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2018/08/08

諸國里人談卷之五 蘭奢待幷紅塵

 

    ○蘭奢待(らんじやたい)紅塵(こうじん)

南都東大寺、敕符の藏に納まる【号「正念院」。】。始は「黃熟香(わうじゆくかう)」といふ。聖武帝、「蘭奢待」と改めさせ給ふ。此三字に、東大寺の文字(もじ)、隱れり。此量(おもさ)三貫三百五十目〔め〕[やぶちゃん注:十二キロ五百六十二グラム半。]あり。紅塵は量四貫六百目[やぶちゃん注:十七キロ四百三十七グラム半。]ありと云〔いふ〕。天子、御代に一度、これをきらさせ給ふといへり。

 

Ranjyatai

 

[やぶちゃん注:ここに「蘭奢待」及び「紅塵」の挿絵が入る(稲田大学古典総合データベースの①のものはこ)。なお、明度の高い③にも、この挿絵に限って書写されているのでリンクさせておく。③は非常に綺麗で見易くていいのだが、「紅塵」の右縦の長さが、「一尺八寸」となっている(全体のスケールから明らかに誤写)ので、以下の挿絵のキャプション・データは①を用いて翻刻した(本文同様、一部に濁典を添えた)。加えて、実は国立国会図書館デジタルコレクションにも本「諸國里人談」全五巻がある(寛保三年版であるが、最後に手書き(入手?)のクレジットとして『安永七年』(一七七八年)『秋七月上旬』とあって、思うに早稲田大学図書館古典総合データベースの私が校合本とした上記①と同じ版と思われる)。国立国会図書館は吉川弘文館や早稲田大学図書館とは異なり、画像の使用が全くの自由(引用元を明記すれば、使用許諾許可を得る必要がない。海外サイトの文化的なパブリック・ドメインのテクスト及び画像はその多くがその立場を採っており、これこそが真に学術的配慮、智のユビキタス ubiquitous であると私は思う)であればこそ、ここでは俄然、その国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正して掲げることとした。]

   *   *

蘭奢待(らんじやたい)

量(おもさ)

三貫三百五十目

[やぶちゃん注:以下、蘭奢待の木片本体の左中央やや下部の穴の右横に。]

[やぶちゃん注:後注で出るが、これは香木としての質に劣る箇所を鑿(のみ)で人為的に刳り抜いた跡である。]

[やぶちゃん注:以下、木片の長い方の長さ。文字横転。]

長五尺二寸五分

[やぶちゃん注:約二メートル十三センチ六ミリ。]

[やぶちゃん注:以下、木片左に。]

木口周〔めぐり〕四尺二寸

[やぶちゃん注:一メートル二十七センチ三ミリ弱。]

   *

紅塵(こうじん)

量(おもさ)

四貫六百五十目

[やぶちゃん注:本文と異なる。十七キロ四百三十七グラム半。]

[やぶちゃん注:以下、上辺の右の突出部分のみの長さ。文字横転。横上部は中央少し左手が垂直(横水平)にカットされて左端は長方形に無くなっており、短くなっている。因みに、上辺の左のカットされた部分の長さは「一尺五分」(三十一センチ八ミリ)となる。]

二尺四寸五分

[やぶちゃん注:約七十四センチ二ミリ。]

[やぶちゃん注:以下、下辺の全長。文字横転。]

三尺五寸

[やぶちゃん注:約一メートル六ミリ。]

[やぶちゃん注:以下、右手縦の長さ。]

一尺八分

[やぶちゃん注:約三十センチ三ミリ。]

[やぶちゃん注:以下、左手縦の長さ。]

九寸一分

[やぶちゃん注:約二十七センチ六ミリ。]

   *

元亀三年三月廿八日、織田信長公、奏(そう)を經て、先格(せんかく)にまかせて、一寸八分[やぶちゃん注:約五センチ四ミリ半。]を切らしむ。勅使、日野大納言資定卿・飛鳥井大納言雅教、奉行、佐久間右衞尉[やぶちゃん注:ママ。]・菅屋(すがのや)九右衞門・樽九郞左衞門。蜂谷兵庫頭・武井夕庵〔せきあん〕・松井友閑法印、以上六人也。

慶長七年六月十一日に切〔きら〕しめ給ふ。勅使、觀修寺殿(くわんじゆうじどの)・廣橋殿・柳原殿也。奉行は本多(ほんだ)上野介正純。

[やぶちゃん注:「蘭奢待(らんじやたい)」「蘭麝待」とも書く。前の「奇南」(きゃら:伽羅)の私の注のウィキの「沈香」にも出たが、ここはウィキの「蘭奢待」を引いておく。『東大寺正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香と謳われる』。『正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に』「東」(「蘭」の(もんがまえ)の内)・「大」(「奢」の最初の三画分)・「寺」(「待」の(つくり))『の名を隠した雅名である』。『その香は「古めきしずか」と言われる。紅沈香と並び、権力者にとって非常に重宝された』。重さ十一・六キログラムの『錐形の香の原木』(本文の掲げる数値(換算)は十二キロ五百六十二グラム半であるから、江戸時代からさらに乾燥が進んだものか、一キロ近く減っている。というより、長さは現行が一メートル五十六センチしかなく、本文の換算値約二メートル十三センチ六ミリからは五十七センチ余りも縮小しているから、これは沾涼の数値の誤りでないとすれば、近世後期から近代に於いて長さが有意に減ってしまうほど削り取られたということか?)『成分からは伽羅に分類される』(「奇南」の私の注を参照されたい)。『樹脂化しておらず』、『香としての質に劣る中心部は鑿(ノミ)で削られ』、『中空になっている(自然に朽ちた洞ではない)。この種の加工は』九〇〇年頃(昌泰三年/中国では唐代)に『始まったので、それ以降の時代のものと推測されている』。『東南アジアで産出される沈香と呼ばれる高級香木。日本には聖武天皇の代』(七二四年~七四九年)『に中国から渡来したと伝わるが、実際の渡来は』十『世紀以降とする説が有力である』(一説には「日本書紀」「や聖徳太子伝暦」の推古天皇三(五九五年)という説もある)』。『奈良市の正倉院の中倉薬物棚に納められており、これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取っている』。『徳川家康も、切り取ったという説があったが』、慶長七(一六〇二)年六月十日、『東大寺に奉行の本多正純と大久保長安を派遣して正倉院宝庫の調査を実施』させた際、『蘭奢待の現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき』、『切り取りは行わなかった』(「当代記」の同日の条)。なお、同八年二月二十五日には宝庫を『開封して修理が行われている』。二〇〇六年一月、『大阪大学の米田該典(よねだかいすけ。准教授、薬史学)の調査により、合わせて』三十八『か所の切り取り跡があることが判明している。切り口の濃淡から、切り取られた時代にかなりの幅があり、同じ場所から切り取られることもあるため、これまで』五十『回以上は切り取られたと推定され、前記の権力者以外にも』、『採取された現地の人や日本への移送時に手にした人たち、管理していた東大寺の関係者などによって切り取られたものと推測され』ているとある。沾涼は本文で、『天子、御代に一度、これをきらさせ給ふといへり』とあるが、そんなことが毎回続いていたら、とっくの昔に影も形も消えて亡くなっているはずだ。寧ろ、家康の条に出る、「切り取った(或いはそれを命じた)者は不幸になる」という確信犯的蜚語が蘭奢待をかくも守ったのであろう。

「紅塵(こうじん)」正倉院所蔵の香木で、現行では重さは約十八キログラム(本文記載と比してこちらは変わっていない。或いはやや増加しているのは、逆に湿気などを含んで膨張したか、虫食いによる変成等が疑われるのかも知れぬ)長さ約一メートル(変化なし)。正式には「全桟香」「全浅香」と呼ばれ(「桟」は香木の樹脂の結び方を指すらしい)、香道ではその色から「紅塵」「紅沈」と呼んだものが一般化している。蘭奢待と並ぶ天下第一の名香とされる。蘭奢待・紅塵の写真も添えられたkazz921氏のサイト「香筵雅遊」の『「正倉院展の香」見聞録』に両香木の現状況や現知見が詳しく載っているので是非見られたいが、それによると、『背面は、白太(樹脂の結んでいない部分)と見られ』、一ミリメートル『程度の小穴が無数にあいている。(虫が原因か?)』とあり、また、『表面には』斉衡三(八五六)年三月二十四日に行われた『正倉院蔵物検査で書かれた墨書があ』るとしつつ、この『全浅香は、国家珍宝帳に記載された香木だが、当初から列挙されたのではなく、後』の天平勝宝四(七五二)年『に「浅香一村」を書き足した形跡があるので、伝来年がはっきりしている』もので、『東大寺(大仏)に香薬として献上されているが、巨木なので珍奇なものとして保存されたのではと思われる』とされ、『白太の部分を残したまま保存しているということは、黄熟香よりも古い年代の香木であることは間違いない』とある。また、『黄熟香と全浅香は、化学的には極めて似ているが、樹脂や精油成分の沈積の程度が大きく異なるので、全く別種の香のように見えてしまう』と評しておられる。また『正倉院には、長さ』五『センチ程度の沈香の断片から、今にも焚いて聞けそうな小片まで、大量の沈香が保存されている。これらの香木は、宝物に香りをつけたり、防虫などの効果を期待して入れたものかもしれない』とされ、『東大寺は、天皇の勅命により民衆に施薬をする寺であったことから、数々の薬の原料が出入りしている。沈香は、「香薬」の材料として使われ、精神安定、健胃、強壮、利尿、解毒の効能があるとされていた』ともある。

「敕符の藏」「正念院」「正倉院」の誤り(「倉」の崩し字を彫り師が誤読した可能性があるか。にしても書写版の③も訂していない)。奈良時代の官庁や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録から知られる。ウィキの「正倉院」によれば、『「正倉」とは、元来』、『「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀や調布などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものだった。また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する正倉があり、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」と称した。南都七大寺にはそれぞれに正倉院が存在したが、歳月の経過で廃絶して』、『東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったため、「正倉院」は東大寺に所在する正倉院宝庫を指す固有名詞と化した』とあり、一方、聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは天平一五(七四三)年、実際の大仏鋳造が始まったのは天平十九年で、まさにその頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと推定されているから、「敕符の藏」(勅命勅許を与えられている東大寺の倉)というのは腑に落ちる謂いと思う。

「元亀三年」一五七二年。

「奏(そう)を經て」天皇への御伺を経て。

「先格(せんかく)にまかせて」先例の式に従って。この切除の分量、長さ「一寸八分」(約五センチ四ミリ半)というのが、切除の大きさの定格(上限)であったと考えた方が自然であろう。

「日野大納言資定卿」不詳。

「飛鳥井大納言雅教」飛鳥井雅春(永正一七(一五二〇)年~文禄三(一五九四)年)の初名(この後の天正一〇(一五八二)年に雅春と改名)。但し、彼が権大納言となるのは後の天正三(一五七五)年で、当時はまだ「権中納言」である。

「佐久間右衞尉」「右衞門尉」の脱字。織田氏家臣団筆頭家老佐久間信盛(大永八・享禄元年(一五二八)年?~天正一〇(一五八二)年)。天正八(一五八〇)年に信長に追放され、高野山に入って出家した。

「菅屋(すがのや)九右衞門」織田信長の側近菅屋長頼(すがやながより ?~天正一〇(一五八二)年)。ウィキの「菅屋長頼によれば、「本能寺の変」の際には『市中に宿を取っており、本能寺に駆けつけたものの、明智勢の前に本能寺に入ることは出来ず、妙覚寺の織田信忠の元に駆けつけて、二条御所で信忠に殉じた』とある。

「樽九郞左衞門」不詳。

「蜂谷兵庫頭」蜂屋頼隆(天文三(一五三四)年~天正一七(一五八九)年)。織田信長・豊臣秀吉に従い、羽柴の姓も授けられ、「羽柴敦賀侍従」と呼ばれた。子がなく、断絶した。

「武井夕庵」(生没年未詳)当初は美濃国守護土岐氏、次いで美濃斎藤氏の道三・義龍・龍興の三代にわたって家臣(右筆)として近侍し、後に織田信長に重用され、外交面でも活躍した。

「松井友閑法印」元は尾張清州の町人とされる。織田信長側近の吏僚として活躍し,右筆や堺の代官を歴任、後に宮内卿法印に任ぜられた。信長の名物茶器の収集も担当した。信長の死後は豊臣秀吉に従って、堺政所となるも、罷免されている。

「慶長七年」一六〇二年。

「切〔きら〕しめ給ふ」主語は豊臣秀吉。

「觀修寺殿」当時の勧修寺家(かじゅうじけ/かんじゅじけ)当主なら、勧修寺晴豊(はるとよ/はれとよ 天文一三(一五四四)年~慶長七年十二月八日(一六〇三年一月十九日))。

「廣橋殿」当時の藤原北家日野流広橋家当主。広橋総光か。

「柳原殿」当時の藤原北家日野家分流の柳原家(やなぎわらけ:「やなぎはら」の読みは慣用読み)当主。柳原資俊かと思われるが、彼はこの慶長七年没(日付不詳)なので断定は出来ない

「本多上野介正純」(永禄八(一五六五)年~寛永一四(一六三七)年)。後、徳川家康側近として次期秀忠まで二代に亙って、後の大老或いは老中に相当する役割を果たしたが、元和八(一六二二)年に失脚、幽閉され、そのまま配所出羽国横手で亡くなった。]

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