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2018/08/14

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(50) 武權の勃興(Ⅱ)

 

 併しながら、日本に於ける攝政の歷史は、世襲的權威は常にまた何處に於ても、その權威の代理者に依つて取つて代はられるものであるといふ、普通の法則を充分に説明して居る。藤原氏も終には、政略上から取り入れ且つ行はして居た奢侈の犠牲となつたと考へられる。藤原氏は單なる宮廷の貴族に堕し、軍事方面の事は全然これを武家に委任して、内政の方面以外には、何等直接の權威を行使する努力をしなかつた。第八世紀に及んで支那の方式に從つて、文武の組織が區別され、ここに大なる武人階級が現出して、急速に其の權力を擴大するに至つた。正統の武家氏族の中で、最も有力なるものは、源氏と平氏とであつた。藤原氏は、戰爭に關する一切の重要事項の處狸を、これ等二氏に代理せしめ、其の結果、やがて其の高い地位と勢力とを失ふに至つた。武家が大になつて政府の權能を制肘し得るやうになるや――これは第十一世紀の中葉のことであるが――藤原氏の一族は、多くの攝政の下に數世紀の間、要職を独擅にしてはゐたが、其の主權は既に過去のものとなつてしまつた。

 併し武家も、その仲間同志で激しい爭鬪をした上でなければ、自分等の野心を實現することはできなかつた、――これが日本歷史中の、最も長く又最も激しかつた戰役である。源氏も平氏も何れも皆公卿であつて、皇室の末裔であつた。兩家の爭鬪の初期に於ては、平氏がすべて優勢であつた。如何なる權力と雖も、平氏が敵なる氏族を撲滅するのを妨げることはできないと考へられた。併し運命は遂に源氏の方に向つて來て一一八五年壇の浦に於ける有名な海戰で平氏は滅亡してしまつた。

 その時から源氏の攝政むしろ將軍の治世が始まつた。『將軍』と云ふ稱號は、ロオマの兵語イムペラトルの如く、もとは單に總司令官の意味であつたと、私は別の處で述べたことがあつた然るに今やそれは、文武兩樣の主權者――國王の中の國王――たる二重の資格に於て、事實上最高の統治者の稱號となつたのである。源氏が權力を獲得した時から、將軍政治の歷史は――武權優越の長い歷史――は實際に始まつた、爾來下つて明治の現代に至る迄、日本は實際に二人の皇帝を戴いてゐた。卽ち一方に天皇或は神の化身は、種族の宗教を代表し、今一つの眞の大元帥は、行政上の諸權を行使してゐた。併し誰れも力に依つて、少くともあらゆる權威の源である日嗣ぎの御位を侵さんと冀ふ[やぶちゃん注:「こひねがふ」。]者はなかつた。攝政則ち將軍もその御位の前には頭を下げた。神性は纂奪さる可くもなかつたのである。

[やぶちゃん注:「イムペラトル」原文“Imperator”。ラテン語。古代ローマ、特に共和政ローマに於けるローマ軍の最高司令官・将軍の称号。後に皇帝若しくは帝権保持者の称号となり、ローマ帝国に於ける皇帝或いは帝権の一部を成した。共和政期には対外戦争で成功を収めた軍事指導者の称号としても使用された。字義的には「インペリウム(Imperium:古代ローマに於いてローマ法によって承認された全面的命令権を指す)を保持する者」という意味で、平時に於ける「最高命令権者」或いは戦時に於ける「最高司令官」のことを指す。初代皇帝アウグストゥス以降、皇帝(正確には元首であるプリンケプス princeps)の個人名に使われるようになった。このことから「アウグストゥス」「カエサル」などとともに最高権力者の肩書きとして認識されるようになった(以上はウィキの「インペラトル及びそのリンク先の記載に拠った)。]

 併し壇の浦の戰の後にも、平和はつづいて來なかつた。源平兩家の大爭鬪に依つて始まつた氏族の戰ひは、さらに五世紀間も、不規則な間隔を置いては、續いて行はれ、國家は四分五裂の有樣になつた。のみならず源氏も高價な犧牲を拂つて獲得した最高權を、永く獨占し得なかつた。北條氏の一族にその政權を代理せしめたので、彼等は、丁度藤原氏が平氏に其の位置を奪はれた如く、北條氏のために取つて代はられてしまつた。源氏の將軍にして實際上の政權を執つたものは、僅に三人のみであつた[やぶちゃん注:執権支配の様態から事実上は源頼朝一人と言うべきである。]。第十三世紀を通じて、否[やぶちゃん注:「いな」。]其の後も尚ほ少時は、北條氏が此の國を治めた。而して注意すべき事は、これ等の攝政は、決して將軍の名稱を名のらず、單に將軍の代理職なりと稱してゐた事である[やぶちゃん注:「執権」は将軍の命令によって政務実務を代理執行する者の意である。]。かくして源氏が鎌倉に一種の宮廷をもつて居たのであるから、一見三頭政治があつたわけである。併しそれ等は單に影の中に消えてしまひ、『影法師將軍』或は『傀儡將軍』と云ふ意味深い稱呼で記憶されてゐる。併しながら、北條氏の行政は、異常な才幹と絶倫なる精力の人々に依つて行はれたので、決して影の如き空虛なものではなかつた。天皇にせよ、將軍にせよ、彼等のために用捨なく、讓位追放に處せられた。將軍職の無力であつた事は、七代目の北條執權職が、七代目の將軍の職を免ずる時、將軍を其の家に送りとどけるに當つて、轎[やぶちゃん注:「こし」と訓じていよう。平井呈一氏もこの漢字を用いた上で、『こし』とルビしている。原文は“palanquin”で、これは中国・インド・日本などの昔の輿・駕籠を意味する英語である。]の中に倒さに吊るして運んだと云ふ事實から推斷し得られよう。にも拘らず、北條氏は、幽靈の將軍を一三三三年まで、そのままにつづけさせた。其の手段に不謹愼な點があるにせよ、これ等の執權が有能の統治者であつたことは。一二八一年のキユブライ汗の有名なる侵略――の如き大事變に際して、救國の任に堪ふるの實力を示した事に依つて知られる。國家の大社に捧げられた祈願に答へて、敵艦隊を打ち沈めたと傅へられる幸運な大風(神風)に助けられて、北條氏は此の侵入者を驅逐することができた。併し北條氏も、内亂を鎭定するには成功しなかつた――特に騷がしい佛教の僧侶に依つて起された亂には不成功であつた。第十三世紀に、佛教は發達して一大武力となつた、――不思議にもヨオロツパ中世紀の戰鬪教會(チヤアチ・ミリタント)に似て居る、僧兵、戰鬪僧正の時代とでも云ふのである。佛教の僧院は、武裝した人々で一杯になつて居た城塞と化した。佛教の脅威は一度ならず、宮廷の聖い離隔した處まで恐怖をもち込んだ。源氏一統の先見の明をもつて居た創設者なる賴朝は、當初佛教に軍事的傾向のあるのを看取し、すべての僧侶が武器を携へ、若しくは武裝した家人を養ふことを嚴禁して、かくの如き軍事的傾向を阻止しようと企てた。然るに彼の後繼者達は何れも、かくの加き禁令を勵行することを怠つたので、其の結果佛教の武力的勢力は、非常に急速に發達し、爲めに機敏なる北條氏と雖も、これに對抗し得るや否や頗るその實力に就いて疑ひを抱いたのであつた。結局此の勢力は、北條氏に非常な煩ひを與へることになつた。第九十六代のみかど後醍醐天皇は、北條氏の專橫に反抗するの勇氣を振ひ起こし、又佛教の僧兵は天皇に味方をした。天皇は脆くも敗れ、隱岐の島に逐はれ給うた。併し天皇の大義は、やがて永年執權の專制に憤激して居た有力なる領主達に依つて擁護せられた。これ等の領主達は勢力を集め、逐はれた天皇を取りかへして舊に復し、力を協はせて執權の首府たる鎌倉に、必死の攻擊を試みた。鎌倉は襲擊され燒燼された。そして北條氏の最後の統治者は、勇敢に防戰したが遂に及ばず、腹搔き切つて果てた。かくの如くして、將軍政治と執權職とは共に一三三三年に滅亡した。

[やぶちゃん注:「七代目の北條執權職が、七代目の將軍の職を免ずる時、將軍を其の家に送りとどけるに當つて、轎の中に倒さに吊るして運んだと云ふ事實から推斷し得られよう」第七代執権は北条時宗であるが、第七代将軍は惟康親王で、彼が将軍職に就いたのは永三(一二六六)年七月であって、以下の惟康親王の将軍解任と京への強制送還の一件は正応二(一二八九)年九月、則ち、時宗の死(弘安七(一二八四)年四月)後五年後のことであるから、執権は第八代北条貞時で、小泉八雲の誤認である。また、「倒さに吊るして」の訳は戸川の悪訳であって、輿を御所に反対向きに寄せて乗せさせられたのである。これは罪人を護送する際のやり方であり、その輿も何と、筵で包んだ粗末な網代の御輿であったことが、後深草院二条の「とはずがたり」の記されてある。

「一二八一年のキユブライ汗の有名なる侵略」「キユブライ汗」は原文“Kublai Khan”で、言わずもがな、元王朝初代皇帝にしてモンゴル帝国第五代皇帝(大ハーン)であったクビライ・カアン(一二一五年~一二九四年)のこと。「一二八一年」は弘安四年で、二度目の元寇襲来である「弘安の役」の開始年。

「第十三世紀に、佛教は發達して一大武力となつた」中世を通じて強大な武装集団を有し、しばしば強訴に及んだ、延暦寺と興福寺を主とした所謂、「南都北嶺」を指すものであろう。ウィキの「寺社勢力によれば、『大寺社内は「無縁所」とよばれる地域であり、生活に困窮した庶民が多く移民し、寺社領地内に吸収された。また、幕府が罪人を捜査する「検断権」も大寺社内には及ばず、そのため源義経や後醍醐天皇など、戦乱に追われた人々の多くが寺社にかくまわれた』とある。

「戰鬪教會(チヤアチ・ミリタント)」「チヤアチ・ミリタント」は前の四字へのルビ。“church-militant”。「闘う教会」。元は現実の教会が正しいキリスト教を敢然と主張し広めることの比喩であるが、ここは実際に教会に所属した兵組織のこと。平井呈一氏は『教会兵』と訳されておられる。後に十字軍に発展するものであろうか。]

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