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2018/08/05

甲子夜話卷之五 2 文政五年春、日に交暈ある事幷圖

 

5-2 文政五年春、日に交暈ある事

或人書を贈りて曰。この正月廿一日巳刻頃、太陽に暈あり。五彩を成し、その暈は輪違の如き形なりしとぞ。やがて白虹出て貫しと云ふこと、大分觀し者あり。「魏書」「天象志」、正光二年正月甲寅、日交暈アリ。内赤外靑。又「周書」武帝、天和元年夏四月甲子、日有交暈、白虹繞ㇾ之。又「唐書」「天文志」、大和八年七月甲辰、白虹貫ㇾ日。日交暈。これ等よく似たることなり。輪違の如き暈と云もの乃交暈歟と。此こと予は知らざりしが、予が邸内にも觀し者多し。其始めは五つ半頃、天色朦朧たる中、日光こもりて見ゆ。其傍に餘程へだゝりて、又日光の如く小き光のこもりたる見へしが、四つ前頃、又朦朧の中、光明はなけれども日象隱翳を隔てよく見ゆ。其少し傍に下りて、月輪の如きもの亦掩中に見ゆ。夫より九つ半頃、暈至大にして二つ上下に輪違の如くありける。日輪は何くに在けん心づかざりしと。八つ半頃、日輪赫々と耀き、餘ほどわきに白き暈、殊に大きく見えしと。かゝれば朝より晝を過るまで、次第に其象を變ぜしなるべし。又司天官より申出しと云圖を見る。如ㇾ左。

 

Taiyounokasa

[やぶちゃん図注:本図は画線以外のキャプション相当部分は総て私がオリジナルに作ったものである。参考底本としている東洋文庫版「甲子夜話」第一巻のこの図はキャプションが総て新字体・平仮名で活字化されている。されば、それをそのまま使用することは編集権に抵触することになろうかと思う。そこで、流石に作図までは面倒なのでお借りする(恐らくこれも東洋文庫編集者が「甲子夜話」原本からトレースし、新たに作図したものであろうが、私の手書き作図力は言うに及ばず、自身、信用しないし、私のソフトではこれを綺麗に画けない(ソフトの能力と言うよりは私が使いこなせていない点で自信がない)ので、そこは勘弁して貰おう)こととし、キャプションは「甲子夜話」原本の表記を推定して(本文は殆どが漢字カタカナ混じりである)楷書体のフォントを選び、参考底本を参考に総て漢字を正字化し、ひらがなをカタカナに代えて、ソフトを用いて当該箇所に挿入した。但し、参考底本では曲線部に対しては滑らかに沿って配されているのであるが、私の使用している化石のような二十年前の画像加工ソフトでは滑らかな文字配置は出来ないことから、字間を空けるなどしてかなり苦労して配した。ガタついている箇所もあるが、そこはお許しあれ。しかし、相応に見られる雰囲気には出来上がっていると思うし、結果としては、この図の方が、東洋文庫版挿図よりは原画に近いものとなっているものと、内心、思ってはいる。キャプションの「五半時」は「五ツ半」で午前九時頃、「四半時」は午前十一時頃に相当する。]

 

「日本後紀」曰、天長元年二月丙戌巳時、日輪暈、兩傍小有ㇾ光、宛似虹薄。「晉書」曰、元康元年十一月甲申、日暈再重。靑赤有ㇾ光。「金史」曰、承安八年四月癸卯、日暈二重。皆内黃外赤。「天文大成」朱文公曰、交暈如連環而貫ㇾ日、兵起相爭。「隋書」曰、日有交暈、人主左右有爭者。朱文公曰、暈珥而虹貫ㇾ之、戰縛ㇾ將。按に天長元年甲辰は、淳和帝卽位の年なり。史を閲するに帝老し承和七年庚申に及て崩ず。十有七年なり。此間兵革内亂の事なし。然ば文公の言いかゞあるべきと林氏に問しかば、林氏云、天象を以て此類のことを論ぜしこと朱書に無し。固よりかゝる事朱氏の云べきに非ず。「天文大成」等は皆陋本なり。假托の説采用に足らずと。

■やぶちゃんの呟き

「文政五年春」「正月廿一日」グレゴリオ暦で一八二二年二月十二日。

「交暈」「かううん(こううん)」。暈(かさ:現象の原理はウィキの「暈」を見られたい)が交わること。天文の異常現象として、静山も大陸の文献を羅列しているように、洋の東西を問わず、古くから何らかの予兆として頻りに議論された。「吾妻鑑」にも、これが発生すると、朝廷や幕府の陰陽師(天文方)らがまさに「交暈」・「重暈(ちょううん)」・「白虹」とそれぞれに主張して、てんでばらばらの上奏上申をするシークエンスがある(延應元(一二三九)年三月五日と十五日の条(将軍藤原頼経・執権北条泰時の治世)。複数の者によって占いは行われ、まず、全員が同じ結果は出さない。そうすれば誰かは当たり、陰陽方としては体制及び大勢に於いて責任が回避される「陰陽(おんみょう)」ならぬ「巧妙」なシステムだったのである)。原文を示そう。

   *   *   *

五日乙亥。天晴。京都去月十一日巳尅有日暈變。密奏之輩申状不同之間。兩度召勘文之上。菅大藏卿【爲長。】淸大外記賴尚等及勘狀。其狀等今日到來。於御前。師員朝臣讀申之。天文道忠尚。良元。季尚等朝臣申重暈之由。家氏申交暈之旨。晴繼申白虹貫日之由云々。大藏卿引後漢書文假郎顗之詞。暈卽虹也。大略白虹旨。委細勘之。大外記者。暈虹先例本文勘進許也。

   ※

十五日乙酉。晴。司天輩依召皆參。二月十一日天變事。被下京都勘文。各可申存知旨之由被仰出。維範。泰貞。晴賢等一同申重暈之由。師員朝臣申云。晴繼朝臣勘文。載白虹之旨。尤甘心。本文分明也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

五日乙亥(きのとゐ)。天、晴る。京都、去ぬる月十一日巳の尅、日暈(にちうん)の變有り。密奏の輩の申狀、同じからざるの間、兩度勘文を召すの上、菅大藏卿【爲長。[やぶちゃん注:菅原為長。]】・淸大外記賴尚[やぶちゃん注:清原頼尚。]等、勘狀に及ぶ。其の狀等、今日、到來す。御前に於て、師員朝臣、之れを讀み申す。天文道、忠尚[やぶちゃん注:安倍忠尚。以下総て安倍姓。例の安倍晴明のそれ。]・良元・季尚等の朝臣、「重暈(ちやううん)」の由を申す。家氏は「交暈(かううん)」の旨を申す。晴繼、「白虹日(はくこうじつ)」を貫(つらぬ)くの由を申すと云々。

大藏卿、「後漢書」の文を引き、郎顗[やぶちゃん注:後漢の天文学者。](らうがい)の詞(ことば)を假(か)り、暈は卽ち虹なり。大略、白虹の旨、委細、之れを勘(かんが)ふ。大外記は、暈虹の先例本文を勘へ進ずる許(ばか)りなり。

   ※

十五日乙酉。晴る。司天の輩、召しに依つて、皆、參ず。「二月十一日の天變の事、京都より勘文を下さる。各々存知の旨を申す可し」の由、仰せ出さる[やぶちゃん注:主語は御所藤原頼経。]。維範[やぶちゃん注:以下、同じく安倍姓。]・泰貞・晴賢等一同に重暈の由を申す。師員(もろがず)朝臣、申して云はく、「晴繼朝臣の勘文は、白虹の旨を載す。尤も甘心す。本文に分明也」と云々。

   *   *   *

これは恐らく記載から見て、最終的には幕府方の陰陽師である師員の、「上奏文にある晴継朝臣の判じた『白虹』には非常に感心しました。間違いない。何故なら、旧書の記載にそれだとはっきりと載っているからであります」という主張が幕府では採用されたものと思われる。

「巳刻」午前九時~十一時。

「輪違」「わちがひ」。二つ以上の輪が組み合っている「知恵の輪」状の形状を指す。「輪違い紋」として家紋としてもある通り(多くは二つの輪の交差)、これ自体は不吉なシンボルではなく、サイト「家門の由来」の「輪違い紋」には、『寺院などで、この紋を見ることがあり、「この世はひとりで生きることは難しい。ふたり以上互いに組んで生きてゆくこと。いわゆる二つの輪は仲良く手を組むことなのだ」と。また、大乗仏教では「この世は金剛界と胎蔵界とが組み合って、バランスがとれる。輪違いはこれを図示したものだ」と』説明しているらしい。

「貫し」「つらぬきし」。

「觀し」「みし」。

「魏書」中国の正史二十四史の一つ。北魏に関する史書で北斉の魏収の撰。五五四年完成。

「正光二年」五二一年。

「周書」二十四史の一つ。北周の歴史を記したもので、唐の太宗の勅命により令狐徳棻(れいことくふん)らが撰した。

「天和元年」五六六年。

「繞ㇾ之」「之れを繞(めぐ)る」。

「唐書」唐一代の歴史を記したもので「旧唐書(くとうじょ」と「新唐書」の二種があるが、調べたところ、これは「新唐書」の「志第二十二 天文二」の記載。「新唐書」は宋の欧陽修らの奉勅撰で、一〇六〇年完成。

「大和八年」八三四年。

「乃交暈歟と」『乃(すなはち)、「交暈」かと』。

「日象」「ひのかたち」(太陽の形状)と訓じておく。

「月輪」「つきのわ」と訓じておく。

「掩中」「あんちゆう」。朦朧とした大気で覆われている内部(向う側)。

「九つ半」午後一時頃。

「暈至大にして」暈が最も大きく広がって。

「何くに在けん」「いづくにありけん」。

「八つ半」午前三時頃。

「司天官」江戸幕府天文方(てんもんかた)の別称。編暦を掌った。本来、編暦事業は朝廷の陰陽寮の所管であったが、貞享元(一六八四)年に渋川春海(はるみ)が貞享暦を作製すると、幕府は春海を新設の「天文方」に任命、以来、編暦の実権はこの天文方に移った。原則、渋川家の世襲職であったが、必要に応じて優秀な人材も登用された。当初は寺社奉行支配で、後に若年寄支配に転じた。俸禄百俵五人扶持であった。

「日本後紀」平安前期の歴史書で六国史の一つ。藤原緒嗣らの編。承和七(八四〇)年成立。桓武天皇延暦一一(七九二)年から淳和天皇天長一〇(八三三)年迄の国史を漢文編年体で記したもの。

「天長元年」八二四年。

「巳時」午前九時から午前十一時。

「宛」「あたかも」。

「晉書」二十四史の一つ。晋王朝(西晋・東晋)についての史書。唐の六四八年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。

「元康元年」二九一年(西晋)。

「金史」二十四史の一つ。金についての史書。元の脱脱(托克托(トクト))らの撰。一三四四年成立。

「承安八年」おかしい。金の章宗の治世で用いられた承安は五年(一二〇〇年)の十二月一日に翌年より「泰和」とする改元の詔が下って、翌年から改元しているから、この数字を正しいと採るなら(正しいどうかは知らぬ)、泰和三年で一二〇三年となる。

「天文大成」清の一六四五年に黄玉耳(黄鼎)が著わした天文書「天文大成管窺輯要(かんきしゅうよう)」か?

「朱文公」南宋の碩学の儒学者朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)の諡号。

「交暈如連環而貫ㇾ曰、兵起相爭。」推定で訓じておくと、「交暈、連れる環のごとくにして日を貫くは、兵、起り、相ひ爭ふ。」。

「隋書」二十四史の一つ。隋の歴史を記したもので、唐の太宗の勅により、魏徴・長孫無忌らが撰した。六三六年に帝紀五巻・列伝五十巻が成立、二十年後の六五六年に「経籍志」など志三十巻を編入して全八十五巻が成った。

「人主左右有爭者」よく判らぬが、既に占った内容と思われるので、「人主」(君主・皇帝)の「左右」(有力な家臣)で相い争う者が出現するという凶兆か。

「暈珥而虹貫ㇾ之、戰縛ㇾ將。」我流で読み下すと、「暈(かさ)の珥(みみだま:イヤリング)して、虹、之れを貫くは、戰(いくさ)あり、將[やぶちゃん注:大将。]、縛せらる。」。

「按に」「あんずるに」。

「天長元年甲辰」(きのえたつ)八二四年。

「淳和帝卽位の年」おかしい。淳和(じゅんな)天皇(延暦五(七八六)年~承和七(八四〇)年/在位:弘仁十四年四月二十七日(八二三年六月九日)~天長十年二月二十八日(八三三年三月二十二日)はこの前年に即位を終えている

「然ば」「しからば」。

「文公の言」「言」は「げん」。

「林氏」林述斎。

「朱書」朱熹の書いた書物。

「陋本」内容の見識が頗る低い書物。

「假托」特定の人物の名を借りて当人の著述であることを装って作成された偽書や捏造・贋作の文書の類いの謂いであろう。

「采用」「さいよう」。採り用いること。

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