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2018/09/20

ブログ1140000アクセス突破記念 梅崎春生 三日間

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年一月号『新潮』初出。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第六巻」を用いた。底本の傍点「ヽ」は太字に代えた。

 簡単な語注を最初に添えておく。

・「トンコ節」旧録旧版と新録新版の二種(歌詞が異なる)があり、昭和二四(一九四九)年一月に久保幸江と楠木繁夫のデュエットで日本コロムビアから発売されたのが前者で、昭和二六(一九五一)年三月に、同じく久保幸江が新人歌手であった加藤雅夫とともに吹き込んだものが後者。作詞は西條八十、作曲は古賀政男である。ウィキの「トンコ節」によれば、一九五〇年『以降から売れ出した理由には朝鮮戦争の特需景気による「お座敷の繁盛」という社会状況の変化が大きかったともいわれ、歌詞に見られる「さんざ遊んでころがして」や「上もゆくゆく下もゆく、上も泣く泣く下でも泣くよ」といったアブナ絵的な文句が、特需景気で増えた新興成金層による宴会などで騒ぐためのお座敷ソングとして定着したことが大きな要因とされている』。『新版を発売するにあたりコロムビアは、引き続きの作詞者である西條八十に対して「宴会でトラになった連中向きの唄を」と依頼しており、それに応える形で八十は当時としてはエロ味たっぷりの文句に書き直した。評論家の大宅壮一はこれを「声のストリップ」として批判している』とある。本作の初出から見て、ここで若者に歌われるのは後者のヒットを受けてのもの、即ち、エロい歌詞のそれと考えてよい(読めば分かるが、この性的ニュアンスは梅崎春生の確信犯である)。後者の当該録音はこれである(You Tube 0klz39氏のアナログ七十八回転レコード再生版)。歌詞だけならばj-lyric.netのこちらで新版が、同じくこちらで恐らくは旧版と思われるものが読める

・「成意」は「せいい」で、「当然の権利として認識しているといった感じを表わした主張」といった意味で使っているようである。

・老人が唄う子守歌の一節は「五木の子守歌」のお座敷唄の最終節である。歌詞全篇はウィキの「五木の子守歌を参照されたい。

・「坊主枕」は「括(くく)り枕」。布帛で筒形に縫い合わせ、蕎麦殻や茶殻などを入れて、両端をくくって作った円筒形の中・大型の枕のことで、元来は箱枕・木枕などと区別して言う語であったが、ここはもう、現行の我々が使っている普通の枕の大き目の奴と思えばよろしい。

・「一仕切」「ひとしきり」で、「仕事が一段落ついた」「一区切りついた」の意。

・「五六間」九・一~十一メートル弱。

・「軽燥(けいそう)」落ち着きがなく騒がしいこと。思慮が浅く軽弾みなこと。ここは一種の擬人法的用法。

・「厚物咲」「あつものざき」で、分厚く、花弁の多い鑑賞用の菊を指す語。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1140000アクセス突破を記念として公開した。【2018年9月20日 藪野直史】]

 

  三日間

 

「長いヘチマだね」

「ああ、なんてひょろ長えんだ」

 畳屋が二人、庭で仕事をしていた。

 縁側のすぐ前に、低い木台をならべ、畳が一枚ずつ乗っている。畳は、部屋にはめこまれている時よりも、厚ぼったく、またその面積もいくらか大き目に見えた。あたりには、剝(は)ぎとられた古畳のへりや、よれよれの糸屑、新しい畳表の裁(た)ち片などが、雑然とかさなり、ちらばっている。そこらに午後の陽は照り、空気は乾き、ときどき藺(い)のにおいがただよい動いた。

 畳屋の一人は、五十五六のあから顔の男で、体軀(たいく)もがっしりしていた。片方は、まだ三十歳にならぬ、どこかしなびたような、青白い若者だ。若者の方は左利きらしく、老畳屋とは逆の姿勢で、反対の動作で仕事をすすめていた。左手で畳針を刺す。はみ出た畳表の端を、ずんぐりした刃物で断ち落す。薬罐(やかん)の口をじかにくわえて、水を霧にしてふきつける。しかしその動作は、はなはだ鈍い。陽をななめに受けて、霧の中には小さな虹が立った。

 この家の主(あるじ)、人見莫邪(ばくや)は、縁側に大あぐらをかき、放心したような眼付きで、二人の動作を見くらべている。畳屋の仕事の手ぶりにつられて、そっとその手が動きそうになる。はっきりしないような声で言った。

「長いだろう」

「長えね。なんだってこんなに、伸びたんだろう」

「ほっといたら伸びたんだ」

 ヘチマは古びたヘチマ棚から、ただ一本、ひょろひょろとぶら下り、その尖端は、老畳屋の頭から一尺ほどのところに揺れている。直径は一寸ばかりなのに、長さは三尺もある。さっきからそれが気になっているらしく、仕事の手をやすめて、老人はまぶしそうにヘチマを見上げた。眼尻に飴色(あめいろ)の眼やにがたまっている。干(ひ)からびた油絵具のかけらを、莫邪はふと聯想(れんそう)した。

「初めはヒョウタンだとばかり、思ったんだがね」

「ヒョウタンとは違うよ」

 この春、駅前の苗木屋で、この苗を求めたのだ。たしかにヒョウタンと指定した筈なのに、実って見ると、まぎれもなくヘチマである。ヘチマでは、中をくりぬいて酒を入れるというわけには行かない。と言って半年前のことだから、苗木屋に文句つける気にもなれない。近頃このヘチマの恰好(かっこう)を見る度に、莫邪はしてやられたような、また莫迦莫迦(ばかばか)しい気分になる。

「ヘチマ、嫌いかね?」

「嫌いじゃないよ」と老人は答えた。「嫌いじゃないけれど、あんまり長過ぎる。長過ぎると、感じが良くないね。おれは長えもの、この頃なんだか厭だねえ」

「欲しけりや上げるよ。多分いいアカスリが出来るよ」

「うん。荷車なんかに竹竿を積んだりするのがあるだろう。竿が長過ぎて、うしろにはみ出てさ、地面に引きずっている。あんなのは大嫌いだね。見ていると、口の中がカラカラになって、おでこが痛くなってくるんだ」

 莫邪と老人の対話を、若者はちらちら横目を使うようにしながら、聞いていた。青白い頰に、愚鈍らしい笑いをうかべている。その掌や肱(ひじ)や肩は、相変らずのろのろと動いている。莫邪はその腕を見ていた。若者の腕はすべすべして、肱の畳ダコも、老人のそれにくらべると、型も小さく不確かであった。そのタコの形や色に、莫邪は突然するどい生理的な色情を感じた。莫邪は視線を浮かせた。畳を剝ぎ取られたはだかの部屋に、柱時計がかかっている。針は三時五分前を指している。

 

 ガスに点火して、薬罐(やかん)をのせる。新しいのは、霧吹き用に畳屋に貸したから、つるのとれかかった古薬罐だ。そそくさと台所を出、渡り廊下をぬけて、画室に入る。画室と言っても、莫邪が自分でそうきめているだけで、離れの四畳半を改造した、へんてつもない板の間である。イーゼルは埃(ほこり)をかむって、部屋のすみに押しやられ、床には彩色しかけた小さな金具が、足の踏み場もなく散らばっている。(長いものが嫌いだとは妙な爺さんだな)莫邪はそう思いながら、床から煙草の袋をつまみ上げ、中味をしらべてポケットに入れる。台所に戻ってくると、ガス台の薬罐は、もうシュンシュンと白い湯気を立て始めていた。

 ラッキョウを盛った井と煮立った薬罐をぶら下げて、莫邪が縁側に戻ってきた時、畳屋は二人とも縁に腰をかけ、煙草をふかしていた。その二人に、彼は急須から茶を注いでやった。

「こいつは早くヘチマ水を取るといいね」

 ラッキョウを掌に受け、器用に口にほうりこみながら、老人が言った。

「そうかい。それはどうやって取るんだね?」

「茎を切って、それから――」

 水の取り方を、老人は熱心に説明し始めた。莫邪はいい加減に相槌(あいづち)を打ちながら、ろくに聞いていなかった。肥った頰の肉がややゆるんで、うす笑いをしているように見える。運動不足のせいか、近頃また一まわり肥ったようだ。老人は話し終った。すばやい手付きで、ラッキョウを五六粒口に投げこむ。

「ヘチマ水には、用はないんだ」

 少し経って莫邪は低い声で言った。

「そりや旦那には用はねえだろうさ。男だから――」

「女房はいないんだよ」

「へええ」

 老人はちらりと莫邪の顔を見た。べつだん驚いた表情でもなかった。

「旦那はいくつだね?」

「三十五だよ。爺さんは?」

「おれの女房か。いることはいるが、今病院に入っている。もう三年ごしだ」

「あれ、あんなにナメクジがいやがら」

 と若者が口をさしはさんだ。若さに似ずかすれたような声である。その指さした庭のすみっこに、ナメクジが七八匹白っぽくぐちゃぐちゃにかたまっていた。莫邪の指は無意識のうちに、肥った膝の上で、むずむずとなにかこすり落すような動き方をした。

「さっきは俺の膝にも、一匹這(は)いのぼって来たぜ」

 庭を仕切る長者門の扉がぎいと開いて、変な器械をぶら下げた男が、つかつかと入ってきた。平気な顔で庭を横切り、台所の方に歩いてゆく。莫邪も立ち上って、汚れた床板を爪先立って歩き、台所に入った。その男は案内も乞わず、職業的な無表情さで、がたがたと上ってくる。(こういう連中は、よく台所のありかを見当つけるもんだな。職業的習練というやつかな)そんなことを考えながら、莫邪はだまって男の動作を眺めている。

 男はヤッと小さなかけ声をかけて、ガス台の上によじのぼった。手にした変な器械を、ヒューズのところに近づけたり遠ざけたり、しきりになにかを調べている。三分ほどしてまた、ヤッというかけ声と共に、男の軀(からだ)は床に降り立った。揚げ板ががたんと弾(はじ)けた。

「ちいっとばかり、漏電の気味ですな」

 男は蒼(あお)黒い顔を、初めて莫邪にむけた。

「注意したがいいですよ」

「どこが漏電してるんだね」

 と莫邪は興味をおこして訊(たず)ねてみた。

「まあ漏電というほどじゃないが、天井裏の配線のどこかに、具合の悪いところがある」

「じゃ、その配線をとっかえればいいんだね」

「そうすりゃ、一番安全だ。はあ」

「君んとこの会社で、それをやって呉れるのかい?」

「いや、うちじゃやらんね」

「じゃどうすりやいいんだい」

「注意することですね」

 と男は憐れむような眼差しで、莫邪を見おろした。

「この家はもう古いからね、どうしても配線が傷んでるね。電熱器とか大きな電球は、使用しないことですね」

 男は三和土(たたき)に降りて、板裏草履をつっかけた。ガラス扉に手をかけた。

 その後姿に、莫邪は声をかけた。

「君はメートル調べじゃないんだね。漏電を調べる係りなんだね」

「そうですよ」

「漏電を調べるだけで、あとは何もしないのかね。つまり、漏電箇所の修繕とか修理だとか――」

「それはやらない。そりゃわたしの任務じゃない。ただ漏電の状況を調査するだけ」

「ふん」

 莫邪は割切れない気持でつけ足した。

「いい商売だね」

「あまり良くもないさ。ところであんたは画描きかね?」

「いや、なぜ?」

「絵具のにおいがしたから」

 莫邪は黙っていた。男は外に出て、も一度蒼黒い顔を彼にふりむけた。

「なにしろ古家だからね。建ってから三四十年は経つね。だから、あちこち破れたり湿ったりしている。出来りゃ電気をもう使わないことですね。はあ。そうすりや漏電したり、火事になったりすることは絶対にない」

 ガラス扉がしめられ、湿土を踏む草履(ぞうり)の音が遠ざかってゆく。莫邪は何となく手を伸ばして、ついでのようにガスの栓をひねってみた。シュウシュウと音が立った。においが鼻に来た。莫邪は栓をゆっくりしめた。昔は止んだ。

「さて」

 裸の床板を兎(うさぎ)飛びして、縁側に戻ってくると、二人はまだ縁に腰かけて、煙草のけむりをはいていた。茶碗も空だし、丼のラッキョウもすっかり空になっていた。老人は莫邪の顔を見ると、ゆるゆると腰を上げ、半纏(はんてん)の裾をはたはたと叩いた。

「さあ、仕事だ」

 若者も立った。ヘチマの胴を指でちょっとつつく。秋陽の中で、そのだらしなく細長い物体は、不承不承(ふしょうぶしょう)に揺れた。

 

 流しのすみにも、小さな飴(あめ)色のナメクジが、一匹へばりついていた。空の丼を洗ったついでに、そいつもついでに流し落し、手をズボンで拭き、莫邪は台所を出た。そして画室に入った。(畳屋というやつは、ラッキョウを五六十粒も、よく食えるもんだ)床に散乱した金属片をかきわけて、莫邪は床に坐りこんだ。あたりを見廻した。

「さあ、こちらも仕事だ」

 さまざまの形のブリキ片は、パチンコ台に使用する金具である。比較的大きいのはケースと言って、玉のたまるところを飾る金具。小さいのはハッタリという名で、穴をかざるブリキ片のことだ。それらの彩色を、知合いの辰長パチンコ台製作所から依頼されて、明後日までに仕上げて届ける約束になっている。彩色代は、ケースは一枚につき二十円、ハッタリは五円だ。それほど悪い手間ではない。ハッタリなどはその気になれば、一日に四百や五百は彩色出来る。それぞれの形に応じて、七福神の顔を描いたり、猿や牛や梟(ふくろう)を描いたり、花や機関車や昆虫を描く。面白い仕事ではないが、引換えに金を呉れるので、収入としては確実だ。以前勤めていた雑誌社よりは割がいい。

 一年前その雑誌社をクビになって以来、莫邪はひどく苦労した。身寄りには、丸の内に事務所をもっている異母兄があるが、そうそう援助を仰ぐわけにも行かない。ある日偶然、莫邪は電車の中で、中学校時代の旧友辰野長五郎に出会った。莫邪の失業を知ると同情して、俺のところの仕事をやってみないかと言った。

「君はたしか絵ごころがあったな、あの頃から」

「仕事って何だね?」

 と莫邪は反問した。辰野は名刺を出した。辰長パチンコ台製作所長という肩書がついている。辰野は大きな掌を莫邪の肩に置き、慈善者特有の過剰な光を眼に宿しながら、なだめるように言った。

「なに、絵ごころがあれば、素人(しろうと)だってやれるさ。古なじみだから、特に割を良くしておくよ」

 それから四ヵ月、莫邪はもっぱらこの仕事で生計を立てている。画室にとじこもって、終日この仕事をしていると、何だか自分が囚人にでもなったような気がしてくる。雑誌記者時分に、彼はF刑務所を見学に行ったことがある。その時たくさんの囚人たちは、黙々と坐って、玩具をつくったり箱の紙貼りをしたりしていた。一日中ブリキ片と向い合っていると、自分の表情が囚人たちのそれと、全くそっくりになってくるのが判る。その自覚は重苦しかった。

「さあ、仕事だ」

 莫邪はも一度、ぼんやりと四辺(あたり)を見渡した。しかし手は画筆の方には伸びない。急に腹が減ったような感じで、マカロニみたいなものが突然食べたくなってくる。咽喉(のど)がぐうと鳴った。

「あいつら、仕事してるかな?」

 畳を換えようと思い立ったのは、半年ばかり前、春頃のことだ。金のやりくりの都合で今まで伸び伸びになったが、今だってやりくりがついたわけではない。畳はますます傷(いた)んでくる。雨が降ると部屋のすみに茸(きのこ)が生えたりする。なるたけ畳の上は踏まずに、縁や廊下や敷居を歩くようにしているが、それでもいよいよ傷んでくる。やむなく思い立って、月払畳表替株式会社というのに頼んで、畳替えをして貰うことになった。替代は、今月から四ヵ月、月割で会社に払い込めばいい。今来ている二人は、その会社がよこした畳職だ。だから金銭支払いについては、この二人は直接莫邪とは関係がない。彼等は会社から、きまった日当を貰うのだろう。二人の働き方がのろのろしているのは、どうもそのへんに関係があるらしい。

 莫邪としては、何日かかろうとも、とにかく畳が新しくなればいいのだから、その働きぶりに干渉する気もないが、今朝からなんということもなく、何度も縁側に足を運び、二人の仕事ぶりを仔細らしく眺めた。どうも連中の動作は、他のことに気をとられているような具合で、はっきりしないところがある。ラッキョウを食べる時ははっきりしているが、いざ仕事に向うと、労働していると言うより、単に止むを得ず動いているようなおもむきだ。

「へんなもんだな」

 彼は無意識に画筆をとり、左手で鈍色(にびいろ)のブリキの一片をつまみ上げていた。その表面に、芋虫みたいな模様をさっさっと描きつけると、画筆をそばに置いて、しばらくそれを眺めていた。笑いに似た翳を頰にはしらせながら、そのまま立ち上った。ブリキ片はカチャリと床に落ちた。猫足で渡り廊下を過ぎ、台所に入った。

 塩は食器戸棚の壺の中にあった。一握り、大づかみにつかむと、莫邪は下駄をつっかけ、勝手口から外に出た。庭に廻ると、畳屋はさっきと同じ姿勢で、のろのろと手や体を動かしていた。場所は老人と若者が入れ代っている。ヘチマのすぐ下で、若者は肱(ひじ)でぐりぐりと畳を押しながら、低い声で流行歌をうたっていた。その背を廻り、庭のすみに莫邪はしゃがみこんだ。根太の根元に、ナメクジ群はかすかにうごめきかたまっている。うしろで眠そうな老人の声がした。

「ナメクジかい?」

「うん。塩をかけてやるんだ」

「よしなよ。もったいない」

しかし莫邪は、塩をばらばらとふりおとし、最後に掌全部を使って、ぐしゃりとそこに塩を押しつけた。塩は白い土饅頭(まんじゅう)の形となり、その表面に掌や指の形を不明確に残した。声を含んで笑いながら、莫邪は立ち上った。若者はまだ低声でトンコ節を口吟(くちずさ)んでいる。

 すこし経って、莫邪は二人のどちらにともなく声をかけた。

「どうだね。今日中には済みそうにないね」

「ああ、済まないね」

 老人は気のない返事をして、空を見上げた。空には雲が出始めていた。

「明日にかかるね。まあのんびりやるんだね」

「明日もいい天気だといいけどね」

 

 再び画室に戻って、二時間ほど、こんどは仕事が相当にはかどった。ケースを十枚に、ハッタリ五十枚ばかり。その代りにこれらは、注文通りの意味ある絵模様ではなく、色と形の単純な組合せばかりだ。さっきの芋虫模様で思いついて、こんな試みをやって見たのだが、大黒やお多福の図案より面白く出来上ったと思う。でも辰長パチンコの方で何と言うか判らない。

(シュールはいけませんや、シュールは)製作所主任の棚山がそう言いながら、両掌で莫邪の方に空気を押しもどす。そんな状況を、莫邪はちらと頭のすみで想像した。

 縁側の方から声がした。

 彩色を仕上げたブリキ片を、床にていねいに四列縦隊にならべて、目算する。柱時計が五時を打った。風が出ている。夏から窓にぶら下げ放しの小さな竹の虫籠が、ふらふらと揺れている。その中には、しなびた胡瓜(きゅうり)の残骸と、かなぶんぶんの死骸が二個人っている。かなぶんぶんは鳴かないし、ごそごそ這(は)い廻るだけだし、飼って見て面白味のある動物ではなかった。死骸になればなおのこと面白くない。生きていれば、ハッタリのモデルぐらいにはなるだろうけれども。

 声が呼んでいるらしい。

 縁側には、畳屋二人が腰をおろして、庭を眺めていた。道具や木台はすっかり片づいている。出てゆくと、座敷の方から新しい畳のにおいが、莫邪の嗅覚をうった。そのまま座敷に踏み入り、二三回ぐるぐると歩いて見る。新畳は陽を吸って、蹠(あしうら)になまあたたかかった。それは快よさというより、妙に不吉なものを、莫邪に感じさせた。かすかな身慄いを感じながら、彼は縁に出て来た。

「もう溶けたかな」

 塩饅頭のあたりを見ながら、莫邪はぼんやりと口を開いた。老人はその言葉を聞き違えたらしい。

「いや、今日はもう時間だよ。あとは明日だ。明日の昼までには済むよ」

「そりやご苦労さま。それで――」

 手間賃は会社から出るんだろうね、と言いかけて止しにした。言わなくても判っていることだし、無駄なことは言わないがいい。あやふやに言葉をついだ。

「お茶でも沸かすか」

「焼酎がのみたいな」

 若者がざらざらした声でそう言った。莫邪は若者を見た。若者は脣(くちびる)を曲げてへなへなと笑っている。別に成意のある表情でもない。老人はむっと黙っている。背をまっすぐに立てて、ヘチマの揺れを眺めている。莫邪は柱によりかかり、ゆっくりと口を利いた。

「焼酎はないよ。お茶ならあるが」

「買って来るよ」

「金は僕が出すのかね?」

 そんなしきたりなのかと思いながら、莫邪ほ反問した。

「俺もすこし、出すよ。爺さんも出すだろ。な、爺さん」

「え?」

 初めて気がついたように、老人はふりむいた。

「出せって、いくらだい?」

 柱に身をもたせたまま、莫邪はあいまいな微笑を浮べていた。彩色の仕事が予定以上にはかどったから、飲んでもいいという気持はあった。老人はどんぶりから、何枚かの皺(しわ)くちゃの紙幣をつかみ出した。節くれ立った指が、不器用にそろえて数え始める。やや意地悪い視線で、莫邪はそれを見ていた。

「いいよ」

 老人が数え終った時、莫邪は言った。

「僕がいっぱい買うよ」

「そうかい」

 彼はポケットに手を入れた。この二人をもりつぶしてやると面白いだろうな。そんな思い付きが、素早く頭を通りぬけた。

「一升も買えばいいな」

「おめえ、ひとっぱしりして、買ってこい」

 沓脱(くつぬ)ぎに立っている若者に、老人は声をかけた。莫邪は若者に金を渡した。台所に戻り、湯呑み三つに食パンを持ってきた時は、もう若者の姿は見えなかった。外はだんだん暗くなり、庭隅の塩のかたまりだけが、ほの白く残っている。

「へんな男だろう」

 老人は表の方を指差した。若者のことを言っているらしかった。

「そうかい。それほどでもないよ」

「すこし頭がいかれているんだ。全くのハンチク野郎さ」

「でも、腕は割に確かなようだね」

 莫邪はお世辞のつもりで、反対のことを言った。

「あれ、あんたの息子さんかね?」

「とんでもない。あかの他人さ。あいつ、この間デモ行列で、巡公に頭なぐられてよ、それからしょっちゅう変てこなんだ」

「へえ、畳屋でもデモに出るんだね」

「出ちゃいけないのかね?」

「そりゃいいさ。出てもいいが――」

「頭を殴(なぐ)られると、鉢が歪(ゆが)むんだってな。ついでに脳味噌だって歪まあな」

 老人は考え深そうに、眼をしばしばさせた。

「それまでは酒一滴のまねえ、実直な男だったが、毎晩大酒を呑むようになった。やっぱり頭は殴られちゃいけねえな」

 沈黙が来た。風の音が強くなってくる。少し経って、老人が口を開いた。

「旦那はこの家に、ひとり住いかね?」

「今のところ、そうだよ」

「もったいねえ話だな」

「この家も売ってしまいたいんだけどな、買い手はないかねえ」

「売るのかい?」

 老人は頸(くび)を廻して、家内をじろじろと見廻し、天井を見上げたりした。莫邪も同じことをした。

「相当傷(いた)んでるね。がたがただ」

「昼間見ると、なおひどいよ」

「いくら位で手離すつもりだね?」

「まだ金額はきめてない。すこし手を入れなきゃ、買い手はつかないだろう」

「まあ心当りがないこともないね。話してやってもいいよ」

 少しして老人は押えたような声を出した。その件に乗気になっていることは、その眼の色でも判った。老人は膝を曲げて、縁にすこしずり上った。

「この家、火災保険つけてあるかい?」

「ある。なぜ?」

「知合いがその仕事やってるんでね。そうか。入ってるのか」

 それから老人は、莫邪の職業を訊ねた。どういうつもりなのかは判らなかった。失業していると答えるのは、気が進まなかった。画を描いて暮していると彼は答えた。

「へえ。画を描いて暮せるのかい。いい身分だね。どんな画だね」

「いろいろさ」

「見せて呉んねえか」

 莫邪は暗い庭を見た。画室に散乱しているブリキ片のことを思った。分厚いものに埋没してゆくような不快さがあった。

「見られるのは厭だよ」

「やはりそうかねえ。じゃ俺と同じだ」

「そうかね。見られるのは厭かね。でも畳屋さんだったら、どうしても眺められるだろう」

「眺められるね。縁側から見られるのが、ちょっと辛いね。白洲(しらす)に坐ってるみたいな気になる。どういうものか――」

 表から跫音(あしおと)が近づいた。会話を切って、二人はそちらを見た。薄暗がりの長者門から、酒瓶を下げた若者が、ぬっと姿をあらわした。呼吸をすこしはずませている。

「酒屋で瓶はあとで返して呉れってさ」

 

 妻に病まれた老人と、頭がおかしい若者と、ひとり者の中年失業者は、それから一時間半ばかり、薄暗い縁側に車座をつくり、食パンをちぎって肴にして、一瓶の焼酎を飲み合った。会話はいっこうとりとめなく、ばらばらだったが、酔いは着々と進行した。老人は膝を打ち打ち、(花はなんの花、つんつんつばき、水は天からもらい水)という子守歌を、くり返しくり返し歌った。若者は湯呑みを、左手でいそがしげに口に運んだ。その揚句、畳屋は二人ともすっかり酔っぱらい、莫邪も不本意にも酩酊(めいてい)した。食パンは耳の端まで食べ尽し、瓶底には液体が潦(たまりみず)ほど残った。老人が先ず帰ると言い出した。縁側から地下足袋をはくのにも、二人は手付きがあやしく、なかなか暇どった。商売道具をめいめいの自転車の尻にゆわえつける。自転車の二つの前燈が、庭の部分を黄色くした。老人が声を出した。

「ヘチマ、貰ってくよ」

 老人はヘチマにすがりつき、ぶら下るようにした。ヘチマ棚はわさわさ揺れた。引きちぎったヘチマを、老人は警棒のように腰にむすびつけた。

「じゃ明日」

 明日また来るのなら、商売道具を置いておけばいいではないか。そう思っただけで、口には出さない。酔いが体の芯(しん)に沈みこんで、口をきくのも大儀だ。二つの自転車の燈の輪は、押し手の背を黒く浮き立たせながら、長者門をくぐり、四ッ目垣の向うに遠ざかってゆく。大声で話し合っているらしいのだが、内容は聞きとれない。(あれで自転車に乗れるかな。どこまで帰るのかな?)すっかり燈が見えなくなってから、莫邪は時間をかけて、あちこちの戸締りをした。泥棒に入られても盗られるものは何もないが、畳を新しくしたので、厳重に戸締りをする気になった。台所に入って丁寧に手を洗い、枕もとに置くための薬罐に水をみたす。この薬罐の口に畳屋が、じかに唇をつけていたことを、莫邪は思い出す。若者の腕は青白くほっそりとしていた。(あの連中、一休何を考えているんだろうな)莫邪は頰をゆるめ、笑っているような顔になり、薬罐をぶら下げて座敷に入った。時間はまだ八時頃だから、寝るには早いが、仕事する気にもなれなかった。ばたんばたんと寝床をしき、薬罐(やかん)を枕もとに置いた。ごうと地鳴りがして、軽い地震がきた。莫邪は口を半開きにしてあおむき、眼を光らせて、電燈の揺れを見詰めている。柱や敷居がみしみしと軋(きし)む。天井裏をかけ廻る鼠の跫(あし)音。配電線、と莫邪はちらと考えた。揺れはゆるやかに止んだ。電燈が動かなくなるのを確めて、莫邪はごろりと横になった。畳はあたたかいのに、布団はひやりと冷たかった。

「花はなんの花、つんつんつばき、か」

 老人の子守歌の抑揚が、皮膚の内側に、まだじんじんと沁み入っている。閉じた瞼の裏に、ヘチマの形や蒼黒い電気屋の顔や、ブリキ片の色などが入り乱れ、そして莫邪はいびきをかいて眠っていた。夢を見ていた。

 

 朝は曇って、寒かった。黒い大きな犬が、四ッ目垣をくぐって、ひっそりと庭に入ってきた。地面をくんくん嗅ぎながら、庭の隅にあるいてくる。立ち止ると、首を垂れて、薄赤い長い舌を出し、いきなり白いものをべろべろと舐(な)めた。縁側で歯ブラシを使いながら、莫邪はそれを見た。大声を出した。犬はびくっとふりかえり、莫邪の姿を見て、構っ飛びに垣根をくぐって逃げた。莫邪は庭に降り、そこに近づいた。盛り塩の型はくずれ、不規則に散らばっている。ナメクジの姿は、どこにも見当らなかった。莫邪は下駄の歯で、湿った土とともに、塩を縁の下に蹴ちらした。歯みがき粉が昨日で切れ、今朝は塩を使っている。口の奥が突然にがくなってきた。こみ上げてくるものを押えようとして、莫邪の咽喉(のど)は苦しく痙攣(けいれん)した。表に自転車のベルが鳴り、畳屋の若者が入って来た。

「今日は」

 莫邪は顔を歪めて、若者を見た。その瞬間、今朝がたの夢にこの若者が出てきたことを、莫邪は憶(おも)い出した。ねばねばした肉質の夢の感じはすぐに来たが、どんな筋の夢だったか、それはよみがえって来なかった。血の糸の混った白い唾を地面におとしながら、莫邪は訊ねた。

「お早う。爺さんは?」

「死んだ」

 道具箱を自転車からおろしながら、若者はかんたんに答えた。

「死んだ?」

「うん」

 箱をかかえて、沓脱(くつぬ)ぎの上に置く。若者の顔には、別にきわだった表情はなかった。どんよりと動かない。

「今朝、会社から、電話がきた。爺さんは死んだから、一人で行けって」

「本当かい。嘘だろう」

「本当だ。嘘はついたことない」

「何で死んだんだね」

「それは聞かなかった。告別式は、明日の二時からだって。電話が途中で切れたんだ」

 のろのろした動作で、若者は木台を組み立てている。老人の死に無関心なのか、あるいは感情の起伏を押えているのか、よく判らない。しかし嘘を言っているのではないようであった。なにか膜をへだてて分明しないような、じりじりした感じが莫邪に来た。しかしその感じを、莫邪はうまく表白できなかった。

「変だな」

 と彼は言った。昨夜ヘチマを警棒みたいにぶら下げて、自転車を押していた老人の姿を考えた。あの時たしかに、危いなと思ったが、帰りに事故でも起きたのか。

「どこで別れたんだね、昨晩」

 若者は町の名を言った。その町がどこにあるのか、莫邪は知らなかった。若者は草履を脱いで、茶の間に上った。かけ声をかけて古畳をおこす。よろよろと、畳を引きずるようにして、庭に降りてくる。歯ブラシをくわえたまま、それを木台に乗せるのを、莫邪は手伝った。

「帰りに自動車にでも、ぶつかったんじゃないかな」

「そうかも知れない」

「ずいぶん酔ってたようだね」

「生酔いだろう」

 若者の身体は、スルメのようなにおいがした。その体臭と口調が、莫邪をやや不快にさせた。

「爺さんの豪、知ってるかね?」

 若者は考え考えしながら、老人の名前と住所を答える。そして思い付いたように聞いた。

「昨晩の瓶、酒屋に戻したかい?」

「いいや、まだ」

「早く戻すがいいよ。親爺がそう言ってたよ。すぐ戻して呉れって」

 莫邪は返事しないで、若者に背を向けた。勝手口に廻り、口をゆすいだ。水がつめたく奥歯にしみた。台所のすみに、昨夜の一升瓶がころがっている。小量の液体が残っている。莫邪は台所に上り、栓をとってコップにあけた。それはコップを半分充たした。(瓶のことばかり心配してやがる!)莫邪はコップを口に持ってゆき、ぐっと一息にあおった。コップを流しの上に戻し、少しの間莫邪は神妙な顔で突立っていた。やがて腸のあちこちが熱くなり、すぐに消えた。「つまり」と彼は口の中で言った。「畳替えが昼までに済むかわりに、夕方までかかるということだな」しかし、老人の死を聞いた時のショックは、まだかすかに莫邪に残っていた。勝手口から、若者が首を出した。

「薬罐貸しとくれよ」

「そこにあるよ」

 薬罐を下げた若者に、莫邪は習慣的な口をきいた。

「今日中に済みそうかい?」

「済むだろう。済まなきゃ、残ってやるよ。明日は日曜だからよ」

 

 電熱器に手を伸ばそうとした時、昨日の漏電係の言い草を、莫邪は思い出した。眉をひそめ、そのままかまわずスイッチをひねる。ニクロム線は見る見る赤熱してくる。古薬罐を乗せ、莫邪は心もとなげに天井を見上げた。天井は蜘蛛(くも)の巣だらけで、部分的には房になって垂れ下っている。天井板の向うにある煤(すす)だらけの配電線を、莫邪はある抵抗と共に想像した。この古家への、そしてここに棲息する自分へのぼんやりした憎悪が、莫邪の胸にじわじわとひろがってきた。しかしこの瞬間でも、莫邪の顔はあおむいている関係上紅潮し、頰の贅肉(ぜいにく)もたぶたぶとゆるんでいるので、いかにも楽しげに見える。彼は呟(つぶや)いた。

「玉置庄平、か」

 さっき聞いた老人の名だ。玉置老人の住んでいる町の名は、莫邪は聞き覚えがある。たしか辰長ハチンコと隣り合った町の名だ。その町の老いたる一住人が、昨夜なんらかの事故か病気によって死亡した。自分に納得させるように、莫邪はわざと筋道をつけて、そんなことを考えてみた。北向きの画室は寒かった。やがて薬罐がしゅんしゅんと沸(わ)き立ってきた。食慾はなかった。沸き立った湯にコーヒーをいれ、彼は二杯飲んだ。電熱器を切った。画筆をとり上げる。画筆もブリキ片も、指につめたかった。

 昼までにハッタリを百二十箇ばかり彩色した。昨日みたいな色調ではなく、今日はちゃんと顔や鳥や獣など。描いている間は、それに没頭する。玉置庄平の死も、ほとんど頭に上ってこなかった。

 十二時、莫邪は空腹をかんじた。

 庭では、剝ぎ取った古畳表をござの代りにして、若者が弁当を食べていた。びっくりするほど大きな弁当箱に、白い御飯がぎっしり詰めてある。縁側から莫邪はそれを見下した。若者は旨(うま)そうに舌を鳴らした。御飯に埋もれた紅生姜(べにしょうが)の色が、莫邪の眼にしみた。

「お茶、飲むかね?」

「うん。欲しいね」

 今日もこの男は酒を飲みたいと言い出すかな、と莫邪は考えた。空はまだ曇って、どんよりと暗い。ヘチマ棚からは、実を千切られた蔓(つる)が一本、ふらふらと揺れている。(あのヘチマはどうなっただろう) 背中にうそ寒さを感じながら、莫邪はのそのそと部屋に入った。仕事は予想外に進行していて、古畳をあと三枚残すのみになっている。

(畳だけ取っ換えても、あんまり意味がなかったな)今の索莫(さくばく)とした情緒が、老人の死の報知とも関連がある。それは確かだけれども、どういう筋道の関連があるのか、よく判らなかった。台所の方に歩きながら、明日は旨い鮨でも食べようかな、と彼は考えた。考えてみただけで、すぐそれは頭から消えた。この日一日、莫邪はもう鮨のことを全然思い浮べなかった。

 

 翌朝眠が覚めた時、まっさきに意識にのぼってきたのは、鮨(すし)のことであった。莫邪は眼をぱちぱちさせながら、視線をあてどなく天井に這わせていた。鮨は夢の中にも出てきたらしい。坊主枕ほどもある巨大な鮪が、ずらずらと並んでいる。そういう場面をたしかに見たような気がする。そこから引きつがれた後味として、それは寝覚めの莫邪の頭に浮んできたらしかった。あたたかい寝床に手足を伸ばし、莫邪は五分間ばかり、その夢の前後の筋道を、ぼんやりと反芻(はんすう)している。雨戸がしまっているので、部屋の中はうすぐらい。畳のにおいがする。とりとめのない平安と幸福感がその匂いの中にある。熟眠した果ての目覚めの少時(しばらく)が、一日中で莫邪にはもっとも甘美な時間に感じられる。やがて彼は、大きなかけ声をかけて、むっくりと起きあがる。立ち上って着物を着る。今朝は昨日ほど寒くない。帯をぐるぐる捲きつけながら、もう鮨のことはすっかり忘れてしまっている。彼は呟く。

 「もう戻ってきてもいい時分だがなあ」

 この家付きの老女中のお君さんというのが、肉親の不幸で郷里に戻って、もう二週間も経つ。その間莫邪は、自ら雨戸をあけ立てし、自ら食事をつくり、自ら寝床の始末をし、毎日そうすることに、そろそろうんざりし始めてきた。たかが自分一人が生きて行くために、こんなに煩瑣な行事と手続きがあるとは、今まで想像だにしなかった。お君さんはしっかりした働き手では決してない。天井が蜘蛛(くも)の巣だらけでも放っておくような女で、むしろ怠け者に属するが、それでも彼女の一日中の仕事の量は相当なものだと、莫邪は体験を通じて始めて認知した。三度の料理だけでも並大抵ではない。お君さんがいなくなって三日目のこと、莫邪はカレーライスを作製する野心をおこし、大失敗をした。カレー粉の分量を誤ったらしく、辛くて辛くて口に入らない。捨てるのは勿体(もったい)なく、砂糖をまぜたり味噌を入れたり、水や粉を増量したり、いろいろ試みてみたが、ますます奇怪な味になってゆくばかりで、とうとう大鍋一杯のそれを全然無駄にした。それ以来莫邪は複雑な料理を断念して、かんたんなもので我慢している。食物の夢をよく見るのも、おそらくそんな関係からだろう。

(近頃塩分が不足しているんじゃないか?)

台所で歯ブラシを使いながら、莫邪はちらと考えた。歯ぐきから血が出るらしく、毎朝唾に赤いものがまじる。全身がぶわぶわとむくんだような感じで、ちょっと動くのも大儀な気分になる。莫邪は眉をひそめた。あのナメクジを溶かしこんだ塩のかたまりと黒い犬のことが、ふっと頭に浮んできたからだ。

 ブリキ片の仕事はまだ少し残っていた。

 そそくさと鬚(ひげ)をそり、顔を洗い終えると、彼は薬罐をぶら下げて画室に入って行った。どのみち今日は外出するから、朝食は省略しても差支えない。

 午前九時、残余のブリキ片を、全部彩色し終えた。莫邪は押入れから、小さな古トランクを出す。乾いたのはそのまま、絵具で濡れているのは一枚一枚紙片をあて、そっくりトランクの中に重ねて入れる。電熱器をつけて、薬罐を乗せる。仕事が一仕切済んだこと、久しぶりに外出できることが、莫邪の気持をやや浮き立たせていた。立ち上って、洋服を引っぱり出す。近頃肥って服が窮屈になってきたので、肥った分だけ下着を減らさねばならない。冬に向うというのに辛い話だが、それも仕方がない。ネクタイを結びながら、莫邪は鼻歌をうたっている。カラーが咽喉(のど)仏をしめつけて、すこし息苦しい。意味もない鼻歌の節が、ふっと一昨夜の子守歌の抑揚に似てくる。あやふやな表情で、莫邪は歌を止めた。

「告別式は午後二時と言ってたな」

 柱鏡の中の自分の顔と、莫邪は中腰のまましばらく向き合っている。鏡面をしめるその顔は血色よく、屈託なげに紅潮し、笑う気持は毛頭ないのに、膚や頰の筋肉はゆるんで、おのずから不断の微笑をたたえている。くたびれた服やネクタイを見なければ、つまり顔かたちだけならば、けっこう特別二等重役ぐらいには見えるだろう。莫邪は八割がた満足して、柱鏡から身体をはなす。

 薬罐が煮え立っていた。

 莫邪は用心しいしい床に坐り込む。膝から腿(もも)のあたりまで、ズボンがはち切れそうになっている。慣れた手付きでコーヒーをいれる。溝く熱いのを時間をかけて飲み干す。トランクの蓋をしめ、ゆっくりと立ち上る。背伸びをしたついでにハンチングをつかみ、頭に載せる。トランクをぶら下げて、あとも見ず部屋を出る。

 落陽(うすび)さす朝の小路を、莫邪は駅の方に歩いていた。辰長パチンコに品物を届ける時はいつも、彼はこのいでたちである。このいでたちは、その度ごとに、莫邪の気に入っていた。鼠色の背広に、やや斜めにかぶったハンチング。手に提げた小さなトランク。どこから眺めても旅行者と見えるだろう。旅人。家郷を失い、あてどなくさまよいの旅に出る。その贋(にせ)の情緒が、常に莫邪の胸をこころよく刺戟し、莫邪の歩調をさわやかにする。莫邪の歩調にしたがって、ぶら下げたトランクの中では、数百のブリキ片が互いに触れ合いこすれ合い、ガチャガチャガチャと鈍く乾いた音を止てる。このやくざなブリキ片と引換えに、どれほどの金が貰えるか、やがて莫邪は神妙な瀕になり、口の奥でぶつぶつと呟きながら暗算を始めている。薄ら日は照っているが、空には雲が多い。冬に入る前兆のように、雲はそれぞれ翳(かげ)を持っている。

 

 すぐ背後で聞き覚えのある声がする。がらがらしてよく徹る声だ。(藤田の声に似ているな)一年前雑誌社で同僚だった男。ぎっしり詰った満員電車の中で、その会話を背にしながら、莫邪はいっそう体をすくめるようにする。その声は別の声と、胃の話をしている。(やはり藤田の声だ)振り返ろうと思えば出来ないことはないが、そうしたくない。なるべく自分と気付かれたくない。失業の引け目が莫邪をそうさせる。午前十時、電車は揺れながら奔(はし)っている。カーブにかかる毎に、トランクをはさんだ両脛(すね)がしなって痛い。

(満員電車に乗るのも久しぶりだな)

 そろそろ右手を頭に上げ、ハンチングの廂(ひさし)をそっと引きおろしながら、莫邪はそう思って見る。背中がうすうすと汗ばんでくる。背後の話題は、胃のことから寄生虫のことに移っている。Uという作家のこと。それが虫下しを呑んだら、回虫が二十四匹もぞろぞろと出てきたという話。おかげですっかり健康をとり戻したが、どういう訳か、とたんに小説が書けなくなったという話。相手側の低い笑声。

「つまりさ、今までのあいつの小説は、回虫が書いていたということさ。当人はただの仲介人さ。だから奴さん、近頃は後悔して、生野菜ばかり食ってるという噂だよ」

「そいつだけでなく、小説書くてえのは、大がい虫けらの部類じゃないのかい」

 声に笑いが混る。こんな会話の向うにある世界から、俺はもう一年も隔離している、と莫邪は思う。脛の間でトランクの中味がガチャリと揺れる。ある苦痛が莫邪の胸をはしり抜ける。それをごまかすために、すぐ前の男が窮屈そうにひろげた新聞の一部分に、莫邪は視線を固定する。丹念に一字一字をたどって読む。うなぎのどろ吐かせ。彼は意識を強引にそこに集中させた。どじょうやうなぎのドロを早く吐かせるには、料理をする前に唐辛子(とうがらし)を細かく刻んで少し振り込んだ水にしばらく放しておくと、きれいにドロを吐きます。これは唐辛子の辛味成分であるカプサイシンが、うなぎの胃を刺戟するためです。電車が速度をおとした。

「カプサイシン、か」

 電車はホームに、辷りこんだ。扉がはずみをつけて開く。莫邪は背をぐっと曲げ、大急ぎでトランクの把手をつかむと、その丸まった姿勢のまま扉へ突進し、ホームにころがり出る。カラーにしめつけられた首筋が汗ばみ、ワイシャツの釦がひとつ弾け飛んでいる。ずっしりと重いトランクを下に置き、莫邪は顔を前方に突出し、指をカラーと頸の間にはさんで風を入れた。鼻の両翼に汗が粒になってふき出ている。

「カプサイシン。こんな役に立たない言葉は、早く忘れなくちゃ」

 大切なことはすぐ忘れてしまう癖に、生活に関係のない不用のことは、いつまでもしつこく覚えている。記憶から排除しようとすればするほど、そいつらは爪を立ててしがみつく。近頃の莫邪の記憶の大部分は、そんなやくざなかけらばかりで満たされていて、本筋のものは忘却の後方に薄れかかっている。

「カプサイシン」

 電車が発車して、がらんとなった線路に、莫邪は忌々(いまいま)しく唾をはいた。唾は線路の鉄に当り、一部分は斜めにぐにゃりと枕木に、辷り落ちた。莫邪はハンチングの形を直し、トランクを持ち上げて、のろのろと改札の方に歩き出す。

 

 午前十時半。パチンコ部品係主任の棚山幸吉は、製作所の二階の小さな窓から、しごく無感動な顔付きで、通りを見おろしていた。製作所と言っても、小さな町工場程度のがたぴしした建物で、塗りもペンキも剝げかかっているし、入口なども貧弱な構えだ。眼下の通りをななめに横切って、今その入口の方に、トランクを重そうにぶら提げた人見莫邪が、ゆっくりと近づいてくる。棚山はその姿を眺めながら、チッと歯を鳴らした。

「よく肥ってやがるな、あの先生は」

 棚山はせんから莫邪という男を好きではない。それは棚山自身が瘦せているせいもあるが、莫邪のあの頰ぺたのあたりの、能の無さそうな笑いが、何となく気に食わないのである。彩色技術も優れているとは全然思えない。それなのに、所長辰野長五郎の旧友だというわけで、塗り代も特別高く取る。所長の言い付けだから仕方がないけれども、普通の彩色下請(したうけ)はケースが十円、ハッタリが三円が相場なのに、あの男たけにはその二倍も払っている。ムダな浪費のような気がして、全く面白くない。階段をのぼってくる重々しい跫音(あしおと)を聞きながら、棚山はかるく舌打ちをして、煙草に火を点けた。

「所長の気紛れにも、ほんとにうんざりするな」

 そんな余分の金があるなら、この俺の月給を上げて呉れればいいのに。彼がそこまで考えた時、うすっぺらな木扉がぎいと鳴って、汗ばんだ莫邪の丸い顔がぬっとあらわれた。

「今日は」

「今日は」

 棚山も反射的に愛想笑いをうかべて、あいさつを返した。莫邪は扉をしめて、口を半開きにして部屋中を見廻した。

「辰野君は、今日は留守ですか?」

「所長は昨日、名古屋に発(た)ちましてねえ」

 と棚山は歯の奥をチイッと吸った。

「近頃うちの売行きもあんまり香ばしくないんで、新知識を仕入れに、製造本場の見学ですわ。ははは」

「そうですか。それはそれは」

 莫邪はハンカチを振出して、がっかりしたように額をごしごしと拭いた。やや不安な眼付きになっている。

「売行きが良くないんですか」

「もうそろそろこの商売も下火でしょうな」

 棚山は意地悪さをかくして、にこにこと笑って見せた。

「もう業界も飽和状態ですしねえ」

 莫邪は困惑したような表情で、視線をあやふやに宙に浮かしている。棚山は煙の輪をはき出しながら、その莫邪の顔をじっと見詰めていた。莫邪はふと我に帰ったように、足もとのトランクを卓の上に載せ、おもむろに蓋を開いた。ぎっしり重ねて詰めこまれたブリキ片を、棚山はじろじろとのぞきこんだ。形式的に口を開いた。

「御苦労さまですな。毎度毎度」

「いやいや、こちらこそ」

 女みたいにふくらんだ莫邪の掌が、一重ねずつブリキ片を摑(つか)んで、次々卓上に並べ始める。ブリキ片は触れ合って音を立てる。棚山の手がつと伸びて、その卓の上の一片をつまみ上げた。

「こ、こりゃ何ですか?」

 莫邪は手を休めて、棚山の方に顔を上げた。それは一昨日描いた、あの無意味な色と形である。その一片が指にぶら下げられているのを見た時、予期しないかすかな羞恥と狼狽がのぼって来て、莫邪はそれをごまかすように、曖昧(あいまい)な笑いを頰に走らせた。棚山はその一片を、掌の上で二三度ころがした。

「手をお抜きになっちゃ、困りますな」

「いや、そりゃ、手、手を抜いたわけじゃなくて――」

 とどもりながら莫邪はあわてて弁解した。

「いつもいつも月並な模様じゃ、お客も飽きると思ってね。それでこう、ちょっとシュールの――」

「シュールは困りますな。シュールは」

 棚山はつめたい声でさえぎって、不機嫌な動作でそのブリキ片をことりとトランクに投げ戻した。

「大衆は月並で結構ですよ。ええ、シュールはお断り。これは描き直していただかなくちゃあ。この手のやつは、一体何枚あるんです?」

「ええ、何枚だったかな」

 莫邪は急に興覚めた顔になり、一昨日の分をより分け始める。棚山の手ももどかしげにその作業に参加して、二十本の指がしばらくそこらで忙がしく動いた。

「じゃ、この分は別として――」

 すっかり整理し終えた時、棚山は卓上に整列したブリキ片の数を読みながら、低い声で言った。

「今日お支払する分は、ええと、合計と願いましては、ええ、四千六百円也か。そうですな」

 棚山の瘦せた身体が隣りの部屋に消えて、紙幣(さつ)束を持ってまた現われる迄に、莫邪は不合格品をトランクに収め、もう元の表情を取り戻していた。棚山は紙幣束を莫邪につきつけた。莫邪は受取った。

「ええと、次の仕事は――」

「所長がお戻りになってからのことですな」

 棚山はわざと退屈そうな声を出した。

「私どもではよく判りませんで」

「そうですか。それじゃまた」

 紙幣束を内ポケットにしまい、頭をかるく下げて、莫邪は扉の外に出た。棚山は急いで窓のところに行き、ふたたび通りを見おろした。トランクを下げた莫邪の姿が、やがて真下の入口から出てくる。左右を見ながら、小走りに車道を横切る。向う側の歩道を四五間歩いて、ふと立ち止る。小さな鮨(すし)屋の前だ。

「奴さん。金が入ったんで、鮨でも食べる気だな」

 あざけりを含んだ笑いが、棚山の瘦せた頰にのぼってきた。莫邪の鼠色の服が、今彼方で紺ののれんをくぐろうとしている。

 

 マグロを六つ、あなごと烏賊(いか)を各四つずつ食べ、莫邪はちょっと頭をかしげ、服の上から胃のあたりを押えてみて、今度は鉄火巻を注文した。鮨屋がそれをつくっている間、莫邪はあがりを飲みながら、台の向う、大薬罐をのせた電熱器を、ぼんやりと眺めていた。薬罐はさかんに湯気をふいていた。

(告別式に行ってみるかな)

 どうせ今日は暇だし、家に戻っても仕方がない。それにあの老人の死は、こちらにも充分かかわりがある。

 鮨屋は鉄火巻をつくりかけて、うしろに手を伸ばし、電熱器のスイッチをパチンと切った。莫邪の眼はそれを見た。

(はてな?)

 彼の顔は急に緊張し、遠くを眺める空虚な眼付きになった。

(今朝、おれは、うちの電熱器を消してきたかな?)

 莫邪は大急ぎで記憶の中を探り廻した。右手がもぞもぞ動いて、スイッチをひねる手付きになる。切ったような気もするが、切らないような気もする。どうもはっきりしない。不安げな呟きが口から洩れ出た。

「さて、これは――」

「へい。おまちどお」

 六つに切った鉄火巻が、黒漆の台にずらずらと並ぶ。莫邪の手がそこへ行く。口ヘ運ぶ。海苔の香。ワサビ。莫邪の右手は、惰力で台と口を往復する。古家のこと、その屋根裏の配電線、火災保険のことなどを、莫邪はあれこれと考えている。最後の一つを口にほうりこみ、ろくに嚙みもせず、ぐつとのみこむ。(三十五にもなって、職もなければ、女房もない)莫邪は元の弛緩(しかん)した顔容にもどって、生ぬるいあがりを飲み乾しながら、うんざりしたような声を出した。もう家なんかどうでもいいような気分になっている。

「ああ、腹いっぱいになった。いかほど?」

「へい」

 千円札からおつりを貰いながら、莫邪はふたたび訊ねてみた。

「富田町三丁目というと、ここからどう行けばいいんだね?」

 昨日若者から聞いた玉置老人の住所である。この町と隣接しているから、ここからぶらぶら歩いて行ける筈であった。

 

 玉置庄平は黒い喪服を着け、玄関にしつらえた壇の歪みを直したり、弔花の位置を動かしたりしていた。この老人の頑丈な体軀(たいく)には、紋服はあまり似合わない。袖口から太い武骨な手首がにゅっと出ている。告別式の時刻までには、まだすこし間がある。庄平は壇の正面に廻って、不備やそそうの点がないか、ずっとそこらを見廻した。

 壇の一番奥には、黒く縁取られた引伸し写真がかかげてある。一昨日Q精神病院で死亡した庄平の妻の写真である。発病前に撮った写真なので、ひどく若々しく見える。庄平は眼をしばしばさせながら、それを眺めた。亡妻の死因は盲腸炎である。腹膜炎を併発して、一昨日の午前に息を引きとった。しかし庄平は今それほど悲しみを感じていない。生きていても、重症の精神分裂病だから、彼女は生涯庄平の生活に再び戻って来ることはなかったのだ。庄平にとっては、三年前の妻の発病の時の方が、よっぽど悲しかった。

「これでよし、と」

 庄平は踵(きびす)を返し、紋服の裾をわさわさ鳴らしながら、門のところまで出て来た。

 小路を向うからゆっくりした歩調で歩いてくる人影が、その庄平の姿を見て、ぎょっとした風に立ち止った。庄平はその男を見た。門から五六間隔てた、電柱のすぐ横である。電柱には「玉置家」と書いて矢印をつけた紙が貼ってある。

 男は鼠色の服をつけ、片手にトランクをぶら下げている。食パンのように肥っている。庄平は、眼を細めて男の顔を見た。そして庄平はそのきょとんとした顔の男が、一昨日仕事をやりに行った家の主であることを、やっと思い出した。

「やあ」と庄平は言った。

 莫邪はようやく驚きから覚めたように、トランクを左手に持ち換えて、そろそろと庄平の方に近づいてきた。近づきながら口の中で何かもごもご言ったようだが、庄平には聞き取れなかった。庄平はかさねて言葉をかけた。

「そんな恰好して、どこへ行くんだい?」

「うん」と莫邪はもつれたような混乱した口を利(き)いた。

「ちょっと、そ、そこまで」

「そうかい。俺んちは今日は、ちょっと取り込みでさ」

 庄平は顎(あご)を玄関の方にしゃくって見せた。壇の横や向うに、手伝いの人の影が、ちらちらと動いている。香のにおいが流れてきた。

「女房が死んだんでね」

「おお。それはそれは――」

 莫邪はとってつけたように頭をぴょこんと下げた。

「御愁傷さまでした。して、何の病気で?」

庄平はかんたんに亡妻の病状を説明した。他の人々に何度も説明したあとだから、口下手な庄平にしては、なかなか要領を得た話しぶりであった。莫邪はうなずきながら耳をかたむけている。

「それで昨日は来なかったんだね」

「ああ、そうだ。あの若僧っ子、何か言ってなかったかい?」

「いや、何とも」

 莫邪はうそをついた。本当のことを言うのも具合が悪かった。

「あの青年、妙な青年だね」

「うん、全くハンチクな野郎さ」

「ヘチマ、どうしたね?」と莫邪は思いついて訊ねてみた。

「そこに漬けてあるよ」

 門のすぐ傍の防火用水槽に、ヘチマは頭をすこし出して漬けられていた。水は青黒くどろりと濁っているので、底の方は見えなかった。

「何月か経つと腐って筋ばかりになるね。そうすりゃもう立派なアカスリだ」

「こいつは細長いから、背中こするのに都合がいいね」

 黒くよどんだ水面に、空がうつっていた。庄平は空を見上げた。

「今日は日曜だろ。Q病院の運動会さ。女房が生きてりゃ、見舞いがてら、そいつを見に行こうと思ってたんだがな」

「ほう。運動会って、気違いのかい?」

「そうだよ」

「そりゃ僕も見たいもんだな。面白そうだな」

 莫邪は興味をそそられて口走った。

「今から行けばまだやってるよ」

「そうかい。ひとつ行って見ようかな」

「行って見るといい。若え時にゃ何でも見とくもんだ」

「どこにあるんだね、その病院」

 庄平は説明を始めた。手伝いの若い男が、木机をかかえて、奥から出てくる。受付台にするのらしい。ハンチングをかぶり古トランクを下げた自分の姿が、どうも場違いのような感じがして、莫邪は落着かず身体をもじもじ動かした。

「じゃあ――」

 莫邪はハンチングに手をかけて、頭をちょいとかたむけた。

「そうかい」庄平もうなずき返した。

「こういう取り込みで、まだ家のこたぁ話してないんだ。そのうち連絡にゆくよ」

「家のこと?」

「そら、家を売る話さ」

 莫邪はあいまいに合点合点して、そろそろとそこを離れた。五六間歩くと、ふいに急ぎ足になりながら、ポケットからハンカチを出して、顔の汗をごしごし拭いた。手に提げたトランクの中では、不合格のブリキ片が踊る。(てんで出鱈目(でたらめ)だな)莫邪は歩調に合わせてわざとトランクを乱暴に振ってみる。ブリキ片たちはトランクいっぱいに、チリチリチャランと軽燥(けいそう)な音を立てて鳴った。

「もう、こうなれば――」

 何がこうなればなのか、莫邪は自分でも割切れないまま、頰の肉を力ませて呟いた。

「気違い共の運動会を見に行くより他はない」

 さっき鱈腹(たらふく)つめこんだ鮨が、胃をむっと膨脹させている。息苦しい。何であんな沢山食べたのだろう。そのせいか、思考に筋道がつかず、一向にとりとめがない。さっき見た霊前の菊の花はきれいだったな。あんなのを厚物咲というのかな。路地を出て横に曲りながら、莫邪はそんなことを考えている。

 

 病院の構内のやや広い空地に、気の確かな人々と不確かな人々が混然と群れ集い、旗ははためき、風船玉は揺れ、拡声器からはレコードの響きが、ひっきりなしに流れ出ていた。空地は高いポプラの樹々にかこまれ、空は厚い雲の層におおわれている。

 午後三時。呼物の仮装行列が終って、仮装の人々はアーチをくぐり、どよもす歓笑の中をしずしずと病棟の方に引き上げて行った。たくさんの子供たちが、放された風船を追って、乱れ走る。レコードが突然止んだ。男の声が拡声器に乗って、たかだかと響き渡る。

「ええ、次は、本日のプログラムの最後、プログラムの最後、綱引きでございます。東病棟対西病棟の、東西対抗綱引き。患者さんたちは全部出場して下さい。患者さんは全部」

 看護婦の白服がばらばらと、見物席の方に走ってゆく。空地の一隅から、屈強な男たちが七八人で、長い綱を引っぱり出してくる。看護婦たちが見物席の患者たちをうながして廻っている。見物席は不規則にぎわめき、乱れ立ち、列がくずれてくる。ばらばらと空地に出て来る。うながされても、しゃがんだまま動かないのもいる。男もいるし、女もいるし、年も服装も雑多な群衆は、かり立てられた家畜のようにのろのろと動く。空地の中央に長々と綱が横たえられる。呼び声や笑い声や叫び声。拡声器のアナウンス。やがてごちゃごちゃした雑沓は、すっかり一本の綱の両側に収まっている。黄色い砂塵が中空までうっすらと立騰(のぼ)っている。

 号笛一声。雑然たる懸け声と共に、砂塵をおこして綱引きが始まる。またたく間に終る。東病棟の圧倒的勝利。拡声器が鳴り渡る。

「本日は有難うございました。本日の運動会はこれで無事終了致しました。役員の方は至急本部まで集合して下さい。――」

 午後三時二十分。病棟にはさまれた石畳の道を、外部からやって来た見物人は、三々五々、正門の方に戻ってゆく。重症病棟の鉄格子の窓から、今日の運動会に参加出来なかった患者が、戻ってゆく人波を眺めている。黄色く色づいた銀杏(いしょう)の葉が、病棟の屋根にも石畳にもおびただしく散り、湿った風に吹かれている。Q精神病院の大きな石造の正門を、今トランクを提げた人見莫邪がのそのそと入ってくる。ぞろぞろと正門向けて動いてくる人々を見て、妙な顔をして立ち止る。黄色い銀杏の葉が一枚ひらひらと莫邪の肩にとまる。

「運動会はどこだね?」

 折柄傍に走ってきた子供らを呼びとめて、莫邪は訊ねる。子供らは立ち止って、小莫迦(こばか)にしたような顔を一斉に莫邪にむける。

「もうとっくに済んじゃったよ。なあ」

「今頃来たって遅いよ。デブ小父さん」

 そして子供たちは、口々に呼び交わしながら、てんでんばらばらに走って行く。莫邪は気の抜けたような鈍重な顔で、ぼんやりと佇(た)っている。それからのろのろと廻れ右をする。動いてゆく人波にまぎれこんで、今来た道を戻ってゆく。その肥った右肩には、さっきの銀杏の葉がまだとまっていて、莫邪の歩調と共にかすかに揺れている。

 

 

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