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« 和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり) | トップページ | 小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(49) 武權の勃興(Ⅰ) »

2018/08/11

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(48) 社會組織(Ⅳ) / 社會組織~了

 

 讀者は今や、古代の日本社會の狀態に關して、大體正確な觀念を抱き得た事であらうと思ふ。併し其の社會の制度は、私が示し得るよりも遙かに複雜なものであつた――非常に複雜で、此の問題を詳細に論ずるには、數卷の書を必要とする位である。他に適當な名稱がないので、今尚ほ吾々が封建の日本と呼ぶ所のこの社會は、一と度[やぶちゃん注:「ひとたび」。]十分に發展したならば、これは三重組織に著しく近接してゐる。軍國型の二重複合社會りの特色を、多分に示してゐるものである。勿論、著しき特色は、眞の宗教上の政教政治がないといふ事である、――是は政府は決して宗教と分離しないといふ事實に依るのである。嘗て佛教の方に中央政權から全く離れて、宗教上の政教政治を樹立しようとする傾向があつたのであるが、其の途上に二個の致命的な障害があつた。第一は、佛教そのものの狀態であつて――佛教が多くの宗派に分裂して居て、甲乙の宗派が互に反目して居た爲めであつた。第二の障害は、武家氏族の執拗なる敵意で、直接間接に、自己の政策に干涉する力を有するが如き宗教の力を、嫉視した爲めであつた。外來の宗教が、行動の世界に於ても、侮り難き勢力あることを、證明し始めるや、殘忍なる手段が選ばれ、第十六世紀に於て、信長に依つて行はれた恐るべき僧侶の虐殺が、日本に於ける佛教の政治的希望を、終熄せしめたのであつた。

 それを外にして社會の編成は、軍國型のあらゆる古代文化の構成に似てゐた――一切の行動は、積極的にも消極的にも規定されて居た。一家は個人を支配し、五家族の集團は一家族を支配し、組合は此の集團を支配し、領主は組合を支配し、將軍は領主を支配して居た。二百萬の武士は、生産者階級の全體に對し、生殺與奪の權を有し、大名はこれ等の武士に對し、同樣の權を有し、將軍は又大名を支配してゐた。事實は必らずしもさうではなかつたが、名目の上では、將軍は天皇に隷屬してゐた、武力的なる橫奪は、重き責任の自然の狀態を攪亂し、位置を轉換せしめた。然しながら、政府の此の位置の轉換に依つて、貴族から下民に至る迄、規律ある訓練が行きとどいた。生産者階級の中には、無數の結合――各種の組合があつた、併しこれ等は專制主義の中に於ける專制主義――共産制の專制主義であつて、各人は他の人々の意志に依つて統御されて居た、そして企業は、商業にせよ産業にせよ、組合以外に於ては不可能であつた……。個人が組合に束縛される次第は既に述べた通りであるが――その個人は組合の許可なくしては、その組合を去る事は出來ず、組合以外のものとは結婚する事も出來なかつた。吾々は又外國人と云ふのは、古代のギリシヤ、ロオマで云つたやうな意味に於ける外國人――換言すれば、敵  a hostis――であつた事、竝びに單に宗教的にその許しを得ることに依つてのみ、他の組合へ加入することが能きた事をのべた。それ故、俳外的な點では、日本の社會狀態は古いヨオロツパの社會狀態に似てゐた、併しその軍國的な點は、むしろアジヤの諸大帝國の狀態に似てゐた。

[やぶちゃん注:「五家族の集團」古代律令制下の五保の制(ごほ/ごほうのせい:五戸を纏めた単位を「保」と称し、保長が決められ、それが責任者となって相互扶助・治安・徴税等に関し、連帯責任を負った制度)を起源とするとされる、江戸時代に領主の命令によって組織された隣保制度「五人組(ごにんぐみ)」のこと。ウィキの「五人組(日本史)」から引く。『武士の間にも軍事目的の五人組が作られたが、百姓・町人のものが一般的である。五人与(ぐみ)・五人組合などとも呼ばれた』。慶長二(一五九七)年(年)『豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・農民に五人組を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した』。『五人組制度は村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。また町村ごとに遵守する法令と組ごとの人別および各戸当主・村役人の連判を記した五人組帳という帳簿が作成された』。『実態は、逃散したりして潰れた家や』、『実際の住民構成とはかけ離れた内容が五人組帳に記載されていた場合があったり、また』、、『年貢滞納をはじめとする村の中の争議は、村請制の下では五人組ではなく』、『村落規模で合議・責任処理されるのが普通であったため』、『効果としては疑問がある。また、村によっては一つの村内で領主が家ごとに別々(相給)になっているケースがあり、その場合には領主が編成する五人組と村が居住区域をもって定めた五人組(「郷五人組」)が並存するという現象も生じた。しかし』、『五人組制度が存在することによって、間接的に名主・庄屋の権威を裏付け、住民の生活を制約すると同時に』、『町村の自治』的な『とりまとめを強化することには役立った。近代的自治法の整備とともに五人組は法制的には消滅したが、第二次世界大戦中の隣組に』、『その性格は受け継がれていた』とある。

hostis」原文はこの単語のみ“hostis”と斜体。ホスティス。ラテン語で「敵」の意の名詞。]

 

 勿論、かくの如き社會は、近代の西方文化の如何なる形態にも何等共通な點をもつて居ない。かくの如きは氏族の集團の一大集塊であつて、二重政府の下に、漠然と結合したもので、その武力を有する元首が萬能の力を振ひ、宗教上の元首はただ禮拜の的――祭祀の生きたる象徴――たるに過ぎなかつたのである。然しながら、此の組織は、外形上から云へば、吾々の呼んで封建制度と云ふ所のものに、近似してゐるとも云へよう、其の構造は――僧侶的政教政治を除けば――むしろ古代のエヂプト若しくはペルウの社會に似てゐた。最高位の人は、吾々の使用する言葉の意味で云ふ皇帝と云ふのではなく、――諸〻の王を支配する王或は天の代理者と云ふのでもない――それは神の化身、民族の神、大陽から生まれ出でたるいんか(ペルウの王族)[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]である。此の神なる人物を取り圍んで、種族の者が敬意を捧げて竝んでゐるのである――併しそれと共に、各部族は又各自の祖先の祭祀を行つてゐるのである、そしてこれ等の部族を形成する氏族、これ等の氏族を形成する組合、これ等の組合を形成する大家族等も、亦それぞれ各自の祭祀をもつてゐる、かくてこれ等祭祀の集團から、習慣と法律とが生まれたのである。併し何處でも、習慣と法律とは其の起原を異にして居るが故に兩者には多少の相違がある、只だ共通なる一事は、――これ等習慣法律は、絶對恭な服從を要め[やぶちゃん注:「もとめ」。]、公私の生活のあらゆる細目に亙つて規定を爲す所があつた點である。個性は制に依つて全然抑制された。そして制は、主として内部から發生し來たつたもので、外部からすすめられたものではなかつた――各個人の生活は、他の人々の意志に依つて定められ、自由な行動、自由な言論、若しくは自由な思想と云ふものは、全然問題外とされて居た。これは古いギリシヤ社會の社會主義的專制とも比較の出來ない程に更に酷しいもので、最も恐るべき種類の武斷的專制と宗教的共産主義とが合體したものである。個人に刑罰に關する外は、法律上に存在しない者であつた。そして農奴にせよ、自由の人にせよ、全生産者の階級は、無慙にも最も苛酷なる奴隷的屈從をひられて居たのであつた。

 普通の聰明をもつて居る現代人にして、かくの如き境遇に堪へて生活し得たと(家康に依つて士分に取り立てられた、イギリス人なる水先案内ヰリアム・アダムスの場合に於けるが如く、或る有力なる主權者の庇護のない限り)信ずる事は困難である、精神上、肉體上、不斷の多樣なる制肘は、それ自身既に死である……。現今、日本人の組織に對する異常なる能力に就いて、竝びに西歐でいふ代議政體に、日本人が適當してゐる證據としての、日本人の『民族主義的精神』に就いて論述する者は、現實の外觀を誤解してゐるものである。實際は、日本人が自治體組織に對して異常なる能力を有すると云ふことは。近代の民主主義政體の如何なるものにも、不適當であると云ふ事の尤も有力なる證據となるのである。皮相的に見れば、日本の社會組織と、近代アメリカの・地方自治體、或はイギリス植民地の自治體との差異は、些々たる[やぶちゃん注:「ささたる」。]ものらしく思はれる、そして吾々は日本社會の完全なる自治的訓練に、敬服するも當然と思はれる。併し兩者の差別は、根本的である、莫大である――幾千年の歳月に依つてのみ測られる程に。其の差異は、制的共同と自由共同との差別である――宗教の最古なる形に基づく共産制の專制主義の形と、無制限なる個人的自由競爭の權利と共に高度の發展を逡げたる産業組織の聯合の形との差異である。

[やぶちゃん注:「ヰリアム・アダムス」徳川家康に外交顧問として仕え、「三浦按針(あんじん)」の日本名で知られる、イングランド人の元航海士であったウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六年四月二十四日(一六二〇年五月十六日))。日本に最初に来たイギリス人とされる。少年期、造船所に勤め、やがて水先案内人となった。イギリス艦隊に船長として従事した後、オランダに渡り、一五九八年、司令官ヤコブ・マフの率いる東洋遠征船隊に水先案内として乗船、五隻からなる同船隊は途中で四散したが、彼の乗船したリーフデ号は太平洋を横断し、一六〇〇年四月十九日(慶長五年三月十六日)、豊後臼杵湾の佐志生(さしう:現在の大分県臼杵市)と推定される地点に漂着した。彼は船長の代理として大坂に赴き、徳川家康と会い、家康の命令を受け、船を堺より関東の浦賀に回航した。かねてより、関東貿易の開始を熱望する家康はアダムズとの会談を通じ、彼にその期待をかけ、日本橋の近くに屋敷を与え、また、浦賀の近くの三浦半島の逸見(へみ:現在の神奈川県横須賀市)に知行地を給した。「三浦按針」の名はこのようにして生まれた(按針は「パイロット=水先案内」の意味)。アダムズは、同僚のヤン・ヨーステン(ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン Jan Joosten van LodensteynLodensteijn) 一五五六年~一六二三年:オランダの航海士で朱印船貿易家。「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」。オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに漂着、徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲附近で、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来し、「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子(やようす)」と呼ばれるようになり、これが後に「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる。やがて、東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが、帰国交渉が捗らず、結局、諦めて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した)とともに、まさに家康の外交顧問的存在となり、家康に数学・幾何学の初歩を教授するほか、外交の諸問題に関与し、反カトリックのオランダ・イギリスの対日通商開始を側面より促進したばかりか、朱印状を受けて東南アジアに渡航した。また、伊豆の伊東でイギリス型帆船を建造したことでも知られる。彼はイギリス人ながら、イギリスの対日通商政策とは意見を異にするなど、国際人として家康外交の展開に重要な役割を演じた。日本人を妻としたが、元和(げんな)六年四月二十四日、五十五歳で肥前平戸で病死した。妻は馬籠勘解由(まごめかげゆ)の娘といわれ、夫妻の墓は按針塚と名づけられて、逸見に近い塚山公園に現存する(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 吾々が西歐文明の中に於ける、共産主義或は社會主義と呼ぶ所のものは、民主主義の完全なる形に近づかむとする憧憬を表はす近代的の發達であると云ふのは全く世俗の誤謬である。實際、これ等の運動は逆戾り――人間社會の原始狀態への逆戾り――を表はしてゐるのである。古代の專制主義のあらゆる形の中に、人民が自治を營む能力のあつた事を吾吾は明確に認める。それは古のギリシヤ、ロオマに於けると等しく、古代エヂブト及ぴペルウに於ても顯はされて居る所であり、今日ではヒンヅウ及び支那の社會にも見られ、又シヤム、アンナンの村落に於ても、日本に於けると同樣に硏究し得られることと思ふ。それは宗教上の共産主義的專制主義の意である――人格を蹂躙し、企業を禁止し、競爭を公共の罪惡とする最高の社會的暴虐である。かくの如き自治にも、それ相應の長所があつて、それは日本が諸外國から孤立の狀態で居る事を得た限りは、日本人の生活の要求に全然適合したものであつた、併し社會の倫理上の傳統が、同胞を犧牲にして、個人の利益を計る事を禁ずるが如き社會は、社會の自治が個人の最大の自由と、最大範圍の競爭的企業とを是認するが如き社會に對して、産業的生存競爭をしなければならなくなつたやうな場合には、非常な不利な位置に墮ちると云ふ事は明白なことである。

 吾々は、精神上及び肉體上に於て、不斷の一般的壓を受けた結果は、何もかも單一無味の狀態卵――全生活の表現に於ける陰氣な統一と單調――をもたらすことを想像する。併しかくの如き單調は、組合の生活に關してのみあつた事で、民族の生活に關しては存在しなかつたのである。最も不思議な變化が、古代のギリシヤ文明の特徴となつたやうに、それは日本の此の奇妙な文明の特徴ともなつて居る、而も其由來した理由に至つては二者同一である。祖先禮拜に依つて支配された、あらゆる族長的文化に於て、絶對的同一性と一般的統一とに向ふ一切の傾向は、そのものの全體としての特質に依つて阻止されるのである、蓋し全體なるものは決して單一に判を捺したやうにはならないものであるからである。其の全體なる綜合體の各單位、それを構成する小專制の集合中の一々の專制に對し甚だしく猜疑の眼を以て、それ自身の傳統と習慣とを守り、自足して居る。恁ういふ事情から早晚、無數の樣々なる細目、藝術上産業上建築上機械上の細目の變化が生まれ出て來る。日本に於ては、かかる分化と專門化とは、かくの如くして維持せられた。それ故、吾吾は全國を探しても、習慣と産業と生産手段とが、明確に同一であるといふ村落を、二つと見出すことは出來ないのである……。恐らく漁村の習俗は、私が説かんとすることの最良の例證である。諸所の海邊に於て、各種の漁民部落は、網と小舟の建造に就いて、各自傳來の方法をもち、各自獨得の使用方法を採つて居る。一八九六年の大海嘯[やぶちゃん注:明治二十九年六月十五日午後七時三十二分に発生した「明治三陸地震」。岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖二百キロメートルの三陸沖を震源として起こった地震で、マグニチュード八・二~八・五の巨大地震。地震に伴って、二〇一一年三月十一日に起こった東北地方太平洋沖地震の前までで、本州に於ける観測史上最高の遡上高だった海抜三十八・二メートルを記録する津波が発生し、甚大な被害を与え、死者・行方不明者の合計は二万千九百五十九人に達した。以上はウィキの「明治三陸地震に拠った。]に際して、溺死する者三萬人、漂失した海濱の村落二十を算した時に、生殘者のために神戸其の他の各地に於て、巨額の金員が集められた。好意をもつて居た外國人達は、各地方で作られた多くの網と小舟とを買ひ取つて被害地へ送り、漁船と漁業の道具の缺乏を補給しようとしたのであつた。所がこれ等の寄與物は、全然異種の小舟や網を用ふることに馴れた北方地方の人々には、何等の役に立たないことが解つた。のみならず、更に其の後に判明したことであるが、各小村每に漁業の道具が異つてゐて、各自その獨得なものが必要であつたのである……。さてかくの如く漁民村落の生活に表はれた風俗習慣の差異は、他のいろいろな手工業や職業に於て、同樣に表はれてゐる。家の建方、屋根の葺方は、殆ど地方每に異つてゐる。農業園藝の方法、井戸の掘方、織物の織方、漆器陶器の作方、瓦の燒方、皆異つてゐる。殆ど主要な各町各村は、何等かの特産物を誇りとし、其の産出地の名稱裕を産物に冠した、又其の産物は他所の製品とは相違するものであつた……。祖先の祭祀が、かかる産業の地方的特殊の趣を、保存發展せしめたことは疑ふまでもない。手工の祖先卽ち組合の守護神は、自己の子孫または自己を禮拜する者共の作物が、その獨得の性質を維持するやうにと、希望してゐるのだと考へられたのである。個人の企圖が、組合の統制に依つて制肘されることはあつたが、地方的産物の特殊な趣は、その祭祀の相違に依つて、增進されたのであつた。家族の保守的な考へ若しくは組合の保守的な考へは、その地方の經驗から思ひつかれた小さい改良或は小さい修正は、これを默許したのであるが、多分迷信から來たのでもあらうか、變つた經驗に依る結果を受け入れることに就いては、非常に用心してこれを防いだのである。

 今尚ほ、日本人自身にとつて、自國内の旅行の少からぬ樂みは、地方の産物に見る奇妙な相違を硏究する樂みである、――新奇なもの、意外なもの、想像もしなかつたものを見つける喜びである。朝鮮或は支那から、もと借り來たつた古代の日本の藝術若しくは産業は、無數の地方的祭祀の影響を受けて、奇妙な形態を、保存し且つ發展させたと考へられる。

 

 

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