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2018/09/09

反古のうらがき 卷之二 栗園

 

   ○栗園

 

[やぶちゃん注:個人的にしみじみと心打たれ、思わず目頭が熱くなった一話であるので、特異的に改行を多用し、空行及びダッシュやリーダ及びアスタリスクを挿入した。……私は確かに……千住の飲み屋での――名もなき猿引きと栗園と猿と別れのその場に――居た――そんな気が……するのである…………猿引きの口上が……栗園の三味のクドキが……演ずる猿の潤んだ眸が……思い出せるのだ…………

 

 予が友北雅(ほくが)君は、よく浮世繪をかき給ひて、おしえ子も多く侍りける、其中に――栗園(りつゑん)――といへる人ありけり。

 これもよく繪をかきて、常々、北雅君を訪ひ侍りけり。

 或時、同じ友、より合(あひ)て、酒、打のみたる時――猿引(さるひき)がはやしものする三味線――を、よく引(ひき)興じけり。

「いかゞして學びし。」

と問へば、

「……これは、おそろしく、かなしき事にて覺へ侍る。……故に、常には手にもとらねども……一生、忘るゝ事なく侍る。……」

よしを答へける。

 ふしぎのことなれば、人々、

「如何に。」

ととへば…………

   *   *   *

…………ある年、繪の修行とて、少しの蓄へをもちて、繪箱・紙筆・衣服の行李(こり[やぶちゃん注:底本のルビ。前にも注した通り、かくも読む。])など取持(とりもち)て、

「上方筋、修行せん。」

と立出(たちいで)けるに、先(まづ)、伊豆の溫泉に浴したるに、𤻗瘡(しつさう)夥(おびただし)く出來(いでき)て、立居(たちゐ)もならぬ程になりけり。

 こゝに逗留して其癒(い)ゆるをまつに、いやが上に出來て、二タ月餘りにして、漸く立居もなる程になりけり。

 其間に衣服も着破(きやぶ)り、たくわへ[やぶちゃん注:ママ。]も盡(つき)、繪の道具さへに賣盡し[やぶちゃん注:「に」はママ。]、湯本の飯代・藥用の料も多く積れり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行されてある。]

 扨、𤻗瘡も大に癒(いえ)たれば、主(あるじ)に向ひて、これ迄の介保(かいほう)を謝し、且は飯代・藥用料の高を問ふに、大(おほい)に積りて三兩餘りありて、償ひがたかりければ、

「繪をかき、あたへをとりて償ふべし。今少(いますこし)、養ひにあづかりたし。」

といへば、主、大によろこばず、

「君が繪、如何程の價にあたり侍るかはしり侍らねども、此あたり、左樣のことを好む人、さらになく、三兩の繪をかき玉はんには、一月、二月にて、事果(ことはて)侍らんや、また、幾月立(たち)ても望む人なき時は、一年、半年立(たた)んも斗(はかり)がたし。しかして三兩の償ひを取(とり)玉はんには、又、三兩斗(ばかり)の飯代、積るべし。かゝらんには、いつか、はつべきこととも覺へ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]侍らず。むしろ、當家の下男となりて壹年勤め玉はんには、給金、三兩進(しん)じ申(まうす)べし。これにて、先(まづ)、飯代を償ひ、扨、又、半年も勤め玉はゞ、路用・衣服等も見苦しからぬ程に出來申べし。其時、江に趣き玉へ。かく不仕合(ふさはせ)の人なれば、惡くは斗(はか)らひ申まじ。」

といゝけるにぞ、よに賴みなく、かなしき事、いわん方なくて、おぼへず、さめざめと泣けり。

 其時、隣り座敷に猿引の乞食ありしが、是を聞(きき)て、

「……よにあわれなる人なり。吾が教へに隨ひ玉はゞ、今日(こんにち)、二兩の飯代は、吾、償ひ進じ申べし。其譯(そのわけ)は、吾、去月(きよげつ)迄、壹人(ひとり)の三味線引(しやみせんひき)をぐしたるが、病(やみ)て死(しに)たり。其代りになり玉はゞ、われ、今より三味線を教へ、北國の方を𢌞り、江に趣くなり、されば、二つながら、便(たよ)りよし。枉(まげ)て吾(わが)意に隨ひ玉へ。」

といいけり[やぶちゃん注:ママ。]。

 それよりして、夜る晝るとなく、三味線を習ひたるに、一心の、こる所なれば、これ迄、手に取たることもなきことを、十日斗(ばかり)にして見事、引覺(ひきおぼ)へたり。

 扨、此猿引に隨ひ、北國、幾國となく𢌞りあるきて、江近く迄來り、千住宿にて酒うる家に入(いり)、扨、猿引、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「君は、かくいやしき態(わざ)し玉ふ人とも覺へ侍らねど、人も見しらぬ所にてのことなれば、くるしからず。こゝよりは定(さだめ)て辱(はぢ)玉ふことなるべし。衣服をかひて、改め着(き)玉へ。」

とて、金三分、與へけり。

 かたじけなさ、骨に答へたれば、伏し拜みて謝しおはり、扨、

「其許(そこもと)が故鄕はいづこ、名は何。」

と問ふに、

「名はこれ迄の通り――太夫――と斗(ばか)り呼びて、名、なし。故鄕といふも、さだかに定まらず、幼少より先(さき)の太夫とともなひ、諸國を𢌞りたれば、今、父母兄弟といふも、なし。たゞ、此猿一疋より外(ほか)、身より、なし。……いざ、一杯を酌(くま)ん。」

とて

……離(わか)れの杯(さかづき)を𢌞(めぐ)らし……

……心よく猿を舞(まは)し……

……はやしごとして……

吾(わが)名所(なところ)をも問はで、袖をはらひて、去りけり。……

…………

……其時覺へたる三味線なれば……死に至る迄、忘(わする)る事なし……酒のみ、打興(うちきやう)じたる時は、取出(とりいだし)て引(ひき)侍れども……引度(ひくたび)ごとに……淚のこぼれ侍る…………

   *   *   *

と、語りけるとなん。

 

【畫師栗園者平〻人耳不足傳表題改作太夫傳可也然非世信有此人盖。[やぶちゃん注:以上は、底本本文の最後に頭書としてある。この主人公の絵師「栗園」の事蹟の一つを記したものと思われるのだが、私には意味は勿論、どう読んでいいものかさえ、さっぱり見当がつかない。識者の御教授を乞うものである。【2018年9月24日追記】いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、昨日、これについて、『「畫師栗園」は平凡で人に伝えるには不足。題を「太夫傳」に改めるべき。そうすれば「こんな人も居るんだ」と世間も信じる(だろう)と私は読みました』とメールを下さった。なるほど、これは筆者ではない誰か(恐らくは「天曉翁」浅野長祚)が、本条についての批評をしているらしいと確かに読める。T氏の訳に従って自分なりに訓読してみると、

 畫師「栗園」は平々にして、人耳(じんじ)に傳ふるに足らず。表題は「太夫傳」と改作すべきなり。

とまでは読める。しかし、以下が読めない。「盖」(蓋)が文末にあること自体が悩ましい。誤判読の可能性もあるか。無視して力技で読むと、

「然(しか)ら非(ざ)れば、世、此(か)くなる人の有るを信ぜんや。」

「然(さ)に非(あら)ずんば、世、此くなる人の有りとは信ぜんや。」

 

か? う~ん、私の乏しい訓読力ではここまでである。T氏も「盖」の位置をおかしく感じておられ、お聴きしたところ、

「然(しか)らば、世、此くなる人、(けだ)し有るを信ぜ非(ざ)るか。」

『と反語の疑問詞のように解して』おられるとのことであった。

[やぶちゃん注:「北雅」底本の朝倉治彦氏の注に『姓は寺門と(『香亭雅談』による)』とのみある。不詳。因みに、江戸後期の富川房信及び葛飾北斎の門人に、葛飾北雅(かつしかほくが 生没年不詳)なる浮世絵師がおり、彼の本姓は「山」である。ちょっと気になったので、言い添えておく。

「猿引(さるひき)」猿回し。ウィキの「猿まわし」より引く。『発掘された粘土板に書かれた楔形文字から』四千五百『年前のメソポタミア文明に猿回しが職業としてあったことがわかっている』。『猿を使った芸は日本へは奈良時代に中国から伝わったとされている。昔から馬の守護神と考えられてきた猿を使った芸は、武家での厩舎の悪魔払いや厄病除けの祈祷の際に重宝され、初春の門付(予祝芸能)を司るものとして、御所や高家への出入りも許されていた。それが室町時代以降から徐々に宗教性を失い、猿の芸のみが独立して、季節に関係なく大道芸として普及していった』。『インドでは賤民が馬と共に猿を連れて芸を見せるという風習が有った』。『江戸時代には、全国各地の城下町や在方に存在し、「猿曳(猿引、猿牽)」「猿飼」「猿屋」などの呼称で呼ばれる猿まわし師の集団が存在し、地方や都市への巡業も行った。近世期の猿引の一部は賤視身分で、風俗統制や身分差別が敷かれることもあった。当時、猿まわし師は猿飼(さるかい)と呼ばれ、旅籠に泊まることが許されず、地方巡業の際はその土地の長吏』(穢多又は非人・非人頭を指すが、その範囲は地域によって差異があった)『や猿飼の家に泊まらなければならなかった』。『新春の厩の禊ぎのために宮中に赴く者は大和もしくは京の者、幕府へは尾張、三河、遠江の者と決まっていた』。『猿まわしの本来の職掌は、牛馬舎とくに厩(うまや)の祈祷にあった。猿は馬や牛の病気を祓い、健康を守る力をもつとする信仰・思想があり、そのために猿まわしは猿を連れあるき、牛馬舎の前で舞わせたのである。大道や広場、各家の軒先で猿に芸をさせ、見物料を取ることは、そこから派生した芸能であった』。『明治以降は、多くの猿まわし師が転業を余儀なくされ、江戸・紀州・周防の』三『系統が残されて活動した。大正時代に東京で廻しているのは主に山口県熊毛郡の者だった』。『昭和初期になると、猿まわしを営むのは、ほぼ山口県光市浅江高州地域のみとなり、この地域の芸人集団が全国に猿まわしの巡業を行なうようになった』。『猿まわし師には「親方」と「子方」があり、子方は猿まわし芸を演じるのみで、調教は親方が行なっていた』。『高州の猿まわしは、明治時代後半から大正時代にかけてもっとも盛んだったが、昭和に入ると』、『徐々に衰え始める。職業としての厳しさ、「大道芸である猿まわしが道路交通法に違反している」ことによる警察の厳しい取締り、テキ屋の圧迫などから』、昭和三十年代(一九五五年~一九六四年)に『猿まわしは』一旦、『絶滅した』。しかし、昭和四五(一九七〇)年に『小沢昭一が消えゆく日本の放浪芸の調査中に光市の猿まわしと出合ったことをきっかけに』、昭和五三(一九七八)年に「周防猿まわしの会」が『猿まわしを復活させ、現在は再び人気芸能となっている』とある。

𤻗瘡」湿疹。全身性で発熱もあったと考えてよいようだから(「立居(たちゐ)もならぬ程」とはそれを感じさせる)、ウィルス性のものか、又は、アトピー性の重いものだったのかも知れない(旅に出て直ぐに発症しているのは、何らかの強力なアレルゲンによるものの可能性を否定出来ない。或いは、あにはからんや、その逗留した温泉の成分が原因であった可能性も否定出来ない。とすれば、それに馴化するのに二ヶ月かかったというとんだ話となるわけである)。但し、予後は悪くなかったようだ。

「介保(かいほう)」「介抱」の当て字。但し、「介抱」の歴史的仮名遣は「かいはう」となる。

「三兩餘り」江戸後期の一両は米価換算で三~五万円相当。

ありて、償ひがたかりければ、

「繪をかき、あたへをとりて償ふべし。今少(いますこし)、養ひにあづかりたし。」

といへば、主、大によろこばず、

「はつ」「果つ」払い終わる。この温泉宿の主人の言っていることはしかし、総て尤もなことである。

「去月(きよげつ)」先月。

二つながら、便(たよ)りよし」お前さんと私にとって、これ、都合がよい。

一心の、こる所なれば」「こる」は「凝る」。この温泉宿で一年もの下男などして暮らすわけには自分の節として納得するわけには行かない。されば、賤民の仕儀とはいえ、三味線弾きに身をやつして見たこともない奥州の地を行くも、絵画の修行と心得れば、絶えられもしようし、この猿引きの謂いが正しいならば、半年ばかりもすれば、江戸へ帰ることが出来るようだし、そのときにはそれなりの金も溜まっているかもしれぬ、といった各個的予測を並べてみた結果として、猿引きの誘いに乗ることに決し、そのために一心に三味線の修行に勤しんだことを、かく言っているのである。

千住宿」芭蕉が「奥の細道」で最初に泊まっていることから判る通り、奥州街道(正しくは「奥州道中」と呼ぶ)の日本橋から一番目の宿場町で江戸四宿の一つであった。

「かひて」「買ひて」。

「金三分」一分(ぶ)は一両の四分の一。]

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