フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 原民喜 夢時計 | トップページ | 柳田國男 うつぼ舟の話 一 /始動 »

2018/09/15

原民喜 旅空

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四一)年一月号『文藝汎論』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 簡単に語注を附しておく。

「落柿舍」の章(言わずもがなであるが、ロケーションを示すために注しておくと、落柿舎は蕉門十哲の一人向井去来の別荘で、芭蕉も三度訪れ、「嵯峨日記」を著した場所としても知られる。現在の京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町(ひのみょうじんちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は本篇ではここ以外は訪れたことがない)の「吻とした」は「ほつとした(ほっとした)」と読む。

・「杜絶えて」は「とだえて」。

・「現身」は「うつそみ」と万葉語で読みたい。この世に生を享けている己が姿。

・「晒天井」(さらしてんじやう(さらしてんじょう))は部屋の天井板を張らずに屋根裏や梁が見えたままの造りを指す。

「伊賀上野」の章の「蓑蟲庵」は「三冊子(さんぞうし)」で知られる芭蕉の同郷の門人服部土芳(とほう)の庵。訪れた芭蕉が詠んだ挨拶句「みのむしの音(ね)を聞(きき)にこよ草の庵(いほ)」からかく名指された。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「愛染院」は「あいぜんゐん(あいぜんいん)」。三重県伊賀市上野農人町(うえののにまち)にある真言宗遍光山愛染院願成寺(がんじょうじ)のこと。本尊愛染明王。松尾芭蕉の松尾家代々の菩提寺。ウィキの「願成寺(伊賀市)によれば、芭蕉は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)に滞在先であった大坂で亡くなり、門弟らによって遺命に従って大津の義仲寺(ぎちゅうじ:滋賀県大津市馬場にある天台宗朝日山(あさひざん)義仲寺。ここ(グーグル・マップ・データ))に葬られたが(墓はこれウィキの「義仲寺」の画像)、先に出した『伊賀上野の門弟服部土芳』『と貝増卓袋が、形見に芭蕉の遺髪を持ち帰り、松尾家の墓所に納め、後に故郷塚が築かれた。現在の場所に移されたのは』芭蕉五十回忌の元文三(一七三八)年の時と伝えられる。寺の位置及び故郷塚の画像は「伊賀市観光協会連絡協議会」公式サイト内の「愛染院・故郷塚」を見られたい。

・「私の喪神」「喪神」は「もがみ」と訓じておく(「さうじん(そうじん)」と読む熟語としては存在するが、その場合は「喪心」と同じで、「放心状態」や「意識喪失(気絶・失神)」の意でしか用いないと思われる)。自身に近しい人の神霊、則ち、永く喪に服すべき親族の死者の霊魂のことを指している。

・「對つて」は「むかつて(むかって)」。

・「逢遭」(ほうさう(ほうそう)」は「めぐり逢うこと・出会い」の意。

・「櫟」は「くぬぎ」。ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima

・「腰板」壁や障子等の下部に張った板。

「義仲寺」の章の「窄めた」は「すぼめた」。

「幻住庵」の章(幻住庵(げんじゅうあん)は滋賀県大津市国分(こくぶ)にある芭蕉が滞在し、「幻住庵の記」をものした小庵。ウィキの「幻住庵」によれば、『「奥の細道」の旅を終えた翌年の』元禄三(一六九〇)年三月頃より、『膳所の義仲寺無名庵に滞在していた芭蕉が、門人の菅沼曲水』(きょくすい:俳号は「曲翠」とも記す。本名は菅沼定常。膳所藩重臣で芭蕉の門人。芭蕉の死から二十三年後のことであるが、享保二(一七一七)年、不正を働いていた家老曽我権太夫を槍で一突きにして殺害し、自らも切腹した。墓所は芭蕉と同じ義仲寺である)『の奨めで同年』四月六日から七月二十三日の約四ヶ月間、ここに『隠棲した』。『元は曲水の伯父幻住老人(菅沼定知)の別荘で、没後放置されていたのを手直しして提供したものであり、近津尾神社(ちかつおじんじゃ)境内にある。芭蕉は当時の印象を「いとど神さび」と表現したが、その趣は』『今も変わらず』に『残っている』(現在の建物は一九九一年の復元)。『敷地内には幻住庵記に「たまたま心なる時は谷の清水を汲みてみづから炊ぐ」との記述があるように、芭蕉が自炊していた』とされる「とくとくの清水」が『今も木立の中、水を湧き出している』とある。

・「藥師堂」いろいろ調べてみたが、私自身、行ったことがない場所なので遂に判らなかった。ここが判ると、或いは後の主人公の行路がより明確に判るように思われるのであるが。後の私の注の杜撰な考証の限りでは、前の「義仲寺」に素直に続くものとするなら、この薬師堂なるものは大津市馬場の義仲寺と大津市別保の国分寺の間、膳所駅と石山駅の間(中央附近。グーグル・マップ・データ)にあることになるのだが、私の後注の考察が誤謬である可能性もあるので確信はない。識者の御教授を乞う。〈裏に坂道がある薬師堂〉である。

・「展がる」は「ひろがる」。

・「眼路」は「めぢ(めじ)」。目で見通した範囲。視界。「目路」とも書く。

・「新草」は「にひくさ(にいくさ)」。春先に芽を出した草。「若草」に同じい。

・「石山寺」(いしやまでら)は滋賀県大津市石山寺にある真言宗石光山(せっこうざん)石山寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、読むと判るが、主人公は寺を訪れたのではなく、単に遠望しただけである。

・「川」瀬田川。

・「戰いで」は「そよいで」。

・「國分寺」これは以下に続くシークエンスと地図を照らし合わせてみたりして、大津市国分にある近江国分寺跡に比定されており、幻住庵の北北西二百四十メートルほどのごく直近にある(ここ(グーグル・マップ・データ))国分聖徳太子堂(こくぶたいしどう)、或いは、その東北方の新幹線を跨いだ滋賀県大津市光が丘町付近にある国分寺跡(遺跡で建築物等は全く残っていない)、揚句は瀬田川の対岸の滋賀県大津市野郷原(のごはら)・神領(じんりょう)地区の国分寺比定地跡なども画像で見たが、国分寺跡どちらも遺構地であって、少なくとも現在は、ただ比定を示す石柱が建つだけで、本文にあるような「門を潛る」というようなロケーションの場所ではないし、流石に原民喜がこの殺風景な跡地を「國分寺」とは言うとは思えない。国分聖徳太子堂ならば、寺形式の建築物も門もあるから(ブログ「竹林の愚人 Ⅲ」の「国分聖徳太子堂」が写真豊富で(視認判読可能な現地の解説板を含む)よい)それらしい感じで、当初、ここだと決めかけたのだが、次のシーンで道を教えて呉れる老人は「向の山の中腹にある甍を指差して、そこだと教へてくれた。あの竹籔のところまで行つて、橋を渡ると、山の麓になつてゐると語つた」とあり、地図を見る限りでは、この国分聖徳太子堂附近からだったなら、川を渡らずに山裾を廻り込めばよい(ただ、主人公が東に川を渡ってしまっていた可能性はある)近さなので、如何にもおかしいと私は感じてしまった。さらに、表現は圧縮されているものの、「私はもう大分步いたやうだが」と、実は相当な距離を歩いてきたことが判る。とすれば、この「國分寺」とはずっと北の、東海道本線を跨いだ滋賀県大津市別保にある現存する曹洞宗別保山(べっぽざん)国分寺ではなかろうかという気がして来たのである。(グーグル・マップ・データ)である(この寺は旧粟津国分尼寺で、後に兼平寺(無論、木曾義仲の乳母子にして義仲四天王の一人の、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した今井兼平所縁の寺名であろう。南東直近に兼平の墓はある)を経て、国分寺としてある寺で、巴御前の供養塔がある。但し、の訪れたい方に言っておくと、ネットで見ると、今あるのはピッカピカの新造塔である)。但し、私の思い違いがあるかも知れない。現地に詳しい方の御教授を切に乞うものである。

・「怕く」は「こはく(こわく)」。「怖く」に同じい。

・「八幡宮の神殿」近津尾神社の祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと)=応神天皇の諱で、八幡神と応神天皇は同一とされてきた。

・「凝と息を凝してゐた」前は「じつと(じっと)」、後は「こらして」。

・「人格」は「じんかく」でよかろうが、ここは「人の影」「人らしい姿のもの」といった謂い。見慣れぬ使い方であるが、そこは原民喜の確信犯の用法なのである。……ともかくも読まれるがよい……まっこと、味なことやるねぇ! 民喜!……

・「遽かに」は「にはかに(にわかに)」。

・「煮えたぎつ心地がした」ママ。「激しく沸き立つ」の古語「滾つ・激つ」(タ行四段)ならおかしくないが、この前後は全くの口語なのだから、奇妙である。「たぎる」の原民喜の誤記か、底本の誤植か、或いは初出の『文藝汎論』の誤植の可能性もある。

 なお、本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。]

 

 

 旅空

 

  落柿舍

 

 私は釋迦堂の方ヘアスフアルトの道を步いて行つた。背中に正午の陽が熱く射して、眼はさつき見た渡月橋の賑はひに疲れてゐた。今朝、京都驛へ着いて、疲れたままの體を嵯峨まで運んで來たのだつた。すると此處は花見客でひききりなしの人通りである。その人通りのなかに紛れて、渡月橋まで來たが、尋ねる落柿舍は見あたらなかつた。角の餠屋で訊ねると、娘が耳馴れない言葉でぼんやりと教へて呉れた。おぼつかなくは思つたが、來た道を逆に引返して行くと、暑さが背に匐登つて來るのだつた。

 そのうちにどうやら右に石の道しるべがあつて、私は吻とした。その小路に這入つて行くと、もう人通りは杜絶えて、竹籔がさらさら風に搖れてゐた。畑中の道に添つて、ところどころに人家があつた。はじめそれかと思ふ門口の額を見上げると、異つてゐる建物であつた。畑には豆の花が咲いてゐて、槪して、纖細さうな植物が眼に著いた。落花がひらひらと竹籔に散つて來るのを見送つて、道は更に白く伸びてゐた。ふと立留まつた小さなな門に立札があつて、石に落柿舍と彫つてあつた。

 見上げると、後は竹籔で、生垣をめぐらした、藁葺の一軒家だつた。門を這入つて行くと、日陰と日向の入混つた庭で、突當りの戸に蓑が掛けてあつた。飛石を踏んで座敷の緣側まで行くと、内から人の氣配がして、若い男の顏がのぞいた。私は默つて、帽子をとつた。私は緣側に立つて、藁葺の屋根を仰いだり、座敷の奧の方を眺めた。座敷の壁に笠が掛けてあつて、内部は爽やかな薄明りだつた。緣側に腰かけて、私は煙草を吸つて、ふと側にある柿の樹を見上げた。梢に靑い芽がつやつやと光つてゐた。庭の隅に句碑らしい石もあつた。山吹に似た花が咲いてゐて、地面を割つて蕨が二つ三つ伸びてゐた。

 私は立上つて、半分戸のひらいてゐる土間の方を覗はうと步いて行つた。すると、座敷から、「お茶をどうぞ」と聲がした。見ると、土間の片隅には茶釜が据ゑてあつて、そのまはりに切株の腰掛が置いてあつた。私はそこに腰掛けて、竹筒の茶碗に柄杓で汲んで飮んだ。茫と疲れてゐる現身に、番茶の味が沁み亙るやうだつた。粗壁のところどころに色紙などが貼つてあり、晒天井やくねつた柱がまひるの愁ひを湛へてゐる。お茶を飮んで少し元氣になつて、私はそこを辭した。門を出て、あたりを見渡すと、なかなかいい眺めだつた。畑のむかふの山麓に、杉らしい木立や、寺院の甍や、桃や櫻の花が見えた。そして畑はほんとに風光るといつた趣きだつた。

 

  伊賀上野

 

 木津近くの竹籔が窓の外に搖れ、桃、梨、櫻など咲いてゐる野原に、若芽をもつた枝や、日の光で潤んだ枯枝など混つてゐた。木津驛で降りて、鳥羽行を待つた。驛のホームは寒い風が吹きとほした。鳥羽行に乘ると、團體客で滿員で、昇降口にまで一杯乘客が詰つてゐた。笠置で少し席が空いた。笠置は櫻が滿開で、靑い溪流と由が迫つてゐた。それから汽車は山の中を暫く進んで、伊賀上野に着いた。その驛で降りたのは、私ともう二人位の人だけだつた。

 さて、私は驛の前の廣場に立つて暫くぼんやりしてゐた。そのうちにそこに留まつてゐたバスはみんな行つてしまつた。私は寂しい廣場を過ぎて、一本道の家並の方へ步いて行つた。古びた百姓家ばかり並んでゐて、すぐ側は田だつた。私は一軒の家で、伊賀上野といふのはこのあたりのことですかと訊ねてみた。すると、伊賀上野といふのはまだここから大分あるから、バスで行つた方がよからう、バスは汽車の着く度に迎へに來ると教へられた。それで驛に引返して、三十分程、待つた。やがて、次の汽車が着いて、漸く私はバスに乘ることが出來た。

 バスは畑道を走り、四方に薄く山が霞んでゐた。櫻の咲いてゐる山坂を越えると、視野が改まつて、バスは町中に這入つた。終點で降ろされたものの、私はどう行つていいのか見當もつかなかつた。足の向くままに行くと、天滿宮があつた。それから狹い町中を步いて行つたが、靜かな町だと思つた。私は誰かに蓑蟲庵へ行く道を訊ねたいのだが、誰に訊ねていいのか戸惑ひながら步いた。ふと、橫から坊さんが出て來たので、その坊さんに訊ねてみた。坊さんは蓑蟲庵を知らなかつた。そのかはり芭蕉の祀つてあるお寺なら愛染院だから、そこへ行くといいだらうと、道筋を教へて呉れた。教へてもらつた道筋は途中で忘れてしまひ、二三人の人に訊ね、訊ねして、やつとそのお寺へ來た。町はづれの、坂の下にはすぐ畑などがある道を通つて來たのだつた。

 門を潛つて、ぼんやり境内を見渡してゐると、橫の建物から中年の婦人が現れて、「芭蕉のことですか」と聲をかけられた。私が頷くと、婦人はさきに立つて案内してくれた。遺髮が收めてあるといふ塚を見て、そこから次いで庭に椿の咲いてゐる一つの庵室に案内された。そこに位牌が祀つてあつた。私はその前に坐つてゐると、ふと喪にゐるやうな氣持がした。今、私に説明したり案内してくれる婦人の聲も、それは何か私の喪神に對つて悔みを云はれてゐるやうな錯覺を與へた。御遠方からよくおいでなさいました、と云はれると、それは賴りない身空で逢遭した慰籍の語のやうに思へたり、しかし、私は何のために遍歷してゐるのかよくわからなくなるのでもあつた。私は蓑蟲庵へ行く道順を教へてもらつて、そのお寺を辭した。

 蓑蟲庵は更に町はづれの溝に添つた路にあつた。黃色い高い塀からは庭樹がこんもりと見えてゐた。玄關を入つて、案内を乞ふと、年寄つた主が現れた。それから橫の徑を這入つて、庭に出た。古びた、よく手入れされた廣い庭だつた。飛石づたひに行くと、藁葺の舊い平屋が控へてゐた。

 緣側の前に立てば、半分開かれた襖の向ひに、薄暗い部屋が並んでゐて、突當りの部屋の壁は眞暗だが、圓くくり拔かれた障子窓が、遠くぼんやりと朧月のやうな光を放つてゐる。私は暫くその光に見とれてゐたが、勸められるままに座敷へ上つて坐つた。閾も柱も障子もところどころ朽ちかけてゐた。主は床柱を指差して由來を語つた。白い細い節くれだつた柱で櫟の木ださうだ。六疊の座敷の次に四疊の部屋があつて、その奧の突當りの六疊には爐が切つてあつた。そして、臺所と境の障子の越板が一寸位缺けたままになつてゐた。片隅に、朱塗の行燈が置いてあつた。主はその行燈を顧ると、こんなものを使つてゐた頃のことをあなたは知つてゐますかと云つた。私にもそれは遠い記憶のうちに殘されてゐる行燈のあかりがあるやうに思へ、何故か苦惱に近いものが眼前を橫切るのだつた。

 

  義仲寺

 

 電車を石場で降りると、アスフアルトの往來が一本續いてゐた。私はそば屋で晝餉を濟まして、義仲寺へ行く道を訊ね、それから、ぶらぶらと步いて行つた。塀の外に芭蕉の葉が覗いてゐるお寺があつた。門を入ると、婆さんが出て來た。芭蕉の墓は兼て寫眞で見知つてゐた通りで、今も靑い木の葉が供へてあつた。狹い庭に日が明るく射してゐた。婆さんは緣側の白い砂挨を眺めながら、「昔はこの邊もさぞよかつたことだと思ひますが、この頃ではすぐ外を走るバスの挨がみんなこの緣側に來るのでかなひません、それに、私は永く東京で暮してゐて、年とつてからここへ來たものですから、どうも朝夕は冷えて寒くてなりません」と肩を窄めた。

 

  幻住庵

 

 藥師堂の裏の坂路を行くと、私は次第に何ものにか憑かれてゐるやうな心地がした。雨は小止みなく降りつのり、展がる眼路は濡れて、ひつそりした畑であつた。ほんとに人一人見かけない畦道となつた。あぜ路に田の水が溢れ、靴の底に踏む枯草は水を吐いた。新草もちらちら見える細い徑は、うねり高くなり低くなり續いて行つた。雨靄に籠められてゐる山や森は薄墨色であつた。

 この寂寞とした眺めにひきかへ、私は後に殘して來た湖水の姿が次第に哀感を含んで訴へるやうであつた。さきほど見た石山寺の對岸の景色は、ほどよい距離に川があるためか、それはうつとりとして、柳と櫻が立並んだ岸の青草の上を雨傘が靜かに進んでゐた。湖水の仄かなる表情がまだ遠くで戰いでゐる。

 そして今私の對つてゐる路は、現世のはてのやうに寂れてゐた。境涯の夢が何時かはこんな場所に人を運んで來さうな感じがした。それで私は私の小説を腹案してゐるのか、實踐してゐるのか、さだかならぬ氣持で路を傳つて行つた。暫くすると、繁みがあり、靑い小さな池が足もとにあつた。それから路は更に畑のなかに煙つてゆく。やがて、人家のまばらに並んだ一角に來ると、私は漸く人心地づいたやうだつた。けれどもどこの家もひつそりとして雨だつた。ふと、後から黑い犬が現れて、默々と私の後をつけて來た。國分寺があつた。門を潛ると、犬もついて來た。そこから道幅は廣くなつてゐて、遠く畑の中へ伸びてゐた。暫くすると、犬の姿も無くなつてゐた。

 私はもう大分步いたやうだが、幻住庵は何處にあるのか、見當もつかなかつた。その時、橫の人家から、とぼとぼと憔悴した老人がこの雨の中を步いて來た。私はその老人を立留まつて待つた。老人は向の山の中腹にある甍を指差して、そこだと教へてくれた。あの竹籔のところまで行つて、橋を渡ると、山の麓になつてゐると語つた。私は雨の中を更に急いだ。小さな溪流の岸では、工夫が二人土を掘返してゐた。橋を渡つて、山坂にかかると、路はぬかるんで、滑りさうになつた。日和だつたら、それほど難儀な坂路でもなからうが、私は呼吸切れがして、びつしより汗になつてゐた。

 鳥居の上に大きな枯葉を重ねてある處を潛り、間もなく頂上へ來た。八幡宮の神殿の格子がまづ眼についたが、私はその奧を覗いてみるのが何だか怕くなつた。その橫に、瓦屋根の粗末な平屋が雨戸をたてきつてゐる。それが幻住庵跡なのか。雨戸一めんに落書の句が誌してある。ふと見ると、目の前に椎の木もあり、句碑が立つてゐるのだつた。私はぐつたりして、繪馬堂の板敷の上に腰を下した。そして、煙草を吸つた。雨の音が頻りで、下の溪流の音も聽きとれる。絶えず鳥の聲がひそまり返つた空の方でしてゐた。

 それからどれほどの時間が經つたのか私にはわからなかつた。が、ふと見ると、幻住庵の雨戸が靜かに一枚開け放たれてゐるのだつた。私はもう奇異な感に打たれたまま、繪馬堂の方から凝と息を凝してゐた。たしかに淡い影のやうな人格が今私を手招きしだした。私はおそるおそる、しかし、抗ふことも出來ず、その招かれる方へ近づいて行くと、相手はぼんやりと頷いたまま、すつと雨戸の奧の方へ消えて行つた。私は靴を脱いで、その奧の方へ上つてみた。暗闇の家の中央に、さつきの人格は坐つてゐた。私はその人の前に行つて坐ると、遽かに悲しさと羞恥がこみあげて來た。しかも、何か云ひ出したい衝動が私をその人の前に釘づけにしてゐた。ありうることであらうか、その人はまだ生とも死ともわかたぬ存在を今この眼の前に保つてゐるのだ。私はそれを疑ふ前に既に烈しい感動で眼が煮えたぎつ心地がした。とうとう口を開いて私はその人に訴へた。

「私は何のつもりで、今迄、あなたの遺跡を巡つてゐたのか、自分でもよくわからなかつたのですが、今あなたにお逢ひ出來たので、遽かにおたづねしたいことが出來ました、あなたは以前、昔を慕はれてよく旅をなさいましたが、その頃と今とでは何も彼も全く變つてしまつたやうですが、昔の景色はどんなものでせうか、その昔の姿を、直接あなたの口からきかせて頂けませんか」

 私は自分の訊きたいと思ふことさへ、うまく云へなかつたが、その人は私の言葉を凡そ了解してくれたのだらうか、何度もかすかに頷いてゐるやうに思へた。けれどもその人はなかなか口をあけて話してはくれさうになかつた。私は凝と耳を澄して聲を待つた。卽ち聲はあつた。はつきりした聲で、「朧ぢや」と一ことその人は言ひ放つと同時に、もうその人の姿は消え失せてゐた。

 

 

« 原民喜 夢時計 | トップページ | 柳田國男 うつぼ舟の話 一 /始動 »