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2018/09/20

柳田國男 炭燒小五郞がこと 一 / 始動

 

[やぶちゃん注:評論集「海南小記」(大正一四(一九二五)年大岡山書店刊)の中の「炭燒小五郞がこと」(十二章から成る単行本書き下ろし論文)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクション上記「海南小記」の当該の「炭燒小五郞がこと(リンク先はその冒頭部)の章の画像を用いた。一部、誤植と思われる意味の通じない箇所は、ちくま文庫版全集と校合して訂した。但し、その個所は特に注していない。本底本では「ゝ」の代わりに、「〻」が用いられ、この「〻」に濁点が附いた気持ちの悪い踊り字が使用されている。私はそもそもがこの「〻」が生理的に嫌いなので、この際、総て「ゝ」「ゞ」で統一することとした。踊り字「〱」は正字化した。

 私は、昨日までに、私の高校国語教師時代のオリジナル古典教材授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」©藪野直史)を補助するものとして、柳田國男の「うつぼ舟の話」一篇全七章(分割公開)及び「うつぼ舟の王女」(全)をここカテゴリ「柳田國男」で電子化注したが、本篇はその最終章の末尾に単行本刊行の際に添えた『附記』で、柳田が『『海南小記』の「炭燒小五郞がこと」も、この一卷の姫神根源説と小さくない關係をもつて居る。書いた時期はやゝ隔たるが、筆者の見解には大きな變化は無いのである』と記した一篇であり、その要請に従ってここに電子化するものである。

 なお、今回については、原則として私の目障りな注は、原則、施さないこととする(どうしても必要と私が判断した箇所や全集との有意な移動箇所の注記、及び、若い読者で読みに悩む箇所等は読みを振ることとした)。安心されよ。【2018年9月20日始動 藪野直史】]

 

  炭燒小五郞が事

 

      

 大正九年の九月一日であつたかと思ふ。私は奧州の海岸を傳うて、とうとう尻矢岬(しりやざき)[やぶちゃん注:全集版では『尻屋岬』と訂正されてあり、以下も総てそうなっている。これは思うところあってそのまま残す。ここまで書いたので、言っておくと、下北半島の北東端である青森県下北郡東通村にある岬で、(グーグル・マップ・データ)。]の突角[やぶちゃん注:「とつかく(とっかく)」。]に辿り着き、燈臺裏手の岩に腰をかけて、荒く寂しい北方の海を眺めた。三戸(のへ)郡の鮫港[やぶちゃん注:「さめみなと」或いは「さめこう」。]から、この附近に來て事業をして居る本間君と云ふ人が、最も親切に世話をしてくれたので、別れに臨んで今に南九州に遊びに行くから、南の端の大隅の佐多岬(さだのみさき)から、必ず通信をしようと云ふ約束をした。ちやうど丸四ケ月の旅行の後、豫定の如く佐多の田尻と云ふ村に宿して、元旦の鷄の聲を聽き、年始の狀を本間君へ出したときは、何か大きな仕事を終つたやうな、滿足を感じたのであつた。佐多の燈臺監守の三宅氏は、家は相州にあるが尻矢の事もよく知つて居た。尻矢や遠州の御前崎(おまへざき)、或は豐後水道の水之子[やぶちゃん注:「みづのこ(みずのこ)」。]などでは、渡り鳥の季節には燈臺の光に迷はされて、大小無數の鳥類が、突當つて落ちて死ぬと謂ふが、佐多では神の森がよく茂つて居る爲か、其樣なことが少ないと云ふ話もした。こんな細長い日本の島が、一つの國である爲に生活事情も亦一つで、坐して千里の天涯にある雪の荒濱を、あたかも鄰家の噂をする如く話し合ふことが、此日は特別に有難く思はれた。

 佐多の島泊(しまどまり[やぶちゃん注:底本は『しまとまり』であるが、先行するヶ所で(以下のリンク先)「しまどまり」と振っており、本篇の「八」でも「しまどまり」と振られてあるので、誤植と断じて濁音化した。])から伊座敷(いざしき)に越える山路を、豐後から來た炭燒が獨力で開いた話は、もう本文にも書いておいたが[やぶちゃん注:本「海南小記」の先行する七 佐多路」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で示しておく。]、どう考えてみても自分には、奇緣とより他は感ぜられなかつた。豐後は今に於て尚炭燒の本國である。其一半は進化してナバ師卽ち椎茸作りとなり、各地に招かれて、盛にナバ木の林を經營して居るが、他の半分は昔ながらの炭を燒くべく、此頃は主として鄰國日向の東臼杵(ひがしうすき)の奧山に入つて居る。炭燒には人も知る如く、現在尚傳授を必要とする技術があつて、而も同じ楢なり櫪(くぬぎ)なりを伐つても、土地と竃[やぶちゃん注:「かま」。]とに由つて出來る炭には差等[やぶちゃん注:「など」。]がある。しかも普通の民家に火桶を用ゐるに至つたのは、煙草などよりも更に新しいことで、偏土の山に炭を燒いた始は、必ず別に尋常ならざる需要があつた爲と思はれる。さすれば何が故に豐後の炭燒のみが夙く[やぶちゃん注:「はやく」。]人に知られ、殊には小五郞長者の物語が、遠く久しくもてはやされるに至つたか。

 大分縣方言類集に依れば、宇佐郡などで炭をイモジと謂ふとある。是が若し炭の最初の用途を語り、更に一步を進めて宇佐の信仰の極めて神祕なる部分、卽ち所謂薦(こも)の御驗(みしるし)、黃金の御正體(みしやうたい)の由來を解き明かす端緖ともなるならば、我々の學問は永く今日のしどけなさに棄てゝ置かれる患も無く、夢のやうな村々の歌が尚至つて大切なる昔を、忘却から救うて居たことを、追々に認める世の中が來るであらう。

 自分は尻矢外南部(そとなんぶ)の旅を終つてから、船で靑森灣を橫ぎつて津輕に入り、弘前の町に於て始めて此地方の炭燒長者の話を知つた。豐後に起つたことは疑が無い炭燒の出世譚が、ほんの僅かな變更を以て、本土の北の端までも流布するのは如何なる理由であるかを訝るの餘り、稍長い一篇の文を新聞に書いて置いて、九州の旅行には出て來たのであつた。豐後をあるいて見ると考へねばならぬことが愈多かつた。其から途上に幾度と無く斯んなことを空想しつつ、佐多の島泊までやつて來て、さうして又豐後の炭燒の小屋の前を過ぎたのである。自分の想像では、豐後の國人は今でも炭燒を以て、微賤にして恥づべき職業と思つては居らぬやうである。聞いて見る機會は無かつたが、此小屋の主人なども、或は炭燒だから斯う云ふ尊い事業をするのだと考へて居たのかも知れぬ。近年石佛を以て一層有名になつたが、臼杵の城下に近い深田の里には、小五郞が燒いたと云ふ炭竃の址あり。岩のくづれの間から炭の屑の化石と云ふ物が無數に出る。長者の後裔と稱する家には、俵のまゝ燒けた炭が二俵と鉈などを持ち傳へ、一年一度の先祖祭に之を陳列して人に見せる。或は又家傳の花炭と稱して、七十八代の間連綿として、之を製したと云ふ由緖書も傳はつて居る。卽ち或特定の家族に於ては、此物語は今も決して單純なる文學では無いのである。

 大昔小五郞の炭を燒いたのは、別に重要なる目的のあつたものと、推測する人は近年は既に多かつた。長者大に家富みて後に、召されて都に登つた愛娘(まなむすめ)の船を、遠く見送つて別れを惜んだと云ふ姫見嶽から、この深田の村近くまで、現に皆金銅鑛[やぶちゃん注:聴き慣れない語であるが、これは「愚か者の金」、黄銅鉱(CuFeS)のことであろう。]の試掘地に登錄せられている。前に臼杵の警察署長で、後に大分銀行の支配人となつた某という人が、傳説から思ひ付いて出願したのが、今は或大阪人が買取つて權利を持つて居る。爰から七八里離れた大野郡三重町の内山も、内山觀音の緣起に依れば、小五郞の初の在所であつて、炭を燒いて居た故迹は、はど近い神野(かうの)の山家であつたと傳へる。而も燒いた炭をどうしたかと云ふことには考へ及ばずに、例の朝日さし夕日かゞやく云々の歌などに由つて、長者の寶を埋めた地を見付けようと、そこら掘返した人が幾らもあつた。明治の少し前にもこの内山で、金の蒲鉾形の物を多數に發掘したことがあつたと謂ふ。それを買取つて外國人に賣り、後に發覺して獄に投ぜられ、維新の大赦で出牢を許された人のあることを、その實物を見たと云ふ人の子息から、匿名で知らせてくれたこともあつた。傳説と歷史とは、人がこれほど賢くなつてしまつた時代までも、まだ紛亂し混淆し、且つ身勝手に誤解せられて居るのである。况や鄕土を愛する人々は、多く一地方の古傳に割據して、目前の因緣關係をすらも否認するために、一層此問題が解きにくゝなつてしまふのは、誠に是非もない次第である。

 

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