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2018/08/21

「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 岩瀨村(Ⅱ) 大長寺(他) / 岩瀨村~了

 

[やぶちゃん注:本条は非常に長いので、読み易さを考えて鍵括弧や中黒を使用し、注を本文に、注など不要な方は飛ばして読めるよう、ポイント落ちで入れ込んだ。また、多数登場する鎌倉御府外の寺名や関係僧及びその出典等については、煩瑣なだけで、必要とする人も限りなく少数であろうからして、而も本文自体が読み難くなることから、それ等は原則、注さないこととする。大長寺はここ(グーグル・マップ・データ)。最初に、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像から、添え図である「大長寺境内圖」を示し、そのキャプションを中央奥の仏殿から反時計回りに電子化しておく。]

 

Daityoujizenzu

 

   大長寺境内圖

[やぶちゃん注:右端中央にも同タイトル・キャプションがある。]

仏殿

吉祥水

北條氏墓

門山塔[やぶちゃん注:「開山塔」の誤記か。]

三社權現社

庭松院

中門

銀杏樹

鐘樓

方丈

梅 井

心蓮社蹟

 

○大長寺 龜鏡山護國院と號す。淨土宗〔京知恩院末。〕。天文十七年[やぶちゃん注:一五四八年。]五月の創建にして開山は存貞[やぶちゃん注:「そんてい」。]〔鎭蓮社感譽願故と號す。小田原の人なり。大道寺駿河守政繁の甥、大永三年[やぶちゃん注:一五二三年。]三月生る。成人の後、小田原傳長寺に投じて剃度し、後、飯沼弘經寺に掛錫して、法を鎭譽に嗣。舊里に歸て、傳聲寺に住す。天文十七年、當寺を建。又、四十八願[やぶちゃん注:阿弥陀如来が法蔵菩薩であった時に立てた四十八誓願。]に應て、四十八寺を創し、永祿六年[やぶちゃん注:一五六三年。]、增上寺に轉住し、檀林の掟制三十三條を定。是より宗風、煽に起る。又、別時中[やぶちゃん注:別時念仏。特別の時日や期間を定めて称名念仏をすること。]、靈夢を感じ、傳法の規繩、法問の則儀を定め、一派の祖と稱せらる。其後、當寺二世靈譽圓治に、緣山[やぶちゃん注:増上寺のこと。増上寺の山号は三縁山。]の職を讓り、更に地方に遊化し、天正二年[やぶちゃん注:一五七六年。]九月當寺に歸遁し、明年五月十八日寂す。則、寺域に葬る。碑銘なきを以て、靈山寺前住秀海、其事實を撰し、文政四年[やぶちゃん注:一八二一年。]、現住單定、碑を建。【傳燈總系譜】曰、鎭蓮社感譽存貞、號願故、相州小田原人。北條氏家臣大道寺某の甥也。初投同所傳肇寺剃髮、下于武江、師事杲譽、長後皈古里、住傳肇寺。天文中、爲堪檀越大道寺駿河守母追福、於武州河越、建蓮馨寺。又、於同州、開建平方馬蹄寺・小林寺・淸長命寺・高澤大蓮寺・見立寺、又、於信州更級郡綱島開安養寺。永祿六年、爲江增上寺第十世。傳法照々、遂成一派。天正初、仍檀主請、爲相州鎌倉郡大長寺及深谷專念寺開山第一祖。天正二年五月十八日寂す。〕、開基は玉繩城主北條左衞門大夫綱成[やぶちゃん注:北条綱成(つななり/つなしげ 永正一二(一五一五)年~天正一五(一五八七)年。後北条氏家臣。ウィキの「北条綱成」によれば、玉繩城主として北条家主力部隊「五色備(ごしきぞな)え」の内の最強として知られた「黄備(きぞな)え隊」を率いた(黄色地に染められた「地黄八幡(じきはちまん)」という旗指物を使用したことで知られる)。綱成与力衆は「玉縄衆」とも呼ばれた。父は今川氏家臣福島正成とされ、父の死後、『小田原へ落ち延びて北条氏綱の保護を受けたといわれる。経緯については、大永元年』(一五二一年)『に飯田河原の戦いで父・正成ら一族の多くが甲斐武田氏の家臣・原虎胤に討ち取られ、家臣に伴われて氏綱の元へ落ち延び近習として仕えたとも』、天文五(一五三六)年に『父が今川家の内紛である花倉の乱で今川義元の異母兄・玄広恵探を支持したために討たれ、氏綱の元へ落ち延びたという』二『説がある』。『氏綱は綱成を大いに気に入り、娘を娶わせて北条一門に迎えるとともに、北条姓を与えたという。綱成の名乗りも、氏綱から賜った偏諱(「綱」の字)と父・正成の「成」を合わせたものとされる。その後、氏綱の子である北条為昌の後見役を任され』、天文一一(一五四二)年に『為昌が死去すると、年長である綱成が形式的に為昌の養子となる形で第』三『代玉縄城主となった』。『しかし、福島正成を父とする説をめぐっては異論があり、黒田基樹は『北条早雲とその一族』の中で上総介正成という人物は実在しないとしており、小和田哲男も『今川氏家臣団の研究』の中で福島上総介正成という名前は古記録や古文書に出てこないとしている。そのため』、『綱成の実父については、黒田(『北条早雲とその一族』)は』、大永五(一五二五)年の『武蔵白子浜合戦で戦死した伊勢九郎(別名・櫛間九郎)とし、下山治久(『後北条氏家臣団人名辞典』)も同様に櫛間九郎の可能性を挙げている』。『一方で高澤等は武蔵国榛沢郡の武蔵七党猪俣党野部(野辺)氏の後裔と考察している』。天文六(一五三七)年)より『上杉家との戦いをはじめ、各地を転戦する。北条氏の北条五色備では、黄備えを担当する』。天文一〇(一五四一)年、『氏綱が死去して北条氏康が家督を継いでも、その信頼が変わることはなかった』。特に天文十五年の『河越夜戦では、半年余りを籠城戦で耐え抜いた上に本軍と呼応して出撃し』て『敵を突き崩すなど、北条軍の大逆転勝利に大功を立てた。この功績で河越城主も兼ねることになったとされる。その後も北条家中随一の猛将として活躍』、弘治三(一五五七)年の『第三次川中島の戦い(上野原の戦い)では武田方への援軍を率いて』、『上田まで進出し』、『上杉謙信勢を撤退させ、里見義弘・太田資正との国府台合戦では奇襲部隊を率いて里見軍を撃砕し』ている。「甲陽軍鑑」によれば、永禄一二(一五六九)年十月六日の『武田信玄との三増峠の戦いでは、綱成指揮下の鉄砲隊が武田軍の左翼大将浅利信種を討ち取ったという』。元亀二(一五七一)年の『駿河深沢城(静岡県御殿場市)の戦いも武田方に抗戦している』。同十月に『氏康が病死すると、綱成も家督を子の氏繁に譲って隠居し、剃髪して上総入道道感と名乗った』。病いのために享年七十三で死去、墓所は私の住む鎌倉市植木にある彼の開基になる曹洞宗陽谷山(ようこくざん)龍寶寺。]なり〔寺傳に、綱成、存貞の高德を欣慕し、城中に請て、功德鎭護の利益を問ふ。貞、無量壽經を説。綱成、兼て八幡を信ず。彌陀は其本地たるを以て、深く感喜し、一宇を建て、治國安民の祈願所とせんことを約す。偶、當所の靈地を得て買得し、山林東西三町餘、南北五町餘の寺域及餉田を附す。因て當寺を創し、感譽を開山第一祖とすと云。〕。永祿元年[やぶちゃん注:一五五八年。]九月十日、綱成の室、卒しければ〔法號大項院光譽耀雲と云ふ。〕、寺域に葬り、更に二十貫文の地を寄附す。綱成は天正十五年[やぶちゃん注:一五八七年。]五月六日卒す〔年七十三。道感院哲翁圓龍と號す。〕。二世は圓治〔秀蓮紅[やぶちゃん注:「紅」は別の刊本でもそうなっているが、これはどう見ても原典の「社」の誤記ではないかと強く思う。]雲譽と號す。永祿九年[やぶちゃん注:一五六六年。]、增上寺に轉住す。〕、三世は普光觀智國師〔貞蓮社源譽存應と號す。天正十二年[やぶちゃん注:一五八四年。]、亦、增上寺に轉ず。〕、四世は源榮〔星蓮社曉譽存阿凝信と號す。觀智國師の弟子。〕なり[やぶちゃん注:浄僧源栄(げんえい 天文二〇(一五五一)年~寛永一〇(一六三三)年)は。ウィキの「源栄」によれば、『俗姓や出自は不明だが、徳川家康に気に入られ、数々の寺の開山を務めた。源栄と家康の仲は親しい物であったらしく、駄洒落のやり取りをした記録』(本条に出る花下連歌的付合を指す)や、『数奇者として知られる源栄に茶器七種を下賜した記録が残る』とある。事蹟はリンク先に年譜形式で詳しいので参照されたい。戦後の農地改革までは門前の「家康お杖先の田」という農地があったという。例によって家康が鷹狩りの際、門前で杖を振り回し、その杖で指した土地を即座に大長寺に与え、それは凡そ三町歩(三ヘクタール)にも及んだという(「かまくらこども風土記」(平成二一(二〇〇九)年鎌倉市教育委員会刊)に拠る)。]。榮、住職たりし時、天正十八年[やぶちゃん注:一五九〇年。]小田原の役に、北條左衞門大夫氏勝[やぶちゃん注:北条氏勝(永禄二(一五五九)年~慶長一六(一六一一)年)は下総国岩富藩初代藩主。北条氏繁の次男・北条綱成の孫。参照したウィキの「北条氏勝」によれば、『発給文書による初見は』天正一〇(一五八二)年五月に出された「氏勝」と署名されたもので、この頃に兄・氏舜の死により、家督を継承したとみられる。翌』天正十一年の『文書からは玉縄北条家代々の官途名である「左衛門大夫」を名乗っている』。天正十年、』伊豆大平新城の守備につき、武田方の戸倉城攻略に参加。同年』六月に勃発した「本能寺の変」後、『甲斐・信濃の領有を巡って』、『北条氏が徳川家康と争った際には同族の北条氏忠と共に御坂峠に進出したが、黒駒での合戦で家康の家臣鳥居元忠・三宅康貞らの軍勢に敗れている(天正壬午の乱)』。翌年には『上野厩橋城に入り』、四『月の下野皆川城や太平山城での合戦に出陣』、二年後の天正十四年にも『下野に出陣している』。天正一八(一五九〇)年、『豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、伊豆山中城に籠もって戦ったが、豊臣軍の猛攻の前に落城する。落城を前に氏勝は自害を図るが、家臣の朝倉景澄に制止され、弟の直重・繁広の言に従って城を脱出』、『本拠である相模玉縄城へ戻』って籠城した。その後、『玉縄城は家康に包囲されるが』、『戦闘らしい戦闘は行われず、家康の家臣・松下三郎左衛門と、その一族で氏勝の師事する玉縄城下の龍寶寺住職からの説得により』(と大長寺の源栄をウィキは全く記さない。本文後文参照)、同年四月二十一日に『降伏した。以後、氏勝は下総方面の豊臣勢の案内役を務めて、北条方諸城の無血開城の説得に尽力した。秀吉も同日に出された在京の真木島昭光あての書簡で氏勝の降伏を許可した件に触れて、前将軍足利義昭に対して豊臣方が優勢である事の言伝を依頼している』。『以後、家康に下総岩富』一『万石を与えられて家臣となり、領内検地などの基盤整備を進める一方』、「関ヶ原の戦い」などで功績を重ね、『徳川秀忠からの信頼も厚かった』とある。]、玉繩に籠城して降らず。當寺、檀緣の由緒あるを以て、東照宮の内命を蒙り、大應寺〔植木村龍寶寺、是なり。〕住僧良達と謀り、終に降參をなさしむ〔【北條五代記】等には、此事、良達のみ扱しと見ゆ。〕。御打入[やぶちゃん注:先に掲げた通り、玉繩城では包囲されたが、事実上の戦闘は行われず、無血開城でされたので、これは形式的な謂いである。]の後、此邊、御放鷹の時、兼て榮の才學を知し召れ[やぶちゃん注:「しろしめされ」。]〔三州大樹寺[やぶちゃん注:特異的に注する。現在の愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗成道山(じょうどうさん)松安院大樹寺大樹寺。徳川(松平)氏菩提寺。歴代当主の墓や歴代将軍(「大樹公」。「大樹」は征夷大将軍の唐名。後漢の時、諸将が手柄話をしている際、今に光武帝の功臣として知られる馮異(ふうい)は、その功を誇らず、却って大樹の下に退いた、という故事に基づく(「後漢書」「馮異伝」))の位牌が安置されている。]登譽より聞え上、兼て謁し奉りしことありしとなり。〕、屢、當寺へ[やぶちゃん注:「ちゆうひつ」。先払いして(蹕)立ち寄ること()。]あり、法儀を御聽聞あらせられ、舊に因て寺領をも寄賜ふ〔舊領は、玉繩岡本村なりしを、此時、願上て、門前にて替賜ひしと云ふ。〕。天正十九年、改て寺領五十石の御判物を賜ふ〔文祿元年三月の水帳[やぶちゃん注:「みづちやう」は「御図帳」の当て字で「検地帳」のこと。]を藏す。所謂、大半小[やぶちゃん注:「だいはんしやう」は本邦の古い面積単位。「大」は一反の三分の二・「半」は二分の一、「小」は三分の一で、当時の一反(現在の約四百坪・十アール相当)は三百六十歩(ぶ)であったので、それぞれ二百四十歩・百八十歩・百二十歩であった。一段の水田が畦によって六等分されているような場合に便利な単位であった。]の步數なり。〕。寺號、初は「大頂」と記せしを〔所藏雲版[やぶちゃん注:後の「【寺寶】」に図とともに掲載されている。]、天文十七年の銘及び天正小田原陣の制札に、「大頂寺」と記す。〕御判物の文面に今の文字に記し給ひしより改むと云〔傳云、東照宮、初て成せられし時、山號を御尋あり、龜鏡山と言上せしかば、僧は大長壽なるべしと、上意ありしとぞ。かゝる由緒を以て今の文字に改給ひしとなりと云ふ。〕又、或時、俄に成せられしと聞て、榮、急ぎ、門外に迎奉り、御放鷹にやと申上しを聞召れ、御戲に「南無阿彌陀佛鳥は取らざり」と上意ありしかば、榮、取敢ず、「有がたのえかうえかうで日の暮るゝ」と附申せしを興じさせ給ひ、扈從の人々に「記憶すべき」との命ありしとなり、慶長十三年[やぶちゃん注:一六〇八年。]、江戸營中にて淨蓮二宗論議の時、榮、本多上野介正純と共に奉行せられしと云〔「淨土日蓮宗論記」依上意以大長寺上人召高野山賴慶僧都云々と見ゆ。〕。貞宗院尼〔寶台院殿[やぶちゃん注:徳川秀忠の生母西郷局(お愛)の法号。彼女は天正一七(一五八九)年の没であるが、この号は三十九年後の寛永五(一六二八)年に与えられたもの。]の御實母。〕、玉繩に隱栖の頃、殊に榮を歸依せられしかば、戒を授け、遺言に任せ、導師を勤む。慶長十六年[やぶちゃん注:一六一一年。]、尼の爲に貞宗寺[やぶちゃん注:浄土宗玉繩山珠光院貞宗寺。本。ここ(グーグル・マップ・データ)。私の町内である鎌倉市植木にあり、拙宅のごく直近。御建立の時、榮を開山に命ぜられ、當寺より兼帶す。同年十一月、東照宮、藤澤御殿[やぶちゃん注:藤沢宿にあった徳川将軍家御殿(別荘)。現在の藤沢公民館と藤沢市民病院の間(の附近(グーグル・マップ・データ))にあった。ウィキの「藤沢御殿」によれば、構築は藤沢宿が置かれる以前の慶長元(一五九六)年頃と推定され、明和三(一六五七)年に江戸で発生した「明暦の大火」に伴う江戸城再築のために取り払われた。]に御止宿の時、榮を召させられ、法義御談話あり。且、諸堂修理のため、銀若干を賜ふ〔【駿府記】にも、此事を載せ、源榮を幻惠に作る。曰、慶長十六年十一月十八日、路次御放鷹御着藤澤、及夜增上寺弟子玄惠上人出仕、有佛法御雜談、則、銀百枚賜之、彼堂以下上葺之料也。〕。又、江城或は駿府等へも屢召され、修學料三百石を賜ふ〔【洞漲集】にも此事を載す。〕。故に榮を中興と稱す。同十九年、三州大樹寺に轉住せり〔源榮、當寺住職中、江淺草正姨覺寺を中興し、當國高座郡座間宿、宗仲寺[やぶちゃん注:三度出るのでこれは注しておく現在の神奈川県座間市座間に現存する浄土宗来光山峯月院宗仲(そうちゅう)寺ここ(グーグル・マップ・データ)。しばしばお世話になる東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の本寺の解説によれば、この地の領主内藤清成が、慶長八(一六〇三)年に実父竹田宗仲の菩提を弔うため、この大長寺第四世源栄上人を開山として創建したと伝える。但し、『当地には』、『平安時代に宗仲寺の前身として伝えらる良真院、鎌倉時代には渋谷道場と呼ぶ修行場があり、その跡に当寺が建立されたと考えられてい』るとあり、元和三(一六一七)年の家康の柩を久能山から日光へと遷御する際には休息所として利用されたという。慶安二(一六四九)年には寺領七石四斗の『御朱印状を受領し』ているとある。]の開山となり、兼住す。元和二年[やぶちゃん注:一六一六年。]四月六日、大樹寺より駿府に召され、御遺命を蒙り、同四年、病に依て宗仲寺退隱し、寬永十年[やぶちゃん注:一六三三年。]十一月十日、同寺にて寂す。年八十三。〕。本尊、三尊彌陀〔彌陀は長二尺三寸。運慶作。[やぶちゃん注:運慶作は誤伝。但し、南北朝期の名品ではある(非公開)。]〕及如意輪觀音〔定朝作。長一尺。〕を置、又、大頂院[やぶちゃん注:大頂院(永正一三(一五一六)年?~永禄元(一五五八)年)は北条氏綱の娘で、玉繩城城主北条綱成の正室の戒名の院号。名は不詳。法号は大頂院光譽耀雲大姉。後に出る北条氏繁の母。]の木像〔一尺□五寸五分。〕、東照宮の御神影〔大猷院の御筆。增上寺十七世、照譽、奉納す。裏書に、「奉納大長寺。東照宮大權現御影。右家光公の御筆也。增上寺照譽華押」あり。〕、道幹君[やぶちゃん注:徳川家康の父松平広忠(大永六(一五二六)年~天文一八(一五四九)年)のこと(法号の一部)。]の御牌〔東照宮の仰により、安置し奉れりと云。牌面、昔は「瑞雲院應政道幹大居士淑靈」とありしを、東照宮二百回忌に、御代々の尊牌御厨子等、修復を加へ奉りし時、御贈官に改、「大樹寺殿贈亞相應政道幹居士」と記せり。〕、御代々の尊牌、及、傳通院殿[やぶちゃん注:徳川家康の生母於大の方。]・崇源院殿[やぶちゃん注:浅井長政三女であったお江(ごう)。母は織田信長の妹お市。三度に嫁したのが徳川秀忠。]・寶臺院殿の御牌、貞宗院尼・雲光院尼[やぶちゃん注:家康の側室。名は須和。号は阿茶局。]等の牌を安ず。寬永十年、增上寺照譽〔十七世。〕、御供養金〔東照宮・台德院[やぶちゃん注:徳川秀忠。]・大樹寺殿、御供養料三十兩。〕、及、三祖〔感譽・雲譽・觀智國師を云。三代相繼て、增上寺に轉ず。〕の供養金〔三十兩。〕を寄附す〔後年に至ても退轉なかるべきの文書あり。〕。佛殿に大長壽寺の額を掲ぐ〔寶永七年[やぶちゃん注:一七一〇年。]、知恩院尊統法親王[やぶちゃん注:有栖川宮幸仁親王の皇子。]、江の旅舘にて記す。〕。方丈は大頂院及北條氏繁室〔七曲殿と號す。〕[やぶちゃん注:七曲殿(ななまがりどの 生没年不詳)は北条氏康の娘で、従兄弟である玉縄城城主北条氏繁の正室となった。名は不詳。私の家の直近、玉繩城大手口七曲坂(私が役員を務める植木公会堂はまさにここにある)付近に居住したため、かく古呼称された。彼女の子である氏繁の次男が、先に示した玉繩無血開城をした北条氏勝である。]の殿宇を移し建しものと云。

[やぶちゃん注:以下は連続(各項の後は一字空け)しているが、読み難いので、各項ごとに改行した。]

【寺寶】

△四季詠歌短册四枚〔智恩院[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]

△詩箋一枚〔春は、後柏原院[やぶちゃん注:後柏原天皇(ごかしわばら 寛正五(一四六四)年~大永六(一五二六)年)は室町から戦国期の天皇]、夏は、九條忠榮公[やぶちゃん注:九条幸家(天正一四(一五八六)年~寛文五(一六六五)年)。藤原氏摂関家九条流九条家当主。関白・左大臣。忠栄(ただひで)は初名。]、秋は仙洞[やぶちゃん注:不詳。春を書いたとされる後柏原天皇は後土御門天皇の崩御によって即位しており、生前に譲位して上皇にはなっていない。]、冬は、八條桂光院[やぶちゃん注:八条宮智仁親王(天正七(一五七九)年~寛永六(一六二九)年)八条宮(桂宮)家の初代、正親町天皇の孫で、誠仁親王第六皇子。]の筆と云。〕

△一枚起請一幅〔建曆二年[やぶちゃん注:一二一二年。]正月廿三日、源空[やぶちゃん注:法然。]が淨宗の安心起行、此一枚に至極する事を示せしものにして、靑蓮院尊鎭法親王[やぶちゃん注:(永正元(一五〇四)年~天文一九(一五五〇)年)は後柏原天皇の皇子。東山知恩院と百万遍知恩寺との本末争いに関わって、一度、青蓮院門跡を離れたが、後に帰住し、天台座主となった。]の眞蹟なり。〕

△短册一枚〔同筆。永祿元年[やぶちゃん注:一五五八年。]、大頂院卒せし頃、牌前へ手向し歌と云。〕

△山越彌陀二尊畫像一軸〔惠心筆。大道寺殿駿河守政繁寄附。〕[やぶちゃん注:「山越彌陀」は「やまごえのみだ」「やまごしのあみだ」と読む。阿弥陀如来の来迎図の一種。阿弥陀如来と菩薩とが山の向こうから半身を現して念仏する人のために来迎し、極楽に救いとろうとする様相を描写したもの。この図様は中国敦煌の壁画の中に既にあるが、本邦では浄土教のチャンピオンで「往生要集」で知られる恵心僧都源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)が比叡山横川(よかわ)で感得した形を伝えたものと伝える(ここは主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。「大道寺政繁」(天文二(一五三三)年~天正一八(一五九〇)年)は後北条氏家臣で北条氏康・氏政・氏直の三代に仕えた。駿河守は通称。ウィキの「大道寺政繁」によれば、『大道寺氏は平氏とも藤原氏とも言われるが、代々末裔では「平朝臣」を名乗っている。大道寺氏は後北条氏家中では「御由緒家」と呼ばれる家柄で、代々北条氏の宿老的役割を務め、主に河越城を支配していた』。『諱』『の「政」の字は氏政の偏諱を賜ったものだとも言われている(政繁の息子たちも氏直から』一『字を賜っている)。内政手腕に優れ、河越城代を務めていた頃は城下の治水をはじめ、金融商人を積極的に登用したり、掃除奉行、火元奉行などを設けて城下振興を行うなど、その辣腕振りを遺憾なく発揮したと伝えられている』。『父の職を相続し、鎌倉代官を務めて寺社の統括にも当たっていたと伝えられ』、『軍事面においては「河越衆」と呼ばれる軍団を率い、三増峠の戦いや神流川の戦いなど』、『北条氏の主要合戦のほとんどに参戦して武功を挙げた』。天正一〇(一五八二)年、『甲斐国の武田氏滅亡後に北条氏が支配していた上野国を』、『武田氏滅亡戦の余波のまま』、『織田信長が領有した。しかし同年、本能寺の変が起こり』、『信長が討死して織田家中が混乱すると、その隙に北条氏は上野国を奪還し、逆に甲斐・信濃へ侵攻する(天正壬午の乱)。政繁は信濃小諸城主とされ』て、『最前線を担当』、『徳川家康と対峙するが、北条と家康の間に講和が成立し、政繁らも信濃より引き上げ』た。『上野松井田城の城代であった』『政繁は』、天正十八年の『豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、松井田が中山道の入り口であることから、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍を碓氷峠で迎え撃とうとするが、兵力で劣勢にあり敗北した。そして籠城戦を覚悟し、城に籠もって戦うが、圧倒的な大軍の前に郭を次々と落とされたため、政繁らは討ち死にを覚悟して孫を脱出させたが、真田昌幸が見て見ぬふりをしたという。水脈を断たれた上』、『兵糧を焼かれ、ついに本丸に敵兵が及ぶに至り、開城降伏した』。『その後、豊臣方に加えられ』、各地での旧主『北条氏の拠点攻略戦に加わっている。特に八王子城攻めにおいては、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し』、『最も働いたとされている』。しかし、七月五日の小田原城陥落後の同月十九日、『秀吉から北条氏政・氏照・松田憲秀らと同じく』、『開戦責任を咎められ(秀吉の軍監と意見が対立し讒言された、秀吉に寝返りを嫌われた、北条氏の中心勢力を一掃させたかったなど諸説あり)、自らの本城である河越城下の常楽寺(河越館)にて切腹を命じられた』。『一説には江戸の桜田で処刑されたともいわれる。大道寺氏は政繁の死によって一旦』、『滅亡した』とある。]

△涅槃像一軸〔山角紀伊守定勝室寄附。〕[やぶちゃん注:(やまかどさだかつ 享禄二(一五二九)年~慶長八(一六〇三)年)は後北条氏、後に徳川氏家臣。紀伊守は通称。ウィキの「山角定勝」によれば、『北条氏政の側近を務め、その子・氏直の代に奉行人・評定衆として活躍した』。天正一〇(一五八二)年に『徳川家康と氏直が講和し、家康の娘・督姫が氏直と婚姻する際に』は『媒酌を務め』、天正十四年には『家康への使者として派遣されている』。天正十八年の『小田原征伐で小田原城が開城した後は氏直に従い』、『高野山に上った』。翌十九年に『氏直が没した』(氏直は翌天正十九年八月に秀吉と対面、赦免されて河内及び関東に於いて一万石を与えられ、豊臣大名として復活たものの、十一月に大坂で病死した。享年三十、死因は疱瘡と伝える)『後は徳川家康に仕えて相模国で』千二百『石を与えられている』。『隠居して』後、享年七十五で死去した。『嫡男・政定、次男・盛繁も徳川家康に旗本として仕えた』とある。前注の同じ後北条家臣大道寺政繁とは明暗を分けているのが、頗る対照的である。]

△佛舍利七粒〔文政三年、釋迦の座像を作りて、其れ腹籠とす。事は傳來の記に詳なり。〕[やぶちゃん注:「文政三年」一八二〇年。「腹籠」「はらごもり」と読む。仏像の腹中に入れ籠(こ)めてあることを言う。一般には製作札・小さな観音像・経典などが封入されていることが多い。「傳來の記」本書ではカットされている。]

△九條袈裟一領〔紺地の金襴なり。觀智國師の傳衣と云。〕[やぶちゃん注:「觀智國師」先に出た通り、本大長寺三世普光観智国師。]

△倶利伽羅龍墨畫一軸〔巨勢金岡の筆と云。北條氏康寄附。〕[やぶちゃん注:「倶利伽羅龍」不動明王の立像が右手に持つ倶利迦羅剣(くりからけん)は貪・瞋・痴の三毒を破る智恵の利剣であるが、その剣には倶利伽羅竜王が燃え盛る炎となって巻き纏いついてるが、それを描いたものである。「巨勢金岡」(こせのかなおか 生没年未詳)は九世紀後半の伝説的な画家。宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば造園にも才能を発揮し、貞観十(八六八)年から十四(八七二)年にかけては神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。仁和寺御室(おむろ)で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜な田の稲が食い荒らされるとか、朝になると壁画の馬の足が汚れていて、そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わるが、その伝承の一つに、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしようという。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると、二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと、飛んで来て、絵の中に再び、納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり、筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であった、というエピソードが今に伝わる。彼の伝説は各所にあり、近場では現在の金沢八景の能見堂跡のある山に登り、その景観を描こうとして、余りの美景、その潮の干満による自在な変化に仰(の)け反(ぞ)って筆を擲った、という「筆捨松」の話柄は明らかにこうした伝説のありがちな変形譚であって、実話とは信じ難い。私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 能見堂(一)」同「筆捨松」を参照されたい。]

△説相箱一箇〔蓮・菊・蒲萄[やぶちゃん注:「葡萄」に同じい。]・瓜・唐草等の彫あり。小田原彫と云。氏康室寄附。寺記に、「氏康公御臺樣御寄附、法器七品之内」とあり。[やぶちゃん注:「小田原彫」不詳。少なくとも、現代には残っていない模様である。]

 

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[やぶちゃん注:銅雲板の図。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。以下に図の刻印を電子化しておく。「旹」は音「ジ」で訓「とき」、「時」と同義。「天文十七戊申」(つちのえさる)年は一五四八年。□は私には判読出来なかった。ありがちなのは「歳」だが。識者の御教授を乞うものである。]

 

 相摸國東郡岩瀨邑

寄進龜鏡山護國院大頂寺

         如耒前

 

   施主

   北條左ヱ門大夫綱成

旹天文十七戊申□五月十日

 

△銅雲板一面〔長二尺六寸、幅二尺一寸五分。北條左衞門大夫綱成寄附。其図上の如し。〕[やぶちゃん注:前出。長さは約七十八・八センチメートル。幅は約六十三・二センチメートル。但し、残念ながら、この雲板は明治一六(一八八三)年に発生した火災(「鎌倉市史 社寺編」(昭和五四(一九七九)年第四版吉川弘文館刊)では明治十五年十二月とするが、先に示した新しい「こども風土記」版の記載を採用する)で旧本堂(現在のものは明治四四(一九一一)年の再建)とともに焼失し、現存しない。

△鎗二筋〔大道寺駿河守政繁所持と云。下に品同じ。〕

△轡一口

△鐙一掛

△鎗一筋〔北條新左衞門繁廣所持。〕[やぶちゃん注:(天正四(一五七六)年~慶長一七(一六一二)年)はウィキの「北条繁広」によれば、『北条氏繁の五男』とされ、『母は北条氏康の娘の七曲殿とされている』ものの、『年齢的に違うと』もされる。『兄である下総岩富藩主・北条氏勝の養子となる』。通称を新左衛門尉と称した。『小田原征伐では兄とともに伊豆国山中城で奮戦するが、敗退して相模国玉縄城で』、氏勝とともに『徳川家康に降伏した』。その後、『家康に一旦は仕えたものの、嫡男を失った氏勝に乞われ』、『その養子となり、兄の下総国岩富城に入る。しかし、これに対して不満を抱く家臣もおり』、慶長一六(一六一一)年)に『氏勝が死亡すると、反対派は秘かに家康の甥にあたる氏重を養子に迎えて家督を継がせ』た。『これに激怒した繁広は家康に訴訟』を起こしたが、その最中の翌慶長十七年六月に『駿府において死去した』。享年三七。『家康は繁広の』四『歳になる嫡男・北条氏長を召しだし』、『別個に』五百『俵取の旗本として遇した。北条氏長は後に甲州流軍学の学者として有名に成り、軍学北条流兵法の始祖と成った』。『菩提寺は鎌倉市大長寺(祖父地黄八幡北条綱成開基の寺)で』あるとし、そこで、大長寺は大河内松平家(摂津源氏源頼政の孫顕綱の後裔と称した一族で、室町時代には三河吉良氏に家老として仕え、江戸時代の正綱の代に徳川氏一族の長沢松平家の養子となって以後は大河内松平家と称した。大名・旗本として複数家あって、「知恵伊豆」と称された老中松平信綱などを輩出した)の菩提寺でもある、と記す。]

△制札一通〔豐太閤小田原陣の時、出す所なり。「相摸國東郡大頂寺」と記す。〕。此餘、名僧の筆蹟、古畫幅等、若干あり。

△三社權現社 中央に東照宮〔御座像三寸九分。源榮作。御臺座の裏に「爲報答神君之洪恩、彌陀名號一唱一刀、謹彫刻神影二軀而奉安之大長寺・宗仲寺、以永祝禱天下泰平矣。元和六年[やぶちゃん注:一六二〇年。]庚申四月十一日功畢 源榮」と彫す。〕、右に熊野、左に金毘羅を安置して鎭守とす。

△道祖神社 稻荷社〔豐岡稻荷と號す。〕 社稷明神社[やぶちゃん注:「社稷」は「しやしよく(しゃしょく)」と読み、「社」は「土地神を祀る祭壇」、「稷」は「五穀の神を祀る祭壇」の総称。大陸渡来の神で、元来は天壇・地壇や宗廟などとともに中国の国家祭祀の中枢を担った。元は本邦の産土神や田の神と集合したものと思われる。]

△鐘樓 文政三年[やぶちゃん注:一八二〇年。先に示した「鎌倉市史 社寺編」も文政三年だが、前掲の「かまくらこども風土記」は文政二年とする。]、現住、在譽單定、再鑄す。[やぶちゃん注:本「新編相模国風土記稿」(大学頭林述斎(林衡)の建議に基づいて昌平坂学問所地理局が編纂)の成立は天保一二(一八四一)年である。]

△銀杏樹 本堂の前にあり。東照宮御手植と云傳ふ。[やぶちゃん注:残念ながら、先に示した明治一六(一八八三)年の火災で旧本堂とともに焼失、現存しない。]

△吉祥水 開山感譽、當寺草創の時、水に乏し。加持して此水を得たり。今に至て久旱にも涸れずと云ふ。

△梅ノ井 是も名水なり。

△北條氏墓 五基あり。一は北條綱成の室〔氏綱の女なり。牌に「大頂院殿光譽耀雲大姉 永祿元稔[やぶちゃん注:一五五八年。「稔」はしばしば見られる「年」の替え字。]戌午九月十日」〕、一は北條新左衞門尉繁廣〔表に「泰淸院殿惠雲常智大居士 慶長十七子天六月八日」、裏に「北條常陸介氏繁男 新左衞門尉繁廣」と彫す。〕、一は北條氏繁の室と云〔七曲殿と號す。五輪塔にて鐫字なし[やぶちゃん注:「鐫字」は「せんじ」。彫った字のこと。]。〕、一は「水月妙淸大姉」と彫る〔何人たるを傳へず、年月も詳ならず。下、同じ。〕。一は鐫字なし。

△支院

庭松院〔實應建と云。應は寬永十六年[やぶちゃん注:一六三九年。]九月十日寂す。本尊は彌陀座像長一尺三寸五分。宅間作。古は村内にありて、末寺なりしを、後年、境内に移す。其舊地、今に存す。〕[やぶちゃん注:「宅間」平安期からの似せ絵師(肖像画家)の家柄の鎌倉・室町期の絵仏師として、しばしば登場する。]

心蓮社蹟〔正保(しやうほう)元年[やぶちゃん注:一六四四年。]、本坊六世永感、開基す。本尊彌陀は長二尺一寸。惠心作。今、假に本坊に置く。〕

△中門 四足門なり〔右は二天門なりしを、永應二年[やぶちゃん注:一三九五年。]正月回禄の後に改造す。〕。「護國院」の額を扁す〔文政五年、智恩院尊超法親王の筆。〕。[やぶちゃん注:「二天門」左右に一対の仁王像を安置した寺の中門。仁王の代わりに多聞天と持国天を置く場合もある。「永應二年」一三九五年。「文政五年」一八二二年。「尊超法親王」(享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五二)年)は有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと)親王の第八王子。幼名は種宮、諱は福道。文化二(一八〇五)年に空席となっていた知恩院門跡の相続が内定し、光格天皇の養子となって後に文化六年に徳川家斉の猶子となっている。文化七(一八一〇)年三月に親王宣下を受け、二ヶ月後に得度し、法諱を「尊超」と称した。は徳川将軍家の帰依を受ける知恩院門主を務めていた関係から、生涯、五回に亙って江戸を訪れ、時の将軍徳川家慶やその世子の徳川家祥らに授戒している。また、後には仁孝天皇や孝明天皇にも授戒している。教義の修学に励み、宮中で進講を行うほか、文才にも富み、書や彫刻を能くした。なお、彼は既に親王宣下を受けてから出家しているから、正確には尊超入道親王(にゅうどうしんのう)と呼ぶのが正しい。普通に耳にする法親王とは出家した後に親王宣下を受ける場合に限るからである。]

△總門 「龜鏡蘭若」の額をかく〔增上寺隆善大僧正筆[やぶちゃん注:第五十代便譽隆善法主。]。〕。

△下馬札 總門外に建つ。初、北條氏より建置しを、大樹寺殿、尊牌を安置の時、改建られしと云ふ。

△制札 下馬札に相對して立。天正小田原陣の制札なり。

[やぶちゃん注:以下、続くが、当時、大長寺末寺であった「西念寺」は現行では独立した寺院であるので、行空けした(というより、私の住んだ岩瀬のあのアパートを紹介して呉れたのは私の叔父の友人であった西念寺の住職であり、同和尚は新婚の時、私のいた部屋に住まっておられたという関係上、ちゃんと別立てにしたかったというのが本音である)。後の「彌陀堂」以下は、同格で並べた。]

 

〇西念寺 岩瀨山正定院と號す〔前寺末。〕。開山運譽〔慶蓮社と號す。天文三年[やぶちゃん注:一五三四年。]五月十八日寂す。〕。彌陀を本尊とす。

[やぶちゃん注:「岩瀨山正定院」は「がんらいざんしょうじょういん」(現代仮名遣)と読む。先の「かまくらこども風土記」によれば、開山の運誉光道が修行したと伝える、岩屋が現在の本堂の裏にあるが、事実は奈良から平安初期に築かれた横穴墓(おうけつぼ)である(なお、鎌倉時代に発生する「やぐら」とは外見は似ていても全く無関係である)。また、この寺には、有力な檀家で水田を寄附するなどした、江戸日本橋の刃物屋の大店「木屋(きや)」の主人が自分の姿を後世まで残したいとして作った、生人形(いきにんぎょう)風の夫妻の木造座像大小二体(妻のそれは非常に小さいフィギア大のもの)がある。これは顔の色を生き生きと綺麗に見せるために頭部の塗替えを容易にするため、首が抜けるようになっている。平安末から鎌倉期の寄木造り以降、こうした構造は珍しくもないが、年忌供養毎に行われたという、この首の塗替えのために珍事件が発生したという。これを昭和四八(一九七三)年刊の改訂八版「かまくらこども風土記」から引用する。先の新しい第十三版から引いてもいいが、結局、新訂のそれも、古い版のそれを踏襲して記事が書かれているのだから、まあ、殆んどそっくり真似しているわけだ。しかもこの改訂八版は、私の小学校時代(私は鎌倉市立玉繩小学校の卒業である)の恩師が半数近くを占めている。今の版のを電子化して、今の教育委員会から何か言われるぐらいなら(この程度の引用を問題視したら、鎌倉観光事業など、それだけで成り立たない。嘗て私の「新編鎌倉志」の電子化本文を無断転載した「鎌倉タイム」は未だに謝罪もなく、知らん振りしたままで平然と〈鎌倉のジャーナリスト〉を気取っている為体だ)今の版が真似している、私の恩師らのそれをこそ電子化転載しようと思った。以下に示す。「かまくらこども風土記 中」(当時のそれは全四巻)の「中」巻の「西念寺」の条の一部である。私が以上で纏めた枕のところから最後まで引く。

   《引用開始》

 ここの本堂に、おじいさんの坐像があります。これは木屋(きや)というおじいさんが自分の姿を後の世まで残したいと、顔も形もそっくりの木像を彫(ほ)らせたものだということです。このおじいさんは信心深く、寺のために水田を寄付したりして大変尽(つく[やぶちゃん注:底本は「つ」のみ。補った。])した人だといわれています。

 おもしろいことにはこの像の首が抜(ぬ)けるのです。いつまでも同じ顔色を残すには、どうしても塗(ぬ)り替(か)えをしなければなりません。そのために首が抜けるようにしてあったのです。それだけでは別に珍しいとはいえませんが、この首のために大事件が起こったのです。

 木尾というおじいさんがなくなってから、年忌のたびにこの首を塗り替える習慣になっていたのです。何回目かの法事のときのことでした。寺の人が首をふろしきにしっかり包んで、塗り替えのために江戸まで出かけました。神奈川を過ぎ、六郷[やぶちゃん注:(グーグル・マップ・データ)。]を渡って品川に来ると、日も暮れそうでした。そこで品川の宿場で泊まることにして、ある宿にわらじをぬぎました。一風呂浴びて疲れをとり、夕食をとりましたが、まだ寝(ね)るのも早いので、散歩に出ました。首がなくなっては大変なので、女中に預け、

「たいせつなものだから決してあけて見てはいけない。」

と言って出かけました。女中は見てはいけないと言われたので、かえって見たくなり、さわって見たり、さかさにしたりして、いたずらをしていたところへ、他の女中さんが来て話を聞いて、

「珍しい宝物でもはいっているにちがいない。」

と言ってふろしきをあけようとしました。

「でもふたりだけではもったいないから、みんなで見ましょう。」

と女中さんたちを呼び集めました。薄暗(うすぐら)いあんどんのそばで、ふたりの女中さんは胸をわくわくさせながら、ふろしきを解き始めました。他の女中さんたちも、どんな宝物だろうとかたずをのんでじっと見つめていました。箱のふたをそっとあけたとたん、

「キャッ。」

と言ったのは女中さんたちでした。箱の中からはまっさおな生首が、にらんだではありませんか。腰をぬかした者、気を失った者、二階からころげ落ちた者、女中さんたちは大あわてです。宿の主人も驚いていました。そこへちょうど帰って来た寺の人が、騒ぎのわけを聞いて笑いだしました。しかし、だれも木の首だとは信用しませんので、それではと二階へかけ上がり、首を持って来て、あんどんの光に当てました。それでも宿の人は信用しないどころか、逃げ出す人もありました。首の付けねに手をやり、

「このとおり木ですからご安心ください。」

と言われてやっとひとり、ふたりと目がさめ、どっと大笑いしたということです。

 皆さんも、この木尾の木像を見てごらんなさい、きっとびっくりすることでしょう。

   《引用終了》]

 

○彌陀堂 天文中、開基ありし一寺にて、阿彌陀院と號すと云ふ〔今、堂内に置る雙盤に「阿彌陀院」と彫す。〕。後年、衰微して小堂となれり。本尊は春日作なり〔長二尺三寸。〕。大長寺持。下同。

[やぶちゃん注:貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)も本書のデータとを転用するだけで、その他の情報が全く載らないから、位置も不明である。

「天文」一五三二年~一五五五年。

「春日」十二世紀後半の慶派の大仏師法師定慶(生没年不詳)がいるが、単なる伝であろう。]

○地藏堂 定朝の作佛を置〔長一尺七寸五分。〕。

[やぶちゃん注:同前で位置不明。

「定朝」定朝(じょうちょう ?~天喜五(一〇五七)年)は平安後期に活躍した仏師。寄木造技法の完成者とされるが、これも単なる伝と思われる。]

○不動堂 村持。

[やぶちゃん注:同前。位置不明。ここで「岩瀨村」は終わっている。]

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