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2018/09/19

反古のうらがき 卷之三 隅田川の見物

 

    ○隅田川の見物

[やぶちゃん注:本篇は非常に長いので、適宜、改行を加え、途中に注を挟んだ。]

 近きころのことになんありける。大國、領し玉へる諸侯の國につかへまつる貮人の武士ありけり。こたび、江の館に召されて國を出しが、百餘里の道程を經て、江に付(つき)けり。初て君にまみへ奉ることおはりて、各(おのおの)それぞれの役儀をぞ受(うけ)たまわりける。公事のいとまある每に、城外に出(いで)て見るに、目なれぬことのみおゝく[やぶちゃん注:ママ。]て、いと興あるまゝに、今日は深川八幡、あすの日は淺草觀音と、名所々々を打(うち)めぐり、樂しみける。

 夏の初(はじめ)頃、日の永きに、朝、とく出で、此日は隅田繩手を行(ゆき)て、牛島(うしじま)・白髭(しらひげ)・梅若塚(うめわかづか)・關屋の里など見𢌞(みめぐ)り、此あたりの植木の花つくりが家に入(いり)ては、家每に見𢌞りければ、見なれぬ鉢植(はちうゑ)どもの多く、いと珍らかなり。

[やぶちゃん注:「牛島」底本の朝倉治彦氏の注によれば、『牛御前近辺をいう。向島洲崎町(現在は隅田公園に移っている)。長命寺、弘福寺と隣接して、隅田川に臨んでいた』とある。東京都墨田区向島の隅田川左岸の牛嶋神社石碑附近(グーグル・マップ・データ)。

「白髭」同じく朝倉の注によれば、『白髭明神をいう。寺島町一丁目。隅田川堤の下に鎮座』とある。現在の東向島白鬚神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「梅若塚」同じく朝倉の注によれば、『梅若山梅若寺(隅田区隅田町二町目)の境内にある。梅若丸の貴種流離譚が伝えられている』とある。但し、梅若寺は現在の木母寺の前身で、この寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、後に復活して、現在の東京都墨田区堤通に現存する。ウィキの「木母寺」によれば、『寺伝によれば』、貞元元(九七六)年に『忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した』とされる『梅若丸を弔って』塚(梅若塚:現在の墨田区堤通二-六)を『つくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる』。天正一八(一五九〇)年には、『徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った』慶長一二(一六〇七)年、近衛信尹(のぶただ)に『よって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた』。『明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈により』、『いったん廃寺となったが』、明治二一(一八八八)年に再興された。その後』、『白鬚防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した』とあるから、このロケーションは梅若塚のあるこの附近(グーグル・マップ・データ)となる。

「關屋の里」同じく朝倉の注によれば、『隅田より千住河原までの一円の地で風光の名所、関屋天神があった』とある。これは今の北千住を中心とした一帯、現在の足立区千住仲町の関屋天満宮附近(グーグル・マップ・データ)である。]

 大(おほ)やかなる家は、門のかゝり、風流にして、座敷の樣、籬(まがき)結ひ𢌞せし樣、池の作り、石竹、いろいろの美を表せし庭の景色、こなたの家にて見たると、彼方の家にて見たると、又、別々の趣ありて、何れか勝れる、何れか劣れるなど、かたり合(あひ)て見るまゝに、幾家(いくいへ)ともなく、見てけり。最後に入たる家は、殊に門のかゝり風流にして、入て見れば、二重の板塀ありて、とみには入得ず、

「奧の方ぞゆかし。」

とて見𢌞るに、板の開(ひ)らきてあるより、入たり。

 水そゝぎ塵はらふ男の、三人四人(みたりよたり)出來て、

「いづくより。」

と問ふ。

「いや、くるしからず。何某が家の子なるが、こたび初て武藏の國に來(き)にたれば、名所古跡見𢌞るとて、此あたり迄來にけるが、植木の花作り共(ども)が、心も及ばず手を盡したる庭の面白くて、一と家一と家と見てければ、此方(こなた)は殊に大(おほ)やかなる構へに見受(みうけ)侍れば、奧の方ゆかしくて、こゝ迄は入來(いりきた)れり。ゆるして、見せ玉へ。」

といへば、

「こは、ふしぎの者どもが來にけり。」

とて、打(うち)どよめくを、耳にも留(とめ)で、籬に添(そひ)て入(いり)けり。

 主(あるじ)めける、道服(だうふく)[やぶちゃん注:僧衣。]着たる法師が是を見て、

「今の言葉に相違もあるまじ。苦しからず。こなたへ。」

といひて入(いれ)けり。

 これは、今迄見しとは、又一きわ立(だつ)て、大きなる石のいろいろなる形あるもあれば、石の燈籠の大きなるに、見も及ばぬ彫物したるもあり、池の𢌞り、松の枝、橫に竪に思ふまにまに作りなして、珍卉(ちんき)珍木、數をしらず、植込(うゑこ)めたり。四つ足の亭(あづまや)に唐木(からき)の珍らしきもて雕(ゑ)りたる桂・うつばり[やぶちゃん注:梁。]・椽板(えんいた)・簷(のき)のたる木[やぶちゃん注:垂木。]迄、思ひ思ひの珍木を集めたるもあり。大やかなる家の作り、又、わびたる家の作り、其所々によりていろいろに作れり。

 𢌞り𢌞(めぐり)て、元來(もとき[やぶちゃん注:底本のルビ。])し道のほとりに來て見れば、池に臨みたる家の、美を盡して作りたる椽前に大石を置(おき)、先の法師が椽にこし打懸(うちか)けて居(ゐ)にけり。

「扨も扨も、見事なる手入(ていれ)かな。」

とたゝへてければ、

「これにて、茶壹つ、まゐるべし。」

といふにぞ、

「辱(かたじけな)し。」

とておし並んで腰かけたり。

 淸らかなる女(め)の童(わらは)が茶を汲(くみ)て持ちて來るに、今一人の女の童が、見るに目なれぬむし菓子を、玉(ぎよく)の器に盛りて持(もち)て來にけり。

「一つ、まゐり玉へ。」

といふに任せて、手に取り見るに、是も目に見たる事もなき飴の如きものの煉り詰(つめ)たるに、砂糖の氷なせるを打碎(うちくだ)きてかけたる樣なるにこそありける。二人のもの、一つづつたうべたるに、得(え)[やぶちゃん注:呼応の副詞「え」への当て字。]もいわれず[やぶちゃん注:ママ。]うまかりければ、茶も、二つ三つ、乞ひて飮(のみ)けり。

 法師もよろこべる樣に、

「酒まいり玉はんや。」

といふにぞ、

「元より、好める一所。」

とこたへければ、

「いざ。」

といひて椽に上れば、先の女の童が、酒壺・酒(さか)づき、其外いろいろの酒のな[やぶちゃん注:「菜」。肴(さかな)。]持出(もちいで)たり。

 武藏にては初鰹とて、四月の初より、松魚(かつを)を賞翫するよしは兼て聞(きき)つれども、未だ節(ふし)[やぶちゃん注:鰹節。]に作れるより外は見し事も無きを、差身(さしみ)に作りて出(いだ)したれば、問(と)はで、「鰹なるべし」とは知りけり。

 玉の鉢に盛り入(いれ)たるは、名もしらぬものゝ、いろいろに煮染(にそめ)たるを、三品五品(みしなごしな)取揃(とりそろ)へて小皿に取分(とりわけ)て、一人一人の前に差置(さしお)き、酒(さか)づきめぐらして、すゝめける。

「扨も、かゝる富貴なる家の植木の花作りもありけり。人の入來(いりきた)るに間もなくて、かゝる珍味を取揃へて出(いだ)しぬるは、絶へせず客の來ることにや。吾國は山野なれば、見る事(こと)每(つね)に珍らしく、今日程の樂しみは世に覺へなきことに侍る。」

など聞へければ、法師は、たゞうなづく斗(ばか)り、おほく物談(ものがたり)もせで座して居にけり。

 二人の者は酒の𢌞(めぐ)り、數重(かずかさな)りければ、いとゞ心よく、いろいろのこと語り出で、

「吾(わが)國主の庭も、よしといへども、手入方(ていれかた)おろかなれば、中々にかくは得及ばず。今日(こんにち)是迄、多く見し家家もこれには及ばず。殊に主(あるじ)の樣(さま)、又、主ぶりも、かくは行屆(ゆきどど)き侍らず。且(かつ)、もてなしぶりのみならず、種々の珍味に飽(あき)てけり。酒も數盃(すはい)に及びたれば、今は辭し侍る。」

といふに、一人がいふ。

「かく迄もてなしぶりよきに、如何なる謝儀の計らひにして歸らん。」

といへば、今一人がいふ。

「吾、聞及(ききおよ)びしは、江の風として、茶を乞ひたらんには、茶の價(しろ)を取らせ、酒肴(しゆかう)を出(いだ)したらんには、酒肴の價をとらすとこそきく。かゝる富貴めける家にても、其價はかはることなし。吾計(はから)ひ侍らん。」[やぶちゃん注:底本では「計」は「斗」であるが、国立国会図書館版を採った。後の『吾ながら、よく計ひけり』も同様の仕儀。

とて、懷中より細金(こまかね[やぶちゃん注:底本のルビ。])壹つ取出(とりいだし)て紙におしつゝみ、

「これは少し斗(ばか)りなれども、いさゝか先程よりの謝儀として、二人の者より送り侍る。」

とて差出(さしいだ)しければ、法師は、いなみもやらず、

「心づかひ、なし給ひそ。」

とて、火入の箱の上に置(おき)けり。二人はよろこびて、おもふに違(たが)はず受け納めぬれば、

『吾ながら、よく計(はから)ひけり。』

とて、いとまを乞ひて立(たち)ぬ。

 一人がいふ。

「かく迄によき主ぶりの家は又なきを、再び來りて訪(おとな)ひもし、又、何某々々など打連れて來らんに、家の名を問ひ侍らでは叶ひがたし。」

とて、家の名をとひしに、法師が、

「これ持(もち)玉へ。」

とて、札紙にかきたるを出(いだ)せり。

 請取(こひとり)て、紙挾みに入(いれ)たれば、『後日に見ん』とて、立出て家に歸りけり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行が施されてある。]

 明けの日は、國主の館につかへまつる日なりければ、二人の者も出で、諸人(もろびと)と樣々の物語する中に、

「扨も、昨日(きのふ)の遊び程面白かりつることは覺えず、隅田川の堤は絶景に侍れども、殊に勝れたるは植木の花作りが家の園なり。そが中にも白髭の社(やしろ)のこなたあるあたりに、殊に勝れたる植木師がり立(たち)よりて、酒肴のもてなしに預りたるは、又なく心よく覺ゆる。」

など語るに、諸人、問(とひ)侍りて、

「其家は何とかいふ家ぞ。」

ととふに、一人がいふ。

「札紙にしるせし名を請取たれども、家にのこし置たれば思ひ出でず。」

 一人がいふ。

「吾は名は問ひ侍らねども、座敷の鴨居の上に、石摺(いしずり)にしたる大文字を額に張りて懸けたるが、主じの名かと思ひ侍る。しかし、とくとも覺へ侍らねども、『石』へんに『頁』したる字と、今一字はわすれたり。扨、其(その)家の樣(さま)、主の法師の樣、細やかに問ふに、答ふる所、其あたりの植木師が家にあらず。

 諸人の内に心付(こころづき)たるものありていふ。

「先に聞けることあり。もろこしに、沈德潛(しんとくせん)といへる人ありて、しかじかの文字を書(かき)て額に張りしを、後の人、石摺となして、長崎の津に持(もち)て來にけり。こゝに又、何がしといへる有德人(うとくじん)あり、當都將軍の御覺(おんおぼえ)深くて、今は仕(つかへ)をやめて法師となりて、隅田川のつゝみにいませるよし、其名石摺の文字と音(こへ)おなじければ、さる人、送り奉りしより、額にはりて掛け玉ふときく。其文字に疑ひなし。其御人ならば、今仕へは止め給へども、常に將軍の御召しにより登城も爲し給ひ、御覺へ以前にかわらず[やぶちゃん注:ママ。]、此御人にとり入(いり)候(さふらふ)てとあれば、如何なる望みある人も、叶はずといふことなし。こゝをもて、いづれの國主・城主たりとも、この御名を聞(きく)ときは、おそれ玉はずといふことなし。かの二人がもしあやまりて植木作りの家と見て、無禮のことあらば、一大事なり。とくとく家に行(ゆき)て名書(ながき)の札紙、もてこよ。」

といふに、二人も大(おほい)におどろき、

「左(さ)なりけるか。當所不案内のことなれば、是非なしとはいへども、云譯(いひわけ)もなき粗忽(そこつ)なりけり。」

などいう[やぶちゃん注:ママ。]内に、一人が歸り來て、

「違(たが)はざりけり。」

とて、差出(さしいだ)す名札は、まさに其御人の名にて有(あり)ければ、

「こは。いかにせん。」

と、みな一同に、かたづをのみけり。

 かくて、二人のものをば、先(まづ)、家におしこめ置(おき)て、國主には告げで[やぶちゃん注:底本「告けで」。国立国会図書館版「告げて」。後の展開から、特異的にかく表記した。]、重役のつかさ人(びと)より、使者もて、隅田つつみの館に言入(いひいれ)けるは、

「國主の家の者なるが、今度(このたび)國より出(いで)たれば、物のわきまへもなく、昨日(さくじつ)御館(おんやかた)に推參して、上(うえ)なき無禮に及びしよし、申出(まうしいで)侍るにより、二人ともに家におしこめ置(おき)て候が、いよいよ、さあらんには、如何なる刑に行ひ申(まうす)べきや、此むね、伺ひのため、參越(まゐりこ)したる。」

旨、申入(まうしいれ)ければ、頓(とみ)に使者の趣(おもむき)取次(とりつぎ)て申入(まうしいれ)けるに、

「使者、こなたへよべ。」

とて、召しけり。

 おそるおそる、入(いり)ければ、先(さき)の二人が申(まうし)つる法師、しとねの上にありて、

「きのふ來りしは、田舍の人なるべきが、庭の草木見んとて望むに任せて、ゆるして見せたるなれば、決(けつし)て無禮のことなし。『おしこめ置(おき)たり』とは、大(おほい)なるひがことなり。國主の耳に入(いる)べき埋(ことは)りなし。とく歸りて此趣き申聞(まうしき)けべし。」

とて、歸しける。

 其後は如何になり行(ゆき)て事濟(ことすみ)けんか、しらず。

 此法師も世を去り、故ありて隅田の花園も、今は田畠となりて、跡もなし。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体がポイント落ちの二字下げ。]

◎御小姓頭取中野播磨守隱居シテ石翁トイフ。墨田川ニ別莊アリ。其娘於美越、文恭廟ニ侍シテ加州公主溶姫、藝公主末姫ヲ産ム。

[やぶちゃん注:「中野播磨守」旗本中野播磨守清茂(きよしげ 明和二(一七六五)年~天保一三(一八四二)年)のことである。九千石。別名を中野碩(或いは「石」)翁(せきおう)。通称は定之助。ウィキの「中野清茂によれば、父は三百俵取りの徒頭(かちがしら)『中野清備。正室は矢部定賢の娘。後妻に宮原義潔』(よしきよ:高家肝煎)『の娘を迎えたが、離婚している。また川田貞興の娘も妻とした』。『鋭い頭脳を有し、風流と才知に通じていたとされる。幕府では御小納戸頭取』(原注(不詳の天暁翁のそれであろう)の「御小姓頭取」というのは、この誤認か)、『新番頭格を勤め、十一代将軍徳川家斉の側近中の側近であった。また、家斉』(彼の諡号は文恭院。原注の「文恭廟」は彼のこと)『の愛妾・お美代の方(専行院)の養父でもある』(彼女は後注しるが、原注の「其娘於美越」の「越」は「代」の誤記か誤判読と思われる)『新番頭格を最後に勤めを退いて隠居、剃髪したのちは碩翁と称した。隠居後も大御所家斉の話し相手として、随時』、『江戸城に登城する資格を有していた。このため』、『諸大名や幕臣、商人から莫大な賄賂が集まり、清茂の周旋を取り付ければ、願いごとは半ば叶ったも同然とまでいわれた。本所向島に豪華な屋敷を持ち、贅沢な生活をしていたが』、天保一二(一八四一)年に『家斉が死去し、水野忠邦が天保の改革を開始すると、登城を禁止されたうえ、加増地没収・別邸取り壊しの処分を受け、向島に逼塞し、その翌年に死去した』。『漢学者』五弓久文(ごきゅうひさぶみ)の「文恭公実録」に『よると、当時その豪奢な生活ぶりから、「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人に数えることわざが作られたという(残り二人は一橋穆翁こと徳川治済』(はるさだ/はるなり)、『島津栄翁こと島津重豪』(しげひで)。『一方、「天下の憂に先んじて憂う」という正反対の人物として白河楽翁こと松平定信が挙げられている)』とある。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であり、彼が加増地没収と別邸取壊処分を受けてから、七~九年以内の記事となる。所持する江戸切絵図類を見ても、どの辺りかも探り得なかった。豪邸変じて田畑と成る。

「於美越」前注で示した通り、中野清茂の養子で第十一代将軍徳川家斉の側室の一人で、寵愛された専行院(せんこういん 寛政九(一七九七)年~明治五(一八七二)年)。俗名は「美代」或いは「伊根」とも。ウィキの「専行院によれば、『実父は内藤造酒允就相』(ないとうみきのじょう(「なりすけ」か))、『養父が中野清茂とあるが、真の実父は中山法華経寺の智泉院の住職で破戒僧の日啓とされている』『はじめ駿河台の中野清茂の屋敷へ奉公に上がったが、清茂は美代を自身の養女として大奥に奉公させ、やがて美代は将軍家斉の側室になり』文化一〇(一八一三)年三月二十七日に溶姫を、文化一二(一八一五)年十月十六日に仲姫を、文化一四(一八一七)年九月十八日に末姫を産んでいる。『仲姫は夭折したが』、「溶姫」は加賀藩第十二代藩主前田斉泰(なりやす)の正室となり、「末姫」は安芸国広島藩第九代藩主浅野斉粛(なりたか)の正室となった。『家斉の寵愛が深く』、天保七(一八三六)年、『家斉にねだって』、『感応寺を建てさせ』、『将軍家の御祈祷所にした上、実父の日啓を住職にさせることに成功している。この感応寺では大奥の女性達が墓参りと称して寺を訪れ、若い坊主と遊興に耽っていたとされる。また』、『前田斉泰に嫁いだ溶姫との間には前田慶寧が誕生したが、大奥での権勢を固めたい美代は』、『家斉に慶寧を』、『いずれ』、『将軍継嗣にして欲しいとねだり、家斉の遺言書を偽造したとまでいわれている』。『家斉死去後は、落飾し、専行院と号して二の丸に居住した』。『慶寧の伯父(溶姫の異母兄)である』。第十二代将軍『徳川家慶が政治を行うようになると、老中首座の水野忠邦は天保の改革を開始し、手始めに大御所時代に頽廃した綱紀の粛正に乗り出し、寺社奉行阿部正弘に命じ、感応寺、智泉院の摘発を行い、住職であった日啓は捕縛され、遠島に処された(刑執行前に獄死)。このとき専行院は、西の丸大奥筆頭女中だった花園とともに押込になり、養父・中野清茂も連座して押込を申し渡された』。『専行院のその後について、三田村鳶魚は「江戸城から追放され、娘の溶姫の願いで』、『本郷の加賀前田家屋敷に引き取られた」とし、広く信じられてきたが、それを裏付ける史料はない。一方で』、『三田村鳶魚が天璋院付きの御中臈だった村山ませ子から聞き取ったところによれば、「二の丸にいて、文恭院(家斉)のお位牌を守っていた」ということで、こちらには、少なくとも』、文久二(一八六二)年、徳川家茂の代まで江戸城大奥二の丸に健在だったとみられる傍証がある』。明治五(一八七二)年六月十一日、『文京区の講安寺にて死去』、享年七十六歳と伝えている。『駒込の長元寺に葬られたが、後に金沢市の野田山の墓地に改葬された』とある。]

2018/09/18

柳田國男 うつぼ舟の王女 (全)  附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年七月発行の『アサヒグラフ』初出で、後の評論集「昔話と文學」(昭和一三(一九三八)年創元社刊)に収録された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクション上記「昔話と文學」の当該の「うつぼ舟の王女」(リンク先はその冒頭部)の章の画像を用いた。一部、誤植と思われる意味の通じない箇所は、ちくま文庫版全集と校合して訂した。但し、その個所は特に注していない。太字「うけび」(誓約(うけひ(うけい))で、元来は、ある条件を設定してその成否によって願いが叶うかどうか(吉凶・運命)を占うことを指す。本文では呪言(じゅげん:まじないのことば)の意)は底本では傍点「ヽ」。踊り字「〱」は正字化した。

 私は、昨日までに、私の高校国語教師時代のオリジナル古典教材授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」©藪野直史)を補助するものとして、柳田國男の「うつぼ舟の話」一篇全七章をここカテゴリ「柳田國男」で電子化注したが、本篇はその最終章の末尾に単行本刊行の際に添えた『附記』で、柳田が『『昔話と文學』の中に揭げた「うつぼ舟の王女」といふ邊を、この文と併せて讀んでいたゞきたい。彼はこの古い言ひ傳への既に説話に化してから後を説いたもので、こゝに述べたことゝ重複せぬやうに注意してある』(中略)。『書いた時期はやゝ隔たるが、筆者の見解には大きな變化は無い』と記した一篇であり、その要請に従ってここに電子化するものである。

 禁欲的に注を施した。【2018年9月18日 藪野直史】]

 

  うつぼ舟の王女

      ――ベルヴォントとヷステラ――

        

 昔々、ベルヴォントといふ貧乏で懶け者[やぶちゃん注:「なまけもの」。]で、見つともない顏をした靑年があった。母にいひ付けられて薪を刈りに行く路で、野原に三人の子供が石を枕にして、暑い日に照らされて睡つて居るのを見た。可哀さうに思つて樹の枝を伐って來て、きれいな小屋根を掛けて日蔭を作つて遣つたら、子供たちはやがて目を覺まして大そう其親切を悦び、「お前の願ひ事は何でも叶ふやうに」と言つてくれた。三人は魔女の兒であつた。それから森に入つて、木を伐つていると草臥れて[やぶちゃん注:「くたびれて」。]しまつたので、あゝあゝこの薪の束が馬になつて、私を乘せて行つてくれるといゝがなと、いふ口の下から薪の束があるき出した。さうしてベルヴォントを乘せてとことこと、町の方へ還つて來た。

 王樣の娘のヷステラが、御城の高い窓から顏を出して、薪に乘つて來るこの若者を見て笑つた。まだ生れて一度も笑つたことの無いヷステラが高笑いをした。するとベルヴォントは腹を立てて、「お姫樣孕め[やぶちゃん注:「はらめ」。]、わしの子を生め」と謂つたところが、是も忽ちその通りになつた。父王は驚いてどうしようかと思つて居るうちに、月滿ちて黃金の林檎のような美しい二人の男の兒が生れた。

 そこで家來たちと相談して、その兒が七つになつた年に、國中の男を集めて父親を見つけさせようとした。第一日には大名小名を集めて宴會を開いたが何のことも無い。二日目には町の重だち[やぶちゃん注:「おもだち」。「重立」。これは本来は近世・近代の本邦の農村部に於ける村落内の上層身分階層の通称である。多くは特定の土地所有資格者で構成され、村落の運営機構を支配していた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]金持ちを招いて見たが、二人の子供は知らぬ顏をして居る。終りの三日目には殘りの貧乏人たちが喚ばれて、其中に醜い姿をしたベルヴォントもまじつて居た。さうすると二人の子は直ぐに近よつて、しつかりとその手を取つて離さなかつたので、彼の兒であることが顯はれてしまつた。王樣はいきまいて母の姫と兒と彼と四人を、うつぼ舟に押し入れて海へ流してしまへといひ付けた。

 腰元たちがそれを悲しんで、乾葡萄と無花果とを澤山にうつぼ舟へ入れてくれた。さうして風に吹かれて海の上へ出て行つた。姫のヷステラは淚を流して、お前は何故に斯んなひどい目に私を遭はせたかと問ふと、葡萄と無花果とを下さるなら話しましようと言つた。それを貰つて食べてしまつてから、ぼつぼつと薪の馬の日の話をした。お姫樣は溜息をついて、それにしてもこの樣なうつぼ舟の中で、四人が命を棄ててしまつてどうならう。もしも願ひ事が何でもかなふならば、早く是が大きな屋形船に變つて、もと來た海邊の方へ還るやうに願ひなさいと言つた。さうするとペルヴォントは、もつと其無花果と葡萄を下さるならばと答へた。

 若者の願ひ事は直ぐに叶つた。愈〻船は陸に着いたから、爰に廣大な御殿が建つて、家來も諸道具も何でも揃ふように、願つて下さいと姫が勸めると、それも卽座に其通りになつた。折角御殿が出來ても、あなたが其顏ではしようが無い。早くりりしい美靑年に變るやうに、願つて下さいと賴んでその願ひ事もかなひ、悦んで四人仲よくその御殿に住んで居た。

 そこへ父の王樣が狩に出て、路に迷うて偶然に訪ねて來る。二人の子はこれを見て、お祖父樣お祖父樣と大きな聲で言つたので、忽ち今までの一部始終が明らかになつた。それから善盡し美盡した[やぶちゃん注:「善(ぜん)を盡(つ)くし美(び)を盡くした」と訓読しておく。欠けるものがなく、完璧であること。美しさと立派さをきわめているさま。「尽善尽美(じんぜんじんび)」。]お取持を受けて、王樣は大いに喜び、聟の一家を王城に呼び迎へて、めでたく其國を相續させることになつたといふ話。

 

        

 

 バシレの五日物語(ペンタメロネ)の一の卷に、始めてこの昔話が採錄せられてから、もう彼是三百年になつて居る。斯んな輕妙な又色彩に富んだ物語が、一つの昔話のもとの形であつた筈は無いのだが、西洋の説話硏究者の中には、此本が餘り古いために、丸のまゝで其起原を説かなければならぬ樣に、思つて困つて居る人もあるらしい。實際また後に發見せられた國々の昔話は、どれもこれも形が是とよく似て居て、たゞ比較の數を重ねて行くうちに、最初力を入れて語つて居た點が、案外な部分に在つたといふことに氣づくだけである。つまり十七世紀よりもずつと以前、又恐らくは歐羅巴以外の地に、既に話術といふものゝ發達はあつたので、それが又頗る今日のものと、異なる法則に指導せられて居たらしいのである。

[やぶちゃん注:「バシレの五日物語(ペンタメロネ)」Pentamerone(イタリア語:ペンタメローネ/ペンタメロン:五日物語)は、十七世紀初めにナポリ王国の軍人で詩人でもあったジャンバティスタ・バジーレ(Giambattista Basile 一五七五年?~一六三二年)が「ジャン・アレッシオ・アッパトゥーティス(Gian Alessio Abbattutis)」というペン・ネームで執筆したナポリ方言で書かれた民話集(刊行は彼の死後の一六三四年~一六三六年)。書名は中世イタリアのフィレンツェの詩人で小説家のジョヴァンニ・ボッカッチョ(Giovanni Boccaccio 一三一三年~一三七五年)の代表作「デカメロン」(Decameron:ギリシャ語の「十日」を意味する“deka hemerai”(ラテン文字転写) に由来。一三四九年から一三五一年に執筆)に倣ったもの。同書の「一日目」の第三話で、イタリア語サイトを見ると、主人公の綴りは Peruonto(音写は「ペルオント」か)、王女のそれは Vastolla(「ヴァストーラ」か)。英文ウィキの「Peruontoはある。]

 グリムの第五十四話の「愚か者ハンス」では、如何にしてとんまの靑年が、願ひ事の何でもかなふ力を持つに至つたかを述べてない。其代りに父の王樣が訪ねて來た時に、姫が知らぬ顏をしてもう一度男に「願ひ事」をさせる。寶物の玉の杯がいつの間にか老いたる王のかくし[やぶちゃん注:ポケット。]に入つて居て、王樣は盜賊のぬれ衣を干しかねて[やぶちゃん注:晴らし(雪(すす)ぎ)兼ねて。]當惑する一條が附いて居る。それ御覽んなさい。だから無暗に人に惡名を着せてはいけませんと言つて、始めて親子の名のりをすることになつて居る。ジェデオン・ユエの民間説話論の中には、多分最初は斯んな形であつたらうといふ想像の一話を復原して載せて居るが、是も結末にはこの小さな仕返しを説いて居り、發端は若者が漁に出て物いふ魚の命を宥し[やぶちゃん注:「ゆるし」。]、御禮に願ひ通りの力を貰つたことにして居る。それから不思議の父なし兒に、父を見付けさせる方法としては、何か小さな物を其子の手に持たせて、それを無心に手渡しする相手が、誠の父だといふやうに話す例が最も多いさうで、是が恐らく上代の慣習であつたらうとユニは言つて居る。グリムの説話集でも、子供がシトロンの實を手に持つて城の門に立ち、入つて來る國中のあらゆる若者の中で、最も見にくい顏をした貧乏なハンスに、それを渡したことになつて居るのである。

[やぶちゃん注:『グリムの第五十四話の「愚か者ハンス」ともに言語学者で文学者であった、ヤーコプ・ルートヴィヒ・カール・グリム(Jacob Ludwig Carl Grim  一七八五年~一八六三年)と弟ヴィルヘルム(Wilhelm 一七八六年~一八五九年)のグリム兄弟の「グリム童話」(Grimms Märchen:正式名Kinder- und Hausmärchen(子供達と家庭の童話))は一八一二年に初版第一巻が、一八一五年に第二巻が刊行されているが、著者の生前から数度改訂されつつ、版を重ねており、このHans Dumm(「馬鹿のハンス」)は第二版でDer Ranzen, das Hütlein und das Hörnlein(「背嚢と帽子と角笛」)に削除・差替された一話である(ウィキの「グリム童話の一覧」他に拠る)。ウィキの「ハンスのばか」も参照されたい。また、この話について柳田國男は翌年の昭和七(一九三二)年一月の『方言と國文學』に発表した「物言ふ魚」でも言及している。『柳田國男「一目小僧その他」附やぶちゃん注 物言ふ魚 七を参照されたい。

「ジェデオン・ユエの民間説話論」フランスの文献学者で民俗学者でもあったジェデオン・バスケン・ユエ(Gédéon Busken Huet 一八六〇年~一九二一年)の作品らしいが、原題を探し得なかった。石川登志夫訳・関敬吾監修「民間説話論」として同朋舎出版から一九八一年に翻訳が出ているのが、最も新訳のもののようではある。

「シトロン」Citron(英語)。ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン Citrus medica。インド原産の蜜柑の一種でアジアで古くから栽培され、今日ではコルシカ島を始め、地中海地方で主産する。近縁種であるレモン(ミカン属レモン Citrus limon)に似ているが、葉や果実がより大きく,香りもより強く、酸味が強いため、生食は出来ず、果皮を砂糖漬にする。]

 ユエなどの考へて居る昔話の「最初の形」なるものが、果してどの程度の最初であるかを私は知らぬが、日本に生れて自國の口碑に興味を有つ者ならば、此昔話の複合であり、又ある技藝の産物であることを認めるに苦しまないであらう。少なくとも曾てこの樣な形を以て、人に信ぜられたことがあつたかの如く、説かうとする樣な無理な學問を、日本人だけは受賣りする必要が無いのである。

 

        

 

 大體この一篇の古い昔話には、八つほどの奇拔な話の種が含まれて居る。その一つは微力な見すぼらしい貧しい靑年でも、ある靈の力の助けが有るならば出世をする事、もしくは英雄が始めはそんな姿で隱れて居たことである。是は桃太郞でも安倍晴明でも、日本にも異國にも弘く行渡つた昔話の型であつて、第二の非凡なる「如意の力」と共に、寧ろ餘りに普通であることを、不思議と言はなければならぬ位である。

 第三には處女の受胎、それがたゞ一言のうけびによつて、忽ち效果を現じた例だけは日本には無いが、其代りには東方の諸國には丹塗りの矢もしくは金色の矢といふ珍らしい形があつて神と人間との神祕なる婚姻を語つて居る。第四にはうつぼ舟に入れて海に洗すといふこと、是はわが邦にも色々の傳へがある。大隅の正八幡では七歳の王女、父知らぬ兒と共に此中に入れられて、唐から流れ著いたのを神に祭つたといふ記錄もあり、それは又朝鮮の古代王國の創始者の奇瑞でもあつた。

[やぶちゃん注:最終の一文の伝承は私の「柳田國男 うつぼ舟の話 四」や、『柳田國男「一目小僧その他」附やぶちゃん注 流され王(4)』を参照されたい。]

 第五には小童の英明靈智であるが、爰では之に伴なうて第六の父發見の方法が問題になる。宮古島の神代史を飾つている戀角戀玉[やぶちゃん注:「こひつの」・「こひたま」。]の物語に於ては、この二人の女の子のみは、人の怖るゝ大蛇を自分の父と知つて、背に攀ぢ頸を撫でゝ喜び戲れたと言つて居る。播磨風土記の道主姫[やぶちゃん注:「みちぬしひめ」。]の父なくして生める兒は、盟び酒[やぶちゃん注:「うけびざけ」。]の盃を手に持つて、これを天目一箇命[やぶちゃん注:「あめのまひとつのみこと」。]に奉つた故に、乃ちその神の御子であることが分つたと傳へられる。山城風土記の逸文に出て居る賀茂の別雷大神[やぶちゃん注:「わけいかづちのおほかみ」。]の御事蹟は、恐らく神話として久しく信ぜられたものと思ふが、前の例よりも今一段と具體的である。外祖父の建角身命[やぶちゃん注:「たけつぬみのみこと」。]は八しほり[やぶちゃん注:「やしほり」。]の酒を釀して[やぶちゃん注:「かもして」。]神々を集め、七日七夜のうたげを催した。それから汝の父と思はん人に此酒を飮ましめよと言つて、杯を其童子の手に持たせると、童子は天に向つて祭をなし、直ちに屋の瓦を分け穿ちて天に昇りたまふとあるのは、卽ち御父がこの地上の神で無かつたことを語るものであつた。

[やぶちゃん注:「戀角戀玉」サイト「沖縄情報IMA」の宮古島にある、首里王府公認の島内最高の霊場とされる「漲水御嶽(はりみずうた)」の解説によれば、未だ、『この世界に人が現れる以前、恋角{(古意角)こいつの}・恋玉{(姑依玉)こいたま}の二神が漲水に天降り、一切のものを生みだして昇天しました』。『この跡地に建てられた御 嶽が漲水御嶽です』。『それから数百年後、平良のすみや里の夫婦の娘が聟を取る以前に妊娠してしまいます。驚いた父母が娘に問うと、毎夜』、『清らかな若者がきて』、『夢心地になっているだけだと語ります。不審に思った父母は、とても長い糸をつけた針を若者の髪に刺すよう に指示し、翌朝糸をたどって行くと、漲水御嶽の洞窟に、首に針を刺した大蛇に出会います。その夜、若者は娘の夢に現われ、「我はこの島を創った神恋角の変化なり、この島の守護神を仕立てるために汝に思いをかけた』。三『人の娘が生れ』、三『歳になったら』、『連れてくるように。」と告げます』。『やがて娘』三『人が生れ』、三『歳になって連れていくと』、三『人はそれぞれ大蛇の 首、腰、尾に抱きつき』、『睦まじい様をみせ、大蛇は光を放って天に昇り』、三『人の娘達は御嶽内に姿を消して』、『宮古の守護神になりました』。『また、島始神託という古文書では、天界の古意角という男神が、天帝に島づくりを願い出ると、天帝が天の岩戸の先端を 折り海に投げいれると出来た島が宮古であるという話も伝わっています』とある(末尾に、以上の『一部は宮古毎日新聞さんの記事を参考にさせていただきました』という添書きがある)。

「播磨風土記の道主姫の父なくして生める兒は、盟び酒の盃を手に持つて、これを天目一箇命に奉つた故に、乃ちその神の御子であることが分つたと傳へられる」「播磨國風土記」の託賀(かみ)の里の条。岩波文庫の武田祐吉編「風土記」を参考にして引く。

   *

託賀の里【大海山(おほみやま)、荒田の村。】土は中の上なり。右は、川上(かはかみ)に居(を)るに由りて名と爲す。大海と號(なづ)くる所以(ゆゑ)は、昔、明石の郡(こほり)大海の里人、到-來(きた)りて、この山底(やまもと)に居りき。故(かれ)、大海山といふ。松を生ず。荒田(あらた)と號くる所以は、此處に在(い)ます神、名は道主日女(みちぬしひめ)の命(みこと)、父無くして、兒(こ)生みき。この爲に、盟酒(うけひざけ)を釀(かも)さむとして、田(た)七町(なゝまち)を作るに、七日七夜(なぬかなゝよ)の閒(ほど)に、稻、成-熟(みの)り竟(を)へき。すなはち、酒を釀し、諸(もろもろ)の神たちを集(つど)へ、その子をして酒を捧げて、養(みあ)へせしめき。ここに、その子、天(あめ)の目一(めひとつ)の命(みこと)に向きて奉る。すなはち、その父なることを知りき。後、その田、荒れき。故(かれ)、荒田の村と號く。

   *

この「荒田の村」は現在の兵庫県多可町中区及び加美区辺りを指す広域地名だったらしい。この附近(グーグル・マップ・データ)。参照したのは「播磨広域連携協議会」公式サイト内の「はりま風土記紀行」の「古の播磨を訪ねて~多可町 編」で、そこには、「播磨国風土記」には、『「荒田という名がついたのは、ここにいらっしゃる女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が、父神がいないのに御子をお産みになりました。父親の神が誰かを見分けるために酒を醸造しようとして、田七町(約』七『ヘクタール)を作ったところ、七日七夜ほどで稲が実りました。そこで酒を醸造して、神々を集め、生まれた御子に酒を捧げました。すると、その御子は、天目一命(あめのまひとつのみこと:鍛冶の神)に向かって酒を捧げましたので、その御子の父親と分かりました。後に、その田が荒れてしまい、『荒田』という名前がつきました。」とあります』。「播磨国風土記」には、何故、『田が荒れてしまったかは記載されていません』。『しかし、アメノマヒトツノミコトは「鍛冶の神様」であることから、鉄穴(かんな)流しやタタラ製鉄等の金属精錬が盛んになるにつれ、河川下流域に大量の土砂が流出して農業灌漑用水に悪影響を与えたり、大量の木炭を燃料として用いるために山間部の木がなくなってしまったりして、田が次第に荒れていったと考えられているようです』。『現在、多可町中区には安楽田(あらた)という地名があり』、『また、隣の区の多可町加美区的場には』、『見るからに荘厳な式内社』であった『荒田神社が鎮座していますし、加美区には奥荒田という地名も存在しています』。『したがって、播磨国風土記に出てくる「荒田」という地名は、今の多可町中区・加美区辺りの広範囲をそう呼んでいたと思われます』とある。先行する柳田の論考である『柳田國男「一目小僧その他」附やぶちゃん注 流され王(9)』も参照されたい。

「山城風土記の逸文に出て居る賀茂の別雷大神の御事蹟」「外祖父の建角身命は八しほりの酒を釀して神々を集め、七日七夜のうたげを催した。それから汝の父と思はん人に此酒を飮ましめよと言つて、杯を其童子の手に持たせると、童子は天に向つて祭をなし、直ちに屋の瓦を分け穿ちて天に昇りたまふとある」「風土記」の逸文の「山城の國」の最初にある「賀茂の社」。同前で示す。

   *

   賀茂社

山城の國の風土記に曰はく、賀茂の社、賀茂と稱(まほ)すは、日向(ひむか)の曾(そ)の峯[やぶちゃん注:=日向(ひゅうが)の高千穂の峰。]に天降(あも)りましし神、賀茂(かも)の建角身の(たけづのみ)命(みこと)、神倭石余比古(かむやまといはれひこ)[やぶちゃん注:=神武天皇。]の御前(みさき)に立ちまして、大倭(やまと)の葛木山(かつらきやま)の峯に宿りまし、そこより、ややややに遷りて、山代の國の岡田の賀茂に至り給ひ、山代河[やぶちゃん注:=木津川。]のまにま、下りまして、葛野河(かどのがは)[やぶちゃん注:=桂川。]と賀茂河との會ふ所に至りまし、賀茂川を見(み)はるかして、言(の)りたまひしく、「狹(さ)く小(ほそ)かれども、石川の淸川(すみかは)なり。」と宣(の)り給ひき。仍(よ)りて名づけて石川の瀬見(せみ)の小川と曰(い)ひき。その川より上りまして、久我(くが)の國の北の山基(やまもと)に定(しづま)りましき。その時より、名づけて賀茂といへり。賀茂の建角身の命、丹波(たには)の國の神野(かみの)の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)を娶(よば)ひて生みませる子、名を玉依日子(たまよりひこ)といひ、次を玉依日賣(たまよりひめ)といひき。玉依日賣、石川の瀨見の小川に川遊びせし時、丹塗(にぬり)の矢、川上より流れ下りき。すなはち取りて、床(とこ)の邊(へ)に插し置き、遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生みき。人と成る時に至りて、外祖父(おほぢ)建角身の命、八尋屋(やひろや)を造り、八つの戸-扉(とびら)を竪(かた)め、八腹(やはら)の酒を釀(か)みて、神集(かむつど)へ集へて、七日七夜(なぬかなゝよ)樂-遊(うたげ)し給ひて、然して子と語らひて言(の)り給ひしく、「汝(な)の父と思はむ人に、この酒を飮ましめよ」と宣り給へば、すなはち、酒坏(さかづき)を擧(さゝ)げて、天(あめ)に向ひて祭を爲し、屋(やね)の甍(いらか)を分け穿(うが)ちて、天に昇(のぼ)りき。すなはち、外祖父(をほぢ)の名に因りて、賀茂(かも)の別雷(わきいかづき)の命(みこと)と號(まを)す。いはゆる丹塗の矢は、乙訓(おとくに)の郡(こほり)の社(やしろ)に坐(ま)せる火雷(ほ)の雷(いかづち)の命(かみ)なり。賀茂の建角身の命と、丹波の伊可古夜日賣と、玉依日賣と、三柱(みはしら)の神は、蓼倉(たでくら)の里の三井の社に坐(ま)せり。

   *]

 第七には世にも稀なる幸運の主が、妻に教へられ勸められるまでは、少しも自分のもつ力の大いなる價値に心づかず、これを利用しようともしなかつた點、これは日本では炭燒長者の話として傳はつて居る。これが八幡神の聖母受胎の信仰と關係あるらしいことは、『海南小記』といふ書に前に説いてみたことがある。第八の特徵はペンタメロネにはまだ見えておらぬが、僅かな人間の智慮を以て、勝手に此世の出來事を批評してはならぬといふ教訓、これが又我々の國に於ては、實に珍らしい形を以て展開して行かうとして居るの である。今日の笑話の宗教的起原ともいふべきものを、深く考へさせるような屁[やぶちゃん注:「へ」。]の話が是から出て居る。最近に壹岐島から採集せられた一つに、昔ある殿の奧方が屁をひつた咎によつて、うつぼ舟に入れて海に流される。それが或島に流れ著いて玉のやうな男の子が生れる。其童子が大きくなつて茄子の苗を賣りに來る。これは屁をひらぬ女の作つた茄子だといふと、殿樣が大いに笑つて、屁をひらぬ女などが世の中にあるものかといふ。それなら何故にあなたは私の母を、うつぼ舟に入れて海に御流しなされたかと遣り返して、めでたく父と子の再會をするといふ話。是が他の地方に於てはうつぼ舟を伴なはぬ代りに、屁をせぬ女が栽ゑると黃金の實が結ぶ木とか、又は黃金の瓜とかいふ事になつて居り、又沖繩の久高島では、その種瓜が桃太郞の桃の如く、遠くの海上から流れて來たことにもなつて居る。人が長老の語ることを皆信じ得た時代には、斯んな笑ひの教訓なども入用は無かつたらうが、後に疑ふ人が少しづゝ現はれて、話し方は追々巧妙に、また複雜になつて來たのである。それに又國限りの孤立した發達があつて、比較は何よりも意味の多いことになつた。西洋の説話硏究者たちが、素材のなほ豐かなる日本の口碑蒐集に、深い注意を拂つて居るのは道理あることである。

   (昭和六年七月 朝日グラフ)

[やぶちゃん注:最終行の注記は底本では本文最終行の下一字上げインデント。「朝日グラフ」はママ。冒頭注で示した通り、ちくま文庫版全集第八巻では『アサヒグラフ』。

「『海南小記』といふ書に前に説いてみたことがある」『海南小記』は大正一四(一九二五)年大岡山書店刊の評論集。当該の、同論集の中の「炭燒小五郞がこと」(十二章から成り、単行本書き下ろし論文と思われる)は次回にここで電子化を予定しているので、注は附さない。

「今日の笑話の宗教的起原ともいふべきものを、深く考へさせるような屁の話が是から出て居る」後で柳田が述べているように、これは「金(きん)の瓜(うり)」「金の茄子(なす)」或いは「黄金の成る木」等とも称され昔話の一類型。「ブリタニカ国際大百科事典」では、『放屁したために奥方の座を追われた母の過去を知った男の子が、』十三になって『殿様の屋敷に黄金の瓜の種を売りに行き』、『「屁をひらぬ者がまかねばならぬ」と言い』、『「世の中に屁をひらぬ人間があるか」と殿様に言わせ』、『結局』、『母は奥方の座に戻り』、『自分は跡取りになる』というストーリーで、沖縄・奄美・鬼界ヶ島・壱岐・佐渡などの、『主として』島嶼部に『分布している。瓜のほか』、茄子や『金のなる木などになっている話もあり』、『類話に「銭垂れ馬」その他がある』とあり、平凡社「世界大百科事典」では、放屁『した罪で殿様が妃をうつぼ舟で流す。妃は懐妊していたので』、『流離中に男の子を生む。子どもが成長してその真相を知り』、『放屁しない人が植えると金のウリが実るウリ種を売りに出かける。城に行くと』、『殿様が放屁しない人間はないと言う。子どもは妃の放逐を問い責める。殿様は』『自分の子どもであることを悟り』、『母子を城に招き』、『子どもを跡継ぎにする。少年の英知と機転そして知謀の小気味良さを主題にした物語である』とある。所謂、貴種流離譚の一変形でもある。

「沖繩の久高島では、その種瓜が桃太郞の桃の如く、遠くの海上から流れて來たことにもなつて居る」サイト「日本し」久高島採集民話のうり」を参照されたい。]

2018/09/17

柳田國男 うつぼ舟の話 七 / うつぼ舟の話~了

 

        

 

 もう澤山と言はれるといやだから、最後に此話の成長した例を三つばかり附け加へて、饒舌の區切りとしようと思ふ。舞の本では大職冠の一曲に、鎌足勅命を奉じて海底の明珠を求めんとする時、龍王これをすかし返さんがために、乙姫のこいさい女という美人を、うつぼ舟に作りこめて、浪の上に推し揚げるという趣向がある。

     流れ木一本浮んであり

     かこかん取之を見て……

     沈香にては無し

     恠しや割つて見よとて

     此木を割つて見るに

     何と言葉に述べ難き

     美人一人おはします

とあつて、見た所は流材の如く、割つて見なければ中に美人の居ることが知れなかつた。卽ちこの位でないと海底の龍宮から往來することはむつかしいと考へたのである。

[やぶちゃん注:「舞の本」「大職冠」柳田國男が引用したものとは異なるものの、塩出貴美子の労作『奈良絵本「大織冠」について―個人蔵本の翻刻と釈文―』PDF)でストーリーを読むことが出来る。

「かこかん取」「水主(かこ)」で「かんとり」は「楫取(かぢとり)」で、船の船主や楫取りらは、の意ではないかと思われる。

「沈香」は「ぢんかう(じんこう)」。香木。]

 之とは反對に肥後の八代地方で、牡丹長者の物語として今も歌はれて居るものは、潜航艇も及ばざる念入りの細工であつた。牡丹長者には三人の子息あり、二人はそれぞれ立派な里から嫁を取つたが、末弟の嫁御は卽ち貴人の出であつた。主要なる文句を拔書きして見ると、

     弟嫁殿(おとよめどの)の最初を聞けば

     元は源氏の公卿衆の娘

     少しばかりの身の誤りで

     うつろ舟から島流された。

     紫檀黑檀唐木(からき)を寄せて

     京の町中の大工を寄せて

     さても出來たやうつろの舟が

     びどろさまにはちやんなど掛けて

     夜と晝との界がわかる。

     金と銀との千よーつ(マヽ)かいて

     中に立派な姫君入れて

     なんじ(マヽ)灘より押流されて

     こゝの沖には五日はゆられ

     そこの沖には七日は搖られ

     流れついたが淡路の島よ

     島の太夫の御目にかゝる。

     うつろ舟とは話にやきけど

     ほんに見たこと今度が始めよ

     拾ひ上げてくづして見れば

     中に立派な姫君さまに

     頭に天冠ゆらゆら下げて

     その日その日の食事をきけば

     蘇鐵團子やこくど(マヽ)の菓子よ

     菓子の中でも上菓子ばかり

     一つあがれば七日の食事

     二つ上がれば十四日の食事

     それが立派な食事でござる。

     國はいづこか名はなにがしか。

     國は申さは耻かしけれど

     元は源氏の公卿の娘

     少しばかりの身の誤りで

     うつろ舟から島流された。

     あらば太夫もこれ聽くよりも

     國に還るか緣付きするか

     うつろ舟から流されたから

     二度た我家に還りはならの

     御世話ながらも緣付き賴む。

     あらば太夫も御喜びで

     牡丹長老の弟嫁に

 是も常陸の濱の人と共に、食事の點ばかりを氣にして居るが、蘇鐵團子は如何にも殺風景で、天冠をゆらめかす女性とも思はれぬ。ビードロやチャンを説くから時代も凡そ窺はれるが、近代無心の語部(かたりべ)の力でも、此程度の潤色は困難ではなかつたのである。思想統一の感謝すべき影響に由つて、九州の南の端でも夢の樂土は平安の京であつた。遠く唐天竺を求める必要もなかつたのである。

[やぶちゃん注:「牡丹長者」みんみん氏のブログ「夢の浮橋 大分県の唄と踊りの覚書」の「牡丹長者(77段物)」で、柳田の採録とは異なったものであるが、口説の全体像が判る。それによれば、『鶴姫が牡丹長者の三男に嫁ぐまでの波乱万丈の物語り。他県』(『奥州仙台』)『を舞台にした口説ではあるが、大分でも広く親しまれたようだ』とある。それにしてもこれは、強烈だ。「うつろ舟」が「びどろ」(ビードロ=硝子(ガラス))「さまにはちやん」(チャン=瀝青(chian turpentine の略とされる):タールを蒸留して得る残滓又は油田地帯などに天然に流出して固化する黒色乃至濃褐色の粘質又は固体の有機物質で、道路舗装や塗料などに用いるピッチのこと)「など掛けて」「夜と晝との界がわかる」(上部がガラス張りだから)「金と銀との千よーつ(マヽ)かいて」(金色と銀色の金属製の蝶番(ちょうつがい)か。上部カバーが開閉システムと採れる)「中に立派な姫君入れて」ときた日にゃ、「どうだ! これが「兎園小説」の素材だ!」と鼻先に突き出されて言われれば、「ご説御尤も!」と平服せざるを得ない気はする。

 しかし、である。柳田はこの採取時期と採取された唄の学術的な推定時期を明確に述べていない。「ビードロやチャンを説くから時代も凡そ窺はれる」とある「時代」を、「兎園小説」の「虛舟の蠻女」が「兎園会」で公開された文政八(一八二五)年十月二十三日よりも前、ひいてはそこで漂着があったとしている享和三(一八〇三)年二月二十二日よりも遙かに前であると無批判に読み替えることは出来ない。否、寧ろ、同時代的でさえある。その証拠に、柳田は続けて「近代無心の語部(かたりべ)の力でも、此程度の潤色は困難ではなかつた」と述べているが、この「近代」とは何時を指しているのか? 本篇が書かれた大正一五(一九二六)年に私が居たとして、私は享和・文化・文政期を「近代」とは呼ばないだろう。「牡丹長者」という古い伝承譚だから、そこに出る定型詩的歌謡だから、えらく古いものだと思ってはいけない。私は、この歌詞は決して古いものではないと感じたのである。

 そこで調べて見た。TO7002氏のブログ「実録!!ほんとにあった(と思う)怖い話」の「UFO&美人宇宙人IN江戸時代 3」で「虛舟の蠻女」を考証する中で、本柳田の論文を紹介し(但し、このブログ主はこの牡丹長者の話が馬琴の元ネタである可能性を支持している)『「牡丹長者」=「ばんば踊り」は、「音頭(口説)」の内容から相当古いものと考えられていますが』、『一説には江戸時代後期(「兎園小説」が書かれた頃)に盛んになったと言われています』。『当時の延岡への流通は海運(千石船)によって成されており、「牡丹長者」は千石船によって、上方経由で江戸まで伝わった様です』。『古今東西の伝承・民話を収集し、それをモチーフにして南総里見八犬伝などの名作を創作した馬琴ですから、「うつろ舟の伝承」やその類話の「牡丹長者」を「うつろ舟の蛮女」の下敷きにしても不思議ではないと思います』とあったこの情報には大いに感謝する。因みに、このブログ主の考証は一部に私の考証と妙に一致を見る部分がある(氏の記事は二〇〇九年で、私のページ(二〇〇五年公開)へのリンク等はない)。別にそれはそれで本譚と同じように偶然の一致でいいのだが、少なくとも第一回目で使用しておられる「兎園小説」の画像は、トリミングから見て、私の公開版で私がスキャンしたそれを用いていることは確実である(比較されれば一目瞭然)。私の公開版画像を誰かがどこかに転載したものをTO7002氏がそのまま使用したものかも知れぬが、一言言っておく)。則ち、TO7002氏の調査によれば、本「牡丹長者」の唄が、本「虛舟の蠻女」よりも後に成立した可能性も否定出来ないことが判るのである。柳田國男が鬼の首捕ったように、最後の最後で厭らしく「どうよ!」と突き出したそれが、実は逆に「虛舟の蠻女」の挿絵と話を元に改作されたものでなかったとは断言出来ないということなのである。

 言っておくが、私の「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」での考証を読んで戴ければ判る通り、私はそこに書かれた「虛舟の蠻女」という「空飛ぶ円盤」みたような未確認物体の漂着と、その中のジョージ・アダムスキイが会見したとのたもうた、美人火星人の如き外国人女性の存在を無批判に肯定する立場には実は立っているものではない。ただ、あらゆる可能性を残しておいて考察することが、本話を真に民俗学的・文化史的・精神分析学的な有意味にして有意義な読解の多角的面白さを保持し得ると考えているのである。ところが、柳田國男は本話を紹介した初っ端(ぱな)から、「疑ひも無く作り事であ」り、「蠻女とうつぼ舟との見取圖なるものに至つては、いゝ加減人を馬鹿にしたものであ」り、「舟の中に書いてあつたと稱して、寫し取つて居る四箇の異形文字が、今では最も明白に此話の駄法螺なることを證明する」ものだとして退けておいて、この最後の最後になって、厭ったらしく、やおら、「牡丹長者」の、製作時期も不確かな妖しげな唄を掲げては、「どうよ?!」とほくそ笑んでいるのである。この順序が私には到底、正統な民俗学的に誠実な考察法・論証法だとは思われないのである。こう言い換えてもよい。則ち、正直、柳田國男が有り難く奉天して真面目に論考対象としている「古事記」の神話から天皇を現人神とするような伝説・伝承の総て、「一寸法師」「桃太郎」「花咲爺さん」といった昔話の総て、ついこの間まで市井の人々の多くが信じていた「一つ目小僧」のような物の怪・幽霊・妖怪といった総てこそが、「疑ひも無く作り事であ」り、「いゝ加減人を馬鹿にしたものであ」り、「今では最も明白に」その「話の駄法螺なることを證明する」ものではないか。柳田は明らかに、怪しい非論理的な形で〈近代〉〈現代〉という線引きを無意識に措定してしまい、民俗学の研究の対象の核心や真理は、その線引き以前にのみあると考えているようである。彼が「昔話」と「噂話」を区別した時点で、近現代の「噂話」を考現学的心理学的な側面からの民俗学的研究の対象物としては明らかに下らぬもの、対象足らざるものと考えているとしか思えないのである。彼は「虛舟の蠻女」の最後で、評した馬琴のことを「例の恐ろしく澄ましたことを言つて」終っていると、如何にもイヤ~な唾を吐いているが、本篇自体が、最後にトッテオキの(と柳田は考えているらしい)隠し玉を出して「例の恐ろしく澄ましたことを言つて」鼻で笑って文を終わらせているのは、馬琴ではなく、そう言った柳田國男自身である、と私は思うのである。

「蘇鐵團子」(そてつだんご)は本邦の南西諸島では中世から近代まで食用(救荒食)とした。但し、裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta は神経毒で発癌性をも持つアゾキシメタン(Azoxymethane)を含む配糖体サイカシン(Cycasin)を、種子を含めた全草に有し、サイカシンは摂取後、体内で有毒なホルムアルデヒド(formaldehyde:水溶液がホルマリン(formalin))に変化し、急性中毒症状を惹き起こす。しかし一方で、ソテツは澱粉質を多く含むため、幹の皮を剥いで石臼で潰した上で、長い時間、水に晒して発酵させ、後に乾燥するなどの煩瑣な処理を経て、サイカシンを除去して食用とした。凶作期の飢餓の中、処理が不全で、サイカシンによる急性中毒で死亡することもままあり、それを飢餓地獄に対し、「蘇鉄地獄」とさえ呼んだ怖ろしい食物であった。

「こくど」不詳。「菓子」からの連想では私は「黑奴」の肌のような「菓子」でチョコレートを想起したが、違うだろう。いや、そうだったら、この歌詞は明らかに「虛舟の蠻女」より後だ

「二度た我家に還りはならの」「二度(にど)たぁ我が家に還ることはならんのよ」の意の方言か近世口語か。]

 

 たゞ悠久の年代の間に、肝要な一點だけが村の人々には理解し得られぬやうになつた。鹿兒島灣の西北隅、大隅牛根鄕の麓部落では、岡の中腹に居世(こせ)神社がある。舊記に依れば大昔の十二月二十九日の夜、此地に住む一農夫、潮水を汲まんとして海の渚に到るに、空艇一艘漂流して船中に嬰兒の啼聲がする。火を照らしてこれを見れば七歳ばかりの童子であつたとあるから、嬰兒の啼聲は如何かと思ふ。是れ欽明天皇第一の皇子であるが、ある時雪中に庭に下り、跣足にて土を踏み玉ふにより、御擧動輕々しくもはや大御位を嗣ぎたまふべからずとあつて、空船に乘せて海に流しまつると謂ふ。空船は恐らくは亦空穗舟のことであらう。此皇子は農夫之を奉仕して養育したが、十三歳にして御隱れなされたので社の神に祀ると傳へ、別に御潜居の地が社の東三町の邊にあつた。皇子流寓の古傳は何れの地方でも、大抵は神社の由來である。薩隅では天智天皇或年巡遊なされ、玉依姫といふ美人を御妃に召されて、男女數所の若宮を御留めなされたことになつて居る。いかにも正史と一致せぬ故に、多分は彦火々出見尊[やぶちゃん注:「ひこほほでみのみこと」。]の御事を誤り傳へたものと、土地の學者たちは解して居たらしいが、是はやはり神話を歷史化したいといふ人情からであつた。居世神社の皇子の「少しばかりの身の誤り」は、殊に史實として考へることがむつかしい。たゞ至尊土を踏みたまはずと信ずる者が田舍にはあつたことゝ、社の神は斯うして遠くから、祭られに來たまふものと思ふ風が、或時代には盛んであつたことゝは、この舊記一つでも推測し得られ、十二月の廿九日の潮汲みが、元は年々の正月神の御迎への用意であつたのを、いつしか此樣に固定したことも、幽かながらわかつて來るのである。

[やぶちゃん注:以上は『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(9)』の本文と私の注を参照されたい。]

 神代の舊史に於ては、諾册[やぶちゃん注:「だくさつ」。伊弉諾(いさなき)と伊奘冊(いさなみ)。]二尊の最初の御子を葦船に入れて流し去ると書いている。「書紀」には天磐樟船[やぶちゃん注:「あめのいはくすふね」。]と出ているが、それが如何なる形狀のものであるかは、もう西村眞次君より他に知る者が無くなつた。況や何の趣旨を以て、正史に此一條を存せねばならなかつたかは、考へて見やうも無いのである。たゞ後世に及んで、かの有名なる難波堀江を始めとして、不用の客神を海に送り出す風は有り、それが神自らの意圖に基づいて、或は逆流して本の主に復り、或は遠く流れて新たなる地に寄りたまふにしても、共に第二の地位が定まつて後に、始めて説き立てらるゝ習はしであるのに、獨り上代の水蛭子(ひるこ[やぶちゃん注:三字でかく読んでいると採る。ちくま文庫版全集もそうなっている。])の君ばかり、單なる放流の箇條のみを以て顯はされて居るのは、恐らくは完全な記錄でなかつたらう。例に取るのも唐突であるが、かつて賴政が紫宸殿の廂で退治した、啼く聲鵼(ぬえ)に似たりけりの怪物すら、尾足身首が切れ切れになつて、内海處々の岸に漂著し、乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]犬神・蛇神の元祖になつたやうに傳へられる。しかも京都の東郊には之を埋めたと云ふ鵺塚(ぬえづか)[やぶちゃん注:漢字表記の違いはママ。]もあるのに、神に近い芦屋浦の鵺塚でも、鵺漂著して之を埋めたことを主張するのみか、更に其乘物までも塚に納めたと稱して、鵺うつぼ塚といふのが滓上江(かすがえ)の村にあつた。ぬえなど空穗舟は無用の話と考へられぬでは無いが、現に謠曲の「鵺」でも、ぬえの精靈自身が出現して、

     賴政は名を揚げて名を揚げて

     我は名を流す空穗舟に

     押入れられて淀川の

     よどみつ流れつ行く末の

     うど野も同じ芦の屋の……

云々と、いつて居る位だから古いものである。

[やぶちゃん注:『「書紀」には天磐樟船と出ている』楠で造った堅牢な船とされるが、「古事記」では蛭子を載せて流したのは木製の舟ではなくて葦舟である。

「西村眞次」(明治一二(一八七九)年~昭和一八(一九四三)年)は歴史学者・考古学者・文化人類学者・民俗学者。ウィキの「西村眞次」によれば、『戦前日本において「文化人類学」の名を冠した日本語書籍を初めて上梓したことでも知られる』とある。大正七(一九一八)年に『母校の早稲田大学に講師として招聘され、日本史や人類学の講義を受け持』ち、大正一一(一九二二)年、『教授に昇進』、昭和三(一九二八)年には史学科教務主任』となっている(柳田國男の本篇初出は大正十五年)。昭和七年には「日本の古代筏船」「皮船」「人類学汎論」によって、『早稲田大学より文学博士号を受け』ているように、他のネット記載を見ても、彼の研究対象は多岐に亙ったが、中でも古代船舶に就いての研究が知られているという。

「難波堀江」(なにわ(の)ほりえ:現代仮名遣)は仁徳天皇が難波(現在の大阪市)に築いたとされる水路(又は運河)。ウィキの「難波堀江」より引く。「日本書紀」仁徳紀十一年の『記事に、「天皇は、洪水や高潮を防ぐため、難波宮の北に水路を掘削させ、河内平野の水を難波の海へ排水できるようにし、堀江と名付けた。」という内容の記述があり、堀江の成立を物語るものとされている』。『古墳時代中期は、ヤマト王権が中国王朝および朝鮮諸国と積極的に通交し始めた時期であり、ヤマト王権にとって瀬戸内海は重要な交通路と認識されていた。そのため、ヤマト王権は』四世紀末から五世紀初頭頃に『奈良盆地から出て、瀬戸内海に面した難波の地に都を移した。本拠となる難波高津宮(なにわの』『たかつのみや)は上町台地上に営まれたが、その東隣の河内平野には、当時は』「草香江(くさかえ)」又は「河内湖(かわちこ)」と『呼ばれる広大な湖・湿地帯が横たわっていた。上町台地の北から大きな砂州が伸びており、この砂州が草香江の排水を妨げて、洪水や高潮の原因となっていた』。『新たに造営された難波高津宮は、食糧や生産物を供給する後背地を必要としていた。そこで、ヤマト王権は河内平野の開発を企図し、草香江の水を排水するための水路を掘削することとした。水路は上町台地の北部を横断して難波の海(大阪湾)へ通じ、「堀江」と呼ばれるようになった』。『この堀江は伝説上の存在ではなく、実際に築造されたものと考えられている。築造の時期は』五『世紀前期と見られる。ただし、築造したのが本当に仁徳天皇だったのかについては、肯定派と懐疑派で見解が分かれている。堀江の流路としては、大阪城のすぐ北の天満川から大川をとおり、中之島の辺りで海に出るルートが推定されている。なお、大阪市西区に残る地名の堀江とは位置が異なる』。「日本書紀」に『よると、仁徳天皇は、堀江の開削と同時期に、淀川の流路を安定させるため』、『茨田堤(まむたのつつみ)を築造させている。茨田堤の痕跡が河内北部を流れる古川沿いに現存しており、実際に築造されたことが判る。堀江の開削と茨田堤の築造は、日本最初の大規模な土木事業だったのである』とある。

「京都の東郊には之を埋めたと云ふ鵺塚(ぬえづか)もある」平安神宮の向いの、現在の岡崎公園の中央附近に嘗て存在した。ウィキの「鵺」によれば、『京都の清水寺に鵺を葬ったという伝承との関連性は不明』だが、『発掘調査の結果、古墳時代の墳墓であることが判明している』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「神に近い芦屋浦の鵺塚」現在の兵庫県芦屋市浜芦屋町にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「鵺」によれば、「平家物語」で『川に流された鵺を葬ったとされる塚』とある。サイト「日本伝承大鑑」の「芦屋鵺塚」によれば、『一説によると、鵺の死骸は悪疫を招くということで丸木船に乗せて川に流してしまったらしい。そしてその死骸はどうやら大阪の都島に漂着したようである(ここにも【鵺塚】が存在する)。しかしここでも悪疫をもたらしたということで、更にまた舟に乗せられた死骸は流されることになった。最終的に漂着したのが、この芦屋の浜であったという訳である』。『芦屋の浜に打ち上げられた鵺の死骸であるが、やはりここでも祟りを起こし、悪疫をまき散らしたらしい。この付近の人々は祟りを恐れて、鵺の死骸を丁寧に葬った。それが【鵺塚】なのである。芦屋の浜から他所へ鵺が流れ着いたという話を聞かないから、多分鵺はここで本当に埋められた可能性が高い』とある。また、玉山氏のブログ「紀行歴史遊学」の「平安京で退治されたUMAでは当地に赴かれ、平成一七(二〇〇五)年三月のクレジットを持つ、芦屋市教育委員会の解説版を電子化されておられるので引用させて貰う(アラビア数字を漢数字に代えさせて貰った)。

   *

およそ八百年ものむかし、源頼政が二条院にまねかれ、深夜に宮殿をさわがしていた怪鳥をみごとに射落とした。

それはぬえ(鵺)といって、頭はサル、体はタヌキ、手足はトラ、尾はヘビという奇妙な化鳥であった。その死がいをウツボ舟(丸木舟)にのせて、桂川に流したところ、遠く大阪湾へ流され芦屋の浜辺に漂着した。浦人たちは、恐れおののき芦屋川のほとりに葬り、りっぱな墓をつくったという。

ぬえ塚伝説は、『摂陽群談』『摂津名所図会』などに記されているが、古墓にまつわる伝説の一つと思われる。

現在の碑は、後世につくられたものである。

   *

「其乘物までも塚に納めたと稱して、鵺うつぼ塚といふのが滓上江(かすがえ)の村にあつた」前注で示した玉山氏のブログ「紀行歴史遊学」の「平安京で退治されたUMAで、説明板に載る「摂陽群談」と「摂津名所図会」に載る「鵺塚」の条々が電子化されてあり、その両方の文中に、この「滓上江」にあった「鵺うつぼ塚」らしきものが出る。そこで私も国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像で当該項を探し、発見出来たので、如何に示す。まずは「攝陽群談」の巻第九「塚の部」に載るそれである。

   *

鵺塚 兎原郡蘆屋・住吉兩河の間にあり。俗傳云、近衞院御宇仁平三年[やぶちゃん注:一一五三年。「平家物語」では、『仁平の頃ほひ』で限定されていない。]、源三位賴政公の矢に射落されし化鳥、𦩞(ウツロブネ)[やぶちゃん注:「𦩞」の(つくり)は正確には「兪」。「攝津名所圖會」のそれも同じ。]〕に入て、西海に流す。此浦に流寄て、留る事暫あり。浦人取之、是に埋み、鵺塚と成し、側に就て祀祭の所傳たり。亦東生郡滓上江(カスガエ)村に、鵺塚あり。蘆屋浦に鵺を取て埋之、其柯[やぶちゃん注:音「カ」であるが、意味不詳。この字は「草木の枝や茎」或いは「斧の柄」であるから、或いは鵺の翼の茎か?]を捨て海に流す。潮逆上て滓上江に寄り[やぶちゃん注:「よれり」か。]。拾之以て鵺〔舟+兪〕塚と成す歟と云の一説あり。蘆屋浦には、北岡に叢祠在て、鵺之社と號祭る[やぶちゃん注:「號(がうし)、祭る」と読んでいよう。]。東西遙に隔て、同じ號あり。其證、所緣、不詳。

   *

次に「攝津名所圖會」の巻七のそれも、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら同書の当該項の画像で起こす。

   *

鵺塚 葦屋川住吉川の間(あひだ)にあり。今さだかならず。むかし源三位賴政、蟇目(ひきめ)にて射落したる化鳥(けてう)、𦩞(うつぼぶね)[やぶちゃん注:前の太字注参照。]に乘て西海(さいかい)へ流す。此浦に流れよりて止(とゞま)るを、浦人こゝに埋(うづ)むといふ。又東成郡(ひがしなりごほり)滓上江村(かすかえむら)の東田圃(ひがしでんぽ)の中にも、鵺冢(ぬえづか)と稱するあり。何れも分明(ぶんみやう)ならず。按ずるに又鵺の事も一勘(かん)あり。別記に書す。

   *

この二篇について、玉山氏氏は『『摂津名所図会』の記述は、『平家物語』、謡曲「鵺」、『摂陽群談』の内容が融合しているようだ。伝説が独り歩きしている。芦屋市教委の説明板は、その到達点といえよう』とされ、『芦屋の鵺塚の場所は、芦屋川と住吉川の間にあるという。本日紹介している碑は、芦屋川の東側にあり、住吉川との間ではない。しかも、鵺塚の場所は定かでないという。碑のある場所は、松林が美しくて絵になるが、本当の鵺塚ではないようだ』と述べておられるが、どうも、鵺の漂着と塚は実際に複数あったもののようでもある。ともかくも、「滓上江」にあった「鵺うつぼ塚」の一つの候補、或いは、同旧村域内の別な鵺塚は、現在の大阪市都島区都島本通三丁目にある「鵺塚」であると考えてよい。ここである(グーグル・マップ・データ)サイト「日本伝承大鑑」の「鵺塚」も読まれたい。

『謠曲の「鵺」』世阿弥作の複式夢幻能。旅僧の前に鵺の亡霊が現れ、源頼政の矢に射殺された際の有様を語る。

「うど野」「鵜殿」で淀川筋の寄港地で蘆の名所として知られた地。現在の高槻市内。

 但し單に文藝上の興味だけからであつたら、事如何に奇異なりとも是だけ弘く、且つ數千年の久しきに亘つて記憶せられるわけは無い。素朴な昔の人が深く心を動かされた如く、我々の間に於ても時には作り話にせよ、新たな實例を擧げて刺戟を復習せしめる他に、尚此信仰を保存するに足るだけの、宗教行事が持續されて居たのである。例へば公邊の記錄には認められて居らぬけれども、宇佐では近い頃まで神を流す儀式が行はれて居た。伴信友翁の八幡考に松下見林の筆記を引いて、宇佐の御正體[やぶちゃん注:「みしやうたい(みしょうたい)」。]といふ薦[やぶちゃん注:「こも」。]の御驗(みしるし)は、每年菱形池[やぶちゃん注:「ひしがたいけ」。]から苅取つて編み造つた薦筵に、木の枕を包んだものを三殿每に安置し、古い去年の分を取出して次々の社に下し、最末の小山田神社にある舊物は、空穗舟にのせて海に流すと、必ず伊豫國の海上なる御机石という石の上に漂著して、そこにて朽ちたまふ也と述べて居る。我々の今の智識では、まだ諒解の出來ぬほどの神祕である。しかし每年の儀式として神を流すだけは、尾張の津島神社にも其例があつて、之を御葭神事(みよしのしんじ)と名づけて居た。定まつた水邊に行つて葦を苅り束ね、祈禱の後これを川に流すと、遠く近くの海岸の村々に漂著し、其村では必ず新たなる祠として之を祀つた故に、此地方には天王の社が次第に多いのだといふことである。是は勿論分靈であつて、本社の移轉では無いのだが、さうして次々に漂著せしめるといふことに、此神の教義は存したのかも知れぬ。津島は京都で八阪神社と謂ふ所の祇園樣を祀つて居る。諸國の田舍でも舊曆六月十四日に、祇園に供へると稱して胡瓜を川に流し、それから以後は胡瓜を食はず、中に蛇が居るからなどと説明するのが普通である。思ふに此瓜も亦一つのうつぼ舟であつて、自然の水の力の導きのまゝに、次から次へ宣傳した舊い時代の信仰の風を、無意識に保存するものであらう。神が最初に蛇の形を現じたまふことは、隨分古くからの日本の習はしであつた。大和の三諸山(みもろやま)の天つ神も、蛇の姿を以て大御門に參られた。而うして之を世に傳へたと稱する家も、又其氏の名は小子部(ちひさこべ)であつた。

      (大正十五年三月、 中央公論)

[やぶちゃん注:最後の一行は底本では最終行下インデント。月はママ。ちくま文庫版全集では冒頭注で記した通り、『四月』である。

「伴信友翁の八幡考」江戸後期の国学者伴信友(ばん のぶとも 安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)の八幡信仰の考証書。当該箇所こ(国立国会図書館デジタルコレクションの伴信友全集画像(右下)。

「松下見林」(けんりん 寛永一四(一六三七)年~元禄一六(一七〇四)年)は江戸前期の医師・儒者。京都で医業の傍ら、「三代実録」を校訂し、「異称日本伝」などを著わした。後年、讃岐高松藩主松平頼常に仕えた。

「菱形池」現在の大分県宇佐市にある宇佐神宮上宮の真裏の小椋山の北麓にある神池。戸原個人サイト宇佐神宮/菱形池・御霊水・鍛冶翁伝承によれば、池名は『池の形が菱形をしているのではなく、辛嶋宇豆高嶋に天降った大御神(八幡神)が御許山を経て遷座した』比志方荒城磯邊(ひしかたあらきいそべ)という地名『に因む名という』。「比志方=菱形」とは「神が顕現した聖地」を『意味』する、とある。

「小山田神社」大分県宇佐市小向野にあるそれであろう。(グーグル・マップ・データ)。宇佐神宮の旧社地域である。

「御机石」不詳。

「尾張の津島神社」愛知県津島市神明町にある津島神社。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「津島神社によれば、『建速須佐之男命を主祭神とし、大穴牟遅命(大国主)を相殿に祀る。当社は東海地方を中心に全国に約』三『千社ある津島神社・天王社の総本社であり、その信仰を津島信仰という』(神仏習合神である素戔嗚(スサノオ)=牛頭天王(ごずてんのう)を信仰するもの。牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。蘇民将来説話の武塔天神とも同一視され、薬師如来の垂迹であるとともに素戔嗚の本地ともされた。京都東山の祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神ともされ、現在の京都八坂神社に当たる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社・天王社で祀られた)。『社伝によれば、建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡ったときに荒魂は出雲国に鎮まったが、和魂は孝霊天皇』四五年(機械的単純換算で紀元前二四五年)、一旦、対馬(旧称・津島)に『鎮まった後』、欽明天皇元(五四〇)年)六月一日、『現在地近くに移り鎮まったと伝える』。弘仁九(八一〇)年に現在地に遷座し、嵯峨天皇より正一位の神階と日本総社の称号を贈られ、正暦年間』(九九〇年~九九四年)には『一条天皇より「天王社」の号を贈られたと伝えられる。しかし、延喜式神名帳には記載されておらず、国史にも現れない。年代が明確な史料では』、承安五(一一七五)年の『名古屋七寺蔵・大般若経奥書に名前が見えるのが最初であり、実際には藤原摂関時代の創建と見られる』。『東海地方を拠点とした織田氏は勝幡城を近辺に築き、経済拠点の津島の支配を重要視して、関係の深い神社として崇敬し、社殿の造営などに尽力した。織田氏の家紋の木瓜紋は津島神社神紋と同じである。豊臣氏も社領を寄進し社殿を修造するなど、厚く保護した。江戸時代には尾張藩主より』千二百九十三『石の神領を認められ、後に幕府公認の朱印地となった。厄除けの神とされる牛頭天王を祀ることから、東海地方や東日本を中心に信仰を集め、各地に分社が作られた。津島市の市名はこの津島神社の門前町が発祥である』。『中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」(津島天王社)と称し、牛頭天王を祭神としていた』とある。

「思ふに此瓜も亦一つのうつぼ舟であつて、自然の水の力の導きのまゝに、次から次へ宣傳した舊い時代の信仰の風を、無意識に保存するものであらう」この考察は非常に共感出来る。

「大和の三諸山(みもろやま)」三輪山の異名。

「小子部(ちひさこべ)」は、本来は少年を組織して宮門護衛・宮中雑務或いは雷神制圧を任務としたと思われる職掌集団(品部(しなべ))としての名「小子部」が元であろう。しかもこれは先に出た、雄略帝配下の武人(武族集団)「少子部連螺嬴(ちいさこべのむらじすがる)」との関係性が疑われているものである。]

     ――――――――――――――

  (附記)

『昔話と文學』の中に揭げた「うつぼ舟の王女」といふ邊を、この文と併せて讀んでいたゞきたい。彼はこの古い言ひ傳への既に説話に化してから後を説いたもので、こゝに述べたことゝ重複せぬやうに注意してある。『海南小記』の「炭燒小五郞がこと」も、この一卷の姫神根源説と小さくない關係をもつて居る。書いた時期はやゝ隔たるが、筆者の見解には大きな變化は無いのである。

[やぶちゃん注:柳田國男先生、判りました。ここでこれだけ先生を批判しましたから、せめても次の電子化はその『昔話と文學』(昭和一三(一九三八)年創元社刊)の「うつぼ舟の王女」(『アサヒグラフ』昭和六(一九三一)年七月初出。判る通り、本「うつぼ舟の話」より後の発表で、この「附記」が「妹の力」(昭和一五(一九四〇)年八月創元社刊)の際に附されたものであることが判る。「うつぼ舟の王女」は掲載誌で判る通り、三章から成るごく短いものである)、次に『海南小記』(大正一四(一九二五)年大岡山書店刊)の「炭燒小五郞がこと」(十二章から成り、単行本書き下ろし論文と思われる)と致しましょう。御約束致します。

 なお、
「虛舟の蠻女」の比較的新しい知見は「怪奇動画ファイル」のこちらがお勧めである。

2018/09/16

柳田國男 うつぼ舟の話 六

 

       

 

 今の流行の日本人類學は、自分達から謂へば殆ど土器學である。土器の以前に又は土器と併行して、そこにはさらに瓢簞學があるべきであるが、その瓢簞は腐つてしまつたから、シャベルで學問をしようと思つても掘出すことが出來ない。しかも瓢簞の人間生活との交涉は、若干の忍耐を條件として、之を辿つて行くことが不可能では無いのである。

 全體日本の如く天然の惠みが厚く、植物の人に對する役目が、物質界でも精神界でも、是ほど綿密に行き屆いて居た國で、稻も櫻も連綿として、今尚以前の種を植ゑ繼いで居りながら、土中に滯つて腐らぬ遣物ばかりを當てにして、上代の社會を説かうとするのは、極めて無法なる算段であつた。所謂考古學の硏究が進んで來れば來る程、之と對立して無形遺物の採集を急ぎ、兩々相助けて出鱈目論斷の跋扈を抑へねばならぬ。不幸にしてそんな便宜の得られなかつた國の學問が、今迄は主として譯述せられたが、我々は千古の大倭人の相續者である故に、この國民文藝と稱する廣大なる包含層の中には、獨りに關する歌や口碑や習俗のみで無く、まだ色々の珍らしい紋樣や彩色が、大小無數の破片となつて殘つて居るのを、存外容易に發見することが出來るのである。是が實は自分の過去を自分で硏究し得る民族の幸福であつて、そんな文明國は現在はまだ幾つも無いのである。

 瓢の用途はいたつて弘くかつ久しかつた。土の壺の中に神いますと信じて、祭つて居た神社は僅かしか無いのであつた。食事其他の普通の用には、もはや陶土器の便利を知つて之に移つて後も、信仰は形式が大切だから古風を改め難かつたのである。其前には木の箱や曲げ物が神體の入れものには用ゐられた。(勿論開けても中には凡眼に見える何物も入つて居らぬのが普通である)。併し是とても木の工藝の始めよりは古くない。目に見えぬ神が物の中に宿りたまふといふ思想が、中世から新たに起る理は無いから、箱曲げ物を人が作り得た前には、木地鉢などの如く鑿り[やぶちゃん注:「ほり」。]凹めた物を用いたのであらう。故に今も家々で臼を重要視し、又屢〻臼の上で氏神樣を祭り始めたといふ口碑が保存せられてある。その今一つ前は何かと問へば、天然の空洞木と、ひさごとより他は有り得なかつたのである。さうしてこの二物は古風のまゝに、今以て各地に神靈の宿する所として、崇敬せられて居る例が多いのである。

 我々の神は日本種族の特性を反映して、頗る移動を愛し又分靈を希望せられた。然るに空洞ある天然の樹木は固よりこれを動かすことを得ぬ故に、一方にはその神聖なる一枝を折つて、行く先々の地に挿すと云ふ風が行はれたらしいが、それだけでは賴り無い場合が多くて、別に色々のウツボといふものが用ゐられた。八幡太郞の發明などゝ稱する箭の容器の靱(うつぼ)の如きも、最初は旅行用の魂筥[やぶちゃん注:「たまばこ」。古代人はあくがれ出で易い自分の魂を着物の裾や襟或いは特定の匣(小箱)の中に封じ込めておき、自分しか分らぬ式法で縛ってしまっておいたという説に基づくものであろう。]であつたかと思ふが、それよりも普通であつたのは、やはり天然の瓠であつたえらうと思ふ。その外貌までが幾分か人に似て、堅固で身輕で沈まず損はれぬ故に、何れの民族でも所謂「たましひの入れ物」として、承認せられることが出來たのである。

 但し空穗舟の多くの口碑に於ては、乘客は神に最も近いといふのみで半ば人間であつたから、瓠の中に入つて泛び來るわけには行かなかつた。昔は神代史の少彦名神[やぶちゃん注:「すくなひこなのかみ」。]を始めとして、玉蟲のような御形[やぶちゃん注:「みかたち」と読んでおく。]で箱の偶に居られたと云ふ倭姫命[やぶちゃん注:「やまとひめのみこと」。]、あるいは赫夜姫[やぶちゃん注:「かくやひめ」。古くは清音。]、瓜子姫子[やぶちゃん注:「うりこひめこ」。]、さては御伽噺になつてしまつた一寸法師等、日本の小千(ちひさこ)思想は徹底したものであつたが、神々の人間味、卽ち御仕へ申す家々との、血筋の關係を説く風が盛になつてからは、もつと舟らしいものを必要とするに至り、しかも空洞木の利用に始まつたかと思ふ獨木舟[やぶちゃん注:「まるきぶね」と訓じておく。ちくま文庫版全集もそう振ってある。]が、追々に稀に見るものとなつてしまふと、各人遺傳の想像力を應用して、終に享和年間に常陸の濱へ漂著したやうな、筋鐵[やぶちゃん注:「すぢがね」。]入りの硝子張りの、何か蓋物(ふたもの)みたやうな船が出來上り、おまけに世界どこにも無い文字などを書いて、終に馬脚を露すのであるが、しかも尚奇妙千萬にも其船の中には、依然として遠い國の王女らしい若い女性が乘り込ませてあつたのである。

[やぶちゃん注:「世界どこにも無い文字」以前に述べた通り、キリル文字可能性てい。]

柳田國男 うつぼ舟の話 五

 

        

 

 出雲の佐陀[やぶちゃん注:「さだ」。]の大神も、母あつて未だ父の神を知らず、加賀の岩鼻に入つて之を尋ねると、黃金の箭が水に浮んで流れて來たと傳へられる。神が丹塗りの矢に化して訪れたまふといふ物語とともに、いかにも美しく鮮かなる我國風の空想であつて、之を單純に戸の隙間の日の光が、少女の腹を追ひまはして射たと謂ふ話し方と比べると、元は一つであつたと認めるのさへ感心せぬが、何れの民族でもそれぞれの文化の境遇に應じて、常に聽く者の理解を主とするの他は無かつたから、最初は此よりも更に露骨な、其代りには感動の深い物語であつたのも尤もである。智力と趣味とは新たなる文飾を必要とし、神話の如き保守的の文藝にも、やはり目に見えぬ成長があり、既に形式の固定して時代に適せぬものは追々に圈外に押出された。今に於て俗間の卑猥なる笑話などの、尚輕蔑すべからざる所以である。うつぼ舟に關して一二の著しい例を説くならば、臺灣東岸のパイワン族の中に、美女を朱塗りの箱の中に入れて、海に流したといふ傳承が多く、知本社と呼ばれる部落が之を拾ひ上げたと謂つて居る。此女は身の内に怖ろしい牙があつて、之に近づく程の男は悉く傷き死んだ爲に、用無き者として棄てられたのであつたが、知本社蕃の若い頭目は、方法を施して其牙を除き、乃ち之を娶つて子孫が榮へたと傳へるのである。此話は所謂金勢大明神の本緣として、今でも奧羽の村の人が笑ひながら、人に語る所の昔語りの一つであるが、既に懸け離れた南島の荒磯に、同じ例を遺して居るからには、近代の才子が發明した惡謔[やぶちゃん注:「あくぎやく」。悪ふざけ。]ではなかつたのである。但し依然たる不可解はその共通の起原であるが、幸ひに臺東方面の土人の間に於ては、アミの馬蘭社でもパイワン族の卑南蕃でも、等しく海に放たれた身に牙ある娘が、知本社の海岸に漂著したことを語り、後者自らも之を認めて居るのを見ると、既に交通ある二つ以上の部落の間に、一方で不用として顧みなかつたものを、他の一方が歡迎し且つ大切に守り立てたと云ふ話、卽ち日本の諸州の田舍に於て、神と住民との因緣約束を信じ、流れて來た飛んで來た、或は盜んで來たとさへ傳へて居る口碑が、元來は亦このうつぼ舟の信仰から、分れて出たものであるやうに感ぜしめるのである。

[やぶちゃん注:「知本社」「知本社蕃」「社」は民族集団の名であると同時に、出身地名でもある。「蕃」は原住民を指す漢語で、嘗て台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていたが、これは差別語である。この「知本社」は「国立台湾先史文化博物館」公式サイト内の「プユマ族」の解説から見て、このプユマ族を指すものである。『昔から台東平原に住んで』おり、現在は『一万人余り』で、『卑南川南部、知本川北部間の地域に集中している』。『もともと台東県太麻里郷、屏東県満州郷、牡丹郷に住んでいた卑南族が殆どパイワン族に同化』したものらしいとあり、さらに、『言い伝えによると、当初』、『台東の美和村のpanapanayan』という『ところから上陸』したが、その時、『知本社の言い方に』従えば、『当時』、『先に上陸』した『のが女性二人、男性一人であった。名前は索加索加伍、派魯伍と立加索だった。三人』は『上陸後、すぐ子供を生んだ、姉は今の建和部落、弟が知本社と南王社で』あるとある。

「アミの馬蘭社」アミ族(アミス)は現在の台湾で人口最も多い原住民族群。「馬蘭社」は地名としては旧台湾台東庁馬蘭社で、現在の台湾南東部の台東市である。国立台湾先史文化博物館公式サイト内の「アミ族によれば、早期の文献では「アミ」には「阿眉」「阿眉斯」「阿美」「阿美斯」と漢字を当てていたが、アミ族自身は自分たちの『ことをPangcah(花蓮地区のアミ人)とAmis(台東地区のアミ人)と呼んで』いるとある。

「パイワン族の卑南蕃」パイワン本族は現在、台湾原住民で三番目に人口の多い民族集団。「国立台湾先史文化博物館」公式サイト内の「イワン族」によれば、『主に台湾中央山脈の南脈、北は武洛渓上流の大母母山から南の恒春半島(東南の山肌部と海岸地区)まで分布してい』るとある。以上のリンク先の記載は、やや日本語に難はあるが、各部族の歴史と文化を綴って、とても素晴らしい。]

 またパイワン種の諸蕃社には、ことに人が樹木の中から出たといふ傳説が多い。或は竹の中から卵が轉げ出して、最初の男女と爲つたとも謂へば、亦壺の中もしくは瓠(ひさご)[やぶちゃん注:瓢簞(ヒョウタン)の果実の内部の柔らかい果肉を取り去って乾燥させ、酒や水の容器とした「ふくべ」のこと。]の中からも、人の出現したと謂ふことを信じて居る部落があるのである。異人卵生の古傳は印度にも例乏しからず、佛典を通じて日本にも知られて居た。卽ち寧ろ説話の類似のみを根據として、比鄰民族の血緣を論斷すべからざる反證の一つであるが、斯ういふ意外な未開人の間にまで、同じ思想が稍別種の樣式を以て、年久しく持ち傳へられて居た事實は、其起因を單なる偶合に歸するには餘りに重要であると思ふ。新羅の國王が金色の卵から出たといふ神話が、朴姓一族の祖先譚として、瓠に乘つて日本から渡つて來たといふ瓠公[やぶちゃん注:「ここう」。]の奇跡を説くものと、本源一つなるべきことは既に之を説いた人がある。瓢簞に乘つて來るといふ列仙傳の如き繪樣を想像し得た以前から、瓠のやうな内部が空虛で外見の具備した物は、三韓の人民に取つてもやはり奇異であつた故に、夙くこの類の口碑を發生せしめたのであらう。殊に渚に近く村を構へ、日月の出入りを眺めて海と天とを混同して居た人々には、是ほど大きな問題は少なかつた筈である。實際人間の智巧を以て、箱や樽などを作り出すのにも、天然の手本とすべきものが澤山は無かつた。故に始めて空洞の木や瓠の類が、水に浮んで流れて來た場合の、好奇心は強烈なものであつて、幾多の誤つた宗教觀、もしくは後世の詩人の及び難しとする空想境を、誘ひ出すに十分であつたので、其印象が次にやゝ姿容を變じつゝ、永く世に留まつたのに不思議は無いと思ふ。

[やぶちゃん注:「朴姓一族の祖先譚として、瓠に乘つて日本から渡つて來たといふ瓠公」(生没年不詳)は新羅の建国時(紀元前後)に諸王に仕えた重臣。ウィキの「瓠公より引く。『金氏王統の始祖となる金閼智』(きんあっち)『を発見』したとされるが、実は『もとは倭人』『とされ』、『新羅の』三『王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である。瓠(ひさご)を腰に下げて海を渡ってきたことからその名がついたと』「三国史記」は『伝えている』。『初代新羅王の赫居世居西干』(かくきょせい/きょせいかん 紀元前六九年?~紀元後四年)『の朴姓も同じ瓠から取られているため、同一人物を指しているのではないかという説がある』。『また、脱解尼師今』(だっかい/にしきん:新羅第四代の王)『が新羅に着した時に瓠公の家を謀略で奪ったと言う。この瓠公の屋敷が後の月城(歴代新羅王の王城)となった』。赫居世三八(紀元前二〇年)、『王命に従って馬韓を訪問し』、『国交を開こうとした。このとき馬韓王からは馬韓の属国である辰韓諸国の一国に過ぎない新羅が貢物を送らないことを責めたが、瓠公は逆に新羅に聖王(赫居世と閼英夫人)が現れたことを主張して馬韓王の失礼を咎めた。馬韓王は怒って』、『瓠公を殺そうとしたが、馬韓の重臣が王を諌めたため、許されて新羅に帰国した』。『脱解尼師今』二(紀元後五八年)、『最高官位である大輔に任命された』。『脱解尼師今』九(六五)年、『王都金城(慶州市)の東で起こった神異を調べにいき、金閼智を得た』とある。]

 是が我々の昔話の多くに、作家といふものゝ無かつたことを、推定せしめる有力な理由である。再びパイワン蕃の神話に戾るが、その或社に於ては先祖が生れて出たと云ふ壺を傳へて居る。是にも大陽の光線が壁を通して、又は細くなつて其壺を射たと謂ふものが多く、卽ち太陽の子であらうと思つて之を養育したと説くのである。日本では竹取の物語の如きは、今ある語り方の外にまだ色々の異傳があつた。鶯の卵から成長したと云ふのも其一つである。かくや姫が身より光を放つたといふ代りに、數多の竹の林の中に只一處、特に光がさして居たのを竹取翁が見付けたと謂ふなどは、姫が後に天上に還つたとある一段と相照して、亦一種の日の子神話の流れと見るに足らぬであらうか。又桃太郞の前の型と認められる瓜子姫子の如きも、童話に於てはむざむざと山姥に食はれてしまふが、それでは折角山川をどんぶらこつこと流れて來た甲斐も無い。或は狼の腹を割いて救ひ出された羊の子の話のやうに、後に復活したといふ傳への方が古いにしても、やはり誕生の奇瑞譚としては片輪であるから、斯うして第二の冒險談、卽ち山姥や天のじやくとの鬪靜談と結合する前に、別に亦一系統の瓠公神話が、此方面にも曾て繁茂して居たことを、假定して見るの他は無いので、しかも瓠といふ瓜の我々東方民族の生活に與へた影響は、最も複雜にして且つ興味深きものなのである。

 

柳田國男 うつぼ舟の話 四

 

        

 

 だから我々はいたずらに諸國の類例を列擧して、今さら偶合の不思議に驚くよりも、何物の力が斯くまでに根強く且つ年久しく、この民族の想像を導き又約束したかを尋ねて見なければならぬのである。伊豫の和氣姫は仔細あつてと謂つて居るが、その仔細なるものは大なる神祕であつた。叨り[やぶちゃん注:「みだりに」。]に語られざる神話であつた故に、忘れられんとして尚僅かに傳はつて居るのである。奈良の手向山(たむけやま)の勸請以前から、公邊の文書には八幡の祭神は應神天皇であつたが、宇佐には別に一箇の異傳があつて、伊多利亞で成長した耶蘇教と同じく、殊に御母神[やぶちゃん注:「みおやがみ」。]を重しとし、後に大帶姫(おほたらしひめ)を神功皇后と説くに至つても、尚比咩神(ひめがみ)または玉依姫の御名を以て、之を中殿に祭つて居た。養老年中[やぶちゃん注:。七一七年~七二四年。]に大隅の隼人が亂を起した時、宇佐の神部(かみべ)は頗る平定の功に參與したと稱し、爾後宇佐本社との絶えざる交通があつたにも拘らず、大隅正八幡宮の本緣として、古く記錄せられた物語は、亦全然北方の所傳とは一致せず、母の神の御名を大比留女(おほひるめ)と申し上げ、若宮は卽ち太陽の御子であつて、同じく空穗舟の中の人であつた。八幡愚童訓・惟賢比丘筆記等に、詳しく此由緖を載せたのみならず、男山の社においても既に大比留女の名を錄して居た。恐らくは朝家の認定と兩立せざるを憚つて、次第に之を南端の一社に押付けてしまつたものであらう。

[やぶちゃん注:「大隅正八幡」鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある大隅国一宮である鹿児島神宮。ここ(グーグル・マップ・データ)。この辺り、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(4)』も参照されたい。

「八幡愚童訓」鎌倉中・後期に成立したとされる八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起通史。

「惟賢比丘筆記」「いけんびくひつき」と読む。僧惟賢が、建武二(一三三五)年六月に鎌倉の宝戒寺で、諸書から日吉山王のことを抜き書きし、山王神道の立場を明らかにしたもの。]

 今簡單にその舊傳を述べるならば、震旦[やぶちゃん注:「しんたん」。古代中国の呼称。]國陳大王の娘大比留女、七歳にして懷妊す。父王之を訝り、汝まだ幼少なるに、誰人の子を儲けたるぞと問ひへば、わが夢の裡に朝日の光胸を覆ひて娠む所なりと答へたまふ。いよいよ驚き怖れて誕生の皇子もろ共に、うつぼ舟を刻みて之に入れ、印鎰[やぶちゃん注:「いんやく」。公印と蔵(或いは門)の鍵。]を相具して大海に放ち流したまふ。流れ著かん所を所領とせよとの御詞であつた。然るに其舟日本國鎭西大隅の磯岸に寄り來る。太子を八幡と號し奉るに由つて、その岸を八幡崎と稱へた。時は繼體天皇の御宇[やぶちゃん注:在位は継体天皇元(五〇七)年?から同二五(五三一)年?とされる。]のことゝいふ。後に大比留女は筑前若椙(わかすぎ)山に飛入つて、香椎[やぶちゃん注:「かしひ(かしい)」。]の聖母大菩薩と顯われたまひ、王子は大隅國に留まつて正八幡と齋(いは)はれ、幼稚の御年にして隼人を討ち平げたまふと謂つて居る。

 日の光が少女の胸を覆ふということは、はつきりとせぬ言ひ方である。八幡大菩薩御國位緣起には、朝日の光身にさして、寢たる胸間に在りとあるが、それでもまだ納得が出來なかつたものか、後世の俗説では大比留女、日を吞むと夢みてと言ひ替へて居る。太閤秀吉を恐らくは最後として、以前の高僧たちの生ひ立ちの記などに、日輪懷に入ると謂ひ、もしくは日を吞むといふ類の母の夢が幾つとも無く傳へられるが、何れも個々單獨に空想せらるべく、あまりにも奇拔なる空想であつた。人もよく知るが如く、此系統の物語で最も早く記錄の上に現はれたのは、百濟と高句麗と二つの王國の、始祖王の誕生に關する奇瑞であつたが、固く信じた人々の筆になつたゞけに、其記述は之に比べて遙かに精彩がある。卽ち一人の年若き女、兒を生まばその兒は後に王となるべしとの豫言があつたので、これを一室に幽閉して外界との交通を杜絶して置くと、太陽の光が戸の隙間より差し入り、直ちに少女の身を射る。之を避くれば何處までも追ひかけ、終に感應して身ごもらしめたと謂ふのである。ぺリイの文化遷移論には、東印度の諸島にも往々にして此傳承の例あることを説いて、日の光の物を實らしむる力あることを經驗した者の間に、おのづから成長した説明神話なるが如く解釋して居るが、單にそれのみでは斯ういふ個人指定の思想などは起り得ない。年久しく密林の底に遊び、又は巖窟の奧に隱れ住んで、太陽の光線の譬へば黃金の箭の如くなるものが、屢〻心有つて人に近づかうとするやうな有樣を見た者にして、始めて夢まばろしの間に、之を雄々しい男神として迎へ親しむことを得たのであつて、日を崇敬した原始人の信仰は、却つて此の如き異常受胎の奇瑞に刺戟せられて、更に強烈を加へた場合が無かつたとは言はれぬ。從つて記錄の今日に傳ふるものは、假に扶餘の二種族の建國譚を最も古しとするも、これを傳説の根源と解すべからざるは勿論である。日本に於ては山城賀茂の玉依姫、山川に美しい白羽の矢を拾ひ還つて、感じて別雷神[やぶちゃん注:「わけいかづちのかみ」。]を産み給ふと謂ひ、或は大和の三輪の大物主の神は、姿を丹塗りの矢に變じて、流れ來たつて少女の身を突き給ふと謂ふの類、單に太陽を男神とする俗信の夙く[やぶちゃん注:「とく」。]衰へたばかりに、説明の付けにくゝなつた説話が數多いのみならず、別に又新羅の古き物語として、日の光の虹の如くなるに照されて、赤い玉を生んだと云ふ賤の女の話を載せ、其玉美麗なる孃子と化して日矛(ひぼこ)王子の妃と爲り、後に遁れて日本に渡り、難波の比賣碁曾(ひめこそ)の社の神に祭らるるというからは、我々の祖先も二千年の昔から、必ずしも大陸の歷史家の仲介を須たず[やぶちゃん注:「またず」。]して、既に日を父とし人間を母とする、尊とき神あることを知つて居たのである。平安京の初期に際して、大に用ゐられた武人の家、阪上氏は百濟の遺民であつた。家の由緖を朝廷に奏聞して、詳かに太陽が少女を占有した傳説を述べて居る。それが後漢書の記事とも合致すれば、亦大隅正八幡の緣起ともよく似て居て、同じ頃に西海に興隆した宇佐の信仰が、之を學び且つ利用したと解することも困難ではない。しかし自分達は其樣に窮屈に、一つの物語が次を逐うて諸國を周流したと迄は思つて居らぬ。遠く太古に潮つてまだ多くの民族が今の如く分散しなかつた時代に、誤つた判斷ながら素朴なる人の心に、深い印象を與へた實驗が殘つて居て、緣に觸れて再び各處に出現したものが、斯うして大切に保存せられ、圖らずも互ひに比較せられることになつたのかも知れぬからである。但し此點を論究しようとすれば、話が込み入つて果し[やぶちゃん注:「はてし」。]が付かぬ。しかも差當り自分の考へたいのは、何故に海の彼方の大比留女を、うつぼ舟に載せてこの島國へは運んだか。或は比賣碁曾の社の阿加流姫神(あかるひめのかみ)が、もと新羅の太陽の御子であつたことを、何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]の教へに由つて知り得たかといふ點であるが、是とても決して容易なる問題では無いと思つて居る。

[やぶちゃん注:「ぺリイの文化遷移論」作者・著作ともに私は不詳。識者の御教授を乞う。

「扶餘」「ふよ」。「夫余」とも記す。中国東北地方から朝鮮半島東北部に紀元前一世紀から紀元後五世紀の間に存在した国及び部族名。民族の系統についてはツングース系ともされるが、定説はない。漢文化の影響を受けて紀元前一世紀に国家を形成し、今の長春・農安付近を中心に、松花江流域を版図とし、紀元後一~三世紀頃を全盛とする。鮮卑(せんぴ)や同人種の高句麗と対立し、三世紀後半から衰退、四九四年、勿吉(もっきつ)(後に靺鞨(まっかつ)と呼称)に滅ぼされた。「三国志」の魏志東夷列伝によれば、迎鼓という祭天の行事を新春に催すなど、シャーマニズムの傾向が窺われる。なお、百済の王族はこの夫余が南下したものとする伝説があるという。平凡社「マイペディア」に拠った。

「比賣碁曾(ひめこそ)の社」現在の大阪府大阪市東成区東小橋にある比売許曽(ひめこそ)神社。(グーグル・マップ・データ)。

「阪上氏」ウィキの「坂上氏によれば、坂上氏系図によると、『坂上直』(さかのうえのあたい)『姓の初代は東漢』(やまとのあや)『氏の坂上直志拏』(「しだ」か)。『東漢氏は後漢霊帝の後裔と称し、応神天皇の時代に百済から日本に帰化した阿智王(阿知使主』(あちのおみ)『)を祖とすると伝わる。後漢の最後の皇帝、献帝の子といわれる石秋王の子が阿智王(阿智使主)で、その後、「高尊王―都賀直―阿多倍王」と続き、阿多倍王の孫が、坂上氏初代の志拏であるという(別説では「阿智使主―都加使主」の子ともされる)』。『坂上志拏には坂上志多、坂上刀禰、坂上鳥、坂上駒子らの子があった。その子孫が坂上田村麻呂である』とある。]

柳田國男 うつぼ舟の話 三

 

        

 

 大昔もこれとよく似たうつぼ舟が、やはり常陸國の豐良(とよら)の濱といふ處に漂著して、漁夫に拾ひ助けられたと云ふ話がある。廣益俗説辨の一節として偶然に傳へられて居る。欽明天皇の御宇、天竺舊中國霖夷大王の姫金色女、繼母の憎しみを受けて此舟に載せて流された。後久しからずして病みて身まかり、その靈は化して蠶となる。是れ日本の蠶飼ひの始めなりと、語る者があつたさうである。此俗説も同じく中世の造り言ではあらうが、起原は必ずしも甚だ簡單で無い。奧羽の各郡に住する盲目の巫女たちが、今に至るまで神祕の曲として傳承する所の物語は、何れも駿馬と婚姻した貴女の靈天に上り、後再び桑樹の梢に降り化して此蟲と成ると稱し、豐後で有名な眞野(まんの)長者をもつてその父の名とする者もあるが、話の内容は支那最古の傳説集、干寶が搜神記の記事と著しく類している。蠶の由來を説く必要のあつた者は、多分は蠶の神の信仰に參與した人々であらう。或時機緣が有つて斯ういふ外來の舊傳を取入れ、自他の昔を識らんとする願ひを充たしたことは想像してよいが、それとうつぼ舟の漂著とを、一見繼目も知れぬやうに繼合せたのは、別に海國に住む民の、數千年に亙つて、馴らされたる一つの考へ方が、働いて居たものと見るの他は無い。

[やぶちゃん注:「常陸國の豐良(とよら)の濱」サイト「Silk New Waveによれば(リンク先は各神社の解説ページ)、驚くべきことに、

茨城県つくば市にある日本一社の「蚕影(こかげ)神社」(つくば市神郡豊浦。『隣りにある老人保健施設「豊浦」にその名が残ってい』る)

日本最初の蚕養(こがい)神社」(日立市川尻町豊浦。『近くには小貝浜=蠶飼浜があ』る)

日本養蚕事始めの「蚕霊(さんれい)神社」(鹿島郡神栖町日川(豊良浦))

三つの場所にこの地名が現認出来る

「廣益俗説辨」は江戸前・中期の肥後熊本藩士で神道家の井澤蟠龍(いざわばんりょう 寛文八(一六六八)年~享保一五(一七三一)年)が一般の通説・伝説を和漢の書を引用して検討・批判した啓蒙書。以上のそれは、同書の附編(享保四(一七一九)刊)の「第六雜類」の「蟲介」に、「蠶食(こがひ)の始(はじめ)の説」として以下のように載る。私は正編しか所持しないので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(国民文庫刊行会編・大正元(一九一二)年刊)の画像を視認して起した。

   *

       蠶食の始の説

俗説云、欽明天皇の御宇、天竺舊仲國(きうちうこく)霖夷(りんい)大王の女子(むすめ)を金色女(このじきぢよ)といふ。繼母(けいぼ)にくみてうつぼぶねにのせてながすに、日本常陸國豐良湊(とよらのみなと)につく。所の漁人(ぎよじん)ひろひたすけしに、程なく姫病死して其靈化(け)して蠶(かひこ)となる。是日本にて蠶食(こがひ)の始(はじめ)なり。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。【 】は二行割注。]

今按ずるに、此説は蜀方志、代醉編、搜神記等(とうに)載(のす)馬頭娘(ばとうぢよう)が事を、日本の事とせるものなり。【馬頭娘がこと印本の恠談全書にある故略ㇾ之。養ㇾ蠶法は黄省曾蠶經にくはしく見えたり。おのおのあはせ見るべし。】日本紀云、雄畧天皇命螺嬴國内蠶。續日本紀云、和銅七年二月辛丑始令出羽國養蠶と、是日本にあつて養(かえ)るのはじめなり、俗説用ふるなかれ。

    *

「日本書紀」と「續日本紀」のそれを訓点(ルビは省略してある)に従って訓読しておくと、

雄畧天皇、螺嬴(すがる)に命じて國(くに)の内の蠶(かひこ)を聚む。

和銅七年二月辛丑(かのとうし)、始て出羽國(ではのくに)をして蠶(かひこ)を養(か)はしむ。

である。「螺嬴(すがる)」は「日本書紀」「日本霊異記」に見える雄略帝配下の武人(武族)「少子部連螺嬴(ちいさこべのむらじすがる)」のこと。ウィキの「少子部スガル」には狂言か落語みたような「日本書紀」の『雄略天皇六年三月の条』(機械換算四六二年)の、『后妃への養蚕を勧める雄略天皇から日本国内の蚕(こ)を集めるよう命令されたが、スガルは誤って児(嬰児)を集めてしまった。雄略天皇は大笑いして、スガルに「お前自身で養いなさい」と言って皇居の垣の近くで養育させた。同時に少子部連の姓を賜った。とある』という養蚕。命名奇譚示されてある。「和銅七年」ユリウス暦七一四年。

「奧羽の各郡に住する盲目の巫女たちが、今に至るまで神祕の曲として傳承する所の物語は、何れも駿馬と婚姻した貴女の靈天に上り、後再び桑樹の梢に降り化して此蟲と成ると稱し」言わずと知れた「おしらさま」伝承である。ウィキの「おしら様を参照されたい。また私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 原蠶」も一つ、参考になろう。

「眞野(まんの)長者」『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(8)』の本文を参照されたい。

「干寶が搜神記」「搜神記」(そうじんき)は私の偏愛する、四世紀に東晋の政治家文人干宝が著した志怪小説集。当該条は巻十四の以下。

   *

舊説、太古之時、有大人遠征、家無餘人、唯有一女。牡馬一匹、女親養之。窮居幽處、思念其父、乃戲馬曰、「爾能爲我迎得父還、吾將嫁汝。」。馬既承此言、乃韁而去。逕至父所。父見馬、驚喜、因取而乘之。馬望所自來、悲鳴不已。父曰、「此馬無事如此、我家得無有故乎。」。亟乘以歸。爲畜生有非常之情、故厚加芻養。馬不肯食。每見女出入、輒喜怒奮擊。如此非一。父怪之、密以問女、女具以告父、「必爲是故。」。父曰、「勿言。恐辱家門。且莫出入。」。於是伏弩射殺之。暴皮於庭。父行、女以鄰女於皮所戲、以足蹙之曰、「汝是畜生、而欲取人爲婦耶。招此屠剝、如何自苦。」。言未及竟、馬皮然而起、卷女以行。鄰女忙怕、不敢救之。走告其父。父還求索、已出失之。後經數日、得於大樹枝間、女及馬皮、盡化爲蠶、而績於樹上。其蠒綸理厚大、異於常蠶。鄰婦取而養之。其收數倍。因名其樹曰桑。桑者、喪也。由斯百姓競種之、今世所養是也。言桑蠶者、是古蠶之餘類也。案「天官」、「辰、爲馬星。」。「蠶書」曰、「月當大火、則浴其種。」。是蠶與馬同氣也。「周禮」、「教人職掌、票原蠶者。」。注云、「物莫能兩大、禁原蠶者、爲其傷馬也。」。漢禮皇后親採桑祀蠶神、曰、「菀窳婦人、寓氏公主。」。公主者、女之尊稱也。菀窳婦人、先蠶者也。故今世或謂蠶爲女兒者、是古之遺言也。

   *

梗概ならば、ウィキの「蚕馬」(さんば)にある。]

 しかもこれ以外には東部日本に於ては、空穗舟の話は未だ聞く所が無いのである。其信仰も亦舟の中の少女の如く、波に浮んで西南の方から、次第に流れて來たらしい痕がある。本來が人間ばかりの計畫に基づいて、開かれたる通路で無かつた故に、乃ち奇瑞として神の最初を説き、まだ家々の昔を誇る者が、之を遠くの故鄕から導いて來ることを忘れなかつたのである。歸化人の後裔としては、九州では原田の一族が、近い頃まで此口碑をもつて居た。是も右に謂ふ俗説辨の中に、筑前怡土(いと)都の高祖(たかず)明神は漢の高祖を祭つて居る。傳ふらく高祖の皇子一人、虛船につくり込めて蒼海に押し流され、終に此濱邊に到著す。皇子の姿かたち等倫[やぶちゃん注:「つねに」。]に超えければ、處の者ども奏聞を遂げ、敕許を蒙りて此地の主とす。苗裔は卽ち原田氏にして、タカズを高祖と書くは其謂れなりと稱したとある。但し此傳は歷史と合致せず、又同じ門流でも更に宗教的色彩の豐かな大藏氏などは、之と異なる由緖を主張して居るから、言はゞ後に世間の風にかぶれて、斯うも考へられたと云ふに過ぎぬのかと思ふ。

[やぶちゃん注:「広益俗説弁」のそれは「後編 巻三 士庶」の「原田種直は漢の高祖の裔(えい)といふ説」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。本文部は柳田の引用と大差ないので電子化しない。原田種直(保延五(一一四〇)年~建暦三(一二一三)年)は源平合戦期から鎌倉初期の武将。ウィキの「原田種直」によれば、『原田氏は天慶の乱(藤原純友の乱)鎮圧に活躍した大蔵春実の子孫、大蔵氏の嫡流。代々大宰府の現地任用官最高位の大宰大監・少監(大宰府の第三等官・管内の軍事警察を管轄)を世襲する。最初期よりの武士団のひとつ』。『保元の乱以降、大宰大弐(大宰府の第二等官)に続けて任官した平氏(平清盛・平頼盛)と私的主従関係を結ぶ。平清盛の長男・重盛の養女を妻とし、大宰府における平氏政権、日宋貿易の代行者となる』。『平氏の軍事力の中核のひとつでもあり』治承三(一一七九)年十一月の『平氏による政変では、郎党を率い御所の警護を行』っており、治承五年二月の九州に於ける『反平氏の鎮西反乱で』は『肥後の菊池隆直らと合戦』、また、寿永二(一一八三)年八月の「平氏都落ち」の際には』、『私邸を安徳天皇の仮皇居にしたと伝えられる』(「平家物語」・「筑前国続風土記」)。文治元(一一八五)年二月、源範頼軍との「葦屋浦の戦い」の際、弟『敦種が討ち死にし』、以降、同年二月の「屋島の戦い」、三月の「壇ノ浦の戦い」に敗北、『平家没官領として領地を没収された』。『関東(一説には扇ヶ谷)に幽閉されるも』、建久元(一一九〇)年に『赦免され、御家人として筑前国怡土庄に領地を与えられる』。『福岡県糸島市二丈波呂には、種直が平重盛の菩提を弔うために創建したと伝えられる龍国寺がある』。『鎌倉市建長寺の裏山にも原田地蔵と伝わる故地があり、かつては地獄谷と呼ばれていたこの地にて処刑される平家の人々を、種直とその一族が弔ったものと考えられる』。『この地蔵堂はやがて心平寺となり、北条時頼の代にはその地に建長寺が創建された』。『一族およびその子孫は筑前・筑後・肥前を中心に繁栄。鎮西大蔵朝臣六家(原田氏・波多江氏・秋月氏・江上氏・原氏・高橋氏)といわれる家々を中心に国人領主、大名に成長するも、豊臣秀吉の「九州征伐」により没落。秋月氏を除き他家の陪臣となる』。『筑前国以外には、三河国の徳川家家臣団にも原田家があり、足助などには種直に因む千躰地蔵の話が伝わる。 江戸時代になると、旗本として数家に別れた。さらにそこから榊原氏家老や紀州徳川家重臣となった原田家もある』とある。なお、井澤蟠龍は本文後の評言で、大化年中(六四五年~六五〇年)の帰化人とするものの、当然の如く、『虛船(うつぼぶね)』説は否定している

「筑前怡土(いと)都の高祖(たかず)明神」現在の福岡県糸島(いとしま)市高祖(たかす)にある高祖(たかす)神社ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「高祖神社」に『創建は不詳』で、『伝承では、古くは大下の地に鎮座したが』、建久八(一一九七)年に『原田種直が当地に入るに際して、高祖神社宮司の上原氏と姻戚関係を結ぶとともに、高祖山の怡土城跡に高祖城を築城してその麓に高祖神社を移したという』。『また、古くは怡土城の鎮守神として祀られたとする伝承もある』。『糸島地方は』「魏志倭人伝」に『見える伊都国の比定地で(曽根遺跡群)、古墳時代にも古墳の密集地域として知られるが、一方で渡来系氏族による製鉄遺跡も認められており、上古の祭祀の性格については古来伝統祭祀と渡来系祭祀の両面で諸説がある』とある。]

 瀨戸内海沿岸の古い移住者の中には、之とよく似た家の傳説が、まだ幾らもあつたやうだが、そればかりで歷史を推定するが如きは、最も不安全なる學風である。たとえば周防の大内氏が歸化人の後だということは、最初百濟の琳聖太子[やぶちゃん注:「りんしやうたいし」。]、當國多々良濱[やぶちゃん注:「たたらはま」。]に上陸したまふという物語から出たのだが、元來の趣意は至つて遠い時代に、此地に降臨なされたと云ふ北辰妙見の宮と、家の起源を一にすることを主張し、其到著が神意に基づくことを説くに在つたので、太子は恐らくは尊神の御子を意味し、必ずしも本國が百濟であることを要しなかつたかと思はれる。しかも百濟が佛法の輸入國であつた爲か、或は後に述べんとする第二の理由からでもあつたか、備前の宇喜田氏の如きも、その系圖の最も信用すべからざるものに於ては、やはり百濟の王子をもつて第一世の祖として居る。大治二年[やぶちゃん注:一一二七年。]と謂へばかの王國が滅びてから、四百數十年も後の話である。百濟の國から王子を孕める姫宮を、うつぼ舟に乘せて海に放ち、其舟今の兒島に漂ひ寄る。三條中將といふ人此女性を妻に賜はり、腹ごもりの子生長して後に三條宇喜多少將と稱すなどゝ謂つて居る。或は千人のちごの千人目に當つた故に、京の三十三間堂の棟木を曳かしめたとも謂ひ、(大治二年といふのは其爲であらう[やぶちゃん注:三十三間堂は、後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿の一画に平清盛に建立の資材協力を命じて長寛二(一一六五)年に完成したとされる。しかしこの付け合いも人を食った話で、後白河天皇はこの大化二年の生まれである。])、又は名作の鬼の面を取持[やぶちゃん注:「しゆじ」。]したために生きながら鬼になつて人を噉ひ[やぶちゃん注:「くらひ」。]、由つて再び兒島に流されたところ、某といふ山臥[やぶちゃん注:山伏。]これに行逢ひ、鬼面を取上げて切碎き終に其恠を退治した。兒島の瑜伽寺(ゆうがじ)の鬼塚はその面を埋めた塚だなどゝも傳へられ、今ではかの地方の信仰や口碑と混同して、手輕に本の姿を見定めることがむつかしくなつて居る。

[やぶちゃん注:「琳聖太子」(生没年不詳)は大内氏の祖とされる人物。ウィキの「琳聖太子」によれば、朝鮮半島の百済の王族で第二十六代聖王(聖明王)の第三王子で武寧王の孫とされる。名は義照。十五世紀後半に書かれた「大内多々良氏譜牒」に『よれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ』、推古天皇一九(六一一)年に『百済から周防国』の多々良浜(現在の山口県防府市)に上陸、『聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという』。『この琳聖太子を祖として名乗り始めた大内氏当主が、大内義弘である。義弘は朝鮮半島との貿易を重視した』。大内氏は、「李朝実録によれば応永六(一三九九)年には『朝鮮に使節を派遣、倭寇退治の恩賞として朝鮮半島での領地を要求している。領地の要求は却下されるものの、貿易は認められており、その貿易での利益が大内氏勢力伸長の大きな要因となった。大内政弘の頃には、大内氏の百済系末裔説が知れ渡っており、興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)が記した』「大乗院寺社雑事記」の文明四(一四七二)年の項には『「大内は本来日本人に非ず』……『或は又高麗人云々」との記述が見える』とある。

「北辰妙見の宮」仏教に於ける天部の一人である妙見菩薩の別名。ウィキの「妙見菩薩によれば、『妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したもので』、中国の神としては、『北の星宿の神格化』されたもので、『玄天上帝ともいう』とある。

「備前の宇喜田氏の如きも、その系圖の最も信用すべからざるものに於ては、やはり百濟の王子をもつて第一世の祖として居る」ウィキの「宇喜多氏」によれば、『従来から広く一般に敷衍している通説で、「兒」を旗紋とする百済の』三『人の王子が備前の島(現在の児島半島)に漂着し、その旗紋から漂着した島を児島と呼びならわし、後に三宅を姓とし、鎌倉期には佐々木氏に仕え、その一流が宇喜多(浮田)を名乗ったとするもので、本姓を備前三宅氏(三宅連:新羅王族子孫)とする』。この説は、「宇喜多和泉能家入道常玖画像賛」(「宇喜多能家画賛」)の『記載に基づくものである。宇喜多氏自身が称した出自であることから、地元岡山県に於いても古くから広く受け容れられ』、二十『世紀末以降に入って出版された岡山県史・岡山市史・倉敷市史など地方公共団体が編纂した歴史書などでも、この説を採っている』。『備前岡山藩士・土肥経平が安永年間にまとめた』「備前軍記」では、「宇喜多能家画賛」の『全文や宇喜多氏の出自についての諸説を紹介した上で、宇喜多氏の出自を備前三宅氏と結論付け、この備前三宅氏について「(宇喜多能家画賛とは異なり)新羅王族の子孫とするものもある』。『古代朝鮮王族の子孫が備前児島の東』二十一『カ村を指す三宅郷という地名から三宅連の姓を賜り、後の三宅氏となった」との説を紹介している』。『なお、備前三宅氏については、備前に置かれていた古代大和王権の直轄地である屯倉に由来するとの説も古くからある』。『浮田(宇喜多)姓に相当する地名は、古くに遡っても備前児島には存在せず、地名ではなく地形等に由来する姓であるものと思われるが、岡山県編纂の』「岡山県史」では、『宇喜多氏が本拠とした備前豊原荘一体にはもともと備前児島に由来する三宅氏が分布していたことから、宇喜多氏が本姓三宅氏で三宅氏の支流であることに矛盾はないとする』。『ただし、児島郡に三宅郷という郷名や三宅連という人名は見られず、三家郷と三家連の誤りと思われるうえ』、『三宅連は新羅の王族であるアメノヒボコの子孫であり』、『宇喜多氏が称する百済王族子孫との整合性に大きな矛盾が生じる』とし、『一方で、上記の通説とは逆に、宇喜多氏が備前児島半島の三宅氏の先祖であるとする極少数説もある』。『百済王族の子を宿した姫が備前児島宇藤木に上陸し、備前児島唐琴に居住。この姫が「日の本の人の心は情けなし、我もろこしの人をこそ恋へ」という歌を詠んで助けられた話が都に伝わり、藤原北家閑院流三条家の宇喜多中将(宇喜多少将とも)へ嫁いで宇喜多氏となり、その系譜を汲む東郷太郎・加茂次郎・西郷三郎(稗田三郎)の三家を祖として三宅氏の家の元祖とするものである。一説に、東郷太郎は百済王族の子、加茂次郎と西郷三郎は三条の中将と百済の姫の子とされ、藤原北家閑院流三条家の血を引くとする系図が多数を占める』。『具体的には三条実親の玄孫にあたる参議・三条実古』『の子公頼(加茂次郎)が、山城国大荒木村宇喜多又は、山城国大荒木田宇喜多社領』『から備前国東郷に下向、公頼の子・実宗(東郷藤内、土佐守)の時水沢姓が分かれ、実宗の子・信宗(宇喜多十朗)が宇喜多姓を称し(赤松家家臣浮田四郎敏宗の養子となったともいう)、信宗の子宗家(宇喜多修理進三郎、土佐守』)が文明二(一四七〇)年に『上道郡西大寺に居住したとする』。『なお、三宅姓は古くから確認できるのに対し、宇喜多姓自体は室町時代の』「西大寺文書」が『文献で確認できる初出である』とある。

「兒島の瑜伽寺(ゆうがじ)」現在の岡山県倉敷市児島由加(こじまゆが)にある真言宗由加山(ゆがさん)蓮台寺((グーグル・マップ・データ))の前身とされる寺。]

 しかしこれらの雜説を丁寧に仕分けてみれば、一つとして備前より外[やぶちゃん注:「ほか」。]では聞かぬと云ふものが無い。中にもうつぼ舟は系統が明瞭であつて、つまりは遙かなる海の彼方から、因緣あつて來たり寄るものは、昔も今も此舟を必要としたことを知るのである。現に對岸の伊豫に在つては、河野家の始祖と稱する小千御子(をちゑこ)も亦それであつた。大昔興居島(ごゝのじま)の漁夫和氣五郞大夫なる者、海上に出でゝ、一艘のうつぼ舟を見た。家に曳き還つて之を開き見るに、内に十二三歳の少女あり、我は唐土の者、仔細ありて此の如し云々。名づけて和氣姫とよんで養育し奉る。後に伊豫王子の妃となつて小千御子を生むと傳へ、船越といふ處には姫の御墓なるものが今も存する。常陸の荒濱の所謂アメリカの王女が、決して突發した空想でなかつたことは、もう是だけでも證明し得られるのである。

[やぶちゃん注:「河野家の始祖と稱する小千御子(をちゑこ)」河野氏は伊予国の有力豪族で、越智氏の流れを汲むとされる一族。個人サイト「おに」の「越智氏考や、古田史学会報〇〇八月木村賢司論考等が参考になる。]

2018/09/15

柳田國男 うつぼ舟の話 二

 

        

 

 うつぼ舟は空洞の木を以て造つた舟、卽ち南方の小さい島々に於て、今尚用ゐられて居る所の、刳舟(くりふね)丸木舟のことで無ければならぬが、多くの日本人はもう久しい間、その元の形を忘れてしまつて居る。我々の親たちの空想の「うつぼ舟」には、潜水艦などのやうに蓋が有つた。斯うしなければとても荒海を乘切つて、遙々遣つて來ることは出來ぬものと、思ふ者が次第に多くなつた爲であらう。加賀での出來事から更に四十二年を經て、享和三年二月廿二日の眞晝頃、常陸の原やどりとか云ふ濱に、引上げられたと傳ふるうつぼ舟などは、其形たとへば香盒の如くに圓く、長さは三間あまり、底には鐵の板金を段々に筋の如く張り、隙間は松脂をもつて塗り詰め、上は硝子障子にして内部が透き徹つて隱れ無く、覗いて見ると一人の生きた婦人が居り、人の顏を見てにこにこして居たとある。

[やぶちゃん注:冒頭注で示した、次段で示される通り、滝沢馬琴の「兎園小説」の琴嶺舎(馬琴の子息滝沢興継のペン・ネーム)の報告になる、「うつろ舟の蛮女」である。私の高校国語教師時代のオリジナル古典教材授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」©藪野直史)の『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』で原文と電子化訳注を参照されたい。附帯する諸図もリンクで添えてある。

「享和三年二月廿二日」グレゴリオ暦一八〇三年四月一日。この年は閏一月があったために、新暦ではかなり後ろにずれ込んでいる。

「常陸の原やどり」同話を載せる別な随筆「梅の塵」では「原舎浜(はらとのはま)」と記載。現在の鹿島灘の大洗海岸とも言われるが、実在地名には同定出来ない。上記リンク先で私の詳細な考証をしてあるので参照されたい。

「香盒」原文は「はこ」と読んでいるが、正しくは「かうがふ(こうごう)」で、香料を入れる容器。漆塗・蒔絵・陶器などがある。香箱。香合。円盤状である。

「三間」約五メートル五十センチメートル。]

 此話は兎園小説を始めとして、當時の筆豆人の隨筆には幾らも出て居る。例れも出處は一つであるらしく、疑ひも無く作り事であつた。その女は年若く顏は桃色にして、髮の毛は赤いのに、入れ髮ばかりが白く且つ長かつた。敷物二枚の他に甁に水二升ほどを入れ、菓子樣の物及び肉を煉つたような食物もあつたとある。又二尺四方の一箇の箱を、寸刻も放さず抱へ持ち、人に手を觸れしめなかつた。浦人の評定では、多分蠻國の王の娘などで、密夫あつて其事露顯に及び、男は刑せられたが王女なれば殺すに忍びずして、此の如くうつろの舟の中に入れ、生死を天に任せて突き流したものであらう。然らばその大切にする木の箱は、定めて愛する男の首でゞもあらうかなどゝ、言語は不通であつたと謂ふにも拘らず、驚くべき確信を以て説明する者があつたと記して居る。

[やぶちゃん注:「兎園小説」江戸後期の随筆。全十二巻の他に外集・別集・余録など九巻が附帯する。編者は瀧澤解(とく:曲亭馬琴の改名本名。当初は興邦(おきくに)であった。馬琴は江戸深川の旗本松平信成の用人の五男)。文政八(一八二五)年成立。同年、馬琴と随筆家で雑学者の山崎美成(江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子)を主導者として、屋代弘賢・関思亮・西原好和ら計十二名の好事家によって、江戸や諸国の奇事異聞を持ち寄る「兎園会」と称する月一回の寄合いが持たれ、その文稿が回覧されたが、その集大成が本書。三百話に近い怪談奇談が語られ、当時の人々の風俗史を語る上でも貴重な資料と言える。

「當時の筆豆人の隨筆には幾らも出て居る。例れも出處は一つであるらしく、疑ひも無く作り事であつた」非常に不審である。「當時の筆豆人の隨筆には幾らも出て居」り、「例れも出處は一つであるらし」いから、「疑ひも無く作り事であ」るとは、どういう論か!?! 事実、多数の別人による記載がある。例えば、リンク先の「梅の塵」の原文と比較されたいが、日時や地名シークエンスの細部に異同はあるが、寧ろ、これは実際に起こった出来事の伝聞過程での許容範囲内のそれであるとしても何ら、問題ないし、この当時は鋭い随筆考証家を輩出したことを考えれば、当時の市井の好事家の関心を惹いた以上に、その中にこれが創作物だと批判する者が有意にあっておかしくないにも拘わらず、否定派のそうした資料は私の披見した限りでは、殆んど見当たらないのである。出所が一つであるというのは、これまた寧ろ、起こった原事件があったればこその強い映像的類似性を持っているものと言って差し支えない(作話ならば、作話であることを確信犯とした連中が雲霞の如く飛びつき、とんでもない尾鰭がついて変形譚が数多く出るのが世の常であるのに、同じ話と思われるものは、その全体に於いては一様に酷似している)。にも拘らず、この日本の民俗学の父とも称せられる柳田國男が、非論理的にも、一刀両断で「疑ひも無く作り事」と断じているのは、如何にも解せないと言わざるを得ない。

「此の如く」「かくのごとく」。]

 實際海邊に住む人民にしては、出來過ぎた斷定には相異ないが、以前も此近くの沿岸に、同じやうな蠻女を載せて漂著したうつぼ舟があつて、それには爼板の如きものに一箇の生首をすゑて、舟の中に入れてあつたと云ふ口碑があつたさうである。常陸の濱には今も大昔も、此種の不思議を談ずる氣風が特に旺盛であつたらしい。從つて海に對する尋常以上の信用が、噂の根をなして居たことは認めてもよいが、少なくとも記述の文飾、殊に所謂蠻女とうつぼ舟との見取圖なるものに至つては、いゝ加減人を馬鹿にしたものである。官府の表沙汰にすると雜用手數が容易で無い故に、先例に由つて再び元の如く女を舟に入れ、沖に引出して押流したと謂つて、是以外には一つの證跡も殘らぬのだが、舟の中に書いてあつたと稱して、寫し取つて居る四箇の異形文字が、今では最も明白に此話の駄法螺なることを證明する。それを曲亭馬琴が註解して、最近浦賀の沖に繫つたイギリス船にも此等の蠻字があつた。だからこの女性はイギリスかもしくはベンガラ、もしくはアメリカなどの蠻王の女なりけんか。是もまた知るべからず、尋ねまほしきことなりかしなどと、例の恐ろしく澄ましたことを言つて居る。さうして今日までまだ其儘になつて居たのである。

[やぶちゃん注:まず、柳田國男に反論したいのは、「常陸の濱には今も大昔も、此種の不思議を談ずる氣風が特に旺盛であつた」のではない! ということだ。常陸の海岸沖は北からの親潮と南からの黒潮がぶつかり合う地点に相当し、驚くべき南北遠方からの漂流物が漂着する場所である。長い砂浜海岸が多く、これは岩礁性の入り組んだリアス式のそれとは異なり、相当な距離にある対象も容易に視認出来る。則ち、「常陸の濱には今も大昔も、此種の不思議」「を談ずる氣風が特に旺盛であつた」のではなく、「常陸の濱には今も大昔も、此種の不思議」な〈何もの〉(生物やその死骸或いは本邦に存在しない物質・物体)かが漂着することが、しばしばあった、だからこそそうした「不思議を談ずる氣風が特に旺盛」となったの「であつた」と言ってこそ、真に科学的なフォークロアの考察法であると言える。

 さらに柳田は「所謂る蠻女とうつぼ舟との見取圖なるものに至つては、いゝ加減人を馬鹿にしたものであ」り、「舟の中に書いてあつたと稱して、寫し取つて居る四箇の異形文字が、今では最も明白に此話の駄法螺なることを證明する」と言っているが、これはまさに御用学者が原発の絶対安全性を主張し、反論する者をせせら笑い、福島第一原発の致命的なメルトダウンと放射性物質の甚大な飛散に口をつぐんでソッポを向いているのと同じ臭いを私はこの柳田國男の口振りに強く感ずるのである。明治の、自身の権威付けが絶対使命である知的指導者としては、あの文字(リンク先は私のそれ)は鼻持ちならない「いゝ加減人を馬鹿にしたもの」としか見えず、文字なんぞであろうはずがない「文字」なるものは「今では最も明白に此話の駄法螺なることを證明する」確かな児戯に等しい悪戯書きだ! だから! 全体が嘘なんだよ! と青筋立てて、幽冥界の馬琴をバキンバキンに感情的になって怒っている、という構図なのである。リンクで、私は船・婦人そして文字について、それらが事実であったものと措定して私なりの解明を試みているので是非、参照されたい。特に文字のそれは私の完全なオリジナルな説で、今でも相応に自信を持っている。「でも、あんな、文字ないよ!」と宣う方、全く知らない外国語で横書きされたものを、縦書きの和語しか知らない一般大衆が見たら、どの方向からどう読むかを考えて見られよ。しかも、この文字は円盤型ヴィークルの下半分の内部の壁面に書かれていたんだぜ? そうしてそれを、おっかなびっくり、円盤の上部の縁に手を掛けてちょいと覗き見たものを写したんだ。としたら、どんなものが出来上がるか、自分でロシア語ででも書かれたものを、その漁師に成りきって、やってみてご覧な!

「ベンガラ」縦糸が絹糸で横糸が木綿の織物である「紅柄縞」(べんがらじま)はオランダ人がインドから伝えたとされており、ここはインド半島東北部のベンガルを指すと考えてよい。]

 勿論自分たちには近世の僅かな知識を根據にして、古人の輕信を笑つてみようと云ふ考へは無い。第一そんな舟、そんな亞米利加の王女などが、流れて來る筈が無いと謂つてみたところが、然らば何故に是だけの事實、もしくは少なくとも風説が出現したかと問へば、今だつて答へ得る者はないのである。單なる耳目の誤り又は誇張であつたとしても、何か基づく所がなければならぬ。假に丸うそであつたにしても、斯う謂つたら人が騙されると云ふだけの、見込みが最初から有つたものと思ふ。現代の文學才子が必ず實驗したであらう如く、作り話が譬へば鍍金のやうなものならば、其土臺もやはり稍安つぽい金屬であつて、決して豆腐や菎蒻では有り得ない。どんな空中樓閣にも足場があつた。或は無意識にかも知れぬが、いつの間にかうつぼ舟とは斯んな物と、人も我も大凡きめて居た形式があつた爲に、その寸尺に一致した出鱈目だけが、たまたま右の如く成功し得たのである。人間は到底絶對の虛妄を談じ得る者で無いといふことが、もしこの「うつぼ舟」から證明することになるやうなら、是も亦愉快なる一箇の發見と言はねばならぬ。

[やぶちゃん注:柳田は、お得意の、伝承のプロトタイプから生ずるメタモルフォーゼという別ステージの考察に持ち込みたかったがためだけに、のっけから強引に法螺と決めつけていたことが以上から判明する。正直、前段のそれこそ人を小馬鹿にした官製御用アカデミスト柳田國男は、彼自身が嫌った妖怪バスター、妖怪存在の科学的否定を展開した井上円了のそれよりも遙かに「厭な感じ」である。その類似性に柳田もちょっと気づいたのであろう、この段落では、デッチアゲだとした舌鋒が急に後退している。読者にそうした反感を持たれると、後を読んで呉れないかも知れぬ、と彼自身が危ぶんだからに相違ない。

「鍍金」「めつき(めっき)」。

「菎蒻」「こんにやく(こんにゃく)」。「蒟蒻」に同じい。]

柳田國男 うつぼ舟の話 一 /始動

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年四月発行の『中央公論』初出で、後の昭和一五(一九四〇)年八月創元社刊の評論集「妹の力」(「いものちから」と読む)に収録された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクション上記「妹の力」の当該の「うつぼ舟の話」(リンク先はその冒頭部)の章の画像を用いた。一部、誤植と思われる意味の通じない箇所は、ちくま文庫版全集と校合して訂した。但し、その個所は特に注していない。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

 私は、私の高校国語教師時代のオリジナル古典教材授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」©藪野直史)を公開しており、実際に授業もやったが、その『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』で本篇の「二」に登場する、滝沢馬琴の「兎園小説」の、琴嶺舎(馬琴の子息滝沢興継のペン・ネーム)の報告になる「うつろ舟の蛮女」を電子化訳注し、さらに子細な考証も行っている。

 いわば、それを補助するものとして、この「うつぼ舟の話」一篇のみを電子化することにした(「妹の力」総てではないので注意されたい)。但し、今までの本カテゴリ「柳田國男」での、有意な分量の単行本ではあったが、「蝸牛考」(完成に一年)や「一目小僧その他」(同じく一年三ヶ月)ような詳細注は附さないこととする。私の場合、注を附け始めると、徹底しないと気が済まなくなり、テクストの完成自体に上記の通り、ひどく時間がかかってしまうためである。但し、私自身がどうしても附けたくなる箇所、致命的に判らない部分・疑問部分及び私自身が柳田國男の見解に反論がある場合、また、若い読者が躓きそうな熟語の読みや意味についてはその限りではない。その場合は当該箇所の直後或いは段落の後に注を挿入することとする。……とか言いつつ、結局、元の木阿弥化した。……まあ、仕方ねえな、俺の「性(さが)」じゃけぇ……【2018年9月15日 藪野直史】]

 

   うつぼ舟の話

 

        

 今から百六十五年前の寶曆七年の八月の或日、辨慶法師の勸進帳を以て世に知られた加賀國の安宅(あたか)の濱に、一つのうつぼ舟が漂著したと云ふ舊記がある。「うつぼ舟」とは言ひふらしたけれども、其實は四方各九尺ばかりの厚板の箱で、隅々を白土のしつくひをもつて固めてあつた。開けて見ると中には三人の男が入つて死んで居る。沖で大船が難破するとき、船主その他の大切な人、または水心を知らぬ者を斯うして箱に入れ、運を天に任せて押し流す例があるといふ。果して其樣な事があるものかどうかは心元無いが、たとへ死んでも姿だけは、何處かの海邊に打ち寄せられることを、海で働く人たちが願つて居たことだけは事實である。

[やぶちゃん注:「寶曆七年」一七五七年。同年「八月」は一日がグレゴリオ暦九月十三日。

「九尺」二メートル七十三センチメートル弱。]

 如何なる素性の人間であつたか、久しく郡代の手で尋ねて見たが、終に何らの手懸りも無かつた。そこで亡骸は先づ砂濱の片端に埋め、木の箱はこれを毀して、供養の爲として其あたりの橋の板に用ゐしめた。其時諸宗の寺々より三人の塚に會葬して、有難い追福の行事が行はれたのであつたが、尚海上の絶命に迷ひの念慮が深かつたか、但しは南蠻耶蘇の輩であつて佛法が相應しなかつたものか、夜分は時として此墓から陰火の燃えることがあつたと謂ふ。遺念火(ゐねんび)の怖ろしい話は、最も此類の墓所に多かつた。必ずしも目の迷ひで無くとも、他の場合には心付かずに過ぎてしまふ出來事を、何かと言ふと思ひ出す者が、其方角ばかり眺める故に、特に見出して騷ぐことになつたのであらう。河内の姥が火とか尾張の勘五郞火とか、百をもつて算へる全國の同じ例が、場所や時刻を一定して、其上理由までもほゞ似て居たことを考へると、たとへば天然普通の現象であつたにせよ、やはり非業の死を傷む人の心の動きから、作り設けた不可思議といふことになるのである。

[やぶちゃん注:「姥が火」私の諸國里人談卷之三 姥火を参照されたい。ウィキの「姥ヶ火」もよい。

「勘五郞火」「かんごらうび(かんごろうび)」。の「怪異・妖怪伝承データベースによれば、『続く日照りに思い余った男が他人の田から水を盗み、それがばれて殺され埋められた。子を失ったその母もあとを追った。それ以来、夏の夜には二個の陰火がとび、青木川の堤防は毎年きれるようになった』とある(出典はリンク先を参照のこと)。]

 又箱の板を橋に架けたということも、同じく古風な日本人の、優美なる心遣ひであつた。奈良では藥師寺の佛足石の碑の石なども、久しい間佐保川の橋板に用ゐられてあつた。冬の徒涉りの辛さを味わつた者ならば、この萬人の脚を濡らすまいとする企ての、尊い善根の業であることを理解する。人を向ふの岸へ渡すといふ思想には、更に佛教の深い趣意があつて、地藏樣などは牛馬にも結緣させんがために、橋になつて踏まれてやらうといふ御誓願さへもあつた。けだし北國の濱邊の昔のたつた一つの出來事でも、斯うして記錄になつて傳はつて居ると、次から次に思ひ掛けぬ色々の問題を、考へさせずには置かぬのである。

[やぶちゃん注:「徒涉り」「かちわたり」。]

 但し自分がここで少しばかり、話の種にして見ようと思ふのは、さほど込み入つた民族心理の法則などでは無い。この大海を取繞らした日本國の岸には、久しい年代に亙つて流れ寄る物が無數であつた。曾ては半島の出水に誘はれて、所謂天上大將軍の怖ろしい面貌を刻んだ木の杭が、朝鮮から漂著したことも一再でなかつた。羽後の荒濱では蛾眉山下橋と題した橋柱を、漁民が拾ひ上げたといふ奇聞もある。沖より外の未知の世界は、殆どある限りの空想の千變萬化を許したにも拘らず、如何なる根強い經驗の力であつたか、海を越えて浮び來たる異常の物は、例へば死人を納めた木の箱のごときものまで、我々の祖先は一括して、常に之を「うつぼ舟」と呼ばうとしたのである。それがもし偶然の一致で無ければ、卽ち何らかの原因の隱れたる、不思議な國民の一つの癖である。つまらぬ問題のやうではあるが、もし之に基づいて新たに見出さるべき知識があるとすれば、是もやはり學問のうちではあるまいか。

[やぶちゃん注:「天上大將軍の怖ろしい面貌を刻んだ木の杭」朝鮮民族の村落に見られる魔除けのための境界標である、尖塔部に厳めしい武人の頭を彫り込んだ「除魔将軍標」或いは「将軍標」(朝鮮語音写:チャングンピョ)のこと。

 

原民喜 旅空

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四一)年一月号『文藝汎論』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 簡単に語注を附しておく。

「落柿舍」の章(言わずもがなであるが、ロケーションを示すために注しておくと、落柿舎は蕉門十哲の一人向井去来の別荘で、芭蕉も三度訪れ、「嵯峨日記」を著した場所としても知られる。現在の京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町(ひのみょうじんちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は本篇ではここ以外は訪れたことがない)の「吻とした」は「ほつとした(ほっとした)」と読む。

・「杜絶えて」は「とだえて」。

・「現身」は「うつそみ」と万葉語で読みたい。この世に生を享けている己が姿。

・「晒天井」(さらしてんじやう(さらしてんじょう))は部屋の天井板を張らずに屋根裏や梁が見えたままの造りを指す。

「伊賀上野」の章の「蓑蟲庵」は「三冊子(さんぞうし)」で知られる芭蕉の同郷の門人服部土芳(とほう)の庵。訪れた芭蕉が詠んだ挨拶句「みのむしの音(ね)を聞(きき)にこよ草の庵(いほ)」からかく名指された。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「愛染院」は「あいぜんゐん(あいぜんいん)」」。三重県伊賀市上野農人町(うえののにまち)にある真言宗遍光山愛染院願成寺(がんじょうじ)のこと。本尊愛染明王。松尾芭蕉の松尾家代々の菩提寺。ウィキの「願成寺(伊賀市)によれば、芭蕉は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)に滞在先であった大坂で亡くなり、門弟らによって遺命に従って大津の義仲寺(ぎちゅうじ:滋賀県大津市馬場にある天台宗朝日山(あさひざん)義仲寺。ここ(グーグル・マップ・データ))に葬られたが(墓はこれウィキの「義仲寺」の画像)、先に出した『伊賀上野の門弟服部土芳』『と貝増卓袋が、形見に芭蕉の遺髪を持ち帰り、松尾家の墓所に納め、後に故郷塚が築かれた。現在の場所に移されたのは』芭蕉五十回忌の元文三(一七三八)年の時と伝えられる。寺の位置及び故郷塚の画像は「伊賀市観光協会連絡協議会」公式サイト内の「愛染院・故郷塚」を見られたい。

・「私の喪神」「喪神」は「もがみ」と訓じておく(「さうじん(そうじん)」と読む熟語としては存在するが、その場合は「喪心」と同じで、「放心状態」や「意識喪失(気絶・失神)」の意でしか用いないと思われる)。自身に近しい人の神霊、則ち、永く喪に服すべき親族の死者の霊魂のことを指している。

・「對つて」は「むかつて(むかって)」。

・「逢遭」(ほうさう(ほうそう)」は「めぐり逢うこと・出会い」の意。

・「櫟」は「くぬぎ」。ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima

・「腰板」壁や障子等の下部に張った板。

「義仲寺」の章の「窄めた」は「すぼめた」。

「幻住庵」の章(幻住庵(げんじゅうあん)は滋賀県大津市国分(こくぶ)にある芭蕉が滞在し、「幻住庵の記」をものした小庵。ウィキの「幻住庵」によれば、『「奥の細道」の旅を終えた翌年の』元禄三(一六九〇)年三月頃より、『膳所の義仲寺無名庵に滞在していた芭蕉が、門人の菅沼曲水』(きょくすい:俳号は「曲翠」とも記す。本名は菅沼定常。膳所藩重臣で芭蕉の門人。芭蕉の死から二十三年後のことであるが、享保二(一七一七)年、不正を働いていた家老曽我権太夫を槍で一突きにして殺害し、自らも切腹した。墓所は芭蕉と同じ義仲寺である)『の奨めで同年』四月六日から七月二十三日の約四ヶ月間、ここに『隠棲した』。『元は曲水の伯父幻住老人(菅沼定知)の別荘で、没後放置されていたのを手直しして提供したものであり、近津尾神社(ちかつおじんじゃ)境内にある。芭蕉は当時の印象を「いとど神さび」と表現したが、その趣は』『今も変わらず』に『残っている』(現在の建物は一九九一年の復元)。『敷地内には幻住庵記に「たまたま心なる時は谷の清水を汲みてみづから炊ぐ」との記述があるように、芭蕉が自炊していた』とされる「とくとくの清水」が『今も木立の中、水を湧き出している』とある。

・「藥師堂」いろいろ調べてみたが、私自身、行ったことがない場所なので遂に判らなかった。ここが判ると、或いは後の主人公の行路がより明確に判るように思われるのであるが。後の私の注の杜撰な考証の限りでは、前の「義仲寺」に素直に続くものとするなら、この薬師堂なるものは大津市馬場の義仲寺と大津市別保の国分寺の間、膳所駅と石山駅の間(中央附近。グーグル・マップ・データ)にあることになるのだが、私の後注の考察が誤謬である可能性もあるので確信はない。識者の御教授を乞う。〈裏に坂道がある薬師堂〉である。

・「展がる」は「ひろがる」。

・「眼路」は「めぢ(めじ)」。目で見通した範囲。視界。「目路」とも書く。

・「新草」は「にひくさ(にいくさ)」。春先に芽を出した草。「若草」に同じい。

・「石山寺」(いしやまでら)は滋賀県大津市石山寺にある真言宗石光山(せっこうざん)石山寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、読むと判るが、主人公は寺を訪れたのではなく、単に遠望しただけである。

・「川」瀬田川。

・「戰いで」は「そよいで」。

・「國分寺」これは以下に続くシークエンスと地図を照らし合わせてみたりして、大津市国分にある近江国分寺跡に比定されており、幻住庵の北北西二百四十メートルほどのごく直近にある(ここ(グーグル・マップ・データ))国分聖徳太子堂(こくぶたいしどう)、或いは、その東北方の新幹線を跨いだ滋賀県大津市光が丘町付近にある国分寺跡(遺跡で建築物等は全く残っていない)、揚句は瀬田川の対岸の滋賀県大津市野郷原(のごはら)・神領(じんりょう)地区の国分寺比定地跡なども画像で見たが、国分寺跡どちらも遺構地であって、少なくとも現在は、ただ比定を示す石柱が建つだけで、本文にあるような「門を潛る」というようなロケーションの場所ではないし、流石に原民喜がこの殺風景な跡地を「國分寺」とは言うとは思えない。国分聖徳太子堂ならば、寺形式の建築物も門もあるから(ブログ「竹林の愚人 Ⅲ」の「国分聖徳太子堂」が写真豊富で(視認判読可能な現地の解説板を含む)よい)それらしい感じで、当初、ここだと決めかけたのだが、次のシーンで道を教えて呉れる老人は「向の山の中腹にある甍を指差して、そこだと教へてくれた。あの竹籔のところまで行つて、橋を渡ると、山の麓になつてゐると語つた」とあり、地図を見る限りでは、この国分聖徳太子堂附近からだったなら、川を渡らずに山裾を廻り込めばよい(ただ、主人公が東に川を渡ってしまっていた可能性はある)近さなので、如何にもおかしいと私は感じてしまった。さらに、表現は圧縮されているものの、「私はもう大分步いたやうだが」と、実は相当な距離を歩いてきたことが判る。とすれば、この「國分寺」とはずっと北の、東海道本線を跨いだ滋賀県大津市別保にある現存する曹洞宗別保山(べっぽざん)国分寺ではなかろうかという気がして来たのである。(グーグル・マップ・データ)である(この寺は旧粟津国分尼寺で、後に兼平寺(無論、木曾義仲の乳母子にして義仲四天王の一人の、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した今井兼平所縁の寺名であろう。南東直近に兼平の墓はある)を経て、国分寺としてある寺で、巴御前の供養塔がある。但し、の訪れたい方に言っておくと、ネットで見ると、今あるのはピッカピカの新造塔である)。但し、私の思い違いがあるかも知れない。現地に詳しい方の御教授を切に乞うものである。

・「怕く」は「こはく(こわく)」。「怖く」に同じい。

・「八幡宮の神殿」近津尾神社の祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと)=応神天皇の諱で、八幡神と応神天皇は同一とされてきた。

・「凝と息を凝してゐた」前は「じつと(じっと)」、後は「こらして」。

・「人格」は「じんかく」でよかろうが、ここは「人の影」「人らしい姿のもの」といった謂い。見慣れぬ使い方であるが、そこは原民喜の確信犯の用法なのである。……ともかくも読まれるがよい……まっこと、味なことやるねぇ! 民喜!……

・「遽かに」は「にはかに(にわかに)」。

・「煮えたぎつ心地がした」ママ。「激しく沸き立つ」の古語「滾つ・激つ」(タ行四段)ならおかしくないが、この前後は全くの口語なのだから、奇妙である。「たぎる」の原民喜の誤記か、底本の誤植か、或いは初出の『文藝汎論』の誤植の可能性もある。

 なお、本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。]

 

 

 旅空

 

  落柿舍

 

 私は釋迦堂の方ヘアスフアルトの道を步いて行つた。背中に正午の陽が熱く射して、眼はさつき見た渡月橋の賑はひに疲れてゐた。今朝、京都驛へ着いて、疲れたままの體を嵯峨まで運んで來たのだつた。すると此處は花見客でひききりなしの人通りである。その人通りのなかに紛れて、渡月橋まで來たが、尋ねる落柿舍は見あたらなかつた。角の餠屋で訊ねると、娘が耳馴れない言葉でぼんやりと教へて呉れた。おぼつかなくは思つたが、來た道を逆に引返して行くと、暑さが背に匐登つて來るのだつた。

 そのうちにどうやら右に石の道しるべがあつて、私は吻とした。その小路に這入つて行くと、もう人通りは杜絶えて、竹籔がさらさら風に搖れてゐた。畑中の道に添つて、ところどころに人家があつた。はじめそれかと思ふ門口の額を見上げると、異つてゐる建物であつた。畑には豆の花が咲いてゐて、槪して、纖細さうな植物が眼に著いた。落花がひらひらと竹籔に散つて來るのを見送つて、道は更に白く伸びてゐた。ふと立留まつた小さなな門に立札があつて、石に落柿舍と彫つてあつた。

 見上げると、後は竹籔で、生垣をめぐらした、藁葺の一軒家だつた。門を這入つて行くと、日陰と日向の入混つた庭で、突當りの戸に蓑が掛けてあつた。飛石を踏んで座敷の緣側まで行くと、内から人の氣配がして、若い男の顏がのぞいた。私は默つて、帽子をとつた。私は緣側に立つて、藁葺の屋根を仰いだり、座敷の奧の方を眺めた。座敷の壁に笠が掛けてあつて、内部は爽やかな薄明りだつた。緣側に腰かけて、私は煙草を吸つて、ふと側にある柿の樹を見上げた。梢に靑い芽がつやつやと光つてゐた。庭の隅に句碑らしい石もあつた。山吹に似た花が咲いてゐて、地面を割つて蕨が二つ三つ伸びてゐた。

 私は立上つて、半分戸のひらいてゐる土間の方を覗はうと步いて行つた。すると、座敷から、「お茶をどうぞ」と聲がした。見ると、土間の片隅には茶釜が据ゑてあつて、そのまはりに切株の腰掛が置いてあつた。私はそこに腰掛けて、竹筒の茶碗に柄杓で汲んで飮んだ。茫と疲れてゐる現身に、番茶の味が沁み亙るやうだつた。粗壁のところどころに色紙などが貼つてあり、晒天井やくねつた柱がまひるの愁ひを湛へてゐる。お茶を飮んで少し元氣になつて、私はそこを辭した。門を出て、あたりを見渡すと、なかなかいい眺めだつた。畑のむかふの山麓に、杉らしい木立や、寺院の甍や、桃や櫻の花が見えた。そして畑はほんとに風光るといつた趣きだつた。

 

  伊賀上野

 

 木津近くの竹籔が窓の外に搖れ、桃、梨、櫻など咲いてゐる野原に、若芽をもつた枝や、日の光で潤んだ枯枝など混つてゐた。木津驛で降りて、鳥羽行を待つた。驛のホームは寒い風が吹きとほした。鳥羽行に乘ると、團體客で滿員で、昇降口にまで一杯乘客が詰つてゐた。笠置で少し席が空いた。笠置は櫻が滿開で、靑い溪流と由が迫つてゐた。それから汽車は山の中を暫く進んで、伊賀上野に着いた。その驛で降りたのは、私ともう二人位の人だけだつた。

 さて、私は驛の前の廣場に立つて暫くぼんやりしてゐた。そのうちにそこに留まつてゐたバスはみんな行つてしまつた。私は寂しい廣場を過ぎて、一本道の家並の方へ步いて行つた。古びた百姓家ばかり並んでゐて、すぐ側は田だつた。私は一軒の家で、伊賀上野といふのはこのあたりのことですかと訊ねてみた。すると、伊賀上野といふのはまだここから大分あるから、バスで行つた方がよからう、バスは汽車の着く度に迎へに來ると教へられた。それで驛に引返して、三十分程、待つた。やがて、次の汽車が着いて、漸く私はバスに乘ることが出來た。

 バスは畑道を走り、四方に薄く山が霞んでゐた。櫻の咲いてゐる山坂を越えると、視野が改まつて、バスは町中に這入つた。終點で降ろされたものの、私はどう行つていいのか見當もつかなかつた。足の向くままに行くと、天滿宮があつた。それから狹い町中を步いて行つたが、靜かな町だと思つた。私は誰かに蓑蟲庵へ行く道を訊ねたいのだが、誰に訊ねていいのか戸惑ひながら步いた。ふと、橫から坊さんが出て來たので、その坊さんに訊ねてみた。坊さんは蓑蟲庵を知らなかつた。そのかはり芭蕉の祀つてあるお寺なら愛染院だから、そこへ行くといいだらうと、道筋を教へて呉れた。教へてもらつた道筋は途中で忘れてしまひ、二三人の人に訊ね、訊ねして、やつとそのお寺へ來た。町はづれの、坂の下にはすぐ畑などがある道を通つて來たのだつた。

 門を潛つて、ぼんやり境内を見渡してゐると、橫の建物から中年の婦人が現れて、「芭蕉のことですか」と聲をかけられた。私が頷くと、婦人はさきに立つて案内してくれた。遺髮が收めてあるといふ塚を見て、そこから次いで庭に椿の咲いてゐる一つの庵室に案内された。そこに位牌が祀つてあつた。私はその前に坐つてゐると、ふと喪にゐるやうな氣持がした。今、私に説明したり案内してくれる婦人の聲も、それは何か私の喪神に對つて悔みを云はれてゐるやうな錯覺を與へた。御遠方からよくおいでなさいました、と云はれると、それは賴りない身空で逢遭した慰籍の語のやうに思へたり、しかし、私は何のために遍歷してゐるのかよくわからなくなるのでもあつた。私は蓑蟲庵へ行く道順を教へてもらつて、そのお寺を辭した。

 蓑蟲庵は更に町はづれの溝に添つた路にあつた。黃色い高い塀からは庭樹がこんもりと見えてゐた。玄關を入つて、案内を乞ふと、年寄つた主が現れた。それから橫の徑を這入つて、庭に出た。古びた、よく手入れされた廣い庭だつた。飛石づたひに行くと、藁葺の舊い平屋が控へてゐた。

 緣側の前に立てば、半分開かれた襖の向ひに、薄暗い部屋が並んでゐて、突當りの部屋の壁は眞暗だが、圓くくり拔かれた障子窓が、遠くぼんやりと朧月のやうな光を放つてゐる。私は暫くその光に見とれてゐたが、勸められるままに座敷へ上つて坐つた。閾も柱も障子もところどころ朽ちかけてゐた。主は床柱を指差して由來を語つた。白い細い節くれだつた柱で櫟の木ださうだ。六疊の座敷の次に四疊の部屋があつて、その奧の突當りの六疊には爐が切つてあつた。そして、臺所と境の障子の越板が一寸位缺けたままになつてゐた。片隅に、朱塗の行燈が置いてあつた。主はその行燈を顧ると、こんなものを使つてゐた頃のことをあなたは知つてゐますかと云つた。私にもそれは遠い記憶のうちに殘されてゐる行燈のあかりがあるやうに思へ、何故か苦惱に近いものが眼前を橫切るのだつた。

 

  義仲寺

 

 電車を石場で降りると、アスフアルトの往來が一本續いてゐた。私はそば屋で晝餉を濟まして、義仲寺へ行く道を訊ね、それから、ぶらぶらと步いて行つた。塀の外に芭蕉の葉が覗いてゐるお寺があつた。門を入ると、婆さんが出て來た。芭蕉の墓は兼て寫眞で見知つてゐた通りで、今も靑い木の葉が供へてあつた。狹い庭に日が明るく射してゐた。婆さんは緣側の白い砂挨を眺めながら、「昔はこの邊もさぞよかつたことだと思ひますが、この頃ではすぐ外を走るバスの挨がみんなこの緣側に來るのでかなひません、それに、私は永く東京で暮してゐて、年とつてからここへ來たものですから、どうも朝夕は冷えて寒くてなりません」と肩を窄めた。

 

  幻住庵

 

 藥師堂の裏の坂路を行くと、私は次第に何ものにか憑かれてゐるやうな心地がした。雨は小止みなく降りつのり、展がる眼路は濡れて、ひつそりした畑であつた。ほんとに人一人見かけない畦道となつた。あぜ路に田の水が溢れ、靴の底に踏む枯草は水を吐いた。新草もちらちら見える細い徑は、うねり高くなり低くなり續いて行つた。雨靄に籠められてゐる山や森は薄墨色であつた。

 この寂寞とした眺めにひきかへ、私は後に殘して來た湖水の姿が次第に哀感を含んで訴へるやうであつた。さきほど見た石山寺の對岸の景色は、ほどよい距離に川があるためか、それはうつとりとして、柳と櫻が立並んだ岸の青草の上を雨傘が靜かに進んでゐた。湖水の仄かなる表情がまだ遠くで戰いでゐる。

 そして今私の對つてゐる路は、現世のはてのやうに寂れてゐた。境涯の夢が何時かはこんな場所に人を運んで來さうな感じがした。それで私は私の小説を腹案してゐるのか、實踐してゐるのか、さだかならぬ氣持で路を傳つて行つた。暫くすると、繁みがあり、靑い小さな池が足もとにあつた。それから路は更に畑のなかに煙つてゆく。やがて、人家のまばらに並んだ一角に來ると、私は漸く人心地づいたやうだつた。けれどもどこの家もひつそりとして雨だつた。ふと、後から黑い犬が現れて、默々と私の後をつけて來た。國分寺があつた。門を潛ると、犬もついて來た。そこから道幅は廣くなつてゐて、遠く畑の中へ伸びてゐた。暫くすると、犬の姿も無くなつてゐた。

 私はもう大分步いたやうだが、幻住庵は何處にあるのか、見當もつかなかつた。その時、橫の人家から、とぼとぼと憔悴した老人がこの雨の中を步いて來た。私はその老人を立留まつて待つた。老人は向の山の中腹にある甍を指差して、そこだと教へてくれた。あの竹籔のところまで行つて、橋を渡ると、山の麓になつてゐると語つた。私は雨の中を更に急いだ。小さな溪流の岸では、工夫が二人土を掘返してゐた。橋を渡つて、山坂にかかると、路はぬかるんで、滑りさうになつた。日和だつたら、それほど難儀な坂路でもなからうが、私は呼吸切れがして、びつしより汗になつてゐた。

 鳥居の上に大きな枯葉を重ねてある處を潛り、間もなく頂上へ來た。八幡宮の神殿の格子がまづ眼についたが、私はその奧を覗いてみるのが何だか怕くなつた。その橫に、瓦屋根の粗末な平屋が雨戸をたてきつてゐる。それが幻住庵跡なのか。雨戸一めんに落書の句が誌してある。ふと見ると、目の前に椎の木もあり、句碑が立つてゐるのだつた。私はぐつたりして、繪馬堂の板敷の上に腰を下した。そして、煙草を吸つた。雨の音が頻りで、下の溪流の音も聽きとれる。絶えず鳥の聲がひそまり返つた空の方でしてゐた。

 それからどれほどの時間が經つたのか私にはわからなかつた。が、ふと見ると、幻住庵の雨戸が靜かに一枚開け放たれてゐるのだつた。私はもう奇異な感に打たれたまま、繪馬堂の方から凝と息を凝してゐた。たしかに淡い影のやうな人格が今私を手招きしだした。私はおそるおそる、しかし、抗ふことも出來ず、その招かれる方へ近づいて行くと、相手はぼんやりと頷いたまま、すつと雨戸の奧の方へ消えて行つた。私は靴を脱いで、その奧の方へ上つてみた。暗闇の家の中央に、さつきの人格は坐つてゐた。私はその人の前に行つて坐ると、遽かに悲しさと羞恥がこみあげて來た。しかも、何か云ひ出したい衝動が私をその人の前に釘づけにしてゐた。ありうることであらうか、その人はまだ生とも死ともわかたぬ存在を今この眼の前に保つてゐるのだ。私はそれを疑ふ前に既に烈しい感動で眼が煮えたぎつ心地がした。とうとう口を開いて私はその人に訴へた。

「私は何のつもりで、今迄、あなたの遺跡を巡つてゐたのか、自分でもよくわからなかつたのですが、今あなたにお逢ひ出來たので、遽かにおたづねしたいことが出來ました、あなたは以前、昔を慕はれてよく旅をなさいましたが、その頃と今とでは何も彼も全く變つてしまつたやうですが、昔の景色はどんなものでせうか、その昔の姿を、直接あなたの口からきかせて頂けませんか」

 私は自分の訊きたいと思ふことさへ、うまく云へなかつたが、その人は私の言葉を凡そ了解してくれたのだらうか、何度もかすかに頷いてゐるやうに思へた。けれどもその人はなかなか口をあけて話してはくれさうになかつた。私は凝と耳を澄して聲を待つた。卽ち聲はあつた。はつきりした聲で、「朧ぢや」と一ことその人は言ひ放つと同時に、もうその人の姿は消え失せてゐた。

 

 

2018/09/14

原民喜 夢時計

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年十一月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 簡単に語注を附しておく。

・主人公の名「千子」であるが、これは既に電子化した後の「淡章」(昭和一七(一九四二)年五月号『三田文學』初出)の「榎」の主人公の名としても出る。個人的には「かずこ」と読みたい気がする。「もとこ」「ゆきこ」等の読みもある。なお、本篇の描写から、この千子には原民喜の妻貞恵(昭和八(一九三三)年に結婚後、昭和一四(一九三九)年に結核(糖尿病も併症)発病、本篇発表の二年後の昭和一九(一九四四)年九月に三十三歳で逝去した。逝去当時、民喜三十八歳)の影が色濃く感じられるように思われた。

・「機み」は「はづみ(はずみ)」と読む。

・「歇なかつた」は「やまなかつた(やまなかった)」。

・「閊へてゐる」は「つかへている」。

・「蹠」は「あしのうら」或いは「あしうら」。

・「顰めた」は「しかめた」。

・「顴骨」は「かんこつ」(「頰骨」のこと)と読んでおくが、これは慣用読みで、実際には「けんこつ」が正しい読みである。

・「視凝めて」は「みつめて」。

・「怕く」は「こはく(こわく)」。「怖く」に同じい。

・「鞴」は「ふいご」。

・「矢次速に」は「やつぎばやに」。「矢継ぎ早に」に同じい。

・「捋し去らう」は「らつしさらう(らっしさろう)」。「拉(らっ)し去ろう」に同じい。

・「その星は砂地を亙つて墓地に柵の方へ走つて來るのだつた」このままでも不自然とは言えないが、せめても「その星は砂地を亙つて墓地に、柵の方へ走つて來るのだつた」と読点を打つべきで、或いは「その星は砂地を亙つて墓地柵の方へ走つて來るのだつた」の誤字か誤植かも知れぬ。「の」の方が躓かぬ。

・「對つて」は「むかつて(むかって)」。

・「𢌞角」は「まはりかど(まわりかど)」と読んでおく。「曲角」としないのであるから、直角でない曲線の通路と採っておく。

・「ぺつとりと」「べつとりと」ではないので注意。

・「這入る」経験上から、原民喜はこれで「はいる」と訓じている。

 

・「吻として」経験上から、原民喜はこれで「ほつとして(ほっとして)」と訓じている。

・「麥藁眞田」は「むぎわらさなだ」で「麦稈真田(ばっかんさなだ)」のこと。麦藁を平たく潰し、真田紐のように編んだもので、夏帽子や袋物などを作るのに用いる。

 なお、本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。]

 

 夢時計

 

 白い露のおりてゐる草原の線路に、いくつもいくつも提燈が犇いてゐて、汽車が近づいて來るに隨つて、遠くの方の提燈が波打ち、そして段々こちらの提燈も波打ち、あかりをつけた窓々には默々と人々の顏が見えてゐて、それが過ぎ去つてしまふと、天の川がくつきり見え、提燈を持つた人々はぞろぞろと步きだし、千子は人と提燈の流れに從つて步いてゐるうちに、枯れた黍の穗が塀に悶え、石塊が灰白く、いつしか足許は不安に吸込まれるやうであつたが、やがて人々は小學校の講堂へ雪崩れて行つた。いつの間にか板の間には白衣の勇士が坐つてゐて、壇上では假裝行列の樂隊が始まり、どつと人々は哄笑に沸き立つ。近所の知つた人の變裝を見つけて、千子もほつと笑ひかけたが、どうした機みか、淚が浮ぶと、もうそれはいくら制しようとしても歇なかつた。わあわあと溢れ出る淚に千子は轉び伏してゐたが、そのうちにこんなに泣いては皆に迷惑かけると思ひあたると、そのことがまた切ない淚を誘つて、今度は一生懸命で聲を消さうと努めると、息が妙に塞がつて來た。

 今、咽喉の奧の方で死にかけた蟋蟀の聲のやうな音がゆるく絡つてゐて、細い細い今にも折れさうな針金のやうなものが閊へてゐるので、千子は不思議さうに何度もそれが咽喉の奥から引張り出せさうに思つて、顏を顰めた。すると、蹠の方や指のさきから、ザラザラとした熱の微粒が湧いて來て、それは潮のやうに皮膚の全面を撫で𢌞つてゆき、あるところでは渦を卷き、あるところでは急流となつて、その振舞がいよいよ募つてゆくと、心臟は脅えながらも、づしんづしんと音を高め、やがてもの狂ほしい勢で家政婦の姿がをどり出た。

 相手は理不盡なことを要求し、口ぎたなく罵りながら、今廊下を足音荒く逃げてゆく。どこまでが廊下なのか、どこまでが千子の心臟なのか、みんなわからなくなつてゆくうちにも、家政婦の尖つた顴骨やギツギツした眼ざしは濛々とした中に閃き、相手が撒き散らして行つた呪詛の言葉はくらくらと湯氣を發した。その湯氣は眞黑な闇となつてあたり一めんを領した。その時、千子の軀はぐつたりとして、透き徹つて消えてゆくやうにおもへたが、暫くして氣がつくと向の黃色な壁のところにひそひそと身を屈めて、靑ざめた女が茶碗に一杯溜まつた液體を訝しげに視凝めてゐる。千子はそれが自分自身の姿であることを識り、あの壁はどうやら野村病院の壁だつたらしいと思ひあたると、茶碗の中のものはもとよりわかりきつてゐた。ところが向の靑ざめた女はとろとろとした袋のやうな血の塊を指でつまんでは舌のさきにやり、無理矢理に吞込まうとしてゐる。

 千子はぎよくつとして、それを見るのが怕くなつた。ジンジンと厭な鋭い音が針の亂れて降りかかる闇に續き、わたしはどこにゐるのだらう、わたしのからだはどこにあるのかしら、と茫漠とした悶えを繰返してゐると、ふと掌に觸れたシイツの端から、顏全體の輪廓が浮び上り、どうやら千子の魂はそこへ舞ひ戾つて來た。だが、その掌はお湯に浸したやうに熱く、頰の下の一とところは焰がゆらいでゐるやうに火照つて、心臟の疼くことも前と變りなかつた。深夜の部屋は墓のやうにひつそりしてゐた。

 千子は心弱く溢れ出た淚の眼瞼を、ぼんやり閉ぢてゐると、眼球がずんずん腦の方へ沈んで行きさうになり、くらくらする頭の内部の暗がりに、腫れて少し大きくなつてゐるらしい眼球の恰好がまざまざと描かれて來たが、夢にまでこの眼は泣かされてゐるのかしらと思ふと、一たん沈みかかつた眼球の運動が今度はだんだん上方へ昇つて行き、そのうちいつの間にか風呂場の煙突の折れ口がパツと口を開いてゐた。

 嵐でへし折られたその煙突はぶらんぶらんと頭上に搖れ、今にも降り出しさうな空模樣の中に、歪んだ針金を突出し、その針金には蜘蛛の巢が汚れてぶら下つてゐる。今にもあれは墜ちるかもしれないと、千子は口惜しくて耐らなく、眼もとが昏んでゆく思ひだつたが、ふと見ると、その煙突の傍には靑ぶくれした顏の煙突屋がぼんやり腰を下してゐる。何度賴みにやつてもやつて來なかつた煙突屋は今も修繕に取掛らうとするでもなし、氣心の知れない顏附で煙草を吸つてゐた。ところが煙突屋は誰か向に知人を見つけたらしく、一寸手をあげて合圖した。怪しんで千子がその方向を見𢌞すと、塀の破れ目から爛々と光つてゐる家政婦の眼があつた。と、思ふとバタバタ逃げだす足音がして、千子の心臟はまた張裂けさうになる。

 軀は鞴のやうに音を發し、その上をいくつもいくつも其黑いものがつ走り、矢次速に黑い塊は數を增してゐた。ザザザと彼の音が聞えた。海岸の空に懸つてゐる三日月がキラリと一瞬美しく見えた。と思ふと、眞黑いものは更に猛り立ち、その巨大なものは無理矢理に千子を捋し去らうとする。風の唸りや稻妻の中に折れ曲つた煙突があはれに浮んだ。暫くして、あたりは氣の拔けたやうに靜かになつた。

 仄暗い砂地にはささやかな波形の紋が一めんに着いてをり、重たい空氣の中にヒリヒリと草の穗の熟れる匂ひが漾つて來た。今、千子の眼の前に黑い柵がくつきりと蹲つてゐて、柵の向にも砂地は起伏し、そのあたりの光線は奇妙にはつきりしてゐたが、その上に被さる漆黑の空には無數の星が刻んであつた。千子の眼は吸込まれるやうに星空に見入つてゐると、病苦に滿ちた空の星は瞬く每にいよいよ美しくなつてゆくやうであつた。ふと、一つの星が白い尾を曳いて砂地に落ちた。今、落ちたところの星は遠くの地點にあつて、ぐるぐると囘轉してゐるやうであつた。暫くすると、その星は砂地を亙つて墓地に柵の方へ走つて來るのだつた。見れば砂煙をあげて音もなく走つて來るのは灰色の豚であつた。千子は目を疑ふやうに空を見上げた。流星はひつきりなしに砂地を日懸けて墜ち、豚の數ほ陰々として增えて行く。無言のまま砂塵をあげて突進する豚の群は黑い柵のすぐ側を犇き流れた。ある限りの星は地上に向つて墜落しつづけた。

 千子はぐつたりと脅えて、傍の柵にとり縋つた。黑い柵のほとりには何時の間にか千子の夫の顏もあつた。

「ああ、あれはどうなるのでせう」と千子は凄じい動物の群を指差した。「そつとしておいた方がいい」と夫は口籠つた聲で答へた。そのうちに、あたりの樣子は徐々に變つてゆき、今も眼の前に不可解な現象は生起してゐたが、次第にそれはレントゲンに映る肺臟の風景に似かよつて來た。

 星の消えた空はうつろに靑ざめてゐた。家畜の群も既に散じて見えなかつた。起伏する砂丘の一端に黑い岩帶があつて、そこから白煙がゆるゆると立騰り、あたりの空氣を濁してゐた。麓の方に目も覺めるばかりの薊の花が一むら咲いてゐるのは、千子が旅で見たことのある風景ではなからうか。だが、傍で誰かが説明を加へてゐた。あの煙が消えて、あの黑い岩穴が塞つてしまふまでは、まだまだ養生をしなければいけません。千子はその人に對つてお時儀をして、部屋を出て行つた。

 草を敷いた長い廊下を步いてゐると、扉や𢌞角で看護婦とすれ違つた。その看護婦たちの足はみんな廊下から宙に二三寸浮上つて進んでゐるのに、千子はぺつとりと足が下に吸込まれてゆくやうで、草を敷いた廊下は汗ばんだ足の下をずるずると流れて行つた。廊下は容易に盡きなかつたが千子は一心に步いてゐた。次第に行交ふ人の數が增えて、それは巷で見かける人々の服裝になつてゐたが、遂にある部屋の前に人々は殺到してゐた。

 千子は立並ぶ人の中に捲込まれてゐると、すぐ後からも人が來て並んだ。その傍を自轉車に乘つた男が蜻蛉のやうに飛んで行つた。後から押されるやうにして、部屋の中へ這入ると、薄暗い光線の中に押込められて立つてゐる人々の顏はみんなぼんやり霞んでをり、千子は呼吸をするのもつらくなつた。苔の生えた大きな柱が高い天井を支へてゐて、ものものしい殿堂に似た場所であつた。漸く人數が減つて、眼の前に石の臺が見えた。千子は 吻として、石の臺に肘を凭せ、向に立働いてゐる人に對つて、何か訊ねようとした。すると白い顏をした小僧がヂロリと千子を見咎め、「切符の無い人は駄目だよ」と云つた。忽ち周圍に居合はせた人々が笑ひだした。千子は喘ぎながら辨解しようとした。「オイオイ、病人のくせして出しやばるない」と、ステツキを持つた男の聲がした。

 すると、人々は遠かに動搖しだした。女達はあわてて千子の側を避けながら、鼻に袖をあて、お互に耳打ちしては千子の方を振向く。男は忌々しさうに顏を外けた。千子はブルブルと戰へながら立疎んでゐたが、そのうちに立つてゐる力を失ふと、ワツと泣き崩れて行つた。死ねるものなら死んでしまひたい、早く死んでしまひたいと轉倒しながら泣き叫んだ。

 倒れてゐる千子の軀から二つ三つ白い影が立迷ひ、ぐるぐるぐる立迷ひ、倒れてゐる千子はすべてを失つて行くやうであつた。しかし暫くすると、足指の方から枕の方へふわりと影は戾つて來た。夜の部屋は死のやうにひそまつてゐた。こんなに興奮してはまた軀に障るだらうと、千子はおづおづと眼を閉ぢた。暫くすると、眼を閉ぢてゐる筈なのに、すぐ側の押入の内部がはつきりと眼の中に飛込んで來た。もう長い間整頓したことのない押入は、行李や新聞の包みが歪んで脹らんでゐたが、それに天井板の方からぶら下つた麥藁眞田がぐるぐる髮毛とともに絡んでゐる。あんな麥藁眞田などをどうして今度の女中は持つて來たのかしらと思ふと、隅の方に笊が置いてあつて、豆もやしとマツチの軸木が一緖くたに混ぜこぜになつてゐるし、鼠の開けたらしい穴からは隣の家の庭がまる見えになつてゐて、そこから蛞蝓がずるずると匐ひながら行李の方へやつて來る。蛞蝓はもう行李の蓋にべつとりと一杯群がり、次第に行李の中の衣類へ移つて行く。着古した着物の襟や、裾の裏地にまで、蛞蝓はねとねとと吸ひつき、そのままじつと動かなくなる。と、袂の隅が少し脹らんで動きだしたと思ふと、そこからは大きな蛾が跳ね出して、パタパタと押入の中を飛𢌞つた。眼のキンキン光る蛾は翅からパラパラと粉を撒き散らし、押入は濛々と煙つてしまつた。

 千子は無性に腹が立ち、今にも飛起きて、あそこを片附けたくなつた。あの着物はもうみんな洗張して縫ひ直さなければいけないと思ふと、ヂリヂリと氣は苛立ち、夜具の上にきつと坐り直した。だが、暫くすると、がくりと姿勢は崩れて、今度はふらふらと手探りで催眠劑のありかを求め、小さな箱にコロコ搖れる藥を掬ふやうに掌に取ると、そのまま睡りに陷ちてゆくやうであつた。


 

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(58) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅲ)

 

 家康――今までに現はれた中での最も機敏な、そして又最も人情の深い經世家の一人であるdあこの決斷を正當に評價するには、日本人の見地からして、彼をしてかくの如き行動をとるの已むなきに至らしめた、その根本となつてゐる證據の性質を考へて見ることが必要である。日本に於けるジエジユイト派の陰謀に就いて、彼は充分に承知して居たに相違ない、――その陰謀の中には家康の身を危くするやうなものも少からずあつたので――併し彼はこのやうな陰謀が發生するといふ單なる事實よりも、その陰謀の究極の目的と實際は、如何になるかといふ、その結果をむしろ考慮したらしいのである。宗教的陰謀は佛教徒の間にあつても普通の事であつた。そしてそれが國家の政策、若しくは公共の秩序を妨害した場合は別として、さうでない限りそれは武力的政府の注意を惹くことは殆どなかつたのである。併し政府を轉覆すること及び宗派を以て一國を占有することを、その目的とする宗教的陰謀は、これは重大な考慮を要する事である。信長はこの種の陰謀の危險なることに就いて嚴しい教訓を佛教に與へた。家康はジエジユイト教派の陰謀が、最も大きな野心を包藏した政治上の目的をもつてゐると斷じた。併し彼は信長よりも遙かに隱忍して居た。一六○三年には、彼は日本の諸州を悉く彼の威力の下に歸せしめた。併し彼は爾後十一年を經過するまでは、その最終の布告を發しなかつた。その布告は、外國の僧侶達は政府の管理を掌中に收めて、日本國の領有を獲ようと計つてゐるといふことを率直に明言したのであつた。――

[やぶちゃん注:「一六〇三年」慶長八年。この年の二月十二日(グレゴリオ暦三月二十四日に徳川家康に将軍宣下が下り、ここで江戸幕府が正式に開府された。

「彼は爾後十一年を經過するまでは、その最終の布告を發しなかつた。その布告は、外國の僧侶達は政府の管理を掌中に收めて、日本國の領有を獲ようと計つてゐるといふことを率直に明言したのであつた」或いは、プレに慶長十七年三月二十一日(グレゴリ暦一六一二年四月二十一日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対し、教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令の布告(戸幕府による最初の公式のキリスト教禁令)を指すか、同年八月六日(九月一日)の「伴天連門徒御制禁也。若有違背之族者忽不可遁其罪科事」という全国的なキリスト教信仰禁止の布告を指すか、又は「十一年」は「数え」で、幕府開府から十年後の、家康が第二代将軍秀忠の名でブレーンであった臨済僧以心崇伝に命じて起草させて発布した「伴天連追放之文(バテレン追放令)」(ウィキの「禁教令では慶長十八年二月十九日(一六一三年一月二十八日)布告とするが、小学館「日本大百科全書」では慶長十八年十二月二十三日(一六一四年二月一日)とあるので、確認したところ、禁令原文の最後のクレジットは「慶長十八」「臘月」(旧暦十二月の異名)とあることが判った)。但し、ウィキの「禁教令によれば、実際にはまだ、『幕府は信徒の処刑といった徹底的は対策は行わなかった。また、依然としてキリスト教の活動は続いていた。例えば中浦ジュリアンやクリストヴァン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約』五十『名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が住む区画も残ったままであった。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、通説では宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためとされる』とある。

 以下、底本では「身を曝す事にならう。」までは本文同ポイントで全体が二字下げ。]

『切支丹の徒は日本に來り、日本の政府を變へ、國土の領有を獲ようとするために、ただに貨物の交易に彼等の商船を遣はすばかりでなく、惡法を播布し、正しき教へを打倒さうと熱望してゐる。これこそ大災難を起こす荊芽であつて打潰さなければならぬ……

[やぶちゃん注:「荊芽」(けいが)は茨の芽であるが、ここは「刑罰に値する悪しきものの萌芽」の意。]

『日本は神々及び佛の國である、日本は神々を崇め佛を敬ふ……【註】伴天連の徒は神々の道を信仰せずして眞の法を罵る――正しき行ひに背いて善を害ふ[やぶちゃん注:「そこなふ」。]……彼等は眞に神神及び佛の敵である……若し之が速に[やぶちゃん注:「すみやかに」。]禁ぜられずば、國家の安全は確に今後危險とならう、又若しその時局を處理するの衝[やぶちゃん注:「しよう(しょう)」。大事な任務。]に當たつてゐる者共が、この害惡を抑止しなければ、彼等は天の怒に身を曝す事にならう。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が三字下げ。]

 

 爰吉利支丹之徒黨、適來於日本、非啻渡商船而通資財、叨欲弘邪法威正宗、以改域中之政號作己有、是大禍之萠也、不可有不制矣、日本者神國佛國、而尊神敬佛……彼伴天連徒黨、皆反件政令、嫌疑神道、誹謗正法、殘義損善。……實神佛敵也、急不禁、後世必有國家之患、殊司號令不制之、却蒙譴天矣、日本國之内、寸土尺地、無所措手足、速掃攘之、有違命者、可刑罰之、……一天四海宜承知、莫違失矣。

[やぶちゃん注:「啻」は「營」であるが、平井呈一氏の引用(但し、誤り有り)その他原布告文を確認して訂した。以下、自己流で訓読しておく。

   *

 爰(ここ)に吉利支丹の徒黨、適(たまたま)日本に來り、啻(ただ)に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず、叨(むさぼ)るに、邪法を弘(ひろ)め、正宗(しやうしゆう)を惑はさんと欲し、以つて域中(いきなか)[やぶちゃん注:国中。]の政號を改めて、己(おの)が有(ゆう)と作(な)さんとす。是れ、大禍(たいくわ)の萠(きざし)なり。制せずんば有るべからず。日本は神國・佛國にして、神を尊(たつと)び、佛を敬す。……彼(か)の伴天連の徒黨、皆、件(くだん)の政令に反(そむ)き、神道を嫌疑し、正法(しやうばう)を誹謗し、義を殘(そこな)ひ、善を損ず。……實(まこと)に神敵。佛敵なり。急ぎ、禁ぜずんば、後世、必ず、國家の患(うれ)ひ有り。殊(こと)に號令を司(つかさど)りて、之れを制せずんば、却つて天譴(てんけん)を蒙らん。日本國の内、寸土の尺地、手足を措(お)く所(ところ)無し[やぶちゃん注:キリスト教の伝道者が主語。本文後文を見よ。]。速かに之れを掃攘(さうじやう)し[やぶちゃん注:払い除くこと。この語は後の幕末に於いて「外国を排撃する」の意で盛んに用いられた。]、いて違命有らば、之れを刑罰すべし。……一天四海、宜(よろ)しく承知すべし。敢へて違失する莫(なか)れ。

   *]

 

 『これ等の者は(布教師のこと)卽刻一掃されなければならぬ、かくして日本國内には彼等のためにその足をおくべき寸土もないやうにしなければならぬ、そして又若し彼等がこの命令に服することを拒むならば、彼等はその罪を蒙るであらう……一天四海もこれを聽かん、宜しく從ふべし』

 

註一 伴天連とはポルトガル語のパドレ(padre)の飜譯であつて、宗派を問はず、總てロオマ舊教の僧侶に今日でも使用されて居る名稱である。

註二 右の全宣言はかなり長いもので、サトウ氏によつて飜譯されたものであるが、日本アジヤ協會記事“Transactions of the Asiatic Society in Japan”第六卷第一部の内にある。

[やぶちゃん注:最後の記事名は“Transactions of the Asiatic Society of Japan”の誤りである。]

 

反古のうらがき 卷之三 怪談

 

    ○怪談

[やぶちゃん注:本篇も長いので読み易さを考え、改行を多用し、注は本部内或いは各段落末に添えた。また、核心部分は本書では特異点の真正の怪談(但し、桃野が少年の日に「何がし」(相応な年長者と思われる)が話して呉れたもの)であることから、その部分を「――――*――――」の記号で挟んで区別し、また、その中のシークエンスをも「*」を用いて恣意的に区分けした。]

 段成式(だんせいしき)が酉陽雜爼(ゆうようざつそ)に、「朱盤(しゆばん)」といへる怪物をのせたるが、極めておそろしき物がたり也。

[やぶちゃん注:「段成式が酉陽雜爼」段成式(八〇三年?~八六三年)は晩唐の学者・文学者。現在の山東省の臨淄(りんし)の人。名家の出で、父段文昌は宰相。父の功績によって秘書省校書郎となり、その後、吉州刺史・太常少卿などを歴任し、晩年は襄陽(湖北省)に住んだ。博聞強記で、家伝の膨大な蔵書や宮中の秘書から得た知識をもとに、古今の異聞怪奇を記した随筆「酉陽雜俎」(本集二十巻・続集十巻。八六〇年頃成立)を著した。但し、私の知る限り、「朱盤」では同書には載らない。但し、「朱盤」は、本邦ではかなり著名な妖怪で、私の電子化注でも「諸國百物語卷之一 十九 會津須波の宮首番と云ふばけ物の事」(延宝五(一六七七)年刊・作者不詳)や、酷似した内容の「老媼茶話巻之三 舌長姥」(「老媼茶話(ろうおうさわ)」は寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したもので、作者は三坂大彌太(だいやた)とも称した会津藩士に比定されている)、或いはそれを紹介した『柴田宵曲 妖異博物館「再度の怪」』辺りの本文及び私の注を読まれたい。なお、宵曲は中国の似たようなケースとして「捜神記」の「巻十六」に載る「琵琶鬼」を挙げているが、そこには「朱盤」という名は出ない。またそこで宵曲は本妖怪の本邦での後裔を小泉八雲の「怪談」で知られた「狢」のノッペラボウに認めてもいるので、未読の方は、是非お読みあれかし。

 正德(しやうとく)ごろの僧何がし、此談を吾國のことに作りかへて、「諏訪の朱の盤坊(ばんばう)」となし、又、何某が「化生物語」といへる書に、武州淺草の堂に化物出ることとなせり。

 皆、朱盤をもととして書(かき)たるもの也。

[やぶちゃん注:『正德ごろの僧何がし、此談を吾國のことに作りかへて、「諏訪の朱の盤坊」となし』「正德」は一七一一年から一七一六年。これが何という怪奇小説を指しているかは、よく判らない。題名は明らかに「諸國百物語卷之一 十九 會津須波の宮首番と云ふばけ物の事」に極近いが、「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年刊で作者不詳(「序」によれば信州諏訪の浪人武田信行(たけだのぶゆき)なる人物が旅の若侍らと興行した百物語を板行したとするが、仮託と考えてよい)であるから、違う。或いは、桃野は正徳二(一七一二)年刊の北条団水著の怪談「一夜船」の、後の改題本「怪談諸国物語」とこの「諸國百物語」を混同しているのかも知れないとも思ったが、団水は談林派の俳諧師であって僧ではない(俳諧師は概ね僧形をしてはいたが)。

「化生物語」不詳。私は一般人よりは江戸怪談集に接してきた人間と自負するであるが、「化生物語」(「けしやう(けしょう)ものがたり」と読んでおく)という怪談集は知らぬ。江戸時代の怪談集には改題本や改竄本・他者による再編集本が多数生まれているから、それらの一つかと思われるが、特定出来なかった。ただ、「武州淺草の堂に化物出ること」という標題に近いらしいものに従うなら、私が電子化注を終えている、延宝五(一六七七)年に京の貞門俳人荻田安静(おぎたあんせい ?~寛文九(一六六九)年:姓は「荻野」とも)が編著した「宿直草(とのいぐさ)」に、「宿直草卷一 第三 武州淺草にばけ物ある事」「宿直草卷一 第四 淺草の堂にて人を引さきし事」が載りはする。しかし「宿直草」には「化生物語」の異名や異本(改竄本・再編集本)はないように思われる。

 されば、怪談の妄言も、才智、人に勝ぐれたる人にあらねば、世の人の「おそろし」とおもふ程には作りがたし。

 予が少年の頃、何がしが話したる怪は、大(おほい)に人意の表(ほか[やぶちゃん注:底本のルビ。])に出で、おそろしく覺ゆる所あり。

    ――――*――――

 いつの頃にかありけん、國一つ領し玉へる太守ありけり。其奧に宮づかへする少女の二八[やぶちゃん注:「にはち」。十六歳。]斗(ばかり)なるが、二人迄ありける。いづれも、容儀、世に勝れてうつくしく、太守の御いつくしみも深かりけり。一人は「金彌(きんや)」とよび、一人は「銀彌(ぎんや)」とよびけり。二人が仲も甚(はなはだ)睦まじく、座するも伏するも、皆、相(あひ)ともになしける。

 一年斗りありて、金彌は病めることありて、父母が家に下りけるが、程遠き方なれば、消息もなくて過(すぎ)ける。

   *   *

 二た月ばかり在りて、「はや快くなりぬ」とて、再び宮づかへに出けり。

 銀彌がよろこび、言斗(いふばか)りもなくて、前にかわらで[やぶちゃん注:ママ。]睦みける。

 每(つね)に語らひけるは、

「かゝる宮づかへの道は、人に惡(にく)まれ、そねまるゝこともおほければ、心にくるしきことのみたへせぬは、常のならひなるに、吾(わが)二人はよき友を得て實の姉妹のごとくなり。たらわぬことあれば、互(かたみ[やぶちゃん注:底本のルビ。])に心を付(つけ)て賴母(たのも)しく宮づかへするに、誰より指さす人もなく、假令(たとひ)人ありとも二人一體の如く睦むものから、おのづとたよりよく、心も安く侍るこそ、實(まこと)にうれしきことにぞ。」

など語り合ひて、つかへ[やぶちゃん注:「仕へ」。]のことも語り合せてはからへば、退(しりぞ)きて休むときも打(うち)つれて、片時も離るゝことなくて暮らしける。

 夜の間といへども、一つの衾(ふすま)の内に臥すこともあり、かわやに行(ゆく)とても打連(うちつれ)て行(ゆき)けり。

   *

 とかくすること、又、半年斗り有りてけるが、秋の末つかたに成(なり)ける。

 此日もともに君のみまへをしぞきて[やぶちゃん注:ママ。「しりぞきて(退きて)」の脱字と採る。]、同じ伏しに入けるが、夜深(よふけ)て、常の如く呼連(よびつ)れて、燈火(ともしび)てらして、かわやに行ける。

 金彌は、まづ先に入(いり)てけり。

 いかにかしけん、程經(ふ)れども、出でこず。

 あまりに待ちこふじたれば[やぶちゃん注:ママ。「待ち困(こう)じたれば」。待ち兼ねたので。]、何の心もなく、のすきよりうかゞひたれば、こはいかに、金浦がおもては常ながら、其色、朱の如く、目を見張り、齒をかみ合せて、左右の手に火の丸(まろ)がせを、二つ迄持(もち)て、手玉にとるよふにして居(ゐ)にけり。火の玉の光り、かわやの内にみちて、朱の如きおもてに、明らかに照り合(あひ)たる樣、いかなる「物のけ」なるやらん、二目ともみるべき樣(やう)ぞなかりける。

[やぶちゃん注:「丸(まろ)がせ」「まろ」は推定読み。「丸める」の意の動詞「丸かす・円かす」の名詞形で「丸くしたもの」の意。]

 銀彌は心おち付たるさがなりければ、日頃、かく迄に睦みたる金禰が、假令(たとひ)怪物なりとも、あから樣に人に告げて、此迄(これまで)の睦みを無にせんこと、得たへず思ふものから、

『たゞしらず顏にて濟(すま)さんにしくことあらじ。』

と、おそろしさをたへ忍びて、再びそともに立(たち)て待けり。

 しばしありて金彌は、何のかはりたる氣色(けしき)もなく、かわやより出(いで)けり。

 にこやかにものいひて、

「いつになく待せつること、面(おも)なく侍る[やぶちゃん注:恥ずかしく存ずる。]。」

など、なぐさめて、かわりて燈火を持(もち)てそともに立(たち)けり。

 銀彌もおそろしといふ樣は色にも出(いだ)さで、あとに入(いり)て用たしつれども、こゝろにもあらで[やぶちゃん注:内心は気が進まぬままに。]、打連れて、又、元の臥に入けり。つらく思ふに、

『かゝるあやしき人と此迄(これまで)深く睦みたれば、今更に立別(たちわか)れて別々に伏さんといふも言葉なし。さりとて、かくおそろしき人と、此迄の如く一つ衾(ふすま)に伏さんこと、いかでかこらへ果(はつ)べき。いかなる因果の報ひ來(きたり)て、口にも出し難く、人にも斗(はか)り難き心ぐるしきこととは成行(なりゆく)ことぞ。』

と、淚のしのびしのびに流るゝを、おしかくしおしかくしする程に、其夜はいねもやらねど、心よくいねたる樣(さま)するぞ、又なく心ぐるしかりける。

[やぶちゃん注:「いかでかこらへ果(はつ)べき」どうして恐ろしさを我慢し通すことが出来ようか、いや出来ない。

「いかなる因果の報ひ來(きたり)て」一体、如何なる因果の報いが私を襲いたるものか、と。やや表現に足らぬところがあるが、それが逆に銀弥の恐怖感を効果的に示している。]

 折々に目を開きて見るに、金彌は常よりも心よげに眠りて、少しも常にかわりたる樣(さま)もなし。

   *

 夜も明けければ、又、打つれて宮づかへに出けり。

 銀彌は心の中(うち)にちゞの思ひあれば、

『うき立(たつ)こともなきをさとられじ。』

と、立居(たちゐ)も常より心よげにふるまひて、又、夜に入て、ともにかわやに行たれども、こたびはうかゞひもやらず、伏に入てはいねもやらず、かくすること、日數へにければ、つかれはてゝ、顏の色・飮食とても、常ならずなりにけり。

[やぶちゃん注:「うき立つこともなき」「浮き立つ」は、「気持ちが落ち着かずそわそわする」の意があるが、それではあとの否定の「なき」が合わない。されば、ここは「うきうきする・気が晴れる」の意であろう。]

 金彌はおどろきたる樣にて、

「いかにせまし。」

と、いろいろに心をつくし、藥をあたへ、神彿をいのるなど、いとまめやかなり。

 銀彌は、いよいよおそろしく、

『少しなりとも傍(そば)を離れたらんには、心も少しおち居(ゐ)ん。』

と思へども、殊に心を盡して付添ひ居(を)れば、これも叶わず、おひおひ、おもひの病(やまひ)とはなりぬ。

[やぶちゃん注:「おもひの病」気鬱の病い。]

 金禰、其樣を見て、近くより、

「病の困(くる)しみ玉ふ樣(さま)は、物おもひによるとこそ見侍る。君は此程何(いか)なることか見玉へる事はなきや。」

ととふにぞ、

『扨は。』

とは思ひぬれども、色にも出(いだ)さず、

「それは何事にや、心に覺へなし。」

とこたへければ、

「さあらんには。」

とて、やみけり。

[やぶちゃん注:「扨は」「さては、私が彼女の変容を垣間見たことを薄々感ずいたものか?」の意。

「さあらんには」「それなら、いいのだけれど」。]

 銀彌が心に思ふは、

『先きの夜のことは、もしや、吾が目の迷ひにて、おそろしきことを見つることもや、と思ひ迷ひたれども、今、かの人がとふ樣(さま)を見るに、覺(おぼえ)あることとおもわれて[やぶちゃん注:ママ。]、いよいよ物の怪に疑ひなければ、少しもはやく、病(やまひ)を言立(いひた)て、父母がり、歸るにしかず。』

と一定してけり。

 されども、

『此事、心に誓ひて、他人にはもらさじ。』

と思ひければ、病の趣き、ふみに認(したた)め、父母が許にいゝやりけり。

   *

 かくする程に、金彌は、いよいよ、夜の目もいねで、みとりなどするに、又、再び、先の如く、とひけり。

[やぶちゃん注:「夜の目もいねで」夜も寝ずに。]

 されども、おなじよふ[やぶちゃん注:ママ。]に答へければ、それなりにやみけり。

 其後は日の内に幾度となくとふ樣(さま)、顏ざし、少し其時斗(ばかり)は、かわるよふ[やぶちゃん注:「かわる」「よふ」の孰れもママ。]にて、もはや、こらへはつべくもあらず覺へけり。

 病は、いよいよ重くなるに、とふことはいよいよしげくなるにぞ、はては生ける心もなくて、「物の怪」に取らわれ[やぶちゃん注:ママ。]たるにひとしく覺ゆるにぞ、

『今は命も限り。』

とこそ、覺(おぼえ)ける。

   *

 父母、病(やまひ)の趣、聞(きく)とひとしく、醫師を送り、祝驗者(すげんざ[やぶちゃん注:「すげん」は底本のルビ。修験者。])を乞ひ、いろいろとする程に、先づ、家にては護摩を焚ひて[やぶちゃん注:ママ。]神に祈るに、祝驗(すげん)が、いふ。

「これは物の怪の付たるに疑ひなし、甚(はなはだ)危し。此日の夕暮時迄を免れたらば、又、する法もあるべけれども、それ迄の所、心元なし。早々、呼取(よびと)りて吾が傍(かた)に置(おき)玉へ。」

[やぶちゃん注:「此日」「今日」の意で採る。指定した時日を伏せた表現ともとれるが、それでは怪談としての切迫感が激しく減衰する。]

といふにぞ、父母、大(おほい)におどろき、先(まづ)、銀彌がおばなる方に、人、走らせて呼向(よびむか)へ、右の趣を説き示しければ、おばも大におどろき、

「これより行べし。」

とて、駕籠、つらせて、走り出けり。

 おばが夫は武士なりければ、これも賴みてやりけり。

 みち程も遠からねば、其日の未(ひつじ)の時[やぶちゃん注:午後二時頃。]斗りに行付(ゆきつき)て、直(ただち)に此よしを太守に告(つげ)て、駕籠に打乘(うちの)せければ、金彌、傍(かたはら)よりまめやかに手傳ひて、

「風に當り玉ひそ、駕籠にゆられ玉ひそ。」

など心付(こころづけ)て、又、別れのかなしさをかたりあひて泣(なく)など、實(まこと)に姉妹の如く、殘る方(かた)もあらざりけり。

[やぶちゃん注:「殘る方(かた)もあらざりけり」名残を惜しむという程度を越えて、激しく別れの悲しみにあるの意か。或いは、彼女はあたかも心は太守の屋敷に残らず、銀弥とともに一緒に行かんとせんばかりであったことを指すか。]

 扨、太守が門を出るとひとしく、祝驗(すげん)の言葉、「今日の夕暮を大切とする」こと迄を語り聞(きき)けけるに、銀彌もおどろきて、

「さては。さありけり。心に誓ひて、他人にはもらさじと思ひけれども、かく神の告(つげ)ありて、祝驗が言葉、明らかなれば、つゝむによしなし、先の姉妹と誓ひて睦みたる金彌こそ「物の怪」なり、其譯はしかじかなり。」

と告げれば、

「さあらんには、われわれ夫婦、附添(つきそひ)て家に歸るに、何の子細かあらん。おち居てよ[やぶちゃん注:安心して落ち着きなされ。]。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]て、道を早めて行(ゆく)程に、早、申の刻下り[やぶちゃん注:午後五時半前後。]になりにけり。

 其頃は空も曇りて、時よりは早く薄ぐらくなりて、折節、人ざとの家居もまばら成(なる)所にぞ來にけり。

「最早、家にも近ければ。」

とて、少し心おち付(つき)たりしが、俄に駕籠の内に、玉消(たまき)ゆる斗(ばかり)の聲なしければ、

「こはいかに。」

と駕籠のたれ、引上げて見るに、銀彌は仰(あを)のけに反(そり)かへりたり。

 其おもてを見れば、面(おもて)の皮、一重(ひとへ)むきとりて、目鼻も分たずなりて、息絶へて在(あり)けり。

 夫婦のものは、おどろきて、

「こは、口惜し。」

と悔めども、甲斐なく、其儘、家に持行(もちゆき)て、父母にも、祝驗(すげん)にも、途中の話、且、「物の怪」の業(しわざ)なるを語りて、直(ただち)に太守に、其よしを訟(うつた)へければ、

「ふしぎのことなり。」

とて、金彌を尋ね玉ふに、行衞なし。

 其(それ)、又、母が許(もと)に問ひ玉ふに、

「先に病にて家に下(さが)りてより、二月斗りにして死(しし)て、其後(そののち)、再び、宮づかへせしこと、絶(たえ)てなし。」

と答へければ、

「いよいよ、ふしぎの妖怪ぞ。」

と、人々、おそれあへり。

   *   *

 金彌が病も妖怪の取殺(とりころ)せしにや、又は、金彌が靈氣、妖怪をなせしにや、其事は、しりがたし、となん。

    ――――*――――

 

2018/09/13

反古のうらがき 卷之三 くるしきいつはりごと

 

   ○くるしきいつはりごと

[やぶちゃん注:一部の注を各段落の後に入れ込んだ。第二段落は長いので、適宜改行を施した。]

 これは余がしれる人なれども、其名、明(あか)し難し。此人、常に、ばくゑき・飮酒を好みて、世にいふ藏宿師(くらやどし)といふことを業となせり。かゝる人は思はざるこがねを得るによりて、そのこがねあらん限りは、花柳(くるわ)に遊び、美食を食ひ、こがね盡(つく)れば、再び、あしき謀事(はかりごと)を思ひ付(つき)て、筋にもあらざる小金を得るを每(つね)のこととは、なせり。故に今日は美服美食におごりくらすかと思へば、明日は破れたる衣服に、かしぐべき米もなくて暮らすを常とす。

[やぶちゃん注:「ばくゑき」「博奕」。歴史的仮名遣は「ばくえき」でよい。

「藏宿師」旗本・御家人などに雇われて、札差との間の金の貸借についての周旋や交渉・談判に臨んだ者。主に浪人で、幕府はこれを取り締まった。また、札差もこれに対抗して屈強な者を置いた(小学館「大辞泉」に拠る)。]

 一とせ、年の暮に當りて、仕合(しあはせ)あしく、一人の娘が衣服さへ破れ果て、春を迎ふべき手立(てだて)もなく、已に大つごもりの夜に成(なり)にたり。

 おひめをはたる人は、入替り、立替り、來れども、元よりつぐのふべき手當もなければ、皆、こふじ果て歸るにぞ、反(かへ)りて心安きことに思ふべけれど、娘が、

「春着の衣服を着せてたべ。」

とこふがくるしさに、金貮分斗(ばかり)の工面をせでは、かなはざる時宜(じぎ)とはなりにけり。

[やぶちゃん注:「おひめをはたる人」「おひめ」は「負ひ目」で「はたる」は「徴る・債る」で、借金を取り立てに来る人の意。]

 常の日さへ、かゝる人がこがねをからんといふに、こゝろよくかす人あらん理(ことはり)なきに、かく、年のつごもりになりて、何れへか、いゝよるべき。又、あしき謀事も、人々の心ゆるき時こそおこなへ、此時に望みて誰をかあざむかん。纔(わづか)に貮分のこがねの手に入(いる)べき術(すべ)の盡果(つきはて)ければ、やがて思ひ出(いで)し計りごとこそ、ふしぎにも、くるしかりけり。

 程近き所の、料理仕出して飮食うる家に行て、

「唯今、大一座の客來りたれば、あたへ、三兩斗(ばかり)の飮食を料理して卽時におくり越すべし。其品々には何にまれ、大やかなる魚を第一とし、塗りひらのうつわゝ、大きなる程こそよけれ、皿にまれ、臺にまれ、皆々、大やかなるに盛りてこせよ、とくとく。」

といひて、かへりぬ。

[やぶちゃん注:「あたへ」「價(あたひ)」。

「うつわゝ」「器は」。国立国会図書館版もママ。]

 程もあらで、もて來にけり。

 藍染付の大皿に鯛の魚の濱燒にしたるを、頭(かしら)・尾の外に出(いづ)る斗にもり、其傍にいろいろの取合せを盛りたり。同じ程の平らめる皿に、しびの魚と、ひら目の差身(さしみ)をしきならべ、くさぐさの、靑き紅き、海の草、山の草を盛り添(そへ)たり。沈金に朱塗りの大平のうつわには、魚の肉、鳥の肉、海山の珍味、打(うち)まぜて、葛のたまり、うすらかになして打かけ、山葵(わさび)の根のすり碎きたるを上におきたれば、湯げの烟りに蒸し立られて、かほり深く、めでたし。又、物の蓋(ふた)めけるふち高き板の、黑漆以(も)て塗(ぬり)たるに、金の箔(はく)切(きり)ふせ、其間に金粉(きんぷん)もて、山川の景色ゑもいわれず、手を盡して畫(ゑが)きたるに、魚の肉、鷄の卵、木の實、草の根、いろいろの物を五色に色取(いろど)りたるを、山の形(かた)、川の形、七曜の形などに、手を盡して盛り並べたり。其外、器にそれぞれの酸(す)き、辛らき、甘き、五味の外の味迄も取揃へて差出(さしいだ)しければ、

「三ひら斗(ばかり)の黃金(こがね)にて、かゝる品品の揃ひしは、思ふにもましたり。」

など、いひつゝ、物をば取收(おちりをさ)めて、其人をば歸しやりけり。

[やぶちゃん注:「しびの魚」「鮪(しび)」。まぐろ。

「葛のたまり」葛餡(くずあん)のこと。醤油や砂糖で味つけした汁に、水で溶いた葛粉を加え、とろ火で煮たもの。

「ゑもいわれず」「ゑ」も「いわれ」もママ。「えも言はれず」。言いようもなく素晴らしく。

「七曜の形」肉眼で見える惑星を五行と対応させた火星・水星・木星・金星・土星及び太陽・月(陰陽)を合わせた七曜(天体)を当てた、円い或いは半円などを組み合わせた紋型・図形。]

 扨、客ありといひしは初より詭(いつは)りなれば、いかゞするやと思へば、打寄(うちよ)りても食はで、皆、前の小溝へ打捨(うちすて)たり。

 井の水、汲上(くみあげ)て、器ども、取集(とりあつ)め、其汚れをば洗ひ落し、打重(うちかさね)て廣布(ひろぬの)の風呂敷につゝみ、持出(もちい)で、ほとり近き質屋がり持行(もてゆき)て、こがね二分をぞかりてけり。其歸るさに古き衣類うる家に行て、娘が春着になるべき一ひらのきる物かひて歸りにけり。

[やぶちゃん注:「質屋がり」質屋へ。「がり」は接尾語で、通常は、人を表わす名詞・代名詞に付いて、「~のもとに・~の所へ」を添える。漢字表記では「許(がり)」。この後も結構、出るが、以下では注さない。誰もが、高校の古文で習ったはずだからである。]

 娘も吾も、

「よくしてけり。」

とて、喜びて年を越(こえ)けり。

 明けの日、飮食うる家より使ひ來りて、よべの器どもと其あたへとを乞ふに、

「今少し食ひ殘りて、器もの、みな、明(あ)き兼たれば、後にこそ。」

とて歸しぬ。後の刻に行(ゆけ)ば、

「客がりおくりたれば、器の歸らん時、歸さん。」

といふ。

「こなたにも、用ゆることのしげきによりて、送り玉へる方に行(ゆき)て請(こ)ひ取侍(とりはべ)らん。」

といへば、

「其方(そのかた)は彼、方(かなた)なり、此方(こなた)なり。」

などいふを聞けば、いづれも、一さと二里隔りたる方なれば、ゑ[やぶちゃん注:ママ。]ゆかで歸りけり。

[やぶちゃん注:「一さと」は「一里」ではなく、村一つ分越えた所の意と採っておく。]

 二日三日過(すぎ)ぬれども、音もなければ[やぶちゃん注:一向、音沙汰なしなので。]、

「こは、あやし。」

とて、行(ゆき)てなじり問ふに、前のごとく答へて、明(あか)ら樣(さま)にもしりがたければ、

「扨は、いつはりにかゝりたるなり。飮食のあたへは思ひもよらず。せめてものことに、器どもの行衞にても知(しれ)たらば、請ひ取(とり)てかへれ。」

と、いひてやるに、

「今、しばしく。」

とて返さず。

[やぶちゃん注:「せめてものことに」底本も国立国会図書館版も「せめてものごとに」であるが、濁音を除去した。]

 こふじ果たれば、こなたより、わびていふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「飮食のあたへは請(こ)ひ奉らず。たゞ、器もののみ返し給はらば、上へなき御慈悲なり。いづちかへおくり玉ふ。それのみ、あかさせ玉へ。」

といへば、

「いや。飮食のあたへもあすは取らすべし。などて、故(ゆゑ)なく、たゞに食ふべき。器も其折(そのをり)こそ返し與(あた)ふべし。」

といふにぞ、いよいよ持(も)てあぐみて、ひたもの、器の行衞を問ふに、

「さらば。何屋がり行(ゆき)て取れ。」

といふ。「何屋」とは、近きあたりの質やなり。

「扨こそ、思ふには出ざりけり。此器のあたへ、飮食の料にたぐふべきならねば、利足、かさまざるまに、はや、行(ゆき)て請(う)け戾せ。」

とて、行て見れば、纔に貮分の質物に利足の付(つけ)たるまゝなれば、

「いと心安し。」

とて受戾(うえもど)して歸りにけり。

 器の中なる品々の飮食、人にもおくり、自分もたべたらんに、さこそうまかりつらんに、かゝる人は、ものおしみはせぬものなり。

[やぶちゃん注:「こふじ果たれば」歴史的仮名遣は誤り。「困(こう)じ果てたれば」。困り果てたので。

「あたへ」「價(あたひ)」。]

反古のうらがき 卷之三 三つのおそれにあふ

 

   ○三つのおそれにあふ

[やぶちゃん注:この一条、長いので、本文中に注を繰り込んだ。本文と識別が容易に出来るように注は太字とした。]

 伊豆國熱海の溫泉は、江戶より路程(みちのり)も近ければ、行(ゆき)て浴する人も多かり。深き疾(やまひ)・重き疾の癒(いゆ)るといふにはあらねども、亦、しるしなきにあらず。まづは夏のあつさをしのぐにはよき海邊なれば、富める町家のあるじなど、來りて、遊ぶもの多し。且、此地の湯本におきてありて、遊女を買ふことをゆるさず。其故は、病を療するとて來りたる人が、かへりて瘡毒(さうどく)[やぶちゃん注:梅毒。]など受(うけ)てかへりたらんには、益なくて害あり、あまつさへ熱海の湯はしるしなく、病(やまひ)、彌(いや)增(ます)などきこへんには、大(おほい)なる所の妨(さまたげ)なればなりとぞ。故に此地に湯女(ゆな)なし。偶(たまたま)諸國より來れる倡家[やぶちゃん注:女郎。娼婦。]の女あれども、皆、瘡毒の療治なれば、問はでもしらるゝ瘡毒の女なり。これが、おりおりは、ひそやかに客をとることあれども、極(きはめ)て祕密のことにて、湯本にきこへたらんには、速(すみやか)におひ去らるゝことのよし。されば、金錢を費さんに手立なき處にて、富豪のあるじ・其外、江戶にて多く金銀を費す人をば、人々、すゝめて此處に遊ばしめ、費(つひへ)を省(はぶ)く術(すべ)をなすとぞ。飮食も自由なれども、價貴(たか)き品々なく、魚類は其處にて獵するなれば、甚(はなはだ)、價、賤(やす)し。これも此地に遊ぶ人、金壹分[やぶちゃん注:一両の四分の一。江戸後期は現在の七千五百円から一万二千五百円に相当。]出して鯛網(たひあみ)[やぶちゃん注:タイを捕るのに用いる巻き網。金額から見て「沖縛り網」で、複数の船を出して円形に囲い込んで漁(すなど)るそれであろう。]を引(ひく)に、獲物多く、家々の遊客におくるに、猶餘りて打捨(うちすつ)ることもあるよし。諸遊藝の宗匠どもは、多く此地に來り、遊客の相手となり、其日を送るもあり。各(おのおの)好み好みのあそびに日をおくるといへども、遂に金錢多く費す術はなきを、此地の名譽となすことなり。湯の沸出(わきだ)す時は一日三度、朝・晝・暮と、時をたがへず、其熱きこと、筍(たかんな)などの類(たぐひ)を投入置(なげいれおく)に、程なくして、よく熱すとぞ。湯本はいふ、「此地に來り玉ふ人々、身分の上下を論ぜず、各(おのおの)同輩のこゝろにて、諸遊客と交り玉ふ程面白き事なし。もし、其意ならば、武家は刀劒を湯本に預け、富家は從者(ずさ)を同遊となし、衣服・身の廻り、人に異なる樣(やう)なく、此地の風俗に隨ひ、單(ひと)への衣一つに細き帶一筋、新らしき好み好みの褌(ふんどし)、其外は新らしき手拭・もみ紙の煙草入(たばこいれ)・きせるなど、大體、島中(しまなか)[やぶちゃん注:海辺の一帯。領分の「シマ」の意かも知れぬ。]一樣の出立(いでたち)にて、『互(かたみ[やぶちゃん注:底本のルビ。「互い」にと同義。])に身本(みもと)をしらるゝことなきを上々の遊びといふ也』と、人々に告げしらすにより、若き人々などは島中を橫行するに、誰(たれ)に心置(こころおく)ことなく、實(じつ)に心樂しく思ふ遊ぶなり。蓄への金銀も、同じく湯本へ預くる方(はう)、氣遣ひなし。入用程(いりようほど)づゝ受取り、若(も)し、多く費す人あれば、湯本、是を許さず」とぞ。

 余が族家、内海某[やぶちゃん注:底本の朝倉治彦氏の注に『桃野の祖母の実家』とある。]、「病(やむ)ことあり」とて公(おほやけ)に告(つげ)て、此地を遊ぶこと、數旬なりけり。老(おい)て後、其事を語るに、「實(じつ)に、魂(たましひ)そゞろに脱出(ぬけいづ)る斗(ばかり)に覺ゆる」とて、しばしば、余にも語れり。其島の東北七里斗りに小島あり[やぶちゃん注:不詳。熱海の東北二十七キロメートル半の駿河湾内にはこんな島はない。南東なら初島や大島があるが、前者では距離が近過ぎ(直線で約十キロメートル)、後者では遠過ぎる(約四十キロメートル強)。また後者なら名前を長く流人に島として知られていた(但し、明和三(一七六六)年以降は大島への流人は途絶え、御蔵島・利島とともに寛政八(一七九六)年には正式に流刑地から除外されている)から名を出すはずである。但し、以下の海難未遂は外洋っぽく、また、大島西岸にある波浮港村は寛政一二(一八〇〇)年に立村しており、当村の鎮守波布比咩命(はぶひめのみこと)神社の例祭は七月二十七日ではあった。だが、やはり大島では遠過ぎ、以下に見るような大きさの舟ではとても無理だと思われるから、やはり初島とすべきか。]。七月何の日、土地の神社の祭禮ありて、此日は家々、酒樽の蓋、打拔き、來る程の人々飯を盛る碗もて、おのがまにまに[やぶちゃん注:思うがままに。]、くみて飮むことを例となせり。故に、男女(なんによ)打交(うちまじ)り、醉(ゑひ)たるまゝに打戲(うちたはむ)れ、舞歌(まひうた)ひすること、二日にして止むとぞ。内海某、從者(ずさ)二人、其外同道の客貮人と船二艘を買ひて、「此祭りを見ん」とて出ける。折節、海上、浪靜かに、幾尋(いくひろ)となき海底に、大小の鮫の魚、行かふ棲(さ)ま、見なれぬことのみにて、いと面白かりけり。人の語るにたがわず、其地の祭り舞歌ふ樣(さ)ま、珍づらしく、日のかたぶくもしらで遊びけるが、日も七つさがり[やぶちゃん注:午後五時半前後。]の頃、船をかへして三里斗來(きた)ると覺へしが、舟子ども、西の空を「き」と見て、「あれはいかに」といふとひとしく、碗(わん)程の雲、二つ、飛出(とびいで)たり。見るが間に傘(かさ)程となり、又、見る間に十たん斗(ばかり)のひらめる雲となり、俄に一天におほひ來(きた)る。「こは、早手なり、かなわじ」といふまゝに、二つの舟を橫樣におしならべ、帆柱二本を舟の上に橫たへて、二所を堅く繋ぎ合せ、かぢを引上げ、櫓を取上る程もあらせず、大風大浪、海をくつがへし、天を拍(う)つ樣(さ)ま、四方、やみの如く咫尺(しせき)を分たず、舟に入(いる)浪は山を崩しかくるが如く、舟のたゞよふ樣(さ)まは木の葉の空に舞ふが如し。人々、膽魂(きもたま)消失(きえう)せて、手に當る物、取持(とりもち)て水をかへ出(いだ)すに、舟中に有(あり)とあらゆる品々、皆、水と共に海中にかへ出(いだ)せり。されども浪は、彌(いよいよ)舟に入(いり)てかへ果(はつ)べくも見へねども、「命のあらん限り」と力を出して、かへ出す。『此あたりぞ、先に見て來にける大鮫などの多くありし處なるべし。鳴呼、不幸にして此禍(わざはひ)にあひ、かれらが腹に葬らるゝ事よ』とおもへば、かなしくも、又、せんすべなく、互に聲よびかわし[やぶちゃん注:ママ。]、力をつくるに、はや、よはり果て、黃水(おうずい)を吐くもあり、潮の中に倒れ伏すもあれども、是をかへり見るにいとまなければ、力のかぎりを命の限りとあきらめて、はたらきける。かくして、舟はいづこをさして洋(ただよ)ふやらん、岸もしらず、果もなき方へ洋ふに任せて、吹かれゆく。舟子共は、人々にまさりてはたらきける故に、はや力盡(ちからつき)て、只、聲斗りふり立(たて)て、「人々、浪にな取られ玉ひそ、風にな取られ玉ひそ」と叫べども、果(はて)には、舟中人ありとも見へず、皆、舟底の潮の中に打伏(うちふし)て、息出(いきいづ)る樣にも見えざりける。一時斗りも經ぬる頃、風、少し靜まり、浪も平らかになりゆくにぞ、人々漸く息出る心地して、舟底より這ひ出て見れば、四方の闇も漸く晴行(はれゆ)き、西の空と覺しき方(かた)、夕日の殘りたるが、「ひらひら」と紅く見ゆる夕暮の空の景色とはなりぬ。「扨も命(いのち)めで度(たく)、舟もくつがへらで、先(まづ)此迄にはしのぎ果(はて)ける、うれしや」とて、互に大聲出(いだ)して泣けり。しかし、舟中に一物なく、各(おのおの)いたく飢(うゑ)たるに、「こゝはいづこなるべき、先(さき)の舟路よりは幾里斗り洋ひたる」と舟子に問ふに、東北の諸島は、皆、見覺(みおぼえ)あり。未だ、霧、晴渡(はれわた)らねば、しかとも分たねども、西の空の日の入る光りのあたりぞ、先に渡りたる小島なるべし、十五、六里には過ぎざるべし、いで、櫓をおせ、かぢおろせ」とて、先の帆柱、とき分ち、舟二つ、おし並べてこぐ程に、矢を射る如くおし切(きり)て、夜の五つ半といふ頃に熱海の嶋に乘り入ける。是も、今少し早く、乘付(のりつく)べかりしが、「早手(はやて)[やぶちゃん注:疾風(はやて)。]のあとは、又も、『かへし風』[やぶちゃん注:吹き返しの風。それまでとは大きく異なる方向から吹いてくる風のこと。主に台風が過ぎ去った後に吹く逆方向からの強い風を指す。]といふことあることもあれば」とて、嶋影見ゆる方をさして乘(のり)たれば、直(ただちに)に[やぶちゃん注:風に逆らって無理に真っ直ぐには。]おし切らで、西をさし、南をさし、島が根近き方へ方へと行たれば、里數、四、五里の𢌞り道とはなりし也とぞ。これを、「一つのおそれに逢ひたる」とかぞへたり。

 湯治も日數經(へ)にたれば、家に歸るも、又、樂(たのし)みになるよふ[やぶちゃん注:ママ。]におぼへて、そぞろに歸り心出で、いまだ公に告たる日限(にちげん)にもいたらねども、「一と先(まづ)、熱海を立(たち)て金澤の八景見ん」とて、山路ごへ[やぶちゃん注:ママ。]に相模の國に入けり。夏の山の景色、得もいはれず、木影に立休(たちやす)らへば、涼風(すずかぜ)、客衣(かくい)を吹き、石によりて坐すれば、白雲、杖のもとよりおこるなど、早立(はやだち)の朝の空、いと晴(はれ)わたり、ひるの暑さにことかわりて、露深く、夕の日の入る山影、いろいろの雲の峯、形をかへて見ゆるなど、面白かりけり。道の案内する人を雇ひたれば、神社佛閤も殘りなく拜み奉り、山道にかゝり、向ひの山を見てあれば、一つの鹿の遊び居たるに、目なれぬ故に、各(おのおの)「あれを見よ、あれを見よ」と見るまに、此方(こなた)の谷合(たにあひ)に錢砲の音響くとひとしく、鹿は「ころころ」とまろびて、谷に落(おち)けり。「扨も、情けなき事よ」と見るまに、さしこの布もて一身すきまなく包みたる人、鐡砲をかたげ、山刀(やまがたな)、腰に橫たへたるが、小篠(こしの)の中、推分(おしわけ)て出(いで)けり。これ、このわたりの獵師にて、是が打留(うちとめ)たるとぞしられける。かくて行(ゆく)こと一里斗にして、道案内の者、彼方(かなた)の山を深く見入(みい)れ居(をり)たりしが、驚きたる樣に、人々を差(さし)まねき、「ひそかに、ひそかに」といゝ[やぶちゃん注:ママ。]て、逸(い)ち足(あ)し[やぶちゃん注:速足。]を出(いだ)して、行くての路へ走り行(ゆく)にぞ、人々共、心は得ねども、それが招くに隨ひ走り行(ゆけ)ば、いづこを當(あ)てともなく、ひた走りに走る。『後れては惡(あ)しかりなん』と思ふにぞ、そゞろにこはけ立(だち)て[やぶちゃん注:「怖氣立ちて」であろう。]、互に言(こと)ばもなく、つかれたる足を引(ひき)つゝ、『力の繼(つづ)くだけは』と走りける。廿町[やぶちゃん注:約二キロ百八十二メートル。]斗にして、先に立(たち)たる人、立止りて、待受(まちうく)るにぞ、人々、「何事なれば、かくはするぞ」と問(とふ)に、「人々は知り玉はじ、かく日暮近くなりては山路は行かよふ間敷(まじ)かりしを。此頃はさせることもなしと聞(きく)にぞ、人々を伴ひしが、先の處は狼の出入する所にして、年の内には、いくたりとなく、狼にとらるゝ者あり。先に彼(か)の山を見入(みいり)たるに、木葉(このは)がくれに狼の此方(こなた)に向ひ坐(ざ)せるを見付たり。其間、五、七町[やぶちゃん注:約五百四十六~七百六十四メートル。]隔(へだつ)るといへども、かれが見付たらんには、一足に飛來(とびきた)る。彼が一疋來らんには、いづこより來るともしらず、いくつともなく出來(いできた)り、ゆく手の路をふさぎ、又、後(しりへ)より送る[やぶちゃん注:尾行してくる。]。其時、幾人ありとも、敵すること能はず。又、運つよく害に逢(あは)ざる人もあれども、先づは稀なり。そが中に此方より狼の影を見付て、彼が心付かでやみたるといふことは、尤(もつとも)稀なることなり」と語りけり。人々、是を聞(きき)て、身の毛、立(たつ)斗りにおそれけれども、先に、走る頃、此事をしらば、殊に身もすくみて走りなやむべかりしを、其時はしらで走りけるぞ、めで度(たき)事とぞ祝(しゆく)しける。これなん、第二條のおそれにあひたるとかぞふる也。

 それより相州金澤に遊びて、名所古跡打𢌞り、しばし足を休(とゞ)めたれども、公に告し日數の限りにはあらざりけれども、年の若き人々なれば、山路或は幽邃の地にこふじ果(はて)たれば[やぶちゃん注:「こふじ」は、ママ。「困(こう)じ果てたれば」で、すっかり疲れ、或いは静か過ぎて飽きてしまったので。]、少しも早く歸り來(きたり)て、『家路近きあたりにて、心ゆるく遊ばん』と思ふにぞ、金澤には一夜もとゞまらで、神奈川の驛に宿りぬ。其夜、大風雨にて、海原の景色も見るによしなけれども、所の賑ひに取まぎれて一夜をあかしぬ。朝は早く立出(たちい)で、雨後の涼しさを追ひて、六合(ろくがふ)の渡し[やぶちゃん注:東海道は東京都大田区東六郷と神奈川県川崎市川崎区本町の間の現在の六郷橋附近で多摩川を渡った。旧「六郷大橋」は慶長五(一六〇〇)年に徳川家康がを架けたが、貞享元(一六八四)年に五回目の架け直しをされたそれが、貞享五(一六八八)年に洪水で流された後は再建されず、「六郷の渡し」が設けられた。ここ(グーグル・マップ・データ)。]に來るに、夜べの嵐に水增して舟を出さず。心にもあらで、日の午後過(すぐ)る迄、此處に居(をり)しに、追々に聞へけるは、「昨夜の大風雨に大浪打入(うちいり)て、金澤の驛は、皆、引入(ひきいれ)られ、湖水[やぶちゃん注:この「湖」は「海(うみ)」の意。そうでなくても「金沢八景」は中国湖南省の洞庭湖付近の名勝名数「瀟湘(しょうしょう)八景」に見立てたものであるから、何ら、違和感はない。]に臨みたるあたりは、家人ともに影もなし」など聞(きく)にぞ、「さては、さることありけり。吾々、今一夜前に彼(かの)地に付(つき)たれば、思ひ設ざるの禍に逢ふべかりしを。そゞろに家路近くなして心おちゐん[やぶちゃん注:『何とはなしに「家路へなるべくより近くへ近くへ」と向け、これといってわけもないのに、そのようにして心を落ちつけよう』の意か。]と思ふものから、ひたいそぎに神奈川驛迄追ひ付しは、我にして我ならず、神佛の助け玉へるなりけり」とて、人々、又も、命のめで度(たき)を祝しける。程もあらで、川も明(あ)きければ、其日に家に付(つき)て、人々、旅中無事を賀し、且は「危きことども語り合(あひ)て、後の談(はなし)の種とせん」といゝ[やぶちゃん注:ママ。]き。是なん、第三條のおそれとかぞふべし。「其中に後の二條は、おそれたれども、其場にては心付かで過(すぎ)ければ、膽(きも)のつぶるゝ程にはあらざりけれども、最初一條はつぶさに其苦況を經(へ)にたれば、深く心に染入(しみいり)て、語るさへおそろしく覺ゆる」とて、此三つのくだりを畫(ぐわ)に寫(うつ)し、文に作り、家に傳へて、「『子孫無益の遊歷(あそびあるき[やぶちゃん注:底本のルビ。])して他鄕に至ることを禁ずべし』と成(なさ)しめたり」と語りき。繪は丹丘(たんきう)[やぶちゃん注:加藤好夫サイト浮世絵文献資料館に浮世絵師「丹丘」の事蹟が載るが、彼がこの人物かどうかは不詳であるものの、天明三(一七八三)年刊の四方赤良撰・丹丘画「狂歌三十六人撰」、享和元(一八〇一)年の大田南畝の山内穆亭宛書簡に名が載り、これは本「反古のうらがき」の成立(嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃)や桃野の生没年と同時代的であり、先行条によっても桃野は四方赤良(=大田南畝)と接触があった可能性が高いことから、彼であってもなんらおかしくはないと言える。]といふ人、かきたり。文は小野蓑水[やぶちゃん注:不詳。「蓑水」の読みは「さすい・さいすい」か。]、作れり。

反古のうらがき 卷之三 金貮枚刀

 

  ○金貮枚刀

 大判(おほばん)の黃金(こがね)、小判七兩貮分に換(かは)ることなるに、今は、小判の黃金、位(あたひ)おとりて、貮拾五、六兩に當ることとは成(なり)にたり。故をもて、金壹枚といふを小判七兩、本金一枚七兩貮分と定め、いにしへのあたへ[やぶちゃん注:ママ。]の名のみ殘し、刀劒の折紙などにしるす時のみ、此ことばを用ひ、常の賣買ごとに用ゆること、なし。又、小判一ひらを一枚といふ人もありて區々(まちまち)なれば、あやまることも多くありけり。

 天保弘化の頃、刀劒、大(おほい)に世に行はれ、刀師・とぎ師・拵師(こしらへし)、各(おのおの)かけ走りて利を得るとき也。

 予がしれるとぎ師が持(もち)ける刀は【銘、誰なるか失念。】、さる方に賴みて、

「金貮枚に賣りくれよ。」

と云ひやりしが、めぐりめぐりて、吾が弟子の方へ持來りけり。

 それともしらで、價ひを問ふに、

「貮枚。」

と答ふ【枚といふは大判金のことにて、小判なれば兩といふなり。】。世の稱呼、區々(まちまち)なれば、忽ち誤りて、「小判貮兩」と心得、とくと見るに名刀なり。

『いかに見おとすといへども、五、六兩をば下るまじ。』

とおもひけれども、さし當り、手元金子、間合兼(まにあひかね)たれば、先づ師が許に持行(もちうき)て、

「金貮兩貮分なり。いかにも、あたへ[やぶちゃん注:ママ。]、いやし。取置給へ。」

といひて、貮分の口錢のみを所德とする心なりけり。

 師、一目見ると、

「これは、大(おほい)に、價、安し。直(ただち)に代金を渡すべし。」

とて、出して買ひけり。

 弟子、うれしくて、刀屋が許に行て、金二兩を出(いだ)し、

「さる方にて、かひたり。」

といへば、刀屋、大におどろき、

「最初より貮枚といゝ[やぶちゃん注:ママ。]たるに、貮兩とはいかに。同じどしの刀・脇差やり取(とり)に、大判小判といはずとも、貮枚といはゞ大金、貮兩といはゞ、小金と聞(きき)しるは、われわれのみならず、何方(いづかた)も同じことなるを。今、かくの玉ふは餘りにおろかなり。且、又、品物も物によるべし、あの品が貮兩や三兩の品と見ゆる品なるか。かへすがへすもおろか敷(しき)人也(なり)。早々(はやばや)、取かへし來(きた)るべし。」

といふにぞ、

「さては。さありけり。いかさま、餘り、價の品より賤しと思ひしも、理(ことは)りにてぞありける。間違(まちがひ)といふ物なれば、是非なし。取かへし來るべし。」

とて、再び師の許に來りて、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「先の價は間違なり。大金(おほがね)貮枚なれば、小金十四兩なりけるを、只『貮枚』とのみいひて、大金といはざれば、吾、誤りて小金貮兩と心得、かくは謀らひける也。いざ、戾させ玉へ。代金はかへし奉る。」

といへば、師、且、笑ひ、且、怒りていふ、

「此刀は元吾が品にて、何某へ賴みて賣(うり)に出(いだ)せしが、價貮枚と申約(まうしやく)せし也。然るを、汝、おろかにして貮兩と聞(きき)誤りしは、理(ことは)りあるに似たり。されども、汝、吾方に來りうるに至りて、『貮兩貮分也』といゝ[やぶちゃん注:ママ。]けり。故に、吾、其儘に價を取らせしぞ。但し、貮枚貮分といふ價なし。さすれば、貮分とは何の聞誤りぞ。もし、師弟の間にて口錢貮分を取らんとならば、恩をしらざるくせ者也。更に亦、罪あり。數年來の弟子なるに目きゝもなくて、金貮枚の品物、小判貮兩の品物と分(わか)ちなきは、おしへて甲斐なきおろか者也。此二罪あれば、師弟の約をも絶(たつ)べきやつなれども、只一つのゆるすべきことあるによりて、さし置(おく)なり。初め、此刀、『よき品』と見て、少しの所德もあるべしと思はゞ、他所(よそ)へこそ持(もち)あるくべきを、他所へは行かで、先(まづ)、吾方にもて來りしは、師によき物得させんと思ひしに似たり。此一點、良心あるにより、此度はさしゆるす。」

とて、ことすみけり。

[やぶちゃん注:読み易さを考えて改行を施した。

「大判の黃金(こがね)、小判七兩貮分に換(かは)ることなるに」大判とは広義には十六世紀以降の日本に於いて生産された延金(のしきん/のべきん:槌やローラー状の機器で薄く広げた金塊)の内、楕円形で大型のものを指す。小判が単に「金」と呼ばれるのに対し、大判は特に「黄金(こがね)」と呼ばれ、「大判金(おおばんきん)」とも称した。享保大判金(享保一〇(一七二五)年~天保八(一八三七)年)は一枚を七両二分とする公定価格が設定されたと参照したウィキの「大判にあるのと一致する。なお、ウィキの「小判」によれば、『小判に対し、大判(大判金)も江戸時代を通して発行されていたが、大判は一般通貨ではなく、恩賞、贈答用のもので』、『金一枚(四十四匁』『)という基準でつくられ』、『計数貨幣としてではなく、品位と量目および需要を基に大判相場によって取引された(強いて言えば秤量貨幣に近く、現代的に解釈すれば、金地金(インゴット)に相当するものと言える)。また、天保年間に大判と小判の中間的な貨幣として五両判が発行されたが、金含有量の劣る定位貨幣でありほとんど流通しなかった』とある。

「今は、小判の黃金、位(あたひ)おとりて、貮拾五、六兩に當ることとは成(なり)にたり」Q&Aサイトの回答によれば、江戸前期・中期(明和九・安永元(一七七二年)頃(田沼意次が老中に就任した年である)まで)は一両は現在の十万円、後期(嘉永六~七年(一八五四)年頃(嘉永七年三月三日に日米和親条約が締結)まで)は八万円であった(それ以降の幕末期はインフレが進み、五万円相当まで下がった)から、この「貮拾五、六兩」は二百万円から二百八万円相当となる(本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である)。

「天保弘化」一八三一年から一八四八年。

「拵師」日本刀の状態を確認したり、修理して使用可能な状態に仕立てる職人の総称。正確にはここに出る「研師」や鞘と柄を彫る「鞘師」、柄を鮫皮と柄糸で巻く「柄巻師」、刀身の手元部分に嵌める金具であるハバキを作る「白金師(しろがねし)・塗師などのさまざまな刀剣職人が、分業で一振りの刀剣を製作・修理した。

「予がしれるとぎ師」「吾が弟子の方へ」則ち、本一件の当事者の二人と桃野は知り合いであったのである。従って一読、落語のネタかと思わせるものの、まぎれもない事実譚なのである。

「それともしらで」ネタバレとまでいかないにしても、やや話を先取りしてしまった感のある表現ではあるが、或いは、私の弟子であっただけでなく、仲介した研師も知っていた、されば、この一件は後に、確実な情報として私の耳に入ることになってしまった、のニュアンスでの言い添えかも知れぬ。

「いかに見おとすといへども」どんなに安く見積もっても。しかし、「五、六兩をば下るまじ」で、大判金二枚=五十~五十二両の品をば、かく見積もったのでは、これまた実は救い難い目利き出来ぬ「かへすがへすもおろか敷(しき)」馬鹿弟子(桃野のそれではなく、後に出る(恐らくは剣術の)「師」のそれ)と言わざるを得ない

「あたへ」「あたひ」で「價」。

「いやし」「賤し」。安い。

「どし」「同士」。「どうし」または「どち」の音変化という。刀剣関連業の仲間同士。

「聞(きき)しる」~と認識する。~の意と採る。

「口錢」「こうせん」「くちせん」両様に読む。取引の仲立ちをした仲介手数料のこと。]

反古のうらがき 卷之三 打果し

 

    ○打果し

 いつの頃にか、若侍二人ありけるが、ともに武邊をはげみて、常に心も剛(こう)なりけり。いかなることにや、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]爭ふことありて、はては、互に「一分(いちぶん)立難(たちがた)し」などいふ程に、「打物(うちもの)の勝負して雌雄を決すべし」といふこととはなりぬ。されば場所よき所を選みて、「明朝、立合ふべし」と約して別れけり。既に其日になりければ、朝霜(あさじも)踏(ふみ)しだきて、年壹つおとりたる方、まづ其場に到れり。しばしありて年增(まさ)る方(かた)、來れり。出向(でむか)へて見れば、必死を極めたると見へて、草履もはかで、素足也。こなたも、「不覺なりけり」とて、草履ぬぎすて、「いざ、參らん」とて、刀ぬき合、しばし打合ふに、年增る方、其すきを伺ひ、足をのべて、敵のぬぎすてし草履をかきよせて、はきけり。としおとれる方、是を見るとひとしく、うしろざまにかへりみて、雲霧(くもきり)の如くにげ去りて、影をだに見ずなりぬ。これは年增りたる方は必死を極(きはめ)たるにあらず、途中にて草履踏切(ふみきり)たる故に、是非なく素足にて霜の中を踏み來りしが、敵があやまりて『必死』と見て、吾が不覺を悔ひ、草履脱(ぬぎ)すてつるを、膽太(きもふと)く奪ひて、足のひへ[やぶちゃん注:ママ。「冷え」。]をのがれし也。かゝれば、年おとれる方は、かへすがへす、不覺を取(とり)たることにて、勝負のほども心元なく、自然(おのづ)とおくれ出(いで)、立(たち)こらふべくもあらず、忽(たちまち)に逃去りたる也とぞ。人々、許しけるとぞ。かかればふるまひの中に不覺のことあれば、勝負にかゝはること多し。武邊に志し深き人は、思慮も深からんことぞ、ねがはし。

[やぶちゃん注:標題「打果し」は「うちはたし」で、果し合い・決闘のこと。]

反古のうらがき 卷之三 ふちがしら

 

 反古のうらがき 卷之三

 

    ○ふちがしら

 刀脇差の小道具は、物好(ものずき)多く、いろいろの美を盡(つく)す中に、古(ふ)るき品々取合せて作りたるは、殊に見所多き物也。されば、「大小の刀、同じ品揃ひたるは、物好(ものこの)まぬ人のする態(わざ)」とて、ことさらに別樣の物を用ゆる人、多し。かゝれば品がら、時代或は模樣よく出合(いであひ)たるは、あたへも貴(たか)く賣買することとなりぬ。此頃の人の尤(もつとも)物好する人は、いかなるよき品とても、揃ひたる物は深く惡(にく)みて買取らず、かたくなに似合(にあひ)の品ども取集めて、「よく出合たり」と誇りあへりけり。あき人、これを惡めども、せん方なく、是迄の揃ひたる品は、自然(おのづと)、あたへ、いやしく賣(うり)けり。其中に、わるがしこき者ありて、一揃ひの品を、先(まづ)、片方を持行(もちゆき)てうりけり。扨、これが取合せを求る樣(さま)を見て、後に又、片方を出(いだ)して賣(うり)ければ、「よく出合たり」とて、よろこびて買(かひ)とり、あたへも甚(はなはだ)たかく賣たるとなり。かく、あき人は、かしこく人を欺くなるに、「我は欺かれまじ」とて、あき人のごとく品物取扱ひ、多く見覺へ・聞覺へなどする人ぞ、あさまし。さまでに物好みの心はやみ難きものなるにや。あたへたかくよき念入(ねんいり)の品々は、誰(たれ)にもしり易きものぞ。かゝるゑせ[やぶちゃん注:ママ。]ごとして『貴き品にもまさらん』とする心の賤しきより、あざむかるることも多く出來(いでく)ることぞかし。

[やぶちゃん注:標題「ふちがしら」は「緣頭」で、刀の柄の頭の部分及びそこに付ける金具類を指す「柄頭(つかがしら)」に同じい。

「あたへ」ここは「價」であるから、「あたひ」が正しいが、「あたひ」が転じて「あたえ」「あたい」となった経緯から、すでにこの時代には誤記とは言い難い。

「ゑせごと」「似非事・似而非事」。鑑定家の(レベルの低い・間違いだらけの・杜撰な)真似事。歴史的仮名遣は「えせごと」でよい。]

2018/09/12

反古のうらがき 卷之二 胡麻の灰といふ賊 / 反古のうらがき 卷之二~了

 

    ○胡麻の灰といふ賊

 いづこにや、町家に年季奉公せし者、年季明ければ、

「本國に歸らん。」

とて、いとまを乞ひける。

 幼年なるに、金子三兩を持(もち)けり。

「いかにして行(ゆく)ぞ。」

ととへば、

「伊勢參宮となりて行なり。」

「金子は如何にするぞ。」

と問へば、

「いや。氣遣(きづかひ)なし。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]て立出(たちいで)ける。

 「胡麻灰(ごまのはひ)」といふ賊ありて、これを見付(みつけ)、

「年季明けのでつちは、必(かならず)、金子を持たる者也。」

とて、一宿、二宿、付(つけ)たれども、いづくに隱しけん、しれがたかりければ、おめおめと、三日路、四日路、付行けり。

「かくして、手を空しくせんには本意(ほい)なし。是非に奪はざることを得ず。さりとて、金子を持(もち)たるには相違なし。」

と、心を困(こう)じめけるが、身に付(つけ)たる物は、宿にて、皆、ひそかに改(あらため)たれども、物、なし。

 髮の毛の内・かさの内より、行李(こり)・鞋(わらぢ)・わらづと・足袋(たび)・脚半(きやはん)・帶・衣服等迄、湯に入(いる)每(ごと)に、ひそかに改ける。

 これにてこうじ果(はて)けるが、或夜、あたりのを打(うち)たゝき、

「盜人あり。」

と呼(よば)はりければ、丁子(でつち)、起上り、先(まづ)、柱にかけたるひさくを見やり、又、打伏(うちふし)て寐(いね)けり。

『扨は、ひさくこそ曲物(くせもの)よ。』

と思ひ、奪ひとりて打破りければ、二重底にして、金三兩、入(いれ)ありける。

 これは賊が語りしこととて、いひ傳へ侍る。

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行がなされてある。]

 されば、人の家に入(いり)ても、金の置所は忽ちにしらるゝことと見へたり。

「常に大切と思ふ人程、置所(おきどころ)しるゝ道理なれば、吾もしらぬ程になし置(おき)て、『家の内には、必、あるべし』と所も定めず差置(さしおく)がよし。」

といふ人、ありける。

 但し、持(もた)ざるが第一なるべし。

[やぶちゃん注:以下は、底本では最後まで全体が二字下げ。改行は底本のママ。]

嘉永二年己酉(つちのととり)三月十日、下二條をしるす。

古きふみ讀めば、昔しの人に逢(あひ)たるこゝちするとは、みな人のいふことなるが、これにも倦果(うみはて)たる時は、自(みづ)から物語して人に告(きかす[やぶちゃん注:底本のルビ。])るこそ樂しけれ。これも人なき時は、壁に向ひて獨り言(ごと)いふもならぬものぞかし。詩作り、歌よむも、興、來らざれば能はず。この「反古のうらがき」は、かゝる時こそ、よけれ。世の人する業(わざ)さし置(おき)、おしき隙(ひま)、費して、かゝる業、なし玉ひそ。

◎桃野ハ白藤(はくとう)翁ノ子。鈴木孫兵衞トイフ。昌平黌ノ講官タリ。詩ヲヨクシ、最(もつとも)書法ニ通ジ、旁寫肖ヲ善クス。此「反古裏書」ハ一時ノ發興(はつきやう)ノミ。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために本文部分に改行を施した。

「胡麻の灰」「護摩の灰」「胡麻の蠅」等とも表記する。昔、旅人の成りをして、道中で旅客の持ち物を盗み取った泥坊。高野聖の風体(ふうてい)をして、「弘法大師の護摩の灰だ」と称して押し売りして歩いた者があったところからの名とされる。

「三兩」江戸後期で現在の九~十五万円相当。

「伊勢參宮となりて行なり」「お伊勢参りの恰好をし、その触れ込みで故郷へ帰ります」。江戸時代、伊勢参詣をする人や動物(犬や豚の参詣記録が残る)は各宿場で丁重に扱われ、何くれとなく保護も受けた。

「でつち」「丁子」丁稚。

「是非に奪はざることを得ず」「子どもじゃけんど、少々、手荒なことをしてでも、強引に奪わないわけには、もう、いかねえわな」。無為に時間を費やしてしまっていることから、焦りの色が濃いのである。それはこの後で「心を困(こう)じめけるが」「こうじ果(はて)けるが」(「困(こう)ず」(サ変動詞)とは「精神的に困る・辛く感じる・弱る」の意で、「めける」は「そのような状態になる・それに似たようすを示す」の意の動詞を作る接尾語(四段型活用)「めく」の已然形に、完了・存続の助動詞「り」(四段活用の已然形に接続)の連体形がついたもの)という表現からも窺える。

「かさ」笠。

「鞋(わらぢ)」底本では『わらし』のルビであるが、訂した。

「わらづと」「藁苞」藁を束ねて中へ物を包むようにしたもの。また、その苞で包んだ土産物。ここは少年の心尽くしの郷里への土産であろうに……。

「脚半」「脚絆」とも書、「はばき」とも言った。旅行・作業などの際に脛(すね)に巻きつけて足を保護した紺木綿などの布。

「あたりのを打(うち)たゝき」「盜人あり」「と呼(よば)はりければ」表現から見て、この「胡麻の灰」が誰かに頼んで(彼自身は少年の動きをごく近くで観察して居なくてならぬから)ヤラセとして行ったもののように見受けられる。

「されば、人の家に入(いり)ても」主語は一般的な押し込み強盗である。

「常に大切と思ふ人程、置所(おきどころ)しるゝ道理なれば」やや捩じれの在る表現に思われる。ややくどい言い換えをすると、「常に大切なものだからと気にかかっている人は、その大切なものの置き所をあれこれと考え、格別に通常の人の目に触れぬような場所に隠し置くものであるが、そうした場所ほど、押し込み強盗のような者には、一発で判ってしまうのが、その道の者の『蛇の道は蛇』の道理なので」の謂いであろう。

「吾もしらぬ程になし置(おき)て、『家の内には、必、あるべし』と所も定めず差置(さしおく)がよし」「自分でも、もうどこへ置いたか判らなくなるくらい、気にせずに置いておいて、『まあ、家の中には必ずあるからいいわい』ぐらいな気持ちで、特別な箇所を定めることなく、日常の品々と全く同様に、ぽんと放って置くのが、却ってよい」の謂いであろう。

「但し、持(もた)ざるが第一なるべし」ご説御尤も!

「嘉永二年己酉(つちのととり)」一八四九年。本「反古のうらがき」の成立が嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃とされる一つの根拠。「己酉」は音で「キユウ」でもよい。

「下二條」「反古のうらがき」きはこの後、「卷之三」「卷之四」の二巻で終わるが、附記位置と「條」という表現から見ても、本「反古のうらがき 卷之二」の前の「僞金」と本末条を指している。

「告(きかす)る」「聽かする」。

「世の人する業(わざ)さし置(おき)」世間の人々が大切な生計(たつき)のための生業(なりわい)を誠実に成すのをよそにして。

「おしき隙(ひま)」貴重な僅かな暇。

「なし玉ひそ」(このような好事は)くれぐれもおやりなさるるなかれ。謙遜自戒。

「孫兵衞」桃野(号)の通称。名は成虁(「せいき」か)。

「昌平黌ノ講官タリ」天保一〇(一八三九)年に部屋住みから昌平坂学問所教授方出役となった。

「最(もつとも)書法ニ通ジ」特に書道に優れたとはデータにないが、以下に出るように画に優れていたし、漢詩もよくしたから、書もそうであったのであろう。

「旁寫肖」不詳だが、これで一語の名詞で、「ぼうしやしやう(ぼうしゃしょう)」と読むか。所謂、「旁」(かたわら)に素材を置いて、その形を似せて(「肖」の意に有る)、「寫」(うつ)すこと、ではあるまいか?

「一時ノ發興(はつきやう)ノミ」ちょっとした興味から始めたものに過ぎない。これは本書冒頭にある不詳の「天曉翁」の「評閲」で、優れた学者で文人であった桃野の余技に過ぎないと搦め手から褒めた評言である。]

反古のうらがき 卷之二 僞金

 

  ○僞金

 輕罪の囚(めしうど)一等をゆるして、他賊の巢穴(かくれが)を探らしむる者を「岡引(をかつぴき)」といふ。もろこしにもあること也。役人より是を「手先」といふ。常に平人(へいじん)の如く、人出入多き所に入込(いりこみ)て事を探り出し、是を手柄として己が罪を減ずるにてぞありける。

 或日、餘りに賊の手がかりもなきまゝに、目黑不動に詣でけるに、ある茶店に入(いり)て、酒、打飮(うちのみ)、居(ゐ)ける。次の間に客ありて、主(ある)じをののしるよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「吾を『似せ金遣ひ』とするや。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]しが、やゝありて去りけり。

『「似せ金」とは、賊の手懸りなり。』

と思ふにぞ、あるじに、

「今去りし人は何人(いかなるひと)。」

ととふに、

「始ての御客なるが、御拂(おはらひ)の金子、少し見にくかりし故に、引替(ひきかへ)を願ひたれば、大(おほい)に腹立(はらたて)玉ひて、かく、のゝしり玉ひしなり。外に子細なし。」

といゝけり。

 手懸りにもならぬことなれば、

「さりけり。」

とて、立出て歸りぬ。

 其後、二た月・三月立(たち)て、四ツ谷邊にて其人に逢ひけるが、俄に思ひ出(いだ)さで、

『見覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ある人。』

とのみ思ひて、わかれけり。

 其後、又、一と月斗(ばかり)へて、同じあたりにて逢(あひ)けるが、ふと思ひ出(い)で、

『先きの日、目黑にて「『僞金(にせがね)遣ひ』とするや」と、のゝしりし人よ。』

と思ひて、其宿(やど)はいづこ、と付(つき)てゆくに、鹽町(しほちやう)という[やぶちゃん注:ママ。]所に格子立(たて)たる家なりけり。

 又、壹と月斗(ばかり)して、四ツ谷邊に僞金を受取(うけとり)たるといふ質やありて、彼(かの)岡引を賴みけり。

 俄に心當りもあらねど、先(まづ)鹽町の人が心懸りなれば、探りてみけるに、

「此人は靑貝(あをがひ)を作るが商賣にて、多分の利ある人。」

といふ。

 うり先を探るに、實(まこと)に青貝の粉(こ)を作るなり。他に怪敷(あやしき)ことなし。但し、其(その)うること、他人より、やすし、といふ。

 家には、あわび貝、山の如く積(つみ)ありて、日夜、

「こちこち。」

と、たゝく音するよし。

「手堅き人なり。」

といふ。

 岡引、いかんともすること能はで歸りけるが、外に手懸りもあらねば、又、よりより、心を付(つけ)て此人を探りけり。

 二た月斗りが間、此人の遣ふ金を、其先、其先と探りけるに、僞金、一つありけり。

 これは常の人にてもしらで遣ふことなれば、「僞金遣ひ」と定(さだめ)がたかりしが、また壹と月斗りにて、一つ遣ひけり。

 それより、

「靑貝を作る弟子とならん。」

といひ寄(より)て、度々出入せしに、實(まこと)に靑貝を作るより、外、なし。

 或時、こなたより、

「吾、僞金を作らんと思ふが、如何に。」

といゝければ、大に驚(おどろき)ける色ありしが、

「其方の細工にては、作ること、能はず。」

といひけり。

 是より、手懸りと成(なる)よし、ひたもの、僞金の物語りをするに、數日ありて、

「其方、僞金を作らんと思はゞ、外に一細工ありて、人幷(ひとなみ)に衣食の料を取る事を覺へ[やぶちゃん注:ママ。]、不自由なく暮す上(う)へならでは、忽ち、人の怪(あやし)みを受(うく)る者也。世の中の僞金師、皆、困窮の餘り、俄に富をなさん、とて僞金を作る、いく日もあらで召取らるゝ、拙(つたな)しといふべし。」

といへり。

 こゝにおひて[やぶちゃん注:ママ。]、いよいよ僞金師たること、極(きはま)りたり。

 或日、僞金、二つ三つを持行(もちゆき)て、

「吾、これを作れり。如何(いかが)あらん。」

といひて見せければ、

「これは拙し。これを見よ。」

とて、自(みづ)から作りし僞金、三つ、四つ、出(いだ)してみせけり。

 岡引、笑ひて、

「是は眞金(しんきん)なる物を。何ぞ、僞金といわん。」

といひて、信ぜざりければ、初(はじめ)て鑄形(いがた)を出(いだ)し、

「ひそかに、ひそかに。」

といゝけり。

 其夜、召捉(めしとら)へて、段々吟味せしに、

「吾、天運盡(つき)て彼に欺(あざむ)かれぬれば、言(いふ)に解く術(すべ)なし。此業(このわざ)を作(な)す事、十餘年、金を作ること、千兩に近し。人の疑ひしこと、なし。近頃、僞金し、多く、他人の作りたる中にも、大抵よく出來(でき)たるは取交(とりまぜ)て用ひしに、それより疑ひを受けたるなるべし。年のよるに從ひ、氣根(きこん)薄く、自(みづ)から作るも物(もの)うくて、他人の手をかりたる報ひなれば、是非なし。」

といひけり。

「同類あるべし。」

ととへば、

「かゝることをするに、同類あるよふ[やぶちゃん注:ママ。]なることにては、なし難し。萬事(ばんじ)、皆、吾手(わがて)一つにてする程の業(わざ)ならねば、忽ち、あらはるゝ。」

といひけり。

「これは通用金より少し位(あたひ)を下げたるなれば、利分も薄し。但し、通用するとも、通用金と多くも違ひなし。直段(ねだん)は半分にて出來る也。」

といゝけり。

「半分の直段にて『利、薄し』とは如何(いかに)。」

ととへば、

「三つ、二つ、かくれば、通用金より遙に上品に出來る。」

よし、申(まうし)けると也。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。岡っ引きの潜入捜査もさることながら、この老螺鈿細工師の〈贋金(にせがね)造り〉の美学と、寄る年波に勝てぬペーソスをも添えられていて、上質の犯罪者実録譚に仕上がっている。

「岡引」ウィキの「岡っ引」より引く。『岡っ引(おかっぴき)は、江戸時代の町奉行所や火付盗賊改方などの警察機能の末端を担った非公認の協力者』。『正式には江戸では御用聞き(ごようきき)、関八州』(相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸。その中でも狭義の江戸御府内では別に「御用聞き」と称しもしたということであろう)『では目明かし(めあかし)』、『関西では手先(てさき)あるいは口問い(くちとい)と呼び、各地方で呼び方は異なっていた。岡とは脇の立場の人間であることを表』わ『し、公儀の役人(同心)ではない脇の人間が拘引することから』、『岡っ引と呼ばれた。また、岡っ引は配下に下っ引と呼ばれる手下を持つことも多かった』。『本来』、『「岡っ引」という呼び方は蔑称で、公の場所では呼ばれたり』、『名乗ったりする呼び方ではないが』、『時代小説や時代劇でこのように呼ばれたり』、『表現されたりすることが多い』。『起源は軽犯罪者の罪を許し』、『手先として使った「放免」である』(日本の令外官である検非違使の下部(しもべ)で、正式には「放免囚人」の義。検非違使庁の下級刑吏として、実際に犯罪者を探索・捕縛したり、拷問や獄の看守等を担当した。遅くとも、中古末期、十一世紀前半には放免が確実にいたことが文献から確認されている。ここはウィキの「放免」に拠った)。『武士は市中の落伍者・渡世人の生活環境・犯罪実態について不分明なため、捜査の必要上、犯罪者の一部を体制側に取り込み』、『情報収集のため』に『使役する必要があった。江戸時代の刑罰は共同体からの追放刑が基本であったため、町や村といった公認された共同体の外部に、そこからの追放を受けた落伍者・犯罪者の共同体が形成され、その内部社会に通じた者を使わなければ捜査自体が困難だったのである。必然的に博徒』・穢多・『的屋などのやくざ者や、親分と呼ばれる地域の顔役が岡っ引になることが多く、両立しえない仕事を兼ねる「二足のわらじ」の語源となった。奉行所の威光を笠に着て威張る者や、恐喝まがいの行為で金を強請る者も多く、たびたび岡っ引の使用を禁止する御触れが出た』。以下、「江戸の場合」の項。『南町・北町奉行所には与力が各』二十五騎、同心が各百人『配置されていたが、警察業務を執行する廻り方同心は南北合わせて』三十『人にも満たず、人口』百『万人にも達した江戸の治安を維持することは困難であったため、同心は私的に岡っ引を雇っていた。岡っ引が約』五百『人、下っ引を含めて』三千『人ぐらいいたという』。『奉行所の正規の構成員ではなく、俸給も任命もなかったが、同心から手札(小遣い)を得ていた。同心の屋敷には岡っ引のための食事や間食の用意が常に整えてあり、いつでもそこで食事ができたようである。ただし、岡っ引を専業として生計を立てた事例は無く』、『女房に小間物屋や汁粉屋をやらせるなど』、『家業を持っ』ていた。岡本綺堂の「半七捕物帳」や野村胡堂の「銭形平次捕物控」などを元にした『時代劇において、岡っ引は常に十手を預かっているかのように描かれているが、実際は奉行所からの要請に基づき事件のたびに奉行所に十手を取りに行ったとされている。十手を携帯する際も見えるように帯に差すのではなく、懐などに隠し持っていた。また、時代劇で十手に房が付いていることがあるが、房は同心以上に許されるものであって』、『岡っ引の十手には付かない。ましてや』、『紫色の房は要職の者が付けるものであり、岡っ引が付けることは』、『まずあり得ない』。「半七捕物帳」を『嚆矢とする捕物帳の探偵役としても有名であるが、実態とはかなり異なる。推理小説研究家によっては私立探偵と同種と見る人もいる』。以下、「大坂の場合」の項。『一般の町民が内密に役人から命じられて犯罪の密告に当たった。江戸とは異なり、犯人の捕縛に携わらず、密告専門であった』。以下、「地方の場合」の項。『江戸では非公認な存在であったが、それ以外の地域では地方領主により』、『公認されたケースも存在している。例えば』、『奥州守山藩では、目明しに対し』、『十手の代わりに帯刀することを公式に許可し、かつ、必要経費代わりの現物支給として食い捨て(無銭飲食)の特権を付与している。また、関東取締出役配下の目明し(道案内)は』、『地元町村からの推薦により任命されたため、公的な性格も有していた』とある。

「もろこしにもあること也」どのように呼称していたかは、今すぐには思い出せないが、中国の古い随筆集や伝奇小説には、しばしばそうした元犯罪者で、最下級の警吏・刑吏として使役されている人物が登場する(一般に悪心はそのままで、最下級とは言え、役人であることをいいことに、より悪辣な行為をなす設定が多い)。

「平人」一般庶民。

『「似せ金」とは、賊の手懸りなり』前で「餘りに賊の手がかりもなきまゝに」とあるから、この時、江戸市中に於いて、広範囲な偽造貨幣絡みの事件が発生しており、この岡っ引きは支配の同心から探索を命ぜられていたことが判る。

「さりけり。」「そうかい。」。軽くいなしたのである。この時点では、特に気に留めなかっただけで、さしたる意味(意識的な気のない芝居をして探索方であることを主人に知られぬようにするといった)はない。

「鹽町」底本は「塩町」であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」に所収するものに正字化した。現在の新宿区四谷本塩町附近(グーグル・マップ・データ)。

「彼(かの)岡引を賴みけり」主語は同心であるが、彼の使われている同心は本篇では実際の姿は殆んど登場しない。最後の捕えられて後の尋問の主導はその同心であろうが(その場には当然いるものとして映像化すべきではある)、老人に直接、語りかけて自白を引き出しているのは、やはり、この岡っ引きである。老人が一度は螺鈿細工の弟子しようと認めたところで、この老人がこの岡っ引きに対し、今も奇妙な親近感を覚えたままでいるという設定で、心内に映像化した方が遙かにドラマとして面白いからである。

「靑貝(あをがひ)を作るが商賣にて、多分の利ある人」直後に「青貝の粉(こ)を作るなり」とするが、単に螺鈿細工用の虹光沢の片々をのみ加工する職人(現在は老いてそれを主としているのではあろうが)ではなく、やはり螺鈿細工師と考えるべきである。でなくて、どうして贋金の鋳型を作ることが出来ようか。

「手堅き人なり。」「といふ」ここまでの聴き込みのシークエンスがなかなかにいいではないか。敢えて会話記号でそれらを細かく改行したのも、その雰囲気をカット・バック風に出すためである。

「ひたもの」副詞。「いちずに・ひたすら・やたらと」。

「外に一細工ありて」贋金造りの技術以外に、他に、世間に示して恥ずかしくない、人並み(「人幷」)の、ちゃんとした手技(てわざ)・生業(なりわい)を持って。

「僞金、二つ三つを持行(もちゆき)て」奉行所に保管されている使用された贋金を、与力・同心を介して、特別に借り受けたものであろう。

「言(いふ)に解く術(すべ)なし」最早、言い逃れする余地はない。

「氣根(きこん)薄く、自(みづ)から作るも物(もの)うくて」根気を入れて贋金を造るだけの気力も失せ、自分で一からするのも面倒になってしまい。

「位(あたひ)を下げたるなれば」品質を下げて作ったものなので。

「三つ、二つ、かくれば、通用金より遙に上品に出來る」さらに精緻に、二つか三つほどの高度な技術行程を加えれば、より高額の貨幣を偽造することが出来る、という意味であろう。]

反古のうらがき 卷之二 賊

 

   ○賊

[やぶちゃん注:主人公の名はルビがない。須藤三次なる個人は不詳であり、名の「三次」は「みつぎ」・「みつじ」・「みつよし」・「みつつぎ」・「みつぐ」・「みよし」・「さんじ」など多様な読みがある。お好きなそれで読まれたい私は個人的趣味から如何にも名前らしい「みつぐ」で読んだ。]

 予が門人須藤三次は、何某が門人にて劒術を學びたり。膽太く、力も強ければ、よく遣ひてけり。

 何某が家に若侍ありけり。これも劒術を好み、免許迄、受(うけ)けり。召使ひの女と申約(まうしかは)せしこと、あらわれて、いとまに成(なり)たるが、或日、寒稽古とて、主人は稽古場へ出(いで)たるを伺ひ、竹具足(たけぐそく)に身をかため【宵より忍び入(いり)たると見えて、稽古人(けいこにん)の竹具足を奪ひてきたる也。】、大太刀引拔(ひきぬき)て、女どもが食事の一間(ひとま)の椽下(えんのした)より跳り出で、直(ただち)に椽にかけ上(あが)りたれば、女どもは一聲、

「あ。」

と叫ぶまゝに、一同、伏轉(ふしまろ)びて、稽古場の方へと逃(にげ)にけり。

 其日は常より稽古人も少く、古き門人は三次壹人にて、其餘は免(ゆる)しも受(うけ)ざる少年の人のみなりければ、先づ、門の方へは三次壹人をさし向け、何某は鎗おつとり、前後に門人を從へ【家内の變事に門人を前後に立てしは如何にといふ。】、一と間一と間と家の内を𢌞るに、大太刀を拔(ぬき)たる所にさや斗(ばか)り拾(ひろひ)ありて、人、なし。四方の圍(かこひ)も高ければ、出(いづ)べきよふなし、

「定(さだめ)て椽下ならん。」

とて、さがしけり。

 三次は一方をあづかりたれば、

「でう口(ぐち)[やぶちゃん注:「でう」はママ。]より門へ出ん所を討(うつ)べし。」

と命ぜられたれば、一心に刀振上げ、待(まち)たるに、よくよく思へば、

『彼は吾より免許も先に受たれば、平日稽古にも一席を讓る人也。彼が刀は二尺五寸餘と覺へ、切物(きれもの)なるに、それが死に物狂ひとなり、飛出(とびいで)たらんには、首尾よく討留(うちとめ)んこと、心元なし。相打(あひうち)より外に手なし。餘儀なきことに命を果(はた)す。』

とおもへば、口惜しく、且は己が刀の二尺四寸斗りなるが、壹、二寸、短く覺えて心細く、惣身、石の如く堅くなりて、働き、自由ならぬようにて俄に息切(いきぎれ)し、稽古、四、五人を相手にせし後のよふに覺へければ、

『これにては、とても働(はたらき)、覺束なし、如何せん。』

とあんじ煩ふ程に、玄關に、雜巾をあらいたる、きたなげなる水の入(いり)たる手桶あるを見付(みつけ)、先づ、すくいて[やぶちゃん注:ママ。]、一口飮(のみ)たれば、大(おほい)に精神おさまりしを覺(おぼえ)けり。

 拔刀引(ひき)そばめて待(まつ)ことしばらくして、でう口のくゞりをのぞき見るに、内に見かへしのつい立(たて)あり、其下より人の足の見へければ、

『すは、出來(いでく)るよ。』

と、刀、振上げ、

『今ぞ、一生懸命の所。』

と待(まち)かけたれば、此時は、眼くらみ、物の心も覺へぬよふ[やぶちゃん注:ママ。]にてありける。

 よくよく見れば、敵にはあらで、主人其外の人にぞありける。

「いかに、いかに。」

と互(たがひ)に聲かけ、

「いづち、行けん、見へず。」

といひけり。

「されども、家の内に疑ひなし。今一度、𢌞らんと思ふなり。此度(このたび)は此口より逆に向ふべければ、最早、でう口を圍むるに及ばず。表の座敷に手鎗あり。取來(とりきた)りて持(もつ)べし。」

といふ。

 三次、思ふに、先の如く、おそろしかりしも、打物(うちもの)短く覺ゆる故なり。

『手鎗ならば心づよからん。』

とおもひ、

「心得たり。」

とて取に行けるに、其道筋は、やはり彼(かの)賊がおどり上りたる椽より上りて、表座敷へ行(ゆく)なれば、いかなる所に潛み居(を)らんも計りがたし。

 おもひ切(きつ)て行たれば、事も無し、歸り道は二十四、五間の三尺斗なる「ひやわひ」なり。

 鎗を持(もち)ながら、五、七間、行(ゆき)たるに、つかみ立てらるゝよふ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に覺へて、十五、六間は息をもつきあへず、かけ拔(ぬけ)たるは、おそろしくもいゝ[やぶちゃん注:ママ。]甲斐なくも、吾ながら吾身ならず、足元より吹(ふき)とばさるゝよふにて、吾ならず走りたり。

 此(この)十五、六間が内に、又、息切(いきぎれ)して、水をのみて、漸く心地付たり。

 再び家の内を搜しけれども、行衞なく、遂に裏どなりの境なる板塀(いたべい)に土足の跡あるを見付て、

「逃去りける。」

とはしれり。

『さるにても、今、辰の刻斗りなるに、竹具足に白刃(はくじん)を持(もつ)たる者が往來へ出(いづ)べきよふなし。』

と思ふに、此あたりは、殊に人通り少なき所にてありければ、朝は早し、其姿にて逃さりけるなり。

 事果(ことはて)て後、

「一同、骨折なり。分(わけ)て表口の一方は、殊に骨折なり。」

とて、右の鎗をもらひたり。

 かゝる事に出合(であひ)たるは不仕合(ふしあはせ)なれども、又、心得にもなることとて、予に親しく語り侍る。

[やぶちゃん注:臨場感を出すため、改行を施した。

「召使ひの女と申約(まうしかは)せし」これは具体的な交情(肉体関係は未遂でも既遂でも構わぬ)を持ったことを指している。

「竹具足」竹で鎧の胴の形に作ったもの。剣道・槍などの稽古に用いる。

「家内の變事に門人を前後に立てしは如何にといふ」如何にも!

「でう口(ぐち)」不詳。しかし、思うにこれは「錠口」(但し、歴史的仮名遣は「ぢやうぐち」で現代仮名遣でも「じょうぐち」である)ではなかろうか? これは単に「錠を取り付けた箇所」の意もあるが、ここでは明らかに屋敷内の特定の出入り口を指していることから、これは、将軍や大名などの御殿や大邸宅に於いて、表と奥との境にあった内外から錠がおろされてあった出入り口である「御錠口(おじょうぐち)」を指しているのではないか? と考えた。単なる剣術家の屋敷ではちょっと考え難いが、後のシークエンスで、この「でう口」にいる三次が主人から「表座敷」にある槍を持ってくるように命ぜられるところで、その帰り路の距離を「二十四、五間」、四十四~四十五メートル半と述べていることから、この主人の屋敷は相応に広いことが確認出来るので(或いはどこかの藩の剣術指南役か何かなのかも知れない)、この「御錠口」と採って違和感はないのである。

「二尺五寸」七十五センチ七・五ミリ。

「命を果(はた)す」「命を落とすとは……、とほほ」。

「二尺四寸」七十二センチ七・二ミリ。

「二寸」約六センチ。

「くゞり」潜(くぐ)り戸(ど)のこと。大きな門扉の脇や下部に作られた、潜って出入りする扉。

「見かへしのつい立(たて)」奥向きが外から見えぬように配した衝立。

「三尺」道幅が約九十一センチ。

「ひやわひ」これは正しい歴史的仮名遣は「ひあはひ」、現代仮名遣は「ひあわい」で、漢字表記では「廂間」「日間」。小学館「日本国語大辞典」によれば、『廂(ひさし)が両方から突き出ていることころ。家と家との間の小路。日の当たらないところ』とあるから、主人の屋敷の内で、相応に高い単立家屋の壁が左右から迫って立っていて、道幅が九十センチメートルとごく狭く、しかも途中で逃げ場がない路地様の長い(四十四、五メートル余り)路地であることが判る。ここでかの乱心の手練れの賊と対峙しては万事休すである。

「五、七間」九メートルから十三メートル弱。

「つかみ立てらるゝよふ」「摑み立てらるる樣」で、前には人影は見えぬものの、背後から襟首辺りを摑まれて、引き上げられでもするか、という心地がしたのであろう。

「十五、六間」二十七メートルから二十九メートルほど。

「おそろしくもいゝ甲斐なくも」「怖ろしとも言はむかたなき」という究極の恐怖感に襲われた気持ちの表現。「ひあわい」の路地の閉塞感が恐怖感を倍加させているところが、映像的にも効果的である。

「辰の刻」午前八時頃。]

2018/09/11

譚海 卷之三 宇佐奉幣使

 

宇佐奉幣使

○宇佐奉幣使は今世(いまのよ)も行るゝなり、卽位の年一度立らるゝとぞ。庭田中納言殿敕使にて下られし時、櫻町天皇給はせし御製、

  かへりきてかたるをぞまつ旅衣うら珍しき海のながめを

[やぶちゃん注:「宇佐奉幣使」「宇佐使(うさのつかい)」。宇佐八幡宮への奉幣のために派遣される勅使。天皇即位の奉告・即位後の神宝奉献(一代一度の大神宝使)及び兵乱など国家の大事の際の祈願の場合の他、醍醐天皇の頃からは恒例の勅使も行われたが、それは「朝野群載」所収の「宣命」などによれば三年に一度の定めであったらしい。使の初見は天平年間(七二九年~七四九年)にみられ、元亨元(一三二一)年の後醍醐天皇即位のときに派遣された後、中絶したらしく、延享元(一七四四)年に復興した。平安時代に勅使は五位の殿上人が充てられ、神祇官の卜部(うらべ)らが従った(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「庭田」庭田家は宇多天皇の皇子敦実親王の三男左大臣源雅信の十世権中納言経資を祖とする。経資の孫重資の後は庭田と田向の二流に分かれ、重資の女資子は崇光天皇に近侍して栄仁親王(伏見宮初代)を生み、また、重資の男経有の女幸子は栄仁親王の王子貞成親王(後崇光院)の室となり,彦仁王(後花園天皇)を生むなど、皇室及び伏見宮と深い関係があった。庭田家の公家としての家格は羽林家(堂上公家の家格で、大夫・侍従・近衛次将を経て中納言・大納言に至ることの出来る公卿に列する家格。「羽林」は近衛府の唐名)で、権大納言を極官とした。江戸時代は三百五十石を給せられ,神楽の家として朝廷に仕えた(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「櫻町天皇」在位は享保二〇(一七三五)年から延享四(一七四七)年。]

譚海 卷之三 加茂祭

 

加茂祭

○加茂祭の儀式、敕使御手洗川にて盥漱(くわんそう)ある時、神人(じにん)新に檜にて造(つくり)たる串長さ六尺ばかりなる末に檀紙(だんし)一葉を挾(はさみ)て捧げ向ふ。敕使取(とり)て手を拭(ふき)、去(さり)て神前に行向(ゆきむか)ひ、宮内の幄中(あくちう)に就(つき)て休息有(あり)、其後三位長官(ちやうくわん)の禰宜、社外の神山(しんざん)に在(あり)てかしは手を打(うち)、敕使幄を出(いで)て同じくかしは手を打あはす。然して後(のち)長官山を下り、採來(とりきた)る葵(あふひ)を例の串に插(さし)て捧げ向ふ。敕使取て冠に懸畢(かけをはり)て神前に向ふ時、階下に樂音起(おこ)る、禰宜敕使を導き、發音に隨(したがひ)て上階神拜有(あり)、同時に左右の𢌞廊より百味の神膳を傳(つた)ふ、數多の神人廊下に肩を接し跌坐し手ぐりに傳へ供す。長官階上に在て接受(つぎうけ)し神前に陳列す、敕使拜(をがみ)畢て又幄に歸る、其後樓門の内の露臺にて六佾(りくいつ)を舞ふ、六位伶工是をつとむ、樂章は後水尾帝の御製なりとぞ。前後祭禮の間、日々伶倫(れいりん)、往々社頭林中に羣遊して絲管を弄(ろう)す、古風尤(もつとも)感賞多しといへり。又上加茂の東に御蔭山(みかげやま)に接[やぶちゃん注:ママ。「攝」が正しい。]社有、祭日加茂の神官馬上に樂を奏し行向(ゆきむか)ふ、殊勝云(いふ)ばかりなき事とぞ。

[やぶちゃん注:「加茂祭」所謂、京の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)と賀茂別雷(わけいかづち)神社(上賀茂神社)の陰暦四月の中の酉の日に行われる例祭「葵祭」(あおいまつり:正式には「賀茂祭」)のこと。

「盥漱」(歴史的仮名遣「かんそう」)は手を洗って口を漱(すす)ぐこと。身を清める禊(みそぎ)のこと。

「神人」中世、神社に奉仕し、その保護を得ることによって宗教的・身分的特権を有した者たちを指し、国などの課役を免れ、また、神木・神輿を奉じて強訴を行ったりした。芸能民・商工業者の他、武士や百姓の中にも神人となる者があった。近世に於いては、神社に付属したそうした最下級の神官(事実上は使用人クラスまで)を広く指した。

「檀紙」和紙の一つ。楮(こうぞ:バラ目クワ科コウゾ属コウゾBroussonetia kazinoki ×Broussonetia papyrifera:ヒメコウゾ(Broussonetia kazinoki)とカジノキ(Broussonetia papyrifera)の雑種)を原料とし、縮緬(ちりめん)状の皺がある上質の和紙。大きさによって大高・中高・小高に分けられ、文書・表具・包装などに用いられた。平安時代には陸奥から良質のものが産出されたので「陸奥紙(みちのくがみ)」とも称し、さらに古くは檀(まゆみ:ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus hamiltonianus)を原料としたので、「真弓(まゆみ)紙」とも書かれた。

「幄」幄舎(あくしゃ)。四隅に柱を立てて棟や檐(のき)を渡して布帛(ふはく)の幄(とばり)で覆った仮小屋。祭儀などの際に臨時に庭に設ける。

「葵」葵祭に使用するのは、ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属フタバアオイ Asarum caulescens

「跌坐」「趺坐(ふざ)」、胡坐をかいて座ることであるが、表記の「跌」は音「テツ」で「フザ」とは読めない。実際にこう書く場合もあるが、私は「趺坐」の誤用と感ずる。

「手ぐり」純繰りの手渡し。それを意識して後を「接受(つぎうけ)し」と訓で読んでおいた。

「六佾(りくいつ)」「佾」とは周時代の舞楽の行列に於いて、その人数が縦・横ともに同じものを「一佾」と称し、一列は八人と決まっていた。「六佾」は諸侯の舞の式法で、六行六列の計三十六名の舞人が舞った。

「伶工」楽人。後の「伶倫」の同じい。

「感賞」感心して褒め讃えること。

「御蔭山」下鴨神社の神体山。二百七十一メートルピーク(国土地理院地図)。その西南直近にある神社記号が、ここに出る下賀茂神社の境外摂社である御蔭(みかげ)神社。現行では山は「御生山(みあれやま)」「御蔭(みかげやま)」と呼ばれているようであるが、古式に則って「おかげやま」と訓じておいた。]

甲子夜話卷之五 20 浴恩侯、高野玉川の歌の解

 

5-20 浴恩侯、高野玉川の歌の解

六玉川の歌に、高野の玉川は高野大師の歌とて、

 忘れても汲やしつらん旅人の

      高野の奧の玉川の水

此川毒水なればかく詠じたりと云。然ども不審なり。哥詞の中毒水のことなく、又六名勝の中に一つ毒水を入る可きようもなし。其上高野の邊の人は、常にかの玉川の水を飮む。然れば毒あるには非るべし。歌の意は、かくの如き名水を、旅人のことゆゑ、忘て常の水と思て汲やしつらんと、其水を賞て詠じたる也と、浴恩老侯の話られしは妙解と云べし。

■やぶちゃんの呟き

本条については私の「諸國里人談卷之四 高野の毒水」を参照されたい。そこで私が注した内容で、本質的には私の言いたいことは尽きている。

「浴恩侯」元老中松平定信の隠居後の号。現在の中央区築地にある「東京都中央卸売市場」の一画にあった「浴恩園」は定信が老後に将軍から与えられた地で、定信は「浴恩園」と名付けて好んだとされる。当時は江戸湾に臨み、風光明媚で林泉の美に富んでいた。先行する「甲子夜話卷之二 49 林子、浴恩園の雅話幷林宅俗客の雅語」を参照。

「六玉川」「むたまがは」。古歌に詠まれた六つの歌枕とされる「玉川」の総称。弘法大師空海・藤原俊成・藤原定家・能因らの歌に詠まれた六つの玉川を総称したもので、山城の井出・紀伊の高野山・摂津の三島・近江の野路(のじ)・武蔵の調布・陸奥(宮城)の野田にある「たまがわ」を指す。原初的には「魂の下る川」という古代祭祀上の「霊(たま)川」であったものと思われる。

「汲やしつらん」「くみやしつらん」

「哥詞」「かし」。

「中」「うち」。

「入る可きようもなし」「よう」はママ。「いるるべき樣(やう)もなし」。

「非るべし」「あらざるべし」。

「忘て」「わすれて」。

「思て」「おもひて」。

「賞て」「ほめて」。

甲子夜話卷之五 19 舜水歸化の後、言語の事

 

5-19 舜水歸化の後、言語の事

朱舜水、歸化年久しかりし後は、邦語をも用ひしが、兒言の如くありしと。一日或人塗に遇ふ。何れへ行たまふぞと問たれば、あす覺兵衞祝儀、肴かひゆくと答しと。又禁廷より内々に揮筆命ぜられしことありて、綿を賜りしとき、御所樣綿くれたと、人に語りしよし。さも有べきこと也。

■やぶちゃんの呟き

「朱舜水」(しゅしゅんすい 一六〇〇年~天和二(一六八二)年)は明の儒学者。江戸初期に来日。舜水は号で(郷里の川の名)、諱は之瑜(しゆ)。浙江省餘姚(よよう)の士大夫の家に生まれ、明国に仕え、祖国滅亡の危機を救わんと、海外に渡って奔走、長崎にも数度来たり、七度目の万治二(一六五九)年、長崎に流寓した。翌年、柳川藩の儒者安東省庵(せいあん)守約(もりなり)と会い、彼の知遇を受けた。水戸藩主徳川光圀が史臣小宅生順(おやけせいじゅん)を長崎に遣して、舜水を招こうとしたのはその数年後のことで、当初は応じなかったが、門人省庵の勧めもあり、寛文五(一六六五)年七月、六十六歳の時に水戸藩江戸藩邸に入った。以後、水戸を二度訪れたが、住居は江戸駒込の水戸藩中屋敷(現在の東京大学農学部)に与えられ、八十三歳で没するまで、光圀の賓師(ひんし)として待遇された。「大日本史」の編纂者として知られる安積澹泊(あさかたんぱく:後注参照)は、その高弟。墓は光圀の特命によって水戸家の瑞竜山墓地(現在の常陸太田市)に儒式を以って建てられた。舜水が水戸藩の学問に重要な役割を果たしたことが知られる(舜水のそれは朱子学と陽明学の中間的なもので、実学とでもいうべきものであった)。その遺稿は光圀の命によって「朱舜水文集」(全二十八巻)等に収められてある(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「兒言」「じげん」。幼児語。

「一日」「あるひ」。

「塗」「みち」。路。

「覺兵衞」前に出した安積澹泊(明暦二(一六五六)年~元文二(一七三八)年)の通称。澹泊は号、諱は覚。所謂「水戸黄門」に登場する「格さん」(渥美格之進)のモデルとされる。ウィキの「安積澹泊によれば、水戸生まれで、『祖父・正信は小笠原家に仕えて軍功あり、後に水戸藩初代徳川頼房に仕え禄』四百『石であったが、父の貞吉は多病で』、『この禄を辞退し、寄合組となった』。寛文五(一六六五)年九月、澹泊が未だ十歳の頃、第二代『藩主徳川光圀が』、『朱舜水をともなって水戸に帰国したのを機に、父・貞吉が光圀に願い出て』、『朱舜水に入門させた。同年暮れには江戸に出て朱舜水のもと学んだ』が、翌年七月に『父が死去したので水戸に帰り、家督を継いで寄合組となった』翌寛文七(一六六七)年)に『朱舜水が水戸を訪れると』、『再び教えを受け』、翌年、『朱舜水に従って江戸へ出た。しかし』、寛文一〇(一六七〇)年『春には痘瘡を病んで水戸に帰国した。澹泊が朱舜水のもとで学んだのは』三『年ほどであったが、朱舜水は「日本に来て句読を授けた者は多いが、よくこれを暗記し、理解したのは彦六だけだ」と言ったという。光圀も澹泊の好学を賞して金』三『両を図書費として与えた』。『水戸へ帰った澹泊は同年』二百『石で大番組を命じられ』、小納戸役・唐物奉行を歴任し、天和三(一六八三)年二十八歳の時、』『彰考館入りし』、『史館編修に任じられた』。元禄二(一六八九)年、『吉弘元常』(よしひろもとつね)『・佐々宗淳』(さっさむねあつ)『両総裁とともに修史義例の作成に関与』し、元禄五年には三百石となり、元禄六年には、『死去した鵜飼錬斎の後任として史館総裁に就任した』『(当時の総裁は』三名で『他は佐々宗淳・中村顧言)』元禄九年には『佐々らとともに「重修紀伝義例」を作成して修史の方針を明確にし、また「神功皇后論」を著して皇位継承についての所信を述べ』ている。元禄一三(一七〇〇)年に光圀が死去し、翌十四年に第三代代『藩主徳川綱條』(つなえだ)『の命により、中村顧言・栗山潜鋒・酒泉竹軒とともに』「義公行実」を編集、享保八(一七二三)年には、第四代藩主となっていた徳川宗堯(むねたか)の『命により、さらにこれを修訂』、した上、「常山文集」の『付録として印刷した』また、享保九年には、「義公行実」の付録として「西山遺事」を著した。元禄十四年、『総裁の職は元のままに』、『小姓頭に昇進。栗山潜鋒らとともに紀伝の稿本全般を点検、加除訂正を行った。中でも宝永年間』(一七〇四年~一七一一年)『の筆削活動は目覚ましく、そのため』、『ほとんど原型を止めなくなった箇所も多いという』。正徳四(一七一四)年に『総裁を辞任したが、その後も彰考館にあった』。享保元(一七一六)年からは、『「大日本史論賛」の執筆を行』った(同五年完成)。「論賛」とは『史伝を記述した末に記述者が加える論評の事である』(但し、文化六(一八〇九)年になって論賛は削除されたため、完成した現在の「大日本史」には存在しない)。享保六(一七二一)年、新番頭列、同七年には『新番頭に任じられたが』、『いずれも史館勤務は元の通りであった』。享保一二(一七二七)年からは徳川家康の伝記である』、「烈祖成績」の『編集を担当(同』十七『年完成)』した。享保一八(一七三三)年に致仕したが、『致仕後も十人扶持を与えられて史館の業務に関わることを許されており、死の直前まで紀伝稿本の校訂作業を続けた』。『私的な面では菊づくりを趣味としていたという』。『明治時代になってから』、『大阪の講談師・玉田玉知が幕末の講釈師の創作であった』「水戸黄門漫遊記」の『中に主人公・光圀のお供役として澹泊をモデルにした家来を登場させ、澹泊の通称である覚兵衛から渥美格之進(格さん)と命名』、『大人気となった。この講談中で』、『同じくお供を勤める佐々木助三郎(助さん)のモデルである佐々宗淳は、やはり水戸藩で澹泊と同じく彰考館総裁を勤めた人物である(総裁は複数制であったので、ともに総裁であった時期もある)。澹泊の』十六『歳年上。なお、佐々宗淳(佐々介三郎宗淳)の墓碑文で安積澹泊(安積覚兵衛澹泊)は「友人」として「おおらかで正直、細かいことにこだわらない」「よく酒を飲む」などといった人物像を記している』とある。

「綿を賜りし」綿を褒美として下賜した。元は祭祀に用いた神聖な綿の下げ渡しであったものかと思われるが、例えば、先行する甲子夜話卷之四 37 明安の頃風俗陵遲の事には、江戸幕府が年始に於いて、大名・旗本などに対し、綿入れの小袖が下賜衣料として出てくる。

甲子夜話卷之五 18 大阪御殿、長押の上に大猷廟の御繪ある事

 

5-18 大阪御殿、長押の上に大猷廟の御繪ある事

大阪御城中御殿の張付は、金地に秋草の繪なり。長押の上も金張付にて、一處猷廟の御筆にて、鷄を墨畫にかかせ玉ふ有り。御戲筆なるべし。又あき御殿ゆゑ、席は鋪かずあれども、彼御筆の前には一疊を鋪てあり。人其處に到れば、御筆を拜すと云。

■やぶちゃんの呟き

「長押」「なげし」。

「張付」「はりつけ」。ここは布や紙等を張って仕上げた壁面や室内建具その他。

「金張付」「きんはりつけ」。

「猷廟」徳川家光。

「席」東洋文庫には『たたみ』とルビする。

「鋪かず」「しかず」。敷かず。

「鋪て」「しきて」。

反古のうらがき 卷之二 復讐

 

    ○復讐

 寄合御醫師久志本君の奧方は、公家今川何某【◎今川トウフ公家ハナシ、今出川ナルベシ。】の御娘子なり。家にありし時のかし付(づき)の女は、家にかろき奉公する者のつまにてありけるが、今は其夫とともに取立(とりたて)にて、夫婦とも姫君御付け人とぞなりける。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行されてある。]

 其事のはじめをとふに、御家に劒術師範する者ありけるが、狂氣せしにや、或夜、彼(かの)かしづきが夫の家に忍び入、矢庭に六十餘歳になりける老人をさし殺(ころし)ぬ。

「あなや。」

と叫ぶ聲に、家人、皆、目覺(めざめ)たれども、燈火も消へたれば、何の子細といふこともしられず。

 人の足音のしけるに、

『盜人か。』

と思ふ内に、老人が苦しげなる聲の聞へければ、

「當(たう)の敵ぞ。」

と、刀、引拔きて切付たり。

 闇夜のことなるに、かろき身分の者なれば、劒術の心得もあらねど、父を打たれしと思ふ一心に踏込(ふんごみ)て打合(ふちあひ)けり。

 老人が妻も出合(であひ)たれども、くらやみに、すべきよふなく、漸く、火打取出(とりいで)て手燭をともし、打合(うちあふ)一間(ひとま)をてらしけるに、俄に明りを見し故なるや、又は、互に眼くらみたるや、暗仕合(やみじあひ)の如く、人もなき所を切拂ひ、寄せ合せて打合(うちあふ)事は絶てなく、壁に突當り、柱に切付などする斗(ばかり)なれば、老母、手燭をてらしながら、

「夫れ、右よ、夫れ、左よ。」

と、聲かくるに、少し耳に入(いる)にや、其(その)いふ方を切拂ふ。

 これに、敵し兼たるや、狂人は、おもてのをおしはづして逃出(にげいづ)るとて、の中程を踏(ふみ)ぬきて、梏(はた)をかけたるよふ[やぶちゃん注:ママ。]に成(なり)ける所を、たゝみ懸、切付ければ、遂に打留たり。

 よくよく見れば、同家中何某にて、劒術師範の人にてぞ有けり。

 日頃、遺恨のこともなき人なれば、

「定(さだめ)て亂心なるべし。」といふことに極(きはま)りて、こと濟(すみ)たり。

「下賤の者なれども、身命(しんみやう)を顧りみず、當の敵を卽座に討留めたれば、褒美として取立にあづかりける。」

と、久志本夫人、予に親しく語り玉へり。

[やぶちゃん注:「復讐」という標題は父を殺された、この当時、下男であった夫の「復讐」の意である。

「寄合」旗本の内で三千石以上乃至布衣(ほい:下位の旗本(すなわち御目見以上)の礼装は素襖とされていたが、幕府より布衣の着用を許されれば、六位相当叙位者と見なされた。その相当格の者)以上の者で、役職に就いていない者の総称。

「御醫師久志本君」旗本久志本家は元は三重の神主の家系で、徳川家康の侍医に召し抱えられ、後裔の久志本左京常勝も幕医として第五代将軍綱吉の病を治療しているから、その後裔である。しばしば出てくるロケーションの二十騎町の西直近には「久志本左京」の屋敷がある。

「今出川」菊亭家(きくていけ)の別称。清華家(せいがけ:摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する公家の家格。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることが出来る。当初は七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)であったが、後に広幡・醍醐が加わり九家となった。さらに豊臣政権時代に五大老であった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成(せいがなり)しており、清華家と同等の扱いを受けた)の家格をもつ公家。藤原北家閑院流の西園寺家庶流。家業は琵琶。江戸時代の家禄は当初、千三百五十五石であったが、正保二(一六四五)年に三百石加増されて千六百五十五石となり、摂家の鷹司家の千五百石を上回ることとなった(以上は主にウィキの「拠った)。

「當(たう)の敵ぞ」「當の」は連体詞。「まさにそれ(本物の盗賊)だ!」。

「暗仕合(やみじあひ)の如く」目が眩んで逆に闇の中で斬り合うような感じになってしまい。

「敵し兼たるや」「敵する」の連用形ととる。互角に相手になることが出来かねたと思ったものか。

梏(はた)」「桎梏(しっこく)」のそれで(「桎」は「足枷(あしかせ)」)、「梏」は「手枷」のこと。戸板を打ち抜いた際に手を怪我したものか、或いは乱心であるから、何らかの発作によって手が動かなくなったとも考えられる。

「當の」ここは「まさにその時の」。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 讀孟子 オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(本底本)の「初期の文章」に載るものに拠ったが、葛巻氏はこれを「第一高等学校時代」のパートに入れているものの、特にその根拠を示していないし、同パートで前に入っている「菩提樹――三年間の回顧」「ロレンゾオの戀物語」「寒夜」のようには文末に推定執筆年のクレジットも表示されていない。それを信ずるとすれば、明治四三(一九一〇)年九月十三日(第一高等学校一部乙類(文科)入学日)から大正二(一九一三)年七月一日の一高卒業までの、龍之介十八歳から二十一歳の閉区間に書かれたものとなる。ただ、内容的な深い洞察や表現から見ても中学以前のものとは私にも到底思われない。以下、私の葛巻氏の編集に対する疑問や推測は、前回の「斷章」の冒頭注に述べたので、繰り返さない。

 各段落末に、私自身にとって本篇が完全に読解し得るようにすることを主目標として、不審を残さぬようにオリジナルに語注を附したつもりである(無論、私は二十一の時にこれだけの文章は書けなかったし、今でも無理である。芥川龍之介、恐るべし)。附していない箇所でお判りにならないものは、ご自身でお調べあれかし。注の後は一行空けた。

 

     讀孟子

 

 事新しく云ふ迄もなく、孟子の哲學は内容に於て完く孔子の哲學也。彼は此點に於て新しき哲學の創唱者に非ずして、單に其祖述者たるに止まりき。然れども、彼が孔子の衣鉢を傳ふるや、彼は殆ど古今に其匹儔を見ざる忠實と熱誠とを以てしたり。彼が孔子の哲學によりて其立脚地を樹立したるが如く、孔子も亦彼を俟ちて、始めて其哲學に牢乎たる根柢と組織とを與へたりと云ふも、恐らくは過褒にあらざるべし。加ふるに彼の犀利なる文章と辯才とは、能く彼をして彼の使命を完ふするを得しめたり。彼の文節は極めて明快にして、其縱論橫議竹を破る、刃を迎へて節々皆解くるが如きの妙に至つては、昌黎の雄鷙眉山の俊爽を以てするも、到底其堂奧を窺ふに足らず、二分の圭角と八分の溫情とを湛たる彼をして毫裡に躍如たらしむる、殆ど憾なきに庶幾し[やぶちゃん注:読点はママ。]。しかも彼の舌鋒は又、其文字の雄なるが如く雄勁にして、虛より實を出し、實より虛を奪ひ、比喩を用ひ、諧謔を弄び、彼と議論を上下するものをして、辭盡き言屈し、又如何とも爲す可らざるに至らしめずんば止まず。其齊の宣王に見えて牢牛を談ぜしが如き、戰の比喩を以て梁の惠王を揶揄一番したるが如き、彼の踔厲風發、説いて膚寸をも止めざる好箇の例證たらずんばある可らず。

[やぶちゃん注:・「匹儔」(ひつちう(ひっちゅう))は「匹敵すること・同じレベルの存在と見做される相手」の意。

・「牢乎」(らうこ(ろうこ))は「しっかりしているさま・揺るぎないさま」の意。

・「犀利」(さいり)。「犀」は「堅く鋭い」の意で、ここは「才知が鋭く、物を見る目が正確であるさま」の意。

・「刃を迎へて節々皆解くる」底本では「刃」は「刅」の右端の一画を除去した字体。「やいば」。「切れ味鋭い英知の刃を迎えて、蟠った節々が瞬く間に、皆、鮮やかに剖(き)り解かれる」の意。

・「昌黎の雄鷙」中唐の佶屈聱牙、唐宋八大家の一人であった韓愈のこと。彼は昌黎生まれを称し、人々から韓昌黎(昌黎先生)と呼称された。「雄鷙」は「ゆうし」と読み、「雄々しい猛禽」から「偉大な英雄」のことを言う。

・「眉山の俊爽」眉州眉山(現在の四川省眉山市東坡区)の出身であった、北宋の英才で唐宋八大家の一人である蘇東坡のこと。「俊爽」(しゆんさう(しゅんそう)」は人品・風物などが優れていること。

・「圭角」「圭」は「玉」に同じい。通常は「人の性格や言動に角があって円満でないこと」を差し、ここも表面上はその意であるが、そこに、原義の稀な輝きを持った「宝玉の尖ったところ・玉の角」、則ち、真の鋭才故の角立った部分を匂わせる。

・「毫裡」(がうり(ごうり))はごく僅かな時間内。瞬時。

・「憾なきに庶幾し」「憾」は音「カン」で読みたい。「非常な心残りとなる残念な思い」が全くなく、「庶幾」(しよき(しょき))はこの場合、「目標に非常に近づくこと」の意。

・「雄勁」(ゆうけい)は力強いこと。元来、この語は書画・詩文などに、力がみなぎっていること。

・「齊の宣王に見えて牢牛を談ぜし」「牢牛」は「ろうぎゆう(ろうぎゅう)」で「牢」は「生贄(いけにえ)」の意。「孟子」巻之一の「梁惠王章句上」の「七」の話。柏木恒彦氏のサイト「黙斎を語る」内のこちらで原文と書き下し文(歴史的仮名遣ではないが、概ね首肯出来る)が、小田光男氏のサイト内の「我読孟子」のこちらで原文と現代語訳が読める。

・「戰の比喩を以て梁の惠王を揶揄一番したる」所謂、知られた「五十歩百歩」の話である。「孟子」巻之一の「梁惠王章句上」の「三」。同じく柏木恒彦氏のサイト内のこちらの「梁惠王曰寡人之於国章」で原文と書き下し文現代語の通釈が、小田光男氏のサイト内のこちらで原文と現代語訳が読める。

・「踔厲風發」(たくれいふうはつ)は「才気に優れ、弁舌が鋭いこと」。韓愈の柳宗元の墓誌に記した「柳子厚墓誌銘」が原拠。原文はこれ(中文ウィキ)。訓読(歴史的仮名遣ではないが、概ね首肯出来る)と訳は個人ブログ「寡黙堂ひとりごと」の「唐宋八家文 韓愈 柳子厚墓誌銘(四ノ一)」が良い(後者では「踔」が表記不能漢字となっている)。

・「膚寸をも止めざる」説いた舌鋒が、寸止めでなく、膚でぴたっと止まるの意か。]

 

 啻に之に止らず、業を子思の門人に受けたる彼は、魯中の叟が大經大法の宗を傳ふると共に、又能く天下の儒冠をして推服せしむるに足るの學殖を有したりき。殊に、其詩書に出入するの深き、吾人をして、上は堯舜を追逐して參りて翔して下は禹湯に肩隨して、濁世を救濟するの誠に偶然ならざるを感ぜしめずんばあらず。既に言を以て、異端を叱呼するに足り、學は以て、一世を壓倒するに足る。是に於て、四方の俊才が翕然として其門下に參集したる、亦怪むに足らず。しかも其一生の經歷が彼の先導者たる孔子のそれに酷似したるが如く、彼も亦、孔子が顏囘の賢、曾參の智を打出したると殆ど同じき成功を以て、樂正子の如き、公孫丑の如き、幾多の人材を陶鑄したり。

[やぶちゃん注:・「啻に」「ただに」。限定の副詞。

・「業を子思の門人に受けたる彼」孟子は、孔子の孫であった子思(しし)の、その門人の下で学んだとされる。

・「魯中の叟」魯国の老人で孔子を指す。

・「大經法」「たいけいたいはふ(たいけいたいほう)」。「大經」は「大きな筋道・不変の条理・大道」の、「大法」は「大きな定理・重要な規律」。

・「宗」は「そう」と読んでおく。根本義。原理。

・「儒冠」儒学者。

・「推服せしむる」ある人を敬って心から従わせる。心服させる。

・「吾人をして」「我々をして」。以下の「感ぜしめずんばあらず」が受ける。

・「堯舜を追逐して參りて翔して」「翔」(こうしよう(こうしょう))は「天高く飛び上がること・空を自由に飛ぶこと」。伝説の聖王である堯や舜の正道を忠実に追い、或いはそれをも超越せんとするかのように、理想の高みに自在に飛翔して。

・「禹湯に肩隨して」古代の賢明なる名君たる、夏の禹王や殷の湯王に比肩追随して。

・「濁世」私は個人的には「ぢよくせ(じょくせ)」と仏教語読みしたい。政治や道徳の乱れきった濁り汚れた世の中。「だくせ」という仏教語でない純粋に上記の意味である読みもあるが、私は読みとして好まないからである。

・「叱呼」(しつこ(しっこ))は通常は「大声で呼ぶこと」であるが、ここは正面から名指しして徹底批判すること。

・「翕然」(きふぜん(きゅうぜん))は「多くのものが一つに集まり合うさま」。

・「顏囘の賢」孔門十哲の一人で秀才随一とされた。孔子が最も嘱望した弟子であったが、孔子に先だって亡くなった。

・「曾參の智」曾子(そうし)。先に出た孔子の孫子思は曾子に師事し、子思の教えが孟子に伝わったことから、孟子を重んじる「朱子学」が正統とされるようになると、先の顔回と、この曾子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶようになった。

・「樂正子」(がくせいし)は春秋時代の曽子の弟子であった楽正子春(しゅん)。

・「公孫丑」(こうそんちゆう(こうそんちゅう))は孟子の弟子。「孟子」全十四巻中の二冊「公孫丑章句」の上・下の編纂を担当している。

・「陶鑄」(とうしゆ(とうしゅ))の「陶」は焼成して創る陶器、「鋳」は「金を鋳(い)て器を作ること」で、「陶冶」に同じい。]

 

 彼が卅歳の一白面書生として、鄒の野に先王の道を疾呼してより、七十三歳の頽齡を以て、志を天下に失ひ、老脚蹉跎として故山に歸臥するに至るまで、彼の五十年の一生は、一面に於て不遇と薄命との歷史なれ共、他面に於ては、又教育家として、殆剩す所なき成功の一生涯なりき。

[やぶちゃん注:・「卅歳の一白面書生」「卅歳」で「白面」(はくめん:年が若くて経験の浅いこと。青二才)というのは少々感覚的には皮肉っぽくも感じられるが、芥川龍之介はここで「彼の五十年の一生」と言っているが、孟子は現在、辞書類では紀元前三七二年頃の生まれで、紀元前二八九年頃の没とされており、それに従うなら、八十三歳前後の生涯であったことを考えれば、かの戦国時代にあって、まず「白面」は腑に落ちるとも言える。因みに「卅歳」を前の生年推定に機械的に当てると、紀元前三四二年頃となる。小学館の「日本大百科全書」によれば、その後、孔子の生国である魯に遊学し、そこで孔子の孫の子思の門人に学んだ後、弟子たちを引き連れて「後車数十乗、従者数百人」という大部隊を組んで、梁(魏)の恵王・斉(せい)の宣王・生国である鄒の穆(ぼく)公・滕(とう)の文公などのもとに遊説して回ったが、孰れも不首尾となり、晩年は郷里で後進の指導に当たったとある。

・「鄒」(すう)。孟子は鄒、現在の山東省西南部の済寧市の県旧市である鄒城(すうじょう)市の生まれである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「先王の道」儒家の政治思想に於いては、天下の人民が帰服するような有徳の王者を遠い古代に想定し、それを「先王」と称し、その政道を「王道」と呼んだ。「徳」を政治の原理とする思想は既に「書経」や「論語」などに見られるが、「王道」を覇者が武力や権謀術策によって天下を支配する「覇道」と対比させて明確にしたのは孟子であって、「徳を以つて仁を行ふ者は王たらん」、則ち、「仁義の徳が善政となって流露するのが王道である」と説いた(平凡社「世界大百科事典」に拠った )。

・「疾呼」(しつこ(しっこ))慌ただしく主張し喧伝すること。

・「七十三歳の頽齡」「頽齡」(たいれい)は心身の能力が衰えてしまうほどの高齢・老齢の意。先の「卅歳」やこの「七十三歳」(同前の機械計算では紀元前二九九年となる)という限定年齢は、芥川龍之介が拠った何らかの出典があるものと思われるが、不詳である。しかし、に示した孟子の遊説先の内、在位開始が最も後なのは、斉の宣王で紀元前三一九年から(退位は没した三〇一年)であるから、時制的には違和感はない

・「蹉跎」(さだ)「蹉」「跎」ともに「躓(つまず)く」の意で、「つまずくこと・ぐずぐずして空しく時を失うこと」或いは「落魄(おちぶ)れること・不遇なこと」の意もある。但し、ここで芥川龍之介は「教育家として」「成功の一生涯」と言っているのであるから、単に「老いて足が不自由になること」の意である。

・「殆剩す所なき」「ほとんどあますところなき」。]

 

 然れども、彼の偉大なるは其能く數多の小丘、小孟珂を打出したる教育家としての驚くべき成功の故にあらず、寬厚宏博、天地の間に充つるが如き文章の玄に悟入したるが故にもあらず、抑も又秋霜の辯と河海の學とを抱き、以て一代の學徒として能く仰望敬畏せしめたるが故にもあらず、山夷ぐべく谷煙むべく、而して孟何の名、獨り萬古にして長く存する所以の者は、其孔門の哲學をして、醇乎として醇なる眞面目を具へしめしが故にあり。

[やぶちゃん注:・「其」「それ」。

・「小丘」小さな孔丘(こうきゅう)。「丘」は孔子の諱(いみな:本名)。

・「小孟珂」小さな孟子。軻(か)は孟子の諱。

・「寬厚宏博」心が広くて態度が温厚な上に、広汎なる知識の持ち主であること。

・「文章の玄」微妙で奥深く、深遠な赴きを持った文章。

・「悟入」実体験によって物事をよく理解すること。

・「抑も又」「そもまた」。さても、また。

・「秋霜の辯」弁論が、非常に厳しく厳(おごそ)かであること。

・「河海の學」「史記」の「李斯(りし)伝」に基づく「河海は細流を択(えら)ばず」を意識した。「度量が広く、よく人を容れるところの、大人物の持つ真の学識」の意であろう。

・「仰望敬畏」(ぎやうばうけいい(ぎょうぼうけいい))は敬い慕われ、褒め讃えられること。至上の尊敬と真の敬意を払われること。

・「山夷ぐべく谷煙むべく」思うに、「煙」は「堙」(「埋」の同義有り)の芥川龍之介の誤字、或いは、葛巻義敏の誤判読と思う。「堙」ならば「やま、たひらぐべく、たに、うづむべく」と読めるし、それでこそ意味も腑に落ちるからである。

・「萬古にして」永遠なるものとして。

・「醇乎」心情・行動が雑じり気がなく純粋なさま。後の「醇なる」はその畳語表現。

・「眞面目」「しんめんぼく」と読んでおく。本来の姿。]

 

 其仁義の説の如き、性善の説の如き、五倫の説の如き、四端擴充の説の如き、放心を求むるの説の如き、就中浩然の氣を養ふ説の如き、人をして切に孔子死して九十餘年古聖の肉未冷ならざるを感ぜしめずんばあらず。しかも彼の擴世の奇才を抱きて之を事に施す能はず、楊柳條々として梅花雪の如くなる故山の春光に反きて、幾多門下の高足と共に、短褐蕭々として四方に歷遊するや、王威地に墮ちて、六霸幷び起り、中原の元々皆堵に安んぜず、道廢し、德衰へ、天下貿々然として之く所を知らざりしのみならず、墨子學派の博愛主義の如き、楊子學派の快樂主義の如き、神農學派の農業社會主義の如き、老莊派の極端なる個人主義の如き、無數の思潮は無數の中心をつくりて、隨所に其波動を及ぼし、一度孔門の繼承者にして其人を誤らむ乎、堯舜三代の大道、一朝にして亡び、先生の遺法、倐忽として瓦の如く碎くる、將に目睫に迫れるの觀を呈したりき。

[やぶちゃん注:・「仁義の説」ウィキの「孟子」より引く。『孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、「義とは宜なり」(『中庸』)というように、義とは事物に適切であることをいう』。

・「性善の説」ウィキの「孟子」より引く。『人間は生まれながらにして善であるという思想』。『当時、墨家の告子は、人の性には善もなく不善もなく、そのため』、周の『文王や武王のような明君が現れると』、『民は善を好むようになり』、同じ周でも、『幽王や厲王のような暗君が現れると』、『民は乱暴を好むようになると説き、またある人は、性が善である人もいれば』、『不善である人もいると説いていた。これに対して孟子は』、「人の性の善なるは、猶ほ水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と『述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人も』、『その性は一様であると主張した。また、性が善でありながら』、『人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだ』、『とした。そのため』、『孟子は、』「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失はざる者なり」(離婁章句下)、「學問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)『とも述べている』(龍之介が後に言う「放心を求むるの説」はこれ)。『その後、荀子』『は性悪説を唱えたが、孟子の性善説は儒教主流派の中心概念となって』、『多くの儒者に受け継がれた』。

・「五倫の説」ウィキの「五倫」から引く。「書経」の「舜典」には、『すでに「五教」の語があり、聖王の権威に託して、あるべき道徳の普遍性を追求してこれを体系化しようとする試みが確認されている』が、孟子は、『秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親や年長者に対する親愛・敬愛を忘れないということが肝要であることを説き、このような心を「孝悌」と名づけた。そして、『孟子』滕文公(とうぶんこう)上篇において、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した』。①父子の親(『父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない』)・②君臣の義(『君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない』)・③夫婦の別(『夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる』)・④長幼の序(『年少者は年長者を敬い、したがわなければならない』)・⑤朋友の信(『友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない』)がそれで、『孟子は、以上の五徳を守ることによって社会の平穏が保たれるのであり、これら秩序を保つ人倫をしっかり教えられない人間は禽獣に等しい存在であるとした』。

・「四端擴充の説」ウィキの「四端説」より引く。性善説を受けて孟子が発展させた『道徳学説。四端とは、惻隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)または廉恥(れんち)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ)の』四『つの感情の総称』。「孟子」「公孫丑章句上」によれば、そこ『に記されている性善説の立場に立って』、『人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳(四徳)を誰もが持っている』四『つの心に根拠付けた』。『その説くところによれば、人間には誰でも「四端(したん)」の心が存在する。「四端」とは「四つの端緒、きざし」という意味で、それは』、①『「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)』・②『「羞悪」(不正や悪を憎む心)または「廉恥」(恥を知る心)』・③「辞譲」『(譲ってへりくだる心)』・④『「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)』の四つの『道徳感情である』とし、『この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の』四『つの徳に到達すると』説く。『言い換えれば』、『「惻隠」は仁の端』であり、『「羞悪」(「廉恥」)は義の端』、の『「辞譲」は礼の端』の、『「是非」は智の端』である『ということであり、心に兆す四徳の芽生えこそが四端である』。『たとえば、幼児が井戸に落ちそうなのをみれば、どのような人であっても哀れみの心(惻隠の情)がおこってくる。これは利害損得を越えた自然の感情である』。『したがって、人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきであり、それによって人間の善性は完全に発揮できるとし、誰であっても「聖人」と呼ばれるような偉大な人物になりうる可能性が備わっていると孟子は主張する。また、この四徳を身につけるなかで養われる強い精神力が「浩然の気」であり、これを備え、徳を実践しようとする理想的な人間を称して「大丈夫」と呼んだ』(龍之介が後に言う「浩然の氣を養ふ説」はこれ)。『なお、四端については、南宋の朱熹の学説(朱子学)では、「端は緒なり」ととらえ、四徳が本来』、『心に備わっているものであるとして、それが心の表面に現出する端緒こそが四端であると唱え、以後、四端説において支配的な見解となった』とある。

・「孔子死して九十餘年」孔子は現在、紀元前五五二年九月二十八日生まれで、紀元前四七九年三月九日に没したとされ、その「没後九十餘年」は紀元前三八三年頃となり、現行の孟子の生年から計算すると、孟子は未だ十四歳頃であるから、先の芥川龍之介の「卅歳」で「鄒の野に先王の道を疾呼し」たというのを上限として受けるとなら、紀元前三四二年頃で、孔子没後百三十七年、「孔子死して百三十餘年」が正確となる。

・「未」「いまだ」。

・「擴世」人倫・人智の在り方を遙かに大きく押し広げるような、の意であろうか。

・「反きて」「そむきて」。

・「高足」(こうそく)は「高弟」に同じい。

・「短褐」(たんかつ)は麻や木綿で作った丈の短い粗末な服。身分の賤しい者が着る衣服。「短褐穿結(せんけつ)」(「穿結」は「破れていたり、そこを結び合わせてあったりすること」で貧者の粗末な姿の形容である)。

・「蕭々として」もの寂しい感じで。

・「六霸」芥川龍之介が「戦国の七雄」と「春秋六覇」(こちらは「五覇」の方が一般的であるが、「六覇」とも称する)とを混同したものか。前者は秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七国である。

・「元々」「げんげん」で、これで「人民」の意。

・「堵に安んぜず」「とにやすんぜず」。民草が安穏に暮らすことが出来ず。「三国志」の「蜀書諸葛亮伝」に基づく「堵に安んずる」(「堵」は「人家の垣根・その内」の意で、「民が住まいに安心して住める、安心して暮らす」の意)。

・「貿々然」ぼんやりとしてはっきりしない様子。「貿」には「視界が悪い」の意がある。

・「之く」「ゆく」。

・「楊子」戦国時代前期の思想家楊朱(ようしゅ)。老子の弟子とされ、徹底した個人主義(為我)と快楽主義とを唱えたと伝えられる。前期道家思想の先駆者の一人で、「人生の真義は自己の生命と、その安楽の保持にある」ことを説いたとされる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

・「神農學派」神農は中国古代の伝説上の帝王であうが、神農の名前が最初に文献に現れるのは実は「孟子」であり、これには、戦国時代、許行という神農の教えを奉じる人物が、民も君主もともに農耕に従事すべきである、と主張したという話が載っている。許行が信奉した神農がいかなる存在であったかは明らかではないが、漢代になると、神秘的な予言の書である「緯書(いしょ)」などに、しばしば神農のことが記されるようになる。それによれば、神農は体は人間だが頭は牛、あるいは竜という奇怪な姿をしており、民に農業や養蚕を教えたり、市場(いちば)を設けて商業を教えるほか、さまざまな草を試食して医薬の方法を教え、五絃の琴を発明したともされる。こうした業績から、「三皇」の一人に数えられることもあるが、神農に関する具体的な記述は古い文献にみえないため、神農の伝説には後代の知識人が付け加えた部分が多いと考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

・「一度」「ひとたび」。

・「孔門の繼承者にして其人を誤らむ乎」孔子の継承者として誰彼を誤認したものであろうか。

・「倐忽」(しゆくこつ(しゅくこつ))は「忽(たちま)ち」の意。

・「將に目睫に迫れる」「目睫」(もくせふ(もくしょう)は目と睫毛(まつげ)で、今まさに目前に迫ってしまったことを意味する。]

 

 然り、彼の成敗は彼一人の成敗に止らずして、全儒教の成敗を意味すべき存亡の危機に際したりき。然れども、彼は着々として幾多の創見と發明とを以て、儒教の地盤を定むるに成功したり。而して傍、異端を弁じ、邪説を闢き、歷古の沈迷を開きて、能く聖人の道、彼を得て復明なるの大業を成就したり。彼は彼自身、孔子を崇敬するの厚きを以て、屢自己の創見をも、嘗て孔子の一度之を云へりし如く、人に示したりき。しかも、其全く彼が前聖未發の卓見にして、彼の大才の奕々として這裡に光耀せるは、孟子二百六十一章を通じて、隨所に指示し得るべしと云ふも、亦妨げず。

[やぶちゃん注:・「成敗」ここは孟子とその教えを否定・無化することを指す。

・「傍」「かたはら」。一方で。

・「邪説を闢き」「闢き」は「ひらき」。誤った説を論破して明確に否定し。

・「歷古の沈迷」古き時代からの議論の混迷。

・「復明」正しい理念を復興すること。

・「其」「それ」。

・「未發」未だ発見・発明されていないこと。

・「奕々」(えきえき)は「光り輝くさま」の意。

・「這裡に」「ここに」と読む。]

 

 かくして、彼は孔子の哲學を最も理論的に、しかも又最も實際的に樹立せしめたり。彼の偉大なる祖述としての事業は、玆に完き成功を以て、其局を結びたり。之を措いて、孟子の論法を云ひし齊の宣王の祿十萬を以て卿に列せしめむとしたるを云ひ、三萬四千六百八十五言の雄健快利の風あるを云ふ。孟子を知らざるの甚しと云ふべきのみ。

[やぶちゃん注:「祖述」(そじゆつ(そじゅつ))は「先人の説を受け継いで述べること」。

・「其局を結びたり」その孔子の真の教えの解明を終わらせた。

・「孟子の論法を云ひし齊の宣王の祿十萬を以て卿に列せしめむとしたるを云ひ、三萬四千六百八十五言の雄健快利の風あるを云ふ」「孟子」の対話者として多く出る斉(せい)の宣王は孟子を厚遇した(孟子の献策で燕を制圧しようともしたが、失敗に終わっている)。「快利」は迅速なさま。「三萬四千六百八十五言」は「孟子」「二百六十一章」の総字数。]

 

 韓退之曰、孟子なかりせば、皆服は左袵にして、言は侏離たらむと。又曰、功は禹の下にあらずと。孟子を透見し得て餘蘊なきに似たり。孟子歿して一千二百年の後、後生も亦我を知る者在りとして、彼亦恐らくは泉下に一笑せしならむ。

[やぶちゃん注:・「韓退之」中唐の文人政治家韓愈の字(あざな)。以下は彼の「孟尚書書與」(孟尚書に與ふるの書)の一節、「然向無孟氏、則皆服左袵、而言侏離矣」(然れども、向(さき)に、孟氏、無かりせば、則ち、皆、服は左袵(さじん)にして、言は侏離(っしゆり)ならん)。個人ブログ「寡黙堂ひとりごとを参照されたい。

・「左衽」衣服を左前に着ることを指す。昔、中国では夷狄の風俗とした。

・「侏離」(しゆり(しゅり))は、元来は古代中国で西方の異民族の音楽のことを指したが、そこから、異民族の言葉を卑しめていう語となり、更にここで使うように「(音声が聞こえるだけで)その意味が全く通じないこと」の意となった。

・「餘蘊」(ようん)は「余分な貯え・残ってしまったもの・あますところ」の意。

・「孟子歿して一千二百年の後」現在の孟子の没年(紀元前二八九年頃)に足すと、九一一年で、中国では唐が亡んだ(九〇七年)後の五代の頃となるが、韓愈は七六八年生まれの八二四年没であり、その没年からだと千百十三年前となるので、まあ、誤差範囲と言ってよかろう。]

2018/09/10

反古のうらがき 卷之二 手打

 

    ○手打

 尾藩(びはん)門前通り、名、不ㇾ知(しらず)、御旗本ありける。若殿、武術稽古に出(いで)られけるが、

「家來の中間(ちうげん)、供をはづせし。」

とて、屋敷に歸りて大に叱りけるに、中間、口答への上、過言(くわごん)せし故、止むことを得ず、一太刀、切(きつ)たる處へ、大殿、立歸り、大(おほい)に驚き、刀を奪取(うばひとり)、一間(ひとま)の内に推入(おしいれ)て出(いづ)る事を許さず。

 若とのの奧方、

「是(これ)にて切捨(きりすて)玉へ。」

と脇差を持來(もちきたる)を、大殿、是も奪取、扨、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「吾、兼々、心願の筋ありて、此度(このたび)、こと成就せんとする時、來(きた)れり。此(この)四、五日の内こそ大切の時なるに、ケ樣(かやう)の變事ありては、又候(またぞろ)、妨げと成り、多年の心願、仇事(あだごと)となるべし。枉(まげ)て内濟(ないさい)取結(とりむす)ぶべし。かゝる者一人、命取りたりとて、無益の殺生なるを哉(や)。ぜひに、ぜひに。」

とて、用人(ようにん)に命じ、醫を呼び、疵口(きずぐち)ぬわせなどして療用せしに、折節、夏のことなりければ、させる疵にもあらねども、療用六ケ敷(むつかしき)こととはなりぬ。

 其夜の内に、いよいよ六ケ敷く、命(いのち)の處(ところ)、請合兼(うけあひかね)たるよし、醫師、申ければ、大殿、甚(はなはだ)難澁し、

「もし、命、終らば、内濟なるまじ。」

といふ内、早、死入(しにいり)てけり。

「さらば、最初よりの如く、手打の趣きにて屆けたらん方(かた)、まさるべし。」

とて、請人(うけにん)、呼寄(よびよせ)けるに、是(これ)は人宿(ひとやど)やの奉公人にて、請人女房來り、

「慮外に付(つき)御手打とあるからは、子細なし。死骸、引取申(ひきとりまうす)べし。」

とて、大の男を引起(ひきおこ)し、身のうち・疵所(きずどころ)、殘りなく改めけるが、扨、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「是は慮外に付御手打とは僞りなり。無理殺しに疑ひなし。手打の者を疵を縫ふ法やある。其筋へ御届となし、御吟味請申(うけまうす)べし。ケ樣の死骸、引取(ひきとる)法、なし。」

といふにぞ、大殿もてあまし、

「彌(いよいよ)、心願の妨(さまたげ)なるべし。」

と手を盡(つく)し、内濟を入(いれ)、

「怪我にて手疵おわせし處、急所にて一命にかかる事に成行(なりゆき)たれば、身寄(みより)の者、養育の爲、手當金を遣す。」

といふ事にて、三十兩とか出(いだ)す事となりて、内濟、ととのひけり。

 此事、評判となり、やはり心願の妨げとなり、損毛(そんもう)の上、耻辱(ちじよく)をとりたるよし。

 武家の未練は、よからぬ事なり【雲樓、話。】。

[やぶちゃん注:読み易さを狙って、改行を施した。

「尾藩」尾張藩。特に指示がない以上、これは今までもしばしばロケーションとなった「廿騎町」(現在のここ(グーグル・マップ・データ))の南直近の尾張藩上屋敷(現在の防衛省)西門があったと思しい、西、新宿区市谷仲之町附近(ここ(グーグル・マップ・データ))であろう。

「家來の中間(ちうげん)、供をはづせし。」「家来の中間が、気がついたら、途中、御供をサボっていた!」。

「過言」弁解を越えて、出過ぎたことを言ったのである。若殿、年少なればとて、或いは若殿に責任があるようなニュアンスのことを言ってしまったものであろう。でなくては、手打ちにまでは普通は及ばぬと思われる。後で母親までその手打ちを完遂させようとしていることからも、かなり不埒なことを言ったものと思われる。

「奪取(うばひとり)」或いは「ばひとり」かも知れぬ。よくそうも読んだし、リズムとし「内濟(ないさい)」表沙汰にしないで、内々に事を済ませること。江戸時代に於ける裁判手続き上の和解としての用語として存在した。幕府は、公事(訴訟)がなるべく「内済」で終ることを望み、殊に民事上の「金銀出入り」 (無担保利子付(つき)の金銀貸借及びこれに準ずる起債権の訴訟。これらを「金公事(かねくじ)」と称した)では奨励しており、その場合は訴訟人 (原告) が訴状に奉行所から相手方 (被告) に出頭を命じる旨の裏書を得、これを相手方の村の名主のもとに持参すると。名主・五人組は両当事者を立会わせて内済を勧告した。内済が整わぬ時には、相手方は奉行所に出頭することになっていた。相手方が裁判所に出頭し、両当事者が対決した後でも、内済は許された。内済の場合には、両当事者は内済証文(済口証文(すみくちしょうもん)とも称した) を作成し、裁判所の承認(済口聞届)を得なければならないが、金公事の場合には「片済口」と称して、訴訟人のみの申立てで足りた。この制度は現在の調停制度へ引継がれている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。ここは刑事事件で、しかも事態は甚だ重いのであるが、ある程度の展開(被害者が死ななかったらの仮想経緯)の類似性は認知出来ようとは思われる)。

「人宿(ひとやど)やの奉行人(ほうこうにん)」「奉公人」は底本では「奉行人」であるが、これはおかしいので、国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」で補正した。さて、「人宿や」(人宿屋)であるが、これは単に旅館のことも指すのであるが、この被害者の中間の妻の遺体検案の様子からみると、そんじょそこらの宿屋の女中なんぞとはかなり違っていて、妙に場馴れしていることが見て取れる。さればこれは、男女奉公人の周旋を業とした「人宿(ひとやど)」屋に奉公していた者と見たいのである。「人宿」は、町奉行所等の記録や法令に於いては「人宿」とあるものの、一般には「けいあん」「口入(くちいれ)」(時代劇でよく耳にする)「口入人」などと呼ばれていた。「人宿」の語の初見は寛永一七(一六四〇)年であるが、より以前から使用されていたと考えられており、江戸では若党や徒士(かち)・中間などの武家奉公人を多数必要とし、この「人宿」を仲介とする雇用先の大半は武家方であった。「人宿」は奉公人の身元保証人(請人)となって判賃(判銭)を取り,また奉公先を周旋して契約が成立すると、周旋料(口入料・口銭)を受けたのであった(「人宿」については平凡社「世界大百科事典」に拠った)。さすれば、まさに中間等のトラブル等にもこの「人宿」は関係したから、その「奉公人」であったこの害者の女房も、それなりの知識や応対の方法を心得ていたのではなかったか? 宿屋女中奉公といった一般庶民の女房なら、夫の亡骸を見て、激しく狼狽えこそすれ、遺体を引っ繰り返して仔細に観察、致命傷の傷口の様態等まで具に見、事件の報知内容と遺体の状態の齟齬を突き合わせて分析し、異常な殺害遺体であるから引き取りは拒否するとか、その筋に訴え出て、正式に吟味してもらいたいなどと主張するような、心理的余裕や智慧は普通は働かないのではなかろうか?

「無理殺し」正当な理由もなく、本人も斬られるという意識もなく、突発的に創傷を受け、不当に殺されたものであること。

「怪我にて手疵おわせし處」誤魔化しがある。誰のせいでもない、突発的な事故によってたまたま怪我をし、手傷を負ったところが。

「三十兩」既に述べた通り、これが江戸時代後期の出来事となれば、一両は現在の三~五万円に相当するから、九十万円から百五十万円相当となる。

「損毛」「損亡(そんまう(そんもう):そんばう(そんぼう)」に同じい。損害を蒙ること。損害を与えること。損失。被害。

「耻辱」「恥辱」に同じい。

「雲樓」不詳。因みに、江戸後期の山水画家三宅西浦(みやけせいほ 天明六(一七八六)年~安政四(一八五七)年:本名・三宅高哲(たかてつ))は「看雲楼」の別名を持っていた。彼かどうかは判らぬが、ウィキの「三宅西浦をリンクさせておく。]

反古のうらがき 卷之二 水練

 

    ○水練

 或人、

「水の心は得ざれども、一度(ひとたび)浮(うか)び出(いづ)るは難(かた)くもあらぬことなり。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、又、一人のいふは、

「左にあらず。浮むも沈むも心ありてこそ、おのがまにまになさめ、其身、銕石(てついし)にひとしくて、何の期(き)すること、あらんや。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]爭ひしが、或夜、あたりなる川に舟浮べ、二人、遊びけるが、「浮ぶ」といひし人、誤りて水に落けり。今、壹人は水心もありければ、入(いり)て救ひ出(いだ)さんとする程に、落(おち)たりし人、舟のほとりに乳のあたり迄、浮出(うかびい)で、

「ソリヤ。浮(うき)たり。いかに、いかに。」

と罵りて、再(ふたたび)、沈入(しづみいり)て、出(いで)もやらず。

 兎角して救ひ出(いだ)せし頃は、半ば死入(しにいり)て在(あり)しが、やゝありて甦(よみがへ)りけり。

 最後の一言にも爭ひし事は「忘れざりけり」とて、人々、笑ひ合りき【皞齋、話。】。

[やぶちゃん注:底本でも以下の第二話の頭は改行が施されてある。]

 又、御徒の役(やく)勤めたる人、七十餘歳にて組頭となり、若き人の水稽古に出(いづ)る舟に乘合(のりあひ)て、居睡(ゐねむり)して、水に落(おち)けり。

「年こそ寄(より)たれ、一度浮む程の事は、今も猶、覺へあらん。」

と、人、見てけるに、ふつに浮ばず。

 名にしおふなる神田川の落水(おちみづ)なりければ、

「流され也(や)しけん。」

とて、遙に川下の方より入(いり)て、こゝかしこ、求むるに、人も、なし。

 やゝして、元(もと)落入(おちいり)しあたりに、人、あり。

 引上(ひきあげ)んとするに、さからひて、出でず。

 二人(ふた)り、三人(みた)りして引上れば、恙なし。

「何とて浮び出ざりし。」

ととへば、

「兩刀は船に置ぬ。紙入囊(かみいれぶくろ)・きせるは内懷(うちふところ)に入(いれ)て、手拭もて胴卷(どうまき)せり。たばこ入(いれ)は腰に付(つけ)たり。今一品は、扇子なり。蘭香が畫(ぐわ)に、赤良(あから)が筆あり。たゝみ置(おき)たれば、ぬるゝとも、猶、用に立(たつ)べし。さらぬといへど、畫と書とは助(たすかり)ぬべし。それが行衞の知れざれば、心當り、あさり求(もとめ)て在りしが、態々(よくよく)思へば、羽織と袴ごしとの間に、さし挾みおきしものを。」

と答へしかば、人々、さめて、

「人の心もしらで、死欲の深さよ。」

と、そしりけるとなん【高橋太左衞門師、話。】。

[やぶちゃん注:底本でも以下の第三話の頭は改行が施されてある。]

 これも水心しらぬ人、池水に落たり。

 岸の方は深くもあらぬに、やゝ立てども、影もなく、水のさわぐ樣(やう)も、なし。

 人々、いぶかり、入(いり)て見るに、水は腰にも及ばず。

 落たる所に人あり、坐して動かず。

 引(ひき)おこしければ、出來(いできた)れり。

「かゝる淺き所に坐したるは、如何に。」

ととへば、

「われ、水心なければ、常に覺期(かくご)して這(は)う[やぶちゃん注:ママ。]べき心なり。されども、落(おつ)る時、倒顚しぬれば、西東(にしひがし)を辨(わきま)へ侍らず。『若(も)し誤りて深き方に向ひて這ふこともあらんか』と、是をおそるゝ故に、先(まづ)坐して、岸の人の動靜(よふす[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])をうかゞひ居(ゐ)たり。故に猥(みだ)りに手足を動かし侍らず。」

といゝし[やぶちゃん注:ママ。]【川上麟川、話。千坂千里なりとも聞(きき)けり。】。

[やぶちゃん注:底本でも以下の第四話の頭は改行が施されてある。]

 これも水心しらぬ人、

「水の底を這ふ。」

といふ。

「いや、ならぬ。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]爭ひしが、或時、

「玉川に鮎の魚取る。」

とて、打連れて行けり。

 河の瀨、幾筋にもなりしを見て、

「水の底、這ふことの、なる・ならぬを勝負せん。」

とて、人々とゞむるもきかで、入けり。

 此瀨、思ひの外、淺くして、這ふ人の背も隱れざりしを、數丈の底にも入(いり)たる心地せしにや、色々、さまして、這ふ程に、這ふ程に、息のつゞくだけに、向ひの岸に上(あが)りて、

「如何に。如何に。」

と誇り罵りしは、おかしかりき[やぶちゃん注:ママ。]【富永金四郎といふ人の話。又、秋浪も、かくありしとか。】。

[やぶちゃん注:迷ったが、対峙する台詞が多く、その比較のために改行を施した。

「水の心」水練の心得。

「浮むも沈むも心ありてこそ、おのがまにまになさめ」水に浮かんだり、潜ったりすることは、これ、総て自分自身がそうしようと思うに従ってのみ動作出来るものであるのであって。「こそ」……(已然形)「、」~の逆接用法のやや特殊な限定用法。

「其身、銕石(てついし)にひとしくて、何の期(き)すること、あらんや」反語。その身(人体)が、そのままでは(意志を以って泳ごうとしなければ)、鉄や石と同様(に重量を持っていて水に沈むものであるの)に、どうして誰でもが簡単に浮かぶことがそう難しくなく出来る、などと断定・主張することが、これ、出来ようか、いや、出来ぬ!

「皞齋」不詳。「こうさい」或いは「ごうさい」か。因みに、漢詩人で木口皞斎(きぐちこうさい)なる人物がいるが(「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の「皡斎存稿」のデータを見られたい)、この人物は寛政五(一七九三)年に二十四歳で夭折しており、鈴木桃野は寛政一二(一八〇〇)年生まれであるから、違うか。ただ、この人物は桃野も好んだ漢詩作家であり、また、既に出た桃野と繋がりのあった林述斎とも親交があったから、或いは彼を経由して得た、又聞きの古い話である可能性はあるかも知れない。

「水稽古」水練の稽古。将軍の外出の際に徒歩で先駆(さきがけ)を務め、また、沿道の警備などに当たった御徒組であるから、そうした訓練があったとしてもおかしくない。

「ふつに」「都に・盡に」などと漢字表記した、呼応の副詞で、下に打消の語を伴って「全然~(ない)・全く~(ない)」の意。

「名にしおふなる神田川の落水(おちみづ)」神田上水は上水である以上、滞留していたのでは役に立たないから、相応に流れが速かったと考えられ、それは世間によく知られていて、されば「名にし負ふ」であったものと推定される。

「さからひて、出でず」救い上げようとしているのに、抵抗して逆らい、川から出ようとしない。

「紙入囊(かみいれぶくろ)」鼻紙袋。財布のこと。

「手拭もて胴卷(どうまき)せり」手拭に包んでそれを胴に巻き付けてあった。

「蘭香」浮世絵師吉田東牛斎蘭香(享保九(一七二四)年~寛政一一(一七九九)年)である。詳細事蹟は「浮世絵文献資料館」のこちらを見られたいが、そこにまさに『没後史料』として、嘉永二(一八四九)年のクレジット(本書成立の範囲内)で、『『反古のうらがき』〔鼠璞〕』『(鈴木桃野著・嘉永二年記)』(私が校合している国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」と同じ後代のものであろう)『(「水練」の項。某御徒役、神田川に落水した時〝蘭香画、赤良筆〟の扇子を共に没めたものと思い、行衛を探しに潜水し周囲をはらはらさせた話。扇子は船中の羽織と袴こしの間にありし由)』とあるから、間違いない。

「赤良」四方赤良(よものあから)。天明期を代表する稀有の文人・狂歌師で、御家人として支配勘定でもあった大田蜀山人南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)狂名。

「態々(よくよく)」通常は「わざわざ」であるが、どうもしっくりこないので、かく、当て読みした。

「人々、さめて」皆、興醒めして。

「高橋太左衞門師」不詳。「師」とあるから「高橋太左衞門」の「師」匠(何の師匠かは不明)の意であろう。

「やゝ立てども、影もなく、水のさわぐ樣(やう)もなし」少し立った気配はしたが、よく見てみても、姿が見えず、溺れて辺りの水が掻き乱されているような様子も、これ、ない。

「覺期(かくご)」「覺悟」。危険なこと・不利なこと・困難なことを予め考えて、それを受けとめる心構えを持つこと。ここは水泳が出来ぬから、冷静に水の底を這って陸(おか)に上がろうと冷静な判断と行動をとろうとしたことを、如何にも事大主義的に言っているので、既にしてここが笑話なのである。

「西東」ここは単に広義の「方角」の意。池の縁がどちらであったか、の意。

「川上麟川」「かはかみりんせん」と読んでおく。不詳。

「千坂千里」底本の朝倉治彦氏の補註に、『千坂廉斎。昌平黌徒出役』(「徒」は不明だが、所謂、「出役(しゅつやく)」とは江戸幕府の職制に於いて、本職を持つ者が臨時に他の職を兼ね勤めることを指し、昌平黌からの出役として知られるのは、鈴木桃野が死の直前に命ぜられた甲府徽典館(きてんかん:甲府にあった学問所。山梨大学の前身)へのそれや、他の学問所や取調所への出役があった)『名は幾、字』(あざな)は『千里、通称一学。本姓吉田氏。天保八』(一八三七)『年致仕後は莞翁』(かんおう)『と号した。元治元』(一八六四)『年八月歿、七八歳』とあるから、生まれは天明七(一七八七)年で、桃野より十三年上である。

「富永金四郎」不詳。

「秋浪も、かくありしとか」「秋浪」不詳であるが、この謂いは、秋浪(あきなみ)という桃野の知合いも、これと同じ経験があったとか言う、の謂いか。]

反古のうらがき 卷之二 愚人

 

    ○愚人

 或人、「笠谷といへる賤しき賣女(ばいた)ある所を通りて、金壹步、ひろひし」と語る。一人ありて、「吾も行て、ひらわん」とて、夜ごとに、提燈てらして、行ける。五夜目(いつよめ)といふ夜、銀一朱、ひらひて歸りける。「おろかなるものも、しいだす事あるもの」とて、人々、わらひしとなん【月笛、話。】。

[やぶちゃん注:「ひらわん」はママ。

「笠谷」読みも位置も不詳。江戸切絵図集の地名索引や「江戸名所図会」索引等やネットのフレーズ検索も掛けたが、見当たらない。識者の御教授を乞う。

「壹步」一両の四分の一。江戸後期の一両は三~五万円相当であるから、七千五百円から一万二千五百円ぐらい。

「銀一朱]一両の十六分の一。千八百七十五円から三千百二十五円ぐらい。

「月笛」「げつ(或いは「がつ」)てき」と読んでおくが、不詳。]

反古のうらがき 卷之二 儉約法

 

    ○儉約法

 或人、遊女にふけりて、多く、金銀、失ひしとて、俄に身をつゝめ、金銀を貯へしが、婦妻といぬるにも、ことあるごとに、錢百文づゝ竹筒に入(いれ)て置(おき)けり。二月(ふたつき)、三月して傾(かたぶ)け出(いだ)して見しに、思ひの外、多く積りて、外(ほか)の儉約より遙(はるか)に多く延びけり。それがおもしろさに、いよいよ筒に入て、積るを喜びしとぞ、夜のこといかにかはげみけん、おかしや【隣人、話。】。

[やぶちゃん注:隣人の話とは言うものの、色めい言辞をコーダとするのは、本書では非常な特異点である。

「つつめ」は「気がねする・憚る・遠慮する・慎む」の「愼(つつ)む」であろうが、これは他動詞マ行四段活用であるから、せめても「つゝみ」とあるべきところである。

「婦妻といぬるにも」妻と外出する際にも(ということは単独で外出する際は勿論のことという、添加の係助詞「も」である)。出費が嵩むのはまず、外出した出先でのそれに従うから、かく、したものであろう。]

反古のうらがき 卷之二 頓首

 

   ○頓首(ぬかづき)[やぶちゃん注:底本のルビ。]

 ぬかをつくことの極(きはめ)て長き人と、極て早き人と出合ひて、先づ、互にぬかをつく、早き人、先づ、もたげて見てあれば、ながき人は未だつきもはてず、まして、もたぐるはいつの頃といふさへしられねば、再びつきなをし、又、擡(もたげ)て見れども、なを、いつ、つきはつべきともおぼへねば、ただ見てあり。やがて、はつる頃、又、一度(ひとたび)、ぬかづきて、互ひに一度に擡てければ、永き人はあざむかれぬれども、早き人もこうじ果たるが、おかしかりき【醉雪老人、話。】。

[やぶちゃん注:「醉雪老人」魂東天に歸るその他で複数回既出既注。桃野の母方の叔父。先手与力で火付盗賊改方も勤めた。]

反古のうらがき 卷之二 貴樣

 

    ○貴樣

 貴樣といふは尊稱なれども、今は世の樣(さま)、下(さが)りて、へつらへる言(いひ)のみ多ければ、同輩より賤しき人を呼ぶ言葉とは、なれり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行がなされてある。]

 あるいやしきつかさ人どち、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]爭ふこと有(あり)しが、互に腹立(はらだつ)まゝに、一人より、

「貴樣は何々。」

と言(いひ)ければ、

『常には互(たがひ)に「貴樣」とよぶこと無きを、今、かくいふは、吾を賤しむよ。』

と、大に怒りて、

「貴樣々々。」

とつづけざまに、四つ五つ、云(いひ)けり。

『扨は。吾を罵るよ。』

と心得て、彌(いよいよ)爭ひとなりて、互に

「一分(いちぶん)立(たた)ず。」

など言(いふ)程に、上司(かみつかさ)の人の前に出で、理非を斷じけり。

 一人は、

「貴樣といふは固(もと)より同輩の稱呼。」

といふ。一人は

「のゝしりし覺(おぼえ)なし。」

といふ。

 上司、斷ずるにかふじ[やぶちゃん注:ママ。]たれば、互に叱りこらして、止みけり。

「さるにても、何故、『貴樣々々』と重言(じふげん)せし。」

ととふに、

「貴樣、吾を『貴樣』と呼(よぶ)ならば、貴樣をも『貴樣』と呼ぶぞ。」

といゝしが、

「腹立(はらだつ)まゝに疾言(しつげん)して、罵るよふ[やぶちゃん注:ママ。]にきこへ侍りしならん。」

と、跡にて、笑ひ合(あひ)けりとか。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行がなされてある。]

 予共、適樓にて「世説(せせつ)」の會讀せしに、吾、「卿(けい)を卿とせずして、誰(たれ)か卿を卿とせん」といふ所を讀むとき、阿部松陰、此談をなしたり。實は組下の人のよしなり。松陰、死して今十一星霜を經たり、鳴呼。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行がなされてあり、特異点で二字下げの追伸形式と推察される。]

  嘉永二年三月六日、桃季(たうり)盛んに開きて、日永きとき、筆をとる。

[やぶちゃん注:短いが、それぞれの言い分を比較し易くするために改行を施した。「貴樣」という二人称は、『中世末から近世初期頃に武家の書簡で用いられた語で、文字通り』、『「あなた様」の意味で敬意をもって使われていた』。ところが、『近世後期頃から』、口語として『使用されはじめ、一般庶民も「貴様」を用いるようになった』ことから、『尊敬の意味が薄れ、同等以下の者に対して用いられるようになった』。特に『その後、相手を罵って言う場合にも用いられるようになり、近世末には上流階級で用いられなくなった』と語源由来辞典」にある。

「いやしきつかさ人どち」幕府の下級官吏。

「かふじたれば」「困(こう)じたれば」。歴史的仮名遣は誤り。どうしてよいか判らず、困ってしまったので。

「疾言(しつげん)」「失言」であろうが、売り言葉に買い言葉で軽率に言い合って、思わず「口走ってしまった言葉」という意味で腑に落ちなくもない。

「予共」私や共学のものどもが。或いは「予、共適樓」なのかも知れぬが、後の「會讀」から、共を複数を示す接尾語「ども」でとった。

「適樓」不詳。塾の固有名詞か? 識者の御教授を乞う。或いは、前注の通り、「共適樓」の可能性もある。

「世説」中国南北朝期の宋の劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた小説集「世説新語」。「世説」とは「世間の評判」の意。

「會讀」数人が集まって、同じ書物を読み合って、その内容や意味を研究し、論じ合うこと。

「卿を卿とせずして、誰(たれ)か卿を卿とせん」「世説新語」の「惑溺第三十五」の一節。

   *

王安豐婦、常卿安豐。安豐曰、「婦人卿壻、於禮爲不敬、後勿復爾。」。婦曰、「親卿愛卿、是以卿卿。我不卿卿、誰當卿卿。」。遂恆聽之。

   *

 王安豐(わうあんぽう)の婦(ふ)、常に安豐を「卿(けい)」とす。安豐、曰はく、「婦人の壻(せい)を『卿』とするは、禮に於いて不敬爲(た)り。後、復(ま)た爾(しか)する勿(な)なれ。」と。婦、曰はく、「卿を親したしみ、卿を愛す。是れを以つて卿を『卿』とす。我、卿を『卿』とせずんば、誰(たれ)か當(まさ)に卿を『卿』とすべき。」と。遂に恆(つね)に之れを聽(ゆる)す。

   *

「王安豐」は、かの「竹林の七賢」中の最年少者である王戎(おうじゅう 二三四年~三〇五年)のこと。三国時代から西晋にかけて、魏・晋に仕えた軍人政治家。「婦」は妻、「壻」は夫。「卿」は当時の中国では、昵懇の者への信愛を込めた呼称、或いは同輩以下の者に対する親しみを込めた呼称であり、ここは「あなた」とか「あんた」とかの意となる。日本語の「卿」とは異なるので注意が必要。

「阿部松陰」「公益社団法人新宿法人会」公式サイト内の「新宿歴史よもやま話」の第七十九回の「灌楽園――松岡藩下戸塚村抱屋敷(5)」の記載の中に、『寛政二(一七九〇)年、松平定信による寛政改革の一環として幕府は朱子学を正学とし、他を異学とする異学の禁、ついで九年の幕臣やその子弟を教育する機関を昌平坂学問所(官学)と決めた。したがって、昌平坂学問所に関係または影響を受けた漢詩を嗜む人たちを官学派詩人といわれた』。そうしたグループの一つとして『文政五(一八二二)年十二月二十六日』に『関口龍隠庵で詩会氷雪社が結ばれた。参加したのは山内穆亭・設楽翠巌( 篁園門下、名能潜、通称八三郎、のち代官、勘定吟味役、先手鉄砲頭〔組 屋敷は住吉町〕と進む)・中村秋浪・石川柳渓(名澹、字若水、通称次郎 作、昌平校助教、牛込宝泉寺葬、現中野区上高田)・石川秋帆(柳渓の 弟)・拝石・川上鱗川・石川練塘・阿部松陰・内山一谷・鈴木桃野ら。遅れて楢原景山(如茂、表右筆、屋敷は四谷から牛込白銀町)・南圃・木村裕堂(友野霞舟の女婿、学問所吟味に及第して勤番組頭)も加わる。評者は野村篁園・植木玉厓・友野霞舟。龍隠庵は都電早稲田終点駅から程近い現在の椿山荘西側、胸突坂下の芭蕉庵である。篁園は風流絶佳の地として『龍隠庵賞月賦』を作詩している。なお、これより以前であるが、大田南畝もまた竜』(ママ。以下も同じ)『隠庵での佳日(七月七日、九月九日)の詩会七回の記録を残し、その中の『竜隠庵に会する記』に「竜蛇の潜伏する所なり、門を敲きて入り、曲徑の紆余する有りて、庵に上る」と記している』(下線太字やぶちゃん)と出る。「阿部松陰」でヒットするのはこの一ページのみである

「組下」既出条に登場する人物(親族・友人)の多くは先手組であるから、それと考えてよい。

「松陰、死して今十一星霜を經たり」本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるが、この記事のみ、特異的に次の一行でクレジット記載があって「嘉永二年三月六日」とあるから、記事記載時制は一八三八年と確定され、この桃野の学友・詩友であった阿部松陰は、天保九(一八三八)年に亡くなっていることが判る。冷静な桃野にして、極めて珍しく、ここでは記末に「嗚呼」と歎き、情感を露わにしており、今までにないクレジット追記の添書きも非常な感傷に満ちているではないか。彼の松陰への信愛の強さが伝わってくる。]

2018/09/09

反古のうらがき 卷之二 覺へ誤り

 

    ○覺へ誤り[やぶちゃん注:ママ。]

 或醫師、和蘭(おらんだ)の藥を用ゆるとて、藥名「ソツピル」といふを誤りて「ソツタレ」といゝき。異國の辭(ことば)は覺ゆるにかたくて、おゝくは物によそへて覺ゆることなれども、やゝもすれば覺へ誤りて、ひがこといふもの、おほし。此くすしの覺へ誤りしは何にかよそへしより誤れるといふに、諺に「いひかひなきもの」を「クソツタレ」とも、又、「クソツビリ」ともいふ。是によそへしをあやまりしかと思へば、ひと言(こと)の誤りも、其心のいやしきは、しらるゝ者ぞかし。予の素讀の弟子に、「喜怒哀樂」といふを「ロジ哀樂」と覺へ誤りしことありき。是等も、とわずして其よそへしことのしらるゝなり。

[やぶちゃん注:「ソツピル」梅毒に有効とされた軽粉(はらや:水銀の粉末。白粉(おしろい)にも用いられた)のこと。根本曽代子氏の論文「近代製薬工業発達の要因と背景」(史学雑誌一九七七十二巻第十二所収)(PDF)に)拠った。綴りは不明。

『「喜怒哀樂」といふを「ロジ哀樂」と覺へ誤りし』「キド」を「木戸」と宛て記憶しようとしたのを、木戸がある裏の「路地」の連想が自動的に働いてしまって「ロヂ」となってしまったものか。]

反古のうらがき 卷之二 雪隱

 

    ○雪隱

 或人、おゝやかなる館に行(ゆき)侍りて、夜に入(いり)てかわやに行けるが、其樣、いとひろびろとして、見なれぬことのみおゝかりければ、時經る迄、用足しなやみ侍りけるが、いとゞ内せまりて、こらふべくもあらねば、先(まづ)さし入て、内のさま、見侍りしに、備後疊(だた)み幾重か敷(しき)たる座敷に、黑漆もて塗(ぬり)たる板あり。取上(とりあげ)て見るに、切穴(きりあな)と覺敷(おぼし)くて、下に又、黑漆の板をはり、その中に大錢(おほぜに)程も有らんと覺ゆる、穴、有り。「是(ここ)に臀(いさらへ[やぶちゃん注:底本のルビ。])さし當て、其穴より用たすことにや」と思ひ侍れど、其間(そのあひだ)、六、七寸も隔たれば、首尾よくたれ果(はつ)べくも覺へ[やぶちゃん注:ママ。]侍らず。もみ尻して、やみけり。庭の柴垣のあたりに冬木の蔭ありて、いとたれよげに見へければ、ひそやかに其あたりに入てたれければ、知る人もなくて、すみけるにぞ。後、人に問(とひ)ければ、二重の蓋のよし、穴あるは下の蓋にて、手かけの所にてぞありける。

[やぶちゃん注:「備後疊み」備後表(びんごおもて)で張った畳。備後表とは、広島と福山両藩の備後地方の藺草(いぐさ)で織った畳表。主産地を形成する備後国(広島県)沼隈(ぬまくま)・御調(みつぎ)郡地方では、すでに天文・弘治年間(一五三二年~一五五八年)に引通表((ひきとおしおもて:途中で継がずに幅一杯に一本の藺草を通した上質な畳表)が織られていた。福島氏時代(一六〇〇年~一六一九年)の沼隈郡では二十七ヶ村で七百七十二機もの畳表織機があったという。毎年、三千百枚が幕府献上品とされ、畳表改役(あらためやく)による製品管理が厳重に行われた。福山藩主が水野氏になると、献上表は幕府買上げの御用表となり、正保四(一六四七)年には「備後表座」とよぶ独自の買上げ機構が設けられた。畳表生産の大部分を占める商用表は、国産第一の品として領外市場の信用確保のため、「九か条御定法」を定め、品質管理及び流通統制を厳重に行った。広島藩に於ける御調郡産の畳表も、藩は毎年一万枚を御用表として買い上げ、商用表は運上銀を納めて尾道(おのみち)町表問屋の手を経て、販売された。表問屋の金屋取扱いの畳表は、元禄一六(一七〇三)年で四万六千九百枚、宝永七(一七一〇)年には五万余枚となっている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「大錢」十文銭である宝永通宝の通称。しかしこれ、直径三センチ八ミリしかないんですけど……。

「臀(いさらへ)」「ゐさらひ(いさらい)」の転訛したもので、尻・臀部の意。しかも平安中期の辞書である源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚鈔」にも出る古い語である。

「六、七寸」十八~二十一センチメートル。二階から目薬ほどではないにしても……。

「たれ」「垂れ」。

「もみ尻して」自ずと適正確実にヒリ放ち垂れることがおぼつかず、遂に文字通り「尻」込みされて、という意味で採る。

「やみけり」用をたすのが文字通り「憚(はばか)られて」止めてしまったのである。

「いとたれよげに見へければ」「いと垂れ良氣に見へければ」。「ウン」、この気持ちは私にはよく判る。私は二十七年前、イタリアのローマのカンピドリオ広場でこのように物色し、妻を見張りに立てて、果敢に実行に移したことをここに自白する。無論、うまうまと「知る人もなくて、すみけるにぞ」であったのであった。]

反古のうらがき 卷之二 栗園

 

   ○栗園

 

[やぶちゃん注:個人的にしみじみと心打たれ、思わず目頭が熱くなった一話であるので、特異的に改行を多用し、空行及びダッシュやリーダ及びアスタリスクを挿入した。……私は確かに……千住の飲み屋での――名もなき猿引きと栗園と猿と別れのその場に――居た――そんな気が……するのである…………猿引きの口上が……栗園の三味のクドキが……演ずる猿の潤んだ眸が……思い出せるのだ…………

 

 予が友北雅(ほくが)君は、よく浮世繪をかき給ひて、おしえ子も多く侍りける、其中に――栗園(りつゑん)――といへる人ありけり。

 これもよく繪をかきて、常々、北雅君を訪ひ侍りけり。

 或時、同じ友、より合(あひ)て、酒、打のみたる時――猿引(さるひき)がはやしものする三味線――を、よく引(ひき)興じけり。

「いかゞして學びし。」

と問へば、

「……これは、おそろしく、かなしき事にて覺へ侍る。……故に、常には手にもとらねども……一生、忘るゝ事なく侍る。……」

よしを答へける。

 ふしぎのことなれば、人々、

「如何に。」

ととへば…………

   *   *   *

…………ある年、繪の修行とて、少しの蓄へをもちて、繪箱・紙筆・衣服の行李(こり[やぶちゃん注:底本のルビ。前にも注した通り、かくも読む。])など取持(とりもち)て、

「上方筋、修行せん。」

と立出(たちいで)けるに、先(まづ)、伊豆の溫泉に浴したるに、𤻗瘡(しつさう)夥(おびただし)く出來(いでき)て、立居(たちゐ)もならぬ程になりけり。

 こゝに逗留して其癒(い)ゆるをまつに、いやが上に出來て、二タ月餘りにして、漸く立居もなる程になりけり。

 其間に衣服も着破(きやぶ)り、たくわへ[やぶちゃん注:ママ。]も盡(つき)、繪の道具さへに賣盡し[やぶちゃん注:「に」はママ。]、湯本の飯代・藥用の料も多く積れり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行されてある。]

 扨、𤻗瘡も大に癒(いえ)たれば、主(あるじ)に向ひて、これ迄の介保(かいほう)を謝し、且は飯代・藥用料の高を問ふに、大(おほい)に積りて三兩餘りありて、償ひがたかりければ、

「繪をかき、あたへをとりて償ふべし。今少(いますこし)、養ひにあづかりたし。」

といへば、主、大によろこばず、

「君が繪、如何程の價にあたり侍るかはしり侍らねども、此あたり、左樣のことを好む人、さらになく、三兩の繪をかき玉はんには、一月、二月にて、事果(ことはて)侍らんや、また、幾月立(たち)ても望む人なき時は、一年、半年立(たた)んも斗(はかり)がたし。しかして三兩の償ひを取(とり)玉はんには、又、三兩斗(ばかり)の飯代、積るべし。かゝらんには、いつか、はつべきこととも覺へ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]侍らず。むしろ、當家の下男となりて壹年勤め玉はんには、給金、三兩進(しん)じ申(まうす)べし。これにて、先(まづ)、飯代を償ひ、扨、又、半年も勤め玉はゞ、路用・衣服等も見苦しからぬ程に出來申べし。其時、江に趣き玉へ。かく不仕合(ふさはせ)の人なれば、惡くは斗(はか)らひ申まじ。」

といゝけるにぞ、よに賴みなく、かなしき事、いわん方なくて、おぼへず、さめざめと泣けり。

 其時、隣り座敷に猿引の乞食ありしが、是を聞(きき)て、

「……よにあわれなる人なり。吾が教へに隨ひ玉はゞ、今日(こんにち)、二兩の飯代は、吾、償ひ進じ申べし。其譯(そのわけ)は、吾、去月(きよげつ)迄、壹人(ひとり)の三味線引(しやみせんひき)をぐしたるが、病(やみ)て死(しに)たり。其代りになり玉はゞ、われ、今より三味線を教へ、北國の方を𢌞り、江に趣くなり、されば、二つながら、便(たよ)りよし。枉(まげ)て吾(わが)意に隨ひ玉へ。」

といいけり[やぶちゃん注:ママ。]。

 それよりして、夜る晝るとなく、三味線を習ひたるに、一心の、こる所なれば、これ迄、手に取たることもなきことを、十日斗(ばかり)にして見事、引覺(ひきおぼ)へたり。

 扨、此猿引に隨ひ、北國、幾國となく𢌞りあるきて、江近く迄來り、千住宿にて酒うる家に入(いり)、扨、猿引、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「君は、かくいやしき態(わざ)し玉ふ人とも覺へ侍らねど、人も見しらぬ所にてのことなれば、くるしからず。こゝよりは定(さだめ)て辱(はぢ)玉ふことなるべし。衣服をかひて、改め着(き)玉へ。」

とて、金三分、與へけり。

 かたじけなさ、骨に答へたれば、伏し拜みて謝しおはり、扨、

「其許(そこもと)が故鄕はいづこ、名は何。」

と問ふに、

「名はこれ迄の通り――太夫――と斗(ばか)り呼びて、名、なし。故鄕といふも、さだかに定まらず、幼少より先(さき)の太夫とともなひ、諸國を𢌞りたれば、今、父母兄弟といふも、なし。たゞ、此猿一疋より外(ほか)、身より、なし。……いざ、一杯を酌(くま)ん。」

とて

……離(わか)れの杯(さかづき)を𢌞(めぐ)らし……

……心よく猿を舞(まは)し……

……はやしごとして……

吾(わが)名所(なところ)をも問はで、袖をはらひて、去りけり。……

…………

……其時覺へたる三味線なれば……死に至る迄、忘(わする)る事なし……酒のみ、打興(うちきやう)じたる時は、取出(とりいだし)て引(ひき)侍れども……引度(ひくたび)ごとに……淚のこぼれ侍る…………

   *   *   *

と、語りけるとなん。

 

【畫師栗園者平〻人耳不足傳表題改作太夫傳可也然非世信有此人蓋。[やぶちゃん注:以上は、底本本文の最後に頭書としてある。この主人公の絵師「栗園」の事蹟の一つを記したものと思われるのだが、私には意味は勿論、どう読んでいいものかさえ、さっぱり見当がつかない。識者の御教授を乞うものである。

[やぶちゃん注:「北雅」底本の朝倉治彦氏の注に『姓は寺門と(『香亭雅談』による)』とのみある。不詳。因みに、江戸後期の富川房信及び葛飾北斎の門人に、葛飾北雅(かつしかほくが 生没年不詳)なる浮世絵師がおり、彼の本姓は「山」である。ちょっと気になったので、言い添えておく。

「猿引(さるひき)」猿回し。ウィキの「猿まわし」より引く。『発掘された粘土板に書かれた楔形文字から』四千五百『年前のメソポタミア文明に猿回しが職業としてあったことがわかっている』。『猿を使った芸は日本へは奈良時代に中国から伝わったとされている。昔から馬の守護神と考えられてきた猿を使った芸は、武家での厩舎の悪魔払いや厄病除けの祈祷の際に重宝され、初春の門付(予祝芸能)を司るものとして、御所や高家への出入りも許されていた。それが室町時代以降から徐々に宗教性を失い、猿の芸のみが独立して、季節に関係なく大道芸として普及していった』。『インドでは賤民が馬と共に猿を連れて芸を見せるという風習が有った』。『江戸時代には、全国各地の城下町や在方に存在し、「猿曳(猿引、猿牽)」「猿飼」「猿屋」などの呼称で呼ばれる猿まわし師の集団が存在し、地方や都市への巡業も行った。近世期の猿引の一部は賤視身分で、風俗統制や身分差別が敷かれることもあった。当時、猿まわし師は猿飼(さるかい)と呼ばれ、旅籠に泊まることが許されず、地方巡業の際はその土地の長吏』(穢多又は非人・非人頭を指すが、その範囲は地域によって差異があった)『や猿飼の家に泊まらなければならなかった』。『新春の厩の禊ぎのために宮中に赴く者は大和もしくは京の者、幕府へは尾張、三河、遠江の者と決まっていた』。『猿まわしの本来の職掌は、牛馬舎とくに厩(うまや)の祈祷にあった。猿は馬や牛の病気を祓い、健康を守る力をもつとする信仰・思想があり、そのために猿まわしは猿を連れあるき、牛馬舎の前で舞わせたのである。大道や広場、各家の軒先で猿に芸をさせ、見物料を取ることは、そこから派生した芸能であった』。『明治以降は、多くの猿まわし師が転業を余儀なくされ、江戸・紀州・周防の』三『系統が残されて活動した。大正時代に東京で廻しているのは主に山口県熊毛郡の者だった』。『昭和初期になると、猿まわしを営むのは、ほぼ山口県光市浅江高州地域のみとなり、この地域の芸人集団が全国に猿まわしの巡業を行なうようになった』。『猿まわし師には「親方」と「子方」があり、子方は猿まわし芸を演じるのみで、調教は親方が行なっていた』。『高州の猿まわしは、明治時代後半から大正時代にかけてもっとも盛んだったが、昭和に入ると』、『徐々に衰え始める。職業としての厳しさ、「大道芸である猿まわしが道路交通法に違反している」ことによる警察の厳しい取締り、テキ屋の圧迫などから』、昭和三十年代(一九五五年~一九六四年)に『猿まわしは』一旦、『絶滅した』。しかし、昭和四五(一九七〇)年に『小沢昭一が消えゆく日本の放浪芸の調査中に光市の猿まわしと出合ったことをきっかけに』、昭和五三(一九七八)年に「周防猿まわしの会」が『猿まわしを復活させ、現在は再び人気芸能となっている』とある。

𤻗瘡」湿疹。全身性で発熱もあったと考えてよいようだから(「立居(たちゐ)もならぬ程」とはそれを感じさせる)、ウィルス性のものか、又は、アトピー性の重いものだったのかも知れない(旅に出て直ぐに発症しているのは、何らかの強力なアレルゲンによるものの可能性を否定出来ない。或いは、あにはからんや、その逗留した温泉の成分が原因であった可能性も否定出来ない。とすれば、それに馴化するのに二ヶ月かかったというとんだ話となるわけである)。但し、予後は悪くなかったようだ。

「介保(かいほう)」「介抱」の当て字。但し、「介抱」の歴史的仮名遣は「かいはう」となる。

「三兩餘り」江戸後期の一両は米価換算で三~五万円相当。

ありて、償ひがたかりければ、

「繪をかき、あたへをとりて償ふべし。今少(いますこし)、養ひにあづかりたし。」

といへば、主、大によろこばず、

「はつ」「果つ」払い終わる。この温泉宿の主人の言っていることはしかし、総て尤もなことである。

「去月(きよげつ)」先月。

二つながら、便(たよ)りよし」お前さんと私にとって、これ、都合がよい。

一心の、こる所なれば」「こる」は「凝る」。この温泉宿で一年もの下男などして暮らすわけには自分の節として納得するわけには行かない。されば、賤民の仕儀とはいえ、三味線弾きに身をやつして見たこともない奥州の地を行くも、絵画の修行と心得れば、絶えられもしようし、この猿引きの謂いが正しいならば、半年ばかりもすれば、江戸へ帰ることが出来るようだし、そのときにはそれなりの金も溜まっているかもしれぬ、といった各個的予測を並べてみた結果として、猿引きの誘いに乗ることに決し、そのために一心に三味線の修行に勤しんだことを、かく言っているのである。

千住宿」芭蕉が「奥の細道」で最初に泊まっていることから判る通り、奥州街道(正しくは「奥州道中」と呼ぶ)の日本橋から一番目の宿場町で江戸四宿の一つであった。

「かひて」「買ひて」。

「金三分」一分(ぶ)は一両の四分の一。]

反古のうらがき 卷之二 獵師

 

   ○獵師

 武藤孫之丞といへる人は、英雄の大力なりしが、家の養子、亂心して、後(あと)へより腹迄、刀にて突拔きたれども、殊(こと)ともせず、取(とつ)て控(おさ)へ、いましめたり。扨、刀は其儘置て、目釘を拔(ぬき)、つかまへをはづし、前の方へ拔取らせ、療用せしに、不日にして癒けり。かくせざれば、血、胴に落入(おちいり)て、療用、六づケ敷(むづかしき)よし、自(みづ)から言(いひ)けり。されども、惡虐、增長して、人を殺す事も多かりけるよしにて、甲府勝手小普請となり、其孫、孫之丞、畫名(ぐわめい)「竹石」といふ人、御免にて、江に出たり【不山門人、武藤定五郎の父を「石樹」と云(いひ)、「竹石」は非なり。[やぶちゃん注:これは本文割注ではなく、この箇所の頭書である。]】。

 其人の話に、甲府はおそろしき所といへば、誰(たれ)もしる所なれども、其中、人氣(じんき)のたけきこと、一事(ひとこと)にて推(おし)て知るべきことあり。

 獵師の獸を取(とる)は、何れの國にても、多く矢玉を用ひずして打取(うちとる)を上殺(じやうせつ)とするならひなるに、此國にては、左にあらず、少しよわりたるを生取(いけど)るを上殺として、直(ただち)に打殺したるをば、大(おほい)に笑ふ事なり。如何にとなれば、獵師の山に入(いる)は、二里、三里、山坂峻阻をふることは常なり。猪鹿に限らず、十貫廿貫の重きものを、人を雇ひ荷ひ來(きた)る事、煩勞(はんらう)なれば、自身に步ませ連來り、扨、打殺(うちころ)すとなり。故に武士などの山がりに行て、一玉に打殺荷ひ來るを見れば、大に笑ふゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、自然(おのづと)、獵師にあらざる人も、生(いき)ながら引來るを手柄とする習ひなり。

 扨、其打樣(うつさま)は、猪鹿ともに、犬をかけ、かり出し、其間合(まあひ)を見て、手・足・首・胸等の所をよけて、一玉、打留(うちとめ)、所謂、手負となし、荒れ𢌞る所を、かけ寄りて組取(くみとる)なり。或は急所をよけて薄手なれば、常の時とかわらず[やぶちゃん注:ママ。]、猛きこといふ斗なし。されども本より手取になすべき心得なれば、ことともせず、但し、一玉、打留ざれば、捉(とら)ゆる[やぶちゃん注:ママ。]によしなければ、無ㇾ據(よんどころなく)打留(うちとむ)るのみ。たゞ急所に當り死(しな)んことを恐るゝといへり。故に組合(くみあふ)時、上に成り、下に成り、或は疵を蒙ることもあれども、數里の路を荷ひ來るより恥とせず、死力を出(いだ)し、組伏せて繩をかけ引來り、扨、家に來りて後、打殺すを手柄とするよし。かゝる危險なることをおかし[やぶちゃん注:ママ。]、手柄とするは、益なきことなれども、人氣の猛き所斗(ばか)り、古への風(ふう)ありて、なり。「竹石」といふ人も英雄の後なれば、ふつう人(じん)より、心も猛くあるよしなれども、此國の風には大におそれたる、といへり。

[やぶちゃん注:禁欲的に改行を施した。

「武藤孫之丞」不詳。

「刀は其儘置て、目釘を拔(ぬき)、つかまへをはづし、前の方へ拔取らせ、療用せし」誤解されて困るが、この乱心した養子に武藤孫之丞が背後から腹部にかけて、刀を突き通されたのである。突き通されたままで、その養子を捕って押さえて組み伏せ、縛り上げたというのである。しかも、その後、刀を背後から抜かせたせず、柄の目釘を抜かせて、刀身だけにした上で、刃先に革などを巻かせて、前方へ引き抜かせというのである。想像するだに凄絶にして「イタイ!」。

「不日にして」日数をあまり経ずに。直に。

「血、胴に落入(おちいり)て、療用、六づケ敷(むづかしき)」後ろに引き抜く場合と、前に刀身のみを引き抜く場合とでは、内臓その他への損傷の容態は違いがあるとは思う。前者では、引いて斬るように作られている刀剣類の場合、新しい別な創傷が発生し、損傷がより拡大する感じは感覚的には高まるようには思われ、胴体の内部(内臓)に激しい出血が起こるというのは、何となくは判るようには思われる。

「されども、惡虐、增長して、人を殺す事も多かりけるよしにて」ちょっと判り難いが、主語はその乱心した養子であろう。乱心が公に知られれば、その場で、その養子は罰せられてしまうから、元祖の武藤孫之丞は秘密裏に処理した。しかし、その後もその養子の乱心は悪化し、複数の殺人に関わってしまったとかで(しかしそこで厳罰には処されていないから、これも上手く処理されたものであろう)、という意味で採っておく。

「甲府勝手小普請」あまり理解されているとは思えないので、一言言っておくと、甲府勤番(江戸幕府の役職で、江戸中期に設置され、幕府直轄領化された甲斐国に常在して甲府城の守衛・城米管理・武具整備及び甲府町方支配を担った)となるということは、実は実質上の処罰的左遷人事であり、別名を「甲府流し」と称したのである。例えばウィキの「甲府勤にも『甲府勤番は元禄年間に増加し』、『幕府財政を圧迫していた旗本・御家人対策として開始されているが、旗本日記などには不良旗本を懲罰的に左遷したとする「山流し」のイメージがあり、「勤番士日記」にも勤番士の不良旗本の処罰事件が散見されている』とあり、さらに『老中松平定信が主導した寛政の改革においては、不良幕臣対策として甲府勝手小普請が併設され』ている、とあるのである(下線太字やぶちゃん)。私の「耳囊 卷之九 賤妓孝烈の事」を参照されたい。則ち、当時のかぶいた旗本連中(特に次男以下)にとって甲府勤番を命ぜられることは、生涯、江戸に戻ることも出来ぬ、致死的窓際族を命ぜられることに他ならぬ、〈恐怖の人事〉、流刑に等しいものであったのである。それを何とか食い止めるために、実父や兄などは賄賂を用いたりもしたのである。

「其孫、孫之丞」乱心者の養子には子がおり、それが祖父の名を継いだのであろう。「御免にて、江に出たり」とあるから、この孫は、父(乱心者の養子)の甲府勝手小普請を継いだものの、幸いにして御役を解かれ、江戸へ戻ることが出来たという意で私は採る。ただ、ここで面倒臭いのは、その孫の孫之丞は絵もよくし、画号を「竹石」と言ったと、桃野は書いたが、恐らくは後の誰かが、そこに頭書(かしらがき)して補正注を入れ、――「不山」(不詳)という絵師の門人に「武藤定五郎」(不詳だが、武藤孫之丞の通称と採るほかはない)「の父」なる者がおり、その画号は「石樹」であって、この本文にある「竹石」というのは誤りである――と書いたのである。正直、この話を読む今野読者にとってはどうでもいいことなのではあるが。

「其人の話」迂遠である。この以下の話をしている「その人」とは、

①豪傑武藤孫之丞

の養子で

②乱心して甲府勝手小普請にされたトンデモ男

の実子で

③武藤定五郎と名乗り、画号を「竹石」(頭書によれば「石樹」の誤り)と言った武藤孫之丞

③の人物であるということである。

「人氣(じんき)のたけきこと」甲府人の気性の「猛(たけ)き」ことと言ったら。

「一事(ひとこと)にて」以下の狩猟方法の節操一つをとってみて。

「ふる」「經る」。行く。

「十貫廿貫」三十七・五~七十五キログラム。

「自身に」大猪や大鹿自身に。

「山がり」「山狩り」。]

反古のうらがき 卷之二 狐

 

   ○狐

 はるの日、長き頃、王子稻荷のあたりに、花見る人多かりける、「裝束榎(しやうぞくえのき)」といへるは、稻荷の祠より、北、四、五町隔りて、田の中にあり。是なん、

「歳(とし)のつごもりに、狐ども、寄合(よりあひ)て狐火たくとき、此榎のもとにて、裝束改(あらたむ)る。」

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]つたへたる所なり。

 此あたりは、つくづくし・たんぽゝなど、多く生出(おひい)で、飛鳥山の花見る人のかへるさに、立寄りて遊ぶ人も多かり、亦、酒に醉(ゑひ)たる人などは、此邊にて狐にたぶらかされ、食物など奪はるゝ者も、まゝありける。

 ある日、壹人の侍有りて、黑き縮緬(ちゞり)の羽織高くかゝげ上(あげ)て腰にはさみ、大小(ふたふり)の刀、おとし差(ざし)にして、衣のすそ高くかひまくりて、深田の中をあちこちと行けり。

 見る人、

「こは、ふしぎの人也。定(さだめ)て、狐にばかされたるらん。あな、笑止のこと也。」

など、いゝあへり。

 此侍、あたりに人あるもかへりみず、ひたもの、田の内を行かへり、又は立止りなどしける。

 此あたりの田は人の膝より深く、殊に春の水をせき入れたれば、もゝのあたり迄、踏込(ふんごみ)たり。

 田の主、見つけて、これを制(とゞめ)せんとするに、餘りに立派(ひとがらよき)の侍なれば、下人の如く、しかりのゝしるも如何(いかが)なり、しばし立(たち)て其樣を見るに、實(げ)にもゆめ心にみへたれば、遙に聲をかけて、

「御侍は、先程より、そゞろなることなし玉ふ。定めて狐の見入(みいり)たるならん。はやばや、眞心(まごころろ)に立歸り玉へ。魚類など持(もち)玉はゞ、はやばや、打捨玉へ。」

など、告(つげ)さとしけれども、折ふし、南風の少し吹(ふき)たるに、風に逆らひて聲の通じ兼たるに、田の面(おもて)二十間斗(ばかり)も隔たれば、唯、聲のみ聞へて言葉の分り兼たるにや、唯、こなたへ打向ひて、

「今しばし、許し玉へ。」

といゝて、再び、かへりみだにせざれば、

「こは、いよいよ、狐の見入たるに相違なし。あら、笑止々々。」

といふまゝに、打どよめきてのゝしりけり。

 是を見る人、日の暮るゝもしらず、田のまの細道、打めぐりて、男女(なんによ)おし合(あひ)、或は田のくろ踏(ふみ)はづし、足腰、泥にまみるゝなどするも、多かりけり。

 しばしありて、侍は、田の水の淸きあたりにて、足に付きたる泥沙(どろすな)、あらひ落し、淸らかなる手拭、取出で、面より手足迄洗ひて、衣のたもとよりは藤くらの草履、取出(とりいで)て足にはき、こなたの方に向ひ來る。

 人々、

「扨こそ、心付たるよ。又、如何にするやらん。」

などいひて、打圍(うちかこ)みて見るに、侍もおどろき、

「人々は、初(さき)より何をか見玉ふ。吾も先程より心を付て見るに、人々の見玉ふ物の目に入らざれば、今、態々(わざわざ)こゝに來りて問ひ侍るなり。」

といへば、人々、大(おほい)に笑ひて、

「いよいよ狐にたぶらかされしに疑ひなし。吾が輩何をか見ることの外にあらん、其許(そこもと)が、先(せん)より、田の内、あちこちと狂ひ玉ふ樣(さま)、狐の見入たるに疑なければ、扨は打寄て見侍るなり。今は心も付(つき)て泥より出(いで)玉ひたるかと思へば、猶、又、そゞろ言(ごと)の玉ふは、如何に。はやばや、心を付(つけ)玉へ。」

といふに、侍、打笑、

「扨は、さることありけり。吾は兩の足に雁瘡(がんかさ)といふ惡瘡ありて、如何(いかに)療治すれども、癒へず。さる醫のおしへけるは、『春の頃、田の内に入(いり)て、蛭(ひる)に血をすわする[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]が妙也』といふに任せて、先(せん)より蛭のおらんあたり、あちこちもとめて、こゝろの儘に血を吸わせ侍る。今は心地もよく、痒味(かゆみ)も少し忘れたれば、一度(ひとまづ)家に歸り、又の日、來りてかくせんと思ひ侍る也。そを狐に見入られたると誤り玉ふ人々は、ことわりに似たれども、他人のする態(わざ)、とくとも見定めで、一圓(いちゑん)に狐にたぶらかさるるよとて、多くの人々、今、日のくるゝ迄、推合(おしあひ)て見玉ふは、かへりて、狐に見入られたるに似て見え侍るなり。はやばや歸り玉へ。此あたりは日暮より實(げ)に狐の害あり。吾は、ほとり近き所のもの也。さらば、いとま申さん。」

とて、先に立て歸りければ、人々、面目なくて、各々ちりぢりに歸(かへり)けるとなん。

[やぶちゃん注:擬似怪異滑稽譚。構造や展開に如何にもな作話性を感じるが(特にオチの武士の台詞はまさに落語である)、あったとしてもおかしくない。怪異否定派の現実主義者桃野にして、会心の話柄ではあろう。

「王子稻荷」落語「王子の狐」でも知られる、現在の東京都北区岸町にある東国三十三国稲荷総司とする王子稲荷神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「王子稲荷神社」によれば、『荒川流域が広かった頃、その岸に鎮座した事から名付けられた。また、治承四』(一一八〇)『年に源頼朝より奉納を得たという』。『徳川家康が王子稲荷、王子権現、両社の別当寺であった金輪寺に宥養上人を招いて以降、江戸北域にあって存在を大きくした』。「江戸砂子」(俳人菊岡沾涼の著になる江戸の地誌及び案内書でムック本のはしり。享保一七(一七三二)年刊)の『王子稲荷の段に』は『以下の』ように『記されている』。

『狐火おびただし、この火にしたがひて、田畑のよしあしを所の民うらなふことありといふ』。

『狐火にわうじ田畑のよしあしを知らんとここに金輪寺かな』

『年毎に刻限おなじからず、一時ほどのうちなり。宵にあり、あかつきにありなどして、これを見んために遠方より来るもの空しく帰ること多し、一夜とどまれば必ず見るといへり』。

『毎年大晦日の夜、諸国のキツネ、社地の東、古榎のあたりにあつまり、装束をあらためるといい、江戸時代、狐火で有名であった』(下線太字やぶちゃん)。『「関東八州」の稲荷』『の総社と観光紹介されるようになっているが、元来は東国三十三国の稲荷総司の伝承をもっていた』。『社伝には「康平年中』(一〇五八年から一〇六四年)、『源頼義、奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司とあがむ」とある。この「関東」を中世以来』、『別当寺金輪寺は、陸奥国まで含む「東国三十三国』『」と解釈してきた。「三拾三ケ国の狐稲荷の社へ火を燈し来る」との王子神社の縁起絵巻「若一王子(にゃくいちおうじ)縁起」(紙の博物館蔵)の付箋』『が示す通り』、『江戸中期までは神域に「東国三十三国」の幟、扁額を備えていた』。「寛政の改革」(天明七(一七八七)年~寛政五(一七九三)年)『時に幕府行政の上からの干渉を受けて以降、関八州稲荷の頭領として知られるようになった』。『「三十三国」とあるが、北陸道・東山道・東海道を全部あわせても東国は』三十『国しかない』。三十三『という数字は全令制国の合計』六十六『国を半分にした観念的な数字とする説、平安時代までに廃止された諏訪国・石城国・石背国を加えたものとする説、当時「蝦夷ヶ島」と総称された渡党(わたりとう)・日本(ひのもと)・唐子(からこ)を加えたとする説などがある』とある。「花見る人多かりける」と本文にあるように、桜の時節には特に賑わった。

「裝束榎といへるは、稻荷の祠より、北、四、五町隔りて、田の中にあり」知られた歌川広重の「名所江戸百景」の「王子裝束ゑの木大晦日の狐火」の絵のそれ(リンク先はウィキの「王子稲荷神社」のもの)。「四、五町」は約四百三十七~五百四十五メートル半。しかし、夢見る獏氏のブログ「気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録」の「装束榎の大晦日の狐火 (江戸の歳時記)」を見ると、現在の「装束稲荷神社」について、『装束榎が切り倒された跡、装束榎の碑が、もとあった場所から北西に』六十メートルの『ところに移され』たものとある。それはここ(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)なのだが、「夢見る獏氏」のここでの叙述に従って『装束榎が切り倒された跡、装束榎の碑が、もとあった場所』を探ると、この「柳田公園」の北西の交差点位置となって、ここは王子稲荷神社からは真東で、四百七十六メートルで(但し、氏は別に旧装束榎があったの『王子駅近くの北本通りの』『交差点の真ん中あたり』であったとされ、昭和四(一九二九)年の『道路拡張のため切倒されてしま』ったと記しておられる。推理するに、私が示した「柳田公園」から西へ二ブロックのの交差点であるが、ここは王子稲荷神社からはもっと短くなってしまう)、位置がおかしい。そこで「江戸名所図会」なども調べて見たのだが、この装束榎の位置は実ははっきりとは書かれていないのであった。されば、桃野の「北、四、五町」も怪しく、結果、この「夢見る獏氏」の考証が総合的に最も信頼の措ける物のように私には思われた

「つくづくし」土筆。

「飛鳥山」王子稲荷神社の南東直近にある、現在の飛鳥山公園(グーグル・マップ・データ)。享保年間に行楽地として整備された。今も桜の名所である。

「おとし差(ざし)」刀を無造作に、垂直に近い形で腰に差すだらしない差し方を言う。

「ひたもの」副詞。「いちずに・ひたすら・やたらと」。

「そゞろなること」なんともわけの判らぬこと。

「二十間」三十六メートル強。

「田のま」「田の間」。

「くろ」「畔」。畦(あぜ)。

「藤くらの草履」「藤倉草履(ふぢくらざうり)」のこと。草履(ぞうり)の一種で、表を藺(い)で編み、白・茶などの木綿の鼻緒を附けたもの。単に「ふじくら」とも呼んだ。

「吾が輩何をか見ることの外にあらん」吾らが何を見ていたかは、お武家さま、以外に誰を外に見ようはずが御座いましょうや。

「雁瘡(がんかさ)」慢性湿疹或いは痒疹(ようしん)の一種。非常に痒(かゆ)く、難治性。かつては、秋、雁の来る頃から発症し始め、去る春頃には治ったことから、かく称した。

「田の内に入(いり)て、蛭(ひる)に血をすわする」既注であるが再掲しておくと、本邦の淡水棲息する成体で、ヒトから吸血するヒルは、ヒルド科 Hirudidae ヒルド属チスイビル Hirudo nipponica である。

「一圓(いちゑん)に」副詞。ここは武士の行動「総体について」の意ではなく、集まった人々「総てが皆」の謂いであろう。]

2018/09/08

原民喜 望鄕 (オリジナル詳細注附)

 

[やぶちゃん注:昭和一八(一九四二)年五月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。

 なお、第二段落にある伏字『□□□□』は底本のママである。初出誌を見ることが出来ないが(『三田文学』は原本画像が限定公開されているが、大学・研究機関に所属する者にのみに閲覧許可が下りる甚だ差別的で不当な設定である。日本の文学研究のレベルの低さがよく判る)、無論、同じであろうと思われる。当然、筆者自身による伏字と考えられる。

 また、この伏字の主である主人公の「叔父」であるが、太平洋戦争は既に昭和一六(一九四一)年十二月八日未明(日本時間)に開始されており、その当時、この主人公の叔父はアメリカ合衆国(或いはカナダ)の在留邦人であったと考えられる。「神戸大学経済経営研究所」の「新聞記事文庫」の『大阪毎日新聞』の昭和一八(一九四三)年四月十八日附(本篇が発表される前月)の「米加在留邦人状況 外務省事務室の調査報告」によれば、『現在敵国に在留する邦人総数は約五十七万に達し、そのうち抑留されているもの一万三百、集団移住生活者は十三万らに上っている、米国およびカナダの邦人に関してはこのほど詳細な調査が出来たので十七日同事務室から別表の』如き『報告が発表された』とあって、詳細な数値が示されてある。されば、この太平洋戦争での本邦の敵国となっていたアメリカでの邦人抑留者の中に「叔父」は入っていたという意味であることが判る。

 さらに言い添えておくと、原民喜の父信吉は広島市幟町で陸海軍用達の原商店を経営しており、彼の五男であった民喜の上には、三男の信嗣(後に家を継いでいる)と四男の守夫の二人の兄がいた(守夫とは中学時代に同人誌を作るほど馬が合った。長男と次男は夭折)。この事実は、本篇で入れ子構造になっている作品内小説(断片)の人物設定と非常に強い親和性(モデル性)を感じさせる。さすれば、この叔父も実在し、原商店で働いた事実があり、その後、アメリカに渡り、この時、アメリカで抑留されていたのかも知れない。父方か母方は不詳だが、全体を通して読むと、兄の一家と若い時には一緒にいたこと、主人公の姉の死に激しい悲痛を感じていることなどから推すと、主人公の父の弟であるように私には思われる。

 当初、以上以外にも簡単な読解に不可欠な必要最小限の注を附すつもりであったが、考証を重ねるうちに量が増えてしまい、しかも本文の細かな内容に触れる(ネタバレを含む)ことにもなったため、最後に別に注を附すこととした。

 一箇所だけ先に注しておくと、太字で示した「きつぼ」は底本では傍点「ヽ」なのであるが」、これは「きっぽ」で、「傷跡」、則ち、「傷口が盛り上がって跡が残った状態」を指す広島弁である。

 なお、二度目の有意な作品内小説の引用(⦅ ⦆で囲まれてある)の後は、底本では改ページとなっており、一ページ行数を数えると、行空けは施されていないことが判る。しかし、第一回目の引用の後は、同じように底本で改ページでありながら、行数を数えると、間違いなく一行空けが施されてある。一番良いのは、初出誌を確認することであるが、前に述べた通りで、私にはそれが出来ない。そこで――取り敢えず――先例に徴して――一行空けを施した。しかし、これは本篇の中に現われる〈ある現象〉との関連性が疑われ、或いは、原稿でも初出でも行空けは施されていないのかも知れない。これについては最後の最後に別に注することとした。]

 

 望鄕

 

 靜かな朝であつた。春はまだ淺く、日曜日の朝であつた。――それを彼は部屋に坐つてひとり意識してゐた。ずつと、むかうの方に、しかし、ただならぬものがある。そこにも、朝の光は降りそそぐであらうか。もの音はきこえるであらうか。その老いたる胸にはどんな感慨がたぎつことだらうか。

 ――叔父の面影を描かうにも、あまりに隔たるものが重なつてゐた。しかし、たしかに叔父は敵國の收容所で、身に降りかかるものを峻拒するが如く、毅然とした姿でゐる。さうして、大きな運命に身を委ね、自らの胸に暗淚を抑へてゐるにちがひない。不思議と彼には叔父の感情が解るやうな氣がした。さつき、何氣なく朝刊の抑留邦人の氏名を見てゐると□□□□といふ活字が彼の目に大きく觸れた。やはり、さうであつたのか、と彼は感慨にゆらぐ心を、じつと視凝めるのであつた。

 それにしても、叔父は今、幾歳になつたのだらうか……と彼は自分の齡をまづ顧みねばならなかつた。彼自身も今はもう若いといふ齡ではなかつた。……ずつと前から、彼は幼年時代の記憶をもとにして、短篇を書いてゐた。明治末の鄕里の景色をくどいまでに描寫することに、何か不思議な情熱を覺えるのであつたが、容易に筆ははかどらず、まだ一册の本にもならなかつた。しかし、少し前までは、彼はその本が出來上つたなら、一册はアメリカの叔父に送るつもりでゐた。二度ほど歸國したことのある叔父は、その度に鄕里の街を貪るやうに步き𢌞つてゐた。叔父なら、――ごたごたした過去の描寫も喜んでくれさうに思へた。

 

⦅簿記の棒を弄つてゐた叔父が、突然、机の上の戸棚へ意氣込んで掌を觸れた。秋夫はその動作を待ち兼ねてゐたのだ。しかし叔父は今ランプを引寄せると、ゆつくり戸棚の中を搜してゐる。叔父はなかなか見つけ出さないので、秋夫は少し心配になる。「あ、さうだつた」叔父は腰掛から立上つて、机の橫の抽匣を開いた。「ほら、どうだ」と、叔父は一枚の大きな紙を秋夫の前に突附けた。すると、秋夫の眼はそれに吸ひ着けられたまま動かない。そこには、赤・黃・紫・綠・何十種類の切手が縱に橫に斜に重なり合つて犇いてゐるのだ。秋夫はわくわくして眺め入つた。

「皆に見せてやらう」と、叔父は秋夫の手から紙片を取上げて、應接間の方へ行く。そこには大きな火鉢を圍んで、父や姉や兄や店員達の顏があつた。今、皆の目は一勢にその紙に集中されてゐる。――秋夫は叔父が前から舊い手紙の封筒に貼られた切手を鋏で捩取つて蒐めてゐるのを知つてゐた。消印のところは巧く重ね合せて隱し、大きな紙に貼り附けてみるのだと叔父は云つた。秋夫はそれが出來上る日を待ちつづけた。そして、今、立派に出來上つたそれは、てつきり自分が貰へるものだと思ひ込んでゐた。しかし、叔父は人に見せびらかすばかりで一向に呉れさうな氣配がない。「呉れよ」と兄の春彦は叔父の方へ手を伸した。「呉れよ」と秋夫も叔父に迫つた。ところが叔父はそれを高々と頭の上に翳して、片手を振つた。「ただではやれない、五拾錢、五拾錢でなら讓らう」秋夫は茫然として、叔父の姿を見上げた。すると、彼の側にゐた店員が蟇口を開けて、銀貨を一枚取出した⦆。

 

 彼の未完結の作品の一節にこんなところがある。彼は五拾錢銀貨を摘み出した店員が誰であつたかも、その紙片を貰へたものであつたかも、そのあたりの記憶はぼやけてゐるのであつたが、ただ、叔父の意氣込んで、子供をからかふ時の姿がはつきり浮ぶのだつた。

 叔父が父の店へ手傳に來るやうになつたのは、一年志願の兵役を濟してからであつたが、秋夫の記憶にも、軍服を着た叔父が、庭の飛石傳ひに、緣側の方へやつて來る姿が仄かに殘つてゐる。幼い彼は緣側で叔父にきつく抱き上げられたやうな氣がする。さういふ時も、叔父は何か意氣込んで、子供の氣持を高く引上げようとするやうだつた。

 しかし、それ以前の叔父の姿となると、古い寫眞の記憶と母からきいた話によるほかはない。商業學校の卒業紀念に撮つたらしいその寫眞は、細面のすつきりした靑年の姿であるが、右の頤のところに小さな絆創膏が貼つてある。叔父は頤のところにきつぽがあるのを氣にして、いつも絆創膏を粘つてゐたといふ。そんなお洒落ではあつたが、あんまり色が白いため學校で揶揄されるのを口惜しがつて、何時も物乾臺に登つて、天日で皮膚を焦がさうとした。母はよくこんな話を繰返した。彼はかすかにカオールの匂ひを思ひ出した。若い日の叔父が常に愛用してゐた藥である。

 

⦅その日――秋夫は兄の春彦と一緖に叔父と戲れてゐた。叔父は白いシヤツをまくり上げて、拳固を振𢌞したり、草履で廊下を踏み鳴して、二人を追拂つた。逃げては進み、逃げては進みしてゐるうちに、秋夫も春彦ももう無我夢中であつた。

「惡い子供だな」と、ふと思ひがけぬところから叔父の尖つた聲がした。稻妻のやうに物尺が閃いて來た。わあ! と二人は緣側を轉ぶやうにして逃げて行つた。避難所まで來ると、秋夫は息が切れて、へとへとであつた。背後にはまだ眞赤な興奮があつて、暫く秋夫と春彦は棕櫚の葉蔭に弄つてゐた。「ようし、あれを歌つてやらう」兄の春彦が棕櫚の葉を弄りながら云つた。「いいか、靜かに、そろつと、知らない顏して行くのだぞ」

 暫くして二人はそろそろ店の方へ引返した。見ると、叔父はもういつもの顏附で椅子に腰掛けてゐた。二人は默つて、叔父の近くまで進んだ。それから春彦が合圖した。忽ち二人は琵琶を彈く手眞似で聲をはりあげて歌つた。

  屋島と北里 どちらがお好き ビ ビン ビン ビン ビン

 叔父はものをも云はず椅子から立上つた。柱にかけてある帶に叔父の手が觸れた瞬間、ガチヤリと異樣な音響がした。次いて硝子の破片がベリベリと崩れ落ちた。箒は商品棚の硝子戸に大穴を穿つてゐた。もの音を聞いて、父がやつて來た。叔父は奮然と無言のまま立つてゐる。

「一體どうしたのだね」父は訊ねた。

「どうしたと云つたつて、あんまり子供が腹立てさすから……」と、叔父の聲はひきつつてゐる。

「子供を相手にそれはあんまり亂暴ぢやないか」

 父は靜かにたしなめた。突然、叔父はワーツと大聲で泣き出した。秋夫は大人がこんなに號泣するところをまだ見たことがなかつた。その泣聲は何ものかと抗爭するやうにひしひしと續いて行つた。

「出て行きます、出て行きます、これを機會に僕はどうしてもアメリカへ行くのです」

 叔父は兩掌で顏を押へながら、頭を持上げては、また泣いた。⦆

 

 このことがあつてからすぐ、叔父の姿は店から見えなくなつた。コナゴナに碎かれたガラスはやがて新しいのが張りかへられた。店の前の往來を人が行交ふ夕暮、西の空に雲が其赤に燃えてゐた。秋夫はアメリカといふ方向も知らなかつたし、叔父がどうなつたかも知らなかつた。彼が小學校へ入つた頃、叔父はアメリカにゐるといふことを母から聞かされた。

 秋夫が中學一年の時、叔父は一度アメリカから歸國した。(それは世界大戰が終つた翌年であつた。)五月の日曜日の朝彼が緣側に腰かけてゐると、ステツキを小脇に抱へた叔父の姿が庭の方から現れた。叔父は緣側のところに立つて家のうちを眺めてゐたが、靴を脱ぐと同時に、「春彦はゐないか、春彦は」と、つかつか奧の方へ上つて行つた。「何、二階? 二階にゐるのか」ともう叔父は忙しさうに階段の方へ𢌞つた。恰度、聲をきいて兄は階段から降りて來るところであつた。兄と叔父とは階段のところで出逢つた。と思ふと、叔父は兄の手を摑んだ。「やあ、春彦だな、春彦だな、憶えてるか、憶えてゐるか」中學四年の兄が羞みながら頷くと、「さうか。憶えてるかなあ」と叔父は懷しさうに兄の手を搖するのであつた。それからまた忙しさうに裏庭の方へ叔父は𢌞つた。そこには虞美人草や罌粟が一めんに咲いてゐた。「うん、變つてゐないな」と、叔父は滿足さうにあたりを眺めた。しかし、一年あまり前に父はもう死んでゐたし、家のうちも氣持も秋夫にはもう變つてゐたやうだつた。

 秋夫は叔父が兄を把へて、「憶えてるか、憶えてるか」と訊ねた時、幼い日の出來事がすぐに思ひ出された。あの日どうして、叔父はあんなに怒つたのか、叔父を怒らした⦅屋島と北里……⦆といふ歌の意味もその頃は分つてゐなかつたのだつた。そこで、――ずつと後のことであるが――彼ほ兄にその歌の由來を訊ねてみた。意外にも、兄はあの歌は大きな姉が作つて子供達に歌はせてゐたのだと云ふ。琵琶を彈く手眞似は、當時流行の筑前琵琶を叔父が習つてゐたためらしい。そのうち、屋島と云ふ姓がふと彼の記憶の底から思ひ出された。小學六年の時、學藝會に出て以來有名になつた女の子に屋島といふのがある。その屋島といふ家が、嘗て叔父の住んでゐた家と同じ町内にあることを知つたのは、秋夫が父の葬儀の囘禮に𢌞つた折のことであつた。彼は何となしに、その女の子に美しい姉があつて、若い日の叔父の胸中に存在してゐたやうに勝手な想像をするのであつた。

 半年あまり滯在の後、叔父は新妻を伴つて再び渡米した。毛皮の上に並んで立つた叔父とその花嫁の寫眞が暫く皆の目にはもの珍しがられた。叔父の二度目の歸朝は亡妻の遺骨を持つて、その時から九年後のことになる。

 

 ある年、秋夫が東京の學校から歸省した時のことである。アメリカから悔狀が來てゐるので返事を書いてくれと彼は母から賴まれた。その前の年に秋夫の姉が亡くなつてゐた。彼は何氣なく母の依賴に應じたが、その上質の紙に深く喰ひ込むやうな勢で書込まれてゐる字句を讀んで行くうちに、彼ははたと困惑を感じた。

 それは通り一遍の悔狀ではなかつた。嫁いでから死ぬる迄あまり惠まれなかつた姉への追憶と哀悼に滿ち、同時に人生の激浪を乘切らうとする者の激しい感慨の籠つた、あまりにもさまざまの心情を吐露した告白のやうなものであつた。さうして、最後に自作の短歌が一首添へてあつた。

 

 叔父が二度目に歸鄕したのは、その手紙から二三年後のことで、妻の骨を納めるためにはるばる歸つて來たのだつた。妻を喪つて叔父は、しかし、相變らずキビキビした動作で、快活さうに見えた。小さな子供をとらへては、 Bad boy! と呼び、口笛を吹いて、大股で步き𢌞つた。男盛りの、仕事もどうやら快調とある、明るい精力に溢れた顏であつた。それにひきかへて秋夫は薄暗い懷疑に閉ざされ、動作も表情も弱々しい學生であつた。

 叔父は再婚の話も肯かず、渡米を急いだ。最後に家に暇乞に來た時、叔父はわざわざ二階の方にゐる秋夫のところへもやつて來た。

「やあ、それではこれで當分お別れだが」さう云つて、叔父は彼に握手を求めた。

「君の氣持もよく僕には分るし、君には同情してゐるのだよ、いいかい」

 はじめ叔父が何のことを云つてゐるのかよく解らなかつたが、秋夫は默つて頷いた。

「いいかい、しかしだね、とにかく勉强し給へ、何でもかんでも頑張らなきやいかん」さう云つて叔父は頻りに彼を激勵するのであつた。

 

 アメリカに渡つた叔父は間もなく、秋夫のところに時折雜誌を送つてくれた。MJBのコーヒーやサンメイドの乾葡萄も家の方へ送られてゐた。

 しかし、それから程なく、彼は母から叔父の身の上に生じた大きな災難を聞かされた。歸朝の間留守にされてゐた商舖は叔父の友人に依つて經營されてゐたが、その男は叔父の名義を利用していろんな無謀を企て、これが發覺して遂に起訴されたといふのである。叔父を知るほどの人はみんな同情しても、責任上、刑務所へ入らねばならなくなるだらうといふことであつた。それから後は叔父の消息も殆ど彼の耳にははいらなかつた。彼は叔父が相變らず人生の激浪と鬪つてゐるもののやうに想像してゐた。

 

 彼は叔父のことを書いてみようと思ひながら、それもまだ果さなかつた。叔父が北米に抑留されてゐることを知つた時から既に數ヶ月は過ぎた。ところが、母の七囘忌でこんど歸鄕してみると、こゝで彼は叔父に關する耳よりなことをきかされた。一人の叔母が親戚の家々を𢌞つては、「定次郞はもう近いうちに歸つて來ます」と頻りに力説してゐるのである。狂信家の叔母は何の靈感に打たれたものか、「あれが歸つて來たら、住宅にも困るから今のうち早く何とか借家をみつけてやらなきやいけません」と、急き立てる。叔父はまだ杳として何の消息もないのに、この叔母は骨肉との再會をまぢかに信じて疑はないのであつた。

 

[やぶちゃん注:・「峻拒」(しゆんきよ(しゅんきょ))は「きっぱりと拒むこと・厳しい態度で断ること」の意。

・「暗淚」(あんるい)は「人知れず流す涙」のこと。

・「簿記の棒」「簿記棒」「丸定規」或いは「ルーラー(Ruler)」と呼ぶ、記帳の際に罫線を引くのに用いた円筒形の特殊な棒。「一橋大学附属図書館」公式サイト内の特別展「明治初期簿記導入史と商法講習所」にある「簿記棒」(写真有り)によれば、使用し易い標準的なものは、直径一センチメートル、長さ十五センチメートルで、材質は樫(カシ)等のような『木質堅靱にして密に』、『且つ』、『反りの生ぜざるを良しと』し、その『使用上』より『重きを可とするが故に』、『材料も成るべく重きものを撰ぶと同時に』、『木材の中心に鉛を入れ』、『目方を付するが如き手段をとることあり』とある。私自身、このページで初めて現物を見た。

・「弄つて」「いぢつて(いじって)」。

・「抽匣」「ひきだし」。

・「カオール」現在も東京都江東区毛利に本社を置く化粧品・医薬部外品の製造・販売を行っている「オリヂナル」株式会社が、明治三二(一八九九)年に発売を開始した口中香錠の商品名(現在も販売されている)。これは知られた「森下仁丹」の「仁丹」が発売される六年ほど前の発売である。

・「避難所」比喩。普段、何かがあった時に決まって兄治彦と弟秋夫が逃げる場所の意であろう。

・「屋島と北里」「平家物語」の「屋島の戦い」の地名に、叔父の知っていたその「屋島」という女性を掛けたもので、「北里」もやはり叔父のそうした知人女性の姓であるぐらいの推理しか私には働かぬ。「北里」という固有名詞は私の知る限りでは、「平家物語」には出ないように思う。

・「秋夫が中學一年の時、叔父は一度アメリカから歸國した。(それは世界大戰が終つた翌年であつた。)」「中學四年の兄」「一年あまり前に父はもう死んでゐた」第一次世界大戦が終わったのは大正七(一九一八)年十一月十一日で、この翌年である大正八年、原民喜(明治三八(一九〇五)年生)は満十四歳で、事実、この年の四月に広島高等師範学校付属中学校に入学しているから一致する。冒頭の注で示した彼の兄の三男信嗣(明治三二(一八九九)年生)は当時二十、四男守夫(明治三五(一九〇二)生)は十七で中学四年で、これによって作品内小説の「治彦」が確かにこの守夫をモデルしていることが確定される。彼らの父信吉は実際には大正六(一九一七)年二月に胃癌のために逝去しているから、一年のズレはあるけれども、ほぼ事実に即していることが明確に見てとれるのである。

・「筑前琵琶」盲目の琵琶法師の系譜をルーツとする語りものの一ジャンル。参照したウィキの「筑前琵琶」によれば、『日本中世に生まれた盲僧琵琶は、九州地方の薩摩国(鹿児島県)や筑前国(福岡県)を中心に伝えられたが、室町時代に薩摩盲僧から薩摩琵琶という武士の教養のための音楽がつくられ、しだいに語りもの的な形式を整えて内容を発展させてきた。筑前琵琶は、それに対し、筑前盲僧琵琶から宗教性を脱していったもので、明治時代中期に女性を主たる対象とする家庭音楽として確立したものであり』、『近代琵琶楽の第一号にあたる』。『近代琵琶楽としての筑前琵琶の成立にあたっては、福岡藩藩士の娘であった吉田竹子の活躍が大きい。歴史的には、宗教音楽としては、筑前盲僧琵琶が薩摩盲僧琵琶よりも古いが、芸術音楽としては、薩摩琵琶の方が筑前琵琶に先行している』。『筑前琵琶の音楽は薩摩琵琶に比べ曲風が全体的におだやかであり、楽器、撥ともやや小ぶりである。胴の表板は桐に変わり、音色は薩摩琵琶に比べて軟らかい。調絃も三味線に準ずるようになった。薩摩琵琶では歌(語り)と楽器は交互に奏されるが、筑前琵琶の音楽には三味線音楽の要素が取り入れられており、歌いながら琵琶の伴奏を入れる部分がある。著名な曲としては「湖水渡」「道灌」「義士の本懐」「敦盛」「本能寺」「石堂丸」などがある。筑前琵琶の種類は四絃と、四絃より音域をより豊かにする為に初代橘旭翁とその実子である橘旭宗一世によって考案された五絃があり、五絃の方が全体にやや大きい。撥も五絃用のものの方がやや開きの幅が広く、いくらか薩摩のものに近い。柱はいずれも五柱(四絃五柱、五絃五柱)。この他、高音用の「小絃」、低音用の「大絃」も作られたが、一般的に普及はしていない』。『筑前琵琶は、明治の中期に晴眼者で筑前盲僧琵琶の奏者であった初代 橘旭翁(たちばな きょくおう)(本名:橘智定(たちばなちてい)が薩摩で薩摩琵琶を研究して帰り、筑前盲僧琵琶を改良、新しい琵琶音楽として作り出された。琵琶奏者の鶴崎賢定(つるさきけんじょう)や吉田竹子がこの新しい琵琶音楽を広めるのに一役買った』。明治二九(一八九六)年、『橘旭翁は東京へ進出し』、『演奏活動を開始して注目を浴びた。そして雅号として「旭翁」と号し、筑前琵琶 橘流を創始、明治天皇の前で御前演奏をするなど急速に全国に広まったり、人気を評した。橘流は創始者である初代橘旭翁の没後、「橘会」と「旭会」の』二『派に分かれて現在に至っている。また吉田竹子の門下から高峰筑風(高峰三枝子の父)が出て一世を風靡したが、後継者がなく』、『その芸風は途絶えた』。『筑前琵琶は、女性奏者に人気があり、娘琵琶としても流行し、嫁入り前の女性の習い事として重視された。旧福岡市内には多い時で』五十『人もの琵琶の師匠がいたといわれる』。『また、一時期は花柳界にも「琵琶芸者」なる演奏者があったほど琵琶熱が高く、大正時代末期の琵琶製造高は博多人形のそれに迫るほどであったという』とある。

・「ある年、秋夫が東京の學校から歸省した時のことである」原民喜は大正一三(一九二四)年四月に慶応義塾大学文学部予科に入学している。「その前の年に秋夫の姉が亡くなつてゐた」とあるが、民喜の長姉操は明治二四(一八九一)年生まれで、この大正十三年に亡くなっており、ここでも事実と一致していることが判る

・「悔狀」「くやみじやう(くやみじょう)」。

・「肯かず」「きかず」。うけがわず。承知せず。

・「秋夫は薄暗い懷疑に閉ざされ、動作も表情も弱々しい學生であつた」前の「ある年、秋夫が東京の學校から歸省した時のことである」を民喜の長姉操の逝去の翌年、大正一四(一九二五)年ととると、「二三年後」というのは昭和四(一九二九)年か五年となり、民喜は慶應義塾大学英文科一、二年となり、当時の民喜は「日本赤色救援会」に参加し、昭和五年十二月下旬頃には、広島地区救援オルグとなったりしている(昭和六年には組織の衰弱と崩壊につれて活動から離れた。ここは底本全集の第Ⅲ巻の年譜に拠った)。

・「MJBのコーヒー」現在も続く、一八八一年創業のアメリカ合衆国のコーヒー・ブランド会社。公式サイト日本語)歴史をリンクさせておく。

・「サンメイドの乾葡萄」Sun-Maid は現在も続く、一九一二年創業のアメリカ合衆国のドライ・フルーツ会社。公式サイト日本語)沿革をリンクさせておく。

・「母の七囘忌」原民喜の母ムメは明治七(一八七四)年生まれで、明治二三(一八九〇)年に信吉と結婚、昭和十一年九月に尿毒症で亡くなっている。その七回忌であるから昭和一七(一九四二)年九月となる。本作の発表(昭和一八(一九四二)年五月)の八ヶ月前となる。冒頭注に出した在米邦人抑留の記事は昭和十八年四月のものであるが、彼らはそれ以前から抑留されていたわけであり、昭和十七年春ぐらいに邦人抑留の新聞報道があってもなんらおかしくなく、「叔父が北米に抑留されてゐることを知つた時から既に數ヶ月は過ぎた」というのも特におかしいとは思われない。

[やぶちゃん最終注:最後まで読まれた方は判ると思うが、本篇に作中内小説の主人公として出る「秋夫」というのは、言わずもがな、本篇を執筆している主人公がモデルなのであるのだが、二度目の作中内小説の引用が終わった後の個所以降の本篇の後半では、この区別は実は作品の本文と融解して一体化してしまっているのである。しかし、それは殆んど違和感を感じさせないと言ってよい。私はこれは原民喜の確信犯の仕儀なのだと思う私が冒頭注の最後でたかが行空けの有無を意味深長に記したのは、その確信犯を匂わせるために、民喜はわざと行空けをしなかったのかも知れないという思いがあるからでなのであった。今のところ、『三田文学』の画像を見ることの出来る雲上のアカデミストの研究者にしか、その真相は⦅藪の中⦆ということになる。何方か、ご確認あられたい。そうして、こっそり私に教えて呉れると有り難い。その時は行空けがないことだけをここに追加補注して、私は私の⦅在野の一分(いちぶん)⦆に於いて、電子テクストはこのままとする積りである。

 ともかくも――上手いぜ、民喜!――]

原民喜 淡章 《恣意的正字化版》

  

[やぶちゃん注:昭和一七(一九四二)年五月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データと、歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までのカテゴリ「原民喜のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。なお、私が既に同カテゴリで電子化した、初出誌未詳の、昭和四一(一九六六)年芳賀書店版全集第二巻に所収された「淡章」群岐阜以下の九篇。私のブログでは分割掲載した)とは同名異作であるので注意されたい。

 簡単に語注を附しておく。

 「榎」の主人公「千子」は個人的には「かずこ」と読みたい気がする。「もとこ」「ゆきこ」等の読みもある。

 「藏」の「躊躇ふ」は「ためらふ」。「猿の腰掛」は菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科 Polyporaceae の漢方薬や民間薬とし用いられるそれ。

 「五位鷺」の「擘く」は「つんざく」。「對つて」は「むかつて」。

 「五月幟」の「罌粟」は「けし」。本邦では通常は双子葉植物綱キンポウゲ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum を指す。「窄んで」は「つぼんで」或いは「すぼんで」。私は後者で読むが孰れでも。]

 

 

  

 

 誰だかよく解らないが、女學校の友達と一緖に千子は日の暮れかかつた海岸を步いてゐた。海水浴の疲れが路の上にまで落ちてゐるやうな時刻で、うつとりと頭は惱しくなるのだつた。路は侘しい田舍の眺めを連らね、それも刻々、薄闇に沒して行くのだつた。ふと、千子は甘く啜泣くやうに呼吸をした。すると、幼い頃のやはり、かうした時刻の一つの切ない感覺が憶ひ出されるやうだつた。

 見ると、路の曲り角に大きな榎が聳えてゐた。根元の方はもう薄暗くぼやけてゐたが、くねくねと枝葉を連らねた榎の方にはまだ不思議に美しい色彩が漾つてゐた。たしか、あの邊には藁屋根の駄菓子を賣る店が、ずつと昔からあつたやうに想へた。

 やがて、千子がその榎の側まで來た時である。足は自然に立留まつた。榎の根元には、大きな、黑い、毛の房房した動物が繫いであつた。千子はその何とも知れない動物に氣づいた時から、怖さはずんずん增して行つたが、動物の方では尊大に蹲つた儘、人の恐れを弄んでゐるやうであつた。怖さはもうどうにもならなくなつた。千子はとり縋るやうに友達の方を顧みた。

 ところが、伴侶の顏は吃と變つてゐた。突然、懷中電燈を點したかと思ふと、友達はすつすつと走りだした。懷中電燈の明りだけが向ふの闇にすつすつと走つて行く。そしてそれは眞直くこちらへ迫つて來るやうであつた。千子はパタパタひとりで逃げ惑つた。路は眞暗でどこをどう逃げてゐるのかわからなくなつた。そのうちに千子の足が叢に引懸ると、路傍に斃れてゐた死人の手がぐいとその足を摑んでしまつた。

 

  土藏

 

 夏の日盛りの庭を過ぎて、突當りに土藏がある。つゆは吸ひ込まれるやうに土藏の中に這入つて行くと、蹠に冷たい草履を穿いて急な階段を昇つて行つた。眼の霞むやうになつてからは、心の呆ける時が多かつたが、――慣れた階段を昇りつめると、手探りで窓を開いた。すると、飛込んで來る風が、梁に吊された燈籠の房をさらさらと搖るがし、小さな窓からは油照りの甍に夾竹桃の紅がはかなく見えた。

 つゆは錆びた鐵の引手の附いた簞笥の前に行つて、暫く蹲つてゐた。微かに睡氣をそそるやうな空氣の中に蹲つてゐると汗が襟首にじっとり滲んだが、つゆは何を探しにここにやつて來たのかもう忘れてゐた。それは針のめどを求めて躊躇ふ糸のさきに心がとろけて行くやうに快い瞬間でもあつた。

 いつの間にか、つゆは簞笥の上にある黑塗の函を抱へ降すと、その中に一杯詰つてゐる寫眞を取出してゐた。つゆは一枚一枚眼の近くへ寫眞を持上げて眺めた。だが、その繪は弱い視力のやうにひどく色褪せてゐた。ただ、乾燥した挨の淡い匂ひがつゆを闇の手探りへ導いて行くやうであつた。

 つゆは立上つて、薄闇の中をもう一つの窓の方へそろそろと步いて行つた。大きな長持の上にアイスクリームを造る道具があつた。嘗てつゆの亡夫が都會から求めたものである。白木の棚の上には、亡夫が愛用してゐた小道具の類が朧な闇に並べてあつた。鶴の恰好をした瓢簞、蜂の彫刻のある煙草入れ、籠の中にとり蒐められた猿の腰掛、――つゆはその側を通りながら、それらの存在を疼くやうに感じた。

 漸く、小窓の壁につゆの手は屆いてゐた。鐵の引手を把んで、つゆは重みのある窓をぐいとこちらへ引いた。すると、淸々しい朝の光線とともに、三十年前の異樣な光景が轟々と展開された。今、向うの靑空の下に白い大きな土藏が――これははじめてこの土藏が出來た時のことだつた――萬力の力によつて、見る見る方向を變へて行くのであつた。つゆは茫然として、足許がぐるぐる囘轉して行くやうであつた。

 

  五位鷺

 

 雄二はキヤツと叫ぶと、その聲が自分の耳まで擘くやうに想へた。その聲が五位鷺に似てゐるのだつた。キヤツと叫ぶ時、咽喉の奧から何か飛出すやうだ。そして、時々、どう云ふ譯か突然叫びたくなるのだつた。

 五位鷺は、晝間でもそつと池に降りて來て、鯉を攫つた。人の姿を見た時にはもう水の靑ばかりが殘されてゐるのだつた。

 父はランプの下で、謠を復習つた。その聲を聞いてゐると、雄二はとろとろと睡むたくなり、妖しく瞬く火影のむかうに不圖もの凄い翳を感じた。さう云ふ時、屋根の上を五位鷺は叫んで通つた。

 父は池に網を張つて、五位鷺を獲る工夫をした。ふと、雄二は父が五位鷺ではないかとおもつた。鞍馬天狗の話を聞くと、その天狗も父ではないかとおもへた。月の冴えた夜の庭から雄二がなにものかに攫はれてゆく夢をみたのはその頃のことだ。

 

 三十年後のことである。ある宵、彼は窓の向うに出た月を見てゐた。松の枝に懸つて、細く白い橫雲の下に、晚秋の月は冴えるとも冴え亙つてゐた。見てゐるうちに、彼はただならぬ興奮を覺えた。松も雲も空も叫んでゐるのだ。彼のゐる陋屋も今は消え失せたやうで、遠く深山のせせらぎの音が聞えた。攫つてゆけ、攫つてゆけ、と彼は月に對つて叫んだ。

 その夜、彼は寢床のなかで、ふと目が覺めた。ひとり耳を澄してゐると、たしかに五位鷺の渡る聲がした。

 

  五月幟

 

 どこかで、娯しさうな子供がひとり進んでゐた。罌粟の花が咲いて、屋根の瓦の上には晝前の靑空が覗いてゐる。靑空は背伸びして、その子供を見つけようとする。すると、子供の方はそつと隱れるので、罌粟の花が笑ひ出す。子供は跳ねだして、罌粟の花を搖すぶる。子供は風だ、微風であつた。

 しかし、もう一人の子供は夜具の中で、ぼんやりと眸を開いてゐた。その眼は生れてからまだ一度も笑つたことのない眼であつた。眼ばかりではない、顏も手足も日蔭の植物のやうに靑白く、寢かされてばかりゐるので、頭は扁平になり、首筋はだらりと枕に沈んでゐた。誰かが彼の名前を呼ぶと、虛ろな表情の儘、微かに「うん」と答へる。それが生れて以來今日までの彼の唯一の言葉であつた。

「松ちやん、松ちやん、松ちやん」

 母親はよく松雄の返事を求めて夢中であつた。しかし、この二三日、松雄は母親の呼聲にも應へなかつた。そして、いつの間にか額に幼い皺が刻まれてゐた。

 

 もう一人の子供は跳ね𢌞つた揚句、ふと、いいものを見つけた。見上げると高い竿の上に大きな鯉幟がさがつてゐた。鯉幟は今、だらりと窄んでゐるのであつた。「よし」と、子供は跳ね上つた。すると、鯉幟はふわりと脹んでゆき、ゆるゆると空を泳いだ。「泳げ、泳げ」と子供は夢中で叫んだ。

 幟の鯉はぐるぐる𢌞つて、松雄の家の高窓の方へ姿を現した。松雄のうつろな眼に、大きな異樣なもの影が映ったのはその時である。彼はかすかに脅えたやうに、そして、かすかに誰かに應へるやうに、「うん」と靜かな聲を洩した。

 

原民喜 もぐらとコスモス / 誕生日

 

[やぶちゃん注:二篇ともに、原民喜自死(昭和二六(一九五一)年三月十三日午後十一時三十一分)の二年後の昭和二八(一九五三)年六月号の『近代文学』初出の、原民喜の遺稿童話である。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅱ」を用いた。

 本二篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。]

 

 

 

 もぐらとコスモス

 

 コスモスの花が咲き乱れてゐました。赤、白、深紅、自、赤、桃色……花は明るい光に揺らいで、にぎやかに歌でも歌つてゐるやうです。

 暗い土の底で、もぐらの子供がもぐらのお母さんに今こんなことを話してゐました。

「僕、土の上へ出て見たいなあ、ちよつと出てみてはいけないかしら」

「駄目、私たちのからだは太陽の光を見たら一ぺんに駄目になつてしまひます。私たちの眼は生れつき細く弱くできてゐるのです」

「でも、この暗い土の底では、何にも面白いことなんかないもの。それなのに、ほら、このコスモスの白い細い根つこが、何かしきりに近頃たのしさうにしてゐるのは、きつと何か上の方で、それはすばらしいことがあるのだらうと僕思ふのだがなあ」

「あ、あれですか、コスモスに花が咲いたのですよ。夜になるまでお待ちなさい。今夜は月夜です。夜になつたら、お母さんも一寸上の方まで行つてみます。その時、ちよつと覗いてみたらいいでせう」

 もぐらの子供は、夜がくるのをたのしみに待つてゐました。

「お母さん、もう夜でせう」

「まだ、お月さんが山の端に出たばかりです。あれがもつとこの庭の真上に見えてくるまでお待ちなさい」

 しばらくして、お母さんは、もぐらの子供にかう云ひました。

「さあ、私の後にそつとついて、そつと静かについてくるのですよ」

 もぐらの子供はお母さんの後について行きましたが、何だか胸がワクワクするやうでした。

「そら、ここが土の上」

 と、お母さんは囁きました。

 赤、白、深紅、白、赤、桃色……コスモスの花は月の光にはつきりと浮いて見えます。

「わあ」

 もぐらの子供はびつくりしてしまひました。

「綺麗だなあ、綺麗だなあ」

 もぐらの子供は、はじめて見る地上の眺めに、うつとりしてゐました。

 すると、コスモスの花の下を、何か白いものが音もなく、ぴよんと跳ねました。これは月の光に浮かれて、兎小屋から抜け出して、庭さきを飛び廻つてゐる白兎でした。

「あ、また兎が庭の方へ出てしまつたよ」

 と、このとき誰か人間の声がしました。それから足音がこちらに近づいて来ました。すると、もぐらのお母さんは子供を引張つて、ずんずん下の方へ引込んで行きました。

「綺麗だつたなあ。いつでも土の上はあんなに綺麗なのかしら」

 もぐらの子供は土の底で、お母さんにたづねました。

「お月夜だから、あんなに綺麗だつたのですよ」

 お母さんは静かに微笑つてゐました。

 

 

 

 誕生日

 

 雄二の誕生日が近づいて来ました。学校では、恰度その日、遠足があることになつてゐました。いい、お天気だといいがな、と雄二は一週間も前から、その日のことが心配でした。といふのが、この頃、毎日あんまりいいお天気はかりつづいてゐたからです。このまま、ずつとお天気がつづくかしら、と思つて雄二は、校庭の隅のポプラの樹の方を眺めました。青い空に黄金色の葉はくつきりと浮いてゐて、そのポプラの枝の隙間には、澄みきつたものがあります。その隙間からは、遠い遠かなところまで見えて来さうな気がするのでした。

 雄二は自分が産れた日は、どんな、お天気だつたのかしら、としきりに考へてみました。やつぱり、その頃、庭には楓の樹が紅らんでゐて、屋根の上では雀がチチチと啼いてゐたのかしら、さうすると、雀はその時、雄二が産れたことをちやんと知つてゐてくれたやうな気がします。

 雄二は誕生日の前の日に、床屋に行きました。鏡の前には、鉢植の白菊の花が置いてありました。それを見ると、雄二はハッツとしました。何か遠い澄みわたつたものが見えてくるやうでした。

「いい、お天気がつづきますね」

「明日もきつと、お天気でせう」

 大人たちが、こんなことを話合つてゐました。雄二はみんなが、明日のお天気を祈つてゐてくれるやうにおもへたのです。

 いよいよ、遠足の日がやつて来ました。眼がさめると、いい、お天気の朝でした。姉さんは誕生のお祝ひに、紙に包んだ小さなものを雄二に呉れました。あけてみると、チリンチリンといい響のする、小さな鈴でした。雄二はそれを服のポケツトに入れたまま、学校の遠足に出かけて行きました。

 小さな鈴は歩くたびに、雄二のポケツトのなかで、微かな響をたててゐました。遠足の列は街を通り抜け、白い田舎路を歩いて行きました。綺麗な小川や山が見えて来ました。そして、どこまで行つても、青い美しい空がつづいてゐました。

「ほんとに、けふはいい、お天気だなあ」

と、先生も感心したやうに空を見上げて云ひました。雄二たちは小川のほとりで弁当を食べました。雄二が腰を下した切株の側に、ふと一枚の紅葉の葉が空から舞つて降りてきました。雄二はそれを拾ひとると、ポケツトに収めておきました。

 遠足がをはつて、みんなと別れて、ひとり家の方へ戻つて来ると、ポケツトのなかの鈴が急にはつきり聞えるのでした。雄二はその晩、日記帳の間へ、遠足で拾つた美しい紅葉の葉をそつと挿んでおきました。



 

2018/09/07

反古のうらがき 卷之二 賊

 

   ○賊

 何某といへる劍術師、浪人して、さる方【井上左太夫なり。】に客となりて養はれありける。

 其主人、三月三日、花の宴を催し、客多く來りて夜をふかしけるが、扨、人々は家に歸り、家人は前後もしらで醉(ゑひ)ふしける。

 何某は酒多くも飮(のま)ざりければ、先に座を退(しりぞ[やぶちゃん注:底本には「しぞ」と振るが、従わない。])きて、おのがふしに入(いり)て、いまだ寢(ね)もやらずありけるに、庭のほとりにて足音のするよふ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に覺ゆるにぞ、やをらおき上りてうかゞふに、まさしく人音(ひとおと)なり。

 刀拔(ぬき)そばめて侍(はべり)ける中(うち)に、こなたへは入らで、奧庭の方へ入けり。

 をそと[やぶちゃん注:そっと。]明(あけ)て出(いで)て見るに、夜は墨の如く、東西だに分たねば、探り探り付從(つきしたが)ひて行けり。

『枝折(しほりど)のあたりにて足音止みたるは。跡に人あるをしりしにや。』

と、一反(たん)斗り下(さが)りてうかゝへば、鼻の先、三寸斗り隔(へだ)てゝ、風を切る音して、枝など打振るよふに覺(おぼえ)ければ、心得て身を潛め、刀引拔(ひきぬき)、あちらこちらと、かひ拂ふに、刄物(はもの)と覺しき物に打當てたり。

 直(ぢき)に、聲もいださで寄せ合(あは)せて、打合(うちあふ)こと、五十餘合と覺へしが、忽ち、引放(ひつぱ)づして逃出(にげいる)る樣(さま)、

『手ににても負ひたるや。』

と覺(おぼ)しかりければ、其儘、追ひすがりて表の方に出たるに、足にかゝりて妨ぐる物あるになやみて、少し後れたるひまに、裏門の木を明(あく)る音して逃出たり。

 引(ひき)つゞひて[やぶちゃん注:ママ。]出(いで)れば、向ふずねに物のつよく當るにおどろきて、とみに追ひもやらず、其儘、ものわかれとなりけり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行が施されてある。]

 扨、おのが部屋に入り、手燭して照らしけるに、少し血の引たるによりて、正しく手負ひて逃たることをしりぬ。

 侍どもよび覺(さま)して、ともに裏門に行て見るに、其道筋、庭の木立々々に繩(なは)引張(ひきは)り、飛石打(うち)かへしなどして有けり。

 侍ども、舌を振(ふる)ひ、

「かゝる心得有る賊の入(いり)たるに、皆、醉伏(ゑひふ)して、前後もしらず。君なかりせば、いかなる禍(わざはひ)を仕出(しいだ)すべかりしを。」

とて、大(おほい)にたゝへければ、

「そは、さまでのことにあらねども、大戰(たいせん)五十餘度(よたび)の間(あひだ)、定めて太刀音もはげしかりつらんに、壹人の目、醒(さめ)給はぬは、餘りに心懸けなきよふにて、見苦しく覺へ侍る。」

など、ゑんずるにぞ、みなみな、面目(めんぼく)なく、

「さはれ、少しの手疵も受(うけ)玉はぬこそめでたし。」

と祝しけり。

「さるにても、血の引たるを見れば、彼者、手疵(てきず)受(うえ)たるに相違なし。刀にのりあるべし。」

とて、引拔(ひきぬき)て見れば、血跡(ちのあと)、少しも見へず、あまつさへ五十餘合の戰(たたかひ)と言(いひ)しにも似ず、打合(うちあひ)たる跡、纔(わづか)に二つありて、血の引たるは、おのがひざ頭(がしら)打破(うちやぶ)りたる血にぞありける。

 これにて、何某、大に辱入(はぢいり)て、再び言(げん)も出(いだ)さず、おのおの入て寢にける。

 後に餘がしれる人に逢ひていゝけるは、

「口惜きことなり。正しく五十餘合斗りと思ひしは、纔に、三、四合にて、つよく打合せたるは、たゞ、一、二合なりしを、かゝる大戰と思ひしは、やはりおくれたる心よりかくありしなり。兎かくに仕(し)なれざることは、都(すべ)ておつくふに思ふ故、かくは思ひつるなり。」

と語りしよし。

[やぶちゃん注:何時もの通り、改行を施した。

「井上左太夫」幕府鉄砲方に代々「井上左太夫」を名乗った人物がいるから、その人であろう。

「一反」凡そ十一メートル。シークエンスとしては間をとり過ぎていて、ピンとこないが、仕方がない。

「枝折」竹や木の枝を折って作った簡素な開き戸。足にかゝりて妨ぐる物あるになやみて、少し後れたるひまに、裏門の木を明(あく)る音して逃出たり。

「其道筋、庭の木立々々に繩(なは)引張(ひきは)り、飛石打(うち)かへしなどして有けり」「飛石打かへし」とは、庭の飛び石をわざわざ掘り出して立て、追手の障害物にしてあるのである。確かに高度な盗賊で、相当に夜目が利き、方向感覚と空間認識の記憶力が抜群によい者であるらしい(そうでないと自分が張ったトラップに自分が掛かってしまうから)。何某が追った際に「向ふずねに物のつよく當」ったのも、後で判る膝頭の傷も、結局はそのトラップに引っ掛かったのであった。

「少し血の引たるによりて」後の展開から何某の衣服に付着した血痕であることが判る。実はそれは自分がトラップに掛かって受けた膝頭からの自分の血痕だったに過ぎなかったのである。

「ゑんずる」「怨ずる」。不満・不快の感じを持ったのである。

「のり」刀剣の刃に付着した血糊(ちのり)。

「後に餘がしれる人に逢ひていゝけるは」後に、私(鈴木桃野)の知人が、その「何某」に逢った際、何某あ語ったことには。

「おくれたる心よりかくありし」「怯(おく)れたる心」で「気後(きおく)れがした結果としてこの為体(ていたらく)となってしまった」の意であろう。何某は剣術師であるが、この情けない話から見ても、浪人していて食客で、実際の真剣による命を張った戦闘経験など実は全くなかったのであろう。

「おつくふ」気乗りがせず、めんどうくさいことの意の「億劫」。歴史的仮名遣は「おつこふ」「おくくふ」で音転訛が複雑に変化した複数のものがあるから表記に問題はない。]

反古のうらがき 卷之二 狐

 

   ○狐

 祭酒快烈公(さいしゆくわいれつこう)と聞へしは、林家(はやしけ)中興の學者にて、其性、闊達にておわしける。別業(べつげふ)を處々に持玉ひて、春秋佳日ごとに行て遊び玉ひける。

 一日(あるひ)、江邊(うみべ)の別業に夏の暑さを凌がんとて、まだきに起て行玉ひける。

 はすの花盛りなるに愛(めで)て、終日(ひねもす)遊び暮し給ひぬ。

 此別業を守る翁ありて、黑犬一つ飼ひ置けるが、其日は、辨當、さざへ[やぶちゃん注:ママ。]の餘れる食物(くひもの)に飽(あき)て、翁が許(もと)へは行かで、從者どもが、わりごひらく、夏木の繁れる下にのみ、居ける。

 從者ども、おのがまにまに、食物、あとうる[やぶちゃん注:ママ。]ものから、あちらこちら行けるが、果は狂ふよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]にて走り𢌞り、物も得たふべで、ひた走りに走りける。

 祭酒公、あやしみ玉ひて、椽(ゑん)の端(はし)に出(いで)て其樣を見玉ふに、物の付たるに似たれば、其(その)走り行(ゆく)方(かた)を東西と見玉ふに、ものもなし。

 蓮池のあなたなる築山(つきやま)の上に、狐、あり。

 心を付てみれば、此狐が、おとがい[やぶちゃん注:ママ。]、さし向けて、東に向へば、犬、東に走り、西に向けば、西に走るにてぞありける。

「こは。希有のことよ。」

と見るまに、犬は走りつかれて、こなたに倒れて伏しけり。

 暫くして、築山なる狐は、おそるゝ色もなく、從者が投捨(なげすて)し食物を飽(あく)までたふべて走りけり。

 犬は漸(やうやう)起上るといへども、茫然(もぬけ)たるよふにて、座しけり。

 その日は暮て、祭酒は館に歸り玉ひて、知る人ごとに語り玉ひけるに、或は信じ、又は疑ふ人も多かりければ、又の日、行て、先の如く、犬に食物與へて見玉ふに、後(のち)、走ること、前の如くなれば、先の疑へる人をもぐして行て見せ玉ひけり。

 其日は狐も大(おほい)に食(くふ)に飽(あき)て、築山の下に出(いで)て眠りけり。

 祭酒公、酒興のあまりにや、

『此狐、打殺して、けふの酒の肴にせんには、是にしくものあらじ。』

と思ひ、小筒の鐡砲もて打(うち)玉ひけるに、元より手慣(てなれ)ざる業(わざ)なれば、いと拙(まづ)くて打殺しもやらず、狐の耳の先、少し斗(ばかり)打拔(うちぬき)ける。

 狐はおどろきて高く叫びつゝ、築山の蔭に逃入ぬ。

 祭酒も、是非にとも思ひ玉ふことならねば、打笑ひて止(やみ)ぬ。

 扨、日も暮に及びける程に、從者ども集め玉ふに、女(め)の童(わらは)の、一人足らざれば、あちこち尋ねさするに、行衞なし。

 別業の内、殘る隅もなく尋盡(たづねつく)し、いとかうじ果(はて)たる時に、築山の蔭なるすゝきの生茂(おいしげ)りたる中に、前後もしらず、眠り伏(ふし)たり。

「こは、先の狐がなせるわざに疑ひなし。」

とて、おそれあへる人も多かりければ、祭酒、大に怒り玉ひ、其あたり、隅(くま)なく求(もとむ)るに、果して、狐の穴ありて、内の方ひろきよふに見ゆれども、いとくらくして見えもせず、日も暮にければ、せんすべなくて、大小の鐡砲、いくつともなく穴の内に打入(うちいれ)て歸り玉ひける。

 其筒先に當りて死けるか、又は餘りに鐡砲のはげしかりしに恐れて逃去りしか、其後は狐の出(いづ)るといふこともなく、又祟りをなすこともなくて止(やみ)けるとなり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行が施されてある。]

 狐は常に犬に逢へば術も失せて、爲に食はるゝといふは、昔のことにて、不意に出合(であひ)し時のことをいふのみ。己(おの)が身をよくかくし、おそるゝことなき時は、などか術を施さざらんや。まして食物を爭ふ時は、犬といへども、食物に心奪はれて、狐に心なし。狐は食を奪ふに手だてなき時は、先(まづ)犬をたぶらかし、其後、食を奪ふことを思ふべし。

 昔を信じて今を疑ひがたし。

 本所・下谷の蚊は蚊帳の目を穿ち、あらき布の夜の衣は、のみ蟲の細かなるがむぐり入(いる)などは、昔なきことなれども、今はめづらしからず、物は昔(むか)しにおとりて蚊帳の目のあらきと、布のあらきとを論ぜず、蚤蚊の智のひらけしと思ふも、未だ得たりとせず。

 犬もおろかならば、狐に誑(たぶら)かさるゝこと疑べきことにもあらずかし。

[やぶちゃん注:読み易さを考えて改行を施した。

「祭酒快烈公」江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。快烈府君は諡号。キの「林述斎」によれば、父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、寛政五(一七九三)年、『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。因みに彼の三男は江戸庶民から「蝮の耀蔵」「妖怪」(「耀蔵」の「耀(よう)」に掛けた)と呼ばれて忌み嫌われた南町奉行鳥居耀蔵である。本「反古のうらがき」の作者鈴木桃野(寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)の父鈴木白藤は幕府書物奉行であったし、桃野はまさに天保一〇(一八三九)年に部屋住みから昌平坂学問所教授方出役となっているから、晩年の彼と接点があったとしてもおかしくない

「闊達」心が大きく、小さな物事に拘らないさま。度量の大きいさま。

「別業(べつげふ)」(現代仮名遣「べつぎょう」)別荘。

處々に持玉ひて、春秋佳日ごとに行て遊び玉ひける。

「さざへ」「榮螺」。歴史的仮名遣は「さざゑ」が正しい。

「わりご」「破り子・破り籠・破り籠・樏」等と漢字表記する。元は檜(ヒノキ)などの薄板で作った容器で、深い被せ蓋(ぶた)が付いた食物を携帯するのに用いたもの。「めんぱ」「面桶(めんつう)」とも称する。要は「弁当」の意。

「あとうる」「與(あた)ふる」の音変化。

「ものから」接続助詞で順接の確定条件(原因・理由)。

「物も得たふべで」「得」は呼応の副詞「え」の当て字。与えた食い物もちっとも食べることをしないで。

「おとがい」「頤」。顎(あご)。歴史的仮名遣は「おとがひ」が正しい。

「先の疑へる人をもぐして行て見せ玉ひけり」則ち、述斎は二度の検証を経て確信し、疑義を挿む人物を三度目に具して行ったのである。彼のある種の冷徹な用心深さを感じる。松浦静山の「甲子夜話」電子化ってが、林述斎は静山の友人でもあり、しばしば登場、なかなかな辛辣にして切れる男ではある。

「昔を信じて今を疑ひがたし」敢えて「信じて」後に読点を打たなかったのは、「がたし」が前文総てにかかっているからである。これは「怪しげな昔の言い伝えを信じておいて今の眼前に起こった事実を疑う」ということは「出来難い」の謂いであるからである。

「のみ蟲」「蚤(のみ)」。

「本所・下谷の蚊は蚊帳の目を穿ち、あらき布の夜の衣は、のみ蟲の細かなるがむぐり入(いる)などは、昔なきことなれども、今はめづらしからず、物は昔しにおとりて蚊帳の目のあらきと、布のあらきとを論ぜず、蚤蚊の智のひらけしと思ふも、未だ得たりとせず」ここも途中に句点を使わず、読点で繋げたのは前の認識と同じと私は採るからである。則ち、ここで合理の人桃野は「犬もおろかならば、狐に誑(たぶら)かさるゝこと疑べきことにもあらずかし」という結論を論理的に引き出すために前を掲げているのであり、そこでは一部の肯定文が実は否定文として機能するように書かれてある、則ち、「昔を信じて今を疑」ふなどということは出来ない、ということの例として提示していると判断するからである。

――本所・下谷の蚊は蚊帳の目を潜って蚊帳の中にやすやすと侵入し、粗い布の衾(ふすま:衣服状を成した寝具用)は、小さな蚤がそこをやすやすと潜って人の肌にまで達して孰れも血を吸うなどということは、これ、「昔は無かったことだけれども、今は珍しくないことだ。これは蚊帳や衾という物は昔のそれに劣っていて、蚊帳の目が今のは荒いからそうなのだ」だの、「衾を製している布の目が粗いからそうなのだ」だのという、他愛もない議論に賛同しようとは私はさらさら思わぬし、「蚊や蚤の智力が進み、細かな目の空間をも冷徹に見通し、僅かな隙間を巧みに狙って侵入出来るほどに進化を遂げたのだ」という似非進化論を開陳されても、さてもそれのも私は納得し組しようとは全く思わぬ。この場合は、昔の考え方が致命的に誤っているのであり、今現在の冷静な観察に基づく認識の方が正しいのだ。

と桃野は言っているのだと私は思う。大方の御叱正を俟つ。]

 

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(57) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅱ)

 

 一五八六年[やぶちゃん注:ママ。誤り。「本能寺の変」は天正十年六月二日、ユリウス暦一五八二年六月二十一日である。以下の叙述には種々の疑問があり、それを段落末で示すには煩瑣であることから、頻繁に本文中に私の注を差し入れてある。読み難くなってしまったのは、御容赦願いたい。ここのみ挿入注を総て太字にしておいたので、それを目安に飛ばして読めるようにしてはおいた。]に於ける信長の暗殺は、異教默認の時期を延長したのかも知れない。彼の後繼者秀吉は外國僧侶の勢力を以て危險なものであると斷定はしたが、その時は、武權を集中して、國中に平和を招致しようといふ大問題に專心して居たのであつた。然るに南部の諸國に於けるジエジユイト教徒の狂暴な偏執は、既に自ら多くの敵を作り出し、この新信條の殘忍な行爲に對し、復讐をしようとする程な熱意をそれ等敵に起こさせるに至つた。吾々は布教の歷史の中に、改宗した大名が佛教徒の幾千といふ寺院を燒き、無數の藝術作品を破毀し、佛門の僧侶を殺戮した記事を讀んで居る、――そして吾々は又ジエジユイト派の文人がこれ等の宗教戰を以て、神聖なる熱心の證據であるとて賞讃してゐるのを知つて居る。最初、この外來の信仰は只だ人を説得するのみであつた、然るに後には、信長の奬勵の下に權力を得てからは、制的に、又兇暴になつて來た、それに對する一種の反動は信長の死後凡そ一年にして起こり始めた。一五八七年[やぶちゃん注:天正十五年。]に秀吉は京都、大阪、堺等に於ける傳道教會を破壞して、ジエジユイト教徒を首府から逐ひ拂つた、又その翌年[やぶちゃん注:誤り。「伴天連(バテレン)追放令追放令」は天正十五年六月十九日(一五八七年七月二十四日)の発令で同年である。]彼は彼等に平の港に集合して、日本から退去の用意をするやうに命じた。彼等は自分等が既に大になつて居たから、この命今に從はないで宜いと考へ、日本を去らずに、諸國に分散して、幾多キリスト教徒の大名の保護の下に身を寄せた。秀吉は恐らく事件をその上進めることの不得策な事を考へたのであらう、又キリスト教の僧侶達も平穩を守り公然と説教することをやめた。そして彼等の隱忍は、一五九一年[やぶちゃん注:天正十九年。但し、この以下の小泉八雲の時系列解説には杜撰な、或いは、誤認の部分があるように思われる。例えば、「聖母の騎士社」公式サイト内の高木一雄氏の『月刊「聖母の騎士誌」 8.大名・旗本の墓めぐり[1]』の「(1)豊臣奉行増田長盛(ましたながもり)の墓」の記載を読まれたい。]までは彼等に甚だ利益ある事であつた。然るにその年に、スペインのフランシスカン派[やぶちゃん注:十三世紀のイタリアでアッシジのフランチェスコ(イタリア語:Francesco d'Assisi/ラテン語:Franciscus Assisiensis)によって始められたカトリック修道会「フランシスコ会」(ラテン語: Ordo Fratrum Minorum)派。なお、同派の最初の日本への伝導は文禄二(一五九三)年にフィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見したのを嚆矢とするウィキの「フランシスコ会にはある。]の教徒が到著したことは事情を一變させるに至つた。これ等のフランシスカン派の教徒達は、フイリツピン諸島からの使節の列に加はつて到著し、キリスト數を説教しないといふ條件で、國内に留まる許可を得たのであつた。然るに彼等はその約束を破り、無謀な舉に出たので、爲めに秀吉の憤怒を喚起した。秀吉は範例を示さうと決心した、そして一五九七年に、彼は六人のフランシスカン派の者と、三人のジエジユイト教徒と、其他數人のキリスト教徒を長崎に拘引して、其處で礎刑に處した[やぶちゃん注:所謂、豊臣秀吉の命令によって慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日)に長崎で磔刑に処された「日本二十六聖人」の殉教を指す。]。大太閤の外來信條に對するこの態度は、その信條に對する反動を促進する結果となつた――その反動は既に諸國に於て現はれ始めてゐたのである。然るに一五九八年に於ける秀吉の死[やぶちゃん注:慶長三年八月十八日(一五九八年九月十八日)。]は、ジエジユイト教徒等に更に幸運の來る希望を抱かしめた。彼の後繼者、卽ち冷靜深慮の家康は、彼等に希望を抱かしめ、京都、大阪、その他に於て、その布教を復興することさへも許可した。彼は關ケ原の戰[やぶちゃん注:慶長五年九月十五日(一六〇〇年十月二十一日)。]によつて決定される事になつて居た大爭鬪の一準備をして居た、――彼はキリスト教徒の要素が分裂して居た事を知つてゐた、――その頭目達の或る者は彼の味方であり、又或る者は彼の敵の味方である事を知つて居た、――それでキリスト教に對し抑壓政策をとるには時機が惡るかつたと考へられる。然し一六〇六年に權力を堅固に建立してしまつた後[やぶちゃん注:「一六〇六年」は慶長六年であるが、これが何を指しているかよく判らない。江戸幕府開府は二年後の慶長八(一六〇三)年である。]、家康は布教事業をそれ以上績行することを禁止し、且つ外來宗教を採用したる者共は、それを抛棄[やぶちゃん注:「はうき(ほうき)」。「放棄」に同じい。]すべきことを宣言する布告を發して、初めてキリスト教に斷乎たる反對を爲す事を聲明したが[やぶちゃん注:家康が幕府から最初の公式のキリスト教の禁教令を発したのは慶長一七(一六一二)年三月二十一日で、これは江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対し、教会の破壊及び布教禁止を命じた布告であった。ウィキの「禁教令によれば、『これ自体は』、『あくまで幕府直轄地に対するものであったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行った』とある。]、それにも拘らず布教は續けて行はれた――最早只だジエジユイト教派の者によつてのみでなく、ドミニカン派[やぶちゃん注:一二〇六年に聖ドミニコ(ラテン語:Dominico/ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス(スペイン語:Domingo de Guzmán Garcés))により設立されたカトリックの修道会「ドミニコ会」。一二一六年にローマ教皇ホノリウス世によって認可された。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum)。]の者及びフランシスカン派の者によつても行はれた。當時帝國内に於けるキリスト教徒の數は、非常な誇張ではあるが、殆ど二百萬人に近かつたといふことである。併し家康は一六一四年までは、抑壓に就いて何等嚴重なる手段をとらなかつたし[やぶちゃん注:不審。家康がブレーンであった臨済僧以心崇伝に命じて起草させ、公布した(第二代将軍秀忠名)「伴天連追放之文(バテレン追放令)」は慶長十八(一六一三)年の発布である。]、又取らせもしなかつたが――その時から大迫害が始まつたと云つて然るべきである。これより以前には獨立の大名によつて行はれた地方的な迫害だけがあつたのに過ぎない――中央政府によつて行はれたのではなくて。例へば九州に於ける地方的な迫害は、當時權力の絶頂にあつたジエジユイト教派の偏執に對する自然の結果で、その時には實に改宗した大名が佛寺を僥き、佛門の僧侶達を虐殺したのであつた。そしてこれ等の迫害は本來の宗教がジヱジユイト教派の煽動のため最も烈しく迫害された地方――例へば豐後、大村、肥後などの如き地方――では最も殘酷であつた。然るに一六一四年以來――この時には日本の全六十四州の中で、僅八箇國だけがキリスト教の入らないで殘つて居た處である――外來信仰の禁壓が政府の事業となつた、そして迫害は組織的に又中絶せずに行はれて、遂にキリスト教のあらゆる外面に表はれたる跡は消失するに至つたのであつた。

 

 それ故、布教の運命は家康とその次の後繼者によつて實際に決定された、そしてこれが特に家康の注意を與へた仕事であつた。三人の大首將達はみな、時機の遲速はあつたが、この外來の布教に疑念を抱くやうになつたのであつた、併しただ家康一人がその布教が惹き起こした社會問題を處理する時と能力とをもつて居たのである。秀吉さへも廣きに及ぶ嚴格な手段を探つて、現在の政治上の難問を縺れさす[やぶちゃん注:「もつれさす」。]のを恐れて居たのであつた。家康も永い間躊躇して居たのである。その躊躇した理由は無論複雜であり、又主としてそれは外交上の理由からであつた。彼は決して燥急[やぶちゃん注:「さうきふ(そうきゅう)」。私には見かけない熟語だが、「燥」には「落ち着かない」の意があるから、「早急」に同じい。]に實行せんとする人でもなく、又決して何等かの偏見に依つて動かされる人でもなかつた、又彼を臆病だと假定する事は、吾々が彼の性格に就いて知つてゐる總ての事と矛盾する事である。勿論、彼は、誇張であつたにしても、一百萬以上の歸依者があると云ひ得る宗教を根絶することは決して容易な仕事ではなく、それには非常なる困難が伴なふといふことを認めたに違ひない。不要な災害を起こさすといふことは彼の性質に反する事であつた。彼は常に人情深く、庶民の友であることを示してゐた。併し彼は何よりも第一に經世家であり愛國者であつた。そして彼にとつての主要な問題は、外來信條と日本に於ける政治的社會的狀態との關係は、將來如何なるものであらうかといふ事であつたに相違ない。この問題は長い時日と氣長な調査を要した。そして彼はそれに出來る限りのあらゆる注意を與へたらしい。それで最後に彼はロオマ・キリスト教が重大な政治的危險を作す[やぶちゃん注:「なす」。]ものであり、根絶は避くべからざる必要事であると決斷したのである。彼と彼の後繼者等が、キリスト教に向つで勵行した嚴重な法則が――その法規は二百有餘年の間確實に守られた――この信條を完全に根絶やす[やぶちゃん注:「ねだやす」。]ことの出來なかつたといふ事實は、その信條が如何に深く根を張つて居たかを證明するものである。表面上、キリスト教のあらゆる痕跡は、日本人の眼から消えてなくなつた、併し一八六五年に或る組合が長崎附近で發見されたが、この組合はロオマ教の禮拜式の傳統を祕密にその一派の間に保存して居り、未だに宗教上の事に關しては、ポルトガルとラテンの言葉を使用してゐたものであつた。

[やぶちゃん注:「一八六五年に或る組合が長崎附近で發見された」「一八六四年」は元治元年であるが、これは正確には翌「一八六五年」或いは、公儀に知られた「一八六七年」とすべきところである(後述)。明治新政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは明治六(一八七三)年二月二十四日で、これは所謂、「浦上四番崩れ」と称された最後の大規模なキリシタン弾圧事件に発展した。ウィキの「浦上四番崩れによれば、その発端は以下である。この元治元年に『日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。そこへ』(太字やぶちゃん)、翌元治二年三月十七日(一八六五年四月十二日)のこと、『浦上村の住民数名が訪れた。その中の』一『人でイザベリナと呼ばれた「ゆり(後に杉本姓)」という当時』五十二『歳の女性がプティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)とささやいた。神父は驚愕した。これが世にいう「信徒発見」である。彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚いた。以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が続々と神父の元を訪れて指導を願った。神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた』。しかし、二年後の慶応三(一八六七)年に浦上村の信徒たちが、仏式の葬儀を拒否したことによって、信徒の存在が明るみに出でしまったのであった。『この件は庄屋によって』直ちに『長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らは』、『はっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し』、七月十四日(六月十三日)の『深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら』六十八『人が一斉に捕縛された。捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し、「縄をかけて下さい」と述べたため、抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の落ち着き様に怯んだと伝えられている。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けた』。『翌日、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議を行』い、九月二十一日には『正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われた』。直後に江戸幕府は瓦解するが、慶応四年二月十四日(一八六八年三月七日)、『参与であった澤宣嘉が長崎裁判所総督兼任を命じられ、外国事務係となった井上馨と共に長崎に着任』、四月七日(三月十五日)に『示された「五榜の掲示」』(太政官(明治政府)が国民に対して出した最初の禁止令)の第三条で、再び、『キリスト教の禁止が確認されると、沢と井上は問題となっていた浦上の信徒たちを呼び出して説得したが、彼らには改宗の意思がないことがわかった。沢と井上から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰の提案を受けた政府では』、五月十七日(四月二十五日)に『大阪で御前会議を開いてこれを討議、諸外国公使からの抗議が行われている現状を考慮するよう』、『外交担当の小松清廉が主張』、『「信徒の流罪」が決定した』。しかし、『この決定に対し、翌日の外国公使との交渉の席で』、『さらに激しい抗議が行われ、英国公使パークスらと大隈重信ら政府代表者たちは』六『時間にもわたって浦上の信徒問題を議論することになった』。結局、閏四月十七日(六月七日)になって『太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示された』。七月九日(五月二十日)、『木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物』百十四『名を津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降』、明治三(一八七〇)年まで間、『続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど』、『その過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。浦上地区の管理藩である福岡藩にキリシタンは移送され、収容所となった源光院では亡くなったキリシタンの亡霊がさまよっているともいわれた』。『各国公使は事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行なった。さらに翌年、岩倉具視以下岩倉使節団一行が、訪問先のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン』Ⅸ『世らに、禁教政策を激しく非難され、明治政府のキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大のネックであることを思い知らされることになった。欧米各国では新聞がこぞってこの悪辣な暴挙を非難し、世論も硬化していたため、当時の駐米少弁務使森有礼は』「日本宗教自由論」を著し、『禁教政策の継続の難しさを訴え、西本願寺僧侶島地黙雷らもこれにならった。しかし、かつて尊皇攘夷運動の活動家であった政府内の保守派は「神道が国教である(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」、「キリスト教を解禁してもただちに欧米が条約改正には応じるとは思えない」とキリスト教への反発を隠さず、禁教令撤廃に強硬に反対し、また長年』、『キリスト教を「邪宗門」と信じてきた一般民衆の間からも』、『キリスト教への恐怖から』、『解禁に反対する声が上がったため、日本政府は一切』、『解禁しようとしなかった。なお、仏教界には廃仏毀釈などで神道、およびその庇護者である明治政府との関係が悪化していたため、「共通の敵」であるキリスト教への敵対心を利用して関係を改善しようという動きも存在していた』。明治六(一八七三)年二月二十四日(本邦では、この前年の明治五年十一月九日(一八七二年十二月九日)、太政官布告によって、明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)の翌日からグレゴリオ暦に移行し、明治六(一八七三)年一月一日となるとした。則ち、明治五年には十二月三日から同月三十日までの二十八日間が存在しない)、『日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数』三千三百九十四『名、うち』六百六十二『名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし』、明治一二(一八七九)年に故地『浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた』のであった。]

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(56) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅰ)

 

 ジェジュイト敎徒の禍

 

[やぶちゃん注:「ジェジュイト派」既出既注であるが、再掲しておく。ジェズイット(Jesuit)教団で、カトリック教会の男子修道会「イエズス会」(ラテン語: Societatis Iesu)のこと。一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、世界各地への宣教に務め、日本に初めてキリスト教を齎した。イエス(・キリスト)を表わす Jesus が形容詞した Jesuitic が語源。なお、例えば以下の本文第一段落末文中のそれように、本標題と異なり、「ジエジユイト」と拗音表記がなされていないのは、総てママである。]

 

 第十六世紀の後半は歷史の上で最も興味ある時期である――それには三つの理由がある。第一にこの時代は、かの偉大なる首將、信長、秀吉、家康など――民族が只だ最高の危機に際してのみ産するやうに思はれる型の人々――それ等の人の産みだされるためには、無數の年代から生じて來る最高な各種の適合性を要するのみならず、又いろいろな事情、境遇の尋常ならざる結合を要する型の人々――の出現を見たからである。第二に、この時期が全く重要な時代となつてゐるのは、この時代に古代の社會組織が、初めて完全に完成されたからである――則ちあらゆる氏族的支配が、一の中央の武權政府の下に一定の形をなして統一されたのである。なほ最後に、この時期が特殊の興味のあるといふのは、日本を基督教化しようといふ最初の計畫の一事件が――ジエジユイト教派の權力の興亡の物語――丁度この時代に屬してゐるからである。

 ――この一挿話の社會學的意義は重大である。蓋し、大十二世紀の於ける皇室の分裂を除けば、ば、日本の保全を脅したうちでの最大の危機は、ポルトガルのジエジユイト教徒によつて基督教の傳へられたことであつた。日本は殘忍な手段によつずて、無數の損害と幾萬といふ生命との犧牲を拂つて僅に助かつたであつた。

 この新奇な不穩な要素が、ザビエ[やぶちゃん注:フランシスコ・ザビエル(スペイン語: Francisco de Xavier 一五〇六年頃~一五五二年)のこと。]及びその宗徒によつて傅へられたのは、信長が權力集中に努力する以前の大擾亂の時期に於てであつた。ザボエは一五四九年に鹿兒島に上陸し、一五八一年の頃には、ジエジユイト教徒等は國中に二百有餘の教會を持つて居た。この事實だけでも、この新しい宗教の傳播が、非常に急速であつたことを充分に示してゐる。さればこの新宗教は今帝國に亙つて擴がる運命をもつて居たやうに思はれたのであつた。一五八五年に、日本の宗教上の使節がロオマに迎へられ、又その一時には、殆ど十一人の大名――ジエジユイト教徒はそれ等の大名を『王』と稱したが、それも必らずしも不當とは言はれないが――が基督教に改宗してゐた[やぶちゃん注:原文は「ゐるた。」]。これ等の大名の中には極めて有力な領主も幾人かはあつた。この新しい信仰は亦一般人民の間にも急速に侵入して居り、嚴密な意味で言つて、『人氣を得て』行つた。

 信長が權力を獲得するや、彼はいろいろの方法でジエジユイト教徒を優遇した、――それは彼が基督教徒にならうとは、夢にも想はなかつたのであるから、素より彼等の信條に同情があつた爲めではなくて、彼等の勢力が佛教徒に對する戰に於て自分の役に立つだらうと考へたからである、ジエジユイト教徒自身のやうに、信長は自分の目的を遂行するためには如何なる手段をとる事も躊躇しなかつた。征服王(コンクアラア)ヰリアム以上に無慈悲で、彼は自分の兄と自分の舅が、敢て彼の意志に反對した時、容赦なく二人を殺害してしまつた。單なる政治上の理由から、外國の僧侶達に與へた援助と保護とは、彼等をしてその權力を發展せしめて、爲めにやがて彼信長をしでそれを後悔せしめるに至つた。グビンス氏はその『支那及び日本への基督教傳播論』の中で、『伊吹艾』といふ日本の書物からこの問題に關する興味ある拔萃を引用してゐる――

[やぶちゃん注:「征服王(コンクアラア)ヰリアム」「コンクアラア」は「征服王」のルビ。原文“William the Conqueror”。イングランドを征服し、ノルマン朝を開いて、現在のイギリス王室の開祖となったイングランド王ウィリアムⅠ世(一〇二七年~一〇八七年の通称。

「彼は自分の兄と自分の舅が、敢て彼の意志に反對した時、容赦なく二人を殺害してしまつたこれは孰れも事実に即していない。織田信長の異母兄織田信広(?~天正二(一五七四)年)は一時、信長と争ったが許され、後に起こった長島一向一揆鎮圧の際に討ち死にしているでのあって、信長に殺されたわけではない。ただ(平井呈一氏もここを『兄』と訳しておられるのであるが)、この“brother”を「弟」と訳せば、それは信長の同母弟織田信行となり、彼は信長に謀殺されているから、正しい。また、舅というのは、正室濃姫の父斎藤道三利政(明応三(一四九四)年~弘治二(一五五六)年)を指していようが、彼は継嗣問題で嫡男義龍との戦いで敗死したのであって(この関係を誤認したものか)、やはり信長に殺されたわけではない。

「グビンス氏」イギリスの外交官で学者であったジョン・ハリントン・ガビンズ(John Harrington Gubbins 一八五二年~一九二九年)か。明治四(一八七一)年(に英国公使館付通訳生として来日し、後に補佐官・日本語書記官補へと順調に昇進し、明治二二(一八八九)年には通訳としての最高位であった日本語書記官に昇った(これはアーネスト・サトウとウィリアム・アストンに次ぐ三代目に当たる)。この間、東京副領事代行・横浜代理領事なども務め、各国合同の条約改正会議にも参加している。明治二七(一八九四)年七月には「日英通商航海条約」調印に成功、翌年七月の追加協約へ向けての「関税委員会」の英国代表となっている。明治三五(一九〇二)年、駐日公使館(三年後の一九〇五年に「大使館」に昇格)書記官待遇を与えられた。一九〇九年外交官を引退し、帰国してオックスフォード大学で日本語の講師などをした。引退後は、かつての上司であったアーネスト・サトウと親交を結んでもいる(ウィキの「ジョン・ガビンズ」を参考にしたが、一部不審な箇所を訂した)。

「支那及び日本への基督教傳播論」ガビンズが「日本アジア協会」で“Review of the Introduction of Christianity into China and Japan,”明治六(一八七三)年に発表した論文。

「伊吹艾」江戸後期に書かれたキリシタン実録物類に見られる書名で、旧梅本重永蔵本の文化九(一八一二)年の写本(天理大学図書館所蔵)が知られる。南郷晃子氏の論文「キリシタン実録類と江戸の商業活動―『伊吹艾』を中心に―」PDF)に詳しい。

 以下の引用(後に附された古文原文も含め)原文は本文と同ポイントで前後の一行空けもなく、全体が一字下げである。]

『信長はキリスト教の入來を許可した、彼の以前の政策を今や後悔し始めた。それ故彼はその家臣を集會させてそれに向つて言つた――「これ等布教師が人民に金錢を與へてその宗派に加入する事をすすめるそのやり方が私の氣に入らぬ。若し吾々が南蠻寺〔『南方野蠻人の寺』--とかうポトガル人の教會が呼ばれてゐたのである〕を打ち毀したならば如何であらうか。お前方はどう考へるか」と尋ねた。これに對して前田德善院が答へた、――「南蠻寺を打毀つことは今日ではもう手遲れで御座ります。今日この宗教の勢力を阻止しようと骨折るのは、大海の潮流を阻まうと試みるやうなもので、公家、大名小名共は、この宗教に歸依して居ります。若し我が君が今日この宗教を絶滅しようといふならば、騷亂が必らずや我が君御自身の家臣の間に生ずるといふ憂が御座ります。それ故私の考へでは、南蠻寺破毀の意向を打棄てらる〻こと然るべしと存じます」と。信長はその結果、彼の基督教に關する以前のやり方をいたく悔いて、如何にせばこれを根絶し得るかと思案し始めたのである』

 信長……心の内には後悔し給ひけるとや……或時諸臣參會之砌宣ふは我取立し南蠻寺の事色々あやしき説有殊に宗門に入者には金銀を遣すとの事……何共合點の行ぬ事也……向役此宗門を破却し寺を打潰し伴天連等を本國へ追婦さんと思ふ也かたかたいか〻と宣へば前田德善院進み出て被申けるは南蠻寺の事只今御潰被成候には御手延て候最早都は申に不及近國まで弘まり殊に公家武家御旗本の大小名幷無座に居合す御家人の内にも此宗門に入候人多し若今破めつの儀被仰出候はゞ一揆發り御大事に及び候はん先暫く時節を御見合被成可然と被及ければ信長打ちうなづき我一生の不覺也此上宜敷思案氣あらば無遠慮可申との事に面各退出被致ける。 『伊吹艾』

[やぶちゃん注:「前田德善院」僧侶で武将(大名)で、後の豊臣政権の五奉行の一人となった前田玄以(天文八(一五三九)年~慶長七(一六〇二)年)。ウィキの「