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2018/09/20

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(59) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅳ)

 

 この文書の中に伴天連に對して爲された二つの明確な非難があるといふことが觀られる、――宗教に裝を藉りて、政府を橫領しようといふ考へをもつた政治的陰謀、それから神道と佛教といふ日本固有の禮拜の式に對する異説抑壓に就いての非難である。この異説抑壓はジエジユイト教派自身の書きものによつて充分に證明されて居る。陰謀の非難に至つては少しく證明し難い。併に社會が與へられたならば、ロオマ舊教の諸教團が、既に改宗した大名の領地に於て、地方政府を管理することが出來たやうに、正しくその通りに中央教府全體を管理せんと企てるであらうとは、道理を辨へやものにして誰れが疑ふことが出來たであらうか。その上この布告が發せられた時には、いろいろな事を耳にして居て、家康はロオマ舊教に就いて、恐らく最も惡るい意見をもつて居たに相違ない。これは確と言つて宜からう。――則ちアメリカに於けるスペインの征服、西印度人種絶滅の話、ネザアンド[やぶちゃん注:Netherlands。ネーデルラント。オランダ。直近のスペイン統治時代の異端審問体制やプロテスタントの焚書や発禁等の一連の宗教弾圧を指す。]に於ける迫害、竝に其他の各所に於ける宗教審問の事に就いての話、フイリツプ第二世のイギリス征服の計畫と、二囘に亙る大艦隊(アルマアダ)[やぶちゃん注:Armadas。スペイン語語源で「海軍・艦隊」の意。]の失敗の話などを聞いて居たに相違ない。この布告は一六一四年に發せられた。而して家康は夙に一六〇〇年[やぶちゃん注:既に示した通り、慶長十八年。]に、以上の事柄の二三を知る機會を得たのであつた。則ちその年にイギリス人の水先案内ヰリアム・アダムス[やぶちゃん注:既出既注。]がオランダの船を託されて日本に到著した。アダムスは一五九八年[やぶちゃん注:慶長三年相当。アダムスが豊後臼杵に漂着したのは慶長五年三月十六日(一六〇〇年四月十九日)。]にこの多事な航海に上つたのであつた、――卽ちそれはスペインの最初の大艦隊敗北後十年、第二囘艦隊全滅後、一年の事であつた。彼は偉大なエリザベス女王――まだ存生中であつた――の赫々たる[やぶちゃん注:「かくかくたる」。光り輝くが如く、華々しい功名を挙げるさま。]時代を見た人であつた――彼は多分ハワアド、セイマア、ドレイク、ホオキンズ、フロビシヤア、それから一五九一年の英雄サア・リチヤアド・グレンヴイル等を見てゐたのである。何となればこのヰリアム・アダムスといふ男は、ケントの人であつて、『女王陛下の船の船長と水先案内を勤めた……』人であつたからである。今述べたこのオランダの商船は九州に到着すると同時に捕獲された。そしてアダムスとその乘組員は、豐後の大名によつて監禁され、その事實は家康に報告された。是等新教徒なる船乘り達の到來は、ポルトガルのジエジユイト教徒によつて重大事件と考へられた。蓋し、ジエジユイト教徒は、このやうな異端者達と、日本の統治者との會見の結果を恐れるべき、特別な理由をもつて居たのである。然るに家康も亦たまたまこの事件を重大視した。そして彼は大阪なる彼の許にアダムスを送るべきことを命じた。この事に就いてのジエジユイト教徒の惡意を藏した懸念は、家康の透徹力ある觀察を遁れなかつた。アダムス自身の筆述に從つて見ると――アダムスは決して虛僞を言ふのではなかつた――彼等は再三船乘り達を殺してしまはうと力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]のであつた、そして彼等は豐後に於て該船の乘組員中の二人の無賴漢を脅して、【註一】僞證をさせ得たのであつた。アダムスは次のやうに誌した、『ジエジユイト教徒達とボルトガルの人達とは、私と餘の者を中傷する多くの證據を皇帝(家康のこと)に向つて呈し、吾々は諸國から來た竊盜であり、又盜賊であると言ひ、若し吾々を生かして置けば、殿下と國土の御爲めにならぬに相違あるまいと言つた』と。然るに家康は恐らく彼をなきものにしてしまはうといふジエジユイト教徒の熱心の爲めに、却つてアダムスの方に多くの好意を持つやうに傾いてゐたらしいのである――なきものにするとはアダムスの言ふところに從ふと、『十宇架につける〔傑刑に處する〕事』で――これは『我が國の絞刑のやうに、日本に於ける裁判の風習』なのである。アダムスは云つて居る、家康は彼等に答へた、卽ち『吾々(アダムス等)は彼や彼の國土の何人に對しても、未だ危害や損害を蒙らしたことはなかつた。それ故吾々を殺す事は道理と正義とに反した事である』と……。それからジエジユイト教徒が正に最も恐れていゐた事が起こるやうになつた――彼等が恐嚇、誹謗、竝びに出來る限りの陰謀を以て、防止せんと努めてしかもその効のなかつた事――則ち家康と異端者アダムスとの會見が起こることになつたのである。『そのやうなわけで私が彼(家康)の御前に出ると直ぐに』と彼は誌した『彼は吾々が何處の國の者であるかと尋ねた。それで私はあらゆる事を彼に答へた。それは、國々の間の戰爭と平和といふ事に關して、彼は餘す處なく總ての事を啓ねたからであるが、その委細の事を此處に記しては、あまりに冗長になる恐れがある。そしてその時に私は、良く待遇されたのではあるが、一時私に仕へる爲めに一緖に來た海員の一人と共に私は入牢を申しつけられた』アダムスの他の手紙に依つて、この會見がびきつづき夜にまで及び、且つ家康の質問は、特に政治と宗教とに關係してゐたらしく察しられるのである。アダムスは云つで居る、『彼は我が國が戰爭をしてゐるかと尋ねた。私はスペインとポルトガルとを相手にして戰つてゐると答ヘた――他の總ての諸國とは平和にしてゐるから、更に彼は私が何を信仰してゐるかと尋ねた。私は、天と地とを造つや神樣を信じてゐると言つた。彼は宗教關係の色々な他の質問と、その他の多くの事に就いて尋ねた、例へばどんな路を通つて日本に來たかといふやうな。私は全世界の海圖を持つてゐたので、マゼラン海峽の直路を彼に示した。彼はそれに驚いて私が嘘をいふと思つた。このやうに、次から次へと話がつづき、私は深更までも彼の許に居た』……この兩人は互に一見して雙方好きになつたのらしい。家康に就いてアダムスは特に恁う言つて居る。『彼は私を凝と見て、驚く程好意を持つたやうに思はれた』と、二日たつて家康は再びアダムスを招いて、特にジエジユイト教徒が隱さうとして居る事柄に就いて彼に微細に亙つて質問した。『彼は我が國とスペイン或はポルトガルとの戰爭と、その理由とに就いて又尋ねた。それを私はすつかり了解の出來るやうに説明したが、彼はそれを喜んで聞いた、とさう私には考へられた。最後に私は再ぴ監禁を受けることを命ぜられたが、然し私の宿所は前よりもよくなつた』……アダムスはその後殆ど六週間の間家康に再會しなかつたが、それからまた招きの使を受けて、三度事こまかに尋問を受けた。その結果は自由の身となつて恩顧を得た。爾後、時を置いて、家康は彼を招くを常とした。そして程なく吾々は彼が『幾何學の二三の點と、數學の理解とその他のいろいろの事とを合はせて』此の人經世家に教へてゐるといふことを聞くのである……。家康は彼に多くの贈物竝びに充分の祿を與へて、深海航行用[やぶちゃん注:確かに原文は“for deep-sea sailing”であり、平井呈一氏も『深海を走る船』と訳しておられるけれど、潜水艦じゃあるまいし、ここはやはり「遠洋航海用の」でいいと思うのだけれど。]の船を二三建造するやうに彼に委任した。かくして此の一水先案内は一人の侍に取り立てられ、そして所領を與へられた。彼は恁う書いた、『ご皇帝の御役に使はれたので、彼は私に對して、イングランドの貴族のやうに、丁度私の奴隷、若しくは召使たるべき八九十人の農夫をつけて祿を私に與へた。かくの如き事、或は同樣な先例は嘗てこの國では、如何なる外國人にも與へられた事のなかつた事である』と。……アダムスが家康に對して勢力のあつたといふ證明は、イギリス商館のキヤプテイン・コツクの通信によつて得られる、コツクは一六一四年[やぶちゃん注:慶長十九年。]に彼に關して次のやうに書いて故國へ送つた、『實を言へば皇帝は彼を甚だ尊重してゐる。そして彼はいつでも入殿して、諸王や諸公子が退座させられてゐる時でも、【註二】彼と話しする事を得た』と。イギリス人が平に商館を建設することを許されたのは、この勢力によつたのである。第十七世紀の物語の中で、この白面のイギリス人なる水先案内の話程不思議なのはない、――自分を扶ける者とては唯だ率直な正直と常識との外なにもなく――しかも日本のあらゆる統治者の中での、最も偉大な又最も機敏な人の、かくの如く格別の恩顧に與る[やぶちゃん注:「あづかる」。]まで登つたといふ。併しながら、アダムスは遂にイギリスヘ歸る事を許されなかつた――多分彼の奉仕が、それを失ふことの出來ない程貴重なものと考へられたからであらうか。彼は自らその手紙の中で、家康は、イギリスに再び歸るといふ一權のほかは、彼の願つたものは、何でも決して拒絶しなかつた。彼があまり屢〻それを求めた時【註三】、この『老皇帝』には默した儘何も云はなかつたと言つて居る。

註一 『日每にポルトガル人は吾々に對して裁判官と人民の怒を煽ることを盛んにした。そして吾々の仲間の中二人は裏切者となつて、自ら王(大名)に仕へた、それはポルトガル人によつてその生命を保證されたため、何事も彼等と一緖に共謀するやうになつたからである。その一人は名をギルバアト・ド・コンニングといつて、彼の母はミツドルボロに住まつてゐる、又彼は自らこの船に於ける貨物一切の商人であると稱して居た。今一人はジヨン・アベルスン・ヴアン・オウオタアと云つた。此等の裏切者達は貨物を彼等の手に入れるために、あらゆる種類の方法を講じ、吾々の航海中に起つた總てのことを彼等に知らした。吾々の到着後九日經つて、此國の大王(家康)は私に彼の許まで來るやうにと言つて來た』――ヰリアム・アダムスのその妻にあてた手紙。

註二 『神樣の思召で世間の人の眼には不思議に思はれるに相違ないやうな事が起こるやうになつた、何となればヱスパニヤとポルトガルとは私の不倶戴天の惡むべき敵であつたのである、然るに今彼等は此卑しい慘めな者なる私に求めなければならないのであるから、そしてポルトガルもエスパニヤも彼等の商議の一切を私の手を通してしなければならないからである』――一六一三年[やぶちゃん注:慶長十八年。]一月十二日附のアダムスの手紙。

註三 彼は彼を殺さうと求めた人々にまでも好意を持つてゐる。アダムスは恁う言つた『私は彼の氣に入り、私の言つた事に彼は何でも反對しなかつた。私の以前の敵達はそれを不思議がつてゐた、そして今となつて彼等は私がエスパニヤ人とポルトガル人に對してなしたやうな友誼を彼等に對してもつやうに私に懇願しなければならなかつた、惡に報ゆるに善を以てするといふやうにして。それで私の生活を得るために時を費やすには、私には最初非常な勞働と困難とを要した、併し神樣は私の勞働に報いを授け給うた』

[やぶちゃん注:「ハワアド」政治家で海軍軍人の初代ノッティンガム伯爵チャールズ・ハワード(Charles Howard 一五三六年~一六二四年)か。一五八五年から一六一九年にかけて海軍卿を務め、「アルマダ海戦」(Armada Wars:スペイン無敵艦隊のイングランド侵攻に於いて一五八八年に英仏海峡で行われた諸海戦の総称)を始めとするスペインとの戦争を指揮した人物。ウィリアム・アダムス(William Adams)は一五六四年生まれで、慶長五年三月十六日(一六〇〇年四月十九日)来日、元和六年四月二十四日(一六二〇年五月十六日)没である。

「セイマア」初代ハートフォード伯エドワード・シーモア(Edward Seymour 一五三九年~一六二一年46日)か。ウィキの「エドワード・シーモア初代ハートフォード伯によれば、父はエドワード世の『下で護国卿を務めたサマセット公エドワード・シーモア、母はサー・エドワード・スタンホープの娘アン。一五五二年に『父がウォリック伯ジョン・ダドリー(後にノーサンバランド公)らに捕らえられ処刑されるとサマセット公位を始め爵位は没収されたが』、一五五九年に『新設の形でハートフォード伯・ビーチャム男爵に叙せられた。しかし』、一五六〇年にヘンリー世の『曾孫に当たるキャサリン・グレイ(サフォーク公ヘンリー・グレイとメアリー・テューダーの娘フランセスの次女でジェーン・グレイの妹)と秘密結婚したため、エリザベス』『世の怒りを買い』、『ロンドン塔へ投獄された。ただ、獄中にも関わらず』、『妻の下を訪れていて』、一五六一年には長男エドワードが、一五六三年には『次男トマスが生まれている』。一五六八年に『キャサリンが死亡すると釈放されたが、息子』二『人は庶子とされ』、『王位継承権は無いものと決められた』。一五八二年に『フランセス・ハワードと再婚した際、子供達を嫡子に格上げしようとして』、『再び捕らえられ』、一五九八年には『フランセスが亡くなり』、『失敗に終わった』。一六〇一年に『ハワード子爵トマス・ハワードの娘フランシスと』三『度目の結婚、フランセスとの間に子供が無いまま』、『死去した』とある。但し、「Seymour」姓の人物は複数おり、私は世界史に疎いので、彼以外の人物かも知れない。

「ドレイク」イングランドの航海者で私掠船(しりゃくせん:英語:Privateer:戦争状態にある一国の政府から、その敵国の船を攻撃し、その船や積み荷を奪う許可である私掠免許を得た個人の船を指す)船長であったが、海軍提督となったサー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake 一五四三年頃~一五九六年)であろう。ウィキの「フランシス・ドレークによれば、『イングランド人として初めて世界一周を達成し』、「アルマダ海戦」では、『艦隊の司令官としてスペインの無敵艦隊を撃破した』。『ドレークはその功績から、イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ(Franciscus Draco)から)』とある。

「ホオキンズ」イングランドの私掠船船長・奴隷商人で、海軍提督ともなったジョン・ホーキンス(John Hawkins 一五三二年~一五九五年)であろう。ウィキの「ジョン・ホーキンスによれば、彼は『フランシス・ドレークの従兄弟であり』、彼も『アルマダの海戦で活躍した』とある。

「フロビシヤア」イギリスの航海者・私掠船船長で探検家のサー・マーティン・フロビッシャー(Sir Martin Frobisher 一五三五年又は一五三九年頃~一五九四年)であろう。ウィキの「マーティン・フロビッシャーによれば、『私掠船に乗ってフランス船などを襲い多くの富をイングランドにもたらした。北西航路の探検を始めた後は』、三『度にわたり』、『現在のカナダ・バフィン島(レゾリューション島およびフロビッシャー湾)を訪れ』、『航路よりも金の採取に熱中したが、結局』『、採取した鉱石は金ではなく』、『ただの黄鉄鉱だったことがわかった』。一五八八年の「アルマダ海戦」では、『スペイン艦隊の撃退に対する貢献から爵位を贈られている』とある。

「一五九一年の英雄サア・リチヤアド・グレンヴイル」

「イギリス商館のキヤプテイン・コツク」ステュアート朝イングランドの貿易商人で江戸初期に平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めたリチャード・コックス(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)。ウィキの「リチャード・コックス」によれば、『スタフォードシャー州・ストールブロックの人』で、『在任中に記した詳細な公務日記「イギリス商館長日記」』(Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks一六一五年(慶長二十年・元和元年)~一六二二年(元和八年))は、『イギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級の史料である』。慶長一八(一六一三)年、『コックスは東インド会社によって日本に派遣され』、『江戸幕府の大御所・徳川家康の外交顧問であったイングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介によって家康に謁見して貿易の許可を得て、平戸に商館を建てて初代の商館長に就任した』。元和元(一六一五)年には、『平戸において、三浦按針が琉球から持ち帰ったサツマイモを九州以北で最初に栽培したといわれている』。一六一五年六月五日(元和元年五月九日)の『日記に、「豊臣秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず。皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。」と書いている』。元和二(一六一六)年には、『征夷大将軍・秀忠に朱印状更新を求めるため江戸に参府し』、翌年には英国王ジェームズⅠ世の『家康宛ての親書を献上するため』、『伏見で秀忠に謁見したが、返書は得られなかった。この頃から』、『オランダによるイギリス船隊への攻撃が激しくなり、その非法を訴えるため』、元和四~五年(一六一八年~一六一九年)の間に、二度目の『江戸参府を行』い、一六一九年にも『伏見滞在中の秀忠を訪問した』。元和六(一六二〇)年の「平山常陳(ひらやまじょうちん)事件」(平山常陳なる人物が船長をつとめる朱印船が二名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリス及びオランダの船隊によって拿捕された事件。江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金となった。ここはウィキの「平山常陳事件に拠る)では、『その積荷と密航宣教師スーニガ及びフローレスの国際法上の扱いをめぐり』、『幕府に貢献した』。しかし、元和九(一六二三)年の「アンボン虐殺事件」(「アンボイナ事件」とも称する。オランダ領東インド(現在のインドネシア)モルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあったイングランド商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件。これによってイングランドの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。東南アジアから撤退したイングランドはインドへ矛先を向けることとなった。ここはウィキの「アンボイナ事件に拠った)を『機にイギリス商館の閉鎖が決まったため』、『日本を出国、翌年帰国の船中で病死した』とある。]

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