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2018/09/24

柳田國男 炭燒小五郞が事 四

 

 

 溯れば源は尚遙かである。神が人間の少女を訪らひ[やぶちゃん注:「とぶらひ」。]たもふということは、豐後においては嫗嶽(うばだけ)の麓に、花の本の[やぶちゃん注:「はなのもと」。段落末注参照。]神話として夙く之を傳へて居る。神裔は永く世に留まり、卽ち緖形氏(をがたうぢ)の一族と繁衍[やぶちゃん注:「はんえん」。「繁栄」に同じい。]したと謂ふ。緖形はまた大神田(おがた)とも書くものあり、大和の大三輪(おほみわ)の古傳と、本は一つであらうと謂ふ説も、尚其據り所無しとせぬのであるが、更に之を隣國宇佐神宮の信仰に思ひ合せるときは、先づ其脈絡關係の殊に緊切なるものあるを認めざるを得ぬ。八幡は最も託宣を重んじたまふ大神であつた。歷史の錄する所に從へば、其巫女の言[やぶちゃん注:「げん」。]は時代を逐うて進展し、現に朝家に在つては年久しく宗廟の禮を以て之を齋ひ[やぶちゃん注:「いはひ」。]祀られてあるが、當初は單にある尊き御母子の神と信ぜられ、必ずしも記紀に傳ふる所の應神天皇の事蹟とは一致せず、恰も山城の賀茂に於て別雷神(わけいかづちのかみ)とその御母とを祀るが如く、玆にも亦玉依姫は、其姫大神の御名であつた。大隅正八幡宮の如きは、後に宇佐より分れたまふ御社かと思ふのに、其社傳に於ては別に神祕なる童貞受胎の説があつて、頗る高麗百濟の王朝の出自と相類し、直接に日神をもつて御父とすと迄信じられて居た。是れ日本の國家の未だ公けに認めざりし所ではあるが、少なくとも以前の信徒の多數に、此の如く語り傳へる者はあつたのである。眞野の長者が放生會の頭(とう)に選ばれて、門前に榊を樹てられた[やぶちゃん注:「たてられた」。]時、流鏑馬(やぶさめ)の古式を知る者無くして、誰にてもあれ此神事を勤め得たらん者を、一人ある娘の聟に取らうと謂ふと、乃ち山路が進み出でゝ、始めて射藝を試みるといふ一段は、後に百合若大臣(ゆりわかだいじん)の物語にも、取り用ゐられたる花やかな場面で、此曲に聽き入つた豐後人の胸の轟きは想像にも餘りがあるが、其よりも更に驚くべかりしは、愈第三の矢を引きつがへて、第三の的にかゝらんとしたまふ時しも、天地震動して八幡神は神殿を搖ぎ出でたまひ、君の御前に畏まつて、自ら敬を十善の天子に致したまふと云ふ條である。卽ち神よりも尊い御身が、斯んな草苅童の姿を假りて、暫く長者の家に止まりたまふと云ふことが、果して尋常文藝の遊戲として、古人の口の端に上るべきものであつたか否かは、詳しく説明するまでも無いのである。宇佐が古來の傳統に基いて、次々に四所八所の若宮(わかみや)王子神(わうじがみ)を顯し祀り、遠い東方の郡縣に、絶えず活き活きとした信仰を運んで居たことを考へると、其力が山坂を越えつゝ、南鄰の國々へも早くから、斯うして進んで居たことは疑が無い。要するにもと山路が笛の曲なるものは、神が人間界に往來したまふ折の警蹕[やぶちゃん注:「けいひつ」。天皇や貴人の通行などに際し、声を立てて、人々を畏まらせて「先払い」をすること。]の音であつたのを、佛法が干涉して神子を聖德太子と解せしめんとしたゝめに、是を何のつきも無く[やぶちゃん注:何らの曰く所縁もなく。]、用明天皇には托するに至つたのである。

[やぶちゃん注:「花の本の神話」三輪山直系の大蛇の化身伝承「嫗嶽大明神伝説」で、これは「平家物語」巻第八の「緒環」の章でも語られている、緒方惟栄(これよし 生没年不詳:豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領し、源範頼の平家追討軍に船を提供し、「葦屋浦の戦い」で平家軍を打ち破った武将)をその神裔とする。個人サイト戦国 戸次年表」の「嫗嶽大明神伝説を参照されたい。]

 此推定を更に確めるものは、姫の名の玉世であつた。宇佐の姫神の御名を玉依姫と傳へた理由は、久しい間の學者の問題であつて、或は之に由つて山に祀つた御神を、海神(わたつみ)の御筋かと解する者さへあつたが、神武天皇の御母君が、同じく玉依と云ふ御名であつたことは、唯多くの例の一つと謂ふばかりで、前にも云ふ如く賀茂でも大和でも、凡そ神と婚して神子をまうけたまふ御母は、皆此名を以て呼ばれたまふのである。玉依は卽ち靈託であつた。人間の少女の最も淸く且つ最もさかしい者を選んで、神が其力を現したまふことは、日本神道の一番大切なる信條であつた。神の御力を最も深く感じた者が、御子を生み奉ることも亦宗教上の自然である。今日の心意を以て之を訝るの餘地は無いのである。眞野長者が愛娘も、玉世であつた故に現人神(あらひとがみ)は乃ち訪ひ寄られた。それが亦八幡の古くからの信仰であつた。

 或は又別の傳へに、姫の名を般若姫と謂ふものがある。周防大畠に般若寺があつて、姫の廟所なりと謂ふ説と關係があらうと思ふが、尚さうしなければならぬ第二の必要は、姫の母長者の妻を亦玉世姫と謂ふ故に、之を避けんとしたものであつて、爰にも此物語の古い變化が認められる。烏帽子の插話に於ては、長者の妻は其夫に向つて、「御身十八自ら十四の秋よりも、長老の院號蒙つて、四方に四萬の藏を立て」と謂ひ、山中に炭を燒いた以前の生活は、もう之を忘れしめられて居るやうであるが、此點は恐らく豐後人の承認し能はざる改訂であつたらう。長者の物語は其性質上、斯うして際限も無く成長し、後には繪卷の如く幾つかに切り放して、纏めて見れば一致せぬ箇條が、現れて來るのを普通とはするが、今若し母と子と二人の玉世の、何れが先づ知られたかを決すべしとすれば、自分は躊躇無く話の發端であり、發生の動畿の不明であり、且つ類型の少ない炭燒の婚姻を以て、神を聟とした玉世の姫の奇緣よりも、一つ前から存在した場面なりと認める。然らば宇佐の玉依姫の故事も、此には適用が無かつたかと謂ふと、それは唯記錄に現れてからの八幡の信仰が、第二の玉世の物語に近かつたと云ふのみで、神を尋ねて神に逢ふと云ふ更に古い炭燒口碑が尚古く存し、時の力で十分に人間化して、斯うして久しく殘つて居たとも、考へられぬことは無いのである。炭燒はなるほど今日の眼から、卑賤な職業とも見えるか知らぬが、昔は其目的が全然別であつた。石よりも硬い金屬を制御して、自在に其形狀を指定する力は、普通の百姓の企て及ばぬ所であつて、第一にはタヽラを踏む者、第二には樹を焚いて炭を留むるの術を知つた者だけが、其技藝には與つて[やぶちゃん注:「あづかつて」。]居たので、之を神技と稱し且つ其祖を神とする者が、曾てあつたとしても少しも不思議は無い。扶桑略記の卷三、或は宇佐の託宣集に、この郡厩(うまや)の蜂(みね)菱潟(ひしかた)の池の邊に、鍛冶(かぬち[やぶちゃん注:ちくま文庫版は『かじ』。])の翁あつて奇瑞を現ず。大神(おほみわ)の比義[やぶちゃん注:「ひぎ」。]なる者、三年の祈請を以て之を顯し奉る。乃ち三歳の小兒の形を現じ、我は是れ譽田(ほんだ)天皇なりとのりたまふとある。若し自分などが推測する如く、比義は最初の巫女の名であつたとしたら、貴き炭燒小五郞が玉世姫の力に由つて顯れたと謂ふのは、極めて之に近い神話から、成長して來た物語と見ることができるのである。

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