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« 反古のうらがき 卷之三 うなぎ | トップページ | 柳田國男 炭燒小五郞が事 三 »

2018/09/23

柳田國男 炭燒小五郞が事 二

 

      二

 

 炭燒長者の話は、既に新聞にも出したのだから、出來るだけ簡單に、その諸國に共通の點のみを列擧すると、第一には極めて貧賤なる若者が、山中で一人炭を燒いて居たことである。豐後に於ては男の名を小五郞と謂ひ、安藝の賀茂郡の盆踊に於ても、其通りに歌つて居る。卽ち

   筑紫豐後は臼杵の城下

   藁で髮ゆた炭燒小ごろ

なる者である。第二には都から貴族の娘が、兼て信仰する觀世音の御告げによつて、遙々と押掛け嫁にやつて來る。姫の名が若し傳はつて居れば、玉世か玉屋か必ず玉の字が附いて居る。容貌醜くゝして良緣が無かつたからと謂ひ、或は痣[やぶちゃん注:「あざ」。]が有つたのが結婚をしてから無くなつたなどゝ謂ふのは、何れも後の説明かと思はれる。第三には炭燒は花嫁から、小判又は砂金を貰つて、市(いち)へ買物に行く途すがら、水鳥を見つけてそれに黃金を投げ付ける。それが此物語の一つの山である。

   をしは舞ひ立つ小判は沈む

とあつて、鳥は鴛鴦[やぶちゃん注:「をしどり(おしどり)」。]であり或は鴨であり鷺鶴[やぶちゃん注:「さぎ」・「つる」。]であることもあつて一定せぬが、兎に角必ず水鳥で、其場所の池又は淵が、故跡と爲つて屢永く遺つて居る。第四の點は卽ち愉快なる發見である。何故に大切な黃金を投げ棄てたかと戒められると、あれが其樣な寶であるのか、

   あんな小石が寶になれば

   わしが炭燒く谷々に

   およそ小笊で山ほど御座る

と謂つて、それを拾つて來てすぐにするすると長者になつてしまふ。

[やぶちゃん注:「炭燒長者の話は、既に新聞にも出した」この新聞掲載の論考はちくま文庫版全集には未収録と思われる。調べて見たところ、『大阪朝日新聞』に掲載されたものと思われ、国立国会図書館のリサーチ・ナビの「新聞集成大正編年史」の大正十年度版上巻(一九八二年十一月「明治大正昭和新聞研究会」発行)の「一月」の目次に『炭焼長者譚⑵柳田国男 二五』とあるのを見出せた。試みに同書の大正九年度版下巻を調べたが、「炭焼長者譚」の記載はない。また、「青空文庫」の歴史学者喜田貞吉(きださだきち)の論文「炭焼長者譚 系図の仮托と民族の改良」(『民族と歴史』(第五巻第二号・大正一〇(一九二一)年二月号初出)の冒頭で、『東京朝日新聞の初刷に客員柳田國男君の炭焼長者譚という面白い読物の第一回が出ていた』とあることから考えると、これは少なくとも、『東京朝日新聞』では大正十年一月に第一回が発表されているものと私は推測する。なお、これは筑摩書房の柳田國男の新全集の第二十五巻に収録されている(二〇〇〇年刊・未見)。]

 右の四つの要點のうち、少なくとも三つ迄を具備した話が、北は津輕の岩木山の麓か

南は大隅半島の、佐多からさして遠く無い鹿屋の大窪村に亘つて、自分の知る限でも既に十幾つかの例を算へ、更に南に進んでは沖繩の諸島、殊には宮古島の一隅に迄、若干の變化を以て、疑も無き類話を留めて居るのである。事小なりと雖[やぶちゃん注:「いへども」。]看過すべからざる奇事であつて、自分が日本のフォクロア興隆の爲に、何とぞして其由來を究めたいと云ふ誓願を立てたのも、亦のがれ難き因緣であつた。

 炭燒小五郞は莫大の黃金を獲得して後に、其名を眞野長者(まのゝちやうじや)と呼ばれ、或は又萬之長者とも謳われて居る。眞野長者の榮華の物語は、中世民間文學の眞只中であつて、豐後と謂へば忽ちに此長者を想ひ浮べるほど、都鄙を通じてよく知られて居たのであるが、不思議なることには其出世の始を語つた、炭燒婚姻の一條のみは、之を豐後の出來事として、認めざる者が甚だ多い。現に津輕に於ては之を伯爵家の系圖の中に編入し、第四代左衞門尉賴秀、幼名は藤太、元仁元年[やぶちゃん注:一二二四年。]九月生る。六歳の年父秀直、安東勢と津輕野に戰ひて討死す。仍て乳母に扶けられて姉の夫橘次信次(きつじのぶつぐ)[やぶちゃん注:ちくま文庫版ではここを『橘次(きつじ)信高』とし、名前にルビを振らない。ちくま文庫版の方が一般的知見としては正しいが、底本がわざわざルビまで振っているのであるから、ここはそのままとすることとした。私の段落末注参照。]の許に匿れたり。橘次は新城の豪族にして、黃金を採掘して之を賣りて富を致す。藤太を常人とともに使役して敵を欺かんと、戸建澤(とたてざは)の山中に遣りて炭を燒かしむ。故に人呼びて炭燒藤太と謂ふとある。民間に於ては近衞殿の女福姫、もと甚だしい醜婦であつたが、津輕にさすらへ來たりて或川の水に浴し、忽然として美女となり、後炭燒藤太殿に嫁したまふなどゝ謂ふ。鳥に小判を投げたといふことも、有るといふ話である。此等の古傳の少くとも一部分が、外部からの混入であることは、愛鄕心の強い學者たちも之を認めている。津輕と近衞家との關係の其樣に古くは無いこと、或は藤太の母が唐絲御前(からいとごぜん)で、卽ち最明寺時賴の落胤であつたと云ふ説の無稽なことなどは、今や誰も之を爭ふ者が無い。而も自分などが最も明瞭なる輸入の證とする點は、此の如き[やぶちゃん注:「かくのごとき」。]消極の材料では無くて、炭燒藤太と云ふ名前であり、又橘次と謂ふ金賣のあつたことである。豐後の方では此事は更に説かぬが、東日本へ進むほどづゝ、金賣吉次が突進して、炭燒の藤太と接近せんとする。就中[やぶちゃん注:「なかんづく」。]羽前村山郡の寶澤(はうざは)と、岩代信夫郡の平澤とには、共に炭燒の藤太が住んで居た遺跡があつて、水鳥に向つて小判を打付けたと云ふ池も、双方ともにちやんとあり、而も緣あつて遠國から來た花嫁の忠言に由り、後に無量の黃金を得たときには、何れも此水を以て之を洗つたやうに傳へて居る。吉次吉内吉六三兄弟の金賣は、卽ち藤太の子どもであつて、彼等は單に父の幸運を以て授かつたものを、都へ運んで居たに過ぎぬことも、二處同樣の口碑である上に、記念として今日に殘るものに、福島に在つては鄰村石那坂(いしなざか)の吉次宮あり、山形の吉事の宮は、後に兩所宮と改稱して、鳥海月山の二靈山を奉祀すと謂うふも、尚且つ義經が願を受けて、吉次信高之を再建すと語り傳へるのである。兄弟の金賣が家の跡と稱する地は、勿論京都にもあれば、平泉の衣川の岸にもある。然るに陸前栗原郡の金成村[やぶちゃん注:「かんなりむら」。底本では『金田村』となっているが、ちくま文庫版ではかくなっており、調べたところ、「炭焼藤太夫婦の墓」が現存する宮城県栗原市金成(旧栗原郡金成村。ここ(グーグル・マップ・データ))であることが確認出来たので、訂した。]には長老屋敷と名づけて又一つ彼等の故鄕があり、近世に入つてから殊に色々の珍しい財寶を掘出したと云ふ噂を聞くが、此地に於ても父は炭燒であつたと謂ひ、其炭燒の名は藤太である。淸水(きよみづ)の觀音の御告げを受けて、京から媛に來た姫が徒涉(かちわた)りをしたと云ふ小褄川(こつまかは)、藤太が姉齒(あねは)の市(いち)へ米を買ひに行く路で、雁に小判を投げたと云ふ金沼[やぶちゃん注:「かなぬま」。]などもやはり有るので、理由は知らずずつと古い時分の、互に比較をする折も無い頃から、斯うして話は方々の土に、何れも立派な根をおろして居たのである。

 それを移植若くは接木[やぶちゃん注:「つぎき」。]と見ることは、我々にはどうしても出來ぬ。第一には模倣をせねばならぬ理由も無く、又さうする機會も有りさうに無い。既に他鄕でもてはやされて居ることを知れば、寧ろ語り傳へる張合ひが無くなるべきことは、近頃漸く同種の珍談が、他府縣にも有ることを知つた人々の、驚く顏失望する顏を見てもよくわかる。但し少くとも古い淸水、濠の跡とか無名の塚とか、所謂由[やぶちゃん注:「よし」。]有りげなる處には、其邊を浮遊する昔物語の破片が、いつの間にか來て取附くことは、恰も米を寢させると麹と爲り、木を伐倒しておけば椎蕈[やぶちゃん注:「しひたけ(しいたけ)」。]が成長するのと、ほゞ同じやうな作用である。口から耳へ傳承する文學の、書籍以上に保存が六かしく、何かの原因で保存を業とする者が無くなれば、忽ち散亂して原の形を留めず、只其中の印象き部分のみが、斯うして我々の記憶に殘ることは、今の世中でも普通の現象であつて、之を考へると此種の偶合[やぶちゃん注:「ぐうがふ(ぐうごう)」。偶然の一致。]は必ずしも奇異では無く、單に斯くばかり弘い地域に亙つて、如何なる事情が同じ話の種を、播いてあるいたかを尋ねてみる必要があるのみである。

[やぶちゃん注:「橘次信次」(ちくま版全集「信高」)や「藤太の子ども」の「吉次」等は、既にお判りの通り、例の「金売吉次(かねうりきちじ)」伝承の時系列混乱の別伝と採るべきものである。ウィキの「金売吉次」によれば、『平安時代末期の商人。吉次信高、橘次末春とも称され』、「平治物語」「平家物語」「義経記」「源平盛衰記」などに『登場する伝説的人物。奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けしたとされる』。それぞれ、「平治物語」では「奥州の金商人吉次」、「平家物語」では「三条の橘次と云し金商人」、「源平盛衰記」では「五条の橘次末春と云金商人」、「義経記」では「三条の大福長者」で「吉次信高」とし、「平治物語」に『よると、義経の郎党の堀景光の前身が、この金売吉次であるともいう。またこの他に、炭焼から長者になったという炭焼藤太と同一人物であるという伝説もある。』。『吉次は都へ上り、鞍馬寺を参詣し』、『源義経と出会う』。「平治物語」では、『義経から奥州への案内を依頼される一方』、「義経記」では、『吉次から話を持ちかけている。吉次は義経と共に奥州へ向かう。下総国で義経と行動を別にするが、陸奥国で再会する。吉次の取り計らいにより、義経は藤原秀衡と面会』、『吉次は多くの引出物と砂金を賜り、また京へ上ったという』。『実際に「吉次」なる人物が実在したかどうかは、史料的に吉次の存在を裏付ける事が不可能であるため、彼の存在は伝説の域を出ず、まったくもって不明である。しかし』、『当時の東北地方が金を産出し、それを京で取引していたのは明らかになっている。吉次なる人物のように金を商っている奥州からやって来た商人がいた事は想像に難くない。したがって現在では、こうした商人の群像の集合体が「金売吉次」なる人物像として成り立ったのではないかと考えられる事が多い。また、岩手県宮古市田老地区の乙部には、彼の弟とされる吉内(きつない)の子孫である吉内家(よしうちけ)がある』。『行商の途中、強盗藤沢太郎入道に襲われ殺害されたとされる。その際、革籠を奪われたことに由来し、付近は革籠原と呼ばれた。福島県白河市白坂皮籠の八幡神社に金売吉次兄弟のものと伝えられる墓がある。また、栃木県壬生町稲葉にも吉次の墓があり、こちらは義経が頼朝と不仲になり』、『奥州へ逃亡する際に吉次が同行し、当地で病死したとされる』とある。]

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