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2018/09/07

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(57) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅱ)

 

 一五八六年[やぶちゃん注:ママ。誤り。「本能寺の変」は天正十年六月二日、ユリウス暦一五八二年六月二十一日である。以下の叙述には種々の疑問があり、それを段落末で示すには煩瑣であることから、頻繁に本文中に私の注を差し入れてある。読み難くなってしまったのは、御容赦願いたい。ここのみ挿入注を総て太字にしておいたので、それを目安に飛ばして読めるようにしてはおいた。]に於ける信長の暗殺は、異教默認の時期を延長したのかも知れない。彼の後繼者秀吉は外國僧侶の勢力を以て危險なものであると斷定はしたが、その時は、武權を集中して、國中に平和を招致しようといふ大問題に專心して居たのであつた。然るに南部の諸國に於けるジエジユイト教徒の狂暴な偏執は、既に自ら多くの敵を作り出し、この新信條の殘忍な行爲に對し、復讐をしようとする程な熱意をそれ等敵に起こさせるに至つた。吾々は布教の歷史の中に、改宗した大名が佛教徒の幾千といふ寺院を燒き、無數の藝術作品を破毀し、佛門の僧侶を殺戮した記事を讀んで居る、――そして吾々は又ジエジユイト派の文人がこれ等の宗教戰を以て、神聖なる熱心の證據であるとて賞讃してゐるのを知つて居る。最初、この外來の信仰は只だ人を説得するのみであつた、然るに後には、信長の奬勵の下に權力を得てからは、制的に、又兇暴になつて來た、それに對する一種の反動は信長の死後凡そ一年にして起こり始めた。一五八七年[やぶちゃん注:天正十五年。]に秀吉は京都、大阪、堺等に於ける傳道教會を破壞して、ジエジユイト教徒を首府から逐ひ拂つた、又その翌年[やぶちゃん注:誤り。「伴天連(バテレン)追放令追放令」は天正十五年六月十九日(一五八七年七月二十四日)の発令で同年である。]彼は彼等に平の港に集合して、日本から退去の用意をするやうに命じた。彼等は自分等が既に大になつて居たから、この命今に從はないで宜いと考へ、日本を去らずに、諸國に分散して、幾多キリスト教徒の大名の保護の下に身を寄せた。秀吉は恐らく事件をその上進めることの不得策な事を考へたのであらう、又キリスト教の僧侶達も平穩を守り公然と説教することをやめた。そして彼等の隱忍は、一五九一年[やぶちゃん注:天正十九年。但し、この以下の小泉八雲の時系列解説には杜撰な、或いは、誤認の部分があるように思われる。例えば、「聖母の騎士社」公式サイト内の高木一雄氏の『月刊「聖母の騎士誌」 8.大名・旗本の墓めぐり[1]』の「(1)豊臣奉行増田長盛(ましたながもり)の墓」の記載を読まれたい。]までは彼等に甚だ利益ある事であつた。然るにその年に、スペインのフランシスカン派[やぶちゃん注:十三世紀のイタリアでアッシジのフランチェスコ(イタリア語:Francesco d'Assisi/ラテン語:Franciscus Assisiensis)によって始められたカトリック修道会「フランシスコ会」(ラテン語: Ordo Fratrum Minorum)派。なお、同派の最初の日本への伝導は文禄二(一五九三)年にフィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見したのを嚆矢とするウィキの「フランシスコ会にはある。]の教徒が到著したことは事情を一變させるに至つた。これ等のフランシスカン派の教徒達は、フイリツピン諸島からの使節の列に加はつて到著し、キリスト數を説教しないといふ條件で、國内に留まる許可を得たのであつた。然るに彼等はその約束を破り、無謀な舉に出たので、爲めに秀吉の憤怒を喚起した。秀吉は範例を示さうと決心した、そして一五九七年に、彼は六人のフランシスカン派の者と、三人のジエジユイト教徒と、其他數人のキリスト教徒を長崎に拘引して、其處で礎刑に處した[やぶちゃん注:所謂、豊臣秀吉の命令によって慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日)に長崎で磔刑に処された「日本二十六聖人」の殉教を指す。]。大太閤の外來信條に對するこの態度は、その信條に對する反動を促進する結果となつた――その反動は既に諸國に於て現はれ始めてゐたのである。然るに一五九八年に於ける秀吉の死[やぶちゃん注:慶長三年八月十八日(一五九八年九月十八日)。]は、ジエジユイト教徒等に更に幸運の來る希望を抱かしめた。彼の後繼者、卽ち冷靜深慮の家康は、彼等に希望を抱かしめ、京都、大阪、その他に於て、その布教を復興することさへも許可した。彼は關ケ原の戰[やぶちゃん注:慶長五年九月十五日(一六〇〇年十月二十一日)。]によつて決定される事になつて居た大爭鬪の一準備をして居た、――彼はキリスト教徒の要素が分裂して居た事を知つてゐた、――その頭目達の或る者は彼の味方であり、又或る者は彼の敵の味方である事を知つて居た、――それでキリスト教に對し抑壓政策をとるには時機が惡るかつたと考へられる。然し一六〇六年に權力を堅固に建立してしまつた後[やぶちゃん注:「一六〇六年」は慶長六年であるが、これが何を指しているかよく判らない。江戸幕府開府は二年後の慶長八(一六〇三)年である。]、家康は布教事業をそれ以上績行することを禁止し、且つ外來宗教を採用したる者共は、それを抛棄[やぶちゃん注:「はうき(ほうき)」。「放棄」に同じい。]すべきことを宣言する布告を發して、初めてキリスト教に斷乎たる反對を爲す事を聲明したが[やぶちゃん注:家康が幕府から最初の公式のキリスト教の禁教令を発したのは慶長一七(一六一二)年三月二十一日で、これは江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対し、教会の破壊及び布教禁止を命じた布告であった。ウィキの「禁教令によれば、『これ自体は』、『あくまで幕府直轄地に対するものであったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行った』とある。]、それにも拘らず布教は續けて行はれた――最早只だジエジユイト教派の者によつてのみでなく、ドミニカン派[やぶちゃん注:一二〇六年に聖ドミニコ(ラテン語:Dominico/ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス(スペイン語:Domingo de Guzmán Garcés))により設立されたカトリックの修道会「ドミニコ会」。一二一六年にローマ教皇ホノリウス世によって認可された。正式名称は「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum)。]の者及びフランシスカン派の者によつても行はれた。當時帝國内に於けるキリスト教徒の數は、非常な誇張ではあるが、殆ど二百萬人に近かつたといふことである。併し家康は一六一四年までは、抑壓に就いて何等嚴重なる手段をとらなかつたし[やぶちゃん注:不審。家康がブレーンであった臨済僧以心崇伝に命じて起草させ、公布した(第二代将軍秀忠名)「伴天連追放之文(バテレン追放令)」は慶長十八(一六一三)年の発布である。]、又取らせもしなかつたが――その時から大迫害が始まつたと云つて然るべきである。これより以前には獨立の大名によつて行はれた地方的な迫害だけがあつたのに過ぎない――中央政府によつて行はれたのではなくて。例へば九州に於ける地方的な迫害は、當時權力の絶頂にあつたジエジユイト教派の偏執に對する自然の結果で、その時には實に改宗した大名が佛寺を僥き、佛門の僧侶達を虐殺したのであつた。そしてこれ等の迫害は本來の宗教がジヱジユイト教派の煽動のため最も烈しく迫害された地方――例へば豐後、大村、肥後などの如き地方――では最も殘酷であつた。然るに一六一四年以來――この時には日本の全六十四州の中で、僅八箇國だけがキリスト教の入らないで殘つて居た處である――外來信仰の禁壓が政府の事業となつた、そして迫害は組織的に又中絶せずに行はれて、遂にキリスト教のあらゆる外面に表はれたる跡は消失するに至つたのであつた。

 

 それ故、布教の運命は家康とその次の後繼者によつて實際に決定された、そしてこれが特に家康の注意を與へた仕事であつた。三人の大首將達はみな、時機の遲速はあつたが、この外來の布教に疑念を抱くやうになつたのであつた、併しただ家康一人がその布教が惹き起こした社會問題を處理する時と能力とをもつて居たのである。秀吉さへも廣きに及ぶ嚴格な手段を探つて、現在の政治上の難問を縺れさす[やぶちゃん注:「もつれさす」。]のを恐れて居たのであつた。家康も永い間躊躇して居たのである。その躊躇した理由は無論複雜であり、又主としてそれは外交上の理由からであつた。彼は決して燥急[やぶちゃん注:「さうきふ(そうきゅう)」。私には見かけない熟語だが、「燥」には「落ち着かない」の意があるから、「早急」に同じい。]に實行せんとする人でもなく、又決して何等かの偏見に依つて動かされる人でもなかつた、又彼を臆病だと假定する事は、吾々が彼の性格に就いて知つてゐる總ての事と矛盾する事である。勿論、彼は、誇張であつたにしても、一百萬以上の歸依者があると云ひ得る宗教を根絶することは決して容易な仕事ではなく、それには非常なる困難が伴なふといふことを認めたに違ひない。不要な災害を起こさすといふことは彼の性質に反する事であつた。彼は常に人情深く、庶民の友であることを示してゐた。併し彼は何よりも第一に經世家であり愛國者であつた。そして彼にとつての主要な問題は、外來信條と日本に於ける政治的社會的狀態との關係は、將來如何なるものであらうかといふ事であつたに相違ない。この問題は長い時日と氣長な調査を要した。そして彼はそれに出來る限りのあらゆる注意を與へたらしい。それで最後に彼はロオマ・キリスト教が重大な政治的危險を作す[やぶちゃん注:「なす」。]ものであり、根絶は避くべからざる必要事であると決斷したのである。彼と彼の後繼者等が、キリスト教に向つで勵行した嚴重な法則が――その法規は二百有餘年の間確實に守られた――この信條を完全に根絶やす[やぶちゃん注:「ねだやす」。]ことの出來なかつたといふ事實は、その信條が如何に深く根を張つて居たかを證明するものである。表面上、キリスト教のあらゆる痕跡は、日本人の眼から消えてなくなつた、併し一八六五年に或る組合が長崎附近で發見されたが、この組合はロオマ教の禮拜式の傳統を祕密にその一派の間に保存して居り、未だに宗教上の事に關しては、ポルトガルとラテンの言葉を使用してゐたものであつた。

[やぶちゃん注:「一八六五年に或る組合が長崎附近で發見された」「一八六四年」は元治元年であるが、これは正確には翌「一八六五年」或いは、公儀に知られた「一八六七年」とすべきところである(後述)。明治新政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは明治六(一八七三)年二月二十四日で、これは所謂、「浦上四番崩れ」と称された最後の大規模なキリシタン弾圧事件に発展した。ウィキの「浦上四番崩れによれば、その発端は以下である。この元治元年に『日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。そこへ』(太字やぶちゃん)、翌元治二年三月十七日(一八六五年四月十二日)のこと、『浦上村の住民数名が訪れた。その中の』一『人でイザベリナと呼ばれた「ゆり(後に杉本姓)」という当時』五十二『歳の女性がプティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)とささやいた。神父は驚愕した。これが世にいう「信徒発見」である。彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚いた。以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が続々と神父の元を訪れて指導を願った。神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた』。しかし、二年後の慶応三(一八六七)年に浦上村の信徒たちが、仏式の葬儀を拒否したことによって、信徒の存在が明るみに出でしまったのであった。『この件は庄屋によって』直ちに『長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らは』、『はっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し』、七月十四日(六月十三日)の『深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら』六十八『人が一斉に捕縛された。捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し、「縄をかけて下さい」と述べたため、抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の落ち着き様に怯んだと伝えられている。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けた』。『翌日、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議を行』い、九月二十一日には『正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われた』。直後に江戸幕府は瓦解するが、慶応四年二月十四日(一八六八年三月七日)、『参与であった澤宣嘉が長崎裁判所総督兼任を命じられ、外国事務係となった井上馨と共に長崎に着任』、四月七日(三月十五日)に『示された「五榜の掲示」』(太政官(明治政府)が国民に対して出した最初の禁止令)の第三条で、再び、『キリスト教の禁止が確認されると、沢と井上は問題となっていた浦上の信徒たちを呼び出して説得したが、彼らには改宗の意思がないことがわかった。沢と井上から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰の提案を受けた政府では』、五月十七日(四月二十五日)に『大阪で御前会議を開いてこれを討議、諸外国公使からの抗議が行われている現状を考慮するよう』、『外交担当の小松清廉が主張』、『「信徒の流罪」が決定した』。しかし、『この決定に対し、翌日の外国公使との交渉の席で』、『さらに激しい抗議が行われ、英国公使パークスらと大隈重信ら政府代表者たちは』六『時間にもわたって浦上の信徒問題を議論することになった』。結局、閏四月十七日(六月七日)になって『太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示された』。七月九日(五月二十日)、『木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物』百十四『名を津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降』、明治三(一八七〇)年まで間、『続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど』、『その過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。浦上地区の管理藩である福岡藩にキリシタンは移送され、収容所となった源光院では亡くなったキリシタンの亡霊がさまよっているともいわれた』。『各国公使は事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行なった。さらに翌年、岩倉具視以下岩倉使節団一行が、訪問先のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン』Ⅸ『世らに、禁教政策を激しく非難され、明治政府のキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大のネックであることを思い知らされることになった。欧米各国では新聞がこぞってこの悪辣な暴挙を非難し、世論も硬化していたため、当時の駐米少弁務使森有礼は』「日本宗教自由論」を著し、『禁教政策の継続の難しさを訴え、西本願寺僧侶島地黙雷らもこれにならった。しかし、かつて尊皇攘夷運動の活動家であった政府内の保守派は「神道が国教である(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」、「キリスト教を解禁してもただちに欧米が条約改正には応じるとは思えない」とキリスト教への反発を隠さず、禁教令撤廃に強硬に反対し、また長年』、『キリスト教を「邪宗門」と信じてきた一般民衆の間からも』、『キリスト教への恐怖から』、『解禁に反対する声が上がったため、日本政府は一切』、『解禁しようとしなかった。なお、仏教界には廃仏毀釈などで神道、およびその庇護者である明治政府との関係が悪化していたため、「共通の敵」であるキリスト教への敵対心を利用して関係を改善しようという動きも存在していた』。明治六(一八七三)年二月二十四日(本邦では、この前年の明治五年十一月九日(一八七二年十二月九日)、太政官布告によって、明治五年十二月二日(一八七二年十二月三十一日)の翌日からグレゴリオ暦に移行し、明治六(一八七三)年一月一日となるとした。則ち、明治五年には十二月三日から同月三十日までの二十八日間が存在しない)、『日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数』三千三百九十四『名、うち』六百六十二『名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし』、明治一二(一八七九)年に故地『浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた』のであった。]

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