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2018/08/07

甲子夜話卷之五 3 評定所の起幷遊女を給仕に出す事

 

5-3 評定所の起遊女を給仕に出す事

評定所の起りは、國初の頃、町中出入ごと有とき、裁許を願ふにより、老職以下諸役人の出會を賴んで設けたり。ゆゑに食物等も皆町中より持運び、役人方の給仕にはみな遊女を出したり。然に官家の御制度も漸々と詳備すれば、官より作事もあり、飮饌も出て、給仕は都城の坊主を以て爲ると云。又遊女を評定所へ出すときは、船に乘せて在來せしめたり。其船屋根は無かりしが、夏月は日景に苦しみて、屋根を願ひて作れるより、屋根舟始れり。遊女の稱をさんちやと云。因て屋根船の舊稱はさんちや船と云しとなり。今は知る人さへ稀なり。又今評定所の脇の岸に船の着場あり。これを吉原がんぎと云。古昔遊女の船を繋ぎし處なるゆゑなりとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「評定所」江戸幕府の最高裁判機関で政策の立案・審議も行った。ウィキの「評定所寄り引く。『江戸城外の辰ノ口(現在の千代田区丸の内一丁目』四『番南西部で丸の内永楽ビルディングがある位置』(ここ(グーグル・マップ・データ))『)にあり、幕政の重要事項や大名・旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関で、町奉行、寺社奉行、勘定奉行と老中』一『名で構成された。これに大目付、目付が審理に加わり、評定所留役が実務処理を行った。とくに寺社奉行・町奉行・勘定奉行は三奉行と呼ばれ、評定所のもっとも中心になる構成員であり、寺社奉行』四『人、町奉行』二『人、公事方』『の勘定奉行』二『人を「評定所一座」と称した』。『享保の撰要類集などからも明らかなように、時として三奉行という形で老中へ伺うことも多かった。後には、側衆から後の側用人、江戸出府中の京都所司代、大坂城代、遠国奉行なども列席した。評定所留役は勘定所から出向してきた役人が務めており、実質的な審理は留役が行い、評定所一座が行うのは、冒頭初回の吟味と、最終回の判決の申し渡しのみであった』。『通常、幕府管轄の武士に対して訴訟を扱うが、原告被告を管轄する機関が異なる場合は評定所で裁いた。武士と庶民のような身分違いと町奉行所管轄の江戸の町民と寺社奉行所管轄の宗教者の裁判、幕府領の領民と藩領民など原告と被告の領主が異なる場合である』。評定所は寛永一二(一六三五)年十一月の法令から、この時期に設置された見られる。ただ、『その場所については諸説があり、もっとも一般的な説は、明暦の大火によって、それまで評定の行われた酒井忠清(老中)と安藤重長(寺社奉行)の屋敷が焼失したため、以降伝奏屋敷を仕切って評定所を置いたというものである(石井良助・服藤弘司など)。これは享保期に幕府の求めに応じて、評定所が提出した書上のなかに記載されている事項であり、一般的な入門書などでも広く書かれている』。『評定所の呼称については、先述の寛永』十二『年の法令では「寄合場」と記載され、必ずしも「評定所」の呼称が当初から用いられたわけではない。幕府法令の初見は』慶安五(一六五二)年五月のもの、とある。寛文年間(一六六一年から一六七三年)『頃、寄合の種類が式日(しきじつ)・立合・内座寄合に分かれたことで、出席する構成員や協議内容が日により異なっていった。式日は幕政の重要事項の諮問を行う日となり、初期には主要な構成員であった老中が、諮問が行われる式日にのみの出席に変わった。老中については』、享保五(一七二〇)年に『月一度の出席にまで頻度が低下している。立合は裁判が行われる日で、側用人や在府中の京都所司代・大坂城代・遠国奉行なども列席する場合があった。内座寄合は三奉行が協議する日で、老中などは出席しなかった。内座寄合は奉行宅で行われることもあり、評定所の範囲に入れない場合もある』と記す。

「出入ごと」「出入り事」。俗語で、争いごと・喧嘩・訴訟を指す。

「出會」「しゆつくわい」。一同の出席。

「然に」「しかるに」。

「詳備」「しやうび」。細かな部分の取り決めが完備すること。

「作事」「さくじ」。普請。評定所の施設が造営・増築されること。

「飮饌」評定所勤務中の飲食物。

「都城」江戸城。

「坊主」御数寄屋(おすきや)坊主。数寄屋頭配下で、将軍を始め、出仕する幕府諸役人に茶を調進し、茶礼・茶器を担当した。剃髪した坊主頭であるが、出家していたわけではない。

「爲ると云」「するといふ」。

「日景」「日影」。日差し。

「さんちや」「散茶」。散茶女郎で、狭義には吉原遊女の一つの階級を示す語であり、静山の言うような遊女の総称ではないので注意。原義は「挽いて粉にした茶」のことで、転じて吉原遊女の太夫・格子の下位の遊女群を指す呼称となった。寛文八(一六六八)年、江戸府内の湯女(ゆな:風呂屋に雇われた一種の娼婦。室町期の京都に始まり、江戸前期の江戸・京都・大坂や地方の温泉場などで一世を風靡した。湯女は客の体を洗い、酒食を饗応するとともに、夜伽(よとぎ)もした。湯女の内、大湯女は主として客席を受持ち、小湯女は風呂場で客の体を洗う役を受け持った。幕府はしばしば法令で湯女の制限や一掃を図り、また、公許の遊郭の発展に伴って都市部では自然消滅した)五百人余が吉原へ移されたが、この女たちは元来が湯女であったため、もとからの吉原遊女に比べ、意地に乏しく、客を振ることがない、ということから戯れに名づけられたもの。散茶は煎茶のように袋に入れて振り出さないことに由来する(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「吉原がんぎ」「吉原雁木」で、この場合の「雁木」は、河岸の桟橋に続く木の階段を指す。

「古昔」「こせき」。

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