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2018/08/10

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(47) 社會組織(Ⅲ)

 

 かくの如きものが日本社會の原始的組織であつた、それ故、この社會は言葉の眞の意味に於ては、決して完成された國家ではなかつかのである。皇帝の稱號も、その古い統治者には、正確に適用されるわけにはゆかない。日本の歷史家の説に反對して、これ等の事實を明らかにした最初の人は、ドイツの學者フロレンツ博士[やぶちゃん注:前回分に既出既注。]其の人であつた。博士は上古の『天皇』なるものは、單に一の氏の慌襲的主長――この氏はすべての氏中の最も權力あるもので、他の多くの氏の上に勢力を振るつてゐた――に過ぎないことを、明らかにした『天皇』の權威は全國土には及ばなかつた。併し一國王でさへないにも拘らず――自分の族長たる大家族の集團以外に――この主長は三大特權を亨有して居た。第一には、共同の祖先たる神の前に、各氏を代表するの權利――これは高い神官の特權と權力とを包含してゐる。第二には、對外關係に於て、各氏を代表するの權利、換言せば、主長は全氏族の名の下に又宣戦媾和[やぶちゃん注:「講和」に同じい。]の權を有し、從つて最高の武力を行使し得たのである。第三の特權は、氏族間の爭議を解決する權利、一つの氏の主長たる職權の直系の繼續者が斷絶した場合に、氏族の主長を指名する權利、新しく氏を創立する權利、他氏族の安事を害するが如き行爲のあつた氏を癈するの權利等である。故にその人は、最高の大司祭でああり、最高の軍事司令官であり、最高の仲裁官であり、最高の奉行であった。併し未だ最高の國王ではなかつた、その權力は、氏族の同意ある場合に限り、行使されたのである。其の後この主長は、事實上の、或はそれ以上の大汗[やぶちゃん注:「だいハン」。]――僧たる支配者、神王、神の化神――となるに至つたのである。然るに、その領土の擴張するに連れて、本來その權威に伴なつて居た機能の一切を働かすことが、次第々々に困難になつて來た、それでこれ等機能を他に委託した結果、その世事に於ける統御權は、その宗教的權力が增大するに拘らず、衰亡の悲運に向ったのであつた。

[やぶちゃん注:大汗 “Genghis Khan”。Khan はモンゴル族・ウイグル族・トルコ族などの遊牧民族の首長の称号である。]

 それ故、極占い古い日本社會は、普通吾々が用ふる所の封建制度ですらもなかつたので、それは最初は、防禦攻擊のために結合せる氏族――其の各〻氏族は、それぞれ獨自の宗教を持つて居た氏族――の統一體であつた。が徐に、一の氏族團體が、富と數との力に依つて、其の氏族の祭祀を他の全ての氏族の上に及ばさしめ、其の世襲の主長を最高の大司祭たらしめるやうな主權を獲得するに至つた。日の御神(天照皇太神)の禮拜は、かくして種族的祭祀になつた、併し此の禮拜は他の氏族の祭祀の相對的重要性を減殺する事はなかつた――それは單に彼等に、共同の傳統を與へたのみであつた。その内に、一國家が作り上げられたが、氏族は社會の眞の單位として存在してゐた、而して明治の現代に至るまでその崩壞は完うされなかつた――少くとも立法の上からそれを成就し得たと云ふ程には。

 吾々は、氏族が眞に一人の元首の下に統一され、國家の祭祀が制定された時代を、日本の社會進化の第一期と呼んで然るべきだと思ふ。併しながら社會組織は德川將軍の時代に入る迄、其の發達の極致を見る事は能きなかつた[やぶちゃん注:「できなかつた」。]、――それ故完全に構成されたものとして、これを硏究するには自然近代に面を向けなければならない。しかも早くすでに紀元六七三年に登極したと一般に認められて居る天武天皇の御代に、この社會の將來落ち着くべき姿の漠然たる輪郭は出來て居たのである。此御代には、佛教は宮廷に於て、大な勢力となつたらしい、と云ふのは天武天皇は事實上、菜食主義を人民にひられたのであるから――これ則ち理論上に於けると共に實際に於ける最高權力を證明したものである。これより以前にも社會は身分等級に配列されてゐた――上層階級の人々は、頭に著けた官職の冠の形と品質とに依つて、身分を明らかにしてゐた、併し天武天皇は、多くの新しい等級を設け、又支那の制度にならつて、全行政部を百八の部門に改造したのであった。この時日本の社會は、上流のものに關しては、殆ど政教的形式を採り、それを德川將軍の時代迄績けさした。而して德川將軍はその根本的組織に、何等重要なる變化を加へることなく、此の制度を固にしたのである。吾々は日本に於ける社會進化の第一期の終りから、國民は實際上、二階級に別かたれて居たと考へて然るべきだと思ふ、則ち貴族と武家との階級を包含する支配階級と、其の他の一切の者を包含する生産階級との二つである。社會進化の第二期の主なる出來事は、武權の勃興であつて、それは皇室の宗教の權力は其の儘にして置いたのであつたが、一切の行政的機關を簒奪するに至つた――。(此の問題に就いては、次の章に述べる事にする)結局此の武權に依つて結晶せしめられたる社會は、非常に複雜な構造となつた――されば外形上は、吾々が普通に了解する意味での大規模の封建制度に近似してゐるが、併し内實に於ては、これまであつたヨオロツパ封建制度とは全く異つたものである。其の差異は、特に日本の幾多の社會(村邑の如き)の宗教的組織にあるので、この各社會(村邑若しくは組合)はその獨自の祭祀と族長的行政とを保留し、内實は根本的に各社會みなそれぞれ分離してゐたのである。國家の祭祀は、傳統に依る結合であつて、凝集性の上に立つた結合ではなかつた、則ち宗教上の統一は少しもなかったのである。佛教は、廣く普及されて居たのではあるが、此の事態に何等實際の變化をも與はしなかつた。何となれば、この小社會が如何なる佛教の信條を守つて居たとした處で、眞の社會上の結合は、氏神に依る結合であつたからである。故に德川將軍の治下に於て、日本の社會が十分の發達を遂げたとしても、なほその社會は武力の制に依つて結合された氏族竝びに小氏族の大集團たるに止まつたのである。

[やぶちゃん注:「紀元六七三年」天武天皇二年。

「登極」「とうきよく(とうきょく)」。「極」は最高の位の意で「即位」に同じい。]

 

 此の大集團の元首として、天皇、民族の生ける神が居ました――則ち司祭の皇帝にして最高の教長であり、世界に於ける最古の王朝を代表して居た。

 天皇の次位に立つ者に、公卿卽ち古代の一貴族――天皇と神との後裔――がある。德川の時代には、百五十五家の此の種の高い貴族があつた。これ等の中の一家で、中臣と云ふのは最高の世襲的司祭の職を司つて居た、そして今でも尚ほ司つてゐる。中臣は天皇の下に在つて、祖先の祭祀を司る主長である。日本歷史の古代の大氏族の全部――藤原とか、平とか、源とか云ふ氏族――は何れも公卿であつた、其の後の歷史の大なる攝政或は將軍の大部分は、公卿か或は公卿の後裔かの何れかであつた。

[やぶちゃん注:「中臣」氏は後に大中臣氏となり、嫡流子孫は江戸時代には藤波家を称した。]

 公卿の次位に立つ者に、武家卽ち武人の階級があつた――別名を武夫(もののふ)、ますらを、武士(さむらい[やぶちゃん注:ママ。])(これ等の名前は、古文に據る)といふ。それ等はそれぞれ獨自の廣い政教組織を持つてゐた。併し大抵の堤合、大名と武家の武人との相違は、收入と稱號との上に立つ身分の相違にあった。彼等はすべて一樣に、侍であり、大抵は皇別神別の後裔であつた。古代に在つては、武人階級の主領は、單に一時的の總指揮官として。天皇に依つて任命せられたが、後に至つてこれ等の總指揮官は、權力を橫奪して、自分の職權を世襲となし、ロオマで用ひたやうな意味の實際の Imperatores (大將軍)となつた。彼等の稱號たる將軍は、西歐の讀書界にも知られて居る。將軍は二百乃至三百の領域若しくは地方の領主――領主の權力と特權とは、その收入と位階とに從つて相違があつた――を統御して居た。德川幕府の治下に在つては、これ等の領主卽ち大名は、二百九十二を數へた。これより以前にあつては、各領主は各自の領土の上に最高の支配力を働かしたのであつた。ジエジユイトの修道師や、古いオランダ、イギリスの貿易商人等が、大名を呼んで『王』と云つたのも、少しも怪しむに足りない。大名の專制は、最初德川幕府の創飴者に依つて阻止された。家康は大名の權力を、甚だしく制限し、多少の例外はあつたが、大名に若し壓制と殘酷との罪が實證された場合、その大名の領土は沒收されることにした。家康は、大名の全部を四大階級に配置した。(一)三家或は御三家卽ち『三高家』(若し必要のある場合には、將軍の後繼者が此の家族中から選出される) (二)國主『地方の領主』 (三)外樣『外藩の領主』 (四)譜代『成功のあった家族』、これは家康に對する忠誠の報酬として、領主或は其の他のものに取り立てられた家族の名稱である。三家には、三氏族卽ち三家族があり、國主は十八家やり、外樣は八十六、譜代は百七十六あつた。これ等大名の中、最小なるものの祿高は米一萬石(石は時代に依つて、價値の上に大なる相違があるが、一萬石は約一萬磅[やぶちゃん注:ポンド。]と云って宜からう)、また最大な大名である加賀の領主の祿高は、百二萬七千石とされて居た。

[やぶちゃん注:「ロオマで用ひたやうな意味の實際の Imperatores (大將軍)」原文は“Imperatores”と斜体。「インペラトル」はラテン語で、アウグストゥス以降のローマ帝国の皇帝の称である。

「ジエジユイト」“the Jesuits”。ジェスイット(Jesuit)はイエズス会士のことで、ジェズイット教団、即ちイエズス会の異称である。

「三高家」確かに本文は“Three Exalted Families”であるが、吉良家で知られるように、「高家」は、江戸幕府に於ける儀式や典礼を司る役職に就くことの出来る家格を持つ旗本、高家旗本の一般通称であり、高家職に就いている高家旗本を奥高家と呼び、その奥高家の中から有職故実や礼儀作法に精通している三名を選んで「高家肝煎」と呼んで、それを俗に「三高」とも呼称したから、日本語としては頗る紛らわしい。平井呈一氏は『「三つの高い家柄」』と訳しておられ、ここは言わずもがな、御三卿(ごさんきょう:田安徳川家(第八代将軍徳川吉宗次男)・一橋徳川家(吉宗四男)・清水徳川家(第九代将軍徳川家重次男)の三家)のことなのだから、平井氏の訳の方がよい。

「一萬石は約一萬磅」本書が刊行されたのは明治三七(一九〇四)年であるが、調べてみると、日露戦争中の英国国債の一九〇四年の発行額が一千二百万ポンドで、これは当時の邦貨換算だと、一億一千七百十六万円とあったから、当時の一万ポンドは九万七千六百三十三円となり、これを現在の価値に換算すると、明治・大正期の百円が百万円とする判り易い説に従うなら、小泉八雲の換算の一万石は九千七百六十三万三千三百三十三万円となる。但し、これは単純なレート換算で、Q&Aサイトを見る限りでは、一万石は玄米卸価格では現在の三億七千五百万円相当とある。しかし、藩士の俸給で半分が費やされるとすると、領主の取り分は一万石当たり七千五百万円となるともあるので、この数値は八雲の換算値に近くなるように思われ、面白い。

 大きな大名は、大小の家臣を持ってゐたが、これ等の家臣は、又各自訓練された侍卽ち戰士を抱へて居た。この外に、鄕士と呼ばれた武人兼農夫の特殊階級があつて、その内には小さい大名を凌ぐ程の特權と權力とを持つてゐたものもあつた。この鄕士は大抵獨立した地主であつて、一種の土民(ヨオマン)であった、併し鄕士の社會上の位置とイギリスの土民(ヨオマン)の位置とには幾多の相違點がある。

[やぶちゃん注:「鄕士」江戸時代、農村に居住した武士。また、由緒ある旧家や名字帯刀を許された有力農民を指すこともある。後期には献金によって郷士となる者が多くなった。

「土民(ヨオマン)」原文は前者が“yeomanry”、後者が“yeomen”。小学館「日本大百科全書」の「ヨーマン」(Yeoman)を引いておく。『通常、「独立自営農民」と訳される、イギリスの中産農民。語源は、「若者」young man が縮まったものといわれる』十四~十五世紀には年収四十シリング以上を『有する自由土地保有農(フリーホルダー』freeholder『)をさした。彼らは州における議員選出権を与えられ、陪審員として地方行政に携わり、また百年戦争におけるイギリス軍の精鋭とたたえられた。この階層に、当時進行中であった封建制経済の解体に伴って上昇した謄本土地保有農(コピーホルダー』copyholder『)と一部の定期借地農(リースホルダー』leaseholder『)が加わり、ヨーマンはジェントリ』(gentry:大地主。元は gentleman の集合名詞)『と零細農の中間を占める広範な農民層をさすようになり』、十五『世紀中葉にはイングランド、ウェールズの土地の約』五分の一を『保有した。チューダー朝以降の絶対主義時代には、農業経営や毛織物マニュファクチュア経営で頭角を現す者が出る一方、エンクロージャー』enclosure『(囲い込み)の進展により土地を奪われて離村を余儀なくされる者も多く、ヨーマン階層には両極分解がみられた。ことにヨーマンの中核であった自由土地保有農の没落は』、十八『世紀における大地主の寡頭支配の強化とともにいっそう促進され』、十九『世紀の資本制農業の確立によってヨーマンは実質的に消滅した』。]

 家康は武人階級を改造した外に、更に二三の新しい小階級を創設した。これ等の中で、比較的重要なのは、旗本と御家人とである。旗本と云ふ稱呼は『軍旗の捧持者』の意味で、其の數凡そ二千を算し、御家人は約五千を算した。これ等武人の二團體は、將軍の特殊な武力を構成してゐたもので、旗本は多くの收入を有する大きな家臣であり、御家人は所得の少い家臣で、單に將軍家の御用を直接に務めると云ふだけで、一般武士の上位に立つものであつたに過ぎない……。あらゆる階級の武士の總數は、約二百萬を算した。彼等は租税を免ぜられ、二本の刀剱を佩用するの特權を有した。

 

 以上述べたる所は、筒單な槪説ではあるが、國民を非常に嚴酷に支配した貴族と武人との階級の大體の制定である。一般庶民の大多數は三階級(姓階(カスト)と云ふ言葉が、永遠にインドで用ひられたその概念と聯想されなかつたならば、吾々はこれを姓階と呼んで良いかも知れない)に分かたれてゐた。農夫、職人、商人がそれである。

 これ等三階級の中、農夫(百姓)が一番身分が高く、直接武士の次位になった。實際、武士の多くは、農夫をかねてゐたし、農夫の中には一般武士より遙かに高い位をもつてゐるのもあつたので――武人階級と農夫階級との間に堺界線を引く事は困難である。恐らく百姓(農夫或は農民)と云ふ言葉を、單に農業に依つて生活し、土壞を耕作する者にして、皇別若しくは神別の後裔でないものに制限すべきであらう。彼等は皇別若しくは神別の後裔ではないのである……。何れにしても、農民の職業は名譽あるものと考へられてゐた。農央の娘は、皇室の女中になることさへあつた――その職分の位置は極めて低いものでありはしたが。また農夫の内には、帶刀を許されたものもあつた。日本社會の上代に在つては、農夫と武士との間に、何等の區別もなかつたらしく思はれる。當時の身體の健な農夫は、何時でも戰の間に合ふやうに、戰士としでの訓練が施されて居た――この狀態は古いスカンデイナヴイヤの社會と同樣である。特殊專門の武人階級が出來た後も、農夫と武士との區別は、日本の或る部分では曖昧であつた。例へば、薩摩、土佐に於ては、武士は現代迄、耕作に從事してゐた。又九州武士の優秀な者は、殆どすべて農夫であつて、その立派な身長や體力は、一般に田園の作業に從事した爲めとされて居る、日本の他の部分、たとへば出雲の如き所では、武人は耕作に從ふ事を禁じられ、森林地は所有することを許されて居たが、田畠を所有する事は許されなかっだ。併し處に依つては武士が他の職業――商賣とか或は手工だとか――に從事することは、嚴しく禁じられて居たが、耕作に從事することは許されて居た處もあつた……。いつの時代でも農業に精勵する事を墮落と考へた事は嘗てない。昔の天皇の中には、耕作に興味を寄せられ、親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]それを爲された方もあつた、赤坂離宮の庭内には、今も尚ほ小さい稻田が設けられてある。太古の宗教的傳統に從ひ、御料地内で出來た稻の初穗は、第九番目の祭――【註】新嘗祭―の日に、收穫の供物として、天皇親らの御手に依つて刈り取られ、神聖なる祖先の御前に捧げられるのである。

 

註 此の祭日に、天皇御手づから、其年の最初の生絲と共に、稻の初穗を、天照皇大神にそなへさせ給ふのである。

[やぶちゃん注:「新嘗祭」(にひなめさい(にいなめさい))は天皇が新穀を天神地祇に供え、自らもそれを食する祭儀で、もとは古えの神人共食である。古くは陰暦十一月の二度目の卯の日に行われた。グレゴリオ暦が導入された明治六(一八七三)年(「改曆ノ布告」により明治五年十二月三日(陰暦)を明治六年一月一日とした)以降は十一月二十三日と定めて祭日としていた。後、昭和二三(一九四八)年からは同日が「勤労感謝の日」となっている。]

 

 農民の次位に、工匠階級(職人)があつて、鍛冶工、大工、織匠、陶工――要するに、凡ての手工業者がこの内に包含される。これ等の中で一番高いものは、さうありさうな事であるが、刀鍛冶である。刀鍛冶は、往々其階級を超えて、遙かに高位に上つた。中には守(かみ)と云ふ高い稱號を與へられたものもあり、領土若しくは地方の守と稱した。これは大名の稱號で大名が自らそれと同じ守の宇を以て記したものである。されば自然彼等は、天皇とか公卿とか云ふ高貴の庇護を受けたのであつた。後鳥羽天皇が、御自身の鍛冶場に於て、親ら刀造りに精勵されたことは、よく知られて居る事である。現代に至る迄、刀身を鍛へる期間、宗教上の奉祭が行はれたのである……。

 主なる手工業はみな、組合を持つてゐた、そして一般の例として、仕事は世襲的であつた。職人の祖先は大抵朝鮮人竝びに支那人であつたと想像するに足るに十分な歷史的根據がある。

 

 商業階級(あきんど)は、銀行家、商人、店主、諸種の貿易商人等を含み、公儀の上では最下級と認められてゐた。金儲けの仕事は、上流階級からは輕蔑されて居た。勞働から生ずる品物を買ひ、それを再び賣ることに依り、利益を上げるといふ一切の手段は、不名譽なこととされてゐた。武家なる貴族は、當然商賣階級を見下げてゐた。そして一般に、武人階級は、普通ないろいろの勞働に對して、あまり尊敬をもつて居なかつた。併し古代の日本に於ては、農夫と職人との職業は輕んぜられて居なくて、商賣のみが、不名譽と考へられて居たらしい――この差別は、一面から云へば道德的の事であつた。商人階級を、社會組織の最低位に追ひ下すことは、異樣な結果を産んだに違ひない。例へば、米屋は如何に富んでゐても、その家族が元來他の階級のものであつたといふのでなければ、大工、陶工、船大工――それ等を米屋は雇傭し得た位であるに拘らず――の下位に立つのであつた。其の後、商人(あきんど)は其の子孫以外の多くの他の人々を包含し、かくて實際上商人階級それ自身が救はれる事になつた。

 

 國民の四大階級――武士、農夫、工匠、商人(これ等を指示するに、漢字の四文字だけを取り、簡單に呼んで、士農工商と云ふ)の中で――後の三階級は、平民『庶民』の稱呼の下に、一括されてゐる。平民はすべて、武士に從屬し。武士はボ平民が不敬な事をした場合、斬り捨てる權利をもつて居た。併し實際は乎民が眞の國民であつた。國民の富を生み出し、歳入を作り出し、租税を負擔し、貴族武人僧侶を支特して居たものは實に平民であつた。僧侶に就いて言へば、佛法(神道も同樣で)の僧侶は別の階級を作つては居たが、その位は平民と竝ぶのでなく、武士と等しかつた。

 平民の三階級の外に、平民の最下級のものの以下にあつて、到底上進の望みのない大きな一階級があつたが、それ等のものけ日本人としては扱はれず、また殆ど人間としてすら待遇されない程であつた。公儀上それ等のものは、種屬的に張里[やぶちゃん注:「ちやうり」。]と呼ばれ、動物を數へるに用られる特別な呼び方でもつて、一匹、二匹、三匹と數へられて居た。現今でさへも、一般にそれ等は人間(ひと)して取扱はれず、『物』(もの)とされて居た。イギリスの讀者(主として、ミツトフオド氏の今尚ほ比類なき名著作とされて居る『古代日本物語』の讀者にとつては)彼等は穢多として知られえゐる、併し彼等の稱呼は、其の職業に依つて、それぞれ異つてゐた。彼等は(インドで云ふ)非人であつた。日本の文人等は、明確な根據に基づいて、張里が日本民族に屬することを否定してゐる。これ等姓階以外の樣々な部族は、法律上認許されて居たその獨占の職業に從つて居り、その住んで居た地方の特權に從つて、或は井戸掘りであり、庭園の掃除人であり、或は藁細工人であり、草鞋作りでもあつた。その内の或る階級は、公儀で拷問人と死刑執行吏とに使用され、また或るものは、夜番に雇はれ、さらに又墓掘りに用ひられたのもあつた。併し穢多の大部分は、鞣皮[やぶちゃん注:「なめしがは」。]工と、鞣皮仕上げの仕事に從事するものであつた。動物を撲殺し其の皮を剝ぎ、各種の鞣皮を作り、靴や、鐙皮(あぶみがは)や太鼓の面皮を作る權利は彼等獨得のものであつた――太鼓の面皮作りは、國内十萬の社寺にそれが使用されて居るので、利得の多い職業であつた。穢多はまたそ獨得の法律を有し、生殺與奪の權を行使する主長を戴いてゐた。彼等は常に町の近隣や郊外に住んでゐたが、常に自分達だけの別の一部落をなして居た。彼等の町に入るのは、其の商品を賣るためか、或は仕入をするために、限られて居たが、【註】履物の店以外には、いづれの店へ入る事も許されて居なかつた。唄をうたふのを職業とすることは許されて居たが、人家に立ち入ることは禁じられて居た――それ故彼等は單に街路や庭内のみで、音樂を奏し、唄をうたふことを得たのである。自家世襲の職業以外には、如何なる職業にも、從事することを嚴しく禁じられて居た、商業階級の最下等のものと穢多との間には、インドの傳統上の姓階制度から生じた區別の樣に、越える事の出來ない檣壁があつた、社會上の一偏見に依つて、穢多部落が他の日本の町から隔絶された有樣は、城壁や門に依つて、猶太人[やぶちゃん注:「ユダヤじん」。]の町が他のヨオロツパの町から隔離されて居たのに似てゐる。何等かの職掌を帶びて已むを得ない限り、日本人は一切、穢多部落に入つて行くことを、 夢想だもしなかつた……。美しい小さな港なる美保の關で。私は穢多部落を見たが、それは、灣に沿つた三日月形の町の一端を成してゐた、美保の關は、たしかに日本に於ける最古の町の一であるから、それに附硝してあるから、それに附屬してをる穢多村も亦非常に古いに違ひない。今日と雖も尚ほ美保の關に住む日本の人は、其の部落が他の町に連結されてゐるに拘らず、其處を通つて行かうとはしない、子供も決して此の標もない境界を越える事なく、犬すらも、此の偏見線を越さうとはしない。それにも拘らず、部落は淸潔で建物もよく――庭園、浴場、竝びに獨得の寺院があつて、行き屆いた日本の村落を見るやうである。併し恐らく一千年の間、これ等の連續した兩社會の住民の間には、何等の友情もなかつた……。今日では誰れもこれ等社會外の人民の歷史に就いて知るものはなく、彼等の社會的破門の原因は永く忘れられて居た。

 

註 或る地方では今なほこれが掟となつて居る。

[やぶちゃん注:「張里」平井呈一氏もこの漢字を用いているが、通常は「長吏」が知られる。「日本国語大辞典」の「長吏」の意味の四番目に、『江戸時代、穢多(えた)の別称。穢多頭』(えたがしら)『弾左衛門の支配を受ける地方在住の穢多を在方(ざいかた)長吏といい、それを支配するものを長吏小頭』(こがしら)『と呼んだ』とある。但し、喜田貞吉長吏名称考(大正八(一九一九)年十月号『民族と歷史』)によれば(リンク先は「青空文庫」)、『長吏の名義は徂徠の「南留別志」に、張里の誤りなるべしとある。張里は馬医者の事だという。「燕石雑志」には、「鎌倉将軍の時に穢多の長を長吏と云ひけり」とあるも確かな出所を知らぬ。しかし鎌倉時代に既に長吏の称のあった事は、後に引く文書にも見えて確かな事だ。俗説にチョウリは町離』[やぶちゃん注:太字はリンク先では傍点「◦」。]『で、エタを賤んで民家と雑居せしめず、町を離れた所に置いたからだとも、或いは丁離で、エタ村は道中の丁数に数えないからだなどとの説もあるが、もとより採るに足らぬ』とし、『賤者に対してこの』「長吏」の『称の見えるのは、管見の及ぶ限りでは鎌倉時代寛元二年』(ユリウス暦一二四四年)『三月の、奈良坂・清水坂両所の非人争議の文書である』と記している。リンク先は短い論文であるが、一読の価値の十二分にある内容である。

「ミツトフオド氏の今尚ほ比類なき名著作とされて居る『古代日本物語』」イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年:既出既注)が一八七一年に刊行した“Tales of Old Japan”。]

 

 固有の穢多の他に、非人――この言葉は『人間にあらざる者』と云ふ意味である――と呼ばれる最下級民があった。此の稱呼の下に包含せられる者は、職業的な、托鉢僧、流しで步く唄ひ人、俳優、或る種の醜業婦、世間から排斥された者等であつた。非人には、その特別な頭があり、またその仲間だけの法律があつた。日本の社會から排斥された者は、誰れでも非人に加はることが能きたが[やぶちゃん注:「できたが」。]、併しそれは世間普通の人に別かれを告げた事になるのであつた。政府も利口で、非人を迫害するには至らなかつた。非人の漂浪的生活は、それに依つていろいろな苦難を免れる道となつた。微罪の犯人や正常な生業を營むことのできない人々を、非人の群に驅りやることが能きる限り、それ等のものを牢獄に繫いだり、其の他の途を講ずることは不要であつた。矯正することのできない者、無賴漢、乞丐人[やぶちゃん注:「こつがいにん」或いは三字で「かたゐ」と読んでいるかも知れない。乞食と同じい。]等は一種の訓練の下に置かれるので、實際政府の認めない社會に消えてしまふのである。非人を斬ることは。殺人とは考へられないので、單に科料に處せられたのみであつた。

 

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