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2018/08/26

反古のうらがき 卷之一 窮して智出る事

 

   ○窮して智出る事

 大橋一九郞、御徒(おかち)の頃【今、御徒目附。】、余に語りしは、名前失念、御納(おなんど)何某、頭か【組頭か、平か。】、失念。組下同心、不時の事有りて、申立(まうしたて)、御仕置になるに極(きはま)りしに、其者、いふ樣、

「今は包むによしなし。御役所品々は、私(わたくし)全く壹人(ひとり)の所爲にあらず。御頭方(おかしらがた)よりの御差圖(おさしず)にて、多年、賣(うり)さばき、尤(もつとも)、其御蔭にて德分も付(つき)、御贔屓も厚く、久々相勤(あひつとめ)たる也。此言(このこと)、他言(たごん)すまじと思ひ候へども、此度(このたび)、誰殿(たれどの)御申立(おまうしたて)は、全く御身(おんみ)逃れにて、私に、罪、御着被ㇾ成候(おきせなられさふらふ)段、御情(おんなさけ)なき次第に付(つき)、此儀、無ㇾ據(よんどころなく)申上候也。」

と申す。

 因(よつ)て、早速、御呼出(およびいだ)し、御吟味の處、彼(かの)者、申(まうす)條にては、

「誰殿と私、差向ひのことにて、外にしる者、一人もなし。」

といふ。

 何某、竊(ひそか)に考(かんがふ)るに、

『彼(かの)者、殘念の餘り、同罪に引入(ひきいれ)しなれども、工(たくみ)に申出(まうしいだ)せし故、申分(まうしわけ)決(けつし)て無ㇾ之(これなく)、無實の難、逃(のが)しがたし。されども、天地鬼神(てんちきじん)ありて守り給はゞ、如何(いか)で申譯(まうしわけ)なからんや。』

と覺悟して、一言も口を開かず、上(あが)り屋に行(ゆき)けり。

 此人、養子にて、かゝることにて養家を潰す事、殘念なれども、是非なし。

 母公(ははぎみ)、大に悲しみ、水をあび、不動明王を念じたるも尤(もつとも)也。

 神佛呵護[やぶちゃん注:底本、「呵」の右に編者のママ注記有り。]にや、忽然として、名策(よきはかりごと)、出(いで)たり。

 上り屋の内、獨り、應酬、反覆して、已に其理(ことわり)、分明に心に得たり。

 扨、其次(そのつぎ)の呼出(よびだ)しに對決を乞ひ、扨、何某、申(まうす)樣、

「其方、申上(まうしあぐ)る條々にては、實(まこと)に、申分(まうしわけ)、一言もなし。しかし、これ程のこと、每々度々のことならば、誰壹人(たれひとり)知らざる理(ことわり)、なし。何(いづ)れにてか、對談せしや。」

といふ。

「元より、御懇命(ごこんめい)を受(うけ)たる私(わたくし)なれば、常々、御目通り、御奧通(みおくどほ)りにて、外仲間(ほかなかま)どもと一樣の取扱(とりあつかひ)にあらず、此(この)談(はな)しある每に、御居間の御次御部屋(おつぎおへや)にて、人を退(しりぞ)けての御談(おはな)し、いつも如ㇾ此(かくのごとく)、定(さだめ)て御覺(おんおぼえ)なしとは被ㇾ申間敷(まうされまじき)。」

といふ。

「されば、吾家(わがや)に入來(いりきた)り、奧通り・表通りとも、幾度(いくたび)計(ばか)か。」

といふ。

「幾度といふ數を知らず。」

と答ふ。

「然(しか)らば、申譯(まうしわけ)なし。かく迄、深く入込(いりこ)みし人の申出(まうしいで)る條、『いつはりなり』といふとも、誰(たれ)か信ぜん。但し、吾家(わがや)、格別に廣きにあらず、如ㇾ此(かくのごとく)度々入(いり)いたらば、屋つゞき・間取り、大略、見覺(みおぼえ)たるべし。表通り・奧通り・あひの間・客の間・つぎの間・かこひ・小座敷・部屋、入つては、雪陰(せつちん)・物置・藏・稻荷(いなり)に至るまで、大略、繪圍面にいたし、見すべし。いづれの處にて應對し、何れの處にて内談せしと、一つ一つ、承り可ㇾ申(まうすべし)。」

とて、則(すなはち)、紙・筆を與(あた)へ、繪圖を引かせけり。

 扨、圖、なりて、何某、一覽し、

「此圖を以て、拙者住居(すまひ)へ御引合(おひきあは)せ被ㇾ下(くださる)べし。彼(かの)者、申條(まうすじやう)、いつわりといへども、申開(まうしひら)くべき證據(しやうこ)なし。彼者、年來(としごろ)、奧通りにて一大事を内談せし者か。表屋敷より内は入(いり)たる事なければ、繪圍面、皆、相違せり。此(これ)、いつはりの一證なり。其外、申開くべき辭(ことば)なし。」

と申上(まうしあげ)られたれば、彼者、閉口し、繪圖、果して相違なり。

 卽日、上り屋を出(いづ)る。

 公儀も、首尾よく、其後、出身も有りしとなり。

[やぶちゃん注:対話劇形式の対決劇であるので、改行を施した。標題「窮して智出る事」は「窮(きゆう)して、智、出(いづ)る事」。

「大橋一九郞」不詳。「いっくろう」(現代仮名遣)と読んでおく。

「御徒」御徒組。徒士(かし)。将軍の外出の際に徒歩で先駆(さきがけ)を務め、また、沿道の警備などに当たった。ウィキの「徒等によれば、徳川家康が慶長八(一六〇三)年に九組をもって組織し、後、人員・組数が増員され、幕府安定期には二十組が徒歩頭(かちがしら:徒頭。若年寄支配)の下にあり、各組毎に二人の組頭(徒組頭とも称した)が、その配下には各組二十八人の徒歩衆がいた。徒歩衆は、蔵米取りの御家人で、俸禄は七十俵五人扶持。礼服は熨斗目(のしめ:練貫(ねりぬき)の平織り地で仕立てた小袖。腰の辺りに多くは筋や格子を織り出しただけのもので、武士が礼装の大紋や麻裃(あさがみしも)の下に着用した)・白帷子(しろかたびら)、平服は黒縮緬(くろちりめん)の羽織に無紋の袴の決まりであった。家格は当初抱席(かかえぜき:以下の「譜代」に次ぐもので第五代将軍徳川綱吉以降に新たに御家人身分に登用された者)であったが、文久二(一八六二)年には譜代(元来は江戸幕府草創の初代徳川家康から第四代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫である。ここはそれ相当の御家人最上級の家格扱い)となった。

「御徒目附」交代で江戸城内の宿直(とのい)を行った他、大名の江戸城登城の際の監察・幕府役人や江戸市中における内偵などの隠密活動にも従事した警備・公安職。目付支配。参照したウィキの「徒目付」によれば、伝承では、元和九(一六二三)年、『徳川家光が征夷大将軍として江戸城本丸に移った時、道の途中で欠伸をしていた者を無礼であるとして討ち取った草履取りを賞して任じたのが最初とされている。定員は』享保三(一七一八)年に四十名となり、幕末期には八十名と増え、享保六(一七二一)年では役高百俵五人扶持と定められている。『徒目付の上には役高』二百俵の『徒目付組頭』三『名が置かれていた。徒目付の番所は江戸城本丸御殿の玄関右側に設置され、その奥に組頭の執務室が置かれていた。他に目付部屋の』二『階に詰める組頭がおり、老中・若年寄から目付を経由して命令が伝えられ、それを番所に伝えた。命令を受けた徒目付は自身及び配下の小人・中間・黒鍬者などを駆使して職務にあたった。特に隠密を専門に担当する「常御用」と呼ばれる』三~四名の『徒目付が存在し、内容によっては老中が人払いの上で直接命令を下すことがあった。徒目付は小人目付や遠国勤務の下級役人から任じられたが、後には小普請世話役や表火之番、徒などからも登用され、徒組頭や闕所物奉行・林奉行・油漆奉行・畳奉行などに昇進することができた』とある。

「御納」御納戸役。将軍の居所である中奥に勤務した中奥番士(本丸御殿は幕府組織のある「表御殿」、将軍の居所である「中奥」、御台所や側室の居所の「大奥」に別れていた)の一つ。将軍家の金銀・衣服・調度の出納、大名・旗本からの献上品、諸役人への下賜の金品の管理などを掌った。若年寄支配。下役は御納戸組頭が四名(旗本)、御納戸衆が二十四名(旗本)、御納戸同心が六十名(御家人)。

「平」ここは以下に「組下同心」とあるから、前注の「御納戸衆」(与力格か)のこと。

「不時の事」思いがけない事件。

「申立(まうしたて)」「申し立てられ」であろう。告発されたのである。

「今は包むによしなし」かくなっては隠し立てしても致し方ない。

「御役所品々は」御納戸役方にあった多くの物品類(の横流し)は。大橋一九郞と関連はないが、まさに彼の現在の職である「御徒目附」辺りが、市中や一部の武家等に御納戸方が管理しているはずの物品が横流しされているらしいという情報が舞い込み、隠密捜査の結果、この御納戸方同心の男が捜査線上に確かな実行犯として浮かび上がってきたものであろう。

「御頭方(おかしらがた)」この場合は御納戸方同心の上役の意。この主人公が本文の前で御納戸方の頭か平かは不明と言っていたから、「御納戸組頭」か、その下の同心らを支配していた「御納戸衆」の孰れかとなる。

「德分」私個人の資産も増え。

「御贔屓」横流しの闇のネットワークの中で親しくなり、何かと面倒を見て呉れる人々(商人とは限るまい)。

「久々相勤(あひつとめ)たる也」長年、この違法行為に手を染めて御座った。

「誰殿(たれどの)」この主人公たる、同心の上役某のこと。

「御申立」この同心の自白に基づき、既に上役某の事情聴取が行われたが、彼は全く承知していないと証言したのである。

「御呼出(およびいだ)し、御吟味の處」この同心と上役何某二人を拘引連行し、それぞれに対して正式な公事(くじ)としての尋問が行われたのである。

「殘念」自分一人で犯した犯行であったが、このまま自分一人が死罪となることに、諦めがつかず、全くの利己心なのであるが、悔して、上司を巻き込んで、教唆犯として主犯にしてやれという自棄(やけ)のやんぱちの思いが残ったことを言うのであろう。

「工(たくみ)に申出(まうしいだ)せし故」巧妙に現実的で「あり得る」という印象を審判方に与える横領背任犯罪をデッチアゲて自白したのであるから。この場合はこの同心の自白が事実と認定されてしまえば、共同正犯ではなく、同心は従犯で、教唆犯として上役の方が重罪となる。まあ、孰れも恐らくは死罪ではあるが。

「申分(まうしわけ)決(けつし)て無ㇾ之(これなく)」どんなに私が無関係であるという陳述をしても、それらは、決して真実と見做されることはなく。

「無實の難、逃(のが)しがたし」無実の罪、不当極まりない冤罪を蒙ることからは、最早、逃れ難い。

「天地鬼神ありて」「天神地祇」(てんじんちぎ)、いや、もう「鬼神」でもよい、そうした超自然の力を持った何ものかが存在して。

「如何(いか)で申譯(まうしわけ)なからんや」反語。どうして真実正当な私の申し開きが通らぬことがあろうか、というか、ここは直後に「一言も口を開かず」とあるので、私の誠心(せいしん)が審判者の心に遂に届かぬことがあろうか、いや、きっと届く、知れる! という「覺悟」なのである。

「上(あが)り屋」「揚(あが)り屋」。江戸の伝馬町牢屋敷や、長崎の桜町牢などにあった特別な牢房。ウィキの「揚屋(牢獄)より引く。『江戸の牢屋敷は中央部に当番所と称される監視施設があり、これを挟むように』、『東西に牢が置かれていた。東西の牢は外側に向かって口揚屋・奥揚屋・大牢・二間牢の順に配列されており、揚屋はこのうちの口揚屋と奥揚屋の部分に該当する。口揚屋は』一『部屋あたり』、『広さ』二『間半の部屋が』三『部屋(』十五『畳相当)、奥揚屋は』一『部屋あたり広さ』三『間の部屋が』三『部屋(』十八『畳相当)、いずれも』、『半間ほどの大きさの雪隠が設けられていた。また』、安永四(一七七五)年には『江戸の町人出身収容者と』、『地方の百姓(農民)出身収容者を分離するため』、『百姓牢が増設されるが、その中にも別途』、『揚屋が設けられた。なお、大坂の松屋町牢屋敷にも』元文四(一七三九)年)に『「男揚屋」(』六『畳)が設置されている』。『揚屋は原則雑居拘禁であり、ここに収容される人々は』以下の通りであった(因みに、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である)。

・『女性(身分は問わない)』。『原則として西の口揚屋に収容されたことから、同所を「女牢」とも称した。だが、後に囚人が増加すると、東の口揚屋が転用されることもあった。百姓牢の揚屋設置も女性の収容を目的とした』。

・『遠島の判決が確定した者』。『原則として東の口揚屋に収容されたことから、同所を「遠島部屋」とも称した』。

・『御目見以下の旗本・御家人、大名・旗本の家臣(陪臣)、中級以下の僧侶・神官』。『御目見以上の旗本・御家人や上級の僧侶・神官は牢屋敷の隣に設けられた揚座敷に収容されたが、陪臣は家老であろうが、下級武士であろうが、全て』、『揚屋に収容された』(この場合がこれに相当する)

・『病人』。安永五(一七七六)年『以後、一般の収容者が入る大牢に収容された者でも、病人については隔離を目的として揚屋内に「養生牢」』が一『部屋』、『設けられた』。

・『海難事故に遭って遭難し、海外から外国船によって帰国した漂流民』。『身柄が日本側に引き渡された際、一汁一菜の食事を与えられ、お白洲で簡単な吟味が行われた後、揚屋に収容された』。『しかし』、『キリスト教圏からの帰国者に対する吟味は厳しく、長期間に及んだため』、『自殺者が出ることもあった』。『吟味終了後、キリシタンの疑いが晴れた者は、帰国者の故郷の藩に身柄を引き渡され、藩士付き添いのもと』、『帰郷した』。

なお、『その他にも、囚獄(牢屋奉行)に手を回して揚屋に収容される者もあったという』。『揚屋に送られる人々は牢屋敷の庭まで乗物で護送され、牢役人らによる本人確認(揚屋入)の後に収容された。揚屋も』、『一般の収容者が入る大牢も』、『待遇面には大差が無かったが、揚屋の方が凶悪な収容者と同室になる可能性が低かった。また、大牢とは別に揚屋にも牢名主が設けられていた。また、軽微な罪を受け』、『有宿の者数名が揚屋の付人とされ、世話係としての役目を行った』。『なお、諸藩の武士は身分を問わず、一律に揚屋に収容されたことから、歴史的に著名な人物が収容されていた事例もある。例えば、蛮社の獄の渡辺崋山、安政の大獄の吉田松陰などはその代表例である』とある。

「母公(ははぎみ)」実母か養母か。養母と採っておく。

「呵護」「加護」。

「名策(よきはかりごと)」底本のルビ。

「上り屋の内、獨り、應酬、反覆して、已に其理(ことわり)、分明に心に得たり」牢の中で、下準備のため、たった独りで(実際に同牢の者はいなかったのかも知れない。少なくとも対立している同心と一緒ではなかったと考える)、その考え出した方法を実際に行った場合のことを想定して同心の役も二役で演じ、論争の応酬をやり、それを何度も繰り返して、言い方や使う細部の単語まで十二分に検討修正を行い、遂に論理的に相手を追い詰めることの出来る「問答法」のシナリオを確定し、はっきりと『これで確かに行ける、相手を完璧に負かすことが出来る』という確信を摑んだ。

 扨、其次(そのつぎ)の呼出(よびだ)しに對決を乞ひ、扨、何某、申(まうす)樣、

「申上(まうしあぐ)る」御上(おかみ)に、である。

「實(まこと)に、申分(まうしわけ)、一言もなし」確かに、自分が実行犯であることについては、それを否定する弁解や言い訳などは、一言も差し挟んではおらぬ。

「何(いづ)れにてか、對談せしや」どこで、この私と横流しのそれらの犯罪計画の謀議を行ったのか?

「懇命」他人から受けた命令を敬って言う語。

「御奧通(みおくどほ)り」御屋敷の奥の間。或いはそこ「まで通して戴き」のニュアンスか。

「外仲間(ほかなかま)」他の御納戸方同心の同僚。

「一樣の取扱にあらず」同じい待遇では、当然、なく。

「御居間の御次御部屋」「お次の間(ま)」。高貴な人の居間の次の間。

「然(しか)らば、申譯(まうしわけ)なし」そうであるならば(貴殿の申すことが事実であるならば)、最早、私は申し開きのしようは、最早、ない。

「かく迄、深く入込(いりこ)みし人」文脈から言えば、「かくまで、死罪を免れぬ謀議に深く関わった御仁」であるが、ここは後の展開に掛けて、「かくも、私の屋敷の奥深くまで、親しく、数え切れぬほど、尋ねて参った御仁」の意を持たせているに違いない。

「屋つゞき」屋敷内の建物の続き方。

「あひの間」主要な二つの部屋の間に設けられた間の部屋。

「かこひ」「圍ひの間」。「茶室」又は「離れ座敷」。

「部屋」その他の小部屋の意か。

「雪陰(せつちん)」「雪隱」(便所)の意でルビした。

「稻荷(いなり)」屋敷内の稲荷の社祠。

「此圖を以て、拙者住居(すまひ)へ御引合(おひきあは)せ被ㇾ下(くださる)べし」この台詞は、既に、対面していた同心を無視し、審理を担当している同席している役方に対しての陳述である。

「彼者、年來(としごろ)、奧通りにて一大事を内談せし者か」この「者か」の「者」は当て字で、形式名詞「もの」+終助詞「か」であって、反問の意を表わしており、「かの者は、長年、拙者の屋敷の奥まで親しく入って、かのおぞましき横領の一大謀議を内密に致いたと、まあ、申しておるが?! それは全くあり得ぬことがここではっきりとして御座った!」の謂いである。

「表屋敷より内は入(いり)たる事なければ」彼は某の配下の同心であったから、某の屋敷の表座敷には上ったことがあるのであろう。

「公儀も、首尾よく」本事件の公儀の判決も、この同心の単独犯と認定され、上役某を無罪とし、首尾よく終わり。

「出身」出世。より上位の官に挙げられ用いられること。]

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