諸國里人談卷之五 建長寺鏡
○建長寺鏡(けんちやうじのかゞみ)
鎌倉建長寺の鏡は、開山大覺禅師の所持也。沒後、觀音の像に似たる影を、とゞむ。時賴、工(たくみ)をめして磨(とが[やぶちゃん注:①のルビ。③のルビは「みがゝ」])さしむ。はじめは幽(うすら)に見えけるが、一磨(ひとみがき)を經て、鮮明にして、大悲の影(かげ)、相備(あひそなふ)【「元亨釈書」委〔くはしく〕見〔みゆ〕。】。「鎌倉志」に云〔いはく〕、「圓鑑(ゑんかん)一面、西來菴(さいらいあん)にあり。高三寸五分、橫三寸あり。鏡の面(おもて)に觀音半身の像、手に團扇(だんせん)を持〔もち〕、少し俯頭(うつふく)ごとし。天冠(てんくはん)を戴き、瓔珞(ようらく)を埀ル。珠(たま)を連(つらぬ)る絲(いと)なく、眼に睛(ひとみ)を入れず。鏡の後(うしろ)は、水中に三日月の影(かげ)あり。其(その)高(たかさ)半分ばかり上に、梅(むめ)の枝あり。是等は鑄形(いがた)也。鏡の形は𪔂(かなへ)のごとくにして、裏に環(くはん)あり【下略。】。
[やぶちゃん注:所謂、光りを当てると観音菩薩が浮かび上がる「魔鏡」(平行光線乃至点光源からの拡散光線を反射すると、反射面の僅かな歪みによって反射光の中に濃淡が現われ、僅かに彫られた像が浮かび上がる鏡(特に銅鏡))である。私も風入(かざいれ)で現物を見たことがある。これはもうまさに私の「新編鎌倉志卷之三」(水戸光圀監修・貞亨二(一六八五)年完成)の「建長寺」の「寺寶」の冒頭に掲げられている「圓鑑」(えんかん)の本文(膨大な漢文の「讚」が続くので長い)を見て戴くのがよい。そこの附図のみ以下に掲げておく。
序でに、私の幕末の鎌倉地誌「鎌倉攬勝考卷之四」(八王子千人同心組頭・八王子戍兵学校校長植田孟縉(うえだもうしん)著・文政十二(一八二九)年完成)の同じく「建長寺」の「圓鑑」の図も添えておく。
「大覺禅師」巨福山(こふくさん)建長寺(正しくは「建長興國禪寺」)開山にして同寺で入寂した南宋から渡来した禅僧蘭溪道隆(らんけい
どうりゅう、建保元(一二一三)年~ 弘安元(一二七八)年の諡号。
「時賴」鎌倉幕府第五代執権北条時頼(嘉禄三(一二二七)年~弘長三(一二六三)年)。
「大悲」原義は「衆生の苦しみを救わんとする仏・菩薩の広大な慈悲の心」であるが、特に観世音菩薩の別名としてよく使われる。
「高三寸五分」鏡の高さ、十センチ六ミリ。全体は本文で述べているように、青銅製の脚を持った鼎を模した形状で、全体は純粋な円盤ではない。参考図を見られたい。
「橫三寸」横幅九センチ。
「團扇(だんせん)」うちわ。
「鏡の後(うしろ)は、水中に三日月の影(かげ)あり」取っ手(「環」)の右下方。]