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2018/08/12

甲子夜話卷之五 7 加州金澤城中、箭天井の事

 

5-7 加州金澤城中、箭天井の事

砲工國友藤兵衞【近江の國、國友村に住す。官の鐵炮張なり】、加州金澤城中に入て其家屋をも見たりしことを語る中に、書院の緣側の天井を箭天井と稱して、廣き間なるが一面に箭を組合せたるなり。鏃も具して見ごとなり。定めて今侯の物好にはあらで、以前より軍用の手當なるべし。予因みに云ふ。先年かの居城燒けたることあり。其時家屋の瓦鉛なるが、悉くとけ流て雨の如く零たれば、近寄こと能はざりしと聞く。然るやと問たれば、藤兵衞答ふ。相違なし。今も城中の瓦は皆鉛と銅なりと語る。然ばこれも軍用なるか。又は寒國故の事か。

■やぶちゃんの呟き

「國友藤兵衞」九代目国友藤兵衛である鉄砲鍛冶師国友一貫斎(安永七(一七七八)年~天保一一(一八四〇)年)と思われる(静山より十八年下)。ウィキの「国友一貫斎」によれば、『幼名は藤一。号は一貫斎、眠龍。諱は重恭。能当(旧字では能當)と銘を切る。日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作。その自作の望遠鏡を用いて天体観測を行った』発明家にして技師であり、天文学者でもあった。『近江国国友村(滋賀県長浜市国友町)』(ここ(グーグル・マップ・データ))『の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた』。九『歳で父に代わって藤兵衛と名乗り』、十七『歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継いだ』。文化八(一八一一)年、『彦根藩の御用掛となり』、『二百目玉筒を受注することとなったが、国友村の年寄』四『家は自分たちを差し置いてのこの扱いに異議を申し立て』、『長い抗争に発展した(彦根事件)。しかし一貫斎の高い技術力が認められ』、文政元(一八一八)年に『年寄側の敗訴となった』。文政二(一八一九)年、『オランダから伝わった風砲(玩具の空気銃)を元に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作。その解説書として「気砲記」を著し、後には』二十『連発の早打気砲を完成させ』ている。『文政年間、江戸で反射望遠鏡を見る機会があり』、天保三(一八三二)年頃から』、『反射式であるグレゴリー式望遠鏡を製作し始めた。当時の日本で作られていた屈折望遠鏡よりも優れた性能の望遠鏡であり、口径』六十ミリで六十倍の『倍率の望遠鏡であった。後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人のために大名家等に売却されたと言われ、現在は上田市立博物館』(天保五年作・重要文化財)』、『彦根城博物館に残されている』。『その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家であ』り、『また、彼は自作の望遠鏡で』、天保六(一八三五)年、『太陽黒点観測を』、『当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある』。国友村にて死去。享年六十三であった。なお、『国友村で年寄脇(年寄の次席)を勤める御用鉄砲鍛冶の家の一つを』国友藤兵衛家或いは『辻村家とも』称し、『一貫斎はこの』九『代目にあたるが、特に著名であるため』、『説明なく彼を指して「国友藤兵衛」と呼ぶことが多い。初代・辻村(国友)藤内は美濃国の鍛冶師の出身であり、永正年間に近江国国友村に移り住んだと言われている。その跡を継いだ』二『代目以降の当主の多くが国友藤兵衛を名乗った。他の国友鍛冶職人は重当(旧字:重當。弾が「重ねて当たる」の意)の銘を用いるのが通例だが、藤兵衛家のみ能当(旧字:能當。「能(よ)く当たる」の意)を用いる。明治時代に入り』、十一『代目当主以降は鉄砲鍛冶を廃業している』とある。如何にも静山が好きになりそうな、プエル・エテルヌス(puer eternus)ではないか。

「箭天井」「やてんじやう」。太田昌子氏の論文「金箔からみた文化度金沢城二ノ丸御殿―『御造営方日並記』を主要資料として」(PDFでダウン・ロード可能)によれば、まず、金沢城の二ノ丸御殿の内、金箔を用いた座敷について、文化六(一八〇九)年に記された資料が残っており、それによれば『矢天井間』とあり、床は『惣金』仕上げで『春草等四季草』の襖に天井は『矢』(絵か、ここに書かれているように実物の矢であるかは不詳)とあるそうである。次注で見る通り、焼失して、「矢天井の間」は現存しない。

「先年かの居城燒けたることあり」金沢城は宝暦九(一七五九)年に「宝暦の大火」に見舞われている。但し、これは静山の生まれる前年のことであるから、彼の言っているのは、二ノ丸御殿が全焼した文化五(一八〇八)年の回禄のことである。

「鉛」「なまり」。

「零たれば」東洋文庫版は『ふりたれば』と訓じている。

「然ば」東洋文庫版は『しかれば』と訓じている。

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