎(おとがめ)によりて暫く配流せられたり。女房は中院通村公のおば君にて、禁中に伺候せられしが、伊豆國へ配流に處せられたり、その事通村公の集に見えたり。

[やぶちゃん注:「元和の比堂上之風儀惡敷事」「元和(げんあ)の比(ころ)、堂上の風儀、惡敷(あし)き事」。「元和」は一六一五年から一六二四年までで、徳川秀忠及び徳川家光の治世であるが、以下に見る通り、ここで語られる朝廷公家衆が絡んだ醜聞事件で、江戸幕府による宮廷制御の強化や後陽成天皇退位の引き金ともなった「猪熊事件」は慶長一二(一六〇七)年の出来事であり、当時は家康は大御所として健在(家康の将軍職辞任は慶長一〇(一六〇五)年四月)で、時制がおかしい。

「無狀」無作法なこと。

「猪隈大納言殿」「猪熊事件」で知られる乱脈公家猪熊教利(のりとし 天正一一(一五八三)年~慶長一四(一六〇九)年)のことと思われるが、彼は大納言或いは権大納言ではなく、最終位階・官職は正五位下・左近衛少将である(彼の父を権大納言四辻公遠とする説があることからの誤認か、或いは同事件に連座した(但し、処罰はなされず、蟄居の後、二年後には赦免されている)烏丸光広(後注参照)が後(まさに元和二(一六一六)年に権大納言となったことを混同したものかも知れない)ウィキの「猪熊教利」より引く。初め、『高倉範国の養子として、中絶していた高倉家の跡を継ぎ』、天正一三(一五八五)年に叙爵、同二十年に『侍従に任じられ』、慶長二(一五九七)年には『従五位上に叙された』。『山科言経が勅勘を蒙って摂津国に下った後、教利は山科を称していたが』、同三年、『徳川家康の取り成しによって言経が朝廷に復帰したため』翌年、『勅命により山科を改めて猪熊を家名とした』。『家名は平安京の猪熊小路に由来するか』。同五年には左近衛少将、さらに『正五位下に叙任』され、同六(一六〇一)年には県召除目(あがためしのじもく)で『武蔵権介に任じられ』、家康より二百石を安堵された。『教利は天皇近臣である内々衆』と呼ばれた者の一『人として後陽成天皇に仕えていたが、内侍所御神楽で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に詠進したりする等、芸道にも通じていた』。『政仁親王の石山寺・三井寺参詣に供奉し、新上東門院の使者として伏見城の家康を訪ねた事もある』。一方で、彼は在原業平や「源氏物語」の『光源氏を想起させる「天下無双」の美男子として著名で、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と呼ばれて京都の流行になる程に評判であった』。『また、かねてから女癖が悪く、「公家衆乱行随一」』『と称されていたという』。慶長一二(一六〇七)年二月、突如、『勅勘を蒙って大坂へ出奔したが、これは女官との密通が発覚したためと風聞された。やがて京都に戻った後も素行は収まらず、多くの公卿を自邸等に誘っては女官と不義密通を重ねた』。そして、慶長一四(一六〇九)年七月、女官五名と烏丸光広(後注参照)ら公家七名との『密通が露顕した(猪熊事件)』が、『詮議の過程で教利がこれら乱交の手引きをしていた事が明らかとなり、激昂した天皇は処分を幕府に一任』し、八月四日、『幕府は教利逮捕の令を諸国に下し、捕らえ次第』、『京都所司代に引き渡すよう厳命した。所司代の追及を恐れた教利は』、『当時』、『かぶき者として知られた織田頼長の教唆を受けて西国に逃亡』した。『一説には朝鮮への亡命を企てていたともいう』が、『同月中に潜伏先の日向国で延岡城主・高橋元種により』、『召し捕られた』。九月十六日、『京都に護送後は二条に収監され』、十月十七日、『常禅寺で斬刑に処された』。享年二十七。『猪熊の家名は途絶えたが、家系は実弟・嗣良が再興した』とある。別により詳しいウィキの「猪熊事件もあるので参照されたい。朝鮮に亡命していたら、今頃、ますます半島からの反日感情が昂まったに違いないと思わせるヒップである。

「鳥丸光廣卿」公卿で歌人・能書家でもあった烏丸光広(からすまるみつひろ 天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)。ィキの「烏丸光広より引く。『准大臣烏丸光宣の長男。官位は正二位権大納言。細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ』。『経済的に恵まれた環境のもと』、僅か三歳で『従五位下に叙された。弁官や蔵人頭を経て』、慶長一一(一六〇六)年、『参議に任じられて公卿に列したが』、三年後の同十四年に『起きた猪熊事件』『に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り、官を止められて蟄居を命じられた』。しかしその二年後の同十六年四月には『勅免されて還任し』ている。その後、元和二(一六一六)年には『権大納言に進み』、同六年、『正二位に昇ったが、これ以降官位の昇進は見られ』ない。『後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下り、公卿の中でも特に江戸幕府側に好意を寄せていた。また、自由闊達な性格で逸話にも富み、多才多芸な宮廷文化人として、和歌や書・茶道を得意とした。とりわけ歌道は』慶長八(一六〇三)年に『細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、将軍・徳川家光の歌道指南役をも勤めている。書については、大変ユニークではあったが、寛永の三筆に決して劣らず、光広流と称される』。『本阿弥光悦や俵屋宗達など江戸の文化人と交流があり、また、清原宣賢に儒学を学び、沢庵宗彭・一糸文守(いっしもんじゅ)に帰依して禅をも修めた』。歌集に「黄葉和歌集」があり、著書には「耳底記」・「あづまの道の記」・「日光山紀行」・「春のあけぼのの記」、他に仮名草子「目覚草」『などがある。また、俵屋宗達筆による』「細道屏風」に『画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに』「東行記」などがある。以下、「逸話」の項より抜粋すると、寛永三(一六二六)年のこと、『勅使として江戸にいた光広は平将門の伝説を知り、帰京して天皇に「将門は朝敵に非ず」と奏上』し、『これにより、将門は朝敵の汚名を返上した』という。『光広は「当世にうつけ者が』二『人いる」として、「沢庵は歌の名人であるのに、身の丈を知らず、我らに添削を頼まれる。これが』一『人のうつけである。我らも自分の丈を顧みずに、沢庵の歌を直す。これもまた大きなうつけである」と話したという』。『光広は屋敷の前を通る牛飼を事あるごとに止め、その牛を雇って遊郭に通っていた。しかも、車の上に毛氈を敷き、酒肴を設けて自若として通っていたという』。俊才であったのだろうが、懲りないエロ男という感じもジワジワと来る奴である。

「中院通村」村上源氏中院家当主で後水尾天皇の第一の側近であり、反幕府派の公卿中院通村(なかのいんみちむら 天正一六(一五八八)年~承応二(一六五三)年)。彼は権中納言中院通勝(みちかつ 弘治二(一五五六)年~慶長一五(一六一〇)年)の子であるが、ウィキの「猪熊事件を見ると、「猪熊事件」の処罰者の中に中院通勝の娘権典侍中院局(『伊豆新島配流』となり、元和九(一六二三)年九月勅免とある)がいる。しかしだとすると、通村の姉妹であり、「おば君」ではない。或いはただの誤りか、或いは、他に連座して流された女房(総て伊豆配流で赦免も同時)に、新大典侍広橋局(広橋兼勝の娘)・中内侍水無瀬(水無瀬氏成の娘)・菅内侍唐橋局(唐橋在通の娘)及び命婦讃岐(兼安頼継の妹)がいるから、通村の伯母(叔母)に当たる人間がこの中にいるのかも知れぬが、これ以上は調べる気にならない。悪しからず。

「通村公の集」ウィキの「中院通村を見ると、『古今伝授を受けた歌人として評価が高く、天皇御製の添削を命じられたほどであった』。『また、父・通勝の源氏学を継承し、天皇や中和門院などに対し』、しばしば「源氏物語」の『進講を行っている。世尊寺流の能書家としても著名で、絵画などにも造詣を見せるなど、舅の細川幽斎に劣らぬ教養人であった』とあり、「中院通村日記」があるとするから、この日記辺りを指すか。]

譚海 卷之三 堂上潛行の事

 

堂上潛行の事

○諸搢紳(しんしん)洛中往來は禁止也。齒を黑め粉(こ)を傅(つく)る事も、凡(およそ)人に分ちやすき爲(ため)なりとぞ。皆近世の事也。微行(びかう)せらるゝ時は、深編笠大小刀、裏付上下(うらつきかみしも)を着する也。上下(かみしも)は純子(どんす)・もうるのたぐひを用ひらるゝ也。遊山に出られて途中にて支度せらるゝには、其所の寺へ使(つかひ)をよせて、某(それがし)三位(さんみ)にて候、懸合支度(かけあひじたく)仰付(おほせつけ)られ被ㇾ下(くだされ)とて、其まゝ座敷へ通らるれば、何にてもありあふものにて食事まかなひ出(いだ)す、是(これ)京都の寺々の課役と同事になりてある事也といへり。

[やぶちゃん注:「潛行」身分の高い人が身を窶(やつ)して密かに忍び歩きすること。文中の「微行」も同義。

「搢紳」「縉紳」とも書く。笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯)に搢(はさ)むの意から、「官位が高く身分のある人」を指す。

「粉」白粉(おしろい)。

「純子」「緞子」に同じ。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の色を変えて、繻子織(しゅすおり:経糸・緯糸それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方。密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い)の手法で文様を出す絹織物のこと。精錬した絹糸を使う。

「もうる」莫臥爾。糸に金や銀を巻きつけた撚糸(モール糸)を織り込んで文様を出した織物のこと。経に絹糸、緯に金糸を用いたものを「金モール」、銀糸を用いたものを「銀モール」と称し、後には金糸または銀糸だけを寄り合わせたものもこう呼称するようなった。名前はポルトガル語「mogol」が由来らしく、もともとはインドのモグール(ムガル)帝国で好んで用いられたことからとされる。漢字では「莫臥児」「回々織」「毛宇留」「毛織

などの字が当てられる。

「三位」公家は朝廷に仕える貴族・上級官人の総称で、天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家を指したことから、公家の別称となった。

「懸合支度」と一語と捉えた。以下の文から「交渉による着替え及びそれに付随する準備や合間の休憩・食事」の意と採る。]

譚海 卷之三 堂上領所の百姓の事

 

堂上領所の百姓の事

○公家衆知行所は、多分(たぶん)五畿内・丹波・近江などにあり。その領所の百姓甚(はなはだ)橫平(わうへい)なるものにて、應對成(なり)がたきほどの事也。若(もし)公事(くじ)等出來(しゆつたい)の時は、所司代へ内證より賴まるゝゆゑ、甚さばき仕(し)にくき事とぞ。夫(それ)ゆへ公家領入組(いりくみ)たる土地は、殊に六箇敷(むつかしき)迷惑成(なる)もの也。又禁裏の御知行所は八瀨(やせ)領の内にあり、これらの百姓言語同斷なるものなりとぞ。

[やぶちゃん注:「多分」多くが。

「橫平」横柄。

「公事」訴訟。刑事民事ともであるが、ここは概ね民事のそれ。

「内證」表向きでなく、内々に意向が伝えられることを言う。無論、領主である公家から所司代に対してである。

「八瀨」京都市左京区の一地区。(グーグル・マップ・データ)。比叡山の西麓、高野川に臨む景勝地で、桜の名所。古くは山門青蓮(しょうれん)房が支配し、中世には青蓮院門跡領八瀬荘であった。八瀬荘民は山門へ奉仕する一方で「八瀬童子」と称し、朝廷の駕輿丁(かよちょう)を務め、課役免除の特権を得ていた。また、杣夫(そまふ)として洛中で薪商売を行った(以上は平凡社「マイペディア」に拠る)。天皇の柩を担ぐ民とされ、伝説では最澄が使役した鬼の子孫ともされる八瀬童子」でも知られる地で(リンク先はウィキ。以下の引用もそこから。下線太字はやぶちゃん)、弘文天皇元(六七二)年の「壬申の乱」の『際、背中に矢を受けた大海人皇子がこの地に窯風呂を作り傷を癒したことから「矢背」または「癒背」と呼ばれ、転じて「八瀬」となったという。この伝承にちなんで』、『後に多くの窯風呂が作られ、中世以降、主に公家の湯治場として知られた。歴史学的な見地からは大海人皇子に関する伝承はほぼ否定されており、八瀬の地名は高野川流域の地形によるものであるとされている』。『比叡山諸寺の雑役に従事したほか』、『天台座主の輿を担ぐ役割もあった。また、参詣者から謝礼を取り担いで登山することもあった。また、比叡山の末寺であった青蓮院を本所として八瀬の駕輿丁や杣伐夫らが結成した八瀬里座』(座(ざ):平安時代から戦国時代まで存在した、主に商工業者や芸能者による同業者組合。朝廷や貴族・寺社などに金銭などを払う代わりに、営業や販売の独占権などの特権を認められた)『の最初の記録は』寛治六(一〇九二)年『であり、記録上確認できる最古の座と言われている』。延元元(一三三六)年、『京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬郷』十三『戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護した』。『この功績により』、『地租課役の永代免除の綸旨を受け、特に選ばれた者が輿丁として朝廷に出仕し』、『天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事とした』。『比叡山の寺領に入会権を持ち』、『洛中での薪炭、木工品の販売に特権を認められた』、永禄一二(一五六九)年、『織田信長は八瀬郷の特権を保護する安堵状を与え』、慶長八(一六〇三)年、『江戸幕府の成立に際しても』、『後陽成天皇が八瀬郷の特権は旧来どおりとする綸旨を下している』。『延暦寺と八瀬郷は寺領と村地の境界をめぐってしばしば争ったが、公弁法親王が天台座主に就任すると、その政治力を背景に幕府に八瀬郷の入会権の廃止を認めさせた。これに対し』、『八瀬郷は再三に』亙って『復活を願い出るが』、『認められず』、宝永四(一七〇七)年になって、漸く『老中秋元喬知が裁定を下し、延暦寺の寺領を他に移し』、『旧寺領・村地を禁裏領に付替えることによって、朝廷の裁量によって八瀬郷の入会権を保護するという方法で解決した。八瀬郷はこの恩に報いるため秋元を祭神とする秋元神社を建立し』、『徳をたたえる祭礼を行った。この祭礼は「赦免地踊」と呼ばれる踊りの奉納を中心とするもので、現在でも続いている』(毎年十月の第二日曜日に行われる)とある。また、ウィキの「皇室財産を見ると、国立歴史民俗博物館の「旧高旧領取調帳データベース」よる幕末期の皇室領データの中に、「御料」地として「八瀬村」が入っている

譚海 卷之三 少碌なる堂上の事

 

少碌なる堂上の事

○少碌なるをば鍋取公家(なべとりくげ)などといひて、案内(あない)をしらぬものは、爨炊(さんすい)をも自身せらるゝ樣に覺えたり、所などのぞき見らるゝ事は決してなき事也。少碌の公家衆は家々の雜掌(ざつしやう)に養はるるやうなるもの也。上﨟なる故、俸入のさしつかひも存知なく、大(おほ)やう成(なる)事にて、たとへばしかじかの品ほしきよし云付らるゝ。高價にて求(もとめ)がたけれ共(ども)、夫(それ)を雜掌成難(なりがた)き由(よし)はいはぬ事、只(ただ)唯諾(ゐだく)して果さず打置(うちおか)ば、又催促ある時畏(かしこま)りたりと斗(ばかり)りいひて打おき、自然と事の止(やむ)を待(まつ)斗(ばか)り也。雜掌奉公の樣子謹愼なるものにて、主卿(しゆぎやう)の用(もちひ)られし鼻紙、はき捨(すて)られし草履(ざうり)、朝夕の餐餘(さんよ)、衣服の破壞せしに至るまで、皆火に焚(たき)穴に埋(うづめ)て、苛(いささか)も暴露せず、外事(ほかのこと)に用ひ汚(けが)す事はせず、鬼神のものを取(とり)あつかふが如し。

[やぶちゃん注:一見、冒頭は「日本鍋取公家雑掌残酷物語」であるが、主の要求を「唯諾」(人の言うことをそのまま承知すること、或いはその返答)しながら、一向にそれに応じないというシークエンスはなかなかに、その公家の救い難い阿呆面が浮かんできて面白い。

「鍋取公家」老懸(おいかけ:武官の正装の冠に附けて顔の左右を覆う飾り。馬の尾の毛で扇形に作ったものを掛緒(かけお:冠や烏帽子を顎の下で結び留める紐)で装着した。「冠(こうぶり)の緒」「ほおすけ」とも言った)を付けた冠を被った公家。また、下級の公家を嘲って呼ぶ語。

「案内をしらぬものは、爨炊をも自身せらるゝ樣に覺えたり」「爨炊」(サンスイ)は炊事一般のこと。「爨」も「かしぐ」で「飯を炊く」の意。この部分、意味が採り難いが、「腐っても公家であるのだが、そんな手元不如意の落ちた公家の有様について、本来的な彼らの根っからの公家意識に通じない者(「案内を」知らぬ「者」)の中には、そうした貧乏公家は炊事をさえ自分でやるように思っている者がいると心得る――が、そんな下々の者の担当することは決して彼らはすることはないしない――」と言う意である。そうでないと、直後の「臺所などのぞき見らるゝ事は決してなき事也」とジョイントしない。

「大(おほ)やう」「大樣」。ここは世間知らずの極致を言うべき、途轍もなくいい加減で大雑把なさまを指す。

「主卿」この「卿」は単に高貴な人・貴族の意の尊称の添え辞。

「餐餘(さんよ)」この場合、僅かな残飯も含まれようが、寧ろ、殆んど、或いは全く手を付けていない、十分に食べるに値するような残り物の謂いでとるべきであろう。

「暴露せず」芥(ごみ)として家から出すことはしない。

「鬼神のものを取(とり)あつかふが如し」この「鬼神の」の「の」は所有格(主である公家)の格助詞で、主格(雜掌)ではない。御霊(ごりょう)たる鬼神に触れたものは畏れ多く、触れることを憚る神聖にして危険なものであるから、下々の者の目に触れぬよう、塵芥としてゴミ屋に出すことをせず、燃やして天に昇らせ、地に埋めて土に返すというのである。

譚海 卷之三 泉涌寺下乘の事

 

泉涌寺下乘の事

○洛東泉涌寺は、四條院の仙骨を收奉(をさめたてまつ)りしより、世々帝王の御墓有(あり)て、國忌御法事等の節は、公家衆初め諸寺院拜禮に參詣するゆへ、甚(はなはだ)騷劇(さはがしげ)なる事也。參詣の人々家々の舊格にまかせて、乘物等をよする所迄よせてをりらるゝ事なるに、とかく舊格よりは少しも近く乘入(のりいれ)てをりらるゝ樣にせらるゝゆゑ、其目付(めつけ)有て江戸の下座見(げざみ)の如く甚むづかしく吟味する事也。今度(このたび)舊格にたがひて少しも近く下乘あれば、重(かさね)て夫(それ)をかくになして諍(あらそひ)のはしを起す事故(ゆゑ)、乘(のり)こむ陸尺(ろくしやく)を叱りて退(しりぞか)するも有(あり)、舁入(かきい)る乘物をやらじとするも有、法會の場甚だやかましき事也とぞ。御法事は般舟院(はんじふゐん)にても行るれども、みな泉涌寺へ參詣ある事也。

[やぶちゃん注:「泉涌寺」「せんにゅうじ」が現行の一般的読み方。現在の京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある((グーグル・マップ・データ))真言宗東山(とうざん(又は泉山(せんざん))泉涌寺。本尊は釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒如来(未来なので先取りして菩薩から転じている)の三世仏。ウィキの「泉涌寺」によれば、『平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」』或いは単に「御寺(みてら)」『と呼ばれている』(月輪陵は歴代天皇らの二十五柱の陵及び五基の灰塚と九基の墓がある)。仁和寺・大覚寺などとともに皇室所縁の『寺院として知られるが、草創の時期や事情については』、『あまり明らかではない。伝承によれば』、斉衡三(八五六)年、『藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣』(おつぐ)『が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという』(「続日本後紀」によれば、藤原緒嗣は承和一〇(八四三)年に『没しているので、上述の伝承を信じるとすれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されたということになる』)。また、『別の伝承は開創者を空海とする。すなわち、空海が天長年間』(八二四年~八三四年)に『この地に草創した法輪寺が起源であり』、斉衡二年に『藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。空海による草創年代を』大同二(八〇七)年とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺(泉涌寺山内にあ』る『)となったともいう。以上の伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したものと思われる』。建保六(一二一八)年、『宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿』(しゅんじょう)『に寄進、俊芿は多くの人々の寄付を得て』、『この地に大伽藍を造営した』。この時、境内に『霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという(旧寺号の「仙遊寺」と音が通ずる点に注意)。宇都宮信房は源頼朝の家臣で、豊前国守護に任じられた人物であり、俊芿に帰依していた。俊芿』『は肥後国(熊本県)出身の学僧で』、正治元(一一九九)年に宋に渡り、足かけ十三年も滞中して『天台と律を学び』、建暦元(一二一一)年に日本へ帰国した僧で、『彼は宋から多くの文物をもたらし』、『泉涌寺の伽藍』も『全て宋風に造られた』。『泉涌寺は律(北京律)を中心として天台、東密(真言宗)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えた』とある。

「騷劇(さはがしげ)なる」読みは私の恣意的なもの。音読みは如何にも生硬で厭な感じがするから避けた。「サウゲキ(ソウゲキ)」と読みたい方は、どうぞ。

「目付」監視人。今なら駐車場管理人である。

「下座見」江戸の見附(みつけ:見張り番が置かれていた城門などの施設)に勤務した門番の下役。ウィキの「下座見より引く。『通過する登城行列の鑑別を行った』。『見附を通行する行列に対し家格や役職に応じた答礼を門番側が行う決まりになっていた。この答礼準備のため』、『門番側はいち早く』、『行列の主を特定する必要に迫られた。このため』、『行列の鑑別を行う下座見という専門職が誕生した。熟練した下座見になると』、『遠方より一瞥しただけで瞬時に誰の行列か特定できたという』。電子化注てい松浦静山の甲子夜話に『収録されている本人の体験談によると、緊急事態に』、『通常の行列とことなり』、『数騎のみで駆け抜けた時にも』、『下座見は彼を松浦藩藩主と認識し』、『適切な答礼を指示したという』。

「今度」これは「直近時制で一度でも」の意である。

「陸尺」「六尺」とも書き、「力者(りよくしや(りょくしゃ)」の転とも言われる。近世に於いて輿や駕籠を担いだ人足や駕籠舁きのことを指す。

「般舟院」(はんじゅういん)は京都市上京区般舟院前町にあった天台宗の寺院で「般舟三昧院」とも称した。ウィキの「般舟院によれば、山号は指月山。本尊は阿弥陀如来。現在は西圓寺』『(さいえんじ)という単立の寺院となっている』((グーグル・マップ・データ))。「応仁の乱」の『後、後土御門天皇の発願により』、『恵徳上人善空を開山として伏見(京都市伏見区)指月山に建立、勅願寺とされた。しかし』、文禄三(一五九四)年から『本格的に始められた豊臣秀吉による伏見城の築城工事に伴って、西陣に移転した』。『江戸時代には、禁裏道場として御所直属の天台・真言・律・禅の四宗兼学の道場として栄え、東山の泉涌寺とともに皇室の香華院であった。二尊院・遣迎院・廬山寺とともに御黒戸四箇院のひとつでもあった』。『敷地は現在の嘉楽中学校の全域とその西隣にある般舟院陵をも含む広大な広さを誇っていたが、明治維新後の神仏分離令に伴い、皇室からの下付金がなくなったことなどにより衰微し、敷地の大部分は上京第七番組小学校(現在の嘉楽中学校)となった』。この般舟院は皇室歴代の尊牌を安置していたが、『その維持も存続も難しくな』って、明治四(一八七一)年にはそれらの尊牌は泉涌寺の霊明殿に移されて安置されることとなったという。近代まで、天明三(一七八三)年建立の正門と講堂が般舟院の遺跡として残っていたが、『関東大震災により大破した鎌倉の建長寺からの要請で、建長寺へ寄付するこことなり』、昭和一八(一九四三)年に移築され、現在、それぞれ、般舟院の「正門」は建長寺の「総門」に、「講堂」は建長寺の「方丈」となっている、とある。二〇一一年十一月の『新聞各紙の報道によると、般舟院の土地と建物は競売にかけられて他の法人に所有権が移っており、重要文化財指定の仏像』二『体も京都市内の他の寺院に保管されているとい』い、『さらに、この一連の競売問題に絡み、競売に絡んで解職された般舟院の元住職が、重要文化財の仏像』二『体を無断で持ち出し』て『隠匿していたとして』、二〇一二年七月九日に』『文化財保護法違反容疑で書類送検された』ともある。廃仏毀釈の亡霊が僧にまで乗り移っている。最早、京は魔都でおすなあ。]

2018/08/16

和漢三才圖會第四十二 原禽類 吐綬雞(とじゆけい) (ジュケイ類)

Tojyukei

とじゆけい  避株 吐錦雞

       錦囊 眞珠雞

       孝鳥 鷊【音尼】

吐綬雞

 

トウシウキイ

 

本綱吐綬雞人多畜玩大如家雞小者如鴝鵒頭頰似雉

羽色多黑雜以黃白圓點如眞珠斑項有嗉囊内藏肉綬

常時不見毎春夏晴明則向日擺之項上先出兩翠角二

寸許乃徐舒其頷下之綬長濶近尺紅碧相間采色煥爛

踰時悉斂不見或剖而視之一無所覩此鳥生亦反哺行

則避草木故有避株及孝鳥之名

 

 

とじゆけい  避株 吐錦雞

       錦囊 眞珠雞

       孝鳥 鷊〔(じゆけい)〕【音、「尼」。】

吐綬雞

 

トウシウキイ

 

「本綱」、吐綬雞は、人、多く畜(か)ひ、玩〔(もてあそ)〕ぶ。大いさ、家雞のごとし。小なる者は鴝鵒(ひゑどり)のごとく、頭・頰、雉に似て、羽色、多く、黑し。雜〔(まぢへ)〕るに黃白を以つてす。圓點あること、眞珠のごとくして、斑(まだら)あり。項〔(うなじ)〕に、嗉囊(ゑぶくろ)有り。内に、肉綬〔(にくじゆ)〕を藏〔(おさ)〕む。常の時は見えず、毎〔(つね)〕に、春・夏、晴明なるとき、則ち、日に向ひて之れを擺〔(はい)〕す。項の上に、先づ、兩〔つの〕翠〔(みどり)の〕角、二寸許りを出だす。乃〔(すなは)〕ち、徐〔(ゆる)〕く其の頷〔(あご)〕の下の綬を舒〔(の)〕ぶ。長さ・濶〔(ひろ)〕さ、尺に近し。紅と碧と相ひ間(まぢ)はる。采色、煥爛〔(くわんらん)たるも〕、時を踰(こ)へて[やぶちゃん注:ママ。]悉く斂〔(をさ)〕めて見へず。或いは、剖〔(き)〕りて、而して之れを視れども、一つも覩〔(み)〕る所、無し。此の鳥、生〔(せい)〕して亦、反哺〔(はんぽ)〕す。行くときは、則ち、草木を避く。故に、「避株」及び「孝鳥」の名、有り。

[やぶちゃん注:キジ目キジ科ジュケイ属 Tragopan の種群、或いはジュケイ Tragopan caboti。良安が「本草綱目」のみを引き、全く自身の評言を添えていないことで判る通り、本邦には棲息しない。ウィキの「ジュケイ属」によれば、『インド北部、台湾、中華人民共和国、ネパール北部、パキスタン北部、ブータン、ミャンマー西部』に分布し、『尾羽の数は』十八『枚』で、『本属の構成種を指す総称であるジュケイは一部の種でオスが下面が赤い羽毛で被われ、白い斑紋が入り勲章のように見える(ジュ<綬>は勲章に付ける短い紐)ことに由来する。オスは側頭部に肉質の突起と喉に肉垂がある。この肉質突起と肉垂は普段は収縮している。後肢には』一『つずつ』、『短い蹴爪がある』とし、五種を挙げる。一方、ウィキの「ジュケイ」(こちらは種(群)のページ)では、『中華人民共和国(広東省北部、江西省、湖南省南東部、浙江省、福建省、広西チワン族自治区)固有種』とし、『オスは頭部は黒、頸部は赤褐色の羽毛で被われる。側頭部にはオレンジ色の羽毛が伸長(冠羽)する。背は赤褐色の羽毛で被われ、淡褐色の斑紋や白や黒の斑点が点在する。胸部や腹部は淡褐色の羽毛で被われる。眼の周辺や頬に羽毛がなく黄色やオレンジ色の皮膚が露出する。喉に外縁が淡青色で灰緑色の斑紋が入る肉垂れがある。肉垂れの中央部はオレンジ色で紫色の斑紋が入る。メスは全身が褐色の羽毛で被われ、淡褐色や黒、白の斑紋が点在する』。標高七百~千四百メートルの高地の、『下生えに草やササが密生した混交林に生息』し、『食性は雑食で、植物の葉、種子などを食べる』。地表から二・五~四メートルに『あるリスの古巣に巣をつくるが、地表から』九メートルも上の『樹上に巣をつくった例もある』とある。グーグル画像検索「Tragopan cabotiをリンクさせておく。まあ、キンケイに並べて配するには相応しい、超ド派手な鳥ではある。

「鷊〔(じゆけい)〕【音、「尼」。】」不審。日本語の場合、「鷊」の音は「ゲキ・ギヤク(ギャク)」であるのに対し、「尼」は「ニ・ネイ」或いは「ヂ(ジ)・デイ」で通音しない。現代中国語でも前者は「」で、「尼」は「」で全然、違う。

「鴝鵒(ひゑどり)」スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ(八哥鳥)属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus(三亜種がいる)。ウィキの「ハッカチョウ」によれば、『原産地は、中国大陸南部、および、インドシナ半島。国別で言えば、中華人民共和国中部地域および南部地域、台湾、ベトナム、ラオス、ミャンマーに分布する』。現在の日本にもいるが、外来種で、『観察された地域は』、東京・神奈川・大阪・兵庫・福島・栃木・愛知・大阪・京都・和歌山・香川・鹿児島など広汎に亙っており、『神奈川、兵庫などでは繁殖の記録もある』。『なお、沖縄県与那国島・鹿児島県など』、『南日本での観察記録は、台湾などから飛来した迷鳥(すなわち自然渡来)の可能性もある』とする。全長は約二十六~二十七センチメートルで』、『ムクドリ大』、『全身の色は黒い。翼には大きな白い斑点があり、飛翔する際によく目立つ。下尾筒(かびとう)』『の羽縁と尾羽の先端が白い。突き出した冠羽が頭部前方を飾っているのが特徴的である。嘴(くちばし)の色は橙色、肢は暗黄色。この翼の斑点と、頭部の飾り羽によって識別は容易』とする。『食性は雑食で、植物の種子等のほか、タニシなど陸棲貝類、ケラなど地中棲の昆虫、甲虫類とその幼虫、イナゴ等のバッタ類である。ムクドリと同様の群れを作る例もある』。『鳴き声は、澄んだ声でさまざまな音をだす。ものまねもする習性がある』。『人によく懐き、飼い鳥とされる。人語などを真似るということでも親しまれて』おり、『マレーシアやシンガポールなどの都市部ではハトやすずめ以上に街中でよく見かける鳥であり、ホーカーセンター(東南アジアの屋台街)での食事中でも人をまったく怖がる様子もなく、近づいてきては食べ残しを漁っている』とある。或いは、この一、二年、私の家の周囲で五月蠅く盛んにいろいろな鳴き方で鳴いているのを、私は大陸産の人為的移入による特定外来種であるスズメ目チメドリ科ガビチョウ(画眉鳥)属ガビチョウ Garrulax canorus とばかり思っていたのだが(眼の周囲及びその後方に眉状に伸びた特徴的な白い紋様を持つ)、或いは、こやつかも知れん。今度、もう一度、面相をよく見てやろう。

「擺〔(はい)〕す」開く。

「采色、煥爛〔(くわんらん)たるも〕」彩りは、極めて煌びやかで強烈な耀きを持っているが。

「時を踰(こ)へて[やぶちゃん注:ママ。]」通常の日常的な時空間に於いては。

「悉く斂〔(をさ)〕めて見へず」総て完全に体内に収納していて見せない。

「生〔(せい)〕して」成長して成体となると。

「反哺〔(はんぽ)〕す」東洋文庫訳は、ここを、『母親に逆に食物を口移しに食べさせる』と訳している。]

「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 岩瀨村(Ⅰ) (総論部)

 

新編相模國風土記稿〔卷之九十九〕

 

 村里部 鎌倉郡卷之三十一

 

  山之内庄

○岩瀨村〔以波勢牟良〕 小坂鄕に屬す、江戸より行程十二里、土俗は傳て賴朝の時世、奧州より岩瀨與一太郎と云者、捕はれ來り、後、こゝに居住せり。夫より地名となると云ふ。按ずるに、與一太郎は佐竹の家人にて、治承四年十一月、獲せられ、賴朝の見參に入しに、直言を述て恩免を蒙り、遂に家人に加へられし事【東鑑】に見えたり。仁治元年三月、當村を以て上之村證菩提寺域内新阿彌陀堂の料所に宛つ〔證菩提寺文書に據る、全文は彼寺の條に引用せり。〕。正和二年巳來、堂料・供米等、給主矢田四郎左衞門尉盛忠、未進せしむるにより、文保元年十二月、更に公田十分一を村民に免許せられ、向來未進なく供料辨濟す可き旨、下知す〔上之村證菩提寺文曰、山内庄本鄕、新阿彌陀堂供僧等申、供米未進事、右岩瀨鄕給主矢田四郞右衞門尉盛忠、正和二年以來濟之由、就訴申尋下之處、如請文者、公田十分一、被免許于百姓等訖、於殘定田分者無未進云々、者主寺供料等者、難被免除之旨、先日沙汰畢、然則守本員數、可究濟之狀、下知如件、文保元年十二月十四日沙彌華押、左衞門尉平華押。〕。元弘三年十一月の沽券狀にも當村名見ゆ〔金澤稱名寺文書曰、賣渡相模國山内庄岩瀨鄕事、合百文者右所者自明年甲戌正月一日、至于明後乙亥十二月晦日、貮ケ年貮作買主可令知行上、爲御所修造料足、止公私萬雜事、所被沽却也、但未實檢候間、假令一年中得分、百參拾貫文、實檢以後、令不足者可被延年記、有□者重可被召錢賃、仍沽券如件、○元弘三年十一月二十四日、□眼華押、重能華押。〕。正平七年〔北朝文和元年。〕正月、將軍尊氏、當村を以て、島津周防守忠兼が勳功の賞に宛、行へり〔島津文書曰、下島津周防守、可令早領知相模國山内庄内岩瀨鄕事、右爲勳功之賞所宛行也、者早守先例可致沙汰之狀如件、正平七年正月十日、尊氏袖判あり。〕。文和三年六月宇子ノ局が代官飯田七郞左衞門尉、當所に亂入し、忠兼の代官池田右衞門尉等を殺害に及べり。因て狼籍を鎭むべき旨、尊氏・義詮等の下文あり〔島津防守忠兼申、相模國山内庄、岩瀨鄕幷倉田鄕事飯田七郞左衞門尉、卒多勢打入當所致合戰、殺害忠兼代官、池田右衞門尉以下畢云々、爲實冑者尤似重科、鎭狼藉無相違候樣、可被致計沙汰申候、六月廿四日修理大夫殿、尊氏華押。又曰、島津周防守申、相模國所領事、先度如令申候、任理非急速可有御沙汰候謹言、八月廿四日、左馬頭殿、尊氏華押。又曰、島津周防守申、相模國山内庄、岩瀨鄕代官等、宇子御代官、殺害事、委細可有尋注候謹言、九月十二日、左馬頭殿、義詮華押。又曰、島津周防守申、相模國山内岩瀨榔代官殺害事、任被仰下之旨、相尋實否候之處、字子局官、飯田七郞左衞門、令殺害島津周防守代官、池田右衞門殿以下輩之條、無其隱候、以此旨可有御披霧候、恐惶謹言、文和三年十月廿七日、進上御奉行所、彈正少弼直重華押。又曰、島津周防守忠兼申、相模國山内岩瀨榔代官殺害事、任被仰下之旨、相尋實否候之處、去文和三年六月九日、宇子局代官、飯田七郞左衞門尉、打入當鄕、令殺害忠兼代官、池田右衞門尉以下輩之條、無其隱候、若此條僞申候者、佛神御罰於可罷蒙候、可有御披露候、恐惶謹言、文和三年十一日廿日、進上御奉行所、彈正少弼直重華押。〕。永德三年十二月、左兵衞督氏滿、當所を鎌倉明月院の領に寄附す〔明月院文書に據る。全文明月院の條に囲繞す。併せ見るべし。下至德・長祿の二條も是に同じ。〕。至德三年三月、僧道光、當村の内、白河局の闕地を明月院に寄附あり。長祿元年五月、上杉兵部少輔房顯、當村諸役免除の事を下知す。これ、明月院領たるを以なり。大永二年の文書には明月院領岩瀨鄕の内、今泉村と記せり。さては此頃に至り、院領の地は別に分折して今泉村と唱へしこと知らる。天文四年三月、更に又、當村の内、孫四郎名田〔此地名、今、詳ならず。〕の地を、明月院に寄附の事あり〔明月院文書。是も全文は彼院の條に引用すれば、併せ見るべし。〕。永祿二年の頃は當村北條左衞門佐氏堯の知行なり〔【北條役帳】曰、左衞門佐殿知行百六十貫文、東郡岩瀨鄕。〕。同五年、蔭山長門守、當鄕の内を圓覺寺塔頭富陽庵に寄附せしこと、彼庵所藏の文書に見えたり〔圓覺寺富陽庵の條、併せ見るべし。〕。天正十五年七月、北條氏より當村中、軍勢の簡閲あり〔其文書、村民源兵衞家藏す。丁亥七月晦日、岩瀨小代官百姓中と見え、虎朱印を押す。〕。民三十九、廣十町袤四町許〔東、今泉村、西、笠間村、南、大船村、北、桂・公田二村。〕。延寶六年、成瀨五左衞門、檢地す。今、領主松平大和守矩典〔右は御料所なり。元祿十一年、地を裂て、木原兵三郎・菅谷平八郎正輔・小濱半左衞門利隆に頒ち賜ひ、御料の外三給の地となりしを、元文二年、木原氏支族、賴母某に分地し、なべて四給となれり。又、御料の地も、後年、酒井雅樂頭親本に賜ひ、寛延二年、松平大和守朝矩に替賜しが、文化八年、一村すべて松平肥後守容衆に賜ひ、文政三年、今の領主に替れり。〕。塚宿より鎌倉への路、村の西南界にかゝれり〔幅二間。〕。

○高札場 ○小名 △瀧ノ臺 △瀧ノ谷 △五郎ノ谷 △入ノ谷 △ふりが谷

○山 南北二所にあり、何れも小山なり。○砂押川 南方を流る〔幅二間許。〕。此水を建て水田に濯漑す。板橋二を架す。一は切通橋、一は離山橋と云ふ。各小橋なり。

○稻荷社 保食・大己貴・大田・倉稻魂・大宮姫の五座を祀て五社明神とも唱ふ。村の鎭守なり。村持。建久中、岩瀨與一太郎、奉行して建立すと傳ふ。幣殿・拜殿等あり。例祭九月廿九日。鶴岡職掌坂井越後、神職を兼ぬ〔越後が家傳に據に、祖時保、當社の神職なりしを、文治中、職掌に保せられ、彼地に移れり。後年、戰國の頃、爰に退住せしに、文祿中、復職す。故に兼職すとなり。〕。 △末社  若宮 ○神明宮 村持。下同。〇三島社 ○白山社 〇八幡社 ○貴船社 ○十二天社 〇諏訪社 〇靑木明神社 ○番場社 ○權現社 神號、詳ならず。 ○辨天社

[やぶちゃん注:岩瀬村総論部。因みに、私は教員になった当初(勤務先は本郷台の柏陽高校で、自転車で通勤していた)三年ほど、岩瀬の怖ろしく古いアパートに住んだ。懐かしい場所である。ここ(グーグル・マップ・データ)。私が居たのは西念寺(実は、この近くには、昔、木舟(貴船)大明神という家が一軒あって、現在は通称で「木舟」及び「大明神」という家に分かれているが、その二件の家の間の山に「木舟大明神」という祠があり、これは以下に記す岩瀬与一太郎を祀っている、と「かまくらこども風土記」(平成二一(二〇〇九)年鎌倉市教育委員会刊)にあるのだが、そう言えば、アパートの近くの山の崖上にそんな赤い祠があったのを、今、思い出した)の東側を廻り込んだ谷戸の奥で、谷戸の奥には旧家と広大な栗林と池があり、アパートを出ると、左右に「自然風致地区」と「保存樹林」と書かれた柱が建っていた。春には巨大なウシガエルが無数にその池から這い出して来て(この岩瀬は日本で最初に食用のウシガエルの養殖地となったところであり、そのウシガエルの餌として、やはり本邦に最初にアメリカザリガニが齎された地であった。洪水で養殖池が決壊、ここから日本全国へウシガエルとアメリカザリガニが播種されたのである)、道路のあちこちに蹲っていた。栗林は蝉の巣窟で、夏の夜中でも気温が上昇するや、一斉に鳴き出し、それはもう、シンバルを鳴らすようなけたたましさであった。巨大なムカデ(二十センチメートル越えで部屋を走るザラザラという音が凄かった。菜箸で挟み、湯に漬けて往生して貰ったが、その湯がかかった腕は翌日蚯蚓腫れになった)やゲジゲジ(これはポットン便所――これが恐るべきことに、雨が降ると、便槽が増水し、ハネが上って来るシロモノなのであった――の隅にいた。体幹だけでやはり二十センチメートルはあり、脚も含めると、想像を絶するモンスターであった)にも出逢った。そういう何とも言えない意味でも忘れ得ぬ場所なのである。

「岩瀨與一太郎」岩瀬義正(生没年不詳)は常陸国(現在の茨城県)出身。常陸の豪族佐竹秀義(仁平元(一一五一)年~嘉禄元(一二二六)年:清和源氏義光流。新羅三郎義光の孫の源昌義が常陸国佐竹郷に住み、佐竹を称したことに始まる佐竹氏の第三代当主)の家人(けにん)。治承四(一一八〇)年十一月の源頼朝による佐竹征討(佐竹氏は平家との縁が深かったことから、頼朝の挙兵に従はず、「富士川の戦い」の後、長年、佐竹と私怨から争っていた上総広常などの薦めによって頼朝は討伐を決した。当時の佐竹家惣領であった秀義の長兄佐竹義政は、広常の姦計によって征討戦の前の会見で殺害されている)では、金砂(かなさ)山に籠って防戦した。捕らえられた際、本来、力を合わせて平家を討つべき源氏の同族のたる佐竹氏を攻めたことを涙ながらに抗議し、これには頼朝も言葉を失い、彼を許して御家人の列に加えた。但し、秀義は辛くも逃げのび、後に彼も頼朝から罪を許され、家臣として列せられた。文治五(一一八九)年の「奥州合戦」に於いては頼朝軍の一員として参戦して武功を挙げ、御家人に列せられている。「吾妻鏡」の治承四年十一月八日の当該部(末尾の別件をカットしたが、ほぼ全文である)条を引く。

   *

八日丙辰。被收公秀義領所常陸國奥七郡幷太田糟田酒出等所々。被宛行軍士之勳功賞云々。又所逃亡之佐竹家人十許輩出來之由。風聞之間。令廣常義盛生虜。皆被召出庭中。若可插害心之族。在其中者。覽其顏色。可令度給之處。著紺直垂上下之男。頻垂面落淚之間。令問由緒給。依思故佐竹事。繼頸無所據之由申之。仰曰。有所存者。彼誅伏之刻。何不弃命畢者。答申云。彼時者。家人等不參其橋之上。只主人一身被召出。梟首之間。存後日事逐電。而今參上。雖非精兵之本意。相構伺拜謁之次。有可申事故也云々。重尋其旨給。申云。閣平家追討之計。被亡御一族之條。太不可也。於國敵者。天下勇士可奉合一揆之力。而被誅無誤一門者。御身之上讎敵。仰誰人可被對治哉。將又御子孫守護。可爲何人哉。此事能可被𢌞御案。如當時者。諸人只成怖畏。不可有眞實歸往之志。定亦可被貽誹於後代者歟云々。無被仰之旨。令入給。廣常申云。件男存謀反之條無其疑。早可被誅之由云々。被仰不可然之旨被宥之。剩列御家人号岩瀨與一太郎是也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

 八日丙辰(ひのえたつ)。秀義の領所の常陸國奥七郡幷びに太田・糟田・酒出等の所々を收公せられ、軍士の勳功の賞に宛て行はらると云々。

 又、逃亡する所の佐竹家人十許りの輩、出來するの由、風聞するの間、廣常、義盛をして生虜(いけど)らしめ、皆、庭中に召し出さる。若し、害心を插(さしはさ)むべきの族(うから)、其の中に在らば、其の顏色を覽(み)て度(はか)らしめ給ふべきの處、紺の直垂(ひたたれ)の上下(かみしも)を著するの男、頻りに面を垂れ、落淚するの間、由緒を問はしめ給ふ。故(かれ)、佐竹の事を思うに依つて、頸(くび)を繼(つ)ぐに據所無(よんどころな)きの由、之れを申す。仰せて曰はく、

「所存有らば、彼の誅伏の刻(きざみ)、何ぞ命を弃(す)て畢(をは)らざるや。」

者(てへれば)、答へ申して云はく、

「彼の時は、家人等、其の橋の上に參らず[やぶちゃん注:佐竹義政は現在の茨城県東茨城郡美野里町大谷附近にあったと思われる大矢橋橋上で不意打ちされ、謀殺された。]、只、主人一身を召し出され、梟首するの間、後日の事を存じ、逐電(ちくてん)す。而るに、今、參上すること、精兵の本意に非ずと雖も、相ひ構へて拜謁の次(ついで)を伺ひ申すべき事有る故なり。」

と云々。

 重ねて其の旨を尋ね給ふ。申して云はく、

「平家追討の計を閣(さしお)きて御一族を亡ぼさるるの條、太(はなは)だ不可なり。國敵に於ては、天下の勇士、一揆の力を合せ奉るべし。而るに、誤り無き一門を誅せらるれば、御身の上の讎敵(しうてき)は、誰人(たれひと)に仰せて對治せらるべきや。將又(はたまた)、御子孫の守護は何人(なんぴと)たるべきや。此の事、能く御案を𢌞(めぐ)らさるべし。當時のごとくんば、諸人、只だ怖畏(ふい)を成し、眞實歸往の志[やぶちゃん注:本心からの帰順の意志。]、有るべからず。定めて亦、誹(そし)りを後代に貽(のこ)さるべき者か。」

と云々。

 仰せらるる旨、無くして入らせしめ給ふ。廣常、申して云はく、

「件(くだん)の男、謀反を存ずるの條、其の疑ひ無し、早く誅せらるべきの由と云々。

 然るべからざるの旨を仰せられ、之れを宥(なだ)められ、剩(あまつさ)へ、御家人に列す。岩瀨與一太郎と號すは是れなり、と云々。

   *

「仁治元年」一二四〇年。

「上之村證菩提寺」現在の横浜市栄区上郷町にある真言宗五峯山一心院證菩提寺。鎌倉市岩瀬の東北東二キロメートルほどの位置にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。頼朝が石橋山で挙兵した際、頼朝の身替りとなって討死した佐那田与一義忠の菩提を弔うために鎌倉の鬼門に当たる当地に建久八(一一九七)年(文治五(一一八九)年ともし、「相模國風土記稿」ではこれを採っている。ここ(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像))に創建された。

「證菩提寺文書に據る、全文は彼寺の條に引用せり」ここ(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像。左下後半)。

「正和二年」一三一三年。

「矢田四郎左衞門尉盛忠」不詳。

「文保元年」一三一七年。

「上之村證菩提寺文」直前のリンクの末行から次のページにかけて記されてある。

「元弘三年十一月」一三三三年。幕府滅亡の半年後である。鎌倉幕府は、元弘三年五月十八日から同月二十二日までの五日間の攻防(狭義の「鎌倉合戦」)で滅亡した。同旧暦は当時のユリウス暦で、一三三三年六月三十日から七月四日に当たり、因みに、時期的認識のために試しに現在のグレゴリオ暦に換算してみると、一三三三年七月八日から七月十二日に相当する。

「沽券狀」「估券(状)」とも書き、文書の形式から「避文(さりぶみ)」「去状」とも称した。土地・家屋や特定の諸権利を売却する際、売主の発行する証文。令制では、土地売買の時、売主が沽券を出すのではなく、その地域の下級支配者である郷長などが、上級の官司(国郡司)に解文(げぶみ)を提出して許可をとった。平安中期には、売主が直接、買主に沽券を渡すようになったが、沽券の様式は、引き続き、解文の形式で書かれ、郷保(きょうほ)の担当役人などが証判を加えることが多かった。平安末期になると、売主だけの署名又は私的な証人が連署する沽券に変った。このような私券制に変ると、権利の証明や売買の保証のため、手継証文の交付や追奪担保文言の記入が必要となった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「正平七年〔北朝文和元年。〕」一三五二年。正確には「正月」は北朝ではまだ観応三年(観応三年九月二十七日(ユリウス暦一三五二年十一月四日)に後光厳天皇の即位により、文和に改元している)。

「島津周防守忠兼」(生没年不詳)は鎌倉末期から南北朝にかけての武将で播磨国下揖保荘の地頭であった。元弘三(一三三三)年四月二十七日、足利高氏(後の尊氏)より、後醍醐天皇の勅命を伝えられ、「元弘の乱」に参戦したが、後に尊氏とともに建武政権から離反、畿内各地を転戦、「観応の擾乱」でも尊氏党に与(くみ)して活躍、歴戦の武功により、播磨布施郷・甲斐国花崎郷・相模国山内荘・同岩瀬郷等を領有した(以上はウィキの「島津忠兼」に拠った)。なお、彼の島津家は島津播磨家で、薩摩国島津氏の支族である越前島津氏(越前家)の忠行系である。

「文和三年」一三五四年。南朝は正平四年。

「宇子ノ局が代官飯田七郞左衞門尉、當所に亂入し、忠兼の代官池田右衞門尉等を殺害に及べり」「宇子ノ局」(「うねのつぼね」或いは「うすのつぼね」か。読みも判らぬ)以下の事件に関わった当事者らは孰れも不詳であるが、「小助の部屋/鎌倉郡(玉の輪)をたずねて」というページに、『足利尊氏から岩瀬郷を与えられた島津忠兼は池田右衛門尉を代官として岩瀬郷を支配させてい』たが、 この文和三(一三五四)年に『飯田郷の飯田七郎左衛門尉が岩瀬郷に乱入し』、『池田右衛門尉を殺害』、『島津忠兼の訴え』により、『足利尊氏は』、『次男で関東管領をつとめる足利基氏と江戸直重に処置を命じ』たとあり、この辺りから、次第に『関東管領が鎌倉郡で勢威をふるうようにな』ったと記されてある。事件処理に関わった関東管領方の人物は面倒なので注さない。

「永德三年十二月」一三八三年。南朝は弘和三年。

「左兵衞督氏滿」第二代鎌倉公方足利氏満.

「明月院文書に據る。全文明月院の條に囲繞す。併せ見るべし。下至德・長祿の二條も是に同じ」底本の前巻のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)。左下から。後も同じなので注さない。

「至德三年」一三八六年。南朝は元中三年。この六年後の元中九/明徳三(一三九二)年、延元元/建武三年(一三三六)年(京を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った年)から五十六年間続いた南北朝時代は、南朝第四代の後亀山天皇が北朝第六代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一をみた。

「道光」不詳。

「白河局」不詳。

「闕地」闕所(地)。本来は死亡・逃亡・追放・財産没収などによって本来の所有者・権利者を欠く状態になった土地や所領を指した(跡継ぎがいないままに病没した者の土地などもかく称せられた)。参照したウィキの「闕所」によれば、『鎌倉時代以後、戦』さ『による敗者や犯罪を犯した者の土地などを没収することを闕所と称する事例が登場し、室町時代にはもっぱらこちらの意味で用いられるようになった。なお、この場合、対象者の全財産を没収することを「闕所」と称し、一部没収である「収公」との区分が付けられていた。前者の場合は戦いの勝者が、後者の場合は警察権の行使者が獲得し、その自由処分に任された。前者の代表的なものとして治承の乱の平家没官領、承久の乱の京方跡闕所、元弘の乱の北条高時法師与党人跡闕所などが挙げられる。後者の場合、通常は犯人を追捕検断し、裁判で有罪とした者が闕所を行うこととされていたが、多くの場合は裁判で闕所を決定した幕府が獲得し、実際に追捕検断にあたった地頭や荘官などが報償としてその一部の分与を受けた』。『闕所となった土地はその仕組上、警察・司法・軍事に関する諸権限を有していた幕府に集中することとなったが、幕府はその一部を自己の直轄領に編入し、追捕検断にあたった者に分与したものの、闕所によって御恩と奉公(土地給付とその見返りである御家人役負担)の考えに基づく主従関係が破綻することは望ましいものではなく、新しい領主を決定しなければならなかった。当然のように前述の一族や本主が給付を求めて訴え、それ以外にも希望者が殺到して幕府の頭を悩ませた』。「御成敗式目」には「承久の乱」の『闕所地(京方跡闕所)の処分が決定した後も』、『本主として権利を主張することを禁じたり』(第十六条)、『裁判中に闕所となることを期待して当事者を誹謗することを禁じたり』(第四十四条)『している。また、鎌倉時代後期には北条氏一族が各地の御家人の所領を奪った反動により、鎌倉幕府とともに同氏が滅亡すると、北条氏に所領を奪われた御家人たちが本主権を盾に闕所(北条高時法師与党人跡闕所)の給付を求めて後醍醐天皇の新政権に殺到した』。『室町時代になると、室町幕府の闕所処分に現地の守護なども関与するようになり、守護領国制形成にも影響を与えた。また、有徳人など所領を持っていない武士以外の人々に対しても』、『家屋敷や動産などを没収する闕所が行われるようになった』とはある。旧所有者である「白河局」が何者か判らぬので何とも言い難い。

「長祿元年」一四五七年。但し、「五月」とあり、正確には康正三年。長禄への改元は康正三年九月二八日である。

「上杉兵部少輔房顯」山内上杉家第十代当主で関東管領であった上杉房顕(ふさあき 永享七(一四三五)年~寛正七(一四六六)年)。鎌倉公方足利成氏によって暗殺された関東管領上杉憲忠の弟。

「大永二年」一五二二年。

「分折」「分析」の原義に同じい。分け割(さ)くこと。

「天文四年」一五三五年。

「永祿二年」一五五九年。

「北條左衞門佐氏堯」北条氏尭(うじたか 大永二(一五二二)年~永禄五(一五六二)年?)は後北条氏の一族。第二代当主北条氏綱の四男で、北条氏康の弟。ウィキの「北条氏尭」より引く。『三兄為昌の死後、叔父北条幻庵の後見を受けながら、上野平井城の城将を務めたり、房総半島に進軍するなど弘治年間から活躍するようにな』った。永禄三(一五六〇)年には『幻庵の長子三郎が死去したため』、『武蔵小机城主となり、翌年には長尾景虎の関東進出により』、『河越城に入城し、長尾軍攻撃を死守している(小田原城の戦い)。一方で伊達氏の史料伊達文書から伊達氏と外交交渉を行っているなど』、『後北条氏において重要とされる将だった』が、永禄五年以降には『氏尭に関する史料が現在』、『見当たらないため、おそらくこの前後に死去したと思われる』。『長らく北条氏康の九男氏光と同一人物とされてきたが、佐脇栄智の研究で氏尭の生年がはっきりした結果、氏康と』七『歳しか違わないことや氏光の存在も明確になっているので、現在は氏綱の四男で氏康の弟という見方が支配的である。この問題は氏康の子供のうち、明確に生年がわかっているのは氏政、氏規と桂林院殿(北条夫人)ぐらいで後は諸説あることが問題の引き金になっている。一方で、氏康の六男(七男説もある)氏忠と氏光は氏尭の子で死後養子に出されたのではという説もある。また、娘は正木頼忠室になったという(北条氏隆の娘または田中泰行の娘とも)』とある。なお、以下の「蔭山長門守」による土地の寄付の記事が推定没年と一致する

「蔭山長門守」個人サイト「遠州古城めぐり」の「河津城」に、天正一八(一五九〇)年に河津城城主として豊臣水軍の大侵攻作戦に戦わずして降状したらしい蔭山長門守氏広とある人物と同一人かと思われる。

「圓覺寺塔頭富陽庵」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「圓覺寺富陽庵の條、併せ見るべし」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。右下。

「天正十五年」一五八七年。

「簡閲」総兵を召集して行う点呼。

「虎朱印」小田原北条第二代当主北条氏綱が初めて用いた朱印。「虎の印判」と呼ばれ、「祿壽應穏(ろくじゅおうおん)」と陽刻された方形の上部に飛び出して虎が蹲っている姿が描かれてある。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の『「天下布武」の朱印』のページに載る弘治二(一五五六)年)九月十四日北条家の虎朱印状が見易い。

「廣十町」「廣」(広さ)は「東西の長さ」を指す。一キロと九十メートル。

「袤四町」「袤」(ボウ)は「南北の長さ」の意。四百三十六メートル強。

「延寶六年」一六七八年。

「成瀨五左衞門」藤沢宿代官成瀬重治(「鎌倉市史 近世通史編」(平成二(一九九〇)年吉川弘文館刊)では成瀬重頼とし、ネットでも僧表記するページもある)。複数回、既出既注であるが、再掲しておくと、「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の第六十話「藤沢宿支配代官」の一覧によれば、慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官(但し、代官所はなかった)を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。

「今」本「相模国風土記稿」(天保一二(一八四一)年成立)が執筆されている頃。時系列がここだけ、進んでいるので注意。

「松平大和守矩典」「とものり」と読む。名君として知られる川越藩四代藩主松平斉典(なりつね 寛政九(一七九七)年~嘉永三(一八五〇)年)の初名。詳しくはウィキの「松平斉典」を見られたい。隣りの今泉の町内会公式サイト内の年表によれば、今泉村が文化四(一八二一)年に『松平矩典の所領となる』とある。

「元祿十一年」一六九八年。

「地を裂て、木原兵三郎・菅谷平八郎正輔・小濱半左衞門利隆に頒ち賜ひ、御料の外三給の地となりし」これは「元禄地方直(げんろくじかたなおし)」と呼ばれる、元禄期に江戸幕府が行った知行地再編成政策の一環に依るものである。ウィキの「元禄地方直」によれば、「元禄地方直」は『当時、勘定頭(勘定奉行)だった荻原重秀の主導で実施された』もの。元禄一〇(一六九七)年七月二十六日、『幕府は御蔵米地方直令を発令し』、五百『俵以上の蔵米取の旗本を、知行取へと変更する地方直の方針を打ち出した』。同年八月十日には『新知行地からの収税は』翌元禄十一年から『行い、この年の冬に支給される切米は今までどおり受け取ること』、同八月十二日には、『知行地と蔵米の両方を給されている幕臣の中で支給額の合計が』五百『石以上の者も地方直が行われることも決められた』。翌元禄十一年七月三日に『地方直はほぼ完了したとして、翌日には新たな知行所が発表された』。対象者は五百四十二人の『旗本で、彼らに支給されてきた約』三十四『万俵の蔵米とほぼ同額の知行地が与えられることになった。新たな知行地は関東八ヵ国を中心に、三河国・遠江国・丹波国・近江国と広範囲に及んだ。大田南畝が編集した勘定所史料』である「竹橋余筆別集(ちっきょうよひつべつしゅう)」には、『誰がどの知行地に割り当てられたかが記載されており、また大舘右喜の「元禄期幕臣団の研究」によれば、武蔵国』二百三十六名・常陸国百七十二名・下総国百四十名・上総国八十三名・下野国九十八名・上野国九十四名・相模国八十五名(ここに上記の木原兵三郎・菅谷正輔・小浜利隆が含まれていたのである)・伊豆八十一名・安房十名が割り振られている』。『この時期、蔵米地方直と同時に、地方直とは無関係な旗本の知行地(=領地)の割り替えも行われた。この割り替えは、約』二百人の『旗本たちの知行地を、一度上知(土地の召し上げ)した上で』、『代知割り(代りの知行地を与える)するという形でなされた』。『上知された土地の多くは関東の知行所で、中部・近畿地方の土地を代地として宛がわれた。その上で、幕府は天領と上知した旗本領の検地(元禄検地)も行った。当時は農業生産技術が発展し、農業後進地域であった関東地方の生産力も上昇していたこと、開墾可能な山林や荒れ地も検地したことで、石盛は大幅に高まった』。『元禄の地方直は、検地によって土地の石高を上げたことと、蔵米取の旗本には検地によって石高が上昇した土地を割り振ることで、石高上昇分の年貢収入+旗本に支給する蔵米の実質的削減』という二つの『効果によって財政改善が図られたのである』この「地方直」には、『江戸に隣接する地域や生産性の高い地域、広大な山林や多額の運上金が上がる地域を幕領に編入する』こと、『年貢米を江戸に運搬して旗本に配分する経費を削減する』こと、『旗本の領主権を制限して年』三割五分の『年貢徴収権に限定する』こと『などの目的があったとされる』。『当時の幕府は、天領からの年貢収入が年間』七十六万から七十七万両であったが、そのうちの三十万両余が『幕臣に支給する蔵米だった』。『天領から米を運搬する費用がかかる蔵米給付の方が幕府にとっての財政負担は大きい一方、当時の武士は蔵米取よりも知行取の方が格上と考えており、蔵米支給から知行取に変わることを旗本たちは出世ととらえ、幕府も知行取への変更を褒賞の一環としていた』。則ち、「地方直」は、『幕府にとって財政改善策であり、旗本にとっては格が上がる名誉な出来事という意味合いがあった』のであった。『しかし、知行取は凶作の年には石高分の収入を得られず(検見法の場合)、また収穫された米の運搬は領主の自己負担となるため、地方直は幕府だけが経済的に得するという批判は当時からあり、老中の戸田忠昌も凶作時の問題を考えて、稲作の後進地域である関東を旗本の知行地にすることに難色を示したという』。『徳川綱吉政権は、在地に密着した世襲の代官を処罰して勘定所から派遣された官僚的な代官を増やし、同時に代官や改易・減封処分された大名の処分後の領地・支配所の検地を実施、以前よりも生産性が増えた耕地の石高を増加させるなどの農政改革を行ってきた。綱吉が』『将軍に就任した』延宝八(一六八〇)年当時の天領の石高は三百二十六万二千二百五十石余・年貢量九十四万二千五百九十石余であったが、「地方直」の後の元禄一〇(一六九七)年には石高四百三十四万六千五百石余、年貢量百三十八万六千四百石余へと『増加している』。『また、歴史学者の所理喜夫たちによれば、地方直には旗本が知行地と密接な小大名となることを阻止し、官僚予備軍として再編成する効果もあったと評価している。知行所を与えられた旗本たちは、開幕当初から約』百『年間に領地の村民たちとの主従関係を強めていったが、それらの結びつき』が、この「地方直」を『行うことで全て無効化してしまうからである』とある。特に必要性を感じないので、木原兵三郎・菅谷正輔・小浜利隆及び後の「木原氏支族」であった「賴母某」(たのもなにがし)は調べない。なお、前に出した「鎌倉市史 近世通史編」の「第二章 旗本領と元禄地方直し」の「岩瀬村における分類」(一四三頁)に非常に詳しい記載があるので参照されたい。因みに、そこに書かれた検地帳のデータを元にした計算によれば、岩瀬村での木原氏の石高は岩瀬村全体の五十九%で二百九十一石余り、菅谷氏・小浜氏がともに十三%で六十九石余り、松平氏が七十三石余り、とある。

「元文二年」一七三七年。

酒井雅樂頭親本」(さかいうたのかみちかもと)酒井親本(宝永二(一七〇五)年~享保一六(一七三一)年。上野前橋藩第八代藩主。ウィキの「酒井親本」によれば、越前敦賀藩第二代藩主酒井忠菊の長男として生まれたが、享保元(一七一六)年、前橋藩第七代藩主酒井親愛(ちかよし)の養子となった。享保五(一七二〇)年の親愛の隠居に伴い、家督を継いで、享保ⅵ(一七二一)年に従四位下・雅楽頭に昇叙されたが、享年二十七で死去した。

「寛延二年」一七四九年。

「松平大和守朝矩」(とものり 元文三(一七三八)年~明和五(一七六八)年)武蔵川越藩主。直基系越前松平家五代。彼の孫の直温(なおのぶ)の養子となったのが、先に出た松平矩典である。

「文化八年」一八一一年。

「松平肥後守容衆」(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)は陸奥会津藩第七代藩主で会津松平家第七代。満十八になる前に夭折している。

「文政三年」一八二〇年。

二間」三メートル六十四センチメートル弱。

「瀧ノ臺」以下の「小名」は総て不詳。「ふりが谷」(ふりがやつ)は由来が気になる谷戸名である。

「切通橋」「離山橋」思うに、前者は山越えをして「高野の切通し」に向かう、現在の七久保橋(現在の岩瀬地区の南端の砂押川の最上流に架かる)で、後者は山越えをして、大船の離山へと向かう道に架かる、現在の砂押橋ではなかろうか。

「稻荷社」鎌倉市岩瀬一三九九、横浜方向に食い込んだ(グーグル・マップ・データ)にある、五社稲荷神社(五所明神)。後に出る通り、創建は建久年間(一一九〇年~一一九八年)で先に出た岩瀬与一太郎義正が創建したとされるが、現在のそれは天明二(一七八二)年に再建されたもの。その時は栗田源左衛門なる人物が中心になって、近隣の四十六もの村に呼びかけて再建させたと、先に示した「かまくらこども風土記」にはあり、神奈川県神社庁」公式サイト神社解説ページには、当時の『鎌倉郡の郡長であった栗田源佐衛門が』百一『両を投じて(栗田家』十五『両、岩瀬村有志』十五『両』、残りは『支配下の村より』七十一『両)天明の飢饉を乗り切るため』、『敢えて社殿を再建した。その頃の村社としては立派なもので』、『拝殿に壁画などもあり』、『近郷より多くの参拝があった』とある(但し、現在、拝殿の壁画は全く見えなくなってしまっている)。栗田は岩瀬の地の姓で、私のアパートの大家も栗田であったし、毎日通った風呂屋も栗田湯であった。

「保食」神は「うけもちいのかみ」と読む(現代仮名遣。以下同じ)。

「大己貴」神は「おおなむちのかみ」。大国主神の異名。

「大田」神は「おおたのかみ」。

「倉稻魂」神は「うがのみたまのかみ」。

「大宮姫」神は「おおみやのひめのかみ」。稲荷神。以上は皆、総て農業神・穀物神である。

「例祭九月廿九日」現在は八月の最終日曜日。

「時保」で名と採っておく。

「文治」一一八五年から一一八九年まで。

「文祿」一五九三年から一五九六年まで。

「神明宮」三つあるとあるが、以下に出る多くの社(やしろ)同様、現存するかどうかは、知り得ない。明治の無謀な合祀政策によって消失ものも多いであろう。因みに、私は神体を動かしてしまった近代合祀は神を失った不遜な人間の都合であり、そこに神はもういないと考えている。

「白山社」これは今泉の白山神社ではない。

「貴船社」これが、冒頭注で私が言ったそれであろう。]

 

2018/08/15

大和本草卷之十三 魚之上 鯉

 

鯉 河海諸魚ノ内最貴者尓雅釋魚以鯉冠篇神農

 書曰鯉為魚之主和漢共ニ是ヲ上品トス両傍ノ一

 條ノ鱗大小トナク皆三十六アリ煮食ヘハ水腫ヲ治シ

 小便ヲ利シ脾胃ヲ補フ作膾温補ス新鮮ナルハ尤美

 山州淀ノ産ヲ佳トス

○やぶちゃんの書き下し文

鯉 河海諸魚の内、最も貴〔(とほと)〕き者。「尓雅釋魚〔(ぢがしやくぎよ)〕」、鯉を以つて篇に冠〔せ〕しむ。神農の書に曰く、『鯉を魚の主と為〔(な)す〕』〔と〕。和漢共に是れを上品とす。両傍の一條の鱗、大・小となく、皆、三十六あり。煮〔て〕食へば、水腫を治し、小便を利し、脾胃を補ふ。膾〔(なます)〕と作〔(な)〕して、温〔を〕補す。新鮮なるは、尤も美〔(うま)〕し。山州淀の産を佳とす。

[やぶちゃん注:条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科コイ Cyprinus carpio

「尓雅釋魚」〔(ぢがしやくぎよ)〕、鯉を以つて篇に冠〔せ〕しむ」中国最古の辞書「爾雅」(著者未詳・全三巻」紀元前二百年頃成立)の「釋魚」の巻頭には「鯉」が挙げられている。

「神農」炎帝神農氏。中国古代神話上の帝王で三皇の一人。人身牛首ともされ、農耕神・医薬神に位置付けられ、百草の性質を調べるため、自らありとあらゆる植物を舐めて調べたとされる。彼の「書」というのは不明だが(そもそもそんなものは実在はしない。漢代に成立したと思われる彼の名を冠した「神農本草経」があるが、鯉を魚の主とする記載はない)、先の「爾雅」の篇立てに倣って動植物を分類・解説した南宋の羅願の著「爾雅翼」の巻二十八には「鯉」の記載があるが、その冒頭には確かに『鯉者魚之主』とある。本書より前、医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書「本朝食鑑」の「鯉」の章の「集解」の冒頭にも『古へに曰く、鯉は最もな魚の主と爲したり』とある。

「両傍の一條の鱗、大・小となく、皆、三十六あり」前注に出した「爾雅翼」の巻二十八には、『鯉脊中、鱗一道每鱗有。小黒文大小皆三十六鱗。案是脇正中一道爾非脊也』とある。

「水腫」浮腫(むく)み。

「脾胃」さんざん既出既注。漢方では広く胃腸、消化器系を指す語。もう注さない。

「膾〔(なます)〕」新鮮な魚の刺身。

「温〔を〕補す」漢方で当該個人の人体の温度(個人差がある)が正常な値よりも低い場合に、その不足している分を補うだけ、体内の温度上げる効果を指す。

「山州淀」山城国(現在の京都府南部)の淀川。]

明恵上人夢記 78

 

78

一、同十一月十三日の夜、夢に云はく、此の比(ころ)、一向に坐禪す。一頭の大きなる獮猴(みこう)有りて、予に馴(な)る。予、之に教へて禪觀を修せしむ。獮猴、教へに隨ひて禪法を學ぶ。定印(ぢやういん)を結びて結跏坐(けつかざ)す。然れども、坐法、少し直(なほ)からずと云々。又、予、洛陽の大路に出づ。然れども、一身にして從ふ所無し。道を知らざれば、推量して至らむと欲す。至る所は淸水寺(きよみづでら)等なり。見渡すに、終(つゐ)に知るべき由、之を覺ゆと云々。又、一つの大きなる殿、有り。其の前に、池、有り。水、減少して穢(けが)れ濁る。小蟲等、之(これ)、有り。其の家、釣殿の如きを水に造り懸けたり。其(それ)もゆるぎて全(まつた)からずと云々。

  合せて曰はく、此(これ)、行法を修せず

  して、寶樓閣、あれたるなり。池は樓閣

  の前の池也。坐禪に鎭護無き也。

[やぶちゃん注:承久二(一二二〇)年十一月十三日と採る。三パートに分かれるが、これが実際に同夜に見た三つの別な夢だったのか、或いは孰れか又は総てが連続した夢あったかは不明である。しかし、明恵はこれらの三つの内容を綜合して解釈し、最後に夢分析を添えているのである。特に最初の猿の坐禅の比喩は何か非常に面白いものであり、最後の明恵の短い夢分析から考えると、既存の平安旧仏教の堕落したさまが猿に換喩されているような感じを受けないでもない。ともかくも、最後の夢分析部分は、相当に自由に敷衍的な訳させて貰った。御不満の方は、御自由に御自身の訳をなさるるがよかろう。

「此の比(ころ)、一向に坐禪す」拘ることはないのかも知れぬが、これは既に夢の記述部分である。確かに既に見てきた通り、この最近の明恵は実に、早暁からその翌日早暁に至るまでの間に三度或いはそれ以上の坐禅による観想を実際に行っているのであるが、ここは現実のその実際の自分の事実の謂いなのではなく、〈夢の中の明恵〉もまた、夢の時空間の中で、一心不乱に坐禅行を行っている存在なのである。私はこうした、現実の明恵と夢の中の明恵の自己同一性(アイデンティティ)が完璧に保たれていることが、夢を有意味なものとして捉えることの明恵の正当性を保障し、明恵はまた、さればこそ、自身の見る夢を謎めいたものとせず、その解釈は難解な作業であるなどとも微塵も思っていない事実を伝えているものと思うのである。

「獮猴(みこう)」霊長目オナガザル科マカク属ニホンザル Macaca fuscata を指していると思われる。なお、現行ではこの漢語は種としてはオナガザル科マカク属タイワンザル(台灣獼猴)Macaca cyclopis を指すようである。

「禪觀」「止観」に同じい。仏教に於ける代表的な観想法。「止」は精神を集中して心が全き静寂となった状態を指し、「観」は対象を在るが儘に観察することを意味する。「止」は「観」の準備段階とされる。孰れも持戒とともに仏教徒の重要な実践法とされる。

「結跏坐」「結跏趺坐(けっかふざ)」に同じい。「跏」は「足の裏」、「趺」は「足の甲」の意で、坐法の一つ。両足の甲をそれぞれ反対の腿の上にのせて押さえる形の座り方。先に右足を曲げて左足を乗せる降魔坐(ごうまざ)と、その逆の吉祥坐の二種がある。蓮華坐とも呼ぶ。

「淸水寺(きよみづでら)等」「等」としながら、清水寺だけを出して示したのには、非常に重大な意味があるわけだが、判らぬ。しかし、明恵には末尾の夢分析から見ると、判然としていると読める。なお、当時の清水寺は法相宗が本宗(現在もそう)で、真言宗との兼宗であった。言わずもがなであるが、明恵は華厳宗中興の祖である。]

□やぶちゃん現代語訳

78

 承久二年十一月十三日の夜、こんな夢を見た――

   ○一

 夢の中の私は、最近、只管(ひたすら)一心に坐禅をしている、現実の私と同じなのであった。

 一頭の大きな猿がいて、私に馴れている。

 私は、この猿に禅観の何たるかを教え、而してそのやり方を教授した。

 猿は、私の教えに随って、禅の観想法をしっかりと学んだ。

 そうして、定印を結んで結跏趺坐した。

 しかし、その坐法を見るに、今少し、正しくないのであった……。

   ○二

 また、こんな夢を見た――

 私は、京の大路に出ている。

 しかし、私の心の中をどんなに隈なく調べてみても、

――何処(いずこ)へ

――何のために

行こうとしているのか、これが、

――全く以って判らない

のである。

 当然のことながら、向かうべき道をも知らぬのであるから、私は、

『ここは、ともかくも、観想の中で推量して、その「何処か」に至ることとしよう。』

と思うた。

 すると、至るべき所は、

――清水寺(きよみずでら)など

であることが直ちに感知された。

 その時! 大路に立っている私の意識の中に都の全景が、

――豁然と開いた!

 それを見渡した瞬間、

『遂に! 私は「それ」を知ることが出来た!』

という認識が生じ、それを確かに感得した……。

   ○三

 また、こんな夢も見た。

 一つの大きな寝殿造りの屋敷がある。その前庭に池がある。

 しかし、池の水はすっかり減ってしまっていて、ひどく穢(けが)れていて、完全に濁っている。小さな生き物どもが、その腐れ水の中で、しきりに蠢いているのも見える。

 池には、釣殿の如きものが、泥水の中に造り懸け渡してある。しかし、それも、半ば支柱がゆるんで、ちゃんと建っておらず、水のないごみ溜めのような中に傾(かし)いでいる……。

 

◎私明恵の以上の夢に就いての分析

 これらの夢の三つの内容を綜合して考えてみると、これは、現在の本邦の大寺院の仏教僧らが、あるべき正しい行法を執り行っていないが故に、古えより続く、三宝の一つたるべき荘厳(しょうごん)の仏寺の楼閣が、これ、精神的に致命的に荒廃している、ということを意味しているのである。最後の部分の屋敷に出てきたのは、仏閣の楼閣にあるべき荘厳(しょうごん)の池、広大無辺の仏智と慈悲心を湛えているはずの池、なのである。その池が汚れきって、毒虫に満ち満ちているとは、即ち、第一の猿の坐禅の姿勢が決定的に間違っているのと同様、現在の多くの僧侶らの行っている観想そのものが、致命的誤っているということ、今の世の大半の僧らの似非行法では、とてものこと、真の観想に至るべき心の鎮静と、正法(しょうぼう)のまことの御加護はないのだ、ということなのである。

 

大和本草卷之十三  魚之上 (総論)

 

大倭本草卷之十三

   魚之上【河魚】凡魚類其品甚多シ毎州有異

 品不可窮盡諸州ノ土地ニヨリテ異同アリ有無アリ

 形狀性味亦不同○凡國俗所称品物之名字誤

 認者甚多矣就中魚名古来所称之文字傳誤而

 非正者最多矣可謂習而不察也順倭名抄所載

 亦然觀者須精審揀擇之○本草載河海魚品寡

 而且不詳故不審其性之良否者多大抵氣味淡

 潔脂少不甚腥者為佳品不害人氣味濃腥多脂

 者雖味美非良品多食必害人且魚肉餒敗色臭

 悪者腐壞者不可食海魚ハ久食乄不饜河魚ハ歷日

 而食ヘハ易饜味甘フ乄塞氣也海ヨリ河ニ上ル魚ハ鰷

 鱖膾殘魚大口魚等ナリ○本草所載諸魚品數

 比他物鮮少記海魚最不詳多闕考證且諸魚ヲ

 雜記乄不分河海淡水鹹水ノ所生混同乄分明ナ

 ラス別録之中往〻海魚ヲ澤中江湖ニ生スト云觀

 者辨別スヘシ○河魚ノ味美ナル者ハ鯉鯽鱖鱒鱸鰷

 鰻鱺シクチ膾殘魚等為上品海魚ノ美ナルハ鯛鱸

 大口魚比目魚キスコ鯔魚魴魚華臍魚等為上品

○やぶちゃんの書き下し文

「大倭本草」卷之十三

   魚の上【河魚。】

凡そ、魚の類、其の品、甚だ多し。毎州〔(くごとに)〕、異品、有り、窮め盡すべからず。諸州の土地によりて、異同あり、有無あり。形狀、性味〔(しやうみ)〕、亦、同じからず。

○凡そ、國の俗、称する所の品物の名字〔(みやうじ)〕、誤り認〔(したたむ)〕る者、甚だ多し。中に就〔(あたり)〕て、魚の名、古来、称する所の文字、誤〔れる〕を傳へて、正〔(せい)〕に非ざる者、最も多し。習ひて察せずと謂ふべきなり。順が「倭名抄」載する所〔も〕亦、然り。觀る者、須らく、精審〔(せいしん)〕に之れを揀擇〔(せんたく)〕すべし。

○「本草」、河海の魚品を載すること、寡〔(すくな)〕くして、且つ、詳かならず。故〔に〕其の性〔(しやう)〕の良否を審〔(つまびら)か〕にせざる者、多し。

大抵、氣味、淡潔、脂〔(あぶら)〕少く、甚〔だしくは〕腥〔(なまぐさ)から〕ざる者、佳品と為〔(な)〕す。

人を害せず、氣味、濃腥〔(のうせい)にして〕脂多き者、味、美〔(よ)し〕と雖も、良品に非ず、多く食へば、必ず、人を害す。

且つ、魚肉、餒敗〔(だいはい)〕し、色〔(いろ)〕・臭〔(にほひ)〕悪〔(あし)〕き者・腐壞〔(ふくわい)〕せる者、食ふべからず。

海魚は久しく食して饜(あ)かず。河魚は日を歷〔(へ)〕て食へば、饜〔(あ)〕き易し。味、甘〔(あも)〕ふして、氣を塞〔(ふさ)〕げばなり。

海より河に上る魚は、鰷〔(はや)〕・鱖〔(さけ)〕・膾殘魚〔(しろうを)〕・大口魚等なり。

○「本草」、載する所の諸魚の品數、他物に比するに鮮少〔(せんせう)なり〕。海魚を記すこと最も詳かならず。多く、考證を闕〔(か)〕く。且つ、諸魚を雜記して河海を分かたず、淡水・鹹水〔(かんすい)〕の生ずる所、混同して分明ならず。別録の中、往々、海魚を澤中・江湖に生ずと云ふ。觀る者、辨別すべし。

○河魚の味美なる者は、鯉・鯽〔(ふな)〕・鱖〔(さけ)〕・鱒〔(ます)〕・鱸〔(すずき)〕・鰷・鰻鱺〔(まんれい/うなぎ)〕・シクチ・膾殘魚(しろ〔うを〕)等、上品と為す。

海魚の美なるは、鯛・鱸・大口魚〔(たら)〕・比目魚〔(ひもくぎよ/ひらめ)〕・キスゴ・鯔魚〔(ぼら)〕・魴魚〔(はうぎよ/はうぼう)〕・華臍魚〔(くわせいぎよ/あんこう)〕等、上品と為す。

[やぶちゃん注:魚総論部。読み易さを考え(繋がっていると、前の部分との切れ目が判然とせず、戸惑うところがあるからである。少なくとも私には一箇所それがあった)、それぞれの叙述のソリッドなものと思われる箇所を私の判断で捉え、恣意的に改行を施した。

「毎州〔(くにごとに)〕」ㇾ点なく、ルビもないが、音読みは生硬過ぎて厭なので、敢えてかく読んでおいた。

「性味〔(しやうみ)〕」漢方上の気(寒・微寒・平・微温・温)と五味(酸・鹹・甘・苦・辛)のこと。

「中に就〔(あたり)〕て」就中(なかんずく)で「中でも・とりわけ」。

「習ひて察せず」誤ったものを無批判に教わったままに受け入れてしまい、それを改めて独自に考察するということをしない。

『順が「倭名抄」』さんざん出た、平安中期に源順(みなもとのしたごう)によって書かれた辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」。承平年間(九三一年~九三八年)に勤子内親王の求めに応じて編纂した。もう注さない。

「精審〔(せいしん)〕」無批判に受け入れず、精査と審議を重ねること。

「揀擇〔(せんたく)〕」以上のように正否を冷徹に検証した上で選別して正しいもののみを受容すること。

「本草」さんざん出た本草書のチャンピオン、明の李時珍の薬物書「本草綱目」の方は五十二巻。一五九六年頃の刊行。巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種千八百九十二種、図版千百九枚、処方一万千九十六種に及ぶ。もう注さない。

「其の性〔(しやう)〕の良否」漢方医学に於いての人体への影響の良し悪し。

「大抵、氣味、淡潔、脂〔(あぶら)〕少く、甚〔だしくは〕腥〔(なまぐさ)から〕ざる者、佳品と為〔(な)〕す」以下は、「本草綱目」のそれではなく(但し、「本草綱目」でも概ねそうした記載になってはいる)、貝原益軒の見解として読む。

「濃腥〔(のうせい)にして〕」生臭味が濃く強くあって。

「脂多き者、味、美〔(よ)し〕と雖も、良品に非ず、多く食へば、必ず、人を害す」これは所謂、高級脂肪酸(ワックス)を多量に持つ深海性の魚類の味が甘く美味いこと、しかしそれらは一定量以上を食うと、激しい下痢等を引き起こすことを考えると、非常に正しいことを益軒は言っていると言える。

「餒敗〔(だいはい)〕」「腐敗」に同じい。

「腐壞〔(ふくわい)〕」これは腐敗が進んで、素人目にも魚体が著しく崩れてしまっていることを言っていよう。

「饜(あ)かず」飽きない。

「日を歷〔(へ)〕て」毎日のように食べると。

「味、甘〔(あも)〕ふして、氣を塞〔(ふさ)〕げばなり」これは甘い味の食物が、中枢に作用して食を飽きさせる、或いは抑鬱的傾向を惹起させる要因と言っているように読め、面白い。

「鰷〔(はや)〕」複数の種の川魚を指す。ハヤ(「鮠」「鯈」などが漢字表記では一般的)は本邦産のコイ科(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Cyprinida)の淡水魚の中でも、中型で細長い体型を持つ種群の総称通称である。釣り用語や各地での方言呼称に見られ、「ハエ」「ハヨ」などとも呼ばれる。呼称は動きが速いことに由来するともされ、主な種としては、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

コイ科 Oxygastrinae亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

などが挙げられる。

「鱖〔(さけ)〕」サケ目サケ科サケ属サケ(又はシロザケ)Oncorhynchus keta

「膾殘魚〔(しろうを)〕」後で再度出るルビによって振ったが、現行では条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科 Salangidae のシラウオ Salangichthys microdon・イシカワシラウオ Salangichthys ishikawae(日本固有種)などに当てられるが、全くの別種でしかもシラウオ類に似ている条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae シロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii と混同されるので、それも挙げておく必要がある。孰れも半透明であるが、死ぬと白くなるところから「白魚」をである。この「鱠残魚」は、呉の王が船の上で魚鱠(うおなます)を食べ、その残りを河に捨てたところそれが魚に化身したのがこれとする伝承に由る。

「大口魚」これは条鰭綱タラ目タラ科タラ亜科 Gadinae のタラ類の異名(口吻が大きいことから)であるが、河口近くや潟湖の汽水域ならまだしも、川魚ではなく、遡上などしない純粋な海水魚であり、通常は深海域に棲息するから、これは「タラ」ではあり得ない。実際、後で美味な海水魚に再掲されてあり、そちらは「たら」と読んでおいた。さすれば、思うにこれは淡水魚で「大口」と称したくなるもの、新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ Silurus asotus ではなかろうか? 但し、後の項ではナマズは「鮧魚(マナヅ)」とし、特に美味いとは記していない。「タラ」は「大口魚」で出るが、その記載には遡上するという記載はなく、海産としている。不審。

「鮮少〔(せんせう)なり〕」著しく少ない。中国の本草書は海産魚類や海産無脊椎動物類については、事実、記載が有意に乏しい。これは現在の西欧の一般と同じである。魚や他の海産動物の名前をこれだけ一般国民が知っている国は、世界中で他にないと私は思う。

「闕〔(か)〕く」欠く。

「鹹水〔(かんすい)〕」塩からい水。塩水。海水。

「別録」「本草綱目」は主記載に混淆させて、別して各種本草書の引用を併禄するが、そこでは時珍が正しいとして記した主記載と違った内容が書かれていることがしばしばある。但し、寧ろ、これは今見ると、どちらが正しいを弁別するよき資料ともなっており、時珍がそれらを併置したのは、そうした後代の再考を配慮したものであったとも言えるのであり、益軒の謂う、「精審」「揀擇」をするための格好の最早、手に入れ難い(時珍の引用した作品の中には既に散逸したものが多く含まれているからである)蒐集資料であるとも言えるのである。

「鯉」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科コイコイ Cyprinus carpio

「鯽〔(ふな)〕」 コイ亜科フナ属 Carassius のフナ類。

「鱒〔ます〕」条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科 Salmonidae に属する魚類の内で和名・和名異名に「マス」が附く多くの魚、或いは、本邦で一般に「サケ」(サケ/鮭/シロザケ:サケ科サケ属サケ Oncorhynchus keta)・ベニザケ(サケ亜科タイヘイヨウサケ属ベニザケ[本邦ではベニザケの陸封型の「ヒメマス」が択捉島・阿寒湖及びチミケップ湖《網走管内網走郡津別町字沼沢》)に自然分布する]Oncorhynchus nerka)・マスノスケ(=キング・サーモン:サケ亜科タイヘイヨウサケ属マスノスケ Oncorhynchus tschawytscha)など)と呼ばれる魚以外のサケ科の魚但し、この場合、前者の定義とは「ヒメマス」「マスノスケ」などは矛盾することになるを纏めた総称。「マス」・「トラウト」ともにサケ類の陸封型の魚類及び降海する前の型の魚を指すことが多く、主にイワナ(サケ科イワナ属 Salvelinus)・ヤマメ(サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou)・アマゴ(タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae)・ニジマス(タイヘイヨウサケ属ニジマス Oncorhynchus mykiss)などが「マス」類と呼ばれる。

「鱸〔(すずき)〕」条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。河川の中・上流域にまで元気に遡上するが、後で益軒は美味い海水魚にも再掲している。

「鰻鱺〔(まんれい/うなぎ)〕」条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギ Anguilla japonica

「シクチ」刺鰭上目ボラ目ボラ科メナダ(目奈陀)属メナダ Chelon haematocheilus の異名。後に出る「鯔魚〔(ぼら)〕」(ボラ属ボラ Mugil cephalus)と似ているが、眼が頭の先の方へ寄っており、脂瞼(しけん:眼球の上面にあるコンタクト・レンズ状の透明な膜)が発達しない。口唇及び眼が赤みを帯びるので、恐らくは「朱口」から「シュクチ」・「シクチ」・「スクチ」・「ヒクチ」(「緋口」か)・「アカメ」・「メアカ」などの異名を持つ。種小名 haematocheilus も「血の色の唇」の意である。

「比目魚〔(ひもくぎよ/ひらめ)〕」条鰭綱カレイ目 Pleuronectiformes に属する、カレイ科 Pleuronectidaeのカレイ類や、カレイ亜目ヒラメ科ヒラメ属ヒラメ Paralichthys 類等の、薄い扁平な体と左右孰れか一方に偏った両眼を特徴とする魚類の総通称。

「キスゴ」「鱚子」で、スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス類の中でも、特にキス属シロギスSillago japonica を指すことが多い。

「魴魚〔(はうぎよ/はうぼう)〕」魴鮄(ほうぼう)。棘鰭上目カサゴ目コチ亜目ホウボウ科ホウボウ属ホウボウ Chelidonichthys spinosus

「華臍魚〔(くわせいぎよ/あんこう)〕」アンコウ目アンコウ科キアンコウ属(ホンアンコウ)Lophius litulon やアンコウ属アンコウ(クツアンコウ)Lophiomus setigerus を指す。漢語であるが、語源はよく判らぬ。或いは、誘引突起である擬餌状体や、体壁のカモフラジュ用の裳裾様の部分を指しているか。]

2018/08/14

和漢三才圖會第四十二 原禽類 錦雞(きんけい)

 

Kinkei

 

きんけい  鷩雉 金鷄

      山雞 采雞

 鵕䴊

錦雞

 

本綱【錦雞鷩雉】二物同類而稍有分別俗呼爲一矣

鷩雉狀如小雞其冠亦小背有黃赤文綠項紅腹紅嘴利

距而鬪以家雞鬪之卽可獲養之禳火災

錦雞狀小於鷩而背文揚赤膺前五色炫燿如孔雀羽其

文尤燦爛如錦故名【又名文】或云錦雞鷩雉之雄也亦通

[やぶちゃん注:」は取り敢えず東洋文庫版訳の漢字を当てたが、原典では明らかに違う。潰れてよく判らない箇所があるが、「鳥」の上に「車」+「余」(の字のように見える)か。なお、「本草綱目」の「鷩雉」(「錦雞」を別名で挙げる)には、この「又名文」という記載はなく、その後(次の次)にある「白鷴」という別項の鳥の記載の中で、『當作白如錦鷄謂之文也』とは出るから、東洋文庫がこの字を選んだ意図はよく判りはする

是一類不甚相遠也愛其羽毛照水卽舞目眩多死照鏡

亦然鸐雞愛尾餓死皆以文累其身者也

△按錦雞自異國來畜于樊中狀似雉而五色項白有黑

 細文冠亦白頰黃胸腹紅背緑翅黑腰帶細白毛尾長

 三尺黃黑紫斑下尾稍短純朱色觜淡紅脛灰黑利距

 善鬪價貴故畜之者少矣而未見鷩雉

柹雉 狀類錦雞而頭背尾紅如紅柹色帶黃有光彩是

 亦自中華來俗呼曰柹雉蓋此鷩雉乎

 

 

きんけい  鷩雉〔(へつち)〕 金鷄

      山雞 采雞

 鵕䴊〔(しゆんぎ)〕

錦雞

 

「本綱」、【錦雞・鷩雉】〔の〕二物、同類にして、稍〔(やや)〕分別有り〔といへども〕、俗、呼んで一〔(いつ)〕と爲す。

鷩雉は、狀、小雞〔(しやうけい)〕のごとく、其の冠〔(さか)〕も亦、小さく、背に、黃赤の文、有り。綠りの項〔(うなじ)〕、紅の腹、紅の嘴、利き距(けづめ)にして、鬪ふ。家雞(にはとり)を以つて之れに鬪はせて、卽ち、獲るべし。之れを養へば、火災を禳(はら)う[やぶちゃん注:ママ。]。

錦雞は、狀〔(かた)〕ち、鷩〔(へつ)〕より小にして、背の文、揚赤〔(ようせき)〕、膺(むね)の前、五色〔に〕炫-燿〔(ひかりかがや)き〕、孔雀の羽のごとし。其の文、尤も燦爛〔(さんらん)〕して錦のごとし。故に名づく【又、「文〔(ぶんかん)〕」と名づく。】。或いは云はく、『錦雞は乃〔(すなは)〕ち鷩雉の雄なり』〔と〕。亦、通〔(とほ)〕して、是れ、一類にして甚だ相ひ遠からざるなり。其の羽毛を愛し、水に照らして、卽ち、舞ふ。目-眩〔(めくるめ)〕きては、多く、死す。鏡を照しても、亦、然り。鸐雞の尾を愛して、餓死するも、皆、文〔(もん)〕を以つて其の身を累(わづら)はす者なり。

[やぶちゃん注:」は取り敢えず東洋文庫版訳の漢字を当てたが、原典では明らかに違う。潰れてよく判らない箇所があるが、「鳥」の上に「車」+「余」(の字のように見える)か。なお、「本草綱目」の「鷩雉」(「錦雞」を別名で挙げる)には、この「又名文」という記載はなく、その後(次の次)にある「白鷴」という別項の鳥の記載の中で、『當作白如錦鷄謂之文也』とは出るから、東洋文庫がこの字を選んだ意図はよく判りはする

△按ずるに、錦雞、異國より來りて樊(かご)の中に畜(か)ふ。狀、雉に似て、五色、項(うなじ)、白くして、黑く細〔(こま)〕かなる文、有り。冠〔(さか)〕も亦、白く、頰、黃。胸・腹、紅にて、背、緑。翅(〔つば〕さ)黑く、腰に細き白毛を帶す。尾、長きこと、三尺。黃・黑・紫の斑(まだら)。下の尾、稍や短く、純朱色。觜、淡紅。脛、灰黑。利き距(けづめ)、善く鬪ふ。價〔(あたひ)〕、貴し。故に之れを畜ふ者、少しなり。未だ鷩雉を見ず。

柹雉(かききじ) 狀、錦雞の類にして、頭・背・尾、紅にして紅柹色〔(べにがきいろ)〕のごとし。黃を帶びて、光彩、有り。是れ亦、中華より來りる。俗に呼んで「柹雉」と曰ふ。蓋し、此れ、「鷩雉」か。

[やぶちゃん注:キジ目キジ科 Chrysolophus 属キンケイ Chrysolophus pictus属名クリソロフスはギリシャ語で「金の羽冠」の意。私にとっては小学校時代の鳥小屋の定番記憶であった。ウィキの「キンケイ」によれば、『主に中国南西部からチベット、ミャンマー北部にかけて分布。標高』九百~千百メートルの『山地に棲息し、住環境としてササやシャクナゲの密生した藪のような場所を好む』。『全長はオスで』九十センチメートル前後、メスは五十~六十センチメートルほどで、『オスは赤と金属光沢のある黄色を基調とした派手な色彩をしている。網目模様が入った褐色の尾羽、毛髪状の金色の冠羽、襟首の日本兜のしころ状を呈する明るい黄色と黒の飾り羽が特徴。全身が明るい黄色を呈する飼養品種があり、俗に「黄金キンケイ」と呼ばれる。メスは他種のキジ類同様褐色に黒っぽい斑模様で比較的地味である』。『用心深く身を隠すのが巧いため、派手な色彩とは裏腹に、棲息地でも野外で見かけることは困難である。そのため、野生下での繁殖行動や食性については不明な点があるが、飼育が容易で』、『動物園や個人で飼育される機会が多く、ある程度のデータは判明している。発情期になると』、『オスは金属的な声をあげて他のオスを牽制し、同時にメスを呼ぶ。また、メスの前に立ったオスは尾羽を広げる、襟の飾り羽を広げるなどの求愛行動を示してメスの気を惹く。前述の通り飼育が容易であるため』、一七四〇年頃(本邦では元文五年相当)から『海外に愛玩目的で輸出されていた。原産地では古くから知られ、装飾品や絵画の題材にされていたが、西欧の学者間では』、『あまりにも豪奢な体色から実在が信じられず、長らく想像上の鳥と思われていた。なお、『山海経』の記述によると古代の中国では、この鳥類の羽毛を火伏せの護符として用いていたらしい』とある。しかし、このウィキの謂いはどうか? 本「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年の自序で、ウィキの言う元文五年よりも二十八年も前である。さすれば、実はキンケイは実際には一七一〇年前後には日本に移入されていたのではあるまいか?

「鷩雉〔(へつち)〕」「錦雞」は既に前項の「山雞(やまどり)」でも挙げられており、どうも「本草綱目」を書いている李時珍自身も明確に使い分けが出来ていない感じが濃厚に漂ってくる。当然、良安自身の記述や表記もそうした錯雑に呑まれがちになっているのであるが、「本草綱目」に載るある種の鳥が、本邦には棲息しない中国産のものであるということをちゃんと主張している点で(本件では正鵠を射ている)、私は彼を相応に評価したい。無批判にして安易に、大陸にしかいない種を、本邦産の別種や固有種に平気で同定している本草学の大家は、後々まで、ゴマンといるからである。

『「本綱」、【錦雞・鷩雉】〔の〕二物、同類にして、稍〔(やや)〕分別有り〔といへども〕、俗、呼んで一〔(いつ)〕と爲す』やはりここでも、同類ではあるが、種としては違う近縁種という時珍のニュアンスを私は強く受ける。

「小雞〔(しやうけい)〕」当初、「にはとり」と訓じようと思ったが、同一の文章内で「家雞(にはとり)」と訓じているからには、少なくとも良安は別なものとして扱っていると考え、前者を敢えて音読みとした。まあ、ヤケイ(野鶏)とそれが家畜化されたニワトリであるから、別に区別しなくてもいいようにも実は思うのだが。

「之れを養へば、火災を禳(はら)う」前のウィキの引用の最後を参照されたい。

「揚赤〔(ようせき)〕」赤い色が浮き揚がるようにくっきりとしていることを指す。

「膺(むね)」「胸」に同じい。

「文〔(ぶんかん)〕」もし、この「」は音は「翰」(カン)で、肥えた雉の謂いらしい。鮮やかでくっきりとした紋を持っているから、目立って肥えて見えるというのではなろうかなどと勝手に想像したりした。だったら、読みは「もんかん」の方がいい気がする。

「通〔(とほ)〕して」一般的総合的に比較観察するならば。

「一類にして甚だ相ひ遠からざるなり」この「甚だ~ざる」は明らかに「殆んど~ない」であるから、この見解を示す連中は、同種或いは亜種或いは個体変異に過ぎない(近縁種より近い意味)と考えていることが判る。

「其の羽毛を愛し、水に照らして、卽ち、舞ふ。目-眩〔(めくるめ)〕きては、多く、死す。鏡を照しても、亦、然し」錦雞(キンケイ)は、その自分の鮮やかにして煌びやかな異羽毛を自愛し、ナルキッソスの如く、その己が姿を水に映しては、無闇矢鱈に舞い踊り続け、遂には眩暈を引き起こして昏倒し、頓死してしまう。人がキンケイの前に鏡を持ち出して、彼らに彼らの姿を映し見せても、全く同じ現象が起こる、というのである。

「鸐雞の尾を愛して、餓死する」「山雞」を参照。

「文〔(もん)〕を以つて其の身を累(わづら)はす者なり」その美しい豪奢な紋様によって、あたら、身を煩わし、遂には亡ぼされるのである、とは、如何にも中国文学の載道派的牽強付会のトンデモ解釈で甚だ面白い。

「柹雉(かききじ)」不詳。キンケイの色彩変異個体ではなかろうか。]

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(50) 武權の勃興(Ⅱ)

 

 併しながら、日本に於ける攝政の歷史は、世襲的權威は常にまた何處に於ても、その權威の代理者に依つて取つて代はられるものであるといふ、普通の法則を充分に説明して居る。藤原氏も終には、政略上から取り入れ且つ行はして居た奢侈の犠牲となつたと考へられる。藤原氏は單なる宮廷の貴族に堕し、軍事方面の事は全然これを武家に委任して、内政の方面以外には、何等直接の權威を行使する努力をしなかつた。第八世紀に及んで支那の方式に從つて、文武の組織が區別され、ここに大なる武人階級が現出して、急速に其の權力を擴大するに至つた。正統の武家氏族の中で、最も有力なるものは、源氏と平氏とであつた。藤原氏は、戰爭に關する一切の重要事項の處狸を、これ等二氏に代理せしめ、其の結果、やがて其の高い地位と勢力とを失ふに至つた。武家が大になつて政府の權能を制肘し得るやうになるや――これは第十一世紀の中葉のことであるが――藤原氏の一族は、多くの攝政の下に數世紀の間、要職を独擅にしてはゐたが、其の主權は既に過去のものとなつてしまつた。

 併し武家も、その仲間同志で激しい爭鬪をした上でなければ、自分等の野心を實現することはできなかつた、――これが日本歷史中の、最も長く又最も激しかつた戰役である。源氏も平氏も何れも皆公卿であつて、皇室の末裔であつた。兩家の爭鬪の初期に於ては、平氏がすべて優勢であつた。如何なる權力と雖も、平氏が敵なる氏族を撲滅するのを妨げることはできないと考へられた。併し運命は遂に源氏の方に向つて來て一一八五年壇の浦に於ける有名な海戰で平氏は滅亡してしまつた。

 その時から源氏の攝政むしろ將軍の治世が始まつた。『將軍』と云ふ稱號は、ロオマの兵語イムペラトルの如く、もとは單に總司令官の意味であつたと、私は別の處で述べたことがあつた然るに今やそれは、文武兩樣の主權者――國王の中の國王――たる二重の資格に於て、事實上最高の統治者の稱號となつたのである。源氏が權力を獲得した時から、將軍政治の歷史は――武權優越の長い歷史――は實際に始まつた、爾來下つて明治の現代に至る迄、日本は實際に二人の皇帝を戴いてゐた。卽ち一方に天皇或は神の化身は、種族の宗教を代表し、今一つの眞の大元帥は、行政上の諸權を行使してゐた。併し誰れも力に依つて、少くともあらゆる權威の源である日嗣ぎの御位を侵さんと冀ふ[やぶちゃん注:「こひねがふ」。]者はなかつた。攝政則ち將軍もその御位の前には頭を下げた。神性は纂奪さる可くもなかつたのである。

[やぶちゃん注:「イムペラトル」原文“Imperator”。ラテン語。古代ローマ、特に共和政ローマに於けるローマ軍の最高司令官・将軍の称号。後に皇帝若しくは帝権保持者の称号となり、ローマ帝国に於ける皇帝或いは帝権の一部を成した。共和政期には対外戦争で成功を収めた軍事指導者の称号としても使用された。字義的には「インペリウム(Imperium:古代ローマに於いてローマ法によって承認された全面的命令権を指す)を保持する者」という意味で、平時に於ける「最高命令権者」或いは戦時に於ける「最高司令官」のことを指す。初代皇帝アウグストゥス以降、皇帝(正確には元首であるプリンケプス princeps)の個人名に使われるようになった。このことから「アウグストゥス」「カエサル」などとともに最高権力者の肩書きとして認識されるようになった(以上はウィキの「インペラトル及びそのリンク先の記載に拠った)。]

 併し壇の浦の戰の後にも、平和はつづいて來なかつた。源平兩家の大爭鬪に依つて始まつた氏族の戰ひは、さらに五世紀間も、不規則な間隔を置いては、續いて行はれ、國家は四分五裂の有樣になつた。のみならず源氏も高價な犧牲を拂つて獲得した最高權を、永く獨占し得なかつた。北條氏の一族にその政權を代理せしめたので、彼等は、丁度藤原氏が平氏に其の位置を奪はれた如く、北條氏のために取つて代はられてしまつた。源氏の將軍にして實際上の政權を執つたものは、僅に三人のみであつた[やぶちゃん注:執権支配の様態から事実上は源頼朝一人と言うべきである。]。第十三世紀を通じて、否[やぶちゃん注:「いな」。]其の後も尚ほ少時は、北條氏が此の國を治めた。而して注意すべき事は、これ等の攝政は、決して將軍の名稱を名のらず、單に將軍の代理職なりと稱してゐた事である[やぶちゃん注:「執権」は将軍の命令によって政務実務を代理執行する者の意である。]。かくして源氏が鎌倉に一種の宮廷をもつて居たのであるから、一見三頭政治があつたわけである。併しそれ等は單に影の中に消えてしまひ、『影法師將軍』或は『傀儡將軍』と云ふ意味深い稱呼で記憶されてゐる。併しながら、北條氏の行政は、異常な才幹と絶倫なる精力の人々に依つて行はれたので、決して影の如き空虛なものではなかつた。天皇にせよ、將軍にせよ、彼等のために用捨なく、讓位追放に處せられた。將軍職の無力であつた事は、七代目の北條執權職が、七代目の將軍の職を免ずる時、將軍を其の家に送りとどけるに當つて、轎[やぶちゃん注:「こし」と訓じていよう。平井呈一氏もこの漢字を用いた上で、『こし』とルビしている。原文は“palanquin”で、これは中国・インド・日本などの昔の輿・駕籠を意味する英語である。]の中に倒さに吊るして運んだと云ふ事實から推斷し得られよう。にも拘らず、北條氏は、幽靈の將軍を一三三三年まで、そのままにつづけさせた。其の手段に不謹愼な點があるにせよ、これ等の執權が有能の統治者であつたことは。一二八一年のキユブライ汗の有名なる侵略――の如き大事變に際して、救國の任に堪ふるの實力を示した事に依つて知られる。國家の大社に捧げられた祈願に答へて、敵艦隊を打ち沈めたと傅へられる幸運な大風(神風)に助けられて、北條氏は此の侵入者を驅逐することができた。併し北條氏も、内亂を鎭定するには成功しなかつた――特に騷がしい佛教の僧侶に依つて起された亂には不成功であつた。第十三世紀に、佛教は發達して一大武力となつた、――不思議にもヨオロツパ中世紀の戰鬪教會(チヤアチ・ミリタント)に似て居る、僧兵、戰鬪僧正の時代とでも云ふのである。佛教の僧院は、武裝した人々で一杯になつて居た城塞と化した。佛教の脅威は一度ならず、宮廷の聖い離隔した處まで恐怖をもち込んだ。源氏一統の先見の明をもつて居た創設者なる賴朝は、當初佛教に軍事的傾向のあるのを看取し、すべての僧侶が武器を携へ、若しくは武裝した家人を養ふことを嚴禁して、かくの如き軍事的傾向を阻止しようと企てた。然るに彼の後繼者達は何れも、かくの加き禁令を勵行することを怠つたので、其の結果佛教の武力的勢力は、非常に急速に發達し、爲めに機敏なる北條氏と雖も、これに對抗し得るや否や頗るその實力に就いて疑ひを抱いたのであつた。結局此の勢力は、北條氏に非常な煩ひを與へることになつた。第九十六代のみかど後醍醐天皇は、北條氏の專橫に反抗するの勇氣を振ひ起こし、又佛教の僧兵は天皇に味方をした。天皇は脆くも敗れ、隱岐の島に逐はれ給うた。併し天皇の大義は、やがて永年執權の專制に憤激して居た有力なる領主達に依つて擁護せられた。これ等の領主達は勢力を集め、逐はれた天皇を取りかへして舊に復し、力を協はせて執權の首府たる鎌倉に、必死の攻擊を試みた。鎌倉は襲擊され燒燼された。そして北條氏の最後の統治者は、勇敢に防戰したが遂に及ばず、腹搔き切つて果てた。かくの如くして、將軍政治と執權職とは共に一三三三年に滅亡した。

[やぶちゃん注:「七代目の北條執權職が、七代目の將軍の職を免ずる時、將軍を其の家に送りとどけるに當つて、轎の中に倒さに吊るして運んだと云ふ事實から推斷し得られよう」第七代執権は北条時宗であるが、第七代将軍は惟康親王で、彼が将軍職に就いたのは永三(一二六六)年七月であって、以下の惟康親王の将軍解任と京への強制送還の一件は正応二(一二八九)年九月、則ち、時宗の死(弘安七(一二八四)年四月)後五年後のことであるから、執権は第八代北条貞時で、小泉八雲の誤認である。また、「倒さに吊るして」の訳は戸川の悪訳であって、輿を御所に反対向きに寄せて乗せさせられたのである。これは罪人を護送する際のやり方であり、その輿も何と、筵で包んだ粗末な網代の御輿であったことが、後深草院二条の「とはずがたり」の記されてある。

「一二八一年のキユブライ汗の有名なる侵略」「キユブライ汗」は原文“Kublai Khan”で、言わずもがな、元王朝初代皇帝にしてモンゴル帝国第五代皇帝(大ハーン)であったクビライ・カアン(一二一五年~一二九四年)のこと。「一二八一年」は弘安四年で、二度目の元寇襲来である「弘安の役」の開始年。

「第十三世紀に、佛教は發達して一大武力となつた」中世を通じて強大な武装集団を有し、しばしば強訴に及んだ、延暦寺と興福寺を主とした所謂、「南都北嶺」を指すものであろう。ウィキの「寺社勢力によれば、『大寺社内は「無縁所」とよばれる地域であり、生活に困窮した庶民が多く移民し、寺社領地内に吸収された。また、幕府が罪人を捜査する「検断権」も大寺社内には及ばず、そのため源義経や後醍醐天皇など、戦乱に追われた人々の多くが寺社にかくまわれた』とある。

「戰鬪教會(チヤアチ・ミリタント)」「チヤアチ・ミリタント」は前の四字へのルビ。“church-militant”。「闘う教会」。元は現実の教会が正しいキリスト教を敢然と主張し広めることの比喩であるが、ここは実際に教会に所属した兵組織のこと。平井呈一氏は『教会兵』と訳されておられる。後に十字軍に発展するものであろうか。]

諸國里人談 目次(全) / 諸國里人談~電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:最後に、各巻頭に存在する目次をここに纏めて出すここでは、刊行時のそれを伝えるため、早稲田大学古典総合データベースの最も古い①を用いた(但し、実は③も大差なく、巻之二の甚大な錯雑さえも無批判にそのまま写しとっている)。表記は①のママで、本文同様、迷ったものは正字で表記した。原典では概ね二段組表記(目次を二頁に納めるためで、項目数の多い第四巻では終りが三段組となっている)であるが、ブログ・ブラウザでの不具合を考え、一段で示した。字配も一致させてはいない。また、国名等を除いてルビが附されているが、五月蠅くなり、見た目の整列も悪くなるので、総て略した。読みは概ね、本文標題或いは本文内に附してある。

 

諸國里人談巻之一

   ㊀神祀部

○和布刈    豊前

○諏訪祭    信濃

○芝條     出羽

○吉備津釜   備中

○鹿伏神軍   佐渡

○飽海神軍   出羽

○龍王祭    淡路

○直會祭    尾張

○人魚     若狹

○龍虵     出雲

○梅園社    肥前

○犬頭社    三河

○熱田的射   尾張

○常陸帯    常陸

○筑摩祭    近江

   ㊁釋教部

○佛舎利    大和

○大佛     奈良 京都

○大觀音    泊瀨 鎌倉 江戸

○嵯峨釈迦   山城

○善光寺如來  信濃

○石羅漢    豊後 大和

○鬼押     伊勢

○金印     相摸

○高野山禁ㇾ笛 紀伊

○雷鳥     加賀

○三猿堂    近江

 

諸國里人談巻之二

   ㊂奇石部

○息栖甁    常陸

○要石     常陸

○※石     安藝

[やぶちゃん注:「※」=「石」+(つくり:「而」(上)+「大」(下)。「※石」で「さゝれいし」とルビする。「さざれいし」。]

○根矢鉾立   越後

[やぶちゃん注:以下、「○鸚鵡石」までは(ここここ)激しい錯雑が起こっており(①・②・③総て同じ)、前後するどころの騒ぎではないので、本文に合わせて特異的に順列を組み替えた(なお、吉川弘文館随筆大成版は正しく直されてある)。各条自体は①の表記に拠っている。]

○姨石     信濃

○文字摺石   陸奧

○名號石    相摸

○蛙石     摂津

○釣鐘石    摂津

○京女郞    讃岐

○巫石     下野

○殺生石    下野

○石燈籠    相摸

[やぶちゃん注:以上の「○石燈籠」は①・②・③総てで脱落しているので、補った。「相摸」の字は前後及び本文の表記に拠った。]

○石宝殿    播广

[やぶちゃん注:「广」は「磨」の略表記。]

○鬼橋     備後

○鵜飼石    甲斐

○龍淵     和泉

○栢葉石    陸奧

○隠水石    紀伊

○木葉石    出雲

○姥石     越中

○水口石    近江

○月糞     美濃

○星糞     信濃

○神石窟    出羽

○鸚鵡石    伊勢

○御福石    上野

   ㊃妖異部

○成ㇾ大會   山城

[やぶちゃん注:返り点は現在のように厳密に規則既定されたものとはされておらず、判り切っている場合、二字以上を纏めて戻る場合でも、しばしばㇾ点が用いられた。ここもそのケースで「大會(たいゑ)と成(な)る」(ルビはママ)と読む。]

○森囃     相摸

○髮切     伊勢

○雇天狗   江戸

○河童歌    肥前

○鬼女     三河

○皿屋敷    江戸 出雲 ハリマ

[やぶちゃん注:「ハリマ」のカタカナはママ。]

○窟女     伊勢

○天狗遊石   伊賀

○木葉天狗   遠江

○片輪車    近江

 

諸國里人談巻之三

  ㊄山野部

○富士     駿河

○淺間     信濃

○阿蘓     肥後

○妙義     上野

○燒山     陸奧

○立山     越中

○雲仙     肥前

○彦山     豊前

○白峰     讃岐

○洞穴     若狹

○風穴     和泉

[やぶちゃん注:上記は、「かさあな」のルビ。]

○風穴     甲斐

[やぶちゃん注:上記は、「ふうけつ」のルビ。]

○土團子    甲斐

○土饅頭    周防

○室八島    上野

[やぶちゃん注:「室八島」の「上野」は「下野」の誤り。]

○迯水     武藏

○野守鏡    大和

○阿漕塚    伊勢

○短尺塚    陸奧

○黒塚     武藏

   ㊅光火部

○火辨

○不知火    豊後

○橋立龍燈   丹後

○焚火     隱岐

○分部火    伊勢

○二恨坊火   摂津

○虎宮火    摂津

○嗟跎龍燈   土佐

○野上龍燈   周防

○光明寺龍燈  相摸

○狸火     摂津

○姥火     河内

○秋葉神火   遠江

○千万火    伊勢

○狐火玉    京

○油盗火    近江

○入方火    越後

○火浣布 寒火 异国

[やぶちゃん注:「异」は「異」の異体字。]

 

諸國里人談巻之四

   ㊆水邊部

○水辨

○若狹井    奈良

○塩井     陸奧

○塩泉     下野

○油池     出羽

[やぶちゃん注:「油池」の「出羽」は「越後」の誤り。]

○油泉     美濃

○掘兼井    武藏

○入梅井    摂津

○念佛池    美濃

○浮島     出羽

○嶋     西國

[やぶちゃん注:原典では「」(「遊」の異体字)は(てへん)を(しんにょう)の左に出した字体。]

○津志滝    安藝

○裏見瀧    下野

○鼓滝     摂津

○有馬毒水   摂津

○高野毒水   紀伊

○桜池     遠江

○龍池     相摸

○竜穴     信濃

  ㊇生植部

○曽根松    播磨

○不断桜    伊勢

○十六桜    伊与

[やぶちゃん注:「伊与」はママ。「伊予」の誤刻であろう。]

○八重桜    大和

○唐崎松    近江

○銭掛松    伊勢

○枝分桃    安藝

○無澁榧    甲斐

○青葉楓    相摸

○印杉     大和

○観音寺笹   三河

○大竹     駿河

○臥竜梅    武藏

○八幡木    土佐

○西行桜    山城

○遊行柳    上野

[やぶちゃん注:「遊行柳」の「上野」は「下野」の誤り。]

○小町芍藥   出羽

○一夜杉    出羽

○伐ㇾ桜    京

○大樹     筑紫 近江

○物見松    美濃

大番焦    堺

[やぶちゃん注:「大番焦」は「おほそてつ」とルビ。本文の表記標題は「妙國寺蘇鉄」。]

○八橋杜若   三河

○宮城野萩   陸奧

 

諸國里人談巻之五

   ㊈氣形部

○犬生ㇾ人   和泉

○源五郞狐   大和

○伯藏主    江戸

○横山狐    伯耆

○宗語狐    京

○稲荷仕者   京

○鯉社仕者   丹波

○黒島鼠    讃岐

○大鼠     信濃

○武文蟹    摂津

○大蟹     摂津

[やぶちゃん注:「大蟹」の「摂津」は「三河」の誤り。]

○大烏賊    相摸

○松喰虫    武藏

○石蛤     土佐

○眇魚     出羽

○片目魚    摂津

○玉島川鮎   肥前

○宮川年魚   伊勢

  ㊉器用部

○大峰鐘    大和

○三井鐘    近江

○須磨寺鐘   摂津

○無間鐘    遠江

○東大寺鐘   大和

○方廣寺鐘   京

○建長寺鑑   相摸

○長樂寺鈴   上野

○鴨毛の屏風  大和

○奇南     异国

○蘭奢待    大和

○永樂銭起   相摸

 

[やぶちゃん注:以上を以って菊岡沾涼「諸國里人談」のオリジナル電子化注を完遂した。]

諸國里人談 序(菊岡沾涼) / 表紙

 

[やぶちゃん注:以下には本書冒頭にある著者菊岡沾涼の序文を示す。底本としては②を用いた。この序文、一部で読みを含んだ訓点を有する間の抜けた字配の、諧謔的モドキ日本漢文なので、

①白文

②訓点附(句点は存在しないが、ないとどうにも読み進めることが困難である。されば、句点のみ、吉川弘文館随筆大成版に打たれたそれを採用させて貰った。全体に変則的表記となり、やや読み難いが、これが原典に最も近い形となる)

③訓点に従いつつ、さらに推定で書き下し、読み易く表記を書き換え、読みや句読点・送り仮名も推定で大幅に勝手に添えたもの

を順に示すこととした。]

 

①[やぶちゃん注:冒頭の枠囲いの篆書の標題は私には全く判読出来なかったので、教え子の書道家に判読を依頼している。分かり次第、追記する。【2018年8月15日追記:依頼していた教え子が家族総出で判読して呉れ、取り敢えず最後の一字は「処」と確定した旨、連絡があった。感謝!】

**処

昨日旅今日羈明日者末太越邊畿山之岑奈連哉空行月須惠能白雲矣唫而于着爲撥巡於国々新剃桑門負笈飛錫行程駕丁少六馬士与作于話知新徃山柴刈尉來川洗濯于温故呉竹之爲不思義事而也飛鳥川爲變行狀而也毎々禿石筆先有其蒼坊主草稿矣書賈二酉堂設之而與題之云不直採有儘與里人談爾云

         東都俳林菊米山翁沾涼述

             落款  落款

[やぶちゃん注:「※」=「女」+「遇」。なお、最後の落款は前者が「房行之印」か(房行は沾涼の本名)、後者は「菊米山」。以下、落款は省略する。]

 

②[やぶちゃん注:原典のルビと思われる部分(漢字の読み)は丸括弧同ポイントで附した。

**処

昨日(キノフ)旅。今日(ケフ)羈(タビ)。明日(アケ)者末太越邊畿山之岑奈連哉空月須惠能白雲矣而。于着(ユキツ)爲撥(バツタリ)於国々。新剃桑門(シムテイホウス)負ㇾ笈ㇾ錫行(ミチ)程(クダ)。駕丁(カゴカキ)少六。馬士(ムマカタ)与作于話(モノガタリ)ㇾ新。徃柴刈ニ一尉(ヂヽイ)。來タル洗濯。于※ㇾ故[やぶちゃん注:「※」=「女」+「遇」。]。呉竹之爲(ナ)不思義事而也。 飛鳥川爲(タ)ㇾ變(カハ)行狀(アリサマ)而也。毎(コト)々禿(チビ)ル二石筆蒼(アヲ)坊主草稿(シタガキ)矣。書賈二酉堂設ㇾ之而與題セヨトㇾ之云。不ㇾ直ㇾ採與里人談(モノガタリ)爾云。

         東都俳林菊米山翁沾涼述

 

③[やぶちゃん注:〔 〕は私が推定で歴史的仮名遣で添えた読み。]

**処

昨日(きのふ)も旅、今日(けふ)も羈(たび)、明日(あけ)はまだ、越ゆべき山の岑〔みね〕なれや、空(そら)行く月、すゑの白雲、と唫(ぎん)じて、于-着(ゆきつ)き爲-撥(ばつたり)に国々を巡る、新剃桑門(しむていほうす)、笈を負ひ、錫〔しやく〕を飛ばし、行(みち)程(くだ)り、駕丁(かごかき)の少六〔しやうろく〕、馬士(むまかた)の与作〔よさく〕が話(ものがたり)に、新〔あたらし〕きを知り、山へ柴刈〔しばかり〕に徃く尉(ぢぢい)、川へ洗濯に來たる※〔ばばあ〕に、故〔ふる〕きを温〔たづ〕ね、呉(く)れ竹の不思義爲(な)る事、而〔しか〕るや、飛鳥川の變(かは)つ爲(た)る行狀(ありさま)、而るや、毎々(ことごと)、石筆〔せきひつ〕の先を禿(ちび)る、其の蒼坊主(あを〔ばうず〕)の草稿(したがき)有り、書賈二酉堂〔しよこにゆうだう〕、「之れを設けて與〔とも〕に之れに題せよ」と云ふ。採(とり)も直さず、有(あり)の儘に、與〔とも〕に「里人の談(ものがたり)」と爾云〔しかいふ〕。

 東都俳林菊米山(きくべいさん)翁沾涼 述

[やぶちゃん注:「※」=「女」+「遇」。

「唫(ぎん)」「吟」に同じい。

「于-着(ゆきつ)き爲-撥(ばつたり)」現在の「行き当たりばったり」。

「新剃桑門(しむていほうす)」出家して頭を剃ったばかりの修行僧。但し、沾涼が実際に出家した感じは資料から見出せない。

「少六」「馬士(むまかた)の与作」と同様、駕籠舁きに有り勝ちな通称だったのであろう。

「呉(く)れ竹」一般名詞としては、中国の呉から渡来したものとされる、葉が細かくて、節(ふし)の多い淡竹(はちく)の異名であるが、ここは清涼殿の東庭の北に格子の籬垣の台の中に特に配されて植えられてあった特別な「呉竹」(それが不思議)のことであろう(南側の御溝水(みかわみず)の傍には「河竹(かわたけ)」が配されてあった)。

「飛鳥川」奈良県中部を流れる川で、高取山に源を発し、畝傍山と天香具山の間を流れ、大和川に注ぐが、古えは流れの変化が激しかった。そこから「定めなき世」の譬えとされ、ここも沾涼はそれに掛けて言っている。また、同音の「明日」の掛け詞や枕詞としても用いられる。

「石筆〔せきひつ〕」黒色又は赤色の粘土を乾かして固め、筆の穂の形に作ったもの。管に挟んで、書画をかくのに用いた。

「酉堂書賈」本「諸國里人談」初版を刊行した書肆(しょし)池田二酉堂のこと。①の見開き表紙(右)に、

   *

   延申郎沾涼著

 諸國里人談

   池田二酉堂藏版

   *

と大書してある。これも国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像の当該頁を後ろに掲げておく(前にも言ったが、早稲田大学図書館版は使用許諾申請が必要なため)

「之れを設けて與〔とも〕に之れに題せよ」よく意味が判らぬ。「本書の冒頭に、別にパートを設けたから、本文に合わせて巻頭の「序」を書いた上で、ちゃんとした本書の題名を決めて呉れ」ということか。

「爾云〔しかいふ〕」通常は漢文で文章の終わりに用いて「これにほかならない」という意味を表わす常套的終辞助辞である。或いはこれで「のみ」とも読むので、ここも「のみ」かも知れぬ。]

 

Syokokurijindanhtobira

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像をトリミング補正した(シミ汚損が激しいため、ハイライトを強くかけた)。二箇所の朱印は国立国会図書館の蔵書印。「延申郎」(えんしんらう(えんしんろう))は菊岡沾涼の別号と思われるが、確認は出来なかった。「延伸」は距離や時間を伸ばすことであるから、紀行の旅程や脱稿の遅さを掛けたものか。「池田二酉堂」(いけだにゆうだう)は前に出した通り、神田鍛冶町二町目にあった書肆の名。主人は池田屋源助。店名の「二酉」は中国で大酉(だいゆう)・小酉という二つの山の石窟から千巻の古書が出てきたという故事から、「蔵書の多いこと」及び「夥しい書を収めた所」の意である。]

諸國里人談 跋(秋里籬島記(後年))/奥書(寛政十二年再板本版)

[やぶちゃん注:以下、秋里籬島の跋文を、これは「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」内の三種の同書の内、それを最終巻末に載せる版本、寛政一二(一八〇〇)年版(②。こちら)を底本とした。]

 

諸國里人談跋 落 款[やぶちゃん注:篆書の右側の文字列(三字)は全く判らぬが、左側の三字は「隔囂塵」と読め、「囂塵」(ごうじん)は騒がしい俗世のけがれであるから、如何にも禅語っぽい。後注で示す通り、本跋は初版板行から二十七年も後の刊本に添えられたものであり、これについては、後の沾涼の序文のそれが読めないのとは異なり、苦ではないので放置することとする。]

此ふみは、けふよりや書つけ消さん笠の露、と蕉翁の曽良にわかれしとき、旅のあはれをのべられし句也。そがながれを汲〔くみ〕て、東都の菊岡沾涼子、真菅〔ますげ〕のかさに、あかぎの杖をひいて、やま、つたひつたひし、花のあけぼのにうかれありき、雪の夕ぐれに家なきあたりをさまよひ、あるは、梢〔こず〕え[やぶちゃん注:ママ。]ゆらす峯の寺、藻(も)たく海士〔あま〕の家または舩のうちに泊りて、遠近〔をちこち〕、人のかたりあふをかいあつめたる、行脚ものがたり也。千さとも居ながらにして、酈道元〔れきだうげん〕が水經〔すいけい〕を誰〔とひ〕せしともいはん歟〔か〕。これに附して、おのがすむまがきの端は、むかし、河原のひたんのおほいまうちぎみの、古き蹟〔あと〕也。おのれが弊樓〔へいらう〕にのぼれば、淸水〔きよみづ〕の地主〔ぢしゆ〕の樓華〔らうくは〕頂〔いただき〕のさかりは、雲とみえ、雪とちり、夏は石川や蟬の小河の、きよきの樓下にながれきたり。いははしる鮎をすなどりて、日毎の貢〔みつぎ〕となる。あるは鈎〔はり〕をたれ、床〔ゆか〕をしつらひて、河邊にすゞみとる草むらより、露にとめるほたる、水の上を飛かふけしき、秋は名にしほふてる月なみの、むかしも今もかはらぬは、いふも更なり。冬は雪のあした、ひがしのやまのたゝずまひ、橋上の行人(かうじん)、萬(ばんこ)の白妙、つきぬながれの水の音に、千鳥の聲まじりて、寢ざめのまくらに聞ゆるなど、煙霞風流のとこしなへにかはらざるも、都五條あたりの里人談といふは、ほこらしげなれ、と帋〔かみ〕の零〔こぼれ〕あるまゝにしるす。

 寬政十二のとし申の春

        平安 秋 里 籬 島

              落款 落款

[やぶちゃん注:最後の落款は「河原院古趾印」(後注参照)と「籬島」。筆者秋里籬島(あきさとりとう 生没年不詳)は複数回注で記しているが、読本作家で俳人。本書より後の安永九(一七八〇)年刊行の「都名所図会」(竹原春朝斎画)が爆発的にヒットし、専ら「名所図会」シリーズの作者の一人として先駆者として知られる。因みに、最後の注を必ず参照のされたい

「酈道元〔れきだうげん〕が水經〔すいけい〕」酈道元(?~五二七年)は北魏の地理学者で、官は関右大使にまで進んだ。その政治が厳酷で、東荊州刺史となった際には蛮民の恨みを買って免官になったこともある。陝西方面の行政査察に赴いた際、陰謀によって暗殺された。各地を旅行・調査して著わした地理書「水経注」で有名。

「誰〔とひ〕」「訪ふ」。

「河原のひたんのおほいまうちぎみの、古き蹟〔あと〕也」「河原のひたんのおほいまうちぎみ」は、光源氏のモデルの一人とされ、「今昔物語集」などで霊となって出現することで知られる源融(弘仁一三(八二二)年~寛平七(八九五)年)の別名なのであるが、漢字表記は不明。かの「河原院」(平安期から旧主融の霊の出現する心霊スポットとして広く知られ、「源氏物語」の「夕顔」の「なにがしの院」のモデル)の庭の池の中の島があったところを、古く「籬(まがき)の島(=森)」と称したらしく、秋里はその旧地とされる場所に住んだことから、かく号した。現在の京都府京都市下京区都市町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淸水〔きよみづ〕の地主〔ぢしゆ〕の樓華〔らうくは〕」清水寺の本堂の背後の高台に隣接する地主神社。

「帋〔かみ〕の零〔こぼれ〕あるまゝにしるす」「帋」は「紙」の異体字。余白を汚すといった感じの謙遜の辞。

「寬政十二のとし申」寛政十二年は庚申(かのえさる)で一八〇〇年。本書の初版板行は寛保三(一七四三)年で、作者菊岡沾凉は刊行から僅か四年後の延享四(一七四七)年に数え六十七で没している。この跋文はずっと後の版である、私がここで底本とした②に添えられたものであることが判る。

 

 

 

[やぶちゃん注:ここで以下に①・②・③に載らない吉川弘文館版の奥書(「解題」によれば寛政十二年の再板本のもの。書肆が変わっていることが判る)を参考までに電子化しておく。恣意的に正字化した。字配は再現していない。]

 

江戸日本橋通一丁目  須原屋 茂兵衞

   同 二丁目     山城屋 佐兵衞

發行 同 芝神明前南   岡田屋  嘉七

   京御幸町御池    菱屋  孫兵衞

書房 大阪心齋橋南一丁目 敦賀屋 九兵衞

   同 北久寶寺町   敦賀屋  彦七

   同 堺筋金田町   象牙屋次郞兵衞

 

諸國里人談卷之五 永樂錢起 / 諸國里人談(本文)~了

 

    ○永樂錢起(ゑいらくせんのおこり[やぶちゃん注:ママ。])

永樂錢、日本へ渡りしは【永樂は大明成宗帝の年号なり。】、後小松院應永十年八月二日未の剋より、大風吹〔ふき〕て、堂社・民屋、ことごとく倒る。

翌三日巳の剋に凪(なぎ)たり。

其日申の剋に、唐舩(とうせん)一艘、相州三崎濱へ漂ひつく。

其時、鎌倉の將軍足利左兵衞督(さひようへのかみ[やぶちゃん注:ママ。])滿兼卿、下知あつて、伊東次郞右衞門尉貞次・梶原能登守景宗・三浦備前守義高を奉行として詮議ありけるに、惡風によつて着岸しけるよし、舩中の雜物(ぞうもつ)、實檢するに、唐銅(からかね)の永樂錢、數万貫(すまんぐはん)積(つみ)たり。

依ㇾ之(これによつて)、京都前(さきの)將軍義滿入道道有(だうゆう)、新將軍義持公へこれを訴(うつた)ふ。

「唐舩(とうせん)、關東へ着岸する上は、滿兼德分たるべし。」

と下し給りければ、舩中の財宝、殘らず、押(おし)とめ、其價(あたひ)に品々(しな〔じな〕)を給り、舩は歸國してけり。

其後、若干(そこばく)の永樂錢、徒(いたづら)に弊(やぶ)るべからず、法を定め、關東におゐて、これを用ゆ。

遙(はるか)に年を經て、天文の頃、永樂錢に錏(びた)といふ惡錢を取〔とり〕まじへ、同じ直段(ねだん)に用ひしによつて、賣買の輩(ともがら)、市町にて、かの惡錢を論じ撰(ゑら)みて、鬪靜(とうじやう)、やむ事なくて、喧(かまびす)し。

然るに天正のはじめ、北条氏康、關八州をしたがへ、諸士、悉く下知に隨ひければ、氏康の云〔いはく〕、

「それ、鳥目は品々あれども、永樂には、しかず。自今(じこん)、關東にては永樂を用ひ、他(た)の錢を用ひざるべし。一〔ひとつ〕には、錢の善惡(よしあし)、日を同じうして語るべからず。第二は、民の鬪論(とうろん)をとゞむ。三には、賣買の隙(ひま)を弊(やぶら)さじがためなり。」

とて、家臣山角(〔やま〕かど)信濃守定信・笠原越前守守康に仰(おほせ)て、庄鄕村里(しやうごうそんり)の辻々に、右の趣〔おもむき〕を書〔かき〕て高札〔こうさつ〕を立〔たて〕けるにより、自然(しぜん)と錏(びた)は廃(すた)り、上(かみ)がたへのみ上〔のぼ〕りて、永樂ばかり關東にとゞまる。此時より、錏(びた)を「京錢」とぞいひける。

その後(のち)、慶長九年御代〔みよ〕に至つて、天下一統に永樂錢を用ゆ。しかれども、

「錏錢(びたせん)、一向に弃(すつ)べきにあらず。」

とて、永樂一錢のかはりに、錏四錢をつかふべきむね、仰(おほせ)わたされける。

その後、また、商夫(しやうふ)の難儀に及ぶのよし、聞召(きこしめさ)れ、慶長十年十二月八日、永樂錢御停止(ごちやうじ)を仰出〔おほせいだ〕され、江戸日本橋に高札を立られける也。

○永一貫文を金一兩と立〔たて〕、二百五十文金壹步と立也。そのころ、金にかゆる時は、百錢の内一錢づゝ除きて、口錢〔こうせん〕とす。今以て、所々に永樂の年貢(ねんぐ)等あり。此遺風也。錏(びた)百錢にこれをうつし、永一錢の價(あたひ)を除きて、九十六錢を以て、通用すと云〔いへ〕り。

里人談五 終

 寛保三正月 神田鍛冶町二町目

          池田屋  源 助

  東都    日本橋通三丁目

          須原屋 平左衞門

[やぶちゃん注:「諸國里人談」の本文の最後となる。読み易さを考え、特異的に改行を施した。なお、永樂銭とキャプションする本条の挿絵がある(①)。また、最後に①の本文と同頁の後ろに直に続く奥書(実際にはポイントが大きい)をも電子化して附した。

「永樂錢」中国で、明の第三代皇帝永楽帝の代の永楽九(一四一一)年より鋳造され始めた銅製銭貨永楽通宝。ウィキの「永楽通宝」より引く(以下の注の引用とかぶる箇所がある)。『日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭、永銭などと呼ばれた』。『形状は円形で、中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「永樂通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。このような銭の形状(いわゆる方孔円銭)は、中国古代の半両銭に由来するものとされている』。『材質は銅製、貨幣価値は』一『文として通用したが、日本では天正年間以降』、『永楽通宝』一『枚が鐚銭』四『文分と等価とされた』。慶長一三(一六〇八)年には『通用禁止令がだされ、やがて寛永通宝等の国産の銭に取って代わられた。しかしその後も』「永」『という仮想通貨単位』、『すなわち』、『永一貫文=金一両であり』、一両の一万分の一を表わす『永勘定が年貢の取り立てに引き続き』、『用いられるなど、長く影響を残した』(永一文は四文前後。下線太字やぶちゃん)。『なお、永楽通宝は明では流通しておらず、もっぱら国外で流通していたと考えられてきた。明では初代洪武帝のときに銭貨使用が禁じられ、すべて紙幣(後には銀)に切り替えられていた(洪武帝は中国統一前には支配地域の一部で大中通宝「銅銭」を発行しており、統一後も洪武通宝「銅銭」を発行していた。その後も宣徳通宝・弘治通宝・嘉靖通宝が発行されている)。一方、日本では貨幣経済が急速に発展しており、中国銭貨への需要が非常に高まっていた。そのため、日本との貿易決済用銭貨として永楽通宝が鋳造されることとなったというものである。これは永楽通宝が中国ではほとんど現存せず、日本でのみ発見されていたことによる説である。ところが、近年になって日本の永楽通宝の中には日本で鋳造されたものが相当数含まれているという説が出されたことで』、『その前提に疑問が出され(後述)、また』、永楽九(一四一一)年に『浙江・江西・広東・福建の各布政司で永楽通宝の鋳造が命じられている事実(内陸の江西や日本との関係の薄い広東でも鋳造されている)』や、景泰七(一四五六)年に、『北京に大量の私鋳の永楽通宝が持ち込まれていたことが発覚する(北京の市場で官鋳による永楽通宝が通用していたことが私鋳銭混入の前提となる)』『など、近年では少なくても』十五『世紀後半の段階では永楽通宝は明国内でも流通されていたと考えられている』。『近年では、さらに広範囲に渡って使用されていた可能性も指摘されて』おり、二〇一三年には、何と、『アフリカのケニアから永楽通宝が出土している』という。『平安時代から鎌倉時代にかけて日本国内の商業・物資流通が活発化すると共に貨幣の必要性が高まっていた。しかしながらその時代には律令体制が崩壊しており、銭貨鋳造を行う役所も技術も廃れていた事から、中国から銅銭を輸入してそれを国内で流通させていた』が、『その中でも明の永楽帝の時代に』『作られた銅銭永楽通宝(永楽銭)は』、『当初は明の国内でも流通していたのだが』、『信用が低かった(中国では新銭よりも、流通の実績のある宋銭や開元通宝などが好まれた)ことから』十五『世紀後半には』、『明では次第に使用が忌避されるようになり、室町時代後期に大量に輸入された。この多くは日明貿易(勘合貿易)や倭寇を通じて日本に持ち込まれたものである。永楽銭という用語は、明代に輸入された銅貨一般を差す場合もある。従来からの宋銭が数百年の流通により磨耗、破損したものが多くなっていたのに対し、新たに輸入された永楽銭は良質の銅銭で有ったため、東日本を中心に江戸初期まで基本貨幣として使われている一方で西日本では従来通り宋銭、鐚銭の流通が中心であった』『とされるが、近年になって、明朝時代に宋銭を私鋳していたという記述がいくつか発見され』、『それらの“宋銭”が日本に渡ってきた可能性は高いこと、また、後述するように』、『当初の明銭は撰銭の対象であったことが各種法令などから伺えることなどから、永楽銭は日本に入ってきた当初は日本全国で“価値の低い銭”であった可能性が高い』。『民間が勝手に鋳造した銭貨を私鋳銭というが、中国江南地方や日本で作られた私鋳銭も多く流通していた。(なお、一般では官鋳銭は品質が良く、私鋳銭は品質が悪いと思われがちだが』、『一概にそのように言えるものでもない。官鋳銭にも産地によっては良質な私鋳銭より質の悪いものもあった)。日本でも中国同様に、新鋳の明銭よりも流通実績のある宋銭の方が価値が高いと見なされ』、十五世紀後半から十六世紀半ばまでの『畿内においては』、『永楽通宝などの明銭は条件付き(百枚中』二十枚から三十『枚までの混入を認める)でしか流通しておらず』、『そのような宋銭重視政策を』、『特に畿内の荘園領主が行ったため』、『畿内では宋銭』が使われ、『東北や九州などの辺境などから』、『次第に粗悪な銭(鐚銭:ビタ銭)数枚で精銭』一『文とする慣行が成立していくことで』、『撰銭の対象であった永楽銭の地方流入を招くと共に、東国では後北条氏、結城氏などが永楽銭を基準とした貫高制の整備を行った。やがて』一五六〇『年代に明が本格的な倭寇取り締まりなどを行うと』、『中国からの銭の流入が途絶えたことにより』、『銭不足に陥り、畿内では』一五六〇『年代に貨幣経済から米経済』、一五七〇『年代に米経済から銀経済への急激な転換が起こる一方、関東では何段階かに分かれていたビタ銭の階層が収束されていき、京銭(渡来銭・私鋳銭を問わない宋銭)』四『枚=永楽銭』一『文という慣行が成立していった』、『江戸時代に入ると』、『江戸幕府が』慶長一一(一六〇六)年に『独自の銅銭慶長通宝を鋳造して』、二『年後には永楽銭の流通禁止令がだされ、この段階では慶長通宝の流通も充分でなく、実態は永楽銭の優位的通用を禁じ鐚銭並みの通用になったとされるが』、寛永一三(一六三六)年には『寛永通宝を本格的に鋳造し、寛文年間以降、全国的に流通し始めると永楽銭は次第に駆逐されていった』。『永楽通宝が主に流通していたのは、伊勢・尾張以東の東国である。特に関東では、永楽通宝が基準通貨と位置づけられ、年貢や貫高の算定も永楽通宝を基準として行った。これを永高制という。一方、西国では宋銭など唐宋時代の古銭が好まれ』、十六『世紀に入るまであまり流通しなかった。ところが』、『この事実には大きな問題があった。それは明で』百年も『以前に鋳造された銅銭が』十六『世紀の日本の東国で広く使われた経緯が不透明な点である。しかも、明との貿易を行っていたのは主に西国の大名や商人であり、日本に流入する永楽通宝が』、『まず彼らの手中に入る筈であるのに、なぜ地理的に離れた東国でのみ流通したのかと言う点が十分に説明されてこなかった。このため、近年になって』十六『世紀の東国で用いられた永楽通宝は明で鋳造されたものではなく、そのほとんどが明の永楽通宝を精巧に再現し』、『日本の東国地域で鋳造された私鋳銭であるという説』が提唱され、『折しも、茨城県東海村の村松白根遺跡から永楽通宝とその枝銭が発見されており、科学分析の結果日本国産の銅で鋳造された可能性が高い事が判明するなど、今後の研究次第では通説に対する大きな見直しが迫られる可能性がある』という。他にも、『「永楽銭」の言葉があるからと言って必ずしも実物の永楽通宝でのやりとりを伴った訳ではなく、特に時代が下るにつれて』(一五七〇年代以降)、『「永楽銭」は実際の永楽通宝の価値とは異なる空位化した基準額(計数単位化)やそれに基づいた一定の基準を満たす精銭群(そこには実物の永楽通宝が含み得る)を指すなどの変化が見られ、(実物の)永楽通宝と「永楽銭」「永高」「永」の関係の再検討の必要性』が指摘されているともある。なお、『織田信長は、永楽通宝の意匠を織田家の旗印として用いていた。理由は明らかでないが、貨幣流通に早くから注目していたためであるとも言われる。信州上田城には、永楽通宝紋入の鬼瓦があり、これは上田藩主となった仙石忠政の父秀久が織田家臣時代に信長から拝領した家紋であると伝えられている』と最後にある。

「永樂は大明成宗帝の年号なり」明の第三代皇帝成祖・永楽帝(一三六〇年~一四二四年/在位:一四〇二年七月~一四二四年)の即位翌年からの年号(一四〇三年~一四二四年)。

「應永十年八月二日未の剋」ユリウス暦一四〇三年八月十九日(グレゴリオ暦換算では八月二十八日相当。室町幕府第四代将軍足利義持の治世)の午後一時から午後三時。

「巳の剋」午前九時から午前十一時。

「申の剋」午後三時から午後五時。

「鎌倉の將軍足利左兵衞督(さひようへのかみ[やぶちゃん注:ママ。])滿兼」(天授四/永和四(一三七八)年~応永一六(一四〇九)年)は第三代鎌倉公方(在位:応永五(一三九八)年~応永一六(一四〇九)年:鎌倉公方は室町幕府将軍が関東十ヶ国の統治を目的として設置した鎌倉府の長官。足利尊氏四男足利基氏の子孫が世襲し、鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された)。ウィキの「足利満兼」によれば、第二代鎌倉公方『足利氏満の長男(嫡男)。父と同じく元服時に第』三『代将軍・足利義満の偏諱を授かり』、『満兼』『と名乗る。鎌倉公方は父の代より京都の将軍家とは緊張関係が続いており』、応永六(一三九九)年一〇月に『大内義弘が堺で義満に対して挙兵した応永の乱では義弘に呼応』し、『さらに自身も、義弘に加勢するため』、『鎌倉を発ち、武蔵府中(東京都府中市)まで進軍するが』、『関東管領の上杉憲定に諫止され』、十二月に義弘の敗死を聞くと、翌年の三月五日に鎌倉に引き返している。その後、六月十五日には、『伊豆の三島神社に納めた願文によって幕府に恭順の意を示し、最終的に罪を赦されている』。応永六(一三九九)年『春には陸奥、出羽が鎌倉府の管轄となったため、弟である満直を篠川御所、満貞を稲村御所』『として下』した。『しかし、この措置は奥州の豪族達の反感を買い』、二年後の応永九年には『室町幕府と結んでいた伊達政宗』『の反乱が起きるが、これを上杉氏憲(のちの上杉禅秀)に鎮圧させている。この頃、京都では満兼が狂気したという噂が流れ、義満は満兼の調伏を行なうなど、再び両者の確執が起こりだしていたようである』。応永一四(一四〇七)年八月末には、『鎌倉御所が炎上したが、まもなく再建し』ている。没後は『長男の持氏が跡を継いだ』。

「伊東次郞右衞門尉貞次」後北条氏家臣団の伊豆衆の一つである伊東氏であろうが、不詳。

「梶原能登守景宗」(生没年不詳)。後北条氏家臣。ウィキの「梶原景宗」によれば、『紀伊国の出身であったが、水軍の指揮に長けたことを北条氏康に見込まれて、その家臣となり伊豆水軍を率いた。里見氏や武田氏との戦いでは、水軍を率いて活躍したと言われている。しかし『北条記』では「海賊」と記されている。『北条五代記』では、「船大将の頭」と記されている。また、近年では伊勢湾沿岸と関東地方を結ぶ交易商人としての側面が指摘されている(北条家臣安藤良整と共に多くの商業関連の文書に連署している事からも窺える)』。天正一八(一五九〇)年、『豊臣秀吉の小田原征伐で水軍を率いるも』、『本多重次の配下であった向井正綱率いる徳川水軍に敗れた。北条氏直とともに高野山に赴き、氏直の死後は紀伊に土着したという。 文書上、最後に動向が確認できるのは』天正一九(一五九一)年に『北条氏直が景宗から贈呈された鯖』五十『匹に対する返礼』だそうである。なお、ウィキでは「備前守」と記す。

「三浦備前守義高」不詳。ただ、個人ブログ「歩けば見つかる小さな歴史」の本条冒頭の漂着事件を記した三崎港内に深く沈んだ永楽銭…三浦市三崎港の中に、「武家盛衰記」からの引用として、「抑々永楽銭日本に渡ることは、応永十年八月二日の大風にて、同三日申の刻唐船二艘、相州三崎浦へ漂着したり』。『時鎌倉足利佐(左)兵督満兼下知にて、伊藤備前守義高奉行にて検儀す。船中も実験するに、明朝永楽銭数百貫あり』。『此旨将軍義満へ被下』。『夫より関東に此銭を用ひらるる云々』(下線太字やぶちゃん)と出る。

「數万貫」一貫は銭一千文(或いは九百六十文)。本「諸國里人談」が出た当時(江戸中後期)の一両は六千五百文相当であった。ただこれは室町時代だから、比較にはならない。ネットの複数の換算値で考えると、一万貫は現在の九千万円相当とするものがあったから、六掛けとして六万貫なら、五億四千万円相当か。

「京都前(さきの)將軍義滿入道道有(だうゆう)」「道有」は足利義満の道号(法号)の一つ。ウィキの「足利義満」によれば、義満は応永元(一三九四)年に将軍職を嫡男義持に譲って隠居したが、実際には政治上の実権を握り続け、同年には従一位太政大臣にまで昇進している。『武家が太政大臣に任官されたのは、平清盛に次いで』二『人目である。そして征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてであり、かつ後の時代を含めても』、『義満が足利家唯一の太政大臣となった。翌年には出家して道義と号した』とある。義満の没年は応永一五(一四〇八)年。

「若干(そこばく)の」沢山の。

「弊(やぶ)るべからず」「として」を補って読む。「弊る」はいい加減に扱ってしまわずに、の意であろう。

「天文」一五三二年から一五五五年まで。

「錏(びた)といふ惡錢」鐚銭。室町中期から江戸初期にかけて私鋳された、永楽銭を除く粗悪な銭貨。ウィキの「鐚銭より引く(以下の注の引用とかぶる箇所がある)。『鎌倉時代後期ごろから貨幣の流通が活発化したが、主に中国で鋳造された中国銭が流通していた。これらの中国銭は、中国(宋・元など)との貿易を通じて日本にもたらされたが、日本でもこれらの貨幣を私的に鋳造する者が現れた。これを私鋳銭(しちゅうせん)という。私鋳銭は、一部が欠落したもの、穴が空いていないもの、字が潰れて判読できないものなど、非常に粗悪なものが多く、商品経済の現場では嫌われる傾向が強かった。そのため、これら粗悪な銭貨は鐚銭と呼ばれ、一般の銭貨よりも低い価値とされるようになった』。『室町時代に入り、明が日本との貿易用に鋳造した永楽通宝などが日本国内で流通するようになると、明の江南地方で作られた私鋳銭や、日本国内で作られた私鋳銭も次第に混入していった。そうした私鋳銭ばかりでなく』、『南宋の戦時貨や明銭自体も不良銭が混じるなど』、『品質劣悪なものが普通だったため、これらを総称して「悪銭」といった。また、こうした悪銭は良質な「精銭」とくらべ低価値に設定されたり、支払時に受け取り拒否されることが多く、これを撰銭(えりぜに)といった。時には撰銭が原因で殺傷事件が起こることもあった。だが、経済発展に加え明の海禁及び貨幣政策の変更(明国内においては紙幣と銀が基準貨幣となり、銅銭を鋳造する意義が無くなった為に鋳造されなくなる)などによって渡来銭の供給が難しくなると、こんどは通貨総量が減って』、『銭不足が生じ』、『粗悪な渡来銭や私鋳銭の流通量は増大した。後に室町幕府の』十四『代将軍・足利義栄が将軍就任の御礼に朝廷に献上した銭貨や』、『同じく織田信長が正親町天皇の儲君・誠仁親王の元服の際に献上した銭貨が鐚銭ばかりであると非難されたが、これは彼らが朝廷を軽視していたというよりも』、『鐚銭ばかりが流通していて』、『権力者でさえ』、『良質な銭貨が入手困難であった事を示している』。『そのため』、十六『世紀になると室町幕府や守護大名、戦国大名たちは撰銭を禁ずる撰銭令(えりぜにれい)を発令して、円滑な貨幣流通を実現しようとした。しかし、民衆の間では鐚銭を忌避する意識は根強く残存したものの』、一五七〇『年代には経済の規模に対する絶対量の不足からくる貨幣の供給不足は深刻化して、代替貨幣としての鐚銭の需要も増えていくことになる。また、金銀や米などによる支払なども行われるようになった。後に織田政権が金銀を事実上の通貨として認定し、豊臣政権や江戸幕府が貫高制を採用せず』、『米主体の石高制を採用するに至った背景には、こうした貨幣流通の現実を背景にしたものであったと考えられる。また、織田政権は撰銭令の中で鐚銭を基準とした銅銭に質による交換基準を定めたことで、一定の品質水準に達した鐚銭の通用が保証されたため、鐚銭が京都における一般的に通用した貨幣とみなされて「京銭」と称されるようになった』。『江戸時代に江戸幕府は永楽通宝の通用を禁じて、京銭(鐚銭)と金貨・銀貨との相場を定めて鐚銭を相場の基準とすることで撰銭のメリットを失わせ、続いて安定した品質の寛永通宝を発行し、渡来銭や私鋳銭を厳しく禁ずるようになると、鐚銭は見られなくなり、撰銭も行われなくなっていった』とある。

「市町」「いちまち」と訓じておく。市中。

「かの惡錢を論じ撰(ゑら)みて」支払決済の際、鐚銭を受け取った者がそれを永楽銭その他と選別し、流通貨幣の標準価値から下がると主張して、忌避・排除したり、追加金を要求することを指していよう。これを「撰銭(えりぜに・えりせん・せんせん)」と称し、円滑な流通経済に支障を来たしたことから、室町幕府や多数の大名が「撰銭令」をたびたび発令し、悪銭と良銭の混入比率を決めたり、一定の悪銭の流通を禁止することを条件に貨幣の流通を強制した。但し、ウィキの「撰銭令」によれば、禁止令の適応範囲が、『地域的であったことや』、『鐚銭を排除しようとする民衆が多く、満足な結果は得られなかった』という。そして、『従来、撰銭令は撰銭そのものをなくすためのものだと理解されてきた。しかし、それでは撰銭令は、室町幕府などが自ら大量に所有する粗悪な渡来銭などを市民に押し付けるための、利己的な悪法に過ぎないことになる。むしろ撰銭を「制限」する一方で、混入比率や交換比率など、一定の撰銭行為を「公認した」という面に注目すべきだという意見が、今日では強まっている。もともと渡来銭などを持っていない一部の地方大名などは、むしろ』、『領内から悪銭を排除するために撰銭を「公認」する度合いが強』かったからで、『撰銭を禁じた大名から良貨を大量に仕入れ、これを融解して悪貨を作って戻せば莫大な利益が出ることになり、これでは禁じた本人が大損害をこうむるばかりか粗悪な贋金を奨励して重大なインフレを招きかねない。そうならなかったのは、むしろ』、『粗悪な渡来銭を積極的に流通させていたのが、室町幕府ら中央の権門のほうであり、悪銭の中心は渡来銭だったことを明示している。積極的な海外貿易推進者であった戦国大名の分国法「大内氏掟書」には自分への貢納銭は撰銭し、庶民は撰銭するななどと虫のいいことを記している』という。『元や明ではすでに銅銭の信用が低下しており、貿易を独占するような権力者や大商人たちは、これを安い元手できわめて容易に入手しており、中国貿易では一億枚単位の取引さえ行われていた。したがって仮に撰銭がおこなわれて「洪武銭」のたぐいが差別されても、彼らは大きな損失を被ることはなかった。「堺銭」などのように、明や日本の贋金をあつめられる立場にあった者が、他人に故意につかませる行為さえあったのである。むしろ、撰銭がおこなわれ、かつ一定の制限のもとであるにせよ』、『公認された事実は、中国製貨幣の信用度に大きな打撃を与えたことになる』。『なお、撰銭令が出された目的は、飢饉や戦乱に際し米の価格の抑制することだという説もある。この説を取る場合、撰銭令が何度も出されたのは、守られなかったからではなく、米価高騰や戦争の都度に出されていたからだ、ということになる』とある。

「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日から)。しかし、以下に登場する北条氏康はこれより前の元亀二(一五七一)年に没しているから、これは「天文」の誤りと採らぬとおかしい。氏康は天文一五(一五四六)年に扇谷上杉氏を滅ぼし、関東に於ける抗争の主導権を確保している。しかし、これは「天正のはじめ」ではなく、中頃と言うべきであり、さらに氏康が関東諸国に永楽通宝の通用を命じたのは、さらにその後の天正一九(一五五〇)年であるから、これは寧ろ「天文の末」が正しく、この部分の叙述はとんでもない致命的な誤りだということが判る。

「關八州」関東八ヶ国の総称。相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野。

「錢の善惡(よしあし)、日を同じうして語るべからず」銭の良し悪しを、毎度、問題にしてはならない。

「賣買の隙(ひま)を弊(やぶら)さじがためなり」「じ」は原本は「し」。意味を通すために濁音化した。また、吉川弘文館随筆大成版は「隙」を「障」と判読しているが、採らない。売買の「隙」(「関係・機会」の意で採る)を「弊(やぶら)さじ」(「阻害させまいとする」という打消意志で採る)の意と解釈した。大方の御叱正を俟つ。

「山角(〔やま〕かど)信濃守定信」当時の後北条の御馬廻衆の統轄者は山角康定(彼は信濃守ではない)であるから、その縁者であろうか。

「笠原越前守守康」後北条家臣団の伊豆衆に笠原氏がいるが、中でも北条早雲・氏綱・氏康三代に亙って仕えた宿老笠原信為(のぶため ?~弘治三(一五五七)年)が知られ、彼は越前守であるから、彼の誤りか

「慶長九年御代〔みよ〕に至つて」「天下一統」一六〇四年。徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開府したのは、この前年である。しらかわただひこ氏のサイト「コインの散歩道」の「永楽通宝の謎」によれば、この慶長九年『正月に、「悉く永楽銭を用ゆ、然れども一向鐚を棄るにもあらずとて、他銭』四『銭を以て永楽一銭の代りにすべし」と決め』たとあり、永楽銭一枚は鐚銭四枚相当と公定したとある。

「一向に弃(すつ)べきにあらず」「一向に」はこの場合、呼応の副詞で「全く(~ない)」である。「弃(すつ)」は「廃止する」。

「商夫(しやうふ)」商人(あきんど)。

「慶長十年十二月八日」前の「永楽通宝の謎」によれば、慶長一一(一六〇六)年十二月の誤りである。この時、幕府は『「商民の難儀に及ぶ由に付、永楽銭を停止し、鐚ばかり用ゆべし」とし』『たが、その後』も『結局』、『永楽銭も鐚銭も同じ価値で使われるようにな』ったとある。

「口錢〔こうせん〕」「くちせん」「くちぜに」とも読む。江戸時代の商業利潤。中世の問丸(といまる:港や重要都市に於いて年貢などの物資の輸送・保管・中継取引及び船舶の準備や宿泊の世話などを行った業者)に於ける手数料としての問米・問銭・問丸得分などが、近世問屋の発展につれて「口銭」と呼ばれるようになった。その内容には仲介手数料の他、運賃・保管料が含まれた(なお、中世末から近世には「口銭」は別に「付加税」の意にも用いられたので注意が必要)。ここは両替手数料のこと。

「永樂の年貢(ねんぐ)」前注「永樂錢」のウィキの「永楽通宝」からの引用の最初の下線太字部分を指していよう。]

「――道 成 寺 鐘 中――」トップ・ページ冒頭注追補

――道    中――Doujyou-ji Chroniclのトップ・ページの冒頭注を追補した。

2018/08/13

「甲子夜話卷之五十二」巻頭「日蓮村曼荼羅、淸正帆の曼荼羅幷京妙滿寺靈寶又道成寺鐘の事」の内、「道成寺の鐘の事」

[やぶちゃん注:肥前国平戸藩第九代藩主松浦(まつら)静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年:本名は清。静山は号)の膨大な随筆。彼が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜で、静山が没するまでの、実に二十年に亙って書き続けられ、その総数は正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻にも及ぶ。

 私は当該随筆の電子化注をこのブログ・カテゴリ「甲子夜話」でしているが、未だ巻之五に入ったばかりであり、以下の部分に辿り着くのには、何年もかかってしまう。しかし、私はサイトに独立した「――道    中――Doujyou-ji Chroniclというページも作っている関係上、それを無為に待っているのは如何にも辛い。されば今回、ここで急遽、フライングして電子化することとした。

 但し、冒頭に示した標題通り、これは現在の京都市左京区岩倉幡枝町にある、顕本法華宗(南北朝時代の日蓮宗の僧日什を開祖とする)総本山である妙塔山(みょうとうさん)妙満寺(建立も日什で康応元(一三八九)年であるが、建立地は京都市中であったが、現在の場所ではなく、その後も転々としている。詳しくはウィキの「妙満寺」を見られたい)の江戸浅草での出開帳の記事がメインである。しかも、静山は行きたいと思っていたものの、機械を逸しているうちに、当地での出開帳は終ると聴き、人に命じて行かせ、その報告を纏めたに過ぎない記事である。出開帳の目玉の一つであった、日蓮直筆の曼荼羅(「南無妙法華経」の文字を中心に種々の書き添えのある日蓮が好んで記した文字曼荼羅。標題の「村」とは文字が「群」れていることを意味しているように思われる)の図も写してある。また、その曼荼羅は、かの加藤清正が朝鮮侵攻の際に船の帆に掲げて、勝利の奇瑞があったとか言い、それに関わる清正の文書が記され(それが標題の二つ目)、その後に、この妙満寺出開帳では、「靈寶目錄」という小冊子が配られており(有料であろう)、膨大な立項のそれらが総てそっくり転記されているのである。

 そうして実は、その「靈寶目錄」の最初から三項目に、

一、紀州日高郡道成寺  緣起幷銘 別紙あり

とあるのである。但し、これは『銘』とあることから判るように、これは静山或いは目録製作者の、

一、紀州日高郡道成寺鐘  緣起幷銘 別紙あり

の脱字と考えてよい。而して、その終りの箇所で、この一条に就いて着目した静山が、この「別紙」により、道成寺の鐘がこの妙満寺に蔵されてある由縁を記した、その「緣起」を章の最後に記したのが、以下の文であり、銘を記した鐘の略図なのである。

 則ち、私は

――前のだらだらした妙満寺の目録羅列には、正直、興味はない。しかし、そこは、何年後かには、やろう――だが――道成寺の鐘とその縁起の下りだけは、今、どうしてもここでやっておきたい――

ということなのである。

 底本は一九七八年平凡社東洋文庫刊「甲子夜話」(正篇全六巻)第四巻を用いたが、底本は漢字が新字なので、恣意的に正字化して示した。また、「甲子夜話」の原本の当該部にはルビが全くなく、底本には編者による読みが十数ヶ所にあるのみであるが、私の判断でオリジナルに歴史的仮名遣で読みを大幅に補った。読点も一部で追加した(なお、これはブログ・カテゴリ「甲子夜話」で私が縛りをかけているポリシー(注は「■やぶちゃんの呟き」という軽めの設定。しかし、結局、注と変わらぬのだが)からは完全に外れて、注もマニアックにちゃんと附してあるので特異点である)。

 鐘の図も底本にあるものをトリミングしたが、モノクロームで画素が粗い上、裏のページの文字も透けて見えて、非常に見づらいので、かなり強い補正をかけて示してある。鐘銘その他もオリジナルに判読して添えた。

因みに、「妙満寺」公式サイト内のこちらに写真があり、そこからリンクした『「安珍・清姫」の鐘由来』によれば、『紀州道成寺が文武天皇妃・宮子姫の奏上により、大宝元年(七〇一年)に建立されてから二百三十年余りが経ったときのこと』、『醍醐天皇の延長六年(九二八年)八月、奥州白河(福島県白河市)の「安珍」という修験者が熊野へ参詣する途中、紀州室の郡・真砂の庄司清次の館に一宿を求めました。そのとき、庄司の娘「清姫」が安珍に思いをよせて言い寄りました。安珍は「熊野参詣を済ませたら、もう一度立ち寄る」と約束しましたが、その約束を破り立寄らずに帰途に就いてしまいました』。『そのことを知った清姫は激怒して安珍の後を追いかけます。日高川にかかると清姫は蛇身となり、もの凄い形相で川を渡り、ついに道成寺の釣鐘に隠れた安珍を見つけます。清姫は、鐘をきりきりと巻くと、炎を吐き、三刻(約四〇分)あまりで鐘を真赤に焼き、安珍が黒焦となって死ぬのを見て、自らも日高川に身を投じてしまいました』。『この後、正平十四年(一三五九年)三月十一日、源万寿丸の寄進で道成寺に二度目の鐘が完成した祝儀の席でのこと』、『一人の白拍子が現れ、舞いつつ鐘に近づきました。すると、白拍子は蛇身に身を変え、鐘を引きずり降ろすと、その中に姿を消しました。僧達は「これぞ清姫の怨霊なり」と一心に祈念して、ようやく鐘は上がったのですが、せっかくの鐘も宿習の怨念のためか音が悪く、また近隣に悪病災厄などが相次いで起こったため』、『山林に捨て去られました』。『この話が後年脚色され、長唄、舞踊、能楽など、芸能界最高の舞曲である「娘道成寺」となりました』。『その後、二百年余りを経た』天正十三(一五八五)年、『秀吉の根来攻め』『の時、家来の仙石権兵衛が』、『この鐘を拾って陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)として使い、そのまま京都に持ち帰りました。そして、安珍・清姫の怨念解脱のため、経力第一の法華経を頼って妙満寺に鐘を納めました』とあり、最後に、『この鐘は何度か出開帳されています』ともある。

 なお、この現存する鐘は、かなり小振りのもので(歌舞伎公式総合サイト「歌舞伎美人」の上村吉弥氏の舞踊「京鹿子娘道成寺」上演のための鐘供養の写真を参照されたい。スケールが判る)、入手した寺製作になると思われる記載(PDF)によれば、現在の同鐘のサイズは、

高さ 約一メートル五センチメートル

直径 約六十三センチメートル

厚さ 五・三センチメートル

重さ 推定約二百五十キログラム

とあった。白拍子に化けた「怨霊」(鬼)が「パッっと」「飛び入る」のであってみれば、小ささを問題視するには及ぶまい。というより、かの伝承譚のアクロバティックな展開が、鐘の大きさを必要以上に大きくしてしまったのであり、「道成寺」公式サイトの「道成寺緣起」に描かれた初代の釣鐘の図を見られるがよい――鐘は――もともと安珍一人が屈んでやっと入れるほどのこれほどの大きさでしかなかったのである。

 では、以上で述べた通り、道成寺の鐘の記載の個所から始める。【2018年8月14日:藪野直史】]

 

……又、册中に見へし道成寺の鐘と云(いへ)る者は、別に其圖と、その記事を刻行(こくぎやう)せるあり。又、左に載(のす)。これも一奇聞にして、要するに談柄(だんぺい)のみ。

[やぶちゃん注:「談柄のみ」「談柄」とは僧が談話の際、手に持つ払子(ほっす)のことである。「話の種として掲げるだけのこと」というである。静山は内容の真偽を留保と言うより、眉に唾しているのである。]

 

Doujyoujikanekasiyawa52

 

[やぶちゃん注:以下、龍頭(りゅうず)の右のキャプション。]

 

二尺八寸五分[やぶちゃん注:八十四センチ九・九ミリ。私はこれを龍頭下部までの鐘本体部の数値と採る。]

一寸八分[やぶちゃん注:六センチ四ミリ。現行は一センチばかり瘦せた。]

指渡二尺一寸[やぶちゃん注:六十三センチ六ミリ。現行とほぼ一致。]

 

五寸五分[やぶちゃん注:私はこれを竜頭の高さと採る。十五センチメートル三ミリメートル。先の高さにこれを加えると、約一メートルである。現行の約一メートル五センチメートルとは誤差範囲内である。]

 

[やぶちゃん注:以下、鐘銘。画像の右から左へ。実は判読途中(画素が粗く、困難を極めていた)で、白慧(坂内直頼)撰になる山城国の地誌「山州名跡志」(正徳元(一七一一)年刊・全二十二巻)にもに掲載があるのを発見したので、国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像及び早稲田大学図書館古典総合データベースのここを視認して、字を完全確定出来た。実は私は既に「――道    中――Doujyou-ji Chronicl『鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」より「道成寺鐘」』の中で電子化しているのであるが、今回は、「甲子夜話」の画像や上記「山州名跡志」にのみ従って、また零(ゼロ)から始めて、より厳格に翻刻し、新たに注を施した。

 

聞鐘聲 智慧長 菩提生

煩惱輕 離地獄 出火坑

願成佛 度衆生

天長地久御願圓滿

聖明齊日月叡算等乾坤

八方歌有道之君四海樂無爲之化

紀伊洲日高郡矢田庄

 

文武天皇勅願道成寺冶鑄鐘

勸進比丘瑞光

別當法眼定秀

檀那源万壽丸

吉田源賴秀合力諸檀男女

大工山田道願小工大夫守長

 正平十四三月十一日

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館版の板本では訓点が振られてあるので、それを参考にして書き下してみる(一部の読みと送り仮名は私が附した。また、一部の不審な仮名遣いを訂した)。

   *

鐘聲を聞けば 智慧 長(た)け 菩提 生ず

煩惱 輕く 地獄を離(さかり)て 火坑を出づ

願はくは成佛して 衆生を度(ど)せん

天 長く 地 久し 御願(ぎよぐわん) 圓滿

聖明(せいめい) 日月(じつげつ)に齊(ひとし)く 叡算(えいさん) 乾坤(けんこん)に等しく

八方 有道(うだう)の君を歌ひ 四海 無爲の化(くわ)を樂しまんことを

紀伊の洲(くに)日高の郡(こほり)矢田の庄

文武天皇の勅願 道成寺 鐘を冶鑄(やちう)す

勸進の比丘(びく)   瑞光

別當法眼(ほふげん)  定秀(ぢやうしふ)

檀那          源の万壽丸

幷びに         吉田源(みなもとの)賴秀

合力(こふりよく)   諸檀男女(なんによ)

大工          山田道願

小工(せうく)     大夫守長

 正平十四己亥(つちのとゐ)三月十一日

   *

銘文の後半は、ありがちなそれである。

・「聖明」天子が徳に優れて聡明なこと。

・「叡算」天子の年齢の尊称。

が「日月」や「乾坤」(天地)と同じく永遠であると長寿を呪(まじな)い、有徳(うとく)の聖帝の下で、

・「八方」「有道(うだう)の君を歌ひ」によって聖王堯(ぎょう)の鼓腹撃壌(こふくげきじょう)を踏まえ、

・「無爲の化」ここは老荘思想の「無為自然」に基づき、支配者が下らぬものである人為を用いなければ、何もせずとも、人民は自然に教化され、天下もよく治まるの意。

と畳み掛けることによって、悠久に続く天下泰平と万民祝祭を言祝いでいるである。

・「文武天皇」(天武天皇一二(六八三)年~慶雲四(七〇七)年)の在位は文武天皇元(六九七)年から慶雲四(七〇七)年である。ウィキの「道成寺」によれば、大宝元(七〇一)年、『文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより』、『文武天皇が創建したともいう(この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする)。これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から』、八『世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されて』おり、『本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代に』溯る作品であるとある。

・「瑞光」不詳。

・「定秀」不詳。

・「源の万壽丸」逸見万寿丸源清重(元応三年・元亨元(一三二一)年~天授四/永和四(一三七八)年)南北朝期、後村上天皇に仕えて武勲を挙げ、日高郡矢田庄を賜わった領主(「百姓生活と素人の郷土史」の『講座「道成寺のすべて」(道成寺小野俊成院代)』の『第三講「ふるさとの英雄・源満壽丸」~ふるさとに山あるは幸いかな~』①に考証が詳しく拠るので、そちらを参照されたい)。

・「吉田源賴秀」吉田金比羅丸源頼秀。源清重の娘婿で矢田庄吉田村の領主(八幡山城ヶ峰に城を構えていた)。道成寺本堂を完成させた人物とされる(『第三講「ふるさとの英雄・源満壽丸」~ふるさとに山あるは幸いかな~』③に拠る)。

・「大工」 律令制で木工寮(もくりょう)・修理職(しゅりしき)・大宰府などに属し、諸種の造営に従った職。「おおたくみ」「おおきたくみ」とも呼んだ。

・「山田道願」不詳。

・「小工」律令制の職員。大工の下に属し、建物の修理等を掌った。

・「大夫守長」不詳。

・「正平十四己亥三月十一日」。「正平」は南朝の元号で、北朝では延文四年。ユリウス暦一三五九年四月十一日(グレゴリオ暦換算四月十九日)。

 最後に言い添えておくと、調べてみたところ、頭の三行分は二百年以上後の永禄九(一五六六)年に成立した臨済宗の法式・偈文等の記録である天倫楓隠編の「諸囘向淸規」に「聞昏鐘偈」として出ているものに酷似しており、これは本邦で作られた偈と考えられるようだ。但し、文字列に異同がある。以下に示す。訓読は我流。

   *

 聞昏鐘偈

聞鐘聲煩惱輕

智慧長菩提生

離地獄出火坑

願成佛度衆生

  昏(こん)の鐘を聞く偈(げ)

 鐘聲を聞き 煩惱を輕かしめ

 智慧 長じて 菩提 生まる

 地獄を離(さか)り 火坑を出づ

 願はくは 成佛し 衆生を度せん

   *

では、以下、「甲子夜話」の本文に移る。]

 

道成寺鐘今在妙滿寺和解略緣起

夫(それ)、紀州日高郡矢田莊道成寺は、人皇四十二代文武天皇の敕願所なり。此帝、御卽位より今申年まで一千百三十九年になる。○其後婦女、蛇と成(なり)て鐘を蟠圍(ばんゐ)、安珍を害せし其怪異の事蹟は、「元亨釋書」に詳(つまびらか)にして、諸人の知(しる)處なり。其外、謠曲等にも傳(つたへ)て、兒女奴婢に至(いたる)までも、大槪をしる故に略(りゃくす)。○然(しかる)に、謠曲等に、その鐘、湯(ゆ)と成(なり)しと書(かく)は文法の餘勢也。既(すでに)「元亨釋書」にも、蛇去(さり)て後、其鐘、尚、熱(あつし)といひ、寺衆、鐘を倒(たふし)て、死せる安珍を見(みる)ともいへり。これに因(より)て知(しる)べし。其鐘、融流(とけなが)て、湯のごとく成(なり)たるには、あらずと。○其後、彼(かの)寺の老僧、夢みらく。二蛇來て曰(いはく)。我は是(これ)、前に命を亡(なくせ)し安珍なり。一蛇は其時の婦人也。共に惡道に墮(おち)て、苦報、脱(ぬけ)がたし。願(ねがはく)は、「壽量品(じゆりやうぼん)」を書寫し、我等が苦慮をすくひたまへと乞(こふ)とみえて、夢覺(さめ)ぬ。老僧、大に憐(あはれみ)、望のごとく、「壽量品」を書寫し、追善をなしければ、其夜、又、夢に一僧一女、來(きたり)、合掌して曰。我等、妙法華(みやうはふげ)の功力(くりき)によつて深き惡業(あくごふ)を消滅し、僧は兜卒天に生(うまれ)、女は忉利天(たうりてん)にうまる。師の慈恩、法華の神力(しんりき)、有(あり)がたしともいふばかりなしと拜謝して、天に上ると。此事、「本朝法華傳」竝(ならび)に「元亨釋書」にみえたり。○世に傳ふ。其後、彼(かの)鐘、唖(あ)[やぶちゃん注:鳴らなくなること。]となり、鑄直(いなほ)すこと、十餘囘に及ぶといへども、種々の障礙(しやうげ)[やぶちゃん注:障害。妨げ。仏教では悟りの障害となるものを指す語ではある。]ありて、鐘、終に成就せず。衆人勞倦(つかれうみ)て、その事、止(やみ)ぬ。○それより後、人皇九十五代後醍醐天皇、和州吉野へ遷(うつ)らせたまひしより三代の間、吉野を指(さし)て南朝といひて、三種の神寶も、猶、此御方(このおんかた)にまします。人皇九十七代光明天皇より五代の間、京都をさして北朝といふ。此時、天下南北にわかれ、年號も亦別々にあり。然(しかる)に、南朝後村上天皇正平十四己亥年に至(いたり)て、復(また)彼(かの)鐘を鑄直(いなほす)に、此時、始(はじめ)て成就す。則(すなはち)、北朝人皇九十九代後光嚴天皇延文四年に當(あたり)て、今申年迄、四百六十八年になる。今、妙滿寺にある所の鐘、是なり。銘に、別當檀那冶工年月等、詳(つまびらか)に見ゆ。鐘の銘は別に板行(はんぎやう)あり。○其時、南北、混和せず。合戰、いまだ止(やむ)ことなく、此鐘を取(とり)て兵器となし、陣中に具(ぐし)たり。兵亂、治(をさま)るに及(および)て棄(す)て、鐘の在處(ありか)を失ふ。○人皇百八代後陽成天皇天正年中、洛陽の近鄕某氏の家の後に竹林あり。時々、鳴動す。その鳴動するに及(および)て、其家に疾病或(あるいは)災孼(さいげつ)あり。又、小兒を夜啼(よなき)せしむ。其邊の土を穿(うがつ)に、終(つゐ)に此鐘の埋(うづめ)てありしを掘出(ほりいだ)す。村民、集會して曰(いはく)。これおそらくは梵宮の古鐘、世俗の塵埃に埋れしゆへ、此鐘、鳴動し、此家、怪異あるならん。はやく洛陽の鐘なき寺に寄附せんと、いそぎ都に出(いで)、大寺を尋(たづね)て先(まず)、妙滿寺に來り、其趣を告(つぐ)。その頃、此寺、いまだ、鐘あらず。故に鐘を送來(おきりきた)て寄附す。此時、天正十六年戊子五月なり。正平十四年に、此鐘、鑄直(いなほし)成就してより天正十六年まで、二百三十年になる。○夫(それ)より、此鐘を樓上に懸(かけ)て、日夜法筵の用となす處に、慶安年中に誤(あやまり)て破(やぶり)ぬ。その釁郤(きんげき)、一尺餘にして、聲、終に失(うせ)ぬ。故に一山相議し、冶工に屬(まかせ)て、此鐘を摧(くだき)、鑄(い)あらためんとす。時に、四方、俄(にはか)に鳴動し、黑雲、樓に覆(おほひ)て、鐘、雲中に飛(とぶ)べきけしきなり。衆僧、大(おほい)に驚(おどろき)、丹誠を抽(むき)て祈り、且、鑄直すことを止(やむ)。此時、益(ますます)奇異の古鐘なることを知れり。然後(しかるのち)は寶藏に納置(をさめおき)しに、其釁郤(きんげき)、年月を經(ふ)るにしたがひて、漸々に翕(あひ)ぬ。五、六十年以前までは、猶、紙をつらぬくの間(あひだ)有(あり)て、裏に通る。京師の老人、よく知(しる)處なり。それより年々に翕(あひ)て、今に至ては、其痕(あと)だにみえがたし。實(まこと)に、此鐘の神妙、恐(おそる)べし。○鳴呼(ああ)、昔をおもへば、「壽量品」の功德(くどく)によつて、二蛇、苦を離(はなれ)、天に生(しやう)ず。まことに一感人天受勝妙樂の化報にほこり、今、亦、妙滿寺に在(あり)ては大乘の寶器となり、年來(としごろ)、囘向(ゑかう)の功力(くりき)によつて、二感佛道自受法樂の果報に住(ぢゆう)せんこと、疑(うたがひ)なきものか。是、則(すなはち)、善惡不二邪正一如(ぜんあくふにじやしやういちによ)の因緣、平等大會一乘妙典(びやうどうだいゑいちじやうめうてん)の感應なり。

[やぶちゃん注:以下、最後のクレジットまで、底本では全体が一字下げ。]

此(この)「和解略緣記」は寶曆九己卯(つちのとう)年、先師老蠶冬映(らうさんとうえい)、童蒙(どうまう)の見易(みやす)からんがため、述記(じゆつき)して、妙塔山(めうたふさん)妙滿寺に納(をさむる)處なり。今年、當寺、祖師大菩薩尊像竝(ならびに)靈寶等、淺草慶印寺におゐて[やぶちゃん注:ママ。]開帳の刻(とき)、先年の如く、此靈鐘を諸人に的覽(てきらん)せしむ。然(しかる)に右緣起、數年を經て、印板、磨滅す。これによつて曆數支干を、今、申年までに算改(かぞへあらため)、文章は其まゝに再版して、以(もつて)當寺に寄附し奉る。唯、先師の信心を空(むなしう)せざる微志のみ。

文政七甲申(きのえさる)年三月   勅願所   妙 滿 寺

 

[やぶちゃん注:標題「道成寺鐘今在妙滿寺和解略緣起」は総て「だうじやうじかねきんざいみやうまんじわかいりやくえんぎ」と音読みしているものと判断する。

「此帝、御卽位より今申年まで今申年まで一千百三十九年になる」文武天皇の即位は文武天皇元年八月一日(六九七年八月二二日)であるから、数えでいくと、天保八(一八三七)年となる。然し、同年は丁酉(きのととり)で合わないから、前年の天保七年丙申(ひのえさる)であり、文末のクレジットから文政七(一八二四)年甲申となる。但し、最後に「曆數支干を、今、申年までに算改(かぞへあらため)」とあるから、これは静山の誤りではなく、改訂した妙満寺出開帳担当僧の誤りである。なお、この妙満寺の『殘草田畝(たんぼ)の慶印寺』(本「甲子夜話」原文の冒頭にある。「たんぼ」は私の添え読み。現在の浅草寺の北西直近の台東区西浅草に、同寺の塔頭寿仙院(日蓮宗)が現存する。ここ(グーグル・マップ・データ))での出開帳がその年にあった事実は調べ得なかった。

「蟠圍」蜷局(とぐろ)を巻いて蟠(わだかま)り囲むこと。

「元亨釋書」虎関師錬(こかんしれん)著になる鎌倉末期の仏教史書。三十巻。元亨二(一三二二)年成立。仏教の伝来から鎌倉末期までの七百年間の仏教史を記し、内容は「史記」及び中国の高僧伝に倣って、高僧四百余名の伝記と、周辺的史実とを漢文体で記したもの。特に禅僧の思想を知る上で貴重であるが、親鸞を除き、道元を軽視するなど、筆者の偏見があることが指摘されている(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。同書に記された「」は既に私の「――道    中――Doujyou-ji Chronicl「元亨釋書 卷第十九 願雜十之四 靈怪六 安珎で電子化訳注してあるので、参照されたい。

「湯と成し」溶解して真っ赤に燃え流れる溶岩のような液状になった。

「壽量品」「法華経」二十八品中の「第十六如来寿量品」のこと。釈迦が久遠の昔から未来永劫に亙って存在する仏として描かれてある。

「兜卒天」三界の中の欲界に於ける六欲天の第四の天。内院と外院があり、内院は将来、仏となるべき菩薩が住む所とされ、現在、弥勒菩薩がここで説法をし、如来になるための修行説法をしているとする。

「忉利天」六欲天の第二の天。天部の衆徒や神々が住むとされる。釈尊を生んだ摩耶(まや)夫人は、出産後、七日目に死去したが、この天に転生したとされる。

「本朝法華傳」平安中期に書かれた比叡山の僧鎮源(伝不詳)の記した、上中下三巻からなる仏教説話集「大日本國法華經驗記(げんき)」、通称「法華經驗記」のこと。その下巻掉尾にある「第百廿九」、現存する道成寺伝説最古の記録とされる「紀伊國牟婁郡惡女」(「紀伊國牟婁郡の惡しき女」)を指す。これも私の「――道    中――Doujyou-ji Chroniclこちらで電子化注済みであるので、参照されたい。

「人皇九十五代後醍醐天皇、和州吉野へ遷(うつ)らせたまひし」延元元(一三三六)年。

「光明天皇」(元亨元(一三二二)年~天授六(一三八〇)年/在位:延元元(一三三六)年~正平三(一三四八)年)。

「北朝人皇九十九代後光嚴天皇延文四年に當(あたり)て、今申年迄、四百六十八年になる」前に見た通り、正平十四/延文四年は一三五九年であるから、「四百六十八年」後は数えで一八二八年で、これは文政十一年丁亥(ひのとい)となってしまい、またまた齟齬する。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。

「洛陽」京都。

「災孼(さいげつ)」災い。

「梵宮」寺院。

「天正十六年戊子」一五八八年。

「正平十四年に、此鐘、鑄直(いなほし)成就してより天正十六年まで、二百三十年になる」数えとしてこの数値は正しい。

「慶安」一六四八年~一六五二年。

「釁郤(きんげき)」割れ目。隙間。

「漸々に翕(あひ)ぬ」だんだん、自然に閉じてしまった。

「二蛇」偽りとは言え、清姫との契りを約束し、彼女を怨みの末に蛇と化させた安珍は女犯の破戒僧であり、それは邪であり、蛇と同類であるということか。

「一感人天受勝妙樂」よく判らぬ。勝手に訓ずれば、「一つは、人、感ずれば、天、勝妙樂を受(さず)く」か。

「化報にほこり」これはよい意味であろう。「正法(しょうぼう)に徹することの果報の誇るべき善き例となって」。

「大乘の寶器」大乗仏教の衆生済度のシンボル。

「二感佛道自受法樂」よく判らぬ。勝手に訓ずれば、「二つは、佛(ほとけ)、感ずれば、道、自づから、法樂を受(さづ)く」か。

「善惡不二邪正一如」善と悪は、別のものではなく、無差別の一理に於いて帰着するものであり、同様に、邪と正も、本は一つの心から出るものに過ぎず、結果、同一のものであるということ。

「平等大會一乘妙典」生きとし生けるものに対して絶対の平等を持ったところの如来の大慈悲に基づく至上の法会としての、一乗(大乗仏教に於いて仏と成ることの出来る唯一の教え)の理(ことわり)を明らかにする「法華経」のこと。

「寶曆九己卯年」一七五九年。

「老蠶冬映」江戸中期の俳人牧冬映(まき とうえい 享保六(一七二一)年~天明三(一七八三)年)のことか。江戸出身で、中川宗瑞(そうずい)・佐久間柳居(りゅうきょ)等に学び、江戸座の判者となり、後に独立して一派を成した。彼は別号で「老蚕」と称しており、出開帳の際、妙満寺の出開帳担当者から依頼されて、日蓮宗の信徒であった俳諧師がアルバイトで読み易いこれを新たに著わしたとするのは、大いにあり得ることであるように私には思われる

「童蒙」幼くて道理がわからない者。

「的覽」鐘の持つ由緒が判るように的確に見せる、の意か。それにしても、この鐘、二百五十キロもあるから、寺宝であるから、これだけ運送業者に頼んで任せるというわけには行かないだろうから、運搬時の配慮はなかなか大変だったろうと私は気になった。というより、実は、道成寺絡みの、出開帳の客寄せの目玉でもあったことが、また、よく判るとも言えるのである。静山の最初の「談柄」という辛口の謂いもまさにその辺の臭いを鋭い彼は嗅ぎとっていたようにも思われるのである。]

2018/08/12

甲子夜話卷之五 10 人魂を打落して蟾蜍となる事

 

5-10 人魂を打落して蟾蜍となる事

夏夜に光り物の飛行することあり。世皆人魂と云。これは蟾蜍の飛行するなりとぞ。府の本鄕丸山の福山侯別莊にて、所謂人魂を竹竿にて打落すに、蟾蜍なること幾度も同じ。これより人々疑晴しと云。

■やぶちゃんの呟き

「蟾蜍」「ひきがへる」。本邦固有種である両生綱無尾目アマガエル上科ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus の亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus ormosus。詳しくは和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)の私の注を参照されたい。蟇蛙の怪異は複数の怪奇談集で厭になるほど、注してきた。取り敢えず、最初にそれを纏めた(注では本条にも言及している)「耳囊 之五 怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事を見られたい。

「飛行」「ひぎやう(ひぎょう)」。

「本鄕丸山」現在の東京都文京区東京都文京区西片附近。「白山通り」の白山二町目交差点の東側に「丸山福山児童遊園」の名が残る。南北附近(グーグル・マップ・データ)。因みに、この旧丸山福山町には、かの樋口一葉が住んでいた。

「福山侯」ここには古くは備後福山藩主阿部氏の中屋敷があった。後に一部は旗本の武家屋敷町となるが、私の所持する切絵図でも同書には「阿部伊豫守 中屋鋪」とある。

「人々疑晴し」待って!? 蟇蛙が飛び跳ねるんじゃあなくて、空を飛行するんじゃ、疑いが晴れるどころか、キョワいでしょうが!!!

甲子夜話卷之五 9 大猷廟薨後、齋藤攝津守於日光詠歌

 

5-9 大猷廟薨後、齋藤攝津守於日光詠歌

慶安四年、猷廟の靈柩を日光山に遷し奉り、御法會等事畢り、諸有司皆歸府せんとて山を出るとき、折ふし五月雨晴間も無りしかば、御側衆にて番頭兼帶せる齋藤攝津守三友、かくぞ吟じける。

 君まさで日數ふりゆくさみだれの

      雨も淚もわかれざりけり

さまでの佳調には非れども、時に取りて實情を述たるなれは、百年の後も人の感情を發する歌なり。

■やぶちゃんの呟き

「大猷廟」徳川家光。

「齋藤攝津守」「三友」(慶長一八(一六一三)年~承応三(一六五四)年)。家光の乳母春日局の甥とする記載があったぎりで、詳細事蹟不詳。歌を得意としたものか、当時の幾つかの歌集に名を見出せる。

「慶安四年」一六五一年。

「五月雨晴間も無りしかば」「さみだれ、はれまも、なかりしかば」。

甲子夜話卷之五 8 白川侯御補佐のとき本多執政の話、落首

 

5-8 白川侯御補佐のとき本多執政の話、落首

白川侯當路のとき落書あり。

 黑棒が泥坊どもを逐まわし

  後(アト)に殘るがしわんぼうなり

此時執政の列なる本多忠忠籌【彈正大弼。剃髮して號水翁】の聞及て、同家肥後守に笑話せられしとぞ。戲謔と雖も至當の言なるべし。可ㇾ味。

■やぶちゃんの呟き

「白川侯」散々出て、既注の松平定信。

「御補佐」老中在任中であること。

「本多執政」忠以(ただもち)系本多家第五代の本多忠籌(ほんだただかず 元文四(一七四〇)年~文化九(一八一三)年)。天明八(一七八八)年二月に側用人に任じられ、五月には従四位下弾正大弼に昇叙、以降、松平定信・松平信明とともに「寛政の改革」を推進、寛政二(一七九〇)年四月には老中格に任ぜられ、侍従に任官した。しかし、寛政五(一七九三)年七月、徳川治済の賛同のもと、独裁傾向を強める定信の老中解任を実現した。後寛政十年に老中職を辞任し、翌年、隠居した。「執政」は老中の別称。なお、彼の妻は静山の曽祖父松浦篤信の娘である。

「當路」「要路に当たる」の意から「重要な地位についていること」を指す。

「黑棒が泥坊どもを逐まわし」「後(アト)に殘るがしわんぼうなり」(表記はママ。歴史的仮名遣では「おひまはし」「しわんばう」が正しい)「黑棒」は「くろぼう」で定信の「白」川侯に反転義で掛けたものか。「泥坊ども」は賄賂塗れの田沼(の「泥」)一派でよかろう。「逐まわし」(失脚させ)、俄然、「寛政の改革」を敷いて行くが、そこで役人から庶民にまで厳しい倹約を強要し、極端な思想統制令により経済・文化が著しく停滞した。それを「しわんぼう」=「吝(しわ)ん坊」、吝嗇(けち)と揶揄したものであろう。ただ、「黑棒」には別に意味が掛けられてあるようにも思える。識者の御教授を乞う。

「同家肥後守」播磨山崎藩藩主で政信系本多家第六代であった本多肥後守忠可(ただよし寛保元(一七四一)年~寛政六(一七九五)年)か。ウィキの「本多忠可によれば、『松平定信とも親交があったため、この改革の成功の手腕を買われて、寛政の改革では大番頭として幕政に参与した』とあり、このシークエンスに登場して、自然だからである。また、忠籌とは同年代でありしかも、より大きな本多家の流れである同じ平八郎家(忠勝系)に属しているから、「同家」という謂いも腑に落ちる。

「可ㇾ味」「あぢはふべし」。

甲子夜話卷之五 7 加州金澤城中、箭天井の事

 

5-7 加州金澤城中、箭天井の事

砲工國友藤兵衞【近江の國、國友村に住す。官の鐵炮張なり】、加州金澤城中に入て其家屋をも見たりしことを語る中に、書院の緣側の天井を箭天井と稱して、廣き間なるが一面に箭を組合せたるなり。鏃も具して見ごとなり。定めて今侯の物好にはあらで、以前より軍用の手當なるべし。予因みに云ふ。先年かの居城燒けたることあり。其時家屋の瓦鉛なるが、悉くとけ流て雨の如く零たれば、近寄こと能はざりしと聞く。然るやと問たれば、藤兵衞答ふ。相違なし。今も城中の瓦は皆鉛と銅なりと語る。然ばこれも軍用なるか。又は寒國故の事か。

■やぶちゃんの呟き

「國友藤兵衞」九代目国友藤兵衛である鉄砲鍛冶師国友一貫斎(安永七(一七七八)年~天保一一(一八四〇)年)と思われる(静山より十八年下)。ウィキの「国友一貫斎」によれば、『幼名は藤一。号は一貫斎、眠龍。諱は重恭。能当(旧字では能當)と銘を切る。日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作。その自作の望遠鏡を用いて天体観測を行った』発明家にして技師であり、天文学者でもあった。『近江国国友村(滋賀県長浜市国友町)』(ここ(グーグル・マップ・データ))『の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた』。九『歳で父に代わって藤兵衛と名乗り』、十七『歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継いだ』。文化八(一八一一)年、『彦根藩の御用掛となり』、『二百目玉筒を受注することとなったが、国友村の年寄』四『家は自分たちを差し置いてのこの扱いに異議を申し立て』、『長い抗争に発展した(彦根事件)。しかし一貫斎の高い技術力が認められ』、文政元(一八一八)年に『年寄側の敗訴となった』。文政二(一八一九)年、『オランダから伝わった風砲(玩具の空気銃)を元に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作。その解説書として「気砲記」を著し、後には』二十『連発の早打気砲を完成させ』ている。『文政年間、江戸で反射望遠鏡を見る機会があり』、天保三(一八三二)年頃から』、『反射式であるグレゴリー式望遠鏡を製作し始めた。当時の日本で作られていた屈折望遠鏡よりも優れた性能の望遠鏡であり、口径』六十ミリで六十倍の『倍率の望遠鏡であった。後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人のために大名家等に売却されたと言われ、現在は上田市立博物館』(天保五年作・重要文化財)』、『彦根城博物館に残されている』。『その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家であ』り、『また、彼は自作の望遠鏡で』、天保六(一八三五)年、『太陽黒点観測を』、『当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある』。国友村にて死去。享年六十三であった。なお、『国友村で年寄脇(年寄の次席)を勤める御用鉄砲鍛冶の家の一つを』国友藤兵衛家或いは『辻村家とも』称し、『一貫斎はこの』九『代目にあたるが、特に著名であるため』、『説明なく彼を指して「国友藤兵衛」と呼ぶことが多い。初代・辻村(国友)藤内は美濃国の鍛冶師の出身であり、永正年間に近江国国友村に移り住んだと言われている。その跡を継いだ』二『代目以降の当主の多くが国友藤兵衛を名乗った。他の国友鍛冶職人は重当(旧字:重當。弾が「重ねて当たる」の意)の銘を用いるのが通例だが、藤兵衛家のみ能当(旧字:能當。「能(よ)く当たる」の意)を用いる。明治時代に入り』、十一『代目当主以降は鉄砲鍛冶を廃業している』とある。如何にも静山が好きになりそうな、プエル・エテルヌス(puer eternus)ではないか。

「箭天井」「やてんじやう」。太田昌子氏の論文「金箔からみた文化度金沢城二ノ丸御殿―『御造営方日並記』を主要資料として」(PDFでダウン・ロード可能)によれば、まず、金沢城の二ノ丸御殿の内、金箔を用いた座敷について、文化六(一八〇九)年に記された資料が残っており、それによれば『矢天井間』とあり、床は『惣金』仕上げで『春草等四季草』の襖に天井は『矢』(絵か、ここに書かれているように実物の矢であるかは不詳)とあるそうである。次注で見る通り、焼失して、「矢天井の間」は現存しない。

「先年かの居城燒けたることあり」金沢城は宝暦九(一七五九)年に「宝暦の大火」に見舞われている。但し、これは静山の生まれる前年のことであるから、彼の言っているのは、二ノ丸御殿が全焼した文化五(一八〇八)年の回禄のことである。

「鉛」「なまり」。

「零たれば」東洋文庫版は『ふりたれば』と訓じている。

「然ば」東洋文庫版は『しかれば』と訓じている。

甲子夜話卷之五 6 天井の説幷角赤と云器の事

 

5-6 天井の説角赤と云器の事

小笠原常方に【平兵衞】聞たるは、今世に天井と謂ものは、塵除(ヂンセウ)と唱べし。天井と謂ふは格組(ガウグミ)にしたるもの也。總じて家居は水の緣を取ゆゑ、天井の名も水に由ると云。又御厨子棚に具する箱の中に、布をきせ赤漆にして四方黑漆なるあるは、其名を角赤(スミアカ)と云。もと婦人の下結を納る箱なり【下結はふんどしなり】。因て今官家御婚禮御用に、小笠原氏より五色の服紗を納めて上る。是則下結をいるゝの遺風と云。

■やぶちゃんの呟き

「小笠原常方」現在の礼法の小笠原流宗家とは別に、旧旗本小笠原常方の子孫である小笠原清忠が「小笠原流礼法三十一世宗家」を称していると、小学館「日本大百科全書」の「小笠原流」にはあり、歴史部分の解説にも、現在の礼式の小笠原流とは『別家で、甲斐』『を本国とする歴代』五百『石の平兵衛(へいべえ)・孫七を号して先手弓頭、鉄炮頭』『を勤めた旗本小笠原家(小笠原赤沢経直(つねなお)の子孫)があ』り、『将軍吉宗』『のとき、旗本の縫殿助持広と平兵衛常春が弓馬儀礼の制定に参画したと伝え、常春、常喜(つねよし)、住常(すみつね)、常倚(つねより)、常方、常亮(つねあき)、常脇、常高と続き』、『明治維新を迎えた』ともある(下線太字は私が引いた)。

「今世に」「いま、よに」。

「塵除(ヂンセウ)と唱べし」塵除(ちりよ)けと別に呼ぶべきのがよい(ほどにちゃちなもので、本来の「天井」とは似ても似つかぬものである)、と主張しているのであろう。

「家居は水の緣を取ゆゑ」木造である日本の家屋は回禄に遇い易いことから、水に所縁(ゆかり)するように、則ち、人為的に呪術的な意味に於いて縁を有意に待たせようとしているということを言っているものと思う。「天」に「水」に縁のある「井」桁=「井」戸があれば、火は防げるからである。

「御厨子棚」「みずしだな」。御厨子所(みずしどころ:本来は宮中で天皇の食事や節会の酒肴を掌った役所を指したが、後に普通の台所の意となった)にあった食物を入れておく扉のついた棚。後には、美しい装飾を施して身近に置き、器物・草子類などの手回りの品を納めた。「御厨子」に同じい。ここは最後のそれ。

「具する」必ず付帯して入れ置いておく。

「角赤(スミアカ)」「隅赤」とも書く。昔、婚礼に用いた手箱の一種。四辺を雲形の朱塗りにして高くし、他の部分を黒塗りとした手箱。「日本国語大辞典」には女性の化粧品や装飾品を入れるとする。古美術商で骨董の豪華なものが見られる。

「下結」「したむすび」。「日本国語大辞典」によれば、下紐(したひも)と同義で、腰巻のことである。「ブリタニカ国際大百科事典」の「腰巻」によれば、腰に巻く布乃至衣服のことであるが,大別すると二種あるとし、①小袖形式のもので、十五世紀以降、宮中の下級女官たちが盛夏の時節の帷子(かたびら)の上に着けた。着装法は一度着てから、両肩を脱いで腰に巻きつけた。 十六世紀後半からは武家の貴婦人の夏季礼装となり、黒紅色練貫地に亀甲・宝尽くし・松竹梅・鶴亀などが五彩の糸と金糸で刺繡にされた普通の常用着衣を指し、其れとは別に、②長方形の布帛で作られ、左右の角につけられた紐で女性の腰部を纏う「湯文字(ゆもじ)」を指すようになった。しかし、本来、正しくは「湯文字」の上に纏う模様のある同系統のものが腰巻である。また、男性も十九世紀中頃までは白地の腰巻をしたことがあるとある。ここで小笠原に言っているのは②の紐である。なお、以上から判る通り、腰巻は肌に直接着用するものの、所謂、ショーツ・下着ではなく、あくまで外装着衣の一つである、という点に注意しなくてはならない。男の褌は下着であるが、和装時代の女性は下着は着用しなかったと考えるのが正しいように思われる。

「上る」「たてまつる」。

「是則」「これ、すなはち」。

譚海 卷之三 御藏米之堂上方御裝束料

 

御藏米之堂上方御裝束料

○石山三位(いしやまさんみ)殿犖卓不羈(たくらくふき)の人にて、公家衆の給俸增(まさ)れたる事有(あり)。所司代泉涌寺へ拜禮に詣(まうで)らるゝ路次(ろし)に、靑侍やうの編笠かぶりたる男、路の眞中に先に立(たち)て行(ゆく)ゆゑ、所司代の前駈(まへがけ)叱咜(しつた)すれどもきかぬふりにて徐(ゆるや)かにあるく、間近く成(なり)てしきりに呵(か)する時、跡をふり返りて、誰(たれ)なれば加樣に乘打(のりうち)せらるゝ、身は石山三位也と云(いふ)を聞(きき)て、所司代驚き下乘して式禮せられしかば、泉涌寺へ參詣ならば自分も拜禮に參(まゐる)ゆゑ、同伴致(いたす)べしとて(しひ)らるゝ間(あひだ)、所司代いなみがたく跡に立(たち)て步行し、物語しつゝゆかれしに、扨(さて)かしこに至りて、三位殿背負れたる風呂敷より裝束を取出(とりいだ)し、着かへて拜禮畢(をは)り、墓所の有方(あるかた)に退座し、三位殿火打(ひうち)取出し、たばこまいりながら、所司代と暫時閑談有(あり)、所司代申されけるは、かやうに官位の御身にて無僕(むぼく)にて御往來はあるまじき事と申されければ、石山殿、されば其事に候、御藏米少給にて中々進退力に及(およば)ざるよし申されける。加樣の事共(ことども)關東へ御聽に達し、御沙汰有(あり)て、以來御藏米の公家衆へは、裝束料として年々黃金一枚づつ賜る事になりしとぞ。

[やぶちゃん注:「石山三位」江戸時代前・中期の公卿石山師香(もろか 寛文九(一六六九)年~享保一九(一七三四)年)のことか。藤原氏持明院支流の壬生基起(みぶもとおき)の次男。元禄一六(一七〇三)年、従三位となり、壬生(当時は葉川)家から分かれて石山家を興した。享保七(一七七二)年に参議となり、同十九年、権中納言・従二位。狩野永納(かのうえいのう)に学んで、戯画に優れ、書・和歌・彫金でも知られた(ここは主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「犖卓不羈」「犖」は「卓」と同じく「勝れる」の意。「不羈」は「才知が人並外れて優れており,常規では律しきれないこと」で、「他者より優位にすぐれており、しかも何ものにも束縛されないこと」の意。

所司代」石山師香だとして、彼が三位になって以降の京都所司代は、松平信庸(のぶつね:在任は一六九七年から一七一四年。丹波篠山藩藩主)・水野忠之(在任は一七一四年から一七一七年。三河岡崎藩藩主。後に老中となり、享保の改革を支えた)・松平忠周(ただちか:在任は一七一七年~一七二四年)信濃上田藩藩主。後、老中)の孰れかとなる(牧野英成は没年の就任だから含めない)。ただ、見かけを「靑侍」と称しており、この場合、それは「若くて、ものなれていない官位の低い侍」と見間違えたのであるから、年老いてからでは、どうもシチュエーションにそぐわぬ。とするれば、前二者、松平信庸・水野忠之のどちらかであるが、水野の時は師香は既に数え四十六に達しており、無理がある気がするし、そもそも後に超有名な老中となる水野であったなら、名を記さぬはずがないと私は思うから、最終的に私はこの京都所司代は松平信庸ではなかったかと考えるものである。

「乘打」馬や駕籠に乗ったままの状態で、貴人や社寺仏閣等の前を通り過ぎることを言う。下乗(げじょう)の礼を欠いた非礼行為である。

「たばこまいりながら」(「まいり」はママ。歴史的仮名遣は「まゐり」が正しい。以下、それで表記する)の「まゐり」はこの場合、特異点の「たばこをのむ(吸う)」の尊敬語「お吸い遊ばれつつ」であるので注意。

「無僕」従者を誰も従えぬこと。

「進退力に及(およば)ざるよし」日常の行動が経済不如意のため思うようにならぬ旨。

2018/08/11

甲子夜話卷之五 5 興津鯛、一富士二たか三茄子の事

 

5-5 興津鯛、一富士二たか三茄子の事

或人より聞く。駿海産の甘鯛を生干にしたるを、おきつ鯛と稱して、名品の一なり。今は興津鯛と書て、興津の産なりなど覺ゆる人もあるは、誤なり。是は駿城に烈祖の在らせられしとき、奧女中のおきつと云しもの、宿下りして戾りたるとき、生干甘鯛を獻じたり。殊に御口に協ひ、戲におきつ鯛と御諚ありしより名高くなり、其地にて專らおきつ鯛と呼に至れることなりとぞ。かゝることさへ轉靴多きものなりけり。又樂翁の話られしは、世に一富士二鷹三茄子(ナスビ)と謂ことあり。此起りは、神君駿城に御坐ありしとき、初茄子の價貴くして、數錢を以て買得るゆゑ、其價の高きを云はん迚、まづ一に高きは富士の山なり。その次は足高山なり。其次は初茄子なりと云し言なり。彼土俗は、足高山をタカとのみ略語に云ゆゑなるを、今にては鷹と訛り、其末は三物は目出度ものをよせたるなど心得、畫にかき掛て翫ぶに至るは、餘りなることなり。

■やぶちゃんの呟き

「興津鯛」スズキ目アマダイ科 Branchiostegidae の静岡地方での異名。鮮魚を指す場合もあるようだが、通常はここにある通り、一夜干しにした干物を「興津鯛」と呼ぶ。日本近海で普通に見られるアマダイ属にはアカアマダイ Branchiostegus japonicus・キアマダイ Branchiostegus argentatus・シロアマダイ Branchiostegus albus の三種がいる。なお、「興津」は現在の静岡県静岡市清水区の地名として残り、古くからあった地名であり、海辺の宿場町で、見るからに旧漁村という感じはするし、アマダイの一夜干しの「興津鯛」は実際に興津の名産である。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「興津によれば、『ストーリーにはいくつかバリエーションがあり』、『家康が興津を訪ねたときに食べたのでこの名がついた』とするもの、『家康が食べたのは江戸城で、そこに興津という名の女中がいた』、『そもそも家康は関係なく、駿河湾で美味しいアマダイが取れたので名産となった』『など諸説があり定かではない』とする。しかし、「馬琴道中記」に、『このあたりもみじめずらし興津鯛』『の句が残っていることなどから、江戸期にはすでに定着した名称であったことが窺える』とする。『アジの干物などでは二枚に開いて半身に中骨を残すが、興津鯛は中骨を取り去ることが特徴的である。さっと炙って食べる』ともある。

「烈祖」徳川家康。

「樂翁」既出既注。松平定信の隠居号の号。

「話られし」「かたられし」。

「一富士二鷹三茄子(ナスビ)」小学館「日本大百科全書」によれば、『夢にみるもののなかで縁起のよいものの順位。とくに正月』二『日の初夢の縁起に用いられる。語源については、この諺が一般に流布した江戸時代中期にすでに諸説あ』り、駿河『国(静岡県中央部)の諺で、駿河の名物を順にあげたとする説がもっとも有力である。江戸時代の国語辞書』「俚言集覧」に『よれば、駿河の名物を「一富士二鷹三茄子四扇五煙草(たばこ)六座頭」とする』。『徳川家康があげた駿河の国の高いものの順位、すなわち一に富士、二に愛鷹(あしたか)山』(「足高山」は静岡県の富士山南麓にある愛鷹山((グーグル・マップ・データ))の古い表記。最高峰は標高千五百四・二メートルの越前岳)『、三に初茄子の値段といったことに由来するとする説』(本条の説)、『富士は高く大きく、鷹はつかみ取る、茄子は「成す」に通じて縁起のよい物とする説、などがある』とある。

「數錢を以て買得るゆゑ」数銭も出してやっと買えることから。

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(49) 武權の勃興(Ⅰ)

 

  武權の勃興

 

 信賴するに足る日本歷史の殆ど全部は、一つの廣大な挿話の内に收められて居る、則ち武權の興廢といふ事の内に收められる……。日本の歷史は紀元前六六〇年から五八五年迄の間統治して、百二十七歳の壽齡を保つたとされて居る神武天皇の登極と共に始まると、普通に云ひならはしてゐる。神武皇帝以前は、神代であつた――神話の時代である。併し神武天皇の卽位以後一千年間の、信賴するに足る歷史は傳はつてゐない、そして此の一千年の期間の年代記はお伽噺を去る事遠くないものと考へなければならない。この年代記には、事實の記錄もありはするが、事實譚と神話とが互によく織りまぜられて居て、兩者を區別して見ることは困難である。例ヘば紀元二〇二年に、神功皇后が朝鮮を征伐したと云はれる傳説があるが、【註】そんな征伐のなかつた事は可なり十分に證明された。後代の記錄は、上代のよりも、幾分か神話的ではない。第十五代目の統治者、應仁天皇の御宇に、朝鮮からの移住民のあったといふ事は事實に基づいた傳説であるし、尚ほ其後の日本に於ける古い漢文硏究の傳説も亦事實に基づいたものである、さらに第五徒紀の全部を通じて行はれたらしく思はれる社會動亂の狀態に就いての漠然たる記錄も同樣である。佛教は第六世紀の中葉に傳へられた、そして此の新しい信條に對して爲された神道一派の激しい反抗と、聖德太子――推古天皇の攝政にして、佛教の偉大なる建設者――の祈禱に依り、四提婆王(善靈で、阿修羅王に對するもの)の助けの下に、佛教の奇蹟的勝利を博した事實とに就いては、記錄が殘つて居る。推古天皇(紀元五九三年から六二八年迄)の御宇に於て佛教の基礎の確立すると共に、漸く信を置くに足る歷史の時代が始まつた、時は、神武天皇から數へて、三十三代目の日本の天子の御世であつた。

 

註 日本アジヤ協會の譯文中、アストン氏の論文『日本古代史』を見よ。

[やぶちゃん注:「四提婆王(善靈で、阿修羅王に對するもの)」「しだいばわう」と読んでおく。丸括弧内は原文にはない。訳者戸川明三の割注である。阿修羅王に対するという以上は天部に属すと思われる守護神霊「四提婆王」(原文“the Four Deva Kings)というのは私はあまり聴いたことがない(即座に連想するのは、釈迦の弟子であったが、後に違背し、阿闍世(あじゃせ)王を唆(そそのか)して殺害しようとして失敗して地獄へ堕ちたとされる「提婆達多」であるが、無論、彼ではない)。原文を見ると、最後の「King」が複数形であることに気づいた。さらに調べてみると、平凡社「世界大百科事典」の「阿修羅」の解説の中に、『サンスクリットのアスラasuraの写音。アーリヤ人のインド・イラン共通の時代にはアスラとデーバdevaはともに神を意味したが』、『彼らが分かれて定住してからは』『インドではアスラが悪神を』、『デーバが善神を意味するようになり』、『イランではアスラはゾロアスター教の主神アフラ・マズダとなった』とあり、また、「インド神話」の解説の中にヒンドゥー教の軍神『は代表的なデーバdevaである。デーバは神であり』、『それに対するものがアスラasura(阿修羅)である』とあり、また、「八部衆」の解説中に『天(デーバdeva)』は『神のことで(devaはラテン語deusと同系)、帝釈天をはじめとする三十三天など』を指すとある、ウィキの「デーヴァ」を見ると、『サンスクリットで神を意味する語である。女性形はデーヴィー 』で、『印欧祖語に由来する』。『ヒンドゥー教、仏教などインド系の諸宗教で現われる』。『漢訳仏典では、天部、天、天人、天神、天部神などと訳される』。『デーヴァが住む世界をデーヴァローカ』『と呼び、天、天界、天道、天上界などと漢訳される』。『インドのデーヴァはイランのダエーワと同一の語源と言われるが、イランのゾロアスター教ではダエーワは悪神である』。『ラテン語のデウス(dēus)などと同じ語源である』あるとあった。さらに同ウィキの中文版を開くと、標題が『提婆(印度神話)』となっているのを確認出来た。されば、この小泉八雲の原文は、

デーヴァローカ(「天」)に棲む「四」名のデーヴァ(「天部」の「神」)

即ち、

「天」部に属する仏教を守護する「四」名の「王」

という意味に読み替えられると私は思う。翻って、「日本書紀」には、仏教を巡って発生した崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との戦いに参戦した聖徳太子は、四天王に祈願して勝利を得、それに感謝して摂津国玉造(大阪市天王寺区)に四天王寺(四天王大護国寺)を建立したと記されている。さればこそ、私はここには、

「四名のデーヴァ王ら」(仏法を守護する四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)のことであろう)

としたくなるのである。大方の御叱正を待つ。

「アストン氏の論文『日本古代史』」「アストン」は既注であるが、再掲しておくと、イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい。「日本古代史」というのは一八八九年発表の“Early Japanese history のこと。この発表した年、アストンは病気のために外交官を辞職し、イングランドに落ち着いている。]

 

 倂し第七世紀以前の一切の事は、假作物語のやうに霧に包まれて、吾々は判然と其の眞相を摑むことはできないが、それでも初代から三十三代目迄の天皇及び女帝の御代の社會狀態に關する半神話的の記錄から、吾々は多くの事を推論し得るのである。上代のみかどの生活は、極めて質素で、その臣下と殆ど選ぶ處がなかつたらしい。神道學者の眞淵の言ふ處に依れば、天子も泥の壁と小石で葺いた屋根のある小屋の中に住み給ひ、大麻の着物を被て[やぶちゃん注:「きて」。]、野葡萄の蔓を絡ませた木製の鞘に納めた刀を佩き、人民の間を自由に步きまはられ、獵に出られる時には、自分で弓矢を携へられたといふことである。併し社會が發達して其の富力と權力とを增大するにつれて、此の古の簡素はなくなり、支那の習俗儀禮が、漸時輸入されるに及んで、大變革が生じて來た。推古天皇は支那宮廷の儀禮を取り入れ、貴族に對し、始めて支那の位階を適用せしめた。支那の贅澤品は、支那の學問と共にやがて宮廷に見られるやうになつた。爾來天皇の權威は次第々々に直接に働きをする事が少くなつた。新しい儀禮に拘はるやうになつで、萬機を親裁することは以前よりも遙かに困難となつたに相違ない。そして精力絶倫の統治者の場合に於てさへも、多少代理者に依つて、事を行はせるといふ誘惑の、強くなつて來た事も有りさうな事である。何れにしても、政府の眞の行政は、此の頃から、代理者――代理者はすべて藤原と呼ぶ大公卿氏族の人々であつた――の掌中に移り始めた。

 この氏族は最高の世襲的僧職を包有し、天孫の榮を誇つて居り、古代貴族の大半を占めてゐた。全部で百五十五家族ある公卿の中から 九十五家族はこれに屬してゐた――この中には五攝家なるものも入つて居たが、この五攝家の内から天皇は傳統上、皇后を選ぶ事になつて居たのである。其の藤原の歷史上の名稱は、桓武天皇(紀元七八二年――八○六年)の御代に始まつたので、桓武天皇は中臣鎌足の名譽を表彰するために、此の名を與ヘられたのである。併し此の氏族は、以前から永い間宮廷に於て、最高の地位を占めてゐたのであった。第七世紀の末葉から、行政上の權力は槪ね此の氏族の掌中に移つてしまつた。其の後關白卽ち攝政の職が制定され、近代に至る迄、それが此の家に世襲的の職權として殘つて居た――幾代かの後、中臣鎌足の子孫の手からは。その實驗が失はれてしまつた後までも。併しながら殆ど五世紀の間、藤原氏は日本の眞の攝政たる地位を保ち、出來得る限りその位置の利を專にしてゐた。すべての交官職は、藤原氏の男子の掌中に歸し、天皇の后妃や寵姫は、すべて藤原氏の女人であつた。政府の全權は、かくして此の氏族の手に委ねられ、天皇の大權はなくなつてしまつた。のみならず天皇の繼承は、全然藤原氏の手に依つて行はれ、在位の期間すら、藤原氏の政策に左右せられて居たのであつた。年少の天皇に退位をひ、退位後は佛數の僧侶となられたる事が得策と考へられた――次いで選ばれた後繼者は往々ほんの幼兒に過ぎないと言ふ有樣で、二歳にして帝位に登り、四歳にして退位された天皇の例があるかと思へば、五歳にしてみかどの位に就き、或は十歳にして卽位した例も數多ある。併しながら、王位の宗教的尊嚴は依然として減少される事なく、むしろ增大したのであつた。みかどが政策と儀禮とのために、一般人民の視界から遠ざかれば遠ざかるほど、其の離隔と隔絶とは、益〻尊貴な傳統的な畏敬の念をくすることとなつた。西藏のラマ僧の如く、生ける神なる天子は、民衆には見えないやうにされて居た。かくして天顏を拜する者は死ぬと云ふ信仰が徐々に起つて來たのであつた……。藤原氏は、自己の政權を確保するために、かかる專橫な手段を弄することを以てさへ飽き足らず、年少の天子の性格を惰弱にするがために、腐敗に赴かせるいろいろな奢侈を宮中に行はしたと傳へられてゐる。さうしなければ天皇は古代からの帝位の權威を振ふ力を示される恐れがあつたからである。

[やぶちゃん注:「五攝家」藤原氏のうち、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家を指す。藤原氏は北家出身の良房・基経父子が摂政・関白となって以来、その子孫が相いついで摂政・関白となり、同時に氏長者を兼帯したが、このように摂政・関白を出す家を「摂関家」又は「摂家」と称した。ところが、鎌倉時代初頭、源頼朝の推挙により、兼実が兄基実の子基通に代わって摂政・氏長者となって、基通の近衛家に対し、九条家を興した。ここに摂関家は近衛と九条に分立したが、さらに兼実の孫道家は、その子教実・良実・実経を相いついで摂関につけたことから、良実が二条家を、実経が一条家を興し、教実の九条家と三家に分かれた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「二歳にして帝位に登り、四歳にして退位された天皇」平安末期の第七十九代六条天皇(長寛二年十一月十四日(一一六四年十二月二十八日)~安元二(一一七六)年)のことであろう。彼は永万元年六月二十五日(一一六五年八月三日)に即位させられ、仁安三年二月十九日(一一六八年四月九日)に退位させられている。即位は数え二歳(実際には生後満七ヶ月と十一日)で歴代最年少であり、在位二年八ヶ月で祖父後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王に譲位(高倉天皇)させられ、これまた歴代最年少の上皇となった(但し、数えだと五歳、満だと三歳となる)。]

 此の簒奪――武權勃興の準備となつたこの纂奪――は、恐らく正常に解釋されてゐなかつたと思はれる。古代ヨオロツパのすべての族長的社會の歷史は、社會進化の上のこれと同一の形相を説明して居るのである。兩者の發展の或る期間に於て、吾々は同樣な事實――僧侶としての國王たる君主から一切の政權が剝奪され、しかもその王はただ宗教的尊嚴を保つやうにさせられて居る事――を認めるのである。藤原氏の政略を、單なる野心、竝びに單なる纂奪の政策と判斷するのは誤りである。藤原氏はその天孫を主張して居た宗教的貴族であつた、――宗教と政治とが同一視された社會の氏族の長であり、この社會に對するその關係は、ユウパトリデイEupatridae (ギリシヤの古い貴族で立法の特權をもつて居たもの)が古代アゼンスの社會に對する關係に等しかつた。みかどはもと、氏族の主長の大多數の同意に依り、最高の長官、軍事司今官、竝びに宗教上の教長となつたものである、――この氏族の主長が、各自の家來に對する關係は、恰も『天皇』が社會全體に對する關係と同じものであつた。併し統治者の大權が、國民の發展に伴なつて增大するや、從來聯合しで其の大權を擁護するに力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]者も、それを危險とするやうになつて來た。ここに於て彼等は、天皇の宗教上の優越權はその儘にして、その政治上竝びに法律上の權威を剝奪しようと意を決した。アゼンスに於ても、スパルタに於ても、又ロオマに於ても、其他古代ヨオロツパの何處に於ても、これと同一な理由から、宗教上の元老に依つて、同一な政策が行はれたのであつた。ロオマ上代の國王の歷史はド・クウランジュ氏の解釋に從へば、僧侶なる統治者と宗教上の貴族との間に釀成された反抗の性質を、尤もよく語るものであると、併しこれと同一の事實は、あらゆるギリシヤの社會にも行はれ、同樣の結果を生じた。何處でも、古の王は、政治上の權力を奪はれて居た。併し宗教上の尊嚴と特權に至つてはこれを保持することを得た。彼等は、統治者でなくなつた後までも最高の僧侶ではあつたのである。これは日本でも同樣であつた。私は日本の史家が將來に於て、現代社會學の立場から觀察して、藤原時代の物語に就き、全然新しい解釋を與へるであらうと想像して居る。兔に角、天皇の大權を削減するに就いては、宗教上の貴族は、野心かそれを行つたと共に、保守的の警戒からそれを斷行したに相違ないといふ事は殆ど疑ひを容れる餘地はない。法律と慣習とに改變を加へた天皇も多くあつた――古代貴族の大部分からは、殆ど好意を以て迎へられなかつた改變を、又今日ではラテン語でなければ書く事の出來ないやうな慰みをした天皇もあつた。また孝德天皇の如き『神の化身』であり、また古代の信仰土の主長でありながら、『神の道を輕視し』生國玉の御社の神木を伐り倒した天皇もあつた。孝德天皇は、佛教に對する信心のあるにも拘らず(恐らく實際その信心のあるが爲めにかも知れぬが)尤も賢明にして又尤も善良なる君主の一人であつた。併しその『神の道を輕視する』天皇の一例となつたといふ事は、僧侶的氏族をして重大な考慮をめぐらさしめたに相違ない……。尚ほこの他にも、注意すべき重要なる事實がある。數世紀の間に、正統なる皇室は、氏から全然分離するに至つた、而して他の各單位とは獨立して居たこの全能力のあつた一單位は、それ自體の内に、貴族的特權と既定の制度とに對して重大なる危險をもつて居るものと考へられた。すべての氏族の慣習を破壞し、氏族の特權を廢棄し得る權力ある全能なる神王の個人的性格と意思とは、餘りに重大な事を起すかも知れない。一方に、氏族の族長的統治の支配下に在つては、すべての者が一樣に安全であつた。何となれば氏族の族長的統治は、その内の一族が他族を犧牲に供して、自ら著しき力を振はんとするあらゆる傾向を阻止することが出來たのであるから、併し皇室の祭祀――すべての權威と特權との傳統的本源――は、明白な理由から。これに一指だも觸れる事は出來なかつた。則ち宗教貴族が、眞の權力を自己の掌中に收め得たのは、皇室の祭祀を維持し、それを鞏固にする事によつてのみなされたのであつた。事實彼等は眞の實權を、殆ど五世紀間掌握しつづけて居たのである。

[やぶちゃん注:「ユウパトリデイEupatridae (ギリシヤの古い貴族で立法の特權をもつて居たもの)」原典の綴りは最後がラテン文字の合字で“Eupatridӕ”と斜体。この部分も丸括弧は訳者戸川の割注である。辞書ではアテナイの貴族階級の一種とし、「エウパドリデス」とカタカナ音写してある。

「アゼンス」原文の“Athens”の綴りを見ればお判りの通り、「アテナイ」(アテネ)のこと。

「ド・クウランジュ氏」複数回既出既注であるが、再掲しておく。ヌマ・ドニ・フュステル・ド・クーランジュ(Numa Denis Fustel de Coulanges 一八三〇年~一八八九年)はフランスの中世史の歴史学者。『クーランジュは自身の方法を「デカルト的懐疑を史学に適用したもの」と語って』『彼の掲げた史学研究のモットーは、『直接に根本史料のみを、もっとも細部にわたって研究すること』、『根本史料の中に表現されている事柄のみを信用すること』、そして『過去の歴史の中に、近代的観念を持ちこまないこと』であったという。『クーランジュの文献資料に関する知識は当時としては最高であり、その解釈についても他人の追随を許さなかった。しかし、彼は古代作家を無批判に信頼し、原典の信憑性を確認せずに採用した。さらに通説にことさらに反対する傾向があった』。『クーランジュの文体は明晰かつ簡明であり、事実と推理のみをあらわし、当時のフランス史家の悪弊であった「漠然とした概括」や「演説口調の慣用語」から脱却していた』とある。詳細は参照引用したウィキの「フュステル・ド・クーランジュ」を参照されたい。

「今日ではラテン語でなければ書く事の出來ないやうな慰みをした天皇もあつた」何か意味深長なまがまがしいことをしたかのような訳になっているが、原文は“there had been an Emperor whose diversions can to-day be written of only in Latin”であり、平井呈一氏の訳では『こんにちなら、ラテン語だけで物を書くというような、そんな気まぐれをやった天皇もあった』となっている。漢字や万葉仮名だけしか使わないと言った意味か。誰かは知らない。

「孝德天皇」(推古天皇四(五九六)年~白雉五(六五四)年/在位:孝徳天皇元(六四五)年~没年迄)。ウィキの「孝徳天皇によれば、「日本書紀」『によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わず』、『しきりに恩勅を下した』とある。彼は生國魂(いくくにたま)神社(現在は大阪府大阪市天王寺区生玉町にあるが、以前は現在の大阪城の位置にあったが、豊臣秀吉による大坂城築城の際に移転させられた。但し、孝徳帝当時はどこにあったかは不詳である)を伐採したことが、「日本書紀」孝徳天皇即位前紀の分注に載る。この伐採は難波宮(なにわのみや)造営のためであったと考えられている、とウィキの「生國魂神社にある。]

 

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(48) 社會組織(Ⅳ) / 社會組織~了

 

 讀者は今や、古代の日本社會の狀態に關して、大體正確な觀念を抱き得た事であらうと思ふ。併し其の社會の制度は、私が示し得るよりも遙かに複雜なものであつた――非常に複雜で、此の問題を詳細に論ずるには、數卷の書を必要とする位である。他に適當な名稱がないので、今尚ほ吾々が封建の日本と呼ぶ所のこの社會は、一と度[やぶちゃん注:「ひとたび」。]十分に發展したならば、これは三重組織に著しく近接してゐる。軍國型の二重複合社會りの特色を、多分に示してゐるものである。勿論、著しき特色は、眞の宗教上の政教政治がないといふ事である、――是は政府は決して宗教と分離しないといふ事實に依るのである。嘗て佛教の方に中央政權から全く離れて、宗教上の政教政治を樹立しようとする傾向があつたのであるが、其の途上に二個の致命的な障害があつた。第一は、佛教そのものの狀態であつて――佛教が多くの宗派に分裂して居て、甲乙の宗派が互に反目して居た爲めであつた。第二の障害は、武家氏族の執拗なる敵意で、直接間接に、自己の政策に干涉する力を有するが如き宗教の力を、嫉視した爲めであつた。外來の宗教が、行動の世界に於ても、侮り難き勢力あることを、證明し始めるや、殘忍なる手段が選ばれ、第十六世紀に於て、信長に依つて行はれた恐るべき僧侶の虐殺が、日本に於ける佛教の政治的希望を、終熄せしめたのであつた。

 それを外にして社會の編成は、軍國型のあらゆる古代文化の構成に似てゐた――一切の行動は、積極的にも消極的にも規定されて居た。一家は個人を支配し、五家族の集團は一家族を支配し、組合は此の集團を支配し、領主は組合を支配し、將軍は領主を支配して居た。二百萬の武士は、生産者階級の全體に對し、生殺與奪の權を有し、大名はこれ等の武士に對し、同樣の權を有し、將軍は又大名を支配してゐた。事實は必らずしもさうではなかつたが、名目の上では、將軍は天皇に隷屬してゐた、武力的なる橫奪は、重き責任の自然の狀態を攪亂し、位置を轉換せしめた。然しながら、政府の此の位置の轉換に依つて、貴族から下民に至る迄、規律ある訓練が行きとどいた。生産者階級の中には、無數の結合――各種の組合があつた、併しこれ等は專制主義の中に於ける專制主義――共産制の專制主義であつて、各人は他の人々の意志に依つて統御されて居た、そして企業は、商業にせよ産業にせよ、組合以外に於ては不可能であつた……。個人が組合に束縛される次第は既に述べた通りであるが――その個人は組合の許可なくしては、その組合を去る事は出來ず、組合以外のものとは結婚する事も出來なかつた。吾々は又外國人と云ふのは、古代のギリシヤ、ロオマで云つたやうな意味に於ける外國人――換言すれば、敵  a hostis――であつた事、竝びに單に宗教的にその許しを得ることに依つてのみ、他の組合へ加入することが能きた事をのべた。それ故、俳外的な點では、日本の社會狀態は古いヨオロツパの社會狀態に似てゐた、併しその軍國的な點は、むしろアジヤの諸大帝國の狀態に似てゐた。

[やぶちゃん注:「五家族の集團」古代律令制下の五保の制(ごほ/ごほうのせい:五戸を纏めた単位を「保」と称し、保長が決められ、それが責任者となって相互扶助・治安・徴税等に関し、連帯責任を負った制度)を起源とするとされる、江戸時代に領主の命令によって組織された隣保制度「五人組(ごにんぐみ)」のこと。ウィキの「五人組(日本史)」から引く。『武士の間にも軍事目的の五人組が作られたが、百姓・町人のものが一般的である。五人与(ぐみ)・五人組合などとも呼ばれた』。慶長二(一五九七)年(年)『豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・農民に五人組を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した』。『五人組制度は村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。また町村ごとに遵守する法令と組ごとの人別および各戸当主・村役人の連判を記した五人組帳という帳簿が作成された』。『実態は、逃散したりして潰れた家や』、『実際の住民構成とはかけ離れた内容が五人組帳に記載されていた場合があったり、また』、、『年貢滞納をはじめとする村の中の争議は、村請制の下では五人組ではなく』、『村落規模で合議・責任処理されるのが普通であったため』、『効果としては疑問がある。また、村によっては一つの村内で領主が家ごとに別々(相給)になっているケースがあり、その場合には領主が編成する五人組と村が居住区域をもって定めた五人組(「郷五人組」)が並存するという現象も生じた。しかし』、『五人組制度が存在することによって、間接的に名主・庄屋の権威を裏付け、住民の生活を制約すると同時に』、『町村の自治』的な『とりまとめを強化することには役立った。近代的自治法の整備とともに五人組は法制的には消滅したが、第二次世界大戦中の隣組に』、『その性格は受け継がれていた』とある。

hostis」原文はこの単語のみ“hostis”と斜体。ホスティス。ラテン語で「敵」の意の名詞。]

 

 勿論、かくの如き社會は、近代の西方文化の如何なる形態にも何等共通な點をもつて居ない。かくの如きは氏族の集團の一大集塊であつて、二重政府の下に、漠然と結合したもので、その武力を有する元首が萬能の力を振ひ、宗教上の元首はただ禮拜の的――祭祀の生きたる象徴――たるに過ぎなかつたのである。然しながら、此の組織は、外形上から云へば、吾々の呼んで封建制度と云ふ所のものに、近似してゐるとも云へよう、其の構造は――僧侶的政教政治を除けば――むしろ古代のエヂプト若しくはペルウの社會に似てゐた。最高位の人は、吾々の使用する言葉の意味で云ふ皇帝と云ふのではなく、――諸〻の王を支配する王或は天の代理者と云ふのでもない――それは神の化身、民族の神、大陽から生まれ出でたるいんか(ペルウの王族)[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]である。此の神なる人物を取り圍んで、種族の者が敬意を捧げて竝んでゐるのである――併しそれと共に、各部族は又各自の祖先の祭祀を行つてゐるのである、そしてこれ等の部族を形成する氏族、これ等の氏族を形成する組合、これ等の組合を形成する大家族等も、亦それぞれ各自の祭祀をもつてゐる、かくてこれ等祭祀の集團から、習慣と法律とが生まれたのである。併し何處でも、習慣と法律とは其の起原を異にして居るが故に兩者には多少の相違がある、只だ共通なる一事は、――これ等習慣法律は、絶對恭な服從を要め[やぶちゃん注:「もとめ」。]、公私の生活のあらゆる細目に亙つて規定を爲す所があつた點である。個性は制に依つて全然抑制された。そして制は、主として内部から發生し來たつたもので、外部からすすめられたものではなかつた――各個人の生活は、他の人々の意志に依つて定められ、自由な行動、自由な言論、若しくは自由な思想と云ふものは、全然問題外とされて居た。これは古いギリシヤ社會の社會主義的專制とも比較の出來ない程に更に酷しいもので、最も恐るべき種類の武斷的專制と宗教的共産主義とが合體したものである。個人に刑罰に關する外は、法律上に存在しない者であつた。そして農奴にせよ、自由の人にせよ、全生産者の階級は、無慙にも最も苛酷なる奴隷的屈從をひられて居たのであつた。

 普通の聰明をもつて居る現代人にして、かくの如き境遇に堪へて生活し得たと(家康に依つて士分に取り立てられた、イギリス人なる水先案内ヰリアム・アダムスの場合に於けるが如く、或る有力なる主權者の庇護のない限り)信ずる事は困難である、精神上、肉體上、不斷の多樣なる制肘は、それ自身既に死である……。現今、日本人の組織に對する異常なる能力に就いて、竝びに西歐でいふ代議政體に、日本人が適當してゐる證據としての、日本人の『民族主義的精神』に就いて論述する者は、現實の外觀を誤解してゐるものである。實際は、日本人が自治體組織に對して異常なる能力を有すると云ふことは。近代の民主主義政體の如何なるものにも、不適當であると云ふ事の尤も有力なる證據となるのである。皮相的に見れば、日本の社會組織と、近代アメリカの・地方自治體、或はイギリス植民地の自治體との差異は、些々たる[やぶちゃん注:「ささたる」。]ものらしく思はれる、そして吾々は日本社會の完全なる自治的訓練に、敬服するも當然と思はれる。併し兩者の差別は、根本的である、莫大である――幾千年の歳月に依つてのみ測られる程に。其の差異は、制的共同と自由共同との差別である――宗教の最古なる形に基づく共産制の專制主義の形と、無制限なる個人的自由競爭の權利と共に高度の發展を逡げたる産業組織の聯合の形との差異である。

[やぶちゃん注:「ヰリアム・アダムス」徳川家康に外交顧問として仕え、「三浦按針(あんじん)」の日本名で知られる、イングランド人の元航海士であったウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六年四月二十四日(一六二〇年五月十六日))。日本に最初に来たイギリス人とされる。少年期、造船所に勤め、やがて水先案内人となった。イギリス艦隊に船長として従事した後、オランダに渡り、一五九八年、司令官ヤコブ・マフの率いる東洋遠征船隊に水先案内として乗船、五隻からなる同船隊は途中で四散したが、彼の乗船したリーフデ号は太平洋を横断し、一六〇〇年四月十九日(慶長五年三月十六日)、豊後臼杵湾の佐志生(さしう:現在の大分県臼杵市)と推定される地点に漂着した。彼は船長の代理として大坂に赴き、徳川家康と会い、家康の命令を受け、船を堺より関東の浦賀に回航した。かねてより、関東貿易の開始を熱望する家康はアダムズとの会談を通じ、彼にその期待をかけ、日本橋の近くに屋敷を与え、また、浦賀の近くの三浦半島の逸見(へみ:現在の神奈川県横須賀市)に知行地を給した。「三浦按針」の名はこのようにして生まれた(按針は「パイロット=水先案内」の意味)。アダムズは、同僚のヤン・ヨーステン(ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン Jan Joosten van LodensteynLodensteijn) 一五五六年~一六二三年:オランダの航海士で朱印船貿易家。「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」。オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに漂着、徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲附近で、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来し、「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子(やようす)」と呼ばれるようになり、これが後に「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる。やがて、東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが、帰国交渉が捗らず、結局、諦めて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した)とともに、まさに家康の外交顧問的存在となり、家康に数学・幾何学の初歩を教授するほか、外交の諸問題に関与し、反カトリックのオランダ・イギリスの対日通商開始を側面より促進したばかりか、朱印状を受けて東南アジアに渡航した。また、伊豆の伊東でイギリス型帆船を建造したことでも知られる。彼はイギリス人ながら、イギリスの対日通商政策とは意見を異にするなど、国際人として家康外交の展開に重要な役割を演じた。日本人を妻としたが、元和(げんな)六年四月二十四日、五十五歳で肥前平戸で病死した。妻は馬籠勘解由(まごめかげゆ)の娘といわれ、夫妻の墓は按針塚と名づけられて、逸見に近い塚山公園に現存する(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 吾々が西歐文明の中に於ける、共産主義或は社會主義と呼ぶ所のものは、民主主義の完全なる形に近づかむとする憧憬を表はす近代的の發達であると云ふのは全く世俗の誤謬である。實際、これ等の運動は逆戾り――人間社會の原始狀態への逆戾り――を表はしてゐるのである。古代の專制主義のあらゆる形の中に、人民が自治を營む能力のあつた事を吾吾は明確に認める。それは古のギリシヤ、ロオマに於けると等しく、古代エヂブト及ぴペルウに於ても顯はされて居る所であり、今日ではヒンヅウ及び支那の社會にも見られ、又シヤム、アンナンの村落に於ても、日本に於けると同樣に硏究し得られることと思ふ。それは宗教上の共産主義的專制主義の意である――人格を蹂躙し、企業を禁止し、競爭を公共の罪惡とする最高の社會的暴虐である。かくの如き自治にも、それ相應の長所があつて、それは日本が諸外國から孤立の狀態で居る事を得た限りは、日本人の生活の要求に全然適合したものであつた、併し社會の倫理上の傳統が、同胞を犧牲にして、個人の利益を計る事を禁ずるが如き社會は、社會の自治が個人の最大の自由と、最大範圍の競爭的企業とを是認するが如き社會に對して、産業的生存競爭をしなければならなくなつたやうな場合には、非常な不利な位置に墮ちると云ふ事は明白なことである。

 吾々は、精神上及び肉體上に於て、不斷の一般的壓を受けた結果は、何もかも單一無味の狀態卵――全生活の表現に於ける陰氣な統一と單調――をもたらすことを想像する。併しかくの如き單調は、組合の生活に關してのみあつた事で、民族の生活に關しては存在しなかつたのである。最も不思議な變化が、古代のギリシヤ文明の特徴となつたやうに、それは日本の此の奇妙な文明の特徴ともなつて居る、而も其由來した理由に至つては二者同一である。祖先禮拜に依つて支配された、あらゆる族長的文化に於て、絶對的同一性と一般的統一とに向ふ一切の傾向は、そのものの全體としての特質に依つて阻止されるのである、蓋し全體なるものは決して單一に判を捺したやうにはならないものであるからである。其の全體なる綜合體の各單位、それを構成する小專制の集合中の一々の專制に對し甚だしく猜疑の眼を以て、それ自身の傳統と習慣とを守り、自足して居る。恁ういふ事情から早晚、無數の樣々なる細目、藝術上産業上建築上機械上の細目の變化が生まれ出て來る。日本に於ては、かかる分化と專門化とは、かくの如くして維持せられた。それ故、吾吾は全國を探しても、習慣と産業と生産手段とが、明確に同一であるといふ村落を、二つと見出すことは出來ないのである……。恐らく漁村の習俗は、私が説かんとすることの最良の例證である。諸所の海邊に於て、各種の漁民部落は、網と小舟の建造に就いて、各自傳來の方法をもち、各自獨得の使用方法を採つて居る。一八九六年の大海嘯[やぶちゃん注:明治二十九年六月十五日午後七時三十二分に発生した「明治三陸地震」。岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖二百キロメートルの三陸沖を震源として起こった地震で、マグニチュード八・二~八・五の巨大地震。地震に伴って、二〇一一年三月十一日に起こった東北地方太平洋沖地震の前までで、本州に於ける観測史上最高の遡上高だった海抜三十八・二メートルを記録する津波が発生し、甚大な被害を与え、死者・行方不明者の合計は二万千九百五十九人に達した。以上はウィキの「明治三陸地震に拠った。]に際して、溺死する者三萬人、漂失した海濱の村落二十を算した時に、生殘者のために神戸其の他の各地に於て、巨額の金員が集められた。好意をもつて居た外國人達は、各地方で作られた多くの網と小舟とを買ひ取つて被害地へ送り、漁船と漁業の道具の缺乏を補給しようとしたのであつた。所がこれ等の寄與物は、全然異種の小舟や網を用ふることに馴れた北方地方の人々には、何等の役に立たないことが解つた。のみならず、更に其の後に判明したことであるが、各小村每に漁業の道具が異つてゐて、各自その獨得なものが必要であつたのである……。さてかくの如く漁民村落の生活に表はれた風俗習慣の差異は、他のいろいろな手工業や職業に於て、同樣に表はれてゐる。家の建方、屋根の葺方は、殆ど地方每に異つてゐる。農業園藝の方法、井戸の掘方、織物の織方、漆器陶器の作方、瓦の燒方、皆異つてゐる。殆ど主要な各町各村は、何等かの特産物を誇りとし、其の産出地の名稱裕を産物に冠した、又其の産物は他所の製品とは相違するものであつた……。祖先の祭祀が、かかる産業の地方的特殊の趣を、保存發展せしめたことは疑ふまでもない。手工の祖先卽ち組合の守護神は、自己の子孫または自己を禮拜する者共の作物が、その獨得の性質を維持するやうにと、希望してゐるのだと考へられたのである。個人の企圖が、組合の統制に依つて制肘されることはあつたが、地方的産物の特殊な趣は、その祭祀の相違に依つて、增進されたのであつた。家族の保守的な考へ若しくは組合の保守的な考へは、その地方の經驗から思ひつかれた小さい改良或は小さい修正は、これを默許したのであるが、多分迷信から來たのでもあらうか、變つた經驗に依る結果を受け入れることに就いては、非常に用心してこれを防いだのである。

 今尚ほ、日本人自身にとつて、自國内の旅行の少からぬ樂みは、地方の産物に見る奇妙な相違を硏究する樂みである、――新奇なもの、意外なもの、想像もしなかつたものを見つける喜びである。朝鮮或は支那から、もと借り來たつた古代の日本の藝術若しくは産業は、無數の地方的祭祀の影響を受けて、奇妙な形態を、保存し且つ發展させたと考へられる。

 

 

2018/08/10

和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)

 

Yamadori

 

やまとり 鸐雞 山雉

山雞

     【和名夜万止利】

 

本綱雉居原野鸐居山林故得山名形似雉而小尾長三

四尺人多畜之樊中

鷮雉 似鸐而尾長五六尺者能走且鳴俗通呼爲鸐矣

鷮鸐共勇健自愛其尾不入叢林雨雪則岩伏木栖不敢

下食徃徃餓死南方人多挿其尾於冠其肉皆美于雉有

小毒傳云四足之美有麃兩足之美有鷮

鸐雉鷮雉【一類】鷩雉錦鷄【一類】此四種皆稱山雞【名同小異】

が小異がある〕。

万葉 あし曳の山鳥の尾のしたりをの長々し夜を独りかもねん

                  人丸

△按鸐形大於雉而尾長二三尺頭背尾皆赤羽端有白

 圈文頂與兩頰有紅毛如冠腹淡赤而毛端有白彪觜

 黑而末赤脚黑色其尾數二十六中最長者二俗呼曰

 引尾歌所謂絲埀尾是也有黑横紋白纎紋相双爲文

 亦如虎彪其彪凡十一二【有十三者爲珍】白彪中有黑點者爲

 常【無點鮮明者貴爲眞羽】爲箭羽以射邪魅或爲楊弓箭亦佳

 雌者黑色帶赤而腹畧白其尾短五寸許端白而頂無

 冠形色遥劣也深山中皆有之丹波之産形小於東北

 者出於薩州者極大而有尾三四尺者所謂鷮雉是矣

 肉脂多然有酸味劣於雉凡山雞性乖巧而難捕人緩

 則禹歩急則暴飛爲之終日費人力非鐵銃不可獲偶

 獲者養于樊中飼以芹性愛尾令尾不礙于物也相傳

 云鸐雌雄日則在一處夜則隔溪谷視有雌影寫于雄

 尾而啼謂之山鳥鏡【万葉集枕双紙良材集等載之】歌人爲口弄

六帖 晝はきて夜は別るゝ山鳥の影みる時そねはなかれける

 

 

やまどり 鸐雞〔(てきけい)〕

     山雉〔(さんち)〕

山雞

     【和名、「夜万止利」。】

 

「本綱」、雉は原野に居り、鸐は山林に居る。故に「山」の名を得〔(う)〕。形、雉に似て、小さく、尾の長さ、三、四尺あり。人、多く、之れを樊〔(かご)の〕中に畜〔(か)〕ふ。

鷮雉〔(きやうち)〕 鸐(やまどり)に似て、尾の長さ、五、六尺ある者、能く走り、且つ鳴く。俗、通〔(とほ)〕し呼んで、「鸐」と爲す。

鷮・鸐、共に、勇健にして、自〔(みづか)〕ら、其の尾を愛す。叢林に入らず、雨雪するときは、則ち、岩に伏し、木に栖(す)み、敢へて下り〔ては〕食はず、徃徃、餓死す。南方の人、多く、其の尾を冠〔(かんむ)〕りに挿す。其の肉、皆、雉より美なり。小毒、有り。傳へて云はく、『四足の美〔なる〕は麃〔(おほじか)〕に有り、兩足の美〔なる〕は鷮に有り』〔と〕。

鸐雉と鷮雉【一類。】、鷩雉〔(へつち)〕と錦鷄〔(きんけい)〕【一類】、此の四種、皆、「山雞(やまどり)」と稱す【名と同じくして小異〔あり〕。】

「万葉」

 あし曳きの山鳥の尾のしだりをの長々し夜を独りかもねん

                  人丸〔(ひとまろ)〕

△按ずるに、鸐、形、雉より大にして、尾の長さ、二、三尺。頭・背・尾、皆、赤く、羽の端に白〔き〕圈文〔(けんもん)〕有り。頂と兩頰とに、紅〔き〕毛、有り。冠(さか)のごとし。腹、淡赤にして、毛の端に白き彪〔(ふ)〕、有り。觜、黑くして、末、赤く、脚、黑色。其の尾の數、二十六〔の〕中、最も長き者、二つ、俗に呼んで「引尾〔(ひきを)〕」と曰ふ。歌に所謂〔(いはゆ)〕る、「絲埀尾(しだりを)」、是れなり。黑〔き〕横紋有り、白く纎(ほそ)き紋、相ひ双びて文(あや)を爲す。亦、虎の彪(ふ)のごとし。其の彪(ふ)、凡そ、十一、二【十三有る者、珍と爲す。】。白〔き〕彪の中に黑點有る者を常と爲す【點、無く、鮮明なる者、貴〔(とうと)〕し。「眞羽」と爲す。】。箭〔(や)〕の羽と爲して、以つて、邪魅を射る。或いは、楊弓の箭と爲〔すも〕亦、佳し。

雌は黑色に赤を帶びて、腹、畧〔(ほぼ)〕白く、其の尾、短く、五寸許〔り〕。端、白し。頂に冠(さか)無し。形・色、遥かに劣れり。深山の中、皆、之れ有り。丹波の産、形、東北の者より小さし。薩州より出〔(いづ)〕る者、極めて大きにして、尾、三、四尺の者、有り。所謂る「鷮雉」、是れならん。

肉脂、多し。然れども、酸〔(す)〕き味有りて、雉より劣れり。凡そ山雞の性、乖巧〔(りこう)〕にして捕へ難し。人、緩(ゆる)きときは、則ち、禹歩〔(うほ)〕す。急なるときは、則ち、暴(には)かに飛ぶ。之れが爲に、終日、人力を費す。鐵銃に非ざれば獲るべからず。偶〔(たまたま)〕獲る者、樊〔(かご)の〕中に養ひて、飼ふに芹(せり)を以てす。性、尾を愛す。尾をして物に礙〔(さ)〕へ〔ぎら〕ざらしむなり。相ひ傳へて云はく、『鸐は雌雄、日(〔ひ〕る)、則ち、一處に在り、夜、則ち、溪谷を隔〔(へだ)て〕て、雌の影、雄の尾に寫ること有るを視て、啼く。之れを「山鳥の鏡」と謂ふ』〔と〕【「万葉集」「枕双紙」「良材集」等に之れを載す。】。歌人、口弄(〔くち〕ずさみ)と爲す。

「六帖」 晝はきて夜は別るゝ山鳥の影みる時ぞねはなかれける

[やぶちゃん注:日本固有種であるヤマドリは、

キジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii scintillans

ウスアカヤマドリ(薄赤山鳥)Syrmaticus soemmerringii subrufus

シコクヤマドリ(四国山鳥)Syrmaticus soemmerringii intermedius

アカヤマドリ(赤山鳥)Syrmaticus soemmerringii soemmerringii(基亜種)

コシジロヤマドリ(腰白山鳥)Syrmaticus soemmerringii ijimae

の五亜種がいる。ウィキの「ヤマドリ」によれば、『名前は有名だが、野外で出会うのは少し困難な鳥でもある』とし、全長はで約一メートル二十五センチメートル、翼長二十・五センチメートル。は約五十五センチメートル、翼長十九・二~二十二センチメートル。体重は九百グラム~一・七キログラム、七百グラム~一キログラム。尾はの方がかなり長く、尾長はで四十一・五~九十五・二センチメートルあるのに対し、は十六・四~二十・五センチメートルしかない。尾羽の数は十八~二十枚。の『羽色は極彩色のキジと異なり、金属光沢のある赤褐色を呈す。およそ頭部の色が濃く胴体から脚にかけて薄くなる傾向があるが、その程度は亜種により様々である。よく目立つ鱗状の斑がある。目立つ冠羽はないが、興奮すると頭頂の羽毛が逆立ち冠状に見えることもある。顔面にキジ同様赤い皮膚の裸出部がある。尾は相対的にキジよりも長く、黒、白、褐色の鮮やかな模様がある。脚には蹴爪を持つ』。の羽色は褐色で、キジのに似る。』主に標高千五百『メートル以下の山地にある森林や藪地に生息し、渓流の周辺にあるスギやヒノキからなる針葉樹林や下生えがシダ植物で繁茂した環境を好む』。『冬季には群れを形成する』。『食性は植物食傾向の強い雑食で』、『植物の葉、花、果実、種子、昆虫、クモ、甲殻類、陸棲の巻貝、ミミズなどを食べる』。は『鳴くことはまれだが、繁殖期になると』、は『翼を激しくはばたかせ、オートバイのエンジン音に似た非常に大きな音を出す(ドラミング、ほろ打ち)ことで縄張り宣言を』すると同時に、の『気を惹く。また、ドラミング(ほろ打ち)の多くは近づくものに対する威嚇であるともされる』。『木の根元などに窪みを掘り木の葉や枯れ草、羽毛を敷いた直径』二十センチメートル、深さ九センチメートル に『達する巣に』、四月から六月にかけて、六~十二個の『卵を産む』。『殻は淡黄褐色』。のみ『が抱卵』する。『婚姻形態は一夫多妻であると推定されていたが、実際は一夫一妻であることが』、『三重県津市の獣医師によって突き止められた』とある。

「通〔(とほ)〕し呼んで」通称で。

「鸐」と爲す。

「麃〔(おほじか)〕」東洋文庫訳では『なれじか』とルビする。漢和辞典「麃」には「おおしか」(大鹿)及び「なれしか」(馴鹿)と同義として示してある。「なれじか」なら、私には「麋」の方が漢文では馴染み深い。現行では狭義に「馴鹿」とは哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科トナカイ属トナカイ Rangifer tarandus を指すが、トナカイは北極圏周縁地域にしか棲息せず、中国にはいない。しかし、私はしばしば漢文の中で「麋」に出逢ってきた。その場合、私は大きな鹿という意味で認識してきたし、「本草綱目」のそれも、見たことも恐らくは食ったこともないトナカイを指しているなどとは逆立ちしても思えない。大鹿でよい。

「兩足」二脚類(鳥類)。

「鸐雉と鷮雉【一類。】、鷩雉と錦鷄【一類】」「一類」とは今風に言うなら、同じ仲間であるが、完全な同一種ではない亜種か、或いは同一種でありながら有意な変異が認められる個体変異と言った意味であろう・異なった「名」も持つの「と同じくして小異〔あり〕」と言っているからである。「鷩」は漢和辞典にヤマドリに似た鳥とあり、実は次の独立項が「錦雞」(=「錦鷄」)であり、その異名欄には「鷩雉」が挙げられてある。しかしながら、そのそれぞれの解説は、明らかに「鷩雉」と「錦雞」を個別に違ったコンセプトで間接してある(「本草綱目」準拠)。これらは無論、中国産の別(亜)種等にそれぞれ当て嵌めることが出来るように思われるが、それは中国のユーザーに任せる。

「あし曳きの山鳥の尾のしだりをの長々し夜を独りかもねん」「小倉百人一首」で柿本人麻呂の歌とされて人口に膾炙している、この歌は「万葉集」では詠み人知らずの一首であるから「人丸」とするのは誤りである。「万葉集」巻第十一の中の一首(二八〇二番)、

 思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を

という歌の左注に、「或る本の歌に曰はく」として、

 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜をひとりかも寢む

と補注する中に出るばかりなのであり、あくまで作者は未詳であり、しかも異形歌なのである。これが人麻呂の歌として所収されたのは「拾遺和歌集」で定家はそれに基づいて「百人一首」に選んだわけであり、古文の序詞の授業ではこれがまた必ず引かれるわけだが、私は教師になる以前、高校時代から、この異様に迂遠な序詞が甚だ嫌いであり、嫌悪の対象であった。『こんなことを捏ねくりませる余裕があるということは、独り寝も楽しかろう』と、皮肉の一つも投げたくなるぐらいなのである。従って、私は和歌嫌いだが、それでもこれが歌聖人麻呂の真作だと思ったことは一度もないのである。

「冠(さか)」既出の通り、鶏冠(とさか)の古語。

「彪〔(ふ)〕」「斑(ふ)」の積りで訓じたのであるが、「まだら」(斑)と訓じてもよいと考える。「彪」(音「ヒュウ」(歴史的仮名遣:ヒウ)。「ヒョウ」(同前:ヘウ)は実は慣用音である)は「まだら・鮮やかな虎皮模様・縞模様」の意である。

「箭〔(や)〕の羽と爲して、以つて、邪魅を射る」矢に矧(は)ぐ鳥の羽根は主に鷲・鷹・鳶・雉・山鳥などの翼の羽と尾羽が用いられ、プラグマティクには矢の飛行方向を安定させるために附けるものである。「護田鳥尾(うすべお)」・「中黒」・「切り斑(ふ)」など、まさにその斑紋の名で呼称される。矢には「破魔矢(はまや)」の文字通り、魔を払う意味があり、しかもそこではこの矢羽(やば)が(特に白い部分で)非常に目立つから、そこに邪悪な気や魔物を射抜き、破る呪力があると信じられたことは容易に想像がつく。

「楊弓」楊柳(ヤナギ)で作られた遊戯用の小弓を用いて的を当てる遊戯。ウィキの「楊弓」によれば、弓の長さは二尺八寸(約八十五センチメートル)、矢の長さは七寸から九寸二分(二十一センチメートルから二十八センチメートル弱)とされる。『中国の唐代で始まったとされ、後に日本にも伝わり、室町時代の公家社会では、「楊弓遊戯」として遊ばれた』が、『江戸時代に入ると、神社や盛り場などで、楊弓場(ようきゅうば)または矢場(やば)と呼ばれる楊弓の遊技場が設けられるようになった。楊弓場には矢拾女・矢場女(やばおんな)と呼ばれる、矢を拾ったり客の応対をしたりする女性がいたが、後に娼婦の役目を果たすようになった。また、的に的中させた時の景品も』、『時代が下るにつれて高価になっていったことから、天保の改革では、売春と賭博の拠点として取り締まりの対象となった。幕末から明治初期にかけて全盛期を迎えた』。『東京へは明治初年に浅草奥山(浅草寺の西側裏手一帯)に楊弓場が現れ、一般には「矢場」と呼ばれ広まった』。『店は競って美人の矢取り女(矢場女・矢拾い女)を置き、男たちの人気を集めた。矢取り女は射た矢を集めるのが仕事だが、客に体を密着させて射的方法を教えたり、矢を拾う際に足を見せたりして媚びを売った。戯れに矢拾い女の尻にわざと矢を当てる客もあり、それをうまくかわす女の姿がまた客を喜ばせた。店裏で売春もし、客の男たちは女の気を引くために足繁く通い、出費で身を滅ぼす者も出た。しかし、次第に値段の安い銘酒屋に』『人気を奪われ、明治中期以後』、『急速に衰退した』。『東京では関東大震災の影響もあって、昭和に入る頃には楊弓場・矢場は姿を消したと』される。

「丹波の産」ウィキの「ヤマドリ」にある分布域から見て、ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii scintillans の可能性が濃厚。別名をキタヤマドリ(北山鳥)と言うように、本州関西地区の北部名古屋の北附近に当たる北緯三十五度二十分以北、及び、島根県北部・兵庫県北部より北に分布する。『細く短い尾羽を持ち、全身の羽色は淡色』で、『腰の羽毛は羽縁が白く、肩羽や翼の羽縁も白い』とある。

「薩州より出〔(いづ)〕る者」同前により、分布域と尾が有意に長い点から見て、コシジロヤマドリ Syrmaticus soemmerringii ijimae と断定してよい。九州中南部(熊本県南部・宮崎県南部・鹿児島県)に分布するとされるが、現在、準絶滅危惧種。『太く長い尾羽を持ち、全身の羽色は濃色』で、『腰の羽衣が白く、肩羽や翼に白色斑が入らない』。

「乖巧〔(りこう)〕」「りこう」のルビは私が意味から附した。「悧巧・利巧」である。「乖」には「小賢しい」の意があり、「乖巧」は現代中国語(カタカナ音写「グゥアィ チィアォ」)でも「賢い・利口である・如才ない・頭の回転が早い」の意がある。

「人、緩(ゆる)きときは」人が知らん振りをして寛いで見せる時は。

「禹歩」たまには東洋文庫訳の注を引こう。原義は『古代の聖帝禹の步き方。まず左足を踏み出し、右足をその前へ踏み出す。次に後の左足を右足に引きつける。これで一歩。次いで右足を踏み出し』、『左足をその前へ、そして後の右足を左足に引きつける。以上を交互にくり返す步き方で』、道教に於いては、呪力を持つ歩き方とされる。ここは山鳥も、一見、のんびりと楽しむように歩いているさまであろうが、或いは、既にして道家的な呪術的結界を賢い山鳥は禹歩で形成しているのであると、匂わせているのかも知れない。

「急なるときは」人が山鳥に注意を向け、俄然、捕獲しようと動かんとした瞬間には。

「暴(には)かに飛ぶ」危険を事前に察知して俄かに飛び立ってしまう。

「終日、人力を費す」日がな一日、山鳥を捕えようとして、失敗に終わり、無駄に過ごすことになってしまう。

「鐵銃」鉄砲。

「芹(せり)」セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica

「尾をして物に礙〔(さ)〕へ〔ぎら〕ざらしむなり」東洋文庫訳では、『尾が物に触れたり、さまたげられたりしないようにする』とある。

「日(〔ひ〕る)」昼間。

「夜、則ち、溪谷を隔〔(へだ)て〕て、雌の影、雄の尾に寫ること有るを視て、啼く。之れを「山鳥の鏡」と謂ふ」「万葉集」の巻第十四の「相聞」に(三四六八番)、

 山鳥の尾(を)ろの初麻(はつを)に鏡懸け唱(とな)ふべみこそ汝に寄(よ)そりけめ

という一首がある。「初麻」はその年に最初に穫(と)れた麻で拵えた緒。それで祭具である鏡を懸けるのである。「唱ふ」は「呪文を唱えて神を祀る」ことを指す。「べみ」は「べきこそ」で「~するに違いないので」。講談社文庫版の中西進氏の注によれば、この歌は『男の誘い歌』であり、この「唱ふ」までが、祝婚の祭事』(男の願望か)なのであり、その『祭儀を示す表現に下句』(私をそなたの傍に寄せるに違いない)『をついだ歌』であるとある(挿入した訳は私の勝手な解釈であるので注意されたい)。しかし、この山鳥はやはり長い麻緒を引き出すための序詞であって、ここで言っている「山鳥の鏡」という語句形成とは関係がない(ように私には見える)。「枕双紙」=「枕草子」では「鳥は」(「鳥尽くし」)の章段に、

   *

山鳥、友を戀ひて、鏡を見すればなぐさむらむ、心若う、いとあはれなり。谷隔てたるほどなど、心苦し。

   *

とある。石田穣二訳注「枕草子 上巻」(昭和五四(一九七九)年角川文庫刊)では、『以上の記載』は『歌学的な知識であろう』と脚注した上、補注で以下のように詳細に述べておられる。

   《引用開始》

『俊頼髄脳』は「山鳥のをろのはつ尾に鏡かけとなふべみこそなによそりけめ」(原歌、『万葉集』巻十四)の解として「この歌の鏡のこと、たしかに見えたることなし。昔、隣の国より山鳥を奉りて、鳴く声たへにして聞く者うれへを忘るといへり。みかど、これを得て喜び給ふにまたく鳴くことなし。女御のあまたおはしけるに、この鳥鳴かせたらむ女御を后には立てむと宣旨を下されたりけれは、思ひはかりおはしける女御の、友を離れて独りあれは鳴かぬなめりとて、明かなる鏡をこのつらに立てりければ、鏡を見て喜べるけしきにて鳴くことを得たり。尾をひろげて鏡のおもてに当てて喜び鳴く声まことにしげし。これを鳴かせ給へる女御、后に立ちて、かたはらの女御、ねたみそねみ給ふこと限りなしと言へり。是が心を取りてよめるとぞ」とある。続いて「足引の山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかもぬる」(『拾遺集』巻十三、人麻呂)の解として、山鳥の雌雄、夜は山の尾を隔てて一所には臥さないものである云々の説が見える。『奥義抄』には、先の『万葉』の「鏡かけ」の歌の解として、同様の、女御の説話を挙げ、「或説には、山鳥は夜になれば、め鳥と山を隔ててべちべちにぬるに、暁になりて雄鳥の尾をもたげて見るにめ鳥のある所の鏡にて見ゆる也」という異説を挙げる。『袖中抄』にも諸説が列挙されている。

   《引用終了》

とあった。因みに辞書を見ると、「尾ろの鏡」(をろ(おろ)のかがみ)の語が載るものの、先の「万葉集」の当該歌から出た中世の歌語としながら、『語義未詳。異性への慕情のたとえに用いられる。山鳥の尾の鏡。はつおの鏡』などという半可通な解説が載るばかりである。石田氏の上記の記載が唯一納得出来る内容と言える。どうも、山鳥の雄は尾羽の中に鏡を隠し持っていると伝承があったらしいのである。

「良材集」「歌林良材集」。東洋文庫版「書名注」に、『二巻。室町中期。一条兼良撰。歌学・歌論の書』とある。また、東洋文庫版本文注に同書の巻五の『由緖ある歌、十九に「山鳥の尾の鏡の事」という項があり、そこに『萬葉集』の』『歌(三四六八)を引いて故事の説明をしている』とある。

「六帖」「古今和歌六帖」。平安時代に編纂された私撰和歌集。全六帖。成立時期・撰者ともに不明。ウィキの「古今和歌六帖によれば、『おおよその目安として、天禄から円融天皇の代の間』(九七〇年から九八四年の間)『に成立したといわれており、撰者については紀貫之とも、また兼明親王とも具平親王ともいわれるが、源順が撰者であるという説もある』。『およそ四千数百首の和歌を題別に収録する(伝本によって歌数に相違があり、重複して採られている和歌がある)』とある。

「晝はきて夜は別るゝ山鳥の影みる時ぞねはなかれける」これは「新古今和歌集」の巻第十五の「戀歌五」に詠み人知らずの一首として(一三七二番)、

 晝(ひる)はきて夜(よる)はわかるる山鳥(やまどり)の影みるときぞ音(ね)はなかれける

と採録されてある。]

 

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(47) 社會組織(Ⅲ)

 

 かくの如きものが日本社會の原始的組織であつた、それ故、この社會は言葉の眞の意味に於ては、決して完成された國家ではなかつかのである。皇帝の稱號も、その古い統治者には、正確に適用されるわけにはゆかない。日本の歷史家の説に反對して、これ等の事實を明らかにした最初の人は、ドイツの學者フロレンツ博士[やぶちゃん注:前回分に既出既注。]其の人であつた。博士は上古の『天皇』なるものは、單に一の氏の慌襲的主長――この氏はすべての氏中の最も權力あるもので、他の多くの氏の上に勢力を振るつてゐた――に過ぎないことを、明らかにした『天皇』の權威は全國土には及ばなかつた。併し一國王でさへないにも拘らず――自分の族長たる大家族の集團以外に――この主長は三大特權を亨有して居た。第一には、共同の祖先たる神の前に、各氏を代表するの權利――これは高い神官の特權と權力とを包含してゐる。第二には、對外關係に於て、各氏を代表するの權利、換言せば、主長は全氏族の名の下に又宣戦媾和[やぶちゃん注:「講和」に同じい。]の權を有し、從つて最高の武力を行使し得たのである。第三の特權は、氏族間の爭議を解決する權利、一つの氏の主長たる職權の直系の繼續者が斷絶した場合に、氏族の主長を指名する權利、新しく氏を創立する權利、他氏族の安事を害するが如き行爲のあつた氏を癈するの權利等である。故にその人は、最高の大司祭でああり、最高の軍事司令官であり、最高の仲裁官であり、最高の奉行であった。併し未だ最高の國王ではなかつた、その權力は、氏族の同意ある場合に限り、行使されたのである。其の後この主長は、事實上の、或はそれ以上の大汗[やぶちゃん注:「だいハン」。]――僧たる支配者、神王、神の化神――となるに至つたのである。然るに、その領土の擴張するに連れて、本來その權威に伴なつて居た機能の一切を働かすことが、次第々々に困難になつて來た、それでこれ等機能を他に委託した結果、その世事に於ける統御權は、その宗教的權力が增大するに拘らず、衰亡の悲運に向ったのであつた。

[やぶちゃん注:大汗 “Genghis Khan”。Khan はモンゴル族・ウイグル族・トルコ族などの遊牧民族の首長の称号である。]

 それ故、極占い古い日本社會は、普通吾々が用ふる所の封建制度ですらもなかつたので、それは最初は、防禦攻擊のために結合せる氏族――其の各〻氏族は、それぞれ獨自の宗教を持つて居た氏族――の統一體であつた。が徐に、一の氏族團體が、富と數との力に依つて、其の氏族の祭祀を他の全ての氏族の上に及ばさしめ、其の世襲の主長を最高の大司祭たらしめるやうな主權を獲得するに至つた。日の御神(天照皇太神)の禮拜は、かくして種族的祭祀になつた、併し此の禮拜は他の氏族の祭祀の相對的重要性を減殺する事はなかつた――それは單に彼等に、共同の傳統を與へたのみであつた。その内に、一國家が作り上げられたが、氏族は社會の眞の單位として存在してゐた、而して明治の現代に至るまでその崩壞は完うされなかつた――少くとも立法の上からそれを成就し得たと云ふ程には。

 吾々は、氏族が眞に一人の元首の下に統一され、國家の祭祀が制定された時代を、日本の社會進化の第一期と呼んで然るべきだと思ふ。併しながら社會組織は德川將軍の時代に入る迄、其の發達の極致を見る事は能きなかつた[やぶちゃん注:「できなかつた」。]、――それ故完全に構成されたものとして、これを硏究するには自然近代に面を向けなければならない。しかも早くすでに紀元六七三年に登極したと一般に認められて居る天武天皇の御代に、この社會の將來落ち着くべき姿の漠然たる輪郭は出來て居たのである。此御代には、佛教は宮廷に於て、大な勢力となつたらしい、と云ふのは天武天皇は事實上、菜食主義を人民にひられたのであるから――これ則ち理論上に於けると共に實際に於ける最高權力を證明したものである。これより以前にも社會は身分等級に配列されてゐた――上層階級の人々は、頭に著けた官職の冠の形と品質とに依つて、身分を明らかにしてゐた、併し天武天皇は、多くの新しい等級を設け、又支那の制度にならつて、全行政部を百八の部門に改造したのであった。この時日本の社會は、上流のものに關しては、殆ど政教的形式を採り、それを德川將軍の時代迄績けさした。而して德川將軍はその根本的組織に、何等重要なる變化を加へることなく、此の制度を固にしたのである。吾々は日本に於ける社會進化の第一期の終りから、國民は實際上、二階級に別かたれて居たと考へて然るべきだと思ふ、則ち貴族と武家との階級を包含する支配階級と、其の他の一切の者を包含する生産階級との二つである。社會進化の第二期の主なる出來事は、武權の勃興であつて、それは皇室の宗教の權力は其の儘にして置いたのであつたが、一切の行政的機關を簒奪するに至つた――。(此の問題に就いては、次の章に述べる事にする)結局此の武權に依つて結晶せしめられたる社會は、非常に複雜な構造となつた――されば外形上は、吾々が普通に了解する意味での大規模の封建制度に近似してゐるが、併し内實に於ては、これまであつたヨオロツパ封建制度とは全く異つたものである。其の差異は、特に日本の幾多の社會(村邑の如き)の宗教的組織にあるので、この各社會(村邑若しくは組合)はその獨自の祭祀と族長的行政とを保留し、内實は根本的に各社會みなそれぞれ分離してゐたのである。國家の祭祀は、傳統に依る結合であつて、凝集性の上に立つた結合ではなかつた、則ち宗教上の統一は少しもなかったのである。佛教は、廣く普及されて居たのではあるが、此の事態に何等實際の變化をも與はしなかつた。何となれば、この小社會が如何なる佛教の信條を守つて居たとした處で、眞の社會上の結合は、氏神に依る結合であつたからである。故に德川將軍の治下に於て、日本の社會が十分の發達を遂げたとしても、なほその社會は武力の制に依つて結合された氏族竝びに小氏族の大集團たるに止まつたのである。

[やぶちゃん注:「紀元六七三年」天武天皇二年。

「登極」「とうきよく(とうきょく)」。「極」は最高の位の意で「即位」に同じい。]

 

 此の大集團の元首として、天皇、民族の生ける神が居ました――則ち司祭の皇帝にして最高の教長であり、世界に於ける最古の王朝を代表して居た。

 天皇の次位に立つ者に、公卿卽ち古代の一貴族――天皇と神との後裔――がある。德川の時代には、百五十五家の此の種の高い貴族があつた。これ等の中の一家で、中臣と云ふのは最高の世襲的司祭の職を司つて居た、そして今でも尚ほ司つてゐる。中臣は天皇の下に在つて、祖先の祭祀を司る主長である。日本歷史の古代の大氏族の全部――藤原とか、平とか、源とか云ふ氏族――は何れも公卿であつた、其の後の歷史の大なる攝政或は將軍の大部分は、公卿か或は公卿の後裔かの何れかであつた。

[やぶちゃん注:「中臣」氏は後に大中臣氏となり、嫡流子孫は江戸時代には藤波家を称した。]

 公卿の次位に立つ者に、武家卽ち武人の階級があつた――別名を武夫(もののふ)、ますらを、武士(さむらい[やぶちゃん注:ママ。])(これ等の名前は、古文に據る)といふ。それ等はそれぞれ獨自の廣い政教組織を持つてゐた。併し大抵の堤合、大名と武家の武人との相違は、收入と稱號との上に立つ身分の相違にあった。彼等はすべて一樣に、侍であり、大抵は皇別神別の後裔であつた。古代に在つては、武人階級の主領は、單に一時的の總指揮官として。天皇に依つて任命せられたが、後に至つてこれ等の總指揮官は、權力を橫奪して、自分の職權を世襲となし、ロオマで用ひたやうな意味の實際の Imperatores (大將軍)となつた。彼等の稱號たる將軍は、西歐の讀書界にも知られて居る。將軍は二百乃至三百の領域若しくは地方の領主――領主の權力と特權とは、その收入と位階とに從つて相違があつた――を統御して居た。德川幕府の治下に在つては、これ等の領主卽ち大名は、二百九十二を數へた。これより以前にあつては、各領主は各自の領土の上に最高の支配力を働かしたのであつた。ジエジユイトの修道師や、古いオランダ、イギリスの貿易商人等が、大名を呼んで『王』と云つたのも、少しも怪しむに足りない。大名の專制は、最初德川幕府の創飴者に依つて阻止された。家康は大名の權力を、甚だしく制限し、多少の例外はあつたが、大名に若し壓制と殘酷との罪が實證された場合、その大名の領土は沒收されることにした。家康は、大名の全部を四大階級に配置した。(一)三家或は御三家卽ち『三高家』(若し必要のある場合には、將軍の後繼者が此の家族中から選出される) (二)國主『地方の領主』 (三)外樣『外藩の領主』 (四)譜代『成功のあった家族』、これは家康に對する忠誠の報酬として、領主或は其の他のものに取り立てられた家族の名稱である。三家には、三氏族卽ち三家族があり、國主は十八家やり、外樣は八十六、譜代は百七十六あつた。これ等大名の中、最小なるものの祿高は米一萬石(石は時代に依つて、價値の上に大なる相違があるが、一萬石は約一萬磅[やぶちゃん注:ポンド。]と云って宜からう)、また最大な大名である加賀の領主の祿高は、百二萬七千石とされて居た。

[やぶちゃん注:「ロオマで用ひたやうな意味の實際の Imperatores (大將軍)」原文は“Imperatores”と斜体。「インペラトル」はラテン語で、アウグストゥス以降のローマ帝国の皇帝の称である。

「ジエジユイト」“the Jesuits”。ジェスイット(Jesuit)はイエズス会士のことで、ジェズイット教団、即ちイエズス会の異称である。

「三高家」確かに本文は“Three Exalted Families”であるが、吉良家で知られるように、「高家」は、江戸幕府に於ける儀式や典礼を司る役職に就くことの出来る家格を持つ旗本、高家旗本の一般通称であり、高家職に就いている高家旗本を奥高家と呼び、その奥高家の中から有職故実や礼儀作法に精通している三名を選んで「高家肝煎」と呼んで、それを俗に「三高」とも呼称したから、日本語としては頗る紛らわしい。平井呈一氏は『「三つの高い家柄」』と訳しておられ、ここは言わずもがな、御三卿(ごさんきょう:田安徳川家(第八代将軍徳川吉宗次男)・一橋徳川家(吉宗四男)・清水徳川家(第九代将軍徳川家重次男)の三家)のことなのだから、平井氏の訳の方がよい。

「一萬石は約一萬磅」本書が刊行されたのは明治三七(一九〇四)年であるが、調べてみると、日露戦争中の英国国債の一九〇四年の発行額が一千二百万ポンドで、これは当時の邦貨換算だと、一億一千七百十六万円とあったから、当時の一万ポンドは九万七千六百三十三円となり、これを現在の価値に換算すると、明治・大正期の百円が百万円とする判り易い説に従うなら、小泉八雲の換算の一万石は九千七百六十三万三千三百三十三万円となる。但し、これは単純なレート換算で、Q&Aサイトを見る限りでは、一万石は玄米卸価格では現在の三億七千五百万円相当とある。しかし、藩士の俸給で半分が費やされるとすると、領主の取り分は一万石当たり七千五百万円となるともあるので、この数値は八雲の換算値に近くなるように思われ、面白い。

 大きな大名は、大小の家臣を持ってゐたが、これ等の家臣は、又各自訓練された侍卽ち戰士を抱へて居た。この外に、鄕士と呼ばれた武人兼農夫の特殊階級があつて、その内には小さい大名を凌ぐ程の特權と權力とを持つてゐたものもあつた。この鄕士は大抵獨立した地主であつて、一種の土民(ヨオマン)であった、併し鄕士の社會上の位置とイギリスの土民(ヨオマン)の位置とには幾多の相違點がある。

[やぶちゃん注:「鄕士」江戸時代、農村に居住した武士。また、由緒ある旧家や名字帯刀を許された有力農民を指すこともある。後期には献金によって郷士となる者が多くなった。

「土民(ヨオマン)」原文は前者が“yeomanry”、後者が“yeomen”。小学館「日本大百科全書」の「ヨーマン」(Yeoman)を引いておく。『通常、「独立自営農民」と訳される、イギリスの中産農民。語源は、「若者」young man が縮まったものといわれる』十四~十五世紀には年収四十シリング以上を『有する自由土地保有農(フリーホルダー』freeholder『)をさした。彼らは州における議員選出権を与えられ、陪審員として地方行政に携わり、また百年戦争におけるイギリス軍の精鋭とたたえられた。この階層に、当時進行中であった封建制経済の解体に伴って上昇した謄本土地保有農(コピーホルダー』copyholder『)と一部の定期借地農(リースホルダー』leaseholder『)が加わり、ヨーマンはジェントリ』(gentry:大地主。元は gentleman の集合名詞)『と零細農の中間を占める広範な農民層をさすようになり』、十五『世紀中葉にはイングランド、ウェールズの土地の約』五分の一を『保有した。チューダー朝以降の絶対主義時代には、農業経営や毛織物マニュファクチュア経営で頭角を現す者が出る一方、エンクロージャー』enclosure『(囲い込み)の進展により土地を奪われて離村を余儀なくされる者も多く、ヨーマン階層には両極分解がみられた。ことにヨーマンの中核であった自由土地保有農の没落は』、十八『世紀における大地主の寡頭支配の強化とともにいっそう促進され』、十九『世紀の資本制農業の確立によってヨーマンは実質的に消滅した』。]

 家康は武人階級を改造した外に、更に二三の新しい小階級を創設した。これ等の中で、比較的重要なのは、旗本と御家人とである。旗本と云ふ稱呼は『軍旗の捧持者』の意味で、其の數凡そ二千を算し、御家人は約五千を算した。これ等武人の二團體は、將軍の特殊な武力を構成してゐたもので、旗本は多くの收入を有する大きな家臣であり、御家人は所得の少い家臣で、單に將軍家の御用を直接に務めると云ふだけで、一般武士の上位に立つものであつたに過ぎない……。あらゆる階級の武士の總數は、約二百萬を算した。彼等は租税を免ぜられ、二本の刀剱を佩用するの特權を有した。

 

 以上述べたる所は、筒單な槪説ではあるが、國民を非常に嚴酷に支配した貴族と武人との階級の大體の制定である。一般庶民の大多數は三階級(姓階(カスト)と云ふ言葉が、永遠にインドで用ひられたその概念と聯想されなかつたならば、吾々はこれを姓階と呼んで良いかも知れない)に分かたれてゐた。農夫、職人、商人がそれである。

 これ等三階級の中、農夫(百姓)が一番身分が高く、直接武士の次位になった。實際、武士の多くは、農夫をかねてゐたし、農夫の中には一般武士より遙かに高い位をもつてゐるのもあつたので――武人階級と農夫階級との間に堺界線を引く事は困難である。恐らく百姓(農夫或は農民)と云ふ言葉を、單に農業に依つて生活し、土壞を耕作する者にして、皇別若しくは神別の後裔でないものに制限すべきであらう。彼等は皇別若しくは神別の後裔ではないのである……。何れにしても、農民の職業は名譽あるものと考へられてゐた。農央の娘は、皇室の女中になることさへあつた――その職分の位置は極めて低いものでありはしたが。また農夫の内には、帶刀を許されたものもあつた。日本社會の上代に在つては、農夫と武士との間に、何等の區別もなかつたらしく思はれる。當時の身體の健な農夫は、何時でも戰の間に合ふやうに、戰士としでの訓練が施されて居た――この狀態は古いスカンデイナヴイヤの社會と同樣である。特殊專門の武人階級が出來た後も、農夫と武士との區別は、日本の或る部分では曖昧であつた。例へば、薩摩、土佐に於ては、武士は現代迄、耕作に從事してゐた。又九州武士の優秀な者は、殆どすべて農夫であつて、その立派な身長や體力は、一般に田園の作業に從事した爲めとされて居る、日本の他の部分、たとへば出雲の如き所では、武人は耕作に從ふ事を禁じられ、森林地は所有することを許されて居たが、田畠を所有する事は許されなかっだ。併し處に依つては武士が他の職業――商賣とか或は手工だとか――に從事することは、嚴しく禁じられて居たが、耕作に從事することは許されて居た處もあつた……。いつの時代でも農業に精勵する事を墮落と考へた事は嘗てない。昔の天皇の中には、耕作に興味を寄せられ、親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]それを爲された方もあつた、赤坂離宮の庭内には、今も尚ほ小さい稻田が設けられてある。太古の宗教的傳統に從ひ、御料地内で出來た稻の初穗は、第九番目の祭――【註】新嘗祭―の日に、收穫の供物として、天皇親らの御手に依つて刈り取られ、神聖なる祖先の御前に捧げられるのである。

 

註 此の祭日に、天皇御手づから、其年の最初の生絲と共に、稻の初穗を、天照皇大神にそなへさせ給ふのである。

[やぶちゃん注:「新嘗祭」(にひなめさい(にいなめさい))は天皇が新穀を天神地祇に供え、自らもそれを食する祭儀で、もとは古えの神人共食である。古くは陰暦十一月の二度目の卯の日に行われた。グレゴリオ暦が導入された明治六(一八七三)年(「改曆ノ布告」により明治五年十二月三日(陰暦)を明治六年一月一日とした)以降は十一月二十三日と定めて祭日としていた。後、昭和二三(一九四八)年からは同日が「勤労感謝の日」となっている。]

 

 農民の次位に、工匠階級(職人)があつて、鍛冶工、大工、織匠、陶工――要するに、凡ての手工業者がこの内に包含される。これ等の中で一番高いものは、さうありさうな事であるが、刀鍛冶である。刀鍛冶は、往々其階級を超えて、遙かに高位に上つた。中には守(かみ)と云ふ高い稱號を與へられたものもあり、領土若しくは地方の守と稱した。これは大名の稱號で大名が自らそれと同じ守の宇を以て記したものである。されば自然彼等は、天皇とか公卿とか云ふ高貴の庇護を受けたのであつた。後鳥羽天皇が、御自身の鍛冶場に於て、親ら刀造りに精勵されたことは、よく知られて居る事である。現代に至る迄、刀身を鍛へる期間、宗教上の奉祭が行はれたのである……。

 主なる手工業はみな、組合を持つてゐた、そして一般の例として、仕事は世襲的であつた。職人の祖先は大抵朝鮮人竝びに支那人であつたと想像するに足るに十分な歷史的根據がある。

 

 商業階級(あきんど)は、銀行家、商人、店主、諸種の貿易商人等を含み、公儀の上では最下級と認められてゐた。金儲けの仕事は、上流階級からは輕蔑されて居た。勞働から生ずる品物を買ひ、それを再び賣ることに依り、利益を上げるといふ一切の手段は、不名譽なこととされてゐた。武家なる貴族は、當然商賣階級を見下げてゐた。そして一般に、武人階級は、普通ないろいろの勞働に對して、あまり尊敬をもつて居なかつた。併し古代の日本に於ては、農夫と職人との職業は輕んぜられて居なくて、商賣のみが、不名譽と考へられて居たらしい――この差別は、一面から云へば道德的の事であつた。商人階級を、社會組織の最低位に追ひ下すことは、異樣な結果を産んだに違ひない。例へば、米屋は如何に富んでゐても、その家族が元來他の階級のものであつたといふのでなければ、大工、陶工、船大工――それ等を米屋は雇傭し得た位であるに拘らず――の下位に立つのであつた。其の後、商人(あきんど)は其の子孫以外の多くの他の人々を包含し、かくて實際上商人階級それ自身が救はれる事になつた。

 

 國民の四大階級――武士、農夫、工匠、商人(これ等を指示するに、漢字の四文字だけを取り、簡單に呼んで、士農工商と云ふ)の中で――後の三階級は、平民『庶民』の稱呼の下に、一括されてゐる。平民はすべて、武士に從屬し。武士はボ平民が不敬な事をした場合、斬り捨てる權利をもつて居た。併し實際は乎民が眞の國民であつた。國民の富を生み出し、歳入を作り出し、租税を負擔し、貴族武人僧侶を支特して居たものは實に平民であつた。僧侶に就いて言へば、佛法(神道も同樣で)の僧侶は別の階級を作つては居たが、その位は平民と竝ぶのでなく、武士と等しかつた。

 平民の三階級の外に、平民の最下級のものの以下にあつて、到底上進の望みのない大きな一階級があつたが、それ等のものけ日本人としては扱はれず、また殆ど人間としてすら待遇されない程であつた。公儀上それ等のものは、種屬的に張里[やぶちゃん注:「ちやうり」。]と呼ばれ、動物を數へるに用られる特別な呼び方でもつて、一匹、二匹、三匹と數へられて居た。現今でさへも、一般にそれ等は人間(ひと)して取扱はれず、『物』(もの)とされて居た。イギリスの讀者(主として、ミツトフオド氏の今尚ほ比類なき名著作とされて居る『古代日本物語』の讀者にとつては)彼等は穢多として知られえゐる、併し彼等の稱呼は、其の職業に依つて、それぞれ異つてゐた。彼等は(インドで云ふ)非人であつた。日本の文人等は、明確な根據に基づいて、張里が日本民族に屬することを否定してゐる。これ等姓階以外の樣々な部族は、法律上認許されて居たその獨占の職業に從つて居り、その住んで居た地方の特權に從つて、或は井戸掘りであり、庭園の掃除人であり、或は藁細工人であり、草鞋作りでもあつた。その内の或る階級は、公儀で拷問人と死刑執行吏とに使用され、また或るものは、夜番に雇はれ、さらに又墓掘りに用ひられたのもあつた。併し穢多の大部分は、鞣皮[やぶちゃん注:「なめしがは」。]工と、鞣皮仕上げの仕事に從事するものであつた。動物を撲殺し其の皮を剝ぎ、各種の鞣皮を作り、靴や、鐙皮(あぶみがは)や太鼓の面皮を作る權利は彼等獨得のものであつた――太鼓の面皮作りは、國内十萬の社寺にそれが使用されて居るので、利得の多い職業であつた。穢多はまたそ獨得の法律を有し、生殺與奪の權を行使する主長を戴いてゐた。彼等は常に町の近隣や郊外に住んでゐたが、常に自分達だけの別の一部落をなして居た。彼等の町に入るのは、其の商品を賣るためか、或は仕入をするために、限られて居たが、【註】履物の店以外には、いづれの店へ入る事も許されて居なかつた。唄をうたふのを職業とすることは許されて居たが、人家に立ち入ることは禁じられて居た――それ故彼等は單に街路や庭内のみで、音樂を奏し、唄をうたふことを得たのである。自家世襲の職業以外には、如何なる職業にも、從事することを嚴しく禁じられて居た、商業階級の最下等のものと穢多との間には、インドの傳統上の姓階制度から生じた區別の樣に、越える事の出來ない檣壁があつた、社會上の一偏見に依つて、穢多部落が他の日本の町から隔絶された有樣は、城壁や門に依つて、猶太人[やぶちゃん注:「ユダヤじん」。]の町が他のヨオロツパの町から隔離されて居たのに似てゐる。何等かの職掌を帶びて已むを得ない限り、日本人は一切、穢多部落に入つて行くことを、 夢想だもしなかつた……。美しい小さな港なる美保の關で。私は穢多部落を見たが、それは、灣に沿つた三日月形の町の一端を成してゐた、美保の關は、たしかに日本に於ける最古の町の一であるから、それに附硝してあるから、それに附屬してをる穢多村も亦非常に古いに違ひない。今日と雖も尚ほ美保の關に住む日本の人は、其の部落が他の町に連結されてゐるに拘らず、其處を通つて行かうとはしない、子供も決して此の標もない境界を越える事なく、犬すらも、此の偏見線を越さうとはしない。それにも拘らず、部落は淸潔で建物もよく――庭園、浴場、竝びに獨得の寺院があつて、行き屆いた日本の村落を見るやうである。併し恐らく一千年の間、これ等の連續した兩社會の住民の間には、何等の友情もなかつた……。今日では誰れもこれ等社會外の人民の歷史に就いて知るものはなく、彼等の社會的破門の原因は永く忘れられて居た。

 

註 或る地方では今なほこれが掟となつて居る。

[やぶちゃん注:「張里」平井呈一氏もこの漢字を用いているが、通常は「長吏」が知られる。「日本国語大辞典」の「長吏」の意味の四番目に、『江戸時代、穢多(えた)の別称。穢多頭』(えたがしら)『弾左衛門の支配を受ける地方在住の穢多を在方(ざいかた)長吏といい、それを支配するものを長吏小頭』(こがしら)『と呼んだ』とある。但し、喜田貞吉長吏名称考(大正八(一九一九)年十月号『民族と歷史』)によれば(リンク先は「青空文庫」)、『長吏の名義は徂徠の「南留別志」に、張里の誤りなるべしとある。張里は馬医者の事だという。「燕石雑志」には、「鎌倉将軍の時に穢多の長を長吏と云ひけり」とあるも確かな出所を知らぬ。しかし鎌倉時代に既に長吏の称のあった事は、後に引く文書にも見えて確かな事だ。俗説にチョウリは町離』[やぶちゃん注:太字はリンク先では傍点「◦」。]『で、エタを賤んで民家と雑居せしめず、町を離れた所に置いたからだとも、或いは丁離で、エタ村は道中の丁数に数えないからだなどとの説もあるが、もとより採るに足らぬ』とし、『賤者に対してこの』「長吏」の『称の見えるのは、管見の及ぶ限りでは鎌倉時代寛元二年』(ユリウス暦一二四四年)『三月の、奈良坂・清水坂両所の非人争議の文書である』と記している。リンク先は短い論文であるが、一読の価値の十二分にある内容である。

「ミツトフオド氏の今尚ほ比類なき名著作とされて居る『古代日本物語』」イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年:既出既注)が一八七一年に刊行した“Tales of Old Japan”。]

 

 固有の穢多の他に、非人――この言葉は『人間にあらざる者』と云ふ意味である――と呼ばれる最下級民があった。此の稱呼の下に包含せられる者は、職業的な、托鉢僧、流しで步く唄ひ人、俳優、或る種の醜業婦、世間から排斥された者等であつた。非人には、その特別な頭があり、またその仲間だけの法律があつた。日本の社會から排斥された者は、誰れでも非人に加はることが能きたが[やぶちゃん注:「できたが」。]、併しそれは世間普通の人に別かれを告げた事になるのであつた。政府も利口で、非人を迫害するには至らなかつた。非人の漂浪的生活は、それに依つていろいろな苦難を免れる道となつた。微罪の犯人や正常な生業を營むことのできない人々を、非人の群に驅りやることが能きる限り、それ等のものを牢獄に繫いだり、其の他の途を講ずることは不要であつた。矯正することのできない者、無賴漢、乞丐人[やぶちゃん注:「こつがいにん」或いは三字で「かたゐ」と読んでいるかも知れない。乞食と同じい。]等は一種の訓練の下に置かれるので、實際政府の認めない社會に消えてしまふのである。非人を斬ることは。殺人とは考へられないので、單に科料に處せられたのみであつた。

 

2018/08/09

甲子夜話卷之五 4 吉原町の魂祭幷松飾の觸の事

 

5-4 吉原町の魂祭松飾の觸の事

今の吉原町は、昔は數寄屋河岸の御堀ばたに在しと云。其時、孟蘭盆すめば魂祭の供物器具等を御堀に棄るゆゑ、年々これを禁止するふれを、其所の名主より出したるが、後、今の大門通の邊に移り、遂に淺草の末に成りたり。然れども名主のふれは年々昔の如しと聞く。是も中古までのこと歟。今は此ふれ有らずと云ふ。今吉原町の風俗は、娼家茶屋の分、每年魂祭の日畢れば、其供物器具等を悉く薦に包み、其家々の前に出し、道にすゑ置き、其あとはかまはず。夫よりしては掃除の人何れにか取去ること也となり。娼婦の年老て此處に棲るが話りしと聞けり。昔數寄屋門の堀に棄しは、掃除人の爲る所なりしにや。又聞、今吉原町にて、正月には松飾の品々御堀に棄まじくと云ふれを、年々其名主より家主に申渡すとなれば、前のふれは中古斷たるならん。

■やぶちゃんの呟き

「昔は數寄屋河岸の御堀ばたに在し」不審。吉原遊廓は日本橋葺屋町続きの二町(約二百十八メートル)四方の区画に公許されたもので(現在の日本橋人形町二丁目と三丁目及び日本橋富沢町に跨がる附近)、海岸に近く、葦(よし)が茂った草原であったことが名の由来である。附近(グーグル・マップ・データ)であり、「数寄屋河岸」(現在の数寄屋橋附近)とは有意に位置が異なる。静山は「葺屋町」の「葺屋」を「数寄屋」と誤認したのではなかろうか? しかし、そうすると、後の「數寄屋門の堀に棄し」も都合が悪くなる。正位置からすれば、日本橋川に投げ捨てたことになろうか。

「棄る」「すつる」。

「大門通」「おほもんどほり」。吉原大門。

「中古」静山の現在時制の前の江戸中頃の謂い。

「棲る」「すめる」。

「話りし」「かたりし」。

「斷たる」「たえたる」。

譚海 卷之三 堂上の靑侍雜掌俸祿

 

堂上の靑侍雜掌俸祿

○堂上の靑侍雜掌給俸は米三石の定(さだめ)なり、因(よつ)て京都の方言に三石左(さんごくざ)と呼ぶ也。總て公家衆の御藏米とばかりいひて祿高なきは、玄米三十石づつ賜る事なり、淀舟を三十石と譯するも是等の謂(いひ)なる事なるべし。

[やぶちゃん注:「三石左」読みは、「武左(ぶざ)」(「武左衛門」の略で「田舎侍」を嘲っていう語で、江戸時代に特に遊里で「野暮な武士」を誹った語)から推定した。]

譚海 卷之三 近衞殿島津氏由緒

 

近衞殿島津氏由緒

○薩摩島津氏は近衞殿に由緖有(あり)、江戸往來の節はかならず伏見より入洛有、謁見せらるゝ事也。年々近衞殿より米三石づつを贈らるゝ事とぞ。

[やぶちゃん注:鹿児島大学附属図書館島津氏と近衛家の七百年解説に、文治元(一一八五)年に『惟宗(島津)忠久が鎌倉幕府より』、『島津荘の下司職に任命されて以来、島津氏と島津荘の本家であった近衛家とは、時に対立しながらも』、『深い縁で結ばれ』、『中世から近代まで』七百『年以上にわたって』『島津氏と近衛家との絆』は強く結ばれていたとあり、ウィキの「島津氏には、『戦国時代から新田流源氏を名乗るまでは、近衛家の庶流として「藤原朝臣○○」と署名していた』とあり、さらに『島津氏の定紋に使用された図案は、島津十文字(筆文字の十文字)、「丸に十の字」、「轡十字」 などが』よく知られるが、替紋としてある「島津牡丹」は『近衛家より拝領』したものともある。また島津家と近衛家の親密感は安土桃山時代の近衛信尹だ)(リンク先はウィキペディア)の事蹟などを読むと非常に良く判る。]

譚海 卷之三 五攝家五大夫

 

五攝家五大夫

〇五攝家と申(まうす)は、近・九・二・一・鷹司、此外に攝祿の家六人あり、淸華(せいぐわ)と云、攝關の職先(まづ)は五攝家の外に任ぜらるゝ事なし。若(もし)其家幼輩にして何れも其任に堪(たへ)ざる時は、淸華より此職を勤らるゝ也。夫(それ)よりしては五攝家に其仁ありといへども、淸華にて交々(こもごも)拜任あり。七淸華家一代に一度づつ轉任畢(をはり)て後ならでは、五攝家此職に任ぜらるゝ事あたはず、一度五攝家に復すれば、永く所職ありて他人にあたへず。夫故に五攝家みな幼弱なる時は、甚だ愁悶せらるゝ事也とぞ。

○近衞殿嫡子の御家は、後光嚴院の御時逐電ありて南朝へ出仕有(あり)。そののちは庶子にて相續ありしを、又胤嗣(いんし)絶(たえ)たるゆゑ、その御連枝の門跡にておわせしを、還俗にて家督つがせ玉ふ。其後又男子なくして女子へ後水尾帝の皇子聟に入(いら)せられ、今王孫にて相續也。其餘二條・一條・鷹司家ともに皇孫の相續なり。九條家ばかり鎌足公血脈(けちみやく)斷絶なく今に相續ゆゑ、其家にては正嫡と稱せらるゝとぞ。藤氏の御系圖をみれば、不比等は御兄弟にて御相續ありし樣に見えたり、往昔は加樣なる事も風俗にや、思量に捗(はか)らざる事也。

○近衞殿に五關白日記と云(いふ)もの有(あり)。日次記(ひなみき)などいへるも此中の書にして、みな歷史に傳ふべき實錄也。台德院殿御所望にて書寫被仰付(おほせつけられ)關東祕府に一部有(あり)、其後近衞家囘祿にて、右の眞本燒却せしかば、又關東へ近衞殿御願有(あり)、祕府の本に就(つき)て書寫功終り、再び近衞家に此書有(あり)とぞ。

○攝簶(せつろく)の家諸太夫十人づつ有(あり)、世官(せいくわん)にして其家司(けいし)を任ぜらる。俸祿は大坂にて賜(たまは)る御藏米(おくらまい)と云(いひ)、例に依(より)て俸祿は玉はるといへども、當今不用の官なれば實(じつ)に其人を置(おく)事なし、每家三四人の諸太夫ありて、十餘人の位官號を兼帶する也。但(ただし)堂上の諸太夫は正六位上なり。伶人及諸神官宮方の家司皆しかり、京官の諸太夫は從五位下に任ずる也。それゆゑに京官の諸太夫江戸へまいり御目見へのときは守(かみ)を稱せず、國名ばかり呼(よび)すての披露也。

[やぶちゃん注:標題に合わせて四条を纏めた。

「五攝家」藤原氏のうち、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家を指す。藤原氏は北家出身の良房・基経父子が摂政・関白となって以来、その子孫が相いついで摂政・関白となり、同時に氏長者を兼帯したが、このように摂政・関白を出す家を「摂関家」又は「摂家」と称した。ところが、鎌倉時代初頭、源頼朝の推挙により、兼実が兄基実の子基通に代わって摂政・氏長者となって、基通の近衛家に対し、九条家を興した。ここに摂関家は近衛と九条に分立したが、さらに兼実の孫道家は、その子教実・良実・実経を相いついで摂関につけたことから、良実が二条家を、実経が一条家を興し、教実の九条家と三家に分かれた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「五大夫」元は秦漢時代に行われていた二十等爵の第九位の官爵であったが、本邦では当初、五位以上の有位者を総じて「大夫」といったが、後に五位だけに用い、「たいふ」「たゆう」と呼んだ。最終条の「太夫」は同義として記している。

「淸華(せいぐわ)と云(いひ)」摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する公家の家格。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることが出来る。当初は七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)であったが、後に広幡・醍醐が加わり九家となった。さらに豊臣政権時代に五大老であった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成(せいがなり)しており、清華家と同等の扱いを受けた。ここは「云」は「云ふあるも」でないと文が繋がらないように思う

「若其家幼輩にして何れも其任に堪(たへ)ざる時は、淸華より此職を勤らるゝ也」とあるが、ウィキの「によれば、『江戸時代の太政大臣は摂政・関白経験者(摂家)に限られ、清華家の極官は事実上左大臣であった』とし、しかも『その左大臣の任官も江戸期には』十『例と少なく、在任期間も短い』とあるので、本文の「淸華にて交々(かはるがはる)拜任あり。七淸華家一代に一度づつ轉任畢(をはり)て後ならでは、五攝家此職に任ぜらるゝ事あたはず」というのは私には不審である。識者の御教授を乞う。

「其仁」その摂政・関白に就くべき人としての資格。

「近衞殿嫡子の御家は、後光嚴院の御時逐電ありて南朝へ出仕有」後光厳天皇の在位は観応三(一三五二)年から応安四(一三七一)年。ウィキの「近衛に拠れば、『南北朝時代の一時期には』近衛家は『両朝に分裂していた』とはある。

「女子へ後水尾帝の皇子聟に入(いら)せられ、今王孫にて相續也」後水尾天皇(在位:慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)の皇子を調べてみたが、不詳。

「九條家ばかり鎌足公血脈斷絶なく今に相續ゆゑ、其家にては正嫡と稱せらるゝとぞ」ウィキの「九条家には『鎌倉時代は一条家が九条流の嫡流であったが、室町中期以降、九条家の地位が上昇し、一条家、九条家が九条流の嫡流とされた。江戸時代中期以降は松殿家の所領も併せて継承することとなり、最大の石高となった九条家が広大な屋敷を構え、九条流の嫡流であると主張した』とはある。

「近衞殿に五關白日記と云もの有」鎌倉時代の関白近衛家実の「猪隈(いのくま)関白記」や近衛兼経の「岡屋関白記」、近衛基平の「深心院(じんしんいん)関白記」などか。

「日次記」日記。

「台德院殿」徳川秀忠の法号。

「關東祕府」江戸城の貴重書を保管する書庫のことであろう。

「功終り」労力を尽くして事を成し遂げ。

「攝簶」関白の別称。

「世官」官職を世襲すること。

「家司」親王・内親王家及び職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌った。本来は四位・五位の者が成った。

「伶人」楽人。

「それゆゑに」よく判らぬが、有名無実の官であるから、武家が持っていた「~守」と差別化するためか。]

2018/08/08

和漢三才圖會第四十二 原禽類 白雉(しらきじ)

Sirakiji

しらきじ

白雉

 

△按白雉形狀不異而白色頰紅自有雌雄然不多近年

 間來於異國而養于樊中惟愛其美耳

 日本紀孝德天皇大化六年穴戸國【今云長門】獲白雉獻之

 是休祥也故以年號改白雉元年

高麗雉 來於朝鮮狀類雉而光彩最美麗頸有白環紋

 彼地亦以爲珍凡養雉正月餌蜥蜴則好交生卵使雞

 孚之捕其蜥蜴者繫蠅於髮𢳄地邊則蜥蜴出於穴

 

 

しらきじ

白雉

 

△按ずるに、白雉は形-狀〔(かたち)〕、異ならずして、白色。頰、紅なり。自〔(おのづか)〕ら雌雄有りて、然〔しか〕も、多からず。近年、間(まゝ)異國より來りて樊〔(かご)の〕中に養ふ。惟だ、其の美を愛するのみ。

「日本紀」孝德天皇大化六年に穴戸國【今、云ふ、長門。】より、白雉を獲り、之れを獻ず。是れ、休祥〔(きうしやう)〕なり。故に年號を以つて白雉元年に改む。

高麗雉 朝鮮より來たる。狀、雉に類して、光彩、最も美麗なり。頸、白き環(わ)の紋(もん)有り。彼の地にも亦、以つて珍と爲す。凡そ、雉を養ふに、正月、蜥蜴(とかげ)を餌(ゑ)とすれば、則ち、好く交(つる)みて卵を生ず。雞〔(にはとり)〕をして之れを孚〔(かへ)〕らしむ。其の蜥蜴を捕ふには、蠅を髮に繫(つな)ぎ、地邊を𢳄(ひきず)れば、則ち、蜥蜴、穴より出づ。

[やぶちゃん注:冒頭で結論を出してしまうと、私は前条の

キジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor の亜種類のアルビノ(albino:白化個体)

或いは、当時、長崎を経由して舶来してきた、大陸産の、

キジ目キジ科キジ属コウライキジ Phasianus colchicus のアルビノ

か、同様に齎された、本邦のキジに体型が酷似した、大陸産の、

キジ科 Phasianidae の仲間のアルビノ

と考える。無論、本邦産のキジのアルビノは稀ではある。が、ネット上で画像や動画を調べると、結構、本邦での彼らを見ることが出来るのである。さて、附記されている「高麗雉」(同種の多くの亜種には首に白い輪状の模様があるのが特徴であり、頬は赤い。但し、基準種Phasianus colchicus colchicusにはこの白い首輪状模様はない。自然分布はカスピ海地方から朝鮮半島にかけてと考えられているが、古くから狩猟鳥として親しまれたため、世界各地に人為的に移入されており、参照したウィキの「コウライキジ」によれば、『対馬と瓜島には、すでに中世に朝鮮半島から移入されていたとされる』とある)に着目する方もあろう。何で、こんなところに添えるんだろうという疑問から、良安の言う「白雉」はコウライキジなのじゃないかと思う方もいるのではないか? そうさ、コウライキジが「白雉」だとする見解を示しておられる方は実際に、いる。雉は流石に国鳥だ。白い雉についてマニアックに記しておられる人は、予想外に多いのであるが、例えば、個人ブログ「樹樹日記」の「白いキジと黒いキジを読まれたい。要点を記すと、「魏志倭人伝」の中に「この国には黒い雉がいる」という記述があり、これは『日本の鳥に関する最古の』対象が雉であることになること、そして「魏志倭人伝」の記者が『日本のキジを「黒い」と感じるのは、中国大陸のキジ(コウライキジ)と比べて』「白い」と感じたのであり、『コウライキジを見慣れている中国人が日本のキジを見て「黒い」と感じるのは不思議では』ない、『逆に言えば、日本のキジを見慣れている日本人にはコウライキジが白く見えるはず』だとされ、『「白雉」という元号は白化個体ではなく』、『コウライキジに由来するのではないか』、『朝鮮半島から対馬あたりにコウライキジが移入され、それが今の山口県の国司に渡り、さらに朝廷に献上されたのではない』か、という推論も示しておられるのである。私は最後の改元推理の部分には賛同出来ないものの、前半の解釈は共感出来る。しかし、これは「魏志倭人伝」の「黒雉」とその認識の内側に措定されてある「白雉」を考察するという条件下に於いての共感である。何故なら、もし、この良安の「白雉」が「コウライキジ」そのものなのだとするならば、良安が「白雉は形-狀〔(かたち)〕、異ならずして、白色。頰、紅なり」(言っておくと、「本草綱目」には「白雉」はないから、この項のメインの「白雉」のパートは良安のオリジナルなものである。さすれば、この謂いは良安が実際に「白雉」を実見して書いたものと考えるべきである)とは、絶対に書かないと信ずるからである。私は既に「和漢三才図会」の動物類を十三巻ばかり電子化注してきた。原文を基本、生でタイピングする作業の中で、良安の観察眼については、一般人よりはずっと理解しているつもりである。無論、時に彼の観察には杜撰なところも散見されるが、しかし、博物学者としての鋭さはしっかり持っている。その良安が、本邦のキジより、多色刷り図鑑により相応しい明るい多彩色の、白い首輪模様をしたコウライキジを見たとしても、彼は決して「白色。頰、紅なり」とは書かない。ちゃんと「高麗雉」のところにある通り、「雉に類して、光彩、最も美麗なり。頸、白き環(わ)の紋(もん)有り」と記すのである。則ち、この「白雉」の項を立てて、そこにその仲間っぽいものとして良安が「高麗雉」を追記したことを考えても、「白雉」と「高麗雉」は少なくとも良安の中では、やはり全然、別種として観察されたということなのである。ただ、良安はここで、「近年、間(まゝ)異國より來りて樊〔(かご)の〕[やぶちゃん注:「樊」には「鳥籠」の意がある。]中に養ふ。惟だ、其の美を愛するのみ」と言っておいて、後に「高麗雉」の項を添えたからには、この「白雉」がコウライキジのアルビノである可能性はかなり高くはなることは事実であるように思われはする。

 時に、本邦の「白雉」の記載はどうなのか? これも私には足元にも及ばぬような、フリークがいらっしゃった。Seikuziブログ不思議なことはあったほうがいいの「雉(ち)」である。これはもう必見の要保存で、実に古文献から二十例を調べ上げておられ、そこでの白雉の発見地は北九州(筑前・大宰府・壱岐等)で六例、畿内とその近郊(但馬・美作・丹波・山城等)で六例、武蔵国を中心とした東国信越(陸奥・越中・飛騨等)で六例とあって、ブログ主も驚いておられる通り、本邦内で均等に見出されてあるのである。東国信越は本邦産のキジのアルビノであると考えてよく、これは寧ろ、古えにあっても本邦の各所で白い雉は目撃されていた確かな証拠なのである。

『「日本紀」孝德天皇大化六年に穴戸國【今、云ふ、長門。】より、白雉を獲り、之れを獻ず。是れ、休祥なり。故に年號を以つて白雉元年に改む』西暦六五〇年。「日本書紀」の原文は、個人サイトみかえりの里 In ほっちゃの「白雉伝承についてを参照されたい。「休祥」(きゅうしょう)の「休」は「目出度い」の意で「よい前兆・吉兆」の意。

𢳄」「旋」の異体字。「長く引きずる」の意。]

諸國里人談卷之五 蘭奢待幷紅塵

 

    ○蘭奢待(らんじやたい)紅塵(こうじん)

南都東大寺、敕符の藏に納まる【号「正念院」。】。始は「黃熟香(わうじゆくかう)」といふ。聖武帝、「蘭奢待」と改めさせ給ふ。此三字に、東大寺の文字(もじ)、隱れり。此量(おもさ)三貫三百五十目〔め〕[やぶちゃん注:十二キロ五百六十二グラム半。]あり。紅塵は量四貫六百目[やぶちゃん注:十七キロ四百三十七グラム半。]ありと云〔いふ〕。天子、御代に一度、これをきらさせ給ふといへり。

 

Ranjyatai

 

[やぶちゃん注:ここに「蘭奢待」及び「紅塵」の挿絵が入る(稲田大学古典総合データベースの①のものはこ)。なお、明度の高い③にも、この挿絵に限って書写されているのでリンクさせておく。③は非常に綺麗で見易くていいのだが、「紅塵」の右縦の長さが、「一尺八寸」となっている(全体のスケールから明らかに誤写)ので、以下の挿絵のキャプション・データは①を用いて翻刻した(本文同様、一部に濁典を添えた)。加えて、実は国立国会図書館デジタルコレクションにも本「諸國里人談」全五巻がある(寛保三年版であるが、最後に手書き(入手?)のクレジットとして『安永七年』(一七七八年)『秋七月上旬』とあって、思うに早稲田大学図書館古典総合データベースの私が校合本とした上記①と同じ版と思われる)。国立国会図書館は吉川弘文館や早稲田大学図書館とは異なり、画像の使用が全くの自由(引用元を明記すれば、使用許諾許可を得る必要がない。海外サイトの文化的なパブリック・ドメインのテクスト及び画像はその多くがその立場を採っており、これこそが真に学術的配慮、智のユビキタス ubiquitous であると私は思う)であればこそ、ここでは俄然、その国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正して掲げることとした。]

   *   *

蘭奢待(らんじやたい)

量(おもさ)

三貫三百五十目

[やぶちゃん注:以下、蘭奢待の木片本体の左中央やや下部の穴の右横に。]

[やぶちゃん注:後注で出るが、これは香木としての質に劣る箇所を鑿(のみ)で人為的に刳り抜いた跡である。]

[やぶちゃん注:以下、木片の長い方の長さ。文字横転。]

長五尺二寸五分

[やぶちゃん注:約二メートル十三センチ六ミリ。]

[やぶちゃん注:以下、木片左に。]

木口周〔めぐり〕四尺二寸

[やぶちゃん注:一メートル二十七センチ三ミリ弱。]

   *

紅塵(こうじん)

量(おもさ)

四貫六百五十目

[やぶちゃん注:本文と異なる。十七キロ四百三十七グラム半。]

[やぶちゃん注:以下、上辺の右の突出部分のみの長さ。文字横転。横上部は中央少し左手が垂直(横水平)にカットされて左端は長方形に無くなっており、短くなっている。因みに、上辺の左のカットされた部分の長さは「一尺五分」(三十一センチ八ミリ)となる。]

二尺四寸五分

[やぶちゃん注:約七十四センチ二ミリ。]

[やぶちゃん注:以下、下辺の全長。文字横転。]

三尺五寸

[やぶちゃん注:約一メートル六ミリ。]

[やぶちゃん注:以下、右手縦の長さ。]

一尺八分

[やぶちゃん注:約三十センチ三ミリ。]

[やぶちゃん注:以下、左手縦の長さ。]

九寸一分

[やぶちゃん注:約二十七センチ六ミリ。]

   *

元亀三年三月廿八日、織田信長公、奏(そう)を經て、先格(せんかく)にまかせて、一寸八分[やぶちゃん注:約五センチ四ミリ半。]を切らしむ。勅使、日野大納言資定卿・飛鳥井大納言雅教、奉行、佐久間右衞尉[やぶちゃん注:ママ。]・菅屋(すがのや)九右衞門・樽九郞左衞門。蜂谷兵庫頭・武井夕庵〔せきあん〕・松井友閑法印、以上六人也。

慶長七年六月十一日に切〔きら〕しめ給ふ。勅使、觀修寺殿(くわんじゆうじどの)・廣橋殿・柳原殿也。奉行は本多(ほんだ)上野介正純。

[やぶちゃん注:「蘭奢待(らんじやたい)」「蘭麝待」とも書く。前の「奇南」(きゃら:伽羅)の私の注のウィキの「沈香」にも出たが、ここはウィキの「蘭奢待」を引いておく。『東大寺正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香と謳われる』。『正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に』「東」(「蘭」の(もんがまえ)の内)・「大」(「奢」の最初の三画分)・「寺」(「待」の(つくり))『の名を隠した雅名である』。『その香は「古めきしずか」と言われる。紅沈香と並び、権力者にとって非常に重宝された』。重さ十一・六キログラムの『錐形の香の原木』(本文の掲げる数値(換算)は十二キロ五百六十二グラム半であるから、江戸時代からさらに乾燥が進んだものか、一キロ近く減っている。というより、長さは現行が一メートル五十六センチしかなく、本文の換算値約二メートル十三センチ六ミリからは五十七センチ余りも縮小しているから、これは沾涼の数値の誤りでないとすれば、近世後期から近代に於いて長さが有意に減ってしまうほど削り取られたということか?)『成分からは伽羅に分類される』(「奇南」の私の注を参照されたい)。『樹脂化しておらず』、『香としての質に劣る中心部は鑿(ノミ)で削られ』、『中空になっている(自然に朽ちた洞ではない)。この種の加工は』九〇〇年頃(昌泰三年/中国では唐代)に『始まったので、それ以降の時代のものと推測されている』。『東南アジアで産出される沈香と呼ばれる高級香木。日本には聖武天皇の代』(七二四年~七四九年)『に中国から渡来したと伝わるが、実際の渡来は』十『世紀以降とする説が有力である』(一説には「日本書紀」「や聖徳太子伝暦」の推古天皇三(五九五年)という説もある)』。『奈良市の正倉院の中倉薬物棚に納められており、これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取っている』。『徳川家康も、切り取ったという説があったが』、慶長七(一六〇二)年六月十日、『東大寺に奉行の本多正純と大久保長安を派遣して正倉院宝庫の調査を実施』させた際、『蘭奢待の現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき』、『切り取りは行わなかった』(「当代記」の同日の条)。なお、同八年二月二十五日には宝庫を『開封して修理が行われている』。二〇〇六年一月、『大阪大学の米田該典(よねだかいすけ。准教授、薬史学)の調査により、合わせて』三十八『か所の切り取り跡があることが判明している。切り口の濃淡から、切り取られた時代にかなりの幅があり、同じ場所から切り取られることもあるため、これまで』五十『回以上は切り取られたと推定され、前記の権力者以外にも』、『採取された現地の人や日本への移送時に手にした人たち、管理していた東大寺の関係者などによって切り取られたものと推測され』ているとある。沾涼は本文で、『天子、御代に一度、これをきらさせ給ふといへり』とあるが、そんなことが毎回続いていたら、とっくの昔に影も形も消えて亡くなっているはずだ。寧ろ、家康の条に出る、「切り取った(或いはそれを命じた)者は不幸になる」という確信犯的蜚語が蘭奢待をかくも守ったのであろう。

「紅塵(こうじん)」正倉院所蔵の香木で、現行では重さは約十八キログラム(本文記載と比してこちらは変わっていない。或いはやや増加しているのは、逆に湿気などを含んで膨張したか、虫食いによる変成等が疑われるのかも知れぬ)長さ約一メートル(変化なし)。正式には「全桟香」「全浅香」と呼ばれ(「桟」は香木の樹脂の結び方を指すらしい)、香道ではその色から「紅塵」「紅沈」と呼んだものが一般化している。蘭奢待と並ぶ天下第一の名香とされる。蘭奢待・紅塵の写真も添えられたkazz921氏のサイト「香筵雅遊」の『「正倉院展の香」見聞録』に両香木の現状況や現知見が詳しく載っているので是非見られたいが、それによると、『背面は、白太(樹脂の結んでいない部分)と見られ』、一ミリメートル『程度の小穴が無数にあいている。(虫が原因か?)』とあり、また、『表面には』斉衡三(八五六)年三月二十四日に行われた『正倉院蔵物検査で書かれた墨書があ』るとしつつ、この『全浅香は、国家珍宝帳に記載された香木だが、当初から列挙されたのではなく、後』の天平勝宝四(七五二)年『に「浅香一村」を書き足した形跡があるので、伝来年がはっきりしている』もので、『東大寺(大仏)に香薬として献上されているが、巨木なので珍奇なものとして保存されたのではと思われる』とされ、『白太の部分を残したまま保存しているということは、黄熟香よりも古い年代の香木であることは間違いない』とある。また、『黄熟香と全浅香は、化学的には極めて似ているが、樹脂や精油成分の沈積の程度が大きく異なるので、全く別種の香のように見えてしまう』と評しておられる。また『正倉院には、長さ』五『センチ程度の沈香の断片から、今にも焚いて聞けそうな小片まで、大量の沈香が保存されている。これらの香木は、宝物に香りをつけたり、防虫などの効果を期待して入れたものかもしれない』とされ、『東大寺は、天皇の勅命により民衆に施薬をする寺であったことから、数々の薬の原料が出入りしている。沈香は、「香薬」の材料として使われ、精神安定、健胃、強壮、利尿、解毒の効能があるとされていた』ともある。

「敕符の藏」「正念院」「正倉院」の誤り(「倉」の崩し字を彫り師が誤読した可能性があるか。にしても書写版の③も訂していない)。奈良時代の官庁や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録から知られる。ウィキの「正倉院」によれば、『「正倉」とは、元来』、『「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀や調布などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものだった。また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する正倉があり、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」と称した。南都七大寺にはそれぞれに正倉院が存在したが、歳月の経過で廃絶して』、『東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったため、「正倉院」は東大寺に所在する正倉院宝庫を指す固有名詞と化した』とあり、一方、聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは天平一五(七四三)年、実際の大仏鋳造が始まったのは天平十九年で、まさにその頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと推定されているから、「敕符の藏」(勅命勅許を与えられている東大寺の倉)というのは腑に落ちる謂いと思う。

「元亀三年」一五七二年。

「奏(そう)を經て」天皇への御伺を経て。

「先格(せんかく)にまかせて」先例の式に従って。この切除の分量、長さ「一寸八分」(約五センチ四ミリ半)というのが、切除の大きさの定格(上限)であったと考えた方が自然であろう。

「日野大納言資定卿」不詳。

「飛鳥井大納言雅教」飛鳥井雅春(永正一七(一五二〇)年~文禄三(一五九四)年)の初名(この後の天正一〇(一五八二)年に雅春と改名)。但し、彼が権大納言となるのは後の天正三(一五七五)年で、当時はまだ「権中納言」である。

「佐久間右衞尉」「右衞門尉」の脱字。織田氏家臣団筆頭家老佐久間信盛(大永八・享禄元年(一五二八)年?~天正一〇(一五八二)年)。天正八(一五八〇)年に信長に追放され、高野山に入って出家した。

「菅屋(すがのや)九右衞門」織田信長の側近菅屋長頼(すがやながより ?~天正一〇(一五八二)年)。ウィキの「菅屋長頼によれば、「本能寺の変」の際には『市中に宿を取っており、本能寺に駆けつけたものの、明智勢の前に本能寺に入ることは出来ず、妙覚寺の織田信忠の元に駆けつけて、二条御所で信忠に殉じた』とある。

「樽九郞左衞門」不詳。

「蜂谷兵庫頭」蜂屋頼隆(天文三(一五三四)年~天正一七(一五八九)年)。織田信長・豊臣秀吉に従い、羽柴の姓も授けられ、「羽柴敦賀侍従」と呼ばれた。子がなく、断絶した。

「武井夕庵」(生没年未詳)当初は美濃国守護土岐氏、次いで美濃斎藤氏の道三・義龍・龍興の三代にわたって家臣(右筆)として近侍し、後に織田信長に重用され、外交面でも活躍した。

「松井友閑法印」元は尾張清州の町人とされる。織田信長側近の吏僚として活躍し,右筆や堺の代官を歴任、後に宮内卿法印に任ぜられた。信長の名物茶器の収集も担当した。信長の死後は豊臣秀吉に従って、堺政所となるも、罷免されている。

「慶長七年」一六〇二年。

「切〔きら〕しめ給ふ」主語は豊臣秀吉。

「觀修寺殿」当時の勧修寺家(かじゅうじけ/かんじゅじけ)当主なら、勧修寺晴豊(はるとよ/はれとよ 天文一三(一五四四)年~慶長七年十二月八日(一六〇三年一月十九日))。

「廣橋殿」当時の藤原北家日野流広橋家当主。広橋総光か。

「柳原殿」当時の藤原北家日野家分流の柳原家(やなぎわらけ:「やなぎはら」の読みは慣用読み)当主。柳原資俊かと思われるが、彼はこの慶長七年没(日付不詳)なので断定は出来ない

「本多上野介正純」(永禄八(一五六五)年~寛永一四(一六三七)年)。後、徳川家康側近として次期秀忠まで二代に亙って、後の大老或いは老中に相当する役割を果たしたが、元和八(一六二二)年に失脚、幽閉され、そのまま配所出羽国横手で亡くなった。]

2018/08/07

和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)

Kiji

きじ    雉【音 】 華蟲【尚書】

きゞす   䟽趾【曲禮】

      迦頻闍羅【梵書】

野鷄

ヱ、キイ 【和名木々須

      一云木之】

 

本綱雉形大如雞而斑色繡翼雄者文采而尾長雌者文

暗而尾短其性好闘其名曰鷕【音杳】其交不再其卵褐色將

卵時雌避其雄而潜伏之否則雄食其卵也月令仲冬雉

始雊謂陽動則雉鳴而勾其頸也其飛如矢一徃而墜故

字從矢雉屬離火雞屬巽木故煑之雞冠變雉冠紅也

雉肉【酸微寒】 食品之貴然有小毒不可常食損多益少春

夏不可食爲其食蟲蟻及與蛇交變化有毒也【胡桃木耳菌葱蕎麥

不可合食】月令云十月雉入大水爲蜃【蜃者大蛤】埤雅云蛇交雉則

生蜃【蜃者蛟屬】或云正月蛇與雉交生卵遇雷入土數丈爲蛇

形經二三百年成蛟飛騰若卵不入土乃爲雉耳【蓋蜃同字而大

異物也詳各其條下】

夫木 ききす鳴くあしたの原を過行はさわらひわたりほろろうつなり

                  經家

按雉卽野鷄處處多有之東北産最佳雄者頂有雙角

 毛頭頸胸腹翠黑色有光頰眼紅觜蒼而尖背翮彩斑

 色腰有長緑毛尾長有文采翅短而蒼黑斑脛掌亦似

 雞而勁雌者黃赤黑斑而文暗尾短

 春月伏卵於叢中雄不離去其近邊狐狸狼犬或人至

 則頻翥鳴此愛情之所然也本綱所謂雄食其卵者與

 此相反矣又春月山人燒野火既欲至伏卵處時雌先

 張翅而仰臥于地雄來啣數卵置雌之翅之内而後雄

 啣雌之觜急引退以避火是雉之性自然之智也雉欲

 潜人則