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2018/08/11

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(49) 武權の勃興(Ⅰ)

 

  武權の勃興

 

 信賴するに足る日本歷史の殆ど全部は、一つの廣大な挿話の内に收められて居る、則ち武權の興廢といふ事の内に收められる……。日本の歷史は紀元前六六〇年から五八五年迄の間統治して、百二十七歳の壽齡を保つたとされて居る神武天皇の登極と共に始まると、普通に云ひならはしてゐる。神武皇帝以前は、神代であつた――神話の時代である。併し神武天皇の卽位以後一千年間の、信賴するに足る歷史は傳はつてゐない、そして此の一千年の期間の年代記はお伽噺を去る事遠くないものと考へなければならない。この年代記には、事實の記錄もありはするが、事實譚と神話とが互によく織りまぜられて居て、兩者を區別して見ることは困難である。例ヘば紀元二〇二年に、神功皇后が朝鮮を征伐したと云はれる傳説があるが、【註】そんな征伐のなかつた事は可なり十分に證明された。後代の記錄は、上代のよりも、幾分か神話的ではない。第十五代目の統治者、應仁天皇の御宇に、朝鮮からの移住民のあったといふ事は事實に基づいた傳説であるし、尚ほ其後の日本に於ける古い漢文硏究の傳説も亦事實に基づいたものである、さらに第五徒紀の全部を通じて行はれたらしく思はれる社會動亂の狀態に就いての漠然たる記錄も同樣である。佛教は第六世紀の中葉に傳へられた、そして此の新しい信條に對して爲された神道一派の激しい反抗と、聖德太子――推古天皇の攝政にして、佛教の偉大なる建設者――の祈禱に依り、四提婆王(善靈で、阿修羅王に對するもの)の助けの下に、佛教の奇蹟的勝利を博した事實とに就いては、記錄が殘つて居る。推古天皇(紀元五九三年から六二八年迄)の御宇に於て佛教の基礎の確立すると共に、漸く信を置くに足る歷史の時代が始まつた、時は、神武天皇から數へて、三十三代目の日本の天子の御世であつた。

 

註 日本アジヤ協會の譯文中、アストン氏の論文『日本古代史』を見よ。

[やぶちゃん注:「四提婆王(善靈で、阿修羅王に對するもの)」「しだいばわう」と読んでおく。丸括弧内は原文にはない。訳者戸川明三の割注である。阿修羅王に対するという以上は天部に属すと思われる守護神霊「四提婆王」(原文“the Four Deva Kings)というのは私はあまり聴いたことがない(即座に連想するのは、釈迦の弟子であったが、後に違背し、阿闍世(あじゃせ)王を唆(そそのか)して殺害しようとして失敗して地獄へ堕ちたとされる「提婆達多」であるが、無論、彼ではない)。原文を見ると、最後の「King」が複数形であることに気づいた。さらに調べてみると、平凡社「世界大百科事典」の「阿修羅」の解説の中に、『サンスクリットのアスラasuraの写音。アーリヤ人のインド・イラン共通の時代にはアスラとデーバdevaはともに神を意味したが』、『彼らが分かれて定住してからは』『インドではアスラが悪神を』、『デーバが善神を意味するようになり』、『イランではアスラはゾロアスター教の主神アフラ・マズダとなった』とあり、また、「インド神話」の解説の中にヒンドゥー教の軍神『は代表的なデーバdevaである。デーバは神であり』、『それに対するものがアスラasura(阿修羅)である』とあり、また、「八部衆」の解説中に『天(デーバdeva)』は『神のことで(devaはラテン語deusと同系)、帝釈天をはじめとする三十三天など』を指すとある、ウィキの「デーヴァ」を見ると、『サンスクリットで神を意味する語である。女性形はデーヴィー 』で、『印欧祖語に由来する』。『ヒンドゥー教、仏教などインド系の諸宗教で現われる』。『漢訳仏典では、天部、天、天人、天神、天部神などと訳される』。『デーヴァが住む世界をデーヴァローカ』『と呼び、天、天界、天道、天上界などと漢訳される』。『インドのデーヴァはイランのダエーワと同一の語源と言われるが、イランのゾロアスター教ではダエーワは悪神である』。『ラテン語のデウス(dēus)などと同じ語源である』あるとあった。さらに同ウィキの中文版を開くと、標題が『提婆(印度神話)』となっているのを確認出来た。されば、この小泉八雲の原文は、

デーヴァローカ(「天」)に棲む「四」名のデーヴァ(「天部」の「神」)

即ち、

「天」部に属する仏教を守護する「四」名の「王」

という意味に読み替えられると私は思う。翻って、「日本書紀」には、仏教を巡って発生した崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との戦いに参戦した聖徳太子は、四天王に祈願して勝利を得、それに感謝して摂津国玉造(大阪市天王寺区)に四天王寺(四天王大護国寺)を建立したと記されている。さればこそ、私はここには、

「四名のデーヴァ王ら」(仏法を守護する四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)のことであろう)

としたくなるのである。大方の御叱正を待つ。

「アストン氏の論文『日本古代史』」「アストン」は既注であるが、再掲しておくと、イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい。「日本古代史」というのは一八八九年発表の“Early Japanese history のこと。この発表した年、アストンは病気のために外交官を辞職し、イングランドに落ち着いている。]

 

 倂し第七世紀以前の一切の事は、假作物語のやうに霧に包まれて、吾々は判然と其の眞相を摑むことはできないが、それでも初代から三十三代目迄の天皇及び女帝の御代の社會狀態に關する半神話的の記錄から、吾々は多くの事を推論し得るのである。上代のみかどの生活は、極めて質素で、その臣下と殆ど選ぶ處がなかつたらしい。神道學者の眞淵の言ふ處に依れば、天子も泥の壁と小石で葺いた屋根のある小屋の中に住み給ひ、大麻の着物を被て[やぶちゃん注:「きて」。]、野葡萄の蔓を絡ませた木製の鞘に納めた刀を佩き、人民の間を自由に步きまはられ、獵に出られる時には、自分で弓矢を携へられたといふことである。併し社會が發達して其の富力と權力とを增大するにつれて、此の古の簡素はなくなり、支那の習俗儀禮が、漸時輸入されるに及んで、大變革が生じて來た。推古天皇は支那宮廷の儀禮を取り入れ、貴族に對し、始めて支那の位階を適用せしめた。支那の贅澤品は、支那の學問と共にやがて宮廷に見られるやうになつた。爾來天皇の權威は次第々々に直接に働きをする事が少くなつた。新しい儀禮に拘はるやうになつで、萬機を親裁することは以前よりも遙かに困難となつたに相違ない。そして精力絶倫の統治者の場合に於てさへも、多少代理者に依つて、事を行はせるといふ誘惑の、強くなつて來た事も有りさうな事である。何れにしても、政府の眞の行政は、此の頃から、代理者――代理者はすべて藤原と呼ぶ大公卿氏族の人々であつた――の掌中に移り始めた。

 この氏族は最高の世襲的僧職を包有し、天孫の榮を誇つて居り、古代貴族の大半を占めてゐた。全部で百五十五家族ある公卿の中から 九十五家族はこれに屬してゐた――この中には五攝家なるものも入つて居たが、この五攝家の内から天皇は傳統上、皇后を選ぶ事になつて居たのである。其の藤原の歷史上の名稱は、桓武天皇(紀元七八二年――八○六年)の御代に始まつたので、桓武天皇は中臣鎌足の名譽を表彰するために、此の名を與ヘられたのである。併し此の氏族は、以前から永い間宮廷に於て、最高の地位を占めてゐたのであった。第七世紀の末葉から、行政上の權力は槪ね此の氏族の掌中に移つてしまつた。其の後關白卽ち攝政の職が制定され、近代に至る迄、それが此の家に世襲的の職權として殘つて居た――幾代かの後、中臣鎌足の子孫の手からは。その實驗が失はれてしまつた後までも。併しながら殆ど五世紀の間、藤原氏は日本の眞の攝政たる地位を保ち、出來得る限りその位置の利を專にしてゐた。すべての交官職は、藤原氏の男子の掌中に歸し、天皇の后妃や寵姫は、すべて藤原氏の女人であつた。政府の全權は、かくして此の氏族の手に委ねられ、天皇の大權はなくなつてしまつた。のみならず天皇の繼承は、全然藤原氏の手に依つて行はれ、在位の期間すら、藤原氏の政策に左右せられて居たのであつた。年少の天皇に退位をひ、退位後は佛數の僧侶となられたる事が得策と考へられた――次いで選ばれた後繼者は往々ほんの幼兒に過ぎないと言ふ有樣で、二歳にして帝位に登り、四歳にして退位された天皇の例があるかと思へば、五歳にしてみかどの位に就き、或は十歳にして卽位した例も數多ある。併しながら、王位の宗教的尊嚴は依然として減少される事なく、むしろ增大したのであつた。みかどが政策と儀禮とのために、一般人民の視界から遠ざかれば遠ざかるほど、其の離隔と隔絶とは、益〻尊貴な傳統的な畏敬の念をくすることとなつた。西藏のラマ僧の如く、生ける神なる天子は、民衆には見えないやうにされて居た。かくして天顏を拜する者は死ぬと云ふ信仰が徐々に起つて來たのであつた……。藤原氏は、自己の政權を確保するために、かかる專橫な手段を弄することを以てさへ飽き足らず、年少の天子の性格を惰弱にするがために、腐敗に赴かせるいろいろな奢侈を宮中に行はしたと傳へられてゐる。さうしなければ天皇は古代からの帝位の權威を振ふ力を示される恐れがあつたからである。

[やぶちゃん注:「五攝家」藤原氏のうち、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家を指す。藤原氏は北家出身の良房・基経父子が摂政・関白となって以来、その子孫が相いついで摂政・関白となり、同時に氏長者を兼帯したが、このように摂政・関白を出す家を「摂関家」又は「摂家」と称した。ところが、鎌倉時代初頭、源頼朝の推挙により、兼実が兄基実の子基通に代わって摂政・氏長者となって、基通の近衛家に対し、九条家を興した。ここに摂関家は近衛と九条に分立したが、さらに兼実の孫道家は、その子教実・良実・実経を相いついで摂関につけたことから、良実が二条家を、実経が一条家を興し、教実の九条家と三家に分かれた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「二歳にして帝位に登り、四歳にして退位された天皇」平安末期の第七十九代六条天皇(長寛二年十一月十四日(一一六四年十二月二十八日)~安元二(一一七六)年)のことであろう。彼は永万元年六月二十五日(一一六五年八月三日)に即位させられ、仁安三年二月十九日(一一六八年四月九日)に退位させられている。即位は数え二歳(実際には生後満七ヶ月と十一日)で歴代最年少であり、在位二年八ヶ月で祖父後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王に譲位(高倉天皇)させられ、これまた歴代最年少の上皇となった(但し、数えだと五歳、満だと三歳となる)。]

 此の簒奪――武權勃興の準備となつたこの纂奪――は、恐らく正常に解釋されてゐなかつたと思はれる。古代ヨオロツパのすべての族長的社會の歷史は、社會進化の上のこれと同一の形相を説明して居るのである。兩者の發展の或る期間に於て、吾々は同樣な事實――僧侶としての國王たる君主から一切の政權が剝奪され、しかもその王はただ宗教的尊嚴を保つやうにさせられて居る事――を認めるのである。藤原氏の政略を、單なる野心、竝びに單なる纂奪の政策と判斷するのは誤りである。藤原氏はその天孫を主張して居た宗教的貴族であつた、――宗教と政治とが同一視された社會の氏族の長であり、この社會に對するその關係は、ユウパトリデイEupatridae (ギリシヤの古い貴族で立法の特權をもつて居たもの)が古代アゼンスの社會に對する關係に等しかつた。みかどはもと、氏族の主長の大多數の同意に依り、最高の長官、軍事司今官、竝びに宗教上の教長となつたものである、――この氏族の主長が、各自の家來に對する關係は、恰も『天皇』が社會全體に對する關係と同じものであつた。併し統治者の大權が、國民の發展に伴なつて增大するや、從來聯合しで其の大權を擁護するに力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]者も、それを危險とするやうになつて來た。ここに於て彼等は、天皇の宗教上の優越權はその儘にして、その政治上竝びに法律上の權威を剝奪しようと意を決した。アゼンスに於ても、スパルタに於ても、又ロオマに於ても、其他古代ヨオロツパの何處に於ても、これと同一な理由から、宗教上の元老に依つて、同一な政策が行はれたのであつた。ロオマ上代の國王の歷史はド・クウランジュ氏の解釋に從へば、僧侶なる統治者と宗教上の貴族との間に釀成された反抗の性質を、尤もよく語るものであると、併しこれと同一の事實は、あらゆるギリシヤの社會にも行はれ、同樣の結果を生じた。何處でも、古の王は、政治上の權力を奪はれて居た。併し宗教上の尊嚴と特權に至つてはこれを保持することを得た。彼等は、統治者でなくなつた後までも最高の僧侶ではあつたのである。これは日本でも同樣であつた。私は日本の史家が將來に於て、現代社會學の立場から觀察して、藤原時代の物語に就き、全然新しい解釋を與へるであらうと想像して居る。兔に角、天皇の大權を削減するに就いては、宗教上の貴族は、野心かそれを行つたと共に、保守的の警戒からそれを斷行したに相違ないといふ事は殆ど疑ひを容れる餘地はない。法律と慣習とに改變を加へた天皇も多くあつた――古代貴族の大部分からは、殆ど好意を以て迎へられなかつた改變を、又今日ではラテン語でなければ書く事の出來ないやうな慰みをした天皇もあつた。また孝德天皇の如き『神の化身』であり、また古代の信仰土の主長でありながら、『神の道を輕視し』生國玉の御社の神木を伐り倒した天皇もあつた。孝德天皇は、佛教に對する信心のあるにも拘らず(恐らく實際その信心のあるが爲めにかも知れぬが)尤も賢明にして又尤も善良なる君主の一人であつた。併しその『神の道を輕視する』天皇の一例となつたといふ事は、僧侶的氏族をして重大な考慮をめぐらさしめたに相違ない……。尚ほこの他にも、注意すべき重要なる事實がある。數世紀の間に、正統なる皇室は、氏から全然分離するに至つた、而して他の各單位とは獨立して居たこの全能力のあつた一單位は、それ自體の内に、貴族的特權と既定の制度とに對して重大なる危險をもつて居るものと考へられた。すべての氏族の慣習を破壞し、氏族の特權を廢棄し得る權力ある全能なる神王の個人的性格と意思とは、餘りに重大な事を起すかも知れない。一方に、氏族の族長的統治の支配下に在つては、すべての者が一樣に安全であつた。何となれば氏族の族長的統治は、その内の一族が他族を犧牲に供して、自ら著しき力を振はんとするあらゆる傾向を阻止することが出來たのであるから、併し皇室の祭祀――すべての權威と特權との傳統的本源――は、明白な理由から。これに一指だも觸れる事は出來なかつた。則ち宗教貴族が、眞の權力を自己の掌中に收め得たのは、皇室の祭祀を維持し、それを鞏固にする事によつてのみなされたのであつた。事實彼等は眞の實權を、殆ど五世紀間掌握しつづけて居たのである。

[やぶちゃん注:「ユウパトリデイEupatridae (ギリシヤの古い貴族で立法の特權をもつて居たもの)」原典の綴りは最後がラテン文字の合字で“Eupatridӕ”と斜体。この部分も丸括弧は訳者戸川の割注である。辞書ではアテナイの貴族階級の一種とし、「エウパドリデス」とカタカナ音写してある。

「アゼンス」原文の“Athens”の綴りを見ればお判りの通り、「アテナイ」(アテネ)のこと。

「ド・クウランジュ氏」複数回既出既注であるが、再掲しておく。ヌマ・ドニ・フュステル・ド・クーランジュ(Numa Denis Fustel de Coulanges 一八三〇年~一八八九年)はフランスの中世史の歴史学者。『クーランジュは自身の方法を「デカルト的懐疑を史学に適用したもの」と語って』『彼の掲げた史学研究のモットーは、『直接に根本史料のみを、もっとも細部にわたって研究すること』、『根本史料の中に表現されている事柄のみを信用すること』、そして『過去の歴史の中に、近代的観念を持ちこまないこと』であったという。『クーランジュの文献資料に関する知識は当時としては最高であり、その解釈についても他人の追随を許さなかった。しかし、彼は古代作家を無批判に信頼し、原典の信憑性を確認せずに採用した。さらに通説にことさらに反対する傾向があった』。『クーランジュの文体は明晰かつ簡明であり、事実と推理のみをあらわし、当時のフランス史家の悪弊であった「漠然とした概括」や「演説口調の慣用語」から脱却していた』とある。詳細は参照引用したウィキの「フュステル・ド・クーランジュ」を参照されたい。

「今日ではラテン語でなければ書く事の出來ないやうな慰みをした天皇もあつた」何か意味深長なまがまがしいことをしたかのような訳になっているが、原文は“there had been an Emperor whose diversions can to-day be written of only in Latin”であり、平井呈一氏の訳では『こんにちなら、ラテン語だけで物を書くというような、そんな気まぐれをやった天皇もあった』となっている。漢字や万葉仮名だけしか使わないと言った意味か。誰かは知らない。

「孝德天皇」(推古天皇四(五九六)年~白雉五(六五四)年/在位:孝徳天皇元(六四五)年~没年迄)。ウィキの「孝徳天皇によれば、「日本書紀」『によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わず』、『しきりに恩勅を下した』とある。彼は生國魂(いくくにたま)神社(現在は大阪府大阪市天王寺区生玉町にあるが、以前は現在の大阪城の位置にあったが、豊臣秀吉による大坂城築城の際に移転させられた。但し、孝徳帝当時はどこにあったかは不詳である)を伐採したことが、「日本書紀」孝徳天皇即位前紀の分注に載る。この伐採は難波宮(なにわのみや)造営のためであったと考えられている、とウィキの「生國魂神社にある。]

 

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