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2018/09/07

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(56) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅰ)

 

 ジェジュイト敎徒の禍

 

[やぶちゃん注:「ジェジュイト派」既出既注であるが、再掲しておく。ジェズイット(Jesuit)教団で、カトリック教会の男子修道会「イエズス会」(ラテン語: Societatis Iesu)のこと。一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、世界各地への宣教に務め、日本に初めてキリスト教を齎した。イエス(・キリスト)を表わす Jesus が形容詞した Jesuitic が語源。なお、例えば以下の本文第一段落末文中のそれように、本標題と異なり、「ジエジユイト」と拗音表記がなされていないのは、総てママである。]

 

 第十六世紀の後半は歷史の上で最も興味ある時期である――それには三つの理由がある。第一にこの時代は、かの偉大なる首將、信長、秀吉、家康など――民族が只だ最高の危機に際してのみ産するやうに思はれる型の人々――それ等の人の産みだされるためには、無數の年代から生じて來る最高な各種の適合性を要するのみならず、又いろいろな事情、境遇の尋常ならざる結合を要する型の人々――の出現を見たからである。第二に、この時期が全く重要な時代となつてゐるのは、この時代に古代の社會組織が、初めて完全に完成されたからである――則ちあらゆる氏族的支配が、一の中央の武權政府の下に一定の形をなして統一されたのである。なほ最後に、この時期が特殊の興味のあるといふのは、日本を基督教化しようといふ最初の計畫の一事件が――ジエジユイト教派の權力の興亡の物語――丁度この時代に屬してゐるからである。

 ――この一挿話の社會學的意義は重大である。蓋し、大十二世紀の於ける皇室の分裂を除けば、ば、日本の保全を脅したうちでの最大の危機は、ポルトガルのジエジユイト教徒によつて基督教の傳へられたことであつた。日本は殘忍な手段によつずて、無數の損害と幾萬といふ生命との犧牲を拂つて僅に助かつたであつた。

 この新奇な不穩な要素が、ザビエ[やぶちゃん注:フランシスコ・ザビエル(スペイン語: Francisco de Xavier 一五〇六年頃~一五五二年)のこと。]及びその宗徒によつて傅へられたのは、信長が權力集中に努力する以前の大擾亂の時期に於てであつた。ザボエは一五四九年に鹿兒島に上陸し、一五八一年の頃には、ジエジユイト教徒等は國中に二百有餘の教會を持つて居た。この事實だけでも、この新しい宗教の傳播が、非常に急速であつたことを充分に示してゐる。さればこの新宗教は今帝國に亙つて擴がる運命をもつて居たやうに思はれたのであつた。一五八五年に、日本の宗教上の使節がロオマに迎へられ、又その一時には、殆ど十一人の大名――ジエジユイト教徒はそれ等の大名を『王』と稱したが、それも必らずしも不當とは言はれないが――が基督教に改宗してゐた[やぶちゃん注:原文は「ゐるた。」]。これ等の大名の中には極めて有力な領主も幾人かはあつた。この新しい信仰は亦一般人民の間にも急速に侵入して居り、嚴密な意味で言つて、『人氣を得て』行つた。

 信長が權力を獲得するや、彼はいろいろの方法でジエジユイト教徒を優遇した、――それは彼が基督教徒にならうとは、夢にも想はなかつたのであるから、素より彼等の信條に同情があつた爲めではなくて、彼等の勢力が佛教徒に對する戰に於て自分の役に立つだらうと考へたからである、ジエジユイト教徒自身のやうに、信長は自分の目的を遂行するためには如何なる手段をとる事も躊躇しなかつた。征服王(コンクアラア)ヰリアム以上に無慈悲で、彼は自分の兄と自分の舅が、敢て彼の意志に反對した時、容赦なく二人を殺害してしまつた。單なる政治上の理由から、外國の僧侶達に與へた援助と保護とは、彼等をしてその權力を發展せしめて、爲めにやがて彼信長をしでそれを後悔せしめるに至つた。グビンス氏はその『支那及び日本への基督教傳播論』の中で、『伊吹艾』といふ日本の書物からこの問題に關する興味ある拔萃を引用してゐる――

[やぶちゃん注:「征服王(コンクアラア)ヰリアム」「コンクアラア」は「征服王」のルビ。原文“William the Conqueror”。イングランドを征服し、ノルマン朝を開いて、現在のイギリス王室の開祖となったイングランド王ウィリアムⅠ世(一〇二七年~一〇八七年の通称。

「彼は自分の兄と自分の舅が、敢て彼の意志に反對した時、容赦なく二人を殺害してしまつたこれは孰れも事実に即していない。織田信長の異母兄織田信広(?~天正二(一五七四)年)は一時、信長と争ったが許され、後に起こった長島一向一揆鎮圧の際に討ち死にしているでのあって、信長に殺されたわけではない。ただ(平井呈一氏もここを『兄』と訳しておられるのであるが)、この“brother”を「弟」と訳せば、それは信長の同母弟織田信行となり、彼は信長に謀殺されているから、正しい。また、舅というのは、正室濃姫の父斎藤道三利政(明応三(一四九四)年~弘治二(一五五六)年)を指していようが、彼は継嗣問題で嫡男義龍との戦いで敗死したのであって(この関係を誤認したものか)、やはり信長に殺されたわけではない。

「グビンス氏」イギリスの外交官で学者であったジョン・ハリントン・ガビンズ(John Harrington Gubbins 一八五二年~一九二九年)か。明治四(一八七一)年(に英国公使館付通訳生として来日し、後に補佐官・日本語書記官補へと順調に昇進し、明治二二(一八八九)年には通訳としての最高位であった日本語書記官に昇った(これはアーネスト・サトウとウィリアム・アストンに次ぐ三代目に当たる)。この間、東京副領事代行・横浜代理領事なども務め、各国合同の条約改正会議にも参加している。明治二七(一八九四)年七月には「日英通商航海条約」調印に成功、翌年七月の追加協約へ向けての「関税委員会」の英国代表となっている。明治三五(一九〇二)年、駐日公使館(三年後の一九〇五年に「大使館」に昇格)書記官待遇を与えられた。一九〇九年外交官を引退し、帰国してオックスフォード大学で日本語の講師などをした。引退後は、かつての上司であったアーネスト・サトウと親交を結んでもいる(ウィキの「ジョン・ガビンズ」を参考にしたが、一部不審な箇所を訂した)。

「支那及び日本への基督教傳播論」ガビンズが「日本アジア協会」で“Review of the Introduction of Christianity into China and Japan,”明治六(一八七三)年に発表した論文。

「伊吹艾」江戸後期に書かれたキリシタン実録物類に見られる書名で、旧梅本重永蔵本の文化九(一八一二)年の写本(天理大学図書館所蔵)が知られる。南郷晃子氏の論文「キリシタン実録類と江戸の商業活動―『伊吹艾』を中心に―」PDF)に詳しい。

 以下の引用(後に附された古文原文も含め)原文は本文と同ポイントで前後の一行空けもなく、全体が一字下げである。]

『信長はキリスト教の入來を許可した、彼の以前の政策を今や後悔し始めた。それ故彼はその家臣を集會させてそれに向つて言つた――「これ等布教師が人民に金錢を與へてその宗派に加入する事をすすめるそのやり方が私の氣に入らぬ。若し吾々が南蠻寺〔『南方野蠻人の寺』--とかうポトガル人の教會が呼ばれてゐたのである〕を打ち毀したならば如何であらうか。お前方はどう考へるか」と尋ねた。これに對して前田德善院が答へた、――「南蠻寺を打毀つことは今日ではもう手遲れで御座ります。今日この宗教の勢力を阻止しようと骨折るのは、大海の潮流を阻まうと試みるやうなもので、公家、大名小名共は、この宗教に歸依して居ります。若し我が君が今日この宗教を絶滅しようといふならば、騷亂が必らずや我が君御自身の家臣の間に生ずるといふ憂が御座ります。それ故私の考へでは、南蠻寺破毀の意向を打棄てらる〻こと然るべしと存じます」と。信長はその結果、彼の基督教に關する以前のやり方をいたく悔いて、如何にせばこれを根絶し得るかと思案し始めたのである』

 信長……心の内には後悔し給ひけるとや……或時諸臣參會之砌宣ふは我取立し南蠻寺の事色々あやしき説有殊に宗門に入者には金銀を遣すとの事……何共合點の行ぬ事也……向役此宗門を破却し寺を打潰し伴天連等を本國へ追婦さんと思ふ也かたかたいか〻と宣へば前田德善院進み出て被申けるは南蠻寺の事只今御潰被成候には御手延て候最早都は申に不及近國まで弘まり殊に公家武家御旗本の大小名幷無座に居合す御家人の内にも此宗門に入候人多し若今破めつの儀被仰出候はゞ一揆發り御大事に及び候はん先暫く時節を御見合被成可然と被及ければ信長打ちうなづき我一生の不覺也此上宜敷思案氣あらば無遠慮可申との事に面各退出被致ける。 『伊吹艾』

[やぶちゃん注:「前田德善院」僧侶で武将(大名)で、後の豊臣政権の五奉行の一人となった前田玄以(天文八(一五三九)年~慶長七(一六〇二)年)。ウィキの「前田玄以から引く。『美濃国に生まれ』。「寛政重修諸家譜」によると、『前田氏は、加賀藩主前田氏と同じく菅原氏の一族として収録されているが、藤原利仁の末裔にして斎藤氏支流の季基が美濃国安八郡前田に住んで前田氏を称したという』。『若いころは美濃の僧で、禅僧あるいは比叡山の僧とも』、『尾張小松原寺の住職であったともいう』。『後に織田信長に招聘されて臣下に加わり、後に信長の命令で』、『その嫡男・織田信忠付の家臣とな』った。天正一〇(一五八二)年の「本能寺の変」に『際しては、信忠と共に二条御所にあったが、信忠の命で逃れ、嫡男の三法師を美濃岐阜城から尾張清洲城に移した』。天正一一(一五八三)年から『信長の次男・信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられたが』、天正一二(一五八四)年に『羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、秀吉の家臣として仕えるようになる』。文禄四(一五九五)年に秀吉より五万石を『与えられて丹波亀山城主となった』。『豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め』、天正十六年の『後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍している。また寺社の管理や洛中洛外の民政も任され、キリシタンを弾圧したが、後年にはキリスト教に理解を示し融和政策も採っている』。慶長三(一五九八)年、『秀吉の命令で豊臣政権下の五奉行の』一『人に任じられた』。『蒲生氏郷が病の際に、秀吉は』九『名の番医による輪番診療を命じた。この仕組みの運営は玄以邸で出されている。玄以が検使として立ち合っており、診療経過は逐一、秀吉に報告された』。『秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康の会津征伐に反対し』、慶長五(一六〇〇)年に『石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行った。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、更には病気を理由に最後まで出陣しなかった。これらの働きにより』、「関ヶ原の戦い」の『後は丹波亀山の本領を安堵され、その初代藩主となった』。『信長・秀吉配下の中では、ある程度ではあるが、京都の公家・諸寺社との繋がりを持つ数少ない人物と見なされ、このような要素にも所司代起用の理由があった』。『かつて僧侶だった関係から』、『当初キリシタンには弾圧を行っていたが、後年には理解を示し、秀吉がバテレン追放令を出した後の』文禄二(一五九三)年には『秘密裏に京都でキリシタンを保護している。また』、『ポルトガルのインド総督ともキリシタン関係で交渉したことがあったとされる。ちなみに息子』二『人はキリシタンになっている。また』、『僧侶出身のため、仏僧の不行状を目撃することが多かったらしく、彼らを強く非難している』(フロイス「日本史」第六十九章)。『同じ五奉行の増田長盛は、玄以同様』、『大坂城に留守居役として残り、西軍の情報を提供するなど家康に内通したが』、「関ヶ原の戦い」後に改易されており、『この違いは、玄以が持つ朝廷との繋がりを利用するため、玄以が家康に優遇されたからと推測される』とある。]

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