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2018/09/14

原民喜 夢時計

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年十一月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 簡単に語注を附しておく。

・主人公の名「千子」であるが、これは既に電子化した後の「淡章」(昭和一七(一九四二)年五月号『三田文學』初出)の「榎」の主人公の名としても出る。個人的には「かずこ」と読みたい気がする。「もとこ」「ゆきこ」等の読みもある。なお、本篇の描写から、この千子には原民喜の妻貞恵(昭和八(一九三三)年に結婚後、昭和一四(一九三九)年に結核(糖尿病も併症)発病、本篇発表の二年後の昭和一九(一九四四)年九月に三十三歳で逝去した。逝去当時、民喜三十八歳)の影が色濃く感じられるように思われた。

・「機み」は「はづみ(はずみ)」と読む。

・「歇なかつた」は「やまなかつた(やまなかった)」。

・「閊へてゐる」は「つかへている」。

・「蹠」は「あしのうら」或いは「あしうら」。

・「顰めた」は「しかめた」。

・「顴骨」は「かんこつ」(「頰骨」のこと)と読んでおくが、これは慣用読みで、実際には「けんこつ」が正しい読みである。

・「視凝めて」は「みつめて」。

・「怕く」は「こはく(こわく)」。「怖く」に同じい。

・「鞴」は「ふいご」。

・「矢次速に」は「やつぎばやに」。「矢継ぎ早に」に同じい。

・「捋し去らう」は「らつしさらう(らっしさろう)」。「拉(らっ)し去ろう」に同じい。

・「その星は砂地を亙つて墓地に柵の方へ走つて來るのだつた」このままでも不自然とは言えないが、せめても「その星は砂地を亙つて墓地に、柵の方へ走つて來るのだつた」と読点を打つべきで、或いは「その星は砂地を亙つて墓地柵の方へ走つて來るのだつた」の誤字か誤植かも知れぬ。「の」の方が躓かぬ。

・「對つて」は「むかつて(むかって)」。

・「𢌞角」は「まはりかど(まわりかど)」と読んでおく。「曲角」としないのであるから、直角でない曲線の通路と採っておく。

・「ぺつとりと」「べつとりと」ではないので注意。

・「這入る」経験上から、原民喜はこれで「はいる」と訓じている。

 

・「吻として」経験上から、原民喜はこれで「ほつとして(ほっとして)」と訓じている。

・「麥藁眞田」は「むぎわらさなだ」で「麦稈真田(ばっかんさなだ)」のこと。麦藁を平たく潰し、真田紐のように編んだもので、夏帽子や袋物などを作るのに用いる。

 なお、本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。]

 

 夢時計

 

 白い露のおりてゐる草原の線路に、いくつもいくつも提燈が犇いてゐて、汽車が近づいて來るに隨つて、遠くの方の提燈が波打ち、そして段々こちらの提燈も波打ち、あかりをつけた窓々には默々と人々の顏が見えてゐて、それが過ぎ去つてしまふと、天の川がくつきり見え、提燈を持つた人々はぞろぞろと步きだし、千子は人と提燈の流れに從つて步いてゐるうちに、枯れた黍の穗が塀に悶え、石塊が灰白く、いつしか足許は不安に吸込まれるやうであつたが、やがて人々は小學校の講堂へ雪崩れて行つた。いつの間にか板の間には白衣の勇士が坐つてゐて、壇上では假裝行列の樂隊が始まり、どつと人々は哄笑に沸き立つ。近所の知つた人の變裝を見つけて、千子もほつと笑ひかけたが、どうした機みか、淚が浮ぶと、もうそれはいくら制しようとしても歇なかつた。わあわあと溢れ出る淚に千子は轉び伏してゐたが、そのうちにこんなに泣いては皆に迷惑かけると思ひあたると、そのことがまた切ない淚を誘つて、今度は一生懸命で聲を消さうと努めると、息が妙に塞がつて來た。

 今、咽喉の奧の方で死にかけた蟋蟀の聲のやうな音がゆるく絡つてゐて、細い細い今にも折れさうな針金のやうなものが閊へてゐるので、千子は不思議さうに何度もそれが咽喉の奥から引張り出せさうに思つて、顏を顰めた。すると、蹠の方や指のさきから、ザラザラとした熱の微粒が湧いて來て、それは潮のやうに皮膚の全面を撫で𢌞つてゆき、あるところでは渦を卷き、あるところでは急流となつて、その振舞がいよいよ募つてゆくと、心臟は脅えながらも、づしんづしんと音を高め、やがてもの狂ほしい勢で家政婦の姿がをどり出た。

 相手は理不盡なことを要求し、口ぎたなく罵りながら、今廊下を足音荒く逃げてゆく。どこまでが廊下なのか、どこまでが千子の心臟なのか、みんなわからなくなつてゆくうちにも、家政婦の尖つた顴骨やギツギツした眼ざしは濛々とした中に閃き、相手が撒き散らして行つた呪詛の言葉はくらくらと湯氣を發した。その湯氣は眞黑な闇となつてあたり一めんを領した。その時、千子の軀はぐつたりとして、透き徹つて消えてゆくやうにおもへたが、暫くして氣がつくと向の黃色な壁のところにひそひそと身を屈めて、靑ざめた女が茶碗に一杯溜まつた液體を訝しげに視凝めてゐる。千子はそれが自分自身の姿であることを識り、あの壁はどうやら野村病院の壁だつたらしいと思ひあたると、茶碗の中のものはもとよりわかりきつてゐた。ところが向の靑ざめた女はとろとろとした袋のやうな血の塊を指でつまんでは舌のさきにやり、無理矢理に吞込まうとしてゐる。

 千子はぎよくつとして、それを見るのが怕くなつた。ジンジンと厭な鋭い音が針の亂れて降りかかる闇に續き、わたしはどこにゐるのだらう、わたしのからだはどこにあるのかしら、と茫漠とした悶えを繰返してゐると、ふと掌に觸れたシイツの端から、顏全體の輪廓が浮び上り、どうやら千子の魂はそこへ舞ひ戾つて來た。だが、その掌はお湯に浸したやうに熱く、頰の下の一とところは焰がゆらいでゐるやうに火照つて、心臟の疼くことも前と變りなかつた。深夜の部屋は墓のやうにひつそりしてゐた。

 千子は心弱く溢れ出た淚の眼瞼を、ぼんやり閉ぢてゐると、眼球がずんずん腦の方へ沈んで行きさうになり、くらくらする頭の内部の暗がりに、腫れて少し大きくなつてゐるらしい眼球の恰好がまざまざと描かれて來たが、夢にまでこの眼は泣かされてゐるのかしらと思ふと、一たん沈みかかつた眼球の運動が今度はだんだん上方へ昇つて行き、そのうちいつの間にか風呂場の煙突の折れ口がパツと口を開いてゐた。

 嵐でへし折られたその煙突はぶらんぶらんと頭上に搖れ、今にも降り出しさうな空模樣の中に、歪んだ針金を突出し、その針金には蜘蛛の巢が汚れてぶら下つてゐる。今にもあれは墜ちるかもしれないと、千子は口惜しくて耐らなく、眼もとが昏んでゆく思ひだつたが、ふと見ると、その煙突の傍には靑ぶくれした顏の煙突屋がぼんやり腰を下してゐる。何度賴みにやつてもやつて來なかつた煙突屋は今も修繕に取掛らうとするでもなし、氣心の知れない顏附で煙草を吸つてゐた。ところが煙突屋は誰か向に知人を見つけたらしく、一寸手をあげて合圖した。怪しんで千子がその方向を見𢌞すと、塀の破れ目から爛々と光つてゐる家政婦の眼があつた。と、思ふとバタバタ逃げだす足音がして、千子の心臟はまた張裂けさうになる。

 軀は鞴のやうに音を發し、その上をいくつもいくつも其黑いものがつ走り、矢次速に黑い塊は數を增してゐた。ザザザと彼の音が聞えた。海岸の空に懸つてゐる三日月がキラリと一瞬美しく見えた。と思ふと、眞黑いものは更に猛り立ち、その巨大なものは無理矢理に千子を捋し去らうとする。風の唸りや稻妻の中に折れ曲つた煙突があはれに浮んだ。暫くして、あたりは氣の拔けたやうに靜かになつた。

 仄暗い砂地にはささやかな波形の紋が一めんに着いてをり、重たい空氣の中にヒリヒリと草の穗の熟れる匂ひが漾つて來た。今、千子の眼の前に黑い柵がくつきりと蹲つてゐて、柵の向にも砂地は起伏し、そのあたりの光線は奇妙にはつきりしてゐたが、その上に被さる漆黑の空には無數の星が刻んであつた。千子の眼は吸込まれるやうに星空に見入つてゐると、病苦に滿ちた空の星は瞬く每にいよいよ美しくなつてゆくやうであつた。ふと、一つの星が白い尾を曳いて砂地に落ちた。今、落ちたところの星は遠くの地點にあつて、ぐるぐると囘轉してゐるやうであつた。暫くすると、その星は砂地を亙つて墓地に柵の方へ走つて來るのだつた。見れば砂煙をあげて音もなく走つて來るのは灰色の豚であつた。千子は目を疑ふやうに空を見上げた。流星はひつきりなしに砂地を日懸けて墜ち、豚の數ほ陰々として增えて行く。無言のまま砂塵をあげて突進する豚の群は黑い柵のすぐ側を犇き流れた。ある限りの星は地上に向つて墜落しつづけた。

 千子はぐつたりと脅えて、傍の柵にとり縋つた。黑い柵のほとりには何時の間にか千子の夫の顏もあつた。

「ああ、あれはどうなるのでせう」と千子は凄じい動物の群を指差した。「そつとしておいた方がいい」と夫は口籠つた聲で答へた。そのうちに、あたりの樣子は徐々に變つてゆき、今も眼の前に不可解な現象は生起してゐたが、次第にそれはレントゲンに映る肺臟の風景に似かよつて來た。

 星の消えた空はうつろに靑ざめてゐた。家畜の群も既に散じて見えなかつた。起伏する砂丘の一端に黑い岩帶があつて、そこから白煙がゆるゆると立騰り、あたりの空氣を濁してゐた。麓の方に目も覺めるばかりの薊の花が一むら咲いてゐるのは、千子が旅で見たことのある風景ではなからうか。だが、傍で誰かが説明を加へてゐた。あの煙が消えて、あの黑い岩穴が塞つてしまふまでは、まだまだ養生をしなければいけません。千子はその人に對つてお時儀をして、部屋を出て行つた。

 草を敷いた長い廊下を步いてゐると、扉や𢌞角で看護婦とすれ違つた。その看護婦たちの足はみんな廊下から宙に二三寸浮上つて進んでゐるのに、千子はぺつとりと足が下に吸込まれてゆくやうで、草を敷いた廊下は汗ばんだ足の下をずるずると流れて行つた。廊下は容易に盡きなかつたが千子は一心に步いてゐた。次第に行交ふ人の數が增えて、それは巷で見かける人々の服裝になつてゐたが、遂にある部屋の前に人々は殺到してゐた。

 千子は立並ぶ人の中に捲込まれてゐると、すぐ後からも人が來て並んだ。その傍を自轉車に乘つた男が蜻蛉のやうに飛んで行つた。後から押されるやうにして、部屋の中へ這入ると、薄暗い光線の中に押込められて立つてゐる人々の顏はみんなぼんやり霞んでをり、千子は呼吸をするのもつらくなつた。苔の生えた大きな柱が高い天井を支へてゐて、ものものしい殿堂に似た場所であつた。漸く人數が減つて、眼の前に石の臺が見えた。千子は 吻として、石の臺に肘を凭せ、向に立働いてゐる人に對つて、何か訊ねようとした。すると白い顏をした小僧がヂロリと千子を見咎め、「切符の無い人は駄目だよ」と云つた。忽ち周圍に居合はせた人々が笑ひだした。千子は喘ぎながら辨解しようとした。「オイオイ、病人のくせして出しやばるない」と、ステツキを持つた男の聲がした。

 すると、人々は遠かに動搖しだした。女達はあわてて千子の側を避けながら、鼻に袖をあて、お互に耳打ちしては千子の方を振向く。男は忌々しさうに顏を外けた。千子はブルブルと戰へながら立疎んでゐたが、そのうちに立つてゐる力を失ふと、ワツと泣き崩れて行つた。死ねるものなら死んでしまひたい、早く死んでしまひたいと轉倒しながら泣き叫んだ。

 倒れてゐる千子の軀から二つ三つ白い影が立迷ひ、ぐるぐるぐる立迷ひ、倒れてゐる千子はすべてを失つて行くやうであつた。しかし暫くすると、足指の方から枕の方へふわりと影は戾つて來た。夜の部屋は死のやうにひそまつてゐた。こんなに興奮してはまた軀に障るだらうと、千子はおづおづと眼を閉ぢた。暫くすると、眼を閉ぢてゐる筈なのに、すぐ側の押入の内部がはつきりと眼の中に飛込んで來た。もう長い間整頓したことのない押入は、行李や新聞の包みが歪んで脹らんでゐたが、それに天井板の方からぶら下つた麥藁眞田がぐるぐる髮毛とともに絡んでゐる。あんな麥藁眞田などをどうして今度の女中は持つて來たのかしらと思ふと、隅の方に笊が置いてあつて、豆もやしとマツチの軸木が一緖くたに混ぜこぜになつてゐるし、鼠の開けたらしい穴からは隣の家の庭がまる見えになつてゐて、そこから蛞蝓がずるずると匐ひながら行李の方へやつて來る。蛞蝓はもう行李の蓋にべつとりと一杯群がり、次第に行李の中の衣類へ移つて行く。着古した着物の襟や、裾の裏地にまで、蛞蝓はねとねとと吸ひつき、そのままじつと動かなくなる。と、袂の隅が少し脹らんで動きだしたと思ふと、そこからは大きな蛾が跳ね出して、パタパタと押入の中を飛𢌞つた。眼のキンキン光る蛾は翅からパラパラと粉を撒き散らし、押入は濛々と煙つてしまつた。

 千子は無性に腹が立ち、今にも飛起きて、あそこを片附けたくなつた。あの着物はもうみんな洗張して縫ひ直さなければいけないと思ふと、ヂリヂリと氣は苛立ち、夜具の上にきつと坐り直した。だが、暫くすると、がくりと姿勢は崩れて、今度はふらふらと手探りで催眠劑のありかを求め、小さな箱にコロコ搖れる藥を掬ふやうに掌に取ると、そのまま睡りに陷ちてゆくやうであつた。


 

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