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2018/09/16

柳田國男 うつぼ舟の話 五

 

        

 

 出雲の佐陀[やぶちゃん注:「さだ」。]の大神も、母あつて未だ父の神を知らず、加賀の岩鼻に入つて之を尋ねると、黃金の箭が水に浮んで流れて來たと傳へられる。神が丹塗りの矢に化して訪れたまふといふ物語とともに、いかにも美しく鮮かなる我國風の空想であつて、之を單純に戸の隙間の日の光が、少女の腹を追ひまはして射たと謂ふ話し方と比べると、元は一つであつたと認めるのさへ感心せぬが、何れの民族でもそれぞれの文化の境遇に應じて、常に聽く者の理解を主とするの他は無かつたから、最初は此よりも更に露骨な、其代りには感動の深い物語であつたのも尤もである。智力と趣味とは新たなる文飾を必要とし、神話の如き保守的の文藝にも、やはり目に見えぬ成長があり、既に形式の固定して時代に適せぬものは追々に圈外に押出された。今に於て俗間の卑猥なる笑話などの、尚輕蔑すべからざる所以である。うつぼ舟に關して一二の著しい例を説くならば、臺灣東岸のパイワン族の中に、美女を朱塗りの箱の中に入れて、海に流したといふ傳承が多く、知本社と呼ばれる部落が之を拾ひ上げたと謂つて居る。此女は身の内に怖ろしい牙があつて、之に近づく程の男は悉く傷き死んだ爲に、用無き者として棄てられたのであつたが、知本社蕃の若い頭目は、方法を施して其牙を除き、乃ち之を娶つて子孫が榮へたと傳へるのである。此話は所謂金勢大明神の本緣として、今でも奧羽の村の人が笑ひながら、人に語る所の昔語りの一つであるが、既に懸け離れた南島の荒磯に、同じ例を遺して居るからには、近代の才子が發明した惡謔[やぶちゃん注:「あくぎやく」。悪ふざけ。]ではなかつたのである。但し依然たる不可解はその共通の起原であるが、幸ひに臺東方面の土人の間に於ては、アミの馬蘭社でもパイワン族の卑南蕃でも、等しく海に放たれた身に牙ある娘が、知本社の海岸に漂著したことを語り、後者自らも之を認めて居るのを見ると、既に交通ある二つ以上の部落の間に、一方で不用として顧みなかつたものを、他の一方が歡迎し且つ大切に守り立てたと云ふ話、卽ち日本の諸州の田舍に於て、神と住民との因緣約束を信じ、流れて來た飛んで來た、或は盜んで來たとさへ傳へて居る口碑が、元來は亦このうつぼ舟の信仰から、分れて出たものであるやうに感ぜしめるのである。

[やぶちゃん注:「知本社」「知本社蕃」「社」は民族集団の名であると同時に、出身地名でもある。「蕃」は原住民を指す漢語で、嘗て台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていたが、これは差別語である。この「知本社」は「国立台湾先史文化博物館」公式サイト内の「プユマ族」の解説から見て、このプユマ族を指すものである。『昔から台東平原に住んで』おり、現在は『一万人余り』で、『卑南川南部、知本川北部間の地域に集中している』。『もともと台東県太麻里郷、屏東県満州郷、牡丹郷に住んでいた卑南族が殆どパイワン族に同化』したものらしいとあり、さらに、『言い伝えによると、当初』、『台東の美和村のpanapanayan』という『ところから上陸』したが、その時、『知本社の言い方に』従えば、『当時』、『先に上陸』した『のが女性二人、男性一人であった。名前は索加索加伍、派魯伍と立加索だった。三人』は『上陸後、すぐ子供を生んだ、姉は今の建和部落、弟が知本社と南王社で』あるとある。

「アミの馬蘭社」アミ族(アミス)は現在の台湾で人口最も多い原住民族群。「馬蘭社」は地名としては旧台湾台東庁馬蘭社で、現在の台湾南東部の台東市である。国立台湾先史文化博物館公式サイト内の「アミ族によれば、早期の文献では「アミ」には「阿眉」「阿眉斯」「阿美」「阿美斯」と漢字を当てていたが、アミ族自身は自分たちの『ことをPangcah(花蓮地区のアミ人)とAmis(台東地区のアミ人)と呼んで』いるとある。

「パイワン族の卑南蕃」パイワン本族は現在、台湾原住民で三番目に人口の多い民族集団。「国立台湾先史文化博物館」公式サイト内の「イワン族」によれば、『主に台湾中央山脈の南脈、北は武洛渓上流の大母母山から南の恒春半島(東南の山肌部と海岸地区)まで分布してい』るとある。以上のリンク先の記載は、やや日本語に難はあるが、各部族の歴史と文化を綴って、とても素晴らしい。]

 またパイワン種の諸蕃社には、ことに人が樹木の中から出たといふ傳説が多い。或は竹の中から卵が轉げ出して、最初の男女と爲つたとも謂へば、亦壺の中もしくは瓠(ひさご)[やぶちゃん注:瓢簞(ヒョウタン)の果実の内部の柔らかい果肉を取り去って乾燥させ、酒や水の容器とした「ふくべ」のこと。]の中からも、人の出現したと謂ふことを信じて居る部落があるのである。異人卵生の古傳は印度にも例乏しからず、佛典を通じて日本にも知られて居た。卽ち寧ろ説話の類似のみを根據として、比鄰民族の血緣を論斷すべからざる反證の一つであるが、斯ういふ意外な未開人の間にまで、同じ思想が稍別種の樣式を以て、年久しく持ち傳へられて居た事實は、其起因を單なる偶合に歸するには餘りに重要であると思ふ。新羅の國王が金色の卵から出たといふ神話が、朴姓一族の祖先譚として、瓠に乘つて日本から渡つて來たといふ瓠公[やぶちゃん注:「ここう」。]の奇跡を説くものと、本源一つなるべきことは既に之を説いた人がある。瓢簞に乘つて來るといふ列仙傳の如き繪樣を想像し得た以前から、瓠のやうな内部が空虛で外見の具備した物は、三韓の人民に取つてもやはり奇異であつた故に、夙くこの類の口碑を發生せしめたのであらう。殊に渚に近く村を構へ、日月の出入りを眺めて海と天とを混同して居た人々には、是ほど大きな問題は少なかつた筈である。實際人間の智巧を以て、箱や樽などを作り出すのにも、天然の手本とすべきものが澤山は無かつた。故に始めて空洞の木や瓠の類が、水に浮んで流れて來た場合の、好奇心は強烈なものであつて、幾多の誤つた宗教觀、もしくは後世の詩人の及び難しとする空想境を、誘ひ出すに十分であつたので、其印象が次にやゝ姿容を變じつゝ、永く世に留まつたのに不思議は無いと思ふ。

[やぶちゃん注:「朴姓一族の祖先譚として、瓠に乘つて日本から渡つて來たといふ瓠公」(生没年不詳)は新羅の建国時(紀元前後)に諸王に仕えた重臣。ウィキの「瓠公より引く。『金氏王統の始祖となる金閼智』(きんあっち)『を発見』したとされるが、実は『もとは倭人』『とされ』、『新羅の』三『王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である。瓠(ひさご)を腰に下げて海を渡ってきたことからその名がついたと』「三国史記」は『伝えている』。『初代新羅王の赫居世居西干』(かくきょせい/きょせいかん 紀元前六九年?~紀元後四年)『の朴姓も同じ瓠から取られているため、同一人物を指しているのではないかという説がある』。『また、脱解尼師今』(だっかい/にしきん:新羅第四代の王)『が新羅に着した時に瓠公の家を謀略で奪ったと言う。この瓠公の屋敷が後の月城(歴代新羅王の王城)となった』。赫居世三八(紀元前二〇年)、『王命に従って馬韓を訪問し』、『国交を開こうとした。このとき馬韓王からは馬韓の属国である辰韓諸国の一国に過ぎない新羅が貢物を送らないことを責めたが、瓠公は逆に新羅に聖王(赫居世と閼英夫人)が現れたことを主張して馬韓王の失礼を咎めた。馬韓王は怒って』、『瓠公を殺そうとしたが、馬韓の重臣が王を諌めたため、許されて新羅に帰国した』。『脱解尼師今』二(紀元後五八年)、『最高官位である大輔に任命された』。『脱解尼師今』九(六五)年、『王都金城(慶州市)の東で起こった神異を調べにいき、金閼智を得た』とある。]

 是が我々の昔話の多くに、作家といふものゝ無かつたことを、推定せしめる有力な理由である。再びパイワン蕃の神話に戾るが、その或社に於ては先祖が生れて出たと云ふ壺を傳へて居る。是にも大陽の光線が壁を通して、又は細くなつて其壺を射たと謂ふものが多く、卽ち太陽の子であらうと思つて之を養育したと説くのである。日本では竹取の物語の如きは、今ある語り方の外にまだ色々の異傳があつた。鶯の卵から成長したと云ふのも其一つである。かくや姫が身より光を放つたといふ代りに、數多の竹の林の中に只一處、特に光がさして居たのを竹取翁が見付けたと謂ふなどは、姫が後に天上に還つたとある一段と相照して、亦一種の日の子神話の流れと見るに足らぬであらうか。又桃太郞の前の型と認められる瓜子姫子の如きも、童話に於てはむざむざと山姥に食はれてしまふが、それでは折角山川をどんぶらこつこと流れて來た甲斐も無い。或は狼の腹を割いて救ひ出された羊の子の話のやうに、後に復活したといふ傳への方が古いにしても、やはり誕生の奇瑞譚としては片輪であるから、斯うして第二の冒險談、卽ち山姥や天のじやくとの鬪靜談と結合する前に、別に亦一系統の瓠公神話が、此方面にも曾て繁茂して居たことを、假定して見るの他は無いので、しかも瓠といふ瓜の我々東方民族の生活に與へた影響は、最も複雜にして且つ興味深きものなのである。

 

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