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2018/08/16

「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 岩瀨村(Ⅰ) (総論部)

 

新編相模國風土記稿〔卷之九十九〕

 

 村里部 鎌倉郡卷之三十一

 

  山之内庄

○岩瀨村〔以波勢牟良〕 小坂鄕に屬す、江戸より行程十二里、土俗は傳て賴朝の時世、奧州より岩瀨與一太郎と云者、捕はれ來り、後、こゝに居住せり。夫より地名となると云ふ。按ずるに、與一太郎は佐竹の家人にて、治承四年十一月、獲せられ、賴朝の見參に入しに、直言を述て恩免を蒙り、遂に家人に加へられし事【東鑑】に見えたり。仁治元年三月、當村を以て上之村證菩提寺域内新阿彌陀堂の料所に宛つ〔證菩提寺文書に據る、全文は彼寺の條に引用せり。〕。正和二年巳來、堂料・供米等、給主矢田四郎左衞門尉盛忠、未進せしむるにより、文保元年十二月、更に公田十分一を村民に免許せられ、向來未進なく供料辨濟す可き旨、下知す〔上之村證菩提寺文曰、山内庄本鄕、新阿彌陀堂供僧等申、供米未進事、右岩瀨鄕給主矢田四郞右衞門尉盛忠、正和二年以來濟之由、就訴申尋下之處、如請文者、公田十分一、被免許于百姓等訖、於殘定田分者無未進云々、者主寺供料等者、難被免除之旨、先日沙汰畢、然則守本員數、可究濟之狀、下知如件、文保元年十二月十四日沙彌華押、左衞門尉平華押。〕。元弘三年十一月の沽券狀にも當村名見ゆ〔金澤稱名寺文書曰、賣渡相模國山内庄岩瀨鄕事、合百文者右所者自明年甲戌正月一日、至于明後乙亥十二月晦日、貮ケ年貮作買主可令知行上、爲御所修造料足、止公私萬雜事、所被沽却也、但未實檢候間、假令一年中得分、百參拾貫文、實檢以後、令不足者可被延年記、有□者重可被召錢賃、仍沽券如件、○元弘三年十一月二十四日、□眼華押、重能華押。〕。正平七年〔北朝文和元年。〕正月、將軍尊氏、當村を以て、島津周防守忠兼が勳功の賞に宛、行へり〔島津文書曰、下島津周防守、可令早領知相模國山内庄内岩瀨鄕事、右爲勳功之賞所宛行也、者早守先例可致沙汰之狀如件、正平七年正月十日、尊氏袖判あり。〕。文和三年六月宇子ノ局が代官飯田七郞左衞門尉、當所に亂入し、忠兼の代官池田右衞門尉等を殺害に及べり。因て狼籍を鎭むべき旨、尊氏・義詮等の下文あり〔島津防守忠兼申、相模國山内庄、岩瀨鄕幷倉田鄕事飯田七郞左衞門尉、卒多勢打入當所致合戰、殺害忠兼代官、池田右衞門尉以下畢云々、爲實冑者尤似重科、鎭狼藉無相違候樣、可被致計沙汰申候、六月廿四日修理大夫殿、尊氏華押。又曰、島津周防守申、相模國所領事、先度如令申候、任理非急速可有御沙汰候謹言、八月廿四日、左馬頭殿、尊氏華押。又曰、島津周防守申、相模國山内庄、岩瀨鄕代官等、宇子御代官、殺害事、委細可有尋注候謹言、九月十二日、左馬頭殿、義詮華押。又曰、島津周防守申、相模國山内岩瀨榔代官殺害事、任被仰下之旨、相尋實否候之處、字子局官、飯田七郞左衞門、令殺害島津周防守代官、池田右衞門殿以下輩之條、無其隱候、以此旨可有御披霧候、恐惶謹言、文和三年十月廿七日、進上御奉行所、彈正少弼直重華押。又曰、島津周防守忠兼申、相模國山内岩瀨榔代官殺害事、任被仰下之旨、相尋實否候之處、去文和三年六月九日、宇子局代官、飯田七郞左衞門尉、打入當鄕、令殺害忠兼代官、池田右衞門尉以下輩之條、無其隱候、若此條僞申候者、佛神御罰於可罷蒙候、可有御披露候、恐惶謹言、文和三年十一日廿日、進上御奉行所、彈正少弼直重華押。〕。永德三年十二月、左兵衞督氏滿、當所を鎌倉明月院の領に寄附す〔明月院文書に據る。全文明月院の條に囲繞す。併せ見るべし。下至德・長祿の二條も是に同じ。〕。至德三年三月、僧道光、當村の内、白河局の闕地を明月院に寄附あり。長祿元年五月、上杉兵部少輔房顯、當村諸役免除の事を下知す。これ、明月院領たるを以なり。大永二年の文書には明月院領岩瀨鄕の内、今泉村と記せり。さては此頃に至り、院領の地は別に分折して今泉村と唱へしこと知らる。天文四年三月、更に又、當村の内、孫四郎名田〔此地名、今、詳ならず。〕の地を、明月院に寄附の事あり〔明月院文書。是も全文は彼院の條に引用すれば、併せ見るべし。〕。永祿二年の頃は當村北條左衞門佐氏堯の知行なり〔【北條役帳】曰、左衞門佐殿知行百六十貫文、東郡岩瀨鄕。〕。同五年、蔭山長門守、當鄕の内を圓覺寺塔頭富陽庵に寄附せしこと、彼庵所藏の文書に見えたり〔圓覺寺富陽庵の條、併せ見るべし。〕。天正十五年七月、北條氏より當村中、軍勢の簡閲あり〔其文書、村民源兵衞家藏す。丁亥七月晦日、岩瀨小代官百姓中と見え、虎朱印を押す。〕。民三十九、廣十町袤四町許〔東、今泉村、西、笠間村、南、大船村、北、桂・公田二村。〕。延寶六年、成瀨五左衞門、檢地す。今、領主松平大和守矩典〔右は御料所なり。元祿十一年、地を裂て、木原兵三郎・菅谷平八郎正輔・小濱半左衞門利隆に頒ち賜ひ、御料の外三給の地となりしを、元文二年、木原氏支族、賴母某に分地し、なべて四給となれり。又、御料の地も、後年、酒井雅樂頭親本に賜ひ、寛延二年、松平大和守朝矩に替賜しが、文化八年、一村すべて松平肥後守容衆に賜ひ、文政三年、今の領主に替れり。〕。塚宿より鎌倉への路、村の西南界にかゝれり〔幅二間。〕。

○高札場 ○小名 △瀧ノ臺 △瀧ノ谷 △五郎ノ谷 △入ノ谷 △ふりが谷

○山 南北二所にあり、何れも小山なり。○砂押川 南方を流る〔幅二間許。〕。此水を建て水田に濯漑す。板橋二を架す。一は切通橋、一は離山橋と云ふ。各小橋なり。

○稻荷社 保食・大己貴・大田・倉稻魂・大宮姫の五座を祀て五社明神とも唱ふ。村の鎭守なり。村持。建久中、岩瀨與一太郎、奉行して建立すと傳ふ。幣殿・拜殿等あり。例祭九月廿九日。鶴岡職掌坂井越後、神職を兼ぬ〔越後が家傳に據に、祖時保、當社の神職なりしを、文治中、職掌に保せられ、彼地に移れり。後年、戰國の頃、爰に退住せしに、文祿中、復職す。故に兼職すとなり。〕。 △末社  若宮 ○神明宮 村持。下同。〇三島社 ○白山社 〇八幡社 ○貴船社 ○十二天社 〇諏訪社 〇靑木明神社 ○番場社 ○權現社 神號、詳ならず。 ○辨天社

[やぶちゃん注:岩瀬村総論部。因みに、私は教員になった当初(勤務先は本郷台の柏陽高校で、自転車で通勤していた)三年ほど、岩瀬の怖ろしく古いアパートに住んだ。懐かしい場所である。ここ(グーグル・マップ・データ)。私が居たのは西念寺(実は、この近くには、昔、木舟(貴船)大明神という家が一軒あって、現在は通称で「木舟」及び「大明神」という家に分かれているが、その二件の家の間の山に「木舟大明神」という祠があり、これは以下に記す岩瀬与一太郎を祀っている、と「かまくらこども風土記」(平成二一(二〇〇九)年鎌倉市教育委員会刊)にあるのだが、そう言えば、アパートの近くの山の崖上にそんな赤い祠があったのを、今、思い出した)の東側を廻り込んだ谷戸の奥で、谷戸の奥には旧家と広大な栗林と池があり、アパートを出ると、左右に「自然風致地区」と「保存樹林」と書かれた柱が建っていた。春には巨大なウシガエルが無数にその池から這い出して来て(この岩瀬は日本で最初に食用のウシガエルの養殖地となったところであり、そのウシガエルの餌として、やはり本邦に最初にアメリカザリガニが齎された地であった。洪水で養殖池が決壊、ここから日本全国へウシガエルとアメリカザリガニが播種されたのである)、道路のあちこちに蹲っていた。栗林は蝉の巣窟で、夏の夜中でも気温が上昇するや、一斉に鳴き出し、それはもう、シンバルを鳴らすようなけたたましさであった。巨大なムカデ(二十センチメートル越えで部屋を走るザラザラという音が凄かった。菜箸で挟み、湯に漬けて往生して貰ったが、その湯がかかった腕は翌日蚯蚓腫れになった)やゲジゲジ(これはポットン便所――これが恐るべきことに、雨が降ると、便槽が増水し、ハネが上って来るシロモノなのであった――の隅にいた。体幹だけでやはり二十センチメートルはあり、脚も含めると、想像を絶するモンスターであった)にも出逢った。そういう何とも言えない意味でも忘れ得ぬ場所なのである。

「岩瀨與一太郎」岩瀬義正(生没年不詳)は常陸国(現在の茨城県)出身。常陸の豪族佐竹秀義(仁平元(一一五一)年~嘉禄元(一二二六)年:清和源氏義光流。新羅三郎義光の孫の源昌義が常陸国佐竹郷に住み、佐竹を称したことに始まる佐竹氏の第三代当主)の家人(けにん)。治承四(一一八〇)年十一月の源頼朝による佐竹征討(佐竹氏は平家との縁が深かったことから、頼朝の挙兵に従はず、「富士川の戦い」の後、長年、佐竹と私怨から争っていた上総広常などの薦めによって頼朝は討伐を決した。当時の佐竹家惣領であった秀義の長兄佐竹義政は、広常の姦計によって征討戦の前の会見で殺害されている)では、金砂(かなさ)山に籠って防戦した。捕らえられた際、本来、力を合わせて平家を討つべき源氏の同族のたる佐竹氏を攻めたことを涙ながらに抗議し、これには頼朝も言葉を失い、彼を許して御家人の列に加えた。但し、秀義は辛くも逃げのび、後に彼も頼朝から罪を許され、家臣として列せられた。文治五(一一八九)年の「奥州合戦」に於いては頼朝軍の一員として参戦して武功を挙げ、御家人に列せられている。「吾妻鏡」の治承四年十一月八日の当該部(末尾の別件をカットしたが、ほぼ全文である)条を引く。

   *

八日丙辰。被收公秀義領所常陸國奥七郡幷太田糟田酒出等所々。被宛行軍士之勳功賞云々。又所逃亡之佐竹家人十許輩出來之由。風聞之間。令廣常義盛生虜。皆被召出庭中。若可插害心之族。在其中者。覽其顏色。可令度給之處。著紺直垂上下之男。頻垂面落淚之間。令問由緒給。依思故佐竹事。繼頸無所據之由申之。仰曰。有所存者。彼誅伏之刻。何不弃命畢者。答申云。彼時者。家人等不參其橋之上。只主人一身被召出。梟首之間。存後日事逐電。而今參上。雖非精兵之本意。相構伺拜謁之次。有可申事故也云々。重尋其旨給。申云。閣平家追討之計。被亡御一族之條。太不可也。於國敵者。天下勇士可奉合一揆之力。而被誅無誤一門者。御身之上讎敵。仰誰人可被對治哉。將又御子孫守護。可爲何人哉。此事能可被𢌞御案。如當時者。諸人只成怖畏。不可有眞實歸往之志。定亦可被貽誹於後代者歟云々。無被仰之旨。令入給。廣常申云。件男存謀反之條無其疑。早可被誅之由云々。被仰不可然之旨被宥之。剩列御家人号岩瀨與一太郎是也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

 八日丙辰(ひのえたつ)。秀義の領所の常陸國奥七郡幷びに太田・糟田・酒出等の所々を收公せられ、軍士の勳功の賞に宛て行はらると云々。

 又、逃亡する所の佐竹家人十許りの輩、出來するの由、風聞するの間、廣常、義盛をして生虜(いけど)らしめ、皆、庭中に召し出さる。若し、害心を插(さしはさ)むべきの族(うから)、其の中に在らば、其の顏色を覽(み)て度(はか)らしめ給ふべきの處、紺の直垂(ひたたれ)の上下(かみしも)を著するの男、頻りに面を垂れ、落淚するの間、由緒を問はしめ給ふ。故(かれ)、佐竹の事を思うに依つて、頸(くび)を繼(つ)ぐに據所無(よんどころな)きの由、之れを申す。仰せて曰はく、

「所存有らば、彼の誅伏の刻(きざみ)、何ぞ命を弃(す)て畢(をは)らざるや。」

者(てへれば)、答へ申して云はく、

「彼の時は、家人等、其の橋の上に參らず[やぶちゃん注:佐竹義政は現在の茨城県東茨城郡美野里町大谷附近にあったと思われる大矢橋橋上で不意打ちされ、謀殺された。]、只、主人一身を召し出され、梟首するの間、後日の事を存じ、逐電(ちくてん)す。而るに、今、參上すること、精兵の本意に非ずと雖も、相ひ構へて拜謁の次(ついで)を伺ひ申すべき事有る故なり。」

と云々。

 重ねて其の旨を尋ね給ふ。申して云はく、

「平家追討の計を閣(さしお)きて御一族を亡ぼさるるの條、太(はなは)だ不可なり。國敵に於ては、天下の勇士、一揆の力を合せ奉るべし。而るに、誤り無き一門を誅せらるれば、御身の上の讎敵(しうてき)は、誰人(たれひと)に仰せて對治せらるべきや。將又(はたまた)、御子孫の守護は何人(なんぴと)たるべきや。此の事、能く御案を𢌞(めぐ)らさるべし。當時のごとくんば、諸人、只だ怖畏(ふい)を成し、眞實歸往の志[やぶちゃん注:本心からの帰順の意志。]、有るべからず。定めて亦、誹(そし)りを後代に貽(のこ)さるべき者か。」

と云々。

 仰せらるる旨、無くして入らせしめ給ふ。廣常、申して云はく、

「件(くだん)の男、謀反を存ずるの條、其の疑ひ無し、早く誅せらるべきの由と云々。

 然るべからざるの旨を仰せられ、之れを宥(なだ)められ、剩(あまつさ)へ、御家人に列す。岩瀨與一太郎と號すは是れなり、と云々。

   *

「仁治元年」一二四〇年。

「上之村證菩提寺」現在の横浜市栄区上郷町にある真言宗五峯山一心院證菩提寺。鎌倉市岩瀬の東北東二キロメートルほどの位置にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。頼朝が石橋山で挙兵した際、頼朝の身替りとなって討死した佐那田与一義忠の菩提を弔うために鎌倉の鬼門に当たる当地に建久八(一一九七)年(文治五(一一八九)年ともし、「相模國風土記稿」ではこれを採っている。ここ(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像))に創建された。

「證菩提寺文書に據る、全文は彼寺の條に引用せり」ここ(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像。左下後半)。

「正和二年」一三一三年。

「矢田四郎左衞門尉盛忠」不詳。

「文保元年」一三一七年。

「上之村證菩提寺文」直前のリンクの末行から次のページにかけて記されてある。

「元弘三年十一月」一三三三年。幕府滅亡の半年後である。鎌倉幕府は、元弘三年五月十八日から同月二十二日までの五日間の攻防(狭義の「鎌倉合戦」)で滅亡した。同旧暦は当時のユリウス暦で、一三三三年六月三十日から七月四日に当たり、因みに、時期的認識のために試しに現在のグレゴリオ暦に換算してみると、一三三三年七月八日から七月十二日に相当する。

「沽券狀」「估券(状)」とも書き、文書の形式から「避文(さりぶみ)」「去状」とも称した。土地・家屋や特定の諸権利を売却する際、売主の発行する証文。令制では、土地売買の時、売主が沽券を出すのではなく、その地域の下級支配者である郷長などが、上級の官司(国郡司)に解文(げぶみ)を提出して許可をとった。平安中期には、売主が直接、買主に沽券を渡すようになったが、沽券の様式は、引き続き、解文の形式で書かれ、郷保(きょうほ)の担当役人などが証判を加えることが多かった。平安末期になると、売主だけの署名又は私的な証人が連署する沽券に変った。このような私券制に変ると、権利の証明や売買の保証のため、手継証文の交付や追奪担保文言の記入が必要となった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「正平七年〔北朝文和元年。〕」一三五二年。正確には「正月」は北朝ではまだ観応三年(観応三年九月二十七日(ユリウス暦一三五二年十一月四日)に後光厳天皇の即位により、文和に改元している)。

「島津周防守忠兼」(生没年不詳)は鎌倉末期から南北朝にかけての武将で播磨国下揖保荘の地頭であった。元弘三(一三三三)年四月二十七日、足利高氏(後の尊氏)より、後醍醐天皇の勅命を伝えられ、「元弘の乱」に参戦したが、後に尊氏とともに建武政権から離反、畿内各地を転戦、「観応の擾乱」でも尊氏党に与(くみ)して活躍、歴戦の武功により、播磨布施郷・甲斐国花崎郷・相模国山内荘・同岩瀬郷等を領有した(以上はウィキの「島津忠兼」に拠った)。なお、彼の島津家は島津播磨家で、薩摩国島津氏の支族である越前島津氏(越前家)の忠行系である。

「文和三年」一三五四年。南朝は正平四年。

「宇子ノ局が代官飯田七郞左衞門尉、當所に亂入し、忠兼の代官池田右衞門尉等を殺害に及べり」「宇子ノ局」(「うねのつぼね」或いは「うすのつぼね」か。読みも判らぬ)以下の事件に関わった当事者らは孰れも不詳であるが、「小助の部屋/鎌倉郡(玉の輪)をたずねて」というページに、『足利尊氏から岩瀬郷を与えられた島津忠兼は池田右衛門尉を代官として岩瀬郷を支配させてい』たが、 この文和三(一三五四)年に『飯田郷の飯田七郎左衛門尉が岩瀬郷に乱入し』、『池田右衛門尉を殺害』、『島津忠兼の訴え』により、『足利尊氏は』、『次男で関東管領をつとめる足利基氏と江戸直重に処置を命じ』たとあり、この辺りから、次第に『関東管領が鎌倉郡で勢威をふるうようにな』ったと記されてある。事件処理に関わった関東管領方の人物は面倒なので注さない。

「永德三年十二月」一三八三年。南朝は弘和三年。

「左兵衞督氏滿」第二代鎌倉公方足利氏満.

「明月院文書に據る。全文明月院の條に囲繞す。併せ見るべし。下至德・長祿の二條も是に同じ」底本の前巻のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)。左下から。後も同じなので注さない。

「至德三年」一三八六年。南朝は元中三年。この六年後の元中九/明徳三(一三九二)年、延元元/建武三年(一三三六)年(京を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った年)から五十六年間続いた南北朝時代は、南朝第四代の後亀山天皇が北朝第六代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一をみた。

「道光」不詳。

「白河局」不詳。

「闕地」闕所(地)。本来は死亡・逃亡・追放・財産没収などによって本来の所有者・権利者を欠く状態になった土地や所領を指した(跡継ぎがいないままに病没した者の土地などもかく称せられた)。参照したウィキの「闕所」によれば、『鎌倉時代以後、戦』さ『による敗者や犯罪を犯した者の土地などを没収することを闕所と称する事例が登場し、室町時代にはもっぱらこちらの意味で用いられるようになった。なお、この場合、対象者の全財産を没収することを「闕所」と称し、一部没収である「収公」との区分が付けられていた。前者の場合は戦いの勝者が、後者の場合は警察権の行使者が獲得し、その自由処分に任された。前者の代表的なものとして治承の乱の平家没官領、承久の乱の京方跡闕所、元弘の乱の北条高時法師与党人跡闕所などが挙げられる。後者の場合、通常は犯人を追捕検断し、裁判で有罪とした者が闕所を行うこととされていたが、多くの場合は裁判で闕所を決定した幕府が獲得し、実際に追捕検断にあたった地頭や荘官などが報償としてその一部の分与を受けた』。『闕所となった土地はその仕組上、警察・司法・軍事に関する諸権限を有していた幕府に集中することとなったが、幕府はその一部を自己の直轄領に編入し、追捕検断にあたった者に分与したものの、闕所によって御恩と奉公(土地給付とその見返りである御家人役負担)の考えに基づく主従関係が破綻することは望ましいものではなく、新しい領主を決定しなければならなかった。当然のように前述の一族や本主が給付を求めて訴え、それ以外にも希望者が殺到して幕府の頭を悩ませた』。「御成敗式目」には「承久の乱」の『闕所地(京方跡闕所)の処分が決定した後も』、『本主として権利を主張することを禁じたり』(第十六条)、『裁判中に闕所となることを期待して当事者を誹謗することを禁じたり』(第四十四条)『している。また、鎌倉時代後期には北条氏一族が各地の御家人の所領を奪った反動により、鎌倉幕府とともに同氏が滅亡すると、北条氏に所領を奪われた御家人たちが本主権を盾に闕所(北条高時法師与党人跡闕所)の給付を求めて後醍醐天皇の新政権に殺到した』。『室町時代になると、室町幕府の闕所処分に現地の守護なども関与するようになり、守護領国制形成にも影響を与えた。また、有徳人など所領を持っていない武士以外の人々に対しても』、『家屋敷や動産などを没収する闕所が行われるようになった』とはある。旧所有者である「白河局」が何者か判らぬので何とも言い難い。

「長祿元年」一四五七年。但し、「五月」とあり、正確には康正三年。長禄への改元は康正三年九月二八日である。

「上杉兵部少輔房顯」山内上杉家第十代当主で関東管領であった上杉房顕(ふさあき 永享七(一四三五)年~寛正七(一四六六)年)。鎌倉公方足利成氏によって暗殺された関東管領上杉憲忠の弟。

「大永二年」一五二二年。

「分折」「分析」の原義に同じい。分け割(さ)くこと。

「天文四年」一五三五年。

「永祿二年」一五五九年。

「北條左衞門佐氏堯」北条氏尭(うじたか 大永二(一五二二)年~永禄五(一五六二)年?)は後北条氏の一族。第二代当主北条氏綱の四男で、北条氏康の弟。ウィキの「北条氏尭」より引く。『三兄為昌の死後、叔父北条幻庵の後見を受けながら、上野平井城の城将を務めたり、房総半島に進軍するなど弘治年間から活躍するようにな』った。永禄三(一五六〇)年には『幻庵の長子三郎が死去したため』、『武蔵小机城主となり、翌年には長尾景虎の関東進出により』、『河越城に入城し、長尾軍攻撃を死守している(小田原城の戦い)。一方で伊達氏の史料伊達文書から伊達氏と外交交渉を行っているなど』、『後北条氏において重要とされる将だった』が、永禄五年以降には『氏尭に関する史料が現在』、『見当たらないため、おそらくこの前後に死去したと思われる』。『長らく北条氏康の九男氏光と同一人物とされてきたが、佐脇栄智の研究で氏尭の生年がはっきりした結果、氏康と』七『歳しか違わないことや氏光の存在も明確になっているので、現在は氏綱の四男で氏康の弟という見方が支配的である。この問題は氏康の子供のうち、明確に生年がわかっているのは氏政、氏規と桂林院殿(北条夫人)ぐらいで後は諸説あることが問題の引き金になっている。一方で、氏康の六男(七男説もある)氏忠と氏光は氏尭の子で死後養子に出されたのではという説もある。また、娘は正木頼忠室になったという(北条氏隆の娘または田中泰行の娘とも)』とある。なお、以下の「蔭山長門守」による土地の寄付の記事が推定没年と一致する

「蔭山長門守」個人サイト「遠州古城めぐり」の「河津城」に、天正一八(一五九〇)年に河津城城主として豊臣水軍の大侵攻作戦に戦わずして降状したらしい蔭山長門守氏広とある人物と同一人かと思われる。

「圓覺寺塔頭富陽庵」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「圓覺寺富陽庵の條、併せ見るべし」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。右下。

「天正十五年」一五八七年。

「簡閲」総兵を召集して行う点呼。

「虎朱印」小田原北条第二代当主北条氏綱が初めて用いた朱印。「虎の印判」と呼ばれ、「祿壽應穏(ろくじゅおうおん)」と陽刻された方形の上部に飛び出して虎が蹲っている姿が描かれてある。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の『「天下布武」の朱印』のページに載る弘治二(一五五六)年)九月十四日北条家の虎朱印状が見易い。

「廣十町」「廣」(広さ)は「東西の長さ」を指す。一キロと九十メートル。

「袤四町」「袤」(ボウ)は「南北の長さ」の意。四百三十六メートル強。

「延寶六年」一六七八年。

「成瀨五左衞門」藤沢宿代官成瀬重治(「鎌倉市史 近世通史編」(平成二(一九九〇)年吉川弘文館刊)では成瀬重頼とし、ネットでも僧表記するページもある)。複数回、既出既注であるが、再掲しておくと、「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の第六十話「藤沢宿支配代官」の一覧によれば、慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官(但し、代官所はなかった)を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。

「今」本「相模国風土記稿」(天保一二(一八四一)年成立)が執筆されている頃。時系列がここだけ、進んでいるので注意。

「松平大和守矩典」「とものり」と読む。名君として知られる川越藩四代藩主松平斉典(なりつね 寛政九(一七九七)年~嘉永三(一八五〇)年)の初名。詳しくはウィキの「松平斉典」を見られたい。隣りの今泉の町内会公式サイト内の年表によれば、今泉村が文化四(一八二一)年に『松平矩典の所領となる』とある。

「元祿十一年」一六九八年。

「地を裂て、木原兵三郎・菅谷平八郎正輔・小濱半左衞門利隆に頒ち賜ひ、御料の外三給の地となりし」これは「元禄地方直(げんろくじかたなおし)」と呼ばれる、元禄期に江戸幕府が行った知行地再編成政策の一環に依るものである。ウィキの「元禄地方直」によれば、「元禄地方直」は『当時、勘定頭(勘定奉行)だった荻原重秀の主導で実施された』もの。元禄一〇(一六九七)年七月二十六日、『幕府は御蔵米地方直令を発令し』、五百『俵以上の蔵米取の旗本を、知行取へと変更する地方直の方針を打ち出した』。同年八月十日には『新知行地からの収税は』翌元禄十一年から『行い、この年の冬に支給される切米は今までどおり受け取ること』、同八月十二日には、『知行地と蔵米の両方を給されている幕臣の中で支給額の合計が』五百『石以上の者も地方直が行われることも決められた』。翌元禄十一年七月三日に『地方直はほぼ完了したとして、翌日には新たな知行所が発表された』。対象者は五百四十二人の『旗本で、彼らに支給されてきた約』三十四『万俵の蔵米とほぼ同額の知行地が与えられることになった。新たな知行地は関東八ヵ国を中心に、三河国・遠江国・丹波国・近江国と広範囲に及んだ。大田南畝が編集した勘定所史料』である「竹橋余筆別集(ちっきょうよひつべつしゅう)」には、『誰がどの知行地に割り当てられたかが記載されており、また大舘右喜の「元禄期幕臣団の研究」によれば、武蔵国』二百三十六名・常陸国百七十二名・下総国百四十名・上総国八十三名・下野国九十八名・上野国九十四名・相模国八十五名(ここに上記の木原兵三郎・菅谷正輔・小浜利隆が含まれていたのである)・伊豆八十一名・安房十名が割り振られている』。『この時期、蔵米地方直と同時に、地方直とは無関係な旗本の知行地(=領地)の割り替えも行われた。この割り替えは、約』二百人の『旗本たちの知行地を、一度上知(土地の召し上げ)した上で』、『代知割り(代りの知行地を与える)するという形でなされた』。『上知された土地の多くは関東の知行所で、中部・近畿地方の土地を代地として宛がわれた。その上で、幕府は天領と上知した旗本領の検地(元禄検地)も行った。当時は農業生産技術が発展し、農業後進地域であった関東地方の生産力も上昇していたこと、開墾可能な山林や荒れ地も検地したことで、石盛は大幅に高まった』。『元禄の地方直は、検地によって土地の石高を上げたことと、蔵米取の旗本には検地によって石高が上昇した土地を割り振ることで、石高上昇分の年貢収入+旗本に支給する蔵米の実質的削減』という二つの『効果によって財政改善が図られたのである』この「地方直」には、『江戸に隣接する地域や生産性の高い地域、広大な山林や多額の運上金が上がる地域を幕領に編入する』こと、『年貢米を江戸に運搬して旗本に配分する経費を削減する』こと、『旗本の領主権を制限して年』三割五分の『年貢徴収権に限定する』こと『などの目的があったとされる』。『当時の幕府は、天領からの年貢収入が年間』七十六万から七十七万両であったが、そのうちの三十万両余が『幕臣に支給する蔵米だった』。『天領から米を運搬する費用がかかる蔵米給付の方が幕府にとっての財政負担は大きい一方、当時の武士は蔵米取よりも知行取の方が格上と考えており、蔵米支給から知行取に変わることを旗本たちは出世ととらえ、幕府も知行取への変更を褒賞の一環としていた』。則ち、「地方直」は、『幕府にとって財政改善策であり、旗本にとっては格が上がる名誉な出来事という意味合いがあった』のであった。『しかし、知行取は凶作の年には石高分の収入を得られず(検見法の場合)、また収穫された米の運搬は領主の自己負担となるため、地方直は幕府だけが経済的に得するという批判は当時からあり、老中の戸田忠昌も凶作時の問題を考えて、稲作の後進地域である関東を旗本の知行地にすることに難色を示したという』。『徳川綱吉政権は、在地に密着した世襲の代官を処罰して勘定所から派遣された官僚的な代官を増やし、同時に代官や改易・減封処分された大名の処分後の領地・支配所の検地を実施、以前よりも生産性が増えた耕地の石高を増加させるなどの農政改革を行ってきた。綱吉が』『将軍に就任した』延宝八(一六八〇)年当時の天領の石高は三百二十六万二千二百五十石余・年貢量九十四万二千五百九十石余であったが、「地方直」の後の元禄一〇(一六九七)年には石高四百三十四万六千五百石余、年貢量百三十八万六千四百石余へと『増加している』。『また、歴史学者の所理喜夫たちによれば、地方直には旗本が知行地と密接な小大名となることを阻止し、官僚予備軍として再編成する効果もあったと評価している。知行所を与えられた旗本たちは、開幕当初から約』百『年間に領地の村民たちとの主従関係を強めていったが、それらの結びつき』が、この「地方直」を『行うことで全て無効化してしまうからである』とある。特に必要性を感じないので、木原兵三郎・菅谷正輔・小浜利隆及び後の「木原氏支族」であった「賴母某」(たのもなにがし)は調べない。なお、前に出した「鎌倉市史 近世通史編」の「第二章 旗本領と元禄地方直し」の「岩瀬村における分類」(一四三頁)に非常に詳しい記載があるので参照されたい。因みに、そこに書かれた検地帳のデータを元にした計算によれば、岩瀬村での木原氏の石高は岩瀬村全体の五十九%で二百九十一石余り、菅谷氏・小浜氏がともに十三%で六十九石余り、松平氏が七十三石余り、とある。

「元文二年」一七三七年。

酒井雅樂頭親本」(さかいうたのかみちかもと)酒井親本(宝永二(一七〇五)年~享保一六(一七三一)年。上野前橋藩第八代藩主。ウィキの「酒井親本」によれば、越前敦賀藩第二代藩主酒井忠菊の長男として生まれたが、享保元(一七一六)年、前橋藩第七代藩主酒井親愛(ちかよし)の養子となった。享保五(一七二〇)年の親愛の隠居に伴い、家督を継いで、享保ⅵ(一七二一)年に従四位下・雅楽頭に昇叙されたが、享年二十七で死去した。

「寛延二年」一七四九年。

「松平大和守朝矩」(とものり 元文三(一七三八)年~明和五(一七六八)年)武蔵川越藩主。直基系越前松平家五代。彼の孫の直温(なおのぶ)の養子となったのが、先に出た松平矩典である。

「文化八年」一八一一年。

「松平肥後守容衆」(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)は陸奥会津藩第七代藩主で会津松平家第七代。満十八になる前に夭折している。

「文政三年」一八二〇年。

二間」三メートル六十四センチメートル弱。

「瀧ノ臺」以下の「小名」は総て不詳。「ふりが谷」(ふりがやつ)は由来が気になる谷戸名である。

「切通橋」「離山橋」思うに、前者は山越えをして「高野の切通し」に向かう、現在の七久保橋(現在の岩瀬地区の南端の砂押川の最上流に架かる)で、後者は山越えをして、大船の離山へと向かう道に架かる、現在の砂押橋ではなかろうか。

「稻荷社」鎌倉市岩瀬一三九九、横浜方向に食い込んだ(グーグル・マップ・データ)にある、五社稲荷神社(五所明神)。後に出る通り、創建は建久年間(一一九〇年~一一九八年)で先に出た岩瀬与一太郎義正が創建したとされるが、現在のそれは天明二(一七八二)年に再建されたもの。その時は栗田源左衛門なる人物が中心になって、近隣の四十六もの村に呼びかけて再建させたと、先に示した「かまくらこども風土記」にはあり、神奈川県神社庁」公式サイト神社解説ページには、当時の『鎌倉郡の郡長であった栗田源佐衛門が』百一『両を投じて(栗田家』十五『両、岩瀬村有志』十五『両』、残りは『支配下の村より』七十一『両)天明の飢饉を乗り切るため』、『敢えて社殿を再建した。その頃の村社としては立派なもので』、『拝殿に壁画などもあり』、『近郷より多くの参拝があった』とある(但し、現在、拝殿の壁画は全く見えなくなってしまっている)。栗田は岩瀬の地の姓で、私のアパートの大家も栗田であったし、毎日通った風呂屋も栗田湯であった。

「保食」神は「うけもちいのかみ」と読む(現代仮名遣。以下同じ)。

「大己貴」神は「おおなむちのかみ」。大国主神の異名。

「大田」神は「おおたのかみ」。

「倉稻魂」神は「うがのみたまのかみ」。

「大宮姫」神は「おおみやのひめのかみ」。稲荷神。以上は皆、総て農業神・穀物神である。

「例祭九月廿九日」現在は八月の最終日曜日。

「時保」で名と採っておく。

「文治」一一八五年から一一八九年まで。

「文祿」一五九三年から一五九六年まで。

「神明宮」三つあるとあるが、以下に出る多くの社(やしろ)同様、現存するかどうかは、知り得ない。明治の無謀な合祀政策によって消失ものも多いであろう。因みに、私は神体を動かしてしまった近代合祀は神を失った不遜な人間の都合であり、そこに神はもういないと考えている。

「白山社」これは今泉の白山神社ではない。

「貴船社」これが、冒頭注で私が言ったそれであろう。]

 

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