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2018/08/14

諸國里人談卷之五 永樂錢起 / 諸國里人談(本文)~了

 

    ○永樂錢起(ゑいらくせんのおこり[やぶちゃん注:ママ。])

永樂錢、日本へ渡りしは【永樂は大明成宗帝の年号なり。】、後小松院應永十年八月二日未の剋より、大風吹〔ふき〕て、堂社・民屋、ことごとく倒る。

翌三日巳の剋に凪(なぎ)たり。

其日申の剋に、唐舩(とうせん)一艘、相州三崎濱へ漂ひつく。

其時、鎌倉の將軍足利左兵衞督(さひようへのかみ[やぶちゃん注:ママ。])滿兼卿、下知あつて、伊東次郞右衞門尉貞次・梶原能登守景宗・三浦備前守義高を奉行として詮議ありけるに、惡風によつて着岸しけるよし、舩中の雜物(ぞうもつ)、實檢するに、唐銅(からかね)の永樂錢、數万貫(すまんぐはん)積(つみ)たり。

依ㇾ之(これによつて)、京都前(さきの)將軍義滿入道道有(だうゆう)、新將軍義持公へこれを訴(うつた)ふ。

「唐舩(とうせん)、關東へ着岸する上は、滿兼德分たるべし。」

と下し給りければ、舩中の財宝、殘らず、押(おし)とめ、其價(あたひ)に品々(しな〔じな〕)を給り、舩は歸國してけり。

其後、若干(そこばく)の永樂錢、徒(いたづら)に弊(やぶ)るべからず、法を定め、關東におゐて、これを用ゆ。

遙(はるか)に年を經て、天文の頃、永樂錢に錏(びた)といふ惡錢を取〔とり〕まじへ、同じ直段(ねだん)に用ひしによつて、賣買の輩(ともがら)、市町にて、かの惡錢を論じ撰(ゑら)みて、鬪靜(とうじやう)、やむ事なくて、喧(かまびす)し。

然るに天正のはじめ、北条氏康、關八州をしたがへ、諸士、悉く下知に隨ひければ、氏康の云〔いはく〕、

「それ、鳥目は品々あれども、永樂には、しかず。自今(じこん)、關東にては永樂を用ひ、他(た)の錢を用ひざるべし。一〔ひとつ〕には、錢の善惡(よしあし)、日を同じうして語るべからず。第二は、民の鬪論(とうろん)をとゞむ。三には、賣買の隙(ひま)を弊(やぶら)さじがためなり。」

とて、家臣山角(〔やま〕かど)信濃守定信・笠原越前守守康に仰(おほせ)て、庄鄕村里(しやうごうそんり)の辻々に、右の趣〔おもむき〕を書〔かき〕て高札〔こうさつ〕を立〔たて〕けるにより、自然(しぜん)と錏(びた)は廃(すた)り、上(かみ)がたへのみ上〔のぼ〕りて、永樂ばかり關東にとゞまる。此時より、錏(びた)を「京錢」とぞいひける。

その後(のち)、慶長九年御代〔みよ〕に至つて、天下一統に永樂錢を用ゆ。しかれども、

「錏錢(びたせん)、一向に弃(すつ)べきにあらず。」

とて、永樂一錢のかはりに、錏四錢をつかふべきむね、仰(おほせ)わたされける。

その後、また、商夫(しやうふ)の難儀に及ぶのよし、聞召(きこしめさ)れ、慶長十年十二月八日、永樂錢御停止(ごちやうじ)を仰出〔おほせいだ〕され、江戸日本橋に高札を立られける也。

○永一貫文を金一兩と立〔たて〕、二百五十文金壹步と立也。そのころ、金にかゆる時は、百錢の内一錢づゝ除きて、口錢〔こうせん〕とす。今以て、所々に永樂の年貢(ねんぐ)等あり。此遺風也。錏(びた)百錢にこれをうつし、永一錢の價(あたひ)を除きて、九十六錢を以て、通用すと云〔いへ〕り。

里人談五 終

 寛保三正月 神田鍛冶町二町目

          池田屋  源 助

  東都    日本橋通三丁目

          須原屋 平左衞門

[やぶちゃん注:「諸國里人談」の本文の最後となる。読み易さを考え、特異的に改行を施した。なお、永樂銭とキャプションする本条の挿絵がある(①)。また、最後に①の本文と同頁の後ろに直に続く奥書(実際にはポイントが大きい)をも電子化して附した。

「永樂錢」中国で、明の第三代皇帝永楽帝の代の永楽九(一四一一)年より鋳造され始めた銅製銭貨永楽通宝。ウィキの「永楽通宝」より引く(以下の注の引用とかぶる箇所がある)。『日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭、永銭などと呼ばれた』。『形状は円形で、中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「永樂通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。このような銭の形状(いわゆる方孔円銭)は、中国古代の半両銭に由来するものとされている』。『材質は銅製、貨幣価値は』一『文として通用したが、日本では天正年間以降』、『永楽通宝』一『枚が鐚銭』四『文分と等価とされた』。慶長一三(一六〇八)年には『通用禁止令がだされ、やがて寛永通宝等の国産の銭に取って代わられた。しかしその後も』「永」『という仮想通貨単位』、『すなわち』、『永一貫文=金一両であり』、一両の一万分の一を表わす『永勘定が年貢の取り立てに引き続き』、『用いられるなど、長く影響を残した』(永一文は四文前後。下線太字やぶちゃん)。『なお、永楽通宝は明では流通しておらず、もっぱら国外で流通していたと考えられてきた。明では初代洪武帝のときに銭貨使用が禁じられ、すべて紙幣(後には銀)に切り替えられていた(洪武帝は中国統一前には支配地域の一部で大中通宝「銅銭」を発行しており、統一後も洪武通宝「銅銭」を発行していた。その後も宣徳通宝・弘治通宝・嘉靖通宝が発行されている)。一方、日本では貨幣経済が急速に発展しており、中国銭貨への需要が非常に高まっていた。そのため、日本との貿易決済用銭貨として永楽通宝が鋳造されることとなったというものである。これは永楽通宝が中国ではほとんど現存せず、日本でのみ発見されていたことによる説である。ところが、近年になって日本の永楽通宝の中には日本で鋳造されたものが相当数含まれているという説が出されたことで』、『その前提に疑問が出され(後述)、また』、永楽九(一四一一)年に『浙江・江西・広東・福建の各布政司で永楽通宝の鋳造が命じられている事実(内陸の江西や日本との関係の薄い広東でも鋳造されている)』や、景泰七(一四五六)年に、『北京に大量の私鋳の永楽通宝が持ち込まれていたことが発覚する(北京の市場で官鋳による永楽通宝が通用していたことが私鋳銭混入の前提となる)』『など、近年では少なくても』十五『世紀後半の段階では永楽通宝は明国内でも流通されていたと考えられている』。『近年では、さらに広範囲に渡って使用されていた可能性も指摘されて』おり、二〇一三年には、何と、『アフリカのケニアから永楽通宝が出土している』という。『平安時代から鎌倉時代にかけて日本国内の商業・物資流通が活発化すると共に貨幣の必要性が高まっていた。しかしながらその時代には律令体制が崩壊しており、銭貨鋳造を行う役所も技術も廃れていた事から、中国から銅銭を輸入してそれを国内で流通させていた』が、『その中でも明の永楽帝の時代に』『作られた銅銭永楽通宝(永楽銭)は』、『当初は明の国内でも流通していたのだが』、『信用が低かった(中国では新銭よりも、流通の実績のある宋銭や開元通宝などが好まれた)ことから』十五『世紀後半には』、『明では次第に使用が忌避されるようになり、室町時代後期に大量に輸入された。この多くは日明貿易(勘合貿易)や倭寇を通じて日本に持ち込まれたものである。永楽銭という用語は、明代に輸入された銅貨一般を差す場合もある。従来からの宋銭が数百年の流通により磨耗、破損したものが多くなっていたのに対し、新たに輸入された永楽銭は良質の銅銭で有ったため、東日本を中心に江戸初期まで基本貨幣として使われている一方で西日本では従来通り宋銭、鐚銭の流通が中心であった』『とされるが、近年になって、明朝時代に宋銭を私鋳していたという記述がいくつか発見され』、『それらの“宋銭”が日本に渡ってきた可能性は高いこと、また、後述するように』、『当初の明銭は撰銭の対象であったことが各種法令などから伺えることなどから、永楽銭は日本に入ってきた当初は日本全国で“価値の低い銭”であった可能性が高い』。『民間が勝手に鋳造した銭貨を私鋳銭というが、中国江南地方や日本で作られた私鋳銭も多く流通していた。(なお、一般では官鋳銭は品質が良く、私鋳銭は品質が悪いと思われがちだが』、『一概にそのように言えるものでもない。官鋳銭にも産地によっては良質な私鋳銭より質の悪いものもあった)。日本でも中国同様に、新鋳の明銭よりも流通実績のある宋銭の方が価値が高いと見なされ』、十五世紀後半から十六世紀半ばまでの『畿内においては』、『永楽通宝などの明銭は条件付き(百枚中』二十枚から三十『枚までの混入を認める)でしか流通しておらず』、『そのような宋銭重視政策を』、『特に畿内の荘園領主が行ったため』、『畿内では宋銭』が使われ、『東北や九州などの辺境などから』、『次第に粗悪な銭(鐚銭:ビタ銭)数枚で精銭』一『文とする慣行が成立していくことで』、『撰銭の対象であった永楽銭の地方流入を招くと共に、東国では後北条氏、結城氏などが永楽銭を基準とした貫高制の整備を行った。やがて』一五六〇『年代に明が本格的な倭寇取り締まりなどを行うと』、『中国からの銭の流入が途絶えたことにより』、『銭不足に陥り、畿内では』一五六〇『年代に貨幣経済から米経済』、一五七〇『年代に米経済から銀経済への急激な転換が起こる一方、関東では何段階かに分かれていたビタ銭の階層が収束されていき、京銭(渡来銭・私鋳銭を問わない宋銭)』四『枚=永楽銭』一『文という慣行が成立していった』、『江戸時代に入ると』、『江戸幕府が』慶長一一(一六〇六)年に『独自の銅銭慶長通宝を鋳造して』、二『年後には永楽銭の流通禁止令がだされ、この段階では慶長通宝の流通も充分でなく、実態は永楽銭の優位的通用を禁じ鐚銭並みの通用になったとされるが』、寛永一三(一六三六)年には『寛永通宝を本格的に鋳造し、寛文年間以降、全国的に流通し始めると永楽銭は次第に駆逐されていった』。『永楽通宝が主に流通していたのは、伊勢・尾張以東の東国である。特に関東では、永楽通宝が基準通貨と位置づけられ、年貢や貫高の算定も永楽通宝を基準として行った。これを永高制という。一方、西国では宋銭など唐宋時代の古銭が好まれ』、十六『世紀に入るまであまり流通しなかった。ところが』、『この事実には大きな問題があった。それは明で』百年も『以前に鋳造された銅銭が』十六『世紀の日本の東国で広く使われた経緯が不透明な点である。しかも、明との貿易を行っていたのは主に西国の大名や商人であり、日本に流入する永楽通宝が』、『まず彼らの手中に入る筈であるのに、なぜ地理的に離れた東国でのみ流通したのかと言う点が十分に説明されてこなかった。このため、近年になって』十六『世紀の東国で用いられた永楽通宝は明で鋳造されたものではなく、そのほとんどが明の永楽通宝を精巧に再現し』、『日本の東国地域で鋳造された私鋳銭であるという説』が提唱され、『折しも、茨城県東海村の村松白根遺跡から永楽通宝とその枝銭が発見されており、科学分析の結果日本国産の銅で鋳造された可能性が高い事が判明するなど、今後の研究次第では通説に対する大きな見直しが迫られる可能性がある』という。他にも、『「永楽銭」の言葉があるからと言って必ずしも実物の永楽通宝でのやりとりを伴った訳ではなく、特に時代が下るにつれて』(一五七〇年代以降)、『「永楽銭」は実際の永楽通宝の価値とは異なる空位化した基準額(計数単位化)やそれに基づいた一定の基準を満たす精銭群(そこには実物の永楽通宝が含み得る)を指すなどの変化が見られ、(実物の)永楽通宝と「永楽銭」「永高」「永」の関係の再検討の必要性』が指摘されているともある。なお、『織田信長は、永楽通宝の意匠を織田家の旗印として用いていた。理由は明らかでないが、貨幣流通に早くから注目していたためであるとも言われる。信州上田城には、永楽通宝紋入の鬼瓦があり、これは上田藩主となった仙石忠政の父秀久が織田家臣時代に信長から拝領した家紋であると伝えられている』と最後にある。

「永樂は大明成宗帝の年号なり」明の第三代皇帝成祖・永楽帝(一三六〇年~一四二四年/在位:一四〇二年七月~一四二四年)の即位翌年からの年号(一四〇三年~一四二四年)。

「應永十年八月二日未の剋」ユリウス暦一四〇三年八月十九日(グレゴリオ暦換算では八月二十八日相当。室町幕府第四代将軍足利義持の治世)の午後一時から午後三時。

「巳の剋」午前九時から午前十一時。

「申の剋」午後三時から午後五時。

「鎌倉の將軍足利左兵衞督(さひようへのかみ[やぶちゃん注:ママ。])滿兼」(天授四/永和四(一三七八)年~応永一六(一四〇九)年)は第三代鎌倉公方(在位:応永五(一三九八)年~応永一六(一四〇九)年:鎌倉公方は室町幕府将軍が関東十ヶ国の統治を目的として設置した鎌倉府の長官。足利尊氏四男足利基氏の子孫が世襲し、鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された)。ウィキの「足利満兼」によれば、第二代鎌倉公方『足利氏満の長男(嫡男)。父と同じく元服時に第』三『代将軍・足利義満の偏諱を授かり』、『満兼』『と名乗る。鎌倉公方は父の代より京都の将軍家とは緊張関係が続いており』、応永六(一三九九)年一〇月に『大内義弘が堺で義満に対して挙兵した応永の乱では義弘に呼応』し、『さらに自身も、義弘に加勢するため』、『鎌倉を発ち、武蔵府中(東京都府中市)まで進軍するが』、『関東管領の上杉憲定に諫止され』、十二月に義弘の敗死を聞くと、翌年の三月五日に鎌倉に引き返している。その後、六月十五日には、『伊豆の三島神社に納めた願文によって幕府に恭順の意を示し、最終的に罪を赦されている』。応永六(一三九九)年『春には陸奥、出羽が鎌倉府の管轄となったため、弟である満直を篠川御所、満貞を稲村御所』『として下』した。『しかし、この措置は奥州の豪族達の反感を買い』、二年後の応永九年には『室町幕府と結んでいた伊達政宗』『の反乱が起きるが、これを上杉氏憲(のちの上杉禅秀)に鎮圧させている。この頃、京都では満兼が狂気したという噂が流れ、義満は満兼の調伏を行なうなど、再び両者の確執が起こりだしていたようである』。応永一四(一四〇七)年八月末には、『鎌倉御所が炎上したが、まもなく再建し』ている。没後は『長男の持氏が跡を継いだ』。

「伊東次郞右衞門尉貞次」後北条氏家臣団の伊豆衆の一つである伊東氏であろうが、不詳。

「梶原能登守景宗」(生没年不詳)。後北条氏家臣。ウィキの「梶原景宗」によれば、『紀伊国の出身であったが、水軍の指揮に長けたことを北条氏康に見込まれて、その家臣となり伊豆水軍を率いた。里見氏や武田氏との戦いでは、水軍を率いて活躍したと言われている。しかし『北条記』では「海賊」と記されている。『北条五代記』では、「船大将の頭」と記されている。また、近年では伊勢湾沿岸と関東地方を結ぶ交易商人としての側面が指摘されている(北条家臣安藤良整と共に多くの商業関連の文書に連署している事からも窺える)』。天正一八(一五九〇)年、『豊臣秀吉の小田原征伐で水軍を率いるも』、『本多重次の配下であった向井正綱率いる徳川水軍に敗れた。北条氏直とともに高野山に赴き、氏直の死後は紀伊に土着したという。 文書上、最後に動向が確認できるのは』天正一九(一五九一)年に『北条氏直が景宗から贈呈された鯖』五十『匹に対する返礼』だそうである。なお、ウィキでは「備前守」と記す。

「三浦備前守義高」不詳。ただ、個人ブログ「歩けば見つかる小さな歴史」の本条冒頭の漂着事件を記した三崎港内に深く沈んだ永楽銭…三浦市三崎港の中に、「武家盛衰記」からの引用として、「抑々永楽銭日本に渡ることは、応永十年八月二日の大風にて、同三日申の刻唐船二艘、相州三崎浦へ漂着したり』。『時鎌倉足利佐(左)兵督満兼下知にて、伊藤備前守義高奉行にて検儀す。船中も実験するに、明朝永楽銭数百貫あり』。『此旨将軍義満へ被下』。『夫より関東に此銭を用ひらるる云々』(下線太字やぶちゃん)と出る。

「數万貫」一貫は銭一千文(或いは九百六十文)。本「諸國里人談」が出た当時(江戸中後期)の一両は六千五百文相当であった。ただこれは室町時代だから、比較にはならない。ネットの複数の換算値で考えると、一万貫は現在の九千万円相当とするものがあったから、六掛けとして六万貫なら、五億四千万円相当か。

「京都前(さきの)將軍義滿入道道有(だうゆう)」「道有」は足利義満の道号(法号)の一つ。ウィキの「足利義満」によれば、義満は応永元(一三九四)年に将軍職を嫡男義持に譲って隠居したが、実際には政治上の実権を握り続け、同年には従一位太政大臣にまで昇進している。『武家が太政大臣に任官されたのは、平清盛に次いで』二『人目である。そして征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてであり、かつ後の時代を含めても』、『義満が足利家唯一の太政大臣となった。翌年には出家して道義と号した』とある。義満の没年は応永一五(一四〇八)年。

「若干(そこばく)の」沢山の。

「弊(やぶ)るべからず」「として」を補って読む。「弊る」はいい加減に扱ってしまわずに、の意であろう。

「天文」一五三二年から一五五五年まで。

「錏(びた)といふ惡錢」鐚銭。室町中期から江戸初期にかけて私鋳された、永楽銭を除く粗悪な銭貨。ウィキの「鐚銭より引く(以下の注の引用とかぶる箇所がある)。『鎌倉時代後期ごろから貨幣の流通が活発化したが、主に中国で鋳造された中国銭が流通していた。これらの中国銭は、中国(宋・元など)との貿易を通じて日本にもたらされたが、日本でもこれらの貨幣を私的に鋳造する者が現れた。これを私鋳銭(しちゅうせん)という。私鋳銭は、一部が欠落したもの、穴が空いていないもの、字が潰れて判読できないものなど、非常に粗悪なものが多く、商品経済の現場では嫌われる傾向が強かった。そのため、これら粗悪な銭貨は鐚銭と呼ばれ、一般の銭貨よりも低い価値とされるようになった』。『室町時代に入り、明が日本との貿易用に鋳造した永楽通宝などが日本国内で流通するようになると、明の江南地方で作られた私鋳銭や、日本国内で作られた私鋳銭も次第に混入していった。そうした私鋳銭ばかりでなく』、『南宋の戦時貨や明銭自体も不良銭が混じるなど』、『品質劣悪なものが普通だったため、これらを総称して「悪銭」といった。また、こうした悪銭は良質な「精銭」とくらべ低価値に設定されたり、支払時に受け取り拒否されることが多く、これを撰銭(えりぜに)といった。時には撰銭が原因で殺傷事件が起こることもあった。だが、経済発展に加え明の海禁及び貨幣政策の変更(明国内においては紙幣と銀が基準貨幣となり、銅銭を鋳造する意義が無くなった為に鋳造されなくなる)などによって渡来銭の供給が難しくなると、こんどは通貨総量が減って』、『銭不足が生じ』、『粗悪な渡来銭や私鋳銭の流通量は増大した。後に室町幕府の』十四『代将軍・足利義栄が将軍就任の御礼に朝廷に献上した銭貨や』、『同じく織田信長が正親町天皇の儲君・誠仁親王の元服の際に献上した銭貨が鐚銭ばかりであると非難されたが、これは彼らが朝廷を軽視していたというよりも』、『鐚銭ばかりが流通していて』、『権力者でさえ』、『良質な銭貨が入手困難であった事を示している』。『そのため』、十六『世紀になると室町幕府や守護大名、戦国大名たちは撰銭を禁ずる撰銭令(えりぜにれい)を発令して、円滑な貨幣流通を実現しようとした。しかし、民衆の間では鐚銭を忌避する意識は根強く残存したものの』、一五七〇『年代には経済の規模に対する絶対量の不足からくる貨幣の供給不足は深刻化して、代替貨幣としての鐚銭の需要も増えていくことになる。また、金銀や米などによる支払なども行われるようになった。後に織田政権が金銀を事実上の通貨として認定し、豊臣政権や江戸幕府が貫高制を採用せず』、『米主体の石高制を採用するに至った背景には、こうした貨幣流通の現実を背景にしたものであったと考えられる。また、織田政権は撰銭令の中で鐚銭を基準とした銅銭に質による交換基準を定めたことで、一定の品質水準に達した鐚銭の通用が保証されたため、鐚銭が京都における一般的に通用した貨幣とみなされて「京銭」と称されるようになった』。『江戸時代に江戸幕府は永楽通宝の通用を禁じて、京銭(鐚銭)と金貨・銀貨との相場を定めて鐚銭を相場の基準とすることで撰銭のメリットを失わせ、続いて安定した品質の寛永通宝を発行し、渡来銭や私鋳銭を厳しく禁ずるようになると、鐚銭は見られなくなり、撰銭も行われなくなっていった』とある。

「市町」「いちまち」と訓じておく。市中。

「かの惡錢を論じ撰(ゑら)みて」支払決済の際、鐚銭を受け取った者がそれを永楽銭その他と選別し、流通貨幣の標準価値から下がると主張して、忌避・排除したり、追加金を要求することを指していよう。これを「撰銭(えりぜに・えりせん・せんせん)」と称し、円滑な流通経済に支障を来たしたことから、室町幕府や多数の大名が「撰銭令」をたびたび発令し、悪銭と良銭の混入比率を決めたり、一定の悪銭の流通を禁止することを条件に貨幣の流通を強制した。但し、ウィキの「撰銭令」によれば、禁止令の適応範囲が、『地域的であったことや』、『鐚銭を排除しようとする民衆が多く、満足な結果は得られなかった』という。そして、『従来、撰銭令は撰銭そのものをなくすためのものだと理解されてきた。しかし、それでは撰銭令は、室町幕府などが自ら大量に所有する粗悪な渡来銭などを市民に押し付けるための、利己的な悪法に過ぎないことになる。むしろ撰銭を「制限」する一方で、混入比率や交換比率など、一定の撰銭行為を「公認した」という面に注目すべきだという意見が、今日では強まっている。もともと渡来銭などを持っていない一部の地方大名などは、むしろ』、『領内から悪銭を排除するために撰銭を「公認」する度合いが強』かったからで、『撰銭を禁じた大名から良貨を大量に仕入れ、これを融解して悪貨を作って戻せば莫大な利益が出ることになり、これでは禁じた本人が大損害をこうむるばかりか粗悪な贋金を奨励して重大なインフレを招きかねない。そうならなかったのは、むしろ』、『粗悪な渡来銭を積極的に流通させていたのが、室町幕府ら中央の権門のほうであり、悪銭の中心は渡来銭だったことを明示している。積極的な海外貿易推進者であった戦国大名の分国法「大内氏掟書」には自分への貢納銭は撰銭し、庶民は撰銭するななどと虫のいいことを記している』という。『元や明ではすでに銅銭の信用が低下しており、貿易を独占するような権力者や大商人たちは、これを安い元手できわめて容易に入手しており、中国貿易では一億枚単位の取引さえ行われていた。したがって仮に撰銭がおこなわれて「洪武銭」のたぐいが差別されても、彼らは大きな損失を被ることはなかった。「堺銭」などのように、明や日本の贋金をあつめられる立場にあった者が、他人に故意につかませる行為さえあったのである。むしろ、撰銭がおこなわれ、かつ一定の制限のもとであるにせよ』、『公認された事実は、中国製貨幣の信用度に大きな打撃を与えたことになる』。『なお、撰銭令が出された目的は、飢饉や戦乱に際し米の価格の抑制することだという説もある。この説を取る場合、撰銭令が何度も出されたのは、守られなかったからではなく、米価高騰や戦争の都度に出されていたからだ、ということになる』とある。

「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日から)。しかし、以下に登場する北条氏康はこれより前の元亀二(一五七一)年に没しているから、これは「天文」の誤りと採らぬとおかしい。氏康は天文一五(一五四六)年に扇谷上杉氏を滅ぼし、関東に於ける抗争の主導権を確保している。しかし、これは「天正のはじめ」ではなく、中頃と言うべきであり、さらに氏康が関東諸国に永楽通宝の通用を命じたのは、さらにその後の天正一九(一五五〇)年であるから、これは寧ろ「天文の末」が正しく、この部分の叙述はとんでもない致命的な誤りだということが判る。

「關八州」関東八ヶ国の総称。相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野。

「錢の善惡(よしあし)、日を同じうして語るべからず」銭の良し悪しを、毎度、問題にしてはならない。

「賣買の隙(ひま)を弊(やぶら)さじがためなり」「じ」は原本は「し」。意味を通すために濁音化した。また、吉川弘文館随筆大成版は「隙」を「障」と判読しているが、採らない。売買の「隙」(「関係・機会」の意で採る)を「弊(やぶら)さじ」(「阻害させまいとする」という打消意志で採る)の意と解釈した。大方の御叱正を俟つ。

「山角(〔やま〕かど)信濃守定信」当時の後北条の御馬廻衆の統轄者は山角康定(彼は信濃守ではない)であるから、その縁者であろうか。

「笠原越前守守康」後北条家臣団の伊豆衆に笠原氏がいるが、中でも北条早雲・氏綱・氏康三代に亙って仕えた宿老笠原信為(のぶため ?~弘治三(一五五七)年)が知られ、彼は越前守であるから、彼の誤りか

「慶長九年御代〔みよ〕に至つて」「天下一統」一六〇四年。徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開府したのは、この前年である。しらかわただひこ氏のサイト「コインの散歩道」の「永楽通宝の謎」によれば、この慶長九年『正月に、「悉く永楽銭を用ゆ、然れども一向鐚を棄るにもあらずとて、他銭』四『銭を以て永楽一銭の代りにすべし」と決め』たとあり、永楽銭一枚は鐚銭四枚相当と公定したとある。

「一向に弃(すつ)べきにあらず」「一向に」はこの場合、呼応の副詞で「全く(~ない)」である。「弃(すつ)」は「廃止する」。

「商夫(しやうふ)」商人(あきんど)。

「慶長十年十二月八日」前の「永楽通宝の謎」によれば、慶長一一(一六〇六)年十二月の誤りである。この時、幕府は『「商民の難儀に及ぶ由に付、永楽銭を停止し、鐚ばかり用ゆべし」とし』『たが、その後』も『結局』、『永楽銭も鐚銭も同じ価値で使われるようにな』ったとある。

「口錢〔こうせん〕」「くちせん」「くちぜに」とも読む。江戸時代の商業利潤。中世の問丸(といまる:港や重要都市に於いて年貢などの物資の輸送・保管・中継取引及び船舶の準備や宿泊の世話などを行った業者)に於ける手数料としての問米・問銭・問丸得分などが、近世問屋の発展につれて「口銭」と呼ばれるようになった。その内容には仲介手数料の他、運賃・保管料が含まれた(なお、中世末から近世には「口銭」は別に「付加税」の意にも用いられたので注意が必要)。ここは両替手数料のこと。

「永樂の年貢(ねんぐ)」前注「永樂錢」のウィキの「永楽通宝」からの引用の最初の下線太字部分を指していよう。]

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