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2018/08/02

諸國里人談卷之五 黑嶋鼠

 

    ○黑嶋鼠(くろしまのねづみ)

伊豫國矢野保(やのほ)の内、黑嶋(くろしま)といふは、一里ばかり離れたる所也。かの嶋に「かつらはざまの大工」といふ網人、「魚(うを)を引〔ひか〕ん」と、うかゞひありきけるに、魚のある所は、光りて見ゆる物なるが、磯ちかくに、おびたゞしく光る所、あり。よろこび、網をおろしけるに、魚にはあらで、若干(そこばく)の鼠を引〔ひき〕あげける。岳(おか)にあがると、鼠は、ちりぢりに迯(にげ)うせたり。それより、此島に、鼠、おほくありて、畑(はた)ものを喰(くひ)うしなひて、今に至(いたつ)て、耕作する事、なし【「著聞」見。】。

[やぶちゃん注:動物奇談。本条の挿絵がここにある(①)。無論、「怪奇大作戦」の「二十四年目の復讐」(上原正三・脚本/鈴木俊継・監督)じゃあるまいし、海の底に鼠が住んでいた訳ではないが、河川や海峡等を集団で渡ることは実際にあり得ることであろう。実は、私の好きな江戸後期の旅行家で博物学者の菅江真澄(すがえますみ 宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)は「筆のまにまに」の「遊巨斯理(オコシリ)の鼠」の中で後に掲げる「古今著聞集」を引きつつ、海に鼠が入って、それが海鼠(ナマコ)になるというトンデモ話を菅江は書いているのである。東洋文庫版の「菅江真澄随筆集」(一九六九年刊)のそれを引いておく(踊り字「〱」は正字化した)。

   *

 澳志梨(おこしり)は松前の西、江指(エサシ)浦の南洋(オキ[やぶちゃん注:「洋」のみのルビ。])に在る大嶋也。志里は嶋てふ蝦夷語(コトバ)なり。游古(おこ)も夷言にや。また沖(オキ)を訛り云へるにや。此澳(オコシリ)[やぶちゃん注:誤字か。]に鼠のいと多く蛇もいと多し。蛇のいといと多かるとしは鼠をひしひしと捕り盡しぬれど、また鼠の多かるとしは蛇また鼠に喰はれぬ。そは蛇一に鼠七八とりすがれば、あまた群れ來て喰ひぬといふ。まして穴籠りのとき蛇みな鼠の餌(エ)となれりといへり。天明・寬政のころならむか。蝦夷洲(エゾノコタム)に鼠の大に群れて小童(ヘカチ)などは鼠に嚙れ死(ライスルモノ)多かりしといへり。捕鼠(エリモコエキ)とて是を狩れどもつきず、なほいやまさりて、寢ればあし手耳はななンどを嚙(カメ)ば、通夜(ヨモスガラ)いもやすからざりしが、冬の初めごろひとつとなくいづこにかうせしといふ。また海の色だちて鰯にや、なににまれ大漁ならむと、ここらの舟をのり出て南部の浦々、松前のうらうら網引(アビキ)したるにみな鼠なりけり。網をぬへば某百(イクバク)萬ならむか、濱に引上て山なす鼠の海に入り、山にも入りてなごりなう逃げうせたり。あやしき事也。海鼠(ウミネヅミ)など云ふものにやとかたり傳ふ。ある人云、鼠は海に入りて海參(ナマコ)と化る[やぶちゃん注:「なる」。]也。そはまだ作ざりし[やぶちゃん注:「ならざりし」。]鼠也。海鼠と書てなまことよむも、よしある事ならむといへり。『古今著聞集』魚蟲禽獸の件(クダリ)に、「安貞《後堀川院の御代なり》の頃、伊與國矢野保(ヤノホ)のうちに黑嶋と云ふしまあり。人里より一里はなれたる所也。かしこにかつらはざまの大工といふあみ人あり。魚をひかむとてうかがひありきけるに、魚有る處よりひかりて見ゆるに、かの島のほとりの磯ことに夥しくひかりければ、悦て網をおろし引たりけるにつやつやとなくて、そこばくの鼠を引あげて侍りけり。その鼠引上られてみなちりちりに逃うせけり。大工あきれてありける。ふしぎの事也。すべてかの島には鼠みちみちて、畠のものなどおもみなくひうしなひて當時までもえつくり傳らぬとかや。くがにこそあらめ海そこまで鼠の侍らん事まことにふしぎにこそ侍れ」と見えたり。いにしへも鼠の網曳(アビキ)ありし事也。又澳嶋(オコジリ)の鼠は畑こそあらね、此島に大蕗(オホフキ)の多かれば、此蕗の根を掘りてはみ、こと草をもむれはみ、また海底の小鮑(トコブシ)、また大鰒[やぶちゃん注:「おほあはび」。]もかつぎ上てくひぬといへり。伊豫國の黑嶋におなじものがたり也。

   *

こう書かれると、う~ん、飢えた鼠なら……などとちょっと思いたくなるが、タイド・プールでトコブシならまだしも、海底の大アワビはあり得ないな、残念ながら。

 現在、愛媛県には「黒島」は二つある。一つは愛媛県西宇和郡伊方町にある黒島で、佐田岬半島の南側の根の方の海上にあり、東の現在の八幡浜市保内町からなら、航路実測で約五キロメートルほどあるここ(グーグル・マップ・データ)である。一方で、そこから南南西三十二キロメートルほど離れた、宇和島市蒋淵(こもぶち)にも黒島がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは東直近の宇和島市津島町北灘の福浦から航路実測で約四キロメートルである。前者の伊方の黒島の半分ぐらいしかない。グーグル・マップの航空写真を見る限りでは、孰れも、現在は無人島のように見え、人が嘗て住んだとなら、写真で見る限りでは、前者で、後者は如何にも狭く、耕作して畑を優位に作れそうには私には見えない(ネット検索により、両島とも現在は無人島であることが確認出来た)。しかし、本文では前に「矢野保(やのほ)の内」という地名を出している(これで一つの地名である。後述)。これは佐田岬半島の南の付け根に位置していた旧保内町(ほないちょう)、現在の八幡浜市保内町のことで、ウィキの「保内によれば、『この地域は、奈良時代から江戸時代にかけて、郷名を矢野郷、矢野庄などと呼ばれていた。「矢野保の内」から「保内」になったといわれている』(下線太字やぶちゃん)とあるから、間違いない。従って、この黒島は前者の愛媛県西宇和郡伊方町にある黒島に同定される。

 さて、次に本条のネタ元を示す最後の割注『「著聞」見。』であるが、これは鎌倉時代に伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集『「古今著聞集」に見ゆ」』の意である(同書は単に「著聞集」とも呼ぶ)。その最終巻である「巻第二十 魚虫禽獣」の中の以下である。

   *

   伊豫國矢野保の黑島の鼠、海底に巢喰ふ事

 安貞[やぶちゃん注:一二二八年~一二二九年。鎌倉幕府は第三代執権北条泰時。]の頃、伊與(いよ)の國矢野保(やのほ)のうちに、黑嶋と云ふ嶋あり。人里より一里ばかりはなれたる所也。かしこに、「かつらはざまの大工」といふ網人(あみびと)あり。「魚をひかむ」とて、うかがひありきけるに、魚の有る處、夜、ひかりて見ゆるに、かの島のほとりの磯(いそ)ごとに、夥(おびただ)しくひかりければ、悦(よろこび)て網をおろして引きたりけるに、つやつやとなくて[やぶちゃん注:「つやつやと」はここは呼応の副詞で、下に打消の語を伴って、「少しも・全く・一向に」の意。魚は一尾たりともかかららず。]、そこばくの[やぶちゃん注:夥しい数の。「若干」(幾らか)の意は後発。]鼠を引きあげて侍りけり。その鼠、引き上げられて、みな、ちりぢりに逃げ失せけり。大工、あきれてぞありける。ふしぎの事也。すべて[やぶちゃん注:総じて。だいたい。]、かの島には、鼠、みちみちて、畠のものなどをも、みな、くひ失しなひて、當時[やぶちゃん注:記載時の現在。今もなお。]までもえつくり得侍らぬとかや。陸(くが)にこそあらめ、海の底まで鼠の侍らん事、まことにふしぎにこそ侍れ。

   *

大本敬久ブログ愛媛の伝承文化の「ネズミ騒動で、

   《引用開始》

 戦後間もない昭和二十年代前半に八幡浜市大島の南部に位置する地大島[やぶちゃん注:グーグル・マップ・データを参照。北に黒島を配した。]で、野ネズミが大発生したことがある。この頃、宇和海のいくつもの島々でネズミが大発生しているが、「ネズミ騒動」とも呼ばれるこの出来事は全国的にも有名である。一般的には昭和二四年の宇和島市戸島のトウモロコシ全滅がはじまりで、翌二五年には日振島で大発生し、三九年に下火になるまで続いたとされる。しかし地大島での発生は戸島とほぼ同時、もしくは少し前であった。地大島は大島の住民が畑を耕作しているものの無人島であり、人的被害が少なかったため、「ネズミ騒動」の震源地とはされなかったのだろう。

 なお、大島の古老によると、それ以前にも地大島ではネズミが大発生したことがあったらしい。その時に、漁師が魚だと思って網をひきあげると、大量のネズミが引っかかったという話がある。ネズミは大群で海を渡るとされ、現に昭和二十年代の地大島のネズミの大群も突如としていなくなったといわれ、他の島へ渡っていったという人もいる。また、ネズミが大群で海を渡るとき海面が褐色に染まったともいわれている。

 こういった話は、鎌倉時代初期成立の「古今著聞集」二十魚虫禽獣に記載されている宇和郡黒島(伊方町沖に浮かぶ無人島)の漁夫が海中から多くのネズミをひき上げたという説話に通じるところがある。

[やぶちゃん注:中略。ここに私が先に掲げたそれが引用されている。]

 これは今から八百年近く前の安貞年間の説話の中で紹介されたもので、話が誇張されていると見る向きもあるが、これと似た出来事がここ百年の内にも、近くの地大島で起こっているので、事実ととらえても良いだろう。

 戦後のネズミの大発生は宇和海の島々の開発が進んだことが原因ともいわれるが、開発以前にも起こっており、実は自然のサイクルで周期的に起こりうることなのかもしれない。

   《引用終了》

と記されておられる。

「かつらはざまの大工」新潮日本古典集成の「古今著聞集 下」(昭和六一(一九八六)年刊/西尾・小林校注)の頭注によれば、『島内に住み。大工を兼業していた漁師か。伝未詳』とある。]

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