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« 大和本草卷之十三 魚之上 カマツカ | トップページ | 小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(52) 武權の勃興(Ⅳ) / 武權の勃興~了 »

2018/08/29

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(51) 武權の勃興(Ⅲ)

 

 かくして一時、行政上の全權はみかどの手に復歸した。天皇御自身にとつても、又日本の國にとつでも、不幸なことには、後醍醐天皇の性格が、餘りに弱きに過ぎたため、此の得難き大事な機會を有利に用ふることができなかつた。天皇は、御子を將軍に任命して、すでに無くなつた將軍職を再興した。天皇は、優柔不斷で、忠義と勇氣とによつて、自分を舊の位に復さしめてくれた人々の功績を無視し、かへつて愚かにも、當然恐れて然るべき人々の勢力を大にするやうな事をした。其の結果として、日本歷史中の、最も重大なる政治的危機、卽ち皇室そのものの分裂を招致したのであつた。 

 

 北條執權の傍若無人な專制は、かくの如き事件の起り得べき道を作つたものであつた。第十三世紀の晚年には、京都に、正統なみかどの他に、三人も廢帝が居られた。されば皇位繼承の爭ひを招致するのは容易な事であつた。そしてこの事は、後醍醐天皇が不覺にも特別の恩寵を與へられた二心ある武將足利尊氏に依つて果たされたのであつた。足利は既に後醍醐天皇の復位を助けるために北條に反き、次いで彼は政權を握らんがためには後醍醐天皇の御信任をさへ裏切らんとしてゐたのである。天皇がこの奸計に氣づかれた時は既に遲かつた。そし軍隊を足利に向け給うたがそれは敗られてしまつた。それからなほ紛爭のあつた後、足利は首都を占有し、後醍醐天皇を二た度[やぶちゃん注:「ふたたび」。]流謫し、その仲違ひの天皇を立て、新しい將軍職を設立した。ここに於て[やぶちゃん注:「於」は底本脱字。推定で補った。]始めて、皇室の二派は、それぞれ有力な領主達に支特せられて、繼承權を爭つた。後醍醐天皇を尚ほ實際の代表者とした一派は、歷史上南朝として知られ、それを日本の歷史家は唯一の正統派としてゐる。他の方は北朝と呼ばれ、京都にあつて足利一族の勢力に依つて支持せられてゐた。一方、後醍醐天皇は、佛教の僧院に難を避けられ帝國の國璽を保持して居られた……。爾後五十六年間、日本は二方のみかどを戴いてゐたのである。その結果として生じた亂脈は、國家の保全を危からしめたのであつた。孰れの天皇が正しい權利を有つて居られたかを決定する事は、人民にとつて、容易な事ではなかつたであらう。それ迄は天皇の一身は國家の神性を代表し、宮廷は國家の宗教の宮と考へられてゐたのである。それ故、足利の纂奪者に依つて始められたこの分裂は、現社會が依つて以て建立されたる全傳統の破壞に外ならなかつた。混亂は益〻甚だしく、危險は愈〻增し來たつて、終には足利氏自身も驚いてしまつたのである。ここに於て足利一族はこの苦境を切り拔けんとして、南朝の五代のみかど、後龜山天皇を説き奉り、國璽を時の北朝のみかど、後小松天皇に讓り給ふやうにと願つた。これが一三九二年に實行されて、後龜山天皇は退帝としての稱號を贈られ、後小松天皇が正統の天皇として國民から認められる事になつた。然し北朝の他の四人の天皇の御名は、尚ほ公儀の表からは除かれてゐる。

[やぶちゃん注:「第十三世紀の晚年には、京都に、正統なみかどの他に、三人も廢帝が居られた」「三人」の「廢帝」は原文“three deposed emperors”である。平井呈一氏も『廃帝』と訳して居られるが、これは日本史学上は誤った用法である。「廃帝」は公的・準公的に内部抗争のために形式的な本人の承諾を全く得ずに強制退位させられた天皇のことで、諡号や廟号を持たずに廃帝後には以前に天皇であったことも認められなかった存在を「廃帝」と呼ぶからである。なお、現時点では歴代天皇には、総て追号・諡号が与えられており、「廃帝」は存在しないことになっている。しかし、明治までは、明治天皇によって追号されるまで、「淡路廃帝(あわじはいたい)」(藤原仲麻呂の乱により孝謙上皇によって廃位されて淡路に流され、享年三十三で殺害されたと考えられている天武天皇の皇子舎人親王の七男であった淳仁天皇(在位:七五八年~七六四年))と、「九条廃帝(くじょうはいてい)」(承久の乱直前に四歳で践祚するも、朝廷方の敗北により鎌倉幕府によって廃位となった仲恭天皇(在位:承久三(一二二一)年四月二十日~同年七月九日)。僅か七十八日で廃されており、即位式も大嘗祭も行われなかった。廃位後は母の実家摂政九條道家の邸宅に引き渡され、天福二(一二三四)年に十七歳で亡くなった。彼は歴代天皇中、在位期間が最も短い)の二人が存在し続けた。この“deposed”は、単に、実際には天皇家内の内部抗争と鎌倉幕府の朝廷支配の思惑のために事実上「退位させられて」上皇になった天皇が、同時期に三人も併存していたことを指している。但し、これも厳密に短期閉区間で言えば、「三人」ではなく、史上最多の「五人」であった時期もあるので正確とは言えない。則ち、鎌倉時代の第九十四代天皇(後宇多天皇(③)第一皇子。後醍醐天皇の異母兄)で大覚寺統の、

後二条天皇在位130132日(正安3121日)~1308年910日(徳治3825日)

の治世で、この時は、後嵯峨天皇の皇子(母は西園寺実氏の娘の中宮西園寺姞子。父母が自分よりも弟亀山天皇()を寵愛して彼を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立を生じさせる端緒となった)で元第八十九代天皇にして持明院統の祖である、

後深草上皇生没年1243628日(寛元元年610日)~1304817日(嘉元2716日))

と、後嵯峨天皇第七皇子で后腹で後深草天皇次男に当たる元第九十代天皇で大覚寺統の祖である、

亀山上皇生没年124979日(建長元年527日)~ 1305104日(嘉元3915日)))

と、亀山天皇第二皇子で大覚寺統の元第九十一代天皇、

後宇多上皇生没年12671217日(文永4121日)~1324716日(元亨4625日)

と、持明院統の後深草天皇の第二皇子と生まれるも、父後深草上皇の働きかけにより、建治元年(一二七五)年に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり、親王宣下、次いで後宇多天皇の皇太子になり、弘安一〇(一二八七)年に後宇多天皇の譲位を受けて即位した(これ以降、大覚寺統と持明院統が交代で天皇を出す時代が暫く続いたが、正応二(一二八九)年に自分の皇子胤仁親王(後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まった)元第九十二代天皇、

伏見上皇生没年1265510日(文永2423日) - 1317108日(文保元年93日))

と、持明院統の、伏見天皇第一皇子であった元第九十三代天皇、

後伏見上皇生没年128845日(弘安1133日)- 1336517日(延元元年46日))

がおり、実に、

130132日(正安3121日)から後深草上皇が亡くなる1304817日(嘉元2716日))の凡そ三年五ヶ月の間は実に五人の上皇の並立があった

のである。]

 

 足利將軍は、かくしてこの非常な危樅を脱し得たのである。然し、一五七三年迄続いたこの武力主宰の時代は、尚ほお日本歷史に於ける最も暗黑な時代たることを免れなかつた。足利氏は十五人の統治者を置いて國政に當たらしめたが、その中には有能な士も多くあつた。彼等は産業を奬勸し、文藝の發達に務めた。然し平和をもたらす事は出來なかつた。爭ひが後から後からと起つた、そして領主達は將軍の命に服せず、互に干戈を交じへた。首都は亂れて、恐怖の狀を呈し、宮廷の貴族達は逃れ出て、自分達を保護して呉れる力のある大名の許に走らなければならぬ程になつた。盜賊は全國到る處に出沒し、海賊は海を脅かした。將軍自身も支那に貢物を捧げるの屈辱を受けなければならなかつた。終には農業も商工業も、有力な領主の領土以外では存在しなくなつてしまつた。各地方は荒廢し、飢饉と地震と疫病との恐怖は、絶え間なき戰亂の慘苦に加へられた。貧困の一般であつた事は、後土御門として歷史に知られてゐる天皇――天津日嗣の第百二代なる――が一五〇〇年に崩御された時、大葬費が支出されなかつたため、その御遺骸が四十日も、宮廷の入口に止め置かれてゐたと云ふ事實から、最もよく想像される事と思ふ。一五七三年迄、この慘狀はつづいた。そして將軍職はその間に無力無能に墮落してしまつた。その時一人の健な武將が起つて、足利家を亡ぼし、支配の權を握つた。このこ簒奪者は織田信長で、その纂奪は非常に要求されて居たものであつた。若しこの纂奪が起こらなかつたなら、日本は遂に平和時代に入らなかつたであらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「一五七三年」同年八月二五日(元亀四年七月二十六日)に第十五代将軍足利義昭が宇治槇島城を明け渡して降伏、織田信長に追放され、室町幕府はこれを以って事実上、滅亡したとされる。

「將軍自身も支那に貢物を捧げるの屈辱を受けなければならなかつた」明との「勘合貿易」での双方の立場の違いを言っているのでだが、小泉八雲はコンパクトに纏めたために、必ずしも事実を伝えているとは言えない。ウィキの「日明貿易」によれば、『当時の明王朝は、強固な中華思想イデオロギーから朝貢貿易、すなわち冊封された周辺諸民族の王が大明皇帝に朝貢する形式の貿易しか認めなかった。そのため』、『勘合貿易は、室町幕府将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明皇帝に対して朝貢し、明皇帝の頒賜物を日本に持ち帰る建前であった。日本国内の支配権確立のため』、『豊富な資金力を必要としていた義満は、名分を捨て』、『実利を取ったといえる。しかし』、『この点は当時から日本国内でも問題となり、義満死後』、四『代将軍足利義持や前管領の斯波義将らは』、応永一八(一四一一)年に『貿易を一時停止する。具体的な理由として、足利義持が重篤な病にかかった時に、医療への再認識が高まり、朝貢貿易の主要物が薬膳(生薬)と合薬で、それも南方産の香薬が主で、それらは中国では産しないことから』、『朝鮮・琉球との通交が確保できることを前提に、対明断交に踏み切ったとされている。朝鮮・琉球との貿易で日明間の朝貢貿易を肩代りさせ、評判の悪い冊封関係を断ち切ろうとしたものであ』った。しかし、第六代将軍足利義教時代の永享四(一四三二)年には復活している。『明は貿易を対等取引ではなく、皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていたことから、明の豊かさと皇帝の気前のよさを示すため、明からの輸入品は輸出品を大きく超過する価値があるのが通例だった。日明貿易がもたらした利益は具体的には不明であるが、宝徳年間に明に渡った商人楠葉西忍によれば、明で購入した糸』二百五十文が日本で五貫文(五千文)で売れ、反対に、日本から銅十貫文を一駄にして持ち込んだものが、明では四十~五十貫文で『売れたと記している。また、応仁の乱以後』、『遣明船を自力で派遣することが困難となった室町幕府は』、『有力商人にあらかじめ抽分銭を納めさせて遣明船を請け負わせる方式を取るようになるが、その際の抽分銭が』三千~四千貫文であった。そのため、その十倍に『相当する商品が日本に輸入され、抽分銭や必要経費を差し引いても』、『十分な利益が出る構造になっていたと考えられている』という。また、文明一五(一四八三)年に『派遣された遣明船は大内政弘や甘露寺親長が仲介する形で朝廷が関与していたことが知られ、貿易の収益の一部は朝廷に献上されている』。『勘合貿易が行われるようになると』、逆に『倭寇(前期倭寇)は一時的に衰退し、輸入された織物や書画などは北山文化や東山文化など』、『室町時代の文化に影響した』とあり、文化史家として本書を書いている小泉八雲としては、見落とせない内実をカットしてしまったという印象が私には感じられる。]

 

 何となれば、五世紀以來平和と云ふものはなかつたからである。天皇も、執權も、將軍も、全國にその統治を確立する事は出來なかつたのである。何處かで、終始氏族同志は互に戰爭をして居た。第十六世紀の頃には、一身の安全なるものは、僅に、保護を與へる代償として自分の欲する處を行ひ得るやうな有力な武將の、その保護の下にあつてのみ得られるのであつた。皇位繼承の問題――第十四世紀の間殆ど帝國を碎破した――は無法な黨派に依つて何時再び超こらむものでもなかつた。そしてその結果は恐らく文化を滅ぼし、國民をひてもとの野蠻な狀態に戾すのであつた。この時程日本の將來が暗黑であつた時はなかつたのであるが、その時突然織田信長が帝國に於ける最者として顯はれ、これ迄一人の頭首に服從したもののうちの尤も恐るべき軍隊の主將となつたのであつたのである。信長は神道の神官の末裔であるが、何よりも先づ愛國者であつた。彼は將軍の名稱裕などはほしがらなかつたし、又それを受けもしなかつた。彼の望みはこの國を救ふ事であつた。彼は、この希望を達するには、何うしてもあらゆる封建的の力を一つの支配の下に集中し、法律を制する他はないと考へた。この集中をなし遂げる方法と手段とを探し求めた結果、彼は、先づ最初に除かなければならない障害の一つは佛教の戰鬪力――北條執權の下に發達した封建的佛教、特に大なる眞宗[やぶちゃん注:原文は“Shin”。言わずもがなであるが、これは以下で示される通り、浄土真宗のことである。]、天台宗に依つて代表されるそれに依つて創られた障害であることを察知した。この兩宗派は既に信長の敵に助けを叫へて居たのであるから、爭ひの口實を得るのは容易な事であつた。それで彼は先づ天台宗を相手として向つた。戰爭は猛烈な勢ひを以て行はれ、比叡山の僧院なる城塞は襲擊せられ全滅せしめられ、僧侶は盡〻く[やぶちゃん注:「ことごとく」。]皆その門徒と共に刄にかけられた――女子供に至る迄も少しの慈悲も加へられなかつた。元來信長の性質は殘忍ではなかつた。然しその政策は嚴酷であつた。そして、如何なる場合に、又何故に烈な攻擊を加ふべきかを知つて居た。この虐殺以前に於ける天台宗の大であつた事は、比叡山で燒かれた僧院の數が三千もあつたと云ふ事實を以て想像し得られるであらう。大阪に本山を有つてゐる東本願寺の眞宗派も。それに劣らず勢力があつた、そして今の大阪城の立つて居る所を占めてゐたその僧院は、國中最の城塞の一つであつた。信長は幾年か待つて居たが、ぞれはただ攻擊の準備をするためであつた。僧兵はよく防戰した、この包圍中に五萬の生命が失はれたと言はれて居る。しかも天皇親ら[やぶちゃん注:「みづから」。正親町(おおぎまち)天皇であるが、この両者の]の御仲裁が、確にこの要塞の襲擊と城壁内の人々の殺戮とをとどめ得たのであつた。天皇に對する尊崇の念から、信長は眞宗僧侶の生命を助ける事を承諾し、彼等僧侶は只だ所有を沒收せられ、分散せしめられただけで濟んだが、その勢力は爾來永久に碎かれたのであつた。佛教をかく有功に挫き果たしたので、信長はその注意を互に相爭つて居る氏族の方に向ける事が出來た。この國民がこれ迄生んだ最大の武將等――秀吉及び家康――の支持を得て、彼は更に進んで平和と秩序とを敷かうとした。そして彼の雄圖が正に成らんとした時、一人の家臣の復仇的謀反のため、彼は一五八二年に敢へなく最期を逡げた。

[やぶちゃん注:「信長は神道の神官の末裔である」織田信長の祖父信定は戦国初期の武将で、尾張国の織田大和守家(清洲織田氏)に仕える清洲三奉行の一つであった織田弾正忠家の当主にして勝幡城城主であったが、彼は越前国織田庄劔神社の祠官の系譜を引いており、本姓はこの頃には藤原氏(越前織田氏は忌部氏を称した)を称していたが、後に信長が平姓に改めた、とウィキの「織田信定にある。

「天皇親ら御仲裁が、確にこの要塞の襲擊と城壁内の人々の殺戮とをとどめ得たのであつた」正親町(おおぎまち)天皇であるが、この両者の長い「石山合戦」(元亀元(一五七〇)年九月~天正八(一五八〇)年八月)の果ての講和は事実上、双方の戦略上の結果であって、正親町の成果ではない。]

 

 その血管に平氏の血を有つてゐた信長は、根本的に貴族であつて、行政に就いては、その大宗族[やぶちゃん注:有力な「氏族」としての藤原氏。前注参照。]の有して居た才能を繼承し、外交のあらゆる傳統を體得してゐた。彼のための復仇者であり且つは後繼者であつた秀吉は、信長とは全く異つた型の武人であつた、彼は一農夫の子であつたが、その鋭敏と勇氣と、自然に備つた武藝の技と、戰爭の掛け引きに對する生まれながらの一才能とを以て、その高位をかち得た訓練を經ざる天才であつた。信長の雄圖に對して、彼は常に同情をもつて居り、そして實際その雄圖を遂行した――彼に關白の位を授け給うた天皇の名に於て、南北に亙つて全國を平定したのである。かくして全國の平和は一時打立てられた。然るに秀吉が集め且つ訓練した大武力はやがて制御し難いものとなる徵候を現はし始めた。ここに於て彼は彼等に仕事を與へんがために、朝鮮に對し理由なき戰ひを宣し、それに依つて支那征服を果たさんと希望した。朝鮮との戰爭は一五九二年に始まり、一五九八年迄不滿足な狀態で長引き、その年に終に彼は歿したのである。彼は正に不世出の偉大なる武人である事を示したが、最良なる統治者の一人ではなかつた。朝鮮征討も、若し彼が自分親ら、その事に當つたならば、もつといい結果が獲られたかも知れないのである。事實は、その戰爭は兩國の力を消耗せしめただけであつた。そして日本は奈良の『耳塚』――それは外國の殺された者の頭を鹽漬けにして、それから切り取つた三萬對の耳を、大佛の御堂の境内に埋めて、その場所を明示したものである――を除けば、海外に高價を拂つて得た勝利として、他に殆ど示すべきものを有つて居なかつたのである。

[やぶちゃん注:「奈良の『耳塚』」「奈良」は京都の誤り。現在の京都市東山区にある豊国神社の門前に現存する。(グーグル・マップ・データ)。]

 

 次いで權力の位置のなくなつた場所へ入つて行つたものは、日本に生まれた最大の偉人――德川家康であつた。家康は源氏の嫡流で、何處までも貴族の人であつた。秀吉を一度敗つた事あつた程で、武人として彼は秀吉に劣つては居なかつた、――然し彼は武人以上の人物であつた。則ち彼は達觀の經世家[やぶちゃん注:政治家。]であつた、絶倫の外交家であつた、更に學者とも言はるべき人であつた。冷靜に、愼重で、權謀あり、――疑ひ深くしかも寬容に、――嚴格にしてしかも情味あり――その天才の廣く且つ多樣なるは、ジユリアス・シイザアに對比するも敢て劣るとは言はれなかつた。信長や秀吉が爲さんと欲して爲し得なかつた處を、家康は迅速に完成した。『異國にさまよふ亡靈となるやうに』――則ち祀られざる靈魂の狀態で――朝鮮に軍隊を殘して置かないやうにといふ、秀吉臨終の命令を果たした後、家康は自分の支配權に抗議するために結束した諸侯の同盟に面を向けなければならなかつた。關ケ原の激戰は、彼を全國の元首とした。それで直に彼は、自分の權力を鞏固[やぶちゃん注:「きようこ」。強固に同じい。]にし、武權政府の仝機關を、微細に亙つて完成すべき手段を講じた。將軍として、彼は大名制度を改造し、封地の大部分を、自分の信賴し得る者の間に分かち、新しい武權階級を設け、且つ大藩主の勢力を、殆ど謀反の出來ないやうに秩序を定めてこれを平均した。後には大名達は自分の他意なき所行に對しては保證をさへ差し出す事を要求された。【註】則ち大名は一年中の或る期間を、將軍の首都で過ごし、その殘りの期間は人質として、その家族を殘して置かなければならなかつた。行政全體が簡潔にして賢明なる企畫の上に建て直された。事實、家康の法律は彼が非凡な立法家であつた事を證明して居る。ここに日本歷史上始めて國民は完成されたのである――少くとも社會的單位の特質が、それを可能ならしめた限りに於て、完成されたのである。この江の建設者の勸告した事は代々の後繼者の從ふ所となり、又一八六七年迄續いた德川將軍家は、國に十五人の武權の主君を與へたが、その下に日本に二百五十年の間、平和と繁榮とを享有し得たのである。そして社會はかくしてその獨得の型でりの最大限度迄發展する事が出來たのてある。産業や藝術は新しく驚くべき程に發達し、文學は立派な後盾を得たのであつた。國家の祭祀は大事に支持され、第十四世紀に國を殆ど危殆[やぶちゃん注:「きたい」。危険・危機に同じい。]に頻せしめたかの皇位繼承の爭ひの、再び起こる事を防ぐためには、あらゆる愼重な注意がとられたのである。

註 汀戸に義務的在住(參勤)の期間はすべての大名に對して同一ではなかつた。或る場合にはその義務は六箇月に及び、また或る場合には一年置きに首府に居る事もあつた。

[やぶちゃん注:ウィキの「参勤交代によれば、慶長五(一六〇〇)年に「関ヶ原の戦い」で『徳川家康が勝利して覇権を確立すると、諸大名は徳川氏の歓心を買うため』に、『江戸に参勤するようになった。家康は秀吉の例に倣って江戸城下に屋敷を与え、妻(正室)と子(男子であれば跡継ぎ)を江戸に住まわせる制度を立てた。当初、参勤自体は自発的なものであったが』、『次第に制度として定着して』行き、寛永一二(一六三五)年、徳川家第三代将軍徳川家光が「武家諸法度」を『改定したことによって』、『諸大名の義務となっ』た。『制定後、諸大名は一年おきに江戸と国元を往復することが義務となり、街道の整備費用に始まり、道中の宿泊費や移動費、国元の居城と江戸藩邸の両方の維持費などにより』、『大きな負担を強いられた。これに依って諸藩の国力低下に繋がり、徳川家が支配する長く戦争のない江戸時代が確立されて』行くことにはなった。『この制度は江戸時代を通じて堅持されたが』、享保七(一七二二)年に、徳川吉宗が、「上米(あげまい)の制」と呼ばれる、石高一万石に対し、百石の『米を上納させる代わり、江戸滞在期間を半年とする例外的措置をとったことがある。この措置には幕府内に反対意見もあったようではあるが、幕府の財政難を背景に制定されたということもあり』、結局、享保一五(一七三〇)年まで続けられた、とある。]

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