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2018/09/29

反古のうらがき 卷之四 雲湖居士

 

 反古のうらがき 卷之四

 

 ○雲湖居士

[やぶちゃん注:本篇は特異的に異様に長い。禁欲的に改行を施し、途中に注を挿入した。なお、長い割りに期待するほどの展開を示さない(私にとってはそうであった)ので覚悟して読まれたい。]

 一場藤兵衞は、近授(きんじゆ)流馬術の師範なり。高貮百俵、小十人の家なりけり。文政未年[やぶちゃん注:文政六年。一八二三年。]、御納より大坂御破損奉行となりしが、町人より賄賂を受たるよし、聞へければ、俄に御召下しありて、御吟味の上、遂に遠島と、罪、きわまりけり。舟出の前の日、病(やみ)て死)(しに)ければ、家は絶(たえ)はてにけり。

[やぶちゃん注:「一場藤兵衞」【2018年9月30日追記】昨日、「不詳」として公開したが、何時も御教授を戴くT氏より、寛政重脩諸家譜第八輯」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の「一場」氏の系譜中に以下の記載があることをお教え下さったので、謝意を表して以下に掲げる。なお、それによれば「一場」氏は元「大島」氏を名乗っていたという記載がリンク先の前の頁にある。一場政許(まさもと)の嗣子(養子。政許の実子も「政成」であるが、父に先だって没したとする記載がある)である。

政成(まさなり)

藤兵衞 實は石黑平次太敬之が三男、母は設樂喜兵衞正篤が女、政許が養子となり、その女を妻とする。

寛政六年[やぶちゃん注:一七九四年。]十一月十四日小十人に列す。【時に三十歳】 妻は政許が女。[やぶちゃん注:次の項に「女子」(政許の長女格)とあって「政成が妻」と記す。]

また、政成の嗣子として、

政修(まさなが) 直五郎 母は政許が女。

とあり、そこで「一場」氏の系譜は終わっている。本篇の後の方に「
藤兵衞惣領直五郞、卅歳斗りにて死す」「藤兵衞妻、家付なり」と合致する。

「大坂御破損奉行」ウィキの「破損奉行」より引く。『大坂定番の支配下で、大坂城と蔵の造営修理、またそのための木材の管理を役目とした。持高勤めで、在職中は役料として合力米』八十『石を支給された。定員』三『名で、配下にそれぞれ手代』五『人、同心』二十『人ずつがつけられた。大坂具足奉行・大坂弓矢奉行(弓奉行)・大坂鉄砲奉行・大坂蔵奉行・大坂金奉行とともに大坂城六役』『または六役奉行と呼ばれていた』。『当初は大坂材木奉行と呼ばれていたが』、元禄一一(一六九八)年十一月十八日に、それまで二名だった『材木奉行を』三『名に増員し、破損奉行と名称が変更された』。寛永元(一六二四)年に『南条隆政(なんじょう たかまさ)がこの職に任じられたのが始まりで、配下には地付の手代と大坂城の淀川対岸にある川崎材木蔵を管理する蔵番』六『名がいた』。『修復の際には、まず大工頭の山村与助が見積もりをし、吟味の上で江戸に伺いをたて、大坂町奉行所で御用掛代官とともに入札に立ち会った後、摂津・河内・和泉・播磨の』四『箇所の天領に賦課された大坂城・蔵修復役の代銀を支払いに』当て、『修復を行った』とある。]

 此人、養子にて、實家は石黑彦太郞とて御右筆なり。屋敷、本所割下水なりき。一場、屋敷は、はじめは牛込山伏町、予が東隣なりしが、後、土手四番町富永靱負(ゆきえ)【千石。】、御番士の隣家へ引越けり。

[やぶちゃん注:「本所割下水」底本の朝倉治彦氏の補註に、『北割下水と南割下水とがあった。万治二』(一六五九)年に、『堅川、橫川と同時に作られた掘割。現在』は『埋められて、ない』とある。位置確認はサイト「Google Earthで街並散歩(江戸編)」の「割下水跡(北斎通り)」がよい。

「牛込山伏町」底本の朝倉治彦氏の補註に、『新宿区。二十騎町の北隣。昔』『山伏が大勢住んでいたが、享保八』(一七二三)年『十二月十八日の火事で類焼し、山伏町は下谷に移った。林大学頭の下屋敷もここにあった』とある。現在の新宿南山伏町・北山伏町・市谷北山伏町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「土手四番町」底本の朝倉治彦氏の補註に、『千代田区。市ヶ谷御門内から牛込御門内への堀端』とある。現在の神田川右岸に添った外濠公園の南東に接触する附近(グーグル・マップ・データ)。]

 此所にて馬術師範せしが、弟子も多くありけり。予も其一人なりけり。

 近授流といへるは、牧師[やぶちゃん注:「まきし」と読んでおく。]の流にて目錄免許といふ事もなく、其師の心によりて、其わざある者に傳授をゆるすことなり。故に免許受けたりといふもの、至(いたつ)て少し。靑山下野守・松平能登守・大澤主馬・一場藤兵衞、此四人のみ也。皆、大澤主馬の父何某より傳へたると聞へし。其後、靑山家士山室又藏となんいゝ[やぶちゃん注:ママ。]ける者免許し、又、其後、目錄も作り、免許も傳へし人も、よりより、あるよしなりしが、兎角に御番方部屋住(へやずみ)藝術書上げ等によろしからぬとて、改流する人も多かりしに、此度一場家斷絶より、此流を學ぶ人、絶てなくなりけり。

[やぶちゃん注:「大澤主馬」以下、本話には多数の人物が登場するが、底本に注がある人物以外は原則、注を附さない。但し、この「大澤主馬」は、たまたま別の理由で検索を掛けていたところ、個人ブログ「寛政譜書継御用出役相勤申候」の「大澤 高八百五十六石八斗四升」の中に、当該人物の記事を見出したので(本条文部分が引用されてあれてある)、リンクさせておく。]

 天保の季年[やぶちゃん注:ここは天保末年では不都合が生ずるので(後注参照)末年(天保は十五年まで)の意ではなく、「天保年間の終り頃」の意。]、水野越前守[やぶちゃん注:る老中水野忠邦。彼は天保一〇(一八三九)年十二月に老中首座となって「天保の改革」を主導したが、天保一四(一八四三)年閏九月に失脚、老中御役御免となっている。]、諸流武藝を問正(とひたゞ)せしに、

「近授流と書出す者、近來、絶て無ㇾ之(これなき)は何故。」

と問ひて、其譯を聞き、其流末のものを呼びて見分(けんぶん)し、八丈端物を賞しけり。

[やぶちゃん注:「八丈端物(たんもの)を賞しけり」「八丈」絹の「反物」(たんもの)ではなかろうか。所謂、幕府から向後も近授流の手技の勉励と伝承を致せ、との褒美として下されたものであろう。]

 有馬吞空(どんくう)【御番士。隱居。】・富永孫六【今、御使番。】は免許受たるよし。其外、目錄を受(うけ)たる人、六、七人なりけり。

「一流の斷(た)ゆることは大事の事なれば、よくよく申合せ、斷絶これなきよふ[やぶちゃん注:ママ。]すべし。」

とて、申聞(まうしきか)せしよし、越前守、盛擧[やぶちゃん注:力を入れた盛大なる計画・事業。]にてぞありける。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行が成されてある。]

 一場が家に、一寸八分の黃金佛觀音あり。淺草觀音同體と言傳ふ。

 如何なる譯にて得たるか、數代前より持傳ふ、甚(はなはだ)あらたなる佛也といへり。

[やぶちゃん注:浅草寺(当時は天台宗)の本尊は聖観音菩薩像で秘仏(高さ一寸八分(約五・五センチメートル)の金色の像とされるが、公開されたことがないため、実体は不明)で、伝承では推古天皇三六(六二八)年に宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた兄弟の網に掛かったとされ、平安初期の天安元(八五七)年(或いは天長五(八二八)年とも)に、延暦寺の慈覚大師円仁が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像造立したとされる(以上はウィキの「浅草寺」に拠る)。秘仏も前立ちもかくも古物であるのに「甚(はなはだ)あらたなる佛」というのは、これ、如何?]

 藤兵衞、祖父の代か、貧窮にて、柳町伊勢やとかいふ質屋へ質入(しちいれ)せしに、

「黃金の眞僞見分けがたし。」

とて、御足の裏をけづりて見たるよし。

 其夜、其家の番頭、發熱狂氣して、

「一場へ行(ゆこ)ふ行ふ[やぶちゃん注:ルビともにママ。]。」

といひて、狂ひしかば、人々、大に恐れ、金子も取らで一場へ歸へしければ、病(やまひ)もいへたる、と言侍ふ。

 扨、右の質屋は後家持(ごけもち)にて、番頭と二人、申合せてのことなるに、

『後家にはたゝりなし。』

と思ひけるに、程もなく、二人、密通のことありて、又、

「外に、男、通ふ。」

といふ爭ひより、番頭、怒りて、後家を切害(せつがい)し、主殺(しゆごろし)の御科(おんとが)になりたるよしは、予が祖母、聞傳へて、予に語り玉へり。

 隣家に居たる時も、三月十八日、緣日にて、處々より聞傳へ、參詣あり。番町へ行(ゆき)ても緣日に參詣を許しけり。

 其日、赤飯・煮染物(にしめもの)をこしらへ、親類・弟子等を會し、開帳拜禮の後、一杯を飮むことも有りけり。此日の賽錢共、入用にあつるに足る程ある、といへり。

 藤兵衞といへるは、至て手堅き人にてありしが、太甚(はなはだ)[やぶちゃん注:二字でかく訓じておく。]尊大にして、靑山・松平等行ても、近習の者に草履をなほさせ、挨拶なし、

「主人同樣の見識なり。」

とて、惡(にく)みを受(うく)ると聞(きき)しが、馬はよく乘たり。

 他人の見るを許さぬ流とて、内馬場(うちばば)也。野馬取(やばとり)御用の節は、門人を連れて小金(こがね)に至て、遠馬をむねとして所謂「ダク」を乘る流也けり。

[やぶちゃん注:「小金」は現在の千葉県北西部、松戸市北部の地区の旧町名。嘗ては水戸街道に沿った宿場町であったが、近世には江戸幕府直営の馬の放牧地で「小金五牧」があった。その後、畑作地帯となり、現在は宅地化している。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「ダク」「だくあし」で「跑足・諾足」。馬が前脚を高く上げてやや速く歩くこと。「並足(なみあし)」と「駆け足」との中間の速度及びその足なみを指す。「鹿足(ししあし)」とも言った。]

 常の稽古にも、拍子(ひやうし)[やぶちゃん注:馬の走るリズム。]・上足(あげあし)[やぶちゃん注:馬の足の上げ方か。]、面白からぬ馬は「早ダク」を追ふに、おもひの外よき足並み出で、上足(じやうそく)[やぶちゃん注:ここは前と差別化して読んで「駿馬」の意で採る。]の如く、馬、つかれをしらず、鞍上、平らかにして、一種の妙處ある流にてぞありける。

「軍馬はかくせざれば、馬、つかれ、用に立(たち)かぬること。」

といゝけり[やぶちゃん注:ママ。]。

 藤兵衞惣領直五郞、卅歳斗りにて死す。孫女(まごむすめ)あり。次男孫助、惣領となる。藤兵衞妻、家付なり。

 其頃より、亂心にて、大坂行(ゆく)を嫌ひて行かず、孫助、行(ゆき)たり。

 一年斗りにて歸る。母の養育の爲なりけり。

 其後、藤兵衞、大坂にて妾を置(おき)たりといふこと聞ゆ。程なく同役と申合(まうしあはせ)、町人より御用達(ごようたし)の願(ねがひ)を取持(とりもち)、無盡を取立(とりたて)たりといふこと、聞ゆ。

[やぶちゃん注:「無盡」原義の「尽きるところがないこと・限りがないこと」から、莫大な金銭を斡旋料として継続的に搾り取ったことを指すか。「口数を定めて加入者を集め、定期に一定額の掛け金を掛けさせ、一口毎に抽籤や入札によって金品を給付する「無尽講」の意もあるから、それを半強制的にそうした業者に課したとも取れるが、「取立」としっくりこない気がするので、私は前者で採っておく。]

 此事より、賄賂のこと顯れ、同役は重き御仕置となり、藤兵衞は遠嶋(ゑんたう)と定(さだま)る。

 孫助、

「父介抱として同船の願ひを出(いだ)し度(たし)。」

とて、予が方に來りて、門人靑木龜之助問(と)ひ合(あはせ)、手繼(てつづ)きをなしけり。此龜之助が父鄕助、其父遠嶋となりしが、鄕助介抱の願ひを出し、父嶋中にて死去の後、孝心のむねにて、其身、御構い[やぶちゃん注:ママ。]御免、其後、無ㇾ程(ほどな)御召し出しに預り、高百俵被ㇾ下(くだされ)けり。其例を以て、同船を願ふにてぞありける。

 扨も、同船の願ひ共(ども)叶ひて、出船の日も定(さだま)りたれども、「風並み惡し」とて、二、三日、船を出(いだ)さでありける中(うち)に、如何なる運命のつたなきにや、藤兵衞、病(やみ)て死(しに)けり。もし船中にて死たれば、介保(かいはう)[やぶちゃん注:「介抱」。]のことなくとも、孝道も立(たつ)べかりしを、出船の延びたるにて其事いたづらとなり、孫助父科(とが)にて、御構ひの御免もなく止みにけるは、不運の中にも又不運にてぞ有けり。

[やぶちゃん注:父介抱のためにともに島流しとなる予定が、このような事態になったため、父介抱は未遂無効として処理され、御家断絶は勿論、孫助も恐らくは江戸への立ち入りを禁じる「お構い」(追放)の処分となってしまったのであろう。後で「孫助、甲府より、折々江戸に來りて、予が家に立寄る」とあるが、これは後を読めば分かる通り、違法に江戸に入っているのである。「江戸所払い」でも容易に秘かに江戸に入ることは出来た。]

 家付藤兵衞妻は引取(ひきとる)者なく、夫と實家石黑にて孫助妻及び娘も引取りけり。

[やぶちゃん注:「夫と」指示語「それと」か。]

 孫助は野村篁園社中にて詩人にてぞ有ける。日下部梅堂・岡田昌碩と社を結び、詩を作る、貮人のもの、皆、及ばざるなり。篁園(こうえん)・霞舟(かしう)、每(つね)にこれを賞し、各(おのおの)和詩ありけり。其詩、篁園に彷彿して大に異氣あり、人物も甚敦厚にて且(かつ)滑稽あり。予は馬術の弟子のみならず、鎗術・弓術、皆、同師なり。且、孫助が幼なる時、予が乳を分ちて與へしかば、同胞兄弟(はらから)の如く思ひけり。又、學問も同じ程の年頃なれば、「史記」の會讀詩會等にて、月に四、五度、出合(であは)せしにより、孫助も大に賴みとせし也。孫助御構ひの後、

「甲府に知る人あり。」

とて行(ゆき)けり。其程は俳諧師となりき。其(それ)以前、和歌を學び、詩を廢す。手跡の見事成る事、妙也。楷書は篁園に似たり。大坂に一年ある内、公家の文字を學びたるが、さながらに古代樣なり。哥(うた)も其時より學びたり。

[やぶちゃん注:「野村篁園」底本の朝倉治彦氏の補註に、『名は直温』(「なおはる」か)『字君玉、篁園は号、兵蔵と称す。大坂七手組』(しちてぐみ:豊臣秀吉の馬廻組の武功ある者を選抜した精鋭から成る組頭衆「御馬廻七頭」の異称)『の一人野村肥後守直元の後裔。父は書物奉行比留勘右衛門正武の次男。天保十三年十二月十日』(一八四三年一月十日)『儒者となる。十四年六月二十九日歿、六九歳』とある。但し、試みに調べて見たが、大坂七手組に野村肥後守直元なる人物は見当たらない。不審。なお、この人物は既に注した通り、桃野が所属した文政五(一八二二)年十二月結成された詩会氷雪社の評者の一人で、評者には他に以下に出る友野霞舟と植木玉厓が当たっている。

「霞舟」底本の朝倉治彦氏の補註に、『友野霞舟、儒者。名は瑍』(「かん」と音読みしておく)『字子玉、称雄助。別に崑岡』(「こんこう」と音読みしておく)『と号す。天保十四年』(一八四三年)『甲府徽典館』(きてんかん:甲府にあった学問所。山梨大学の前身)『の学頭』(桃野が死の時に任命されることになっていた職と同じ)『に任じられ、嘉永元年』(一八四八年)『まで在任し、二年六月二十四日歿、五九歳』。『白藤・桃野父子と親しかった』とある。]

 予、靑木龜之助と斗(はか)りて、同門中を𢌞り、金子合力(きんすかふりよく)を賴む。

 古參の弟子といへども、心よく受引(うけひく)者、少し。

 予、怒りに堪へず、梅堂・昌碩行(ゆき)て計(はか)るに、皆、同意なり。

 因て門人方は、ゆかで、やみけり。【最初、一尾小平太行(ゆき)しに、少々ならば出さんといゝし[やぶちゃん注:ママ。なお、前の「江」は恣意的に小文字とした。]。其口振り、甚だまづし。折節、一尾、玄關にて昌碩に逢へり。よりて右のことを談ず。卽刻にて承引せしかば、彌(いよいよ)同門をば疎みて遂に行かず、止むこととなれり。】富永といへるは、門人のみならず、隣家にて殊に懇意なりけれは、如何にせしやしらず、予が合力にて金壹分づゝを取集めけり。靑木龜之助一分、日下部梅堂一分、岡田昌碩一分、鎗の師篠山吉之助貮朱【此人なさけぶかき人にて、いろいろの奇行あり。予も恩になりたり。墓銘、予が書(かき)たるなり。】、野村篁園貮朱、友野霞舟貮朱、予も壹分、合(あはせ)て壹商壹分出來たり。門人どもは如何せしや、其後、問わず[やぶちゃん注:ママ。]置たれば、予はしらざりけり。かゝる時にして人心は見ゆるものぞかし。其中に篠山・野村・友野が、人の究(きはまる)を見て貮朱づゝ給はりしは、金の多少によらず難ㇾ有(ありがたき)ことにあらず哉(や)。

「此壹兩壹分を路用として甲府に行(ゆき)、雪駄中買(せつたなかが)ひをする。」

といゝけり[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]。

[やぶちゃん注:「篠山吉之助」底本の朝倉治彦氏の補註に、『旗本。御書院番士。資明。実は坂本養安資直の二男。はじめ熊三郎。文政八年』(一八二六年)『五月十八日歿、年六〇歳』。『鎗は養父光官』(「こうかん」と音読みしておく)『の伝授であろう』とある。

 高橋平八郞【後、平馬。】、いとことか、いゝけり。此方(こなた)に孫助妻來り居(をり)しが、又、本所石黑方へ行(ゆき)たり。娘、十二、三に成(なり)けり。孫助、甲府より、折々江戸に來りて、予が家に立寄る。予、來る每に一盃を酌(く)み、且、銀壹朱づつ贈る。

「是は馳走の料なり。若(もし)入用のことあらば、用立(ようだてす)べし。」

と云置(いひおき)たり。

 一日(あるひ)、來りていふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「甲府は雪駄高直(かうじき)にて足袋下直(げじき)なれば、江戸より雪駄を買ひ入(いれ)、足袋を持來りて賣(うる)べし。しからんには妻も連れ行(ゆき)て足袋縫(ぬは)せんと思ふ。」

と語りけり。其日も例の如く一酌して、銀壹朱を贈れり。夕方、予が家を辭して、則ち、妻がかたへ往(ゆき)て一宿し、直(ぢき)に甲府に伴ふよし、なりけり。

 其明る日、再び予が家に來り、入口に立(たち)たる儘にて、予に面談致し度(たき)由(よし)申入(まうしいる)る。

「内入(いり)給へ。」

といへども、入らず。

「何用。」

と問ふに、

「昨日申せし雪駄問屋に行かんと思ふに、金子少々不足なり。昨日の御言葉に甘へ借用に來りし。」

といふ、兼て申(まうす)如くなれば、

「いと易き程のことなり。」

とて、其數を問ふに、

「金貮分。」

と答ふ。則ち、立ながら、貮分金、壹つ與へたれば、

「重(かさね)て出府には返すべし。」

とて、直に去りけり。

[やぶちゃん注:台詞は「必ず江戸出立までにはお返しせんと存ずる。」の意。]

 其夜、如何なることにかありけん、妻と娘とを殺害し、窓より劍を投込(なげこ)んで行衞しらずなりにけり。

 其所は本所石黑が宅の長屋にて、其夜は雨降りて、天黑き夜にてぞありける。

 扨、石黑は當番、留守とて、誰(たれ)ありて何の子細といふことをしらず[やぶちゃん注:誰一人としてこの殺人事件の仔細を知る者はなかった。]。

 これより先に妻娘、高橋[やぶちゃん注:先に出た、孫助の「いとこ」とか言う高橋平八郞。]が宅に逗留せしを見し人あり。穠妝艷抹[やぶちゃん注:「じょうしょうえんまつ」(現代仮名遣)と音読みしておく。「豊かに・豪華に」(穠)「粧(よそお)い」(妝)「色っぽく」(艷)「化粧を塗っている」(抹)の謂いのようである。]、御構ひ者の妻娘には似ざるといふ評判ありし由。

 思ふに甲府へ連行(つれゆか)んといゝし時、外に奸夫[やぶちゃん注:「かんぷ」。間男。]にても有りて、行(ゆく)ことをうけがわざりしことにてもありしや、かく落ぶれし身にて、妻子に迄見離されたらんには、かゝることも出來(しゆつたい)やせんかと思わる[やぶちゃん注:ママ。]。娘を殺せしは如何なる故か知(しり)がたし。血迷ひしにや、かくて御檢使下りて、彼(かの)兇刀を見るに、ふしぎなることこそありけり【石黑のとゞけは、「夜中、何者ともしらず、殺害」ととゞけたる也。御構ひものなれば、其夫となりとも、御當地にて事あれば重罪なるによりて、盗賊と言(いは)ざること能はず、さもあるべきことなり。】。御徒目付何某、來りていふよふ、

「此刀は銘『長曾根興里入道虎徹(ながそねおきもとにゆだうこてつ)』なるべし。世に聞ゆる大業物(おほわざもの)なり。拵(こしら)へより寸尺燒刄、見覺へあり【此御徒目付誰なりけるか、日頃腰の物、好(このみ)にてありけるが、かゝることを見覺へて詳らかに辨ぜし故、忽ち、其人の仕業と極(きはま)りたり。】。

[やぶちゃん注:「虎徹」(慶長元(一五九六)年~慶長一〇(一六〇五)年?/延宝六(一六七八年?)は江戸時代の刀工であり、同人が作った刀剣の名。正確には甲冑師となった長曽禰興里の刀工時代の入道名の一つ。]

「先年、一場孫助、追放の節、吾(われ)立合(たちあひ)にて投與(なげあた)へし刀也【予も見覺へたり。茶づかに南蛮つば、無ぞりにて、銘虎徹なるよしは兼て聞たる事なり。】。されば下手人は其夫(をつ)とに疑ひなし。」

といゝたれども、行衞もしらず、又、何故、吾妻子を殺せしといふこともしらず。殊に他人を殺せしにもあらねば、差(さし)たる御科(おんとが)ならず[やぶちゃん注:この「御」はそれを犯罪として規定した幕府方への尊敬の接頭語。]。但し、御構ひ者故、事のよし惡(あし)を問はず、御當地入込(いりこむ)こと大罪なれば、氣の毒にや思ひけん、強く吟味もなくて、事、やみにけり。其頃、飯尾一谷君、加役を勤む。其話に、

「右下手人は其夫に極(きはまり)たれば、加役方にては、隨分、捉(と)らんとするもの多し。足下(そつか)[やぶちゃん注:貴殿。話相手であり、孫助の親友である桃野を指す。]、行衞をしりたらば、隨分と身を隱し可ㇾ申(まうすべし)よふ[やぶちゃん注:ママ。]に申送るべし。」

と深切の意を通じたり。是は予が交り深きのみ、孫助には逢(あひ)たることもなき人なり。かく迄到る處、人の憐みを得ること、日頃、篤實なる人にして、且、予が輩、每(つね)に其不幸を歎ずる故也けり。

 かゝりけれども、終に捕へ得ずして、事止みぬ。

 予、よくよく按ずるに、始め、予が家に來りし時、每(つね)に馬に乘るとき斗(ばかり)り用ゆる革柄(かはづか)の短刀を帶したり【此刀は中身なににてありしや。其樣、粗物(あらもの)[やぶちゃん注:「そぶつ」でもよい。粗末なもの。雑なもの。]にして用に當るべきものとも覺へず[やぶちゃん注:ママ。]。但し、短刀にて、御構ひものなどがひそかに腰にするに、目立たずして好(よ)き故、帶來(おびきた)りたる物なるべし。】。彼(かの)事ありし時、怒りに堪へず殺害の心ありても、彼短刀にては、便り、よろしからず、虎徹の刀をほしく思へども、定めて質入(しちいれ)にてもいたせしことなるべし。拵(こしらへ)は餘り立派にも非らざりしが、名にしおふ大業物のことなれば、餘程の質入なるべし。右の質物、受出(うけいだ)すに、雪駄の仕入金を用ひ【最早人殺しなれば、雪駄仕入無用也。】、其不足を予が家に來り借りたるならん。後におもふに、合力は受(うけ)たり、來る每に少々づゝの銀子をもらひて、假令(たとひ)入用の節は用立(ようだて)んといふとも、直に引(ひき)かへし、立ながら、預け物の如く借用とはいゝにくきことなるを、かく斗(はから)ひしは、最早、夢中になりたる樣(やう)にてもありしならん、予は、一向、心もつかでありしが、家人[やぶちゃん注:桃野の屋敷の者。]は、

「却て其動作の匇忙(そうばう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「そうぼう」但し、「怱忙」が正しい。忙しくて落ち着かないこと。]なる樣(さま)を怪しみし。」

と後に語りき。

 是より先に甲府行(ゆく)時に、予が家に本箱一つ預け置たり。其餘、張文庫(はりぶんこ)[やぶちゃん注:蓋付きの手文庫で、全体を漆塗り等で総張りにしてある豪華なものであろう。]一つ。皆、手書の寫物(うつしもの)なり。詩集もあり、詠草もありけり。多くは哥書(うたがき)にて、手跡、いづれも見事爲(な)ること、皆人(みなひと)、感じあへり。これは、予に與ふべし、といゝおくりしが、予は不用の物なれば、高橋がり送りて、

「金にかへて、行衞しれたらば、送り玉へ。」[やぶちゃん注:孫助の行方。]

といゝおくりしが、

「實(まこと)に親類といへども、行衞をしらず。」

といいて、予が家に置けり。

 高橋は俗人にて、「口寄せ」をせしと語りき。

 其言葉に、「存命にて居ると雖へども、一大事を仕出し、諸親類・諸朋友とも、面を向けがたし。」といゝしよしを語りき。

 其時に、

「『圓機活(ぜつ)法』といへる書は、あたへ、いかほどなるべし。」

と問ひけり[やぶちゃん注:高橋が桃野に問うたのである。「ぜつ」のルビは底本のもの。「圓機活法」(えんきかっぽう)は明代に作られた漢詩を作るための辞書でかなり知られたものである(芥川龍之介なども使用している)。二十四巻。天文・地理等の四十四部門で構成され、故事成語等を分類編集してある。明の楊淙著とも、別に王世貞編とも伝えられている。正式には「圓機詩學活法全書」。ここはこの書名を紙に書いたもの見た孫助の従兄弟である高橋平八郎が俗人で知識もないため、「活」の字を「舌」と誤読したのであろう。]。

「それは『圓機活(かつ)法』なるべし。詩を作る本なり。何の用に仕玉(つかひたま)ふ。」

と問ひければ、

「さる方より、賴まれたる。」

よし、答(こたへ)たり。

『扨は孫助が方より、賴みたるなるべし。行衞しらずといふは、いつはりぞ。』

と思ひけり。されども御赦(おゆるし)に逢ひても告(つげ)しらさでありしを見れば、實(まこと)にしらざるにも似たり。人を疑ふときは、いろいろの當りある事を見きゝするものなれば、みだりに人を疑ふまじきは、古人もいゝおけり。又、再びおもへば、其頃は、しりて後には、しらずなりしやも、しるべからず。

 十數年を經て、生(いき)たりとも死(しし)たりとも、しる人もなかりしが、文恭公薨御(こうぎよ)御一周忌御法事に付、御赦に逢ひ、行衞相しれ候はゞ申達(まうしたつ)すべき旨、諸親類へ御沙汰ありしかども、實(まこと)に行衞のしれざるか、其儘にて打過(うちすぎ)てけり。

[やぶちゃん注:「文恭公薨御(こうぎよ)御一周忌」「文恭公」は第十一代将軍徳川家斉(安永二(一七七三)年~天保十二年閏一月七日(一八四一年二月二十七日))のこと。一周忌であるから、翌天保一三(一八四二)年ということになる。]

 二、三年を過(すぎ)て、

「初めて御赦の趣を聞(きき)しりたり。」

とて江戸出來り、石黑が方へ行く。

 予が家に訪ひ來りて、口上書をもて、いゝ入る樣(さま)は、

「今生(こんじやう)にて御見通りは相成難(あひなりがた)き義理に侍れども、餘りにおなつかしさに參り侍る。」

と申入(まうしいれ)けり。

 予、歡びて出迎(いでむかへ)、座に付(つき)て其樣を見るに、實(げ)に以前の孫助とも見えず、かしらはそりたれば、容(かたち)迄、かわり[やぶちゃん注:ママ。]、それが幾日もそらで、白髮まじりにのびたれば、きたなげなるに、前の方は少(すこし)はげ上りて、前齒さへ落たれば、齡(よはい)は予に一つおとなれども[やぶちゃん注:「弟なれども」か。一つ下。]、老僧めける人とわなりぬ[やぶちゃん注:ママ。]。太織(ふとおり)の黑染(くろぞめ)なる「ヒフ」といへるものゝ、垢づきて、少しやれたる所あるを、荒布の衣の上に着てけり。

[やぶちゃん注:「ヒフ」「被風・被布・披風」等と書く。長着の上に羽織る防寒用の外衣。襟あきは四角く、前を深く重ね,総(ふさ)付きの組紐で留めて着る。江戸末期に茶人や俳人が好んで着た。

「少しやれたる所あるを」底本はこの部分、「垢づきてかやれたる所あるを」であるが、「かやれる」という動詞は知らないので、国立国会図書館版で訂した。これなら「破(や)れたるる」で意味が判るからである。]

 予も、覺へず、淚のこぼるゝよふ[やぶちゃん注:ママ。]なれども、無事にて再び相見るがうれしくて、

「いかにあり玉ひけるや、扨も、生あれば再び相見ることもありけり、何より問ひ侍らでや、又、何より語り給はんや、とても一座に盡すべきならねば、こよひは吾家に宿し玉へ。」

とて、先(まづ)、茶菓もて、なぐさめたり。

 一口ひらく每に、あわれに[やぶちゃん注:ママ。]かなしきことのみにて、殊に餘が家は、孫助、幼なる時の隣家なれば、さらぬ身になりてさへ、ふるき住家(すみか)のかわり[やぶちゃん注:ママ。]果(はて)たる樣は、かなしきこと多きに、此人が座しながら、籬(まがき)一重(ひとへ)隔てゝ、今の隣の方見やりたる樣、いかにかありけん。

   みちみちつゞけたりとて

  夢にのみ見し古鄕は夢ならでかへりても猶夢かとぞ思ふ

  古鄕へ立かへりても沖津波よるべきかたもなさけなの身は

[やぶちゃん注:前書の意味、不詳。]

 扨、語るよふは[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、

「當地を立退きて甲府にも少し斗りありて、東海道の内に、さる寺あるに入(いり)て剃髮し、此所に世話になりてありしが、又、其所にも久しく居らで處々遍歷し、遂に遠州大井河のほとりにて、人の世話になりて寺子やを出し、弟子も多くなりてこゝに居付(ゐつき)けり。固(もと)より何の願ひもなき身なれば、無慾の人となり、其日々々を送るのみ。されども豪家なる百姓ども、『御師匠樣』と稱(とな)へて不自由なく養ひたり。三度飯は、大體、弟子の方(かた)にて食ふなり。衣類もよき程に作りておくるに[やぶちゃん注:弟子の家が、であろう。]、もし手拭・鼻紙の類を買ふ時は、何方(いづかた)にても、行先にて、入用程、買取りて、吾れ、身に一錢ももたざれば、

『其しろ[やぶちゃん注:「代」。代金。]は弟子の内にて、誰が方にても取(とり)てくれよ。』

といへば、商人も其こゝろを得て、敢て銭を求めず。常の日は稽古場におきふして、晝後は圍碁の會席となして、賭碁(かけご)を打(うつ)人を會し、おのれも打(うち)まじりて圍碁の相手などするに、席料として錢を返る上に、大(おほい)に勝(かち)たる人よりは不時(ふじ)[やぶちゃん注:思いがけなく。]に送る事もあり。これを小遣(こづかひ)とするに不足なし。又は村中、或は、近村にて、公事・訴訟あれば、書物(かきもの)[やぶちゃん注:訴状等の文書であろう。]を賴むことあり。事によりては數里の外までもやとわれ[やぶちゃん注:ママ。]、同道して公事に出るなど、皆、錢金、想應に取(とり)たり。今は、門人、甚(はなはだ)多く、且、所の者、大におしみて、御赦に逢ひ古鄕に歸ることをうけひかず[やぶちゃん注:受け入れて引き下がることをせず。]。但し、

「しらざる昔(むか)しは、是非なし。難ㇾ有(ありがたき)ことなれば、其儀、打捨(うちすつ)べきにあらず、是非々々。」[やぶちゃん注:村の総代の言葉であろう。]

とて、出でたり。門人ども、

「必(かならず)、又、再び來り給へ。一生、安樂に養ふべし。」

といゝけり。

 扨、いまの身は如何にしてよからんや、思ひ迷ふことなり。」

と、いゝき。

「扨も。ふるきしる人は如何に。」

ととふにぞ、予も、世の中、あらましを語りき。

「鎗師篠山君は先(せん)に死して、恩師なれば墓銘を予に託し、近きあたりに墳墓あり。野村篁園も死してけり。」

など語るに、聞(きく)每に、皆、感傷のことのみにてぞありける。

[やぶちゃん注:底本の朝倉治彦氏の補註によれば篠山吉之助の墓所は『牛込横町円福寺』とある。現在の東京都新宿区横寺町にある日蓮宗圓福寺(えんぷくじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 以下の孫助の語りや後の桃野の応答は、孫助自身が自分を指すのに「孫助」と言っており、孫助の台詞の中の桃野を指すべき二人称を「予」と書き換えており、厳密には直接話法でない箇所が認められるが、読み易さを考えて、直接話法として扱ったので注意されたい。

 孫助、又、語るよふ、

「石黑彦太郞【伯父也。】隱居して、其子何某、新御番なり。伯父彦太郞も孫助が行衞のしれたるを歡び、何卒して再び世に出し度(たく)思ひて、色々、工夫する、といへり。是はさもあらん、吾家より出(いで)し弟が他家を繼ぎて、其家を潰したることなれば、其子存生(ぞんしやう)の中(うち)に、一場家再興の工夫は肝要なることなりけり。

 此人、御祐筆を勤めたれば、かゝることは克(かつ)て巧者ならんと思ふにも似ず、太甚(はなはだ)おろかなることを言ゝたり。

『此程、天文方高橋作左衞門【牢死なり。存生に候はゞ死罪。】、其子御赦にて歸嶋(きたう)せしが、直(ぢき)に天文方手傳(てつだいひ)とて、十人扶持被ㇾ下(くだされ)、御用、相勤(あひつとめ)、程なく、十人扶持本高に被下置(くだされおき)、以(もつて)上席へ御召出しに成(なり)たる例あれば、孫助をも還俗させて、出役(しゆつやく)ある場所[やぶちゃん注:臨時役職。]へ差出し申度(まうしたき)旨(むね)、いゝたる。』

とぞ。

[やぶちゃん注:「高橋作左衞門」底本の朝倉治彦氏の補註に、『所謂シイボルト事件の犯人として入牢獄死した景保』とある。高橋景保(たかはしかげやす 天明五(一七八五)年~文政一二(一八二九)年)は天文暦学者。天文方高橋至時(よしとき)の長男として大坂に生まれた。「Globius」という号もある。幼時より才気に富み、暦学を父に学んで通暁し、オランダ語にも通じた。二十歳で父の後を継いで天文方となり、間重富(はざましげとみ)の助力を受けて浅草の天文台を統率し、優れた才能と学識で、その地位を全うした。伊能忠敬が彼の手附手伝(てつきてつだい)を命ぜられると、忠敬の測量事業を監督し、幕府当局との交渉及び事務方につき、力を尽くし、その事業遂行に専心させた。文化四(一八〇七)年に万国地図製作の幕命を受け、三年後に「新訂万国全図」を刊行した。翌年には暦局内に「蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)」を設けることに成功し、蘭書の翻訳事業を主宰した。満州語についての学識をも有し、「増訂満文輯韻(まんぶんしゅういん)」ほか、満州語に関する多くの著述がある。景保は学者でもあったが、寧ろ優れた政治的手腕の持ち主で、「此(この)人学才は乏しけれども世事に長じて俗吏とよく相接し敏達の人を手に属して公用を弁ぜしが故に此学の大功あるに似たり」と、大槻玄幹(おおつきげんかん)は評している。この政治的手腕がかえって災いしたものか、文政一一(一八二八)年の「シーボルト事件」の主犯者として逮捕され、翌年、四十五歳の若さで牢死した。存命ならば死罪となるところであった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「本高」「表高」とも称する。幕府が検地によって公表した標記上の石高を指す。別に「内高」があり、これは幕府に公認されていない、所有領内で実質的に産出される現実の石高を指す。本高よりも内高が高くても、その分は、国役など幕府に対する役儀を賦課されることがなく、しかも領主はその土地を耕作する百姓から余剰分の年貢を徴収することが出来る。この〈内高と本高との差額〉が大きいほど、領主の財政は豊かになる。]

 天文方は浪人・百姓・町人にても其道に長じたる者は、御用に相立(あひたつ)所なれども、其外は左樣の場所はなきことなり【高橋が親類は、皆、權家なれば、かゝることもありたるなれども、左もなき人は能はず。】。孫助、又、申立(まうしたつ)る藝能も無きにはあらねども、拔群にあらざれば申立(まうしたて)がたし【近授流馬術は家のものなれども、久しく乘らざれば、用をなし難し。たとひ、申立たりとて、馬術を以て御召出しといふは聞かず。】。」

 予にも、

「何とぞ、能き工夫は有(ある)まじきや、予は學間所出役のよしなれば、定(さだめ)てかゝることの場所もしりたらん。」

といふにぞ、予がいふよふは、

「そは、めで度(たき)思ひ立(たち)にて侍れども、かゝる例(ためし)はなきことなれば。」

前のくだり、申聞(まうしき)けて[やぶちゃん注:ママ。]、しばし案じ、いふよふ、

「予に一説あり。先に家斷絶の砌(みぎり)、貴兄直五郞君は女子二人あり【實は内々にて親類中島淸次郎へ嫁す。御番士宅。三間屋(さんげんや)[やぶちゃん注:不詳。地名か? 底本は「三問屋」であるが、国立国会図書館版を採った。]。】。これに御捨扶持あり[やぶちゃん注:由緒ある家の老人・幼児・婦女・廃疾者の生活を援助するために幕府から施された禄米をいう。通常の扶持米は一人一日玄米五合であったが、一人捨扶持は一日玄米四合四勺八才であった。]【母妻娘とも御捨ぶち有りしが、今、皆、死果(しにはて)て纔(わづか)女壹人なり。】。此御扶持を孫助君へ願ひかへ、兩三年、いたゞきたる上にて、扨、申出(まうしいづ)る樣(やう)は、『久々、御捨扶持、いたづらに饗(たへる[やぶちゃん注:底本のルビであるが、意味不明。「饗」はこの場合、「享(う)ける・もてなしを受ける」の意であるから、意味は分かるが、読みはしっくりくるものがない。])いたし候條、恐多(おそれおほ)く侍るなれば、御捨扶持を本高に被下置(くだしおかられ)、如何なる輕き御役なりとも、相勤度(あひつとめたき)』旨、願出(んがひいで)たらんには、其上に青山邊の水野何某【植木師に名高し。小高故なるべし。[やぶちゃん注:後半、意味不明。「石高が小さいからであろう」であるとしても、それが前の理由になるというのは解せない。]】が如く、以(もつて)上席御召出(おめしださ))んも難ㇾ斗(はからひがた)し。さあらんには御役中は、場所高(ばしよだか)程の御足高(おんたしだか)[やぶちゃん注:幕府が役人に対して与えた一種の俸禄。享保八(一七二三)年制定。役職に就任する者の世禄(せいろく:当該家の継承者が受ける俸禄。世襲の家禄。「せろく」とも読む)が役高に達しない場合、その不足分を在職中に限って加給した。若年寄を除く殆んどの要職に行われ、微禄の者で有用な人材を登用するのに役立つとともに、役料の世襲による財政の膨張を押える効果があった。]あれば、勤め繼ぐこと、難(かた)かるまじ。此等の工夫こそ家再興の捷徑(ちかみち[やぶちゃん注:底本のルビ。])なるべし。其餘、妙策、更らになし。」

といゝき【再び、おもふに、女子の捨扶持、男子へ願ひ替(かへ)たる例あるやの處、安心ならず。】。折節、予が緣者遠山霞堂來りし故、例を尋ねしに【西丸番組頭なり。】、

「近來、其ためしあり。」

とて書拔(かきぬき)て、おくりたり。

 取扱(とりあつかひ)たる御目付は大澤主馬なり。

 予、此時、大に呼びていふ、

「事の奇なること、人のしること能はざることあり。扨も、かゝる珍ら敷(しき)斗(はか)らひは、不案内の者にては時の明(あか)ぬ物なり。石黑彦太郞が子新御番、其頭(かしら)は乃ち大澤圭馬なり。御目付の時、取扱ひて程も經ざる事なれば、進達(しんたつ)[やぶちゃん注:上申書などの下からの書類を取り次いで上級官庁に届けること。]等に、手間入(いる)まじ、又、大澤主馬は兼て近授流の馬術同流の免許の人なり。旁(かたはら)以(もつて)ちなみ、よし。一日も早く思ひ立(たつ)べし。」

 予獨りが大によろこびたり。

 扨、孫助は予が家に一宿して、石黑行(ゆく)とて立出(たちいで)ければ、先に預り置(おき)たる本箱・張文庫一物を動かさず[やぶちゃん注:「そのままそっくり」の意か。]返しけり。

 其後、再び訪わんとて來らず、御赦(おゆるし)の申渡(まうしわた)しは、髮をのべてより後(のち)出(いづ)るといゝけり。かゝれば、前に予が斗(はか)りし事も、俄かになし難(がた)けれども、先(まづ)其例書(ためしがき)等は石黑方申送るべしと思ひて、廿騎町【與力地なり。】鈴木源八郞【三藩人也[やぶちゃん注:意味不明。]。】孫助いとこの方へ申入(まうしいれ)て、

「面談にて早く石黑通じ、願ひを出すべし。」

と教へたり。然れども、

「法體(ほつたい)にては御赦の御答さへ出來ず。先(まづ)髮を長ずる迄、遠州へ立歸る。」

よしにて、其後、今以(もつて)來らず。

「如何せしや。」

といゝき。

 其後、幾年もあらで、大澤主馬、御役替(おやくがへ)せしかば、先(まづ)一つの機會を失へり。

 されども、靑山下野守・松平能登守等、よりより申込(まうしこみ)たらば、少しのことには有付(ありつく)べし、林(はやし)大學頭【檉宇(ていう)。】・鳥居甲斐守・林式部少輔、みな、松平能登守の緣にて一場門人にて有しが、今は、みな、死失(しにうせ)て【大學頭病死。甲斐守御預(おんあづかり)。】、式部少輔のみ殘れり。予が方の總教(そうきよう)[やぶちゃん注:後の記述から昌平坂学問所塾頭のこと。]なれば、何ぞよき工夫もあらば、賴みてみんと思へども、浪人を用ゆる御用といふことなし、孫助、學問も心得たれども、申立(まうしたつ)る程のことにもあらず。此後、如何に成行(なりゆき)けん、しらず【其後、二、三年を經て、源八郞に聞しは、孫助、遠州にて妻子もありて、江戸へ出る意なきよし也。かゝれば、家再興のことも思ふべからず、御赦の御請(おんうけ)もせしや、如何(いか)に有(あり)しや、こゝろと言葉とは相違せしことどもなり。かゝれば、其事も包みて、予にも語らず。元より、永く江に居(を)る心なく、但、御赦に逢(あひ)しうれしさと、古鄕の戀しさに出で來りしのみのことにてぞありける。】。

[やぶちゃん注:「林(はやし)大學頭」「檉宇(ていう)」林檉宇(寛政五(一七九三)年~弘化三(一八四七)年)は、かの林家当主林述斎の三男。天保九(一八三八)年)には父祖同様に幕府儒官として大学頭を称し、侍講に進んだ。ここは注してしまったので、並列している人名の注することとする。

「鳥居甲斐守」林述斎の四男で「蝮(まむし)の耀蔵(ようぞう)」「妖怪」(官位と通称の甲斐守耀蔵を「耀(蔵)・甲斐(守)」と反転させて略して当て字したもの)の蔑名で知られた南町奉行(天保一二(一八四一)年就任)鳥居耀蔵(寛政八(一七九六)年~明治六(一八七三)年)のこと。ウィキの「鳥居耀蔵」によれば、後、彼を重用した水野忠邦が老中辞任(天保一四(一八四三)年閏九月十三日、老中御役御免)に追い込まれるも、その半年後の弘化元(一八四四)年六月に水野が再び老中に再任されると、『水野は自分を裏切り、改革を挫折させた耀蔵を許さず、元仲間の』連中の『裏切りもあって、同年』九『月に耀蔵は職務怠慢、不正を理由に解任され』、翌弘化二(一八四五)年二月二十二日、『鳥居は有罪とされ』、四月二十六日に『出羽岩崎藩主佐竹義純に預け』られ、その後、十月三日には『讃岐丸亀藩主京極高朗に』御預けとなった(なお、返り咲いた水野自身も、結局、その全く同じ弘化二年二月二十二日に、再び、『老中を罷免され、家督を実子の忠精に相続させた後に蟄居隠居』『その後水野家は出羽国山形藩に転封されている』)。『これ以降、耀蔵は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間』、二十『年以上』、『お預けの身として軟禁状態に置かれた』。『丸亀での耀蔵には昼夜兼行で監視者が付き、使用人と医師が置かれた。監視は厳しく、時には私物を持ち去られたり、一切』、『無視されたりすることもあった』。嘉永五(一八五二)年の日記には「一年中話をしなかった」という記述さえあるという。『そんな無聊を慰めるため、また健康維持のため、若年からの漢方の心得を活かし』、『幽閉屋敷で薬草の栽培を行った。また自らの健康維持のみならず、領民への治療も行い』、『慕われた。林家の出身であったため』、『学識が豊富で、丸亀藩士も教えを請いに訪問し』、そうした連中からは『崇敬を受けていた。このように、軟禁されていた時代の耀蔵は』「妖怪」と『渾名され』、『嫌われた奉行時代とは対照的に、丸亀藩周辺の人々からは尊敬され』、『感謝されていたようである』。『江戸幕府滅亡前後は監視もかなり緩み、耀蔵は病』い『と戦いながら』、『様々な変化を見聞している。明治政府による恩赦で』、明治元(一八六八)年十月に『幽閉を解かれた。しかし』、『耀蔵は「自分は将軍家によって配流されたのであるから』、『上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府や丸亀藩を困らせた』という。『東京と改名された江戸に戻って』、『しばらく居住していたが』、明治三(一八七〇)年、『郷里の駿府(現在の静岡市)に移住(この際、実家である林家を頼ったが、林家では彼を見知っているものが一人もいなかったという』)、明治五(一八七二)年に『東京に戻る。江戸時代とは様変わりした状態を慨嘆し』、『「自分の言う通りにしなかったから、こうなったのだ」と憤慨していたという。晩年は知人や旧友の家を尋ねて昔話をするような平穏な日々を送り』最期は『多くの子や孫に看取られながら亡くなった』。享年七十八であった。

「林式部少輔」林述斎の六男林復斎(寛政一二(一八〇一)年~安政六(一八五九)年)。檉宇の弟で文化四(一八〇七)年に親族である第二林家の林琴山の養子となって三年後に家督を継いだが、嘉永六(一八五三)年、本家大学頭家を継いでいた甥の壮軒(健)が死去したため、急遽、大学頭家を継ぐことになり、小姓組番頭次席となって大学頭(「式部少輔」はそれ以前の彼の官名)と改名し、五十四歳で林大学頭家第十一代当主となった。折しも、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる黒船が浦賀に来航、復斎は幕府に命ぜられ、永禄九(一五六六)年から文政八(一八二五)年頃までの対外関係史料を国別・年代順に配列した史料集「通航一覧」を編纂した。翌安政元(千八百五十四)年正月にペリー艦隊が再来すると、町奉行井戸覚弘とともに「応接掛」に任命され、横浜村での交渉に当たった(実際の交渉は漢文の応酬で行われたことから、復斎はその漢文力を買われて、主な交渉の総てを任されることとなった)。同年三月三日(一八五四年三月三十一日)、横浜村に於いて「日米和親条約」が締結される。条文は日本文・漢文・英文の三種で交換されているが、日本文での署名者は復斎が筆頭である。しかし、日本側が英文版への署名を拒否したため、下田で再交渉となり、締結が終了した(以上はウィキの「林復斎に拠った)。]

 彼(かの)觀音は中島へ預け置たるよし。定めて質やにても入有(いりある)べし。

 兎角、觀音、一場一家を守り給はず、かへりて不幸のことのみあるは、彿の御罰なるかもしるべからず。

 在家(ざいけ)は、神佛をもてるは、いらぬことにぞありける。

 予が預りの本箱、大に邪魔物ゆへに、賣拂ひて、法事にても行(おこな)はんと思ひし事も幾度かありしが、おもひきや、十數年後、孫助、來(きた)る。

 早速、引渡したるに、紙一枚だに失はず【手跡見事に付(つき)、折本一帖、霞舟懇望なりしが、予、兎角いゝて、おくらざりしこと、有り。】大に心よく覺へ[やぶちゃん注:ママ。]侍る【弘化五戊申(つちのえさる)年[やぶちゃん注:一八四八年。]二月十二日、釋奠(せきでん)[やぶちゃん注:孔子及び儒教に於ける先哲を先師・先聖として祀る儀式のこと。江戸時代は二月に昌平黌で幕府行事として行われた。]の前日、誌(しる)す。】

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行されてある。]

 御新政[やぶちゃん注:徳川家定が第十三代征夷大将軍なったことを指す。就任は嘉永六年六月二十二日(一八五三年七月二十七日)で黒船来航の十九日後。]の初め、御役人乘馬上覽有ㇾ之(これある)節、林式部少輔、御先手にて學問所總教を兼たりしが、馬術、元より上手とも覺へず。其頃は、人々、技藝に誇る中なれば、此人も客氣(まけぬき[やぶちゃん注:底本のルビ。「かつき」への「負けん気」の当て読み。])ありて、かの昔(むか)し學びたる近授流にて、「早ダク」を乘りたらんには、

「廏拙(へたかくし[やぶちゃん注:底本のルビ。「廏」は「厩」に同じいから、馬術の下手なことを意味するようである。])の計(はかり)ごとなるべし。」

と、

「御前にて軍馬を御覽に入申(いれまうす)べし。」

とて、公厩(こうきゆう)の御馬(おんうま)を我馬の心得にて、「大ダク」を乘出(のりいだ)す。

 いとゞさへ、向ふののびたる馬[やぶちゃん注:首の長い馬の意か?]は自由ならぬものなるを、肥太(こえふと)りたる、龍の如く、虎の如くなる御馬を、思ふさまに手綱を延べ、「大ダク」になしたるなれば、いかで手にのるべき[やぶちゃん注:反語。乗り手である林復斎の言う通りになることがあろうか、いや、ない。]。

 縱橫に走り𢌞り、遂に牡丹の御花畠の圍ひの内に入る。尤(もつとも)御前に近き所なり。最早、一大事となりぬ。御馬なりけるも打忘れ、力の極(かぎ)り、引(ひけ)ども、折(を)れども、少しも聞かず。果ては、我をも打忘れ、御前の遠慮もなく、

「此畜生(こんちくしやう)々々々。」

と大聲連呼してもみ合(あひ)しが、からくして、元の馬場迄、乘戾(のりもど)す。

 御花畠は落花狼籍たり。

「定(さだめ)て、御沙汰もあらん。」

と、皆人、爲(ため)におそれ合(あへ)りしが、却て、「御一興」とて、御沙汰もなかりしと。

 其頃、予が門人御小納川口乙三郞君、語られたり【此川口氏、死して、予、墓銘をかきたり。】。

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行されてある。]

 予が一場へ弟子入(でしいり)せしは、十六のとし也。孫助十五歳、林又三郞【後大學頭。檉宇(ていう)。】、二十五、六斗り、林ケン藏[やぶちゃん注:カタカナはママ。]・林耀藏【鳥居甲斐守なり。】・林韑之助(あきらのすけ)【式部少輔。】前髮あり、十五、六歳、皆、揃ひて、一度、稽古に出(いで)たるを見たり。

 藤兵衞師、予を檉宇君に引合(ひきあは)せられたり。

「武技は、いづれも精は出さぬ人なるべし。」

といへり。

[やぶちゃん注:師の評言は、桃野と檉宇両者ともに、の謂いであろう。]

 孫助、名は養、字(あざな)は直、雲湖(うんこ)と號す【滑稽の人にて種々の號あるといへども、皆、響き他物に通ふよふ[やぶちゃん注:ママ。]に付く。小兒の大便をウンコといふ。大人の語にも偶(たまに)用ゆる事あり。是に響く故に付たる也。】。詩集あり。曾て見たることあり。予が家に預けたる本箱には、纔(わづか)零星(れいせい)[やぶちゃん注:細々として断片的で僅かなこと。]のみにて、他見を憚りしや。五・七・律、唐詩を學ぶ。警句、多し。

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行されてある。]

 予が家に宿(やどり)し時、夜、ともに語り明(あか)せしが、夜深(よふかく)、人、靜まりて、

「扨も。彼(かの)殺害の一事は、人も吾も其譯をしらず。如何なる故にや。」

と問ひしかども、

「されば。これは深き子細あること。」

とて、語るさまにして、其すへは外のはなしに移して語らず。

 大髓は予が案の如くなるべし。

 虎徹入道の刀は上り物[やぶちゃん注:献上品か。]に成(なり)たらん。名作惜むべし。定(さだめ)て、よく切(きれ)たるならん。予、一谷[やぶちゃん注:既出既注の桃野の師内山一谷。]所持の「亂れ刄虎徹(みだればこてつ)」の刀にて、藁だめしをせしが、虎徹程、よく落(おつ)る物、なし。「貮代目虎徹」興正[やぶちゃん注:長曽祢興正(ながそねおきまさ)は先に出た長曽祢虎徹興里の技術を継いだ刀工。興里の実子とも、門人で後に養子となったともされる。作刀期間は主に師興里の没後、延宝六(一六七八)年以降で、年紀を有するものは寛文一三(一六七三)年の作に始まり、元禄三(一六九〇)年の年紀がある作が最も遅い。但し、銘に虎徹を冠した作が少ないためか、一般に「二代目虎徹」と呼ばれることはあまりない(以上はウィキの「長曽祢興正」に拠った)。]の脇指(わきざし)も、其節、ためしたるに、おとらずよく落る。此節、値(あた)ひ至て貴(とほと)しと、きゝけり。

[やぶちゃん注:以下は、底本でも改行されてある。]

 鈴木源八郞といふは、御三卿(ごさんきやうの)人なり。

[やぶちゃん注:田安・一橋・清水三家のどこかの家士であったということであろう。]

 多田九助が弟にて、孫助母の姉の子なり。多田九助大御番、至て堅き男のよし、弓は上手なり。其愚は、たとふるに、物なし。

 家にめしたき女ありしに、深く言(いひ)かわせしが[やぶちゃん注:ママ。]、忽然としていとまを乞ひ、四ツ谷左門町、予が從弟多賀谷緩助(たがやかんすけ)が又の隣家へ奉公に住(すみ)けり。九助、此事を聞出(ききだ)し、緩助は武藝の相手弟子なるによりて、此家に來りて、

「内談ある。」

よし、申入(まうしいれ)けり。

 折節、緩助は番留守也。

 予、其處に居合せしが、其名を聞(きく)より孫助が事も尋(たづね)たく、

「先(まづ)、こなたへ。」

とて、通しけり。

 久久の事なれば、物語、はてしもなく、孫助がことなど云出(いひい)で、聞(きき)もし聞かれもせんと思ふに、此人、兎角に厭(いと)ふよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]にて、よくもいらへず、聞ゆることも、耳にもいらぬよふにて、ひたすら、

「緩助に賴むことある。」

よし也。

「折惡く、當番にて居合(ゐあは)さねども、くるしからずば、おのれへ告玉(つげたま)はゞ、返りの節、中繼(なかつ)ぐべし。」

といへば、

「緩助ぬしも其許(そこもと)も、同じ相弟子のよしみあれば、つゝむべきことにもあらず。其子細といふは、家に兼々(かねがね)言(いひ)かわせし[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]女ありしが、家父の不興のよしを聞(きき)しりて、急にいとまを乞ひて出でけり。かく迄深く言かわせし中(なか)を、かく情(なさけ)なく引(ひき)はなるゝといふは、定めてよぎ[やぶちゃん注:「余儀」。]なき義理にてもあるならんか、吾に一言(ひとこと)も告(つげ)ざることこそ心得ね、さりとて今更、心がわりせんいわれなし[やぶちゃん注:孰れもママ。]、此程、此あたりなる家にあるよし、聞(きき)つるによりて、緩助ぬしに賴みて、其心を問ひ正してほしく、此事、賴み申(まうし)たさに訪來(たづねきた)るなれば、緩助ぬしに、此事、申通(まうしつう)じて玉われ[やぶちゃん注:ママ。]。」

といゝき。次の間にて聞(きく)程(ほど)の人、ふしまろびて笑ふといへども、少しも耳に入(いる)氣色(けしき)もなく、

「吾(わが)用は是迄なり。」

とて、去りてけり。

 二た時斗り過(すぎ)て、予、家に歸らんとて、立出(たちい)で、又の隣家の門を過(すぐ)るに、人あり。

 打裂羽織(ぶつさきばおり)・馬乘袴(うまのりばかま)、大小、いかめしく橫たへたり[やぶちゃん注:身体に対して有意に横様に差すこと。かぶいた刀の差し方である。]。よくみるに、九助なり。

 いかにして呼出(よびだ)しけん、差向(さしむか)ひて語る女は、言(いひ)かわせし女なるべし。

 廿三、四、なみなみのめしたき也。

[やぶちゃん注:「なみなみの」はごく普通の意か。]

 九助、予を見て、

「先に煩わし[やぶちゃん注:ママ。]奉ることも、見玉ふごとく、相見て侍れば、最早、たがひのむね明(あか)し合(あひ)て、事すみて侍る。」

と、いゝけり。

 かゝるふるまひを見て後に、よくよく、人の言葉をきくの難(かた)きことをしれり。先にもいふ如く、九助、かたき人たり、と、きく。但し、四谷大木、住宅なり。

[やぶちゃん注:「四谷大木」(よつやおおきど)は甲州街道の大木戸(街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所)ウィキの「四谷大木戸」によれば、現在の東京都新宿区四谷4丁目交差点に相当するとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。元和二(一六一六)年に『江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への出入り口として大木戸が設けられた。地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが』、寛政四(一七九二)年『以降は木戸が撤去されている(木戸がなくなった後も四谷大木戸の名は変わらなかった)』文政一二(一八二九)年『成立の「江戸名所図会」には、木戸撤去後の、人馬や籠などの行き交う様子が描かれている』とある。]

「一度も内藤宿はたごやに行(ゆき)たることなし。」

[やぶちゃん注:内藤新宿の飯盛り女(売春婦)の歴史的経緯については、ウィキの「内藤新宿」に非常に詳しいので、そちらを参照されたい。]

とて、部屋住(へやずみ)・番入(ばんいり)の時も、「人物第一」といふことなり。輕く人言(ひとのいひ)をきく時は、

「隣家にひとしきはたごやあるに、足ぶみもせず。」

といへば、其人の正しきをしるにたれり。再び其人を見れば、正しきに似たるは、其智、人なみならず[やぶちゃん注:一般人のレベルより優位に低い。]。はたごやに行(ゆき)たりとて、取(とり)はやしもなくて[やぶちゃん注:人並みの知性がないから、飯盛り女たちからも持て囃されることがなくて。]、面白からず。且(かつ)家もまづしかりければ、自然(おのづと[やぶちゃん注:私の推定読み。])其事もなくありしを、「人物第一」とて御番入(ごばんいり)せしも、倖(さひはひ)なることにてぞ有(あり)けり。此人も在番より歸りて死したり、と渡八郞、語る。

 天、かゝる人を生じ、又、永く、壽をあたへもせず、何の爲なるか、しるべからず。

 孫助が歸る春の頃、橫寺町圓福寺[やぶちゃん注:本篇の注で既注。]といふ法家(ほつけ)でら[やぶちゃん注:日蓮宗。]にて、一寸八分黃金彿觀音開帳とて、三日斗(ばかり)參詣あり。予、一場家の物にてはなきかと思へり。其後、源八郞に語るに、これも同じく疑ひありて、圓福寺に行(ゆき)て出處(でどころ)を尋ねしに、「さる御殿の女中より、開帳して衆人に拜せしめんとの賴み」のよし也。中島にあるといふはいつはりにて、最早他人の手へ渡り、かゝる事になりしも、しるべからず。黃金佛は潰しのきく佛(ほとけ)なれば、靈驗もあらたなることあるべし。努々(ゆめゆめ)、在家(ざいけ)の佛、ゐぢりはせぬことにてぞありける【嘉永庚戌(かのえいぬ)六月晦日(みそか)、しるす。】

[やぶちゃん注:「嘉永庚戌六月晦日」は嘉永三年で、グレゴリオ暦では一八五〇年七月九日。]

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