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2018/09/01

甲子夜話卷之五 14 小笠原嶋の事

 

5-14 小笠原嶋の事

修驗某に聞く。八丈島の南方百里許に無人島あり。一名を小笠原島と云。小大八十餘島あり。其中二島は大さ四國ほども有べしとなり。島に山多くして平地希なり。椰子、梅林、蘇木の類、その佗良材を産す。鳥は音呼(インコ)を始め、異禽多となり。此島を小笠原と云ことは、今尾張侯の家臣城代を勤る小笠原三九郞と云の先祖、民部大輔賴□【一字不詳】と云るが、神祖より賜りし地なりと云。三九郞所藏の記錄あり。其中に祖先の島に建たる碑文を載す。曰、大日本國、天照皇太神宮地、征夷大將軍源家康公幕下、小笠原民部大輔賴□領分。

此碑、二箇處に竪と云。思ふに大島二つの中にあるならん。此三九郞は彼修驗の檀家なる由。定て實事ならん。尚折を以て問糺すべし。

■やぶちゃんの呟き

「八丈島の南方百里許」「百里」は約三百九十三キロメートル。地図実測で八丈島から小笠原父島までは、七百キロメートルを越え、小笠原諸島最北の聟島でも六百キロメートルを越えるから、この数値は余りに過小である。小笠原諸島の現在(東京都特別区小笠原村)の主要な島は父島・母島・聟島・硫黄島・西之島・沖ノ鳥島・南鳥島で、東京都の南南東約一千キロメートルの太平洋上にあり、大小三十余島から成る総面積は約百四平方キロメートルである。

「其中二島は大さ四國ほども有べし」過大に過ぎて異界伝説レベル。小笠原で一番大きな硫黄島で二十三・七三、二番に大きな父島で二十三・四十五平方キロメートルしかない。因みに四国の総面積は一万八千二百九十七・七八平方キロメートルである。

「蘇木」「そぼく」。マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケイツイバラ連ジャケツイバラ属スオウウ(蘇芳・蘇方・蘇枋)Caesalpinia sappan 或いはジャケツイバラ亜科ハナズオウ属ハナズオウ Cercis chinensis の別称(両者は分類学上では近縁種ではない)。

「その佗」「そのた」。「佗」=「他」。

「多となり」「おほしとなり」。

「小笠原三九郞」名古屋大学附属図書館二〇一六年度秋季特別展「旗本高木家の幕末」PDF)のデータに、尾張藩家臣に小笠原三九郞長盈(「ながみつ」か)なる人物がおり、高木貞臧(さだよし)の娘増が嫁入りしたのが、寛政四(一七九二)年とあった。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月であるから、この人物と見てよいか。

「と云の」「といふ」者「の」。

「民部大輔賴【一字不詳】」ウィキの「小笠原諸島」には、箇条書き形式の「歴史」の年譜があるので参照されたいが、それによれば、『北硫黄島には先史時代(』一『世紀頃)のものとみられる石野遺跡があ』り、『父島の大根山遺跡でも打製石斧が発見されているが』、『詳細な時代は不明』とする。天正二〇(一五九三)年、『信濃小笠原氏の一族を自称する小笠原貞頼が伊豆諸島南方で』三『つの無人島を発見する。しかしその根拠と』される「巽(たつみ)無人島記」の『記述には、父島の大きさが実際よりもはるかに大きく書かれている上、オットセイが棲息しているなど』、『亜熱帯の島ではありえない記述もみられるため』、『信憑性は低い』とある(太字やぶちゃん。以下、同じ)。静山の記す「民部大輔賴」というのは、この小笠原貞頼(?~寛永二(一六二五)年)なる人物である。ウィキの「小笠原貞頼」によれば、『安土桃山時代の武士。通称は、彦七郎・又七郎、民部少輔。徳川家の家臣で、小笠原諸島の発見者と伝えられる』。『信濃国守護の小笠原長時の孫(曾孫説もあり)、小笠原長隆の次男、松本城(深志城)城主・小笠原貞慶の甥にあたるとされる』。『後世(江戸時代中)に製作された小笠原氏の系図』「小笠原家譜」では、『当時の小笠原氏当主は』、天正七(一五七九)年に『父の長時から家督を相続した三男の貞慶で、父に先立って戦死した長隆の弟である、とされている』。「寛政重修諸家譜」に『よれば、同じく庶流であった遠江国高天神城城主小笠原長忠(信興)が』元亀二(一五七一)年三月、『武田信玄に攻められた時』、『小笠原長隆・貞慶兄弟が同族と見られる「民部貞頼」とともにその救援に向かったという記録が残っている。また同時期の他史料にも「小笠原民部大輔」という人物が徳川氏に仕えていたという記録がある。ここから』、『「民部貞頼」=「小笠原民部大輔」=小笠原貞頼と考えて実在説を唱える人もいる』。『近年では』、天正一〇(一五八二)年七月に「天正壬午の乱」で『甲州入りした徳川家康が市川に逗留中、大聖寺(身延町)へ「小笠原貞頼」を代参させ』、『戦勝祈願したという記述が発見されている』とある。『その他、幕府の船手頭であった小笠原信元(幡豆小笠原氏)と同一視する見解もあるが、確証はない』とする。「小笠原民部記」によれば、永禄七(一五六四)年、『同族の幡豆』(はず)『小笠原氏を頼って三河国に移住した後、宗家に比べて早い段階で徳川家康に臣従した』。文禄二(一五九三)年の「文禄・慶長の役」の帰陣に際して、『「貞頼は小田原の陣以来』、『数度の戦功にもかかわらず』、『いまだ本地に帰らず、家臣の禄も不足しているであろうから、しかるべき島山があれば』、『見つけ次第取らすであろう」との証文を家康から得て、南海探検に船出した。この探検によって貞頼は』三『つの無人島を発見し、豊臣秀吉から所領として安堵されたとされている』。『また、小笠原村父島字扇浦には、貞頼を祀る小笠原神社がある』。その後、享保一二(一七二七)年になって、『貞頼の子孫を自称する浪人』小笠原貞任なる人物が現われ、「巽無人島記」の『記述をもとに貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求め、江戸幕府に「辰巳無人島訴状幷口上留書」を提出して訴え出た』。『「辰巳無人島訴状幷口上留書」には父島、母島、兄島などの島名が記されており、各島の島名の由来となった。また』、『これらの島々が小笠原貞頼にちなんで小笠原島と呼ばれるのはこれ以降のことである』。『貞任の訴えにより幕府は一度渡航を許可したものの』(翌享保十三年に南町奉行大岡忠相が貞任に対して無人島渡航の許可を下し、それを受けて先遣隊が無人島へ派遣されたが、鳥羽を出航した後、行方不明となってしまっている)、『奉行所が再度調査した結果、貞任は』享保二〇(一七三五)年に、『探検の事実どころか、先祖である貞頼の実在も否定された。このため、貞任は詐欺の罪に問われ、財産没収の上、重追放の処分を受けた』とある。時系列でも戻って、ウィキの「小笠原諸島」年譜に返ると、一六三九年七月二十一日(寛永十六年八月十七日)には、マティス・クワスト(Matthijs Quast)が『指揮するオランダ東インド会社所属のエンゲル号(Engel)とフラフト号(Graft)が』二』つの無人島を発見する。それぞれエンゲル島、フラフト島と命名され、エンゲル島は母島、フラフト島は父島と比定される。なおこの艦隊の副官は、後にタスマニア島とニュージーランドへ最初に到達したヨーロッパ人となる、アベル・ヤンスゾーン・タスマン(Abel Janszoon Tasman)であった』とあり、寛文十年二月二十日(一六七〇年四月九日)、『紀州を出港した阿波国の蜜柑船が母島に漂着する。その後、長右衛門ら』七『人は八丈島経由で伊豆国下田に生還し、島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告され』ており、二〇一六年『現在では、この報告例が日本人による最初の発見報告と考えられている』とあり、五年後の延宝三(一六七五)年にはこれらの『漂流民の報告を元に、江戸幕府が松浦党の島谷市左衛門を小笠原諸島に派遣』、『調査船富国寿丸は』三十六『日間にわたって』、『島々の調査を行い、大村や奥村などの地名を命名した上、「此島大日本之内也」という碑を設置した。これらの調査結果は、将軍をはじめ』、『幕府上層部に披露され』、『これ以降、小笠原諸島は無人島(ブニンジマ)と呼ばれた』。一七〇二(元禄十五)年、スペインの帆船ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロザリオ号(Nuestra-Senora del Rosario)が西之島を発見し、ロザリオ島(Isla de Rosario)と命名する。以下、先の小笠原貞任の話となる。その後、天明五(一七八五)年刊の林子平の「三国通覧図説」に「小笠原島」という名称が現われ(但し、林子平は小笠原諸島を訪れてはいない)、十九世紀に入ると、『欧米の捕鯨船が寄港するようにな』った。一八二三(文政六)年九月、『イギリスブリストルの捕鯨船トランジット号(Transit)が母島に来航し、母島をフィッシャー島(Fisher island)、沖港をポートコフィン(Port Coffin)と命名する。トランジット号は、記録に残る中では小笠原諸島に寄港した最初の捕鯨船である』。一八二六(文政九)年、『イギリスの捕鯨船ウィリアム号(William)が父島の湾内で難破する。乗組員のほとんどは別の捕鯨船で父島を去るが、船員』二『名が父島に残留し、初めての定住者とな』ったという。一八二七(文政十)年六月、『イギリス軍艦ブロッサム号』『(HMS Blossom)が父島に来航』し、『艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチー(Frederick William Beechey)は新島発見と思い違いし、父島をピール島(Peel island)、二見湾をポートロイド(Port Lloyd)、母島をベイリー島(Bailey island)と命名し、領有宣言を行った』(『しかし、この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されなかった』とある)。一八二八(文政十一)年五月、『フョードル・ペトロヴィッチ・リュトケ(Фёдор Петрович Литке)が指揮するロシアの探検調査船セニャービン号(Сенявин)が父島に来航』、先の初定住者となった『ウィリアム号の船員』二『名もこの時』、『父島を後にした』。一八三〇年六月二十六日(文政十三年五月十日)、『ナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory)ら白人』五『人と太平洋諸島出身者』二十五『人がハワイ王国オアフ島から父島の奥村に入植する』(以下、一八三五年(天保六年)に始まる、イギリスによる占領企図の経緯が記されてあるが省略する)。天保一一(一八四〇)年には、『陸前高田の「中吉丸」が父島に漂着し、生存した三之丞ら』六『名は』二『か月かけて船を修理したのち、下総国銚子に帰還』した。以下まだ記載は続くが、天保一二(一八四一)年に静山は亡くなっているので、詳細はここまでとする。後のエポック・メーキングな部分だけを引くと、文久元(一八六二)年、『幕府は外国奉行水野忠徳、小笠原島開拓御用小花作助らに命じ』、『アメリカから帰還したばかりの咸臨丸(艦長は小野友五郎)で小笠原に佐々倉桐太郎ら官吏を派遣』『し、測量を行』わせ、『また、居住者に日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ』て『同意を得』、文久二年五月を以って『駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告』、同年八月には、八丈島からの三十八『名の入植が開始され』たが、翌文久三年五月には、『生麦事件によって日英関係が悪化したことを受け、日本人移民』は『父島から撤収し』ている。明治維新後は、明治八(一八七五)年十一月に『明治政府が小笠原回収委員を明治丸で父島へ派遣』し、翌年三月、『小笠原島の日本統治を各国に通告(日本の領有が確定)。内務省の管轄となる。日本人』三十七『名が父島に定住。内務省出張所』が設置された。

「竪と」「たつと」。建っていると。しかし、こんな碑があったともあるともネット上には記載がない。残念ながら、都市伝説の類いであろう。

「大島二つ」硫黄島と父島か。

「定て」「さだめて」

「問糺す」「とひただす」。

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