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2018/08/07

譚海 卷之三 太上天皇の事 附將軍家

 

太上天皇の事 附將軍家

○太上天皇御二方おはしませば、仙洞(せんとう)・新院と稱し奉る、前後のわかち也。御三方(おさんかた)なれば初(はじめ)のを本院と稱し奉り、次を仙洞と稱し奉り、新しきを新院と稱し奉る。御落飾の後を法皇と申奉る、又仙洞を公方(くばう)とも申奉る事、今上天子昔は大かた御幼稚に渡らせ玉ひ、公事訟(くじうつたへ)をば院にて聞(きか)せ玉ふ公事の方と申事也。

○將軍家を公方樣と申奉る事、仙院にひとしきと云(いふ)事也。樣の字の心、さまと訓ずるは、そのやうにあると云事也、室町家の時より稱せられし號とぞ。天子に一等を降(くだ)る御稱號にて、至(いたつ)て重き御事(おんこと)也。征夷大將軍は日本にては至て重き事にて、賞罰を掌る官なれば、公方樣ならでは拜任成(なり)がたし、されば重き官ゆへ將軍家と稱し奉りなれたれども、却(かへつ)て將軍家と申奉るはいまだ官位にかゝはりたる事にて、公方樣と申奉るより重き御稱號なし。されば上樣(うへさま)とも稱し奉るも同じ御事也。關東の御徒士衆(おかちしゆう)と申(まうす)は、往古の檢非違使(けびいし)に相當する也。淳和院(じゆんなゐん)と申は源氏の子弟の學問所なり、奬學院と申は藤原氏の學問所也。別當と申は此兩院の首領師範の御事にて、源氏の人は勿論、藤氏攝關親王貴族といへども、みな子弟の禮を執(とり)て仕(つか)ふ事なれば、何事も別當の指揮に戾りたがふ事はならぬ事也とぞ。

[やぶちゃん注:「仙洞」俗世を離れて深山の洞窟に隠遁する仙人が語源で、退位した天皇及びその住居の美称として用いられるようになった。

「前後のわかち」孰れが先か後かでその呼称を区別して用いること。

「室町家」室町時代の足利将軍家。

「御徒士衆」将軍の外出の際に徒歩で先駆を務め、また、沿道の警備などに当たった。

「檢非違使」平安初期に朝廷に置かれた令外(りょうげ)の官の一つ。当初は京の犯罪・風俗の取締などの警察業務を担当したが、後には訴訟・裁判をも行い、強大な権力を持った。平安後期には諸国にも置かれたが、同時期、武士が勢力を持つようになって衰退した。

「淳和院」ウィキの「淳和院から引く。『平安京の右京四条二坊(現在の京都府京都市右京区)にあった淳和天皇の離宮・後院。後に源氏長者が奨学院(大学別曹)とともに別当』(本来は律令制に於いて、本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになった)『を務めた。別名』、『西院(さい/さいいん)』とも。『建築された年代は不明であるが、淳和天皇の皇太弟時代の』弘仁四(八一三)年に『実兄の嵯峨天皇が当時南池院と呼ばれていたここに行幸した。淳和天皇の即位後は離宮となり』、天長一〇(八三三)年三月に、『ここで甥の正良親王(仁明天皇)への譲位を宣言した。これに先立って』、『名を「淳和院」と改めた。淳和上皇は退位後にはここに皇太后となった正子内親王(淳和太后・嵯峨天皇の皇女)と暮らしていたが』、七『年後に崩御した』。『さらに、承和の変によって上皇の遺児・恒貞親王が皇太子を廃され』、『淳和院に押し込められると、以後』、『正子内親王・恒貞親王はここで静かに仏道修行に専念した』。貞観一六(八七四)年の『火災で一度は焼失するが、再建後に正子内親王はここを、当時朝廷の仏教政策で正式な僧侶になることが出来なかった尼のために、尼寺とした。正子内親王の死後の』元慶五(八八二)年一月、『朝廷は恒貞親王の要望を受けて』、『ここに公卿別当を設置し』、『淳和院と嵯峨上皇・檀林皇后』『・淳和太后(正子内親王)の陵墓』及び『嵯峨上皇ゆかりの大覚寺と檀林皇后ゆかりの檀林寺の管理を』合わせて『行わせることとした。これを命じられた公卿を淳和院別当(じゅんないんべっとう)という』。『嵯峨上皇は、最初の源氏である嵯峨源氏の祖であることから、次第に淳和院別当の職と源氏が結び付けられて考えられるようになって』ゆき、保延六(一一四〇)年に、『村上源氏の源氏長者源雅定が淳和院と奨学院別当を兼務して以後、淳和院別当・奨学院別当は源氏長者を兼ねる慣例が生まれ』、これが『明治維新まで継承された。当初は村上源氏でも嫡流とされた久我家・中院家から源氏長者が出され、稀に人がいないとの理由でその庶流から出される例』はあったが、永徳三/弘和三(一三八三)年に『清和源氏の嫡統を嗣いだと称する足利氏の室町幕府将軍義満が源氏長者に任じられ、同時に淳和院と奨学院の別当を兼ねて、以後しばらく室町幕府将軍が別当を務めた』。『室町幕府に明応の政変が起きると』、『再び』、『村上源氏が源氏長者とともに別当を継承するようになった。その一方、実質的には応仁の乱以後は戦乱による京都の混乱に伴って淳和院は廃絶していたと考えられており、淳和院別当は名目だけの肩書きであったとされている。やがて、戦国時代を終息させた徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けた際に源氏長者と淳和院・奨学院別当を兼務すると、それ以後は両院の別当職が江戸幕府の歴代将軍に引き継がれることになった』とある。

「奬學院」ウィキの「奨学院より引く。『平安時代の大学別曹の一。大学別曹とは、平安時代の貴族(公家)の教育機関』のこと。元慶五(八八一)年、『在原行平』(業平の異母兄)『が創設した。奨学院の位置は左京三条、大学寮の南、勧学院の西で、現在の京都府京都市中京区西ノ京南聖町。奨学院には、皇親、諸王、皇別氏族(源氏・平氏・在原氏など)一族、すなわち王氏の子弟が寄宿し、大学寮に通った』。昌泰三(九〇〇)年には『大学寮南曹として公認され、勧学院と並び「南曹の二窓」と称された。奨学院の運営は勧学院に倣い、別当(校長にあたる)、学頭(学生の首席)などの役職が置かれた。大学別曹は、貴族の衰勢と共に衰微する。平安時代末期の』十二『世紀頃には、奨学院も他の大学別曹と同様、衰微した』が、『その後も奨学院別当職は、名誉職として残』った。『奨学院別当職は、源氏長者が兼務する慣例となり、結果として村上源氏の者が淳和院別当職と共に世襲した。のちに足利義満が清和源氏として初めて源氏長者になり両院別当を兼ね、以後もしばしば源氏長者になった足利将軍が兼務した。徳川幕府を開いた徳川家康もこれに倣い、秀忠を除く歴代将軍が源氏長者となったため、幕末まで将軍による源氏長者・奨学院別当職・淳和院別当職の世襲が続いた』とある。

「戾り」帰って則ること。命に従うに同じい。]

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